ヒトノスガタ
序、魔都
バストストア王国第三の都市アイゼンハーゲン。人口三十五万を誇る巨大都市であり、四つの主要街道が貫く交通の要所でもある。何よりルクトー山脈西部にある事で、帝国の脅威から遠い都市であり、その点では首都であるフオルより更に立地条件がよいと言っても良いであろう。南部には王国最大の港湾都市クルフトハイムスを控え、膨大な物資が流通し、経済活動は活発である。流入する人間は、帝国と王国の戦いが泥沼化している現在でも少なくなく、人口は年々増え続けていた。その結果無秩序な都市開発が急ピッチで行われ、スラム街や歓楽街は歪に拡大し、貧富の差は大きくなり続けていた。その結果、今やアイゼンハーゲンは、魔都の二つ名で呼ばれていた。
退廃的なこの街では、娯楽も不健康な物が多い。人身売買も当たり前のように行われ、人の命を賭け事に使う事も珍しくない。中には、命のやりとりを売りにしたコロシアムさえ有った。流石にそれは非合法の物であったが、取り締まっても取り締まっても絶える事はなかった。人間は基本的に、こういった残虐な出し物が大好きだからである。コロシアムでは、剣奴同士の殺し合いの他、様々な変則マッチも組まれれていた。中には子供同士の殺しあいや、怪物に人間を喰わせるものさえ実在した。無抵抗の人間を一定時間内に何人殺せるかを競う、虐殺マッチ等というものさえあった。無論賭け事もそれに組み込まれ、客は血と内臓と殺し合いに熱狂するのであった。其処では膨大な金が動き、客は血に興奮し、目をぎらつかせて惨劇を見やる。そして残虐で有ればあるほど、満足して膨大な金を払うのである。
きれい事では説明が付かない、人間の本性が、そこにはあった。
1,闇の街にて
クラナは槍と弓を背負い、峠を歩いていた。ここ数日は目立って治安が良く、攻撃を掛けてくる相手も少なくなっていた。それでも時々は盗賊を返り討ちにしながら、クラナはルクトー山脈を南下していた。
峠はかなり険しく、途中で休憩所が幾つも設置されていた。道は良く踏み固められ、轍の後もかなり深い。行き交う人間の数も多くなり始めており、時にはかなりの大集団とすれ違う事さえもあった。やがて、峠の頂点を越えたクラナは、額に手を当て、目を細めていた。
「ようやくたどり着いたか」
眼下に広がっていたのは、王国第三の都市、アイゼンハーゲンの威容であった。
およそ二ヶ月間をかけて、ルクトー山脈を南下したクラナは、アイゼンハーゲンにたどり着いていた。彼女の中で息づく五人分の記憶が、此処が潜伏するに最適な場所だと告げていたからである。更には、此処には様々な経験を持つ人間が豊富で、力を増すにも適した土地であった。
街はかなり大規模で、だが一方で煩雑であった。幾つかの巨大な道が街を貫き、その周囲だけは清潔な空間が広がっている。街の北部は若干標高が高くなっており、領主の館を取り巻くようにして、幾つかの巨大な屋敷が建っていた。町の中心部付近には、多少古くなった城壁があり、その周囲では堀に水が充たされていた。城壁は朽ちて苔むしており、一部は既に取り壊されていた。その外へ行けば行くほど街は汚くなっており、最外縁部はフェステ村と殆ど大差ない掘っ建て小屋が林立していた。面白いのは、堀に流れ込んでいる川で、流れ込む際にはそこそこ澄んだ水なのに、街を通過した後は泥色に汚れている事であった。町の中心部は白に近く、外へ行けばいくほど灰色に曇ってゆく。そんな町であった。
アイゼンハーゲンに入り込んだクラナは、一日かけて街を観察して回った。そして記憶の中にあるアイゼンハーゲンと照らし合わせながら、細部の修正を行っていった。研究所にいた魔法男は此処の出身で、十二歳まで暮らした記憶が残っていた。しかしその頃と現在のアイゼンハーゲンは大分異なっており、幾つかの箇所は完全に修正が必要だった。
続いて気付いた事項は、武器を携帯するのは構わないのだが、出来れば剣の方が望ましいと言う事だった。というのも、武器を持っている連中は殆ど剣を腰に差しており、槍を手にしているのは軍人だけだったからである。これは槍が実戦向きである事を示していると一目瞭然だが、一方で不必要に目立つ事は避けねばならないから、出来るだけ人前で槍やら弓矢らは持たない方がよいとも判断する材料になった。また服装も、クラナの物は実用的すぎて、この街の住民からしては浮いていた。必要以上に視線を集めている事を悟ったクラナは、まず夜を待ち、それから行動に出た。
夜になっても、アイゼンハーゲンは活発な活動をしていた。街の中枢部は灯りが煌々と照らし続け、人通りも絶える事がなかった。また、街の辺縁部も、一見静かなようでその実数多くの人間が活動しており、昼間より活発に動いている者もいた。周囲を見回せる小高い場所、即ち廃屋の屋根に登ったクラナは、他者の視線の死角を通り、街中を回ってその結論を出した。
街の外側は、基本的に貧しい人間が集まり、治安も劣弱だった。其処は力が物を言う世界であり、力がない者は力がある者を利用して生き延びていた。千億のきれい事よりも、一つの現実が物を言う世界が此処だった。一昼夜掛け、街の現状を大体理解したクラナは、大いに満足した。
アイゼンハーゲンの情況を把握したクラナは、続いて拠点の確保に動いた。長期的に動くためには、仮に簡単なものであったとしても、拠点は必要になってくる。問題は、拡張性が必要な事で、場合によっては今後確保を検討せねばならなかった。クラナは此処で長期間活動する事に決めていたから、それは絶対事項だった。
まず最初に、目立つ場所はアウトだった。次に、人が多い所もアウトである。行動はある程度隠密裏に行いたい所であるし、不必要に人間と関わり合うのも歓迎出来ない。拠点を留守にしている間は、当然トラップを仕掛けておくが、それでも絶対とは言えない。現在の付け焼き刃の知識ではなく、プロの盗賊の知識が欲しい所であった。此処で言う盗賊とは、田舎の野盗のボスクラスではなく、こういった所で修羅場を潜ってきた海千山千の達人の事である。つまり、此処で新たに捕らえなくてはならない。
また、都会である以上、人間関係は極めて複雑になる。人間関係に極めて習熟した記憶も必要であった。これも新たに捕獲しなければならない記憶である。少なくとも、フェステの村長レベルの能力では、今後はお話にならない。クラナは常人よりもずっと頭が働くが、それでもやはり限界がある。何人かの記憶を得て思い知ったが、経験という物は一般に想像されているよりも、遙かに強力な武器となるのだ。超絶的な天才で有れば崩す事も可能であるが、少なくとも今のクラナは、其処までの自信はなかった。今のうちに、ある程度力を増しておかねばならなかった。
ある程度の知識を手に入れたら、今度は部下を得て、組織運営の訓練もしておきたい所であった。まあ、それらは先の話である。まず今行わねばならないのは、拠点の確保であった。それと並行して、美味そうな人間がいたら、補食しておきたい所であった。部下はその次である。クラナは長期的なビジョンを元に、コツコツと動く事を既に決めていた。
拠点を品定めしながら、夜の街の屋根を伝い歩くクラナ。やがて、その足が止まり、視線が一点に注がれた。かなり上手く気配を消してはいるが、臭いや体温、それに微細な音までは隠せない。しかし隠れかたからして、かなりの手練れである事は間違いなかった。クラナは舌なめずりすると、気配を消し、移動している獲物へと近づいていった。
獲物は屋根の上を、気配を丁寧に消しつつ、北上している。ある程度距離を詰めた後、クラナは一旦屋根を降り、壁側に張り付いた。別に手に吸盤があるのではなく、煉瓦の出っ張りを掴み、とっかかりを踏んで体重を移動させているのだ。そのまま彼女は獲物の行動線を予測し、曲線的に距離を詰めていく。音を可能な限り立てないように、敵より一メートルくらい下の位置を保ったまま、敵の二割増ほどの速さで。やがて、距離が五メートルを切り、それと同時にクラナは仕掛けた。
屋根の上に躍り出たクラナを見て、黒っぽい服で全身を覆い、顔まで隠していた男は一瞬だけ呼吸を乱した。だがすぐに冷静さを取り戻し、懐から刃物を抜き出し、それをクラナへ投擲する。クラナは槍を回転させてそれを弾きつつ前進、屋根を蹴って加速すると、敵の顔面へスピードが乗った膝蹴りを叩き込んでいた。
「ぐはっ!」
のけぞった獲物が蹈鞴を踏み、瓦を踏んで大きな音を立てた。だが態勢をすぐに立て直し、新手の武器を袖から出す。間違いなく、今までクラナが戦った相手とは格が違う使い手である。舌なめずりしながら、クラナは色々試してみて最適と思われる、我流の構えを取った。特に特徴的な構えではなく、自然体に足を開き、槍を少し長めに持って、穂先を地面に向ける。開いている左手も地面に垂らす格好で、どんな動きにも対応しやすい。獲物は逃げるチャンスを狙っていたが、やがてそれを断念し、短い叫び声と共に突進してきた。
「シャアッ!」
突き出された右腕を軽く払い、そのまま体を半回転させ、クラナは相手の懐に潜り込もうとした。だが獲物はそれから逃れるように、クラナから見て左斜め後ろに一歩引く。そのままクラナは態勢を低くしてローキックを放つが、敵は軽く二歩さがって避けた。跳躍すれば槍で一突きだったのだが、流石に手慣れている。そのまま間を詰めた敵は膝蹴りを繰り出し、クラナは開いている左手で払った。筋肉と筋肉、骨と骨がぶつかり合い、一瞬の均衡の後に弾き離れた。
「やるね」
「……何者だ」
「さあ?」
左手はダメージを訴えてきていた。体重を乗せた敵の膝蹴りは、強化したクラナの細胞でもかなりの負荷になったのだ。筋肉だけではなく、骨にもそれなりのダメージが来ている。体を大きくする際に、強度を上げる必要があると、クラナは考えていた。長期的なプランに基づいて細胞をじっくり変質させれば、それも可能であった。
月の光を浴びつつ、呼吸を整えたクラナが、今度は先に仕掛けた。軽く左側に進みつつ、槍を繰り出す。敵はクラナから見て右側に避けつつ、槍を右手で掴んだ。そして手にした武器をこめかみへ叩き込もうとした。もしクラナが見た目通りの力の持ち主で有れば、此処で勝負がついていただろう。だが違った。舌なめずりしたクラナは、そのまま強引に槍を敵の手から外し、孤を書いて振り上げ、側頭部に延びつつある敵の手首を迎撃した。鈍い音が響き、敵の左手首がへし折れた。苦痛の声を漏らし掛ける獲物に向けて軽く跳躍、そのまま側頭部に後ろ回し蹴りを叩き込む。これがとどめとなり、襤褸屋の屋根に叩き付けられた獲物は、物凄い音と共に動かなくなった。
「っと、いけないいけない」
何の情もなく、そのままクラナは獲物の首を蹴り折った。そして素早く担ぎ上げると、あばら屋から飛び降り、先ほど目をつけて置いた下水道へと飛び込んだ。以降、何も周囲で音はしなくなった。
翌日、身ぐるみ剥がれ、首から上を失ったこの男の亡骸が、街の路地裏に転がされていた。無論クラナの仕業であった。
思いも掛けずに良質の獲物を食べる事が出来たクラナは、嬉々として記憶の吸収整理を行っていた。喰った後は身ぐるみ剥いで頭部を切り離し、胴体は街路に捨ててきた。頭部はミンチにして、下水にばらまいた。今その破片の一つを、鼠が持って逃げていった。記憶は密度が高く、クラナといえどもすぐに吸収は無理で、だが楽しみながらクラナはそれを行った。かなりの意識を其方に向けねばならず、下水の壁に背中を預けっぱなしであったが、それでも別に構わなかった。
今食べたこの男は、名前をフストーと言った。仕事はいわゆる影働きで、社会の暗部にて活動する密偵だった。今夜はかなり手強い相手に追われていて、隠密に隠密を重ねて移動していた所を、クラナに鉢合わせてしまったのである。クラナにしてみれば幸運であったが、フストーにしてみれば不幸だった。彼は大貴族であるトステーヤ伯爵の部下であった。だが死因が死因だから、幾らでもごまかしは可能である。因みに目を通した後死体と共に放り出した密書は、いつの間にか誰かが持ち去っていた。十中八九、この男の追っ手の仕業だ。
この男の記憶は、実に有用な物であった。気配の消し方や戦闘術は勿論、諜報活動のやり方などもある程度は知る事が出来た。まだこの男自身は中堅程度の実力だったようだが、基礎が分かるというのは実に大きい。戦闘術も、大きくこれで向上した。だがあくまで奇襲や隠密時の無音戦闘術であるから、それ以外の戦闘法を習熟するには、まだ獲物が必要であったが。
しばしして、しめった壁から背中を外し、立ち上がったクラナは、フストーの荷物を調べ始めた。水のかからない位置に置いてあるそれらはいずれもが未知の物であった。着ていた黒服は鋼線を織り込んでおり、実に素晴らしい強度を持っていた上、裏返すと街で人間達が着ていたようなデザインをしていた。サイズが合わないのは残念だが、これは何とか工夫し、作るか直すかしたい所である。
先ほど隙を見て拾ってきた、この男が投げたナイフも実に興味深い。空気抵抗を減らし、しかも投げやすい形状をしている。刃だけでなく、グリップから深い工夫が凝らされているのだ。ナイフにはそれぞれ違う溝が掘ってあり、それを見てクラナは感心して頷いていた。先ほど投擲されたナイフが微妙に軌道変化したのだが、この溝によってそれは為されていたのである。この辺りは、積み重ねがもたらす妙技である。天才が一人出たくらいでは、なかなか追いつけはしない。真似して作るのは何とか出来るが、産み出すのが如何に大変か、説明するまでも無い事であった。他にも様々な道具を調べ、いちいち感心した後、クラナは頷いていた。これはますます拠点を確保せねばならない、と。これらの物品を捨て去るのは、あまりにももったいない。少なくとも、自分流にアレンジして、使いこなすまでは。
フストーが拠点にしていた場所は危険だった。フストーの敵に見つかる可能性もあるし、フストーの仲間も然り。一応フストーしか知らないと、彼の記憶の中ではなっていたが、情況を鑑みるに知れた事ではない。ただ、物品を回収しに行く価値はあった。
再び夜まで待って、クラナは町に出た。また屋根を伝って、移動しながら、目的に邁進する。今度は獲物を探しつつ、拠点を探し、かつフストーの拠点からの物品回収である。流石に連続して獲物が見つかるような事はなかったが、後者の二つは上手くいった。フストーの拠点との丁度中間点ほどの位置に、此処暫く人が入った形跡のない廃屋が見つかったのである。立地条件は悪くないが、どうも嫌な臭いがした。人間の物とは違う、言うならばクラナの同類に近い臭いである。しばしの沈黙の後、クラナはその家の二階から入って調べ、幾つかの部屋がまだ問題なく使える事を確認した。床板は何カ所か破れてはいたが、潜伏する分には申し分ない。地下室は下水道に通じていたが、別にそれはどうでも良かった。
「ふうん……」
部屋の窓を開けると、クラナは埃を外に出しながら、一度この家を出た。次に向かったのはフストーの拠点であり、記憶に基づいてトラップを外しながら、中へ侵入する。其処は小狭い小さな部屋で、一見するとかびくさい倉庫にしか見えなかった。だが、記憶に基づいて調べれば、宝の山が現れた。
記憶通りの品々であったが、手に取ってみるとやはり違う。フストーが保有していた物と同じナイフが数本。更に、変装に使う化粧道具や毛の数々。身長をごまかすのに使う、奇妙な靴もあった。物品の数自体は少ないが、いずれもが貴重品だった。満足し、数度に分けてクラナは、先ほどの家にそれらを運び込んだ。ようやく新しい場所での作戦行動にも一息つけるかとクラナは思ったが、そう事態は上手く進展してはくれなかった。
この廃屋に誰も住んでいなかった理由を、強制的に悟らされたからである。
下水道に置いていた、フストーから略奪した物品の数々を暫定拠点に持ち込んだ瞬間、クラナは違和感に気付いた。下方、かなり近くに、生物の反応を見つけたのである。しかも最低体長二メートル半はある。形状から言っても、クラナが知っている生物ではない。十中八九、古代文明の負の遺産である、怪物に間違いない。目を細めたクラナは、人知れず呟いていた。
「成る程、これは人間が近寄らないね」
しかしこれは好機でもある。この怪物を仕留めた後、まだ此奴が生きているように見せかければ、この拠点を安全地帯に出来る。もし上手く従えれば、ガーディアンに出来る。そうすれば、非常に有能な番犬を獲る事が出来るのだ。わざと自分の存在をアピールしながら、クラナは一階に下りた。地下室の戸を押し上げて、それは姿を現した。
その生物は、一見して犬に似ていた。だが顔は左右に割れており、鋭い乱杭歯が緋色の唇の上で噛み合わさっていた。口の間からは長く赤い舌が延びており、六本有る足は太く、鋭い爪が着いていた。この様子では、間違いなく人間も餌の一つだ。槍を三度回転させ、穂先を足下に向けて固定すると、クラナは開いている左手を前に出し、敵を挑発した。意味は通じた。
「ブゥルオオオオオオッ!」
「おお、元気がいいねえっ!」
突撃してきた犬擬きを軽くいなすと、頭の後ろに槍での一撃を鋭く叩き込む。だが手応えは意外に鈍く、クラナは数度飛び去って舌打ちした。この狭い中では、一度捕らえられてしまったら不利になる。まあ、負けるとも思わないが、かなりのダメージを受ける可能性が大きかった。壁に激突した犬擬きはゆっくり振り向き、口を左右に大きく開け、クラナを威嚇した。大事な靴のつま先で数度床板を叩くと、クラナは口の端をつり上げた。
「きなよ」
「ガルアアアアアアアアアッ!」
犬擬きは、今度は手前で跳躍、斜め上から太い前足を振り下ろしてきた。クラナは態勢を低くすると、今度は前に出て、敵の腹の下に潜り込んだ。そして、敵の力を最大限利用し、床に向けて投げ叩き付けたのである。悲鳴を上げた犬擬きであるが、クラナは容赦しなかった。そのまま顔のすぐ側に、猛烈な勢いで槍を突き刺すと、それを利して天井近くまで跳躍、自由落下状態から敵の無防備な腹へ膝蹴りを叩き込んだのである。床板にひびが入るほどの一撃であった。
「ギャイイイイインンッ!」
「んー? 良い悲鳴だね。 だけど足りないかな」
たまらず悲鳴を上げた犬擬きから一旦飛び退くと、槍の撓りを利して、重く鋭いローキックを叩き込む。更にうつぶせに転がった怪物の足を掴み、逆方向へ固める。完全に関節が決まり、だがそこは流石に怪物。足一本を捨て、力任せにクラナを持ち上げ、壁板に叩き付けたのである。この瞬間、突撃のとばっちりを喰らい、槍がへし折れていた。
全身に猛烈な衝撃が走り、クラナは奥歯をかみしめていた。肋骨の数本に、罅が入っていた。怪物はそのまま壁にクラナを押しつけ続け、潰すつもりである。クラナは冷静に、先ほどへし折った腕を更に蹴りつけていた。悲鳴を上げた怪物、生じた隙。クラナは敵の耳を掴むと、壁を蹴る。そして相手の体重も利し、頭を床板に叩き付けていた。
「せえええああああああああっ!」
クラナは楽しんでいた。かってない強敵との戦いを。咆吼しながら頭を掴み、床板にすりつけながら走る。そして、力任せに壁に叩き付けた。犬擬きが悲痛な悲鳴を上げたが、容赦せずに、更に側頭部を蹴りつけ、その反動で飛び離れる。
蹌踉めきつつ立ち上がろうとする怪物の前に、容赦なくクラナが立ち塞がった。力の差は明かであった。恐怖した犬擬きは尻込みし、床に転がって腹を見せた。降伏のサインであった。
「……いいだろう。 お前を番犬にしてあげる」
此処でクラナが隙を見せていたら、犬擬きは彼女の手を食いちぎっていただろう。だがクラナに隙はなく、彼女は余裕を持って犬擬きの頭を撫でた。そして両手で顔を掴み、目をのぞき込んだ。
「さあ、私はお前の主人だよ。 忠誠を誓ってご覧?」
だらしなく舌を垂らした怪物は、情けなく、必死に尻尾を振ってみせる。口だけで笑いながら、クラナは更に続けた。
「逆らったら殺す。 命令に背いたら殺す。 逃げたら、地獄の底まででも追っていって殺す。 だけど、命令に従えば、報酬も与えるし、殺さないで置いてあげる。 分かってると思うけど、私は人間じゃない。 逃げられるなんて、思わない方がいいよ?」
怪物は明らかに言葉を理解していた。必死に頷き、尻尾を振る。恐怖が目に浮かび、小水さえ漏らしていた。小さく頷くと、クラナは言った。
「お前の名前は、ヌピスだ。 ヌピス、用がある時は名前を呼ぶ。 それまでは下水道で待機」
ヌピスは恐る恐る振り返りながら下水道に帰り、それ以降は物音一つ立てなかった。クラナは大いに満足し、部屋に戻った。あれだけの騒ぎの後である、周囲の住民達は、気付いていたとしても、この家に近寄ろうとも考えないだろう。近づいた所で、強力なガーディアンがいる以上、此処の防備は万全である。クラナはそう考え、それは全くの事実となった。暫定拠点は、此処に拠点としての体を為したのだった。
2,暗躍
シルヴィアはいわゆる高級娼婦だった。もう四十近いが、その容色に未だ衰えはなく、一晩に家が一軒建つほどの金を稼ぐ事も珍しくなかった。彼女は男をたらし込む達人であり、しかも敵を作らない術に長けていた。その辺りが同性に嫌われる要因でもあったのだが、致命的な憎悪を買った事は一度もなかった。彼女は後腐れ無く男と別れる方法や、自分を飽きさせる方法に長けていた。敵を作らないようにする技術には、目を見張る物があった。シルヴィアは娼婦としても超一流だが、それ以上に人間操作術に置いて超一流なのだ。だからこそ、生き馬の目を抜く世界で、この年に至るまで成功し続けてきたのだ。
その情報を知ったクラナは、是非喰いたい、と思った。拠点を確保して以来、クラナの行動は非常に積極的になり、夜闇の街を、気配を消して毎日のように徘徊した。そして人通りが多い所で耳を凝らし、情報を収集し続けた。その過程で、シルヴィアの情報を得たのである。この街でのクラナの補食は、今までは受動的なものであった。だが今や、それは能動的な物へと変化していた。
今後、街の中である程度活動するのには、やはり夜ばかりでは色々とやりづらい。そのためには、スラム街でも平然と生きられるほどに、人間関係の知識を得ておく必要がある。それを会話やら何やらで得るには、やはり時間がかかりすぎる。安全面や効率性から言っても、豊富な経験と知識を持つ獲物を補食するのが一番であった。
ひとしきり情報を仕入れると、クラナは色街へ移動した。立ち並ぶ娼館の屋根の上を移動しながら、シルヴィアに関しての情報を集めていく。二時間ほど掛けて情報を集めたクラナは、ほくそ笑み、色街の西の果てへと移動した。
都合が極めて良い事に、此処暫くシルヴィアは暇だという事であった。何でもそろそろ引退を考えているとかで、男の整理を行い、それが一段落したのだとか言う。御苦労様な事であるが、クラナにはそれこそどうでも良い事であった。立場を人間に置き換えてみよう。兎狩りをする際、兎の事情を考慮する人間がいるだろうか。しかもクラナがやっている事は、レジャースポーツなどではなく、生存のために必要な事なのだ。
情報を総合し、クラナは待ち伏せした。やがて、ボディーガードを伴って、件の人物が現れた。身体的特徴から言って、シルヴィアに間違いなかった。
話し通り、外見は大体三十代。しかし、言われていた年齢よりも、ずっと若く健康的に見えた。これは化粧の技術に習熟しているだけではなく、動作がそうさせるのである。ちょっとした動作のレベルから、自らを若く魅力的に見せる工夫をしているのだ。すらっとした長身に、あくまでアクセサリーは控えめに。整った目鼻立ちは、影から見てもなかなかに大した物であった。自分の魅力を、最大限まで引き出す術を心得ているのだ。ボディーガードは人類の規格ギリギリの姿形をしていて、殆どの暴漢が近寄るのをためらいたくなるような者だったが、別にどうでも良い事である。クラナは口笛を吹き、ヌピスを呼んだ。悲鳴を上げられたら厄介だから、ボディーガードと獲物を同時に沈黙させる必要がある。程なく下水道から現れたヌピスの頭を撫でながら、クラナはボディーガードを指さし、言った。
「合図をしたら、喉を噛み裂いて殺せ。 悲鳴を上げさせるな。 女は私が殺す」
ヌピスは結構気配を消すのが上手く、少なくともボディーガードには存在を悟られなかった。そのまま相手を二分ほど追跡し、絶好の襲撃地点にでた瞬間、クラナは仕掛けた。ヌピスも命令に従い、完璧に実行した。殆ど音が立たないうちに、目的は遂行された。
翌朝、無惨に噛み裂かれたボディーガードの死体と、頭部を失ったシルヴィアの亡骸が、近くの街路に転がされていた。怪物によって人が殺される事は、この街ではたまにあることだった。死体の状態から言っても、怪物の仕業だと判断するには充分であり、すぐに騒ぎは収まっていった。
少なくとも、その時はそうだった。
シルヴィアを補食して知識を吸収したクラナは、目立たない格好の仕方や、人を挑発しない動作を覚えていた。それを利して、夜のうちに集めていた物資を整理し、まず衣服を作る事から始めていた。
シルヴィアは〈センス〉と呼ばれる物に習熟していた。その記憶を利して、幾つか集めて置いた服を縫い合わせ、粗末すぎず、同時に華美すぎない服を縫い合わせていく。シルヴィアは裁縫の技術を持っていなかったが、それは別に今までの知識でどうにでもなったし、工夫すれば長くとも数時間で処理出来た。こうして数日が経つ頃には、昼間歩いても何の問題もない衣服が出来、立ち振る舞いが身に付いていた。
「ふうん……こういう街では、こういう服がいいんだ」
シルヴィアの記憶に添って作り上げた服を持ち、ひっくり返したり裏返したりして、クラナは呟いた。フェステ村の記憶から考えると、少し華美な物であるが、常識などという物は場所によって異なるのだ。服の裏側には、鋼線を編み込んである。これはフストーの持ち物であった、黒服を解体して取りだした物だった。分解と組み立ての作業がえらく手間取ったが、それでも成果は大きかった。これで街を歩くにも問題なく、なおかつある程度の防御力を持つ服が手に入ったのである。
上着は渋い色合いであるが、これは手に入った布地の関係である。全体的にゆったりした作りで、袖は手首まである。今の時期はコレでよいが、夏は皆が袖を折る。夏服なんて豪華な物を持っている庶民は殆どいないのだ。ボタンは首下に大きめの物が二つ。これに紐を引っかけて、襟を固定する。袖にも一つボタンが付いているが、これには実用性が無く、一種の飾りであった。これに関しては、この辺りの一般的な風習であり、余所の地域ではあまり見られない。ただ、無駄にはしたくないので、クラナはコレを使って、夏場に折った際に固定出来るように工夫を付け加えた。
スカートは足下まである長い物で、若干歩きにくく動きにくい。これに関しては、もう一着ズボンも作った。夜出歩く時は、正直ズボンの方が遙かにいい。
デザインは兎も角、この服自体は彼女が自らの手で作った物に等しい。針を数本失い、時には指に刺したりし、材料の布をかなり無駄にしたりしながら作ったのである。靴と同じく愛着を覚えたクラナは、試着した後、しばしひび割れた鏡の前で体を色々動かし、何度かターンした後、満足して頷いた。その姿は、もう間違いなく、少しおしゃまでそろそろ恋をし出す女の子の姿であった。少なくとも、この街で暮らしてきたシルヴィアやフストーの記憶からは、矛盾は生じなかった。スラムで生活している者達に比べれば少し豪華で、市民に比べれば少し質素な服装である。これで市民で有れば、服以外にも多少のオプションがつく。貧しい中、各自が工夫している〈お洒落〉である。逆に貧困層であれば、服はくたびれていて、もっと汚い。多くの場合、サイズも合っていない。貧しくも豊かでもない今の服装は、クラナに丁度良い姿であった。
早速服が出来た翌朝、クラナは町に出てみた。シルヴィアの記憶から得た、目立たない動作や服装の効果を試してみたのだ。効果は絶大だった。街の者達は、誰もクラナに注意を払わなかったのである。かくしてクラナは、魑魅魍魎蠢く魔都アイゼンハーゲンに、完璧にとけ込んだのだった。
カタールは偏屈な学者であり、殆ど人付き合いをしない男である。人間嫌いの彼は、一方で優れた科学者であり、幾つもの世界的な発見をした事で有名だった。だが人間嫌いの上に金銭欲が無く、酒をかっ喰らって刹那的な生活をいつもしていた。
時間を見つけては街を彷徨き、情報を収集し続けたクラナは、それを聞いて食欲を覚えた。以前も学者であるフンエルを喰ったが、奴は専門分野が搾られすぎている。その後も一週間ほど情報収集した結果、カタールはかなり広い分野に業績を残している男で、しかも狩りやすい事が分かった。次の獲物は此奴だと、クラナは決めていた。
クラナは行動における慎重さを増していた。まず誰にも関わらないようにし、住居も知られないようにした。平均的な容姿をしていて、身の回りの手入れを丁寧にしているクラナは、同じ年頃の男子に恋心を抱かれる可能性がある。そうなると、ロドリーの例を出すまでもなく厄介である。熟練した記憶と完成した肉体を持つ大人なら兎も角、子供など記憶の吸収にも使役するにしても使い道が少ない。処分したら処分したで、騒ぎになる可能性がある。活動の幅を広げるために、部下を作って組織を構成する事をクラナは考えていたが、それとこれとは別問題である。だから、クラナの行動には、以前に比べて時間がかかるようになっていた。人間の中で、人間ではない存在が暮らすのには、何かと手間がかかる物なのである。
そんな時間がかかる状況下で、クラナは着実に調査を続けていった。フェステ村の長老やフンエルよりも有益であろう、老練な頭脳は、それほど魅力的だったのである。年頃の人間の娘は、多くが甘味に魅力を感じるが、それ以上に強烈な食欲を覚えていた。ただこれは、知的食欲とでも言うべき、人間が覚える食欲とは一線を画す物であったが。
情報が充分に集まった夜、クラナは行動に出た。夜の街の屋根を伝い、街の東の果てへ移動していく。この辺りは、中産階級が住む地域で、比較的治安が安定している。逆に、だからこそ、クラナにとっては都合が良かった。
上着は普段着だが、その上から一枚黒布を羽織っている。これはフストーが残した物のうち、鋼線を引っこ抜いたあまりから作った。下は隠密活動用のズボンであり、これも要所は黒で固めている。お洒落な服とは言い難かったが、夜闇に紛れて動くには、これが丁度良かった。
問題は武器である。槍を失ってしまって以来、クラナは常に新しい得物を探し続けてきた。今はナイフの他、メインウェポンとして、この間武器屋から掠めたショートソードを腰に帯びているが、槍に比べると使い心地が悪い事この上なかった。この間も、危うくシルヴィアに悲鳴を上げられる所であった。やがて、クラナはターゲットの家に屋根にたどり着いた。そのままヤモリのように這い、事前に調べて置いた窓から、逆さに家を覗く。まだカタールは帰ってきておらず、老メイドが暖炉の前で編み物をしていた。彼女に用事はない。クラナは瓦の一枚に手を置き、デコピンの要領で、指で弾いた。わざと小さな音を立て、感度を確認したのだ。だが老メイドは反応は示さなかった。耳が遠くなっているのは疑いなかった。もしカタールの悲鳴を聞きつけて駆けつけられたら厄介だが、その恐れはなくなった。
一旦カタール家の屋根から隣の家の屋根に移ると、そのままクラナは北へ移動を開始した。もうカタールがひいきにしている酒屋や、何時まで飲んでいるかは、調査済みである。やがて、調査通りに、千鳥足で歩き来るカタールの姿が見えた。
カタールの家のすぐ前に、丁度良い袋小路がある。周囲から死角になっており、仕事をするには此処が最適だった。屋根から飛び降りると、クラナは其処へ這いずりこんだ。壁に張り付いたまま、闇の中を動き、袋小路の出口まで移動する。そして、相手の死角から、歩き来るカタールを見やった。
「てやんでぇ、バローめぇ! 権力者なんて、クソ食らえじゃあ!」
上機嫌な様子で、カタールが独り言を叫んでいる。泥酔しているのは間違いない。まあ補食しても、脳細胞に入っているアルコールの量などたかが知れているから、それほど問題はない。ふらつきながらカタールは徐々に近づき、大声で何かをわめき続けていた。心の中で、クラナは手招き続ける。だがカタールは、予想もしない行動に出た。途中でゴミ箱に蹴躓いて転び、派手に中身をぶちまけたのである。クラナは焦り、慌てて周囲の環境変動に意識を集中した。
「……!」
かなり大きな音がしたのに、周囲の住民は出てくる様子もない。これはますます好都合である。一瞬ひやりとさせられたが、今やそれは、作戦の確実な遂行に対する確信へと変貌していた。不意に足を止め、カタールが叫ぶ。
「うんっ? 其処に潜んでいるのは、だーれじゃああっ!」
「……」
無言でクラナは様子をうかがう。泥酔した科学者は、クラナの方など見てはいなかった。あろう事か看板を不審者と間違え、何度も蹴りつけていた。苦笑したクラナ。不審者を臭わせる言葉を周囲にばらまいているのに、全くの無反応が貫かれているのである。これは、予想以上に、情報以上に酷いへべれけ老人であった。そしてそれに、周りの人間が慣れきってしまっているのだ。
俯き加減で、顔の赤いカタールが近づいてくる。クラナは射程距離まで近づいてきた老人の側に躍り出ると、首の後ろに手刀を見舞った。カタールは、自分が気絶した事に、気付きもしなかった。そのままクラナは老学者を担ぎ上げ、近くの下水道へと消えた。
そして補食を済ませると、いつものように首のない死体を大通りへと放り出したのであった。
「これは……失敗だったかな」
アジトにて、クラナがカタールの記憶を吸収しながら呟いていた。カタールの記憶は、確かに有用だった。多くの発明品の知識や、卓絶した発想の過程が多く詰まっていた。しかし、それはあくまで過程。カタールの本領は、膨大な記憶よりも、その卓絶した〈発想力〉にあったのである。クラナの脳細胞は、人間の物より強化はされている。だがこのサーカスにも似た、アクロバティックな発想と柔軟な思考は、どうしても真似出来そうになかった。つまりいえば、カタールは喰うよりも、生かして使う事を考えるべき素材だったのである。
しばしクラナは思考を練った後、頭をかきながら呟く。
「なるほど。 人間には、記憶蓄積装置の他にも、思考発生装置という使い道があるんだね……」
クラナの恐ろしさの一つが、これであった。彼女は自身の失敗を素直に認める事が出来たのである。人間は下らない生物だと蔑視するだけの生物で有れば、こうも恐ろしくはなかったであろう。クラナは人間を客観的に見、論理的に使う事を考える事が出来る存在だったのだ。
しばし思考を巡らした後、クラナは再び補食計画を立て始めた。
それから半年の間に、マフィアのボスや、その道で知られる老成した人間など、合わせて六人が死んだ。その頃から、死神の噂が、アイゼンハーゲンで流れ始めたのであった。
3,実験する闇
アイゼンハーゲンの闇に生きる者は様々である。表を歩きつつも、闇に手を染める者。闇を歩きながらも、表に干渉力を持つ者。闇の中に生き、闇にしか知られない者。様々である。彼らは独自のネットワークを持っており、様々な事を知っていた。中には国家中枢部に顔見知りがいる者さえいて、莫大な金を保有している者も少なくはない。
彼らの間で、今噂が流れていた。表には流れなかったが、裏では隠然たる流れを持ち、それは日ごとに強く太くなっていった。その噂とは、死神、である。
アイゼンハーゲンでしのぎを削るマフィア、〈赤き鷹〉の一員が、路地裏の小さな酒場に入ってきた。取引相手の小男は既に待っており、僅かな会話で用件は済んだ。品物、白い粉を受け取り、質を確かめながらマフィアは言う。彼は組織の中堅的な位置にいる人員であり、有能さは組織内外で有名だった。今まで任務を落とした事はないし、落としてもフォローが出来る男だった。そういった経歴からすると、鉄の精神の持ち主かと思われるやも知れないが、実は違った。彼は恐怖の存在を知り、それとつき合う事の出来る人間だった。だから闇社会で今まで生き残る事が出来てきたのである。
「うむ、上物だ。 いつも済まないな」
「いえいえ、こちらも商売ですからな」
「……所で、死神の噂、聞いているか?」
「ええ。 なんでも又一人殺られたそうじゃないですか」
小男は声を殺し、静かに笑った。人が殺されたというのに、全く悼む様子は見られない。この街では当たり前の事であった。無精髭が生い茂った、角張った顎に笑みを浮かべて、マフィアは言った。
「まあ、俺達には関係のない話だな」
「ですな。 殺られているのはその筋の大物ばかりだって話ですし」
「……まあ、互いに気をつけるに越した事はないな」
マフィアはその後も二言三言かわすと、店を出た。荷物を特定の場所まで運搬すると、今度は正真正銘飲むために酒場へ向かう。懐は暖かくなっており、酒を飲んでから女も買うつもりだった。
その過程で、ふと下水道を覗いてしまったのが、彼の転機になった。妙な物音、それも凄く小さな音が聞こえてきたのだ。不審を感じた彼は、下水道をのぞき込む。そして次の瞬間、強大な力で引っ張り込まれていた。
下水道の冷たい石床へ押し倒された彼は、のど元に刃を突きつけられていた。途轍もない殺気が、彼の全身を蹂躙していた。恐怖のあまり声も出ない彼に、馬乗りになった小さな何かは言った。冗談のように、側では水が流れ続けていた。
「……誰?」
「た、助けてくれ、助けて……」
「三度は言わない。 誰?」
恐怖に心臓をわしづかみにされた彼は、嘘を付くのも忘れ、自分の名を言った。小さな何かは口の端をつり上げると、言った。
「それだけでは足りない。 自分が何処の何者か、自分で把握出来る限り言え」
逆らえば殺される。そう悟ったマフィアは、自分の所属する組織から、今何歳か、何の仕事をしているか、初恋の女の名前まで、思いつく限り垂れ流した。恐かったのだ。凄まじい殺気は、とても人が放つ物とは思えなかった。数々の修羅場を潜ってきた彼は、今相対している相手が如何に危険な存在か本能的に悟っていた。
やがて男は思いつく限りの全ての発言をしてしまい、涙を流しながらもうこれ以上はないと言った。その時始めて彼は、鼠や虫さえ、小さな影を避けている事に気付いた。
「よし、じゃあ命を助けてあげる。 その代わり、お前はこれから私の部下だよ。 裏切ったり、逆らったりしたら死が下る。 覚えておくんだね」
小さな影はゆっくり立ち上がり、槍を向けたまま静かにその顔を月の光にさらした。それを見て、再びマフィアは驚愕していた。光に照らされたのは、年端もいかない女の子だったのだから。だが、視線は違った。尋常な物ではなかった。目をまともに見てしまったマフィアは、膝の震えを止められなかった。
人間をそもそも物体としか見ていない、その目。闇の中を生きてきたマフィアにとっても、原初的な恐怖を喚起するに、充分な代物だった。
マフィアの名前は、ショパンと言った。彼はクラナと名乗ったあの存在に、それほど危険な任務は命じられなかった。ただ、日常の生活と、組織で行った任務について告げるだけだった。しかもそれに対して、ちゃんとした報酬が支払われた。給料の額だけで言えば、彼の所属するマフィアよりも、気前がいいほどである。また、情報を流しても、特に赤き鷹が被害を受けた様子もなく、小首を傾げながらショパンは〈仕事〉を続けた。
ショパンには、クラナの目的がさっぱり理解出来なかった。彼の他にも、同じような境遇の人間が、何人か使われている事は知っていた。だが互いに接点を持つ事は許されず、素性も分からなかった。クラナに指定される会合場所も毎回代わり、いつも人気のない場所で情報の提示を求められた。そして何度見ても、クラナは普通の女の子だった。目と、常軌を逸した戦闘能力を除けば。
情報の供給をしばし続けた後であった。クラナが、違う命令を出してきたのは。
その日の会合場所は、中流階級区の、人気が少ない袋小路だった。小さな木箱に腰掛けたクラナは、足を揺らしながら言う。ショパンは、その目を見ないようにしていた。伝わり来る恐怖が、怖気が走るなどと言うレベルではなかったからである。
「今日はいつもと違う指示がある」
「何でしょう」
「まず一つ。 以前の情報にあった、チンピラの集団を部下に取り込む。 コレについては、方法を後で提示する。 もう一つ。 私用に、長柄武器を用意する事。 報酬は用意する。 ただし、それなりの業物をね」
「はあ、構いませんが……」
「私に、いつ口答え出来るようになったの?」
小さく息を漏らして、ショパンは頭を下げ、許しを請うた。彼の本能が告げていた。逆らったら殺される、逆らったら殺される、逆らったらこれ以上もないほど無惨に殺される。クラナは次はないと言い捨てると、跪いたショパンの頭を撫でながら、その耳に口を寄せた。撫でてはいたが、その握力は凄まじい。だが、ショパンは囁かれる言葉のあまりの恐ろしさに、それを忘れていた。
ほんの五分ほどの会合で、ショパンは要点を説明され、書類を受け取った。背中の冷や汗を家で流すと、書類に目を通す。指示された任務自体はそれほど難しくはなかったのだが、問題はその後だった。マフィアの内部でも、部下が新しい組織を作る事など許可されてはいない。クラナほどではないが、赤き鷹のボスも恐い人間であった。逆らったら、殺される事はまず間違いないのだ。だが、その恐怖よりも、クラナに対する恐怖の方が勝っていた。それに、クラナは恐怖の存在では有ったが、仕事にはきちんと報酬をくれる相手でもあった。息を飲み込むと、ショパンは手紙を読み進めた。
それで、彼はますます疑問を感じた。クラナがチンピラ達に何をさせたいのか、さっぱり分からないのだ。小組織として運営する事、それだけを求めているように見える。まるで、組織を運営する、単純な実験をしているかのような……。
逆らったら殺される。インプットされた恐怖が、それ以上の思考展開を阻害した。小さく息を吐くと、ショパンは、時間を作る事を考え始めた。
「なんだあ、おっさん! 俺達の縄張りに何のようだぁ?」
チンピラの一人が、決まり切った台詞をほざいた。数は五人。スラムの一角にたまり、闇にとけ込んでいる連中。本能のまま生活する連中。かって、ショパンもこんな青年だった時期があった。
赤き鷹の一員である事を明かせば、彼らはすぐについてくる事疑いない。しかしそれは絶対にやるなと、既にクラナから指示されていた。最も、一番簡単な手段を除いたとしても、ショパンには彼らを牽引する手札が幾らでもあった。
「お前達にあいたいという方がいる」
「あぁん?」
「ついてこい」
「会いたいっていうんなら、そっちから面出すんのが筋だってんじゃねえのか?」
「いいから、ついてこい。 ……それとも、恐いのか?」
「……!」
これからどんな目に遭わされるかも知らないで、チンピラ共はついてきた。スラムを西へ移動し、最も貧しい地区へはいる。その中の、朽ちた建物へ入った。ショパンは、全員が入るのを待って、戸を閉めた。そして、目をつぶった。彼は、チンピラ共がクラナに勝つ事を、心の何処かで期待していた。無理だと分かり切っていたのに。
悲鳴と怒号が響いた。すぐに悲鳴だけになった。抵抗はすぐに止んだ。
冷や汗を流しながら、ショパンはかって自分がされた事を目の当たりにした。クラナの手で、身動き出来ないほど叩きのめされたチンピラ達は、恐怖を叩き込まれていく。耳から入った恐怖は、脳を浸し、精神を犯す。そして、従順な奴隷へと変えていった。
「アスピス」
「はっ!」
「此奴らの管理を任せるよ。 いつでも動かせるように、調教しておくようにね」
アスピスとは、ショパンの偽名だ。今までも、ショパンは目下の者達を管理した事があったが、それとは又別の困難さが加わっていた。しかし、統率の失敗は、即座に死を意味するのだ。彼の目には、焦燥と、恐怖がもたらす従順が宿っていた。
しばらく、ショパンはチンピラ達の統率に打ち込んだ。彼らはクラナの事を引き合いに出すと、すぐに従順になった。ある程度の戦い方や、道具の使い方も教えた。少しずつ形になっていく彼らを見ながら、ショパンは幾つかの武器屋をあたり、何本かの槍とハルバードを揃えた。いずれも武器屋が業物だと自慢する逸品であった。
ショパンは、クラナとのつきあい方を少しずつ覚え始めていた。逆らうと殺されるが、意見すれば認められるのだ。少なくとも、意見を聞かないような事はしない。そして、クラナの命令自体も、それほど無謀な物ばかりではない。逆らう事は不可能だが、主君としてはさほど酷くはなかった。クラナより酷い主君など、掃いて捨てるほどいる。貴族などは、九割方がそれに分類される事疑いない。
武器を届けに行くと、クラナは片手で長柄武器を振り回し、満足したように頷いた。
「なるほど、いい武器だね」
「お気に召しましたでしょうか」
「うん。 結構な武器だ。 渡して置いた金のうち、あまった分は自由に使って良いよ」
「有り難き幸せにございます」
嘆息してショパンは下がろうとしたが、珍しくクラナがそれを引き留めた。クラナは恐ろしく頭が切れる。いつも返答は必ず用意していて、結果によって即座に次の手を指示してきた。思いつきで行動するような事はほとんど無く、少なくともショパンは見た事がなかった。逆に言うと、今日、始めて見た。
「ショパン」
「はい」
「良くやった。 もう少し、出世させてあげる」
嫌な予感を覚えたショパンは、だが何も言わず、頭を下げて引き下がった。赤き鷹の首領が、首から上を失い、路上に放り出されていたのは、翌日の事であった。
ショパンは必然的に、組織の上位に上がった。そして、ますますクラナには逆らえなくなった。ボスを殺したのがクラナである事は明らかだった。その証拠に、ボスでしか知り得ない事を、幾らでも知っていたからである。そしてそれを使って、組織内での地位を固めるようにも指示してきた。ショパンはかって出世したいと考えていた。その希望は、思いもせぬ形で、強制的にかなえられたのである。そう、かなえたのではない。かなえられたのだ。
強烈な恐怖と罪悪感が、ショパンの全身を包んでいた。逆らったら殺される、逃げても殺される、従うしかない。
……ショパンは、クラナの最も忠実な奴隷となった。
4,戦の道への第一歩
不意にクラナが地下闘技場へ行きたいと言い出したのは、彼女がアイゼンハイムスに来てから、一年も経った頃であった。
この一年、クラナは地道な肉体強化、食事と並行して、色々な人間の操作法を研究していた。ショパンにしたように、恐怖で支配する方法ももちろんであるが、他何人かにも様々な手法を試していた。恐怖で操作出来る人間は、恐怖で縛るのが一番効率がよい。義によって支配出来る人間は、義理を果たし続ければよい。何人かを処分しつつも、既にクラナの元には、数名の忠実な部下が揃っていた。そのうちショパンには、赤き鷹の運営を一手に任せていた。ライレンと言う名の執事は、貴族に関する情報を得るために使っていた。彼の幼い娘が、チンピラに拐かされそうになったのを助け、以降も生活援助をしているのである。彼のもたらす情報は密度が濃く、貴族が何を考えているか、どんな連中なのか、手に取るように知る事が出来た。コルトスと言う部下もいた。この男は単純な力の信奉者で、クラナの圧倒的な力を見て心服した。わかりやすい精神の持ち主で、適当に女をあてがうだけで、謀反を起こそうと考えもしなかった。それらをするための資金は、貴族の家などから盗んで集めていた。貴族の家には、庶民が考えられないほどの金品が無造作に転がっていたのである。ただ、流石にリスクが大きいので、現在は赤き鷹からある程度の利潤を吸い上げる事で資金面を補っていた。
ショパンには、恐怖統治方式での、小組織運営を命じた。結果は非常に上手くいった。恐怖を知る人間には、やはり恐怖による統治が上手くいくと、クラナは学習した。一方で、そればかりでは、やはり効率が悪い。最終的には、〈善政〉と呼ばれるシステムを構築し、それによって雲の上から統治するのが一番効率がよい。まあ、それは最終的なビジョンとして、今は力の使い方に習熟する必要があった。ある程度力の充実は行えたので、今度は肉体レベルでの習熟法である。それも単純な強さではなく、見栄えのする強さの。それの、ミクロ的概念ではなく、マクロ的概念の理解。
そう、クラナは、戦場に出る事を考えていたのだ。
最初クラナが闘技場に出ると言った時、ショパンは難色を示した。何度かクラナが暗殺を行った結果、彼はもう赤き鷹の総帥になっていた。ボス達が握っていた情報を、クラナを介して握っていた彼は、必然的に、ボスの座に滑り込んだのだ。正確には、背中を押されて滑り込まされたのだが。ここの所、すっかりショパンは、クラナに逆らわずに意見をする術を覚えていた。この辺りの学習能力の高さは、クラナとしても、道具として好ましいと考える所だった。
ショパンは、闘技場の控え室で言った。闘技場に手を回し、クラナが出場する機会を作ったのは無論彼だ。クラナは髪を後ろで束ね、マスクを被りながら答える。マスクは鉄仮面に近く、顔を全て隠す作りになっている。
「危険ではないでしょうか」
「危険? それは承知の上だけど?」
「はい」
「まあ、いいでしょ。 目的はね、見栄えのいい戦い方を身につける事だよ」
下着の上から、既に鎖帷子を身につけているクラナは、闘技場で支給されている軽鎧を着、武器を手に取る。
「今、この大陸で必要とされている人材がいる。 なんだと思う?」
「さあ、私などには皆目見当がつきません」
「もう少し、視野を広げるんだね。 この乱れきった、腐りきった大陸で、誰もが望んでいる人材など、決まっているじゃないか」
おべっか使いや、ごますりなどが通用しないと、ショパンは知っている。だから、余計な手間を省く事が出来て望ましい。ショパンより若干能力が劣り、おべっかだけで相手の機嫌を取ろうという部下もいたが、それはもう処分してしまった。補食する気にもならなかった。
「統一と、それによる平和をもたらしてくれる、英雄だよ」
凄絶な恐怖が、ショパンの顔に宿るのを、クラナは見逃さなかった。そう、この男には恐怖を与えておけばよいのだ。後は適度にそれを管理していけばよい。暴発せぬよう、侮らぬよう。そしてその方法を、もうクラナは完璧に使いこなせるようになっていた。
闘技場での戦い方などは、既に何度か足を運び、視覚的な学習を終えた。しかし、視覚による学習と、実戦での戦いは、やはり大きな差異を持つ。見ただけで何でも出来るほど、クラナは万能ではないのである。実際問題、見ただけで何でも出来るなら、一張羅を作る時、何度も針を指に刺したりしない。カタールを喰って、後で後悔するような事もない。クラナは総合的な能力で人間より優れてはいたが、万能などでは到底無いのだ。
「紳士淑女の皆様方ぁ〜! 本日の前座試合を、これから始めたいと思いまぁ〜す!」
軽薄なナレーションと共に、クラナと、対戦相手が闘技場の真ん中へと進み出る。クラナの相手は、身長にて一倍半、重さが二〜三倍はありそうな大男であった。しかも、仰々しいハルバードを手にしている。ハルバードは一言で説明すると、槍と斧を組み合わせた形状の武器で、長柄武器としてはかなり人気がある代物である。使い勝手が良いため、馬上の騎士が用いる事も、分厚い鎧に身を固めた兵士が用いる事もある。クラナが手にしているのは、それより若干サイズが落ちる槍だ。細さも長さも、それに重さと破壊力も、少し相手の得物に劣る。その代わり、幾分か小回りが利く。
倍率が告げられて、クラナは苦笑していた。百倍近い倍率がついていたのである。まあ、無理もない話であった。人間は九割方、見かけで相手を決めつけるからである。それにしても、今日は赤き鷹にとって、正しくかきいれ時であった。
客のぎらぎらした目は、以前皆殺しにしたフェステ村の連中の物と、全く同じだった。殺戮と血に期待し、酔っているのだ。田舎だろうと都会だろうと、人間の本質に代わりはない。それを良く示す事象である。
ルールは無制限一本勝負。負けを認めるか、死んだら負け。何をやっても認められる、文字通りのデスマッチである。血と死を、客達の全てが望んでいるのだ。そしてそれは、クラナの対戦相手の、速やかなる敗北を意味していた。客達の興奮した、血に飢えた息づかいが、クラナの所まで届くかのようだった。
「始めぇえええっ!」
「るぐあああああああああっ!」
雄叫びを上げて、対戦相手が突貫してきた。この男の名前はベズレムとか言うそうであるが、クラナにはどうでも良い事である。大男は、斜め上から、振りかぶったハルバードを叩き付けてきた。軽くバックステップして、クラナは一撃をかわす。乾いた土を、激しくハルバードの刃が叩いた。そのまま、首を狩り落とすように、ハルバードが斜め下から襲いかかってきた。身を沈め、紙一重でそれをかわしてみせると、観客席から歓声が上がった。ハルバードとの戦いは始めてであったから、クラナは慎重に間合いを取りながら戦う。まして相手は、パワーだけなら決して侮れないレベルに達しているのだ。油断すれば、負ける可能性は大いにあった。まして此処では、人間離れしたパワーやスピードを振るっての戦いは出来ないのだ。
「情けねえぞ、ベズレム! さっさと叩き殺せ!」
「ぐおおおおおおおおっ!」
頭上で水車の如くハルバードを振り回すベズレム。スタミナ面も、なかなかに侮れない相手である。間合いに入りづらい相手にクラナは舌打ちしながら、嵐の如く繰り出される攻撃を捌いていった。しばし激しい攻撃を捌きながら、クラナは敵を観察し、好機を待つ。
吠えたベズレムが、大上段からの一撃を振り下ろしてきた。クラナは槍を旋回させ、ハルバードの柄を横から押すようにして弾く。次の瞬間、巨体を振るって、ベズレムが当て身を浴びせてきた。クラナは冷静に、打撃を逃がすように一歩飛び去ったが、対応しきれはしなかった。そのまま猛烈なタックルを浴び、地面に叩き付けられる。そして数回転した後、多少ふらつきつつも立ち上がって見せた。この男、案外に大した使い手である。少なくともパワーは、ヌピスより上だった。本気を出す事を、クラナは決めた。
「とどめだああああああっ!」
わめきながらつっこんでくるベズレム。斜め上から繰り出される攻撃の、中へ滑り込むような形で、クラナは前進していた。そして人間に可能な限界速度を保って、ベズレムの斜め後ろに回り込んだ。観客席の連中は息をのみ、舌なめずりしたクラナは、対戦相手の右膝を槍の柄で後ろから強打した。鍛えようがない関節への一撃に、ベズレムは蹌踉めき、絶叫した。
「ぶぎゃあああああああっ!」
「へえ、良い悲鳴だね」
此処ですぐに倒しては行けないのが難しい所である。わざわざ相手が立つまで待ち、振り返った所で挑発してみせる。観客席の興奮は更にヒートアップし、意味不明のわめき声を上げながら、ベズレムは突進してきた。この時点で、ようやくクラナは敵の能力を大体把握する事が出来た。突撃してきた所を、身を低くしてかわし、更におちょくる。何度も突進を避け、或いは避けきれないふりをして、時々は弾かれてみせる。客席から上がる歓声は、クラナの頭をハルバードが砕く瞬間を期待する物だが、それをあざ笑うように、立ち上がってみせる。最初のタックルはかなり効いたが、スピードや保有するパワー、それに動きの癖が分かった今では、充分に受け流せる。再び繰り出される嵐のような攻撃に対処しながら、少しずつ右膝に攻撃を集中していく。やがて機を見て突進をかわし、そのまま右膝を強烈に横から蹴り砕く。ベズレムは振り向こうとして失敗、悲鳴を上げながら地面に崩れた。本当は今の一撃で砕いたのだが、観客席からは、充分、蓄積したダメージに絶えきれなくなったように見えたはずである。ひいひいとわめきながら、ベズレムは降伏を宣言した。クラナは舌打ちした。数度槍を回転させると、肩に乗せ掛け、首の後ろを叩きながら、心底忌々しげに言った。
「ちっ……これでもかかってくるようなら、喉を一突きにしてやったのにね」
「お、おめえ、なにもんだ……」
「さあ?」
からからと笑うと、クラナは控え室に戻っていった。うなだれるベズレムに、一度だけ振り返ると、クラナは口中で呟いた。
「此奴でも、人間で最強というわけではない。 やはりスキルの力は大きいね……」
「クラナ様、見事な戦いぶりでした」
控え室で待っていたショパンに、鷹揚に頷くと、クラナはここ一年で強化した肉体がまだまだ未完成である事、今後更に強化が必要である事を再確認していた。支給された革手袋を外すと、掌の皮がかなり剥けていた。これは最初のタックルを貰った際、受け身を取った時に出来た傷である。また、全身の筋肉にも、何カ所か大きなダメージがあった。体力に関しても、大分ついてはきたが、もう一戦行えといわれても無理である。体力をあまり多く蓄えられないのは、この肉体の欠陥であった。次は、更に効率よく戦わねばならなかった。
「もう何回か、時間をおいて別の相手と戦いたい」
クラナのそれは、希望ではない。命令である。逆らえば死が待っている。ショパンは頷くと、すぐに具体的な計画を立て始めた。それを横目で見、鎧を脱ぎながら、クラナは更に続けた。
「この闘技場で、一番強い奴は?」
「トップの闘士ならば、おそらくインタールと言う男です。 人気はありませんが、実力に関してはピカイチかと。 この街の裏闘技場のレベルは、大陸随一ですから、此奴の戦闘能力に関して期待してよろしいかと」
此処で一番人気の男を示してくるような輩なら、もうクラナは補食している。〈思考発生装置〉としての価値を見いだしているから、まだ道具として使役しているのだ。満足して頷き、クラナはこの男をまだ利用する事を決めた。
「ならば、何度かの戦いの後、その男との戦いをしたいね」
「手配します」
「……なあ、ショパン」
右肩上がりの成長を続ける闇の獣が、ずる剥けた掌の皮を舐めながら言う。血の味に、痺れるような痛みが実に心地よかった。細胞の再生のために、今日はそれなりの分量、肉を食べねばならない。
「私は更に、上へ行く」
「……」
「お前も、引きずり上げてあげる。 更に上へね……」
ゆっくり視線を向けると、ショパンは平静を装いつつも、限りない恐怖を目の奥に湛えていた。これでいい。恐怖は力と未知によって産み出される。クラナの存在が、遙かにショパンを凌いでいる事を示し続ける、それだけでこの男に対する支配は完成する。実に安上がりな話であった。
「それと、この槍、少し使いづらいな。 カスタマイズした奴を持ち込む事は可能?」
「闘技場のルールでは、不可能になっております。 武器によってハンデをつける事もありますので」
「そうか、ならいい」
それ以上何も言わず、クラナは闘技場を出ていった。恐怖に全身を鷲づかみにされた、哀れなショパンを残して。
王都フオルで、トステーヤ伯爵が、膨大な資料の前で腕組みをしていた。以前謎の壊滅を遂げた〈パラサイト・プロジェクト〉研究所の周辺調査をしていた結果、奇妙な事が分かってきたのである。
壊滅の経緯は結局分からなかったが、幾つかの事例は判明した。まず第一に、壊滅のしばし前に、何かが研究所で暴れた事。恐らくそれが原因で、研究対象が全員処分された事。そして何者かによって、その後研究所が潰された事。そしてその何者かは、一人である事。
以上から考えると、研究所で作られた強化生物兵器か、もしくは途轍もない凄腕の手によって研究所が潰されたと推測出来る。しかも残されていた遺体は、非常に下手な技量の、だが途轍もない力で、槍で一突きにされていた。という事は、後者の線は消えてくる。途轍もない怪物が野に放たれた、そういう推測が、自然に成り立ってくるのである。
しかし現時点で、その怪物によるさしたる被害は報告されていない。もしこの怪物が、一日一人の人間を喰う、程度の危険度で有れば、国家的に大した危険はない。だが一日に数が倍に増えて、なおかつ一人の人間を喰う、という程度の危険度を有していたら、大陸そのものが危ない。しかし、どうもその線は薄いと言える。
もしこの怪物が、ある程度の知能を持っていたら、共存の可能性が産まれてくる。いや、持っている事は疑いない。口封じのために、研究所の人間を皆殺しにして、しかも放火したのである。無論同盟と言うよりも利用という形になるが、それは異生物である以上仕方がない事だ。手を叩いて部下を呼ぶと、すぐに彼は現れた。
「誰か、これへ」
「はっ」
「このプロジェクトに関わった奴隷商人を当たれ。 後、各都市に、監視の目を広げろ」
無言で頷き、部下は夜闇へ消えた。
現在この大陸に、英雄が必要な事。それはトステーヤも、嫌と言うほど分かっていた。そして自らの主君が、英雄になるには全てにおいて足りない事もである。だが彼は、それでも主君を英雄にしたかった。寒門出身である彼を信頼し、過分な権限を与えてくれた、恩人に報いたかったのである。
……英雄を望む者は、混乱末期のこの大陸に多くいた。クラナがそうであり、トステーヤがそうであった。他にも、志有る者、野望有る者、多くが英雄足らんと欲していた。だが彼らが、等しく知っている真理もあった。
それは、すなわち。
両雄、並び立たず、である。
(続)
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