ヒトノネガイ

 

序、若き皇帝

 

王国軍がクラナを先頭に猛反撃を開始する丁度同じ頃から、皇帝フルグ=アイネストは病に伏せっていた。彼は元々高級軍人達の傀儡で、後宮の女と庭園の石の形にしか興味を見せず、帝国が危機に陥りつつある事など知らずに死んだ。有る意味、それは幸運な事であったかも知れない。彼が死んだのは、リリフトハイル攻略に出発した帝国軍二十個師団が、第十二次ストラスファール平原会戦で壊滅した、その二月後の事であった。

王国軍連戦連勝の報は、帝国南部の旧王国領、ルクトー山脈南東部でしがみつくように残っていた王国領などでの、反帝国運動を活発化させた。帝国は、最初の数十年ほどは善政を敷いて民の支持を得ていた。だが、此処最近の旧王国領土に対する搾取は激しく、また差別や迫害も顕著であった。故に、民衆は恨みを抱き、結果反乱軍は力を増していた。帝国軍は対応に追われ、右往左往しながら、新しい皇帝の即位を行った。現在帝国を動かしているのは高級軍人達だが、傀儡としての皇帝は必要だったからである。弱体化したとはいえ、まだそれなりの力を持っている王国のクインテーズ七世と比べて、確かに皇帝は不幸であったといっても良い。

そうして玉座に据えられたのが、まだ十一歳のワタウだった。

ワタウは心優しい少年であった。彼は元々皇帝の庶子であり、宮中でもあまり高く評価はされていなかったのだが、それが逆に周囲から悪い大人を遠ざけ、良い隣人を集める事に成功した。彼の心優しさは、酷薄な兄たちと一線を画しており、しかし後ろ盾が一人もいなかったので、帝位への道は遠かった。しかし国民達には人気があり、彼の即位は確かに多くの民を喜ばせたのである。

無論、彼が玉座に据えられたのには理由がある。その最たるものが、数々の高級軍人の戦死と、クラナによる敗北を最小限度にくい止め続けた結果、ついに大将に昇進し、帝国内での地位を確固たるものとしたジーグムントの行動であった。彼は現在帝国軍を指揮している、即ち実質上帝国を支配している四名の高級士官を呼び出し、取引を持ちかけたのである。

 

暗い、少し手狭な部屋の中であった。部屋の中央には丸テーブルが、その中央には蝋燭が立てられている。椅子に座っているのは、ジーグムントと、二人の元帥、二人の大将である。深い皺を顔に刻んだニーネ元帥は、若い頃は才色兼備として知られたが、今は神経質な事ばかりが目立つようになってしまった女性である。その隣に座るフッツ大将はコネと運だけで這い上がってきた男で、人をまとめる能力はそれなりにあったが軍才は皆無である。何しろ、凡将が指揮する半数の敵に敗北した事があるほどなのだ。その隣に座るのは、若き頃は猛将として知られ、今は粗暴なだけになってしまったグプト大将。そして最後の一人は、昔は戦場の知将として知られながらも、今は保身にしか興味を示さなくなってしまったルカルーカ元帥であった。

彼らの顔を見回すと、一度思わせぶりに咳払いし、ジーグムントは言った。何度も死線をくぐり抜け、目の前にいる先輩達よりも二十年も早く大将になった帝国最強の驍将が、顔に緊張を湛える。

「皆様に集まって貰ったのは、新皇帝擁立の件です」

「うむ」

「今、フッツ大将とグプト大将がキュラス皇太子に、ルカルーカ元帥がヨーテン皇子に、そしてニーネ元帥がマルール皇子の後ろ盾になっています」

「き、君……」

あまりにもストレートな物言いに、声を上げかけたのはフッツだったが、グプトがその横顔に凶暴な視線を走らせる。

「いいではないか、フッツ大将。 事実その通りなのだし、くだらん歪曲が省けて助かる」

「まあ、誰もが知っている事だしな。 それで、何が言いたい?」

グプトの言葉に便乗したように、ルカルーカが猜疑心の強い視線をジーグムントに向けた。ジーグムントは何度も練ってきた言葉を、丁寧に一つずつ吐く。その全てが彼のカードであり、それをぶつけて四人全員を納得させなければならないのだ。

「三人の皇子達のいずれかが即位したとしたら、必ず皆様が、いや帝国そのものが損をする事になります。 後ろ盾になった者には過剰な権力が転がり込み、そうでない者には制裁や粛正が下される」

「その通りだな。 だがそれは戦場の習い、という奴だろう?」

「今の帝国で、そんな事になったら、確実に我が国は滅びます。 あのクラナが、近く数万の軍を指揮する立場になるのは確実です。 内乱に、あの武勇が外圧を加えてきたら」

ニーネの薄ら笑いが吹き飛んだのを確認し、ジーグムントは皆を改めて見直した。

「また、皇子達は皆素行が悪く、国民に嫌われています。 ただでさえ民の心が離れつつある現状、彼らの誰が即位しても、国民は喜ばないでしょう」

「……では、どうするというのだ?」

「皆様に、公平な痛みを受けて頂きとうございます。 或いは、馳走のお預けをして頂きたくございます」

「……なるほど。 ワタウ皇子か」

「ご明察、恐れ入ります」

ルカルーカの言葉に、ジーグムントは頭を下げた。今は保身ばかり考えるようになってしまったルカルーカだが、元々暗愚なわけではないのである。後は此奴らが想像以上の阿保ではない事を祈るばかりである。

彼らのいずれもが後ろ盾ではないワタウを選べば、一人が過剰な権力を握る事はなくなり、なおかつ残りが粛正される事もない。しかもワタウは国民の人気が高く、多少なりと不満をそらす事が出来る。そして此処にいる皆がそれなりに結託して後ろ盾に付けば、それなりの団結を示す事も可能なのだ。

しばしして、ニーネが最初に挙手した。

「分かった。 私は君の提案に乗ろう」

後はなし崩しに、他の三名も提案に乗った。彼らも、今の危機的状態には、それぞれ苦慮していたのである。そして五人は、三人の皇子達を後腐れ無く政治の舞台から抹殺する相談に入った。

一月もしないうちに、三人の皇子達は不名誉なスキャンダルを暴露され、いずれもが精神病院に送られたり、或いは地方の荘園に幽閉された。ただ、この暴露されたスキャンダルはいずれも事実だったので、別に卑劣な策謀が行使されたわけでもない。単に有るべき所へ、有るべき者が送られただけに過ぎない。

こうして、ワタウが新しい皇帝となった。国民は喜んだ。そして帝国は、およそ数十年ぶりに、一時的に団結する事となったのである。

 

1,暗闘

 

書類にサインをしていたクラナが顔を上げた。今彼女がいるのは、王都へ向かう宿の一室である。彼女は無言のまま戸へ歩み寄ると、無造作に拳を突き込んだ。一軒華奢な手が戸板を貫通し、鈍い音が立つ。そして悲鳴も。

「ぎゃあああっ!」

「バカが。 貴様など、喰う気にもならぬわ」

クラナが手を戸板から引き抜くと、それは鮮血に染まっていた。ドアを蹴り開けると、其処には命を既に落とした警備兵と、今彼女が倒した暗殺者の死体があった。手を叩き、クラナは部下に呼びかける。

「誰か!」

「はっ! ……! こ、これはっ!」

「これからは三人で警備に当たれ。 油断しないようにな」

「はい、申し訳有りません」

「謝罪はいい。 別に罪には問わないから、即座に仕事にかかれ。 ……私としては、この者を失っただけで、既に大きな損失なのだ。 これ以上部下を無駄に失いたくないのでな」

感動し、そして恐縮する部下。彼を下がらせると、次にクラナは軽く手を叩いた。そうすると、天井から二度板を叩く音がした。執務机に戻りながら、クラナは言う。

「今日は何人仕留めた?」

「四名です、クラナ様」

「結構。 明日は移動するが、道中油断するな。 ご褒美は、帰ってから与えるぞ」

今天井にいるのは、少し前に拾ってきたルルシャである。諜報任務でも暗殺任務でも使えるし、その上忠誠心に置いて比類無い。ちゃんと給料を与え、〈たからもの〉を守ってやれば絶対の忠誠を誓ってくるこの娘は、有る意味動物的だが、しかしそれが故にとても信用出来る。イオンも信用出来る腹心だが、この娘もその点に置いては代わりがない。この任務から帰還したら、屋敷を与えてやろうとクラナは考えていた。此処で言う信用とは、人間が言う信用と違い、〈裏切らないと確信出来る〉といった扱いだが、結局の所両者に大した差異は無い。

それにしても、である。トステーヤの攻撃は激しくなる一方で、だがそれが故に面白い。ここ三日で若干手応えの有りそうな敵三名を喰い、十八名ほどはそのまま殺した。周囲で影働きをしている諜報部隊も、ほぼ同数以上を倒している報告が入っている。兵士達はぴりぴりしており、良い意味での緊張感を保ち、その様は戦場が如しで実に心地よかった。

それにしても面白いのは、喰った相手から吸収した記憶より割り出されるトステーヤの居場所が、いずれも異なっている事だ。これは一筋縄でいかない相手だと、心の底でクラナはほくそ笑んでいた。

かってと違い、もうクラナにとってトステーヤは完全に政敵である。トステーヤとしては排除したいが、表だってそうは動けない存在なのだ。そしてクラナも、今は充分それに対抗して動ける力を身につけていた。

既に各地には、様々なつてを回して味方に取り込んだ貴族もいる。トステーヤのやり方は効率的だが、敵意も多くかっていて、それに上手くつけ込んだのだ。また、イツァム軍閥のナンバーツーという立場も利用していた。王国で現在事実上最大の力を持つ、そして人格的にも優れた老将軍にすり寄ろうとする貴族は多く、なおかつそのナンバーツーであるクラナに媚びを売ってくる者は少なくないのである。一度取り込んだ者は、それが欲しい者を的確に与え、更にコネを広げていく。或いは利益で、或いは恐怖で。クラナのネットワークは徐々に広がり続け、今ではトステーヤ閥の中にスパイも何人か飼っていた。

加えて、クラナは貴族に対して政治的なアドバイザーも積極的に行っていた。貴族の中には、愚鈍なだけで悪辣ではない者も多い。そう言った貴族には、施政が単純に分からず、民衆を心ならず苦しめてしまう者も多いのだ。そのような者達は本来政治を執るべきではないのだが、情況が情況なので仕方がない。クラナはそう言った者に、親切かつ的確にアドバイスを与え、場合によっては期間限定で、自分で育てた部下を貸し与えた。結果、彼女は貴族にも、その貴族の領地に住む民衆にも感謝された。そして支持者を増やしていったのである。

だからクラナを排除しようと、トステーヤは企んでいる。奴の部下の記憶からも、それを裏付けるものが幾つも出ている。ならばこちらも奴を排除するだけの話である。元々あの男は、クラナの出身に一度だけ近づいた事がある。排除する機会をずっと狙っていた事もあるし、今回は良い機会であった。喧嘩を売ってくる相手を叩きのめして何が悪い。何の躊躇いもなく、クラナはそう思っていた。

無言のまま政務に戻ったクラナは、しばしそれに没頭した後、今後数日のスケジュールに目を通した。一応副官にやらせてはいるが、その後彼女がきちんと目を通している。それによると、王都まではまだまだ時がかかる。つまり、この情況はまだまだ楽しめると言う事だ。

再び執務に戻る。一軒無表情だが、その心は愉快さに躍っていた。さながら、獲物を巣で待つ、蜘蛛の如き姿であった。

 

凄惨な戦いを経て王都にたどり着いたクラナは、五百の兵を連れ、そのまま王宮へと急いだ。この五百は、クラナ軍から選び出した精鋭達であり、王都にいる軟弱な連中とは比較にならない強者である。インタールとコルトスも連れているし、指揮官には最近部下にしたルラーテを据えている。ルラーテは何とも臆病そうな挙動を見せる男で、顔立ちも貧相で何とも弱々しいが、その識見は高く、副官に見かけがよい者を据えてそれを介して指揮を執れば充分以上に戦場をコントロール出来る存在である。兵士達の中には、その見栄えがいい副官をルラーテと思っているものも少なくない。専門分野は神出鬼没を旨にしたゲリラ戦で、また工作関係にも強い。第十二次ストラスファール会戦で、絶妙のタイミングで堤を切ったのも彼である。クラナの人員配置に隙はなく、その気になれば一万の包囲陣を突破する事も可能だ。強力な帝国軍と戦い続けたクラナ軍は味方からも畏れられているし、ましてや王都に残った軟弱軍隊など一ひねりである。

王宮は相変わらず華美なだけで、中身がない建物であった。しかし違っている所もある。以前来た時とは、貴族の視線が全く異なっているのだ。或いは媚びを売り、或いは露骨な敵意を帯び。クラナ自身が、大きな力を身につけた証拠である。豪華なだけで中身がないパーティの際もそんな調子であった。閥に取り込んだ貴族達は、積極的に挨拶をしに来たし、敵意がある貴族は見向きもしない。

空虚なパーティが終わり、翌日には式典が行われた。玉座の間の左右には上級貴族達が列び、様々な視線でクラナを見やっている。その間を進んだクラナは、適当な位置で跪いた。玉座は前よりも随分近くなっていた。近くなった至尊の椅子に座っている男は、特に感慨もなく書類を広げ、読み上げた。

「クラナ少将。 汝の施政に対する功績は言うまでもなく膨大であり、長年の戦功もまた計り知れぬ。 余としてはその鬼神の武勇に、三つのものをもって応えようと思う」

「はっ! 有り難き幸せにございます!」

声は広間に凛と響き、それだけで周囲の者を心理的に圧迫した。素早く視線を左右に送り、敵意を持つ者が青ざめ、媚びを売る者がますます畏敬の念を抱くのを確認し、クラナは素早く頭を下げなおした。

「一つは伯爵位である。 そして今ひとつは、中将の位である。 三つ目としては、それに伴い、クラナ中将に四つの州の監督権を与える」

読み上げられる四つの州。その最後の一つの名を聞いて、クラナは心中でほくそ笑んでいた。

『なるほど。 トステーヤめ、下らぬ事を考えついたな』

読み上げられた州は、エイハヴ州。ルクトー山脈南東部に残った、最後の王国属州である。現在では舟を使わないと行き来が出来ない上、帝国軍によって二重三重に包囲されている。

つまりである。前線から離れられないクラナとしては、部下を其処へ向かわせ、守らせるしかない。そんな遠い所を守らせる部下には腹心を当てるしかないし、守りきるのも骨だ。そして戦いに負ければ腹心を失ってしまう。もし勝ったとしても、その腹心には相当な地位を褒美として与えなければならず、クラナ軍の人事バランス自体が揺らぐのである。

「クラナ中将。 貴公ならエイハヴを帝国の魔手から開放しうると信じておる。 期待しているぞ」

「はっ。 期待に応えるべく、全知全能を尽くさせて頂きます」

これでクラナ麾下には、およそ六万の兵が配置される事になる。そのうち一万はエイハヴ州に駐屯する事になるから員数外としても、今までの倍近い大兵である。この戦力であれば、今まで無理だった帝国の要塞パイナードを攻略する事がぎりぎり可能になる。そうすれば、今までどうしても無理だった、帝国本土への侵攻が可能になるのである。帝国を制圧し、大陸を支配下に納めるには、どうしても帝国のパイナード要塞を落とす必要がある。その意味で、大きくクラナは前進したのである。

逗留している高級ホテルに戻りながら、クラナはエイハヴに送る人員の選択を考えていた。クインサー、リリセー、パーシィ、ルツラトらは既に外している。わざと地位を横並びにして、人事的なバランスを取っているのに、トステーヤの下らない策謀に乗ってそれを崩すのは愚の骨頂である。しかし負けるのも悔しいから、それなりに有能な者を送らなければならない。一度は自身で赴かねばならないなと思いつつ、クラナは人選を終えた。考え込みながら歩いているクラナに、副官をしているメラキトが恭しく頭を下げた。この男、軍才はないが堅実で人望があり、副官には丁度良いのである。

「クラナ様、リリフトハイルにお戻りになりますか?」

「いや、此処で私はやる事がある。 リリフトハイルには、この手紙を届けておけ。 護衛には二十人以上つけて、諜報部隊にも守らせろ。 そして、出来るだけ秘密裏にな」

懐から取りだした手紙を渡すと、クラナは更に先に歩く。ホテルの自室では執事やメイドが待っていて、彼らに上着を預けながら、クラナはなおもメラキトに言った。手早く着替えるうちに、いつしかクラナは普段着になっていた。これで鋭すぎる眼光がなければ、ツインテールという愛らしい髪型もあって、二十歳そこそこの明るく可愛い女性に見える。だが全身から発する圧倒的な殺気と、凄まじい眼光が、そんな印象を他者には与えない。

「これから私は外出する。 戻るまで、この者達は部屋から出すな」

「はっ……」

「どうした、不安か?」

「い、いえ、そのような事は」

困惑するメラキトと、不安げに周囲を見回す執事とメイド達を見回すと、クラナは口の端をつり上げ、大剣を手に取った。幾多の敵を斬り伏せてきた、血に飢えた鉄塊を。

「なあに、知人と逢い引きしてくるだけだ。 すぐに戻る」

 

闇夜を、クラナが駆ける。王都の家々の屋根を蹴り、月を背後に従えて、闇の獣が奔る。背後には、数人の諜報部隊が従っている。主力は手紙の方へ回しているが、此処にいる者達もいずれ劣らぬ使い手達である。彼らを従え、愛用の大剣を背負い、その重さを全く感じさせぬ軽やかさでクラナは行く。

手紙は陽動だ。トステーヤの能力から言って、わざとあれだけ物々しい行動してみせれば、絶対に察知してくる。そして察知すれば、戦力を裂かざるを得ない。既にトステーヤ麾下の戦力を、クラナは把握している。裂いた戦力の分を計算すれば、もう今此処にいる戦力だけで、トステーヤの実働戦力を壊滅出来るのだ。

昨日諜報員を拷問して吐かせた結果、現在の敵が集結している箇所は分かっている。まだトステーヤの居場所自体は分からないが、此処で敵戦力を潰しておけば絶対に先手を取れる。今までは様子見ばかりだったから、これでこちらから打って出る事が出来るのである。気配を消し、殺気を消し、クラナは奔る。そして、小さな貴族の別荘の上で、足を止めた。しばし目を閉じ、聴覚と嗅覚を全開にし、そして呟く。

「十五人か。 ふっ、結構残っているな」

「一人あたり四名弱ですな」

「バカを言うな。 私一人で十一人片づける。 お前達は、一人以上片づけるつもりで戦えばそれでいい」

風がなった。クラナが愛剣を振り、まとわりつかせていた布をふりほどいたのだ。鉄の塊の刀身に、月光が反射した。まるでごちそうをねだるかのように。

室内戦闘で、こういった長物は正直不利なのだが、クラナにそんな常識は通用しない。クラナは舌なめずりすると、手を振って部下達を屋敷の周囲へ散らした。これは斥候や見張りを排除させるためである。ほどなく闇の中で戦いが始まった。数多くの戦いと、訓練で鍛えた彼女の部下は、トステーヤの部下達に各自勝利し、気配を消していった。やがて、庭に潜んでいた見張りは全滅した。それを見計らい、クラナは屋根に手を掛け跳躍、掴んだ箇所を支点にして、窓を蹴り破り屋敷の中へ侵入した。部屋の中には四人の諜報員がいて、驚いて顔を上げたが、声を発する暇はなかった。

大剣一閃。

一撃で二人の首がすっ飛んだ。鮮血を引いて飛び、壁に叩き付けられ、鈍い音を立てる二つの首には構わず、クラナは更に倍する勢いでもう一閃を横殴りに叩き付ける。かろうじて第一撃を避けた者も、それにはどうする事も出来ず、胴を払われ、肋骨と内臓を砕かれて地面に転がった。もう一人は素早く飛びずさって逃げようとしたが、間を詰めたクラナが顔面を掴み、壁に叩き付ける。後頭部を砕かれ、脳漿を壁にこすりつけながら、男は床に沈んだ。血に染まった右手を舐めつつ、クラナは無造作に戸へ大剣を突き込む。悲鳴が上がり、戸を開けて串刺しになった諜報員が飛び込んできた。

既に五人を屠り去ったクラナは、廊下へ飛び出す。其処には弓を構えた諜報員が複数待ちかまえていた。飛び出すと同時に矢が飛来する。そしてそれは、クラナが右手一本で持ち上げた、今串刺しにした男の背を貫いた。

「シャアアッ!」

剣を引きずるように持って跳んだクラナが、呆然としている諜報員の顔面を蹴り砕いた。そのまま体を沈め、尻尾のように従えていた大剣を真上に振り上げ、そして前面へと振り下ろす。その無慈悲な刃は、更に一人の敵の顔面を砕いていた。大量の鮮血が飛び散り、それを浴びながらクラナが顔を上げる。更に一撃、加えて一撃。剣が唸るたびに死体が生産され、やがて場からは音が消えた。舌なめずりする彼女を見て、諜報員が小さく悲鳴を漏らした。もうその場には、一人しか残っていなかった。

「ひ、ひいいっ!」

「諦めろ。 私を敵に回した事が運のつきだ」

「ち、ちきしょおおおおおっ!」

意外な行動に、クラナの対応は一瞬遅れた。敵はそのまま、ナイフをひらめかせて突貫してきたのである。狭い廊下であるし、クラナはそれをかわしきれなかった。鈍い衝撃が奔り、脇腹にナイフが突き刺さった。男を抱きしめるような格好になったクラナは、にいと口の端をつり上げると、囁くように言った。急所は外したが、凄まじい痛みが脇腹に走っていた。だが、それ以上の喜びを覚えていたのである。右手に持っていた大剣を床に放り出すと、クラナは言った。

「く、くくくくっ。 良い根性だな。 気に入ったぞ」

「ひ、ひっ……」

「どうだ、私の部下にならぬか? それなりの待遇はしてやるぞ」

蒼白になった男は、クラナの腕から逃れようともがいた。だがその腕力は強大で、男は逃げられなかった。いつしかその手はナイフから離れていた。しばしの沈黙の後、男は言った。

「駄目だ、俺はトステーヤ様を裏切れない」

「ならば死ね」

無造作にクラナが右手で男の側頭部を掴んだ。男の頭蓋骨が砕けた。

 

「クラナ様、大丈夫ですか?」

「問題ない。 内臓は傷ついていない」

普段着をまくり上げ、包帯を巻かせながら、クラナは言った。彼女は今喰った男を見下ろしながら、心中で舌打ちしていた。既に隠蔽工作のために、頭は潰してある。周囲には、いずれも勝利した部下の諜報員達が、辺りを警戒したり、クラナの手当をしていた。

舌打ちしたのは他でもない。問題が無いというのは嘘であるからだ。今のナイフでの一撃は、結構痛かった。細胞の修復はすぐにでも出来るが、流れ出た血液や、補修のために費やしたエネルギーはバカに出来ない。出来れば今すぐ食事を取って休息したい所だが、そうも言っていられない。

この男の記憶から、最新のトステーヤの居場所が分かったからである。しかもそれは、存外に近くだった。今休んでいるわけには行かないのだ。多少辛いが、此処で動かなければ、彼女は勝利出来ない。勝利出来るにしても、その時間をずっと先に引き延ばす事になるのだ。そしてそんな重要任務を、他者には任せられない。

「一人はホテルに戻り、兵士百三十名ほどを連れてこい。 三十名を先発隊とし、百名は後発とする。 先発はコルトス、後発はルラーテに指揮させろ。 布陣は、それぞれに任せる」

「はっ」

「集合先は、王都北部のトステーヤ邸だ。 今、奴は其処に潜んでいる。 実戦装備で向かわせろ」

すぐに諜報員は頭を下げ、ホテルへ戻っていった。クラナは剣の鮮血を、近くのテーブルクロスで拭って落とすと、部下達を見回した。

「お前達は私に続け。 トステーヤのタヌキめに、止めをさしに行くぞ」

 

クラナが現場に到着するのと、コルトスが指揮する三十名ほどが到着するのはほぼ同時だった。最古参の一人であるコルトスは、女にしか興味がない男であり、だが女を世話さえしてやればそこそこに良い働きをする。文字通りのケダモノだが、そのケダモノを使いこなしてこそ、有能な司令官といえるのだ。有能な人材は得てして灰汁が強い。常識だの観念だのに拘りすぎる司令官は、結局天才レベルの人材を使いこなせず、勢力を伸ばす事は出来ないのである。

屋敷はさほど広くなく、質実剛健な雰囲気が漂っている。自分に若干似たものを感じ取りはしたが、別に気にせず、クラナは正門の前に陣取っていたコルトスの前に降り立った。コルトスは下卑びた、それこそ思春期の少女が見たら嫌悪で嘔吐しそうな笑みを浮かべ、主君に頭を下げた。この男は、こういう人間なのだ。だが武勇に関しては、インタールにそれほど引けを取らないのである。

「ひひひひっ、クラナ様、お疲れさまでやす」

「うむ。 お前達は屋敷から出てくる者を押さえろ。 抵抗すれば殺せ」

「ひひっ、抵抗しない場合は?」

「取り押さえ、縛り上げておけ。 もし警邏に聞かれたら、犯罪者がこの屋敷に逃げ込んだ、と言え。 もし五月蠅いようなら、私の名前を出せ。 取り押さえる以上の事はするなよ。 後から来たルラーテ隊には、屋敷をまんべんなく包囲させろ。 与える任務は、お前の隊と同じだ」

これは遠回しに釘を差したのである。別にクラナが優しいわけではなく、将来的な悪評の拡散を防ぐための布石であった。別にトステーヤ麾下の者が生きようが死のうがどうでも良いのだが、弱者を無差別に殺したら悪評が立つし、聞き出せる事も聞き出せなくなる。昔も無駄な殺しはしなかったが、最近はそれを更に柔軟にしていた。

クラナはコルトスが連れてきた者の中から、五人を素早く選び出すと、屋敷からついてきている諜報員二名と合わせ、八人で屋敷に踏み込んだ。

 

屋敷の中には、僅かな警備兵と、それに執事、そしてメイドがいるばかりであった。真っ正面から乗り込んできたクラナ達に、執事は猜疑の視線を向け、そして言う。

「このような夜遅く、何用でございましょうか」

「この屋敷に犯罪者が逃げ込んだ」

「犯罪者、でございますか?」

「これを見ろ」

クラナは執事に向け、服のボタンを外し、腹の辺りを見せてやった。メイドのうち血に弱そうな者が視線を逸らし、執事が息をのむ。クラナはボタンをかけ戻しながら、周囲に視線を配り言う。

「私に傷を負わせるほどの相手だ。 トステーヤ殿が危険だ」

「は、はい、しかし」

「捜索させて貰うぞ。 お前達、散れ!」

「はっ!」

一斉に部下達が散る。此処でもしトステーヤが出てくるようなら、この屋敷の人間ごと皆殺し。どこかに隠れているのを発見したら、〈犯罪者〉に殺されたと偽装工作。今手元にいる部下達は皆忠誠心篤く、何があっても、見ても口外はしない。そして口外するようなら、口を封じるだけの事である。

「お、おやめ下さい! そんな乱暴な!」

今は非常時だ! 失礼する」

おろおろする執事に一喝、彼は部下の一人に任せて置いて、クラナはまず地階へ降りた。上にいるなら逃げ道がないが、こちらにいたら地下道などを通って逃げ出す可能性がある。しばし周囲を見回し、クラナは口の端をつり上げ、床から絨毯の一枚を引きはがした。床には隠し扉があった。鍵など探している暇はない。無言で大剣を振るい、扉を木っ端微塵に吹き飛ばす。そして、そのまま梯子を伝い、床下に降りていった。背後にいた部下に、クラナは言う。

「見張れ。 誰も通すな」

「はっ! 心得ました!」

梯子の下には、まだぬくもりが残っていた。無論クラナに知覚出来るレベルだが、トステーヤが此処を通ったのは明らかだった。狭い通路が先まで延びており、ここは流石に愛剣を振るうには狭すぎる。クラナは大剣を上に残すと、そのまま這うようにして通路を進んでいった。途中蜘蛛の巣を何度かかき分けながら、彼女は追う。やがて、追いついた。

少し広い通路に出た。そこは下水道だった。そして、トステーヤがいた。蒼白になって振り返るトステーヤに、狭い通路から顔を出しながら、クラナは言う。

「どうしましたかなあ、伯爵。 鼠か蜘蛛の子のように逃げ出すなんて」

「くっ! お、おのれええっ!」

ナイフを引き抜くトステーヤ。クラナは下水道に降り立つと、指先で相手を挑発した。だが流石にクラナの武勇を良く知るトステーヤは慎重に間合いを計り、近づいてこない。目を細めたクラナは、ボタンを外し、腹を見せてやる。そこにはまだ修復が済んでいない、生々しい傷があった。

「私を倒すとなると、今しかないぞ? 貴様の部下がつけた、最後の一傷だ」

「……」

ここでべらべら研究所から逃げたのは私だとか、クラナは言ったりしない。もし逃げられたらどうなるか、先の事まで考えているからだ。間合いを詰めていたトステーヤは、気合いの声を上げて、ナイフを付きだしてきた。軽く立ち位置をずらして、それを紙一重でかわす。結構鋭い一撃であった。そのままトステーヤは、突き、薙ぎ、目まぐるしくナイフを繰って攻めてきた。何カ所か、クラナの肌が切り裂かれる。そして、クラナの目を、雷の様な一撃が貫こうとした瞬間。クラナは体を沈め、自ら距離を詰め、トステーヤの腹に掌底を叩き込んでいた。トステーヤの一撃は、残像を貫いていた。

「ぐ、ぎゃあああっ!」

大きくはじき飛ばされたトステーヤ。彼は背中から壁に叩き付けられ、一言呻くと地面に崩れ落ちた。頬の傷から垂れ落ちた血を手の甲で拭い、舐めると、ゆっくりクラナは倒した相手に近づいていった。

「結構手こずらせてくれたな。 だが、楽しかったぞ」

「私は……私は負けるわけには……いかぬ」

「もう王が権力を再び握る事を望む者など、この大陸に一人もおらぬわ。 未だに気づかないのか?」

顔を上げたトステーヤは、クラナを凄絶な目で睨んだ。クラナは身動き出来ない相手に向けて腰をかがめると、にんまりと蠱惑的な笑みを浮かべた。右手を相手の側頭部へ伸ばしながら、クラナは続けた。

「王族が長年の失政と搾取で積み重ねてきた結果だ。 本当はお前も、当然の事として分かっていたのだろう?」

「私は、王に恩義がある! 命をかけて、クインテーズ陛下を、この大陸の覇者にしてみせる! 例え、それを陛下しか望んでいなくても!」

「ふっ、皮肉な話だな。 ……まあいい。 私としても、お前を生かしておく訳にはいかぬ。 何か、言い残す事は?」

「バストストア王国、万歳」

トステーヤの頭蓋骨が砕ける音が、下水に響いた。

 

翌日、王都はトステーヤ伯爵変死の報告で持ちきりとなった。数日後に発表された公式発表は、大体以下の通りである。

彼を殺した犯人は、此処暫く王都で暗躍していた狂信者集団で、彼の他にもクラナ中将にも傷を負わせていた。狂信者集団の存在を知り、その恐るべき暗殺計画も知ったクラナ中将は、怪我を負わされながらも、部下をせかしてトステーヤ伯爵の保護へと向かった。しかし時遅く、トステーヤは狂信者によって頭を潰され、無惨な最期を遂げていた。トステーヤは殺されてしまったが、クラナ中将は狂信者集団のアジトを突き止め、仇を取る事に成功した。

これが公式に発表された事件の顛末である。クラナの人望は王都でも厚く、これを疑う者は誰もいなかった。

 

「余には、もはやそなただけが頼りだ」

王の言葉を思い出しながら、クラナは王都を後にしていた。事後処理を行った後、彼女を個人的に呼びだした王は、懇願するようにそう言ったのである。クラナは内心の失笑をこらえるのに苦労した。そして形だけは、色好い返事を示して見せたのである。

帰りは、殆ど襲撃の可能性すらなかった。馬に乗って、ゆっくり歩を進めながら、クラナは呟いていた。

「まったく、皮肉な話だ」

「へへへへっ、何が、でやすか?」

「うん、何でもない。 気にするな」

隣で気色の悪い獣じみた笑みを浮かべているコルトスに返すと、クラナは苦笑した。人間であるトステーヤが望んでいた世界は、誰もが望まない王だけに有利な世界だった。それに対し、クラナが将来的に作ろうとしているのは、民衆を第一に考えた政権なのである。無論それはクラナにもっとも都合がよい世界だからなのだが、それにしても皮肉な話である。クラナは腰にくくりつけている愛剣に触れて感触を確かめると、手綱を握りなおした。

戻れば、やる事が幾らでもある。新しい領地の整備、軍の訓練、要塞の攻略作戦の立案、エイハヴへの派遣人員決定、そして自らが赴く準備。そしてトステーヤの知識には、クラナにとって便利なものが幾らでも詰まっていた。貴族の弱みなど、掃いて捨てるほどである。勢力拡大に、これが一役買うのは確実であった。

王国で最大の敵を排除したクラナに、もはや国内の敵はいなかった。後は、勢力を着実に伸ばし行き、力を蓄える事であった。

 

2,パイナード要塞攻略戦

 

クラナがトステーヤを屠り去ってから、およそ一年が経過した。クラナはその間じっくり力を蓄え、軍と領土の整備を行っていた。その間帝国との小競り合いが二回起こったが、領土を侵犯してきた帝国軍部隊は、いずれもクラナ隊に一蹴され、全くリリフトハイル要塞に近寄る事さえ出来なかった。

クラナがエイハヴ州に派遣した人員は、なんと驚くべき事にルラーテであった。この人事には誰もが驚いたが、だがエイハヴでの戦線をルラーテは完璧に維持し続け、クラナの期待に応えた。元々ゲリラ戦に適した彼は、最も得意とする場所に投入されて、能力を最大限に発揮したわけである。二度ほど、クラナは極秘でエイハヴに赴いて情況を調査したが、特に口を出す点はなかった。このまま敵を防ぎ続けるようにと言い残して、それだけで仕事は終わった。もっとも、この地方の帝国軍に、大した指揮官がいないのも理由の一つではあった。

また、クラナの元では、政治家ばかりか、経済官僚も育ちつつあった。後に悪名を轟かせるルングを始めとした何人かが、南部の諸都市にて活動し、エイハヴへの補給物資や、クラナ軍の軍需物資を的確に調達し、力を蓄えるのに一役買った。

クラナ軍は公称で六万の正規兵を抱えていたが、実際にはエイハヴにはおよそ一万五千、北部戦線では七万の兵を維持する実力を持っていた。他の中将に比べると圧倒的な実力であり、経済力でも群を抜いていた。そして民の支持も充分に得ていた。

そして、クラナ軍が満を持して動き出したのが、大陸歴にして千十七年の事であった。

 

クラナ軍は決して単独で動いたわけではない。勿論イツァム大将の許可を得て、その一軍として動いたのである。そういった義理をきちんと通す所が、クラナ軍の将兵の忠誠心を更に高めていた。基本的に多くの人間は謙虚な相手にこそ、忠誠を誓う傾向がある。クラナは良くそれを知っていたのである。

クラナ軍はおよそ六万を動員し、その戦力は全軍の三割に達している。イツァム軍は全体で二十万、要塞に駐屯している帝国軍二万五千の実に八倍である。先鋒のクラナ隊は突出して一足先に包囲網を整え、その後にゆっくりイツァムの本隊が到着した。それに少し遅れて、帝国の援軍が現れた。数は十二万。今回はジーグムントが不在で、その代わり帝国で二人しかいない元帥のうち一人が出陣している。緻密な用兵で知られる、ニーネ元帥である。なるほど、クラナ隊を突破するべくニーネが敷いた陣は緻密で、良く考え抜いてある。クラナは少し小高い丘に本陣を置いており、其処から眺めやりながら、単純に感心していた。

「ほう。 流石に古豪だな。 布陣の緻密さも重厚さも今までの帝国軍指揮官とは雲泥の差だ」

「慎重な用兵が必要になりますね」

「いや、それは却ってまずいな。 一旦戻るぞ。 相手もすぐには仕掛けて来るまい」

仕掛けてきたとしても、充分に防ぎきれる布陣は既に済ませてある。だからこそ言える台詞である。

パイナード要塞は、王国軍のリリフトハイルに比べて、平城の要素が強い。その代わり、帝国の築城技術の粋を集め、分厚く高い城壁、考え抜いた構造の堀で周囲を守り、放射状に配置した砦と有機的に結合して強固な防御力を産み出している。砦の幾つかは既にクラナ軍が攻略したが、まだまだ本城はまったく小揺るぎもしない。

要塞の周囲を更に囲むようにして、強固な陣を築いているクラナ軍の少し後方に、イツァム軍本隊が控えている。パイナードという点をクラナ軍が囲み、東に帝国軍、西に王国軍が布陣しているという形であった。無論地形を最大限に生かしており、両者ともに大きな隙はない。

兎も角、このままだとクラナ軍も本格的な攻城戦には入れない。この辺りは地盤が固く、水の手も取りづらい。また、平原が何処までも広く続いていて、水攻めも難しい。勿論、援軍がなければじきに落とせるが、そう簡単にはいかない。クラナ隊の攻城戦を、帝国軍はありとあらゆる手で邪魔しにかかるのは確実だ。

この戦いは短期戦になる。イツァムの陣へと歩きながら、クラナはそう考えていた。

 

以前、リリフトハイルが攻囲された時と全く逆の情況である。クラナ隊としては、要塞内外から息を合わせて攻撃されれば面白くない。逆に要塞側からすれば、積極的なゲリラ戦でクラナ隊を引っかき回したいと考えているのは確実だ。クラナとしてみれば、そうなった瞬間、敵城に乱入するチャンスも産まれてくるわけで、むしろ攻撃は積極的に歓迎したい所だ。

双方共にちょっとしたタイミングのミスが命取りになる戦いである。実際問題、前回の戦いで城内に陣取ったクラナを手に負えなかった帝国軍は、再布陣を余儀なくされている。無論クラナはこの一年で要塞の構造を徹底的に調べ尽くしたが、それでもこの要塞が手強い事に代わりはなかった。防御壁は実に三重。それぞれが互いに連絡しあう構造となっており、しかも中央から全ての位置が見渡せる。城塞都市となっているリリフトハイルよりも、要塞としての構造は上である。しかも、生半可な弓では、そもそも城壁の上まで届かない。扉は分厚く、破城槌を一撃二撃叩き付けたくらいでは埒が明かない。

もっともこの城を力攻めする気など、クラナには最初から無かった。

軍議は厳かに始まった。イツァムは最近体調を崩しているが、少なくとも皆の前で弱みは見せていない。道具であっても、それなりの敬意をクラナが払い続ける所以である。

「今回の作戦について、皆の意見を聞きたい。 帝国の戦略拠点を潰すと言う事は、確かにずっと守勢だった我が軍が攻勢に転じる好機となる。 しかし、だ。 敵のパイナード要塞の堅固さは噂以上であるし、敵は名高きニーネ元帥が陣頭指揮を執っている」

「此処は、我らが敵主力を押さえ、その間に、クラナ殿に要塞を落としていただくしかないでしょう」

そう言ったのは、親クラナ派の中将であった。そんな識見で良く中将がつとまるなとクラナは内心想い、続いて挙手して発言した。

「ふむ、それも良い手ですな。 私としては、別に提案があります」

「ほほう。 如何なる手ですかな」

「まず要塞は後回しにし、敵の増援を全力で潰します。 そしてその後、要塞を心理的に圧迫し、相手の心から叩きます」

天幕の中はしんとした。かろうじて、先ほど発言した中将が声を絞り出したのは、たっぷり十秒は経った後だった。

「な、なるほど。 しかし、要塞の押さえはどうしますかな? 要塞内には、まだ二万五千の兵が健在。 これに背後を突かれては、面白くありますまい。 それにニーネ元帥の陣には隙が無く、一気に勝負を決めるのは難しいかと」

「それに関しては、考えがあります」

そう言って、クラナは用意していた、緻密な布陣図を広げた。

 

まずクラナが仕掛けた第一手は、オーソドックスな夜襲であった。クラナ自身が指揮する最精鋭三千を用い、夜陰に乗じて敵本陣へ切り込んだのである。最初こそ、派手に敵は乱れたが、すぐに体勢を立て直した。この辺りの士気の高さ、指揮能力の高さは、流石に古豪ニーネ元帥である。大した実戦経験もなく、貴族と言うだけで元帥になっている王国軍の腑抜け共とは違う。

敵はすぐに秩序を立て直した。クラナはそれほど大きな損害を与えられず、また受ける事もなく、一旦距離を取った。そして、自陣を見てほくそ笑んでいた。燃えさかる自陣を。

「やはり打って出たな」

 

帝国軍の要塞司令官ハウス中将は、ニーネ元帥の陣から炎が上がり、乱れ立ったのを見て顔色を変えた。夜襲を受けているのは明白であり、それに苦戦しているように見えたのである。

派手に乱れているニーネ軍に対し、要塞を包囲しているクラナ軍はしんとしている。対し、ゆっくり移動しているのはイツァム軍である。即ち、夜襲を行っているのはクラナ軍と言う事になる。即ち、今は敵の背後を突き、陣を焼き払う好機と言う事だ。

「一万は要塞を護れ。 残りは我と共に出撃せよ!」

ハウスは一万五千の兵を率い、慌ただしく要塞を出た。案の定クラナ軍の陣は静まりかえっていて、その中を帝国軍は全く抵抗を受けずに進んだ。最初に違和感を感じたのは、ハウスの副官だった。

「司令! 幾ら何でも、これはおかしいです!」

「ニーネ元帥の陣へ夜襲をかけるのであれば、あのクラナといえども、総力を挙げねば無理だ。 何処がおかしいというのだ」

確かにその言葉は正しいようにも思えた。しかし、次の瞬間。帝国軍の周囲から、一斉に殺気が沸き上がった。ハウスは見た。闇の中に浮かび上がる、指揮杖を振り下ろす、眼鏡を掛けた指揮官の姿を。それはクラナ軍中枢の一角を担う、パーシィ准将だった。

およそ五万の兵が、一気に一万五千の兵を押し包んだ。炎が上がり、もみくちゃにされ、叩きのめされた帝国軍は、必死になって要塞に逃げ込んだ。

 

クラナの目的は、要塞の兵をおびき出し、ある程度叩く事。更に、逃げる敵に紛れて、諜報部隊の者を要塞内部に忍び込ませ、あらかじめ忍び込んでいる者と連絡を取らせる事であった。くわえて、伏兵に叩きのめされた以上、要塞の敵は警戒して出撃してこなくなる。出撃してきたとしても、少ない押さえで十分対応出来る。大げさに夜襲して見せたのは、それら全てを読み切っての事であった。作戦自体はすぐに思いついたが、緻密な作戦案を立てるには、パーシィやリリセーと協力して二月を費やした。

ニーネ隊はクラナ隊本陣を攻撃しようとしたが、既に要塞の兵を粉砕していたパーシィの防御は鉄壁で、引きさがざるを得なかった。そして、わざとらしく戦場を迂回してきたイツァム隊と、押さえの一万を残しておよそ五万で出撃したクラナ隊が合流し、十二万のニーネ隊と向かい合ったのは、陽がすっかり姿を現しきった頃であった。クラナ隊にしてみれば連戦だが、勝ち戦の後であるし、士気は高い。ごく自然な流れとして、両者は激突し、戦いが始まった。

全く隙がない鶴翼陣を引くイツァム隊に対して、ニーネ隊は魚鱗陣を敷いている。昼まで、両者の戦いはさぐり合いに終始され、クラナも前線に出る事はなく、だらだらした戦いが続いた。帝国元帥がわざわざ引き連れてきた兵は流石に強く、クラナ隊も迂闊には手が出せなかったと言う事もあるのだが、もう一つ大きな理由があった。

ニーネ隊は堅固な陣を築いて、攻防共に隙がない。攻撃には必ずそれ以上の戦力で応戦し、後退する時には必ず味方が支援する。教科書のように正確なのだ。正確であり、神経質でさえある。要は細かすぎるのであり、それが逆に隙になるのである。

夕方、そろそろ両軍の疲労が限界に達した瞬間。王国軍は、全軍雪崩が如き勢いで、無数の小部隊に別れて攻撃を開始していた。

 

「帝国軍が混乱しています!」

「やはりな。 ニーネ元帥は神経質すぎるのだ。 この様子からして、全軍の指揮にいちいち口を出していた事は間違いない。 だから、適当に疲れた所へ、対応しきれないほどの多方向から攻撃を仕掛けてやれば、この通りだ」

興奮して声を上げる参謀に、クラナは静かにそう答えた。要塞兵への押さえに残しているパーシィを除く諸将が、既に攻撃の命令を待っていた。クラナは自ら大剣を引き抜き、構えると、轟くような声で号令した。

「総員、突撃! 古豪の人生に幕を引いてやれ!」

今まで力を温存していたクラナ隊が、総力を挙げて帝国軍に襲いかかった。こうなるともう、神経質で緻密な反面、剛性の突撃には弱いニーネ軍は、どうする事も出来なかった。クラナは大剣を振るって真っ先に敵陣へ突撃、逃げ腰になった敵を片っ端から斬り伏せた。全身に返り血を浴び、舌なめずりして戦うクラナを見て、帝国兵は更に戦意を無くした。王国軍はクラナの奮戦に負けじと各自突撃し、戦いは一方的なものとなった。

夕刻には、戦は終わった。またしても敗退した帝国軍は、三万八千ほどの死屍を残し、傷ついた体を引きずって撤退していった。ニーネは生き残ったが、もう王国軍に戦いを挑む余力は残っていなかった。

 

ニーネ元帥の軍を追い払った王国軍は、改めて要塞の周囲に布陣した。わざと旗を多く立て、毎日のように援軍が来たような偽装をしてみせる。毎日猛攻を仕掛けるわけではないが、夜も鬨の声をあげ、城兵の心理を一瞬の隙もなく圧迫し続けた。そして間断なく、嫌がらせの火矢を叩き込み続けた。小高い丘の上に立ち、要塞の兵達が疲れ切っている事を遠めがねでのぞき込んで確認したクラナは、口の端をつり上げていた。

攻城戦は今日で一月目である。帝国軍が態勢を立て直し、再び援軍を送り込んでくるまでには、まだ二月はかかる。もう少しギリギリかとも思っていたのだが、案外上手くいきそうであった。

「良し、今晩ケリをつけるぞ」

はい。 これで、ついにこの要塞が落とせますね

笑顔で頷くパーシィ。クラナとしても、最小限の被害でこの要塞を落とせるのは、実に喜ばしい事であった。冷徹非常に見えるが、道具が傷つかずに勝てれば、当然嬉しいのである。道具には、道具とは言え、それなりに愛着を感じているのだから。

 

3,時代の終わりと……

 

帝都バイバにて、傷だらけになったニーネ元帥が頭を垂れていた。彼女が頭を下げている先には、即位したばかりの皇帝が、玉座に鎮座している。まだ背も低く、筋肉もろくすっぽついていない、弱々しい少年が。

「臣の力至らず、凶賊を排除出来ませんでした。 この責め、如何様にも」

「良い。 戦の勝敗は兵家の常だ。 しばし休養し、復讐戦に備えるが良い」

少年の言葉には淀みなく、武官も文官も感心して顔を見合わせあった。聡明というのではないのだが、一生懸命言葉の意味を勉強して、誠意を持って応えている感じである。再び頭を下げ、ニーネは退出していった。少年皇帝は、灰褐色の瞳を細めて、側に控えている青年に言う。

「アーシュ。 要塞へ、今からでも、もっと多くの援軍は派遣出来ないのか?」

「もう、遅いかと思われます」

「どういう事だ?」

「つい先ほど、要塞陥落の報が届きました」

「そうか……」

青年の言葉に少年皇帝は、自分の事のように、心底残念そうに肩を落とした。少年は一旦自室に戻ると、先ほどよりもずっと柔らかい口調で、傍らの目元涼しげな青年に聞く。

少年にとって、この青年は兄に等しい。一応皇子ではあったが、誰にも注目されずにいた頃から、彼はいつも側にいてくれた。誠実で、いつも憧れていた。名門の出ではない平軍人だが、そんな事は関係なかった。だからプライベートの時は、肉親の兄と同じように接していた。

「アーシュ、どうやって要塞は落ちたの? 僕もパイナードの設計図は見せて貰ったけど、あの要塞が落ちたなんて信じられない」

「敵は要塞に立てこもった将兵の心を徹底的に責め立てたのです」

「こころ……を?」

「はい。 まず敵は、要塞を後にして、ニーネ元帥の軍を撃破しました。 そしてもう援軍は来ないと、暗に要塞の者達の心を締め付けたのです。 その後は、わざと力攻めはせず、要塞の者達が一瞬も気を抜けないように、いつも外で大声を上げ、攻撃するふりを繰り返しました。 そして要塞の者達が油断した頃を見計らって、不意に本格的な攻撃をしようとしたりもしました。 要塞にいたハウス将軍は無能でありませんでしたから、それらにいちいち対応し、すっかり疲れ果ててしまったのです。 城内には裏切り者がいるという噂も流れ、兵士達は疑心暗鬼に陥り、自分以外の全てを疑いあったようです」

ワタウはそれを聞くと、心底辛そうに肩を落とした。

「そうか、辛かっただろうね」

「そうでしょうね。 そして敵は、疲れ果てた城内に手の者を忍び込ませ、彼方此方に放火させました。 いや、或いはあらかじめ忍び込ませておいた手の者を、その時に暴れさせたのかも知れません。 兎も角城内は大混乱になり、同士討ちさえ起こり、その隙に戸は内側から開けられ……戦意を失った兵士達は、殆どが戦わずに降伏したそうです。 ハウス将軍は、自害したという報告も、或いはクラナ将軍に斬り殺されたという噂もあります。 ……帰されたわずかな捕虜から、聞いた真相が以上です。 捕虜は殆ど帰されませんでしたが、強く帰還を望む捕虜だけは、クラナ将軍が帰してくれたのです」

アーシュがクラナという名前を口にする時、少しだけ畏怖を含んでいた。クラナの度がはずれた武勇は、恐怖の対象であると同時に、畏敬の対象ともなっている。帝国軍の皆が彼女を畏れていた。アーシュは特にその傾向が強く、時々尊敬しているのではないかと思わせるほど、楽しげに彼女の事を語る事があった。同じ傾向を示している帝国軍人が今一人いる。ガルクルス中将である。

「いずれにしろ、これで敵はパイナードを起点に、帝国内部にいつでも侵攻する事が出来ます。 クラナ将軍がその先手になる事は疑いありません」

「国家の一大事だね」

「はい。 しかし国民は相次ぐ敗戦と、上がり続ける税に苦しんでいます。 兵を臨時徴募したら、反乱が起きかねません」

「手持ちの兵は、どれくらいいるの?」

「総力を挙げれば、おそらく三十五万は集まります。 しかし、敵が本気になれば、およそ六十万の兵を動員出来るはずです。 しかも敵はパイナードを手にしています。 もはや我が軍に、真っ正面から敵を受け止める力はありません」

悔しそうにアーシュは言った。ワタウはしばし沈黙した後、言った。

「アーシュ、君はどうしたいの?」

「……此処だけの話、私はクラナ将軍を敬愛しています。 新しい世を作るのは、間違いなくあの鬼神です。 あの方は強く、しかも英雄に相応しい心の持ち主です。 出自などには拘らず、能力に応じて地位と名誉を下さる。 民も虐げない。 間違いなく、時代を代表する、真たる英雄です。 本来なら、こんな腐敗した国は放り出して、側に仕えたいほどです。 しかし、私はワタウの側に産まれてしまった。 ……ワタウ、貴方を守るのは、武人としての願いよりも強い、私個人の願いです。 私は命をかけて、貴方を守ります」

「嬉しい。 でも、重荷だよ……」

それは正真正銘の本音であった。本音を言える相手だから、漏らせる苦痛だった。

「僕は、どうすればいい? どうすれば、君の、兵士達の忠誠に応えられるの?」

「じいと相談しましょう。 老いたりといえど、あの方は帝国の創世期を支えた知将です」

今ではすっかり覇気を失った、老人の事をアーシュが口にすると、少年皇帝は静かに頷いた。

 

クラナの功績は誰もが認めるものであった。当然のように、パイナード要塞は彼女の指揮下に組み込まれた。そして、実に二十年ぶりに帝国からむしり取った新領地は、彼女の支配下に組み込まれたのである。

王都からの使者より、その辞令を受け取ると、クラナは要塞の一室に向かった。戦いに勝って後、伏せられている事だが、イツァムの病状が悪化したのである。報われる事なき戦いを続け、クラナの出現によって常勝将軍となり、王国を支え続けた心優しい老人は、ベットに伏せって起きあがれなかった。膨大な過労と、複数の病魔が、枯れた体を蝕んでいたのである。

クラナとイツァムが昵懇の仲だと言う事は、誰もが知っている。イツァムの部屋の前で陣取っていた兵士達は、クラナの顔を見るとすぐに敬礼して退いた。クラナは戸を開けると、ベットの脇に設置されている椅子に腰掛け、籠に入れて持ってきた甘い汁を含んだ果実を手に取り言う。

「イツァム将軍」

「おお、クラナ将軍」

「御加減はいかがですか?」

「今は大分良い。 ……そうさな、後二年ほどは生きられるじゃろうてな」

何を弱気な、と言って笑いながら、無く子も黙る将軍が、自分の手で丸い果実の皮を果物ナイフで剥く。ナイフが皮を削り実に添って滑るたびに甘い汁がこぼれ、周囲に芳香が満ちる。王国の南部でしか取れない、ユンノと呼ばれる絶品の果実である。丸く赤いその実は、数日かけて発酵させると、甘みと酸味が融合した天下の珍味となる。その実を切り分けたクラナは、それを盆の上に載せると、丁寧に小さな串までさして、イツァムにさしだした。

「好物でしょう。 どうぞ」

「……すまぬな」

「いえいえ、もっと長生きして貰わぬと困ります」

緩慢に体を起こし、実を口に入れたイツァムは、うんうんと頷きながら美味を褒めた。クラナは優しく表情を緩めて見せた。別に何の事はない、ただのサービスである。この道具は随分役に立ったし、多少は喜ばせてやってもよいだろうと、闇の獣は考えていた。

しばし果実を口に入れた後、イツァムは目を細め、クラナに向き直った。

「……クラナ将軍、真面目な話がある」

「何ですか?」

「単刀直入に言おう。 わしが死ぬまで、簒奪はしないでくれると嬉しい」

驚きはしなかった。単純に感心して、ほう、とクラナは内心呟いていた。無論、表情を変化などさせない。続きを言えと視線で促し、イツァムは頷いて語り続ける。

「お前さんは、こんな腐った国にも、帝国にも収まる人材ではない。 膨大な野心と、強烈な新風を持つ者だしの。 いずれは、この国を簒奪するつもりだったのじゃろう?」

「ふっ、良くお分かりで」

「わしも長生きしてきたからの。 クインテーズ陛下に、お前さんが忠誠を誓っていない事など、とうに知っておったよ。 だがな……わしにとって、お前さんは可愛い孫のようなものだった。 それを知っていて、良くしてくれたんだろう?」

「其処までお分かりでいながら、どうして私を放って置いたのですか? まあ、貴方が私を排除にかかったら、私だって黙ってはいませんでしたがね」

全く表情を換えはしないが、クラナの全身から発せられる強烈な威圧感は、その強さを数段増しにしていた。イツァムも笑顔を崩さない。場の雰囲気は全く違うのに、二人の表面だけは変わらなかった。如何に物騒な会話が為されているとしても。

「……それでも、お前さんが良くしてくれたのは、事実だった。 ……わしに優しかったのは、お前さんだけだった。 利用するつもりだったのは知っていた。 だが、お前さんは利用するつもりであっても、優しい時は本当に優しかった。 わしに良くしてくれる、その行動理由に下心はあっても、行動自体に下心も、面倒くささも無かった。 あんな奴らより……お前さんの方が……。 お前さんがいてくれたお陰で、どれだけ救われたか」

「……」

老人の家族は、最近になってようやく現れるようになった。軽薄な連中で、権力を手に入れたイツァムにこびる色が露骨だった。別にクラナではなくても、家族と自称する連中が彼を老廃物扱いしてバカにしきっていた事が、すぐに分かるほどである。この老人は、本当に寂しい想いをしていたのだろうと、今更にクラナは悟っていた。

確かにクラナはその心の隙間につけ込んだ。そして利用した。だが、きちんと誠意を尽くして接してきたのも事実である。老人と話す事を面倒くさいなどとは思わなかったし、色々と彼が望む事もした。嫌がらず、本気で。いわばその関係は、ギブアンドテイクに近かった。クラナにしてみれば、イツァムを利用出来るのなら、彼が喜ぶ事に躊躇いなど考えなかった。

確かにクラナにとってイツァムは道具である。しかし、道具として最大の敬意を払い続けても来たのである。多くの人間に、それを批判する資格など無い。単純に人間の外にいる存在であり、幸せにも不幸に興味がない。逆にだからこそ公平になれる。良いわけでも悪いわけでもなく、単純にそう言う存在。それがクラナである。イツァムが言ったとおり、行動の理由に下心はあっても、行動そのものには何の下心もなかったのである。吸収した経験からもたらされる計算はあったが。

「わしは、お前さんを孫だと思っている。 だから、最後のわがままをお前さんに言いたい。 わしは古い男だ。 クインテーズ陛下には、恩義があると思っている。 だから、あの方が至尊の座を追われるのを、生きているうちに見たくないのだ」

「……」

「返事を聞かせてくれ、クラナ中将」

クラナは目まぐるしく計算をしていた。帝国を制圧し、王国を制圧するには、まだ力が足りない。経済力も、人材も、軍事力も、情報力も、もっと欲しい。貴族ももっと多く膝下へと組み伏せておきたい。敵の情報も、更に欲しい。

イツァムは後二年くらい生きられると言っていた。実は、その見立てに関しては、クラナも同じである。そして、侍医から同じ報告も受けている。二年。力を増すのに、大体それくらいかかる。やがてクラナは、声が聞こえる範囲に人がいない事を確認した。聞いている存在などいない。魔術の気配もないから、絶対にその心配はない。

様々な魔術書を与えた結果、イオンはこの要塞全てを、魔術的に探るくらいの事が出来るようになっている。無論魔術がかかっているかどうかくらいしか分からないが、それで充分だ。イオンを出し抜ける魔術師など、現在の王国にはいない。様々な計算を終えると、クラナは小さく嘆息した。色々役に立った道具である。まあ、最後の願いくらい聞いてやっても良いだろうと思ったのだ。イツァムの顔を見て、クラナは優しい笑みを浮かべた。

「分かりました。 このクラナ、貴方の願いを確かに聞き入れましょう。 貴方が生きている間は、簒奪をしません」

「おお、おお。 すまぬな、すまぬな……」

「構いませんよ。 まだ力を蓄えたいと思っていた所でしたし、ね」

それだけ言うと、クラナは再び実を剥き始めた。それ以降は物騒な会話もなく、場には平和な雰囲気が戻った。

程なく、クラナに大将の階級と、竜軍北部司令官任命の辞令が届いた。同時にイツァムは元帥となり、王国軍最高司令官となった。

この時、確かに歴史は変わった。

 

4,ふつうの、おんなのこ

 

ロドリーが、故郷のフェステに手紙を送ったのは、念願かなって騎士団長になった、その翌日の事であった。手紙は長く、覚悟が切々と綴られていた。

《シリス、僕は騎士団長になった。 貴族になって、領土を手に入れたんだ。 南部の貧しい土地で、地図は此処に同封してある。 もし貧しくて暮らしていけなくなったら、いつでも訪ねておいで。 お前の事は、留守役に伝えておく》

一拍置いて、手紙は更に続く。

《僕には、其処へ向かう前にする事がある。 僕には、やらなくてはならない事があるんだ。 それによって、命を落とすとしても、僕は悔いがない。 だけど、シリス。 お前の事は心配だから、手紙を残す。 もし僕の消息が途絶えたら、もうこの世にはいないと思って欲しい。 迷惑をかける》

その後は、事務的に、読み終えた後に手紙を燃やすように指示が続いていた。

 

その日、クラナはパイナード要塞の執務室で政務を執っていた。それには全くよどみが無く、膨大な書類が見る間に決済されていく。しばし時間が経ち、一息ついて茶を啜ったクラナに、メラキトが頭を下げた。

「クラナ様」

「うん?」

「来客です。 騎士団長が、貴方に個人的に話があるそうです」

「騎士団長?」

クラナは小首を傾げた。騎士団といえば、もう有名無実化している存在である。有能な人材もいないし、関わり合いになった事もない。しばし考え込んだ後、クラナは新しい書類にペンを走らせながら言った。

「今は忙しい。 後にしろ」

「はっ」

「一応、名前くらいは聞いてこい。 それと用事もな」

「かしこまりました」

すっかり忠実な副官としての仕事が板に付いてきたメラキトが、深々と頭を下げた。

忙しいというのは、全くの事実である。何しろ竜軍北部司令官になってから、各地に部下を派遣して政務を担当させ、軍の再編成を行っていたからである。現在の実質戦力は二十五万ほどであるが、これは帝国本土へ侵攻するには足りない。それに、まだ軍を把握し切れているわけではない。人材も足りない。人材を更に集め、経済を立て直し、貴族の力を少しずつ削りながら、彼らとのコネを深めていく。同時並行でそれらを行うわけだから、確かに忙しい。最近は、細かい政務は部下達に任せている。だが今日は、自身で決定しなければ行けない事が山積みされているのだ。

フラットナーの実を囓りながら、クラナは提示された問題に、どう答えようか思惑を巡らしていた。その思考を中断させたのは、メラキトの言葉である。

「名前を聞いてきました」

「うむ。 それで」

「ロドリー様、だそうです」

目を細めたクラナは、二秒ほどの沈黙の後、手を叩いた。

「ルルシャ、少し用がある」

 

人を遠ざけた私室。其処へクラナは入り、ロドリーを待った。カーテンは閉め、警備兵も遠ざけてある。理由は一つである。

やがて、腰に剣だけを帯びたロドリーが、暗い部屋に入ってきた。昔の習慣で、一応騎士には貴賓の前での帯剣が許されている。自然体で立ったままのクラナに、ロドリーは表情を緩めた。

「クラナ……やっぱり間違いない。 僕だ、ロドリーだよ」

無言のまま、クラナはロドリーを観察した。戦闘能力が飛躍的に上がっている。相当に厳しい訓練を積み、それなりの修羅場を潜ってきたのは間違いない。顔立ちはすっかり大人のものとなり、随分と背も伸びた。だが、変わらないのは。

クラナへの愛情。

ロドリーはクラナに一歩近づき、そしてなおも言った。

「クラナ、僕は騎士団長になった。 騎士団長は、貴族としての地位もあるんだ。 貧しいけど、小さな領地もある」

「……」

「もう、君をこれで護れる」

護れる、と来た。クラナは表情を変えなかったが、心中で結論していた。此奴は変わっていない。以前と同じである。確かに強くはなったが、根本的な面では、何一つ変わってはいない。

少し首を傾げたクラナに、ロドリーはなおも言った。

「僕は、強くなりたかった。 ずっと強くなりたかった。 だってあの時! 君を護れなかったのは、僕が弱かったからだ。 何の力も持っていなかったからだ!」

「……」

「君もだろ、クラナ。 君だって、身を守るために力を振るったんだろ? 振るってきて、今の地位を確保したんだろ?」

それは確かに正しい。だが、決定的に違ってもいる。クラナは自然体を崩さぬまま、ロドリーの挙動を見守った。

「もう、いいんだ。 これからは、力なんて振るわなくて良い。 僕が君を守る。 田舎になるけど、二人で暮らそう。 君は普通の女の子に戻れるんだ。 結婚して、子供を育てて、編み物したり、お茶したりして、平和な生活が送れるんだ。 女の子としての幸せを、取り戻せるんだ」

「……」

「行こう、クラナ。 ここから逃げよう」

ロドリーが、まぶしい笑顔で、手を伸ばした。握手を求めるように。いつでも、さしのべられた手を取れるように。クラナも手を伸ばした。そして、一撃の下、ロドリーの腹を貫いていた。

 

鮮血が噴きだした。左手の一撃で内臓を貫通し、致命傷を与えたクラナは、絶句して自分に寄りかかってきたロドリーの、側頭部を右手で掴みながら言った。

「まあ、あっている部分もあったが、勘違いが多すぎるな、ロドリー」

「が……がはっ……」

「まず第一に。 私は護って貰う必要など無く、充分に自身を護れる。 むしろお前の守護など、迷惑なだけだ。 おっと、騎士団長殿、まだ死ぬなよ。 言いたい事はまだ有るんだからな」

わざと左手は引き抜かず、頭を掴みあげて、視線を合わせる。蒼白になっているロドリーの目をのぞき込みながら、クラナは続ける。

「続いて第二に。 私は、力を振るう事に躊躇いなど無い。 身を守るために力を振るっているのは確かだが、権力を得る事は充分に楽しいのでな」

「……く……ぐっ……」

「そして第三に。 普通の女の子としての幸せ、だと? くっ……はははははははは、はーっはっはっはっはっはっはっは!」

ずぶりと音がして、クラナの左手が、更に深くロドリーの腹に潜り込んだ。クラナの声が、凄まじい殺意を帯びた。

貴様ら人間の、しかも一方的でくだらん視点で、私という存在を自分勝手にはかるんじゃあないっ! 何が普通の女の子だと? 何が女の子としての幸せだと? クラナとしてではなく、一つの存在として、今の貴様の寝言は不愉快だ! そんな寝言は、可能性を狭めるだけだと分からないのか!? くだらん枠組みに、相手を当てはめて満足しているだけだと分からないのかっ!? 今の言葉だけで、貴様は万死に値する! それに加えて!

不意に、クラナの声が変わった。フェステにいた頃の、可愛い女の子だったクラナの声に。

「私、いったよね。 もう一度姿を見せたら、殺すってさ。 まあいい。 此処まで来られた努力は評価して、私の一部にしてあげる」

ロドリーの目から、涙がこぼれ落ちた。クラナは、それに何の感慨も受けなかった。ロドリーの頭蓋骨が、砕ける音が響き渡った。

 

静かになった部屋で。クラナは手を二回叩いた。入ってきて、頭を下げたルルシャに、クラナは言った。床には、頭を踏みつぶした、ロドリーの死体があった。

「このゴミを片づけておけ。 仮にも騎士団長だから、事故死を装って処理しろ。 似た者を探して、アリバイ工作も忘れぬようにな」

「はい」

深々と頭を下げ、忠実なルルシャは下がろうとした。クラナはふと気づいて、呼び止める。彼女らしくもないミスを犯そうとしていた事に気づいたのだ。

「忘れていた。 着替えもすぐに持って来るようにな」

 

騎士団長の死。それによって、悲しみを受けた者は、大陸でも少数しかいなかった。それはフェステ村のシリスと、子供達だった。それ以上の影響は、何一つ無かった。騎士団長とは、王国において、そんな程度の存在でしかなかった。

長く続いた戦乱の時代が、終わろうとしている。膨大な流量を誇る悲しみの大河に、幾つかの涙粒がこぼれ落ちても、気づく者などいなかった。

大陸歴千十九年。イツァム元帥の死と同時に、クラナがついに帝国軍総司令官へと登り詰めた。一つ時代が終わるカウントダウンが、この時開始された。その音を聞いた者は、決して少なくなかった。クラナという存在が、それを可能にしていたのだった。

 

(続)