平和な海

 

序、静かな海

 

どこまでも広がる海原は、ただ青く澄んでいて、寄せては帰す波の音だけがしている。生まれてから、ずっと聞いて来た音。

膝を抱えて、じっとナロナは、砂浜で、海を見つめる。

波は穏やかで、砂浜と永遠に戯れ続けている。昼も、夜も、夕方も。

ナロナの仕事は来ない。

ちょっと、雲の流れが速くなってきた。一雨来るかなと思ったナロナは、場所を移す。広がる砂浜ではなくて、少し内陸にある木の下。

柔らかいシュロが、枯れ木に敷いてあって、そこで座れば雨に濡れない。よほどの大雨でなければ、だ。

すぐに雨が降ってくるわけではないし、降ってきたところで何でもない。

良く焼けた膝を抱えて、ナロナはぼんやりと海を見つめる。

やはり、雨が降り出した。

潮の匂いが、雨のと混じり合う。あまり良い匂いではないが、それでも変化があるのは嬉しい。

空はいつのまにか真っ暗になっていた。

今日は、星が見られそうに無い。

ぼんやりしている内に、独特の移動音が近づいてきた。

それは、すぐ側で移動を止めると、パッと音を立てて傘を差す。

「ナロナ。 此処にいましたか」

「カロン、どうしたの?」

「そろそろ就寝の時間です。 今日は仕事はありません」

「そう。 じゃあ、いこうっか」

傘に入れてもらって、歩く。

濡れた砂が、足の裏に気持ちいい。ずっと前には、それだと怪我をすることもあったのだけれど。

カロンが危ないものを丁寧に全て掃除したから、今は素足で走り回っても平気だ。走り回ろうという気にはならないが。

住居に行くと、プルートがカタカタと、いつものように五月蠅く音を立てていた。

壁一面にあるプルートは、外とのやりとりの管理をしている。

「ナロナ、船はこなかったか」

「うん、全く」

「そうか。 今日も業務は無しか。 本当は二件入っている筈だったのだが」

夕食は、既にカロンが用意している。

潮風でべたべたになった髪を洗って、シャワーで汚れを落として。夕食を済ませてしまうと、もうよい時間だ。

外の雨は少しずつ本降りになっている。

珍しくこれなら海が荒れるかも知れない。荒れる海には、近づけては貰えないが。近づこうとしても、カロンが飛んできて、連れて行かれてしまう。

夕食は、やはり海で取れたお魚や貝類。

どれも、代わり映えがない食事ばかり。それでも、味付けの工夫で、飽きが来ないのだから、カロンはたいしたものだ。

どうやってお魚を捕まえているか、カロンは教えてくれない。いつのまにか、いつも準備されている。

食事を終えると、休眠スペースに。

明日も、日の出と共に起きられるように、時間を調整する。

ヘッドフォンを付けたのは、雑音が耳に入らないようにするため。大雨の日には、プルートが忙しく仕事をしているのだ。

柔らかいシーツにころんと横になると、すぐに眠くなってくる。今日、とても退屈な一日だったのに、不思議だ。

こんな退屈な日を、一体何度繰り返したのだろう。

一時期は、日記を付けていた。

だが、あまりにも書くことがないので、すぐに飽きてしまった。今では、日記帳は金庫の中にしまわれてしまっている。勿論書きたいと言えば、すぐにカロンは出してくれるだろう。

目をつぶっても、浮かぶのは波の事ばかり。

波を見張ることが、ナロナの仕事。

本当は違うけれど。

今ではもう、それしか仕事がなかった。

 

1、平和の海

 

砂浜を、横切るようにして歩く。

あまり遠くへ行くと、どこからともなくカロンが来る。そのさじ加減を、ナロナはいつのまにか、体で覚えていた。

カロンに連れ戻されないように、引き返す。

引き返すにしても、視界の果てまで、砂浜と海は続いている。ただ海が右側に来るか、左側に来るか、それだけの違い。

一度、海の向こうに行ってみたいと思った。

でも、カロンが許してくれなかった。

良い子にしていると言っても、駄目だと言われた。基本、カロンはナロナのためだけに動いてくれるのだけれど。ある条件が整うと、とたんに頑なになる。そして、ナロナがどんなに嫌がっても、無理矢理連れて行く。

そういうときは、逆らえない。

文字通り、有無を言わさず、だ。

昨日の雨が、嘘のよう。

海は晴れ渡っている。

空は赤紫に染まっていて、雲一つ流れていない。海には、誰もいない。浅い所に入って、顔を付けてみたことも何度かある。

遠くまで、砂のうねりがずっと続いているだけだ。

来るはずのお船は、今日も来ない。

退屈。寄せては帰す波を見るのも、飽きてきた。あくびをかみ殺す。このままでは寝てしまいそうだから、何か動こうと思った。

戯れに、砂を掘ってみる。

お城を作るのだ。

雨が降ったり、波が来たら、あっという間に崩れてしまうお城。白くてきめが細かい砂を固めて、黙々と作る。

今日は何風のお城にしよう。

カロンに見せてもらった本には、いろいろなお城が載っていた。どれもこれも、作ってしまった。

砂だから、やれる事には限界がある。

でも、時間は、どれだけでも余っている。

可愛いお城も、かっこいいお城も、強そうなお城も、みんな作った。今日は、面白いお城にしよう。

面白いお城が、多数ピックアップされる中で、今までの作成回数が三十回以内で、なおかつここしばらく作っていないものを選ぶ。

黙々と砂を固めて、大まかな形を整えると、其処からは根気との勝負。

崩さないように、慎重に、静かに。

お城に、手を入れていく。

潮風の香りが、いつのまにか近づいてきていた。

潮が満ちてきたのだ。

お城ができたときには。波は、すぐ側にまで来ていた。

お城の側に、座る。

丸と三角形を、たくさん組み合わせたお城。結局戦争には巻き込まれることもなくて、天災で滅びてしまったお城だ。

波が、お城を直撃する。

可哀想なお城は、あっという間に溶けて、崩れてしまった。

潮は満ちると言っても、此処に座っていれば、溺れるほどはこない。溺れてもいいのだけれど。

カロンがその時は、有無を言わさず飛んでくる。

座ったまま潮に腰まで浸かりながら、胸の辺りまで来る波を、ぼんやりと見つめる。海の方へ泳いで行ったら、溺れられるだろうか。

できない事なんて、わかりきっている。

カロンが来る。

その時には、潮は引き始めていた。

お城なんて、跡形もなかった。

「ナロナ、お召し物を濡らしてしまいましたか」

「そう言う気分だったの」

「お食事を用意しています。 此方に」

嫌と言っても、連れて行かれるのだ。

今日のお仕事は、やはりもうないらしい。いや、そもそも、だ。

本当に、今後、お仕事なんてあるのだろうか。

砂浜を歩いて行って、その奥へ。

砂地がなくなって、土に変わる。辺りには、無数の木々が生えているが、あまり触らせては貰えない。手入れは全部カロンの仕事だ。それに、もう一つ理由があって、触らないようにしている。

怪我をすると、カロンに尽きっきりで手当をされて、色々と面倒なのだ。だから、素足で歩いていることも意識して、できるだけ地面からはみ出した根も踏まないようにしている。

木々の奥にある、白磁の建物が、ナロナのおうち。

どんな本にあるお城よりも大きくて、荘厳。中は歩いても歩いても、果てがどこにあるか分からない。だが、お城の中にいられるのは、朝と晩だけ。それ以外の時間は、海に出るように、カロンに言われる。嫌がっても、お城を追い出される。

ナロナの世界は、狭い。

いつも食事をするお部屋につく。テーブルには、色とりどりの魚介類で作られたごちそうが並んでいた。

壁一杯にあるプルートが、かたかたずっと音を立てている。

これも、今日と同じだ。

「プルート、明日のお仕事は?」

「七件入っている予定だ」

「どうせ、誰も来ないんでしょう」

「現在までの情報を統計するに、その可能性は極めて高い。 それでも、我々の仕事は、来るかも知れない」

そのためだけに、我々は存在している。

プルートの発言に、ナロナはげんなりした。

カロンが準備してくれた食事を口に入れる。一度暴れてごちそうを台無しにしてしまった事があったけれど。カロンは何一つ言わず、一瞬で新しいごちそうを準備した。それ以来、馬鹿馬鹿しくなって、出されたものは文句を言わずに食べるようにしていた。

実際、美味しいのだ。

残す理由は、ない。

料理を食べ終えると、カロンが黙々とお皿を片付ける。そういえば、お皿も毎日違うのだけれど。

厨房は見せてくれない。

お皿がしまってある場所も。

「料理、してみたいな」

「駄目です」

カロンが即座に言った。

プルートは黙々と、カタカタ音を立て続けている。基本、カロンとナロナの会話に、プルートは介入してこない。

喧嘩していたときだって、ずっと黙りこくっていたくらいなのだ。

「お魚を捕まえるところ、見たい」

「料理に出す魚は、この城の中で飼っています」

「そうなの?」

「繁殖も行っています。 足りなくなった場合のみ、海に取りに行きます」

そうだったのか。

一つ賢くなったと言うよりも、今までどうしてそれを知らなかったのだろうと、ナロナは思った。

カロンは基本、何も教えてくれない。

「お城の中を、歩いてみたいな」

「駄目です」

「どうして?」

「それはナロナの仕事ではないからです」

仕事のことしか考えていない奴。

唇をとがらせてそう言うが、カロンは無反応だ。どれだけ罵られても、カロンは平然としている。

以前は、憤ってものをぶつけたり、ヒステリーを起こして叩いたりした事もあった。

それでも、カロンは抵抗しなかった。

カロンが動くのは、ナロナの身に危険があるとき。それと、仕事に差し障ると考えたときだけだ。

眠れないときは、睡眠導入剤まで使ってくる。

仕事の時間帯に居眠りすると、叩き起こしに来る。

カロンが、どこでナロナを見ているのかは分からない。それでも、カロンが来なかったことは、一度もない。

テーブルの料理がすっかりなくなってしまう。

寝室に行くようにと、カロンに言われた。逆らってもどうにもならないので、そのまま寝室へ歩く。

シャワーを浴びて汚れを落とすと、もう今日はやることがなくなった。

ナロナにとって、時間はPMで22時まで。

それ以降の時間は、存在していない。もしも起きていたとしても、カロンに無理矢理に眠らされるからだ。

逆に、AMでいうと、6時以前の時間も存在していない。

どんなに寝付きがよい日でも、その時間を過ぎると、叩き起こされるからだ。それ以前に目が覚めたことはない。

多分、カロンに何か細工されているのだろう。

寝間着を着て、ベットに転がる。

このおうちの、行っていない場所にいってみたい。

でも、カロンに駄目だと言われたら、それで最後だ。前はかなりだだをこねたこともあったが、その時もカロンは最後まで駄目だと言った。

こっそりベットを抜け出そうとしたこともある。

だが、寝室の出口で、いつも捕まる。本当にカロンは、どこでナロナを見ているのか、分からない。

眠りにつく。

その日は、もう終わりだ。

 

朝食を済ませると、すぐに外に出る。

今日は日差しが強いからと言われて、カロンに麦わら帽子をかぶせられた。外に出ると、空は真紫に染まっていて、青白い太陽が浮かんでいる。

砂浜は照りつける白い光に包まれていた。砂浜そのものもぼんやりと発光しているほどだ。

あまり、砂浜を直に見ないようにと、カロンに言われた。

無視したら、多分サングラスを無理矢理に掛けられたりするだろう。カロンには、基本逆らえない。

海を見ていると、時々ちかちかと光っている。

何故光っているのかは分からない。陽光を浴びているのとは、少しタイミングが違っているからだ。

波は相変わらず、ずっと寄せては返している。

お客様は、来ない。

七件入っているという話であったのに。

一度、プルートに、それはどういうことなのかと、聞いてみたことがある。だけれど、プルートも、何故かは分からないと言うのだった。

どこから情報が入っているかも、ナロナには分からない。

ずっと先の予定について、聞いてみたこともある。プルートは、応えてくれなかった。

一体、お客様とは、何なのだろう。

鏡を見て、自分の姿を、ナロナは知っている。

自分の姿をしている存在は、此処には自分しかいない。

プルートは壁と一体化しているし、カロンは自分と随分姿が違う。お客様は、ナロナと同じ姿をしていると、カロンは言う。

それはいったい、どのような姿なのだろう。

本当に、自分と同じ存在が、たくさんいるのか。

此処にはプルートとカロンと、ナロナしかいない。みんな姿は違っている。それが自然な状態で、ナロナは生きている。

海の向こうから、お客様は来るという。

それは一体、どういう事象なのか。

いつも座る場所に腰を下ろして、膝を抱えて待つ。

どうせ今日も、誰も来ないことはわかりきっているけれど。こればかりは仕方が無い。それに、数少ない自由な時間なのだ。

よほど暴れない限り、カロンが止めに来る事だってない。

ぼんやり座っていると、いつの間にか、少し後ろにカロンが来ていた。

「どうしたの? 何もしてないよ」

「……」

カロンは何も言わない。

顔を上げて、カロンを見る。

いつも、見たことが無い状態だった。

ふつりと、何が起きたか分からなくなる。

気がつくと、砂浜に座っていた。

「あれ? カロン、何したの?」

「何でもありません。 お客様は?」

「ううん、来ていないよ」

「それならば、結構」

ふらりと、カロンはまた何処かへ行ってしまう。

どうしてだろう。

お客様のことは、どうでも良くなっていた。ナロナは小さくあくびをすると、砂浜に絵を描くことにした。

せっかくだから、大きな絵がいい。

近くで、木の枝を拾ってくる。砂浜から、少しおうちの方にはいると、手頃な木の枝があるのだ。

それでカロンと遊びがてらに、戦って見たことがある。

カロンには、一度も当てることができなかったが。だが、カロンは、筋がいいと褒めてくれた。

思い出して、しばらく気分良く、木の枝を振り回す。

気持ちよい潮風が吹いてきたので、絵を描こうとしていた事を、どうしてか思い出した。砂浜に戻ると、遠くを見つめる。

やっぱり、お客様はこない。

お客様は、どんな姿をしているのだろう。自分と同じだというのなら、麦わら帽子から描いてみよう。

砂浜に、ゆっくり半円を描いていく。

麦わら帽子を描くのならと、線を入れた。少し遠くから見ると、殆ど完璧に仕上がっていた。

どうやら自分を軸にして、半円を描いたから、らしい。線もまっすぐだが、これはどうしてだろう。

腕組みして考えて見る。

そうだ。描くとき、影の角度を利用して、それがぶれないように線を描いたのだ。という事は、お日様の光の角度のずれに従って、少し線は湾曲しているのだろうけれど、見る分には気付かない程度に、直線になっているのか。

少し、気分が良くなった。

この調子で、描いてみよう。

さらさらと、まずは顔から。頭蓋骨を描いて、その上に肉付けしていく。

波からだいぶ離れている所で描いているので、浚われて消えてしまうおそれはない。顔は、のっぺらにする。

同じ姿をしているといっても、完璧に同じではないのだろうから。

体つきは、どうしよう。

豊満にするかやせ形にするか。

自分が雌という存在である事を、ナロナは何となく知っている。成熟した雌は、胸が膨れることも。

少し悩んだが、まずは骨から描いていく。

背筋は伸ばした方が良さそう。手足も描く。右手は、麦わら帽子を押さえてみよう。ちょっと、そうするとポーズが格好いい。

いつのまにか、とても作業が楽しくなっていた。

「ナロナ、もう帰る時間ですよ」

「え……」

カロンが来ていた。

そういえば、随分影の向きが変わっている。

お空の色も。

海の位置も、かなり近くなっていた。

「そっかあ。 ねえ、カロン。 この絵、どう?」

「良く出来ています。 ただ、芸術と言うよりも、理論に基づいた図のようです」

「芸術……?」

「何でもありません」

カロンにつれられて、おうちに戻る。

全身の骨格は、もう大体かいた。

どうしてそれが分かるのかは、よく分からないけれど。ナロナにとって、難しいことではなかった。

明日は、肉付けをしてから、骨を消して。

のっぺらだった顔にも、表情を描いてみよう。そう、ナロナは思う。

プルートに、お客は来なかったこと。絵を描くことが楽しかったことを告げると、そうかとだけ応える。

カロンは、やりとりを黙って見つめることもなく。ただ、黙々と、料理を準備してくれた。

 

2、お客様

 

絵ができた。

ナロナは、枝を砂浜に突き刺して、満足した。

毎日最初にするのは、絵の線をなぞり直すこと。風が吹くと、どうしても線に風が入って、絵が消えてしまうのだ。

線を濃くして、それからが毎日の仕事。

一人分の絵が描けたから、今度は別の絵も描いてみようと思う。

次はカロンを描こう。

カロンはお客様の中に、似た姿の者はいないと言っていたけれど。それならば、案内をするカロンでいい。

まず触手を描いて、それから大きなかまを描く。

鎌を何に使うのか、ナロナはよく知らない。でも、どんなときでも、カロンは鎌を持っている。

体にたくさんついているおめめも、全部描いていこう。

それで、気付く。

カロンには、きっと骨がない。

だってそうでなければ、円筒形の体を、再現することは難しいだろう。カロンの体は、とても柔軟に動く。

「ナロナ、今日もお絵かきですか」

「うん。 カロンも描いてみた」

「私ですか」

「かっこよく描いてあげる」

ずっと見ている相手だ。隅々まで、よく知っている。

カロンは、気がつくと、もういない。でも、そういう奴なんだって知っているから、何とも思わない。

お客様が来たら、カロンを見て、どう思うのだろう。

そういえば、ナロナは。

最初、カロンを見て、どう思ったのだっけ。

触手、触手、目、目、触手。

そういえば、カロンにはお口がない。何かを食べている所も、見たことが無い。でも、きっとカロンには、お口は必要ない。そんなような気がする。

カロンが描けた。

お客様の絵にあわせた大きさにしたから、カロンは結構大きくなった。

大きくて、かっこいい。

お客様は、カロンを見て、きっと喜んでくれるだろう。夕刻までまだ少し時間があるから、いろいろ付け加える。

お客様は、どんな風にお船で来るのだろう。

そもそも、お船は。

海から来るのか。それとも、お空から来るのか。

分からない。

 

お客様が来たのは。時間ぎりぎりの、少し前。

海から、何かとても大きなものがせり上がってくるのが見えた。それは円錐形をしていて、とても長くて細く、全体的に銀色を帯びていた。

波を蹴散らすようにして、砂浜に上がってくる。

なぜだか、言われずとも分かった。

それが、お客様なのだと。

ぼんやりと見ていると、カロンが側に来る。

「お客様です」

「うん。 分かってる」

お船の上が開くと、其処からするすると階段が下りてきた。

そういえば、おうちにも階段がある。でも、上がる事を、カロンは許してくれない。

階段から下りてきたのは、ナロナよりも少し大きいお客様。

手足も長くて、肌もとても白い。髪の毛は黒くて、瞳は真っ赤。お胸がとても大きいところを見ると、ナロナと同じく、性別は雌だろう。

「お客様、お越しいただき有り難うございます」

「何よ此処……」

「ステュクスにございます」

お客様が、階段を下りて、砂浜に立つ。

お船が、かき消えるようにして、いなくなった。

「ステュクス……?」

振り返ったお客様は、既に顔色が土気色だった。

ステュクスという言葉に、聞き覚えがあるようすだ。ナロナが、お客様の手を捕まえると、裏返った声を出す。

「わ、私……」

「おうちに案内するね」

「まって、嫌……!」

嫌と言われても。

どうしてか、お客様を、おうちに連れて行かなければならないと、ナロナは知っている。そして、ナロナがそう思えば、お客様は逆らうことができない。

少しずつ、思い出す。

お客様は、ずっと来ていなかったけれど。

昔はたくさんたくさん来た。

だから、そのたびに、おうちに連れて行った。

最初、お客様は、とてもナロナを怖がった。一目で泣き出すお客様までいた。だから、ナロナは、姿を変えたのだ。

カロンに頼んで。

「ゆ、許して、いや……!」

「許すも何もありません。 これは、お客様がたどった、正しき行いの結果なのです」

「そんなの、知らない……!」

おうちにつくと、お客様は失神しそうになった。

そうだ、これも思い出した。

ナロナを見るよりも。おうちを見ることで、怖がるお客様の方が、多かったのだった。しかし、どんなにお客様が嫌がっても、ナロナが手を引けば、ついてくる。お客様を連れて行くために。

ナロナが、必要なのだ。

絶対に、お客様は一人ずつ来る。

居間につくと、もうお客様は、ずっと泣き通しだった。

「こ、殺さないで、殺さないで……!」

「その言葉は間違っています。 なぜなら」

「……!」

「プルート。 お客様です」

お客様の背中を押して、プルートの前に立たせる。ナロナが見ているだけで、もうお客様はそうするしかない。一度、触ったからだ。

プルートはじっと無言でいたけれど。

やがて、お客様に、言葉を投げかける。

「なるほど、極めて特殊な延命技術が誕生したのか。 誰もここに来ないわけだ。 この様子ではヘルやヤマも退屈しているだろう」

「わ、私を、どうするの」

「データ照合。 サロメ=アッカーソン。 生まれアメリカ、1092歳。 物理学者、宇宙空間での事故。 結婚歴五回」

「結婚歴、五回?」

何十回も結婚している人も、ナロナはみたけれど。

五回も結婚した人かと思うと、このお客様は凄いなあと、素直に思ってしまう。どうしてそんなにたくさん結婚したのだろう。

「最大の罪は特殊な方法で自己を複製し、それを1077回殺したこと」

「え、そんなに……」

「だって、死にたくない……!」

「結論。 貴殿は三階にて、奉仕活動12億単位時間」

カロンが、お客様の腕を掴む。

悲鳴を上げたお客様が、連れて行かれる。だけれど、逆らうことはできない。たまに、ナロナでも簡単には抑えられないお客様が来るときがある。

そんなときは、カロンが一緒に対処する。

お客様は、どちらにしても。たとえ神話の英雄でも。

此処では、おとなしいのだ。

ナロナが触ってさえしまえば、もう逆らうことはできない。

「プルート、お客様、もうおしまい?」

「これから、データの修正を行う。 他の冥界神にも連絡を行い、善後策の協議をする必要があるだろう」

「どういうこと?」

「しばらくは休暇だ、ということですよ」

戻ってきたカロンが、とても嬉しい事を言ってくれた。

休暇なんて、いつぶりだろう。

「海、いきたい!」

「プルート、よろしいですか」

「データの調整には、二日かかる。 その間は、休暇を取ってよい」

カロンは、基本的に、何も許してくれない。

だけれど、休暇の時は、海に連れて行ってくれる。

それが、ナロナには、とても嬉しいのだ。今、思い出した。前に連れて行ってもらったときは、とてもすてきな思い出になったのに。どうして忘れていたのだろう。

その日は、早く眠らされた。準備で忙しいから、というのが理由だった。

いつもは、早く眠らされることは、嫌で嫌で仕方が無かったのだけれど。今日に限っては、特別だ。

多分、何千日ぶりの、いやもっと何倍も何倍も経過した末でのお休みなのだから。

海に出るのは、とても楽しみで、仕方が無かった。

どんなところに行けるのだろう。

そう思うだけで、ドキドキして、なかなか寝付けなかった。

 

カロンが用意していたのは、とても小さくて可愛いお船だった。

全体的に丸みを帯びていて、生きている。触手が動いていて、それが波を掻いて進むのだ。

見ていて、思い出した。

そうだ、前もこのお船に乗って、休暇に出かけたのだった。

カロンに手を引かれて、お船に乗る。

「今日は第三層海に行きましょうか」

「それはどういうところ?」

「ヤマ様というお方が統括している場所で、かっては一番お客様が多かった地域だと聞いています。 海を通っていけば、すぐですよ」

「わあい」

青黒く染まった海に、お船が乗り出す。

たくさんある触手がぐるぐる廻って、すぐにお船は動き出した。気分が良くなってきたので、歌ってみる。

もう、言葉がどこの言葉だったのか。

それがどういう意味を持っていたのかも、覚えていない。

以前来た、一番手こずったお客様が、歌っていたので、覚えた。あの時は、ナロナも酷い目にあった。

おててを切り落とされたり、頭を千切られたりした。

カロンも、ばらばらになる寸前くらいまで、叩かれたり千切られたりした。

でも、ナロナが本気を出して、どうにか言うことを聞いてもらったのだ。

そのお客様の時以来だ。

お客様に触れるように、お客様が一番警戒しない姿になったのは。今では、この姿が、ナロナだ。

嘘ではなくて、本当の。

「ナロナ、そろそろつきますよ」

「本当?」

「これを使えば、海の下を覗くことができます」

渡されたのは、筒みたいな道具。

触ってみて、使い方を思い出した。目に当てて、海に突っ込むと、その下の様子を見ることが出来るのだ。

海の中には、お魚があまりいない。

でも、海はとても広いのだ。だから、困ることはない。

海のずっとずっと下には、お客様達の世界がある。この道具は、海の中ではなくて、お客様達の世界を見るためのものだ。

「あれ? お客様、少ないね」

「プルートと情報を共有しましたが、現在では活動するお客様の数が、非常に少なくなっているそうです。 お客様が亡くなられることもほぼなくなってきているようで、昨日のは例外的な事故だったのだとか」

「ええ? じゃあ、ずっとお仕事ないの?」

「プルートが時間間隔を調整すると言っていました。 私達の体感時間は変わりませんが、お客様が来られる頻度は上がりますよ」

それはとても嬉しい。

お客様は、遠めがねの先で、いろいろな事をしている。

人は滅多な事では死ななくなったのだと、見ていて理解できた。

以前は本当に、たくさんお客さんが来たのだ。

よく分からない理由で、来たお客様もたくさんいて、いつもプルートが困っていた。ナロナに暴力を振るおうとしたり、変な目でみるお客様も、たくさんいた。

でも、どうにかなった。

お客様自体がとても少なくなって、いつのまにか忘れていた事も、たくさんたくさんある。

だけれども。

お客様達の様子を見ていて、それも仕方が無いのかなと、思い始めていた。

「大勢生まれて大勢死ぬのと、少しだけ生まれて死なないのと、どっちが幸せなんだろう」

「私には分かりかねますが、一つだけ分かる事があります」

「なあに?」

「生き物である以上、いずれは死ぬと言うことです。 どのような事をしても」

遠めがねを、海から上げた。

お魚を今度は見たい。

お客様は、話を聞く限り、いずれは来ると言うことが分かってきた。それならば、お魚を眺めていたい。

お魚は、遠めがねでは見られない。

「カロン、お魚さん達をみたいな」

「少々お待ちを」

お船が、形態を変える。

お船の底が漏斗状になって、海底に伸びた。

其処から、海の底をのぞき見ることができる。ナロナは、思わず歓声を上げていた。

珊瑚礁はなくても、お魚は綺麗だ。

赤いの青いの黄色いの、大きいの小さいの、色々いる。群れをなしていたり、一匹で泳いでいたり。

すぐそばで見たい。

ねだってみるが、其処まではできないと、カロンに言われた。

「ええー」

「私も万能ではありませんから」

「そうなの。 ちぇー」

見ていると、思い出す事がたくさん。

少し前は、海はとても汚かった。汚れきっていた。

カロンの話によると、地上から汚染が流れ込んできている、という事だった。意味はよく分からないけれど、地上の汚れはもっと酷いとも言っていた。そんな中では、お魚はほとんど生きられないのだとも。

長い年月が過ぎて、お魚はだいぶ戻ってきたのだとか。

もともと、此処には汚れなんて関係無いお魚さんもいる。だけれど、地上の流れが一部混ざり込んでいる此処では、やはり汚れは意味がある。生きているお魚の方が、多いからだ。

「あの大きいお魚は、サメさん?」

「メガロドンです。 肉食のサメでは、最大級のものですよ」

「うわー、大きいね」

おくちに丸ごとナロナが入りそう。

お船の側にまで寄ってきた。そうすると、お船の大きさがよく分かるのだから、不思議だ。そばを泳いでいると、メガロドンさんも、小魚にしか見えない。小さくても、お船はお船なのだ。

もっと大きなお魚さんもきた。

メガロドンさんの倍は大きい。

「リードシクティスです」

「うわ、凄いね」

「おとなしい魚です。 プランクトンだけを食べます」

お船が珍しいのか、リードシクティスさんはしばらくお船の周りを回っていたけれど、やがてメガロドンさんに追い払われてしまった。

海は広いのだし、仲良くすれば良いのにと、ナロナは思った。

お船が進んでいると、海の向こうから長いお魚が来た。

お魚ではなくて、鯨の一種だと、カロンが教えてくれる。名前を聞こうと思ったのだけれど、鋭いアラーム音が鳴る。

時間切れだ。

「……」

「そんな目をしても駄目です。 帰りますよ」

「はあい」

どれだけ重要な仕事だったかは、昨日のお客さんと接して、少しずつ思い出してきている。

ナロナとカロンがいなければ、プルートはお仕事ができない。

そうなれば、循環が止まってしまうのだ。

循環が止まると、とても酷い事になる。世界の仕組みが一変するだけではすまない。

廻っている歯車を無理に止めればどうなるか。

下手をすると、世界の車軸が、折れてしまう。

「カロン、明日はお客さん、来るかな」

「さあ、どうでしょうね」

「あんなに悲願だった戦争の根絶が上手く行ったみたいなのに。 なんだか、あのお客様、幸せそうには見えなかったね」

「人間は業が深い生き物ですから」

色々と、よく分からない。

頭をぶるぶる振って、潮しぶきを落とす。

此処で海に落ちたって、死なないことは分かっているのに。

潮に濡れたって、何にもならないのに。

習慣は、不思議なものだった。

 

休暇が終わって、砂浜に戻ってくる。

メガロドンさんは海岸近くまでついてきたけれど、結局途中で諦めて、海に戻っていった。

この海は、死の海。

生きているお魚と、死んだお魚が、まざって生きている不思議な世界。

死んでいるお魚が、食べ合うことは、ない。だからメガロドンさんは、あんなに大きいのに、小魚を襲わない。

それでも、不思議と縄張りの概念はあるらしい。それが、面白くもあり、不思議でもあるのだ。

正確には、海でさえないと、カロンは言う。

城で出るお魚は、生きているお魚だ。海で闇雲にお魚を捕っても、死んでいるお魚も混じってきてしまう。

だから、カロンは、自分でお魚を捕りに行く。

今頃、見ていてそれを思い出した。

お船から、上がりながら、聞いてみる。触手を伸ばして、カロンはお船から下りる手伝いをしてくれる。

「ねえ、カロン」

「何ですか」

「どうして私、忘れちゃうのかな」

「貴方が人間をベースに、体を再構成したからですよ。 人間の記憶は、そう何百年も都合が良く保つものではありませんから」

そうか、それだけ時間がもう過ぎていたのか。

その間、プルートは色々調整してくれたのだろうけれど。

カロンは平気なのか。

平気だったとして。

どのような気持ちだったのだろう。

カロンにとっても大事な仕事上の同僚が、どんどん何もかもを忘れていく光景を、見ているのは。

ナロナだったら、どうなっていたのだろう。毎晩、泣いていただろうか。そんなに、脆弱ではないだろうか。

分からない。

砂浜を踏んでいて、気付く。

否、思い出す。

そもそも此処では、砂の色も、海の色も、何より空の色さえも。

全てが、おかしいのだと言うことに。

そう叫んで暴れるお客様がたくさんいて、その度に困ったこともあったのだった。

カロンは、ナロナとは逆だった。

お客様を警戒させないためではない。

仕事をするために。効率だけを最優先して。今の姿を選んだのだ。元の姿は、ナロナよりも、人間に近かった。

それを思い出すと、何だかとてもやるせなかった。

 

急激に思い出しはじめる。

人間に脳の構造まで似せていたから、忘れていた事は多数あった。それらも、全て。思い出していく。

そもそも、この名前。

ベッドで横になりながら、自分の小さな手を見つめる。

雌の人間の手。

この名前は、数字だ。767。相手に警戒されない姿を模索して、順番に姿を変えるごとに、名前を更新して行った。

最初の頃は、本当に上手く行かなかった。人間の顔なんて、どれもこれも同じに見えていたからだ。

人間が言う不気味の谷というやつで、中途半端に似ていると、却って気持ち悪く見えるらしい。

だから研究した。

人間の価値観をたくさん学んだ。その知識も、積極的に取り込んだ。だからこそに、色々と知るはずもない事を知っている。単語も、概念も、出来事も。みんな、試行錯誤しながら、取り込んでいった知識だった。

寝てしまうと、夢は見ない。

夢までは、再現する必要がなかったからだ。起きると、いそいそと着替える。カロンの手を、余計なところで煩わせたくなかった。

小さくあくびして、朝食の場に向かう。

そういえば、ぬいぐるみでも持っていた方が、余計警戒されないかも知れない。今度、カロンに布と針を請求しよう。わたやボタンもいる。最悪の場合、自分で全部作っても良いけれど。

カロンは、ナロナの世話を生き甲斐にしている節がある。生き甲斐を奪ってしまうのは、可哀想だ。

黙々と、朝食を口に入れる。

プルートが緻密な計算を、その時には終えていた。

「今日からは、仕事になるはずだ」

「本当ですか」

「空間接続に関するプログラムに変更を加えた。 ヘルやヤマの方では、昨日から試行を行い、成果を出している様子だ」

「それはいいけれど、地獄がパンクしない?」

「問題ない。 それについても、既に改良を終えている」

ナロナの質問に、プルートは隙がない答えを返してくる。

もう、このおうちが、地獄と呼ばれることくらい、ナロナは思い出している。どうしてこんな大事なことを、忘れていたのか。

カロンが入れてくれないのは、ナロナの精神に配慮しての事だ。

この地獄では、様々な刑罰と、それに伴う拷問が行われる。全てがフルオートで行われるから、獄卒の類はいない。

以前はいたらしいが、もう必要ない。

どこの地獄も、ゆっくり自己の進化を行っている。更に、その情報を共有し、平衡化もしている。その結果中央管制システムが進歩して、全て統合されたのだ。此処にいるプルートは、全体のごく一部。

地獄の全域で、その姿を見ることが出来る。

確かお魚の養殖も、プルートがしていたはず。メンテナンスはカロンがやっているから、気にはしなくても良いことだが。

「もう、思い出し終えたのですか」

「大体はね。 良いよ、隠したりしなくても。 何もかも忘れていくのがイヤで、刺激を与えたんでしょう? あの時」

「……」

食事を終えると、立ち上がる。

砂浜に行こう。

本当は海ではない、海のように広い地獄の河。ステュクスの果ての、砂浜へ。河と言っても、海も流れ込んでいるから、潮の香りがする。そんな、不思議な砂浜。

プルートが言っていた通り、お客様がくれば、それはそれでいい。

こなければ、その時はその時。

最悪、また何百年かそのままで忘れたとしても。その時はまた、思い出していけば良いだけだ。

砂浜に出ると、もう絵は消えていた。

よく考えてみれば、あんなに人間の骨格を詳しく知っているのは、おかしな話だったのだ。

気付かない自分の鈍さに、失笑してしまう。

膝を抱えて座ると、側にカロンが来ているのに気付いた。

どうやら、お客様らしかった。

 

3、海底からの使者

 

プルートの調整は、上手く行ったらしい。

それからは、毎日お客様が来た。暴れるお客様や、怖がるお客様も、決して少なくはなかったけれど。

みんな、ナロナが連れて行く。

カロンの手間を、少しでも減らしてあげたいと思うと、自然と仕事には熱心になるのだった。

大型の霊長類みたいに強面の毛だらけのおじさんも、ナロナに触られると、途端におとなしくなる。筋肉がムキムキであっても、関係無い。

筋肉なんて、ナロナの前では、無力だ。

こっちが先に触りさえすれば。

「畜生、巫山戯るな! どうして勝手に足が動くんだよ!」

わめき散らすおじさん。

でも、もう無力だ。ナロナが触った時点で、体のコントロールは奪っている。警戒する前に触ってしまえば、こんなものだ。

「ガキ、てめえか! やめろ! さもないと」

多分、ナロナが見かけ通りの精神年齢だったら、泣き出すようなことをおじさんはいう。別にナロナは何もしない。

しかし、カロンが、黙っていなかった。

触手が、おじさんの体に、ずぶりと音を立てて潜り込む。

白目を剥いたおじさんが、泡を吹きながら。それでも、歩く。

「いいのに」

「私が不快なのです」

「カロン……」

プルートに引き渡す。おじさんは、どうやらあの平和な世界でも珍しい、死刑囚だったらしい。

聞いたこともない単位時間の労働を、プルートが告げていた。

もう、おじさんは暴れる事もなかった。白目を剥いたまま、うわごとを呟き続けていた。

カロンは、人間の中に地獄を作り出せると聞いた。おじさんは、ずっと自分の中で恐怖と絶望と戦いながら、訳も分からない時間、強制労働をさせられるのだろう。

おじさんが実際に行った悪いことは、ナロナにもよく分からなかった。

分かったのは、おじさんがとてもたくさんの不幸を、周囲にばらまいていたという事。人も、殺したみたいだった。

だけれど、おじさんに殺された人は、ここに来たのだろうか。

よく分からない。

カロンが戻ってくる。

おじさんは、今まで聞いたこともない階に連れて行かれたようだった。

「次の仕事だ」

「今日は珍しいね。 カロン、いこう」

「分かっています」

珍しくカロンは不機嫌だ。

おうちを出ると、外が真っ暗になっていた。珍しい事もある。

ここ、ステュクスのほとりは、地上の影響を受けて空の色が変わるって聞いたことがあった。

何か、大きな事があったのかも知れない。

お空が真っ暗になるのははじめて見た。

見上げてみても、おほしさまは見えない。輝いているのは、もっとちかい位置にある、何か得体が知れないものだ。

海岸に出ると、すぐに何かが、波間を割って出てくる。

いつものお船じゃない。

でも、見て思いだした。珍しいタイプのお客様だ。ぼんやりと見上げている先で、塔のようにせり上がったお船のまんなかが左右に割れて、その人が出てくる。

姿はカロンともナロナとも違う。のっぺりとした全身だけれど、どうしてか人間のようであって、人間では無い。

「お久しぶりですね、アヌビス。 貴方が直接来るとは、どうしたのですか」

「少し大きめの案件が発生したのだ。 プルート殿の所へ案内していただきたいのだが、よろしいかな」

「ただちに」

ナロナが、手をだすと、アヌビスさんは躊躇なく取った。

これは、相手の領地に出向いたときのマナーだと、聞いている。

アヌビスさんは、プルートと同格の存在だとかで、直接来るというのは、本当に珍しい。ナロナも、滅多に見たことが無い。

本当はプルートと同じ姿をしているらしいから、こののっぺりした体は、きっとてあしの一部なのだろう。

「お土産も用意してある。 後で受け取って欲しい」

「分かりました。 ナロナ、お客様の案内をお願いします。 私は先に向かって、ごちそうの準備をしておきますので」

「うん」

砂浜に残される。

アヌビスさんは、真っ暗なお空を見上げて、呟く。

「此処も同じか……」

「アヌビスさんのところも?」

「うむ。 バーどもが大騒ぎして、けたたましくてならぬ」

しばらく、手をつないだまま、一緒に砂浜を歩く。

アヌビスさんはナロナが退屈しないように、いろいろなお話をしてくれた。必要なことしか喋らないプルートと違って、アヌビスさんはおしゃべりで、ナロナが喋るまで待ってくれる。

「様々な地獄があるが、私が一番驚いたのは、ポリネシア系の地獄でな」

殆ど出歩かないプルートと違って、アヌビスさんは自分の目で何かを見て廻るのが好きなのだとか。

ポリネシアの地獄について話してくれた後、城を見つめる。

少し、間が開いてしまった。

だから。ナロナからも、話を振る。

「アヌビスさんのところも、すごいね」

「そうさな。 アメミットの腹の中が地獄だからな」

アヌビスさんのところでは、アメミットという恐ろしい鰐のような人がいて、そのおなかの中が地獄なのだ。

とても悪いことをした人達は、アメミットの中で、ずっと苦しむことになる。

前に、カロンが話してくれた。アヌビスさんを見るまで、ずっと忘れていた事だった。だけれども、今は思い出した。

カロンが戻ってくる。

ごちそうの準備ができたのだ。

お城に、並んで歩く。

カロンが、丁寧にアヌビスさんに応じていた。急な来客ですまないなと、アヌビスさんは言うけれど。

カロンは、お客様のお世話が嫌いではないのだ。

ましてや、普段のお客様とは違うタイプの相手だ。きっとはりきっているのだろう。喜んでいるのだから、あまり水を差すのも可哀想。

プルートの所に出ると、長い机の上に、いつも以上に色とりどりなごちそうが並んでいた。

アヌビスさんの分だけだ。

さっき、ナロナは食べた。だから、ナロナの分はない。

「おう、これは贅沢な」

「食事をしながら、お話しをしてください」

「うむ、すまぬ。 では、早速だが、プルート殿」

腰を下ろしたアヌビスさんの、隣に座る。

こんなにごちそうが出ると、多分あまる。晩ご飯の時に、残り物から作ったお料理が、期待出来る。

もしもアヌビスさんが全部食べたとしても、下ごしらえした分はあるはずで、きっと晩ご飯はいつもより多いだろう。

「なるほど、これは新しい地獄が編制されている事によるものか」

「うむ。 どちらかというと、唯一神教系のものであるらしくてな。 交流が持たれるかどうかは、分からぬ」

「しかしまた、どうして新しい地獄が」

「神々の偵察によると、どうも人類が新しい星に進出した後、交流が途絶えた地域があったようでな。 文明が後退して技術も失われ、新しい宗教が誕生した、というのが真相のようだ」

プルートが難しい話をしている。

アヌビスさんは、ものすごい速度で手を動かして、ごちそうを処理している。

みるとのっぺりした頭の上が開いて、其処に丸い棘だらけの口がある。其処へ、料理を運んでいるようだ。

手足がとても長いので、頭の上にお料理を運ぶことは、苦でもないらしい。

フォークとナイフも、まるで稲妻のような速さで動き続けている。場所によっては、お料理は残すのがマナーというのもあるらしいのだけれど。

ここは違う。

アヌビスさんはそれを理解していて、とても綺麗にごちそうを平らげていった。

「うむ、美味。 プルート殿は、良い食事をしているな」

「私は長い事、食事はしていない」

「それはもったいない。 食べる事をお勧めするぞ。 食事は、様々に良い影響をもたらす。 方法はいくらでもあろう」

「そうさな。 気が向いたら」

アヌビスさんが立ち上がる。帰るという合図だ。

テーブルの上は、綺麗に片付いていた。どのお皿も、まるで舐めたかのようにぴかぴかだ。すごく高い技術で、全部丁寧に平らげたのだ。

すごいなあと、ナロナは素直に感心した。

こんなに綺麗に食べる事ができるなんて。

さっきも、プルートに食事を勧めていたけれど。アヌビスさんは、きっと食べる事が大好きで、それを極めているのだろう。

食道楽、というやつだ。

海まで、アヌビスさんを送る。

お船は、既に出発する準備を整えていた。

「たまには、此方にも遊びに来ると良い」

「はい、いずれは」

「また来てね」

手を振って、アヌビスさんを送る。

手を離してしまうと、もうアヌビスさんの制御はしなくて良いから、ナロナも楽だ。

お船が、海の底に沈んでいく。

しばらく、アヌビスさんと出会うことはないだろう。

ぼんやりと、静かになった海を見つめる。カロンは、しばらくいそいそと動き回っていた。アヌビスさんの足跡を消しているらしい。

よく見ると、人間のものとは、全く違う足跡だ。

お客様を怖がらせないように、という配慮なのだろう。地獄に連れて行くまでは、大事なお客様なのだから。

「あと、お客様は?」

「予定では、後二組」

「分かった。 頑張ろうね」

やはり、プルートの調整は上手く行ったようで、ここしばらくは毎日お客様がやってくる。

退屈はしないし、お仕事もある。

お空は、まだ暗いままだ。

不安は無い。

きっと、プルートとカロンが、どうにかしてくれると、信じているから。

だけれども。

その期待は、実らなかった。

 

慌てて砂浜にカロンが来る。

ぼんやり海を見ていたナロナも、異変に気付いた。

空が真っ暗から、真っ白に変わりつつある。もうそろそろ、夜になるはずなのに。ずっと夜だったからといって、違和感はやはり消えない。

虹だろうか。

遠くに、七色の光が見えた。

カロンが触手を伸ばして、砂浜に突き刺している。何をしているのだろうと思ったら、手を引かれた。

「此方へ」

「どうしたの」

「急いで」

有無を言わさず、連れて行かれる。

おうちの中にでは無い。

という事は、危険度が未知数、ということだ。ナロナには、支配権はあっても戦闘力はない。

何か来るのだろうかと思ったけれど、今日はお客さんがもう来ないはずだ。

物陰に隠れる。カロンは触手をせわしなく動かして、地面に突き刺したり、木に触ったりしていた。

「何が起きたの?」

「とんでもない数の人間が死んだようです。 一辺に」

「え……」

「今、過負荷が掛かったので、地上との接続を一度遮断しました」

それは、一体どうして。

人が全く死なない時代が来ていたはずなのに。しかも、カロンがそんな風に言うのを、ナロナは聞いたことがない。

たしか世界大戦だとかでたくさん人が死んだときでさえ、カロンはそんなことをいわなかったのだ。

「推定死者数、六十七億……これは惑星ごと消し飛んだな」

「ええっ……」

「これから、地獄の者達を集めて協議を行う必要があるでしょう」

接続を切ったという事は、今日はもうお客様は来ないという事だ。

しかし、明日からどうなるのか。

六十七億。砂浜にある砂の数は流石にもっと多いだろうけれど。今まで、ずっとナロナが相手をして来たお客様の数よりも、多いのではないのか。

いや、今まで相手をしたお客様と、ほとんど同数に匹敵するのではないのだろうか。もしそうだとすれば、とても悲しい事だ。

カロンと一緒に、おうちに戻る。

プルートが、オーバーヒートしそうな勢いで、お仕事をしていた。

どうやら、他の偉い人達と、お話をしているらしい。

立体映像というのか、いろいろな姿が、プルートの周囲に浮かんでいた。それが、代わる代わるに話している。

「なるほど、やはりそうか」

「人間の世界で、再び戦争が起きたな。 それも、居住惑星を丸ごと吹き飛ばすような兵器が、有無を言わさず使われたと見て良いだろう」

「何という暴挙だ」

「とにかく、情報がいる。 それまでは、地上との連絡は切断するしかない。 下手につなぐと、パンクするぞ」

難しい言葉が飛び交っている。

どの支配者も、みな怒っているようだ。プルートも珍しく、感情を乱しているのが、見て取れる。

「一体何故、こんな事になった!」

「実行犯は無期限地獄だな。 歴史上殆ど例がないが、仕方が無い」

「引き受けるのはどこでするか、だが」

「こうなっては、思想信条もなにもあるまい。 分担は均等で分けるほかないだろう」

まだ話が続いている。

あくびをしたくなったが、そんなことができる雰囲気では無い。

しばらくして、やっと立体映像が消えたとき。ほっとした。

きづいたら、夜中の23時を廻っていた。こんな時間まで起きていたのは、前代未聞だ。だけれど、それだけの非常事態が起きたのだ。

「調整を行うので、明日からは休日とする。 無期限で」

「無期限……!?」

「最低でも三日はかかる。 しばらくは、船で海にでもいくといい」

プルートの声は非常に投げやりで、怖いとナロナは思った。

それだけプルートが怒っているという事だ。

「とにかく、今日は眠ってください」

「カロン、ナロナに出来る事はないの?」

「今は何も」

「……分かった」

冷たい言葉だが、それが事実なのだろう。

ナロナにできるのは、お客様を。ここに来る死者を制御することだけ。

死者があまりにも大勢来る状況を考えてしまうと、厳しい。

ベッドに入ると、途端に眠くなってきた。

何だか、悲しくて仕方が無い。

 

その日、夢を見た。

いつもは絶対に見ないのに。そもそも、夢を見る機能は、作らなかったのに。

この体は、767回の試行錯誤でできた。

それなら、もっとたくさんの試行錯誤を繰り返せば、もっと良いからだができるのだろうか。

そもそも、私は何だろう。

つぶやきに、答えは返ってこない。

此処は、死者の国。

私は、死者を抑えるもの。

死者を裁く存在に仕え、その仕事を円滑にする者。かっては犬だった。神話の英雄と戦ったこともあった。

今は、非力な人間の子供。

平和が一番だと、私は知っている。戦いは、悲しみしか生まない。憎しみは、果てしなく連鎖する。

ああ、私は、どうすれば良いのだろう。

 

目を覚ます。

いつもより、ずっと早い。

普段はカロンが起こしに来るのだけれど。今日は、カロンよりも早く、起きてしまった。目をこすりながら、プルートの所に行く。

「おはよう。 まだAM4:30だが」

「ねえ、プルート。 ナロナが増えたら、少しははかどる?」

「……それは、どういう意味か」

「私はもともと、三つの頭を持った犬だったんだよ。 他の二つの魂は、今眠っているの」

これも、どうして忘れていたのだろう。

一番おとなしい私が、ずっと平和のために、動き続けてきた。

だけれども。これからは、一人では効率が悪いだろう。

他の二つだって、動くべき時は、あるのではないか。

「体は簡単に作れるよ」

「検討する」

「検討している時間は、あるの? 今も、お空がおかしいままじゃないの?」

「……」

プルートは、応えてくれない。

昨日、67億が瞬時に死んだと聞いたけれど。もしも戦争になったら、それだけで終わる筈がない。

人類はいろいろな星で繁殖しているはずで、その総数は何十億程度ではなかったはず。

今までは、一度に活動する人数も少なかった。

事故で死ぬ人も、殆どいなかった。

だが、これからは違う。

テーブルで足をぶらぶらさせていると、カロンが来た。カロンより先に、この部屋に来るのは、はじめてかも知れない。

「おはようございます。 すぐに朝食を準備します」

「カロン、どう思う?」

「何がですか」

「ナロナが増えたら、少しは仕事の忙しさも、緩和できるかな」

滅多な事を言わないようにと、カロンが言う。

どうやらカロンは、ナロナが増えることに反対らしい。理由は分からない。世話をする手間暇が三倍になるからだろうか。

少なくとも三日は休みだとプルートは言っていたが、いざ仕事が始まったら、今までに無いほど忙しくなるのは目に見えている。それに、遠くに遊びに行くことも、今は止めた方が良いだろう。

お船で海へは、行けない。

ご飯を食べ終えると、外に。

お空はずっと真っ白で、星も太陽も見えない。

カロンはついてこない。今日は協議することがあるとかで、プルートとずっと話をしていた。

お空がきらきらしていて、まぶしい。

砂浜に出ると、照り返しが酷くて、真っ黒に日焼けしそうだった。多分、日焼けすることは、実際にはないだろうけれど。今までは、ただ無意識に、体を焦がしていただけだった。生物的な反応として、日焼けしていたわけではない。

こんな日でも、波はずっと寄せては帰している。

今頃、アヌビスさんも大忙しなんだろうなあと思うと、同情してしまう。陽気なアヌビスさんが、てんてこ舞いで仕事をしていると思うと、気の毒だ。

絵を描こうかと思ったけれど、やめる。

お城を作ろうかとも思ったけれど、どうも気が進まない。

横になって砂浜を転がってみたけれど。砂は妙に冷たくて、体に良くないのが、すぐに分かった。

普段はもっと砂が熱い。

砂を払い落とすと、おうちに戻る。まだ、カロンとプルートは話し合っていた。かなり論調が熱くなってきている。

「刑罰を軽くするのでは、本末転倒でしょう」

「しかしこのままでは、循環に支障が出る。 実際、凄まじいボトルネックで、空間の異常も発生しているのだ。 下手をすると人類はこのまま滅亡するぞ」

「以前のように、一度滅亡させてしまえば良いのでは」

「そうも行くまい。 此処まで繁栄できた知的生命体も、宇宙の歴史で希なのだ。 天の川銀河系の二割にまで支配権を拡大した生命が、こうも簡単に滅んでしまっては、宇宙の歴史の汚点となろう」

ぎゃいぎゃいと話が続いている。

カロンは相当苛立っている様子で、人間に対する憎悪を、時々ぶつけていた。

「ならば、地獄の時間を加速すると同時に、地上の時間を停止するしかありませんな」

「幾つもある地獄で、全て同時にタイミングを合わせないと、空間の捻転が発生して、地獄が全て吹き飛びかねない」

「やるしかありますまい」

「……」

プルートが黙り込み、計算をはじめた。

きっとここからが長い。

カロンは掃除をはじめた。ナロナがいる事には、ずっと前から気付いていたようで、触手を動かしながら言う。

「見苦しいところをお目に掛けました」

「やっぱり、良い案が出ないの?」

「どうもこればかりは。 魂の循環が、このままだと上手く行かなくなります。 それは地上においても悪影響を出します」

ただでさえ、文明が崩壊するレベルの死者が、一瞬にして出たのである。それも、これから始まる大戦争の、序章に過ぎない。

一体最終的にどれだけの死者が出るのか。

最悪、三百億を越えるかも知れないと、カロンは呟く。

「今、地獄って、どれくらい存在するの?」

「ざっと三百」

「そうなると、一つの地獄で、一億以上は引き受けなければならないんだね」

「単純計算ではそうなりますが、此処よりずっと規模が小さい地獄も少なくありませんから。 それを考えると、この地獄だけで、引き受けるノルマは四億程度になるでしょうね」

四億。

毎日何人という単位で引き受けていたお客様を、一気にそんなに。目が回りそうだ。でも、やるしかない。

「やっぱり、ナロナが増えるしかないんじゃないの」

「何故貴方が犠牲にならなければならない」

「犠牲?」

「肝心なところを忘れているようですね。 どうして貴方が此処で働くようになったのか」

忘れているのなら、結構ですと吐き捨てて。カロンは、部屋を後にした。

気がつくと、PM8:00を廻っている。

もうすぐ、晩ご飯の時間だ。

このままだと、きっと何もかもが上手く行かなくなる。

 

4、静かな海の口

 

夕ご飯を食べ終えて、ベッドに入ろうとしたとき。

ついに、異変が始まった。

けたたましいアラームが鳴り響く。居間に出ると、プルートが煙を上げているのが見えた。

カロンが消火剤を浴びせている。

ナロナは走り寄ると、手をかざして、熱量を吸収する。そういえば、こんな技も、持っていた。

かっては、魔術やら魔法やらと呼ばれた技術だ。

「すぐに部品交換をします。 手伝ってください」

「うん、分かったよ」

プルートの前面カバーを、まずは外す。

計算のしすぎで、オーバーヒートを起こしたのだ。有機的な部品の幾つかが焼けてしまっている。無機物の部品は、焦げていた。

バルブを止めたり閉じたりして、まずは交換できる態勢を整える。

カロンが、部品を持ってきた。

生きている部品だ。血管を外すと、大量の人工血液がばらまかれた。生臭い。後の掃除が、大変そうだ。

カロンが手慣れた様子で、血管を付ける。

「他の地獄も、今頃同じような状況でしょうね」

「何か解決案は?」

「地獄を幾つか新たに創設することが決まりました。 いずれの地獄も、大型の地獄を丸ごとコピーする事になりそうです」

誰が動かすのと聞くと、案の定カロンは難しい顔をした。

造形が違っていても、何となく、表情は読めるのだ。それだけ、長い時間を一緒に過ごしている。

「ヤマ殿の地獄など、手が余っている場所から、人員を派遣してもらいます。 多めの人員を使っている地獄では、中枢システムになり得る存在もいます」

「それでも、足りないでしょう?」

「……」

手は、思いつく。

ただし、とても乱暴な手だ。

無邪気な子供では急激になくなってきている。カロンも、此処まで記憶の回復がもとの人格の復活に結びつくとは、思っていなかっただろう。

眠っていた心が、目覚めようとしている。

「手はあるよ」

「どのようなものです」

「喰型」

言い切ると、カロンはプルートを整備している触手を止めた。

悪いけれど。本気だ。

「何を……」

「要するに、地獄って何だろうと思ったら、魂の浄化システムなんだよね。 生きることによって、膨大に蓄えた業を、地獄と呼ばれる苦しみと労働の中で浄化して、まっさらになって帰って行く」

最近の人間は、滅多な事では死ななくなった。

その分、ここに来るときには、とんでも無い膨大な業を蓄えて来るようになった。

だから、結局、浄化には時間が掛かる。

此処にたくさんお客様が来ていた頃は、一人一人が蓄えている業は、さほど多くはなかったけれど。

結局、地獄はいつも、多くの魂を抱えたままだった。

それらの魂を、一辺に浄化するには、一つしか無い。

「アヌビスさんのところのアメミットさんや、一神教のところのアバドンちゃん見たいに、おなかの中を、地獄にして。 まとめて消化して、浄化していくしかないよ。 一つずつ丁寧に見ていたら、きりが無い」

「しかし、それは……」

「人にとっては不幸かも知れないね」

まとめて一緒くたに消化されて、十把一絡げに浄化されてしまうのだ。

それは、生物としての尊厳を無視した行為。

だけれども。

「人は、それだけの事を、今回したんだよ」

これだけ膨大な知的生命体の一瞬での死は、宇宙の歴史上でも例が無い。

その業の循環システムの破綻にもつながる結果は、宇宙そのものを破滅させかねないほどに、危険なことだ。

「此処には、寝ている私の別の心を残していくよ。 私がナロナだから、ナロヤとでも名付けて、かわいがってあげて」

「まって、待ってください!」

カロンが、作業を止めようとしたので、手のひらを向ける。そして、音もなく、カロンの背中に触れた。

強制の魔法。

カロンにも、これは使える。

瞬く間に、自分の一番大事な友人は。プルートを修復する作業に戻った。

「ナロナ! いや、ケルベロス! 馬鹿なことはやめなさい! そんなことをすれば、あなたは!」

歩き出す。

そして、おうちの地下に。

階段を下りていくと、とてつもなく広い空間に出た。辺りには、膨大な記憶をため込むことができる、筒状の記憶チップが並んでいる。銀色の、ナロナの小指ほどの筒で、人間の一生分の記憶を蓄えることができる。

それが、前後左右、どこまでもどこまでも連なって広がっている。

此処こそが、プルートの本体。

この地獄の、中核を為す仕組みだ。

其処には、人類だけではなく、宇宙中の文明が蓄えた知恵と知識が眠っている。それを使って、以前もやったように、自分の分身を造り出す。

巨大な地下空間の一角に、光が集まっていく。

裸の子供が、膝を抱えて浮かんでいた。自分と全く同じ姿。試行錯誤を繰り返したから、もうこれ以上の改善は必要ない。

子供が、目を開く。

手を伸ばしてきたので、掴む。

そして、心の三分の一を、譲渡した。

「貴方は、これからナロヤよ」

「貴方は?」

「私はナロナ。 でも、すぐに忘れるよ」

糸が切れたように、ナロヤが目を閉じる。意識を失ったのだ。

空中から下りてきたナロヤを抱き留めると、指を鳴らす。

ナロヤに、魔法を使って、白いワンピースを纏わせる。そして、床にゆっくり横たえた。

かって、三つの頭を持っていた私は。魂も三つ持っていた。

一つ一つに独立した意思があったけれど。いつしか二つは眠りについて、私だけが起き続けることになった。

プルートの声が、聞こえる。

「君は喰型の地獄になるつもりか」

「うん。 五十億ほど、まとめて引き受けるよ。 それで、どうにかできるでしょう?」

「理論上はどうにかなる。 その後に戦争で引き起こされるだろう大量の死も受け止めるだけの時間が出来る」

「そう、それならば充分だね。 カロンが寂しがると思うから、ナロヤと仲良くしてあげてね」

会話は、これで終わりだ。

これ以上話していると、きっと心細くなったり、悲しくなったりする。だから、最後に一言だけ、告げた。

「さようなら、冥王」

後はもう、振り返らずに。おうちを、歩きながら出た。

海につく。正確には、死の大河ステュクスのほとり。

そういえば、かってプルートに条件付きで、復活を許された魂がいた。そのもの、オルフェウスの悲しい歌を聴いて、ナロナも涙した。

あの時だったかも知れない。

ただ囚人を打ち据えるだけだったナロナには、心のようなものが生じた。きっとカロンも、それは同じだろう。

海に歩いて、入っていく。

だんだん、体が冷えてきた。

既に、体が保てなくなってきている。

まもなくだ。

まもなく、ナロナの体は分解する。そして。世界そのものを、新に構築する。

 

気がつくと、ナロナはテーブルに着いていた。

姿はもとのままだけれど。此処が地獄。いや、自分が地獄そのものだと言うことを、ナロナは理解していた。

辺りには、何も無い。

指を鳴らして、世界を作る。

それだけの力は、ある。考えられないくらいの時間、力を蓄えてきたのだから。人間はナロナが生きている間に、四回文明を滅ぼし、その度に立ち上がってきた。今度こそ、人間は宇宙の覇者に相応しい存在になれると思ったのに。

テーブルは白くて上品な丸テーブルに。

椅子は飾りがとても可愛い、四つ足のテーブルに。

机の上には、ティーポット。薫り高いジャムが、そばに置かれていた。香りからいって、アッサムか。

身に纏っているお服も、フリルがたくさんついている、可愛いものだ。

食べ物を持ってくる前に、従者を作らないと行けない。

自分で完結している世界なのに。色々と、難儀なことだった。照明の明るさを調整する。辺りは最初虚無だったけれど、翠の床を敷いて、円形の離宮にする。その周囲には、美しい庭園を作り上げた。

指を鳴らして、切り替える。

庭園はやめよう。

海がいい。

辺りは、どこまでも広がる海になった。離宮は、そう。あの巨大なサメさん。メガロドンさんの背中に据え付けた。

メガロドンさんは、海の中を泳いでいる。

かって、メガロドンさんが王者として君臨した、美しい海。温度が変わって、メガロドンさんはどんどん数を減らしていった。赤ちゃんが育たなくなったのだ。だから、弱くて絶滅したのではなかった。

背中の泡の中に、離宮がある。

従者は、このメガロドンさんでいい。

「さあ、食事をはじめましょう」

膨大な魂が、流れ込んでくるのが分かる。それが、順番に、甘いお菓子の形を取っていった。

食べても食べても太らないお菓子。

ナロナが、ケーキを手にして、口に入れた。

クッキーを割って、口に。

スコーンを口に入れてから、紅茶で流し込んだ。従者は、喋らない方が良い。静かな方が、何も思い出さないまま、静かに過ごすことができる。

このお菓子は、全てがヒト。

膨大な数のヒトの業を凝縮した、魂の塊だ。

体をうねらせて泳ぐメガロドンさんが、海面近くまで出た。海面を通して差し込んでくる光が美しい。

ただ、ナロナは無言のまま、お菓子を食べ続ける。

時間の流れは調整してある。食べたお菓子は、即座に消化する。そして浄化する。

充分に浄化した所で、ナロナは手をテーブルにかざした。

花が咲く。

そして、離宮の天井近くまで、一気に伸びた。

少し考えてから、テーブルの形を、少し変える。

そして、またお菓子を、食べ始めた。

お菓子は、まだまだいくらでもある。どれだけでも、食べなければならない。

そして、この木を育てるのだ。

この木はメガロドンさんの背中に根を下ろしているのではない。空間を越えて、様々な星に根を張っている。

浄化した魂を木に注げば、それだけ新しい星に、命を与えるのだ。

メガロドンさんは、喋らない。敢えて、喋らない従者を選んだのだから、当然だ。ただ黙々と、海の中を泳ぐ。

その気になれば、宇宙でも、草原でも泳いでくれる。

でも、これでいい。

海のようなステュクスのほとりが、好きだったから。

五十億を片付けるには、どれだけのお菓子を食べれば良いのだろう。時間は極限まで圧縮しているとは言え、好きなお菓子とは言え。自分ながら、損な役回りを選んでしまったものだ。

それでも、後悔はしていない。

自分が地獄となる。

そう、自分で決めたのだから。

カロンが、どれだけ自分の事を思って行動していたか、ナロナは知っていた。

記憶がなくなるように仕向けたのは、長い事苦しみ続けたから。

記憶を戻したのは、ナロナが変わっていくことに、耐えられなかったから。

どちらも、自分のためではあっても。それは、ナロナにとって、不快なことではなかった。

人間が言う好きとは、少し違うだろう。生殖相手として、カロンはナロナを見なしていなかった。友情や愛情というのとも、違ったかも知れない。いずれにしても、近しい存在として、カロンはナロナを大事に思ってくれていた。

忘れていたが、ナロナも、それを嬉しく感じていたのだ。

どっさりと、山盛りのお菓子が来た。

お皿には大きなケーキものっている。このクリームにも、膨大な魂が練り込まれていて、少し食べるだけで、他の地獄の負担が、とても減る。

今、他の地獄も、急ピッチで仕事をしているはずだ。

さあ、食べよう。

ずっとずっと仕事をしていたのは、この世界を守るため。

さあ、片付けよう。

この世界を、パンクさせないために。

ケーキを食べ終えてしまうと、木にまた力を注ぐ。

最初に比べると、ぐっと木が育つ速度が遅くなった。エネルギーが同じでも、大きく育った木は、それだけ消費する力が大きいという事だ。

ただし、力強くたくましく、新しい魂を新しい世界に送り込んでくれる。

情報が、頭の中に入り込んでくる。

引き受けた五十億の魂のおかげで、他の地獄がどうにかボトルネック状態から解放された。

これからくる二百億以上と推察される魂を処理する目処はまだ立っていないが、対策は錬る時間が得られたという事だ。

次に来る魂を少しでも処理するためにも。

ナロナは、食べる。

此処は、平和な海だ。

 

5、平和な海の片隅で

 

その星は、赤く染まっていた。

降り注いだ隕石で、全てが溶解するほどの熱を帯びていたからだ。当然、生き物など、存在するはずがない。

まだ若い恒星と、安定しない重力。ようやく形をなしはじめたガス雲。今、誕生しつつある星系だ。

大型のガス惑星が最初にでき、それから形のある岩石惑星が、幾つか順番にできていった。

その一つ。

恒星からの距離が申し分なく、受ける放射線の量も熱の量も理想的な岩石惑星が、丁度良いと判断された。

数億回星が公転する間に、少しずつ環境が整えられていく。

理想的な場所にあるから、放って置いても、やがてはお膳立てが整えられていった。

この星には、命が誕生する。

ここから先の干渉は、必要ない。

ある一つを除いて。

 

命の木の根が、星に下りる。

ナロナは、片付けるべき最後のクッキーを、口に入れた。

結局あれから、ナロナは合計百三十億を越える魂を処理した。地球人類は銀河系の二割に達する版図の殆どで殺し合いを行い、最初に想定された三百億を遙かに超えた数の死者を出したからである。

それでも、宇宙の危機は乗り切った。

命の木は、これ以上も無いほどたくましく成長している。人類は著しく数を減らしたが、安定期をどうにか迎えた。銀河系における神々に等しい存在になりつつあり、もう無自覚のまま宇宙を滅ぼそうとする事もないだろう。ただし、これ以上は進歩することも無さそうだ。

何とも皮肉な話だが。

星は順調に育っている。ほどなく、生命の原型となるようなものが誕生するだろう。それが単細胞生物になるまで、数億年は掛かるだろうが。それを越えれば、後は爆発的に命が増えていくことになる。

行き場のない魂が、この星の繁栄の、礎となる。

ナロナは、クッキーを食べ終えると、紅茶をポットに注いだ。その気になれば、手を使わずとも魔法でできるのだが。何となく、手を使って行いたかった。

終わったのだ。何もかも。

自身が地獄になった以上、行動に様々な制限が加わる。もう他の地獄を訪れることもできない。他の地獄の関係者を迎え入れることもできない。

つまり、カロンや、別れた魂の片割れであるナロヤにはもう会うことはできない。

全てを成し遂げた後は、完全な孤独だけが待っている。

それは承知の上だった。

後の楽しみは、この星の成長を眺めることくらい。

地球人類よりもましな種族が生まれれば良いのだけれど。

紅茶を飲み干す内に、原始惑星が安定期に入り、熱の塊から、活発な活動期に入った。膨大な栄養を含んだプールが星の多くを覆い、その中で新しい生命体が誕生しつつある。最初はウィルスのようなものから。

やがて、それが。ケイ素を媒介として生きる生物となっていく。

この星で生まれたのは、ケイ素生命体か。

どんな形の生命体になるのだろう。

知的生物は誕生するだろうか。

誕生した場合、収斂進化で、やはり地球人類に似るのだろうか。この姿は、結局地球人類のものに酷似したまま。

地球人類の姿をした地獄から注がれた生命の力で、誕生した命が。また地球人類に似たとしたら。

それは、ある種の輪廻転生かも知れないと、ナロナは苦笑した。

星は、順調に育っていく。

下手に干渉する必要はない。

やがて、その星には。

知的生命体が生まれた。

平和な海は平和ではなくなる。

また来たお菓子を見て、ナロナは無言で口に入れていた。

 

(終)