ヒトノカタチ

 

序、神をも恐れぬ所行

 

人間は、基本的に社会的道徳からあまりにも逸脱した事を行うと、決まった反応を示す。(神をも恐れぬ所行)だと言うのである。これが不思議な事に、無神論者であろうと、敬虔な神の僕であろうと、同じ反応を示すのだ。そして彼らのいずれもが、(神をも恐れぬ所行だ)と絶叫するような実験が、山奥の研究施設で行われていた。

クランツ大陸中央南部のルクトー山脈に、その研究施設は建てられていた。国営の施設であり、研究費及び建築費は国が出しているのだが、それを知るものは殆どいない。元々貴族が大きな力を持つこの国では、彼らが行う研究は(極秘)の印を押されて干渉されない場合が殆どである。ましてや貴族が門閥の一員であれば、その効果は更に増幅されるのだ。だから、この研究所の存在は殆ど知られず、知っている者も殆ど干渉しようとはしなかった。

研究所の中では、周辺の寒村や街などから買い集められた奴隷達が、牢に押し込められ、鎖につながれていた。彼らはみすぼらしい姿で、汚らしく、皆一様に怯えきっていた。彼らは人間扱いされず、次々に実験によって消費されていった。研究所の中では、ひっきりなしに悲鳴や断末魔が響き、命が毎日消えていった。時々奴隷が補充され、すぐにいなくなっていく。まさしくそれは、地上の地獄であった。だが神とやらは居眠りでもしているのか、その所行を行った者達に、罰一つ下そうとはしなかった。

具体的に此処で行われていたのは、生体兵器の開発であった。古代文明の遺跡から発掘した技術や、様々な魔法の技術も駆使し、究極の生体兵器を創ろうというのである。表向きの目的は、長年続いた戦争を終わらせるためという〈崇高な〉ものであった。だが実際には、研究所を建てた貴族の武名を高めて、発言権を強化するためだった。少なくとも研究所を建てた貴族は、そう考えていた。

やがて研究所の中で、最強最悪の獣が誕生した。後に、クランツ大陸を征服し、数百年に渡る平和の礎を築き上げる、伝説的な存在が。無数の屍肉に囲まれ、血にまみれて産声を上げたその存在の、哀れな宿主の名はクラナと言った。

 

1,目覚め

 

あまり丈夫ではない卵。その殻の中で蠢く生物は、既に意識を持っていた。生物には名前どころか性別もなかった。だが、不定形で形を持たず、胎動するその生物には、本能が呼び起こす強烈な目的意識があった。周囲にある細胞と同化し、生き延びるという目的が。周囲には、今瑞々しい細胞が満ちており、ずっと待ちこがれていたチャンスだった。殻を破り、生物は外へ出た。

その生物が最初に直面したのは、適温に暖められた酵素と酸だった。瑞々しい細胞は、同時に生物にとって致命的な酸をも発していたのである。凄まじい痛みが生物の全身を襲い、焼き、溶かしていった。しかし生物は負けなかった。体の多くを溶かされながらも、眼前の細胞へむしゃぶりつき、同化していったのである。執念に関しては、もう一人前であった。負ければ死ぬのだから、当然の話ではあったが。その過程で細胞が蠕動し、彼は前後左右に幾度と無く揺られた。激しい戦いは、数時間にも渡って続いた。

やがて、体の多くを失いながらも、生物は勝った。細胞と同化を果たしたのである。そして、細胞の性質を解析しつつ、他の細胞へも手を伸ばしていった。

周囲は全てが生物にとってのごちそうであったが、同時にまだ油断は出来ない情況だった。周囲の細胞は激しく蠕動を繰り返し、生物がいた器官の中身を前後へ放り出し続けていた。現に溶かされてしまった最初の体の多くも、放り出されてしまった。卵の殻も同様である。そうなれば死んでしまったのだから、遠慮をするいわれはなかった。

生物は周囲の細胞を同化吸収しながら、急速に学習していった。最初に学んだのは、吸収すると面倒な細胞もあると言う事だった。特に神経細胞を吸収すると、宿主が猛烈な拒絶反応を起こすのだ。そうされると、周囲の細胞を喰らうのに大きな手間暇がかかった。やがて生物は、神経細胞を傷つけずに、他の細胞だけを吸収していく術を身につけていった。

辺りの細胞を丁寧に吸収しながら、次に生物は、細胞の解析強化を始めた。まず最初に、吸収した細胞には改良すべき点が幾らでもあった。例えば、最初に吸収した細胞は消化器官を構成しているものだったが、耐久性に問題があった。自らの細胞になったそれをカスタマイズしていきながら、生物は同時進行で他の細胞も同化していく。最初は無軌道だったが、現在は各器官ごとに、一つ一つ丁寧に同化していった。

やがて、生物は血管や筋肉の同化も開始した。血液やその他の体液もである。解析を終えた後、少しずつ、着実に置き換えていく。神経細胞を避けながら、他の細胞を徐々に乗っ取っていく過程は、自分の細胞をある程度カスタマイズ出来る生物にとっても難作業であった。

皮膚の同化吸収を始めた生物は、大気に触れた。外の空気には、無数の細かな生物が混じっていたが、それを吸収しても面倒なだけなので、放って置いた。皮膚の吸収を始めた頃には、置き換えた赤血球等の情報から、生物には宿主の全体的な形状が分かり始めていた。形的には、縦に細長い。最上部には思考を司る器官が詰まっており、球状に膨らんでいる。神経細胞は、その球状の器官から延びていた。其処から少し下ると、中央部から左右に二カ所、枝状に体が分岐している。分岐した先は末端部で本に五更に枝分かれし、器用に動く。中央部は下に延びた後二つに分岐し、最下端で五つずつに分岐している。此方はさほど器用には動かない。

何カ所か稼働地点はあるが、制限の多い宿主だった。体温を一定に保つために大量の食料を必要とするし、何より構造自体が基本的に脆い。少しずつ自らの勢力範囲を広げながら、自らが生き残るために、生物は宿主を観察し、学習を続けた。

宿主は音を発して、他者とコミュニケーションを取る生物だった。宿主自身は殆ど音を発しなかったが、それ以外の宿主と同種の生物は頻繁に音を発していた。その度に宿主は様々な反応を示した。生物は音を全て記憶しながら、器用に神経細胞を避けて、体の殆どを乗っ取る事に成功した。無論元の細胞の形質を残しているし、随意筋の類は宿主も干渉力を持っている。だが、根本的な力関係は、もう逆転していた。

後残るオリジナルの部分は、殆ど思考器官と神経細胞だけになっていた。赤血球などを使って、思考器官の仕組みを生物は理解していた。思考の際に走る特定の電流や、流れる特殊な波長も。このまま神経細胞も全て吸収してしまっても問題はなかったのだが、奇妙な興味が、生物をその行動に駆り立てた。即ち、宿主とのコミュニケーションである。実のところ、これは生物の本能だった。体を乗っ取った後、宿主と共存関係に入るのが、この生物の特徴だった。それにより、同種の生物の中にとけ込みやすくし、自らの身を守るのである。

「おい」

音を避け、生物は宿主の思考器官の内部で流れる波長のみで語りかける。それに対し、宿主の反応は意外な物となった。音で、しかも意味を為さない反応を示したのである。

「い、いやああああああああああああああっ!」

宿主は、何処にそんな力が残っていたのかと言うほど、激しく暴れた。周囲の環境を光学的に分析する器官から液体を流しながら、激しく肉体を周囲の環境に打ち付けた。すぐに宿主と同じ生物が複数現れ、宿主の体を押さえつけ、栄養摂取口から異物を流し込んだ。宿主はしばし暴れていたが、やがてぐったりし、力無く横たわった。神経細胞に、何か特殊な化合物が染みこんだからである。他の個体は、それを見届けると、別の所へ行った。

「おい」

宿主が大人しくなったのを見計らって、再び生物は語りかけた。宿主は体をびくりと震わせ、縮めた。

「聞こえているはずだ」

「……い……いや……!」

「何故音で反応する。 思考で反応しろ」

先ほどから宿主の思考回路は、機能を損壊したように、無数の恐怖と嫌悪が飛び交っていた。生物は自らも多少混乱しながらも、続けた。

「聞こえないわけはない。 何故反応しない」

「いや……助けて……」

「何から助ける」

「……っ!」

光学分析器官から液体を流しながら、宿主は更に体を縮めた。生物は混乱した。何故明確な意志を伝えているのに、コミュニケーションが取れないのか、理解出来なかったからだ。

しばらくすると、宿主の思考は一定で安定し、動きも極めて微少になった。どうやら疲れ果てて眠ってしまったらしいと気づいた生物は、しばし時間をおいて、もう一度コミュニケーションを図る事にした。

 

しばらくすると、宿主は目を覚ました。眠ったふりをしていたが、生物にはすぐ分かった。生物は、また語りかける。

「おい」

宿主は再び体を縮め、生物は諦めずにコミュニケーションを試みた。

「聞こえているのは分かっている。 返事をしろ」

「……」

「おい」

「……誰……なの……?」

膨大な恐怖と一緒に、ようやく弱々しい返事があった。相手の動揺が収まるのを待ち、少し間をおいてから、生物は続けた。生物にとって、今の質問は難しく、返答を考えるのに少し手間取ったという理由もあった。

「誰と言われても、適当な言葉が思いつかない」

「この間飲まされた、卵……?」

「おそらくそれだろう。 今では充分に成長し、お前の肉体の大部分を乗っ取る事に成功したがな」

「……」

激しく宿主の恐怖と怯えが飛び散ったが、先ほどまでに比べれば大分落ち着いてきていた。生物は、少しまた落ち着くのを待って、宿主に語りかけた。

「固有名詞がないと呼びにくい。 何と呼んだらいい」

「……クラナ」

「そうか。 今後はクラナと呼ぶ」

「貴方は……?」

そう言われて、生物は自身を定義した事がないのに始めて気づいた。元々宿主のような存在とは根本的に異なる訳だし、定義する意味も思いつかなかったのである。極端な話、コミュニケーションを取る相手がそもそもいなかったのだから、自身を定義する事が無かったのは、必然であったとも言えた。結局、生物は相手に譲歩する事にした。

「好きに呼べ」

「お名前、ないの?」

「ない。 自分を定義する必要性がなかったからな」

「……よく分からないけど、少し親近感がわくかも」

クラナがそう呟き、生物は疑問を感じた。別に遠慮する必要もないので、そのまま生物はそれをぶつけてみる。

「どういう意味だ?」

「お父さんとお母さんに、私、売られたんだ」

膨大な悲しみが再びクラナの中で溢れて、落ち着くまでしばし時間がかかった。身を縮めて、クラナは呟く。

「恐いよ……」

「何が恐い」

生物の素朴な問いに、クラナは答えなかった。両者のコミュニケーションは始まったばかりだったが、早くも暗礁に乗り上げようとしていた。

 

2,暴走

 

生物はクラナと、根気よくコミュニケーションを取っていった。宿主の体をある程度好き勝手に動かせると言っても、圧倒的な能力的アドバンテージがあるわけでもないのだ。元にしている細胞を極限まで改良してはいるが、逆に言うとその程度の代物でしかないのである。もっと肉体的に頑健な生き物を宿主にすれば、地上最強の戦闘能力を得る事が可能だったかも知れないが、現在望みうるのはせいぜい人類最強程度だった。更には、成長期が終わったため、もう急速な成長と形態変動が不可能になっている。例外的に、右手には形態変動可能な細胞を集めてはあるが、これもある特定の変動しか出来ない。あまり取りうる選択肢は、多くはなかった。

思考を分析して、少しずつ単語を覚えていく。体の各部所の名前は、すぐに覚える事が出来た。様々な単語に関しては、同時に流れる思考を読んだ方が、理解が遙かに早かった。クラナが二度ほど寝起きした頃には、ほぼ淀みなくコミュニケーションが取れるようになっていた。

クラナは生物に、クヌムと名付けた。これはクラナが友達だった、犬の名前だと言う事であった。今はどうしていると聞くと、クラナは言葉を濁したが、思考は正直だったため、クヌムには分かった。食料が足りない時に、解体して食べたのだ。クラナは思考を読まれると怯える。何度かの実証でクヌムはそれを学習していたので、二度と同じ話題には触れなかった。基本的にクラナはクヌムの事を恐れていたが、別にそんな事はどうでも良かった。それより問題なのが、明らかにこの場所が、生存に適していないと言う事であった。

クヌムは急速に人間社会の事を学習していったが、此処がその中でも、最も生存環境が悪い場所の一つだと言う事は、一目瞭然であった。得られる食料が最悪の品質の上に、毎日のように死人が出て、その分補充が行われている。クラナがいつ死人の列に並ぶかも、分からない情況であるのだ。断末魔の悲鳴等、聞き飽きるほどに響いてくる。クラナがいる場所の目の前を、死体が引きずられていく事も珍しくはなかった。しかもその死体の殆どが、人間の原型を止めてはいなかった。

クラナが牢屋と言う所に閉じこめられ、殆ど光を浴びる事が出来ないのも痛い。クヌムが分析した分では、ある程度光を浴びた方が健康によい性質の細胞を持っているのに、今はそれは望めないのである。更には、かなり重量がある物体を、鎖で足にくくりつけられているのも問題であった。こんな物があっては、敏速に動く事が出来ない。どんな生物でも、生存環境を改善しようと自分なりの努力をするものだが、クヌムに関してもそれは同じであった。

時間を掛けて、クヌムはクラナから可能な限りの情報を引き出していった。また、本人には無断で脳を調べ、記憶の分析も開始していた。これはかなり難しい作業で、到底記憶の全てを把握する事は出来なかった。だが、クラナが思考する際に、脳細胞の一部が反応する事。その脳細胞を解析すると、思考に関連する情報が引き出せる事。等の情報は判明し、さらにコツも掴め始めていた。ただ、脳に備蓄されている記憶は膨大であり、脳を傷つけないように丁寧な作業をするとなると、どうしても効率が悪いし、時間も掛かるので、そうおいそれと使うわけにも行かなかった。

クラナ本人が引き出せるかどうかとは裏腹に、脳には知覚した事に関する記憶が全てあった。無論、此処に移送された際の、内部構造の記憶もである。ただ、通ってきた道だけの記憶であるが、無いよりは遙かにましだ。肉体的には極めて脆弱だが、総合的にはそれほど弱い生物に寄生したわけではない事を知り、クヌムは少しだけ安堵していた。

表と裏の両側からクラナにコミュニケーションを取りつつ、クヌムの学習は進んだ。当面の目標は此処を移動する事であり、そのためにはまだまだ情報が必要であった。鼓膜や眼球の能力も強化していたから、音声や光学による情報収集はそれなりにはかどりはしたが、それにも限界がある。それに、急に耳や目の感度が良くなった事を、クラナは気味悪がっており、ストレスが増加していた。クラナの臍が曲がると情報収集にはあまり望ましくないし、抵抗されれば神経細胞は向こうが握っている分、ある程度の能力低下も引き起こされる。である以上、コミュニケーションは丁寧にこなさねばならず、それは当然時間のロスも産んだ。やがて、それが致命的な事態を産んだ。

 

不意に大きな音が響いた。クラナがはっと顔を上げた時、既にクヌムは音の発生源を特定していた。今いる場所からさほど遠くない場所であり、つまり危険があった。

最近は大分クラナが思考で会話する事になれてきており、多少動揺していたにもかかわらず、思考でクヌムに語りかけていた。語りかける内容と同時に、恐怖と困惑がにじみ出し、それは発汗と体温変動も伴っていた。

「どうしたんだろう」

「何処かの鉄格子が、内側から砕かれたようだな」

「ええっ?」

「……発生源にいたらしい人間は、ここのところずっとうめき声を上げていた。 それに、そのうめき声のトーンが、徐々に太くなっていた。 何かあったぞ」

クヌムの言葉が終わるか終わらないかという時に、更に又大きな音がした。ついでに悲鳴が響き渡り、それはすぐに断末魔に変わった。クラナが思わず耳を塞ぎ、クヌムが舌打ちする。

「いやあああああっ!」

「よせ。 耳から手を離せ」

「やだ、やだあああっ! 恐いよ、恐いよぉっ!」

「情報の収集を優先しないと死ぬぞ。 耳から手を離すんだ」

小さく悲鳴を漏らしながら、おそるおそるクラナが耳から手を離した。周囲の喧噪は大きくなり始めており、必死に牢を叩いている音も聞こえた。再び悲鳴と断末魔、それに鋭い音が響いた。様々な音が重なり、続けざまに届く。クヌムは、それらが交戦の音だと、自然に悟っていた。

「動くな、クラナ」

「え?」

「寝たふりをしろ。 目立たない方がいい」

「う、うん」

クヌムがそんな風に言ったのも、交戦の音が徐々に近づいているからだ。震えながらうつぶせに横たわり、こわごわ牢の外に視線をやり続けるクラナ。鋭い音と共に、何かが牢の前を飛んでいった。へし折られた槍の残骸であった。悲鳴が再び響き、肉が潰れる音がする。そして、〈それ〉が姿を見せた。

干渉力を最大限に発揮し、力尽くでクヌムが口を閉じなければ、クラナは悲鳴を上げていた。そして殺されていた事は間違いない。其処にいたのは、縦横共に倍以上にふくれあがり、全身水疱で覆われ、悪臭をまき散らしている巨大な生物だった。全身には槍が突き刺さり、赤紫の液体を絶えず垂れ流している。更に右手には、上半身のない人間を掴んでおり、口をもぐもぐと動かしていた。

「……これは、人間が変化した物なのか?」

「うそ……でしょ……?」

「いや、間違いない。 これが現れた所からは、ずっと人間の声がしていて、徐々にこれの声へと変動していた」

冷静に分析するクヌムの前で、異形は手にした肉塊を口へ運び、食いちぎり、三口ほどで全て平らげた。異形は喉を大きく鳴らしてげっぷすると、ゆっくりと視線を移動させた。寝たふりをしている、クラナ=クヌムへと。悲鳴を上げそうになるクラナを、何度もクヌムは必死で押さえつけた。しばしの沈黙の後、異形が手を伸ばした。物凄い音がして、鉄格子がひしゃげる。長い爪が空中をかき回し、腐った液体が飛び散った。クラナ=クヌムの頬へ、先ほど異形が食べた人間の血がかかった。

「……っ!」

「大人しくしていろ。 まだ、牢は持つ」

蒼白になって声も出ないクラナを、クヌムは押さえ続けた。太い足を振り上げ、異形は牢を蹴りつける。金具が軋み、牢が内側に大きくへこんだ。二度、三度、異形は牢を蹴り続け、凄まじい音が響く。だが次の瞬間、事態は大きく変転した。数本の槍が飛来し、異形の背に突き刺さったのである。数人の武装した男が、声を荒げて走ってくる。怪物は槍を忌々しげに引き抜くと、逃走に移った。その後を数人の武装した人間が追い、更に新しい槍を放り投げた。足跡や、音からクヌムは状況を把握し続けた。異形は曲がり角まで逃げると、追っ手に対してゼロ距離から反撃を叩き付けた。激しい交戦が、しばしの間繰り広げられた。

恐怖のあまり身を縮めるばかりのクラナに対し、クヌムは様々な策を練っていた。その中には、無論今の隙にここから逃げ出すという物もあったのだが、結局可能性の低さから放棄した。異形は足音から判断する限り、かなり巧妙に立ち回って、数に勝る人間と五分に戦っていた。

「頭が良い奴だ」

「いや……神様……助けて……!」

「自分を助けるのは自分自身だ。 今は暫くじっとしていろ」

大きくひしゃげた牢。だが、辺りには何人かの武装した男が走り回り、異形の咆吼が轟いている。今はまだ、逃げるには適さない。しばし死闘は続いたが、やがて数が物を言い、異形の声は小さくなっていった。周囲の者達の指揮を執っている男が、ゆっくり前に進み出た。クラナ=クヌムは、男を見上げ、その手に赤い光が宿るのを確認した。

「とどめだ。 我此処に、契約の神たるジャクルフトが僕を呼び出す。 アルフ・エール・クライフ・バート・ハイム・エルフス・シャールイン!」

言葉の一節ごとに、男の手に宿る光が強くなっていった。そしてそれは、やがて赤い光の矢の形を取った。とんでもなく巨大だが、それは確かに矢の形をしていた。

「ほう、あれはなんだ?」

「きっと、魔法だよ」

「魔法?」

「よく分からないけど、凄いものだって」

クラナの思念を裏付けるように、男は矢を射るような態勢を取り、叫ぶ。煌々と輝く矢が、男の凶暴な笑みを彩った。

「灰燼に帰せっ! セエイッ!」

矢が飛んだ。間をおかずに、異形の悲鳴がとどろき渡った。直接確認する事は出来なかったが、何が起こったかは明白だった。肉が焦げる臭いと、火が燃えさかる音、更には大きな物が崩れ落ちる音も響いた。恨みに満ちた断末魔が聞こえたのは、その直後だった。

「取り合えず、あれは倒れたようだな」

「助かったの?」

「いや、それはどうか、まだ分からない」

クラナの安堵を、クヌムはやんわりと否定した。今までクヌムは、聞こえてきた音声を全て収集し、分析を続けていた。その結果、今までよりも随分と色々な事が分かり始めていた。この場所にいる人間の数や、牢屋の数、更にはその配置。今の騒ぎで、此処にいた人間の五分の一が死んだ事も。〈実験〉とやらの為に、此処に閉じこめられた事も。クラナを始めとして、等に閉じこめられている人間は、〈被験体〉と呼ばれている事も。そしてそれらの言葉に、際限ない侮蔑が込められている事も。

クヌムは知っていた。少なくともクラナの記憶から判断する限り、人間は非常に差別意識が強く、同族に対する虐待意識に満ちている生物だと。つまりこの状況下における被差別対象者が、差別者を大量に殺した以上、何かしらの報復があるというのは自然な思考の末に成り立つ推測である。まあ、クヌムにしても、やられっぱなしでいるつもりはなかったが。今回の一件で通常の人間の戦闘能力は大体判断が付いた。武器を持った成体でも、五人か六人までなら、充分に倒す事が可能だった。

「隙を見て、此処を移動するぞ」

「逃げるの?」

「うむ。 五六人までなら、何とかひねり殺せる。 隙を見て突破するぞ」

「だめっ!」

今までにない強烈な反発を感じて、クヌムは驚いた。クラナは首を必死に振って、更に言う。

「人を殺しちゃだめっ!」

「殺さねば殺される」

「でもだめっ! 絶対だめっ!」

「生存するために、必要なだけ他の命を奪うのは当然の事だ。 どうしても駄目だというなら、論理的に説明しろ」

「理屈なんか無いよっ! 私、人を死なせたくない!」

理屈を相手が放棄した時点で、説得は困難となった。このまま逃げ出すと、邪魔者を排除する途中で、クラナに邪魔される可能性がある。小さくため息をつくと、クヌムはもう一度説得を試みる。

「理屈を放棄するな。 適当に殺せば、此処を逃げ出せる可能性が高いのだ」

「どうして、そんなに命を粗末に考えられるの?」

「粗末に等考えてはいない。 必要な分だけだと言っているだろう」

「……クヌムって、やっぱり悪魔なんだね。 私の事を心配してくれる事もあったけど、人じゃあないんだね」

クラナの寂しい声が、交渉決裂の鐘音だった。

人を殺しては行けない。何故クラナがそんな事を言ったのか、クヌムは自分なりに考えてみた。しかし、どう思考を進めても、結論は出なかった。クラナの中に、同族殺しに対するタブーが存在しているのは分かったのだが、その理由がよく分からないのだ。クラナはそう広い世界に暮らしていたわけではない。だが、それでも同族殺しが行われている、しかも組織的かつ頻繁に、という記憶が残っていた。同族殺しをしなければ、生き残れない情況があると言う事も、理解しているという記憶も残っていた。なのに、クラナは絶対的なまでの反発を示した。

今後生き残るために、露骨に邪魔なタブーは、なんとかせねばならなかった。だが、今の時点で、クヌムには説得を行える自信がなかった。クラナの感情が、理屈を超えた所にある〈優しさ〉に起因すると言う事は程なく分かった。それの一部が利己的な遺伝子のもたらす、保護意識に起因していると言う事も。それは絶対ではないが、故に翻す事も難しい。しばしクヌムは思惑を進めたが、結局答えは出なかった。有効策も思いつかなかった。

足音が複数し、クラナが怯えて顔を上げた。ひしゃげた牢の向こうで、二人の槍を持った男がにやついていた。一人が鍵束を使って牢を開け、一人が牢に入ってきて、足かせを外す。そして牢の外に出ると、人差し指で招いた。目の奥に殺気がちらつくのをクヌムは見て、彼らの考えている事を悟った。

「出ろ」

それは、一種の死刑宣告だった。

 

3,業火

 

辺りには血の臭いが充満しており、先ほどの戦いの激しさが伺われた。歩くのは始めてであったから、クヌムはクラナのやり方を急いで学習していた。二足歩行のみに特化した生物であることも、歩きながら改めて理解していた。

「ほら、入れっ!」

声や立てる音から、クヌムは周囲を分析し続けた。武装した男達に追い立てられて、牢の中に閉じこめられていた者達が、広場に集められていく。研究所の半ばほどにあるその広場は、天井が無く、地面はならされていた。クラナ=クヌムを始め、牢に入れられていた者達は、その中央へ集められた。

集められた者達には、異形と化している者が珍しくもなかった。体の一部を失っている者も少なくなかった。武装した連中は一貫して彼らに侮蔑の視線を向け、それには殺気も籠もっていた。わざわざ天井がない場所に集められた理由を悟り、クヌムは呟く。

「まずいな」

「どうしたの……?」

「殺されるぞ」

「……っ!」

武装した男達を指揮していた者が指を鳴らすと、槍が一斉に繰り出された。悲鳴が上がり、鮮血が吹き出す。集められた者達は、次々に刺され、内蔵や熱い朱をぶちまけながら倒れていった。逃げようにも、完璧に囲まれている。もし指揮官がいて組織的な行動が出来れば、逃げきる可能性もあったのだが、各自が勝手に行動している情況ではそれも無理だった。正に阿鼻叫喚、老若男女関係なく、次々に人が殺されていく。そして実行者の目には、慈悲の欠片もなかった。むしろ、槍を振るい命を奪う男達は、目に歓喜さえ湛えていた。クラナは、目から涙をこぼしながら絶叫した。

「酷い……酷いよぉ……っ!」

「酷いか何かは知らないが、生きるためには動かなくてはならない」

「どうしてこんな情況なのに、冷静なのよおおおおっ!」

議論している暇など今はなかった。包囲網は一秒ごとに狭まり、比較的内側にいたクラナ=クヌムの元へ、槍がどんどん近づいてくる。間をおかずに、目の前にいた老人が突き倒され、ついに槍との間の障害が無くなった。

「ヒヒヒヒヒヒッ、死ねえっ!」

武装した男が、舌なめずりしながら槍を繰り出した。立ち位置をずらすと、クヌムは柄を掴み、ゼロ距離に踏み込んだ。そして相手が対応する間もなく、腹に掌底を叩き込んでいた。本来のクラナの力であれば、相手に小さな打撃さえ与えられなかった一撃は、今や致命傷へと各段な飛躍を遂げていた。手加減無しの一撃に、内蔵が潰れる音が響き、男は無様に吐血して尻餅をついた。それから素早く槍を奪い取ると、周囲の二人を力任せにはたき倒し、指揮を執っている者へ視線を向ける。そして大地を蹴り、一気に間合いを蹂躙した。指揮官はあの時〈魔法〉を使った輩で、しかし動きは鈍い。接近戦等能力に関しては、周囲の男達以下だった。少し手前で跳躍すると、クラナ=クヌムは全体重を掛けて、顔面に跳び蹴りを叩き込んでいた。全身のバネを生かした一撃は、心体技共に揃い、痛烈な物となっていた。

「ぎゃっ!」

無様な悲鳴を上げて、指揮官は他愛もなく地面に倒れた。クヌムは奴の上に乗ると、そのまま槍を回転させて逆手に握り直し、人体の急所である首につき降ろそうとした。しかし、その手を悲鳴が止めた。

「やめてええええええええっ!」

「くっ! 止せっ!」

「お願い、殺さないで! 殺しちゃ……ぐ……っ」

クラナの必死の反抗が、クヌムの動きを鈍らせた。そして、それが致命傷になった。周囲から繰り出された槍が、四方八方から、容赦なくクラナ=クヌムを貫いていた。

「へっ、驚かせやがって」

指揮官がぐったりしたクラナ=クヌムをはねのけ、目に嗜虐的な光を湛えて、顔を踏みつけた。何度も、何度も、何度も。命を身を呈して助けた者の行為をあざ笑い、自分のサディスティックな欲望を満たすために。鮮血が飛び散り、のけぞって笑う指揮官。周囲の男達もそれに習い、楽しみながら殺戮を続けていった。

 

「だから言っただろうが……」

クヌムが意識レベルで呟くが、クラナの意識はもう消えている。優しい心を持ち、人を殺す事を拒んだ娘は、無惨に殺されたのである。めったやたらに打ち据えられ、ボロ雑巾のように切り裂かれた哀れな少女の体は、地面に転がされていた。クヌムは、まだ生きている自分の細胞をフル回転させて、情報収集に当たっていた。牢に入れられていた他の者は、もう既に皆殺しにされていた。

死体が山と積み重ねられていく。クヌムも手足を持たれて、その山に放り出された。必死に肉体の再構築を計るクヌムは、絶望的な事態に直面していた。

まず第一に、クラナ本体は既に死んでいた。直接の死因は、脊髄を槍で貫かれた事である。そしてそれが、クヌム自身の能力低下をも招いていた。傷自体は修復出来るのだが、これから神経細胞を吸収して再構築しても、今後は運動能力に確実に悪影響を及ぼす。

右手に集めていた可変動細胞も、それを改善出来るほどの力はない。短い時間で、十数の選択肢の中から、クヌムは最善と思われるものを選ぶ事にした。

細胞の総力を結集して、神経細胞の修復に入る。修復であり、再構築ではない。更に、右手に集めていた可動可能細胞の半分を、血管から脳へと流し込んだ。既に死んでいる脳の構造を、出来る限り完璧に再生していく。足りない分は、自身の細胞を使って補っていった。

しかし、どうしてもそれは上手くいかなかった。記憶の部分だけは再生出来たのだが、総合的な脳細胞の損傷が激しすぎるのだ。そしてそれは、脳の再起動不可能という結果を招いた。しばし悩んだ後、クヌムは可動細胞を最大限に駆使し、自らの意識を司る部分を、脳へと移していった。今まで力関係はクヌムのほうが上だったのだが、逆にクラナの意識に従属的な融合を果たす事で、脳の再生を果たそうというのである。有り体に言えば、クヌムが生き残るという以上に、クラナを生き返らせる事に重点を置いたのだ。そして脳を再生しなければ、神経細胞の稼働はまず上手くいかない。そして神経細胞が動かなければ、この体に合わせて調整した細胞を、まともには操れないのだ。〈生き残る〉ために、クヌムはありとあらゆる手段を講じていた。

目立たないように外傷は塞いだ。肉体レベルのダメージは大きいが、何とか物質の損失は最小限に抑えた。後は脳を再起動するだけだった。

クヌムには、あまり自我という概念はない。だが、自分のしている行為が、自らの存在を失うものだとは理解していた。しかし、それでも全て失うよりは遙かにましだった。全ての力をかけて、クヌムは脳の再起動を行った。

周囲では、死体の山に何かの液体をかけている。武装した者達は大半が既に広場から消え、残るのは数人となっていた。つまり、またとないチャンスであった。液体の正体が不明であったが、危険である事は確実だ。それでも今脳の再起動に成功すれば、高い確率で生き残る事が出来るのだ。再起動が又失敗し、クヌムは意識を完全に融合させる決意をした。それはクヌムの意識をクラナの意識下へ沈み込ませる事、即ち他者へとけ込む事を、つまりは一種の死を意味した。

融合の過程で、クラナの最深層意識がクヌムの中に流れ込んできていた。其処には、人殺しに対するタブーの根幹的原因もあった。彼女は最も心許していた祖母を、口減らしのために失っていたのだ。それと社会的な道徳が重なって、絶対的な同族殺しに対する嫌悪が産まれていたのである。それを、別にクヌムは悪い事だとは思わなかった。祖母の記憶を肌で感じた事により、生物本能を超えた優しさの概念をある程度理解する事にも成功していた。そしてそれが故に、クラナを無惨に殺戮した人間に対して、始めて怒りをも覚えていた。

原動力になったのは、そうして産まれた、〈人間的感情〉だった。クラナの深層心理を浴びた事によって、クヌムは優しさ、ついで怒りと言った、人間に極めて近い精神構造を得る事に成功していたのである。

「再起動しろ! 死ぬな!」

最後の力を全て注ぎ込み、クヌムは言う。そして、それが彼個人としての、最後の思考となった。ほんの一瞬だけ人間的な思考を得る事が出来た、彼の最初で最後の願いとなった。

 

クラナ=クヌムの肉体が、大きく痙攣した。クラナの中に、クヌムが溶けた。

 

クラナは唐突に、自分が死体の山で寝ている事に気づいた。ゆっくり、確認するように、体の各所を動かしていく。稼働に問題はなく、そればかりか、今までにない力がみなぎってくるのを感じていた。クヌムの記憶も、彼女の中にあった。クヌムに意識と命を渡された事も、クラナは悟っていた。彼女の中で、何かが粉々に壊れ、千々に別れて落ちていった。クヌムと全く逆の現象が、彼女の精神に発生していた。人間的な感情が、粉砕され、急速に失われていったのである。

既に自らを構成しているクヌムの細胞に、以前ほどの力はない。人類最強程度の実力はまだ維持しているが、創造的な発展性が無くなっているのだ。また、右手にクヌムが宿していった機能も、最初に想定されたほどの力はなくなっていた。だが、別にそれでも良かった。生き残るには充分だったからである。

現実主義者のクヌムが人を殺す事を、命を張って止めようとしたクラナ。両親に売り飛ばされたというのに、それでも人の尊厳を信じた優しい娘。彼女に人間が何をしたか。周りの者達に、一体どんな仕打ちをしたか。自ら食い扶持を減らす事を申し出たおばあちゃんに、何をしたか。殺した。殺した。殺した。そう、殺したのだ。クラナ自身が、人間という生物の本質に、既に見切りをつけていた。人間などよりも、無機質で合理主義者のクヌムのほうが、遙かにましだった。

クラナは元々、温かい心を持ち、優しく、だが臆病だった。だからこそに、落ちた時の闇は深かった。優しいが故に、その本質を良く知っているが故に、落ちた時にはその負の側面を強烈に意識したからだ。優しさは同時に弱さでもあった。そして弱さでは、生きる事は出来ないのだ。弱さでは、勝つ事が出来ないのだ。そして勝たなければ、死ぬのだ。死んでしまえば結局全てがお終いだ。嘲笑の中に存在は消えゆき、滅んでしまうのだ。である以上、優しさは、生存の敵だった。

死の瞬間の強烈なイメージは、脳に焼き付いていた。圧倒的な絶望が、身を焦がすように襲いかかってくる。痛みはさほど無いが、途方もない恐怖と、悲しみと、苦しみが、さながら津波のようにクラナを飲み込んだ。おぞましい人間の本性が牙を剥いて、彼女をかみ砕いた。それは千億の理屈よりも、遙かにリアルな現実だった。

千億の理屈、光尽の理想、確かによろしい。だが力無き理想は、死しか産まないのだ。逆に言えば、力のある者は理想でも何でも唱える権利があると言う事だ。そしてそれこそが、紛れもない現実なのである。理想を唱えるには全てにおけるマクロな力が必要で、それがない者は、強者の糧となるのみ。だからこそ、理想を唱え、それを実現させた者は、マクロな意味での力を蓄えた者達だ。

元々別に頭がいい方でもなかったクラナなのに、今は恐ろしいほどにさえ渡っていた。死のイメージと、客観者クヌムとの完全融合が、彼女を覚醒させたのである。此処にいたのは、クヌムに命を渡されたクラナであり、以前の彼女とは別物だった。

ゆっくり、肉体の隅々まで力を巡らせていく。周囲にいる武装した連中は油断し、死体の山になにやら液体をかけながら、談笑までしていた。彼らから死角になる位置に、ゆっくりクラナは移動していった。そして、死体の山から抜け出した。

「そろそろいいだろ」

男の一人が火をすり、そして死体の山へ放り投げた。同時に、凄まじい勢いで液体が発火し、天をも焦がせと炎を上げた。異臭が漂い、周囲に濛々たる煙が上がった。クヌムは死体を燃やすために天井がない場所に連れ出したのだと推測していたのだが、それは的中したのだ。

死体は焼かれると動く。生存中ではあり得ない角度に体を折り曲げ、〈踊る〉のだ。それを槍で時々火の中へ押し戻しながら、愉快げにみやる男達。クラナは自分にかかった油に引火しないように気をつけながら、死体の山を迂回していった。炎が上がったお陰で、敵の目をごまかすには却って都合が良くなった。

一人が、仲間達から離れた。クラナは他の連中の視界を確認すると、その死角に入った瞬間、獲物に飛びついた。そして無造作に、首をへし折った。血反吐をぶちまけた男から槍を奪い取ると、死体を火中に放り込み、クラナは舌なめずりした。敵の数は三体、片づけるのに何の問題もなかった。仲間を呼ばせないように、一瞬で倒す事だけが計画の要項となっていた。そしてそれは、別に今のクラナには、たいしたことではなかった。敵は隙だらけだし、何しろ能力的に絶大な差があるからである。

間を詰める。敵は呆れた事に、至近に迫るまで気づかなかった。一人を無言で斬り伏せ、更に一人の喉を貫く。槍を引き抜くと、残りの一人の首を、手痛く打ち据える。小さく悲鳴を漏らした残り一人が、地面に這い、哀れっぽい目でクラナを見上げた。口の端をつり上げると、クラナはその男の左側頭部を、右手で掴んだ。一瞬の空白の後、男の右側頭部から、鮮血が吹きだしていた。しばし目的のものを掻き出すと、クラナは〈楔〉を引き抜き、手に付いた血と脳漿を舐め取った。白目を剥いて痙攣していた男は、前のめりに倒れ、死んだ。

これはクヌムが残していった能力だった。人間の脳から、直接記憶を吸収、意識を支配下に置く事が出来るのだ。それを行うには、素手で直接人間の側頭部に手を当てなければならない。そうすれば、右手に残していた可動細胞が〈楔〉となって頭蓋骨をうち破り、脳の記憶野を喰って取り込むのである。生きた人間にしなければ駄目だと言う事、大人数がいる場所では出来ないと言う事、実行にはある程度の時間が必要だと言う事を考えると、乱用は出来ず、使いどころを考えねばならない。しかしその反面で、得る物も大きかった。

また、時間制限も出来ていた。強力な分クラナの細胞はエネルギー消費量が多く、常人より多くの栄養を常にとらねばならなかった。くわえて、保存しておけるエネルギー量も少ないため、恒常的な補給が望ましかった。

男の知識から、クラナはこの研究所の構造、所属人数、更には防御能力などをも全て把握した。他の情報も、少しずつ時間を掛けて吸収していくとして、ここから脱出する充分な情報が手に入った事になる。三人の死体を順次火の中に放り込むと、クラナは仕事をするべく、広場を出た。この研究所にいる人間共を、皆殺しにする。それこそが、今後生き残るために、最低限必要な〈仕事〉であった。この研究所の人間を一人でも生かしておけば、必ず追っ手がかかる。生き残るためには、それだけは避けねばならなかった。

クラナは、もう人間を殺す事に対して、何の躊躇いも感じてはいなかった。そればかりか、自分を人間とは定義していなかった。そして人間に対して、致命的なまでの侮蔑を感じていた。

闇の獣、最強の凶獣が、誕生した瞬間であった。

 

4,鮮血

 

今まで殺戮者であり虐待者であった者達。抵抗出来ない弱者を一方的にいたぶる事が出来る、〈甘美〉な立場にいた者達。しかし今や立場が完全に逆転していた。

クラナが振るう槍が、声を上げかけた男の喉を貫く。悲鳴さえ上げずに倒れるその脇を、もう見向きもせずに闇の獣が行く。又一人、音や臭いで獲物の居場所を確認し、死角から近づく。振り向いた時にはもう遅い。繰り出された槍が、喉を貫いているのだ。一人、又一人、更に一人、くわえて一人。一度に二人。次々に消えていく命の灯火。自分でも分からないうちに死ぬ事が出来た、幸運な者も存在した。

外で警備していた者も含めて、クラナは武装した者や、戦える者を一人残らず消していった。現在、クラナはあまり多くのエネルギーを保有していないから、あまり長時間は動けないが、しかしそれでも充分だった。

二カ所ある入り口のうち、一カ所を封鎖した後、外にいる者を皆殺しにしたクラナは、一息ついていた。中にはもう殆ど人間が残っていなかったし、戦闘力を持つ者は既にほぼ全滅していたからである。エネルギーが限界に近づいていたため、クラナは辺りを見回して、食料を探した。根本まで血に染まった槍を放り捨てて。それは三本目の槍であり、捨てると同時に半ばからへし折れてしまった。耐久度が限界にまで来ていたのである。如何に現在のクラナの力が物凄いか、槍の急速な劣化が物語っていた。

寒村で暮らしていたクラナは、食べられる木の実や野生動物に詳しい。辺りの茂みを探って、適当に見繕う。見覚えのある木の葉をかき分けると、先ほど突き殺した男の血に塗装されて、甘い味がするフラットナーの果がたわわに実っていた。以前なら見つければ一日中幸せだったのに、今は山ほど見つけたというのに何とも思わなかった。ただ、栄養補給に丁度良いと思っただけだった。

思考速度や反応速度が増えた分、糖の消耗も多くなっていた。つまり、満足するために取らねばならない分量も増えていた。適当に地面へ実を転がすと、クラナは一番大きな一つを拾い上げ、殻を剥いた。

「あれ?」

小さく呟いたのも無理はない。あれほど硬かった殻を、ふとした弾みに握りつぶしてしまったからである。滴る果汁に苦笑すると、手を舐め、再度手加減しながら殻をむき直す。甘い実を二十個ほど平らげると、無造作に槍を拾い上げ、投擲した。悲鳴が上がり、ゆっくり振り向いてクラナは舌打ちした。入り口から逃げようとした男を仕留めるべく槍を投げた彼女は、当然急所を狙った。だが一撃は大きくそれて腹に刺さり、獲物を即死させられなかったからである。まだまだこの体を使いこなすには、修練が必要であった。

「た、た、助けてくれ、お願いだ、私には子供が、妻子がいるんだ」

「五月蠅い。 黙れ」

身勝手な命乞いをする男に歩み寄ると、クラナは槍を力任せに引き抜き、逆手に持ち替えてつきおろした。悲鳴と鮮血が吹き上がる。引き抜き、また突き刺す。何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。自分がされたように。目には何の感情を宿さず、何度も。相手がただの肉塊になるまで止めなかった。槍は穂先がギザギザになってしまい、つまらないと思ったクラナは放り捨てた。

果実の所に戻り、クラナは食事を再開した。食べている時だけは、以前と同じ優しく無垢な笑顔を浮かべていた。

「足りない」

すぐに実を食べ尽くしてしまったクラナは、茂みをもう一度探り、今度は小型の齧歯類を見つけた。以前なら〈可愛い〉と感じたそれも、今はただの肉だった。目も止まらぬ速さで手を翻して捕獲すると、すぐに捌いて火に掛け、炙って食べた。

体の構造が変わったせいか、腹八分目の感覚も以前とは違っていた。何度か追加で食事を取りながら、クラナは改めて、あらゆる意味で自分が生まれ変わったと感じていた。

外には適当な大きさの池があったので、クラナは手と顔を洗い、取り合えず目立つ汚れを落とした。水は見る間に朱に染まったが、小さな川が流れ込んでいたので、すぐに綺麗になっていった。浴びるほどの量はなかったが、それでも充分だった。

姿を映してみる。襤褸同然の汚い着衣を纏ったクラナ。村にいた頃も裕福ではなかったが、今着ている服よりはましな物を着ていた。ダークグレーの瞳からは、以前のようなプラスの感情が消え、荒んだ殺意と侮蔑があったが、それはクラナにとってどうでも良い事だった。

少しくすんだ金髪も乱れ放題で、無言のまま手櫛で梳かし、殺した連中が持っていた紐を使って縛る。お婆ちゃんが可愛いと言って褒めてくれたツインテールに結ぶ。この髪型は、今でも充分にお気に入りだった。時間を掛けて整える暇はないが、一応の格好が付いたので、クラナは満足して頷いた。

それからは時々逃げ出そうとする者を処理しながら、食物の消化と、体力の回復を、リラックスして待った。圧倒的な実力と、それがもたらす豊かな余裕が、今のクラナの中には、確かに存在していた。

 

エネルギーと気力の補充をした後、クラナは研究所に再び足を踏み入れた。中にいる連中が逃げられないように、所々バリケードを創りながら、生き残りを処分していく。もう残っている者は、殆どいなかったし、抵抗は散発的だった。情況を飲み込めずに右往左往している者は、たちまちクラナの餌食になった。

残る人間は、足音や呼吸音などから判断して五人。いや、今のクラナからしてみれば、五匹というのが妥当だ。そのうち一匹は、声から判断して、あの魔法を使った男に間違いなかった。今から、食べるのが楽しみだった。

五匹のうち二匹は通路をうろうろしていたので、途中で処分した。残りは一カ所に固まっていたので、退路を封じつつ、ゆっくり近づいていった。

三匹が隠れているのは、小さな部屋だった。口の端をつり上げると、クラナは引きずってきた死体の一つを、戸へ倒した。がたんという大きな音がすると同時に飛び退く。案の定戸が内側から吹っ飛び、濛々と煙を上げた。

煙幕が消えぬうちに、クラナは突貫した。敵の位置は、既に音から掴んでいる。槍を持った、一番下っ端らしい男と、あの魔法を使った男と、老人がそれぞれ一匹ずつ。煙を斬りやぶり、真っ先に目に付いた槍を持った男を、一息に突き倒す。そして槍をそのまま放棄し、老人には見向きもせずに、鋭角に曲がって魔法男へ突貫した。魔法男は、第二射を放とうとしたが、そんな暇を与える気はなかった。飛びつき、のしかかって押し倒す。部屋の中にはびっしり文字を書き込まれた紙が大量に積み上がっていて、一部には今の騒ぎで火が点いていた。

この男の接近戦等能力が低い事は、殺された際の激突で明かである。口の端をつり上げるクラナ、引きつった笑みを浮かべる魔法男。拳を振り上げると、クラナはそのまま、男の頸椎をへし折った。もう、此奴に慈悲をかけた事が死の原因であることなど、どうでも良かった。ただ、腹が立っていたのも間違いのない事実だったので、適当な報復を行ったのである。

そのまま魔法男の頭を掴む。粘着質な音と共に、男の右側頭部から鮮血と脳味噌が飛び散った。掌の血をなめ回し、立ち上がり、ゆっくり槍を拾ったクラナの目には、一人生き残った老人の姿が映っていた。

「あ、ああ、あ、あ……」

「……」

「す、素晴らしい……これぞ傑作だ……!」

無造作に殺そうとしたクラナが手を止めた。老人は引きつった笑い声と共に、舌の根を動かし続けた。

「被験体ナンバー199、失敗だと思っていたが、成功していたのか! ひ、ひひひひひひひひっ、素晴らしい、ひひっ!」

「……私が誰だか、知っているの?」

「知っているともっ! このドクター・フンエル、自ら作り上げた試作品は全て知っておる! 被験体に何をしたかも、全て記憶しておる! ひ、ひひひひっ、なぜならそれは、私が創った芸術だからだ!」

目に狂気を湛え、フンエルは独白を続けた。槍の柄で自分の首の後ろを軽く叩き続けるクラナを指さし、言う。

「お前には、古代文明の遺跡から出土した、〈闇の卵〉を喰わせた! 他にも子宮に移植した者、身体の内部に外科手術で埋め込んだ者、様々に実験を行ったが、お前だけが成功したのだな! ひひ、ひひひひっ、素晴らしい、素晴らしいぞ!」

「へえ。 闇の卵」

「ひ、ひひひひっ! さあ、もっと見せておくれ、その力を! ひひひっ、芸術として、光り輝いておくれ!」

皺まみれの手を伸ばすフンエル。せせら笑うと、クラナは右手を伸ばし、その頭を掴んだ。周囲の炎は、火勢をますます強くし、壁や床にも燃え移り始めていた。板が燃え爆ぜる音と、柔らかい物が砕き潰される音が重なった。

 

5,一つの始まり

 

連続して二人の人間を喰ったため、クラナは記憶の吸収と整理に苦労していた。燃え落ちる研究所を小高い丘から見下ろしながら、クラナは素手でひねり殺した鹿の肉を口に運びつつ、それを行っていた。もう殺戮者としての、彼女の顔を知るものはいないから、当分は安心して暮らせるというものだった。

魔法男に関しては、残念ながら行動が全くの無駄に終わってしまった。というのも、魔法という物は使用するのに特殊な才能が必要だと言う事であり、クラナにはそれがなかったからである。あの〈魔法〉という物に関する概念は理解出来たから、それでよしとするべきではあったが、修得出来なかったのは何とも残念であった。

それにしても笑止なのは、最初の男にしても、この魔法男にしても、考えている事の半分以上が生殖行為と言う事である。しかも、〈健康な男性だから〉とかいう意味不明な理由でそれを正当化しているのだ。以前クラナの村の若い娘達が、男なんぞ下半身だけで生きているなどと言っていたが、あながちそれも間違いではなかったと言う事だ。しかもそれ以外でも考えている事と言えば、酒だの金だのばかりで、全く面白くもない意識であった。よって、これからの生活で役に立ちそうな記憶を拾い上げると、もう鎖をつけて、意識の奥底へと沈めてしまった。何が万物の霊長だ。その言葉に対して、クラナは失笑を隠せなかった。

くわえて、フンエルを吸収した事により、何でクラナ達が殺されたのかも、今は理由がはっきりしていた。この研究所で、何が行われていたかもである。

まず最初に、この研究所では生物兵器の研究が行われていた。魔法技術の粋を集め、科学技術の粋を集め、古代文明の遺産をフル活用して、最強の戦士を創る研究を行っていたのである。研究所の中においては、異常者フンエル博士の知識欲を充たすために。研究所の外では、頭が悪い貴族の権力欲を充たすために。そう、それだけのために、数百人の人間が無惨に殺されたのである。まあ、もっともクラナにしてみれば、身を守っただけの事であり、彼らの仇を取るなどと言う事を行ったつもりはなかった。

クラナ達が殺された理由は、あの異形だった。古代文明の遺産である〈闇の卵〉を、外科手術で移植された被験体の一人は、どういう訳か精神の均衡と肉体のバランスを失い、暴れ始めたのである。クヌムの精神を吸収統合した今のクラナは知っている。胃という極めて生存に不適な環境に産まれ、体の殆どを失うという過酷な誕生を体験したクヌムであったからこそ、クラナとの協調を積極的に計ったと言う事を。異形の方は、逆に楽な環境に産まれてしまったが故に、宿主の事をあまり考えずに、結果身を滅ぼしてしまったと言う事を。何とも皮肉な話であったが、事実には間違いなかった。そして異形が暴れた事により、危機感を感じたあの魔法男、即ち研究所の責任者が、一旦被験体を全て処分する事を決定した事も知っていた。クズ共は、行状に相応しい自業自得の末路を、クラナの手で強制的に進まされたのだ。

「どうしようかな……これから」

火に掛けていた鹿肉を取ると、口に運びつつ、クラナは呟く。もう世界そのものに未練はないが、命自体には大いにあった。やがてその気無しに、クラナは呟いていた。

「村に戻ろっかな」

鹿肉を噛みちぎり言うクラナの頬を、燃えさかる焚き火が赤く照らした。ほどなく、闇の獣は、自らが産まれた第二の地を後にした。第一の故郷へ、〈実の両親〉が存在する土地へ向けて歩き出したのである。

彼女の目的は、生き残る事のみ。今はまだ、明確なビジョンも持たず、それが故に力はあっても、歴史にとって重要な存在ではなかった。しかし、それが一変するまで、そう多くの時間は掛からなかったのである。

 

しばし時が流れた後。燃え落ちた研究所に、訪問者があった。完全武装した兵士達とエージェントに護衛された、見るからに育ちの良い男である。細面で銀髪、痩身長躯。グレーのコートを着こなしているこの男の名はトステーヤ=フォン=パールパス。バストストア王国の官僚であり、伯爵の地位を持つ貴族であり、王の忠実なる僕であった。派閥に属していない今時珍しい官僚で、王国の再生を願う王の手足となり、各地で暗躍している男である。支配者階級には珍しく、フオル=バッケスト人ではないが、その有能さには定評があり、今もてきぱきと周囲のエージェントに指示を飛ばしていた。手際は良く、素人目にも彼の有能さは明かである。部下達も彼を信頼し、行動には軍隊以上の緻密な組織性があった。

トステーヤは此処で行われていた〈パラサイト・プロジェクト〉の監視を行い、いざというときは研究所を制圧してその成果を奪う任務に当たっていた。だが研究所が燃えてしまい、しかも関係者が全滅してしまった事で、成果の回収が不可能になってしまった。生存者や資料を捜す部下達の中で、トステーヤは臍をかむ。

「一体、此処で何が起こったのだ?」

「全く見当もつきません。 それにしても、妙な話ですね。 外で見張りをしていた者も含めて、生存者が一人もいないというのは異常です」

「やはり、生物兵器の暴走が原因でしょうか」

「うむ……そうかも知れないな」

転がっている死体に関する報告書をまとめるように部下に指示すると、改めて周囲を見回す。トステーヤは、一つの死体に目をとめ、そして不審に目を細めた。

「何という下手な刺し傷だ。 急所を狙っているのは分かるのだが」

「この槍を見てください。 短期間で、物凄く劣化した跡があります」

「うむ……物凄い力の持ち主が振るったようだな。 しかも刺し傷からして、下から」

へし折れた槍を拾い上げ、トステーヤは唸った。戦い方は的確なのに、武術は下手。技術は最低なのに、力と速さは常軌を逸している。少し死体を調べただけで加害者の特色を悟った彼は、尖った顎を撫でながら言う。

「死体の異常さもそうだが、殺すのに何の躊躇いも感じてはいないようだな。 ……何にしても、普通の人間の仕業ではないな」

「研究所の跡地から、山積みにされた焼死体も見つかりました」

「……これだけの材料から、判断を下すのは無謀か。 各自調査を行い、報告書をまとめて提出せよ。 周囲の住民は近づけないようにな」

「はっ!」

処置を部下に任すと、トステーヤは頭を振り、死臭が漂う研究所跡地を後にした。国家再生のため、王権復活を計る彼には、これ以外にもやる事が幾らでもあった。いつまでも此処にとどまっているわけには行かなかったからである。

何にしても、この一件により、研究所の出資者であるルタインハーフ侯爵を圧迫、上手くいけば派閥を解体する事が出来る可能性がある。生物兵器の研究成果は回収出来なかったが、それだけでも、彼が望む国作りには大いなる一歩だった。

 

バストストア王国と長年戦い続けている、大陸東部の大国アイネスト帝国。若干王国よりも国土は狭いが、より強力な軍を持つ国家であり、人材の質に関してはある程度上回っている。だが、あくまで比較級に過ぎず、腐敗は激しい。特に経済官僚の無能さは有名で、南部の小国家ルフ商連合に、経済関連はのど元を押さえられてしまっていた。

クインサーは、帝国にて不遇を託つ者の一人であった。彼は同僚であるリリセーとコンビを組んで、戦場を五年に渡ってかけずり回ってきたが、全く報われる事がなかった。半ば貴族化している帝国軍人の間では、家柄によって出世の順番が既に決まっており、平民出身の彼には其処へ食い込む余地など無かったのである。

冴えない地味な容貌ながら、中隊長として、クインサーは比類無いほどに有能だった。同じく有能なリリセーと共に、彼は多くの武勲を戦場で上げたが、それが報いられる事はなかった。速攻を得意とするクインサーと、粘り強い防御を得意とするリリセーは若手の軍人の中でも有名だったが、軍の上層部からは無視され、或いは敵視されていた。英才教育を受けた〈有能な〉良家の軍人よりも、たたき上げの彼らが明らかに有能な事は、〈名門出身者〉の優位性を覆す事だったからである。

最近では、後方待機を命じられる事も多くなり、二人の不平は露骨に増していた。特にクインサーは、能力に対する正当な評価を欲するタイプであり、最近の軍上層部の行動には大きな不満を感じていた。飄々としているリリセーに対して、酒を飲みながら、彼は良く愚痴をぶちまけたが、それで解決する事など一つもなかった。

愛国心など皆無であり、いつもマイペースのリリセーは、時々とんでもない発言を平気でする。無論、二人っきりの時だけであったが。

「いっそ、亡命でもしてみる?」

クインサーは思わず吹きだしていたが、強烈な酒を平然とあおりつつ、リリセーは更に続けた。髪を後ろで大雑把に縛った、女っ気の無いリリセーは、人好きのする笑みを浮かべつつ言う。この辺が、リリセーとの接し易さを創っている要因だった。事実彼女は、とても親しみやすい人間として、周囲の男女に認識されている。

「これ以上キミの愚痴を聞くの飽きちゃったもの。 軍事機密もって亡命する?」

「……」

「ボクは別にどうでも良いよ」

「……そうだな、それも面白い」

笑顔を浮かべている親友に、クインサーは苦笑した。

「だが、まだ時期ではないな」

「じゃ、時期が来たら亡命する?」

「そうだな……時期が来たらな」

「具体的には、どんな時期が来たら?」

マイペースな分、リリセーの言葉は時に容赦ない。だが、クインサーも、自身のペースを決して崩しはしなかった。

「仕えるべき主君が、もし向こうにいたらな」

「アハハハハ、じゃ、当分無理だね」

王国軍の無能さは、帝国内部ではもはや笑い話の種にさえなっている。現在、王国軍に、有能な将帥はいないと言っていい。

物騒な話はそれで終わり、二人はひとしきり痛飲すると、翌日に供えて別れた。彼らのどちらもが、この時は冗談のつもりだった。

 

歴史の加速が始まっていた。王国に誕生した強烈な闇の因子が、収束と胎動へと歴史を動かし始めたからである。今はまだその干渉力は小さく、干渉意志も弱い。だがそれは日を追うごとに、確実に力強さを増していった。

この時点では、まだ因子が産まれただけだった。だが一つの村を滅ぼす事により、その因子は、自主的な意志で歴史を動かす事を決意する。ただし、それはあくまで自分のために。千億の民のためなどではなく、自身が生き残る、ただそれだけのために。

まだ、〈平和〉が来るまでは、幾分かの時間が必要だった。

 

(続)