ヒトノチカラ

 

序、フェステ村

 

クランツ大陸中央部にあるルクトー山脈は、かって二つの大陸がプレート運動によって衝突した際に出来た物であり、天険にて大陸南部を東西に切り分けている。山脈は大陸中南部ほどで二つの小山脈に別れ、北北東に延びる方をカンデルス山脈、北西へ延びる方をクスクラスト山脈と言う。二つの山脈の間には広大で肥沃な平原が広がり、バストストア王国を支える穀倉地帯の一つとなっているのだ。

二つの山脈のうちカンデルス山脈、特に北部は、大陸を二分する強国であるバストストア王国とアイネスト帝国の国境に位置し、両軍が幾つかの戦略拠点を要してにらみ合う最前線地帯である。もし此処を抜かれると、王国は肥沃な大地と広大な平原を明け渡す事になり、一気に国力を低下させてしまう事になる。そのため戦いは幾度と無く繰り返され、その尽くが凄惨な物となっていた。戦史家に、同地で行われた主要な会戦を訪ねれば、大規模なだけでも十以上は確実に上げてくれる事が疑いない。

一部は〈丘陵〉と言ってしまって良いほどになだらかな北部に比べ、カンデルス山脈南部には比較的切り立った山が多く、山麓には多くの村が点在している。いずれもあまり豊かではなく、戦争によって蹂躙される事も多い。飢饉が起こればほぼ確実に人減らしが行われるし、いわゆる姥捨ての風習も根強く残っている。また、この辺りは王国の主要民族であるシャイルン人と、王国辺境から帝国にかけて多くが住んでいるクシャール人の勢力境界で、憎しみ合う二つの民族が、国家概念を超えて噛み合う場所でもあった。要は火種を多く抱えた、典型的な紛争地帯と考えて間違いがない。そういうわけで、国境の存在は非常に曖昧であり、常に変動する一種の生き物だった。しかもこの生き物は、人血を好物としているのである。無論、此処を強行突破しようとした王国、帝国の軍によって、大会戦が行われる事もしばしばであった。その上、根本的な治安が悪いため、古代文明時代の負の遺産である〈怪物〉が出現する事も多く、此処で生き抜くのはかなり難しい事であった。だから、この辺りの住民は皆強かだった。村ぐるみで山賊を行う村や、追いはぎを行う村、人身売買を生業にしている村さえ実在した。そうしなければ、そもそも生きては行けないからである。過酷な徴税、自然の脅威、不安な治世。これらから身を守るには、強かに世間を渡る力を身につけるしかないのだ。これこそまさしく、きれい事が恵まれた強者の専売特許だと、よく分かる事例であろう。

そんな南部カンデルス山脈に存在する村の一つに、フェステと呼ばれる物があった。戸数二十、その全てがシャイルン人でしめられる小村落で、牧畜と畑作が主要産業である。特に古い歴史を持つ訳でもなく、典型的な村社会を形成し、典型的に閉鎖的なこの村は、決して長くない歴史を今終えようとしていた。

自らが生み出した、闇の獣によって。

このフェステこそ、クラナの産まれた村であり、両親に奴隷として売り飛ばされる事になった土地であった。

 

こんな環境下で生きてきたというのに、かってのクラナは優しさと、人の命を大事に思う心を手に入れる事が出来た。それは奇跡に等しい事だった。だがそれも、結局は闇の扉をこじ開ける事にしかならなかった。

人の業は、果てしなく深い。そしてクラナを責める資格がある人間など、何処にいるというのだろうか。いや、何処にもいはしないだろう。

奴隷として売り飛ばされ、生体実験の材料にされ、最強の闇の獣となったクラナ。彼女は今、別に考える事があるでもなく、故郷へと向かっていた。皮肉な話であるが、それは彼女が歴史に干渉する決意をする、最初の事件を引き起こす事になるのである。そして、それがクランツ大陸の歴史自体を大きく動かしていく事になる。

事実は神話よりも奇怪である。アイネスト帝国に古くから伝わる言葉は、その正しさを、事実によって証明していた。

 

1,帰還者の道程

 

クラナは、自分が治安の最も悪い地域を歩いている事を良く知っていた。逆に言うと、だからこそ都合が良かったとも言える。カンデルス山脈南部地域。山賊や追いはぎが多数住み着いており、道から外れれば猛獣よりも彼らによって命を落とす事が多い。そんな場所であるからこそ、クラナには丁度良かった。何しろ歩いているだけで、馬鹿な獲物が食いついてきてくれるのである。今、クラナは学習のために獲物や物品を欲しており、それにはこういう場所を歩くのが一番良かったのだ。

山脈に入って、既に七日目。六回山賊や人さらいに襲われ、その尽くを返り討ちにし、計十五人を殺した。所持品の中から使えそうな物を奪いつつ、クラナは北へ向かっていた。今の所持品は、槍が二本にナイフが六本。金が少々と、正体が知れない干し肉が幾らか。そして、ある程度見るに耐える衣服。それに毛皮を縫い合わせて作った無骨な防寒具。少し寒い地域であるし、季節は晩秋。殆ど手入れしていない毛皮を着込むと、石器時代の住人のような姿になった。だが一方で、お洒落な格好でもあったので、クラナはそれに満足していた。

しかし自分に合う靴は無かった。そのため、今皆殺しにした連中のアジトを探って、所持品を調べていたのである。研究所を後にして以来、クラナはずっと裸足だった。山の中であったし、絶対必要な物ではなかったのだが、足を洗うのが面倒くさくなっていたのだ。それに、今は大丈夫であっても、冬になると流石に靴は必要になってくる。彼女の細胞は人間の物より強靱だが、やはり脆弱な人間の物をベースにしているだけあって、結局の所どうと言う事はないのである。少なくとも、一人で数万の軍勢を撃破するような真似は不可能だ。怪物に襲われた場合も、油断すれば負ける可能性が高い。

がらくた同然の品物を探りながら、クラナは呟いた。傍らに突き刺してある槍は、血によって真っ赤に染まっていた。その血も、既に乾きつつあった。もうクラナは、殺した連中の声も意識の其処へ沈めてしまっていた。悲鳴もである。思い出す事は容易だが、その必要も無かったからである。

「サイズが合わないな……」

忌々しげに少し小さな靴を握りつぶすと、放り捨てる。最近は力の使い方に慣れてきていて、武装した相手にも危なげなく戦えるようになっていた。ただ、それにも限界がある。今回も六人の敵を相手にしたのだが、最後の一匹を倒す際、矢を左腕に貰ってしまっていた。今は修復のために左腕を使えず、時々材料補給用に仕留めた鳥の肉を口に運びながら、靴を探していた。

このアジトはそこそこに充実した物資があった。身を隠すにも良く、近くには川もあり、数人の大人が充分に暮らしていけるだけの条件が揃っている。靴探しを一度放棄すると、クラナは周囲を調べて回った。

 

周囲には丈の高い木が生い茂り、木の実がある程度豊富にあった。好物であるフラットナーを始め、灰汁を抜くと美味しく食べる事が出来るパフラの実、すりつぶすと他の食品の甘みを引き出すコーエルの種、その他充分な物資があった。動物も豊富に生息している。齧歯類や爬虫類、鳥類や陸上性中型甲殻類もいた。木の幹を鈍重に登る甲殻類を掴むと、そのまま強固な殻を握りつぶし、クラナは舌なめずりした。

「これはいい。 充分に暮らしていける」

まだ動いている甲殻類を口に運んで、そのままかみ砕く。殻ごと、粉々に噛みつぶし、瑞々しい体液を啜る。やがて甲殻類を全て丸ごと食べ尽くしてしまうと、美味しい汁がついた手を舐めながら、クラナは川へ視線を移した。

川はそこそこの幅があり、深さも丁度良かった。浅瀬に視線をやると、そこそこに太った魚が群れを為して泳いでいる。水は冷たく、安易に浸かると急速に体温が失われる可能性がある。体温維持のためのエネルギーは大分押さえられるように、細胞は既に調整されている。だが蓄える事が出来るエネルギーに限界があり、しかもそれがかなり少な目である以上、出来るだけ浸かるのは避けた方が無難であった。

動物などの生息状況を調べた後は、辺りの地形を調べて回った。これは予想以上に素晴らしく、多少手を入れるだけで要塞と化す事が可能であった。

ただ、問題が一つある。此処にとどまって一人でやっていくと、辺りの人間に常軌を逸した強さが伝わりやすいと言う事だ。そうすれば、あまり生きて行くには好ましくなくなる。もしクラナが悪魔だとか怪物だとか、その手の噂が流されたら致命的である。幾ら現在のクラナでも、訓練され高度な装備を持つ軍勢が攻め寄せたら、どうする事も出来ないのだ。

しばし様々に考えを練った後、クラナは長期的なビジョンを組む事にした。具体的なビジョンの内容はまだ未定であるが、今後生きて行くにあたって、それは必要不可欠であるからだ。取り急ぎ組む必要はないが、それでもあまりのんびりしている時間はなかった。

「此処は確保しておくとして、やはり一度村に戻ってみようかな……」

綺麗な水で手を洗い、顔を洗いながら、クラナはそう呟いた。ツインテールに結んでいる髪の先から、水がしたたり落ちていた。

 

周囲を全て確認すると、クラナは穴を掘って死体を埋めた。その上に、栄養価の高い果実をつける木を植える。勿論、此処を長期的に使うための措置であった。

それが済むと、盗賊達が使っていた家を調べて、可能な限り修繕していった。後は侵入者があった時のために、要所要所に簡単なトラップを仕掛ける。全部にトラップを仕掛け終えた頃には、左腕の握力は回復し、腕力自体もほぼ復活していた。病み上がりだから無理は禁物だが、これでとりあえずの戦闘能力は戻った事になる。

一息つくと、クラナは先ほど握りつぶした靴を引きちぎって、パーツごとに分解した。靴の構造や、構築技術を知るためである。残念ながら、靴の細かい作り方などという物は、今まで食べた三人の人間の知識には無く、新たに仕入れなければならなかった。靴屋を喰えば手にはいるのは確実だが、わざわざ其処までする必要もない。今はある程度の時間があるのだし、作り方を自分で覚えた方が都合がよいのである。そして今のクラナは、それが充分可能な能力を身につけていた。

靴は分解してみると、案外にパーツが多かった。しかし、構築概念や、パーツの持つ意味自体は理解出来た。しばらく作るための戦略をあれこれ練ると、やがてクラナは作業に取りかかった。

靴自体は頑丈な布と皮で創られている。まず適当な大きさにナイフで刻んで調整した底板にアーチを掛けた後、それを土台に形を作っていく。縫うには案外力が必要であったが、問題なのは手加減の方だった。少し気を抜くと、簡単に針が曲がってしまうのである。

元々あった材料を利用しての作業であったが、途中で失敗を二度ほどしたせいで、ネタが足りなくなった。仕方がないので、他に放って置いた靴を持ってきて解体し、それも材料にした。どういう風に糸が通り、どういう風に力がかかっているか。それも全て知っての上とはいえ、すぐに完成とは行かなかった。何度か舌打ちしながら、クラナはようやく右を縫い上げ、履いてみた。大きさは充分だったが、今後体を拡張していくと、一年もしないうちに履けなくなるのは明白であった。一旦脱いで、踵を少し調整すると、今度は左に取りかかった。要領は分かっているとはいえ、細かい調子をしながらの作業は難儀であり、完成した頃には一昼夜が過ぎていた。

ようやく完成した多少不格好な靴は、クラナの足にぴったりではあったが、同時に脆弱だった。特に強敵と戦う際に、何度も踏み込めば必ず壊れる。しばし辺りを歩き回って、履き心地を確かめた後に、クラナは小さく嘆息した。

「歩くのにしか使えないね。 結局、もっといい材料を使わないと駄目かな」

妙な話であるが、この靴にクラナは愛着を覚え始めていた。村で暮らしていた頃は、襤褸同然のサンダルを履く事が多かったが、それは奴隷として連れて行かれる途中に失ってしまった。冬場は寒くて、何ども工夫を凝らそうとしたが、どうしても上手くいかなかった。今は多少苦労するだけで、冬場もさほど寒くない靴が作れてしまうのである。雪でも降り出したら、この上から布を巻き付ければ良いだけの事だし、幾らでも応用は利いた。

奪った物だとか、奪った物から作ったとか、そんな感覚はすでにない。人間は別に特別な存在でも何でもないし、ある意味環境物の一つに過ぎないからである。正義ではないが、同時に悪でもない。強いて言うなら人外。人間の基準で言えば闇。それが今のクラナであった。

それから数日、クラナはこの辺りをいざというときの避難所にするべく、無数のトラップをえげつなく仕掛けていった。今まで喰った中で、フンエル博士が興味本位で読んだ蔵書の中に、トラップの作り方があったのである。動作検証をして、実用に耐える物だけを選別し、辺りに仕掛けていく。留守を守るガーディアンが欲しい所だが、それは望みすぎという物であろう。力が付いてきてから、その辺の怪物でも猛獣でも或いは盗賊団でも適当に力尽くで従えればよい事である。

ある程度の実力がないと、入ったら死ぬだけ。更に、彼方此方に適当な警告も仕掛けた。そんな危険地帯を構築し終えると、住み込める家を整備して、クラナは再びフェステ村へ足を進めた。

 

盗賊達から強奪した方位磁針が役に立ち、クラナの旅路は大分楽にはなった。歩くのに、苦労して作った靴が飛躍的な活躍をしたわけではない。だが、自分で作った物に身を固めている事は、多少クラナを落ち着かせる要因となった。不思議な事であるが、こういった点では、クラナにも人間性と呼べる物が残っていたのである。

奴隷商人に連れて行かれた際に、他の奴隷達とクラナは馬車に乗せられていたから、どうしても磁石の類は必要だった。後は、フェステ村での生活の記憶から、太陽の動きや山の位置などを分析、ある程度の位置特定が可能だった。三人分の記憶は、こうして考えてみると、結構役に立つ。フンエルの記憶は専門的すぎるし、残り二匹の物は本能的すぎるが、組み合わせてみるとそれなりに使い物にはなった。それに、そろそろ記憶の整理と扱いにも慣れてきた頃である。もう二三人、道すがらにつまみ食いしても良かったのだが、適当な獲物が見つからなかった。

記憶の吸収は、確かに新たな力ももたらす。だがそれには、やはりそれなりに経験を積み、成長した記憶が好ましい。子供の記憶など論外だ。今欲しいのは、熟練した戦士か、ある程度経験を積んだ一般人。雑魚や、偏りすぎて汎用性に欠ける者では、もう物足りない。そこそこまともに戦える使い手。それに、豊富な経験と知識を持つ老巧。取り急ぎ必要なのはその両者であり、それらが持つ知識だった。人間が覚える食欲とは無論違う物だが、クラナは今、そういった獲物を渇望し、食べたいと思っていた。生存のために栄養をとる、そのために食欲は存在している。である以上、クラナが感じたそれも、紛れもなく食欲の一種なのである。

一週間北上し、途中で十三人を殺したが、目的に合致した獲物はいなかった。途中で盗賊の親玉を一人食べたのだが、以前食べた連中と殆ど大差ない知識しかなかったので、すぐに意識下に精神支配の鎖付きで沈めてしまった。戦闘経験もどうという事が無く、ただ弓矢の使い方だけはそこそこ習熟していたので、それだけは有り難く頂戴した。また、細かい部分の記憶に関しても、他の連中の所有物と組み合わせれば、そこそこ使い物にはなった。盗賊共が所有している道具には有益な物が多かった。特に弓矢は、クラナにとって大いに素晴らしい獲得物となった。

それにしてもこの盗賊の親玉の記憶は、今まで食べた四人の中でも、もっとも刹那的だった。一種動物的であり、本能のままに行動し、暴れ回る。例えば、クラナが何も考えずに行動したらこうなるだろうか。何度も討伐隊に追いかけられ、その度に部下を見捨て、身一つで逃げ延びる。そして誰も知らない土地で再起して、その場暮らしを送る。生に関する執念に関しては、クラナも大きな共感を覚えた。ただ、共感を覚えた部分はそれだけであったが。他は見るべき所もなかったし、能力的にも経験的にもたいしたことはなかった。一応軍人になった経験も持ち合わせていたが、槍を合わせる前に敵前逃亡してしまっていた。ただ、これはある意味、機を見るに敏と言えない事もないが。

記憶や意識を整理しつつ、建設的に人に関わる事もなく、クラナは目的地に着いた。フェステ村は相変わらず貧しく侘びしい小さな姿を、秋空の下さらしていた。別に感動するでもなく、家に帰ってきたと思うでもなく。単に目的を達成したと、クラナは思った。

 

2,幼なじみ

 

丘の上から、クラナは生家を見つけた。藁葺きの小さな家で、クラナが売られた時点では、兄と弟が一人ずついた。一番上の姉は既に売られており、クラナの妹は六歳の時に事故死した。ただ、これに関して、クラナは真相を疑っている。当時は食べるものにも事欠いていたから、十中八九口減らしに殺されたのであろうと。子供は死んでも新しく産めばよいと言うのは、寒村での平均的な考え方である。クラナは、優しい心を持っていたうちから、そういった現実も良く知っていた。付け加えるならば、当時は目を背けもしていたが、現在はその必要も理由もなかった。

クラナは十一歳の時に売り飛ばされ、一度死んだ。そしてクヌムと融合する事で、新しく生まれ変わった。今のクラナにとっては、自分の元の年齢などどうでも良い事だった。ただ、体が小さすぎるので、今後数年を掛けて大きくしていかなければならないのが面倒ではあったが。まあ、現在に比べて手足が伸びれば、限界の上限も増す。そうなれば長期的には有利なのだから、結局は時間を掛けて体の大きさを調整するしかない。面倒で、かつ難儀な話ではあった。

槍を森の中に隠すと、家に向けて歩き出す。途中ですれ違った村人が、驚きの目をクラナに向けた。家の前に立つと、中からは埃と黴の臭いがした。これもそれも、全てが昔と変わりなかった。戸板を叩くと、中から苛立った声がした。母親の物だった。

「誰だい? 用事があるなら早く言いな!」

「私」

露骨に中の声が動揺した。目を細めて、クラナは苦笑していた。慌ただしく戸が開けられ、血統上の母親が姿を見せる。奥には一番下の弟が、指をくわえながらクラナの方を見ていた。

「……ど、どうして」

「帰ってきた。 それだけ」

「あ、あんたの居場所なんて、もう此処には無いよ……」

「そう。 じゃあ良い」

ついと顔を向けると、クラナはさっさと家を後にした。母親はその後を追うでもなく、戸を閉めると慌ただしく鍵を掛けた。

村の周囲は、以前と同じ構造であり、歩き回るには別に申し分なかった。途中で村人と何度かすれ違ったが、いずれもが彼女を見て動揺するか、無視した。クラナも無視したから、おあいこであったが。

一度丘の上に戻ると、続いてクラナは村の周囲を重点的に見回った。さほど豊かではない森には、村人が入りたがらない場所が何カ所もある。暮らすには適当な洞窟もある。しばしそれらを点検した後、一人彼女は呟いていた。

「当面の住処を確保しないといけないかな……」

「クラナー!」

無言で顔を上げた闇の獣の視界に入ったのは、ごく普通の少年の姿。クラナの幼なじみで、向かい隣に住んでいるロドリーだった。ロドリーは優しげな瞳と柔らかな赤毛が特徴の、暖かい雰囲気の少年である。背は若干低めで、運動神経は並、だが粘り強く、行動力には定評がある。年はクラナより二歳上で、両親がクラナの婿にと考えていた節がある。こういった寒村では、親が子供の結婚相手を決めるのは、当たり前の事だ。別にそれは王侯貴族や名家に限った事ではない。恋愛結婚などというものは、物質的に豊かな世界の、地位も立場も中途半端な人間にのみ許される特権なのである。

ロドリーは無言のクラナに走り寄ると、多少困惑しながら言う。視線や表情から、印象ががらりと変わっているのだから、無理もない話ではある。

「ど、どうやって帰ってきたんだ?」

「さあ?」

「え? ……あ、あの。 兎に角、無事で良かった。 心配したよ」

「そう」

クラナは、この少年の事をあまり好いていなかった。以前は何かと頼もしくて、それなりに好きだった記憶はある。最大の要因は、少年の月並みな台詞が、女の子には嬉しいものだったからである。

『何かあったら、僕が君を守る』

そんなわけで、この少年の妻になる事も含め、昔のクラナは未来を悲観していなかった。家族との仲は決して良くなかったが、ある程度の精神的はけ口がそれによって産まれていた。それが、優しい心を維持する要因ともなっていたのである。

翻って。現在のクラナは、ロドリーの事をその辺の小石程度にしか思っていない。少年の能力はもう底が知れているし、口先だけだという事も分かっている。心配だけなら猿にでも出来るのだ。こんな小さな村の事である、クラナが売られる事など誰でも知っている黙認事項だった。その気になればさっさとクラナを連れて逃げるなり出来たはずなのに、少年にはそれが出来なかった。また、客観的に状況を分析すれば、今までのこの少年に対する想いとやらの主体性の無さや、少年がクラナに向ける愛とやらの正体が性的な下心である事など一目瞭然だった。そんな冷酷なクラナの分析や視線に気づくはずもなく、少年は頭を下げた。

「クラナ、ごめん。 僕、何も出来なかった」

「……」

「今度こそ、僕は君を守る。 だから、安心して」

「出来もしない事を、口にするのは感心しないかな」

口の端をつり上げると、蒼白になる少年に、クラナは冷徹な一瞥を投げかけた。そして、少年の細い体を軽々と押しのけて、歩き出した。

「邪魔。 私は用があるから」

唖然とし、立ちつくすロドリー。もはや彼に振り返る事もなく、クラナは森の中へと歩いていった。

 

幼い頃に遊び場にしていた洞窟の一つが、当面の拠点には最適であった。それほど奥行きがあるわけでもなく、寒すぎるわけでもない環境であり、取り合えず生活するには申し分がない。ただ、周囲を見て回ると、食料になる物がやはり少ない。近くで多くの人間が暮らしていると言う事もあるのだが、それ以上に土地自体が貧しい。川を見ても、泳いでいる魚は少なく、また水質も良くなかった。

取り合えず戻ってきはしたが、クラナは早くもこの土地に見切りをつけ始めていた。はっきり言って、以前確保した場所の方がずっとましである。そういえば、そもそもどうして此処に戻ろうとしたのか。少し小首を傾げて、クラナは状況を分析してみた。

帰巣本能というのはまずあり得ない。クラナが家だと認識している場所は、唯一つ。もう取り壊されてしまった、お婆ちゃんの家だ。あの場所以外に、クラナが居場所だとか、住処だとか、考えた所はない。

人間と関わりたいというのも考えられない。そんな事、別にこのような村でなくとも行える。むしろこんな狭苦しい閉鎖的村社会では行いにくい。こういった小村における閉鎖性や、それでもたらされる弊害は、クラナも良く知っていた。よそ者を敵と見なし、近親交配が平然と行われ、進歩を悪として排除する。小さな箱庭、小さな心、小さくまとまった世界。それがこういう村の本質だった。別にそれが悪い事ではないが、クラナにとって生存に都合がいい場所とは言い難い。

其処まで考えてから、ふとクラナは思い立った。この村で暮らす人間共は、一応知人になるのである。名前も癖も全て知り尽くした、アクションを行って出力結果を見るには最適な相手なのだ。上手くいけばいちいち喰うよりも、遙かに効率よく情報収集が出来る可能性がある。それに、ろくに戦い方も知らないこの村の連中だったら、例え不意をつかれたとしても、簡単かつ好きに処理する事が出来るのだ。つまり、関わるのではなく、居場所でもなく、観察するに最適な相手なのだ。

人類が支配するこの世界。生き残るためには、最大勢力たる人類を観察し、研究する必要がある。それに最適なのがこの村なのである。

思考を整理してみれば、何の事はない、来てみて正解であった。周囲の地形を調べ上げた後、トラップの配置計画をクラナは立て始めた。まず最初に物資の調達計画を立て、実行を開始する。周囲の枯れ木を何本か折り、長さを均一に揃えていく。出っ張りを落とし、使いやすくした枝を並べている途中で、誰かが近づいてくるのに気づいて振り向いた。足音からして、先ほどのロドリーである。舌打ちし、クラナは気配を消し、木の陰に隠れた。気づかずに近づいてきたロドリーの後ろに回り込むと、そのまま地面に倒し、後ろ手をひねり上げる。槍はまだ取ってきていないし、殺す必要も無かったので、無力化に止めたのである。昔は、普通にロドリーの力はクラナよりずっと上だった。今は、比較にもならないほどに逆転していた。完全に腕をひねられたロドリーは、苦痛の声を上げた。

「うわああっ! いたたたたたたたっ!」

「……何? 返答次第じゃ、このまま腕折るよ?」

「ま、待って! 何もしないよっ!」

「……三度は言わない。 何?」

「あ、謝りに来たんだ!」

眉をひそめたクラナが手を離すと、ロドリーは多少怯えを目の奥に宿しながら、立ち上がった。そして、手を押さえながら言う。

「謝ってばかりだけど、ごめん。 君を守るなんて、何も出来なかった僕が言って良い台詞じゃないよね」

「何も出来なかった? 過去形じゃなくて、現在進行形でしょ?」

「うん、その通りだと思う。 だから、せめて今後は君を護れるようになりたい。 あ、あの、それで、そうなれた時は……許して欲しい」

何を言いたいのか理解出来ずに、クラナは小首を傾げた。

かっては好きだったかも知れないが、今はロドリーなどクラナにとってどうでも良い相手である。能力的にももう見切りをつけているし、利用した所で役に立つとは言い難い。いずれ役に立てるようになると此奴は言っている。しかし、そうならば、正真正銘役に立てるようになってから来れば良いのである。意味が分からない行動に、しばしクラナは考え込んだが、小さく息を吐いた。今まで吸収した知識の中にある情報と、少年の行動が合致したからである。

「で、その時は私と結婚でもしたいの?」

「……! え……そ……そんな……」

「低能はいらない」

言葉を詰まらせた少年に、更に冷徹な一撃をクラナは叩き込んでいた。その上で、茫然自失の体のロドリーには見向きもせず、大振りのナイフを先ほどへし折った枯れ木の幹に走らせる。見る間に鋭い武器へと変貌していくそれを見て、少年が悲痛な言葉を漏らした。

「どうしたんだよ、クラナ! 前とは、まるで別人みたいだ! 何があったんだよ!」

「さあ?」

「さあって……」

そのままさっき作って置いた蔓のロープの強度を確かめ、軽く縛って手応えを確認する。少年はその異様な手際の良さを見ながら、なおも言う。

「今のクラナ、まるで猛獣か怪物みたいだ! 前は、あんなに優しかったのに……」

「言いたい事はそれだけ? 三度は言わない。 低能はいらない」

「分かった……分かったよ。 僕は消える」

振り向きもせず、二本目の枯れ木を加工し始めるクラナに、少年は去りつつも声を投げかけた。

「でも、覚えて置いて。 僕は何があっても、君の味方だから……!」

これが普通の、年頃の女の子で有れば、ひょっとしたら感激したかも知れない。しかし今のクラナにとっては、そんな台詞は鬱陶しいだけだった。明らかに自分に劣る存在から、守るなんて言われた所で、だからどうしたとしか言葉を返しようがないのだ。

クラナにとって、どうでも良い事であった。それを証明するに充分だったのは、ロドリーが消えて三分もした頃には、もう彼の台詞さえ忘れはてていた事である。陽が落ちる頃には、幾つかのトラップと警告装置、敵の接近を知らせる寄せ木が完成していた。いずれも原始的な物だが、相手を脅し撃退するには充分な出来である。動作検証を行い、満足したクラナは、洞窟の中を整え始めた。

そして洞窟の中を整え終わり、七割ほどの意識を休眠に費やし始めた頃には、もうすっかり辺りは夜になっていた。残してある三割の意識で、周囲の音や臭いに警戒しつつ、クラナは睡眠を貪っていた。

 

3,欲望の正当化

 

重い心を引きずりながら自宅へ帰宅したロドリーは、何かしらの集会から帰ってきた父親と、家の真正面で出くわした。暗い表情のロドリーを見て、父は家の中に入るように促した。無言のまま従う少年の前で、土間に腰を下ろすと、彫りの深い顔に僅かな躊躇いを浮かべ父は言った。

「お前の結婚相手が決まった。 はす向かいのフティルナだ」

「……」

フティルナはロドリーよりも一つ年下で、ごく普通な田舎娘である。一応農作業や縫い物など、農民の妻に必須である幾つかの事は問題なくこなせる。だが移り気で不平屋で、ロドリーとはあまり仲が良くなかった。冷酷な性格の彼女は、クラナを虐める事が多かったため、生真面目なこの少年と喧嘩する事もしばしばだった。その、村でも一番苦手な相手の一人が、ロドリーの妻になるというのである。しかもこういった閉鎖社会では、決定はそれ自体が神聖視され、おいそれと覆せる物ではないのだ。

「もう一つある。 クラナが帰ってきたんだって?」

「う、うん……」

「そうか」

「彼女の事は忘れろ。 いいな」

弾かれたように顔を上げたロドリーは、何とも嫌な予感を覚えたが、問いただそうにも父はもう余所を向いてしまっていた。結婚しておらず、十五歳に満たないロドリーは村での会合等に参加する資格も、それで決まった事に異論を差し挟む権利も認められてはいない。ましてや、父に異論を挟むなどは言語道断である。

だからといって、言われた事に簡単に納得するほど、ロドリーは従順な性格ではなかった。彼はいざというときには、クラナに事態を告げるべく決意をしていた。

 

当面の住処を確保すると、クラナは村へ出た。そして、辺りを見回すと、音が一番良く届く場所を見つけて、其処へ陣取った。それは村の真ん中にある平べったい石で、全体は青みがかった黒であり、座るのに丁度良かった。朝、陽が上がると同時に、何人か村の男達が出てきた。いずれも畑に出る連中であり、クラナを見て知らんぷりをしたり、露骨に動揺したりした。ロドリーも、申し訳なさそうに視線をずらした。その反応を見て、クラナはこの連中が何か隠しているのにすぐ気づいた。この間食べた盗賊の記憶や、研究所で食べた魔法男の記憶から、相手が嘘を付いている時の挙動を、彼女は見抜けるようになっていた。特に視線を合わせると、慌てて外す様は、別にクラナでなくても分かるほど無様なものだった。

しばし時が経つと、女達も家から出てきた。年若い者は遊びに行ったり、或いは農作業の手伝いに行ったり。クラナと年が近い娘は三人いたが、彼女らはクラナを見ると物陰に隠れ、陰口を言い始めた。小さな声のつもりだったのだろうが、今のクラナにとっては、目の前で転がる球体よりも明らかに把握出来る音声である。

「聞いた? 彼奴、奴隷に売られたんでしょ?」

「そうらしいわね。 で、何で此処にいるの?」

「おおかた逃げてきたんでしょ? バカねー、こんな所に帰ってきたって、居場所なんか無いのにね」

「大体あの子きれい事ばっかり言ってて腹立ったのよ。 そのまま一生こき使われてれば良かったのにさ」

クラナは失笑していた。以前、記憶の中にある彼女らは、男の前でへらへらしていて、男の居ない所では極めて破廉恥な下言ばかり口にしていた。覚醒する前のクラナは兎に角初だったから、そういう話には免疫が無く、すぐに逃げ出していた。今もその状態から全く変わっていないどころか、更に悪くなっている。三人の娘達は、時々クラナに視線をやりながら、更に続けた。

「で、聞いた? あの子頭おかしくなったみたいよ?」

「へー、それはご愁傷様。 でも、前からおかしかったんじゃないの?」

「アハハハハハハハ、言えてるー。 何かというときれい事ばっかり言ってさ、そんなに男の気を引きたかったのかしらね」

彼女らにとって、全ての挙動は男の気を引くためのものである。続けられる程度の低い雑言を聞きながら、そう悟ったクラナは小さく欠伸をしていた。これでは、ますます万物の霊長とかいう自称が、失笑無くしては聞けなくなる。

「あのバカロドリーしか相手にしてくれなかったのにねー。 もっともあのバカも、今度アンタと結婚するんでしょ?」

「やだやだ、冗談じゃないわよ。 あんなバカじゃなくて、格好いい男が迎えに来てくれないかなあ」

「仮にそんなのがいたとしても、アンタには無理でしょ」

馬鹿笑いしながら、三人の娘は続けた。その間もクラナは、周囲の小さな声や言葉を、ぬかりなく収集していた。

やがて男の子供達も外に出てきた。男は女よりずっと若いうちから、農作業を行う。女も様々な労働に従事する事が決まっており、陽が上がってしばしすると作業を始めた。時々視線を送って来ながら何も言わないのは、奴隷に売り飛ばした後ろめたさがあるのかと一瞬だけクラナは思ったが、それは違った。小声での会話を収集してみたら、また失笑を隠せない事実が浮かんできたのである。

彼女らはもうクラナを同類とは見なしておらず、〈仲間はずれ〉にして虐める事で、楽しんでいたのだ。公認された弱者を虐待したがるのは人間の基本的な性質だが、当然彼女らにもそれは備わっていたのである。何の事はない、労働に参加させないのは、彼女らが思いつく精一杯の虐めだったのである。加えていえば、徐々に時間が経つたびに、それでクラナが〈泣き出さない〉事に腹を立て始めていた。やがて年輩の一人が、欠伸をしているクラナに歩み寄り、まくし立てた。

「そんな所で何してるんだい! さっさと働きな!」

「五月蠅い」

「う、五月蠅いだってっ! 何て口の利き方だよ、アンタは!」

「奴隷として私を売り飛ばしたような連中に、礼儀なんて守る必要があったっけ?」

さらりと急所をついてやると、女は露骨に動揺したが、それが却って怒りを煽った。女はきいきいと早口でわめき立てると、クラナに手を挙げようとしたのだ。無論、クラナに、黙って殴られてやる理由など無い。そのまま振り下ろされた手首を掴むと、軽くひねって地面に投げ倒した。骨は折らない程度の手加減はしていたが、大げさに悲鳴を上げた女は、わめきながら逃げ去っていった。クラナが視線を向けると、今までにやにやしながら事態を見守っていた連中が、青ざめて視線を逸らす。鼻を鳴らすと、クラナは石の上で足を揺らしながら、再び人間の観察に移った。

昼頃には、栄養の補給が必要になった。一旦住処に戻り、朝捕まえて置いた魚を、自分で火を起こして焼いて食べる。覚醒前の四倍程度の分量が必要で、しかも間隔が短い。昼過ぎはどうしようかと考え始めていたクラナの元に、足音と、警告音が響き来た。足音は複数、しかも大人の男の物だ。槍と弓を掴むと、クラナは木を登り、素早く前線に移動して、相手の頭上に回り込んだ。

「おい、何だよさっきの音……」

「気味が悪いな。 罠でも仕掛けてありそうだ」

「それが何か?」

慌てて頭上を見上げた男達に、クラナは凶暴な笑みで返した。槍は背負ったままで、弓矢をつがえていつでも放てる態勢である。一瞬息をのんだ男達の数は三人。いずれも村の男共であった。

「ク、クラナ! そんな所で何をしているんだ!」

「侵入者を排除しようとしているだけ。 不審な動きをしたら撃つよ」

「へっ、撃てるもんなら……」

男が言い終える間もなく、クラナは第一矢を放っていた。それは軽口を叩きかけた男の顔の、すぐ横にあった木に突き刺さった。しかもかなり深くである。甲高い音が、小鳥のさえずりが如く、辺りに波紋を作り上げた。蒼白になる男達を前に、油断無く第二矢をつがえながら、クラナは言った。

「次は当てるよ?」

「ま、まあ、そう殺気立つな。 なあ?」

「だったら用件は?」

容赦のない物言いと、妥協のない視線に、男共は露骨にひるむ。だが、さっき取りなそうとした最年長の者が、冷や汗を拭いながら言った。

「ローダばあさんに手を挙げたんだって? 何でそんな事をしたんだ」

「向こうが私を殴ろうとしたからだけど?」

「年寄りに手を挙げるなんて、どうしちまったんだ。 おめえ、前はあんなに優しかったじゃねえか!」

「前の私は優しかったんじゃない。 弱かったんだよ。 今後も、老人だろうが子供だろうが、私に害を為そうとする者には容赦しない。 場合によっては殺す」

別に表情を歪めるでもなく、淡々と言うクラナの言葉には、全く抑揚がない。その方が相手に対して精神的優位に立てる事を、既にクラナは得た情報から確認していた。そして今も、その正しさは証明されていた。

「な、何をそんなに腹を立てているんだ? 落ち着け」

「さあ?」

「と、兎に角、だ。 もうばあさんに手を挙げたりしたらいかん。 さもないと、もう村に入れる事は出来なくなる」

「へえ、それは私に宣戦布告しているって事?」

薄ら笑いを浮かべたクラナ。無理もない話で、彼女は今まで武装した盗賊団や、研究所の護衛達を皆殺しにした実績の持ち主なのだ。こんな寒村の、ろくに戦い方も知らない者どもなど、文字通り束になっても恐くない。恐怖を顔に浮かべつつも、無理に強がって、男は吐き捨てた。

「そう殺気立つな。 わかったな!」

「……」

クラナが黙ったので、男達は怯えを隠せない様子で、村の方へ引き上げていった。小さく欠伸をすると、クラナは今後の短期的な目標を固めた。すなわち、住処の周囲のトラップ強化である。

 

別にクラナは、村の連中に受け入れて貰いたいなどとは思っていない。また、共存しようなどとも考えてはいない。ただ、今後のために、観察したいと考えているだけである。そのためには、ある程度は譲歩する必要があった。だから、わざと一歩引いて見せたのである。

寒村での一日の終わりは、日没と共に訪れる。それを知るクラナは、夜目を駆使して、陽が落ちた村へ出かけた。農民達には察知出来ないほど気配を消して、主に音声の情報を集めて回る。すると、また幾分か面白い情報が入ってきた。

クラナの耳に入ってきた情報から総合するに、先ほど男達が現れた後、村の男共は集まる事を決め、会合を行っていた。村長の家には十人ほどの男が集まり、今熱心に言葉を交わしている。主な議題は大きな収入源である奴隷商人への対応であり、それにはクラナが邪魔だと言う事だった。何でも、〈お客様〉には、この村出身の奴隷の品質が良い事を見せる必要があるとかで、〈働き者〉で〈従順〉な村人をアピールする必要があるのだという。そこで、逃げて帰ってくるような輩がいると邪魔なのだとかいう話であった。

また、クラナの先ほどの対応についても、議論がかわされていた。クラナの様な輩をのさばらせておくと、〈大人の威厳〉が保てなくなる。だからしかるべき処置を執る必要があるとか言う議論を。そういえば血統上の父親も議論に参加していたが、別にどうでも良い事であった。それにしても、と、近くの木の上で腕組みしながら、クラナは苦笑していた。

まず第一に、奴隷商人は多くの村々を回っているわけで、クラナ同様広い世界を知っているのだ。こんな小さな村の連中が、如何に媚びを売る事を考えても、それを見越して行動するに決まっている。加えて、連中はこの村の者達を、〈働き者〉で〈従順〉だなどとは考えていない。以前奴隷商人に直接連れて行かれたクラナは、それを良く知っていた。

ついでに〈大人の威厳〉とやらだが、そんなものなどクラナが幼い頃から存在しなかった。子供達は平気で大人の陰口を叩いていたし、目の届かない所ではさぼっていた。本当に尊敬出来る大人など、クラナの知る限り〈お婆ちゃん〉一人しかいなかった。その〈お婆ちゃん〉を虐待し続けた村人共が、尊厳だの威厳だのと口にするのは、正しく笑止の極みであった。貴様らが、一体威厳の何を知っているというのか。そうクラナは、心中にて毒づいていた。

要は村人達の会議は、主体性のない物に基づいて、クラナを虐待する事の打ち合わせであった。話を聞きながら、わざわざ先ほど譲歩した事が、馬鹿馬鹿しくなってきたクラナは、次に侵入者があったら容赦なく殺す事に決めていた。単に〈公認された弱者を虐待したい〉が故に、必死にそれを正当化する言葉を探し続ける連中。無論クラナは、大人しく虐待されてやる気など無かった。

「仕方がない、石ぶつけて弱らせた後、川につけて殺すかな」

「売れなかったハインと同じようにだな。 上手くやれるか?」

「それは大丈夫だ。 前と同じようにやれば良いだけの事よ」

目を細めたクラナは口笛を吹いた。ハインとは、事故死したというクラナの妹の事だ。彼女の疑念は、やはり正しかったのである。石をぶつけられて、逃げられなくなった所を川につけられたとは、さぞ苦しかった事であろう。もっとも、今のクラナには、どうでも良い事であった。

会合は更に一時間ほど続き、それからお流れになった。その時にはクラナももう既に住処へ戻り、装備を調えて、翌日に備えていた。

 

4,強者の論理と、さらなる強者の論理

 

クラナは村の側に良く研いだ槍を隠すと、翌日も朝から村へ出た。無論見た目は素手である。これは無謀と言うよりも、先日の行為がどういう結果を出力したか知りたかったからである。当然、村人に攻撃された所で、充分撃退出来る自信を持っているからこそ、出来る行動だった。また、試してみたい事もあったのだ。

陽が昇ると、男達が家から出てきた。皆クラナを見ると動揺したり、視線を逸らしたりした。そのうちの一人、村長が一番近くまで通りかかった瞬間、彼の耳にギリギリ届く声量でクラナは言った。

「私を消す相談はまとまった?」

弾かれたように顔を上げた村長は、蒼白になってクラナを見つめた。クラナは自分の記憶から、出来るだけ可愛らしく笑顔を作って、向けてみせる。足早に村長は歩き去り、鼻を鳴らしてクラナはそれを見送った。面白い反応である。やはり人間は、図星をつくと最も心を乱す。

女達はクラナには視線も向けず、何も言わなかった。だが小声で会話をしており、その内容は昨日男共が会合でしていた物と符合していた。時々漏れる笑いが、クラナには面白かった。いつ実行に出るかは分からないが、もし向かってきたら殺すだけの事である。その時こういう連中がどんな顔をするか、見物であった。無論、事情を知っている以上、生かしておく訳にはいかない。クラナの行動を他者に口走る可能性がある者は、全員消す必要があったからである。そして今のクラナは、それに何の躊躇いも覚えはしなかった。

別にクラナは殺しが好きなわけではない。単に生存したいと考えているだけである。そしてそれは生物の基本的な本能であり、持って良い欲求だ。闇に落ちるくらいなら死んだ方がよい等というのは、平和な世界に生きてきた者の戯れ言に過ぎないのである。更に言えば、力を伸ばしたい、食物を得たいと考えるのも、生物なら当然の欲求だ。人間の価値観で、クラナの行動や理念を批判するのは簡単だが、それは虚しいだけである。

なぜなら、彼女をそもそも人間扱いしなかったのは、他ならぬ人間そのものなのだから。

 

しばしの音声収集で、ある程度の出力結果が出て、クラナは満足した。強大な力を見せると、人間はある程度扱いやすくなる。今回に関しては、力の見せ方が中途半端であったため、反抗の陰湿化と地下潜行を招いた。どうせやるなら圧倒的な力で絶対的な恐怖を植え付けた方がよい。即座に相手が降伏を申し出るほどの。そうクラナは結論していた。

というのも、人類が大多数を占めるこの世界では、人間を上手く使っていかないとやはり生き残るのが難しい。現在は力による使い方を学習中であるが、他に方法があるならそれをとるだけの事であった。取り合えず、現在の学習課題は力の使い方であり、即ちその効率運用である。それを学び終えたら、別の方法も学習するつもりでいた。

また、闇の獣たるクラナは、今回もう一つの事も学習しようともしていた。それは即ち、不利な状況下における戦闘である。今まで幾分かの戦闘経験を積んだが、今回は雑魚を相手に、敵に有利な条件下での戦闘を行える可能性が高い。今までは戦略を練っての戦いが多かったのだが、これで遭遇戦や、奇襲戦の訓練が出来る。もうクラナにとって、人間の命など、何の価値もないものへとなり果てていた。だが一方で、人間側も、自分の利益を正当化するためにクラナを殺そうとしていたのだから、お互い様だとも言えた。

昼を過ぎ、一度クラナは住処に戻ろうとした。まっすぐ住処へ戻ろうとした彼女が目を細めたのには、当然理由がある。息せき切ってかけてきた、人影を目撃したからである。ロドリーであった。

「クラナーッ!」

「……」

もう返答するのも面倒くさいと思ったクラナは、無言で少年の脇を通り過ぎた。慌てて振り返り、クラナに歩調を合わせながら、ロドリーは言った。

「クラナ、聞いて欲しい」

「……」

「早く逃げるんだ! 村のみんなが、村のみんなが!」

「私を殺すつもりだってんでしょ? だから何?」

足を止めたロドリーを放って置いて、クラナはつかつかと歩いていった。そのまま木陰に隠していた槍を蹴り上げ、空中で掴む。槍の穂先は陽光を反して鋭く光り、辺りに凶暴な瞬きを蒔いた。丁度その時、ロドリーが追いついてきた。

「僕が安全な場所を知ってる。 だから……」

「余計なお世話だって言ってるのが、まだ分からない?」

「僕は、君に死んで欲しくないんだっ!」

「死ぬ気なんてさらさら無いけど?」

苦笑したクラナは、槍を数度振り回して、満足げに頷いた。そして、鬱陶しそうにロドリーに視線を向け、言った。際限なく冷酷な眼差しで。

「このままだと、何処までついてきそうだから言っておく。 私は、君なんてもうどうでも良い。 昔は確かに好きだったよ。 でもそれは過去形。 今の君の能力はもう知れているし、何の興味も湧かない。 はっきり言えば、ただのお荷物で邪魔なだけ。 分かったら、消えるんだね」

「クラナ……僕は……僕はそれでも……」

白けて目を細めるクラナの前で、ロドリーは絶叫した。

「僕はそれでも、君を守りたい! 君の事が好きだから!」

「……」

「僕は、命に代えても、君を守る……だから……」

「はあ、分かった分かった」

しばしの沈黙の後、クラナは肩をすくめていた。この少年の熱情に負けたのではない。そこまで言うならば、どう守ってくださるのか、見てやろうと思ったのである。真っ赤な顔で潤んだ瞳の少年に、顎でしゃくってクラナは先に歩き出した。ロドリーは急ぐように言ったが、そんな理由がクラナにはなかった。今クラナが抱いた興味は、この少年が如何にして自分を守るのか、と言う点に尽きるのだ。圧倒的に優勢な敵戦力に対して、どうやって立ち回ろうというのか。そればかりが、興味のネタであった。

もし、此処で。ロドリー少年がクラナを守り切れていれば、歴史は変わっていたかも知れない。クラナは多少なりと少年の事を認め、二人きりの静かな生活を、ひょっとしたら選んでいたかも知れない。だが残念な事に、現実はそう甘いものではなかった。少年は、自らの言葉を、実行出来なかったのである。

 

別の村との境界線まで、クラナとロドリーは歩いてきていた。ロドリーは手をつなぎたがったが、クラナの方がそれを拒否した。歩きにくくなるからである。

先ほどから、追跡者の数が増えていた。ロドリーは気付いていなかったが、数は十五名。村長及び、働き盛りの男達である。行く手を彼らが塞いだ事から言っても、既にロドリーの行動は見抜かれていた、と考えて間違いなかった。クラナが足を止めたので、ロドリーが振り向いた。

「どうしたんだ?」

「いやなに、簡単な事だよ。 周り、囲まれたよ?」

「……っ!」

「さて、どうやって守ってくれるのかな?」

蒼白になって辺りを見回す少年に分からないように、クラナは舌を出していた。もしその気になれば、村人達を出し抜く事だって出来たのだ。ただし、ロドリーがいなければ、というおまけ付きではあるが。やはり四人分の大人の経験を吸収している事は大きい。場慣れの度が違うのだ。

しかし、だからこそに、少年が持つまっすぐな思いとやらに興味を持ったのである。今まで吸収した連中が持っていた記憶の中にはない要素だったというのもあるのだが。何にしても、今のクラナは、人間が持つ未知の部分に興味を抱いていた。ロドリーは周りを見回して、叫んだ。

「父さん! いるんだろ! 出て来いよ!」

「呆れたぞ、ロドリー。 その子の事は忘れろと言っただろう」

わらわらと村人達が現れた。半分ほどは鎌や鍬などで武装し、残りの半分はスリングを手にしている。その中にはクラナの実父や、ロドリーの実父もいた。そして彼らの目には、殺気が例外なく宿っていた。

ロドリーの実父は進みで、スリングを振り回しながら言う。

「どけ。 その子は、村のためにも生かしておけない」

「クラナを奴隷として売り飛ばした挙げ句に、死ぬ気で帰ってきたのを自分たちのために殺そうってのか! 何が村のためだ! アンタ達、全員揃ってケダモノ以下だ!」

「えらそうな口を利けるようになったものだな。 村の決定は絶対だ」

「嫌だっ! 従わない!」

既にクラナは失望し始めていた。戦術的に有効な手段を執るわけでもなく、ただ文句を言うだけ。しかも、明らかに効果が無いと分かり切っている文句を、である。時間を稼いでいる様子もない。呆れたクラナは、実力行使に出ようとしたが、ロドリーが機先を制するように駆け出し、叫んだ。

「クラナ、逃げろっ! 今だっ!」

「やれやれ」

小さく嘆息すると、ロドリーが父親にタックルをかけた隙をついて、クラナは走った。そのまま、わざと敵を振り切らない程度の速さで、安全圏へ向け駆ける。これはロドリーを試すための行動である。ロドリーは不意をついて父親を地面に押し倒しはしたが、後は取り囲まれて殴られる一方であった。それでも何とか逃げ出して走ってはきた。まあ、能力から考えれば健闘している方だが、口ほどにもないとはこの事である。残念な話だが。

クラナは走りながら、村人達が袋小路へ自分を追いつめようとしている事を悟った。流石にこの辺は、ロドリーよりも役者が上である。そうと分かった上で、クラナはその罠にわざと踏み込んだ。やがて、凹字形に窪んだ崖が見えてきた。足を止めたクラナが振り向くと、それなりの秩序を保ったまま、村人は間を詰めてきていた。

「ガキが! 手間かけさせやがって!」

スリングを振り回しながら、一人が叫んだ。そのまま風を切って、こぶし大の小石が飛来する。苦もなくそれをクラナが避けると、もう一人が間髪置かずに、次の石を放ってくる。目には露骨に愉悦が浮かんでいた。弱者をいたぶり殺す事で、娯楽に乏しい閉鎖的村社会でのストレスを解消しようというのだ。仰々しい理屈をつけていても、本音はそれである。

槍を構えたクラナが、無言のまま飛来する石を一つ、二つと叩き落とした。そのまま反撃に移ろうとしたが、その時小さな人影が前に躍り出た。散々村人達に殴られつつも、何とかクラナの元にたどり着いたロドリーだった。彼は両手を広げてクラナを庇うと、投石を続ける村人達に言った。それを見ながら、心中でクラナは呟いていた。

『仕方がないなあ。 ……最後のチャンスだよ』

冷徹に、かって好きだった少年の背中を見つめるクラナ。少年は、殺気立つ村人達に叫んだ。

「止めろっ! やるなら先に僕を殺せっ!」

「うるせええええっ! 引っ込んでろ!」

「年に何度も無い楽しみなんだぞっ! 毛も生えそろってねえガキが、しゃしゃり出てくるんじゃねえっ!」

下劣な本性をむき出しにして、村人達が叫び、投石を続けた。そして、あろう事か、ロドリーの父親が放った小石が、少年の額を直撃した。額が割れた少年が力つき、悲鳴を上げて崩れ伏した。

「うああああっ! ク……クラナ……」

「どいてろ、バカがっ!」

「……此処まで、かな」

見切りをつけたクラナが、地を蹴った。素早くそのまま左右にステップしつつ間を詰め、呆然とする村人の一人の喉を無造作に刺し貫いた。冗談のように大量の鮮血が吹きだし、何事か理解出来ない様子の村人達が、唖然とした。自分たちが狩ろうとしていた〈弱者〉が、実は死の使いだったと、彼らが理解するまでに、更に四人が後を追った。

クラナはその戦闘能力を完全解放していた。槍を旋回させ、頸動脈を切り裂き、額を貫き、喉を、腹を、胸を抉る。鮮血が吹き散らかされ、辺りを朱の華でけばけばしく飾り立てた。時々反撃があったが、致命傷など一つも受けない。時々スリングで石を貰ったが、全てガードする事が出来た。無論、強化された細胞であるから、骨に罅一つはいらない。村人の一人が、大振りの鉈を取りだし、殴りつけていた。とっさにクラナは左手を挙げてそれをガードし、刃はその半ばまで食い込んだ。刃を筋肉で挟み込んで、微動だにさせなくする。事態を悟り、へたり込む村人を蹴り倒す。そしてクラナは鉈を引っこ抜き、鮮血垂れる左腕を舐めながら言った。

「やってくれるじゃない」

「ひ、ひいいっ!」

悲鳴を上げた村人の上に跳躍すると、脳天へ槍を突き降ろす。左腕は一時無力化されたが、素人を殺す分には充分だった。それに大分槍の扱いには習熟し始めており、劣化も大分少なくなっている。そのまま、逃げ腰になる村人達を、一人残らずつき伏せ、刺し殺し、無力化していく。悪鬼と化したクラナは、全身を鮮血で染めながら、荒れ狂った。最後の数人は逃げだそうとしたが、一人として逃げ切れはしなかった。クラナの父親も、ロドリーの父親も、槍で貫かれて死んだ。

「ふう、ふう……」

呼吸を整えながら、クラナは周囲を見回し、敵の完全無力化を確認する。最後に残っているのは、村長だった。腰を抜かして震えている村長へ向け歩きながら、クラナは独語していた。

「十四人……か。 今の体力じゃ、これが限界かな……」

敵は全滅したが、爆発させた力が、貪欲に蓄えたエネルギーを喰らっていた。やはり敵と正面から戦うのは効率が悪い。口の側に流れてきた汗を舐めると、わざと残しておいた村長を見据え、クラナは言う。

「お楽しみ、上手くいかなかったねえ。 残念でした」

「た、助けてくれ……助けてくれ……!」

「ねえ、ハインは、死ぬ時に何て言ってた?」

「ひっ! ぎぎゃああああああああああっ!」

後ずさろうとする村長の両足を、無造作に槍で突き刺し抉り、逃げられないようにしてから、クラナは腰をかがめ、子供らしい無邪気な笑顔をわざと作って見せた。怯えきっている村長に、なおも続けるその表情は動かない。別に愉悦も、怒りもない。ただ単純に、圧倒的な恐怖に直面した際の、人間の心理変動を学習しているのだ。

「許してくれ、お願いだ、村の決定で、これは皆の決定で……」

「質問に答えろ」

「ひ、ひいいいいいっ! ぎゃあああああああ!」

クラナは槍を地面に突き刺すと、無造作に村長の枯れ枝のような左腕を掴み、そのままへし折った。涙を垂れ流しながら、失禁さえしながら、村長はわめいた。

「ぎゃあっ! ハ、ハインは、ハインは、死にたくない、って、言っておった! だから、だから」

「へえ、やっぱり命乞いしたのに殺したんだ。 村の決定っていう大義名分が有れば、命乞いする子供をリンチして殺してもいいんだ。 ふーん。 人間って動物の基本的な考え、よく分かったよ。 これなら、私が生きるために相手を殺すのも、何の問題も無さそうだね。 少なくとも、君達の理屈から言えばね」

そのまま、クラナは村長の頭を掴んだ。表情は、微動だにさせずに。

「貴重な情報、ありがとう。 ご褒美に、私の栄養にしてあげる」

村長の頭蓋骨が砕けた。

 

村長を喰ったクラナは、鮮血に染まった右掌を舐めながら立ち上がり、ロドリーに振り返った。少年は呆然と事態を見やっていたが、クラナを見ると落涙し始めていた。

「クラナ……君は……!」

「君には失望した。 君の場合、何度言っても無駄そうだから、一回だけ言うよ。 私の前に、二度と姿を見せるな。 次に私の前に現れたら殺す」

完全に興味が失せた相手から視線を逸らすと、クラナは一旦住処へ歩き始めた。この村へ持ち込んだものを回収し、事態を知っている他の村人を消すためである。

ほんの十五分で、更に十七人が命を落とした。生き残ったのは、証言能力のない小さな子供達のみ。こうして、フェステ村は、決して長くもない歴史に、幕を下ろしたのである。自分たちの下劣な欲望を正当化して、それを満たすために、闇の獣へ喧嘩を売ってしまったが故に。

 

5,それぞれの展望

 

無数の死体の中で、呆然とロドリーは立ちつくしていた。半壊した家、槍で貫かれた死体。血、血、血、ぶちまけられた血。壊れた物。滅びた村。

少年は知っていた、クラナが自らの生存のために、口封じのために、こんな残虐行為を行った事を。更には、自分に力さえ有れば、悲劇を防げた事も。無力感に打ちのめされる少年の袖を、幼い妹が掴んだ。

「お兄ちゃん、クラナお姉ちゃん、どうしたの? お父さんは?」

「シリス、大丈夫、大丈夫だ。 お父さんは、すぐに帰ってくるからな」

「うん」

無事だった子供達を集めて、村の最年長者になったロドリーは、辺りの処理を始めた。死体を葬り、使えそうな家を直して、生活出来る様にしていく。役人が来れば事態を説明出来るかも知れないが、少年はまだクラナを愛していた。彼女を売りたくなかった。そして其処までクラナに見抜かれている事も知っていた。

役人に対する言い訳を考えながら、ロドリーは誓う。強くなる事を。今は弱くて、何も出来ない。何も出来なかった。だから強くなって、クラナの前に出る。そうして、今度こそ彼女を守る。そうすれば、もうクラナは人を殺さなくて良いのだ。

少年の決意は石よりも硬く、鉄よりも鋭かった。泣き出す子をあやしながら、村の再建を始めるロドリーは、男の顔つきをしていた。

 

バストストア王国の首都である王都フオルで、トステーヤが一人の男に跪いていた。彼が膝を屈する相手は、広いクランツ大陸でも一人しかいない。即ち、バストストア王国国王クインテーズ七世である。

クインテーズはフオル=バッケスト人特有の、縦に長く繊細な顔立ちで、だが鷹のように鋭い目つきの持ち主だった。彼は少し甲高い声で、部下に呼びかける。

「トステーヤ、報告を」

「はい。 国王陛下。 侯爵一派の解体は順調に進行しております。 一部の貴族は、我が派閥へ問題なく組み込む事が出来そうです」

「それは良かった。 これからも力を尽くすように」

「御意」

慇懃に頭を下げると、トステーヤは主の元から退出した。自室に戻り、幾つかの作業をこなしていると、部下が部屋の戸を叩いた。

「何だ」

「夜分遅く失礼いたします。 お耳に入れたい事がございます」

「手短に、要件のみを話せ」

「はっ。 スルスト公爵が戦死した模様です」

思わず顔を上げたトステーヤは、部下に続きを促した。スルストは王国の軍事を支配する大貴族であり、何かとクインテーズ七世に逆らう、トステーヤにとっては文字通り目の上のこぶであった。かなり慎重な性格であり、それが故に殆ど戦場でも負けを知らない〈同時に勝ちも知らない〉男だったのだが、それが戦死したというのである。

「帝国軍の一部が、公爵の軍の背後に回り込んだ際、流れ矢が当たった模様です。 戦場から退出して数時間後に、毒が回って、帰らぬ人になりました」

「うむ……そうか」

小さく頷くと、トステーヤは目の奥に獰猛な光を宿らせた。偶発事故としか言いようがなかったが、これは正に好機であった。程なくトステーヤは活発に動き始めた。この事件を期に、彼は更に派閥を拡大していくのである。そしてそれは歴史という名の丸太を、確実に激流へと動かしていったのであった。

 

確保したアジトへ一度戻ったクラナは、五人分の記憶を整理統合し、吸収する作業を行っていた。その結果、周辺の地理や、この国の現状等についても多くが把握出来始めていた。特に豊富な知識を持つ老人の脳を吸収出来たのは大きい。記憶回路がかなり寸断されてはいたため、自分で修復しなければならないのは手間であったが。

数日間をかけて記憶の整理統合を行った後、クラナは次の作業を開始した。即ち、今後の長期的な戦略の立案である。吸収した記憶から、彼女は一つの結論を出していた。それは、即ち。

「人類を、支配するか」

クラナは知っていた。村長の行動には、未知の知識を得たクラナに対しての恐怖も僅かに混じっていた事を。人類は基本的に未知に対して恐怖を抱き、迫害する事を。此処に住んでいたとしても、いずれ人類に未知として認識され、殺されるであろう事を。

今、大陸は混迷の末期に突入している。様々な人種が余所の大陸から流入し、新しい技術が産まれ続けている。其処へつけ込み、大陸を制圧すれば、最も安全な場所が手にはいるのである。玉座という、最も安全な居場所が。後は民衆を管理して、世界を平穏に保っていけばよい。

玉座に着き、自らを神聖化してしまえば、其処はどの人間にとっても未知の場所となる。そしていわゆる善政を敷けば、全てが駒となり、逆らう存在はいなくなる。それには力の使い方にさらなる充実を得て、人間の操作術を覚えて行かねばならない。そのためには、こんな僻地に籠もっていてはまずい。都会に出る必要があった。

この場所は拠点の一つとして確保しておくとして、クラナは都会に出る事に決めた。そしてこの瞬間、この地の歴史が、統一へ向け加速し始めたのである。

停滞と混乱の中にあった大陸は、激動期へ向け、その身をくねらせ、動き始めていたのであった。

(続)