ヒトノシハイシャ

 

序、歴史が動く時

 

クラナがバストストア王国の実権を完全に握ってから二ヶ月が経過した。多少の反発こそあれど、クラナは時に強引に、時には柔軟に、有力者を膝下に組み伏せ、完全な独裁体制を確立した。それに続けて強力な改革を矢継ぎ早に行い、今まで旧態依然だった制度を高速で歴史の遺産へと変えていった。

兎に角こういった改革には金がかかる。また、軍の整備も同様である。資金源にクラナが選んだのは、南部の小国家群であった。此処にクラナはある程度の担保を元に、金を借りたのである。担保とは、即ち政治的な約束であった。

南部の小国家群は、資金こそ豊かであったが、軍事力は無きに等しい。彼らの資金源は貿易と商売であり、帝国と王国の間を行き来する際に払わねばならない関税は悩みの種であったのだ。特に帝国は最近法外な関税をかけ、彼らの恨みを買っていた。其処につけ込み、十年以内に、クラナは帝国を屠り去る事と、新政権でも彼らの権利を不当に奪わない事を約束した。こうして借りた金を元にクラナは改革を進め、同時に帝国内部に多数の間者を派遣し、謀略と工作、更には監視も行っていた。

既に国境には、二十五万の兵をすぐに派遣出来る体制が整っていた。また、三十万の兵の訓練が既に終了し、いつでも出動出来る体制が整っていた。帝国との小競り合いも最近はすっかり減ったが、これは帝国が決戦に備えて準備をしている事は明白であった。事実帝国は突貫工事で国境に幾つも要塞を築き、その堅固さたるや、クラナが総力を挙げても攻略には相当な時間がかかるかと誰もが思うほどのものであった。

だが、その努力は無駄であった。そもそもクラナは、帝国を力尽くで屈服させる事など考えてはいなかったからである。

 

クラナは様々な意味で、故人となったイツァムに感謝していた。彼の〈遺言〉のお陰で、彼女は急な行動を起こす事を考えずに、むしろ余裕を持って行動出来た。また、これほど素早く出世出来たのも、実力を評価してくれた上に後ろ盾になってくれたイツァムがいてくれたからこそである。

兄弟姉妹、それに親族を自称する別人共の他に、イツァムにはカナという孫娘が一人だけいたが、彼女の世話をきちんとすることをクラナは決めていた。カナは妾腹の子で、既に母はおらず、しかも父には完全に無視されていた。彼女がイツァムの世話を受けるようになったのはここ一年ほどの事だが、いつもイツァムはその身を案じていた。その世話をするのは、とても役に立った道具に対する敬意だと、クラナは考えてはいた。だがその思考の奥には、やはり恩のある存在に対しての、感謝があったのである。

クラナは人間の外に住む存在であったが、その心には、こうした人間くさい部分が確かに存在していた。逆に、彼女よりも遙かに卑劣で下劣な人間など掃いて捨てるほどにいる。まったくもって、世の中とは公平に出来ていないし、わかりやすくもない。事実は神話よりも奇に満ちているのである。

近頃は、若い娘の間で、クラナのトレードマークであるツインテールが流行になりつつある。圧倒的な強さを持ち、それを的確に用いて世を動かす。それが故に老若男女関係なく絶大な人気を誇る独裁者は、民衆の敬愛の視線には表向きは笑顔で応えつつ、心の裏では冷笑していた。自分の計算通りに動いている人間達の挙動に。もうすぐ、計算通りに収まろうとしている、この土地の歴史に。彼女のためだけの安全な世界は、いよいよ実現しようとしていた。

結果的にそれは、後の時代、多くの民衆に安寧と平和を、国家に長年の栄光と発展をもたらしもした。しかしあくまでそれらは副産物に過ぎない。クラナという存在が、全てを掴み、自身の為に作り上げた、最高傑作。道具としての完成度が産み出した、もう一つの結果に過ぎなかった。

事実上、クランツ大陸で最強の実力を得たクラナは、だが自分の力を正確に把握していた。現在の帝国を力で屈服させようとしても、簡単に行かない事も知っていた。それが故に、彼女はショパンとルルシャを国境付近に派遣し、様々な工作を行わせていた。クラナが国境のパイナードに親衛隊を率いて赴いたのは、当然の事ではあるが、その工作がついに完成したからであった。

パイナードは此処二月ほどで大幅に規模が拡張され、要塞周辺に十三の砦、後方には七つの補給基地が増設されている。要塞を中心に、地区自体を要害へと再構築した感触である。それを成功させたルツラトの功をねぎらうと、まだ工事途中の指揮室へ向かい、クラナは緊張した面もちの部下達を見回した。この春双子の母になった親衛魔術士隊長イオンを始め、武官としてはルツラト、クインサー、リリセー、パーシィ、最近頭角を現してきたフオメテル。武人としてはインタール、コルトス。特殊任務官として、ルルシャにショパン。経済官僚のルング=アンスポール。最近は王国の政治状態を監視し、非常に忙しい政治次官のシウクト。他にも、此処にはいない人物へも、既に書状は送られている。南部戦線で帝国軍を振り回しているルラーテや、首都で新人の教育と周囲の監視に当たっているライレン等も、間接的にはこの会議に参加していた。

工事が途中なだけあり、まだまだ部屋の内装は完全ではない。取り合えず当初の人数が揃った事を確認すると、クラナは言う。

「では、ルルシャ、ショパン、報告せよ」

「はい。 私の方では、七人の軍人を抱きこむことに成功しました。 彼らは近く、帝国に対して反乱を起こします」

そういってルルシャが名前を挙げた軍人達は、いずれも辺境に派遣されている者達だった。中には、国境の新造された要塞の守備司令官さえいた。そして、ショパンは、誰もが思わない大物の名を上げた。

「私は……ルカルーカ元帥の調略に成功しました。 彼は近く、反乱に呼応して動きます」

「上々だ。 準備は全て整ったな」

驚愕の顔を見合わせる部下達の顔を見回すと、クラナは立ち上がり、まずはクインサーの顔を見ながら言った。

「クインサー大将!」

「はっ!」

「貴官はフオメテルを副将に、先鋒を務めよ。 兵力は十五万。 ルカルーカ元帥の反乱とタイミングを合わせ、帝国侵攻作戦を開始せよ」

「了解しました!」

元帝国軍人の、今は王国を代表する名将の一人となった男が、高揚に満ちて敬礼した。更にクラナは、ルツラトとリリセーを見て言う。

「ルツラト大将、リリセー中将」

「はっ!」

「汝らは十五万の兵を率い、ルフ商連合の船団を用い、エイハヴに赴け。 そしてルラーテ中将を参謀に、帝国を南部から攻略せよ」

「了解しました!」

威勢良く言ったのはリリセーである。ルツラトは無言のまま、頭を下げていた。兎に角冷静さと判断力を必要とされ、勇気よりも忍耐を試される任務であるから、彼以上に適した指揮官はいない。

「私は中軍として、二十五万を直接率いる。 参謀長は、パーシィ大将に任せる。 行軍計画及び、作戦立案は一任する。 思うまま手腕をふるえ」

了解しました。 全力を尽くします

多少恐がりだが、パーシィの手腕は皆が認めるものである。更に後衛として、予備戦力が十万ほど貴族の私兵を中心に招集される事となった。総兵力六十五万。バストストア王国と言うよりも、クラナ元帥一人の手によってこれだけの軍勢が動かされた事となる。ここ二百年ほどで最大の動員戦力であり、しかも布陣に隙がない。まさに、歴史の転換点に相応しい、堂々たる大軍勢であった。

「アンスポール経済官」

「はい」

「補給計画は汝に任せる。 半年分の兵糧は用意出来るか?」

「そうですね……ルフ商連合から借り入れて、それに加えて国内の分を何カ所からか掻き集めれば。 屯田の成果によって、かなり蓄えは豊かですから」

ルングの事を、名前で普通に呼ぶ唯一の存在がクラナである。他の者は、クラナの前以外では、まず間違いなくルングと呼ぶ。これはクラナの逆鱗に触れない最大限の範囲での、周囲のルングに対する意思表示であった。俗物で知られるルングはそうまでに嫌われていたが、クラナへの忠誠心は誰も疑わなかったし、その実力は皆が認めていた。経済官僚として、彼女以上の人材は何処にもいなかったし、公私の区別はきちんとつける人物でもあったから、反発はそれ以上にならなかったのも事実であった。

満足げに頷くと、クラナは更に指示を続けた。

「シウクト」

「はっ!」

「貴公はリリフトハイルに駐屯し、王都及び貴族どもの動向を監視せよ。 汝の下にはルルシャをつける。 王都に残るショパンと連絡を密にし、絶対に油断するな。 伯爵以下の貴族が不審な動きを見せたら、滅する許可を与える。 侯爵以上の貴族が不審な動きを見せたら、すぐに私へ報告せよ」

絶対に油断するなとクラナが明言したのは、事実反対勢力が行動を起こす可能性があったからである。王宮の周囲は精鋭を二千配置し、郊外のトバルテルフル要塞に三万の兵を、中堅の将軍に任せ配置済である。それらの指揮をインタールが執る。それが決めてあるため、クーデターの可能性は低い。また、クーデターが起こったとしても、インタールで有ればどうにか出来る。だが、貴族の財力は侮れないし、自暴自棄になった人間は何をしでかすか分からない。

この他にも、各地の要所には押さえを配置し、備えは万全である。帝国軍は反乱が例え起こらなかったとしても、動員出来て三十万と予想されている。兵力差は二倍以上であり、しかも指揮官達の能力差から言って、まず間違いなく勝てる。後は、油断する事を避けて、確実に敵を叩くだけであった。

二月ほど後、帝国南部でルカルーカ元帥が大規模な反乱を起こした。同時にクラナ軍は侵攻を開始、六十五万に達する大軍が、帝国領内へなだれ込んだのであった。

 

1,黄昏

 

帝国の混乱は、蜂の巣をつついた如きものであった。前線の各拠点は戦う事すらなく破れ、或いは膨大な軍勢によって一息に蹂躙され、針でつつかれた風船のような有様と化していた。それを追い討ちするように、各地で不平分子が一斉に反乱を起こしていた。その上、帝国を代表する五人の高級軍人の一人が反乱を起こしたのである。

この事態を予想していた者が二人だけ帝国にはいた。一人はジーグムント大将。今一人は、ワタウ皇帝の側で知識を提供している、〈じい〉ことラカン将軍であった。ラカンは既に引退していて、しかも長引く戦で子供達を全て失っており、往年の覇気はすでにないが、未だにアドバイザーとしての仕事を続けていた。

二人が揃って、皇帝の前に姿を見せたのは、前線が突破されてから十日目の事であった。既に反乱の勢いは留まる事を知らず、しかもクラナ軍は解放軍の如く民衆に迎えられている。クラナの膝下にある領地で行われている善政や、士気の高さ、略奪暴行を行わない統率の高さは有名であり、中には駐留する帝国軍を追い出して自らクラナ軍をむかい入れた街さえもあった。必死に前線で指揮を執っているニーネ元帥は、かろうじて秩序を維持しながら、帝都側にある大要塞地帯キュライノーに軍の集結を行っているが、予想される最終的な集結戦力は、三十五万どころか、なんと二十万にも達しないと言う有様であった。絶望的な情報ばかりが流れ込み、心を痛めるワタウの前に、厳しく鎧ったジーグムントと、杖を突いたラカンが歩み寄る。顔を上げたワタウに、ジーグムントは言う。

「陛下」

「ジーグムント将軍……」

「お人払いを」

「……分かった」

ワタウはアーシュを除く周囲の者達を下がらせると、念のため小さな会議室に移動し、戸を閉めた。不安げな少年皇帝に、ジーグムントは出来るだけ声を落ち着かせながら言う。

「ご心労を察します、陛下」

「うん。 でも僕がしっかりしていないと、この国は瓦解してしまうんでしょう?」

「その通りです。 陛下はその年で、先代よりもずっとしっかりしておられますな」

無言のまま首を横に振るワタウは、席に着くと、ジーグムントの精悍な顔を見上げた。

「それで、これからどうすればいいの?」

「もはや、取るべき手は一つしかございませぬ」

「……降伏?」

和睦と言い出さない所が、この少年が最低限以上の知性を持っている事を示していた。圧倒的優勢にあるクラナが、対等な立場での和平案など飲むわけがないのだ。

「いえ、まだ我らに逆転の余地はございます」

「例え戦いに勝っても、民を苦しめる事にならないかな」

「戦いが始まった時点で、既に民は苦しんでいます。 それに、クラナ軍の士気統率は高いと言っても、どうしても末端には愚行をしでかす輩がいます」

苦笑すると、ジーグムントは地図を広げた。帝国領百十七州。既に十三州は敵の手へ落ち、いままた二十三州が侵攻に晒されている。もう帝都まで、壁になる要塞も殆ど残ってはいない。その一つ、現在ニーネ将軍が必死に兵を集めているキュライノーを指さすと、ジーグムントは言った。

「此処に、まず兵を集結させます。 その一方で、陛下は我々と共に、虎伏軍を率い、間道から此方へ向かって貰います」

帝国最強を噂される親衛隊、虎伏軍。規模は二万五千。現在はガルクルス中将が指揮を執っている部隊である。忠誠心は高く、殆ど脱落者はいない。そのままジーグムントの指は地図を南下し、現在クラナ軍本隊がいる少し北に止まった。

「此処で、クラナを待ち伏せ、討ち取ります」

不敵な笑みを浮かべたジーグムント。ワタウはしばし黙り込んだ後、小さく頷いた。

 

兵力に劣る側が勝利する場合、有効な手としてあげられるのが、地の利を生かした奇襲である。奇襲は知的なイメージがあり、決まれば派手な戦果を上げられるため、一般的な人気が高い。しかし実際には、敵の位置と味方の位置を正確に把握する必要がある上に、失敗したら全滅する危険性も秘めているのである。特に奇襲を察知されて先制攻撃をされた場合は、目も当てられない大敗を喫する事となる。多数の兵力を要しているのなら、正面から押す方が絶対に有効である。その方が確実に勝てるし、無意味なリスクを負わなくて済むからだ。奇襲というのは、あくまで非常時にのみ効果を発揮する、一種の退避策だと考えれば間違いがない。

そのあたりの事情は、当然ジーグムントも知っていた。だが、今は間違いなくその非常時であり、手段は選んでいられない。一か八かの勝負である。勝てば敵を追い返せる、負ければ全滅。だが、このまま正面決戦しても勝ち目がないのは明白であり、他に手は残されていなかった。

フッツ大将とグプト大将は、共にニーネの指揮下にて、キュライノーを死守する事に決まった。虎伏軍の他に、信頼出来る二万を追加して、合計四万五千が決死隊に編成された。である以上、キュライノーの守備には十五万を割り込む戦力しか当てられない。キュライノーに迫りつつあるクラナ軍先鋒は、降伏した帝国兵も含めて、既に二十五万を越える戦力にふくれあがっている。名将に指揮され、しかも地理を知る二十五万である。それに精鋭揃いで勇猛なクラナ軍本隊が加わったら、キュライノーといえどひとたまりもなく捻り潰されてしまう。それに加えて、敵にはルツラト率いる別働隊までいるのだ。別働隊はキュライノーを迂回し、帝都を直接伺う姿勢を見せている。もう、時間は多く残っていなかった。

皇帝が自ら出陣するなど、実に五十年ぶりの事である。先々代までの皇帝は、戦場に自ら出て領土を切り取る事も多かったのだが、無気力な先代がその慣習を過去のものとしてしまった。そして今此処に復活したわけであるが、まだ幼い少年皇帝は、不安の色を隠せなかった。側には兄同然のアーシュと、祖父同然のラカンがいるが、それでも恐いものは恐いのである。

部隊を率いるのは、ジーグムントとガルクルス。現在帝国で一二を争う戦上手達である。これ以上ない、現在の帝国としては最高の布陣であるといえる。故に、兵達の士気は高かった。

「全速力で駆ける! 脱落者は置いていけ!」

ジーグムントの声が闇夜に響き、兵士達が歓声を上げた。目減りこそしているが、精鋭揃いの帝国軍の中から選ばれた最精鋭達である。良く訓練された彼らは疾風の如く間道を縫い、安全地帯を駆け抜けて、目的地へ急いだ。ワタウ皇帝も、必死にそれについていった。アーシュは良く少年を励まし、過酷な行軍に耐えさせた。百才近いラカンは時々ふらついてはいたが、それでも昔取った杵柄、脱落する事はなかった。

過酷な三日の行軍が終わった後、脱落者は千名ほどしかいなかった。現地の近くにある古城に一度入ると、ジーグムントは部下達に半日の休息を与えた。休息といっても、敵に姿を見せるわけには行かないから、近くの街などへはいけない。単純に休むだけである。疲れ果てている兵士達は、だが士気を落とさなかった。ワタウが彼らの間を周り、必死に労をねぎらったからである。最前線で戦う姿勢を見せている少年の姿に心打たれた兵士達は、皆やる気を取り戻し、決戦に向け牙を研いでいた。

そして、決戦の日がやってきた。

 

ジーグムントが決戦場に選んだのは、鬱蒼とした森林地帯であり、グラプラの森と言われていた。この中を太い街道が通っており、クラナ軍が其処を通過していた。実はこの場所、周囲に比べればまだ安全という難所であり、帝国の最盛期には何度も此処で王国軍を退けた因縁の地なのである。だが今回の戦いでは、内通者が案内を行い、殆ど無傷でクラナ軍先鋒は通過する事に成功した。そして今、クラナ軍本隊も、悠々と歩を進めている。戦力は報告通り二十五万。味方の五倍以上だが、不意をつければ勝機はある。

しかし、敵は厳重な警戒態勢を取り、隙がない。此処で奇襲を受けたら危険だという事を、ちゃんと知っているのである。末端の兵士達までが、警戒の姿勢を崩さない。その上斥候が油断無く周囲を警戒し、迂闊に近づけなかった。もし居場所がばれれば、五倍の敵に粉砕されるだけである。

「流石だな。 圧倒的に勝っているのに、油断していない」

感嘆と舌打ちが、ジーグムントの口から漏れた。しかし、躊躇している暇はない。敵がこの森から脱出したら全てはお終いである。

森には薄く霧が立ちこめていて、湿っており、火計には適さない。火薬が有れば話は別だが、そんなものは持ってきていない。手は一つ。敵の中枢を狙って強襲をかけ、その後に混乱する敵をたたく。これしかない。

本来、正統派の用兵家であるジーグムントが、こんな手しか取れないのも、クラナが徹底的な準備をしてから侵攻してきたからである。周到に準備していた前線は、それ自体がそっくり寝返ってしまった。情報戦では常に後手に回る事になり、今もこうして非常に勝算が薄い戦いに身を投じなければならない。歯を噛むジーグムントに、ガルクルスが言った。その顔には、静かな決意があった。

「儂が血路を切り開く。 クラナの事だ、後ろに引っ込んではおるまい。 其処を狙え」

「すまない、ガルクルス」

「なあに、あの世で奢ってくれればそれでいいさ。 美味い酒屋があるといいな」

「敵に発見されました!」

兵士の悲痛な叫びが、二人の会話を中断させた。ガルクルスは敬礼すると、愛用の大斧を担いで馬に乗り、前線へ駆けだしていった。

帝国が終わる。最後の戦いの、それが始まりであった。

 

薄く霧が立ちこめる森の中で、死闘が始まっていた。発見された帝国軍は、それ自体を奇貨にして、後退しつつ敵を森の奥へと引きずり込もうとした。森の奥へ引きずり込み、隊形が崩れた所で一斉反撃に出ようと言うのである。

しかしクラナ軍は冷静な対応をし、膨大な矢を帝国軍に浴びせつつ、重厚な陣形でじっくり前進してきた。しかも多数の偵察隊が積極的に周囲を回り、狼煙や音で連絡を取り合う。帝国軍は偵察隊を見つけては虱潰しにしようとしたが、そうする前に殆どが逃げ散ってしまい、上手くはいかなかった。

そうこうする間に、帝国軍の被害は少しずつ、確実に増え続けていった。戦況が変わったのは、戦線が開かれてから一時間ほど後の事である。ガルクルス率いる一万五千が街道を挟んで森の逆側に回り込み、分厚いクラナ軍の防御陣に強襲をかけたのである。総員、是死兵である。大斧を振り回し、周囲の敵を手当たり次第に血祭りに上げるガルクルスに、クラナ軍は手こずり、距離を取って膨大な矢を浴びせた。ガルクルス隊は大打撃を受けつつもそれに屈せず、また森林戦と言う事もあって、矢風によって致命傷を受ける事だけはかろうじて避けた。だが四回の突撃はいずれもクラナ軍の分厚い防御壁を突破出来なかった。はぎしりするガルクルスは、既に三本の矢を受けていた。

あの分厚い防御陣の向こうに、ガルクルスが憧れ続けたクラナがいる。戦場の猛将であり、それ以上に有能な執政官。剛き存在をこよなく愛するガルクルスは、英雄といって何の問題もないクラナを尊敬していた。自分に出来ない事をやってのける存在を、彼は素直に尊敬出来る人間だった。戦場で何度か見かけたその姿にも、ガルクルスは敬服していた。あの小さな体で、周囲を圧倒し、心をがっしり従えている。兵士達は忠誠を誓い、うける忠誠心に相応しい行動をとり続ける。正に時代を変える英雄。

だから、ガルクルスはこう考えていた。せめて、クラナの手にかかって死にたい、と。

不器用な男である彼は、帝国に受けてきた恩義を忘れない。例え才能を正当に評価してくれなくとも、地位をくれ、給料をくれ、名誉をくれた相手なのだ。まして今の皇帝は、幼いながらもわざわざ最前線に出向いて、命を張っている。それである以上、命をかけるには充分だった。妻子の事は多少気には掛かるが、それを命に優先は出来ないのが武人の性であった。

ガルクルスの前で、クラナ軍は冷静かつ丁寧に陣形を組み替え、全く隙を見せない。荒く息をつきながら、大斧を構え直し、ガルクルスは周囲の部下達へ言った。

「次が最後の突撃になる! 無論勝つつもりだが、もし儂が戦死したら逃げろ!」

傷つき疲れた部下達の慟哭が聞こえる。彼らとガルクルスの思いは一つである。死地へ部下と共に赴くガルクルスは、愛しい英雄の手にかかりたいと願いつつ、咆吼した。

「行くぞっ! 帝国最強と歌われた儂の武勇、敵兵達のまなこに焼き付けてくれる!」

森の中を疾走し、ガルクルスは突撃した。膨大な数の矢が飛んできて、周囲の部下達を薙ぎ倒していった。愛馬の首にも、次々に矢が刺さっていった。七本目の矢が突き刺さった時、ついに愛馬が、湿った枯れ葉つもる地面へと倒れた。ガルクルスは立ち上がると、体に数本刺さった矢をものともせず、クラナ軍の防御陣へ突撃した。そしてついにたどり着き、手当たり次第に大斧で周囲の敵兵をなぎ払った。

確かにそれは凄まじい武勇であった。血走った目でガルクルスが走る所屍の山が築かれ、血の川が流れ、勇猛なクラナ軍兵士も流石に怯えて引き下がる。だが、幾ら強くても、限界は絶対にある。ガルクルスが気づくと、もう周囲に部下の姿はなかった。敵は慎重に槍を構え、穂先で壁を作っていた。それも二重三重にである。体は傷だらけで、もう満足に動く事も出来ない。百五十人近い敵兵を斬ったのだから、それくらいの傷を受けるのは当然であった。ここまでかと観念したガルクルスは、周囲をゆっくり見回し、叫んだ。

「儂は帝国軍中将ガルクルス=バネット! 儂の最後の相手は誰だ!」

「私が務めよう」

大きく目を見開いたガルクルス。兵士達が左右に分かれ、最精鋭を従えたクラナがゆっくり進み出る。不覚にも、ガルクルスの両目から涙が伝っていた。

「おお……これは……これはなんと名誉な……」

「汝の武勇を、私は高く評価している。 悪くは扱わぬ。 下るがいい」

ガルクルスは満ち足りた表情で、首を横に振った。クラナは小さく嘆息すると、大剣を抜き放つ。そしてわざわざ馬を下り、制止しようとする周囲を視線一つで黙らせると、ゆっくり進み出た。固唾をのむ周囲。身の丈以上もある大剣を一振りすると、クラナは突撃した。大斧をゆっくり構え直し、一瞬遅れてガルクルスが地を蹴る。

……激突は一瞬。崩れ伏したガルクルス。対し、クラナは兜を飛ばされていた。地位に似合わぬ質素な兜は大きくひしゃげており、ゆっくりそれを拾い上げると、クラナは側にいる士官へ言った。

「手厚く葬ってやれ。 この兜と一緒にな。 それと、すぐ代わりの兜を持つように」

 

「すまぬ……ゆるせ」

一人呟くと、ジーグムントは隊形をくさび形に再編成し、突撃を開始した。クラナの居場所を、ガルクルス隊の攻勢終末点とし、僅かに乱れた敵陣の隙をつく形で突撃する。健気にもガルクルス隊は、主将を失って後もまだ必死の攻撃を続けている。

「ジーグムント!」

攻撃に加わろうとしたジーグムントを、ワタウが止めた。彼の周囲には、蒼白な近衛兵達と、アーシュとラカンがいる。ジーグムントは軽く口の端をつり上げると、言った。

「ラカン殿、後を頼みます。 陛下を守るのは、貴方です」

「……そうさな、それを最後の仕事にするとしよう。 若い者を先に死なせるのは心苦しいが……」

「何、向こうにはガルクルスがいます。 彼奴に奢ってやる約束がありますから」

敬礼し、ジーグムントは馬腹を蹴った。

死兵と化しているジーグムント隊は、ガルクルス隊にも劣らぬ勇敢さで突撃した。膨大な矢をかいくぐり、もはや生きて帰らぬ覚悟で、前にしか進まない。しかし圧倒的な物量差の悲しさか、兵士達はばたばたとうち倒され、見るまに最前線はジーグムントへ迫ってきた。

ガルクルスに比べて、ジーグムントはさほど武勇に優れているわけではない。あまり抜いた事のない剣を鞘から開放し、戦いを挑んできた騎兵を、数合の後斬り捨てる。敵はクラナの直属精鋭であり、兵士達は押されている。更に、パーシィ麾下と思われる大兵が、冷静に退路を断とうとしていた。

「退路が断たれます!」

「構わぬ! どうせ後はない!」

ジーグムントは副官に叫び、隊形を再度整えた。くさび形と言うよりも、殆ど錐に近い形へ。そして、最強の敵部隊を切り崩すべく、再度突貫した。

膨大な被害を出しながら、ジーグムント隊は突撃する。その圧倒的な勢いに、さしものクラナ隊も怖れ、引いたように見えた。しかし、彼らは左右に分かれただけであった。そしてその間から現れたのは、大剣を構え、周囲に大陸最強の兵士達を従えたクラナであった。先頭に立っていた帝国兵が、周囲を励ますように叫んだ。その頬を冷や汗が伝う。

「クラナだ! 討ち取れ!」

「どけっ! 羽虫共!」

クラナが吠えると、それだけで、たったそれだけで、虚勢は一瞬で吹き飛んだ。突撃を開始したクラナ軍最精鋭と、しかもその先頭に立つクラナの武勇は、今までじりじり前進出来ていたジーグムント隊を一蹴した。クラナの振るう大剣は、たったの一合でジーグムント隊の兵士達を切り伏せていく。眼光を浴びただけで兵士はおののき、馬は怯えて首を後ろへ巡らそうとする。死を覚悟していたはずなのに、圧倒的な恐怖が、ジーグムントにまで伝染してきた。そんな情況で、兵士達が戦えるはずもない。逃げまどい、見る間に撃破されていく兵士達。

「……」

パーシィの巧妙な用兵によって、もはや退路さえもない。戦意を失う周囲を必死に統率し、何とか反撃を試みるジーグムントをあざ笑うように、クラナは突撃してきた。気づくと、クラナは薄ら笑いを浮かべたまま、ジーグムントのすぐ側まで来ていた。剣を振るう暇もなかった。クラナはすれ違いざまに、剣の柄で、馬からジーグムントを叩き落としていた。

「捕らえておけ!」

意識を失いかけるジーグムント。クラナはそのまま、ワタウがいる方へ、部下達と共に当たらべかざる勢いで突撃していった。朦朧とする意識の中、必死に手を伸ばそうとするジーグムントは、背中を踏まれ、そのまま縛り上げられていった。

 

ジーグムント隊の攻撃が失敗したのは、ワタウの目からも明らかだった。ゆっくり小さな剣を鞘から抜こうとするワタウの手を、アーシュが止めた。

「お逃げ下さい、陛下」

「アーシュ、今僕が逃げたら、二人の死は無駄になってしまうんじゃないの?」

「いえ、そうはなりません。 それに、陛下にはまだやる事があります。 此処は逃げ、命をおつなぎ下さい」

「アーシュ! 君は、君はどうするの?」

静かな笑いが答えであった。ラカンがワタウの馬を引き、後退する。ワタウが手を伸ばし、その場に留まるアーシュへ叫ぶ。

「アーシュ! アーシュ!」

「……御武運を」

残っていた二千ほどの兵士と共に、アーシュが奔る。クラナが突撃してくる方へ。ワタウとアーシュの距離が開いていく。弓矢の音がして、アーシュの隣にいた兵士が倒れる。

「陛下、行きますぞ!」

「アーシュが! アーシュがまだ残ってる!」

「アーシュ殿の死を、無駄にしてはなりませぬ!」

硬直したワタウ。ラカンが手綱を引き、戦場から離脱していく。後方では怒号と、それに悲鳴が交錯していた。

 

突撃してくるクラナを前に、アーシュは剣を抜き、こらえようもない恐怖と高揚を同時に味わっていた。凄まじい圧迫感が、全身に迫って来るというのに、アーシュは笑っていた。憧れ続けた敵将と、刃を交える機会が巡ってきたからである。ワタウを逃がすという名誉な仕事と同時に、クラナと戦える。今アーシュの心に悲壮はない。むしろ、高揚こそがあったのである。

「行きます……クラナ将軍……いやクラナ元帥!」

守勢に回ったら、その瞬間殺される。アーシュはそう悟り、全てを捨てて攻撃する決意だった。躍りかかってきたクラナ軍兵を切り伏せ、アーシュは馬の手綱を引いた。まだ、こんな所では死んでも死にきれない。絶叫しながら、アーシュは奔り、ついに目的の人を見つけた。

身の丈以上もある大剣をまるで草の茎のように振り回す馬上の人。名乗りを上げて躍りかかる者、奇声を上げて打ちかかる者、いずれも鎧柚一触に叩き潰していく。全身に返り血を浴び、手当たり次第に敵を切り伏せる鬼神。小さく唾を飲み込むと、アーシュは名乗りを上げた。

「自分は帝国軍中尉、アーシュ=ロンバルト! クラナ元帥、その首貰った!」

「ご託はいい。 こい」

無造作に今倒した騎兵を放り捨て、クラナが振り返る。アーシュは剣を高めに構えると、手綱を繰って突撃した。一撃、剣を振り下ろすも、かるがると防がれる。そのまま反撃に移ろうとするクラナに、左手でナイフを抜いて投げつける。クラナは大剣を振り、それを盾にしてナイフを弾く。更に一撃、アーシュが剣を振り下ろし、金属音が響き渡った。

「ほう……」

今の一撃を受け止めたクラナが口の端をつり上げる。アーシュは相手がようやく真面目に戦う気になった事を悟った。常識外の速度で、轟音と共に降ってきた反撃を、剣を斜めにして何とかかわす。手に凄まじい衝撃が奔り、思わず剣を取り落としそうになる。冷や汗を流しながら、アーシュは無理な態勢から剣を振り、余裕を持ってクラナはそれを捌いた。更にもう一撃、加えて一撃。必死の攻撃が火花を散らし、僅かに隙を見せたクラナに、アーシュが剣を振りかぶった瞬間。

途轍もない速さで、横殴りに叩き付けられた一撃が。アーシュの愛馬の頭ごと、彼の体を切り裂き、致命傷を与えていた。

地面に叩き付けられたアーシュは、急速に消えていく意識の中、ワタウの名を呟き、そして言った。

「私は……満足だ」

彼が本気になったクラナとかわした刃は実に六合。本気のクラナとここまで戦えた人間はそういない。勇猛なアーシュが息を引き取った頃、帝国軍の組織的抵抗は、過去の遺産と化していた。

 

2,帝国の終末

 

帝国軍が破れ、ガルクルスが戦死し、ジーグムントが捕縛された報は、すぐに帝国全土に広がった。特にジーグムントの敗退はまだ抵抗を続けていた帝国兵達の戦意を大きく削ぎ、降伏へと駆り立てた。

クラナが到着した時、既にキュライノー要塞は陥落していた。戦意を無くした兵士達の降伏が相次ぎ、半ば内側から瓦解したのである。無論攻略の際は激しい抵抗もあったが、優秀な人材を多数抱えるクインサー隊は、自力でそれを押しのけた。特に数々の城を攻略し、攻城戦の名人と歌われたフオメテルが突破口を開き、以降は一方的な戦いになった。ニーネ元帥は捕縛され、フッツは戦死した。グプトは逃げようとした所を日頃から恨みを抱いていた部下に刺し殺され、首がクインサーの元へ届けられた。粗暴な将軍の、哀れな最後であった。ちなみにこの時、アンスポール=ルングの妹であるコワトが奮戦し、クインサーから感謝状を受け取っている。

帝都バイバは既に包囲下にある。もうろくな将軍は残っておらず、守備の兵士も殆どいない。混乱が続いており、もしここで略奪でも命じれば一つの都市が消滅する。時代が終わった事を印象づけるため、そうするという手も確かにある。しかしそれでは恨みを確実に買い、今後の統治がやりにくくなる可能性もある。また、略奪になれてしまうと、兵士は今後帝国領で愚行を繰り返しかねない。

面白い事に、皇帝は帝都にはいないという報告が来ている。グラプラ会戦で帝国軍主力が玉砕した後、逃走した皇帝は、帝都の前で警戒線に引っかかりかけ、余所へ移動したらしいという事であった。ルルシャの配下からそれを聞いたクラナは、続いての探索を命ずると、自身は帝都へ進撃した。五十万という空前の大軍が帝都へ侵入したのは、秋の初めの事となった。

無論抵抗はあったが、帝国軍兵士達はあまりに圧倒的なクラナ軍と、味方の戦力を見比べて、続々と降伏した。散発的にそれでも抵抗は起こった。それを踏みつぶしながら、クインサー指揮するクラナ軍は着実に周囲を制圧、昼過ぎには皇宮をほぼ無傷で制圧した。こういった際には必ず略奪が起こると相場は決まっているが、クインサーが末端まで監視をし、静かに攻略は進んだ。無論略奪事件は少数起こったが、すぐに対処され、愚行を行った兵士は処刑された。

やはり皇宮に、ワタウ皇帝の姿はなかった。無論広く無駄が多い皇宮の奥深くまで探索の手は伸ばされたが、やはり何処にもいなかった。皇宮から帝国の旗を降ろし、代わりに王国の旗を掲げると、クラナは一息ついた。これで、帝国攻略は一段落ついたからである。敵の軍幹部は全滅し、組織的な抵抗を行える者などいない。辺境の帝国州が多少ぐずってはいるが、じきに片も付く。完璧にではないが、帝国は事実上滅びたのである。

クラナは護衛を連れ、皇宮を見て回った。王都にある王宮も馬鹿馬鹿しい規模だが、それに匹敵する阿保らしい大きさであった。大陸規模の国家元首が住む家であり、国力を示す指標であるからある程度は仕方がないが、それにしてもこれは無駄に過ぎる。降伏した秘書官が側に控えており、クラナはツインテールの先を弄りながら言った。

「一つ訪ねたい。 この宮殿の維持費は、年間どれくらいかかっている?」

「はい、修繕費や人件費をあわせて、大体……」

その金額は、五万の兵士を三ヶ月間出兵させられるほどのものであった。クラナは手を振って秘書官を下がらせ、側に控えていたパーシィに言う。

「パーシィ、お前はどう思う?」

無駄の象徴です。 取り壊す必要はありませんが、維持する必要もないかと。 それに、こんな所で暮らしていたら、きっと感覚がおかしくなってしまいます

「私も同意見だ」

クラナは広間に立ち、巨大なシャンデリラを見上げた。千個は蝋燭を立てられそうな大きさである。作り自体は軍事国家らしく素朴で剛胆だが、一方で恐ろしいほどに金がかかっているのが一目で分かる。こんなものに囲まれて暮らし、金の持つ価値を知らずに育てば、確かにスポイルされるのが明白だ。

クラナとしては、そうやってスポイルされた人間の方が扱いやすいのも事実である。ただし、自分の作った道具である新国家を継続していくとなると、スポイルされた人間が元首では話にならない。安定した国家においては、確かに強大な権限を持った君主は不要な存在である。ただ、だからといって、最低限の判断力と決断力を持ち合わせていない人間などでは、君主は務まらない。

一般で思われているほどに、国家の威信というものは価値がない存在ではない。それを全てに優先していいほどでもないが、しかし無視していいほど価値のないものでもない。国家の威信というものが無くなれば、誰も法に従わなくなるし、不文律もまた揺らぐ。場合によっては、侵略すら招く。だが一方で、無秩序に生贄を捧げていい存在でもない。この皇宮は国家の威信を見せる道具の一つとしては有効だが、しかし維持コストが高すぎる。この宮殿を維持する金を余所に回せば、それだけ貧しい子供の命を救い、多くの者に教育と知識を与え、結果国自体を健全にかつ強くも出来るのである。帝国と王国が互いの力を見せ合うために、エスカレートしたみえの張り合いの結果登場したとも言えるこの建物は、もう歴史的な意義を終えた。確かに、それなりに国家の力を見せるシンボルとしての建築物は必要になってくる。だがそれは別に王宮でなくてもいい。立派な首都を作ればそれ自体が国の力を見せる存在となるし、規模によっては堤でも城でも良い。

そう、この時クラナは、自身の道具として建設する新国家の、百年先を既に見据えていたのだ。

征服者の中には、被征服民に過酷な処遇を下す者もいるが、それはむしろ愚行といえる。成功した征服者は、甘いだけではないが、一方で基本的に被征服民にも寛大な態度を取り、そのプライドを尊重する事を第一に考える。それを知っていたクラナは、混乱が一段落した首都に、次のような看板を立てた。

「何人であろうとも、非戦闘員に対する略奪、暴行、放火は一切禁止とする。 もし是を行う者有れば、将軍の地位にある者とて私が容赦せぬ。 同時に、以上の行為を見かけた者は、遠慮無く手近な王国軍士官に申し出よ。 厳密な調査の結果、必ずや公平な処遇を下す。 なおこれは、私にも適応される。 私に何かしらの不備有れば、遠慮無く申し出よ。 王国元帥クラナ=コアトルス」

この言葉が幾つかの実例で執行されると、帝都の民は安心し、半月ほどかけて反抗の気運は鎮火していった。クラナの武勇は彼らの恐怖の的であったが、武勇だけで粗暴な人間ではないと、行為自体が彼らの目に焼き付けた事となる。言葉だけではなく、それを実行してみせる事。例え腹の底で別の事を考えていても、実行に移せる事を言い、それを実行してみせる存在は、きれい事だけをいい何も出来ない存在よりも遙かに優れている。民衆にとっても有益な存在といえる。民衆はクラナの本質に安心したのではない。現実的な発言をし、それを実行してみせる実現力。そしてまず善政と言っていい事をやってみせる行動力。この二つに安心したのである。

半月ほどすると、旧帝国軍過激派はむしろ帝国人の手によってクラナ軍に突き出されるようになった。幾つかの州は積極的にクラナに降伏した。抵抗する州でも、急速に降伏へと民情が傾いていった。そして寛大な降伏者に対する措置が、それを更に加速した。過激派に対する処置は容赦がなかったが、それに不平を漏らす者は殆どいなかった。

クラナ軍の幕僚には、クインサーやリリセーを始めとする旧帝国軍人も多く含まれている。つまり、有能で有れば帝国人でも高い地位につけると言うことだ。皮肉な事に、長年クラナが培ってきたその姿勢も、降伏への動きを加速した。無論二人を裏切り者呼ばわりする者もいたが、二人は降伏した帝国軍人をクラナ同様寛大に扱い、やがてその言葉も消えていった。大体二人は、積極的に味方を裏切ったわけではない。死力を尽くして戦った結果、武運無く破れ、クラナに従ったのである。これが例え敵対していても、降伏すれば許してくれるという希望も与えたのだ。

ほどなく掃討戦は降伏処理へと変じていき、帝国の残り香は確実にクランツ大陸から消えていった。しかしそれでも、まだ完全な沈静化には数年がかかるかと思われた。そして一月後。クラナの元へ、ワタウ皇帝の居場所を突き止めたという報告が入った。

 

やはり皇帝は、帝都にも戻れなかったのだ。かといって、辺境へ逃れる事もまた不可能だった。彼は帝都の近く、山奥にある廃城に、三十人ほどと共に潜伏していた。わざわざクラナが其方へ赴いたのは、当然理由があった。

百人ほどの兵を従えたクラナは、パーシィを連れて山道を急いでいた。帝都はルツラトに任せてある。クインサーとリリセーは降伏の受け入れに周囲を回り、ルラーテは過激派の掃討に当たっていた。クラナがパーシィを連れてきたのは、彼女が幕僚の中で一番頭が回り、すぐに意図を察する事が出来るからである。穏やかそうではあるが、決してこびる事のないこの娘は、参謀として非常に有能だった。ついでに、クラナの暇つぶし代わりの知識行動にもっとも容易についてこれる存在であり、話し相手としても重宝していたのである。もう一人、イオンがついてきている。これは皇帝が子供であるという事を考慮しての行動である。やはり子供には、その扱いに適した存在を側に置いてやる必要がある。

「クラナ様、あまり乱暴な事は……」

「相手次第だな」

「もう。 後世に悪名が残りますよ」

イオンはやんわりとだが、比較的クラナに直言する。彼女はクラナの事を信頼していて、それでも釘を差す事を忘れないのだ。人間が拒絶反応を起こす行動を、既に数十人の知識と意識を吸収して知っているクラナであるが、それでもイオンのような存在は必要である。鷹揚に頷くと、クラナは山の上を見上げた。見にくいが、確かに其処には朽ちた城があった。周囲には諜報部隊が三十名ほど展開していて、不慮の事態に備えている。ゆうゆうとクラナは古城へと進み、やがて城門へたどり着いた。

「なかなかに趣のある佇まいではないか。 こっちを皇宮にしたほうが良いのではないか?」

でも、実用性はありませんね。 こんな帝都の側にあるのに、拠点として活用されずなかば放棄されてしまったのがよい証拠です

「ふっ、確かにそれは違いない。 こんな高所にあっては、政務が取りにくくて仕方がないからな」

城壁には蔓が絡みついていて、全体的な外見をうっすら緑へと変じさせていた。さほどの規模の城ではなく、防御施設も大したものはない。タワーシールドを抱えた護衛がクラナの周囲に展開して狙撃に備えるが、クラナは悠々と朽ちかけた吊り橋を踏み、城門を潜った。城門の中では、既に先に潜入していた諜報員が跪き、クラナに報告した。

「申し上げます」

「うむ」

「敵に戦闘意欲は残っておりません。 城そのものに仕掛けはなく、慎重に調べましたが伏兵もいません。 帝国軍兵士達は一様に怯えきっていて、奥の本城に閉じこもっています。 皇帝陛下も其処にいます。 それと……」

しばし躊躇した後、諜報員は続きの言葉をはき出した。

「一人だけ戦闘意欲を失わない老人がいます。 彼は本城の入り口で武装して立っていて、クラナ様と話がしたいと言っております。 いかが致しましょうか」

「ふむ……そうだな。 聞いてみよう。 連れてくるが良い」

無言で頷くと諜報員は城の奥へ消え、すぐに老将を連れてきた。最盛期の帝国軍を支えた英雄の一人、ラカン退役元帥だった。

ラカンは老いてはいたが、背筋はきちんと伸び、眼光もしっかりし、晩年のイツァムを思わせた。健康的に肌を焼いたその姿は現在でも格好良く、若き頃はさぞや浮き名を流したであろう。何というか、全身から非論理的なカリスマを放出している。人払いをすると、ラカンはクラナの目を見据え、臆することなく言った。

「単刀直入に言わせて頂こう。 我らは降伏する。 それ自体を、交渉の材料としたい」

「ほう……」

「その代わり、陛下の命を保証して頂きたい」

ラカンが言ったのは、こういう事だ。現在抵抗は下火になってはいるが、まだまだ帝国側の勢力は各地に残っている。皇帝を此処で殺せば、そう言った抵抗運動が再発火するのは疑いない。逆に、皇帝が降伏の意志を示せば、そう言った運動をある程度沈静化させられる。だいたい、幼い子供を殺せば、クラナの武名に傷が付くのは明白だ。皇帝を殺しても、クラナに利と呼べるものはない。逆に降伏して従う意志を見せられれば、かなり有益だ。

「しばし貴方を観察させて頂いたが、幸い貴方は粗暴なだけの獣ではない」

「さあて、それはどうかな?」

「……正直な所、私も貴方が腹の底で何を考えているかは分からない。 しかし、計算に基づいて行動しているというのは最低でも確かだ。 だから、降伏を申し出たい」

「なかなか正直な事だな。 まあいい。 しかし、捨て扶持しかやれんぞ」

「それで結構。 あの子には、おそらく皇帝の座よりも、貧しくても平和に暮らしていく方があっている」

頷くと、クラナはラカンを城に帰した。程なく、兵士達が続々と降伏してきた。まず先に諜報員達を入れたが、程なくクラナもイオンとパーシィを連れて城へ入った。肝心な者が一人出てこなかったからである。入り口で跪いていたラカンにクラナが視線を向けると、老将は静かな悲しみを込めていった。

「陛下は立てこもっておられる」

「……」

「貴方に降伏するのは耐えられないそうだ。 すまない、子供のすること故、許してやって欲しい」

苦笑すると、クラナは先頭に立って歩き出した。皇帝が隠れている部屋は、城の上階、塔の一室にあった。イオンに小さく頷くと、伏兵も罠も無い事を確認し、周囲の者を下がらせ、クラナは戸を大剣で文字通り叩き壊した。

戸の向こうには、質素だが良く片づけられた部屋。そして、壁にすがりつきながらも、必死にクラナを睨み付ける少年の姿があった。少年はナイフを手にしており、だがクラナは全く姿勢を変えず、歩み寄っていく。

「く、くるなっ! 来たら、自害するぞ!」

「勝手にせよ。 部下達の必死の嘆願を聞いて、私は貴様を許す事を決定した。 しかし、部下達の願いを貴様が無視するというのなら、話は別だ。 そんな指導者にも有らざる輩に興味はない。 さっさと死ね」

蒼白になった少年に向け一歩踏み込むと、クラナは容赦なく大剣を振るって、器用にナイフを叩き落としていた。小さく悲鳴を漏らした皇帝に、クラナは全身から凄まじい威圧感を発しつつ、容赦なく歩み寄る。そして、胸ぐらを掴み上げていた。薄ら笑いを浮かべるクラナの顔の左右で、ツインテールに結んだ髪が静かに揺れる。さながら、燃えさかる炎のように。

「さあて、何故私に降伏出来ないのかな? 貴様を誰よりも案じている存在の行動を無駄にするような愚行に走るのかなぁ?」

「あ、あなたは、あなたはっ! い、いや違うッ! 僕は皇帝として、敵の手に落ちる事を選べない!」

「皇帝の誇りと言う奴か?」

「そ、そうだっ! 僕は皇帝だ、だから、だから……」

自惚れるな!

クラナの声は決して高くはなかったが、途方もない殺気を含んでおり、少年を一撃で沈黙させた。片手で少年皇帝をつり上げながら、クラナは蒼白になってふるえ始めたワタウに、容赦なく言った。

貴様のその豪奢な服も! 髪も! 血も! 肉も! 命すらも! すべて国民の血税によって作られたものだ! 貴様は国民が幸せを願い、必死に納めた税によって作られた肉人形に過ぎない! それが誇りだと? 笑わせるんじゃないっ! 貴様が今此処で降伏すれば、数十万、いや百万以上の人間が助かる! 貴様を信じ、投資した者達がそれだけ助かるのだ。 それを、くだらん誇りに基づいて死ぬだと? 勝手にするがいい。 確かにそうすれば私の全土統一は数年遅れよう。 だが別にそんなもの、私にとってはたいした障害にはならぬわ! このクラナにとって、今の私にとって、数年などなんの苦にもならぬ! さあ、死ぬなら好き勝手に死ね! 恐くて死ねないのなら、私が今首をへし折ってやろう! 貴様の恩人足る帝国の国民達のために降伏するか、それを忘れて私恨で百万の民を殺すか! 好きに選ぶが良い!

「うっ……うあ……あああああああああああっ!」

ワタウが泣き出したのは、決して恐怖のためではない。表情がそれを物語っていた。如何に乱暴であっても、クラナの言葉が全くの正論であり、真実を抉っている事を悟ったからだ。

やがて、皇帝はクラナに降伏する旨を告げた。少年の決断は、確かに統一を数年早め、犬死にする人間を数十万単位で減らした。それは事実であった。そして数十万の人間が、未来を失わずに済んだのも、また間違いのない事実であった。

現実とはそう単純に出来てはいない。人外の存在であるクラナの言葉が何よりも現実的であり、民を救うものだった。優しい心の持ち主である皇帝が取ろうとした行動が、数十万の未来を不当に奪うものだった。現実とは皮肉であり、きまぐれと、悪意と、そして今を生きるための結果に充ち満ちているのであった。

後にワタウ皇帝は、旧帝国領をジーグムントと一緒に周り、宣撫に務める事となる。生き恥をさらしつつも、平和のために生きる事を決めたのである。それに敬意を表し、クラナもワタウを決して粗末には扱わず、子孫の面倒も見た。

この日、帝国は正式に滅亡した。そして王国も、その後を追おうとしていたのであった。

 

3,至尊の変遷

 

半年ほどの駐留の後、クラナは一度リリフトハイルへと戻った。クインサーとルツラト、それにフオメテルとルラーテを帝都に残し、パーシィとリリセー、それにイオンを連れてきていた。イオンの子供達は今リリフトハイルで乳母が面倒を見ており、彼女にとっては有る意味帰郷であった。

大要塞地帯であるリリフトハイルが見えてきた。気が抜けたリリセーが、隣にいるイオンに、ずっと前にいるクラナの背中を見ながら零す。

「それにしても、皮肉なもんだな」

「リリセーさん、何が皮肉なんですか?」

「うん。 僕も確かに出世したいとは思っていたけど、帝国の滅亡に直接手を貸す事になるなんてね。 家族や親戚なんていないから後ろめたさなんてないけど、でもやはり複雑だよ」

クラナ軍を代表する名将が珍しく愚痴っている。愚痴られているイオンは、笑顔のまま応えた。

「もう家族を失う人は、これでずっと減るのだから、いいじゃないですか」

「うん……そうなんだよね」

半年間クラナの直轄領を隙無く統治したシウクトと、ルルシャと共同で極秘任務に当たっていたショパンが其処では待っていた。

城に兵士達が全員到着すると、クラナは恒例の儀式を始めた。

「二日間全員に休憩を与える。 二交代で休め。 幹部達は後で会議室へ集合」

休憩時の寛大さに関して、クラナの右に出る者はいない。確かに彼女は恐ろしく厳しいが、気を抜く所では、犯罪にならない限り、非常に寛大にそれを許していた。素早く兵士の休憩を割り当てていくシウクトを横目で見ながら、クラナはリリセーとイオン、それに最後尾にいたパーシィをつれて、会議室へ籠もった。二時間後、幹部達にも休暇が割り当てられていた。しかし同時に、複雑な表情も浮かんでいた。

二日間の休暇が過ぎた。兵士達は思い思いに休みを満喫し、酒は飛ぶように売れた。そしてそれが終わった時、彼らは再び出撃の命を受けた。いぶかしむ彼らに、意外な目的地が告げられた。だが、やはりと呟く者も、中にはいた。

攻撃の目標地点は、王都フオルだった。

公的に、目的は王都でクーデターを企む者達の排除となっていた。そしてそれは、一部においては事実でもあった。

クラナはルルシャに命じて、わざと一部過激派の行動を見逃していたのだ。その一方で、彼らが集まるようにも多少裏から手を回していた。実は、案外大変な作業ではあった。何しろいつかクラナが言ったように、もう王の復権を望む者など大陸の何処にもいなかったからだ。それに過激派の首魁になっていたのは一部の門閥貴族であり、彼らはあまりにも杜撰な計画をしたため、それを隠すために手を貸してやっていたほどであった。ともかく、過激派の門閥貴族達は私兵をある程度集めた。そしてそれとタイミングを合わせて、クラナが王都フオルへ向かったのである。

同時にインタールにも命が下り、門閥貴族の協力者が居ると言う事で、王宮の封鎖が行われた。たちまちに反乱軍は鎮圧され、十人ほどの貴族が手もなく捕らえられた。本来、宮中で暗闘を繰り返しているような者なら、それなりに頭も回る。例えば、帝国の高級軍人達のように。しかし彼らは権限の上に胡座をかいてしまっていて、生きるか死ぬかの死闘とは外の世界にいた。それである以上、クラナの相手にはなり得なかったのだ。

 

王宮の外からは、万歳の声が聞こえていた。王宮を囲んだ兵士達が、声の主であった。俯いているのは、王自身である。彼は悟っていた。もうこの国が終わると言う事を。

トステーヤが死んでからと言うもの、クラナはこの国の全てを貪欲に手にしていった。そして権力を効果的に使って改革を行い、民の絶大な支持を得た。権力者を批判する事が仕事になっているような知識階層でさえ、その手腕は認めざるを得なかった。腹の奥底では何を考えているか分からないと悟っている者もいたが、真の狙いまでは見抜けなかった。そして彼らも、王が復権するよりは、クラナが権力を握った方がずっとマシだと思っていたのである。

クインテーズ七世は、決して愚かな男ではない。だから国情を敏感に悟っていた。彼の側近であり、幼い頃から一緒にいたトステーヤが死んでから、彼は全てに精彩を欠いたが、理解力だけは衰えていなかった。彼が何とか気力を取り戻した時にはもう遅かった。クラナの力は、王国どころか、クランツ大陸で最強のものとなっていたのである。混乱した彼は、クラナの事を快く思わない一部貴族達の甘言に乗って、裏から援助をしてしまった。それもクラナの計算通りだと言う事を思い知らされ、クインテーズは俯いていたのである。

王の側には、数名の家臣が残っている。いずれも年老いて、気力にも能力にも欠ける者達だ。才覚有る者はみなクラナの側へ行ってしまった。引き抜かれた者もいるし、クラナの手腕に未来を託した者もいる。少数だけ、忠誠心に満ちた家臣達もいた。こんな腐った王家にも、そういう酔狂な家臣がいるのだ。しかしそれは、例外に過ぎなかった。だが至宝でもあった。彼らに報いられない事も、クインテーズの心を締め付ける要因の一つと、確実になっていた。

その家臣達がざわめいた。足音が近づいてくる。数は一つ。剣を抜こうとする者がいたが、クインテーズ自身が止めるように言った。抜いたら殺されると悟っていたからである。クインテーズは顔を上げ、謁見の間に入ってくる人影を見やる。決意は見上げたものだが、気力が続かなかった。

「クラナ……元帥……」

クインテーズの言葉がとぎれる。無理もない話である。クラナは戦場にいる時の雰囲気だったからだ。剣こそ抜いていないし、普段のように髪型もツインテールだ。しかし、全身からにじみ出る威圧感が桁違いである。まるで、邪悪な怪物。そう、伝説に出てくるドラゴンのような。普段も凄まじい威圧感を周囲に発しているクラナだが、そんなものは今のクラナが発しているものと比べれば、そよ風と同じだった。

「ひっ……」

家臣の一人が悲鳴を上げた。無理もない話である。歯の根があわない者もいる。柱の後ろに隠れようとしている者もいる。ゆっくり、クラナの視線と王の視線があった。

「お久しぶりです、陛下」

「て、帝国の制圧、大義であった。 しかし、こ、この騒ぎはなんだ」

「ふっ……茶番は見苦しいですな。 貴方が原因を一番良く知っているでしょうに」

かあとクラナが口を開く。視線だけで、クインテーズは絶息させられそうになった。クラナはしばし静かに笑うと、やがてこらえきれずに大笑いを始めた。

「くっくっくっくっくっく、はーっはっはっはっはっはっはっは!」

「な、なにが……おか……しい!」

「私はね、陛下。 もし貴方が馬鹿な事をしなければ、私の次の代くらいまでは形式的な部下でいてあげても良いと思っていたのですよ。 あくまで形式ですがね。 しかし貴方は、もっとも手を結んでは行けない連中と手を結んでしまった。 はっきり言ってあげましょうか。 貴方に王の資格はない。 決断力、洞察力、判断力、勇気、行動力、そして政治手腕! いずれも備えぬ者の、何処が王か!

「ぶ、ぶ、無礼なっ」

絶叫したのは、一番若い家臣だった。だが、クラナが視線を向けるだけで、ひとたまりもなく沈黙させられてしまう。クラナは王にもう一度視線を戻すと、静かに言った。

「三日間時間をさしあげましょう。 王座を放棄するというのなら、捨て扶持で死ぬまで面倒を見て差し上げますよ。 嫌だというのなら、この剣で斬り捨てる。 なににしても、自業自得、身から出た錆だ。 好きな方を選ぶがいい」

「い、いや……そんな時間など必要ない」

きびすを返し駆けたクラナが、意外げに振り返った。王は屈辱に肩を振るわせながら言った。それは、王としての最後の抵抗だった。全ていいなりになるのではなく、自身で決断するという姿勢を見せたのである。

「降伏する」

「……」

クラナは目を細めると、静かに頭を下げた。最後の、臣下としての礼であった。彼女はこの瞬間、ようやくイツァムがこの男に忠誠を誓っていた、その価値をほんのひとかけらだけ認めていた。

ここに、クランツ大陸を二つに分けて続けられた、長く悲惨な争いの時代は終わった。正確には、クラナという英雄が終わらせた。想いだの願いだのは関係ない。終わらせるべきだと判断したから、終わらせた。終わらせた方が都合がよいから終わらせた。終わらせた方が道具の構築に都合が良かったから終わらせた。

真相は、ただそれだけの事であった。

クラナの行動は下劣である。その言葉が仮に正しいとしよう。では数百年も下らない殺し合いを続け、結局自分たちでそれを収拾出来なかった人類はどうなのであろうか。別にクラナは高尚な存在でもなんでもない。それを否定するのは簡単である。しかしその行動が大陸に平和と安定をもたらし、多くの弱者を救ったのは紛れもない事実なのだ。

神聖女王として後に崇められるクラナの下、クランツ大陸は空前の平和と発展の時代を迎え、三百年に渡って我が世を謳歌する事となる。

 

エピローグ、自分で作った場所

 

安楽椅子にゆられながら、クラナが縫い物をしている。彼女は部下の能力を正確に把握して、任せるべき所は任せているため、完全な意味での独裁者ではない。封建君主であり、実権は全て握ってはいたが、権力を思いのままに振るって横暴に走る事は生涯なかった。

「あいたっ!」

また指に針を刺した。どうしてもこれだけは進歩しない。今作っているのはとある者のための、小さな靴だった。両親がいないその者の心を従えるには、ある程度親らしい事をしてやる必要がある。服も何着か造った。手作りで身の回りのモノを作ってくれた、しかも少ない時間を裂き、指を包帯だらけにして……というのを悟ると、その子供はクラナに心を許すようになった。むろん逆らえないようにも色々仕込んではいたが、それはそれ、これはこれである。

戸を叩く音がして、クラナが視線を移すと、イオンが入ってきた。彼女は、クラナの私室にはいる事を許されている、数少ない一人だ。後の世で最強の魔法使いと歌われる彼女だが、才能が最強であったというよりも、無私の忠誠をクラナが評価していたからそうなれたのだ。基本的にクラナは人間を一切信用していないが、イオンの忠誠心に関しては信を置いていた。もっとも、内面に触れさせるような事は一切無かったが。

「靴、もうすぐですか?」

「ん。 そうだな、後少しだ」

「……準備が整いました」

目を細めたイオンが、少し嬉しそうに、少し悪いように言った。クラナは手を動かしながら、それに応えた。

「すぐ行く。 外で待っていよ」

「はい」

この靴は今後のためにも大事な道具である。ゆえに、丁寧に作っておく必要があった。

基本的に、彼女は自分の血筋に関心がない。あくまで性的な話であるが、人間の男を、人間が犬の雄を見る程度にしか思っていない彼女は、それと子を作るなど考えていないのだ。だいたい彼女は悪しき実験によって細胞を変質させられた亜人間とでも言うべき存在であるし、子供を作れる相手などいない。そもそも根本的に、性欲自体が人間よりずっと少ないのだ。その上血縁にそもそも興味がないのである。

というわけで子供を作れない、仮に作れたとしても、最初から作る気がないクラナは、もう養子を取り、それを後継者指名する事に決めている。アンネもその候補だったが、結局養子に決まったのはイツァムの孫娘であるカナであった。カナは多少心が弱かったが頭脳自体が優れていて、判断力や決断力も悪くなかった。まだ年は一桁だが、健康面も悪くなく、十年がかりで教育すれば充分使い物になる。勿論いざというときに備えてスペアも複数用意する所は、流石クラナであった。

子供を籠絡するには、相手が心の底から望んでいるものを適度に与えてやる必要がある。カナは殆ど孤児であり、親の愛情に飢えている。だから手作りで、身の回りのものを作り、ある程度親身に接していた。そしてカナの心を掴み始めていたのである。

実の子ではなく、優秀な子供を養子にして、念入りに教育した後王位を継がせる。この方式は後に受け継がれ、世襲を脱した希有な王制として後に研究の対象となる。およそ三百年後のクラナ朝崩壊原因が、王による世襲の断行だというのもまた面白い。

仕事が一段落すると、クラナは一人で正装に着替え、部屋を出る。外に待っていた重臣達の祝いの言葉に頷くと、フオル王城のテラスに出る廊下へ向かう。既に国旗は降ろされ、クラナ軍の旗に変えられていた。

廊下の窓からふと下を見ると、群衆が集まっていた。いずれも幸せそうな顔で、期待に満ちており、クラナの登場を今か今かと待っている。此奴らに自分の真の心を見せてやりたいものだと、クラナは思い、ふと笑いを零していた。一番人間を道具として考え、客観的に見ている存在が自分である。その自分が、此奴らの幸せと平和を作ったのだ。何とも皮肉な結果であり、苦笑無しに語れない事であった。

「くっくっく、皮肉なものだな、まったく」

「何が、でございますか」

「何でもない。 くだらぬ、本当に下らぬ事だ」

鬼神の笑みを浮かべたクラナは、そのまま廊下を歩き出す。部下達がその後ろに続く。新しい時代の到来を祝う民衆が待つテラスへと。

この時、新しい時代が始まったのである。クラナ朝バストストア王国が。クランツ大陸で最も発展した、神聖女王の王国が。

テラスから手を振るクラナに、民衆は歓呼の声で応えた。彼らは知識層が思うほどに馬鹿ではない。自分たちを現実に平和な国へ導いたクラナへ、感謝の意を示したのである。

 

史上最高と言われる名君、クラナ=コアトルスによって作られた国と時代が、こうして始まった。彼女だけの居場所は、歓声と共に完成したのである。

 

(終)