ヒトノココロ

 

序、混迷と統一

 

時は容赦なく過ぎていく。腐敗した国家の中でも、それは同じ事である。

現在のクランツ大陸の情況を、良しとしている者などほとんどいない。腐敗した国家の中で、したたかに生きる事が出来る者もいるが、それにしても現在の情況は度を越している。泥沼化し、全く先行きが見えない二大国家の戦い。利権が縦横無尽に絡み合い、もはや統率も秩序もない王国上層部。軍人が派閥を作り、好き勝手な事を繰り返している帝国。何とかしようとあがく者もいる。だが殆どの者は、こう念じるばかりであった。

誰か英雄が現れて、この塗炭の苦しみから救い出してくれないか、と。

彼らの考えは確かに無責任だが、逆に言うと、何をして良いのか分からないという事情もあるのだ。人間の視野には個人差があるし、英雄になれるような者など実際問題一握りである。それに、強者も、強者になれる者も限られているのだ。そうでない者に出来る事は、ただ一つ。英雄に見える人間に、協力していく事である。

現在のクランツ大陸には、英雄を望む心が飽和状態まで満ちているといって良い。それは英雄を非常に誕生させやすい情況であると同時に、野心家にとって非常に都合がよい情況でもあった。

それは何も、クラナだけに限った話ではなかった。多少時勢に目が利く者なら、今の時代は、掻き入れ時以外の何者でもなかったのである。

しばし前から、このクランツ大陸は、力有る者にとても暮らしやすい場所になっていた。それは同時に、力無き者にとっては、地獄に等しい事も意味していた。世界の大多数は弱者であるから、自然とそれを否定する方向へ世界は動いていく。それを利用し、頂点に立つ者の事を、英雄と呼ぶ。英雄は、望まれて登場する。同時に、その声を利用した者が英雄になるのだ。一方的な利用などという関係は存在しないが、これはその好例である。

だから、綺麗な手の英雄など存在はしない。一部のもの知らずを除いて、誰もがそれを知っている。英雄は被害者だという意見もあるが、それは一方で正解であると同時に、一方において間違っている。

英雄は被害者であると同時に、利用者なのである。民意という、世界最強の力の。

 

1,決意

 

火事場泥棒というのは、有る意味最も確実に、狙っている物品を手に入れる事が出来る方法である。広義的に見て、現在セツラツア盗賊団が行っている略奪行為も、同じ物であった。

現在、クランツ大陸北東部、カンデルス山脈北部にて、小さな村を盗賊団が略奪して回っていた。普段なら、近くに軍が駐留しているからこんな事は出来ないのだが、生憎今は今年何度目かの会戦が行われていて、皆出払っている。セツラツア盗賊団首領以下およそ十五名は、余裕を持って略奪を行い、家に火を放ったりしていた。村人も慣れたもので、要領がいい者はとっくに逃げ延び、運が悪い者や要領の悪い者ばかりが襲われていた。

それを見やる影が一つ。その後ろには、影がおよそ二十。半数は騎乗し、長柄武器で武装していた。やがて影は馬に飛び乗り、槍を振り上げると、小さく叫んだ。

「行けッ!」

騎馬兵およそ十名が、煙が彼方此方から上がる村へと突撃した。歩兵十名は、動こうとしない馬上の影に従い、息を潜めている。騎兵と歩兵では元々勝負にならないし、奇襲をかけたのだからなおさらだ。その上、根本的な武装も練度も異なる。馬上の影、小柄な影は遠めがねを目にあてがい、戦況を眺めやっていたが、やがて口の端をつり上げ、兜の庇を降ろした。そして、左手を挙げた。数秒、わざと沈黙を場に配置した後、手を振り下ろして追い払う。

「我に続け!」

集団は指揮官の下、実に良く統率されている。影が馬腹を蹴ると、歩兵達が一斉にその後を追った。いずれも腰に剣を、手には槍を持っており、武装はかなり良い。何より彼らを統率する影が、小柄ではあるが、声は良く通るし、兎に角落ち着いている。彼らは村へ、少し迂回しながら急行した。

彼らが到着した頃には、盗賊達が騎馬兵に追い立てられ、村の出口へ殺到していた。盗賊達が逃げる方向を、影は周囲の地形から察知していたのだ。馬上の影は、風を斬って槍を振り回し、自ら率先して狼狽える盗賊達の中へ突撃した。そして、当たるを幸いに薙ぎ倒した。良く統率されている影の部下達は、それを見てさっと散開し、盗賊を独りも逃さず斬り伏せていった。盗賊達も、決して腕は悪くなかった。だが、混乱した上に、各個撃破されてはひとたまりもなかった。戦いは、すぐに終わった。いや、虐殺と言うべきだったかも知れない。

悲鳴がしなくなると、影は槍を振り、鮮血を落とした。そして、兜の庇を上げた。其処にあったのは、まだ幼さ残る、少女の顔であった。ただし、圧倒的な落ち着きと威圧感を備えており、何歳も年上に見える。

そう、これこそが、現在のクラナの姿だった。傭兵団の首領にて、今急速に噂の的になっている存在である。

「戦果と被害は?」

「はっ! 当方、負傷三! 敵は三名を残して討ち取りました。 残りも、捕獲してあります」

「ご苦労。 では、負傷者の手当と消火活動に当たれ」

指示には無駄が無く、すぐに火は消し止められていった。手が空いた者には負傷者の手当をさせ、或いは死者を弔わせる。村人達の感謝の声を受け、鷹揚に頷きながら、クラナは遠くを見ていた。

 

フェステ村を出てから、既に三年が経過していた。傭兵生活も、既に半年になる。彼女の側には、ショパンと、インタールが控えている。他にも、コルトスも傭兵団の一員として加わっている。また、ヌピスも連れてきているが、これはいざという時までは投入せず、普段は近くの森などに潜ませていた。

インタールは地下闘技場から、クラナがスカウトした人材である。ショパンには、組織を後進に譲らせ、その代わり財産をまとめさせた。現在クラナが率いる傭兵団の、資金源がそれであった。またライレンには、アイゼンハーゲンに残してある何人かを監視する役目も任せていた。

恐怖で支配しているショパンと違い、インタールは義によって支配している。彼は病気の妹を養うために膨大な借金を抱えていて、嫌々ながら闘技場で戦っていたのだ。其処にクラナはつけ込んだ。赤き鷹から資金を出させ、薬代を出してやったのである。これはインタールが極めて単純な人間である事を見越しての事である。妹はそれによって病気を克服、案の定インタールはクラナの忠実な部下になった。義によって支配下に置いた人材は彼だけでなかったから、今やクラナは普通に使いこなす事が出来るようになっていた。

現在、クラナは口調も以前とは変えている。これは、その方が〈偉そう〉に見えるからである。また、何人かの戦史研究家を食べた結果、クラナは並の軍師よりも既に軍略に精通していた。三年近い潜伏の、成果がこれであった。

「ショパン。 拷問によって、奴らのアジトの場所を聞き出せ。 手に負えないようならば、私を呼べ」

「はっ」

「インタール。 村人から、盗られたもののリストを集めておけ」

「はい」

大柄で、素朴な顔立ちのインタールが深々と頭を下げた。彼はクラナの恐ろしさを知っている人間だ。だが一方で、きちんと彼が望む義を果たす事も知っている。だから、現在も、忠誠心を崩さないのである。また、クラナは意図的にダーティーワークをさせないようにして、忠誠心の維持にも務めていた。

盗賊団のアジトを潰して、財宝を強奪した後は、訴えにあった分を村人に返す。これはどういう事かというと、その方が恩を売る事が出来るからだ。こういった時代の人間は現実にすれているようで、実際はそうでもない。恩を与えてやればそれに答えるし、感動もするのだ。ただ、それが全てではない。裏切る奴はそれでも裏切る。マフィアのボスを何人も喰ったクラナは、その辺のさじ加減を、学習してある程度は自分のものにしていた。無論神ではないから完全ではないが、それでも相当なレベルである。人間は心ではなく、行動で相手を判断する事も、クラナは既に知っていた。すなわち、〈口当たりのいい行動〉をしてみせれば、効率よく人間を支配出来るのである。

実際問題、人間の心は外部には露出しない。そのため、見える範囲で、他者の心を判断せざるを得ない。目には感情が表れるなどと言う言葉もあるが、それは微細な変化を経験則から分析しているに過ぎないのだ。そしてクラナは、主に以前食べた娼婦シルヴィアの記憶を利用して、充分に誰でもごまかしうる演技能力を身につけていた。使わないのは、単純にその必要がないからである。交渉やダーティーワークは主にショパンに任せているし、ショパンはこちらが出した条件をいつも確実にクリアする事が出来た。ある程度の恐怖を常に与え続けておくだけで、実に良く稼働する奴隷であった。ただ、ショパンの能力も大体底は知れているので、今後は更に交渉が上手い人材を得る必要があった。

捕虜の拷問と、村長との交渉をショパンが行っている間に、クラナは馬を下り、辺りを見回った。部下達二十名はすっかり油断しているが、これは別に構わない。クラナが目を光らせ、周囲を監視しておけばよいのだ。この村が戦場になったときのことを考え、辺りの地形も含め、クラナは入念に見回っていく。途中、ふと半分焼けた納屋の前で、足を止めた。

村人達はおいおい傭兵に助けられたり、村に戻ってきて片づけを始めているのだが、一人放って置かれている者がいた。半焼けの納屋の中で、藁の中に沈み込むようにしてぐったりしている。クラナより二三歳年下に見える女の子だ。顔自体はそれなりに良い造作だが、血や泥で汚れきっていた。全体的には若干大人しそうな雰囲気だが、ダークレッドの長い髪は乱れ放題で、着衣は以前研究所から逃げ出した際にクラナが着ていた物より酷かった。顔には殴られた後があり、細くて痩せた体にも彼方此方跡が残っていた。村人が逃げる際にも、放って置かれていたのは明かである。逆に、そのため助かったとも言える。

それだけなら足を止める必要もなかったのだが、クラナの中にある〈魔法男〉の記憶が、足を止めさせた。この娘から感じられるのは、魔法を使う存在が発する特有の気だった。いわゆる魔力と呼ばれる物である。しかも、魔法男などとは比較にならないほどに強い。興味を感じたクラナは、休憩している傭兵の一人を手招きした。

「今空いているか?」

「はい」

「そうか。 ではあの娘が何か、村人から聞き集めろ」

クラナに逆らう事は死を意味する。傭兵団の連中にも、ここ半年でそれを調教済みである。傭兵はいそいそと任務に向かい、十分ほどで戻ってきた。

「あの娘ですが、なんでも〈黒魔法士〉だそうですぜ」

「へえ」

「詳しくは良く分からないんですが、両親と一緒にこの村に来て、素性がばれて両親はもう処刑されたそうです。 今は奴隷として、こき使っているそうですぜ」

「そうか、分かった。 休憩に戻って良いぞ」

傭兵を休憩に戻すと、クラナは口の端をつり上げた。

黒魔法士。この国では、魔法使いは二種類の人種しかいない。かって社会的地位を築いた魔法使い達は自らのロイヤリティを確保するためと、成り上がりによって地位を脅かされるのを防ぐため、下らない理論をぶち上げた。それこそが、〈魔法士黒白論〉である。要は、貴族的な地位を築いている魔法使いは白魔法使い、そうではない魔法使いは黒魔法使いとし、白は善で黒は悪と決めつけたのである。その論理展開は数々の宗教書からなる難解な物で、素人が反駁しようとしても到底無理な物だった。それに基づいて、〈白魔法使い〉は数十年がかりで、社会的な差別を作り上げ、黒魔法使い達を迫害したのである。

結果として、現在は黒魔法士に対する社会的な差別は正当化されている。旧支配者階級であるブフト人も大陸全土で酷い差別を受けているが、黒魔法士達が受けている差別もそれに勝るとも劣らない物である。無論、以前食べた魔法男が白魔法士であったから、これらの事情をクラナが知っているのである。

思惑を練っているクラナの側に、ショパンが跪いた。

「クラナ様、盗賊団のアジトが分かりました」

「そうか。 敵の残り人数は?」

「およそ十名程かと」

「ならば私一人で充分だな。 お前達は此処で待機し、私が仕事から戻ってくるまで警戒を続けろ。 ……それと」

クラナはまだ意識が戻らない娘に視線をやり、微妙に口の端をつり上げた。

「あれを、村から買い受ける交渉をしておけ」

仕事自体は、ほんの半刻で終わった。残った盗賊達は腕もたいしたことが無く、トラップや防御施設もどうということがなかったからである。殆ど作業的に、命乞いをする盗賊共を一方的に殺戮しながら、クラナは舌なめずりしていた。

最近彼女は、記憶の吸収よりも、人間を道具として使う事に凝っていた。面白そうな人材を見つけた時には、必ず彼女は舌なめずりした。それを使いこなした時にも、である。今のところ、使いこなせない人材などいなかった。もう既に十五人も喰ったクラナは、人間よりも人間について習熟していて、その心の動きも良く理解していたからである。槍を振り回し、這いずって逃げようとする盗賊を打ち据えながら、クラナは新しく手に入れた道具をどう使いこなそうか、考え続けていた。

考え事をしながら戦うと、流石に返り血を浴びてしまう。だがクラナは気にせず、ただひたすら殺戮を続けた。そして、酔った。

 

クラナが体についた返り血も落とさずに戻ってくると、既にショパンは仕事を終えていた。満足してクラナは頷き、部下達に命じて盗賊団のアジトの制圧、宝物の回収を命じた。無論、村人が届けなかった物は、傭兵団の資金にするのである。今後の事を考えると、金は幾らでも必要だった。資金は今のところ潤沢だが、何があるか分からないのが現実である。

部下の半数が〈後始末〉に向かったのを見届けると、クラナはタオルを受け取り、顔に飛び散った、もう乾きかけている血を拭きながら、すぐ脇を併歩しているショパンに言う。

「それで?」

「はい。 娘の名はイオニード。 普段はイオンと呼ばれています。 弱っていたので、隊の備蓄品からお古の服と、後は暖めたフツ湯を支給しました」

「私が直々に尋問する。 それが終わったら、風呂を準備してやれ」

「はい」

これは既に手配済みなのを予想した上で言ったのである。これくらいの事はショパンの能力から考えて出来ているのが普通だが、人間である以上必ず落ち度は発生する。だから、たまに確認しているのだ。無論失敗を犯したら、繰り返さないよう各自に適した処置をする。使い物にならなくなったら斬るか食べる。ただそれだけの事であった。

半焼した納屋から、既に娘は無事だったあばら屋へ移されていた。むき出しの土間に座り込んで、若干落ち着いた様子で娘は甘いフツ湯を飲んでいたが、クラナを見て硬直した。魔法使いは生来の才能を持っていないとなれず、持っていると色々と感覚が鋭くなる。特に魔力が強い者は、それが第六感のレベルにまで進化している。世界的にも珍しいその一人であろうこの娘が、クラナを見て、一目で人間でないと見破ったのは明らかだった。

ただ、魔法使いならクラナの正体が見破れるかと言えば、それは否だ。少なくとも、以前食べた魔法男レベルでは、見破るのは不可能である。使いでがあると同時に、非常に危険な相手と相対しているにもかかわらず、クラナは薄ら笑いを浮かべていた。

「ご無事でしたか、姫様」

あばら屋の戸を閉めると、クラナは言った。娘はフツ湯を入れた陶器のカップを両手で持ったまま、固まっていた。今までの観察で、既に幾つかの事が分かっている。まずこの娘はかなり臆病だ。更には、まだ心が充分に原形を残して存在している。フェステ村で暮らしていた頃の、かってのクラナと同じ人種である。恐怖で支配するのはたやすいが、むしろ義によって支配した方が効率が良さそうであった。ただ、それは今後得た情報によって、柔軟に変えて行かねばならない。

周囲には凄まじい血の臭いがしている。殆どはクラナが斬った盗賊共の血だ。だが一方で、感覚が鋭ければ、悟るはずだ。クラナ自身が発している、無数の人間の血の臭いを。喰われた者達の慟哭を。蛇に睨まれた蛙に等しい娘に、クラナは一歩一歩近づいていった。意外な反応が返ってきたのは、直後の事だった。娘は陶器のカップを脇に置くと、姿勢を正したのである。

「あ、あのっ!」

「……?」

「貴方が、私を買ってくれた方、ですか?」

「そうだ」

意外だと思いつつ、クラナは返答していた。今の情況で、自分から口を開くなど、なかなか出来る事ではない。現に、修羅場を潜り、社会の底辺をさまよい続けてきた者達だって、そんな事は出来なかったのだ。

「か……怪物さん……ですか?」

「さあ?」

やはり正体を見抜いたらしい娘が控えめに言い、クラナは口の端をつり上げた。同時に、場に殺気が満ちる。今後の反応次第では、斬り捨てる事が選択肢に入ったからだ。イオンは控えめに、上目遣いで言った。

「どうして、私を買ったんですか?」

「さあ?」

「貴方が怪物さんでも……私を食べる気じゃないのは、分かります」

「へえ、それは面白い」

声の微妙な震えや表情の変化、体温の変動などからも、この娘が嘘を付いていない。そうクラナは結論していた。となると、ある程度感情を読めると判断して良い所であろう。これはますます使いこなせば役に立つと思った瞬間、イオンは目を伏せた。

「私を……どうする気ですか……?」

「部下として使う」

「私なんて、役に立たないと思います」

「役に立つかどうかは、お前が決めるわけではない。 私が見て判断する」

クラナは手を伸ばして、イオンの顎を不意に掴み、顔を自分に向けさせた。微少な怯えが走り、クラナは顔を至近に近づける。イオンは体を硬直させ、クラナの目をまともに正面からのぞき込んだ。全てを客観的に見つめる、観察者の瞳を。ふるえるイオンは、口から漏らすようにして、言葉を紡いだ。

「あ……貴方は……」

「私はお前を道具として使う。 しかし、役に立つ道具で有れば厚遇するし、安全も保証してやる」

言い終えると、クラナはイオンを離し、あばら屋の外に出るべく戸に手を掛けた。そして、思い出したように振り返って付け加えた。

「時間をやる。 此処で一生、家畜以下として扱われる生活をするか、私の元で自分の居場所を確立するか、風呂に入っている間に決めるんだな」

 

しばし時が過ぎて。風呂から上がったイオンは、支給された麻のローブを着て、クラナの前に立っていた。貧しいなりに身なりを整えれば、やはりかなり美しい娘だ。艶やかと言うよりも清楚な雰囲気で、朝露に濡れた、石清水に咲く小さな花を思わせる。ただし、この花はクラナも認めるほど、強靱な潜在能力を秘めているのだ。まだまだ蕾だが、数年後には、大化けする可能性が極めて高い。

おそらく身を守るために、先ほどまではわざと汚い身なりをしていたのは間違いない。娘はクラナの言葉を信頼したからこそ、自分の真の姿を見せたのだ。

イオンは多少慣れない様子で頭を下げると、決意を瞳の奥に秘めて言った。怯えはまだあったが、決意はそれ以上に強かった。

「連れて行ってください。 お願いします」

「……いいんだな?」

「後悔はしません」

舌なめずりして、クラナは言った。部下達の戦慄を、心地よく受け止めながら。

クラナは、断るようなら、後で斬り捨てるつもりでいた。正体を知るものを、手元に置いておかないのは危険すぎるからだ。だが、これでその必要はなくなった。後は手元で使いながら、調整していけばよいからである。

「よし、いいだろう。 お前はこれから、私の覇道の道具だ」

 

2,パッカーフィールド要塞の前にて

 

帝国と王国は年何回も会戦を行い、小競り合いの数はその数倍に達する。十万以上の兵がぶつかり合う大会戦になると、流石に数年に一度しか起こらないが、一万前後の兵がぶつかり合う戦いなら、飽きるほど繰り返していた。

その一つが、王国側の要塞パッカーフィールド周辺で行われていた。パッカーフィールドは王国では珍しい熟練した用兵家であった故クランベル中将が、心血注いで築き上げた城塞であり、今までも数倍の帝国軍を何度となく撃退してきた要衝である。水の便、備蓄食糧、共に豊富であり、務めている兵士達およそ五千は実戦経験から言っても王国でも最精鋭と言って良い。配備されている兵器は多少古いが、それでも帝国軍を充分撃退出来る堅固さを誇る、文字通り難攻不落の堅城である。

戦略的に非常に有利な位置にあるこの要塞を、帝国軍は今まで三回にわたって攻略しようと試み、三回とも失敗した。特に二回目はおよそ三万もの軍を動員し、そのうち五千を失うという大敗を喫している。現在は帝国軍が四度目の正直を期し、およそ二万の兵を動員して、要塞の外に布陣している情況であった。一方で、王国軍は援軍も入れて約七千。小手調べの野戦を行った後、要塞の門を閉め、敵と睨み合いを続けていた。王国軍は現在総司令官交代と再編成を進めている情況で、大規模な援軍が派遣出来ない。一方で帝国軍も、最前線でにらみ合っている本隊から、大規模な増援を派遣する余裕がない。しかしこの要塞が陥落する事になると、帝国軍は一軍をもって、王国の辺境各都市を蹂躙する事が出来るのだ。そうすれば民衆の不安が一気に高まり、帝国は王国に対して優位に立つ事が出来るのである。枝葉の戦いながら、絶対に油断は出来ない戦いでもあった。

王国軍の指揮官は、イツァム少将。帝国軍の指揮官はジーグムント少将。階級は同じであり、今まで三回の対戦経験がある、因縁の相手であった。

 

緊張状態にあるパッカーフィールド要塞周辺は、かなり入り組んだ地形になっている。大軍が展開しにくく、攻城兵器も持ち込みにくい。辺りは地形全体が要塞であり、それが故に難攻不落の二つ名がパッカーフィールドに冠せられるのだ。

それらの状況を、クラナは近くの山に登り、手をかざして確認した。一時間ほどじっくり観察し、細かい分析をした結果、二万と呼称している帝国軍の実数はおよそ二万千。一方王国軍は、六千八百を少し割り込んでいる。二度ほどの戦いで、帝国軍が王国軍の前衛砦を二つ攻略し、損害を与える事に成功したからである。ただし、現在の戦況は膠着状態であった。王国軍の援軍は兎も角、要塞防衛部隊の士気は高い。イツァム少将は王国では珍しく評価の高い将軍で、だが下級貴族の出身のため、ずっと出世出来ずに此処に押し込められているのだ。功績的には大将になっていてもおかしく無いという情報を、クラナは入手していた。

実際問題、腐敗の時代と、長引く戦いで、王国の人材は枯渇している。寒門出身者の大規模登用が、近くある可能性は極めて高い。そういう意味でも、今クラナがいるべき場所は、帝国軍ではなく王国軍だった。

「砦同士の連携は良く取れている。 攻撃側も、腰を据えて攻略に望んでいるようだな」

「帝国軍は腐敗こそしていますが、無能ではありませんからね」

「うむ。 この様子では、馬鹿正直に王国軍に参加するのは得策ではない」

傭兵という存在は、此処暫く注目され始めている、新しい仕事である。かっては怪物退治の専門家が集団で行動する事があり、それが傭兵と呼ばれていた時期もあった。強力な怪物は素人の民間人の手に負える相手ではなく、プロを使う必要があったからである。しかし現在は怪物の数自体が減り、特にドラゴンに代表される強力な怪物は殆どが絶滅してしまった。結果として、失職した傭兵達は、力を振るう対象を人間へ変更したのである。現在、クラナが率いる傭兵団のような存在は、大陸全土で軽く三百を超すと言われている。最大でも百人ほどの規模までの物しかないが、帝国も王国も腕利きの傭兵には多額の報酬を払う事が多く、この仕事に就く者は増える一方である。クラナは軍の権力に食い込むためにこの仕事に就いたが、無論同様の考えの持ち主は少なくない。その一方で、違う考えの者も多い。中には、火事場泥棒のような事を専門にしている連中もおり、また盗賊崩れの者が傭兵の大半を占めているため、社会的な傭兵の評価は極めて低い。時に貿易商人であり、時に虐殺者である海賊同様、傭兵とは非常にアバウトな存在で、時に軍人であり、時に盗賊でもあるのだ。故に、腕利きといわれる一部を除いて、傭兵は予備戦力扱いされるのが常だ。今王国軍に参加した所で、予備戦力扱いされ、消極的な戦いにつき合わされる事疑いなかった。王国軍としては、その判断は正しい。しかしクラナとしては、それに従うわけには行かないのである。

クラナの目的を果たすためには、誰もが認める巨大な手柄を立てる必要がある。それには、戦況を良く見極める必要があった。狙うは、ジーグムントの首である。しかも倒すだけではなく、倒した証拠を確保しなければならないのだ。

ジーグムントは三日月の模様をつけた兜をつけている事で有名であり、倒した際、出来れば首を、出来なくてもその兜を奪いたい所であった。何にしても、居場所を見つける必要が最初にある。居場所を見つけた所で、分厚い護衛の壁を突破しなければならないわけだから、目的の困難さは言語を絶する。達成には冷静な目と、優れた戦況観察眼が必須であった。

もしジーグムントを倒せないとしても、せめて将官の首は確保したい所である。クラナは遠めがねを取り出すと、念入りに辺りの地形を観察した。その上で、素早く戦況の推移と、その際の司令官の動きを予測していく。焦った所で仕方がないが、下準備は絶対必要だから、手を抜くわけにも行かない。それにしても迷路のように入り組んだ地形であり、観察には複数角度からの視線投入が必要であった。地図に時々様々な情報を付け加えながら、クラナは側に控えているショパンに言う。

「イオンは?」

「飲み込みは早いです。 才能と言うよりも、意気込みが素晴らしいですね。 雑務はもう大体覚えました。 洗濯に関しては、恐らく一人で任せてしまって良いかと」

「魔法の方は?」

「攻撃系の魔法は殆ど使えないようです。 代わりに、回復と幻惑の魔法が幾らか使えるとか」

魔力があるのは分かるが、それについては具体的な効果を後で確認する必要があった。再び遠めがねをのぞき込みながら、クラナは言う。

「今のうちに、命の洗濯をするように、傭兵共に伝えてこい」

帝国軍による大規模な攻撃の予兆を見て取ったクラナは、さらりとそう言った。生唾を飲み込むショパンに、顔も向けず、クラナは続けた。

「作戦が決まったぞ。 まあ、成功する確率は五分五分だな。 お前は夕刻までに、次の物を用意してこい。 まず、松明百束、油壺、それから……」

 

クラナは規律に厳しい反面、部下達の息抜きには非常に寛大である。必要だと認めているからだが、この辺りは並の指揮官よりも遙かに〈物わかりがよい〉。六時までの各自待機、即ち自由時間を認められた傭兵達は、皆近くの街へ出かけていった。酒屋に繰り出す者、娼館へ向かう者、いずれも別に引き留めはしなかった。ただし、時間に遅れたらどうなるかは、言うまでもない話である。実際問題、クラナ傭兵団の士気規律は、何処の傭兵団にも負けぬ高水準にあるのだ。

直接小規模集団を指揮するようになってきてから、クラナは昔からの部下達には、若干〈丸くなってきた〉と見られている。これは厳罰が即座に死を意味しなくなった事もあるのだが、実際に指揮経験を積む事でやり方が円滑になってきた事、実力が充分に付いてきたために余裕が出てきた事、も原因であった。ただ、それが不必要に甘い事にはつながらない。傭兵達はクラナの視線を受けると筋肉繊維まで縮み上がるし、逆らおうなどとは考えない。決済が誰から見ても公平である事や、不誠実なことをしないことも、忠誠心の吸引力となっていた。ただ、この辺りは、無数の記憶から割り出したモアベターをクラナが選択している事にも原因がある。また、クラナの総合的な能力の高さは誰もが認めていた。

部下達が出払った後も、クラナは馬上にて、戦場の入念なチェックを続けていた。時々よく熟れたフラットナーの果実を囓りながら、遠めがねと地図に視線を往復させる。それを何十回か繰り返した後、現時点で唯一クラナが人間ではないと確実に知っている存在、イオンが歩み寄ってきた。敵地の観察を続けるクラナに、イオンは数度ためらった後、言う。手には籠があり、熟れたフラットナーの実が山盛りになっていた。

「……あの、ショパンさんに言われて。 これ、持ってきました」

「ご苦労」

視線を向けずに、正確にクラナはフラットナーの実を取る。そして指の力だけで軽々砕くと、甘い果肉を口に放り込んだ。脳細胞がフル活動しているため、糖分が大量に必要なのである。

「良く働いているようだな」

「凄く待遇が良くて、驚きました。 人として扱って貰えるなんて、もう思っていませんでしたから」

少し寂しげなイオンの言葉に嘘はない。余所の傭兵団だったら、何をされていてもおかしくない所である。一方で、クラナ傭兵団においては、頭の指示はきちんと末端まで伝わり、イオンに暴力を振るったり手を出そうとする者など一人もいなかった。

逆に言うと、イオンはそれすら覚悟の上でついてきた事になる。だが別に感銘を受けるでもなく、そんなものなのかと思いつつ、クラナは言った。この娘の行動は、今まで得た記憶の中には無い物だったが、新しく得た以上未知の物ではない。

「私は約束を守る。 今後の働き次第では、出世もさせてやる」

「……」

クラナが口の端をつり上げたのは、作戦に最適な地点を見つけたからである。これで作戦の成功確率が二割ほどは上がる。フラットナーの実を殻ごとかみ砕いたクラナは、新しい実に手を伸ばしながら言った。

「今夜はお前にも、実戦に参加して貰う。 覚悟は良いな? 足を引っ張ったら殺すぞ」

「もう、覚悟は出来ています」

「……ならば、今使える術を、確認しておこうか。 見せて見ろ」

「はい。 私が得意なのは、幻惑の術です。 光彩の神アンシェンテスよ、我汝の力を願う。 惑わし、そして心を砕け。 フツル、ホース、ウォンテル、カード、ショツルト、ハインマート! 惑え、そして迷え!」

振り向いたクラナは、一瞬だけフラットナーの実を摘んだ手を止め、そして口の端をつり上げていた。

「ほう、これは素晴らしい。 充分に使えるぞ」

「お気に召して頂けましたか?」

「……ふむ」

こんな術が使えるので有れば、逃げ出すのは容易だったはずだ。だと言うのに、この娘は逃げなかった。術を解除したイオンは、膝から崩れ伏し、額の汗を拭った。肌が少し紅潮している。この分だと連続使用は無理だが、一回の使用で充分である。少なくとも、今回の作戦には。

兜を脱いだクラナは、頭を振った。流石にツインテールは出来ないから、延ばしたままの髪が風にたなびく。充分な興味を感じたクラナは、その気無しに聞いてみた。

「何故、前の情況から逃げなかった?」

「……分かりません。 きっと、勇気がなかったんだと思います」

「では、何故私についてきた?」

「それは……きっと……。 貴方がとても恐い方だとは分かっていました。 ついていけば利用されるのだって分かっていました。 でも、不必要な嘘を付いたり、理不尽な事はしないとも分かっていました。 だから……ずっと村の人達よりは、ましだって思ったから……。 そうしたら、希望が見えてきたんです」

そして、クラナは、イオンの口から驚くべき台詞を聞いた。

「貴方は、邪悪だけど、純粋な方です。 力を、目的のために使える人です。 だから、きれい事を言うだけで何にも出来ない人よりも、優しいだけで何も変えられない人よりも……私は信じます」

「ふうん……そうか」

単純に面白い道具だと、クラナは思った。この娘の言葉に嘘はないと、体温の変動や心拍の移行からも断言出来る。ならば、色々と面白い活用が出来る可能性もあった。潜在魔力から言っても、今後は大いに期待出来る逸材だと、クラナは認めた。

存在が違う二つの間に、奇妙な絆が出来た瞬間であった。相変わらず客観以上の視点で見はしなかったが、この後クラナは、イオンに対する視線を多少変更していく事になる。不意に視線をずらしたクラナが、近くの茂みに向けて言った。

「ヌピス! 来い!」

「……っ!」

現れたヌピスを見て、イオンは両手で口を押さえた。口が縦に割れた、犬に似た怪物は、犬で言う伏せをして下告を待つ。

「此奴は将来有望な部下だ。 お前が影から守り、いざというときには護衛しろ」

小さく頷くと、すぐにヌピスは茂みに戻っていった。道具に対してクラナが示す、最大限の好意であった。

 

帝国軍陣地では、ジーグムント少将の副将であり、猛将として知られるインファンス准将が、秘密裏に準備を行っていた。彼は五百の最精鋭を指揮して、敵の要塞を側面から奇襲するべく、動いていたのである。無論行動開始は深夜、明け方に敵地に到達するようにスケジュールを整えながら。深夜に行動し、早朝に攻撃を掛けるのが夜襲の基本である。そして、彼の攻撃が成功したのを見てから、ジーグムント率いる本隊が要塞へ総攻撃を行う手はずだった。古典的な策ではあるが、有効だから長く使われるのである。

活気だつインファンスの部隊の中で、二人冷静な者がいた。中隊長を任されているクインサーとリリセーである。クインサーは、干し肉を囓りながら言った。

「リリセー、今回の作戦、どう思う?」

「半々じゃないかな」

「そう……だな」

「成功すれば一発で勝負がつくけど、負ければ下手すっと私達全滅するかな」

クインサーは、パッカーフィールド要塞を見上げた。此処しばらくの戦いで、要塞側は援軍に足を引っ張られっぱなしである。援軍の将が誰かは知らないが、経験が浅い事が一目で分かる者で、そのために要塞側の用兵が極めて慎重になっている。相手が及び腰になっているこの隙に、積極攻撃を仕掛けるという判断は確かに悪くない。

だが、もし敵に移動を察知されたら、味方は入り組んだ狭い山道を移動する所をねらい打ちにされてしまう。それに、要塞までの道は確認されているが、脇道にそれてしまったらもう生きては帰れないだろう。多くが討ち死にする事は、ほぼ間違いがない。ハイリスクハイリターンな作戦であるが、逆に言うと膠着状態を突破するには、他に方法が無いとも言える。

「とりあえず、飲んで時間を潰す?」

笑顔でリリセーが差し出した杯には、なみなみと酒がつがれていた。何か文句を言いかけて、だがクインサーは止めた。これが末期の酒になるかも知れないからだ。

「分かった、貰うよ」

戦いは、刻一刻と近づきつつあった。

 

3,第四次パッカーフィールド要塞攻略戦

 

日が沈み、世界が黒に塗り潰され始めた頃。クラナ傭兵団は、全員がパッカーフィールド要塞の近くへ移動していた。王国兵達の目さえ盗み、地図に添って幾つかの脇道を移動する。途中、クラナは口笛を吹いてヌピスに指示を出し、先行して潜んでいた帝国兵を何名か血祭りに上げた。そして、当初の予定通りの位置に潜む事に成功した。

帝国兵は、幾つか有る砦を迂回して要塞に迫るためには、今クラナが見下ろしている細い道を必ず通らねばならない。隊列は長く延びざるをえず、反撃も前進も後退も困難である。此処に障害物を置くという手もあるが、先にそれをやってしまうと伏兵に気付かれてしまう。敵の半ばが通過してから、敵軍を遮断するために、それを行うべきだった。

「各自、松明用意」

「はっ!」

素早く各自が動き、百本近く用意した松明を或いは背負い、或いは地面に突き刺していく。長い棒を用意したり、辺りの木にくくりつけたりして、丁度人の背の高さに、である。更に、大きさ的に丁度いい岩にてこをかけて、いつでも転がり落とせるようにした。更に、イオンに前もって指示を出すと、クラナは満足し、全員に声を立てないように言った。

準備は全て整った。時間が、実にゆっくりと流れ去っていった。そして、長い長い沈黙が終わった。

「来ました!」

小声で部下の一人が呟く。言われるまでもなく、クラナはそれを知っていた。攻撃開始は、クラナの射撃が合図となる。弓を構えたまま、クラナは呟く。

「ふむ……?」

小道を素早く駆け抜けていくのは、百名ほどの兵士だった。動きは統制が取れていて、兎に角素早い。正しく疾風のように、敵は眼下を疾走する。クラナは撃たない。あれが敵の先鋒であり、撃つにはまだ早いと知っているからだ。

「まだ待て」

逸る部下達に小声で言うと、クラナは姿勢を低くして時を待つ。敵部隊は通過し、すぐにまた別の敵部隊が現れた。こちらに気付いていない敵部隊は、また百名ほど。動きは素早い。まだクラナは撃たない。流石に訓練された軍だけあり、行軍は無駄が無く、すぐに姿は見えなくなった。

「隊長……」

「そろそろだ。 静かに待て」

しばしの沈黙。今までの待ち時間よりも長いと思われる無の音。息づかいの音が一番大きいほどである。やがてクラナは、舌なめずりし、言った。

「来たぞ。 各自準備しろ」

傭兵の一人が、てこに取りすがる。一人が、着火の準備をする。松明にはたっぷり油が染みこんでいて、火をつければすぐに燃え上がる。無論、何度も検証して、効果は確かめ済である。

クラナが弓を構える。同じく現れた敵兵はおよそ百名。動きは今まで同様早い。その中に、一人、明らかに良い鎧を着ている者がいた。夜目が利くクラナには、それがよく分かった。大きく弓を引き絞る。小さなクラナ用にカスタマイズはしているが、非常に強力な弦を張った強弓である。弦が緊張し、クラナの周囲の音がゆっくり流れる。そして消える。極限の集中が、擬似無音状態を作り上げたのだ。クラナの視界が狭まり、やがて小さな円になる。そして、その円の中心には、敵将の首筋があった。クラナは満を持し、矢を放った。風を切った矢が、空間を直線的に蹂躙し、敵将の喉へと吸い込まれた。

敵将が蹌踉めき、横倒しになり、周囲の兵士達が狼狽した声を上げた。同時に傭兵団が攻撃を開始した。

まず最初に、二抱えもある岩を連続して落とす。あわせて三つもである。インタールの筋肉が躍動し、巨岩を一気に突き動かす。コルトスもそのすぐ横で、声を張り上げた。

「うぉおおおおおおおっ、いけええええっ!」

「ひっ! ぎゃああああああああっ!」

逃げ遅れた哀れな兵士が下敷きになり、瞬間的にミンチになった。落石は落石を呼び、殆ど瞬間的に、容赦なく狭い道をふさいでいた。完全にではないが、岩をよじ登らないと合流は出来ない。クラナの指示が飛び、同時並行で松明に火を点けていく。松明の数はおよそ百。敵の慌てる声が、クラナの元まで届いた。

「今だ! 油壺をたたき込め! そして撃て! 一匹たりとも生かして帰すな!」

「おおっ!」

傭兵団の隊員達が高揚した声を上げ、矢を放ちつつ、火をつけた油壺を次々投擲した。細い山道に火の手が連続して上がり、敵の姿が浮き彫りになる。無論敵も反撃してくるが、狼狽している上に、位置が悪すぎて殆ど届かない。しかもクラナは、抵抗を試みる者を率先して次々に射抜いた。右往左往する兵士達は、次々に傭兵達の放つ矢の餌食になった。それを見ながら、ショパンは要領よくそれに習い、何人も敵兵を射抜いた。

「隊長! あれを!」

「良し! 連中も逃がすな! 油壺を投げろ! 岩の側には投げても、岩自体には当てるな!」

前衛の兵士達およそ二百が戻ってきた。だが狭い山道にてはその機動力は生かせず、密集した所に油壺を投げ込まれ、火だるまになる兵士も少なくなかった。しかし、新手の士気は高い。この状況下に置いても、組織的に反撃してくる。クラナの側にいる傭兵が、反撃の矢を貰って横転する。クラナは新しい矢を敵陣に叩き込みながら、イオンへ叫んだ。唱えて置いた呪文を開放するようにと。

「良し! 今だ!」

「は、はいっ! 惑え、そして迷えっ!」

「お、おおおおっ!」

敵陣から、恐怖と困惑の声が挙がった。無理もない話である。何しろ、彼らが見ていた無数の松明が、いきなり数倍に増えたのだから。

「駄目だーっ! 引けーっ!」

絶叫する指揮官の一人の足を、クラナが射抜いた。先ほどから味方を実に効率よく逃がしていた指揮官で、捕まえたいと思ったのだ。地面に崩れる男の側に、女指揮官が駆け寄る。その女の右腕も、クラナは即座に射抜いていた。

指揮官が負傷した後は、彼らを助けようと言うものもおらず、帝国軍は逃げに移った。此処でもし退路を塞いでいる岩が燃えていたら、必死に帝国軍は反撃、傭兵団は大きな被害を出していた事は疑いない。退路を完全に遮断しなかったこそ、逃げる背中を撃って、傭兵団は大きな戦果を上げる事が出来た。

戦いは、三十分ほどで終わった。敵が残した死体の数は、およそ八十。味方の損害は死亡一、負傷三のみ。文字通りの完全勝利であった。クラナは崖の下に降りると、残って右往左往していた十名ほどの帝国軍兵士を右に左に薙ぎ倒し、全滅させた。そして、最初に射止めた敵の司令官を確認した。残念ながらジーグムントでは無かったが、将官であった。准将の階級を鎧につけていて、既に息絶えていた。それを確認して後、部下達を呼び、敵の生き残りを縛り上げさせる。先ほど足を射抜いた指揮官も、腕を射抜いた女指揮官も、捕虜として拘束する事に成功した。女指揮官の方は、逃げようと思えば出来たはずなのに、そうしなかった。

やがて、要塞の方から、無数の松明が近づき来るのが見えた。帝国軍陣地に目を向ければ、動く気配はない。奇襲が失敗したのがもう伝わったであろう事は、疑いの余地もなかった。

「こ……これは……?」

王国軍の指揮官らしい佐官が、周囲を見回して呟いた。辺りは帝国兵の死体の山である。死体を踏み越えて、返り血を大量に浴びたクラナが佐官へ歩み寄る。そして槍を向けてくる護衛の兵士達に、血が滴る敵将の首を向けた。

「帝国軍別働隊は、私の傭兵団が撃退しました。 敵将もこの通りです」

「そ、そうか」

「司令官閣下の元へご案内願いたい」

「それにはおよばん」

兵士達が左右に分かれ、白い髭を蓄えた老将が、馬に乗って進み出た。穏やかな目をした男で、多少ふらついてはいるが、眼光はしっかりしている。老人は馬から下りると、クラナの前に歩み寄った。

「見事な奇襲だ。 二十名ほどで、これほどの戦果を上げるとは」

「恐れ入ります」

「奇襲をされていたら、我らは危機に立っていただろう。 君を客人として歓迎したい」

「失礼ですが、貴方は?」

分かった上で、クラナは不敵に言った。老人は皺だらけの顔を緩めると、答えた。

「これは失礼した。 不肖はイツァム=フォン=ナールジェント少将。 パッカーフィールド要塞の司令官をしておる」

「こちらこそ、失礼いたしました。 私はクラナ。 私の名を冠した、クラナ傭兵団の指揮官をしています」

これは予想以上に素晴らしい展開だ。クラナは口中で呟きながら、頭を下げていた。

 

奇襲部隊に大損害を与えた事はすぐに要塞に伝わり、士気は大いに上がった。クラナ達は英雄として要塞に迎えられた。要塞の謁見の間は無骨な作りで、左右に武装した指揮官達がずらりと列んでいる。指揮官席に座っているイツァム少将の元へ歩み行くクラナは堂々としており、雰囲気だけで、その姿は少女とは感じがたいものへと昇華していた。周囲の者達は返り血を浴びたその姿を見て、ひそひそ声で会話した。無論、クラナには筒抜けである。

「随分小さいな。 女か?」

「ああ、しかもまだ子供だ。 五百近い兵を二十名程度で撃退したらしいぞ」

「恐ろしい奴だ。 まるで怪物のようだな」

「ああ、恐ろしいな」

敵意より畏怖。それがクラナに向けられた感情だった。実際問題、帝国の猛攻で王国軍の神経がすり減らされていたのは容易に想像出来る。もし王国が勝っている状態なら、クラナに向けられた感情は侮蔑や嘲笑であっただろう。

一段高い所に座っている少将にクラナが跪くと、老将は何度も頷きながら言った。頭脳は明晰だが、多少老人的な弱体化が体に来ている様子であった。

「クラナ殿、大義であった」

「はっ」

「我が軍は、汝に功績に相応しい恩賞と、良ければ地位を約束したい」

「有り難き幸せにございます」

王国軍では、少将には中佐までの任命が許可されている。これはまだ強力な軍中央集権体制が出来ていない事にも原因がある。ただし将官となると、流石に中央軍による任命が必要となってくるのだが。この任命には将官による推薦も要求されるため、王国軍で出世するのはかなりの難事である。ただし、人材不足の王国軍では、その法則が崩れつつあった。

「うむ。 ではクラナ殿を大尉に任命し、一個中隊〈九十名〉の指揮を任せる。 実際には傭兵団とあわせてだから、七十名ほどの兵員を加えよう。 更に、25万ホールの恩賞も与えよう」

将官の首を取ったのだから、これ位が妥当な所である。クラナは鷹揚に頷いて恩賞を受けると、一旦与えられた兵舎に戻った。兵舎では、傭兵団の者達が、既に待っていた。クラナは彼らを見回すと頷いた。

「皆、良くやった。 二十五万ホールの報奨金が出た」

「おおおおっ!」

「流石ですぜ、隊長っ!」

「うむ。 このうち経費として必要な十万を残し、残りをお前達に支給する。 各自大事に使うようにな」

歓声を上げる傭兵達。その中に、イオンの姿はなかった。

「ショパン、イオンはどうした」

「はっ。 ツライスの埋葬をするそうです」

「そうか」

クラナは手元にあった酒瓶を手に取ると、インタールに渡して、墓前へ持っていくように命じた。こういう行動が忠誠心を高めるのに役立つと、クラナは普通に知っていた。

 

翌朝は、雨が明け方から降っていた。昨日は勝利に浮かれる部下達を放って置いて、クラナは眠くなるまで要塞の調査をしていた。実際問題、さほどの激戦ではなかったので、体力があまっていたのだ。ところでこの要塞は、確かに堅固だが、何カ所も穴がある。攻める機会があったら、充分に落とす自信はあった。

今朝もクラナは早くから起き出し、要塞の見回りを始めていた。彼女の部隊は、要塞守備隊ではなく、迎撃隊に配備されていた。敵の攻撃があった際に、迎撃を行う部隊だと説明されているが、実際は予備戦力である。逆に言うと、まだある程度の予備戦力があるのだ。パニックになっている首脳部を落ち着かせれば、まだまだ充分以上に戦えるのである。

クラナはまだまだ尉官だから、首脳部が参加するような軍議には出られない。城壁の上に登ると、階級章を見て不審そうに敬礼してくる兵士に敬礼を返しながら、クラナは敵陣の方を見やった。動いている形跡はない。動くとしたらどう動くか、それを考えていたクラナの耳に雑踏が届いた。どうやらこちらが先に動く事になったらしい。まあ、手痛い失敗で敵はへこんでいるわけだから、反撃のチャンスではある。兵舎に戻ると、案の定すぐに出撃要請があった。

 

命令は、夜陰に乗じて出撃、敵を奇襲するという物であった。それ以上の指示は与えられず、クラナも含むおよそ二千の兵が前衛として出撃する事になったが、事前の細かい説明はほとんど無かった。必然的に、規律は乱れていて、何処に誰がいるかもよくわからない情況である。

奇襲戦というのは、相手の戦力と正確な位置が分かって、始めて多大な効果を上げる事が出来るのである。即ち精鋭を要しており、敵の情報を知っていれば成功する。勝った時には、少数の兵を持って多数の敵を蹂躙する事も可能だ。

一方で失敗した時の損害は大きく、派手な分非常に危険な戦い方だと言える。百名に満たない兵士達を率いて、周囲の状況を見、クラナは一旦脇道に退いた。

新しく加わった小隊長二名は、ルツラト中尉とバッカルフ中尉である。ルツラトはそこそこに熟練した手腕の持ち主で、精悍な顔つきの中年男性である。バッカルフは何というか、腕は立つのだが少しぼんやりしている傾向があり、正直単体ではあまり小隊長として役に立たない。ショパンに旧傭兵団を、旧傭兵団副将にコルトスを。残る十名の兵士はインタールに任せた。イオンは、クラナの側に置いて、いざというときに活用する。

少し狭い広場に集まった兵士達を、少し大きめの石上からクラナは見回し、単刀直入に言った。

「先に言っておく。 この夜襲は、まず間違いなく失敗する」

兵士達がざわめく。前に一歩でたのは、ルツラトである。

「根拠を示して頂きたい」

「作戦行動が杜撰すぎる。 これでは、仮に夜襲が成功した所で、途中から袋だたきにあうのが落ちだ」

「なるほど。 確かに、私も同意見です」

クラナは、ルツラトの言葉に、試すような響きがあるのを悟っていた。というよりも、支配する人数が増えるに従って、丁寧に支配出来る数は限られてくる。単純に力を見せる事で、部下の忠誠心を獲得する必要性があり、まして今は時間がないのだ。

ルツラトが従うのを見ると、兵士達は自然に従う姿勢を見せた。本来戦力外として彼らをカウントしていたので、クラナにとってこれは思わぬ良い方向での誤算であった。

「そこで、我々は味方より少し遅れて行動する。 そしてもし作戦が成功しそうであれば、大きく退路に回り込んで、敵の司令部を狙う。 失敗しそうであれば、山道に陣取り、追撃をかけてきた敵に逆撃を加え、大物を狙う」

「成る程、了解しました」

「りょ、了解、しました」

「御意」

「了解しました」

それぞれに言う小部隊長達を見回すと、クラナは頷いた。

「良し、では各自弓矢を用意せよ。 もし無い者は石でよい。 各自声を立てずに移動する。 声を上げる者がいれば斬って捨てよ。 敵は当然の事、味方にも行動を悟らせるな」

 

夜襲の前哨戦は上手くいった。以前奪われた二つの砦に襲いかかった王国軍は、殆ど損害らしい損害も出さずに砦を攻略する事に成功したのである。これは王国軍にとっては幸運だった。王国軍の指揮を任されたリステル准将は、援軍の指揮官であり、勇気はあるが思慮が足りない。その上家門が良く、下手に発言権が大きいため始末に負えない存在だった。彼は勝利に気をよくし、兵の再編もろくに行わず、夜闇に紛れて山を下り、平地へ疾走した。それに少し遅れて、クラナ率いる百名弱が、近くの山地に布陣する。夜目が利くクラナは、周囲の地形を見て素早く兵達の配置を指示し、ルツラトとショパン、それにインタールが率先して従い、他の者達もおいおい従った。

奪還した砦のある少し先辺りから、土地は急速に切り立っている。当然大きな岩も多く、幾つかに見当をつけると、クラナは兵士を陣取らせた。てこになる物は何とか調達出来たが、それでもかなりギリギリの情況である。兵士達は、少し旧式だが遠くまで良く飛ぶ弓を配備されている。傭兵団にも支給はされたが、数は若干足りない。当然、元々傭兵団の備品である更に旧式の弓を使うしかない。だが彼らは元々のスキルが優れているので、それで何とか埋め合わせが出来た。後は反撃のタイミングだが、それに関してはちゃんと手があった。攻撃の合図は、岩を転がす事である。岩に取りすがっているのは、忠誠心高く剛力自慢のインタールであるから、冷静にクラナの指示に従う事疑いなく、現時点で問題はない。

まだ夜の闇が、辺りを充たしている。遠くに見える、帝国軍のかがり火と星の光のみが光源であった。クラナは一段高い所に陣取り、其方を注視していた。やがて、彼女は小さく舌打ちしていた。

「やはり駄目だな」

 

奇襲をかけた王国軍は、自分たちが空の陣地に踏み込んだ事を悟って唖然としていた。特に砦の攻略で気を良くしていたリステルなどは、最も激しく動揺した。同じく困惑している参謀に問いかける彼の顔は、焦燥と冷や汗にまみれていた。

「ど、どういう事だ! 敵は何処にいる!」

「わ、わたくしに言われましても……」

周囲から降り注いだ矢が、その困惑に答える形になった。一番経験が浅く頭が悪い兵士でもすぐに悟った。既に奇襲は敵に察知されており、自分たちが罠にはめられた事を。一方的に叩き込まれる矢に、兵士達はばたばたと倒れ、動揺しきってリステルは叫んだ。

「ひ、引けーっ! 引けーっ!」

命令を出す前から、兵士達は逃走に移っている。その背を、容赦なく矢が追い討ちした。先日の勝利など忘れ去るほどの大損害を受けながら、兵士達は逃げる。そして普段は守ってくれる上り坂が、今度は彼らに牙を剥いた。帝国軍兵士達は、ごつごつした坂を必死に上る王国軍兵士達に余裕で追いつき、当たるを幸いに薙ぎ倒したのである。

いい気分になって、追撃をしていた帝国軍兵士が、異音に気付いて顔を上げた。次の瞬間、彼の体は巨岩に押しつぶされ、命を無くしていた。

 

「撃てえっ!」

絶好の狙撃位置に陣取ったクラナが、叫びつつ自らも矢を放つ。既に夜は明け始めており、帝国軍と王国軍の見分けは充分につく。逃げる王国軍を援護する以上に、帝国軍を叩きのめすために、クラナ麾下の兵士達は矢を放った。這々の体で逃げてくる味方には構わない。時々大岩を転がり落とすと、まとめて数人の帝国軍兵士が潰され、落ちていった。

クラナ隊の奮戦を見て、砦にいた兵士達が出撃してきた。味方の救出は彼らに任せて置いて、更にこの時、クラナはイオンに命じた。

「今だ」

「はい! 惑え、そして迷えっ!」

砦から出撃してきた兵士達は百名ほどだが、それが五百名ほどに増えていた。王国兵達も驚いたが、それ以上に帝国兵は驚いた。帝国兵達が突撃に二の足を踏み、逃げ延びた兵士達が慌てて坂の上へと逃れる。声をからして、帝国軍を叱咤する男を、クラナは見逃さなかった。集中し、弓をつがえる。そして、引き搾った殺意をうち放っていた。敵指揮官は喉に矢を生やし、落馬していた。次の瞬間。

「!」

「っ! クラナ様!」

無言のままクラナはイオンを押しのけた。彼女の右腕に、矢が突き立っていた。矢を放った兵士に向け、クラナは凄絶な笑みを浮かべた。王国軍に紛れ、結構至近まで登ってきていたのだ。

「やってくれたな……!」

「ひっ!」

躍りかかったクラナが、逃げ腰になった兵士の喉を、一撃で貫いていた。剣を納めると、再び指揮所に戻り、クラナは手慣れた動作で矢を引き抜いた。垂れ落ちる鮮血を一嘗めすると、ふるえるイオンが差しだした布を大雑把に巻く。イオンを助けたのは、自分の肉体に対する被害が少なくて済む事、更に単純にこの後も彼女が使い物になる事が分かっていたからである。暫く矢は放てないが、まあ何にしても、そろそろ潮時ではある。振り向いたクラナは、あるものを確認し、小さく呟いていた。

「丁度いいタイミングだな」

その時ようやく、要塞から本隊およそ四千が出撃してきたのだ。それを見た帝国軍追撃部隊は、諦めて引き上げていったのである。クラナは陣取っていた地点から、坂の下へ降りていった。そして、今仕留めた帝国軍指揮官の首を取った。階級章は准将の物であった。名前は知らないが、副将か、或いは参謀か。まだ若い男であり、さも無念そうな顔をしていた。戦利品漁りに夢中になる周囲の兵士達も、帝国軍の一万以上にも達する本隊が押し寄せてくると、坂の上に引き上げていった。クラナもさっさと引き上げたが、その途中、ある死体に気付いて失笑していた。

目を剥き、無念そうに地面に転がっている、リステル准将の死体を。

クラナはリステルが敵に囲まれている事を知っていて、それで助けなかった。クラナの腕なら、リステルの周囲の敵を重点的に倒せば、助ける事は決して不可能ではなかったのだ。だがわざとリステルを助けなかった理由は二つ。今後クラナが権力を増す際、無能なだけで使いづらいこの男は邪魔である事。更にもう一つは、下手をすると今回の敗戦の責任を押しつけられる可能性がある事、である。

クラナにしてみれば、人間の事情などどうでも良い事である。何を考えていようが、何を背負っていようが、何を想っていようが知った事ではない。邪魔になるようなら排除するし、使えるようなら使う。それは、研究所の人間を皆殺しにした頃から、フェステ村を滅ぼした頃から、全く変わっていない彼女のやり方だった。クラナは自分を人間だとは思っていないし、人間が言う人間の尊厳など鼻で笑い飛ばしている。それはあくまで人間の理屈であり、そんなものに彼女が従う理由がないからだ。大体、クラナを同胞扱いせず、同胞という存在自体からはじき出したような人間の理屈に従うなど、まさに笑止の極みだった。クラナは、彼女のやりたいように大陸を征服する。そのために、最大勢力である、既存の人間社会を利用する。人間も利用する。それだけである。大陸征服の動機も、野心などではなく生存のためである。奇しくも、多くの野心家の人間より、遙かに健全な動機であった。人間の理屈から見てである。

兵士達はクラナ隊に助けられた事を良く覚えていて、感謝の言葉を述べる者が少なくなかった。今までの記憶を利用して、完璧に作った人当たりのいい笑顔でクラナは応じた。これも単純に味方を作っておけば後々都合がいいからである。クラナの、人間に対する視線は冷え切っていた。

やがて、王国軍と帝国軍は睨み合いを終え、互いの陣地へ引き上げていった。

 

「クラナ殿、またしても貴公の働き大なり。 貴公の働き無ければ、損害は更に大きくなっていただろう」

「もったいないお言葉にございます。 それと、もう一つ、お願いしてもよろしいでしょうか」

「なんだ、言ってみよ」

「はい、実は……」

白々しく頭を下げつつも、クラナは物わかりがいいイツァムの評価を上げていた。敗戦の際に、味方の責任を取って首を切るような輩は指揮官として二流である。敗戦の時こそ、味方を励まし、気力を起こさせねばならないのだ。

極めて短期間に、二つも巨大な功績を挙げたクラナ。イツァムは喜び、彼女を少佐に昇進させ、五十万ホールの報酬を出し、一個大隊〈二百名〜三百名〉の指揮を任せた。報酬が少ないのは、敗戦だから仕方がない。以前同様、クラナは景気よく部下にそれを分け与えてしまった。クラナの指揮下に新たに入ったのは、一個中隊と二個小隊であり、元の部隊とあわせて二百六十名になる。くわえて佐官になる事で、軍議に参加する資格も手に入れ、一気に選択肢が広がった。ただし、戦争は年がら年中有るわけではない。ましてや、最前線に出るチャンスも、そう何度もあるわけではない。今回の戦いでは、この辺りが潮時であった。

また、クラナの要求は喜んでイツァムに受けれられた。この戦いで、クラナはまず満足する成果を上げたのである。

程なく帝国軍の全面撤退が、要塞の兵士達に告げられた。帝国軍は、要塞攻略を諦め、撤退していったのである。損害は王国軍の方が多かったが、両者ともに決め手に欠け、それに対陣が長引きすぎた。王国軍は要塞を守り抜き、帝国軍はそれがならなかった。つまり、戦略的には王国軍が勝ったのだ。

更に、王国軍の兵士達は、英雄の鮮烈な誕生を目にする事になった。後の歴史で、英雄として語り継がれる、闇の獣の登場をである。

それは戦いとしては小さかった。だが歴史としては、非常に大きな事件だった。

 

4,それぞれの岐路

 

湿った牢。不潔な水滴がしたたり落ち、太った鼠が餌を求めて徘徊する。そんな牢に入れられていた男が顔を上げた。彼の名はクインサー。帝国軍中隊長であり、先の戦いでクラナに捕まった男である。彼の隣の牢には、リリセーが入れられている。足の傷は大分癒えてきているが、リリセーはまだ文句を言っている。不平屋のリリセーの事だから、もう直っているのに不平を言っている可能性もあるが、見えないので何とも判断出来ず、クインサーは冷や冷やのし通しだった。この劣悪な環境で破傷風にでもなったら、まず助からないからである。

クインサーが顔を上げたのは、兵士の足音が聞こえたからである。いつも食事を持ってくる連中と違い、足音は複数。やがて兵士達は、クインサーとリリセーの牢の前で、足を止めた。

「出ろ」

「へいへい、そうしますよ」

「……ボツタレが

隣の牢で、リリセーがぼそりと方言で呟いた。その意味を悟って、クインサーは苦笑していた。リリセーは、兵士達を、かなり汚い言葉で罵ったのだ。無論兵士達は気付かず、二人を小さな部屋に案内した。部屋の戸を叩き、兵士は言った。その間も他の兵士達はきちんと二人に警戒している。王国軍兵士にしては有能で、士気が高かった。

「お連れしました」

「ご苦労。 下がって良いぞ」

「はっ!」

クインサーとリリセーは顔を見合わせた。異様に落ち着いていて威厳はあるが、子供の声、しかも何処かで聞き覚えのある。部屋の中に通されたクインサーは息をのみ、リリセーはぽかんと口を開けた。

「ご健勝か?」

「き、貴様は……!」

「あの時の、子供司令官!」

「良く覚えていたな。 私の名はクラナ。 お前達の主になる者だ」

 

要塞の外にある墓地で、イオンが墓に手を合わせていた。二回の戦いで戦死した、合計六名の墓である。彼女が顔を上げたのは、背後に近づいてきたインタールの気配を察したからだった。

「インタールさん」

「アンタは優しいな。 彼奴らも、喜ぶと想うぜ」

「私、優しく何てありません。 利己的です」

クラナより細くて小さな娘は、清楚な、寂しげな笑みを浮かべた。しばしためらった後、インタールは言う。

「隊長って、不思議な方だよな。 俺だって、あの方が俺達を道具だと思ってる事や、利己的な事は分かってる。 でも、きちんとすることはしてくれる。 妹はあの人のお陰で病気から自由になれた。 その後も、給料はちゃんとくれるし、個性は認めてくれるし……このままだと、幸せもくれそうな気がする」

「きっとくれます。 だってあの方にとって、人の幸せなんて、きっとどうでも良い事ですから。 私達が幸せを得ても、取り上げたりはしないはずです」

「それだけ聞くと腹が立つのに……わからねえ人だよな」

「あの人は邪悪な人です。 でも……自分に降りかかる火の粉以外を振り払う人でもないし、無闇に平地に乱を起こす人でもないんです。 私、そう思います」

だから、私はあの方についていく。そう心の中で、イオンは呟いた。

「……幸せって、何だろうな。 自分の力で切りひらかねえと、幸せじゃねえのかな」

「強い人なんて一握り、強くなれる人だって一握り。 自分で居場所や幸せを掴める人がそうしないのは罪悪だと思います。 でも、そうでない人が幸せを得るには、結局信じるものに託すしかない。 ……私、そう思います」

「……あんた、見かけよりずっと強えよ」

「ううん、私はクラナ様の力を見て、背伸びしているだけです。 ……私、クラナ様の側で、幸せを得るためにあがいてみます。 きれい事を言うだけで何も出来ない人や、格好いい言葉を言うだけで事態を悪化させる人なんかより……あの方の方が、ずっと価値ある事をしていると思いますから」

儚さの中に、強さを持つ笑み。まだ幼いイオンが此処まで確固たる考えを持つまでには、どれほどの苦労があったか、言うまでもない事だ。イオンの決意は、本物であった。幸せへの願いも、自らへ課した誓いも。

 

フェステ村が滅びてから、そこで暮らしていた子供達は、隣のアズル村の住民達に引き取られた。貧しいこの地区で、比較的アズル村は豊かであり、その分民の心も落ち着いていたが、所詮比較級でしかない。元フェステ村の子供達は、奴隷よりはまし、という程度の生活を余儀なくされていた。

彼らの中心人物になったのはロドリーだった。彼は体が出来てくると、元フェステ村へ戻り、住居を修復して、大きな子供から順に引き取った。一軒目、二軒目、三軒目。徐々に村は復興していく。十六歳になったロドリーは、率先して畑を作り、水路を補修し、そして立派に自活の道を切り開いて見せた。子供ばかりだが、フェステ村は復活したのである。

そんなある日の事。農作業をしていたロドリーは、妹のシリスが駆け寄ってくるのを見た。以前はまだ頼りなかったが、今はもう充分に一人で農作業が出来る。女の子達の中では比較的年が上のシリスは、同性の中ではまとめ役になる事が多かった。

そのシリスが、ぱたぱたと駆け寄ってくる。そして、村の入り口を指さしながら言った。

「ロドリーお兄ちゃん」

「シリス、どうした?」

「お客さんだよ」

「客? 珍しいな」

こんな村だから、盗賊や山賊に襲われたらひとたまりもない。村の周囲にはトラップの類が仕掛けてあり、いざというときには、いつでも子供達は逃げられるように訓練している。百のきれい事よりも、一つの現実。しかしきれい事を現実に出来るように努力していく。それがあの事件で、クラナを殺そうとして村人達が返り討ちにされた事件で、ロドリーが学んだ人生訓だった。子供達に、いざというときに備えるように指示すると、ロドリーは村の出口へ行った。其処にいたのは、腰に剣を差した老人だった。厳しい目つきだが、目の奥に溢れる光はとても優しい。

「この村の長は、君かね?」

「はい。 ロドリーといいます」

「ほう……本当に若いな。 ワシはルガルウェン。 見ての通り、旅の者だ」

この老人との出会いが、ロドリーの転機であった。決して幸せとは言えぬ、だが本人としては悔いのない転機の……。

 

「さあて……これからだな」

要塞の最も高い塔の上で、窓に手を掛けて、クラナは呟いていた。遙か遠くまで広がり続ける王国領。その全てを、更には帝国領も支配し、南部にある幾つかの小国家も制圧し、大陸を手中に収める。

そのためにはまだまだ力が足りない。さらなる力を得るためには、道具ももっと必要であった。忠実な道具、頭がいい道具、政治が得意な道具、戦争が得意な道具。それらを使いこなせれば、クラナは生き残れる。使いこなせなければ、或いは正体がばれれば、クラナは死ぬ。

今までも危ない橋を何度も渡ってきたが、負ければ死である以上、危ない橋も何もない。これは遊びではない。命がけの戦いなのである。

気配に振り向くと、ショパンが部屋に入ってくる所だった。彼は頭を下げ、言った。

「クラナ様」

「どうした」

「どうやら、王国と帝国の間で、大規模な会戦が起こる模様です。 イツァム少将も、それに伴って、かり出されるとか。 この要塞の兵士達も、あらかた参戦する模様です」

「……分かった。 いつでも出られるように、準備しておけ」

頭を下げると、ショパンは部屋を出ていった。大きな会戦が有れば、派手な軍功を立てる好機である。口の端をつり上げると、クラナは呟く。

「最後に、私は必ず勝つ」

その言葉は、彼女以外の誰の耳にも届かなかった。大陸全土に対する、宣戦布告の言葉は。

 

(続)