ヒトノエイユウ
序、追跡、逃亡
闇夜の森の中で、複数の人影が走り回っていた。彼らは例外なく殺気立ち、松明と月明かりを頼りに、辺りを必死に探索していた。人数はかなり多く、武装もしっかりしている。鎧には、帝国軍の紋章が刻まれていた。
「良く探せ! 絶対に逃がすな!」
「はっ!」
苛立ち焦った声と共に、指揮を執っている者が叫ぶ。兵士達が焦りを自らも浮かべ、慌てて周囲の探索に移った。彼らが去ったすぐ後、一匹の兎が現れた。鼻をひくひくと動かし、地面を這いずっていたその茶色い毛皮を、不意に地の底から生え延びた白い手が掴んだ。そして白い手は、何の労もなく兎を自らが現れた穴に引きずり込み、背骨をへし折った。惨劇は一瞬きの間に終わった。
兎の背骨をへし折った張本人は、王国軍大佐クラナ。現在急速に地位を確保している、王国軍の新星である。率いる兵は一個旅団わずか二千ながらその戦闘力には定評があり、王国軍からは〈戦場の天使〉、帝国軍からは〈戦場の悪鬼〉と呼ばれている。どちらも彼女の本質をついた言葉ではなく、クラナは心中にて失笑するばかりであった。彼女は絶命した兎をそのまま口に運び、皮と肉を骨ごと食いちぎり、口の中で咀嚼しながら呟く。
「さあて、これから、どうする、かな」
まだぴくぴくと動いている兎の頭を食いちぎると、クラナは穴から空を見上げた。満天の星空、煌々たる満月輝く空を。
「それにしても、無様な負け戦だったな。 まあいいか。 だいたいは計算通りだ」
兎を食いちぎり、引きちぎり、細かくかみ砕いて腹の中へ納めていく。殆ど体力を使い果たしてしまったので、エネルギー補給は急務だった。側には急いで確保した木の根や、芋類、それに木の実がある。田舎暮らしで身につけた智恵は、結構何処でも役に立つ。
「私の部隊は、殆ど温存したしな」
やがて、兎を食べ終えてしまったクラナは、木の実を器用に剥きながら不適な笑みを浮かべた。口の中に残る血の味は、最適な調味料だった。
1,デッドライン
第四次パッカーフィールド要塞攻略戦に参加してから二年が経過した。クラナは人間年齢で十六歳になり、手足が伸びきった。これ以上成長させる事も可能だが、それは不自然になるので好ましくない。後は全身の細胞と相談しながら、錬磨と修練と知識吸収を重ねていくだけである。
二年間でクラナは大小七度の会戦に参加し、そのうち四度で大きな功績をたて、大佐に昇格した。帝国軍の猛攻が続く現在、眼前の敵に右往左往する貴族達にクラナを排斥する余裕はなく、比較的昇進人事はスムーズに行われた。クラナは毎度誰にも文句が言えない功績を挙げていたし、彼女が敵を撃破した事により助かった兵士達は多い。クラナは兵士達に〈とても恐ろしい〉と認識される一方で、〈とても義に篤い〉という認識もされていた。その一方で、〈とても頼りになる〉という点で完全に共通した認識をもされていた。実際、他の将帥が無能すぎる事もあって、クラナの人気は王国軍の中でも群を抜いて高い。
しかし、彼女が動かせる兵は二千、それに階級も旅団長止まり。今回の第十一次(!)ストラスファール平原会戦では、双方会わせて十七万もの大軍が激突。彼女の提案した作戦は総司令部に却下され、結果戦いは敗北に終わった。
戦い自体は、平凡な横列陣を組んだ双方が、何のひねりもない衝突を行い、兵力を消耗し会ったという、極めて意味のないものになった。これは丁度前回の戦いで、帝国軍が練りに練った戦術を駆使した所、王国軍の動きが予想以上に鈍すぎた事、情報の伝達が末端まで届かなかった事が重なり、戦況の収拾がつかなくなったからである。その反省を生かして帝国軍はシンプルで確実な陣形を組み、王国軍もそれに答えたのだ。しばしの戦いの後、数に劣る帝国軍は組織化した兵を駆使して、様々な地味で堅実な戦術を駆使して敵陣に攻め込んだ。だが呆れた事に王国軍の動きが鈍すぎたためかえって失敗、非常に低レベルな戦いは実に六時間に渡って続いた。最終的に、帝国軍の猛将ガルクルス中将率いる第三装甲騎兵師団の突撃により、王国軍中央部が蹴散らされ、その結果王国軍司令官カルーカ大将が戦死、潰走に至った王国軍の敗北に終わった。王国軍は敗北こそしたが、軍はそれなりの秩序を保って撤退、壊滅は免れた。
最左翼に位置したクラナは眼前の敵を局所的に圧倒したものの、味方中央部隊の潰走に伴い、敗走を余儀なくされた。クラナは全軍をくさび形陣形に再編成すると、追撃を開始した敵中央部隊の側面に食い込んで大損害を与え、攪乱した。それから機動力を駆使して数キロに渡って敵を翻弄、敵七万の内実に三万を引きつける事に成功した。この過程で敵の大佐を一人、クラナ自身が馬から叩き落としている。王国軍はこの間ようやく中将に昇進したイツァムが最精鋭を率いて前線に乗り出し、安定した手腕で再編成を行い、どうにか秩序を取り戻した所までクラナは確認した。その時点でクラナは敵の有力な部隊の猛攻を受け、それを撃退した頃には味方とはぐれてしまったのである。
会戦が行われたストラスファールの西にある、チュカパの森。今、其処にクラナは潜伏していた。辺りはクラナに何度も痛い目に遭わされた結果、殺気立っている帝国軍兵士によって満ちていた。此処急速に地歩を確保しているクラナは帝国軍から賞金が掛けられており、また同僚をクラナに倒された帝国兵も多く、彼らは一様に必死だった。王国軍は最低でもこの森より六キロは離れた位置に布陣していて、どう楽観的に見てもまだ再編成の途中である。敵もそれなりに被害は受けているとしても、しばらくは自分一人で何とか凌がなくてはならない。
ここ二年で、クラナは得た人材を適所に配置し、完璧に使いこなす事に成功した。
手元に置いている精鋭は、インタールに指揮させている。彼らの中には以前指揮していた元傭兵部隊の面々も含まれていて、忠誠度、能力ともに比類ない。また、ここにはイオンも配置し、切り札として彼女の強大な魔力による幻影魔法を幾度も重要な局面で炸裂させてきた。ここにはコルトスも所属している。
実戦指揮をしているのは、ルツラト、クインサー、リリセーの三名。特にクインサーは大きな拾い物で、以前生かして置いたのは正解だった。二度の会戦でクラナの能力を把握するやいなや絶対的な忠誠を誓い、現在まで股肱として使えている。きちんと評価すればきちんと働くこの手の手合いは、実は一番使いやすい。この他に、隊の運営はショパンに任せ、時々連絡をやってライレンにもアイゼンハーゲンに残してきた組織の維持を行わせている。いずれも、大陸を征服する際に、必要な布石の数々だった。それを今、此処で無駄にするわけには行かなかった。
出世していく者がいる一方で、脱落者もいる。バッカルフはその典型例だった。彼は戦士としても指揮官としても欠ける所があるから、待遇は兎も角、あまり高い地位をクラナは与えなかった。だがバッカルフは権力欲に乏しく、給料だけきちんと与えていれば、文句を言う事もなかった。
現在クラナが直接潜んでいるのは、大樹の根本に出来た空洞の中である。入り口をある程度偽装しておいたが、何時気付かれてもおかしくない不安定な隠れ家である。常人だったら神経が参ってしまう所だが、クラナは冷静である。ただ肉体面の疲労とダメージが大きく、そこで焦りを多少感じてはいた。左手の薬指が乱戦で傷ついており、必死の修復を行っているが、体力回復を果たした際にも握力が半分ほどしか戻らないのは明らかだ。左足腿は槍でかなり深く突き刺されているが、こちらは急所を外しているため、なんとかなる。一日くらい時間をおけば、どちらも傷を修復出来るが、今は決定的に時間が足りない。
クラナは人間ほど不完全ではないが、完璧な存在ではない。焦りは当然生じるし、苛立つ事もある。体内の細胞をせかして、先ほど食べた栄養が早く行き渡るように念じながら、冷たい土の壁に寄りかかってクラナは愛槍を撫でた。以前ショパンに買わせた業物の、最後の一本。合戦に出るたびに一本折れ一本無くし、最後の一本になってしまった。これで今日十五人を倒し、七人を馬から突き落とした。そういえば馬は七本の矢を浴びて絶命してしまったから、新しいものを探さねばならない。良く調教した馬だったのに、残念な話であった。失ったのは馬だけではない。どうしても小柄な体型に合わせ、多少軽めに作らせた、傭兵時代から愛用している鎧ももうスクラップ寸前だった。帰ったら、新しく作り直さねばならなかった。
槍は後五人を殺れれば上出来である。柄の耐久もかなり限界に近いし、何より刃が血油にまみれ、こぼれてしまっている。弓はまだ大丈夫だが、肝心の矢が後七本しかない。
「ゆっくり休むか。 まあ、休んでいる間に見つかってしまったら、私の運もそれまでのものだな。 生存競争に敗れて滅び去る。 ふん、結構な事ではないか」
槍の血を落とすと、クラナは剛胆に、そして不敵に呟いた。傷つき汚れながらも、其処には確かに、英雄と呼ぶに相応しい圧倒的な風格が備わっていた。
彼女は味方の支援など何一つあてにしていない。自分のためだけに、自分の力だけを使って、窮地を脱するつもりだった。それが、クラナがクラナであるが所以であった。
数時間の沈黙。気温が徐々に下がり、土に霜が降り始めた。クラナは出来るだけ音を立てないように、土から離れて木の根に背中を預けた。体力の回復には、存外に時間がかかっている。じりじりと焦りが指先から体内に侵入しようとするが、尋常ならざる精神力で押さえつける。僅かな隙間から見える星が、時間を掛けてゆっくり動いていく。焦ったら負けのこの情況で、確かにクラナは焦りを克服した。
夜明け前。ついに敵の動きが煩雑になり始めた。
簡易拠点を抜け出したクラナは、まずは木に登り、周囲を確認した。白み始めた空の下、苛立つ敵兵達は秩序を無くし、めいめい勝手な方向へ彷徨いている。その中に一人、どちらかといえば敵本隊が布陣している方に、良い衣服に身を包んだ男が居た。
敵を混乱させる意味もあるが、以前からクラナは、暇さえ有れば帝国軍人を一人か二人食べたいと考えていた。相手の軍制云々よりも、軍事知識が豊富な相手から、効率よく知識を吸収したいと考えていたからである。敵がバラバラに散っている今は、正にその好機である。陽動も兼ねられるし、〈食欲〉も満たせる。敵の動きを良く見ながら、注意深く気配を消し、クラナは忍び寄る。茂みも木立も木の枝も木の葉も、全てを味方にしながら、闇の獣は獲物へと迫る。そして、獲物が気付いた時には、もう遅い。
敵の周りには護衛が三人。それぞれがかなり弛みきっており、一人に至っては欠伸をしている。まあ、徹夜での作業をしていたわけだから無理もない。左手の握力が低下している事もあり、いつもより更に慎重に弓を構えると、もう一度辺りの兵力分布を確認し、クラナは立て続けに二本の矢を放った。欠伸をしていなかった兵士の喉に、立て続けに殺意が突き立った。欠伸をあげていた兵士が事態に気付いて硬直した瞬間、木の枝からフクロウの如く無音で飛び降りたクラナが、すれ違いざまに頸動脈を槍で切り裂いていた。木の葉を踏む音、後ずさった帝国軍人。大佐の階級をつけている、まだ若い男が、慌てて剣を引き抜いた。木の葉を蹴散らしながら、クラナは突貫、やぶれかぶれに突き出された剣で軽く肩を裂かれながらも、相手の顔面に掌底を叩き込む事に成功した。だが腿の傷が響いて力が入りきらず、一撃で首を折るまでには至らなかった。舌打ちすると、蹌踉めき、蹈鞴を踏む敵に飛びつく。そして地面に倒れ込みざまに、膝を鳩尾に叩き込む。悲鳴を上げさせる間もなく、更にスピードが乗った肘撃ちを顔面に叩き込んで、気絶させた。兜を奪って相手の側頭部に手を触れる。頭蓋骨が砕ける音が、小さく響いた。
クラナは小さく嘆息すると、相手の頭に、近くの岩を叩き付けて潰した。記憶の吸収整理は後である。今は一瞬一秒が何よりも貴重だ。現に、無駄を省ききった行動の結果、攻撃開始からここまで一分かかっていない。しかしクラナは不満だった。予定よりも二十秒近く時間が多くかかってしまったからである。呼吸を整えつつ、もう一度敵の配置を探る。やはり直線的に自陣に帰るには、多少無理がある。再び木の上に登ると、クラナは慎重に気配を消しつつ、南東へ向かった。むしろ敵陣の方へ。そちらが、一番敵の配置が手薄だったからである。一旦森を出ると、森の外縁部を、慎重に添って自陣に向かう。そして、味方の陣へ後少しという地点で、ついに敵に発見された。
「いたぞ! あそこだー!」
空が明るくなり始めたと言う事もある。枝を蹴って木々の上を疾走していたクラナの姿を、かなり遠くから視認された。そして殆ど間髪を置かず、複数の矢が飛来した。敵は側面と後方にいても、前方には回り込んでいない。巧みに、飛来する矢を、木々や枝を盾にかわしながら、クラナは走る。走りながら、残る五本の矢を、効果的に追いすがる敵へと叩き込む。矢の内実に四本が敵の喉に突き刺さり、残る一本も敵の右腕に深々突き刺さる。しかし反撃も其処までである。空になった矢筒を素早く外すと、飛来した矢の一本をそれで叩き落とし、もう一本を盾にして受ける。更に追撃してくる敵へ投げつけ、舌打ちして弓も放り捨てた。
「いい弓だったのにな……」
背負っていた槍を引き抜き、蝗のように飛来する矢を叩き落とし、はたき落とす。しかし、どうしても避けきれる数ではない。一本が壊れかけた鎧に突き刺さる。一本が、耳のすぐ脇を飛び去った。そして一本が、左足の脹ら脛に突き刺さった。バランスを崩したクラナは、もんどり打って木の枝から足を滑らせ、四メートルほど下の地面に叩き付けられた。朽ちた落ち葉が盛大に舞い上がり、敵兵が追いすがってきた。数は十五。残念ながら、現在の状態で手に負える数ではない。
「観念しろ! 戦場の悪鬼め!」
「観念しろ、だと?」
脹ら脛に突き刺さった矢を引き抜くと、クラナは昇り始めた朝日をバックに、凄絶な笑みを浮かべて身を起こした。側にあった木に左手で捕まり、蹌踉めきつつも立ち上がる。周囲をまんべんなく囲んだ帝国軍兵士達の内、勇敢な一人が絶叫しながらクラナに躍りかかるが、即座に顔面を槍で貫かれて絶命した。槍を抜き、つまらなそうに倒した敵兵を放り捨てると、クラナは言う。
「次!」
「く、くそおおおおおおおおおっ!」
「ぜああああああああっ!」
更に二人が、左右から槍を振るって躍りかかった。一人を石突きで弾くと、木から手を離す。頭のすぐ上を槍が通り過ぎるが気にせず、素早くナイフを腰から抜き、もう一人の顎の下へと差し入れる。間髪入れずに槍を旋回させ、木により掛かりつつも、先に突き掛かってきた方の喉を貫いた。
元々強烈な殺気と威圧感を放つクラナに、帝国兵達は逃げ腰であったが、これでそれが更に加速した。ふるえながら、一人が弓を構える。誰も前に出て戦いたくはないのだ。隊長格らしき男は、それでも虚勢を張って剣を構えていたが、震えは押さえきれていない。刃が致命的にこぼれた槍を、敵兵の喉から引き抜くと、クラナはなおも敵へ言葉を投げかけた。もう余力と呼べる物は、残っていないのに。木により掛かり、一人では立つ事も出来ないのに。
「どうした。 帝国軍は腑抜けの集まりか?」
「だ、黙れえええっ!」
「来い。 私の道連れが、たかが三人では寂しいというものだ」
死を、圧倒的な死を前にして、笑みすら浮かべているクラナの威容。朝日の柔らかい光が、まるで千本の棘が如く、兵士達の目を差す。圧倒された兵士が、一歩、二歩と後ずさる。クラナは、闇の獣であり、邪悪なる存在であった。その身から放つ威容と威圧は、既に借り物ではなく、無数の知識の集合体ではなく、自らが練り上げた物となっていた。
「う、うわあああああああああっ!」
隊長格が、剣を振り上げて突撃してきた。中尉の徽章をつけている。クラナは鼻であざ笑うと、体をバネのように撓らせ、一撃の下喉を貫いた。雷光が如き一閃が、クラナにとって最後のあがきであった。槍は折れた。仰向けに倒れた隊長の上で、クラナは片膝を突き、大きく肩で息をついた。もう力は何も残っていない。武器もない。顔さえ上げる事も出来なかった。心中で、クラナは呟いていた。
『どうやら、これまでだな』
無数の矢が飛ぶ音がした。そして、帝国軍兵士達の悲鳴が上がった。馬が地面を踏みしだく音、兵士達が走る音。それが収まると、娘の声がした。
「クラナ様! 大丈夫ですか! ご無事ですかっ!?」
「……?」
「良かった……心配しました!」
「お前は……イオンか」
自らを助け起こしたその娘は、イオンだった。イオンは涙さえ浮かべていた。そして涙を拭いながら、笑って見せたのである。
2,闇の帰還
無論クラナは、味方が救援に駆けつける事も、計算には入れていた。陣の近くで騒ぎが起これば、味方が駆けつける可能性はなきにしもあらずだったからだ。だが一方で、まさかイオンが助けに来るとは思っていなかった。イオンが率いている百名ほどの精鋭部隊は、クラナを収容すると、疾風のように自軍へと引き上げていった。
しばらくクラナは呆然としていた。思考が混乱していたのである。イオンが助けに来たのは全く予想外だった。確かに忠実な道具だとは考えていたが、今のイオンの顔は、クラナを心の底から心配しているものだ。イオンは、クラナの正体も知っているし、何より道具だと思っている事も知っている。それが何故助けたのか。しばし考える必要があるのは確かだった。疲れ果てたクラナは、イオンの馬の後ろに乗せられていたが、不思議と無力感はなかった。
「全軍、止まれ!」
少し時間が経って、落ち着いてきたクラナは、自陣の側で部隊を停止させた。もう自陣は目の前だが、まだ見えない。クラナは周囲を見回し、幾つかの指示を出す。
「まず現在の我が軍、そして我が部隊の情況を説明せよ」
「はっ! イツァム将軍の手によって、全軍の混乱は回復しております! 推定戦死者数八千、負傷者数三万! 我が部隊はおよそ百三十名が戦死、負傷は四百名ほどです。 我が部隊の幹部に、死者及び負傷者はいません!」
敗走はしたが、何とかまだ戦いは出来る。まず士気を盛り上げる事が必要であった。
「よし。 お前達はまず先に戻り、私が無事である事を兵士達に触れて回れ。 出来るだけ大声で、だ。 更に、私が敵の大佐を葬った事も伝えて回れ」
「はっ!」
五十名ほどの兵士達が、先に馬を駆り、自陣へと戻っていった。残りの兵士達を見回すと、小柄な数人を選んで、イオンと共に物陰へ移動し、クラナは言った。
「悪いが、お前達の鎧と槍を貸せ。 いや、此処で、相場の倍で買い取ろう。 イオン、後で軍の予備費から、彼らへ支払え。 相場の余剰分は口止め料だ。 お前は、彼ら用の鎧を先に陣へ戻って手配しておけ」
「もったいないお言葉にございます」
「はい、了解しました」
これは、戻った際に、ある程度の見栄えが良い方が好ましいからである。鎧は適当に血も浴びていて、リアリティも充分だ。
この程度の小細工は、戦場では必要な演出である。それはどの兵士達も皆分かっている。だがこの演出は大きな意味を持っている。兵士達の士気を大きく確実にあげる事が出来るし、その結果味方は奮い立ち、結果死者を減らす事が出来るのだ。
鎧の部品部品を置いた兵士達が一足早く陣へ戻ると、クラナはイオンに手伝わせ、鎧を着替えなおした。今着ているのは古い鎧であるが、これは以前作った靴や服同様、クラナが大事にしてきたものだ。手元にある以上、保管しておきたい所である。その旨を伝えると、イオンはくすくす笑った。
「? 何がおかしい」
「……クラナ様、貴方はとても人間らしいです。 この国の腐った貴族達なんかよりもずっと」
「妙な事を言うな。 私が人間らしいというのなら、彼らは一体なんだ?」
「きっと、地獄の悪魔達だって目も向けない、腐った食べ物だと思います」
苦笑したクラナは、鎧を着替えると、槍を手に取った。体が非常に重い。いつもより多少苦労しながら馬に乗ると、出来るだけ広めの道を選んで、自軍へと戻った。隣には、徒歩のイオンが付き従っていた。この道具に、もう少し報いてやろうと、クラナは自然と思い始めていた。
「ところで、どうやって私の居場所が分かった?」
「インタールさんと相談して、森の中を調べていたんです。 そうしたら、クラナ様の気配を感じて」
「……人ではない存在としての気配を消す訓練が必要だな。 他の魔法使いにも、ばれる可能性がある。 何にしても、今回はそれが逆に幸いしたな。 ともかく、だ。 礼を言うぞ」
道具に礼を言うというのも妙な話だが、この時クラナは、計算も演技もなく礼を言っていた。
万全の準備をしたクラナが陣へ戻る。周囲を護衛達が固めており、ある程度身なりを整えたクラナは、陽光を浴びて輝くように見えた。鎧に付着した返り血さえが、それを助長していた。其処にあった姿は、正しく死地から帰還した英雄のものであった。
「クラナ様がお戻りになったぞ!」
「クラナ様が! お戻りになったあっ!」
クラナに気付いた兵士達が歓声を上げた。クラナ隊以外の兵士達もである。彼らに手を振りながら、登り行く朝日を背にして、クラナは叫んだ。
「兵士達よ! 私は無事だ! そして汝らに勝利をもたらそう!」
歓声が爆発した。
クラナ隊の士気が完全に戻り、それが周囲にも波及していくのを確認すると、まず最初にクラナは本幕に戻り、部隊の幹部達に最低限の指示を出した。それが終わると、イオンに大量の食料を用意するように命令した。体力を回復するのが最優先で、眠るにはまだ早いからだ。それに並行しながら、軍医に応急処置をさせる。クラナの体は強靱だが、基本的に人間を極限まで強化した物だから、まず医師にはばれない。流石に右手の先端部を調べられると問題だが、そんなへまはしない。
その上で、改めてクインサーとリリセーに聞いた情況は、あまり余裕がある物ではない。損害比率から言って、現在負傷者を除いた王国軍と帝国軍の戦力は数的に五分である。だが王国軍兵士と、帝国軍兵士では、質に違いが有りすぎる。クラナ隊ならば帝国軍最精鋭と五分以上には戦えるが、特に貴族が領地から連れてきたような連中は正に数あわせで、文字通りの雑兵である。領土が実質半分ほどしかないアイネスト帝国が、大陸最大の国家バストストア王国をむしろ押しているのは、腐敗しているとは言っても専門の軍人を育成し、精鋭を育て上げているからなのだ。それに対して、貴族が軍人をかねている王国軍は弱体化が著しい。実際クラナも、大隊長から連隊長、さらに旅団長に昇進した際、新たに参入した軟弱な兵士達の訓練には頭を悩ませた。
総司令官の大貴族カルーカが戦死し、イツァムが暫定的に総司令官になったのは、一方で幸運な事であった。クラナも認める安定した手腕の持ち主である老将イツァムは、現に今も混乱を早期に回復し、粘り強く情況を維持している。また、イツァムはクラナを信頼していて、右腕のように考え、重要な戦局に投入する事が多い。クラナにしても、道具としてはとても有用だとイツァムの事を認めていた。十代半ばにして旅団長というポストに就けたのも、クラナの功績以上に、彼のプッシュが大きいのだ。
戦場では贅沢も言っていられない。炙った肉と、後は辺りに生えていた木の実が運ばれてきた。取り合えず急いで肉を腹に収め、木の実をあまり上品とは言えないほどに急いで口へ運ぶ。エネルギー不足に抗議していた細胞達に、栄養が浸透していく。傷の修復も開始される。一人分の食料を見る間に平らげたクラナは、次を要求し、それもすぐに胃に収めた。あきれ顔のリリセーに対し、クラナの横に佇んでいるイオンは終始機嫌良さそうに笑顔を浮かべていた。更に次の食事を要求し、ナプキンで口の周りを拭きながら、クラナはクインサーに言う。
「味付けは無しでいい。 兎に角火を通した肉と、糖分がある木の実、それと栄養価が高いものを持ってこい。 クインサー、お前は今後の作戦行動に、明確な展望はあるか?」
「正面から戦っても、勝てる見込みは少ないと愚考します。 名誉ある撤退を進言します」
「リリセー、お前は?」
「僕としては、ガルクルス中将の騎兵隊を押さえるのが急務だと思います。 その上で、敵本営をつけば、勝機が生まれるかも知れません」
基本的にクインサーは慎重案を、リリセーは積極案を示す事が多い。一方でルツラトは軍議でもむっつりと黙っている事が多く、だが任された命令は的確に実行してみせる。どれも有能で、クラナにとっては大事な道具だった。
兜を脱いでいるクラナは、髪をツインテールに結びながら、続けた。
「敵将について、知っている事は?」
「敵司令官ハイゼンボーン大将は、精密すぎた時計、と言われる方です」
「ふむ……なるほど」
確かにクラナにも思い当たる節があった。精密な戦術を実行しようとして、何度も失敗し、無様な戦場を演出してしまう敵将。理論は知っているのだが、現実の戦場知識及び指揮能力にそれがマッチしていないのだ。或いは一師団の指揮官レベルで有れば事足りる可能性もあるが、総司令官としては無能である。
一方で、味方がどうかというと、敵より更に酷い。総司令官のイツァムには信頼感があるが、他の将帥は文字通り数あわせだ。此奴らを制御するイツァムも大変だが、この戦いで勝とうと思っているクラナは更に大変である。精密な兵力運用など期待出来ないし、あまり戦力としても多くはカウント出来ない。
ようやく新しい食事が運ばれてきた。味付けなどどうでも良いと先ほど指示したので、本当に野性的な単なる焼き肉と、そのままもいだ木の実ばかりである。その中にフラットナーの実があるのに気付いたクラナは、まず最初にその実を砕き、甘い果肉を口に入れた。そして残りの木の実と肉を口へ無造作に運んでいるうちに、兵士が一人、本幕に飛び込んできた。
「クラナ大佐!」
「此処にいる」
「ご無事で何よりです! イツァム臨時総司令官が、軍議を行うと言う事です!」
「分かった。 準備が終わり次第、其方へ向かう」
頭を下げた兵士が走り去っていった。クラナは残念だと内心で思いながらツインテールをほどくと、兜を被り直し、姿勢を正した。
体はまだ回復途上であり、若干重かったが、それでもクラナはそんな素振りを一切見せなかった。温厚なイツァムは、白く長い髭に覆われた顔に笑みを浮かべて、本陣に到着したクラナを迎えた。この温厚な老人が、有能な将軍であり、今回軍を全面潰走から救った張本人なのだ。他の司令官達の反応は、死地から帰還したクラナを驚嘆の目で見やる者、平静を装いつつ、恐怖を隠している者、様々である。ひそひそ声を躊躇無く耳に入れながら、クラナが他の大佐達と同様に席に着き、他の生存している高級士官も全員揃うと、イツァムは周囲を見回した。会議は軍の規模もあるから大がかりで、中佐以下の士官は天幕の外で待っていた。
「まず最初に、空位になっている第七師団長の後継者を発表する」
第七師団といえば、先の戦いでガルクルス隊の突撃に会い、粉砕された部隊である。司令官であるパッシュ准将の顔は、そう言えば見えない。まあ、あの情況では、戦死していてもおかしくはない。第七師団の兵の半数以上が明らかに戦死しているからだ。
「クラナ大佐。 撤退時の働きは実に素晴らしかった。 よって汝を臨時准将に任ずる」
「はっ!」
異議を申し立てる者はいない。クラナ隊の火が出るような働きぶりがなければ、此処にいる者達も多くがあの世へ旅立っていたからだ。それにクラナは奢る様子も見せず、淡々と任官を受けた。しかしそれは娼婦シルヴィアの知識を応用した演技力のたまものである。内心では、してやったりとほくそ笑んでいた。
臨時とはいえ、ついに准将である。しかもこの戦いに勝てば、イツァムの推薦により正式に准将になる事がほぼ間違いない。これでクラナは、八千〜一万の兵を基とし、攻撃、防御、補給、一応その全てを備えた一個師団の指揮官になるのだ。この他に同じように大損害を受けた三つの師団からの敗残兵をかき集めて、新クラナ隊には七千五百の兵が配備される事となった。敗残兵の寄せ集めではあるが、中核は百戦錬磨のクラナ隊である。運用次第では、充分に大きな力を発揮出来る。兵力も少な目だが、これは臨時編成部隊であるから、仕方がない事だ。
貴族が軍人をかねているバストストア王国では、将官には領地も与えられる。前線から遠い領地は殆ど貴族が押さえてしまっているので、前線に近い場所が任されるのは間違いない。これはますます戦いの機会が増える事を意味し、クラナにとっては好都合だった。
新しく配備される三個旅団の指揮官達は、一応顔見知りの大佐が二人、今一人は臨時に大佐になった中佐であった。呼ばれて、おどおどと天幕の中に入ってきたその娘の名前はパーシィと言う。眼鏡を掛けた大人しそうな女性で、鎧が可哀想なほど似合わない。造作的には地味な顔立ちなのだが、どういう訳か眼鏡をつけると却って容姿が映える。特にお洒落に気を使っている風もなく、あまり洗練された雰囲気を持つわけでもない。明らかに戦場にいるのが間違いな姿形だが、まだ若い娘なので、もし貴族ではないとすれば有能な事は疑いない。貴族で有れば、邪魔なだけだ。ただ、臨時でイツァムが大佐にするほどだから、有能な可能性は少なくない。何にしても、部下になったとしても、この戦いで様子を見て後で再編成する。使えないようなら格下げだ。
「それでは、今後の作戦行動について、意見を求める」
何人かの中将、少将が撤退を具申すると、彼らと仲が悪い者が反撃を主張する。勝てるか勝てないかではなく、これを派閥争いの延長ぐらいに考えているのだ。そんなことだから負けるのだが、反省は微塵も見られない。腐敗した貴族などという連中がどういう存在か、これだけでも明らかだ。また、撤退派も反撃派もこれという作戦案を提示出来なかったので、軍議は長引いた。しかしながらこれに関しては、クラナも決定打の持ち合わせがなかったので、あまり人間共の事は言えない。
例のパーシィという娘が袖を引いたので、クラナは内心鬱陶しくて舌打ちした。先ほどから意見を言おうとして、ずっとまごまごしているばかりで、行動に出ない。自分を介して意見を言おうとしているのが、明らかだったからだ。
この様子からして、この娘は明らかに前線指揮官向きではない。今までの動きを見ても、とても前線で剣を振るえるタイプではない。参謀として、的確な意見を提出し続け、若くしてこの地位に登り詰めたタイプである事は、ほぼ間違いない。パーシィは、常人では聞き取るのも難しいほどの小声で、顔を赤らめながら言う。
「あの、クラナ大佐、いえ臨時准将、よろしいですか?」
「なにか? パーシィ臨時大佐」
「あ、あの、よろしければ、聞いて欲しいのですけど。 名案が……」
「自分で言えばいいのでは? それとも、恥ずかしいとか?」
パーシィは真っ赤になりながら頷いたので、クラナは呆れた。だがそれを顔には出さず、さも同情した風に言う。ここで呆れたり、頭ごなしにしかりつけたら、このタイプの人間には逆効果だからである。十数人分の経験が、その結論を出していた。
「分かった。 私が代わりに発言しよう。 それで内容は?」
「味方には、精密な兵力運用も、敵に勝る武も期待出来ないと思います。 一方で、我が国でもトップクラスになる、クラナ准将の精鋭が味方にはいます。 そこで……」
意外に現実的にものを考える娘である。更に、提案された策も、問題がないものであった。敵の弱点から考えても、充分に使い物になる。しばし考えた後、クラナはある程度アレンジを加えながら、パーシィと打ち合わせに入った。甘いものがないから、あまり長時間は精密な思考が練られない。それ故に、時間との勝負である。しばしして、どうも不毛な意見の応酬に飽きた体のイツァムが、クラナに意見を求めてきた。クラナは頷くと、地図を広げ、パーシィと二人で練り上げた策を提示した。
旅団長三名を連れて陣に戻ったクラナは、クインサーとルツラトに再編作業を任せ、リリセーに周囲の警戒に当たらせた。斥候の話によると、帝国軍は少し後退して陣形の再編を行っていると言う事で、もう一戦交える気なのは明白である。まあ、勝っている戦で、撤退しようと言うほど帝国軍は平和主義者ではないという事だ。帝国軍内部での、軍人同士の派閥争いは熾烈だとクインサーからクラナは聞いていたが、それからしても、帝国軍が勝ち戦を諦めるはずがない。手柄を立てる事が、兵士の命よりも大事な事になっているのだ。
クラナはそういった人間の道徳には関心がない。正確には、道徳のなんたるかに興味を覚えない。道徳の無力さを、誰よりも知っている事もあるのだが、それ以上に人間の世界を利用して、完全に安全な生活空間を作るために戦っているからだ。極端な話、クラナは実力で人類を抹殺出来るのなら、間違いなくしている。だが彼女に其処までの力はないから、現状で最強の力を持つ人類の社会を利して力を伸ばしているのだ。
関心はないとしても、人間は道徳を軽蔑しているようでそれを重視しており、少なくとも表面上は無視するわけには行かない。それに基づいて、効率的な行動と、運用をする必要がある。十数人分の記憶からそれを学習しているクラナは、時々意見を求めてくる部下に答えながら、先ほど食べた帝国軍人の知識を吸収、意識を制御下に置く作業に没頭した。
「クラナ様」
「うん?」
ショパンが現れたのは、それが一段落した頃だった。彼はクラナの新しい得物を探して、輸送隊へ業物を探しに行っていたのだ。彼の背後には、兵士が二人がかりで、布に包まれた長大な武器を抱えていた。
先ほど兵士から買い上げた槍は、強度に問題があり、予備武器以上の使い道がない。そこでクラナは、倉庫に何か良い武器がないか、ショパンを向かわせたのだ。出来れば英雄が持つに相応しい、見栄えがする武器を。重すぎると馬に乗れなくなるが、人間が持てるものならクラナにはほとんど何でも扱える。
「以前軍に所属している鍛冶屋が趣味で作った物だそうです」
「ほう」
「凄まじい業物ですが、何しろ使える者が殆どいなかったそうで、輸送隊の荷物になっておりました」
布をはぎ取って、クラナは思わず小さく声を漏らしていた。其処にあったのは、あまりにも長大で、分厚い剣だった。刀身は二メートル以上、柄はおよそ一メートル。もともと剣類の中には斬るのではなく叩き潰す用途で作られている物が多いが、その最たる物がこれであった。
「これなら馬ごと騎兵を叩き潰せるな」
「打撃武器に近いので、耐久度も問題有りません。 後は持ち上げられるか、ですが」
「私を誰だと思っている」
クラナは軽々とその剣を持ち上げて見せた。まだ傷が完全回復していないが、試運転くらいなら全く問題ない。兵士達の驚愕の視線を浴びながら、クラナは長大な剣を担いで案山子の前へ行き、そして。
叩き潰した。
斬るのでもなく、潰すのでもない。文字通り叩き潰す。数度振り回すと、剣は風を切って鳴いた。ごうごうと聞こえるその音は、確かに血を求めていた。剣の柄で肩を叩きながら、クラナはショパンに凄み有る笑みを浮かべた。
「気に入った。 いい武器を見つけてきたな、ショパン。 褒めてつかわす」
「お、恐れ入ります」
「次の戦いでも、働け。 次勝てば、私は恐らく准将だ。 そうすれば、お前の権限は、更に拡大する。 期待しているぞ」
冷や汗を流しながら頭を下げるショパン。クラナは口の端をつり上げると、思いもかけず手に入れた逸品の剣を鞘に収め、天幕に戻っていった。
3,ストラスファール平原燃ゆ
その戦いは、後の戦史研究家の間で評価が別れている。わずか三日という短い間をおいて王国軍と帝国軍が相対したため、二つの戦いを会わせて第十一次ストラスファール平原会戦と呼ぶべきだという者、二つの戦いは展開や後の歴史に与えた影響から言っても全くの別物だという者、二派に別れたからである。ただ、後者を押す者には、クラナを必要以上に崇拝する〈信者〉が少なからず混じっているため、前者の説が採用される事が多い。何にしても、ストラスファール平原では、二つの国の会わせて十二万五千に達する軍勢がにらみ合っていた。
帝国軍はおよそ六万三千。王国軍は六万二千。前回の戦いに比べて、王国軍の減少が著しい。対して帝国軍は数において王国軍を上回り、既にその意気敵をのんでいた。
帝国軍司令官ハイゼンボーン大将は、自分が酷評された事実など当然知らない。魚の鱗を模したいわゆる魚鱗陣をひいた帝国軍中央後ろで、双眼鏡をのぞき込んでいた彼は、不審に眉をひそめた。
敵はVの字の、いわゆる鶴翼陣をひいているのだが、どうにも妙な事が多いのだ。鶴翼陣は平原での戦闘に特化した陣形で、敵を包囲する事に全てを注いだ陣形である。鶴が翼で包み込むように相手を包囲殲滅する事を目的としている。一方で広く横に展開するため陣容が薄く、一カ所でも破られると非常に危険でもある。
王国軍には弱兵が多い。だから方陣にしても円陣にしても高密度の陣を敷いて機会を待つだろう。そう断言した参謀達の顔を一つ一つ頭の中で蹴飛ばしつつ、ハイゼンボーンは考え込んだ。そして彼の考えをあざ笑うように、王国軍が動き出した。
「王国軍が動き出しました!」
「うむ」
内心では、言われなくても分かっていると罵りながら、ハイゼンボーンは動き出した敵右翼を見やった。突出した右翼に続いて、左翼、更には中央も動き出す。
「左翼部隊、迎撃せよ」
次の瞬間、想像外の事が起こった。敵右翼がいきなり反転し、後退を開始したのである。動き出した左翼は、それに釣られて徐々に前進する。左翼およそ一万五千が、敵右翼およそ一万三千へ、じりじりと間を詰めていく。
「司令官、他の部隊はどうしましょうか。 このままだと、左翼が孤立する可能性が」
「分かっておる!」
混乱しながら、ハイゼンボーンが叫ぶ。やがて彼は混乱しながら、突出した左翼に後退と、右翼と中央部隊に微速前進を命じた。
「良し、かかりおったな」
王国軍中央部隊にいるイツァム中将が、敵の動きを見やりながら呟く。敵が混乱しているのは、遠めがねをのぞき込むだけで手に取るように分かる。彼は脇にいる参謀へ、別に興奮するでもなく淡々と言った。
「例の指示の通り、動くように伝えよ」
「はっ!」
全軍の動きが停止した。そして今度は、味方右翼に代わり、味方左翼が動き始めた。そして、敵とある程度の距離にまで近づくと、再び反転して後退する。敵がそれに会わせて後退すると、今度はまた右翼が突出する。三時間の間に、実にそれを五回繰り返した。
五回目が行われた頃には、敵の苛立ちが頂点に達している事が目に見え始めた。首脳部の混乱もである。対し、味方は予定の作戦行動なので、問題なく行動している。また、動き自体も極めて大雑把なので、特に問題はなかった。
「クラナ臨時准将に連絡。 右翼前進と同時に、攻撃開始」
敵を見据えながら、イツァムが言う。命令は直ちに実行された。
「クラナ臨時将軍!」
「うむ」
「次の作戦行動に会わせて、攻撃開始、との事です!」
伝令はそれだけ言うと、本陣へ戻っていった。クラナの側には、パーシィが控えている。どう考えても作戦指揮能力には問題があるので、彼女はあくまで直参参謀とし、指揮下の部隊はクインサーに一任したのだ。他の旅団長達は一応無理のない水準程度の動きをしている。
パーシィは細い腕をしていて、槍も持てなかったが、馬に乗るのだけは上手い。作戦行動についてこられない恐れはなかった。
味方と敵の距離が、一秒ごとに詰まっていく。敵は相変わらず不平満々という体で、左翼だけを突出させてくる。相変わらず味方は普通に、やる気が無さそうに間を詰めていく。そして距離が一定まで詰まった瞬間。クラナが、手に入れたばかりの長大な愛剣を振り上げた。
「総員、突撃! 我に続け!」
歓声が上がった。クラナ隊は王国でも最精鋭の一つであり、しかも非常に士気が高い。クラナが大きな黒馬に跨って、最前衛部隊に混じって突撃すると、地響き立てて七千五百の兵がそれに従った。狼狽える帝国軍は、中央部隊と左翼の間に兵力の過疎地帯が出来ている。其処へ、今までの王国軍からは考えられない速度で、クラナ隊は突貫した。食肉に鉈を振り落とすような光景が、戦場に具現化した。
凄まじい勢いで突撃したクラナ隊は、戦況の急激な変化に右往左往する帝国軍左翼の一部を文字通り撃砕、蹴散らしながら反対側に抜けた。そして敵本隊に大量の矢を叩き込みながら、敵後方へ殺到する。それに会わせて王国軍も全軍が攻撃を開始、混乱する敵司令部をあざ笑うように、或いは今までの鬱憤を晴らすかのように、混乱する敵に襲いかかった。こうなると強兵は狼狽え、逆に弱兵は活気だつ。
クラナは長大な剣を轟音と共に振り回し、手当たり次第に敵を叩き潰した。刃が分厚く、しかも事実上は打撃武器なので、実に耐久性も叩き心地もいい。容赦なく群がる敵を撃砕しながら、クラナは敵後方へ回り込んだ。前回勝負を決めた敵の精鋭ガルクルス隊は右翼で王国軍の猛攻に右往左往し、クラナの鋭鋒を防ぐには至らない。クラナは最精鋭をくさび形に再編成すると、混乱から立ち直れない敵後衛に、自らが先頭になって突撃した。
ようやく帝国軍が反撃を開始したのはその時だった。元々魚鱗陣は分厚く本陣を守る陣形で、打たれ強いのだ。特に帝国軍右翼は、ガルクルスの猛叱責とともに態勢を立て直し、王国軍を押し返し始めた。舌なめずりすると、クラナは群がる敵兵を薙ぎ倒し、剣を振り上げた。長大な剣は、既に柄まで血に染まっている。
「此処が正念場だ! 皆、私と共に死ねっ!」
「おおおおおおっ!」
吠えた配下の精鋭達に答えるかのように、クラナは自ら率先して敵中へ突貫した。そして敵最後衛部隊を指揮していた旅団長を発見、逃走する暇も与えず一息に叩き潰した。抵抗能力を身につけ始めていた敵後衛がこれによって再び壊乱し、これを敵本隊へ押し込む。クラナ隊の猛攻を受けた帝国軍後衛は恐怖に駆られて本陣に逃げ込もうとする。同時にクインサー、リリセー、ルツラトらの諸将が膨大な数の矢を叩き込み、逃げ腰になった敵の尻を蹴り飛ばす。また、インタール、コルトスらの勇者も、クラナに少し遅れてはいたが、味方の中核となって暴れに暴れた。ショパンが指揮する後陣はきちんと味方の背後を守り、散発的な敵の抵抗をはねのけていく。しばしすると、帝国軍の中でまともに戦えているのはガルクルス隊のみという惨状となった。王国軍は鶴翼陣の両翼を広げ敵を包囲していった。帝国軍本陣は、クラナに押し込まれた兵士達で蜂の巣をつついたような騒ぎとなり、まともな指揮は失われた。
戦いが始まる前に、パーシィは言った。
「ハイゼンボーン将軍は、知識はあっても勇気はない方です。 彼の指揮を乱すには、彼の知識にない不可解な用兵と、強烈な力を最大限に生かした戦法しかないと思います。 不可解な用兵と、それとうってかわった強引な用兵を連続させれば、おそらく対応しきれずに帝国軍は自滅します」
戦いの経過は、正にその通りとなった。クラナはパーシィを見直し、有用な道具として、再評価していた。
クラナ隊最精鋭は、敵本陣に対し、四度目の突撃を敢行していた。既に大筋の勝敗は決しているが、存外に敵は頑強な抵抗を見せていて、致命傷を与える必要があったからである。味方の動きが鈍く、敵に健在な部隊がまだかなり多い事も、クラナ隊の負担を増やしていた。
四回の突撃で、クラナ隊は既に五人の高級士官を討ち取っている。師団長二人、旅団長二人、連隊長一人。味方の被害もそれなりに大きいが、敵はそれ以上である。後一つ、後一つ決定打が有れば完全に勝負がつく。だが帝国軍本陣もまた必死の抵抗を行い、無数に連ねた盾で強烈な突進を阻害しようとした。
「クインサーに連絡! 支援突撃を敢行しろ!」
伝令に吐き捨てると、クラナは突っかかってきた敵騎兵を無造作に胴切りにし、飛来した矢を体を低くして避けた。今乗っている馬はかなりタフで、既に二本の矢を受けているのに、まだまだ元気に走り回っている。クラナは護衛隊を見回し、イオンを発見すると、来るように指で招いた。その間、槍を突きだしてきた歩兵をあしらいながらである。突き出された槍を避けると、空いている左手で掴む。そして蒼白になった歩兵に凄絶な笑みを浮かべ、容赦なく剣を振り下ろした。頭を撃砕された歩兵が倒れるのと、小柄な白馬に乗ったイオンが近寄ってきたのは同時だった。
「クラナ様!」
「クインサーの突撃と同時に、幻術を使え。 敵の注意を其方に集中させろ!」
「はい!」
イオンの幻術は、着実に強力になっている。以前はせいぜい五百人程度の幻しか作れなかったが、今では同じ労力で千以上の幻を作り出す事が出来る。クインサーが現在保有している部隊は千七百ほどだから、それを一気に見かけだけ二千七百に水増し出来るのだ。
敵兵士からむしり取った槍を、敵に投げつけ、ひるんだ隙に更に二人三人と切り倒す。全身は既に返り血で真っ赤である。無論ずっと戦っているわけではなく、何度も後方に下がって休んだ〈食事をした〉わけであるが、それでも重要な局面では必ず自身が最前線で戦っている。兵士達が戦場の天使と崇拝し、或いは悪鬼と呼び畏れる所以が此処にある。クラナは確かに人間を見下していたが、同時に常に自らの命をかけていた。それに部下達を道具として見ながらも、使い捨てる事はなく、常に危険を共有した。だからうすうすクラナの寒い視線に気付いている者でさえ、クラナには全幅の忠誠を誓ったのである。計算以上の地で行っている事ではあるが、確かにそれは人間から見ても、クラナの長所といえるものであった。
やがて、要請を受けたクインサーが、絶妙のタイミングで突撃した。更に息をぴったり合わせて、イオンが幻術を発動した。イオンの周りにはインタールとコルトスがぴったり張り付いて、護衛を欠かさない。インタールは雄叫びをあげ、コルトスは欲望に目をぎらぎらと輝かせて、敵を寄せ付けない。クインサー隊の突撃が、敵をひるませた瞬間、クラナは頭上で大剣を水車の如く振り回しながら叫んだ。
「今だ! 総員、突撃せよ!」
ついに矢折れ刀つき、帝国軍本陣は崩れ立った。その中に、良い鎧を着ている者がいた。クラナは口の端をつり上げると、馬を寄せる。そして、呼びかけた。
「貴様が精密すぎる時計か!」
「な、なんだとおっ!」
「首は貰った!」
無慈悲に空を斬ったクラナの剣が、永久にその者の言語活動を停止させた。
残念ながら、クラナが討ち取った者は敵の中将で、司令官ハイゼンボーンではなかった。だが程なくして、ついにクラナ隊に所属している一兵士が、ハイゼンボーンを発見、矢を射かけた。それは見事に肩を貫き、敵将は落馬、取り押さえられた。
戦いは夕刻に終わった。帝国軍はおよそ死者二万を出し、ガルクルス隊が先頭になって包囲を突破し、逃げ延びていった。王国軍が得た捕虜は一万ほどに達し、軍需物資の盧穫は膨大な分量に登った。帝国軍は文字通り壊滅した。対して王国軍は死者四千ほどを出したが、前回の雪辱を大いに果たし、意気上がった。しかし追撃する余力は到底無く、前線基地であるリリフトハイルに撤退せざるを得なかった。王国のリリフトハイル同様、帝国も前線には多くの要塞を築いており、疲弊した今の情況でそれらを攻略するのは難しいからだ。
どちらにしても、クラナの活躍は誰にも文句がつけられないほどめざましいものであった。正式に階級から〈臨時〉が取れたのは、戦いが終わって後一月の事であったが、それは誰もが認める確定人事だった。
4,王都の闇
王都フオル。バストストア王国最大の都市であり、同国首都でもある。人口は約六十万。数百年の歴史を持つだけあり、よく発達した、王都に相応しい場所である。大陸北部の中心にある此処は、文字通りの戦略要所で、かっての統一政権は此処で円滑に政務を片づけていた。だが現在は、徐々に帝国に勢力を浸食されている事もあり、二度三度と遷都の案も出たが、結局実現はしなかった。この都市が完成されていると言う事、帝国の危険があってもやはり戦略上の重要拠点である事、が非常に大きいからである。また、幾つかの主要宗教が此処を聖地に定めていると言う事もあり、其方からも反論が出る事があった。
王都周辺は、王国の支配階級である、フオル=バッケスト人が元々住んでいた地域でもある。故にこの辺りの住民は選民思想が強く、他の地域の住民からは慢性的に嫌われている。昔はさほどでもなかったのだが、政治腐敗が顕著になったここ百年ほどは、特に、である。政治不信は、求心力の低下を招く。今更ながらに王国中枢部は信賞必罰をわかりやすく示そうとしており、その結果クラナの出世は確実になったのである。また、此処暫く帝国との戦いで人材が多く失われた結果、その穴を埋めるため、クラナ以外にも急速に出世した者は多い。
クラナはイツァムと、それに幕僚達と一緒に、王都を訪れていた。イツァムは大将となる事が決定したのだ。今回の戦いは、十万以上の兵力がぶつかり合う大会戦としては久しぶりに王国軍の完勝に終わった事もあり、またイツァムの見事な指揮もあり、この出世もクラナ同様の確定人事だった。昔であれば、門閥貴族達に阻まれて出世は出来なかっただろうが、それだけ帝国の圧力は現在顕著なのである。
王都の入り口は、高さにして二十メートル以上もある、壮麗な石門である。白の吊門と呼ばれるこの門は、百二十年も前に作られた物で、全体に精緻な装飾が施されている。それを潜りながら、イツァムは傍らのクラナに言った。
「不肖のような老人が、今更大将とはな。 世の中、何が起こるか、本当に分からないな」
「イツァム将軍はまだ若いですよ。 これからも、王国の重鎮としてご活躍を充分ねらえるでしょう」
「……」
苦笑したイツァムに、表面的には笑みを浮かべつつ、内心でクラナは舌打ちしていた。もう少しイツァムには、クラナとしても頑張って貰いたい所だからである。現在、王国の高級士官に人材はいない。佐官クラスで有ればそこそこの人材が育ちつつあるが、高級士官は文字通りの廃棄物だ。それなりに有能なイツァムに頑張って貰わないと、クラナとしては動きづらくて仕方がないのだ。
イツァムは長く生きているだけあって、なかなかに底が知れない。十数人分の記憶を吸収したクラナとしても、時々はっとする事を言う事がある。以前感じた、記憶蓄積装置としてではない、思考発生装置としての大きな価値も、クラナはイツァムに対して認めていた。
三個師団を基本とする兵団を指揮するか、もしくは重要な要塞の指揮を任せられるか、或いは中将、大将の副将となる少将。幾つかの兵団を束ねる中将。そして大将は、一地方軍を束ねる重責につく事が多い。現在前線となる大陸北部を束ねる竜軍北部司令官が不在であり、イツァムが其処に収まれば、公称三十五万の、竜軍北部方面部隊と呼ばれる王国軍前線部隊の指揮を執る事となる。現在の竜軍北部方面部隊の実力は二十万前後とは言え、それでも充分な軍事力を手に入れる事となるのだ。
王都は小綺麗な町並みだが、どうしても精気に欠けた。物珍しそうに辺りを見回す配下に時々咳払いしながら、クラナは注意深く周囲を観察した。今日は綺麗に磨いた鎧と階級章をつけ、軍人としての正装をしていたが、宮中でのしきたりにより兜だけはつけていない。だから、お気に入りのツインテールに髪を束ねていた。
此処暫く、クラナはイオンに協力させて、魔法使いにも正体を悟らせない訓練を積んでいた。結果、ある程度の集中が必要だが、それでも今は充分に正体を隠蔽する事が出来るようになっていた。だが、念には念を、である。また、彼女にしてみれば、この王都をいずれ攻略する日が来る可能性もあり、今の内に地形をよく見ておく必要があったのだ。
区画整理だけは丁寧にされている街をしばし行くと、やがて王城が見えてきた。確かに壮麗であるが、ただそれだけである。軍事施設として有用と言うよりも、単なる浪費の象徴に過ぎない。一瞥だけすると後はあまり見もせず、クラナはイツァムに従い、王城へと足を踏み入れた。
王城は外部も壮麗であったが、内部も同じであった。無駄に広い通路の左右には無数の絵画と芸術品が並べられ、天井には当然のようにシャンデリラが。左右を固める警護兵達は高級な鎧に身を固めているが、これは見かけ倒しだ。実際に強い者は殆どが前線に出向いてしまっているから、此奴らは言うならば残りカスである。実際、ざっとクラナが見回した所、これといった使い手は一人もいなかった。一応彼らは騎士団とか言うものに所属しているはずなのだが、前線に出てくる騎士団の能力とは随分違う。一応の武勇を有している騎士団と比べ、事務的に仕事をしている臭いが鼻についた。
今回クラナが此処に来たのは、イツァムの大将就任式典に参加するためである。一緒にイオンと、それにパーシィも連れてきている。無骨な他の者達は、用意された宿舎に待機させたり、或いはリリフトハイルに置いてきた。何にしても、クラナは式典に出たら、すぐにでも皆と合流し、与えられた領地に向かわねばならない。
「クラナ准将、此処は始めてかね?」
「はい。 壮麗すぎて、目がくらくらします」
「はっはっは、そうか。 実は不肖もだよ」
心にもない事を言うクラナに、笑ってイツァムは答える。或いはこの老人は、クラナの真理を洞察している可能性もある。だが、クラナにしてみればどうでも良い事だった。
前から護衛に左右を固めさせて、貴族にしては珍しくしゃんとした男が現れた。その男に、クラナは見覚えがあった。正確には、以前食べた男の知識の中に顔があった。トステーヤ伯爵。現在王国で権力の再編成を進める精力的な王、クインテーズ七世の股肱である。
「イツァム大将、それにクラナ准将ですな」
「うむ。 不肖がイツァム、こちらの娘がクラナになります」
「ほう、噂には聞いていたが、随分お若い。 ではイツァム大将はこちらへ。 クラナ殿は、こちらへおいで下さい」
「わかりました。 クラナ准将、ではまた後で、な」
軽く一礼すると、クラナはトステーヤの配下に連れられて、待機用の部屋とやらに案内された。無闇に豪華な部屋であり、庶民の家よりも広いほどである。中を見回した後、クラナはイオンを招いて、耳打ちした。
「気付いたか?」
「はい? 何でしょうか」
「監視されている。 トステーヤめ、何か企んでいるぞ。 気を抜くな」
イオンはさっと青ざめたが、すぐに平静を取り戻し、一礼すると隣室へ移動した。クラナは愛剣をトステーヤの配下に手渡すと、あまりの重さにふらついて出ていく彼を見送り、一軒無防備な様子でソファに腰掛けた。手続きは既に済ませてあるので、後は儀礼的な式典に出席し、結果を受け取るだけである。ソファの背に右手を回しながら、クラナは呟く。
「五人だけか。 私も随分舐められたものだな」
ほぼフルチャージ状態の現在、素手でも五人など問題にならない。此処で監視をするだけなら良いが、宿舎にまで来るようなら、食料にするだけである。トステーヤが考えている事を知るには、それが一番手っ取り早い。舌なめずりするクラナだったが、その尋常ならざる殺気を察してか、密偵達は距離を置き、近寄っては来なかった。却って拍子抜けしたクラナは、多少欠伸などをしながら、結果の到着を待った。
式典は豪華だが空疎で、正直クラナは暇に何度か欠伸をしかけた。豪華な食事や料理にきゃあきゃあイオンは喜んでいたが、食事は味は兎も角栄養が偏っていたし、豪華な衣装は他人の手で作られた物の上に実用性がない。材料が分かっても造る気になれない服は、クラナは嫌いだった。
まず最初にイツァムが大将の階級を受け取り、新しく何カ所かの領地が加算された。クラナも最後の方で呼ばれ、准将の階級章と、領地を受け取った。領地の名前はテスカポリトカ州。案の定、最前線に近い領地で、以前の戦いで領主が戦死し、未だに新領主が決まっていない場所であった。一応の人口と収入はあり、一万の兵を養う事が可能である。幸いな事に、山一つ向こうに海があり、そこにはイツァムの領地に新たに加えられる港もあった。その気になれば、大量の物資を流入させられる条件が揃っているのだ。今後は中核になる領地が必要になるが、拡大を考えるのなら港は必須である。
「やれやれ、野蛮な子供が式典に紛れ込んでいるようですな」
色々と思惑を巡らせていたクラナの背後から、不意に失礼な声がかかった。顔を上げると、貴族という字がそのまま人間になったような男が立っていた。
「それはひょっとして、私の事ですかな?」
「いえいえ、あそこで騒いでいる子供の事ですよ、クラナ准将」
男はそう言って、イオンを後ろ手で指さした。殺意を刺激されたクラナは、表面だけ笑顔を作って言う。
「失礼ですが、お名前は?」
「これは失礼を。 私はシウテクト侯爵ともうします、レイディ」
「ではシウテクト侯爵、今後は帝国に対抗するため、ますます〈野蛮な子供〉の需要が高まるでしょう。 それがならない時は、この国は帝国に飲み込まれ、終わるでしょうな」
絶句したシウテクトに更に近づくと、クラナは耳打ちした。この手の男が何を考えているか、何を畏れるか、何に反応するか、全てクラナは経験則から分かっていた。クラナが耳打ちを終えた頃には、シウテクトは蒼白になり、指先までふるえていた。ワイングラスを落としそうにさえなっていた。怒りを喚起せずに、恐怖だけを強烈に刺激する方法を、クラナはよく知っていた。
しばらく色々な料理を味見し、貴族を観察していたクラナの元に、トステーヤが歩み寄ってきた。表面だけ再び笑顔を作るクラナに、トステーヤは言う。
「クラナ准将、将官への昇進おめでとうございます」
「有り難うございます、トステーヤ伯爵」
「おお、もう名前を覚えていてくださったとは。 光栄ですな」
「こちらこそ、クインテーズ陛下の股肱と名高い伯爵に目を掛けて頂き、光栄です」
世辞はただだから、幾らでも言っておく。だが両者は既に、精神的な戦闘状態にあった。
「クラナ将軍のめざましい活躍は、此処にいても聞き及んでおります」
「そこで、自分の派閥に取り込みたい、というわけですか?」
「私の派閥、ではありません。 陛下の派閥です」
さらりと言うクラナに、トステーヤは声を落とした。
「その様子では、事情は分かっておられるようだ。 どうでしょう。 王国の再生がなった時には、大将、いや元帥の地位を約束しますが」
「考えておきましょう」
「あまり大きな声では言いたくありませんが、この腐った国を再生するには、権力を集中せねばなりません。 貴族達から実権を取り戻すためには、貴方のような英雄の存在が不可欠です」
トステーヤの言葉には一理ある。だが、権力を集める対象として、果たしてクインテーズは適当だろうか。否、とクラナは思う。というよりも、その座を奪い取ろうと考えているクラナにとって、トステーヤはこの時点で最終的な敵に決定していた。
案外まっすぐな瞳をしているトステーヤだが、それがクラナに正しいかは別問題だ。正義などというのは相対的な物で、それが生きるに邪魔なら紛れもなく悪だとも言える。何にしても、トステーヤ派にパイプをつないでおくのは悪くない。いずれけ落とすにしても、最初から敵にしてしまうのも芸がない話だ。クラナとしては、イツァム派とでも呼ぶ派閥を作っておいて、其処から天下を狙う構想も立てていたが、生憎イツァムは派閥の長に収まりたがるタイプではない。そそのかせば権力を欲するタイプでもない。要は戦争が上手い、気のいいおじいちゃんである。そう言う意味では全く利用価値がないので、クラナとしても少し困っていたのだ。自分の派閥を作るにはまだ決定的に力が足りないわけだから、もう少し力を伸ばすまでは、トステーヤを利用するのも悪くはなかった。だいたい、トステーヤは明らかに軍としての実働部隊を持っていない。協力を申し出れば、高確率で利用出来る。
「分かりました。 私は軍人として、この国に尽くすとしましょう」
「感謝します、クラナ准将。 所で、一つ質問があります」
「何ですか?」
「フェステ村、という村をご存じですか?」
「さあ、知りませんが」
表面は全く変動させなかったが、クラナはこの時少しだけトステーヤに感心していた。そういえば、この男は、あの研究所の事を調べている素振りがあった。以前喰ったあの諜報員の知識の中に、それに関する断片的な情報があったのだ。
「ならば結構。 いや、忘れてくだされ」
トステーヤは口だけで笑みを浮かべると、その場を去っていった。口調から言って気付かれた恐れはないが、何にしても生かしておけない。この時クラナは、トステーヤを排除するだけではなく、喰う事を既に決定していた。
5,日の出
新たに配備された分も含め、およそ八千の兵を率いてテスカポリトカ州にクラナが赴いたのは、既に春が大地に命を与え始めた頃であった。
クラナが下賜された爵位は男爵だが、こんな物はクラナには何の意味もない。それよりも、与えられた領地の荒廃ぶりの方が、クラナの関心を引きつけた。農民達の目は冷たく、ボロボロの家に籠もって、通り過ぎる軍に敵意を向けてくる。活気が無く、何より命の気配が乏しい。フェステ村よりも酷い情況である。
「これは一体、どういう事だ?」
「政治が上手くいっていなかったのでしょうか」
「それにしてもこの荒廃ぶりは尋常ではないな。 州都はどんな様子だ?」
「それが、先発隊の話では、此処と大差ない情況だと……」
これは建て直しに時間がかかる。軍を養うには金がいるが、このままの情況ではいずれじり貧になる。しばし考えた後、クラナは側にいて辺りを見回しているリリセーに言う。
「リリセー」
「はい。 僕に何用ですか?」
「帝国で、屯田制という物があると聞く。 詳しく説明を聞こうか」
クラナの軍は規律が徹底されている。これは逆らったら何をされるか分からないと言う恐怖と、きちんと給料が支払われているという二点が大きく影響しているのだが、このままではそれも難しくなる。恐怖は確かに支配に有効だが、それだけではやはり無理がある。飴と鞭という言葉が有るとおり、ある程度のうまみがないと、人間は動かないのだ。
荒廃した土地を見て、兵士達は不安を囁きあった。今まで連戦連勝のクラナ隊は、恩賞も含めて豊富に資金を有しているし、何より彼らにはクラナに対する信頼がある。もしこれが他の軍なら、規律が乱れ、略奪が横行している所である。多少不安を抱えながらも、兵士は隊列を崩さず、一旦州都へ向かった。そこでそれぞれ各地の都市や砦に再配分されるのである。
そんな彼らの前に、剣を背負った青年が通りかかった。粗末な鎧を着ているが、立派な剣を持った者で、背筋もしっかり伸びている。若干小柄だが、よく鍛えられていて、動きにも無駄がない。彼は隊列を見かけると、列んで歩きながら、言った。
民衆をむげに扱わないと言う事は、クラナ隊の中では基本則になっている。兵士は面倒くさいと思いつつも、青年を無視しなかった。
「すみません、少しよろしいですか?」
「なんだ」
「王都は何処でしょうか」
「この道をまっすぐ行って、あの山を越えろ。 そうしたらリリフトハイルって大きな都市が見えるから、そこで詳しく聞きな。 ただし、あの街は治安が良くないからな。 気をつけろよ」
「有り難うございます」
礼儀正しく頭を下げると、青年は小走りで去っていった。
「お兄ちゃん、今頃王都にたどり着いたかなあ」
フェステ村で、そう呟いたのはシリスだった。彼女は現在、フェステの村長をしている。少し前までまとめ役だった彼女の兄は、王都へ向けて旅立っていったのだ。
此村に訪れたルガルウェンという老人が、全ての発端だった。引退した騎士が言うには、彼女の兄ロドリーには剣の才能があるという事で、事実見る間に腕を上げていった。その間、決して彼女の兄は村の仕事をさぼらなかった。あの事件以来、ロドリーは人が変わったようにしっかりし、強靱な精神力で全てに当たるようになっていたのである。ルガルウェンが村にいたのは短い間だったが、それで充分だった。
やがて、村の情況が安定した。それとほぼ同時に、ロドリーはとんでもない事を言い出したのである。
「シリス、僕は王都に行く。 それで、騎士になる」
シリスには、兄が何を考えているか分からなかった。当然反対した。だが兄の決意は固かった。結局、〈必ず帰ってくる〉という約束だけをさせて、彼女は兄を送り出したのだった。
「シリスお姉ちゃん!」
「どうしたの?」
村の小さな子が、息せき切って駆けてきた。子供達の大変な生活をまとめていく内に、シリスも充分以上の落ち着きと判断力を持つようになっていた。務めて優しく、どうしたか聞くシリスに、子供は多少不安げに人好きのする笑みを浮かべている男を指さした。
最近、時々来る男である。金を払い、〈あの夜〉の事を聞きたがるのだ。金をくれる以上むげにも出来ないのだが、小さな子供達の中には、〈あの夜〉の事を覚えていない者も多い。彼女が対応に当たるしかなかった。
「ふむ、そうか。 下がって良いぞ」
「はっ……」
暗い部屋でトステーヤがいい、彼の部下が頭を下げて退出した。膨大な資料を検討した結果、例の研究所から脱走した生物兵器が、明らかにフェステ村の住民を虐殺した所までは突き止めた。だが、そこからが、どうしても線がきれてしまうのである。何度もフェステ村で情報を集めさせたのだが、はかばかしい効果は上げられなかった。
トステーヤは最初、クラナを疑った。判明した生物兵器と名前が同じだし、若くしてあまりにも有能だからである。だがクラナという名前自体はありふれているし、人を食う、という様な話は聞かない。それにクラナは多少扱いにくそうではあるものの、彼の目的にはある程度利用出来そうであった。それにフェステ村を口にしてみた際、トステーヤには、本当にクラナが知らないようにしか見えなかった。
クラナは白だと、トステーヤは結論した。だが、どうしても拭いきれない不安も残っていた。手を叩くと、トステーヤは部下の内、もっとも有能な男を呼んだ。
「お呼びですか?」
「うむ。 今生物兵器を探索している者を全員戻せ。 代わりに、クラナ准将を調べろ」
「はっ。 ただ、あの方は英雄と呼ばれるだけあり、物凄く勘が鋭いです。 深入りすると、死者が出るかと」
「構わぬ。 何にしても、監視の目を緩めるな」
頭を下げると、男は闇に消えた。
現在トステーヤは、王側の派閥を、二年前の三倍ほどの規模にまで成長させる事に成功している。だがこれはあくまで人脈の話で、確固たる軍事力があるわけではないのだ。そう言う意味で、クラナは彼にとって貴重な人材である。
しばし考え込んでいた彼であったが、やがて小さく嘆息し、窓の外の月を見上げた。丸く、そして美しい満月だった。
州都にたどり着いたクラナは、自軍の幹部達を屋敷に集めた。かって貴族が使っていたという屋敷は無駄に広く、無駄に華美である。民衆の血で建設した事が、誰の目にも明かである。
幹部達全員が入れるほど、屋敷の広間は広い。一段高い所に立つと、クラナは全身から威厳を放ちつつ、言った。
「これから、テスカポリトカ州の経済再建を行う。 同時に、使えそうな人材をどんどんスカウトする。 軍人だけではなく、政治家も入り用だ。 心当たりがある者は、どんどん推挙せよ」
「はっ!」
「それと、近いうちに屯田制を実行する。 この州を再建するには、人を使うだけでは駄目だ。 自らも野に出て、荒れ地を耕す事になると心得よ。 無論、私も例外ではない」
屯田制という聞き慣れない言葉に、とまどう王国軍人達と、顔を見合わせるリリセーとクインサー。それよりも、自らも例外では無いというクラナの言葉が、彼らをまた奮起させる。
上に立つだけではなく、常に最前線に立ち続ける。それこそが、彼らがクラナに忠誠を誓う所以なのである。
幹部達を下がらせると、クラナは今まで集めた宝物を運び込んだ部屋に入った。盗賊達から奪った材料で、自ら縫った靴。奪った材料を集めて、自ら縫った服。壊れてしまった愛用の鎧、何本かの武器。それらは屋敷にいた召使い達に磨かせ、自分でも時々大事に補修していた。壊れてしまっても、小さくなってしまっても、大事なものだということに代わりはなかった。
クラナの趣味は、何と言っても縫い物である。ただし、常に彼方此方から新しい技術を取り入れ、それに基づいて行う。また、縫い物だけではなく、組み立てるのも好きだった。ツインテールの髪を月光に揺らし、クラナは新たに手に入れた技術の、設計図を広げた。そしてその後は、おもむろに針と布をつかって、それを縫い始めた。
「あ痛っ」
指に針を刺してしまったクラナは、人知れず呟くと、指先を舐めた。どうしてもこればかりは、何度やっても上手くならない。上手く完成させる事は出来るのだが、どうしても指に針を刺してしまうのだ。だが、だからこそに、クラナは縫い物が好きなのだった。
満月が、その明かりが、縫い物をし続ける闇の獣を、静かに照らし続けていた。
(続)
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