ヒトノタタカイ

 

序、隠者

 

テスカポリトカは、バストストア王国辺境の、貧しい地域である。人口は一応それなりにあり、穀物の生産高は一応〈平均〉以上だと公式書類には記されている。しかし、その記録は、アイネスト帝国が出来たばかりで、まだその脅威が貧弱だった頃の物である。現在では、長い粒のキムルも小さな粒のヨッツも、記されている分量の半分しか取れないのだ。これは戦災によって間接的に荒れたのである。

この地方は、一応王国と帝国の最前線地帯にあるが、少し東のアンツアルデルスのように、戦いのたびに蹂躙されるわけではない。むしろ、帝国軍がこの地区に侵入した事など、数えるほどしかない。しかし戦いの度に税は高くなり、物資は調達され、その上悪徳官吏が税金をピンハネして私腹まで肥やした結果、それなりに豊かだったこの地方はすっかり荒れ果ててしまった。

情報伝達に使う最速の手段が狼煙や馬程度しかないため、どうしても中央から離れてしまうと、政治はいい加減になりがちだ。だが、この地方は辺境とはいえ、王都からそう遠くはないのである。この国が如何に腐っているか、荒れ果てているか、此処に住む農民達の表情が教えてくれる。

乾いた畑を、無気力に耕す、憔悴しきった表情が。

 

幾つかの都市と、点在する村。どれも疲弊が激しいが、その中の一つに、それでも比較的ましだといえる物があった。村の名はトゥル。真実という意味の古い言葉で、人口は四十人に満たない。此処は、村長ではなく、〈先生〉と呼ばれる一人の識者が導いている村である。村長もいるにはいるが、彼も先生を頼りにしていて、悪くいえば殆ど言いなりだった。村長ですらそうなのだから、他の村人達も情況は同じである。特に子供達は、良く〈先生〉に懐いている。

〈先生〉という核がいる事によって、トゥル村の団結は非常に強固な物となっている。団結が強固である事は、村自体がとても外圧に強い事も意味する。結果、この村の者達は、悪徳官吏に付け入る隙を見せず、普段は丁寧に計画したスケジュールに添って農作業を行い、結果多少の余裕がある生活を送る事に成功していた。だが、それも毎年厳しくなり続けていた。

王国軍が負け続けである事は、こんな小さな村の者達の耳にまで届いてくる。それに比例するように税の取り立ても厳しくなっていく。〈先生〉は無論村人達と団結してそれに出来るだけの抵抗をしたが、何しろ村人は四十人ほどしかいないのだ。軍隊や、国家といった強力な力を前にしては、あまりにも無力。厳しい取り立てで怪我人が出る事もあり、心を痛めながら〈先生〉は村人達の支えになり、彼らを慰める事しかできなかった。

村人達にとって、既に軍隊は敵以外の何者でもなくなっている。軍の今までの所行を考えると仕方がないが、とかく若い者達は暴発しやすく、〈先生〉も彼らをなだめるので必死だった。それに、村の窮状や農業施設の荒廃を訴える書状を何度も送っているのに、何もしない無能な王国に対しては、彼もほとほと愛想が尽きていた。

統治官が変わったという話を、〈先生〉は聞いたが、さほどの期待はしていなかった。州都で悪徳官吏が一掃されたと聞いても、である。新しく赴任してきた貴族は、戦場で立身を果たした豪勇だと聞いていたので、その後は大した手もないだろうと踏んでいたのである。だがその新しい統治官こそが、彼に新しい人生展望を示す事になるのである。クラナという名の、恐るべき統治官が。

 

1,束の間の平和

 

王国軍の久しぶりの大勝利は、同時に帝国軍に対して痛烈な打撃を与えていた。帝国は国境線の要塞地帯から一歩も出る素振りをみせず、一息ついた王国は、財政の再建を始めていた。クラナがテスカポリトカに赴任した頃は、どの地方でも似たような光景が繰り広げられていたのである。流石に、今の王国軍に逆侵攻を掛ける余裕などはなく、王もそれを理解していたため、事態は最悪の情況を逃れる事が何とか出来た。貴族の中には理解していない者もいたが、最近は王であるクインテーズ七世が自らの権限を拡大しており、自然に押さえ込まれていた。

テスカポリトカでは、帝国軍に習い、屯田制が開始された。屯田制というのは、辺境の荒れ地に兵士を根付かせ、農民としても活用する方法である。平時は農業を行って体を鍛えさせ、戦時にはそのまま活動出来る。しかも農業で常に鍛えているので、戦闘能力を高め、体力も付ける事が出来る。更に耕作地を拡大し、国自体の穀物生産高をも上げる事が出来るのだ。ただ、完全に農民にしてしまうと、収穫時期には戦闘出来なくなってしまうという欠点がある。帝国軍はこれを有効活用して、富国強兵策を押し進め、結果王国軍を今まで押してきた。現在の防衛戦が安定するまでは、帝国は破竹の勢いで勢力を広げ、ルクトー山脈の東は殆どかの国の領土となってしまった。テスカポリトカはかっては豊かだったが、現在は荒れ地や未耕地も多い。屯田制はこの土地を再生させるのに打ってつけの制度だった。

この土地にいた元々の守備兵達には早めに暇を出し、使えそうな者や、やる気のある者だけを再雇用した。その上で、一ヶ月ほどクラナは部下と共に東奔西走し、土地の情報を徹底的に集めた。すると、色々に面白い事が分かってきた。

最近クラナは、ほとんど州城に住み着いている。さほど大きな平城ではないが、堅固で質実剛健で、無駄が無くてクラナは気に入っていた。その上周囲は良く開けていて、その気になれば此処に大都市を建設する事も可能である。

一方で、住居に決めている旧領主の屋敷にも、足繁く通っている。それが宝物の管理のためだと知るものは少ない。知っているのはイオンくらいである。しかも政務は誰も文句をつけられないほどきちんとこなしているので、不満を漏らす者は誰もいない。

ともあれ、城の執務室で、後ろ手を回し歩きながら、クラナは言う。彼女の視線の先には、跪いているショパンとルツラトがいた。

「となると、現状で此処は、悪徳官吏の寄り合い所帯に近いというわけだな」

「御意……」

「ふむ。 連中を取り込むのと、放り出すのと、どちらが効率的だと思う?」

「私には計りかねます」

そう言ってショパンが頭を下げたので、クラナは苦笑していた。クラナにしてみれば、相対的多数の民衆を道具にするためには、悪徳官吏共を一掃するのが一番早いというのは知っているのだ。そして、それはショパンもルツラトもである。

土地が貧しいのは、殆どが人為的な理由である。戦争で税の取り立てが激しい上に、中央に賄賂を送ろうと悪徳官吏共が更に税金を上乗せしているのだ。すっかり現在では民衆が疲弊してしまっている事は、村や州都を見ても明らかだ。彼らにとって見れば、悪徳官吏共は文字通り不倶戴天の敵であり、此奴らを生かしておけば民衆に彼らの同類と見なされる可能性が高いのである。

貴族が戦死していなくなった後は、この土地は悪徳官吏共の寄り合い所帯と化した。当然彼らも出世のために必死だとか色々理由はあるのだが、そんな事はクラナにとって知った事ではない。彼女は人間の幸にも不幸にも、そもそも道具として以上の興味がないのだ。

「官吏共のリストは揃えたか?」

「はい」

「では、それはルツラトに任せろ。 ショパン、お前は各村の情況をクインサー、リリセーと調べて回れ。 その上で二人と協力し、適正な税金と荒れ地や未耕地の数、水の便や地の利も調べておけ」

「了解しました」

実はクインサーとリリセーは、既にイオンやパーシィと協力して、その作業に当たっている。他の旅団長達は、州都を周り、こちらの情報を集めている。彼らは前回の戦いでクラナの恐ろしさと、クインサーやリリセー、それにパーシィの能力を知っているから、振り落とされまいと必死だ。こういった競争は精鋭を産む原動力だが、同時にやりすぎると却って混乱を招いてしまうので、手綱の引き所が難しい。

ショパンが退出した後、クラナは何人かの官吏に印を付け、跪いたままのルツラトに言う。寡黙で有能なこの男は、充分に兵団レベルの指揮を任せる事が出来る。クラナも、将来はそれなりの地位を与えてやるつもりだ。

「この者達を逮捕しろ。 抵抗したら殺せ」

「罪状はいかが致しますか?」

「そんなもの、幾らでも集まっている。 税金の上乗せ、若い娘の拉致監禁、禁止されている薬物の売買。 もし証拠が見つからなければ、適当にでっち上げるつもりだったが、その必要もなかったな。 やはり人間は、外部からの圧力がなければ弱体化する。 此処は連中の王国で、だから弱ったのだ。 これでは簡単すぎて、張り合いがないほどだな」

無言で頷いて、ルツラトは出ていった。クラナが此処で油断して、返り討ちに暗殺されるような者なら、彼は此処まで従ってきていない。

此処に赴任して一月、そろそろ民衆も動きを欲している頃である。始めて手に入れた地盤。活用するためには、其処に根付いている者達の心を掴んで置かねばならない。

基本的に人間は外部から見える物で相手を判断する。特に地位が致命的に違ったり、遠くに住んでいる相手の場合は、それが顕著だ。

「さて、次は……」

ゆっくり振り向くと、クラナは執筆机に向かい、幾つかの書類を書き始めた。

貴族になり、土地に赴任してから、クラナは情報収集組織を作った。これは以前アイゼンハーゲンに確保していた連中を呼び寄せて、彼らを中心に作り上げた物だ。情報収集に長けた者が多く、そこにクラナは兵士達から適正者を選抜して、荒事専門の部隊も作った。彼らにはクラナが直に以前食べた諜報員の記憶を利して様々な事を教え込んだほか、ショパンや元マフィアの者から情報戦の心得を教え込ませた。一月だから、まだプロと渡り合えるほどの力はないが、半年以内には物になるはずであった。また、クラナはイツァムの方にも手を回して、其方からプロを雇って使おうとも考えていた。

屋敷の執事として家族と共に呼んだライレンも、かなりいい仕事をしている。彼は主に若い者に物事を教えたり、屋敷で暮らしている者達に様々な教育を施していた。温厚で心優しい老人である彼は、屋敷の中から使えそうな者を探し出したり、ただの乱暴者を勇敢な戦士に育て上げる方法に長けていた。まだこちらに来てから間がないのに、もう数人が、クインサーやルツラトの元に士官待遇で配備され、ちゃんと仕事をしている。人物審査眼は一朝一夕で身に付く物ではないから、これは非常に貴重な人材である。そう言う意味で、クラナとしてはまだまだ長生きして欲しいおじいちゃんであった。因みに彼の孫娘は、屋敷でメイドとして、可もなく不可もなく働いている。

クラナが書いた手紙は、一通はライレンに。一通はイツァムに。そしてもう一通は、現在西端の街へ赴き、情報を集めているインタールへの物である。見本品のように丁寧な文面で書き上げると、クラナは手を叩き、兵士を呼んだ。護衛を五人ほどつけさせると、すぐに手紙を搬送させ、更に次の仕事に入った。この地区の情報を示す書類が山ほど届けられてはいるのだが、公式書類と、既にクインサーが送ってきた物とで差が有りすぎる。しばしそれに目を通した後、クラナはまた追加で兵士を呼び、素早く書いた手紙を手渡した。

「これをルツラトに届けろ。 出来るだけ急げ」

兵士が走り去ると、イオンが摘んできたフラットナーの実を砕いて、二つ、三つと口に入れる。イオンは兎に角評判が良くて、老人や子供とすぐに仲が良くなれる為、彼らから情報を容易に引き出し、持ってくる。実際下心がない彼女の優しさは、そう言った連中の心を引きつけるに充分だった。そのイオンの報告書を読みながら、クラナは何人かの名前を記憶し、そして再び果実を口に入れた。仕事は、まだ幾らでも残っていた。

 

ルツラトの作業が終わったのは、夕刻であった。クラナは不安げに視線を交わす悪徳官吏達の前に姿を現すと、最初から高圧的に言った。

「さて、何か申し開きは?」

「こ、こんな事をして、ただで済むと思わない方がよいですな!」

「そうですとも! 我らには、中央にコネクションがあるのですぞ!」

「それがどうした。 それにしても、私を恫喝するとは面白い連中だな。 ルツラト!」

呼ばれると、寡黙で忠実な男が前に出た。いち早く来た報告書では、案の定彼らの屋敷から動かぬ証拠が山ほど出てきたという。先ほど兵士に手渡した手紙は、屋敷の中を強制捜索する際に、全ての屋敷を同時に押さえろと言う指示であった。ルツラトはクラナが頷くほど、完璧にそれを執行して見せた。その結果、連中は証拠を隠す暇が無く、結果充分以上な証拠が更に出てきたのである。

「叩けばまだ情報が出てくるな。 必要と有れば拷問しろ。 一人二人なら、殺してもかまわんぞ」

「はっ!」

それでもまだ悪徳官吏達は大言壮語を口にしていたが、ルツラトが本気である事を、一人が斬り捨てられる事で悟らされると、途端に態度が変わった。クラナは、後から追加で、この様な指示も出した。

「一人一人を別々の部屋で尋問しろ。 他の奴の罪を告白すれば、罪を軽くしてやると言えば、労せずに情報が手に入る」

展開は正にクラナの言葉通りになった。自白に次ぐ自白が繰り返され、山のように証拠が出た。しかもそれは、ルツラトの的確な捜査で、すぐに裏付けられた。

翌朝、クラナは彼らのうち特に悪質な者数名を選び、何事かと集まる州都の住民達の前に引き出した。痩せている都民達に比べて、ブタのように太った彼らの姿は、悪い意味で印象的である。蒼白になっている彼らを、民衆が敵意の矢で突き刺す。クラナは用意させた台の上に立つと、二メートル以上もある大剣をゆっくり引き抜き、良く通る声で集まってきた民衆へ言う。

「我が民達よ! 汝らを苦しめ続けてきたこの者達に、今正義の裁きが下る!」

現実はそんな簡単ではないと、知った上でクラナは言う。民衆は案の定喜びの顔を見合わせ、ヤジを飛ばし始めた。殺せ、殺せ、殺せ、殺せ。今まで積み上げてきた憎しみを、虜囚と落ちた官吏達に叩き付ける。その声が頂点に達するのを見計らって、クラナは大剣を天高く掲げた。

そして思わせぶりたっぷりに、風を切って大剣を振り下ろす。そしてその合図と同時に、兵士達が悪徳官吏共の首を叩き落とした。民衆は血に酔い、歓声を上げた。民衆といわず貴族といわず、人間が大好きなものは、自らの行動を肯定してくれる正義と、血である。無数の複合知識からそれを知っていたクラナは、内心失笑しながら、軽く高揚した笑顔を表面上は湛え、歓声を上げる民衆を見やっていた。

「クラナ様、ばんざーい!」

現金な誰かが叫び、歓声は周囲にも波及していった。

 

悪徳官吏達が根こそぎ一刀両断された事は、クラナが意図的に宣伝した事もあり、瞬く間にテスカポリトカ全土に広がっていった。これは非常に効率的な見せしめになり、更に地方都市でも悪質な汚職官吏が何人か掃除されると、たちまち役人の態度は従順になり、農民達は歓声を上げた。もし此処で本当に民衆の事を考えている為政者ならば、自分で戦わなかった彼らの非をなじっている所だが、クラナにはそんな気などさらさらなかった。彼女は民衆を味方につけて、王座の土台にして活用する事だけを考えていたからである。

ゴミ掃除が一段落すると、クラナは一旦城にある財産と、悪徳官吏共から没収した財産をまとめた。かなりの金額が其処にはあり、国からノルマとして課せられている税を納めても、充分におつりが来る。これをそのまま農民に返してしまっても良いが、どうせなら発展に使うべきだとクラナは考えた。何しろ新しい制度を実行に移すのには、何かと金がかかるのである。ただ、餓死寸前の状態になっている幾つかの村々と最貧地区には、先に暫定措置として施しを行った。これも、コストに見合う効果が出ると知っての行動である。民衆といわず貴族といわず、人間は〈正義〉が大好きだし、それを実行してくれる英雄はもっと好きだからだ。気前よく見えるクラナの行動に、民衆はまた賛辞を惜しまなかった。

クラナは殆ど労せずして、打算のみを用い、戦場だけではなく政治の場でも英雄となっていた。しかしそれは、果たして〈悪い〉事であろうか。否、それは違う。

彼女が行った施しにより、餓死を免れた者は沢山いる。彼らはそのまま悪徳官吏共が政治の中枢に張り付いていたら、確実に未来を生きる権利を喪失していたのである。確かにクラナの行動には打算が満ちていたが、それによって救われた者も多く実在しているのである。しかも精神的な救いというような、相対的な価値ではなく、実際に生きていく権利と、明日につながった命の道をである。

強者の中には、道を切り開けず誰かに頼るくらいなら死ねなどとほざく者もいるが、そう言った連中は明日をも知れぬ生活を送っている存在を知らないだけだ。そうほざく強者は、或いは自身の道を自身だけで切り開いていけるやも知れないが、そんな存在など世界の中で一体どれだけいるというのか。誰もが強いわけではないし、強くなれるわけではないのだ。そして弱い者にだって、生きる権利くらいはあるのである。その弱い者に生きる権利を認めている物こそが、人間の社会だ。弱者にも権利がある世の中が嫌ならば、人間の世界を出れば良いだけの事である。別にそれは悪い事でも何でもない。ただし、人間の世界の都合の良い部分だけをつまみ食いしながら、弱者を侮蔑するような発言をする者は、強者でもなんでもない文字通りの寄生虫に過ぎない。

それらの事情をクラナは当然知った上で、行動している。彼女の場合、最初から自分を人間だとも思っていないし、利用する事しか考えていないから、却って〈非道な執政官〉ではなくなっているのである。皮肉な話だが、殆どの善人よりも、遙かにましな善政をクラナは敷く事が出来る。それが動かし難い現実なのである。

矢継ぎ早に税の引き下げと、無茶な労働義務が解除された。悪徳官吏共に玩具にされていた娘達も故郷に戻る事を許され、民衆はクラナに対する評価を一日ごとにあげていった。ほんの一月半で地盤を確保したクラナは、本当の意味で彼女の領地となったテスカポリトカを盤石にすべく、屯田制の本格的な実行を部下達に命令した。それに伴って、人材の収集と、細部への管理徹底を命令した。そして自らも先頭に立ち、実行を開始したのである。

急速にテスカポリトカは復旧していき、クラナの周囲には自薦他薦を含め多くの人材が集まり始めた。

 

2,日の出る場所へ

 

トゥル村の一角で、その日、〈先生〉は子供達に学問を教えた後、畑に出て農作業をしていた。やはりこういう村で暮らすには、どちらかというと知的生産要員である彼のような人物も、農作業は行わねばならない。そして〈先生〉自身、全ての根幹となるこういった産業を、決して嫌ってはいなかった。

識者〈先生〉はまだ若い。今年で二十三歳になる。その若さで、並の学者以上の見識を持つ彼だが、昔の事を聞かれても寂しく笑うばかりで決して答えはしない。バッケスト人特有の細面は、普段はその選民性から嫌われる事が多いのだが、彼に関しては別である。村の皆が誠実で心優しい彼を尊敬し、頼りにしている。そして頼られている事が分かっているから、彼は村の皆を守るために命をかけるのだ。決して彼は自分の事を〈優しい〉等とは思ってはいなかったが、それは彼の心とは裏腹に事実だった。

こういう貧しい農村では普通の事だが、彼には十三歳年下の許嫁がいる。まだ幼いが、良く気がつく優しい娘だ。兎に角良く表情が動く娘で、穏やかで落ち着いた〈先生〉とは好対照である。その娘、ククルカが、息せき切って駆けてきた。

「せんせい! せんせーい!」

「どうしたんだい、ククルカ」

「軍隊が来た! 凄い数だよっ!」

さっと表情を引き締めると、彼は農具を置いて、村の中央広場へククルカと急いだ。其処には既に村人達が集まっており、不安げに視線を交わし会っている。意見はまだ出ていない。〈先生〉を信頼しているのと同時に、依存しきってしまっているのだ。良くない傾向だと、〈先生〉は内心思ったが、しかし彼らが心配なのは事実であるし、それについてはコメントしなかった。自分にすがりついてくるククルカの頭を優しく撫でると、〈先生〉はいう。落ち着いた彼の声と表情が、村人達の不安を沈静化させていく。

「まず私が話をします。 その間、貴方達は、出来るだけ相手を刺激しないように、静かにしていて下さい」

「ああ、分かったよ」

「しかし、軍隊が来るなんて、どうしたんだろうねえ。 悪いお役人が一掃されたって聞いたけど、噂だけだったのかねえ」

「……いざというときは、皆散り散りに逃げる事。 いいですね」

静かに、だがはっきりと〈先生〉はいった。村人達は息をのむと、互いの顔を見回し会った。小さく嘆息すると、〈先生〉はククルカにいう。

「隠れていなさい」

「うん」

「いざというときは、裏山にでも逃げるんだよ」

「ううん、その時は私も先生と一緒に死ぬ」

ククルカは、いざとなると、てこでも自分の考えを変えようとはしない。今はともかく、後五年も経てば、尻に敷かれそうな雰囲気である。此処で議論する事の愚を悟った〈先生〉は、村長に小さく耳打ちした。村長は頷き、憎まれ役をかってくれた。

やがて、村人達の言葉通り、軍隊がやってきた。数はおよそ三百。どういう訳か軽装だが、それでも各自が槍と弓矢で武装しており、しかも規律が取れている。ただ、殺気自体は感じられなかったので、〈先生〉は小さく息を吐き、村長と一緒に、村人達をかばうように前に出た。

「こんな村に、そんな大勢で何用ですか?」

「何用か、とはご挨拶だな。 この書類を書いたのは誰だ?」

その声を聞いた瞬間、〈先生〉は背筋が凍った。別に怒っている風でもないのに、憎んでいる風でもないのに、声に含まれる危険因子の分量が限度を遙かに超えている。一応戦場に立った事もある〈先生〉は、本能的にそれを悟っていた。声の主は、〈先生〉が確かに書いた嘆願書を空で二三回揺らすと、馬から下りる。結構小柄であり、女だと気付くのに少し時間がかかった。しかもまだ若い娘である。髪をツインテールに結んで、動きやすく実用的な衣服を身につけ、鎧としては胸の辺りだけを覆うプレストプレートだけをつけている。物凄く大柄で逞しい馬の鞍には、巨大な剣が据え付けられていて、しかも使い込まれている跡があった。生唾を飲み込む〈先生〉に、若い娘の形をした超危険生物は、口の端をつり上げた。

「三度は聞かん。 誰だ、これを書いたのは」

逆らったら殺される。〈先生〉は直感的にそれを悟った。制止しようとする村長を振りきって、彼は前に出、跪いた。

「私です。 私が書きました」

「最初から名乗り出ろ。 時間の無駄だろうが。 お前達は作業にかかれ」

「はっ!」

動揺する農民達の脇を兵士達が通り過ぎて、〈作業〉にかかった。それぞれ非常に良く統率されていて、荷駄から農具やそのほかの道具を取り出し、荒れ地を耕し、或いは〈先生〉が指摘した、用水路の補修にかかる。三百人以上の訓練された技術持ちの人間の動きは凄まじく、農民達が苦労してもどうにもならなかった破損修復や作業が、見る間に片づけられていく。時々それを的確に指示しながら、強烈な危険因子を全身から放つ娘は、〈先生〉に振り返った。

「私の名はクラナ。 最近コアトルスという家名を貰った。 貴様の名は?」

「武名高き新領主様とも知らず、失礼を致しました。 私はシウクト=フランツ。 此の村で、学問を教えている者です」

「そうか。 なかなか的確な嘆願書だった。 貴様の出自などは気にしない。 だから私に仕えろ」

クラナと名乗った、娘の形をした何か途轍もなく恐ろしい存在は傍若無人にそう言って、後に付け加えた。

「お前が考えているよりも、ずっと好待遇で迎えてやるぞ」

 

兵士達の動きは的確で、わずか数日で、今まで滞っていた作業が殆ど片づいてしまった。農民達もやる気を取り戻し、農作業に精を出した。彼らは兵士達から税金の引き下げと、新田開発に対する優遇策を知らされたため、失われていた労働意欲を復活させたのである。若者達ほど、俄然やる気になっていた。それをむしろ苦々しげに見ながら、シウクトは、自らも鍬を振るって異様に手際よく仕事を片づけていくクラナに言った。クラナは恐ろしい事に、作業を率先して行いながら、政務の確認のために訪れる高級役人にも対応し、きちんと滞りなく政務を片づけている。並の手腕で出来る事ではない。

「……貴方は、恐ろしい人だ」

「褒め言葉として、受け取っておこうか」

兵士達は、クラナに絶対的な忠誠を誓っている。崇拝や敬愛と言うよりも畏怖の要素が強いが、それも無理がない。クラナは、貴族が泥まみれになって農作業をする事は恥ずべき事だという役人に、こう言い放ったのである。

「私は常に最前線で戦い、民衆と同じ位置に身を置く。 それが私が私であるが所以で、兵士達が私に従う所以だ」

しかもそれをポーズだけではなく実行し、加えて常に比類無い有能さを見せつけているのだ。これでやる気を出さない兵士がいない方がおかしい。それらを客観的に見て、シウクトは恐ろしいと言ったのである。無論彼は、村を救ってくれたクラナに、感謝もしている。閉塞していた村は俄然活力を取り戻し、荒れ地は耕され、水路には綺麗な水が輝きながら流れている。クラナは圧倒的な力を最も効率的に振るって、村を覆っていた貧困と暗雲を文字通り吹っ飛ばしてしまったのである。

しつこく残っていた切り株を、見る間に切り刻みながら、クラナは言う。

「さて、そろそろ返事を聞かせろ。 私に仕えるか、否か」

「もう少し、待っては頂けませんか」

「……ふん、いいだろう。 ただし、三日以内に結論を出せ」

バラバラになった大きな木の亡骸を、兵士達に運び出させながら、クラナはタオルで汗を拭い、兵士達が籠に入れて恭しく差しだした木の実を取って口に入れた。

 

クラナが何故三日という指定をしたのか、すぐにシウクトは悟る事になった。作業を終えて、家に戻った彼を、ククルカが難しい顔で迎えたのである。

「せんせい」

「なんだい、ククルカ」

「……出よう。 世界に」

笑いかけてシウクトは失敗した。いつもより遙かに真面目な表情で、ククルカが口をつぐんでいるからである。

「もうこの村は大丈夫だよ。 悔しいけど、あの人が一人で立て直しちゃった」

「ククルカ……」

「だから、もうここにせんせいはいらないはずだよ」

シウクトは絶句した。ククルカは確かに頭が良い子だが、一人でこんな考えを練り上げたわけがない。クラナがこういう考えに至るべく、誘導したのは間違いないのだ。つまりクラナは、数日でシウクトの急所とククルカの能力を見切り、即座に搦め手をついてきた事になる。

とんでもなく危険な存在を相手にしている事を、改めてシウクトは悟った。それに今ククルカが言った事は、悔しいながら間違いでもないのだ。貧しいからこそ、この村をまとめるために彼という強大な力と知識を持つ存在が必要だったのだ。シウクトは村人達の求心力を引き出すドラッグであったが、効果が強すぎるため、平時では存在自体が危険になる。狩りがなければ弓はしまわれ、猟犬は煮られて食べられてしまうのだ。村長は確かに善良な男だが、それは過去形になる可能性が非常に高いのである。

「せんせい、私綺麗な服なんていらない。 美味しいご飯だっていらない。 でも、一つだけ欲しいものがあるんだ」

「なんだい」

「せんせいの、幸せ」

幼い顔に精一杯大人びた笑顔を浮かべるククルカ。シウクトは完敗を悟った。彼の最も脆い急所であるのが、この娘の将来と幸せだった。だから、彼はクラナに従わざるを得なかった。

「……分かったよ。 ククルカ」

小さく息を吐き出して、シウクトは目を伏せた。平和な日が終わった事を、彼は誰よりも良く悟っていた。

 

ほんの三ヶ月ほどで、経済再建は完了していた。汚職官吏は一掃され、無駄だらけだった制度は改正され、農地は屯田兵達による強力な整備が行われた。それらは全て、クラナの圧倒的な力によって行われたのである。同時に、州城に務める事になったシウクトを含め、クラナの元には続々と人材が集まり始めていた。

各地で傭兵をしていた腕利き達、それに各部隊から引き抜いてきた有能な者達。この時期から、三年後までに集まった人材としては、後に鬼神と歌われた轟将フオメテルと、戦場で生涯一つの傷も負わなかったといわれる名将ルラーテなどがいる。クラナ自身探してきた人材としては、リリフトハイルで見つけたルルシャや、南部の都市ケィツアールで見つけてきたルングなどがいる。いずれも、出身、人種、皆バラバラで、だが一つ有能という事で共通していた。元々充実していたクラナ軍の陣営はさらなる充実を見せ、外に出よう出ようと言う活気が産まれた。

クラナの元に集まり始めた人材は、いわゆる荒くれと呼ばれる者ばかりである。一筋縄で扱えるような存在ではないのに、クラナの前ではまるで子犬のように従順だった。無理もない話で、散発的に続く戦闘で彼らはクラナの実力を見せつけられ続けたし、逆らったら何をされるか分からないと言う事も、身をもって学習したからである。

クラナは最前線に近い領土を与えられる事によって、必然的に参戦する機会が増えた。その際に留守の統治を任されたのが、シウクトだった。

 

シウクトの元に、クラナ出陣の報が届いたのは、彼が雇われてから半年の事であった。帝国軍が態勢を立て直し、およそ十万の兵を整えて、前線に出てきたのである。対し、王国軍は八万ほどの兵しか用意出来ず、クラナに救援要請が出たのである。

経済再建が完了したテスカポリトカでは、クラナが兵を集め、戦の準備を始めた。彼女の指揮下にある正規兵はおよそ八千だが、農民の志願兵は実に四千に達していた。しかも強力に進められた富国強兵策の結果、最盛期の収穫を取り戻したテスカポリトカは、その兵力を充分に養える経済力を手に入れていた。

クラナは相変わらず最前線に立って、兵の集結と編成を同時に行い、常識外の速度で出陣準備を整えていった。帝国軍は現在、リリフトハイルに猛攻をかけてきており、悲鳴に近い救援要請がひっきりなしに届いていた。まだ準備が整わないイツァムからの要請もあり、クラナは急ぐ必要があったのである。

兵が集結するまで一週間。補給態勢の確保が整うまで一週間。完全な情況ではないとはいえ、今回は巧遅よりも拙速を選ぶ必要がある。農民兵二千を予備戦力として整えると、合計一万の兵を率いて、クラナは出陣した。今までは民衆の冷たい眼差ししか注がれなかった王国軍なのに、今は歓声と共に戦地へ送られている。否、王国軍ではなく、経済再建を果たし汚職官吏を一掃したクラナに歓声が送られているのだ。

クラナが黒馬に乗り、悠々と護衛を従え城を出る。その後ろには、クインサー、リリセー、ルツラト、パーシィ、イオンらの諸将が従っている。

「シウクト!」

「お呼びでございますか?」

馬上からクラナが呼びかけると、いそいそとシウクトが姿を見せた。今回は留守番であるインタール、ショパン、ライレンと共に、クラナの側に跪く。クラナは馬を止めると言った。

「留守は任せる。 与えた目標を達成しておけ」

「はい」

彼らが与えられた目標は三つ。戻るまでに、志願兵二千を使い物になるように訓練しておく事。作業予定の耕作地を、整備しておく事。そして、領内で彷徨いている、トステーヤ配下の諜報員の処理である。

最近は、トステーヤ配下の諜報員が殆ど公然とテスカポリトカに現れるようになっていた。最初のうちはクラナ本人が見つけ次第闇に葬ってしまっていたのだが、数が多くなってきたため、試験的に新設した諜報部隊に相手をさせている。彼らは組織的に戦う事で、トステーヤ配下の精鋭達を相手に、どうにか五分の戦いを挑む事に成功していた。何よりクラナは民衆を味方につけていたので、彼らの仕事は二倍も三倍もやりやすくなっていた。

指示を出し終えると、クラナは馬の手綱を引いて、戦場へ赴いていった。頭を下げていたシウクトは、小さく嘆息すると、額の汗を拭った。

戦場に赴くクラナに、彼はこのために雇われたのだ。クラナが戦場に赴いた際に、後背の政治状況を整備しておくために。今のシウクトは、それを良く悟っていた。

「頑張りましょう」

同僚達に振り向き言うと、皆無言で頷いた。クラナだけではなく、今度は彼らがシウクトを試すのだ。そして彼は、ククルカのためにも、その期待に応えなければならなかった。彼の戦場は、此処にあったのである。

 

3,リリフトハイルは血の都

 

帝国軍兵士は精鋭揃いである。少なくとも、王国軍兵士に比べると、数段上の実力を誇る。ここ数十年で、嫌と言うほど誰もが見せつけられ、認識してきた事実である。

要塞地帯であるリリフトハイルには、四個師団三万三千が駐留している。これに対し、帝国軍は六万の兵をもって要塞を包囲し、残りの四万で周囲を固め、無数の砦や出城を建設、防衛体制を整えた。これに対し王国軍は、イツァム大将がまず直参の精鋭四万五千を率いて出立、リリフトハイル郊外のターム砦に入った。ここでイツァムはすぐに帝国軍に勝負を挑まず、各地にすぐ伝令を飛ばし、兵の集結を待った。リリフトハイルには多くの物資が蓄えられており、すぐに陥落する恐れはなかったからである。しかし帝国軍の攻撃は激しく、連日のように王国側の砦が落ち、火の手が上がった。ただし、イツァムは常に冷静を保っていたので、混乱は意外に起こらず、致命的な事態だけは避けられた。

クラナを始めとする、イツァム麾下の諸将が集結したのは、帝国の猛攻が開始されてから二月ほど経ってからの事である。同時に帝国側も増援を集め、リリフトハイル周辺に展開した。王国軍はイツァム軍四万五千を中核とした九万。リリフトハイルには、激しい戦いの末、今だ二万五千前後が健在である。一方帝国軍は包囲軍に六万、防衛部隊に九万を擁していた。会わせて十一万五千の王国軍に対し、帝国軍は十五万。ただし、まだまだ多数の増援が期待出来る王国軍に対し、帝国軍は殆どこれ以上の援軍が期待出来ない。王国軍は兵士達から信頼篤いイツァムが主将である一方、帝国軍には彼にとって因縁の相手である、ジーグムントが参戦していた。ジーグムントは幾つかの会戦で戦果を上げ、今は中将となって、帝国軍の指揮を執っているプドラド大将の副将となっていた。この他に、帝国軍には猛将として知られる、ガルクルスも参陣している。彼は先鋒を務め、二個師団を率いて最前線の砦に座し、イツァム軍に睨みを利かせていた。

四つの山にまんべんなく囲まれ、天険に守られたリリフトハイルであるが、その天険を逆利用される形で、帝国軍にすっぽり包囲されてしまっている。王国軍はリリフトハイルに入ろうとしても、その前にある低山を帝国軍に押さえられていて、手も足も出ない。まだ食料はあるのだが、猛攻は連日続いている上に、今リリフトハイル守備隊の指揮を執っているのは臆病者のユッシェル将軍である。典型的な門閥貴族である彼は、非常に有名な音楽家ではあったが、軍人としては無能である。むしろ気の毒な所に配置されてしまっていると言っても良い。

時々包囲を突破して、命からがらやってくる使者からは、リリフトハイルの窮状と、何よりユッシェルの焦りと怯えが伝わってきた。しばしその手紙を見ると、イツァムは白い髭を撫でながら、周囲を見回した。軍議の席であり、幹部達が其処には集結している。クラナを始め、大佐格の彼女の部下達もその場にいた。

「何か妙案はあるか?」

「妙案といわれましても……敵の主力を撃破しないと、砦を包囲している部隊に近づけもしませんな」

「しかも奴らは多くの砦を築き、万全の体制を整えている。 力攻は愚行でしょう」

「かといって、敵将はあのガルクルスです。 おびき出すにしても、簡単な挑発に乗るとは思えません」

ごくまっとうな意見の数々が、イツァムの配下達から出た。しばし彼らの意見を聞いた後、クラナが挙手した。

「一週間ほど時間を頂けませんか」

「クラナ准将、妙案があるのか?」

「妙案と言うほどではありませんが」

思わせぶりに言うと、彼女は広げられた戦図の上に、指を走らせた。周囲は天険の要害で、良く帝国軍はそれを調べて布陣している。砦の配置も、いちいち嫌らしいまでに巧妙である。その間を縫うように、クラナの指は滑った。

「私はこの辺りに赴き、地形を調べた事があります。 一週間ほど頂ければ、間道の有無と敵の配置、あわよくば奇襲が可能か調べて参りますが」

以前ルルシャを配下にした際、クラナはこの辺りをかけずり回り、更に周囲の地形をついでに調べたのである。今も同じように抜け道が使えるかは分からないが、もし使えれば情況を打開しうる切り札になる。

他の師団長達が様々な発言をした後、イツァムは大きく頷き、言った。

「敵の動きを見ながら、土地に明るい者を集め、周囲を調べさせよ。 情報提供者には、賞金を惜しんではならぬぞ。 最大限の情報を集めつつ、敵の出方をうかがう。 奇襲には、最大限の注意を払え」

 

「もう終わりだ、もう終わりだ、もう終わりだ……」

「……」

ぶつぶつ呟く男。部屋には数々の、名器と呼ばれる楽器の数々がある。その脇に立つ青年は、困惑を隠せなかった。青年の名はロドリー。そう、クラナと同郷の、フェステ村出身のロドリーである。彼は見習いの騎士であり、王都から派遣された。派遣された目的は、今頭を抱えて恐怖に呟いているこの男を守る事。この街、リリフトハイルの防衛司令官である、ユッシェルを、である。

ロドリーは力が欲しい、と思っていた。そんな彼に、師匠であるルガルウェンは、剣を教えた。不器用な老人であるルガルウェンは、才能がある者に、自らの学んだ剣を全て叩き込んだのだ。それを終えると老人は告白した。

「ワシは騎士団長だった。 とは言っても、政治権力もなければ、軍事権力もない。 ただ求めに応じて精鋭を前線に派遣するか、或いはさぼっている連中に活を入れるか、それしか仕事はなかったがな。 騎士団長になれば、一応お情けの領土は貰えたが、本当にお情けでしかない。 辺境にある領地で、貧しくて、何もない土地だ」

「……」

「男爵家の末弟であるワシには、貴族としての未来もない。 下らない争いを山ほど見せられもしてきた。 だが最後に、天才に全部を教え込めて幸せだったよ。 ……力が欲しいのなら、ワシに出来るだけの事はしよう。 力を得て、それをどう活用するかは、お前次第だ」

それだけ言うと、ルガルウェンは村を去っていった。墓場に向かう巨獣のように。もう老人が生きていない事をロドリーは悟っていた。

王都の騎士団には、師匠に貰った推薦書で簡単に入れた。彼はこの数年、必死に剣技を勉強していて、師匠に免許皆伝も貰っていた。その免許皆伝は、入団試験である実戦対戦に充分耐えうる物であり、彼は問題なく騎士になる事が出来たのだ。騎士団にはいるには、実力とコネが揃っていないといけないが、彼はその双方を危なげなくクリアしていたのである。

騎士は以前、貴族としての地位も出世も約束されていたのだが、現在ではそれも失われている。単なる精鋭としての役目は残っているが、ただそれだけである。しかも、腐敗が激しく、ロドリーが見たものは暇さえ有ればさぼり、戦場には出来るだけ行きたがらない、騎士とは言い難い連中の姿だった。無論、弱者を守り強者をくじく戦士としての姿などあるわけもない。そんな情況に嫌気を覚えた真面目な者は皆前線に出払ってしまい、王都に残っていたのは文字通りの残りカスばかりだったのである。そして前線に出れば、負け続きの王国軍であるから、死傷率は極めて高い。結果、ロドリーも、前線に出る事を欲した。

実績がないロドリーは、リリフトハイルに飛ばされる事になった。そして現在、此処に立ち、音楽家としては有能だが、軍人としては失格なユッシェルを守ると言う任務に就いていたのである。

『これじゃあ、師匠が嫌気差すのも、無理ないよな……』

心中で呟くと、ロドリーは気の毒な貴族に、休憩にはいる事を告げた。貴族は怯えるようにロドリーを見やると、頷き、また小さく縮こまった。ロドリーが部屋を出ると、小さな女の子が彼を見上げていた。ユッシェルの娘のアンナである。別に美人ではないが、年の割りには落ち着いていて高貴な服が自然に似合う、プリンセスというに相応しい女の子である。

「ロドリー?」

「アンナ様、どうしましたか?」

「……また、お父様が苦労かけているのね。 ごめんなさい」

何と答えていいか困って、ロドリーはその場を後にした。テラスに出ると、リリフトハイルを二重三重に包囲している、帝国軍の圧倒的な姿があった。

ロドリーはまだ死ねない。戦場が悲惨な場所である事など、分かり切っていた事だ。生き残り、必ず力を手に入れて、お情けでもいいから領地を手に入れる。そこでなら、クラナを護れる。口だけではなく、本当に。そうすれば、クラナはもう、あんな事をしなくても生きていけるはずなのだ。

護衛に戻ると、ユッシェルの様子は変わっていなかった。現在、四人いる師団長の中で最年長であり、実際防御を担当しているメラキト准将が、困ったように応対しているが、無気力な防御司令官は、こう呟くだけだった。

「将軍の、良きと思うように」

「閣下……」

「わしは死にたくない、死にたくない、死にたくない……」

「僕が貴方を守ります。 死なせはしません」

ロドリーの言葉を受けても、ユッシェルは何ら感銘を示さなかった。メラキト准将は頭を振って部屋を出ると、思い出したようにロドリーを手招きし、言った。

「君は騎士だったな」

「はい」

「……頼みがある。 司令には、私から言っておく」

「困ります、そんな事」

「そうする事が、却って司令を守る事にもつながるとしても、か?」

困惑したロドリーに、メラキトは任務の概要を耳打ちした。アンナの困り切った顔を思い出し、小さくロドリーは嘆息した。

「分かりました。 それが司令のためなら」

 

「ふむ……」

傷だらけの伝令が持ってきた情報を聞き、イツァムは腕組みをしていた。彼はしばし考え込むと、一番頼りにしている者を呼んだ。危険だという事は分かっているが、不思議な信頼感のある指揮官を。即ち、クラナ=コアトルスをである。

孫ほども年が離れた、だが恐ろしい娘。王国軍で、文句なしに現在最強の指揮官である。しかも執政手腕も優れていて、テスカポリトカを半年かからずに立て直してしまった敏腕でもある。正に英雄と言うに相応しい存在で、イツァムとしても彼女が何処まで行くか見届けたいとよく考えていた。

「イツァム大将、お呼びですか?」

「うむ。 クラナ准将、この情報をどう思う?」

そう言って、イツァムは副官にまとめさせた情報を提示した。しばしそれを呼んで考え込むと、クラナは言った。

「まあ、策としては問題ないでしょう。 問題は、私が麾下の精鋭と共に、どうリリフトハイルに入るかですが」

「それに関しては、私が全面的に支援する。 それと、作戦実行に合わせ、君を臨時で少将に任命する」

眼を細めたクラナは、しばしの沈黙の末、鷹のように鋭い目つきでイツァムを見た。

「心得ました」

 

作戦の概要は、こういうものであった。リリフトハイルに信頼出来る司令官を迎え入れ、外部と連携して、包囲を突き崩す。その過程で、無能なユッシェルには要塞の外に御退出願う。司令官が二人いると、何かと面倒なだけだからである。

ユッシェルは家族をリリフトハイルに置き去りにして、脱出する事に同意した。護衛にはロドリーがつく事になった。

 

無言で布陣していた王国軍が不意に動き始めたのは、対陣が開始されてから丁度二月目の、暑い夜の事であった。幾つかの部隊が、夜陰に紛れ、帝国軍の防御陣に襲いかかったのである。これに対し帝国軍の対応は冷静であり、油断無く攻撃に対処し、その全てを捌ききった。ガルクルスは猛将という風評だが、なかなかにそれだけでははかれない存在である。

「なかなかやるな」

遠めがねでガルクルス隊の戦いぶりをみやると、口の端をつり上げた。ただ、イツァムの指揮の元、王国軍は秩序を保って攻撃している。かってなら考えられない事である。

やがて、三時間ほどの激闘の後、双方が同じ程度の損害を出して一旦戦闘は収束した。兵士の質が圧倒的に違う情況を考えると、如何にイツァムが有能か、これだけでも明かである。同時に、クラナが動き出す。麾下の兵一万を繰って、彼女は、引きかけた帝国軍の一角に突撃した。

戦闘を一切行っていなかったクラナ隊は気力充分で、混乱した帝国軍の一角を文字通り粉砕、周囲の陣を蹂躙し尽くした。クラナは自らが先頭に立ち、帝国軍が築きあげた砦の一つを奪い取ると、其処を起点に帝国軍を引っかき回した。だが流石にガルクルス隊である。夜明け頃には、対応策を身につけ始め、それと同時にクラナ隊は次の作戦に移った。少し離れて、支援に徹していた王国軍から、攻撃開始の合図である花火が上がる。アメーバーのように広がって辺りを攻撃していたクラナ隊は、クラナが剣を振り上げると同時に、一気に陣を収束させた。

「総員、突撃!」

「おおおおおっ!」

クラナが黒馬にのり、剛剣を振り回して突撃する所、敵は無し。何人かの騎兵や司令官が名乗りを上げて躍りかかるが、いずれもが二合と剣を交えることなく赤い霧になってしまう。大佐の徽章をつけている敵を一息に斬り倒しながら、クラナは周囲に命令を徹底した。

「首はうち捨てよ! 勝てば褒美は望みのままだ!」

奮い立った麾下の兵士達はそれに続き、クラナが既に見つけていた間道を驀進し、一気に敵防御陣地を突破した。山頂に出たクラナは、追いすがる敵をなぎ払いながら、今度はリリフトハイルを囲む敵と、必死に防御陣を維持しようとする敵へ、逆落としをかける。膨大な馬蹄の音が山を駆け下り、飛び来る矢を文字通り蹴散らして、盾を構える兵士を踏みにじり、一気に敵陣を切り裂いた。そしてクラナは、最後は最精鋭と共に最後尾に残り、二度三度と帝国軍に突撃、囲まれている者がいたら残らず救い出した。途中二本の矢を受けるが、全く動じず、剣を振るう。そして殆ど脱落者を出さず、リリフトハイルに入城する事に成功したのである。正に鬼神の働きであった。クラナは一戦ごとに戦に習熟し、人間を喰って得た記憶とあわせ、軍神としての才能を開花させていたのである。

 

帝国軍が乱れた隙をつき、ロドリーは三名の兵士と共に、リリフトハイルを出た。山を凄まじい勢いで駆け下ってくる王国軍を横目で見ながら、ロドリーは走る。何度も伝令が通った道だが、安全とは言い難い。他の兵士にも急ぐようにせかし、彼は山道を駆け上った。途中、二度ほど帝国軍兵士に遭遇したが、無言のまま斬り捨てる。手に、人を斬る強烈な感触が残り、吐き気をこらえながらロドリーは言う。自らに言い聞かせるように。

「山を下りれば、味方がいます! 急いで!」

それに答えかけた兵士の一人が、矢を貰って横転した。首筋に矢が刺さり、どう見ても即死である。ロドリーは素早く辺りに視線を這わせ、矢を放った兵士が一人であることを、素早く確認した。そして咆吼と共に飛びつき、一息に斬り倒した。

「ひいいいいいっ!」

司令官にもあるまじき無様な悲鳴を上げるユッシェルの背中を押すようにして、返り血を頭から被ったロドリーは、何とか山を登り終えた。そのまま、一気に山道を駆け下る。それほど険しい山ではないが、地面には葉が積もっており、気を抜くと足を滑らせてしまう。また、山道自体が非常に複雑で、しかも地形が入り組んでおり、迷えば命はない。周囲では所々散発的な戦いが起こっている。防御陣を維持しようとする帝国軍と、それを引っかき回そうとする王国軍は、前線も分からない状況下で激しい戦いを演じていた。その間を駆け下るロドリーと他三名に目を向ける者もいたが、殆どは自分たちの事で精一杯だった。

やがて王国軍の旗が翻る、小さな砦が見えてきた。次の瞬間、矢の雨が降り注ぎ、ロドリー自身にも、護衛の兵士達にも刺さった。兵士の一人は側頭部に矢を貰い即死、もう一人は左足に二本を受け、悲鳴を上げて地面に転がった。ロドリー自身は、肩に矢を受け、剣を振るえる手で鞘に収める。もう使えないからだ。一人無事だったユッシェルはおろおろするばかりで、ロドリーは叱責した。

「急いでください! また矢がきます!」

ユッシェルの手を引いて、ロドリーは走る。残っていた護衛はそれを追おうとしたが、這いずっている所を帝国兵に組み伏せられ、斬り倒された。どちらも主導権を握らない戦いの中、必死にロドリーは疾走した。

そして、ユッシェルを守りきる事に成功したのである。

 

リリフトハイルに入城したクラナ臨時少将は、イツァムの書状をメラキトを始めとする師団長に見せ、指揮下に組み込んだ。長い包囲戦でリリフトハイルはかなりの損害を受けていたが、王国軍最強をうたわれる精鋭の入城は、兵士達の士気を一気に回復した。

「クラナ将軍、ばんざーい!」

「これで助かるぞ! これで助かるんだーっ!」

兵士達の歓声を上げ、完成し尽くした笑顔で手を振りながら、クラナは師団長と幕僚を引き連れ、歩きながら矢を抜き平然とイオンに手当てさせながら、一度テラスに出た。周囲は秩序を回復した帝国軍が囲んでいる。流石に隙がない布陣である。渡された地図と、敵陣を見比べた後、クラナは自らの顎に指先を当てた。

「残りの食料は?」

「三ヶ月は持ちこたえられます」

「そうではない。 帝国軍の、だ」

「はあ、それは……」

困惑した顔を見合わせる師団長達を一瞥すると、再び地図に視線を落とし、クラナは言った。

「敵が食料を蓄えている場所は?」

「それも、我らには見当が……。 申し訳ございません」

「いや、気にするな。 貴公らが謝る事ではない」

此処で寛大な姿勢を示す事は、感情にまかせて叱責するより遙かに効果が高い。案の定師団長達は恐れ入りますといい、安心した様子で吐息した。それを横目で見ながら、クラナはなおも言う。

「周囲は地形が入り組み、だがそれが故に敵も完全に包囲出来ない。 汝らが外に救援をとばせたのも、それが理由であろう。 それは同時に、反攻作戦に出やすい、という意味もある」

「は、はあ」

「本当に助かりたければ、最後の力を振り絞れ。 我らだけではなく、汝らにも全力を尽くして貰うぞ」

そう言ったクラナは、早速翌日から獅子奮迅の活躍を見せ始めた。元々リリフトハイルは堅固さに置いて比類無い要塞都市であり、士気さえ戻ればその防御力は天下無双なのである。

クラナは最精鋭を率いて、毎日のように五つある門から出撃し、周りに布陣している帝国軍を引っかき回した。クラナ自身が振るう巨大な剣は、怯える帝国軍兵士の頭を容赦なくたたき割り、名乗りを上げて挑んでくる将を例外なく馬から叩き落とした。それに元気づけられて、クインサー、リリセー、パーシィ、ルツラトらの諸将は猛威を振るい、イオンは幻術を的確に使いこなして帝国軍を振り回した。彼女が一度に現す事が出来る幻は千名ほどだが、奇襲時や強襲時にはそれで充分だった。また、クラナ直参の精鋭部隊に属するコルトスも、暴勇を振るって、何人も敵指揮官を馬から引きずり落として首を掻ききった。個人の武勇がそろそろ必要なくなりつつあるのだが、彼は今回留守番をしているインタール同様、戦場で自分をアピールする事に完全に成功していた。

ある程度帝国軍を引っかき回すと、クラナはさっと軍を返し、城内に逃げ込む。させじと追撃する帝国軍は、城壁から降り注ぐ無数の矢にたおされ、後退せざるを得ない。攻城戦に入るどころではなく、帝国軍の士気は目立って落ち始めた。司令官の力量が根本的に変わった事で、情況自体が劇的に変化したのである。イツァムとメラキトの戦略は、見事に図に当たったのだ。

元々クラナは、精鋭を率いての強襲を最も得意としている。今の戦場は、正しく彼女の独壇場である。帝国軍を率いているジーグムントもプドラドも決して無能ではないのだが、文字通りクラナにきりきり舞いさせられている情況だった。

一週間ほど経過した頃には、既に両者の情況は逆転していた。リリフトハイル城外には帝国軍の死体が無数に転がり、逆にリリフトハイルの士気は天をつかんばかりになっていた。

 

4,決戦リリフトハイル

 

帝国軍が後退を開始したのは、クラナがリリフトハイル入城を果たしてから、十日後の事であった。帝国軍はガルクルスが最後衛に立って後退を支援し、包囲をといて、リリフトハイルから数キロ離れたストラスファール平原に布陣した。いまだ十四万以上が健在であり、再編成した事により、士気も戻りつつあった。

これに対し、クラナは追撃を戒めた。敵は最精鋭を最後尾においており、追撃しても痛い目を見るだけだからである。しかし、彼女の命令を聞かずに、リリフトハイル守備隊の一師団が独走、案の定反撃にあって包囲され、クラナが駆けつけて敵の攻囲を斬り破った頃には兵の三割を失っていた。こういう悲劇はあったものの、全体的には静かに帝国軍は撤退し、再布陣を完了させた。

同時にイツァム率いる本隊が、ついにリリフトハイルに入城した。これで十一万弱の戦力が整い、また兵糧が運び込まれ、リリフトハイルの防御態勢は完全に整った。リリフトハイル周辺の幾つかの要塞にはまだ帝国軍が少し残っているが、これで一応の危機は脱した事になる。

イツァムは長陣の疲れも見せず、堂々たる様子で、リリフトハイルに入城した。迎えたクラナに、彼は言う。

「クラナ少将、ご苦労であった。 敵を一時後退させたのは、ひとえに汝の功績である」

「恐れ入ります」

「リリフトハイル守備隊は、暫定的に汝の指揮下に置く。 後は我らが守備を引き受けるから、数日は休むと良い」

無言で頷くと、クラナは配下の兵士達に二十四時間の交代待機〈自由時間〉を命じ、好きに行動させた。息抜きに寛大である点において、クラナは王国軍でも随一といわれている。一方で罪を犯すと別人のように厳しく対処するので、兵士の士気もしっかりしている。それに何より、クラナ自身の恐ろしさを兵士達が皆知っているので、必然的に綱紀は引き締まるのである。攻城戦で疲れ果てた魂の洗濯をしに兵士達が町に出ていくのを見送ると、クラナは自身も兵舎に戻り、幕僚達にも交代で待機を命じて、自身は小さく欠伸をしながら部屋に戻った。此処しばらくろくに寝ていないので、流石に疲れたのだ。

リリフトハイルに入ってから、クラナはこの地方に伝わる特殊な防寒着の図を入手していた。材料は既に揃えてあるので、後は縫うだけである。毛皮を使った実用的な防寒着であり、クランツ大陸最北部の極寒にも耐えられる。八時間ほど眠った後、起きたクラナはフラットナーの実を囓りながら、その図に目を通していた。外は静かなもので、戦いが起きている様子はない。遠くで時々歓声が起こるが、いずれもリリフトハイル周辺の要塞から声がしている。王国軍による奪還作戦が行われているのは確実である。火を通しただけの兎肉を囓りながら、クラナはハンカチで手の脂を拭き、愛用の糸と針を取りだした。縫い物が好きなクラナは、自身で厳選した針と糸を常に持ち歩いている。しばし針を毛皮に刺しては抜き、刺しては抜き、ちくちくと裁縫していたクラナは、早速最初の怪我をした。

「いたっ!」

王国最強の猛将とは思えない話であるが、どうしてもクラナは裁縫が上達しない。いいものは作れるのだが、必ず怪我してしまう。ぶつぶつ文句を呟きながら、クラナは毛皮を縫い、六回針を指に刺して、ようやく半分ほどまで防寒着を完成させた。自室の戸が叩かれたのは、その時だった。声はイオンの物である。

「クラナ様」

「どうした」

「あの、お話が……」

安楽椅子の上で手を止めてクラナが戸を見ると、イオンが入ってきた。彼女はしばし俯くと、言った。

「ずっと隠していたんですけど、出陣前に、こんなもの貰いました」

「……恋文か」

「はい」

顔を赤らめたイオンを放って置いて、クラナは渡された手紙を開いた。手紙の主はインタールである。二人が何かと同一行動をしていて意識しあっている事は知っていたが、それにしてもインタール、剣奴もしていた戦場の勇者にしては奥手な行動である。そういえばイオンもそろそろ年頃である。年頃の乙女が見たら真っ赤になるような過激な語句が実に恥ずかしそうに書かれている恋文を返すと、クラナは別に何も想わず言った。

「良かったではないか」

彼女にしてみれば、人間が好きだの好きではないだの、愛しているだのそうではないだの、幸せだの不幸だのには全く興味がないのである。逆にそれだからこそに他者に嫉妬もせず、人事も公平になるのである。道具をバカにされれば腹も立てるが、それはまた話が別。道具同士が相思相愛になろうが、仕事に差し支えなければ問題ない。

イオンは非常に役に立つが、もう一魔法使いが戦況を変えるような情況にはいない。後は敵方の魔法使いにクラナの正体を悟らせないために、専門家を側に置いておく必要があるくらいである。だがそれは途轍もなく重要な任務でもあるので、手放す事は出来ない。

「で、お前はどうしたいのだ?」

「私……インタールさんの事……」

「好きなんだろう」

「はい」

実に初な様子で、俯いてしまうイオン。肩を叩くと、クラナは計算し尽くした笑顔を浮かべた。

「なら結婚するといい。 式には出てやるぞ」

「……ありがとうございます」

「ただし、条件がある。 仕事はきちんとこなせ。 しばらく引退はゆるさんぞ」

頷いたイオン。ふと思い出した事があったクラナは、彼女を引き留めた。

「ところで、彼奴はどうしている?」

「ヌピスですか?」

「うむ」

「……先を越されたんです、本当は。 今はテスカポリトカにいます。 人は襲わないようには、きつく言っておきました」

そう言う理由があったのかと、クラナは苦笑していた。なるほど、イオンはヌピスも大事に扱い、ヌピスもクラナの命令以上にイオンには懐いていた。である以上、ヌピスがつがいを見つけた事に、イオンが触発されてもおかしくはない。そういえば、ヌピスはこのままテスカポリトカを開発していくと、居場所が無くなる。今まで影から役に立ち、イオンをきちんと守ってきた存在である。もう道具としては必要がないが、処分したらイオンが臍を曲げる。まだイオンは必要だから、それはまずい。

もともと怪物は能力が優れている分繁殖力に劣る。クラナもそれに関しては例外ではない。ヌピスが爆発的に増える恐れはないから、その点は大丈夫である。クラナは、研究所から脱出してすぐに手に入れたアジトの事を思い出し、地図に書いてイオンに手渡した。

「戻ったら、ヌピスを連れてここに行け。 そして伴侶と一緒に、此処を何としても死守するように命じておけ。 印の地点に罠があるから、気をつけてな」

「此処は?」

「私の古巣だ。 以前盗賊を皆殺しにして確保した。 何かに使えるかと思っていたが、案外スムーズに目標が進行しているから、もういらん。 彼奴に譲ってやる」

イオンが眼を細めて、クラナに頭を深々と下げた。感謝したのは明かである。イオンが出ていくと、クラナは小さく欠伸をして、縫い物に戻った。別に今の行為に対し、彼女は何も感じていなかった。

 

リリフトハイル周辺を確保した王国軍は、一度は持久戦の構えを見せた。だが王都からの早馬によって、出陣せざるを得なくなった。此処で帝国軍に致命傷を与える事で、二度と侵攻する気が起きないように心をくじけというのである。簡単に言ってくれるとイツァムは呟くと、幕僚達の顔を見た。人間以上の聴力を持つクラナはイツァムの呟きが聞こえたが、心中で口の端をつり上げるに止めて置いた。

「何か、意見はあるか?」

「敵は士気を喪失しております。 攻撃するなら、今をおいてありません」

「味方の士気は今、天をつかんばかりです。 攻撃を!」

「私は、援軍を待つべきかと思います」

クラナの意見に、一斉に驚きの視線が集まった。現在誰もが認める王国一の猛将が、そんな消極策を提示するのだから、無理もない話である。臨時とは言え少将となり、現在負傷者も含めて三万の兵を指揮する立場にあるクラナは、イツァムの腹心と言っても良い立場に成り上がっている。咳払いすると、中将の一人が言う。

「クラナ少将が、そのような事を言うとは。 どういう風の吹き回しか」

「現在こちらには、およそ六万の援軍が向かっています。 現在のこちらの保有戦力は十万、敵は損害を考慮したとしても十四万に達します。 負傷兵の事を考えると、当方はせいぜい八万、敵は十二万前後でしょう。 増援が到着するのを待ち、体制を完璧に整えてから、攻撃するのが一番無難かと思いますが」

「常に少数を持って多数を翻弄してきたクラナ少将にしては、弱気な事だ」

「必要が有れば、多数と戦うために頭をひねります。 ただ、より簡単に勝てるのなら、私はそうしたい、それだけですが」

戦略的に見て、クラナの言う事は正しい。敵と戦う際に、有利な条件を整えるのは当然の話である。しかしこの場にいる連中は、要するに援軍に手柄を渡したくないのである。そんな事だから負けるのだ。

イツァムは有能な将帥だが、それには部下達を上手くまとめて、最終的な目的へ持っていく、というのも含まれている。しばし考え込んだ後、イツァムは白い髭から手を外した。

「確かに敵は負けた後であるし、味方は意気上がっている。 ならば一度交戦を行ってみて、その後の展開を見た方がよいだろう。 何にしても、敵には有能な将帥が多い。 各自、油断はせぬようにな」

『……中道的な意見だな。 だが、それが故に皆まとまっている。 これは理屈ではない、それ以上の要素が関係しているのかも知れぬな』

その後は細かい布陣の話になった。クラナはリリフトハイル守備隊を含めた約二万を率い、先鋒部隊の全てを任される事となった。負傷者も含む一万ほどはリリフトハイルに残り、後背を守る事になる。イツァムに対して食欲を覚えたクラナであったが、食べてしまうのは正直もったいない素材である。皆が退出した後、イツァムはクラナを呼び止めた。

「クラナ少将」

「何か?」

「……今回は厳しい戦いになる。 君は死なず、生き残れ」

「大丈夫、勝てますよ」

勝って貰わねば困る。この老人がもう少し生きていないと、クラナの出世街道を整備する者がいなくなる。せめてクラナが大将になるまでは、生きていて貰わないと困るのだ。そのためには、クラナ自身が頑張らねばならなかった。

出撃が決まった以上、勝つための算段を練らねばならない。時間は、あまり残っていなかった。

 

王国軍八万が凸字陣を引いて布陣したのと、帝国軍十二万が鳥雲陣を引いて相対したのは、出撃の翌日であった。まだ日は低く、戦場を若干肌寒い風が覆っている。鳥雲陣というのは、無数の兵を戦場全体に散らばらせた陣で、変幻自在の攻撃を得意としている。王国側は積極攻勢の姿勢を見せているし、逆に帝国側はまず動きを見る情況である。

ストラスファール会戦は、呆れた事に大小あわせてこれで第十二次となる。リリフトハイルから出陣した王国軍がいつも此処で帝国軍とぶつかるのだ。それだけ戦いがしやすく、また因縁の地と言う事である。ストラスファールという名の吸血鬼は、どれだけ人の血を吸っても満足しなかった。奴を眠らせるには、和平が成立するか、或いは国家間の戦いに勝負がつくしかない。兵士の多くが、クラナにそれを期待し始めている。そしてクラナも、それを知っていた。

今回の戦いの骨子は、敵を如何に突破するかである。鳥雲陣に深くつっこんで、身動きが取れなくなったりすれば、かなり危険な情況になる。逆に敵の戦術を噛み破って、中央突破を完遂すれば、勝ったも同然である。そのためにクラナが最前衛に位置しているのである。クラナは愛用の、幾多の敵の血を吸った大剣の柄で肩を叩きながら、クインサーに振り返った。リリセーは難しい顔をして、味方の陣と敵陣を見比べている。

「クインサー、どう見る?」

「出来れば撤退を」

「リリセー、お前は?」

「……厳しいですね。 僕なら、攻撃はしません」

しばし敵陣を見やった後、クラナはパーシィを呼んだ。恥ずかしそうに顔を伏せてやってきたパーシィは、皆の視線を受けると真っ赤になって俯いてしまった。クラナが視線を外すように指示すると、ようやく顔を上げていう。

今回は、攻撃条件が悪すぎます。 敵はクラナ将軍の突撃を防げば、もうそれで勝つ事が出来るのですから。 我々が取るべき手段があるとすると、中枢を突くしか有りません

しばしパーシィの消え入るような声を聞き終えた後、クラナは頷いた。

「それしかあるまい。 イツァム将軍に伝令を出せ!」

 

両軍が激突したのは、昼少し前であった。クラナ隊を先鋒に突撃した王国軍であったが、案の定クラナ隊の猛攻は凄まじく、柔らかく後退して突撃を受け止めようとした敵前衛に噛みつき、食いちぎって引き裂いた。クラナは剣を振るい、いつものように殺戮の嵐を辺りに吹き荒れさせ、敵前衛を蹂躙し尽くすと更に前進した。

だが帝国軍は柔軟に陣形を変化させ、膨大な矢を惜しむことなく放って攻撃部隊を迎え撃った。クラナ隊は前へ前へと突撃したが、敵は懐が尋常でなく深く、しかも兵を散らしているので致命傷が与えられない。一時間ほど剛性の突進を続けた後、不意にクラナは方針を変更した。

「総員、三時方向へ転進! 敵の脇腹を食い破れ!」

突然クラナは方向を真右に変えると、驚き慌てる敵を蹴散らし、鳥雲陣を蹴散らしてついにその外側に抜けた。そして大きく陣の外側を迂回し、敵の周囲を回り始めたのである。これに対し帝国軍は、クラナ隊以外の六万を押さえ込みながら、何とか一万八千を抜き出し、当てた。これの指揮官はガルクルスである。ガルクルスは二十キロに達する巨大なバトルアックスを振るい、突撃してくるクラナ隊へと進撃した。

両軍の兵士の質は互角。強いていうなら、クラナ隊の直属精鋭の方が少し上だが、リリフトハイル守備隊の能力は敵に劣る。たちまち戦いは乱戦になり、バトルアックスを振り回すガルクルス、大剣を振り回すクラナ、両者の周囲に死体の山が積み上げられていった。武勇においては、ガルクルスもなかなかのものであったが、残念ながら彼にはクインサーもリリセーもルツラトもパーシィもいなかった。クラナがガルクルス隊と血みどろの戦いをしているうちに、彼らが麾下の兵を駆ってガルクルス隊に突っこみ、陣形を切り刻んだ。こうなると元々の数が少ない分、ガルクルス隊が不利になる。ガルクルスがついに後退を開始した頃、日が最頂点に達していた。

クラナ隊は一旦後退し、陣の再編成に移った。ガルクルス隊に大打撃を与え、味方は善戦しているが、徐々に兵力を削り取られている。綿のように柔らかく突進を受け止める帝国軍に翻弄されている形である。とりあえずの再編成を終えると、クラナは直線的に、味方と垂直方向から敵陣へ突進した。そして敵陣に入った所でまたすぐに方向を変え、敵陣外縁を削り取るような形で、また外側に抜けた。だがやはり帝国軍は柔軟に陣形を変え続け、何度と無く繰り返された突撃でも、致命傷は与えられない。それよりも味方本隊は結局敵を貫通出来ず、諦めて後退に移り始めていた。しかも粘液のように後退する所に絡みつかれ、ますます被害を大きくしていた。鬱陶しげに飛んでくる矢を叩き落とすと、クラナは軍を再編成し直す。そしてくさび形に組み直すと、再度突撃を敢行した。その突撃の結果、敵の陣形を乱し、味方の撤退を援護する事には成功した。だがまた敵司令部を補足する事は出来ず、致命傷も与えられず、不平満々といった体で外側に抜ける。

夕刻になってもまだ勝負はつかなかった。一応秩序を取り戻した王国軍本隊と協力し、何度と無くクラナは突撃したが、結局敵中枢は捕らえられず、自軍の損害ばかりが増えていった。やがて、日が暮れた。

 

双方は日が暮れると、少し陣を引き、再編成に取りかかった。王国軍はおよそ八パーセントの戦死者を出し、帝国軍はそれと数的に同等の戦死者を出した。即ち、如実に王国軍が不利になっていると言う事である。

その上、撤退する帝国軍をクラナが観察した所、敵は上手く陣を散らし、理論的かつ複雑に布陣している。故に、夜襲するのはリスクが多すぎる。それに丸一日がかりの死闘で兵士達は疲れ果てており、それはクラナ隊に関しても例外ではない。部下達を先に休ませながら、クラナは幕僚を集め、翌日の対策を練った。天幕の警護をしている兵士達も疲れ果てている。クラナは焚き火に顔を照らしながら、部下達の顔を見回す。流石に疲労が激しかったので、既に食事は済ませた後である。スタミナの無さは、どうしてもクラナの弱点として付いて回った。彼女のスタミナが多めに有れば、ひょっとすればもっと敏捷に帝国軍をかき回す事が出来たかも知れないのだ。そう思うと、クラナは苛立ちを少し覚えるのだった。

「さて、名案はあるか?」

「やはり、援軍を待った方がよいかと思われます。 敵は数に物を言わせた戦法を取っているわけですし、となるとやはり援軍を得て、再攻勢に出るのが吉かと」

「僕も賛成。 閣下、ここはやはりイツァム将軍を説得するべきでしょう」

「それが出来るならもうしている。 我々の仕事は戦術レベルで敵をたたく事を考えるものであって、戦略レベルでは動けない。 翌日も敵は同じ策を採ると思うか?」

今日大きな成果を上げた以上、間違いないと思います

パーシィの言葉に、皆が大きく嘆息した。ルツラトでさえ、不安げにクラナを見やっている。ますます敵との戦力差は開いたが、何か反撃の糸口はあるはずである。もう一度周囲の地形を洗い直していたクラナが、ふと一点に目をとめた。その地点の植生、更に周囲の地形を見た結果、地理に詳しいクインサーに聞く。

「此処は何だ?」

「ああ、この辺りは、ルシュト草原です」

「……工兵隊を派遣しろ。 作業内容は……だ」

細かい指示を終えると、クラナはイツァムの陣へと向かった。まだ彼女は勝つつもりでいた。である以上、主将の助けは絶対に必要だったからである。

 

翌日は小競り合いに終始し、それが三日間続いた後、再び戦いが始まった。同じように鳥雲陣を敷く帝国軍に対し、今度の王国軍は横列陣を敷き、ゆっくり間合いを詰めていく。鳥雲に散らかった帝国軍は、しばし矢戦に終始した後、ゆっくり陣形を横に広げ、タイミングを見て攻勢に転じた。同時にクラナ隊を先頭に王国軍も反撃を開始、牙がぶつかり合い、火花が散った。だが、七万前半にまで打ち減らされている王国軍に対し、十一万以上を有する帝国軍は余裕を持ち、数に物を言わせてじりじりと押していった。やがて王国軍は後退を開始、帝国軍はそれにまとわりつき、兵力を削り取っていった。

四キロほどを王国軍が後退した後、クラナが合図し、赤い旗を振らせた。同時にクラナ隊の工兵が堤を切り、だがあまり勢いなく水がルシュト平原へ満ち始めた。王国軍は陣形を収束させ、それを包囲するように帝国軍は陣を延ばす。最初に異変に気付いたのは、ガルクルス隊であった。

「何だ! これはどういう事だ!」

彼らの足下が、地盤が緩んでいた。そして見る間に、膝まで泥に埋まっていたのである。

この辺りは色々な条件が重なった結果、極めて地盤が緩く、雨が降ると沼のようになるのである。王国軍は事前に地盤が強固な地点に避難していたため、機動力を殺されずに済んだのである。平原の中の、細い道状の場所のみが、しっかりした地盤を有している。混乱する帝国軍を後目に、クラナは大剣を振り上げた。

「今だ! 総員突撃せよ!」

歓声が上がり、先頭になって突撃するクラナに続き、クラナ隊は敵陣を切り裂いていった。今までのように柔軟に受け止める事も出来ず、文字通り食いちぎられた帝国軍の陣は、支離滅裂の有様になった。泥沼にはまりこんだ者達には、イツァムが容赦なく高密度の矢風を浴びせ、遠慮無くうち倒していく。完全に戦況は逆転し、帝国軍は敗走を始めた。その背後へ、容赦ない追撃をかけ、王国軍は膨大な戦果を上げた。こうなると兵を分散させていた事が裏目に出、帝国軍は収拾がつかない有様となった。

敗走する敵の中に、クラナはプドラドを見つけた。近衛兵に分厚く守られているが、クラナは周囲にそれ以上の猛者を侍らせている。剣を振って指示すると、彼らが近衛兵達に矢を浴びせた。見る間に護衛の数は減り、鬼気迫る顔でプドラドが振り向く。

「お、おのれえええっ!」

「降伏すれば生かしておいてやろう」

「誰が降伏などするかああああっ!」

それなりの使い手ではあったが、相手が悪すぎる。槍をしごいて突っかかってきたプドラドは、クラナの大剣に、一撃の下両断されていた。

 

戦いは集結した。帝国軍はおよそ三万の兵を失うという大敗を喫し、命からがら自領へと逃げ込んでいった。元々兵力は王国軍の方が多く、情況はかなり有利になったと言える。しかし王国軍側も損耗が激しく、兵力を整える必要があった。

また、帝国軍もやられてばかりではなかった。ガルクルス隊は最後まで善戦し、味方の撤退を援護し続けた。ジーグムントも混乱を早期に終結させ、自ら最後尾に残って撤退を支援し続けた。この二人は結局命を保ち、この後も王国軍を苦しめ続ける事になる。

クラナの武勲は誰もが認めるものとなった。敵将を討ち取った事もあるし、味方の崩壊を何度と無く防ぎ、リリフトハイルを守りぬいた最大功績者でもあるのだ。凱旋したクラナの肩書きからは、臨時がすぐに外され、リリフトハイル周辺の土地も彼女の領土に加えられた。彼女に与えられた新たな爵位は子爵であり、指揮兵力は三万。更にリリフトハイルを押さえる事により、文字通り王国の扉となったのである。領土も飛躍的に広がったが、これに関してはまた整備が必要な土地ばかりであった。

イツァムは戦功にもかかわらず、元帥には昇進出来なかった。だが篤実忠良で知られる老将は、それに文句を言う事もなく、勲章だけを黙々と受けた。

こうして情況が落ち着いた頃には、リリフトハイルに寒い冬が訪れていた。

 

5,奇襲、闇討ち、返り討ち

 

子爵になったクラナは、新たに三つの州を領土に追加された。そのうち一つはリリフトハイルであり、他の二つも含めてまだ領主がいる。二人の男爵と、あのユッシェルが配下に加わったわけであるが、彼らは執政官として欠ける所があり、しかも頭もさほど良くなかった。まずクラナが着手したのはリリフトハイルへの着任であり、周囲の整備や、収入支出の再確認をしながら、同時に貴族達にも様々な情報提供を行わせた。結果は呆れたものであった。

長い年月の間に弱体化した貴族達は、芸術や華美な生活のみに興味を奪われていて、実際の施政に殆ど興味を示していなかったのである。考えてみれば、産まれながらに地位を約束され、安定した生活をしている者が、何故そう言う生活が出来ているか考えるわけもない。ましてそれに選民思想や差別が加わってしまうと、情況は加速度的に悪化する。テスカポリトカほど酷い政治が行われていたわけではないのだが、社会状況は確実に停滞し、クラナはそれを改善する必要に迫られた。

まず最初にクラナは、領主の実権をはぎ取った。形だけの実権であるが、それが宙ぶらりんな形で与えられていた結果、悪政の温床となっていたからである。更に自らがリリフトハイルの、何とか余裕が出来たシウクト、ショパンをそれぞれ残りの地区に派遣し、テスカポリトカはパーシィに守らせた。パーシィには補助としてリリセーが付き、ショパンにはクインサーが、シウクトにはルツラトがついた。彼らはテスカポリトカ改革の際のノウハウを生かして、急速に改革を始めた。屯田制もすぐに実行され、クラナ領の経済再建は更に進行した。民衆は改革に喝采し、人材は広くから集まってきた。また、クラナが出自に拘らない事も知られ始め、特にブフト人の中に、クラナに保護を求める者が多く出始めていた。クラナは彼らを上手く使い、荒れ地を開発させ、開拓した土地は与えて自立させた。

そんなおり、クラナに伯爵の地位が提示された。同時に、トステーヤから使者が来た。王都でのパーティに、招待する旨が其処には書かれていた。

 

手紙を机の上に並べた後、クラナは指先で執務机を叩きながら、口の端をつり上げていた。現在クラナは、小規模とはいえ自らの派閥を作っている事になる。しかも王国軍の兵士達から多大な信頼を受けているのだ。実際リリフトハイルを手に入れてから、彼方此方の待遇が悪い部隊から脱走し、クラナ隊に入りたがる者さえ出始めた。

また、温厚で篤実なイツァムの懐刀という点でも、彼女の影響力は大きい。しかしそれ以上に、もはや誰もが認める王国最強の将軍であるという点が、クラナの最大の売りだ。

というわけで、少将になってからと言うもの、クラナにすり寄る貴族が増え始めた。クラナ自身は彼らに友好的な姿勢を見せる一方で、弱みをいちいち調べ上げて、表からも裏からも人脈を築いていた。

そう言う情況であるから、トステーヤが何故手紙を送ってきたかは容易に想像がつく。元々奴は、最近は危険を承知でクラナの周囲を探り、間接的に喧嘩を売ってきた相手である。クラナにしてみれば、そろそろ頭を囓りたくなってきた存在である。それに王の権力を強化するのに荷担するなど、まっぴらごめんである。ここの所クラナは民衆を味方につける事に成功しており、そしてその民衆は執政を続けてきた王を憎んでいる。人間という生物は、基本的にダブルスタンダードというものを最も嫌う傾向がある。皆と仲良くしたい、と言う発想自体が最も嫌われるのだ。そう言う意味では、貴族と必要以上に仲良くならないのも、基本の政策である。現在の王は、決して愚鈍ではないが、王である以上民衆は憎んでいるのだ。今までの積み重ねが悪すぎるのもあるし、戦争の原因だと思っている者だって多い。実際問題、帝国が誕生した頃に当時の王が確固たる手を打っておけば、情況は此処まで悪化しなかったのである。

トステーヤは、クラナを殺す気だ。

彼にとって、クラナが将来作りうる閥自体が危険になったのである。まあ、トステーヤが何故王に忠誠を誓うかなど、クラナにとってはどうでも良い。何にしても、奴の膝元である王都へ、クラナは乗り込むつもりである。

罠を、噛み破るために。

王都へ向かう準備を始めたクラナは、要人達と食事を取っていた。執政権と軍事権をむしられた代わりに、音楽を好きなだけやって良いと言われたユッシェルは大喜びで、クラナの食事の度に得意としている弦楽器ポルポラをひいた。実際見事な演奏で、これを聴くために、音楽に眼がないルツラトが、まめにクラナの呼び出しに応じたほどである。他の貴族達も、生活は普通に保証されていたので、全く不満を言い出さなかった。

「クラナ様?」

「うん?」

食事をしていたクラナに、ユッシェルの娘であるアンナが小首を傾げて見せた。特に魔法使いとしての才能があるわけでもないのだが、この子はとても勘が鋭く、しかも頭がいい。鍛えれば将来執政官として使えるし、そうでなくても政略結婚の材料あたりには充分なりそうであった。

「何か、楽しい事が起こるの?」

「楽しい事? そうだな」

フォークで味付けを薄くさせている、生に極めて近い味の肉を切り分けながら、クラナは言った。それにしても、クラナが面白がっている事に気付くとは、なかなか油断出来ない子供である。

「もう少ししたら起こるな。 だが、お前には、残念ながら見せてやれん」

「残念じゃないもん」

アンナは首を横に振った。そして、口の中で呟く。

「だって、クラナ様の楽しい事って、絶対に恐い事だから」

『ふっ……聞こえているよ』

俯くアンナの横顔を見て、クラナは心中にて呟いていた。笑顔は浮かべていたが、隣に座っていたイオンが蒼白になり、慌てて袖を引いた。クラナは袖を払うと、自らの右側のツインテールの先をいじりながら、イオンを見もせずに言う。クラナの指先には、包帯が巻かれていた。針で刺した後、即ち少し余裕が出来てきた証である。

「別に殺しはせんよ。 だが、少し子供だと思って侮りすぎたようだな」

「……」

以降は何も喋らず、クラナは二人分の食事をそのまま平らげ、翌朝には王都へ旅立った。五百ほどの護衛が彼女に従った。その中には、インタールとコルトスがいた。

 

王都に戻ったロドリーは、正式に騎士としての叙任を受けていた。彼の活躍は見事であったから、無理もない話である。騎士としてはかなり若い部類にはいるが、その剣技は他の騎士には負けないし、誠実な人柄は自然に信頼の的となった。少し寂しげな笑顔は、年上の女性騎士達の間でも人気になり、だが彼の心は別の所にあった。

「クラナ……君なのか……?」

別に珍しい名前ではないと、何度も言い聞かせた。それにあのクラナ将軍には、かっての心優しい無邪気な娘の面影など何処にもなかった。ひたすらに強く、畏怖される存在。王国最強の猛将であり、兵士達の畏敬の的。騎士の中にも、クラナ将軍の元で働けるのなら、という者は少なくなかった。

だがもしクラナ将軍が、あのクラナだったら。そう思うと、少年の胸は痛んだ。彼女はきっと、普通の女の子に戻りたがっているはずだと、そう少年は考えた。しばし考え込んだ後、少年は騎士団長の元を訪れた。

「僕を、出来るだけ危険な任務がある所へ配属してください」

「どうしたんだ、急に」

困惑した騎士団長は、少年の目を見てしまった。そして悟った。決意強き眼。動かし難い意志に、裏付けられた眼。騎士団長は、小さく吐息した。

「分かった、いいだろう」

「ありがとうございます」

ロドリーは頭を下げた。深々と、感謝を込めて。

 

「また三人、行方不明になりました」

「……そうか」

「これ以上は危険です。 正直な話、相手は、クラナ将軍は民衆を完全に味方につけています。 王都にも、彼女を崇拝する兵士は少なくありません。 もし今度決行する作戦がばれた場合、民衆の大規模な反乱がリリフトハイルで起こりかねません。 そうしたら」

「……それ以上のリスクが、あの将軍にはあるかも知れぬのだ」

トステーヤの部屋で、彼は部下に吐き捨てた。クラナは危険すぎると、彼はもう結論していた。味方につけられない事も、施政を見て確認した。クラナの施政は、民衆を味方につけ、完璧な地盤として利するものだ。即ち、自身が王になるという野心が紛々と感じられるのだ。まだ確固たる証拠はないが、見過ごすには危険すぎる存在だった。

何故もっと早く、あの野望に気付かなかったのか。そうトステーヤは思った。彼の目的は、恩人たる王の、施政の復活である。英雄は並び立たないし、王は二人いらないのだ。クラナがその野心を完全に覚醒させたら、この国は滅ぶ。いや、大陸自体が飲み込まれるかも知れないのだ。そうトステーヤは、危機感を胸の中で醸造していた。

クラナは将軍として有能なだけではなく、執政官としても有能である。だが彼女が大陸を飲み込んだら、民衆は到来した平和に喜ぶかも知れないが、王は滅ぶ。本来政治家は、民衆の事を、そして総合的なよりよき未来を考えねばならないのだが、トステーヤは王の事を第一に考えていた。その点で、彼は有能であっても、政治家としては失格だった。

「陛下。 臣が必ず、貴方をお守りいたします」

自らに言い聞かすように、トステーヤは言った。

 

王都にて、無数の思念が絡み合い、大会戦にも劣らぬ激しい戦いが巻き起ころうとしていた。誰が勝者になるのか、或いは笑うのか。まだそれは、誰にも分からなかった。

(続)