生還者と冒険者

 

序、その穴の名は

 

世界最大の鍾乳洞が、その山にはある。だが残念なことに、幾つかの理由から、探検隊は入れない場所であった。

一つは、それが世界最大の紛争地域にあると言うこと。

複数の宗教原理主義者が血みどろの抗争を繰り広げる、世界でも最も危険な地域の一つ。そのど真ん中に、この穴はあるのだ。

更にもう一つの理由が、地形的な問題である。

高名なギアナ高地に近い、非常にそそり立った険しい山々に囲まれており、なおかつヘリコプターでさえ近づけない乱気流が渦巻いている危険な場所である。実際、この鍾乳洞が発見されたとき、生きて帰った探検隊は、二十人いたメンバーを五人にまで減らしていたのだ。

そして、最後。

この鍾乳洞が、フィールド認定されている、という事である。

スーパーピットフォール。

正式に名前がついていないこの鍾乳洞は、探検家の間で、そう呼ばれるようになっていた。

ハリーはヘルメットをかぶり直すと、その入り口を見つめる。

まるで、巨大な獣のあぎとが如きまがまがしさだ。中の写真も殆ど流出していない。わずかに、探検隊が持ち帰った数枚だけが現存していた。勿論中は特殊な進化を遂げた、固有種の宝庫だ。

此処に、三つの宝が眠っている。

その内二つは、ハリーにしか価値が無いものだ。宝になる経緯はあまり思い出したくも無い。他の人間にとっても価値があるかも知れないが、その意味が違っている。だから、今はただ、この鍾乳洞に挑む。

あまりにも巨大すぎる上にうまみも無いこの鍾乳洞フィールドだから、今までどのフィールド探索者も攻略しなかった。実害は皆無に等しいという事も、それに拍車を掛けていた。

齢は既に四十。

各地の鍾乳洞で写真を撮り、生計を立ててきたベテランの探検家であるハリーでもなお、この鍾乳洞は危険すぎる。ある特殊能力を持っていることからフィールド探索者としての登録もしているが、こんな危険な場所に入ることはまず認められない程度の腕に過ぎないのだ。

だが、挑まなければならない。

既に、写真での生計は難しくなりつつある。給金は安く、このままでは老後もままならない状況だ。ロマンだけでは喰っていけない。しかしながら、フィールド探索のほうを本業にするには、経験も実力も、何よりも体力が足りていなかった。

体力が足りないのに、このような危険フィールドに入るのは、もはや賭に等しい。

だが、結婚もせず、ばくちもせず、今まで静かに人生を送ってきた。そして、これ以上年を重ねると、賭さえ出来なくなってくる。

最後に賭を出来る今の瞬間を大事にしたいと、ハリーは考えていた。だから、会社に無理を言って、ここに来たのである。手伝いを回す手配をするとか調子が良いことを言っていたが、そんなもの待ってはいられない。

少しでも大きな手柄を立てなければならなかった。

一歩を踏み出す。

ヘルメットについているランプだけでは足りない。だから、懐中電灯もつけて、ゆっくりと進む。

下は非常にぬるぬるしていて、異臭もひどい。上は大量のコウモリが住み着いていて、その糞がたまっているのだから当然だ。更に言えば、それを求めて、天文学的な数の蠅やゴキブリが蠢き、それらを餌にする肉食性の昆虫も徘徊している。

大変に不潔な場所であり、転んだりすれば病気になる可能性も低くない。

慎重に歩く。

こんな入り口で、死ぬわけにはいかなかった。

 

ヘルメットをかぶり直すと、スペランカーは辺りを見回した。少し前に切ったばかりだから、茶色がかった髪の毛はあまり邪魔にならない。童顔で、子供のように小柄で、なおかつ平坦な体をしたスペランカーは、中堅と呼ばれるくらいの実力を持つフィールド探索者である。ただし、豊富に積んだ経験と、この間ある壁を越えたことから、既に世間的には一流とみられ始めている。

女性である事もあるが、それにしても身体能力は並の人間以下。頭もあまり良くない。顔立ちも、整っているとは言いがたい。

だが、不老不死という強力な特殊能力を持っているため、この仕事を出来ている。そのリスクはとにかく大きいので、毎回苦労も耐えないのだが。しかし、スペランカーは何よりも飢えが嫌いだ。だから、ご飯を食べるためにも、仕事をする。

今は、その気になれば、寝ていてもご飯を食べられる環境も作れるようになった。だが、やっぱり自分の足で手で、稼いでご飯を食べたい。自立心と言うよりも、何処かで安心していないのだろう。

自分の危なっかしさは、誰よりも自分自身が一番知っているのだ。ただでさえ能力が低いのに、更に此処で怠け癖がついたら、お先真っ暗だ。

見回す限り、誰かが先にこの洞窟に入った形跡がある。事情は既に聞いている。数日前、小さなフィールド探索社から通報があったのだ。かなり強引に、秘境ともいえる場所にあるフィールドに潜り込んだ男がいると。彼を救出するように、たまたま所要でこの国に来ていたスペランカーに声が掛かった。

だから、お仕事を切り上げて、こっちに来たのだ。装備品は国連軍に支給してもらったが、ちょっと心許なかった。

とにかく、今回はフィールドに来るまでが大変だった。

紛争地帯で治安は最悪。護衛についてきてくれた兵士までが、途中でスリに遭うほどの国である。爆弾テロも見た。ビルからもうもうと煙が上がっていて、しかも誰もそれを見て驚いていなかった。

この国では、もはや利権構造が複雑すぎて、誰にも解きほぐせない所まで来てしまっている。その上、それに宗教的な原理主義勢力が噛んでいるのだから最悪だ。複数の原理主義勢力が互いに凄まじい殺しあいを繰り広げており、彼らの資金源は麻薬や臓器だった。子供は殺されて臓器を取り出されてしまうので、誰も昼間は外を歩かない。国連軍の兵士達も、自分の身を守るだけで精一杯だった。

どうにか人間がいない山岳地帯まで来て、ほっとしたほどである。

ただし、そこからも何度か悶着があった。自分たちの聖域に入ったと考えたテロ組織が襲撃してきたりして、ひどい目に遭った。フィールドに入る前に、三十回くらいは「死ぬ」羽目になった。

如何にスペランカーが、死を克服する能力を持っているとはいえ、こんな仕事は何度もやりたくなかった。

治安の悪い国には、今まで何度も足を運んだ。たちの悪い組織に連れ去られたりしたこともある。怖い目に遭った経験があるとはいえ、やっぱり嫌なものは嫌だ。

不老不死だからと言って、無敵では無い。弱点はいくらでもあるし、何より痛いものは痛いのである。武器も、実質一つしか使えないと言って良い。単純な攻撃力という点で、スペランカーはある特殊な相手を除けば、まず役立たずと言って良いほど非力なのだ。

だが、その特性故に、こう呼ばれている。

絶対生還者。

今回も、スペランカーはその特性を期待されていた。

ヘルメットをかぶり直すと、異臭がする洞窟の中に。鍾乳洞だが、やはりコウモリがたくさんいて、地面はふんまみれだ。蠢いている無数のウジ虫やゴキブリたち。見ないようにして、歩く。

滑らないように、気をつける。

病気を気にしなくても良いとはいえ、あまり気分は良くない。転んで糞まみれになどはなりたくなかった。

元々スペランカーというのは、無謀な洞窟探検者という意味だ。何度か呼吸を整えながら、奥に奥に。やっぱり彼方此方、人が通った痕跡がある。先走った人はかなりの高齢だという話だが、生きているだろうか。

フィールド内部で長時間過ごしていると、人間は精神に異常をきたしやすい。

しかも、高齢と言ってもフィールド探索者として立身してきた人では無いらしく、お世辞にもこちらの分野ではベテランとは言いがたいとか。一応特殊能力持ちだそうだが、出来るだけ早く見つけないと危ないだろう。

このフィールドは、世界最大の鍾乳洞が変異したものだ。

だからといって、何もとてつもなく広い迷路のようなものとは限らない。案外鍾乳洞は、単純な構造になっている場合も多いのである。

しかし、それは期待できない。ここに入った調査チームが、どれだけひどい目に遭ったかは、既に資料を読んでいる。

転びかけたりもしながら、どうにかコウモリがいない奥にまで到達。

上の方に穴が開いている。光が差し込んでいるから、周囲を見回すことが出来て良い。穴から種が落ち込んでいるらしく、周囲には普通の草花も生えていた。だが、足を止めたのは。

とんでもないものと、真っ正面から遭遇してしまったからである。

蛙。

ただし、足を伸ばせば二メートルに達しそうな、とんでもないサイズの蛙だ。その上、動くものとみれば何にでも飛びつくことで知られる貪欲なツノガエルである。丸っこい体が特徴的で、殆ど動かない品種なのだが、凶暴性は非常に強い。何でそんなことを知っているかと言えば、以前攻略したフィールドで、その怪物に喰われたことがあったからだ。死んだ蛙の腹から這い出したが、消化液やら未消化の獲物やらにまみれて、さんざんだった。そんなことがあれば、頭が悪いスペランカーだって覚える。

できるだけ、ゆっくり蛙から離れる。蛙はじっとこちらを見つめていたが、動かない。ほっとした瞬間、ものすごい声で鳴き始めた。

吃驚したスペランカーは、思わずその場で固まってしまう。蛙は大きく頬を膨らませて鳴いていたが、やがて何処かへ跳ねて行ってしまった。最初からこれでは、先が思いやられる。

おそらくこの鍾乳洞内の生物は、片っ端から巨大化している。そう考えて間違いないだろう。

久方に、ほぼ単独での行動が必要になるフィールドである。一番奥に何がいるかは分からないが、まずは効率よく進んで、先に入ったハリーさんを探さなければならない。

どんな理由で先走ったのかは分からない。人にはそれぞれ事情があるからだ。

だからスペランカーは。

それを責めようとは思わなかった。

 

1、巨大生物地獄

 

洞窟が、徐々に狭くなってくる。コウモリはもう殆どいないので、床は思ったより遙かに清潔だが。しかし、問題も多い。

人間を捕食できそうな生物と、今まで最低でも七度遭遇した。

超大型のツノガエルは、その特性をしっかり見極めて、距離を保つ事で事なきを得た。人間を優に丸呑みできそうな大型のアナコンダとも遭遇したが、こちらはそもそもハリーに興味を示さず、しかも眠っていた。

ハリーは、水路を泳ぐ生物を見て、しばらくどうしたものかと思案していた。

ピラニアである。

此処はアマゾンでは無いのだが、どこからどう見てもピラニアだ。しかも、その大きさが尋常では無い。

大型のピラニアには、確かにかなりのサイズになるものもいる。だがこれは狭苦しい水路のような川にいるというのに、体長が明らかに一メートルを超えている。通常は最大種でも六十センチが限界だから、如何に凄まじい巨体かよく分かるというものだ。

更に、デンキウナギまでいる。

デンキウナギは体の殆どが発電器官になっている珍しい生物で、これは現物のマキシマムサイズと殆ど体長が変わらないか、それ以上だ。餌をとるとき、身を守るときに800v、1Aに達する電流を発する危険な生物であり、水中で、至近で放電されると命が危ない。

ただ、危険要素ばかりでは無い。

ピラニアは基本的に臆病な魚で、こちらが怪我をしていない限りは仕掛けてこない。デンキウナギも、刺激さえしなければ大丈夫だ。それに長時間放電できる訳でも無く、危ないと思ったら一旦水面を叩いて驚かせて放電させ、疲れさせてしまえば良い。電気を発するには、相当量のパワーがいるのだ。

孤立した生態系では、異常な生物が出現することがある。孤島に巨大化した(といっても、数割増し程度だが)生物が生息していることはまれにある事だし、実際ハリーも今まで潜った洞窟で、似たような状況に遭遇したことが何度かある。

棒を差し込んで、水の中を掻き回す。ピラニアは、寄ってこない。

だが、デンキウナギは、うっとうしそうに棒に噛みつき、払いのける。元々デンキウナギは三メートル近くまで成長する大型の魚類だ。この水路には、そのクラスのものが数匹住み着いているのが見えた。

しかも最悪なことに、泳がないと向こうへは進めそうに無い。水路を飛び越えれば良いなどと言う状況では無い。低い天井の下を水路が流れていて、通路らしきものはそれの下流に向こう岸に見えているのだ。

銃弾をぶち込んでやろうかと思ったが、棒でつついても放電しないのなら、多分効果はないだろう。弾数も限られているし、やめた。

デンキウナギを避けて、水に入る。

深さはさほどでも無いが、流れがある。しかも、天井が近い。時々急に深くなっている場所もあって、危険だった。

岸に捕まると、デンキウナギを踏まないように、ピラニアに近づかないように、そろりそろりと行く。デンキウナギは面倒くさそうに時々身じろぎしていた。ピラニアも、何を食べてこんなに大きくなっているのか、気になった。

どれほど、時間を掛けただろう。

やっと、岸から上がる。

水をしたたらせたまま、歩く。向こう岸を照らすと、巨大なサソリが数匹闊歩していた。超大型のサソリであるダイオウサソリよりも更に倍は大きい。洞窟で暮らしているからか、体色は真っ白である。

出来るだけ、刺激しない方が良さそうだと思いながら、ハリーは奥へ。天井がまた高くなってきている。

不意に、後ろの方から足音が聞こえてきたのは、その時だった。

「ハリーさーん?」

しかも、自分を呼ぶ声である。慌ててライトを消すが、声は確実にこっちに近づいてくる。

闇の中、超大型のサソリが蠢いているのが分かる。基本的に闇の中の方が、サソリは動きが活発になる。あまり外殻が頑丈では無いから、というのが一般的な説だ。実際、サソリは蜘蛛の仲間で、あまり体は硬くない。つまり、生態系では、それほど強力な捕食者では無いのだ。

「ハリーさん! いるんでしょ! 出てきてくださーい!」

女の声だ。

しかし、こんな所に来ていると言うことは、フィールド探索者である可能性が高い。探検家としてはそれなりに経験を積んでいるハリーだが、フィールド探索者としては駆け出しである。だから、追いつかれたら、まず取り押さえられると思って良いだろう。

幸い、この水路の向こうの抜け穴は、簡単には見つからないはずだ。長く洞窟を走っていた水路に沿って歩いて、やっと見つけたのである。相手がどれだけの熟練したフィールド探索者だかは分からないが、探検家としてはこっちに一日の長がある。

無言で、歩く。

この洞窟で、ハリーはやらなければならないことがあるのだ。三つも。

その一つさえ、まだこなしてはいなかった。

 

ばかでかい蜘蛛が、巣を張っている。

スペランカーはあまり関わりたくないなあと思いながら、ハリーの名前を呼ぶ。

探索用に、国連軍が熱探知機をくれた。来る途中いろいろいじってみて、どうにか使えるようにはなったが、まだ操作が怪しい。とにかく、その熱探知機によると、ハリーはついさっきまで、この辺りをウロウロしていたらしいのだ。

まだ生きていることが分かって一息つけたが、しかし。

スペランカーは、あまり楽観できないなと判断していた。

さっき、ものすごいばかでかい蛇に襲われたのである。いきなり閉め潰されて、丸呑みにされそうになったが。カウンターによる打撃を受けた蛇は、吃驚して逃げていった。骨をばきばきにされていたので、蘇生まで随分時間が掛かった。

スペランカーの不老不死には、幾つかの副作用がある。

一つは能力低下。頭もあまり良くないし、運動神経も並以下になっている。

そしてもう一つは補填である。

悪意ある攻撃を受けた場合、攻撃者から。そうでは無い場合は、周囲の物質から。

体に受けた損傷が、自動的に補填されるのである。さっきの大蛇は、スペランカーを閉め潰したことで、体中の骨にダメージを受けたはずだ。死ななければ良いのだがと、スペランカーは心配してしまった。

どうも水路の辺りで熱量が消えていると言うことから、これを泳いで渡ったのだろう。しばらく思案したが、増援が追いついてくるのを待つ時間は無い。入り口近くで、無線に連絡があったのだ。

もう一人、後から増援を回すと。

誰が来るかは既に聞いている。結構頼もしい人物だが、まだ追いついてくるまでは時間が掛かるだろう。ハリーはかなり近くにいるはずで、このまま急げば追いつける可能性が高い。

どうして数日前に入ったハリーがこんなに近くにいるかは分からない。熱探知機を使って、最短距離をたどったにしても、見つけるのが早すぎる。しかもハリーは確か探検家としてはベテランの筈だ。そっちに関しては素人同然のスペランカーが、こうも早く追いつけるのは不可解だ。

だが、とにかく。

今は好機を捨ててはならなかった。

まずザイルを取り出して、先端部分を振り回し、フックを投げる。何度か投げて、フックが引っかかったことを確認して、腰のベルトに結びつける。

水中には何かいろいろ生き物がいるようだが、これで致死ダメージを受けても、水路に流されてしまうと言うことは避けられるだろう。

水路に入る。

水が、とても冷たい。それに、流れも強い。

ものすごく大きなウナギみたいな生き物がいる。それに魚もいるが、あれはひょっとしてピラニアだろうか。ちょっとおっかない。

ザイルを伝って、奥へ。ウナギを踏みそうになったが、どうにかそれは避ける。ウナギも、面倒くさそうにスペランカーの足を避けた。

「うひゃっ!」

思わず声を上げたのは、深みにはまったからである。何とかザイルを掴んで水面に出たが、かなり怖かった。水中でぶつかったのはピラニアだろうか。驚いたことに、ピラニアの方が吃驚して逃げていった様子だ。ピラニアと言えばとにかくおっかない魚というイメージがあったのだが、本当は臆病なのだろうか。

やっと岸に辿り着いて、上がった。

熱源が、点々と奥へ向かっている。それはそうと、凄く寒い。自分の肩を抱いてしばしぶるぶる震えていたスペランカーだが、何度か失敗しつつライターに点火し、カンテラを灯す。

カンテラに手をかざすと、ほんのりと暖かい。やっと人心地ついた。だが、こういうときは体力のなさが悲しくなる。武闘派系のフィールド探索者、たとえば後輩の川背なんかはどれだけ激しい運動をしてもけろりとしているので、とても羨ましい。

だが、ふと気づく。

寒い以外は、あまり苦しくない。

体が頑丈になってきたのだろうか。そういえば、少し前に密林を延々と歩かされたのだが、その時も歩いているだけならさほど消費も激しくなかった。

やはり、体が何か変わりつつあると、見た方が良さそうだった。

少し休んだ後、カンテラで辺りを照らす。

ザリガニよりずっと大きいサソリが、たくさんいた。はさみを持ち上げて威嚇したり、特徴的な曲がりくねった針をアピールしたりしている。怖くないと言ったら嘘になるが、でも相手もこちらを怖がっているのが分かる。それに、大きい事は大きいが、さほど動きは速くなかった。

立ち上がり、歩き始める。そして、気づく。

熱源が、非常に曲がりくねって歩き回っている。水路に沿って、かなり奥の方まで進んでいる熱源と、逆に戻ってきているものがある。

それで、合点がいった。

一度ハリーは奥の方へ行って、戻ってきた所だったのだろう。

見れば奥の方は天井も高く、風も吹き込んでいる。何かがあってもおかしくない佇まいである。ハリーはそちらに可能性を見いだし、しかし挫折したか壁にぶつかったかして、ついさっき戻ってきた。そんなところだろう。

腕組みして考えた後、スペランカーはそのままハリーを追うことにする。どうもハリーは何かを探している様子で、このままだと更にどつぼにはまる可能性が高い。普通の鍾乳洞だったら、ハリーの独壇場なのだろう。

だが、此処はフィールドだ。

入り口の方のこの辺りでさえ、この有様である。奥の方に行ったら、ドラゴンくらい出てきてもおかしくは無い。

ハリーが行ったと思われる方向からは、風も吹き出していない。多分、更に洞窟の奥深くへとつながっているのだろう。心なしか下り坂にもなっているし、鍾乳石も鋭くなっている。

明かりを向けると、巨大な獣の口の中にいるような錯覚さえ覚えてくる。

鍾乳石は、ほんの少し成長するだけでも、膨大な月日を必要とすると聞いている。それならば、この凄い鍾乳石の数々は、この洞窟の歴史をそのまま示しているともいえる。スペランカーは、時々周囲に謝りながら進む。

土足で踏み込んでしまっているし、もしもこの後戦いになったら、相当に激しく周囲を傷つける事になるだろうからだ。戦いになったら、自然を気遣ってはいられない。足下に蟻がいたら、踏みつぶしても、気づくことは無いだろう。

「ハリーさーん! どこですかー!」

相手がまだ近くにいることを承知の上で、スペランカーは呼びかける。

あまり追い詰めすぎると面倒なことになるが、こうしておかないと、相手にこちらの存在をアピールできない。

もしもスペランカーを攻撃してくるようだったら、どうしようもない。だが、ハリーのことを心配していることをアピールできれば、きっと姿を見せてくれるはずだ。

そう信じて、スペランカーは呼びかけ続けた。

周囲を、サソリがかさかさと這い続けていた。

 

まるで自分のことを心配する様子も無く、ここにいるアピールを続ける追跡者。声からすると妙齢の女性らしいのだが、まるでスッポンのように食いついて、ハリーの後ろに、低距離を保ってついてきていた。

面倒な相手だ。

ハリーはかなり速く歩いているつもりなのだが、どうしても振り切れない。そればかりか、少しずつ距離を詰められているように思えた。

これでは、探しものどころではない。

ハリーにしても、この巨大な鍾乳洞を、足だけで探す気は無い。まず「連中」を探しだし、それから本格的な探査に移るつもりだった。

だが、後ろにいる奴が、こうも大声でこちらを探していると。「連中」も、警戒して出てこない可能性が高かった。そうなると、三つの内二つは、探しようが無くなってしまうのである。

流石にハリーも頭を抱えた。

しかし、相手はフィールド探索者である。戦って勝てる可能性は極めて低い。これだけ短時間で追いついてきたとなると、知能や判断力も高いと考えて間違いないだろう。手強い相手である。

とにかく、黙ってもらうには相手を撒くしか無い。

今まで追いかけっこを続けてきて気づいたが、多分相手は熱源を追跡してきている。軍からか、一種の探知装置を借りてきたのかも知れない。それに加えて、幾つかの追跡パターンを振り切る方法がある。

方向を、ハリーは変えた。

水の音がする方へ急ぐ。この洞窟、網の目のように水路が走っていて、今回はそれを利用する。わんさと危険な生物が泳いでいるだろうが、関係ない。人間に比べれば、どんなクリーチャーも可愛いものだ。

「ハリーさーん?」

声がかなり近くなってきた。このままだと、本格的に追いつかれる。

「隠れないで出てきてくださーい! 話し合いましょうよー!」

誰が話し合うか。

そう心中毒づくと、這うようにして洞窟を行く。この洞窟、住んでいる生物はアレな連中ばかりだが、傾斜や地形自体はさほど厳しくない。深部に入ればどうなるかは分からないが、今の時点であれば、かなり進みやすい。

前傾姿勢のまま、ハリーは急ぐ。

水音は、近い。

やがて、見えた。かなり大きな川だ。そして、その下流には。

明らかに、人の手が加わった、石畳がついていた。両岸に、である。

どうやら、ついに辿り着いたようだった。

古くから、地底人の伝説は世界各地にある。科学技術が進んだ現在、その殆どは一笑に付される時代が来ているが。しかし、フィールドの中という特異空間であれば、それは現実になる。

この場所こそ、シャンバラ。

いにしえより理想郷として語り継がれ、黄金が眠るとされた秘地だ。数多くの探検家が探し求め、しかし挫折してきた幻の土地である。このフィールドがそうだという説は昔からあった。だが探検家にとっては危険すぎるし、フィールド探索者にはうまみがなさ過ぎるし、何より確信が無い。だから、誰もが放置してきた。

シャンバラでは無い可能性も、来るまではあった。その場合は、賭に負けたと判断して、自害するつもりだった。

だが、来て確信した。此処はシャンバラだ。

今まで、ずっとこんな夢の空間に、一度で良いから足を踏み入れたいと思っていた。

安全な洞窟でガチガチに装備を固めて、写真を撮ってきた。探検隊からは迷惑がられ、中には素人呼ばわりするものもいた。自分より物知らずで手慣れていない若造に素人だのお荷物だのと陰口をたたかれたことが一切では無い。実際に実力を見せてやっても、危険から助けてやったとしても、そういう連中は専門家がどうのとか写真をやっている奴なんか半端者だとか、好き勝手にハリーを罵るのだった。

社畜。いつの間にか、自分をそう蔑視していた。

だから、いつの間にか写真にも魂がこもらなくなっていた。情報を売ることを誇りにしていたはずなのに。普通の人が赴けない場所にある美しい何かを撮ることで、小さくても良いから感動を生みたかったのに。

それさえもが、難しくなりつつあった。

会社では邪魔者扱いされはじめ、何度も給料泥棒呼ばわりされた。他人を減点法でしか評価できない無能な会社上層部は、「効率化」のために気に入らない人間を片っ端からリストラし、結果として会社を傾けていた。それが理解できず、更にリストラはひどくなるばかりだった。

やがて、ハリーは意を決して小さな会社に移った。フィールド探索者もしている場所であり、偶然能力が目覚めたハリーも属することが出来た。何度かベテランと一緒に仕事をして、死線もくぐった。だが、ハリーのあまり強力とはいえない能力では、彼らの足を引っ張ることはあっても、助けることはなかなか出来なかった。

写真の方も、こちらの会社でもあまり評価はされなかった。

だから、賭に出たのだ。

これでも、洞窟に潜ることに関してだけは、誰よりも経験を積んできたつもりだ。装備類も自分で厳選した最高のものを持ってきている。むしろ、入る前までが危険だった位である。

それに、洞窟に関する情報だって、誰よりも詳しいつもりだ。

此処に、かの伝説の宝物がある事についても、実はかなり早くから掴んでいた。条件が悪すぎて手を出しに行こうという人間はいなかったが、今なら或いはと思ったから、ここに来た。賭には、勝つことが出来た。今の時点では、だが。

身を守るための道具は、自分の強いとはいえない能力と、この国で調達した古い拳銃くらいしか無いが、それでもやらなければならない。

賭に出た時点で、もうハリーに、戻る場所など無いのだから。

どうせ迷惑を掛ける相手などいない。

会社も、本当に救援を出してきたのかは怪しいものだ。宝があると知ってこの洞窟に出向いたハリーを消すために、暗殺者を送り込んできたのかも知れない。機密情報が漏れるのを、単に恐れただけの可能性もある。後ろにいる奴は、フィールドでの暗殺を専門にしている輩の可能性だってある。

水路に飛び込む。

そして、流れに身を任せ、一気に進む。

途中、さっきよりも更に大きなピラニアの群れが見えたが、ハリーがライトを当てると吃驚して逃げ惑った。四メートル半はある巨大なデンキウナギもいる。さあ、シャンバラよ。我を迎入れよ。

そう水中で思いながら、水をかく。

追いついては来ていないだろう。だが、油断は出来ない。

若い頃。学生の頃は、水泳が達者だった。だが、水中で生活している生物は、そもそも人間とは水に対する練度が違っている。もしも大型の捕食生物に襲われたら、そこでアウトという可能性も高い。

今のところ、人間を喰いそうな相手に、水中で出くわしてはいない。怪我をしていれば話は別だが、それも大丈夫だ。

泳ぐ。

ひたすらに。

何度か、息継ぎのために水面に顔を出した。すぐに潜り、水に身を任せる。

徐々に、水路の様子が変貌してきた。

水路の中までもが、石で舗装され始めたのである。これは、古代文明の水道管のような有様では無いか。いや、おそらくは、それを「模した」存在なのだろう。このフィールドの特性から考えると、あり得ることだ。

しばらく無心に泳いで、自ら上がる。

辺りはもう、すっかり古代文明の遺跡だった。

鍾乳洞だった頃の面影は、既に無い。美しい鍾乳石は周囲に一つも存在せず、石畳が天井も壁もきれいに舗装している。それだけではない。照明の代わりなのだろうか、何かしらの植物が植えられ、ルシフェラーゼ反応で美しく光っていた。釣り鐘状の、若干おおぶりな花だ。

ライトを消す。

地上とはだいぶ違い、青白い光が満ちている。

幻想的と言うよりも、むしろ不気味だと、ハリーは思った。

洞窟の中は、基本的に地上とは別の空間である。生態系も違っているし、空気からして違う。地上とは接点が少ないからだ。しかしこれは、完全に異なる世界だ。微妙にずれた世界というのでは無い。法則から違う、異なる場所だ。

此処がフィールドなのだと、改めて認識してしまう。

耐水性のカメラを取り出すと、写真を何枚か撮った。探検隊も、此処までは入れなかったはずだ。もっと入り口近くで、フィールド認定する原因となった存在に襲われたという話だから、無理も無い。

此処がシャンバラだと言うのなら、当然この文明を作った連中もいるはず。

床や壁に触ってみる。磨き抜かれていた。

つまり、手入れをしている奴がいると言うことだ。

服を乾かしながら、歩く。

いつ、この文明を作った連中と出くわすか、分からない。

覚悟は、決めておかなければならなかった。

 

スペランカーが見上げているのは、巨大な顔面の石像であった。高さは、三メートル半という所か。

モアイ像に似ている。というか、モアイ像そのものだ。イースター島に存在している、文明の痕跡。イースター島が食糧不足の結果、住民が互いを喰らいあって衰退した悲劇の島だと聞いて、驚いたのは、記憶に新しい。

だが、イースター島と此処は、ずっと離れているはず。

しかし、ピラニアがいるくらいである。どんなものがあっても、驚くには値しなかった。

既に周囲は洞窟では無くなっている。石畳に舗装され、明らかに手入れされていた。その上、明かりの役割を果たすと思われる花が一杯植えられている。

この空気、今スペランカーが住み着いているアトランティスに似ている。異次元的というか、人間が住む世界とは別の場所。そう、星の世界から来た住人達が、暮らしやすいように環境を変えた場所のようだ。不気味だとは思わない。だが、足を踏み入れて良いのだろうかと、躊躇してしまう。この洞窟で無ければ生きていけないような人たちが住んでいるのだとしたら、なおさらだ。

多分ハリーが水路に飛び込んで、泳ぎ去っただろう事は、スペランカーも掴んだ。熱源が途切れていたからだ。

だから、水路から上がった地点を探そうとして、歩いている内に。これを見つけたのだ。

モアイ像は威圧的にこちらを見つめている。

イースター島のモアイ像は、どちらかと言えば穏やかな顔をしている。それに対して、此処のモアイは目が入れられている上に、全体が彩色されているせいか、妙に威圧感が強い。

「ごめんなさい。 入らせてもらいます」

ぺこりと一礼して、進む。

振り返ると、モアイ像はこっちを見ていた。笑いが引きつる。さっきと、明らかに向いていた方向が違っている。

「あの、ひょっとして、聞こえていますか?」

無言。

モアイ像は、スペランカーをじっと威圧的に見つめるばかりであった。

書き込まれている目が、無表情であるが故に怖い。画竜点睛という言葉があるが、目が入っているのといないのでは、全く印象が違うものなのだ。

ゆっくり後ずさる。

モアイ像は、見ている分には動かない。しかし、視線を外したとたん、距離が詰まっているのだ。動いた音など、無論していない。

不気味すぎる。何だか、だるまさんが転んだをしているかのようだ。

しばらく腕組みして思案した末に、モアイ像に後ろを向けて、バックしてみる。何歩かバックした後、振り返る。

モアイ像はよほど定距離を取りたいのか、壁にめりこんでぷるぷるしていた。

しばらく無言でその様子を見つめた後、スペランカーはもう良いやと思ったので、歩き出す。襲いかかってくる様子はないし、悪い相手でもないようだから、好きにさせてやるのが一番だ。

もしも番兵だったらこれでもついてくるだろうし、監視装置だったら見張っていた連中が駆けつけてくるはずだ。そうなれば、逆にハリーの生存率も上がる。いずれにしても、ハリーを救出することが第一目標である今回、スペランカーには損が無い。

しばらく歩いて行く。水路に沿って歩くと、明かりがいらないほど、周囲の光度が上がってきた。ヘルメットにつけていたライトを消す。

浮かび上がるようにして、石畳で舗装された周囲の美しい光景が露わになってくる。ゲームなんかに出てくるダンジョンというのは、こんな感じなのだろうかと、スペランカーは思った。

規則的に並んだ美しい壁は、長方形をつなげた空間を、どこまでもどこまでも伸ばしている。壁に明かり代わりに植えられているらしい釣り鐘状の花は美しい沈んだ光を放ち続けていて、思わず触ってみたくなるほどである。でも、触らない。頭が悪いスペランカーでも、フィールドで未知のものに触ることがどれだけ危険かは理解しているつもりだ。

水路もその光を浴びて、幻想的な輝きを見せている。中にいる巨大な魚たちも、この状況だとむしろすてきな存在に思えてしまう。

「わ。 きれい」

好きな人が出来てもしたら、こんなところで一緒に過ごしでもしたいような空間である。この光の淡い感じは、大好きだ。

だが、スペランカーも分かっている。誰かを好きになる事は多分ないし、なってはいけない。相手が危険すぎるからだ。スペランカーの体質だと、血を浴びたり体液が触れたりするだけでも危険な可能性がある。誰かでそれを試すわけにはいかない。

振り返ると、やっぱりモアイはいた。

頭からぼろぼろとこぼれているのは、さっきの壁の破片だろう。最初は怖いと思ったが、もうそれは無くなった。

ついてくるなら、ついてくれば良い。

そう考え直し、スペランカーはハリーを追って、歩き始めた。

しばらくして。

複数の人影が、前から後ろから現れる。

来たなと、スペランカーは思った。翻訳機を出すが、まあ英語なんかは通じるはずも無い。多分役には立たないだろう。

「ええと、こんにちは」

まず、J国語で話しかけてみる。

反応は無い。近づくのは、少し早計か。

人影は若干小柄で、見えにくい距離を保ったまま立っている。槍を持つもの、弓矢を持つ者、いずれにしても武装しているのが薄暗い中でも見て取れた。もう少し近づいてくれると見えるんだけどと思いながらも、スペランカーは立ち止まったまま、様子を見る。焦らない方が良い。こういうときは、出方を見て、出来れば共存の路を探すのだ。

何か、人影が言った。

やはり、聞いたことも無い言葉だ。翻訳機にも、類する言葉は載っていない。いや、あるにはある。小型のデータベースが組み込まれたパソコンを内蔵していて録音した音声を分析してくれる、軍から貸し出された高級な特注品なので、多分間違えてはいない。

だがこれは。

この地点とは、地球の裏と言って良いほど離れている場所の、しかも地方言語である。山中で限定的に使われている言葉で、絶滅の危険があるとさえ言われている使い手が稀少な言語だ。一応翻訳機には乗っているが、偶然か。

試してみる。

その言葉で、相手は何者だと聞いてきた。だから、敵ではありませんと告げてみた。

ぼそぼそと、人影は喋りあっている。翻訳機に表示される言葉は、間違いない。同一の言語である事を告げていた。

「貴方には、我らの神と同じ力を感じる。 生け贄を求めに来たか」

「いいえ」

「ならば、何をしに来た」

「先にここに来た人を、連れ戻しに来ました。 彼は危険を顧みず、無理に進もうとしています。 それを防ぐために来たのです」

しばらく無言で話し合っていた人影は、近づいてきた。

明かりの中、驚かされる。

どうも、複数の違う人種が一緒に過ごしているらしい。多分人間なのだろう。しかし、微妙に違っている部分も多かった。

一番多いのは、緑色の肌をした、子供のような姿の人たちだ。子供のようと言っても、筋肉は盛り上がっていて、身体能力はかなり高そうである。天井まで五メートル以上はあるが、飛びつけるかも知れない。

後はみな仮面をつけている、白い肌の人たちばかりだ。

粗末な着衣をつけていて、陰部をかろうじて布で隠している。女性は乳房をもろに空気にさらしていて、ちょっと目のやり場に困った。仮面は何種類かあるが、どくろをかたどったもの、笑顔をかたどったもの、いずれも薄い石で作られているようだ。

そして、だいたい事情は分かった。

今、スペランカーの中には、ダゴンと呼ばれる異星の神がいる。眠っていて表には出てこないが、その力を感じたと言うことは。その眷属か、それに類する存在が、このフィールドの発生源と言うことだ。

後から来ている助っ人と合流しないと、多分勝てない。戦うとしたら、だが。しかし、生け贄云々という話を聞いたこともあるし、あまり穏やかに事が進むとも思えない。

「貴方の名前は」

「スペランカーと、呼ばれています」

「貴方は、巫女か」

「違います。 しかし、神の呪いを受けたことで、ちょっと特殊な体になっています」

ダゴン神が中にいることは言わない方が良いだろうと思ったので、伏せておく。相手を混乱させるだけだ。

ついてきてほしいと言われたので、そのまま歩く。

モアイ像は、この状況でも。無言でスペランカーの後を追ってきていた。

 

2、地底の王国

 

此奴は驚いたと、ハリーはござのようなものを丸めた影に隠れたままつぶやいた。

目の前を飛んでいるのは、どう見ても翼竜だ。しかも、飼い慣らされている。一匹は顔をそのまま露出しているのだが、もう一匹は顔にどくろのようなかぶり物をつけられていた。

そして、それを操っているのは。

やせた体の小さな子供だ。どうも女の子らしい。というのも、膨らみかけの薄い乳房を大気に露出しているからである。

発展途上国などでは、たまに陰部だけを隠して生活している人々がいる。場所によっては、全裸と言うこともある。非常に暑くて服がいらない場合などにはこういう風習が発達するのだが。

そういえば、此処は空気の対流が少なく、とても温度が安定している。確かに、服など必要ないのかも知れない。

子供はどくろを模したかぶり物をしていて、素顔は見えない。しかし、物陰で見ている限り、他の人間達よりも、多少はましな格好をしているように見えた。そうなると、巫女か、或いは何か重要な役割を果たす存在なのかも知れない。あくまで、それは推測に過ぎないが。

追跡者から逃れようと地下通路をしばらく歩いていて、突然広い空間に出た。天井は、多分数十メートルはあるだろう。小さな丘がまるまる入るほどの、巨大な空間だ。

今までと比べて、格段に広い其処は、どうもこの石畳の通路を作った人間達の住処の一部らしく、人間や、それに近い姿の生物が多数行き交っていた。どうも複数の街をつなぐ中継点的なところであるらしく、大きな家もあった。人間達は殆どがかぶり物を身につけていて、多少の貨幣も使われていた。

物陰から観察していると、思ったよりも優れた文明があるのかも知れないと、驚かされる。

たとえば、家は非常に精緻な石材を組み合わせていて、隙間が殆ど無い。屋根の部分には、ちょっと材質が分からないが、木のような草のような皮が使われている。天井辺りの鍾乳石の辺りに何かが飛び交っているのに気づき、見てみたらテーブルのような岩に上っている女の子と翼竜を見つけた、というわけである。

女の子の手に止まった翼竜は、ギャアギャアと声を上げて何かを知らせている。こちらのことを気づかれたのかと思ったハリーは身を思わず身を縮めたが、どうも違うらしい。女の子が甲高い声で何か叫ぶと、行き交っていた人々が思わず足を止めて、女の子の方を見る。

何を言っているのかは、よく分からない。

だが、人々が熱心に話に聞き入っていることは理解できた。言葉はどうも、地球の裏側にある小国のものと似ているような気がする。といっても単語を二三聴いたことがあるだけの地域の言葉で、しかも微妙に違うので、理解はとてもではないが出来ないのだが。

視線が女の子に集まっている内に、移動。さっきぼろ小屋を除いたとき、見つけた布をかぶった。これで、少しは他の連中からも姿をごまかすことが出来るだろう。

通路の一つに入って、さっさと進む。石畳で出来ている通路には必ず側溝があり、水が流されていた。多分下水か、あるいは上水だろう。どっちにしても、豊富な水がある事がよく分かる。

誰とも出くわさないように、小走りで急ぐ。

一番大きな穴を選んだのは、そっちの方が目当てのものに行き当たる可能性が高いと思ったからだ。集落を出ると、やはり人影も少なくなる。二度、側溝に潜んでやり過ごさなければならなかったが、それでも充分に余裕を持って行動できた。

拳銃の弾は、数が限られている。

いざというときは発砲しなければならないだろうが、それはギリギリまで控えたいところだった。

多分目的のものがあるとすれば、神殿だろう。

こういった原始的な社会では、文明の高低に限らず、だいたい宗教が大きな力を持つ。当然のことながら、神殿に富が集中することになる。

ならば、そこに。

ハリーが求める第一のもの。伝説に残る巨大ダイヤモンドが存在している可能性が高かった。

此処が伝承に残るシャンバラだとすると、70カラットを超えるダイヤモンドがごろごろしている可能性さえある。もしそうならば、一発でこの沈みきった人生を大逆転出来る。ごろごろしているのならば、一つくらいとっても良いだろう。

本気で、そうハリーは考えていた。

今まで沈みきった人生を送ってきたのである。少しくらいは、良い思いをしても良いでは無いか。

ただコネがあるだけで出世していく同僚が派手に金を使っていて、それに女が群がっている様子を見る内に、ハリーは世の無常を感じるようになった。そして、心も歪んだ。しかしながら、人間社会で暮らしていて、心が歪まぬ者などいるだろうか。

社会が高度になればなるほど、その傾向は強くなる。誰かが悪いのでは無く、社会そのものに無理が生じてくる。

ハリーが思うに、元々人間はそれほど巨大な社会を作る生態をしていないのではないだろうか。

それなのに、数億に達する同種が集まり、社会を作っているから無理が生じてしまう。

社会の問題は、知恵で解決できるものよりも、むしろ本能に起因しているものの方が、多いようにハリーには思える。

看板の類は無いか。通路をこそこそと歩きながら、ハリーは探す。

三つの宝の内、一つ。金を。

 

やはり、微妙に翻訳機が示した言葉とは差異があるらしい。必死に翻訳してくれるのだが、時々意味不明な文章が混じった。スペランカーの頭があまり良くなくて、機械を上手に操作ができないという事もある。

三人目はまだ当分たどり着けそうにもないし、しばらくは一人で話をするしか無い。相手に戦意が無いことだけは救いであった。

モアイは、まだ後ろにいる。シュールな光景だが、むしろ周囲の人々はモアイを神聖視しているようで、何かの祈りのポーズをモアイに向けていく事も多かった。

「それで、そのハリーという奴は、なぜ此処に侵入してきたのか」

「分かりません」

「なぜ分からない。 同じ部族では無いのか」

「違います。 外には星の数ほど民族があって……」

四苦八苦しながら話を進めるが、どうもなかなか理解してもらえない。国という概念さえも無いのである。こちらで普通に通じる話が、どうしてもうまく伝わらないのだ。

連れて行かれたのは、どうも神殿らしい場所である。当然、モアイもついてきた。

入り口は広く、この世界にしてはかなり重武装の屈強な男達が、入り口を厳重に固めていた。作りが故か窓も無く、注意深く配置された光る草が中の荘厳さを後押ししている。入ってみると石畳の質が基本的に違い、柱なども非常に美しく磨き抜かれている。壁画には、無数の触手を伸ばしたまがまがしい塊が描かれていて、生け贄を捧げる台座らしいものが置かれていた。

流石に、モアイは神殿の中にまでは入ってこなかった。或いは、意思があるのかも知れない。

ダゴン神と同種の気配は、今のところ感じない。あの台座は儀式的なものであって、実際の神はもっと深い場所にいるのかも知れない。

話をしているのは、声からして壮年らしい人物だ。というのも、やはり大げさな骸骨の仮面をしているので、顔が見えないのである。ここに来る途中、街らしい場所を何カ所か通ったのだが、素顔の人もいた。ただし、子供でさえ、例外なく顔にペイントを入れていた。化粧が重要な意味を持つ文明らしかった。

「貴方の言うことはよく分からない。 外に人間の多く住む場所があることは、我々も知識として知っている。 しかし、星の数ほどもいるというのは、何とも信じがたい。 それに、もう一人の男とやらは、わざわざこんな危険な場所に、どうして来る」

「まだ、分かりません。 私も指示を受けてここに来ていますから」

「分からないことばかりだ。 我々では無く、貴方も。 それなのに、どうしてその男を助ける」

仕事と言おうとして、さっきそれが理解されなかったことを思い出した。

どうやら非常に単純な役割分担がされている社会らしく、誰はコレをする、誰はこうすると言った感じに、やることがことごとく決まっているそうなのである。しかも、年齢や性別、それに才能などでガチガチに、だ。階級と仕事が一体化していて、一種のカースト制度に近い様子だ。

しかしながら人々が苦しんでいるかというとそうでも無く、生け贄云々の物騒な話を除くと、むしろのびのび平穏にやっているように思える。巨大な生物はいるし、その危険も間違いなくあるのだろうが。

宗教紛争と民族紛争がごちゃごちゃに混ざり合い、凄まじい利権の混乱の中、明日をも知れない内戦で殺し合っているこの洞窟の外の国より、間違いなく平和なのではあるまいか。民だって、幸せだろう。

勿論体制に不満を持つ人もいるだろうが、此処にいきなり民主主義を持ち込んで上手く行くとは、とてもスペランカーには思えなかった。

ただし、一つだけ解決しなければならないことはある。

それを解決しないと、此処の人たちは家畜と同じだ。

ただ、その前に、話を進めておかなければならない。

「その人は、どうも私の助けを拒んでいる様子があります。 或いは、この地底の国のことを知って、あまり良くないことをしに来たのかも知れません」

「それは不快だ」

「だから、間違いを犯す前に、止めなければなりません」

「……」

壮年の男性が考え込む。

だが、彼が結論を出す前に、女性が一人こちらに歩み寄ってきた。多分陽光を受けていないからだろうか、白い肌で非常に美しい体つきをしているが、やはり顔は骸骨状の仮面で隠している。少しずつ傾向が分かってきたが、どうも神官やそれに類する人は骸骨の仮面をしていて、戦士階級は笑顔の仮面をつけている様子だ。

「神が、近々目覚めるようだ」

「神様、ですか」

「そうだ。 シアエガ様という」

ずきりと、胸の内が痛んだ。言葉だけで、強い気配を感じる。やはり、よその世界から来た神様か。

さっき生け贄云々という話をしていたが、このシアエガという存在が、生け贄を求めているのは間違いないところだ。

「どのような神様ですか」

「恐ろしい姿をしているが、かって地上で迫害されていた我らを、この理想郷へと導いてくれた偉大な方でもある。 ただし、地上の力ある人間達との戦いで狂気を発してしまったのだ」

「狂気、ですか」

「そうだ。 目を覚ますと、見境無くお暴れになる。 しかし、生け贄として、何名か若い娘を差し出せば、その命と体を喰らった後にまた眠ってくださるのだ」

かって、この洞窟に暮らしていた者達は、対立する部族との抗争に敗れ、全滅寸前まで追い込まれたという。

しかしそのシアエガの導きで、この洞窟の中に、逃れることは出来た。

その代わり、今でも生け贄を捧げなければならない搾取を受けていると言うことか。

「良いのですか、それで」

「もう地上はこりごりだ。 かといって、この理想郷は元々シアエガ様の住処だった場所なのだ。 住まわせていただいているのだから、それなりの事をしなければなるまい」

それに、と神官は言う。

いろいろな方法で押さえてはいるが、人口抑制が難しくなってきているのだそうである。シアエガは最近目覚める頻度が高くなってきているのだが、それによって人口の抑制を効率よく出来ている部分もあるのだとか。

流石に、その話を聞くと、不快だ。

「人口抑制という点については、何もそんなことをしなくても、他に方法がありませんか」

「難しい。 それに何より、この理想郷も、際限なく広いというわけでは無い。 地下深くには我らが足を踏み入れていない場所もあるが、増えていけばいずれ一杯になってしまうだろう」

「でも、生け贄は良くないです」

「それは、我らも良くは思っていない。 しかしシアエガ様の力は圧倒的だ。 我らには住まわせてもらっているという事も含めて、選択肢が無い」

古代文明からの脱皮に必要不可欠なのが、やはりいにしえの信仰からの脱却である。どこの古代型信仰も、やはり生け贄を要求する頻度が高い。

別に古い文明が悪いというわけでは無い。

しかし、やはり生け贄について、スペランカーは認めるわけにはいかない。信仰の形というものは尊重されるべきだと思う。だが、生け贄は。無為な犠牲と、多くの悲しみを生むだけだ。

たとえ神様が実在したとしても、それだけは譲ることが出来ない。

今の神官の答えを聞く限り、かなり現実的にものを考えている様子で、多少は話が早くて助かった。

「私が、その神様と交渉してみましょうか」

「貴方が? 確かに、他の神の力を得ている貴方であれば、神も交渉を受け入れるやも知れないが」

「ただし、後続の仲間と合流してから交渉に当たらせてください。 必ずしも、交渉が成功するとは限りませんから。 その場合は、どうにか倒して見せます」

「……分かった。 貴方ほどの存在が仲間と頼むのであれば、相当な戦士なのだろう。 迎えをやらせる。 ただ、シアエガ様は残虐で狂気に満ちた存在であっても、我らを迎え入れてくれた大恩あるお方なのだ。 出来るだけ非道は避けてほしい」

頷く。

これで、一通り、ネゴシエイトは済んだか。専門家では無いが、根気よく続けて正解であった。

後はハリーを捕捉して、連れ帰るだけである。後続の仲間はまた異界の神との戦いかといやがりそうだが、経験も積んでいるし、それに必ずしも戦闘になるとは限らない。それに、戦闘タイプだけあって頼りになる。スペランカーの戦闘スタイルの場合、どうしても路を作る人材が必要になってくるので、彼女がいなければ話にならなかった。

周囲を見回す。

流石に神殿で座り込むのも何だと思ったので、休憩所は無いかと聞いてみると、外に宿舎のようなものがあると教えてくれた。

護衛の戦士何名かと、外に出る。

神殿に併設されている宿舎はずっと粗末な建物だが、中はきれいに整備されていて、藁を敷きつめたベットもあった。中には沐浴場もある。ただし、使う意味についてはだいたい見当がついたので、スペランカーは流石に使用を遠慮させてもらった。それに、湯を使う習慣も無いらしく、体力の回復にも期待は出来なかった。

ぬれた布だけをもらって、それで体を拭いて、多少はリフレッシュした。洞窟の入り口辺りで結構汚い思いはしたから、これで多少は人心地がついたことになる。

しばらく休んで、外に。

ハリーさんは無事だろうか。悪いことをしていないだろうか。

それが、心配だった。

 

神殿らしき大きな建物に到着。やはりというか何というか、相当に警備が厳重であった。神像やらに興味は無い。もしかしたら宝物で飾り立てられているかも知れないが、警備が一番厳しい場所は、後回しだ。

まずは簡単なところから、順番に見ていく。

今のところ、人生をベットした賭は、順調に推移を見せている。このまま厄介者で半端物として扱われ、業績も全て馬鹿にされ、コネだけで何ら能力の無い人間が偉そうに金をばらまいて好き勝手に人生を送るのを指をくわえてみているくらいなら。人生全部をなげうって、賭に出た方がまだましだ。

最初は、迷いもあった。

ストイックに人生を送ってきたとはいえ、友だっている。若い頃は随分一緒に無茶をしたり、徹夜でゲームをしたり酒を飲んだりした仲間は、何人か指折り数えることが出来る。彼らを悲しませることになるかも知れないとは、確かに思う。

だが、それも勿論天秤に掛けた上での判断だ。

家族は、一人もいない。

いや、これから作るか取り戻す。だから、こちらに関しては、気にしなくても良いのが嬉しかった。

影から覗いていたが、それを見て思わず顔を引っ込めていた。

どうやら追跡者が、先に神殿に着いていたらしい。しかも、見覚えのある顔だ。

絶対生還者、スペランカー。一部では神殺しというあだ名を持つ女だ。不老不死という強力な能力を持ち、近年一流の仲間入りをしたという。鈍くて頭も悪いし運動神経も良くないと言うことだが、とにかく一生懸命に困難に立ち向かう事で、数々の難題を克服してきた。

憎い相手だ。

周囲の人間関係に恵まれているとも聞いている。友人達を除くとクズしか周囲にいないハリーとしては、絶対に認めることが出来ない相手だった。この手の連中に限って、周囲にクズしかいないのは努力が足りないのだとか、好き勝手なことをほざくものだと相場が決まっている。

努力なら、ずっと続けてきた。四十年、ずっとだ。

経済的に恵まれない中学校に行って、周囲が遊んでいる間必死に資格も取り、人生設計もしっかりやった。

友人達と遊ぶ時間もあまりとれなかったが、それでも精一杯全力で生きてきた。犯罪だって、今までは一度だって犯さなかった。街に出れば老人に道を譲り、レディファーストを必ず守り、拾得物は警察に届けてきた。

夢を叶えるために、全力で生きてきた。たばこも酒もほとんどやらなかったのは、それが夢のために邪魔になると思ったからだ。

その仕打ちが、現状だ。

周りは、ハリーを「いい人」だと言ったが、それはカモとしか見ていないことだと、ハリーは知っていた。何度理不尽な借金の連帯保証人を背負わされそうになったことか。何度無茶なセールスの餌食にされそうになったことか。人間社会で、いい人というのは馬鹿の同義語なのだ。そう、ハリーは少なくとも確信している。

だから賭に出たのである。きっかけはあったが、それが無くても時間の問題だっただろう。ハリーは謀反を起こしたのである。明らかに不公正な人生に対して、反旗を翻したのだ。

他人の苦労も知らないで、努力をしないのが悪いとかほざくようなアホどもをたたきのめすために。

多少は遠慮もしてやろうかと思っていたが、スペランカーの顔を見たら、流石に不快感が募ってきた。もう遠慮はいらない。

徹底的にやってやると、ハリーは決めた。

神殿の周囲を徘徊して、調べる。神殿の裏手に、警備が厚い小屋を発見。人が出入りしている形跡はないし、窓も無い。ドアにはかんぬきがつけられていて、小柄な緑色の肌を持つ人間が、数名警備に当たっていた。

どうも人間の他に、あの緑色の奴が混ざっている。人間の下位存在なのかと思ったがそうでも無く、普通に扱いは同じ様子である。むしろ戦闘能力は高いようで、こういう所での警備を任されていることからも、高い信頼がよく分かる。

だが、頭はあまり良くない様子だ。気も散っている。時々飛んでくる蠅に、視線が移りっぱなしなのを見て、ハリーは一計を案じた。

まず、シフトを確認。交代の時間、人がいなくなるタイミングを入念に調べた。どうも四時間程度で交代するらしい。全体的に、小刻みに警備を回している形式なのだろう。だれるのを防ぐためとみた。

仮面をかぶった男を、一人後ろから襲う。

棒で殴り倒すと、暗がりに引っ張り込む。そして、仮面を奪った。仮面をはがしてみると、案外端正な顔立ちが出てくる。現地の住民と共通項もあるが、若干細い雰囲気だ。肉体労働は、小さな連中に任せっきりなのかも知れない。

出来るだけ、混乱させた方が良い。盗むには、混乱の中が一番良いのだ。発覚も遅れやすい。

ライターで、燃えやすいものに着火。

今まで火を使っているのを殆ど見かけなかったことから考えても、火は絶大な効果を示すはずだ。石造りが中心とはいえ、この閉鎖空間での燃焼は致命的な事態を招く。それくらい、あの頭が悪そうな小さいのにでも理解できるはずだ。

倉庫らしいものを守っている連中に歩み寄り、火を指さす。

小さな守衛達は、火を見て文字通り飛び上がった。背丈よりも飛び上がるのを見てハリーはちょっと驚いたが、それどころでは無い。

甲高い声が上がり、人が集まってきた。かんぬきを外し始めると、他の奴らも意味を察して、手伝ってくれる。火を消しに掛かる連中は、見事なバケツリレーを始めていた。残念ながら、簡単には消えない。着火する前に、オイルを掛けておいたからである。

倉庫の中に入り、中のものを運び出す。

窓が無いだけあって、中は非常にひんやりしていた。明かり代わりの草を植えた鉢を持って、別のどくろ男が入ってくる。いそいそと運び出されていく中に、巨大な輝きを放つ石があるのを発見。

予想通りだ。

ルビーだけでも数個、ごろごろと放置されている。カッティングは若干雑だが、どう見ても数十カラットは堅いものばかりだ。他にも、まだまだ凄いものはある。ダイヤモンド。しかも、九十カラット程度はありそうなものがある。

持ち帰れば、確実に億万長者だろう。

人がどんどん増える中、堂々とハリーは。

ルビーを数個と、ダイヤモンドを持ち逃げしていた。

自分でもあまりに上手く行ったのと冷静なので、驚いたくらいである。ひょっとすると、真面目に生きずに泥棒専門でも、生計を立てられたかも知れない。スペランカーと、すれ違う。火事に気づいて、来たか。

翻訳機を使って、周囲に指示している。

「ぬらした布をかぶせてください」

意外に冷静な奴だ。バケツリレーで効果が無いと見て取るや、地底人共はスペランカーの言葉に従い、布を濡らして次々かぶせ始めた。見る間に火が小さくなっていく。倉庫の中は、もう殆ど空だった。

無言で、ハリーはその場を離れる。

求めるものは、あと二つであった。

 

3、隠れ住む者

 

隙を見て荷物を回収すると、ハリーはくすねた中にある地図を、じっくり吟味した。

不思議な材質の紙である。勿論上質紙では無いのだが、草を素材にしている割には妙にきれいである。さっきの神殿はでかでかと書かれていたが、地図を見る限り、どうも洞窟入り口に対する「蓋」のような役割を果たしている様子だ。

他にも大きな神殿はいくつもある。

特に一番大きいのは、最下層にあるらしいものだ。此処には下手に近づかない方が良いだろう。多少格好を偽装した程度では、見抜かれる可能性も高い。

リュックに宝石を詰めると、ハリーはまず、文字の解読から始めた。

持ってきた手帳と、ノートPCからデータを呼び出し、調べていく。やがて特定が完了。やはり、ハリーが聞き覚えのあった言葉だった。

地球の真裏くらいで使われている言葉の筈なのだが、どうしてかは分からない。此処はシャンバラだ。不思議があっても驚くことは無いはずなのだが、それでも何処か不思議な驚きがあった。

さっき、放火した神殿を確認した。

スペランカーが家庭の知恵的な火の消し方を披露したせいか燃え尽きてはいなかったが、当然のように大勢集まって、騒ぎ立てていた。多分宝石を幾つか奪ったことも気づかれていたのだろう。守衛二人は、非常に豪奢などくろをかぶった神官らしき男に、いろいろと怒られていた。だが、それをスペランカーがかばっているのが印象的だった。

悪い意味で、である。

不快感が募る。

あんな風にかばって、受け入れられるところが不愉快だ。会社などでは、怒るという行為は、だいたいの場合地位確認のために行われる。猿と人間が根本的には同レベルだとよく分かる事例である。だから、他の人間の前で騒ぐようなことはむしろ推奨される。そして地位が低い人間は、他の奴が怒られているのを見て溜飲を下げるのである。そういう実例を、ハリーはいくらでも見てきた。

それなのに、お題目である理性での行動が受け入れられているというのは、どういうことか。

あいつだけは好きになれないと、ハリーははらわたが煮えくりかえる思いを味わっていた。何故あいつは特別だ。どうして、ずっと地道な努力を続けてきた自分が、一切受け入れられなかった。

嫉妬と憎悪が混ざり合い、スペランカーへの殺意と変わる。

だが。

心の奥底では、罪悪感もある。

宝石を眺めていても、達成感が無いのである。確かにこれを売り払えば、一生遊んで暮らすことが出来るだろう。だが、それで本当に良いのかと、心の声も聞こえてくるような気がするのだ。

出発点はどこだった。

社会に絶望したのはなぜだ。

思い出さないように頭を振る。今は、ついている。ならば、ついている内に、全部やってしまわなければならない。残り二つの目的を果たさなければ。此処が事前調査通りのシャンバラであれば、きっとあるはずなのだ。

金の次は、名誉。

それを得るために、ハリーは迷いを振り切り、歩き始めていた。

 

追いついてきた三人目は、以前同様、周囲を寄せ付けない雰囲気だった。特にその目つきは、子供らしい天真爛漫さがない。目だけを見ていると、大人のようである。帽子からはみ出している髪の毛は、以前と違って編み込んでおらず、短く切りそろえられていた。

アリス。

以前スペランカーと共闘したこともある、重力使いである。重力子を操作するという特殊能力を持つ、戦闘タイプのフィールド探索者だ。具合が良いことに、異星の神との交戦経験もある。

まだ幼い少女だが、しゃべり方は妙にお嬢様を意識していて、造作が整った容姿もあってそれがかわいらしい。いつもリボン付きの可愛い帽子をかぶり、風船を手にしているが、これはそうしないと能力を発揮できないからだ。

以前はただ言葉遣いだけだったが、最近は動作も大人びて、貴族を意識したものとなりつつある。それに、少しずつだが、貫禄も出始めていた。更に言うと、スペランカーには時々笑顔も見せてくれるし、信頼も感じる。嬉しいことである。

ずけずけとした物言いは、変わっていなかったが。

「コレは一体どういう状況ですの?」

「ああ、アリスちゃん! ごめんね、ちょっとその辺で待っててくれる?」

「……」

慌てて翻訳機を操作したので、二回間違えた。四苦八苦しながら、スペランカーはどうにかアリスに敵意が無いこと、貴人であるから丁寧に扱ってほしいことを告げる。神官は、露骨にうさんくさそうな目をアリスに向けていた。

無理も無い。スペランカーが警告していたとはいえ、ハリーが早速とんでもないことをやらかしてくれたからだ。

文字通りの、火事場泥棒。

警備の人たちに死者が出なかったことだけが、幸いだった。

しかし、この世界の風習からして、火を極端に恐れることくらい見当がつくだろうに。それを利用して宝物を奪うなんて、ちょっと神経を疑ってしまう。

この神殿の責任者である神官以外にも、偉い人らしい老年の神官達がたくさん来ている。彼らにも、スペランカーは同胞の不祥事をわびて回らなければならなかった。勿論ハリーにも背負うものがある事くらいは分かっている。だから、余計に悲しかった。

一段落すると、やっとアリスの所に行けた。

驚いたことに、アリスは身振り手振りで、監視役らしい兵士達と意思疎通を果たしていた。根本的に頭が良い子は違うなあと、スペランカーは感心してしまう。

「それで、説明してくれますの?」

「うん。 ハリーさんが、泥棒したみたいなの」

「それくらい可愛いものですわ。 荒くれのフィールド探索者だったら、此処の方々を殺傷して、宝を根こそぎ強奪、とか考えそうですもの」

「うん。 そう、だよね」

「しかし解せませんわね」

アリスが、資料を出してきた。

この娘は、こことかなり近いフィールドを攻略していて、その帰りに寄ってくれたのだという。その割には準備が良かった。きっと、能力の根本的な違いなのだろう。

まずは、ハリーの写真。

口ひげを蓄えた、優しそうなおじさまだ。青い目が特に穏やかで、強い理性を感じさせる。堀が深い顔立ちは、若干細長く、異相ともいえた。

「ハリー・オズワルド。 学生時代は品行方正、非常に真面目な生徒で、優秀な学業成績を収めて大手S社に専属カメラマンとして入社。 各地の洞窟を回って、探検家兼洞窟カメラマンとして名前をはせる」

「うわ、凄い写真! きれいだね!」

写真は、確かに凄かった。

どこの洞窟かは分からないが、青緑に光る美しい地底湖を、印象的に撮影している。震えが来るほどの美しさである。

側にいた警備の地底人たちも、感心していた。これほど美しい湖は見たことが無いと、神官もつぶやいている。

本当に、こんな美しい写真が。あの卑劣な泥棒を働いた人が撮ったものなのか。

「そうですわね、才能に関しては確かに図抜けていたようですわ。 しかし、このS社、ハリーが入社した頃の経営者が病死して、その息子が後を継いだ頃から、傾き始めたようですのよ」

具体的には、無能な経営者によって、会社が腐敗し始めたのだという。

業績の悪化。それによるリストラ。リストラの結果、社長のイエスマンばかりが残り、どんどん会社の状態は悪くなっていった。

ハリーの写真も、それに伴って、露骨に質が落ちていた。

「最初の頃の写真は、固定ファンもついていたようですけれど、そもそも写真集がそれほど儲からないのは昔からの宿命的な事ですものね。 このS社の商業出版部門の縮小に伴い、ハリーの立場もどんどん悪くなっていき、最後の方では完全に忘れられた写真家になっていたようですわよ」

「ひどい、話だね」

「そうですわね」

だが、ひどい目に遭っているのは、誰だって同じだ。

特にフィールド探索を生業にしているような連中は、大概相応の業を背負っている。スペランカーの目の前にいるアリスだって、今は天涯孤独の身だ。両親も弟も、謀殺されたのである。

しかし、誰でもひどい目に遭っているからと、納得できる者ばかりでは無いはずである。

「一念発起して、ハリーは五年前にS社を退社。 フィールド探索もしている別の会社、P社に移転しましたけれど。 こちらでも、あまり業績は良くない事もあって、ハリーはもてあまされていたようですわ」

「どうしてなんだろう」

「はい?」

「ハリーさん、とてもすてきな写真を撮ってるし、経歴を見ると加齢にあわせて資格の取得とか、ばっちり努力を重ねてる。 こんな立派な人を、どうして会社は評価しなかったのかな」

同族企業だからと、アリスは一蹴した。

最初はそうでは無かったらしいのだが、途中の社長交代以降はそうだったらしい。元々優秀な社長一人でもっている部分のある会社だったそうである。しかし、就職が如何に難しいかは、スペランカーだって知っている。会社なんて、滅多なことでは選べない。

そして、職を移ってからも、ハリーの不運は続いた。

殆ど家族がいなかったハリーの唯一の肉親である姪の死亡。病気で、あっけなく亡くなってしまったそうだ。

「何とか、してあげたいね」

「貴方が本音でそれを言っているのは分かりますけれど、今は他に解決する問題がある、のではありませんの」

「……」

異星の神との交渉。それが重要なことは、よく分かっている。

このフィールドが非常に危険な場所であるのも、それが原因の一つだろう。熟練した探検隊が、巨大生物や、どちらかと言えば平和的な地底人の攻撃程度で壊滅するはずが無い。

さっき神官に聞いたのだが。やはり以前はシアエガの活動が活発で、洞窟の入り口近くまで出向いて「食事」をする事も多かったそうなのである。探検隊は、多分それに遭遇してしまったのだ。

二手に分かれるわけにはいかない。

今まで何度か交戦経験があるが、異星の神は例外無しにとんでもなく手強い。もしも時間が許すなら、増援としてサー・ロードアーサーくらいの手練れを呼びたい位なのだ。アリスは相当に腕を上げているが、それでもスペランカーが敵に致命打を叩き込む隙を作りきれるか。

かといって、ハリーを放置も出来ない。

ハリーはとてつもなく孤独な心の闇にとらわれている可能性が高い。このままだと、何をしでかすか。

「ハリーの目的について、だいたいの想像は出来ませんの?」

「うん。 盗んでいったものからいって、まずお金、かな」

「大粒のルビーに加えて、九十カラットを超えるダイヤですわよ。 しかも類似品をさっき見せてもらいましたけれど、非常に独創的なカットで、おそらく見かけ以上の値段がつくでしょうね。 売り払えば、一生遊んで暮らせますわ。 そうなると、既に逃走に移っている可能性もあると」

「出口を固めてもらう必要があるかな。 後、他に目的があるとすれば、何だろう」

既に、命を落とした最愛の姪という言葉が、脳裏に浮かんだ。

しかし、そんなことが出来るのか。

もし、出来るとすれば。

嫌な予感が、膨らむ。だがそれより先に、まず片付けなければならない事を、やるべきであった。

「アリスちゃん、いざというときは」

「分かっていますわ。 以前のようにはいきませんことよ」

帽子を直すと、アリスは好戦的な笑みを浮かべた。

 

名誉が、ハリーには無い。

ハリーは、写真で大賞の類を取ったことは無い。大規模なコンクールには何度も出してきた。入選は毎回のようにする。上位の常連と呼ばれているほどなのだ。

だが。

どうしてか、いつも大賞は逃してしまうのだ。

どんな渾身の作品でもそうだった。練りに練った構図、完璧な状態、美しさ。いずれにおいても完璧な自信を持っていた作品が破れたことが一度や二度では無い。

審査員に話を聞いたこともある。

華が無いのだと、言われた。

ハリーの写真は技術的には完璧だが、しかし目新しい華が無いという。それ故に、多少稚拙であっても、華がある写真が賞の対象に選ばれるのだという。

口惜しかった。

誰も撮ったことが無いような地底湖の写真であっても、そう言われるのだ。絶対に負けていないと判断できる写真でも、同じ事を言われた。実際には、コネが裏で影響しているとしか思えない状況もあった。たとえば会社やマスコミが売り出そうとしている写真家が、箔をつけるために受賞する例もあったのだ。そういうとき、ハリーの写真は。無惨に追いやられた。

才能も、努力も、無駄だと言うのであれば。ならば、誰もが唸るものを写真として残すしか無い。

闇の中を這いずりながら、ハリーは目指す。

地図の中に、目星をつけたものがあった。理想郷シャンバラともなれば、誰もが唸る最高の珍奇があると判断していたが、やはりその予想は正しかったことになる。慌ただしく行き交い始めている地底人たちを、或いは物陰で、水路でやり過ごす。

多分、争いなどしたことが無い連中なのだろう。

人間に対する戦い方を、殆ど忘れてしまっているのだ。だから、わずかな能力しか無いハリーでも、不思議と彼らをやり過ごすことが出来た。急ぐ。今度は、巨大な蟻の巣を這い上がるように、上を上を目指す。

途中、何回かに分けて仮眠と食事を取った。持ってきているサプリメント類を口に含んで飲み下し、壁に背中を預けたまま眠った。

通路だけでは、どうしても通れないような場所もあった。

巨大な空洞だから、絶壁も多数存在している。複雑に入り組んだ空間が、無数の集落をつなげている。

そんな路ともいえないような崖、或いは鍾乳石の影を渡って、ハリーは進む。装備類は潤沢に持ってきている。

闇の中、ヤモリよりも静かに這いながら、ハリーは名誉を目指して進んだ。

巨大な動物もいるが、多くは人間と距離を取っていた。流石に地底人たちは、日常的に接している巨大生物の対策を完璧にこなしているのだろう。むしろ彼らは、地上の人間と地下の人間の見分けがつくのかも知れない。

崖を這い上がり、村の縁に出る。

石の家が点々とする中、子供達が黄色い声を上げて走り回っていた。粗末な衣服しか着けていなくても、どこの国でも子供は同じか。ざっと見たところ、ガチガチにカーストがある世界のようだが、それでも幼い内は気にしなくても良いのだろう。緑色の肌をした子供も、混じって遊んでいる。

家の影に隠れると、一瞬だけカメラを取り出そうとしてしまった。

誰も感動しない。商売になどならない。

それが分かっていながら。

思わずカメラを取ろうとした手を、慄然としてハリーは見つめた。感動を、などと甘いことをほざいているから、ずっと社会から排斥されてきたのでは無いのか。

気概があって、なおかつ成功しているマスコミもある。西欧には多い。多くが、国と戦い、今の社会的地位を勝ち取ってきた連中だ。迫害をはねのけて、血と汗を積み重ねてそういう地位を築いてきた。

だが、発行部数を出してもうけている新聞は、むしろスポンサーの言うとおりにしているものが多いのである。特に途上国や、マスコミとしての歴史が浅い国ではその傾向が見られる。世界的に信頼されている新聞が、国の言うことをただ発表するだけ、スポンサーの靴を舐めているだけのご用新聞よりもずっと発行部数が少ない。

それが、現実なのだ。

写真も、それと同じなのである。自分の信念を貫く写真など、世間的にはカスだとしか思われない。迎合し、こびを売る写真こそが、記事と同じく喜ばれるのでは無いか。それを四十年の辛酸で、思い知ったのでは無いか。

そう言い聞かせているのに、どうして不快なのだろう。

信念を持つと子供だと馬鹿にされ、正義を持とうとするとアホだと笑われる世界ではないか。

頭を振る。

真面目に生きようとするのはやめろ。そうして、四十年を棒に振ってしまったのだ。この土壇場で、まだ愚かな行動に身をやつそうとするのか。今しか、好機は無いのだ。金は既に得た。

だから、名誉だって、もぎ取ってやる。

迷いを打ち払うように自分に言い聞かせながら、ハリーは家々の影を進む。犬の類は飼われていない。だから、静かだった。

水路の周囲に、中年の女らしい仮面をかぶった連中が集まっている。水を汲みながら、何か話していた。時々笑い声が混じる。井戸端会議、なのだろう。楽しそうにしているのが、不快でならない。

その場を離れる。

後、二つくらい、こういう集落を抜けなければならない。

家の軒に、干し肉がつるされていた。縄でガチガチに縛られていて、ベーコンを思わせる。多分製法もよく似ていることだろう。

村の出口に、無数の光る花が植えられた花壇を発見。最初は不気味だと思った青白い光だが、慣れてから改めてみると、むしろ美しい。

目を細めてしまう。

だが、心は動いていなかった。

ただ、無心に名誉を目指す。通路を抜けて、今度は崖を這い上がって、警備の人間の目を避ける。

休むのも、崖の途中の岩の影で休んだ。

天井近くを、例の翼竜が飛んでいるのが見えた。下にはあの女の子がいるのだろうか。もしも不審者を発見する訓練を受けていると、大変に面倒だ。やり過ごすべく、岩の影で身を潜める。

崖の上の方で、声。

聞き覚えがある。スペランカーだ。

どうして、此処にピンポイントで来ている。流石に、ハリーは戦慄した。これだけの人数がいる状況である。熱探知機など、役に立つはずも無いのに。

「この方向で、あっていますの?」

「うん。 多分間違いないよ」

「どうしてそんな風に断言できますの」

「さっき、コンクールの写真を見て思ったの。 すごくきれいで、とても優しい写真だなって。 きっと、写真が本当に好きじゃないと、こんなにすてきな写真撮れないよ」

胸が痛い言葉だった。

今だって、写真は大好きだ。だが、歯を噛む。写真が好きなだけでは、世間ではクズなだけなのだ。

どんなに良い写真だって、評価されない。結果、食べていけないのだ。

崖を這い上がって、家の影に。

スペランカーと、風船を持った女がいる。あれは重力使いのアリスか。ここのところ売り出している、戦闘タイプのフィールド探索者だ。

「だから、きっと来ると思う。 お金の次に名誉がほしいだろうって言ったのは、アリスちゃんだもの。 私は信じるよ」

「信じてくれるのは光栄ですけれども。 しかし、上手く行くでしょうか」

上手く行きかけている。

それにしても、此奴らは、ひょっとしてハリーを追ってきていると言うことか。他にやることは無いのか。戦闘タイプであるアリスが一緒にいると言うことか、何か目的があるとしか思えない。

スペランカーはヘルメットをかぶり直すと、アリスを促して何処かに歩き出す。

家の影からその様子を見ていたハリーは、それに気づいて、息をのんでいた。

予想以上に、凄い光景だった。

昔は一枚岩だったのだろう。だが、それを削って作り上げた、時の芸術。

さっきのものとほぼ同じ規模の神殿がある。石造りの、豪奢なものだ。

それにもたれかかるようにして、巨大な猫がいる。そう思わせるほど、躍動感のある。美しい鍾乳石の芸術だ。

鍾乳石を削り、長い年月を掛けて作り上げた巨大な猫。その精緻さは尋常では無く、毛並みの一つを取ってみても、思わずため息が出てしまうほどである。目は辺りの全てを見透かすように見開かれており、神殿を守護するためか、爪も出ているのが分かった。

クイッククローと、内心で呼びかける。

どうしてか、そういう名前が浮かんできたのだ。素晴らしい。これほどの作品、地上の石仏にもなかなか無いだろう。当然、信仰の対象になっているはずだ。

世の中の原理主義者には、他宗教の神像を破壊して悦に入るような阿呆がいるが、そういう連中を除くときっとこれは価値があるはず。

長年連れ添ってきたカメラを取り出す。

フィルムを確認。問題なし。レンズの状態もばっちりだ。しばらく無言で、アングルを調整。

これほどの被写体は見たことが無い。

シャッターを切った。一枚、二枚。

ハリーくらい熟練した撮り手になってくると、撮った瞬間にだいたいのできが判断できる。薄明かりの中で、もう二枚。フラッシュをたけないが、しかし周囲に生えている美しい光を放つ草のおかげで、きれいに撮れるだろう。

四枚目をとり、カメラをそそくさと懐に収める。

クイッククロー。

あの神殿を守る猫の神の名前だ。

物言わず、動かぬが故に。被写体として、敬意を素直に払うことが出来る。こんなにひねくれたハリーでも、それは変わりない。

ヘルメットに手をやって、ひとしきり被写体に敬意を払ったあと。

気配に気づき、振り返る。

其処には。

あの翼竜を従えた女の子が、うすら笑みを浮かべて立っていた。近くで見ると、黒い髪をおかっぱに切りそろえた、美しい顔立ちだ。

いつの間に、回り込まれた。というよりも、違和感を感じて、足下を見てしまう。

女の子の、靴を履いていない素足は。

きれいに爪が切りそろえられた足は。

地面を踏まず、空中に浮いていたのである。

以前見たときは、こんな事はなかった。どういうことか。

「貴様が、侵入者か」

声が頭の中に、直接響いてくる。

恐怖に思わず拳銃を握り込むハリー。だが、女の子は。

その幼い顔立ちとは裏腹の、おぞましい悪魔的な笑みを浮かべて、ハリーの動きを封殺した。

「金、名誉、その次は何を求める。 ふむ、そうか。 命か」

「何を、言っている」

「その鞄にある灰の包み。 なるほど、最愛の、血のつながらない姪のものか」

心を読まれている。

それが分かっても、どうにも出来ない。この子供を撃ち殺せば解決するのか。しかし。

上を、あざ笑うように、小さな翼竜と、どくろをかぶった翼竜が飛び回っている。あの無垢な表情は、嘘だったのか。

いや、そんなものではないか。

「この理想郷シャンバラであれば、死者の蘇生が可能になるかも知れないと踏んでいたのだな。 愚かしい男だ」

「き、君に何が分かる!」

「分かるさ。 なぜなら、私の名前は」

それを聞いた瞬間、ハリーは、脳みそが沸騰するような、とてつもない衝撃に襲われていた。

ガツンという凄まじいインパクトの後、まるで膨大な光が体中を通り抜けていくような感触が続く。視界も、聴覚も、全てが凄まじい光に埋め尽くされ、激しい殴打音にかき消された。

悲鳴を上げようにも、喉も光に包まれている。

不思議と、それが分かるのだ。

空を、仰ぐ。

どうにか、心臓は止まらなかったらしい。

「ふむ、やはりこっちの世界の人間はだいぶ頑丈だな。 あちらに侵攻した連中は、私達を見ただけで発狂するような柔な連中で遊んで随分と旨い思いをしているようだが。 どうやらlkdhfsakodhfも言っていたとおり、私も侵攻する世界を誤ったらしい」

けたけたと、女の子は笑う。

汗が、滝のように流れているのが分かった。此奴は、女の子などでは無い。此奴こそが。

シャンバラの支配者。

異星の神、シアエガだ。

フィールド探索者の端くれだから、ハリーも聴いたことがある。

この世界には、残酷な神が実在している。異星から来たり異世界から現れたそのもの達は、古くからフィールド探索者達と激しい戦いを繰り広げてきた。最強のフィールド探索者Mのような規格外は単独で仕留めることも出来るそうだが、並の使い手では束になっても勝てる相手ではない。

勿論、フィールド探索者としては駆け出し同然の、ハリーは。

シアエガは身を翻すと、手を伸ばした。二匹の翼竜が、その華奢な腕にとまる。逆さにぶら下がるのでは無く、鳥のように、器用に翼を畳んで。性質はコウモリよりも鳥に近いらしかった。

喋りながらも、一切口を動かしていないのは、やはり精神系の能力を使っているからだろう。多分テレパシーか、或いはもっと上位の力か。いずれにしても、神である以上、造作も無いのだと見える。

「ついてこい。 条件付きで、おまえの願いを叶えてやろう」

「じょ、条件だと」

「そうだ。 遙か下に、本殿がある。 其処には私の本体と、くびきがある。 かって、人間の味方を気取った私の同族が、この狭い世界に私を閉じ込めるために作った。 そして人間の能力者が、私を此処に縛り付けるために使った」

コレある限り、私はこの洞窟から出られない。

そう、シアエガはいう。

そして、ハリーは悟る。逆らう選択肢は、存在していないと。

どうやら、ハリーの幸運のチップは。尽きたらしかった。

 

4、光と闇の狭間にて

 

猫の圧倒的な神像を見て感心したスペランカーは、間違いなくハリーがここに来ると確信した。

一緒についてきた神官に、周囲への人員手配を頼む。アリスはというと、嘆息して様子を見守っていた。

「神を、説得するんじゃありませんの?」

「今すぐ生け贄が捧げられるわけじゃ無いから。 今、最も大きい危険は、ハリーさんがおかしな事をすることだよ」

「それこそ、現地の人間に任せれば良いものを」

「駄目。 こっちの世界から招いた災厄なんだから」

神官はてきぱきと指示を進め、多くの戦闘員が神殿の周囲に配置されていく。

だが、しかし。

やはり、身体能力は高いし、獣との争いには慣れているとしてもだ。

対人戦が素人同然である事は、スペランカーにも一目で分かった。アリスは手にしている超硬質ゴムの風船を揺らしながら、大きく嘆息した。

「失敗でしたわね。 これでは、ハリーが素人でも逃げられますわよ。 もう、逃げているやも」

「ううん……そうだね」

「異国の巫女よ。 此処は我らが固めますが故に、大神殿へ急いでいただけませんでしょうか」

不意に、神官が話を振ってくる。

「大神殿?」

「我らは、シアエガ様の気配を感じることが出来ます。 それが故に神官をしているのですが。 ともかく、シアエガ様が目を覚まされた模様です。 おそらくは。 すぐに、生け贄を要求してくることでしょう」

「分かった。 すぐに行くよ」

「それに、嫌な予感がするのです。 何か、大きな災厄の予兆だとしか思えません」

巨大なトカゲが引く車も用意された。車輪は原始的な円盤形だが、しっかりついている。むしろ車軸が非常に太いので、見るからに頑丈そうだ。箱は本当にただの箱で、屋根も戸も無かった。

トカゲは全長八メートル以上はある。現在生息している最大級のオオトカゲ、コモドドラゴンが確かマキシマムサイズでも四メートル程度だから、オーストラリアに生息していたというもっと大きなトカゲがかろうじて比肩するくらいのサイズか。

餌らしい植物をがつがつと喰うトカゲの上で、緑色の肌をした小柄な騎手が、乗るように促す。草食だからといって、おとなしい生物だとは限らない。ちょっとおっかなびっくり、車に乗り始める。よじよじ不器用に車に上るスペランカーの隣で、ふわりと浮き上がったアリスが、危なげなく箱の中の敷き藁に着地した。

「よし、乗ったよ」

「異界の神の力持つ者よ。 我の姉も妹も、シアエガ様の糧となり果てた。 生け贄は貴重な人材こそ意味をなす。 だから、神は美しく、未来輝いていた姉を幼い頃に、妹を私が成人してから、浚っていった」

神官は、そうつぶやいた。

血を吐くような独白だったに違いない。

「仕方が無いことなのは分かる。 だが、他に道があるのなら、知りたい。 我らは年重ねても、それを得られなかった。 やはり、外に出ないのは、駄目だな」

「大丈夫。 任せて。 それに、外を知っているのだって、そんなに偉いことじゃないんだから」

ヘルメットをかぶり直すと、スペランカーはリュックサックをおろして、ブラスターを中から出した。

交渉はする。

だが、もしもそれが上手く行かない場合は。

頭は、既に切り換えていた。

 

シアエガに案内されるまま、ハリーは闇の中を駆ける。現地の人間でも知らないような、路とさえいえないような空間を。シアエガは、平然とわたっていく。見ると、腕力や脚力があるのでは無い。動きを先読みして、誤魔化しているのだ。

ハリーは、さっきから妙に自分の能力が冴え渡っているのを感じた。おそらく、神が何かしたのだろう。だから、走りやすい。四十男の身体能力であっても、すいすいと進むことが出来た。

ハリーの能力は。

重力に起因する衝撃の封殺である。

つまり、高いところからいくら飛び降りても死なない。それが、ハリーの能力である。あまりにも限定された能力だが、鍾乳洞の探索では案外役に立つ。実際に今までも、二回この能力の発動で死を免れている。

しかし今は、どうもその能力が、真の力を発揮しているようなのだ。

「おまえの能力は、落下ダメージの封殺などでは無い」

「では、何だ」

「吸収だ」

そういえば、そんな気もする。

走るときに妙に体が軽い。それだけではない。さっきから、鍾乳石に捕まるようにして天井を移動しているのだが、重力を感じないようにするすると進むことが出来ている。飛び交う翼竜が、何か声を上げる。

シアエガが、動くなと言った。

「ほう。 家畜どもが、私を裏切るつもりか」

「何?」

「おまえの同類を、どうやら私の本体にけしかけるつもりらしい。 数百年飼ってやった恩を忘れおって。 愚かな家畜共よ」

眼下に、それが見えた。

この辺りは地底空洞と言っても桁外れに大きく、たまに巨大な柱があるほかは、丸ごと小さな丘が入るほどの広さがある。その天井から見下す、明かりを放つ草の中を疾走する蜥蜴に引かれた車。

それに、アリスとスペランカーが乗っているのを、ハリーも確認した。

曲がりくねった路を、馬車と言うべきか蜥蜴車というべきか、それが疾走している。蜥蜴は後ろ足だけで立ち、凄まじい勢いで尻尾を振り降り走っていた。このままだと、追いつかれるどころか、追い抜かれるだろう。

「まずいな」

「うん?」

「あの大きい方の女、絶対生還者スペランカーだ。 神殺しという異名も持っている」

「ほう……」

ハリーの記憶の中を覗いたシアエガが、残忍な声を漏らした。

周囲が、ずしんと大きく一つ揺れた。

怒ったのだろうか。この地底空洞を支配する神の、本体が。

「どうやら、多少きつめの灸を据えてやらねばならないようだな」

「私の願いを聞き遂げるのだろうな」

「ふ、愚かな。 私を人間のような、嘘を日常的に吐き、約束を鼻で笑う生物と一緒にするな。 次にそのような妄言を吐き散らかしたら、ただではおかぬぞ」

視線をそらしたハリーは、リュックからザイルを取り出す。

体が軽くなっている今なら、出来るかも知れない。何しろ、重いリュックを背負ったまま、片手で鍾乳石に捕まっていられるのだ。

この力は、鍾乳石に捕まった時点から発動した。重力自体は、ハリーの体に働きかけ続けている。しかし、捕まった事により、重力による下への引力との摩擦が生じた。その摩擦を、どうにかして完全に自分のものとしているらしい。

「今の私は、衝撃を自在に吸収できるのだな」

「そうだ」

「どうも若干解せない部分もあるが、ならば、私に掴まれ。 一気に、相手の先を行く」

無言で、シアエガはハリーの腕にすがりついてきた。

ザイルを振り回すと、鍾乳石に投げて、引っかける。

驚くべき事に、ザイル全体にも力が掛かる。もしも振り回して引っかけただけであれば、絶対にすぐ外れてしまうだろう。もう一本ザイルを取り出すと、ハリーは鍾乳石から飛んだ。

放物線を描いて、虚空を舞う。

しがみついてくるシアエガの宿主を見て、ハリーはふと思う。

愛する姪が、ロンダが死んだのも、このくらいの年だっただろうか。

 

蜥蜴車に激しく揺られて、頭をぶつけたり尻餅をついたりするたびに、スペランカーは死んだ。虚弱体質は、彼女とは切っても切れない関係にある。まごう事なき呪いである。

すぐに蘇生するが、それでも痛みを伴う。

このガラガラ音を立てて高速で走る蜥蜴車は、殆ど拷問道具に等しかった。

コレよりひどい揺れの乗り物には、滅多に乗ったことが無い。

「大丈夫ですの?」

「へ、平気、ふぎゃっ!」

意識が飛んだ。後頭部をぶつけていたらしい。

巨大な空洞。闇の中、うっすらと浮かび上がっている地面と天井。轍は見えない事からも、これが緊急時にしか使われない車なのだと分かる。

蘇生して見上げると、アリスが立ち上がっていた。そして、視線は一点を見据えている。更に言えば、この揺れの中でも、アリスは絶倫のバランス感覚で、小揺るぎもしないように見えた。

異界の神との戦いの後、アリスが一皮むけたようになったことは知っている。スペランカーの前だけで無く、気を許した少数の前だけならば、とても人間的な笑顔を見せるようになったとも聞いている。この子は、強くなったのだ。

「見てください、スペランカーさん」

「え? おわっ!?」

見上げた先には、まるでターザンか何かのように、ロープを振り回しては凄まじいスピードで洞窟を飛んでいく人影があった。

間違いなく、ハリーだ。

しかも、目指す先は。今向かっている、大神殿である。

「私は足止めに入りますわ。 スペランカーさん、貴方は、いざというときのために、神の本体を」

「うん! 頑張って!」

頷くと、まるでロケットが射出されるようにして、アリスが飛ぶ。

重力子を自在に操る彼女にとって、空は独壇場だ。だが、ハリーに抱きついているように見えた女の子の事が気になる。

「急いで、とはいえないか」

緑色の肌を持つ小さな人は、荒れ狂う蜥蜴に跨がって、それを必死に御している。

これ以上、注文はつけられない。そうスペランカーは見て取り、ただ早く着くことだけを願った。

 

浮き上がったアリスは、全力で能力を展開した。

空中でアリスは、重力子を制御することにより、反重力にとらえられたも同然の結果を得ることが出来る。一気に天井近くまで加速。そして、逆さに体を反転させて、鍾乳石に足をつく。

ハリーを見た。

凄まじい機動だ。

本当にアレが、素人同然と言われていた人物なのか。ザイルをワイヤーのように使って、遠心力を駆使して大ジャンプを繰り返している。しかもアリスが見たところ、フックは鍾乳石に突き刺さっていない。

間違いなく、何かしらの能力である。

帽子を押さえながら、アリスは鍾乳石を蹴った。重力子を操作することにより加速するが、しかしそれも万能では無い。音速を超えるような機動は出来ないし、旋回性能も決して高くない。

だが、経験で、アリスは補っていた。

何度か鍾乳石を蹴って加速。加速。更に加速。気づかれる。

ハリーの横に並んだ。ハリーは、こちらを相手にもせずに、言う。

「君は確か、バルーンクラッシャーのアリスだったな」

「フィールド探索者の面汚しのようなまねはよしなさい、ハリー。 報われない人生を送ってきたことは理解していますが、だからといって他者に不幸を撒いては本末転倒でしょう」

「黙れ」

返ってきた答えは、驚くほど冷ややかだった。

多分、説得は無理だろう。

分かる。ハリーは、おそらく目的に王手を掛けている。それ以上に、多分恵まれた人間に、鬱屈された怒りを蓄えている。

それを嫉妬と、簡単に片付けるのは間違っている。たとえば、普通の人間同様に、いろいろ汚いことやくだらないことをしながら生きてきたのなら、努力が本当に足りていなかったのなら、正面から説教する意味もあっただろう。

だが、この人に関しては違う、資料を調べたが、この人は東洋仏教の修行僧も同様の高潔さで、真面目に人生を歩んできた。そんな彼に、神も仏も、何も報いることは無かったのだ。

気づく。すぐ後ろに二匹、翼竜がいる。あまり大きなものではないが、しかし。

ハリーが抱えていた女の子が、邪悪な笑みを浮かべ、指を鳴らす。

同時に、翼竜が、四方八方から集まってきた。中には明らかに翼竜では無いものも混じっている。

大型のコンドルか。それに、骸骨が空を飛んでいるようなものまでいる。

「足止めせよ」

「上等ですわね……」

奇声を上げて、無数の鳥が翼竜が躍りかかってくる。空を縄張りにする生き物たちが、不埒な侵入者を叩き落とそうと迫ってくる。

不意に、アリスは自分に掛かる重力を、最大限まで強化。

墜落するかのように、地面に最大加速した。翼持つ者たちが、まるで生きた驟雨のごとく追いかけてくる。

アリスは無言で、全力で重力子を操作。

地面に、己の体をたたきつけていた。

衝撃波が、辺りを蹂躙する。爆発が吹き上がり、盛大な煙幕を作り出し、なおかつ翼持つ者達の幾らかを思い切り巻き込んだ。

吹き上がる土砂の中に、或いは衝撃波によって、翼持つ者達がある程度巻き込まれるが。しかし何しろ数が圧倒的だ。頭上を旋回する無数の鳥たち。そして、ハリーは驚くべき速度で、この場を離れつつある。

クレーターの中心で立ち上がったアリスは、走り出す。そして、跳躍。飛んだ。

今度は鳥たちが、四方八方から攻勢に出た。

速い。特に翼竜達は、鳥をもしのぐ早さで、動きも鋭い。

後ろに殺気。

風船を、一羽がかすめた。多分気づいたのだろう。アリスの能力が、本人だけではなく、道具があって初めて完成するものなのだと。

急降下すると、鳥が一定距離を置く。だが、今度は、それを加速に用いた。包囲を抜け、一気に飛ぶ。鳥たちが、一丸となってついてくる。

上から、殺気。

右に回避。

鋭い爪が、風船をかすめ、そしてアリスの背中を抉っていた。バックパックが無ければ、脊髄にダメージが行っていたかも知れない。

見ると、最初から女の子の周囲を飛んでいた、どくろをかぶった翼竜だ。

もう一匹が、左から来る。

脇腹を、長く鋭いくちばしで抉られた。他の鳥たちとは、一線を画す速度と動きだ。多分、アリスが包囲を抜ける瞬間を狙っていたのだろう。

ハリーが、落ちた。

いや、ザイルをわざと使わなかったのが見えた。

しかも奴はふわりと柔らかく地面に着地すると、再び平然と走り出す。五十メートルは落ちたように見えたが、これは奴の能力か。調査したところ、それほどたいした力には見えなかったのに。

真っ黒な鳥の群れが追いついてくる。アリスは着地すると、地面を蹴りつけながら加速。ハリーは、崖に身を躍らせ、飛びながらザイルを投げていた。

そして、崖を斜めに飛び降りながら。

闇の下へと、飛んでいった。

「まるで、アクション映画のスターですわ」

勿論良い意味でつぶやいたのでは無い。アリスも呆れるほどに、現実感を喪失するほどの能力展開であった。

崖まで、まだかなりある。

どうしてこの平原に地底人が集落を作っていないのかは分からない。分かっているのは、辺りに隠れる場所は無く、しかも群れを指揮している二匹の翼竜が、かなり戦い慣れていると言うことだ。

悠々とアリスの後ろ、一定距離を置いてついてくる二匹。

或いは、鳥使いと直接意識がつながっているのかも知れない。大変に面倒な事であった。

ジグザグに走り、加速しながら跳ぶ。

そして、崖に飛び込んだ。

下は完全な闇。此処に下方加速するのは非常に勇気がいる。だが、それでもやらなければならない。

一瞬でも迷ったら、風船を割られる。

真横。翼竜がいる。

にやりと、翼竜が笑ったような気がした。

 

巨大な、石造りの建物だった。屋根は他の神殿と同じく、切り妻型に近い。

だが、天井部分には、ハリーを出迎えるように、無数の生物が蠢いていた。その中には、アンモナイトに近い姿をしたものもいる。

抱きついていたシアエガが離れる。

否。多分これは、シアエガの端末の一つくらいに過ぎないのだろう。

「おまえがアリスと呼んでいた者は、私の僕どもと戦っている。 未だ、かなり距離がある」

「そうか。 それならば、問題はスペランカーだが」

「そ奴は、もう到着したようだ」

どこまでも、不快な奴だ。

だが、能力を知っている以上、対処方法はいくらでもある。元々スペランカーは、真っ向勝負の相手には無類に強いが、奇策の類いには無力に等しいのだ。

神殿の周囲には、無数の地底人が集まってきていた。

「直接、貴方の本体とやらの所まで行きたい」

「安い用だ。 こちらへ来い」

神殿は石で作られているが、所々植物素材によって固められている場所もある。天井の一角を開けると、エレベーターのように、或いは煙突のように。ずっと下まで続いている空間があった。

地底人たちが、下では騒ぎ始めていた。

「追撃を封じよ」

シアエガが命じると、無数のアンモナイトやべレムナイトが、触手を動かしながら虚空に舞い上がった。

あいつらも、空を飛ぶことが出来るのか。

「翼竜は分かるが、あれはどうやって浮いているのかね」

「よく分からんが、殻の中に浮くガスをため込んでいるらしい。 だから、殻自体は堅いが、かなり軽いぞ」

「……」

多分水素ガスを使っているのだろうが、それにしてもあれは凄い。生きた気球という訳か。

はしごも無いが、別に苦労することも無い。シアエガを抱えると、ハリーは闇の中に身を躍らせた。

多分、数十メートルは落下しただろうか。

衝撃を完全に吸収して、降り立つ。

其処は。

今までと違い、完全に明かり無き空洞だった。上から、ほんのりと明かりが漏れていて、それだけが周囲を認識する役に立っている。

ヘルメットを操作して、ライトをつける。

そして、絶句した。

其処には、とてつもない存在があった。腕にすがりついているシアエガが、けたけたと笑う。

「そうだ。 これが私の本体だ」

全長は、おそらく数十メートルに達するだろう。しかも縦に長いのでは無い。球状をしているから、その威圧感はあまりにも凄まじい。

薄白い体の中央には巨大な目があり、無数にあるウナギの尾に似た触手が、空間をまさぐるように蠢いている。体は白いが触手は真っ黒なので、非常におぞましい対比を為していた。目は人間のものに近いが、瞳孔が三つあり、辺りを探るようにくるくると動き続けていた。しかも、火が燃えさかっているように瞳孔は赤い。

気の弱い者が見たら、発狂しそうな姿だ。

だが、不思議と、ハリーは何も感じなかった。

「さて、くびきを外してもらおうか」

「ロンダを」

「ふむ、そなたの姪か。 灰を持ってきているだろう、それを出せ」

灰の包みを、取り出す。

ロンダは不幸な娘だった。家族が事故で次々に亡くなり、天涯孤独の身になってしまったところを、ハリーの家に来た。最初は言葉さえも失っていて、しゃべることも無かった。ただベランダに出て日光を浴びながら、じっと遠くを見つめているばかりだった。

ハリーの写真を見てもあまり興味を見せず、精神科の医師に診せても、あまり改善しなかった。

そんなとき、捨て猫を拾ってきて与えてみると。少しずつ、感情が戻り始めていった。

さっき猫の神像を見たとき、運命を感じたのは。きっと、それが原因だろう。

ロンダは一年ほどで言葉を取り戻し、学校へも行けるようになった。少しずつ、幸せを取り戻そうとしているロンダをあざ笑うように、無惨な病魔が忍び寄り続けていた。

癌だ。

健康診断でそれが発覚して、しかも末期だと分かって。ロンダは悲嘆のあまり、洗面器に湯を張り、手首を切ってしまった。

ハリーが戻ってきたときには、もうロンダは息をしていなかった。

遺書には、これ以上ハリーに迷惑を掛けられないこと、今までとても幸せだったことが書かれていた。

ハリーが世界に致命的な絶望を感じたのは。この時であったかも知れない。

「灰にある情報からの肉体の再構築はさほど難しくない。 材料はいくらでもあることだしな」

触手の一つが伸び、ハリーとシアエガの前に先端を示す。

シアエガが灰をそれに触らせると、先端部分がまるで口のように開いた。否、多分本当に口なのだろう。それも、前後左右に開く、非常におぞましい形の口だ。中には鋭い牙も並んでいる。触手は黒いのに、口の中は真っ赤で、それがまた非常に邪悪な印象を誘った。

口の中に、シアエガが灰を落とす。

触手は口を閉じると、やがて何か、大量にはき出した。

それが、おそらく人間のなれの果ての肉塊だと悟って、流石にハリーも目を背ける。

「材料、だと」

「そうだ。 私は食料など必要とはせぬ。 生け贄は、地位確認のために取り、捕食は情報取得のために行っている」

喰うことで、情報は完全な形で取得できると、シアエガは言う。

そして、生け贄に選ぶのは、いろいろと余計なことを知っている者達ばかり。だから、その知識を元にして、今ハリーが見ている女の子のような端末が、効率よく地底の支配が上手く行っているかを確認するという。

肉塊に、シアエガが手をかざす。それも一瞬で、小山のような臓物と肉の塊に、すぐに手を突っ込んでいた。

「もうこの体にも飽きていたところだ。 再構築開始」

「な、何をするつもりだ」

「分からぬか」

シアエガは、冷酷な笑みを浮かべた。

「おまえの姪の、いや愛する相手の情報を元に、私の端末を再構成する。 記憶に関しても、貴様の意識と、灰を媒介にアクセスした世界の記憶、アカシックレコードから再構成する」

それは。

条件がつくとはいえ、確かにロンダは再生する。不幸な彼女は、再び記憶と肉体を得て、現世に現れることが出来る。

だが、その中には。

この巨大な邪神の意識も、一緒にいる事になる。

だが、邪神がむしろ最大限の譲歩をしてくれていることもよく分かる。ギブアンドテイクで、随分気前よく動いてくれてもいる。はっきりいって、普通の人間よりもずっと、しっかり約束を果たしてくれている。

呼吸が、速くなる。

どろりと、女の子が溶けてしまった。今まで、其処に何も無かったかのように。最初から、泥の塊だったかのように。

代わりに、肉の塊が、徐々に収束していく。

脈打ち、蠢きながら、一つの形に向かって。

ハリーは、目をつぶって、頭を振るう。シアエガは、約束を果たしてくれた。

確かに条件は厳しいかも知れない。だが、ロンダはこれでよみがえることが出来る。きっと、魂というものがあったとしても、それは肉体の中に再構築されるはずだ。

しかし、くびきを外したら。

この地底の人間達は皆殺しにされる可能性も高い。外にも、多大な災禍を招くことだろう。

「ハリーさん!」

はじかれたように、顔を上げる。

其処には。

膝に手をついて、肩で息をしているスペランカーの姿があった。拳銃を無言で取り出す。此奴だけには。

この女だけには、邪魔をさせない。

災厄があるとしても、だから何だ。今まで社会のルールに従って生きてきたハリーを、さんざん馬鹿にして、搾取ばかりしてきたような所だ。災厄になど、見舞われてしまえば良い。

これは、復讐だ。

そう思うと、俄然心も燃え上がる。

「もうすぐ、姪は、ロンダはよみがえる。 邪魔はさせない」

「お金と、名誉と、最後は命、だったんですね」

「そうだ。 金は後の生活のため。 名誉は、私を馬鹿にし続けた社会に対する復讐のために得た。 そして、私が救えなかった、哀れなロンダを救うことで、私の復讐は完成する! ロンダも、知らない土地で、金さえあれば、幸せに暮らせる!」

触手が、闇の中で咆哮する。

スペランカーの前に出た。たとえ神殺しの名を持つ銃で撃たれたとしても、シアエガを殺させるわけにはいかない。

間違っていると、何処かで感じもする。

だが、それ以上に。

間違っているのは、ハリーの周囲の社会だ。

「ハリーさん。 前提が間違っています」

「何だと」

「戦う気はありません。 シアエガさんも、話を聞いてもらえませんか?」

触手が一閃した。

スペランカーが吹き飛ばされ、壁にたたきつけられて爆ぜる。ぐちゃぐちゃに潰れたトマトのようになったスペランカーだが、蘇生が開始する。よろよろと立ち上がるスペランカーは、ぼろぼろになった着衣を顧みず、こちらにまた歩いてくる。

ひやりと、冷たいものがハリーの背中に当たった。

振り返る。

其処には。一糸まとわない、ロンダの姿があった。まだ未成熟な体は、むしろそれが故に蠱惑的だった。だが、はかなげなかっての笑みは、顔には無い。

代わりに、冷たい怒りと、邪悪な笑みがあった。

「ハリー。 殺せ。 この娘の意識は、日に数回は開放し、おまえの好きにさせてやると約束しよう」

「……」

「何を迷う」

頭上で、凄まじい音。

触手が吹き飛んで、その残骸が降り注いでくる。一体どういうことか。

「なるほど、打撃に対する反撃能力か。 それに、手元の武具による、致命打の組み合わせ。 面倒だな」

「話を、聞く気もありませんか?」

「何の話をする気か!」

また触手が一閃し、真上からスペランカーを徹底的に叩き潰す。

だが、触手がはじけ飛ぶ。再生もしているようだが、これでは完全にいたちごっこだ。それに、気づく。ロンダの体の周りに、黒い霧がまとわりついているのを。殆ど本能的に、それが打撃に対するカウンターの呪いだと、ハリーは気づいた。

「よ、止せ! シアエガ、駄目だ! ロンダが死ぬ!」

「そんなもの、いくらでも再構築してやる!」

「やめてくれ! お願いだ! これ以上、ロンダが死ぬ所を見せないでくれ!」

死に顔は、今でも思い出す。

美しくなど、無かった。悲しみと絶望が残り、墓に納めるときだって、ずっと消えなかった。

後で、墓を掘り返して、燃やした。

だが、灰になっても、あの表情は残っていた気がした。ずっとずっと、ハリーの心を苛み続けていた。ずっと、眠ると夢の中に出てきた。

どうして救えなかった。

どうして、ロンダがあんな目に遭わなければならなかった。そう、悔恨を続けた。

スペランカーが、立ち上がる。

見た目の年は、ロンダとそれほど離れていないようにも思える。だが。

その圧倒的な安定感は、どこから来るのか。

組み伏せてしまえばいい。非力な女だ。そうすれば、すぐに動きがとれなくなる。そんなことは分かっているのに。

どうしてだろう。

ハリーには、それをする気にはなれなかった。

「話をするだけでも、いいの。 どうしても、戦わなければ駄目?」

「黙れ神殺し! その手にある武器が、魂を等価として滅ぼし合う物だと言うことくらいは理解している! ハリー、何をしている! 速くそいつを押さえつけろ!」

スペランカーが、ブラスターを下げる。

シアエガが、ぴたりと動きを止めた。

「ハリーさん。 これ、渡すね。 持っていて」

「な、何……」

「ハリーさんが、どんな人生を送ってきたか、見たよ。 だから、ハリーさんが悪いんじゃ無いって、私は知ってる。 だから、預かってもらえる」

戯れ言を。

シアエガが、空間そのものを振るわせるような大音響で叫んだ。

無数の触手が、スペランカーに殺到する。

だが、次の瞬間。

天井の穴から躍り出たアリスが、シアエガ本体に痛烈な蹴りを叩き込む。巨体が、丸ごと陥没するのが、ハリーには見えた。

「頭を冷やしなさい、肉饅頭!」

「アリスちゃん!」

「スペランカーさん、急いで! あまり、長くは、保ちませんわよ!」

頷くと、スペランカーは、こちらに走り出す。

そして、ハリーの脇を通り抜けざまに。その手にあった銃を渡した。

「これ、あまり体からは離せないの。 だから、すぐ側で見守っていて」

「……」

確かに、不思議な引力を感じる。

それにしても、娘のような年の相手に、どうして逆らうことが出来ない。手を引かれて、歩く。

ロンダの体が、背中から離れた。振り返る。

ロンダは、呆然と、こちらを見つめるばかりだった。

触手を振り回し、わめき散らしているシアエガの至近まで、スペランカーが歩み寄る。そして、手を広げて、スペランカーは言う。

「見て、無防備だよ。 それでも、まだ話を聞かない?」

「お、おのれ……」

「この洞窟を出たいの?」

わめき声を、シアエガが上げた。徐々に、メッキがはがれ落ちていく。

この神格は、或いはいにしえの異界の神の中では、それほど力が強くない存在なのかも知れない。

「私は、自由になりたい! それだけが望みだ!」

「だったら、望み、かなえてあげるよ」

「何…だと!?」

「私、今アトランティスに住んでる。 其処の神様は空席なの。 住んでいる人たちも、神様をほしがってる。 貴方、ええと、シアエガさん。 シアエガさんが人を食べない、襲わないって約束するんだったら、私がアトランティスに連れて行ってあげる」

神が、悲鳴を上げた。

馬鹿な。あり得ない。

人間が、そんな事を考えるなど。だが、嘘をついているようにも見えない。そんな馬鹿な。こんな現実があるわけが無い。そう叫んだいにしえの神は、混乱の中、己が狂気に呑まれていった。

激しく、周囲が揺れる。天井が崩落し、シアエガの本体に岩石が降り注ぎ始めた。倒れているロンダに、ハリーは走った。アリスが側に飛び降りてくる。ハリーは視線で、さっき神に示された、床に突き刺さっているくびきを刺した。

「それが必要だ。 すまん、手が足りない」

「これは、邪神像?」

「そうだ。 神のくびきだ。 これを媒介に、神の居場所が固定されている」

アリスは、容易にくびきを引き抜いた。今なら、もう大丈夫だろう。

岩が降ってきた。五メートル四方はありそうな、巨大なものだ。だが、衝撃を吸収して、投げ捨てる。ロンダを抱きかかえると、ハリーは困惑しているスペランカーに叫ぶ。

「速く走れ! 埋まってしまえば、その能力でも出るのは難しい!」

「は、はい!」

スペランカーが出口を知っているから、一緒に走る。途中、何度か転んだスペランカーだが、どうにか岩で空間が埋まる前に、出ることが出来た。

神殿の中に、走り出る。

地底人たちは混乱して右往左往していたが、スペランカーが姿を見せると、何か叫んでいた。肩で息をしながら、スペランカーがその辺に置かれていたリュックから翻訳機を取り出す。そういえば、リュックを背負っていないと思ったら。アリスが引ったくると、非常に素早く操作して、返答をしていた。

神殿の柱にひびが入る。天井から、埃が降り始めた。

「宝などは良い! 早く脱出しろ!」

ハリーは、何だかむなしいなと、崩落していく神殿の奥、いにしえの神が引きこもっていた洞窟を見つめて、感じたのだった。

 

神殿は半ば崩落したが、結局全てが潰れることは無かった。

石に座って呆然としていたハリーに、コートを羽織ったスペランカーが歩いてくる。激しく叩き潰されて服は駄目になってしまったそうだ。足も素足に近い。

アリスは、既に報告のため、戻っている。

「ハリーさん。 宝石、地底の人たちに返してあげてください」

「……」

「きっと、ハリーさんは今まで運が悪かっただけです。 社会が悪かったのだと、私も思います。 でも、その前に、此処の人たちの財産は、戻してあげてください。 此処の人たちは、ハリーさんを虐待なんかしていませんから」

「……そう、だな」

目を覚ましたロンダは、地底人から借りた服を着て、辺りを所在なげなに歩き回っている。シアエガは完全に眠ってしまっているらしい。スペランカーの提案があまりにもショッキングだったのだろう。自分を迎え入れる存在がいて、しかも場所もあると聞いて。孤独の中、己を苦しめ続けていた神は、きっと精神崩壊を起こしてしまったのだ。

元に戻るまでは、数百年は掛かるという。元に戻っても、アトランティスに移してしまえば、以降は無害な存在になるだろうと言うことであった。

此処は、もうフィールドでは無くなったのだ。

ロンダは、ハリーのことは分かるようだ。だが、混乱していて、まだ意識が完全に戻っているとは言いがたい。

罰かも知れないと、ハリーは思った。

「やっぱり、私の努力が足りなかったのかな」

「そんなこと、無いです。 ハリーさんの写真すごく綺麗ですし、それに頑張っていたこと、知ってます。 他の人が認めなくても、私はハリーさんを凄いと思います。 良かったら、いいえ、是非アトランティスに来てください。 ロンダさんも一緒に」

側で、自分を見上げるスペランカー。

何でだろう。自分を認めてくれる人がいるというだけで、どうして涙がこぼれてくるのだろう。

スペランカーの屈託の無い笑顔も、ハリーにはどうしてか、とても新鮮なものに思えた。

こんな人間がいた。それだけで、他がクズでも、社会はある程度光を持っているのではないかと、思えてしまう。

「分かった。 ロンダさえ保護してくれるのなら」

「ありがとうございます!」

ダイヤも、ルビーも、皆リュックから出した。

そして、こちらを不審そうに見ている神官に、手渡す。謝るにはどうしたら良いかと翻訳機を使って聞くと、東洋の礼と殆ど変わらなかった。

頭を深々と下げる。

ハリーを排斥した社会には、今でも敵意が消えない。

しかし、この純朴な地底人たちには、迷惑を掛けた。だから、頭を下げることも出来た。

「すまない。 大変に迷惑を掛けた」

「いや、我らの警備も甘かったのだ。 それに、スペランカー様の好意で、我らの中からも有志はアトランティスに移ることになった。 それにこれからはシャンバラの人口が増えすぎないような策も相談して決めていかなければならない。 問題は山積しているが、協力すれば乗り越えられるはずだ。 だから、そちらでは良い関係を作ろう」

不器用に、真っ白い手を伸ばしてきた。握手の風習は変わらないらしい。

ハリーは、握手を受けた。

齢四十で、やっと受け入れられる場所が出来た。

幸せなことかも知れない。一生報われずに、不幸な人生を送る者だっているのだ。賭には、負けた。だが、これで良かったのかも知れなかった。

「ハリー、おじ、さ、ま」

名前を呼ばれた。

リンダが、側で、笑顔を浮かべていた。

まだ言葉はたどたどしい。だが、その笑顔は。あの死に顔を、払拭するほど、無垢な輝きに満ちていた。

 

5、居場所

 

ようやく、忙しい時期が一段落した。

アトランティスから増援を呼んで、スペランカーは掘り出したシアエガの本体を何度かに分けて運び出した。輸送には国連軍が力を貸してくれた。というのも、厄介払いをしたかったというのが本音なのだろう。本体はぐちゃぐちゃに潰れてしまっていたが、時間を掛ければ勝手に再生すると言うことであった。事実、切り分けた本体をくっつけると、その場で融着が始まっていたくらいである。

後は世界最大の鍾乳洞を国連軍の保護下においてもらった。ひどい内戦が続いている国だったが、これで事態も沈静化に向かうだろう。邪神がずっと潜んでいた洞窟があったような地域である。放置するには危険すぎるからだ。

これで、アトランティスから離れられるかも知れないと思ったのだが、彼の地の長老達は、引き続きスペランカーにいてほしいと懇願。頼まれて断るわけにも行かず、残ることになった。

もっとも、アトランティスはとても居心地が良い。

幼い頃、母親にネグレクトされ、飢餓の中で蘇生と再生を繰り返し、地獄を見たスペランカーにとって。優しく迎え入れてくれるアトランティスの地は、確かに今までに無い、たとえて言うなら故郷のような、そんな優しい場所であった。

この場所を、守らなければならない。

そう、今は思う。

軍基地で、最後の肉塊を輸送機に積めて運び出す作業を、スペランカーは見守っていた。ダンプに積んで持ってきた神の肉塊を、この国唯一の基地から空路を使って運び出すのだ。全部がきちんと運ばれることも、しっかり見届けた。

「スペランカーさん」

声を掛けられる。

振り返ると、アリスだった。手にはやっぱり風船を持っている。だいぶ人間的に成長した今も、常時戦闘態勢なのは、習慣からだろう。

「どうしたの、アリスちゃん」

「これ、持ってきましたわ」

受け取った包みを開く。

それは、本だった。

タイトルは、美しきアトランティス。ハリーの写真をふんだんに用いた、おそらく世界で初の、アトランティスからの輸出品である。既に世界で数百万部の売り上げを見せているという。

観光客を受け入れるわけにはまだ行かない状況もあるが。これは、世界と隔絶されたアトランティスにとって、様々に意味を持つ本になるだろう。

地底世界の復興が終わった後、一足先にハリーはアトランティスに、姪と一緒に向かった。

そして、往年の腕を完全に取り戻し、今はアトランティスで最初の出版社にて働いてくれている。社長にと言う声もあるようだが、ハリーはあくまで写真家として生きたいのだそうだ。勿論、きちんと待遇に関しても、問題ない状態である。一緒に暮らしている姪のロンダも、少しずつ精神の平衡を取り戻しつつあるという。

本を開く。

素晴らしい写真が目白押しであった。

朝露にぬれる、美しい砂漠の夜明け。連なる砂丘の曲線が、なんと美しいことか。

いつも夜になっている地域の、あまりにも神秘的な光景。空の黒は、こうも映えるものなのか。

切り立った山々にしがみつくように作られている集落。生命力は、実にたくましい。

アトランティスの住人であるミイラ男や半魚人達の、日常を切り取ったような写真。生き生きとした喜びと、人間とは違うが確かに息づく彼らの呼吸までもが見えるようだ。

それらの価値を、再確認させてくれるハリーの腕前もまた素晴らしい。

「この場所を、守らなければね」

「及ばずながら、その時は私も協力いたしますわ」

「ありがとう」

アリスと笑顔を交わし合う。

そしてスペランカーは、アリスと一緒に、最後の肉塊と一緒にアトランティスに向かうべく、輸送機に乗り込んだのだった。

 

(終)