忠誠の理由

 

序、無二の忠臣

 

ルルシャは忠臣である。単なる忠臣ではなく、無二の忠臣だと行っても良い。戦の天才と言われ、兵士達の信任が篤いながら、何処か得体が知れない人物として畏怖される王国元帥クラナの、文字通りの忠臣だった。

忠臣と言っても、その働きは決して華美ではない。その活動も、普段は身辺警護と言った地味な任務が主であり、存在感もあまりない。それも当然で、ルルシャの本業は諜報や暗殺と言った裏側の任務だったからである。ルルシャは口数が少なく、しかも被差別民族であるブフト人であったから、その交友関係は極めて希薄であった。しかし、部下達は彼女の的確な指示でいつも正確な効果を上げていたし、同僚にも彼女の有能さを疑う者はいない。実力主義に基づいて集められている、俊英揃いのクラナの部下達でさえ、その実力は認めていた。ルルシャは言うならば泥よけ役であり、王国最強どころか大陸最強をうたわれるクラナ軍団の影だった。それも、途轍もなく有能な。そして有能である事だけが、クラナ軍団で地位を確保している理由であった。待遇は大将クラスとも言われており、しかもそれに誇張はない。

ルルシャはまだ若い。本人は周囲に語らないが、まだ二十代になるかならないかという若さだ。クラナ軍団には若い高級士官が多いが、その中でも特に若い。若い事で有名な主君であるクラナよりも、更に若いのだ。そして、彼女の過去を知るものは誰もいなかった。司令であるクラナを除いて。その得体の知れない経歴は、元々影働きを主とするルルシャを助けはしても、足を引っ張りはしなかった。

ルルシャ自身も、自身の過去について多くを語りはしなかった。彼女が望む事は、クラナに全幅の忠誠を誓い、全力を持ってそのために働き、そしてその結果、正統な評価を受ける事だけだった。

有能で冷徹なルルシャは知っていた。自らが仕える主君の正体を、人間などゴミ以下にしか考えていない、その冷酷な正体を。人間を扱う術を完璧に心得ているが故に信望が篤い主君の、真の姿を。そして、自分とて、道具の一つにしか考えられていない事さえも。

しかしそれでも、ルルシャは良かった。構わない、と考えていた。なぜなら、どのような理由があったとしても、彼女を評価し、きちんと扱ってくれた存在など、両親とクラナしかいなかったからである。

ルルシャの忠誠心は、絶対の物だった。

 

1,破滅の始まり

 

クランツ大陸の西部には、大陸を二分する強国バストストア王国が広がっている。ライバルであるアイネスト帝国より若干古い歴史と、もう少し多い軍勢を保有する大国である。貴族が大きな権力を持つこの国は、体制の劣化が著しく、体中から腐敗という名の膿が垂れ流されていた。英明を持って知られた王国の父祖パスクライトが見たら、嘆き悲しむであろう事は疑いない。それほどに、この国は醜状を周囲に晒していた。

その腐敗した巨大王国の中央北に、小さな村がある。稲作を中心とした農業で生計を立てる小村で、特に有能でも無能でもない領主に納められた、豊かでも貧しくもない土地だった。景色も別に美しくも貧弱でもなく、普通の山に見栄えのしない川が流れ、多少ひび割れた土地には無数の雑草が生えている。そんな村の外れに、ルルシャは産まれた。

ルルシャは王国でも被差別民に属するブフト人の出身者である。かって彼女の先祖はクランツ大陸の上層部を独占、横暴の限りを尽くした。結果、様々な民族の一斉蜂起に会い、結果として支配者階級から被差別民族に転落したのである。もう数百年も前の話であったが、ブフト人の暴政は現代にも伝わっており、差別は容赦がない。それには、人間の根本的な欲求である(公認された弱者を虐待したい)という下劣な感情を押しつけるのに、ブフト人が最適だという理由もあったのである。

虐待を公認された相手に対する、人間の行動は基本的に容赦がない。ルルシャも、幼い頃から、容赦のない虐待に晒されていた。彼女を始めとするブフト人は、村の外れの最も汚い一角に押し込まれていたが、最も過酷な労働を課せられるばかりか、最も苛烈な課税も受けていた。更には王国の方針で、ブフト人に対する密告が奨励されており、更に彼らはまともな裁判を受ける事も出来なかった。ありとあらゆる方面から縛り上げられたブフト人に向けられる様々な暴力は、ルルシャに対しても当然向いていた。

王国の一般的な民族であるシャイルン人に比べて、ブフト人は少し背が高く、肉付きが薄く、肌が白い。髪はダークグレーからレッドが基本で、瞳は黒からダークブルーまで、濃い色が基本だった。この辺は、金髪碧眼が多いシャイルン人と異なる点である。

ルルシャは、ブフト人には珍しいほどに髪の色も目の色も肌の色も濃い。大きな目には光があり、誰も認める愛らしい容姿で、人なつっこい性格のルルシャ。それは普段なら、好かれ愛される大きな要因になったはずである。だが周囲のブフト人達は金のためなら互いを売るほどに心が荒んでいて、ルルシャに構う暇など無かった。そればかりか、逆にシャイルン人には、目立つ事を理由に虐待された。人間の相対的多数はサディストであり、弱者が恐怖に震える姿を見ると歓喜する者が多い。怖がったら喜ばせるだけだと分かっているはずだったのに、器用ではないルルシャは、平然を装えなかった。それが虐めを激化させた。

それでも、優しい両親に心の致命的な部分だけは護られて、ルルシャは育っていった。そして彼女が十歳になった時、事件は起こった。

 

村の子供達と鉢合わせしないように、ルルシャは荒野で遊ぶ事を覚えていた。毒蠍がいて危険な荒野であり、鋭い棘で武装した雑草が茂るその場所は、しかしルルシャには唯一心許せる遊び場だった。何しろ、何もしないのに石をぶつけてきたり、棒でぶってくる怖い子供達が近づかないのである。他にも、子供達が行きたがらない深い森も、ルルシャの庭だった。

蠍は確かに怖いが、いる場所はもうルルシャの頭に入っていた。毒蛇も確かに恐ろしいが、此方から手を出さなければ向こうも襲ってこない事を、ルルシャは知っていた。それに雑草は棘の中に美味しい実をつけるのである。それを取るのにはコツがいたが、何回か怪我をした後には、もう器用に取れるようになっていた。

笑みを浮かべて、ルルシャは実を取っていた。今日は沢山実が採れたので、両親にも持っていこうと考えていた。

無口だけど、優しいお父さん。お父さんはいつも(村のお仕事)にかり出されて、体の芯まで疲れて帰ってくる。それでもルルシャと遊んでくれるお父さんを、この幼い少女は大好きだった。もの静かだけど、とても優しいお母さん。ルルシャが暴力を受けて泣きながら帰ってきたら、いつも慰めてくれる暖かい人。お母さんもお父さんほどではないにしても、(村のお仕事)にかり出される事が多くて、いつも疲れていた。この実が、とても元気が出る事を、ルルシャは知っていた。二人が喜ぶ所を想像して、ルルシャの小さな胸は一杯になった。

村の子供達と出来るだけ出くわさないように、悪路ばかりをルルシャは通る。いざというときも、実を隠す事が出来るように用心しながら。村の子供達は、実を食べもしないのに、ルルシャから取り上げるのだ。そして捨ててしまうのである。そんな酷い事をする者達から、両親のためにとって来た大事な実を、体を張ってでもルルシャは護るつもりだった。此処暫く、どういう訳か彼らは姿を見せなかったが、用心に越した事はない。獣のように辺りをうかがい、最小限の動きで身を伏せながら進む。全てはお父さんとお母さんに美味しい食べ物を食べさせてあげたいから。かっては護られてばかりだったルルシャだったが、今はそんな健気な行動が取れるようになっていた。

食べ物が良くないので、ルルシャは小さい。背が小さいのではなく、痩せている。領主の子は良く太っていて、肉付きが良い。太っている事は、こういう貧しい世界では、それ自体がステータスシンボルになる。村の子供達はそれよりは痩せているけども、ルルシャよりずっと肉付きが良かった。怪我をしても、ルルシャは治りが遅い。だから、自然と山の中を、怪我しないで歩く方法を覚えた。荒野を歩いていても、危険な場所を無傷で避けていける。それが如何に凄い事なのか、ルルシャは知らなかった。やがて、彼女は獣道を抜けて、村のブフト人が押し込まれている最貧民窟へたどり着いた。普段は掘っ建て小屋のような小さな家々が立ち並び、慢性的に不潔な場所。そここそがルルシャの家だった。帰るべき場所だった。だが今は、それも昔になり果てようとしていた。

「……!」

煙が一面に立ちこめていた。何かが燃える音、焦げる臭い。そして、逃げまどう人々の悲鳴。ルルシャは、思わず大事に抱えていた実を取り落としていた。数秒の思考浮遊の後、本能が彼女の精神を水面に押し上げる。彼女の前を、知っているおじさんが慌ただしく通り過ぎた。ブフト人の、ルルシャの家の隣に住んでいる人だった。

「おじさん! おじさん!?」

「ルルシャか! もう此処はダメだ、速く逃げなさい!」

「え……?」

「彼奴ら、疫病が俺達のせいだって……ふざけやがって……!」

何かルルシャには分からない言葉を吐き捨てながら、おじさんは慌ただしく逃げ去っていった。家からは煙が上がっていて、その向こうにはにやにやしながら様子を見ている村人達の姿があった。火に追われて逃げまどう者達を助けもせず、逆に松明を使って火の中へ追い込んだりしている。恐怖に身がすくむルルシャの目の前を、何かが凄い速さで通り過ぎた。悲鳴が上がり、振り向くと、さっきのおじさんの背中に棒が突き刺さって倒れていた。背中から血が流れ、見る間に衣服が朱に染まっていく。強烈に恐怖心がわき出したルルシャは、泣きながら叫ぶ。

「お父さん!お母さん! 返事してよぉ! ルルシャはここだよぉ!」

答える者などいなかった。いや、答えたのは、燃えさかる炎と、立ちこめる煙ばかりだった。立ちつくすルルシャを、誰かが突き飛ばす。ブフト人達は、今ルルシャが来た方へ逃げようとしていた。燃え落ちた掘っ建て小屋の一つが、がらがらと音を立てて崩れ落ちる。正気に戻ったルルシャは、彼らを追って、森の中へ走る。後ろから、凄く怖い音と共に棒がまた飛んできて、逃げる者達の何人かが倒れた。必死に涙を拭い、煙に追い立てられながら、ルルシャはその場を逃げ出していった。もうお父さんとお母さんが、其方へ逃げたかも知れないと思ったからである。しかしそれは、逃げるための言い訳に過ぎなかったかも知れない。

 

何故こんな事になったのか、ルルシャには分からなかった。だが彼女にも、村の人達が今や怖い人ではなく恐ろしい敵である事は、自然に理解出来ていた。一晩中森の中を逃げ回ったルルシャは、燃える家の夢を見て目を覚ました。慌てて辺りを見回すも、当然お父さんもお母さんもいるはずもない。呆然としたまま木に寄りかかるルルシャであったが、彼女に構う者など一人もいなかった。気力を使い果たしたルルシャは、木に寄りかかったまま、一言も発しなかった。涙が一筋、右目から流れ落ちていた。

辺りには、何人か逃げ延びた者達がいた。彼らの一人で、ルルシャのお父さんに(長老)と呼ばれていた老人が立ち上がり、周囲を見回した。

「何人生き残った?」

「此処にいるのは四人です。 カポスと、俺と、長老と、ルルシャと。 他にもいるかもしれませんが、どんなに多く見積もっても、十人は……超えないかと」

「うむ……」

「何で、こんな事になったんだよ!」

「疫病が流行ったじゃろう。 あれがワシらのせいだと、誰かが言い出したのが発端らしい。 まあ、奴らが何でもワシらのせいにするのはいつもの事だしな。 それに悲観するばかりでもない。 まだ疫病は収束しとらんからな。 ワシらを焼き殺した所で、まだまだ疫病が収まるものか。 せいぜい苦しんで、地獄に堕ちればよいのじゃ。 きひひひひひひひひっ」

(長老)は不揃いな歯をむき出して、奇怪に笑った。彼の言う事を、ルルシャは殆ど理解出来なかったが、もうお父さんとお母さんが生きていない事だけは理解出来ていた。無気力に木により掛かり続ける彼女を一瞥し、三隣に住んでいるカポスが更に言う。

「可哀想に、壊れちまってるぜ。 無理もねえよな。 おやっさんもお袋さんも、死んじまったんだし」

「捨て置け。 今は生き残る事じゃ。 今は子供なんぞにかまっとる暇はない」

「生き残るって、具体的にどうすればいいんだ?」

「別々に逃げるしかなかろう。 それと……出自は隠せ。 近くの村に逃げ込むのも止めた方がいい。 遠くの森にでも逃げるか、都会にでも潜り込むしかあるまいの」

三人の大人達は頷くと、ルルシャを置いてそのままどこかへ歩き去っていった。無言で、そのままルルシャはその後ろ姿を見送った。

 

それから暫くして、ルルシャは何かに導かれるように立ち上がって、村から離れるように歩いていった。心は妙に冷えていて、涙ももう流れてこなかった。

村から離れれば離れるほど、森は鬱蒼と深くなっていった。その辺にある物のうち、何を食べられるか、ルルシャは全部知っていた。だから、食べ物には困らなかった。無言の世界で、時々お腹がすいたら何か食べる。荒野で遊び慣れたルルシャの足の裏は丈夫だったから、柔らかい山の土ならどれだけ踏んでも大丈夫だった。蠍や、怖い動物がいる場所も、経験的にルルシャは知っていた。皮肉な話であったが、村を離れた事で、肉体的には却ってルルシャは頑健になった。食物が豊富にあったし、虐待者もいなかったからである。

何回か産まれた村とは別の村の側も通りかかったが、ルルシャは見向きもしなかった。ただ、何かに憑かれたように、ひたすら歩き続けた。瞳から光を失い、言葉を発する事もなく、彼女は生まれ故郷を離れていった。心が完膚無きまでに壊れていたのは、ルルシャ自身も気づいていた。だが、それを修復する手段など、何処にもありはしなかった。

睡眠時間が以前より明らかに短くなっていた。火に対しても、恐怖を無条件で感じるようにもなっていた。幼い少女の心には、致命的な傷が付けられていた。もう悲しむ事さえ止めてしまったルルシャの周囲で、時間ばかりが過ぎていった。

数ヶ月が経ち、時間感覚が完全に失われたある日。ボロボロの着衣を引きずって歩いていたルルシャが顔を上げ、降り注ぐ日光を手で遮った。暫く前から森がとぎれており、草原が続いていた。そして彼女の眼前には、大きな街があった。無言のまま、ルルシャは街へと歩いていった。

 

2,捕縛

 

街の名はリリフトハイル。王国の前線基地の一つであり、近くには堅固な要塞が幾つも築かれ、精鋭四個師団が常駐している武の街である。幾つもの街道が交錯し、戦略的に重要な拠点であるこの街であるが、王国の諸都市同様貧富の格差が大きく、その一角には広大なスラム街があった。其処は、力のみが支配する、文字通りの魔窟だった。公認の無法地帯であり、司法勢力でさえなかなか入る事は出来ず、時々怪物さえ出現した。その一角に潜り込んだルルシャの事など、当初は誰も気にはしなかった。

 

「ガキ共が! ゴミを散らかすんじゃねえっ!」

けたたましいわめき声が響き渡り、小汚い飲食店の店主が顔を真っ赤に染めて大股で現れる。ぱっと浮浪児達が逃げちり、店主は文句を言いながら散らばったゴミを片づける。この街では良くある、ありふれた光景だった。それを見ていたルルシャは、やがて顔を背け、ねぐらへ無言で歩いていった。彼女の手には、さっき要領よくかすめた生ゴミがあった。

特に統率者が無く、不文律も存在しないこの街のスラム街は、野獣が彷徨く森と大差ない場所であった。ある意味完全な形の自由がある場所で、皮肉な話ながら無政府主義者や国家嫌悪主義者には理想の環境である。つまり、ルルシャには実に過ごしやすい場所だった。既に彼女は、人間を別に特別扱いしていない。(動物さん)の一種としか考えておらず、特殊なコミュニケーションを取ろうともしなかった。危険な相手には接近を避け、何かあれば必要最小限のコミュニケーションで切り抜ける。無論言葉も話す事は出来たが、それは犬の遠吠えや鳥の鳴き声と同種の存在と心の奥底で認識している物であり、それ以上でも以下でもなかった。

スラム街の者達から、ルルシャは(獣娘)と呼ばれていた。ずっと森で暮らしていた事は、自然と伝わっていたのである。そればかりか、危険を避ける獣じみた勘や、いざというときの逃げ足や、無駄を一切省いた行動は有名で、極端に少ない言葉もマイナスの印象を更に強めていた。彼女の笑顔など、スラムに暮らす者達の誰もが見た事がなかった。

惨劇から、もう二年が過ぎていた。餓死者が珍しくもないこの乾いた街で、ルルシャは何も問題なく生きていた。普段は、生ゴミを漁って平然としていたし、食べ物が足りない時は、遠くの森まで足を運んで取って来ていた。

今、ルルシャが住み着いているねぐらは、煉瓦造りの汚い建物だった。長年の風化に晒され、中は埃っぽい。建物として劣化が進んでいたが、ルルシャは知っていた。この建物はまだ大丈夫だと。特に苦労もせずに手に入れた夕食を無言で口に入れると、破れた天井を、ルルシャは見上げた。彼女は星空が好きだった。お父さんとお母さんと、一緒に見上げた星空が。これだけは誰とも平等だった、素敵な星空が。お父さんは星について色々知っていて、目を輝かせるルルシャに、色々な星のお話をしてくれた。星になった巨人の話。愛する者に花を手向けた女神の星座。夢半ばにして倒れ、星になってまだ輝き続ける英雄の魂。星が形作る、様々な動物さん達。その過程で、星によって方角を見分ける方法や、季節を知る方法も、ルルシャは自然に学んでいた。北を知るにはハモンド二重線を延ばして、少し暗い北皇星を探し出せばいい。明け方に七つ星が輝くようになれば、もう冬が近い。今はもういない両親の言った事は、ルルシャの脳裏に焼き付いていた。

膝を抱えて、ルルシャはねぐらの隅で丸く小さくなった。悲しみという感情が崩壊した今でも、当時の思い出はルルシャの宝物だった。思い出す事で、ある程度は寒さを凌ぐ事は出来た。だが、心の傷を埋める事は、出来なかった。

 

二年前のあの日以来、ルルシャは眠りが非常に浅くなった。根本的なトラウマが睡眠の妨げに直結し、また安らぎというものを得る事が出来なくなったからだ。それは悲劇であったが、生きるには都合がいい部分もあった。そのお陰で、生き延びる事が出来た事が一度や二度ではなかったからである。森の中でも、いち早く危険を察知して、猛獣の爪から逃れる事が出来た。今いるスラムでも、その力は基本的にプラスに働いていた。

荒野や森の中ばかりで遊んでいた事により、身に付いた力はまだある。相手が危険な存在かどうか、すぐに見分けられるのだ。これは野生動物なら普通に身につけている能力であるが、人間が身につけている事は少ない。スラムで生き残ってこれたのも、この二つの強みがあったからである。

森の中での一人暮らしの方が、ルルシャには向いていたかも知れない。だが、無意識的に彼女は人間の中で暮らす事を選んでいた。その理由に、まだルルシャは気づいていなかった。彼女は心の奥底で、まだ人間に多少の期待を持っていたのである。ひょっとすると、お父さんやお母さんのような、優しい人に会えるかも知れないと言う、甘い希望的な観測が、ルルシャの心の奥底にはあった。だからこの哀れな少女は、スラムで過ごす事を選んでいた。そしてそれは結果として、ルルシャに激闘の人生を強制的にプレゼントする事になった。

膝を抱えて眠っていたルルシャが、顔を少しだけ上げた。ねぐらに誰かが近づいてきたのを悟ったからである。まだ近くにはいない事を確認すると、多少寝起きで動きが鈍い体を叱咤して、少しずつ場所を移動する。そして外へ逃げられる位置まで行くと、聞き耳を立てた。

「此処か? 酷い家だな」

「気をつけろ、崩れそうだ」

「ああ。 それと気づかれると面倒だし、あまり声を出すな」

危険な臭いが会話から漂っていた。そのままルルシャは朽ちかけた戸を開けて、裏口から外へ出た。だが、逃げ切れなかった。裏口には、既に別の者が待ち伏せていたのである。ルルシャも気づかないほど、上手く気配を消していた。そのまま体を掴まれ、口に布をつっこまれる。そして、地面に押し倒され、後ろ手に縛られた。実に手慣れていて、作業には殆ど時間がかからなかった。

「んー、んーっ!」

「大人しくしろ。 殺しはしないさ、殺しはな」

ぞっとするような殺気が、ルルシャを縛り上げた男の目には宿っていた。此奴は猛獣より危険だと、ルルシャは本能的に悟っていた。すぐに表から入ってきた連中も、鋭い目の男に合流し、ルルシャを担ぎ上げた。ルルシャは自由だった足を振って、男の一人の顔を思いっきり蹴飛ばしてやったが、それが却ってまずかった。

「このガキがッ!」

「……っ……」

容赦なく頬を殴られたルルシャは、意識が飛んでいくのを感じていた。

 

目が覚めた時、ルルシャは何処か知らない家の床に転がされていた。辺りには、危険の臭いがした。何人かの男達がルルシャを見下ろしており、その中で一番太った男が、葉巻くわえ、煙ををくゆらせながら言う。頬の痛みもあり、ぼんやりとルルシャはその様を見ていた。

「これが、噂の獣娘か?」

「はい、間違いありませんで」

「何だ、威嚇のうなり声を上げたりとかしないのか? てんで大人しいではないか。 それとも、悲鳴が獣のものなのか?」

男達が左右からルルシャを押しつけ、サディスティックな欲望に顔をゆがめた太った男が、何の躊躇いもなく、火のついた葉巻をルルシャの右肩に押しつけた。火がルルシャの肌を焼く。悲鳴を上げるルルシャを、さも楽しそうに男達は見やる。

「い、いやああああああっ!」

「ほう、良い声で鳴くな。 だが」

太った男が、隣に立っていた痩せた男を蹴飛ばした。呆然とする痩せっぽっちに、太った男は吐き捨てる。

「これはただの子供だ。 何処が獣娘だ」

「いや、それがその。 どうも獣じみた勘を持ってるらしいんすよ。 現に俺達が捕まえに言った時も、アニキがいなければ逃げられてる所でしたし」

「それがお客様に分かるって言うのか? ああんっ? いいか、お客様は面白い玩具を欲しておられるんだよ。 獣じみた勘を持ってるって事が、そんなに面白いのか、お前は面白いのか? てめえ、俺を舐めてるんじゃネエのかっ?」

「ひ、ひっ! す、すいやせんボス!」

太った男は、葉巻に再び火をつけると、痩せっぽっちの眉間にそれを押しつけた。悲鳴を上げてのたうち回る男を見て、ルルシャは恐怖に震えが止まらなかった。人間より怖い獣などいない事を彼女は良く知っていたが、人間の中でも最悪の連中に包囲されている事が明らかだったからである。

焼け付くような肩の痛み。絶対的な恐怖。震えるルルシャの顎を摘んで顔をのぞき込むと、太った男は言う。

「折角手間暇掛けて捕まえたんだし、処分するのももったいねえな。 どれどれ……顔はわるかねえが、こう痩せてると、イロ屋でも客はつきゃしねえ。 それにブフト人じゃ、まともに金払う客もいねえだろ。 やっぱ、お客様に売るか」

「へい。 しかしボス、どうやって売りますか?」

「芸でも仕込め。 それから売りゃ、少しは稼ぎになるだろ」

元々ルルシャは人間扱いなどされてはいなかったが、此処にいたら文字通り殺されかねない事を、彼女は悟った。痛みに唇を噛みながら、ルルシャは逃げ出す事を考え始めていた。

 

3,玩具の復讐

 

故郷の村での生活も酷かったが、此処での生活はそれをも凌ぐ惨さだった。檻に入れられたルルシャは、なにやら(芸)とやらを覚える事を強要され、更に腐臭漂う食物しか与えられなかった。それでも命を落とさなかったのは、スラムでの暮らしで体が頑健になっていた事と、機を計って体力を温存していた事、それに表向きは従順な態度をとり続けていた事が大きい。

それにしても、ルルシャが仕込まれた芸とやらは、意味不明の物ばかりだった。犬のように鳴いてみせる芸や、四つ足で走ってみせる芸。本来の動物が行っている物とはかけ離れた物ばかりであったが、下碑びた声を上げて男達は喜んでいた。要するに、ルルシャには理解出来なかったが、あの太った男が言っていた、(わかりやすい獣の動作)を良く再現出来ていたのだ。

意味不明の狂乱は続けられており、従順なルルシャの態度が男達に油断を強いていった。ルルシャは男達の間で(アニキ)と呼ばれていた、あの鋭い目つきの男だけを警戒していた。奴さえいなくなれば、さらには気配を察知出来るようになれば、逃げ出す事は容易だった。いつも檻に入れられていたルルシャだが、既に針金を確保して、鍵を開ける準備は出来ていた。スラムで暮らした二年間で、自然に身に付いたスキルだった。

商取引という物の仕組みを、ルルシャは薄々ながら理解していた。要は交換に際して金銭と呼ばれる公認の価値物を用いる方式である。その金銭を得るための交換物として、自分が捕獲された事も、そして金銭をより多く得るために、芸とやらを仕込まれている事も理解していた。だが、そんな物につき合ういわれはなかった。

ルルシャがいた小屋には、彼女と同じように時々人間が連れられてきて、すぐに余所へ連れて行かれた。中には泣いて暴れる者もいたが、殴られたり脅されたりしてすぐに黙らされた。いろんな種類の人間がいた。中には酷く醜い者や、体の一部を欠損している者、奇形の者もいた。此処が人間を商取引する中継地点だと、ルルシャは誰にも言われずに悟っていた。そしてここから逃げ出さないと、取り返しがつかない事態になる事も。

恐怖は感じていたが、一方で悲しみは全く感じなかった。どんな目にあっても、もうルルシャの壊れた心の欠片は、戻っては来なかった。

 

檻の中で感覚をとぎすませ、チャンスをうかがっていたルルシャは、不意に顔を上げた。(アニキ)の気配が、何処にもない事に気づいたのである。もう彼女は、充分に(アニキ)の気配を探る事が出来るようになっていた。更に、見張りにさりげなく視線をやると、弛みきっていて酒を飲んでいた。ついに、チャンスがやってきたのである。

酒瓶を傾けた見張りが、俯いてぶつぶつと何かを呟き始める。すぐさま傷だらけの手を伸ばして、ものの五秒で鍵を開けると、ルルシャは音を立てずに檻を出た。既に錆だらけの檻を、音を立てずに開ける方法には熟達している。また、(芸)を仕込まれている際にも、小屋の中を音を立てずに歩く方法をきちんと練習しておいた。まあ、それも絶対ではなかったが、少なくとも見張りには気づかれなかった。ただ、小屋から出るには、そもそもこの部屋の出口にいる見張りを無力化しなければならない。そのまま、部屋の片隅にあった細く小さな鉄棒を手に取ると、ゆっくり持ち上げた。見張りが顔を上げる。同時に左手で逆手に握った棒を、その右目へ、容赦なく突き刺す。先が少し尖っていた棒は、意外なほど簡単に、見張りの眼球へ半ばまでめり込んだ。鮮血が飛び散り、見張りが悲鳴を上げようとしたが、そのまま右手で隣にあった空の瓶を取ると、頭を思いっきり殴りつけてやった。更にまだ握っていた砕けた瓶の上半分を、とどめとばかりに喉へ突き込む。倒れた男は、首から大量に鮮血をぶちまけてひいひいと呻いていたが、やがて動かなくなった。これが、ルルシャが始めて経験した殺人だった。鉄棒を力任せに引き抜くと、血みどろの目玉が一緒についてきた。面白くもないルルシャは、無言でそれを放り捨てた。

ルルシャが辺りを見回し、素早く次の行動に移る。結構大きな音が響いたから、見張りが駆けつけてくる可能性があった。手が温かい血に濡れたが、別にそれはどうでも良かった。人を殺した事に対しても、特に感じたものはなかった。彼らはルルシャにとって虐待者であり、暴政者であり、命を脅かす者であり、それ以上でも以下でもなかった。よって、身を守る当然の行動をしただけだった。そもそも今やルルシャにとって、人間は普遍的に(周囲に存在するモノ)以上でも以下でもなかったし、それ以外の感想等抱きようもなかったのは仕方がない事だったのだ。その感覚は、一般的な人間が他の人間に対して抱いている物とは、大きく隔離していた。おとうさんやおかあさんが存命だったら話は別であったはずだが、それはもう望むべくもない。

瓶の破片を踏まないように気をつけて、ルルシャは素早く小屋の外に出る。閉じこめられていた部屋の中以外は知らない場所だったが、それでも的確に人の気配を探って、鉢合わせしないように上手く外へ出た。返り血が襤褸にかかっていたし、まだ手にしていた瓶の上半分は血だらけだったが、別にどうでも良い事だった。ついに小屋を脱出したルルシャは、自分がスラムの東の果てにいる事に気づいた。無言のままルルシャは疾走し、森へと逃げ込んだ。時々奇異の視線を彼女に送る者はいたが、声を掛けたり、ましてや呼び止める者は一人もいなかった。

 

何とか逃げ延びたルルシャは、美味しい木の実を見つけて、思う様腹へ入れた。腐った食物より、何十倍も美味しい木の実を食べて、ようやくルルシャは一息ついた。

食べ物が足りない時、良く来ていたから、この森の事は良く知っていた。何処に小川が流れているとか、何処に美味しい木の実があるとか、何処が危険だとか。川に手を入れて洗って、乾き掛けた血を流すと、ルルシャは襤褸を脱いで川に入り、全身を綺麗にした。川の浅瀬で、適当な石に背中を預けながら、ルルシャは久しぶりの空を見た。無言の開放感が、彼女を包んでいた。

人間を商取引に使う連中に捕まっていた時期は酷かったが、しかし収穫がないわけではなかった。気配を探る力は嫌と言うほどに向上したし、音を立てずに歩いたり、物を取ったりする技術にも習熟したのだ。更には、結構簡単に人間を殺せる事も分かった。自分より何倍も強い相手でも、隙をつけば簡単に倒せる事も。自分の行動に、幅が出た事に、ルルシャは気づいていた。

「う……ふふふふ……ふふ……」

自然にルルシャの口から笑いがこぼれていた。自分の価値を知り、自分で何かできることを知った、純粋な喜びの笑いだった。

 

しばしリラックスすると、ルルシャは川から上がり、血の臭いがする襤褸を身につけた。そして持ってきた瓶の上半分を手にしたまま、森の中を歩き回って、自分の知識と状況が殆ど変わっていない事を確認した。そして、森の入り口まで引き返すと、予想通りの事態が起こった事に気づいて目を細めた。

(アニキ)だった。奴が何人か連れて、森へ歩いてきていた。ルルシャが森へ逃げ去った事は何人も目撃していたし、不自然な事ではない。それに、村の子供達が、良く(仕返し)という言葉を口にしていた。村の子供達の間にも順位があって、それはいつも変動していた。村の子供達は基本的にルルシャや他のブフト人に暴力を振るってストレスを発散していたが、子供達同士で暴力を振るいあう事もあった。その際、先に暴力を振るった方が、暴力を振るった相手に後で逆に叩きのめされる事があり、その際に返り討ちに成功した子供が(仕返し)だと口にしていた。ルルシャは別に感慨もなく、(アニキ)と六人の男を確認すると、森の奥へ引っ込んだ。(仕返し)など、無抵抗で受ける気はなかったのである。当然善悪の観念などルルシャにはないから、自分を正義だと思って自己正当化する事は無かった。

それにしても、とルルシャは思った。何と(アニキ)の弱々しい事か。以前だったら、恐怖ですくんで身動き出来なくなっただろうが、今の奴は、隙さえつけば簡単に殺せる事が見え見えだった。殺しによって自分の能力が意外に高い事、人間が簡単に死ぬ事を自分の手で学習したルルシャは、わざと痕跡を残しながら、(アニキ)と六人を目的の地点へ誘導していった。もう、敵手がどれくらいの気配を察知出来るのかも、ルルシャは分かっていた。

他愛もなく誘導された(アニキ)は、この森の主である、(バッカス・レイレ)の巣へ足を踏み入れた。レイレは大きな肉食獣であり、人間よりも何倍も何倍も大きかった。頭には怖くて長い角をつけていて、牙は何本も口からはみ出している。前足は大きく丸太のようで、肌は浅黒くとても硬そうである。自分に自信をつけたルルシャも、此奴だけには勝てる気がしなかった。安全な位置まで待避すると、木に登る。木の実を一つ割り、果肉を口に入れながら、ルルシャは高みの見物を始めた。程なく住処を荒らされたレイレが姿を現し、驚き慌てる男達に、容赦なく襲いかかった。

「ぎゃあああああああああっ!」

男の一人が、レイレの鋭く長い角に串刺しにされた。更に一人が踏みつぶされ、剣で斬りつけた一人も、弾かれて木に叩き付けられ、ぺしゃんこになった。ルルシャはその様をよく見た。人間の体の構造や、何処を攻撃すればよりダメージが大きいか、いちいち参考になったからである。更に一人が、レイレの右目を剣で抉り、巨大な前足で蹴り砕かれた。逃げ出すもう一人。残った(アニキ)が剣を構え、気合いと共につきだした。ルルシャは木の実を割りながら、目を凝らす。レイレの口の中に突き込まれた剣は鮮血をぶちまけ、巨体が苦痛に絶叫する。だが勝者もレイレの角で酷く傷ついていて、大きく肩で息をついていた。

「るがああああああっ!」

(アニキ)が吠え、剣を無理矢理引っこ抜いた。レイレが蹌踉めき、横倒しに倒れる。血走った目で辺りを見回しながら、傷ついた〈アニキ〉が叫ぶ。

「ガキが! ふざけやがって! 出てきやがれっ!」

ルルシャはこの手負いを使って、自分がどれだけの力を持っているか、試したくなった。無論、真っ正面から戦っても意味はない。そのまま、わざと気配を少しだけ晒して彼を誘導する。わめき散らしながら(アニキ)はついて来た。だが、森の中で、ルルシャに追いつけるはずもなかった。苦痛に顔をゆがめながら歩く(アニキ)は、今度は泥沼に足をつっこんだ。底なし沼ではないが、ちょっと目には普通の地面と見分けが付かない厄介な場所だ。完全に頭に血が登った(アニキ)は大声で悪態をつきながら、足を引っこ抜き、ようやく乾いた場所に出た。両手で手を突き、呼吸を整える敵手に、またルルシャは気配を少しだけ晒してみせる。物凄い目で獲物は睨んできたが、別に怖くも何ともなかった。

しばらく森の中を引きずり回して、相手を弱らせた末に、ルルシャは完全に気配を消して、忍び寄った。肩で息をつきながら、(アニキ)は木を背にしている。良い判断だが、既に死地にいた。何しろ、ルルシャは彼の真上にいたのだから。

柔らかく木から飛び降りると、ルルシャは、(アニキ)の顔面を鋭い瓶の切断面で切り裂いていた。そして柔らかい落ち葉の上に優しく着地すると、そのまま無造作に、さっきの見張りと同じように喉へ瓶を突き込んでいた。結果も完全に再現され、鮮血をぶちまけながらもがいていた(アニキ)は、やがて動かなくなった。至近から大量の血を浴びたルルシャは、不思議げに血みどろの手足を眺めると、言った。

「汚い」

ただそれだけが、完全な実力で人を殺した、しかも手練れを殺したルルシャの感想だった。

そのままルルシャは、森の入り口へ向かい、さっき逃げ出した残り一人も補足した。殺すのに、さほど手間はかからなかった。

 

ルルシャは倒した人間を身ぐるみ剥ぐと、何回かに分けて身につけていた物を川縁に運んでいった。肉も食べてみようかと考えたのだが、一度口に入れてみて吐き気を催してしまったので、すぐに捨ててしまった。人間の肉は自分の口に合わないと、ルルシャはごく普通の事として学習した。

七人分の衣服はそれぞれに傷ついていたし、丈が会わなかった。素晴らしかったのが、男達が所有していた様々な武器だった。剣は今のルルシャには重すぎたが、ナイフは実に使い心地が良く、何よりも良く切れた。大事に持っていた硝子瓶の残骸と計十七本のナイフを並べて、ルルシャは満足した。

他にも男達は色々な物を持っていたが、その殆どの使い道が、ルルシャには分からなかった。だが元々頭が悪くない上に応用が利く彼女は、試行錯誤しながらそれを調べていき、数日で大体の利用法を理解した。ただ、それには一部間違っている物もあったが、それは流石に仕方がない事ではあった。

実力で手に入れた、食物以外の(たからもの)を、実にわかりにくい所にある洞窟に隠すと、ルルシャは幸せな気分を味わった。自分には、出来る事がある。周囲にいる人間達は、彼女にとって、(怖い存在)ではない。それが分かっただけでも、ルルシャの心はぐっと楽になっていた。

 

4,最強の獣……

 

それから二年が過ぎた。森へルルシャを捕まえに来た者達が何人もいたが、いずれも生きて帰る事は出来なかった。ルルシャは単純に技術としての殺しに興味を持ち始めており、敵を森の中で散々振り回すと、色々な方法で実験しながら一人ずつ殺していった。殺す際にも、相手の挙動を逐一見て記憶し、人を効率よく殺すにはどうしたらいいか、加速度的な速さで学習していった。複数入ってきた時も、当然一人も逃がさなかった。

しばらく森の中で暮らして自信をつけると、ルルシャはスラムの中へ戻ってみた。彼女は殺した相手が身につけていた衣服のうち、無傷で丈があう物を着込んでいた。もう流石に以前の一張羅は汚すぎたし、体に合わなくなってきていた。それに彼女の目から見ても、強奪した服は一張羅よりも見栄えが良かったのである。心の余裕は、お洒落をする事へ多少の関心を注ぎ込み、その結果ルルシャは(たからもの)の一つである小さな鏡を見ながら、髪を結んでみたり、入手した服の幾つかを着比べてみたりしていた。流石に、化粧をする事までは、まだ考えなかったが。スラムの者達は、以前とは逆にルルシャを見て怯えるようになっていた。大人数で襲ってきた時を除いて、ルルシャは襲撃者があった場合、それが些細な場合であっても即座に喉をかっさばいて殺したからである。相手が女子供だろうが当然容赦はなかった。女子供に対して、というよりも人間という存在そのものに対して、彼女はタブーを持っていなかったからである。それなりに(スラムの住人の中では)良い服を着ているルルシャは、当初こそは目立って時々襲われたが、すぐにその恐ろしさが伝わり、近寄る者はいなくなった。敏捷で動物的な勘を持つルルシャは、もう真っ正面から戦っても大概の相手は撃退出来るようになっていたのである。その殺人に関する技術は、いつしか熟練者のもの以上になっていた。その上、(汚い)血を浴びずに余裕で相手を殺せるようにもなっていた。

ルルシャにとって、心地よい時代が訪れていた。蔑みの視線、奪う事ばかり考えた視線、暴力を振るって楽しもうとする視線が、彼女へ向く事が無くなったのである。当然、ぶたれることもなくなった。ぶとうとする者は、その場で殺す事が出来るからである。スラムで暗躍する幾つかの組織は、ルルシャを暗殺者やヒットマンとして雇おうとさえしたが、人間と暮らす事に価値を見いださない彼女はいずれも無視した。また、たまにルルシャに物々交換を持ちかけてくる者もいた。そういった輩は、彼女がいらない物を渡すと色々な美味しい食べ物をくれた。お金をくれる事もあったが、ルルシャはそれにあまり興味がなかった。ぴかぴか光る石をあげた時などは、抱えきれないほどの食べ物を持ってきた。

スラムでは充分に大人として認識される年齢になったルルシャは、森にある隠れ家とスラムを往復しながら、気ままな生活を送っていた。時々敵意を向けてくる相手を殺して持ち物を奪い、(たからもの)を奪いながら。最初に自分の価値を確認させてくれた、錆の臭いがこびりついた瓶は、今でもルルシャの大事な宝だった。

しかし、(平和)な時間は、そう長続きはしなかった。

 

いつのまにか、街の側にある、ルルシャが暮らしている森は、スラムの連中に(ルルシャの森)と呼ばれるようになっていた。ルルシャ自身には、別にどうでも良い事だった。それに彼女は、この森には自分より強い猛獣が何頭もいる事を知っていたので、スラムの連中の言葉を聞いても何も感じる事など無かった。

森を通る者も時々いたが、敵意がある者を除いてルルシャは無視した。この森はルルシャの物ではないからである。森の豊かなめぐみは、森に生きる全ての生き物の所有物である。だからルルシャは不要に奪ったり食べたりする事はなかった。森で生きるタイプの人間、例えば狩人や木こりが護っている事を、この娘は自然に知り護っていたのである。

しかしルルシャは、敵には容赦ない行動を常に行っていた。具体的には、敵意がある者は即座に殺して持ち物を奪った。知識に貪欲なルルシャは、殺す際に一度として同じ方法を使わず、常に新しいやり方を取り入れていた。そしてそれによって、加速度的に学習していた。それで力が増す事が、楽しくて楽しくて仕方がなかったのだ。おとうさんに星の名前や、神話を教えて貰った時以来始めて、ルルシャは心の底から楽しいと思えるものに出会っていた。そして、笑顔も取り戻しつつあったのである。血まみれの、闇の笑顔であったが。だが、普通の人間が笑うのと同じ要因で、自然に笑う事が出来ていたのだ。人に傷つけられて笑顔を奪われたルルシャは、人を傷つける事で笑顔を取り戻したのだ。何とも皮肉な話であった。

そんなある日、森に久しぶりに敵意がある者が入り込んできた。数は四人。森の入り口まで気配を消して相手の姿を確認しに行ったルルシャは、木の上で目を細めた。実に恰幅がよい連中で、かなり強力な武装に身を固めているのだ。以前ルルシャは遠巻きに、戦に行く(騎士)と呼ばれる連中を見た事があったが、其奴らのような姿形であった。話し声は、風を通して伝わってきた。

「何とも平和な森だな。 そんな恐ろしい奴が、本当にいるのか?」

「はっ、ぼっちゃま。 ルルシャと呼ばれる凶暴な娘で、今まで三桁に達する人間を殺しているとか」

「そうだな、あれだけの懸賞金を掛けられているのだものな。 ならばそうなのだろう」

「お気をつけ下さいませ、ぼっちゃま。 油断してはなりませぬぞ」

それにしても、大げさな話で、ルルシャは苦笑していた。今まで彼女は四十人くらいの人間を殺して身ぐるみはいだが、三桁にはまだまだ遠く及ばない。また、敵は多少の使い手が一人いるものの、大した連中ではない。重武装の相手と戦う術も、既にルルシャは知っていた。

敵は森の中で、なにやら話し込みながら歩いている。愚行の極みだが、その自覚もない事は疑いない。話の内容を総合すると、(家督相続)とかいうもののために、一番威張っている一番良い鎧を着た男が、(武勲を上げる)、具体的には(強敵)を倒す必要があると言う事だった。しかも話を誇張するためには、非合法で倒しやすい相手が良いとかで、一匹狼のルルシャを狙う事にしたらしい。まあ、理由が分かった所で、ルルシャにはどうでも良い事だった。話し込む連中は、ただの(たからもの)をもたらすための肉の塊にすぎない。木の枝の上を渡りながら、ルルシャは敵の装備を一つ一つ確認していった。知らないものばかりで、倒すのが今から楽しみだった。

敵の一人がボウガンを手にしているから、それには重々の警戒を払う必要があった。今のルルシャは、以前彼女の家を焼いた連中が、このボウガンを使って矢を放ち、周りの者達を殺した事を知っていた。あの棒が(矢)であり、槍や剣よりもずっと恐ろしい武器である事も。気配を消して、ある程度の距離を置いてついていきながら、ルルシャは適当な地点でナイフを二本取りだした。

森の中に、幾つかルルシャはトラップを仕掛けている。また、この辺りの地形は、枝の一本に至るまで頭の中に入れている。まず最初に狙うのは、連中の一人、一番腕が立つ上に、ボウガンを手にしている男だった。分かる程度に、頭上で気配を示してやると、弾かれたように男は顔を上げた。顔を上げるタイミングや角度すらも計算に入れて、既にナイフは投擲されている。二本のナイフは、これ以上もなく正確に、男の両目を抉っていた。

「ぎゃああああああああっ!」

悲鳴を上げた男がボウガンを撃ってしまい、これがラッキーパンチになった。今一人の背中に矢が突き刺さったのである。悲鳴を上げて倒れる部下を見て、良い鎧を着た男が、剣を引き抜いた。

「おのれ、けだものが! 其処にいたか!」

言葉は威勢がいいが、残念ながら力量が追いついていない。ルルシャはわざと分かるように、敵を目的の方向へ誘導していった。残った二人が、わざわざ追いついてこれる速度で、である。敵は追ってきて、そして狙い通りの場所にはまりこんだ。以前、(アニキ)を誘い込んだ沼地である。盛大に悪い足場にはまりこんだ敵リーダーは、情けない悲鳴を上げた。

「うわあっ!」

「ぼっちゃま、大丈夫で……ぐがっ!」

リーダーでない方の眉間にナイフを放ち、それを命中させたルルシャは、悠然と最後の一人の前に姿を現した。こんな足場の悪い場所では、重装鎧はただの鋼鉄製棺桶に過ぎない。必死に身を起こそうともがく男の顔をのぞき込むと、ルルシャは心底嬉しそうに言った。笑みさえ浮かべながら。

「いいもの持ってきてくれたね。 珍しいものばかりだよ」

「ひ、ひいいっ! た、助けてくれ! ケダモノが見た事もないほどの金をや……」

最後まで、男の演説は続かなかった。屠殺するように、手慣れた手つきで、ルルシャが彼の喉を切り裂いたからである。

 

鎧やら何やらを何度にも分けて運んで、ルルシャは満悦だったが、安泰な生活は其処までだった。興味がなかった兜を物々交換に持っていくと、どんなものでも喜んで交換してくれるクルスタ老人が、声を潜めて言ったのである。

「ルルシャ、悪い事はいわん。 速く逃げろ」

「……そんな事知らない。 交換してくれるの、くれないの?」

基本的にルルシャは、クルスタとも殆ど会話はしない。必要な事だけを言って、必要なものだけを貰っていく。相手もそれを分かっていたはずなのに、クルスタは食い下がってきた。

「お前さんが殺った相手は、貴族のボンボンだぞ。 今に物凄い数の兵士が来る。 殺されるぞ!」

「だから何? 無駄な会話したくない」

「とにかく。 これは受け取れない。 アンタが強いのは、ようしっとる。 でもな、幾らアンタでも、今度は相手が悪すぎる」

クルスタも物々交換に応じてくれなかったので、ルルシャはがっかりした。更に、クルスタの予言はすぐに的中した。チンピラやマフィアなどとは根本的に装備が違う軍隊が、数百人も森に押し寄せてきたのである。

 

膨大な数の松明が、夜空をこがす。ルルシャは恐怖に体を震わせながら、夜の森を必死に走っていた。

昼間は良かった。ある程度敵をあしらって、逃げ切る事には成功したからである。しかし、敵は新手を次々に繰り出し、夜も休まなかった。そして、無数に列ぶ松明が、ルルシャには恐怖だったのである。

焼き討ちされた夜の事は、まだまだルルシャの中で、強烈なトラウマとなっていた。多少の火は大丈夫になってきたのだが、無数の火を見ると、まだまだ体がすくんでしまうのである。元々感情に素直なルルシャは、逃げるしか出来なかった。だが、森の奥まで行っても、松明は追ってきた。無論、ルルシャは危険な場所を知っていたし、それを的確に避けて森の中を逃げた。だが、幾ら知っていても、ルルシャは人の子だ。それに、恐怖が彼女の判断力を鈍らせていた。無数に揺れる松明が追ってくる。燃え落ちる家、風を切って飛び来る矢、悲鳴、そしてあの無数の視線。ルルシャの脳裏に、あの時の光景がフラッシュバックする。人間には恐怖を感じなくなったルルシャも、火は嫌いだった。火に対する恐怖は、どうしても克服出来なかった。

足を踏み外した。

それに気がついた時は、もう遅かった。ルルシャは六メートル以上も落差がある崖を、転がり落ちていた。

「見つけたぞ! こっちだ!」

「手間かけやせやがって! オラァ、起きろっ!」

痛みに身動き出来なくなっていたルルシャの周囲に、五六人の兵士が集まってきていた。一人が彼女の髪を引っ張り、一人が罵声と共に脇腹を蹴る。どれもルルシャより弱いが、数が多いし囲まれている。痛みに耐えながらルルシャが顔を上げると、後ろにいた一人が背中を蹴りつけた。鋭い痛みと共に、背骨が軋んだ。

「どうする? 此処で首おとしちまうか?」

「そうだな。 あまり色気はださねえほうが賢明だろう」

「報酬は山分けか?」

「そうだな。 六人で分けようぜ。 それでも充分だしな」

頭を掴んでいる兵士が、ルルシャの後ろにいる兵士に顎をしゃくった。その瞬間、ルルシャは残った全ての力を掛けて動いた。目も止まらぬ速さで手が懐に潜り込み、ナイフを取り出す。月光を反射しながら刃は空を斬り、更には髪を掴んでいる兵士の手の筋を切断する。悲鳴を上げる兵士、そのまま自由になった頭を下げて横へ飛び退くと、全身のバネをフル活動させて跳ね起き、其処にいた兵士の顎の下にナイフを突き入れる。柄までナイフが埋まり、白目を剥いた兵士が絶息した。多少足下が覚束なくなっていたが、いつもと違って要領悪く汚い血を沢山浴びていたが、しかしルルシャは振り向く。目には炎が宿っていた。

「私……死なない……!」

「殺れええっ!」

頭を掴んでいた兵士が、鮮血が溢れ出る手を押さえながら絶叫した。残る敵は五人、そのうち四人はまだ戦闘能力が健在である。立ったまま白目を剥いて痙攣している兵士の顎からナイフを引き抜くと、先頭の兵士にそれを投擲する。軽快な音と共に、それは眉間を直撃、兵士が倒れる。逃げ腰になる兵士達。だがルルシャもまた、強烈な脱力感を覚えて片膝を就いた。先ほど崖から落ちた上に、脇腹と背骨に受けたダメージが大きい。兵士は慎重に間合いを詰めながら、斜め左右と後方の三方向に回り込んだ。ルルシャは残った二本のナイフを、ゆっくり引き抜いた。

「シャアアアアッ!」

かけ声と共に、三人の兵士が同時に間を詰めてきた。ルルシャは右斜め前にいる兵士に飛びつくと、ナイフを疾走させ、頸動脈を切断していた。だが力のかかり方が甘く、ナイフは走りきれずに骨にぶつかって止まり、手からはじき飛ばされた。だがそれは意に介せず、振り返りざまにもう一本のナイフを投げる。電光石火、それは後ろに回り込んでいた兵士ののど笛を直撃した。それと同時に、弾かれたナイフが地面に突き刺さる。頸動脈を切断した兵士が蹌踉めき、倒れ込んでくる。そして、残った一人が、袈裟懸けに剣を振り下ろしていた。避けようとしたが、避けきれなかった。正確には、その力も残っていなかった。

絶望的な痛みが、ルルシャの体を貫いた。肩を強打した剣は、そのまま肉を抉るように、飛びずさるルルシャの努力をあざ笑うように肌を切り裂き、丁度胸の中央で抜けた。今まで彼女が殺してきた者達のように、鮮血が吹き上がり、飛び散った。下手なダンスを踊ったルルシャは、崖に倒れかかるように、背を預けていた。更に兵士は、剣を気合いと共に突きだしていた。剣の切っ先は、更に肩の傷を抉った。涙がこぼれ、ルルシャは悲鳴を上げた。

「ああああああっ!」

「へ、へへっ、手こずらせやがって! 今、ぶっ殺してやるからな!」

何かが、無造作にねじ切られるような音がした。兵士が振り向き、そして硬直した。彼の同僚の首が、胴体と泣き別れになり、地面に転がっていたからである。そして次の瞬間、彼は爆音と共に唐竹割りにされていた。冗談かと思えるほどの大量の血が、周囲に降り注いだ。とんでもない剛力の持ち主でなければ、唐竹割りなどと言う事は出来ないのだ。しかも鎧ごとである。立ちつくすルルシャの肩に刺さった剣を、兵士を唐竹割りにした者が抜き、放り捨てた。地面にへたり込むルルシャは、見た。彼女には、分かった。

それは、人間の形をしていたが、人間ではなかった。形は人間の女の子であるが、二メートル半はあろうかという巨大な剛剣を手にしている。かなり小柄であるのに、しかも右手一本で、である。髪型はツインテールで、月光に金髪を撫でさせながら、無言でルルシャを見据えていた。幼さが残る顔立ちだというのに、目だけが違った。其処には、具現化した破壊、恐怖、破滅、そういったものの最上級になる、圧倒的な暴力だけが存在していた。

「い……いや……いや……」

肩を押さえたまま、ルルシャは首を横に振った。目の前にいるのは、かっての村人達のような、絶対者だった。絶対的な力を持ち、根本的に存在が違った。万全の状態でも、百パーセント勝てない相手だった。その後ろには、長身の男と、中肉中背の男が控えていたが、そいつらも強かったにもかかわらず、眼前の(女の子)の前では月と鼈だった。

ルルシャにとって、力を持つ者は略奪者だった。大事な木の実を意味もなく奪い、命を削りむしり取り、おとうさんとおかあさんを殺していった。だから、この眼前にいる娘も、ルルシャを殺すはずだった。奪うはずだった。ぶつはずだった。トラウマが心の奥底からせり上がり、正気を完全に押しつぶしていた。呼吸が乱れ、だが体は動かない。娘はむしろ面白そうにルルシャを見下ろしていた。

「ふうん、面白い反応だな。 これは噂を聞いて、調べに来て正解だった。 良い拾い物だ」

「クラナ将軍、いかが致しましょうか」

「連れて帰るぞ。 ショパン! お前はパートフ卿に今すぐ交渉を行い、此奴を譲り受けろ! クインサー! お前は屋敷に戻り、インタールとライレンに教育の準備をするよう伝えろ!」

「「はっ!」」

二人の男は敬礼すると、すぐに闇の中へ消えていった。クラナ将軍と呼ばれた女の子は、剣を無造作に地面に突き刺すと、腰をかがめ、涙が止まらないルルシャに顔を近づけた。

「心配するな。 暴力は振るわない。 お前の物も、何も取らない」

圧倒的な力が目の前にはあるのに、言葉に嘘はなかった。ルルシャは、相手が嘘を付いているか、いつもすぐに分かった。嘘を付いている時は、独特の雰囲気があって、それを敏感に感じ取る事が出来たからである。だが、嘘を付いている形跡は、目の前の相手からは感じ取れなかった。女の子は更に顔を近づけると、右手を伸ばし、ルルシャの顔に触れた。顎から頬にかけて、なで回すように触れながら、言う。顔は笑っているが、目は一切笑っていない。

「私が望む物は、ただの二つだ。 絶対的な忠誠と、全力を掛けての奉仕。 それ以外の事は、何も望まない。 お前は好きにして良い」

「あ……あ……」

「私は今までお前が接していた者どもとは違う。 私はお前より遙かに強いが、お前から奪わない。 お前に暴力は振るわない。 嘘ではない。 何故か。 それはお前の力が欲しいからだ」

「わたしの……ちか……ら……?」

柔らかく暖かい指が、ルルシャの頬を撫で、髪に移った。さっき崖から落ちた事で、乱れている髪を撫でながら、クラナは続けた。

「私の元に来れば、もうお前はぶたれなくても良い。 堂々とその辺を歩いても、誰にも虐められない。 何も取られなくて済む。 ただし、能力に併せて、荒事はして貰う」

振り向くと、クラナは立ち上がり、何かを持って来た。そして、ルルシャの眼前に置いた。それは、あの大事な瓶だった。始めて人を殺した、瓶だった。力を確認させてくれた、大事な(たからもの)だった。震える、まだ動く右手で、ルルシャはそれを手に取り、怯えるようにクラナを見た。だがクラナは、相変わらず笑っていた。目には、想像を絶する破壊と闇を湛えながら。

「私は、取らない。 お前の物は、お前の物だ」

「本当……本当なの……?」

「本当だ。 もう、分かっているようにな」

こんな事を言う相手は、おとうさんとおかあさん以来、始めて会った。ルルシャの目からは、恐怖ではなく歓喜の涙がこぼれ始めていた。相手が人間ではなくても良かった。何しろ、圧倒的な力を持っているにもかかわらず、ルルシャの物を奪わなかったのだから。そればかりか、その力で護ってくれると約束してくれたのだから。

ルルシャの目の前にいるクラナは、最恐最悪の獣だった。だが同時に、両親を除いて始めて出会う事が出来た、理解者だったのである。

 

元々、ルルシャはさほど欲深いわけでもなければ、貪欲でもなかった。ただ虐めないでくれれば、奪わないでくれれば良いとだけ願う、無欲な娘だった。それがこの様な情況になったのは、周囲の人間達による虐待が原因である。原形をとどめないほどに闇へ歪んだのも同じである。その中から、元々あったピュアな心を拾い上げる事が出来たクラナは、凶暴な獣であったが、人間がバカに出来る存在だったのであろうか。いや、そうではない。クラナに抱きつき、泣き続けるルルシャ。二人を弾劾出来る人間など、この世の何処にいるというのだろうか。いや、いない。

常軌を逸した観察眼と、合理主義。それによって救われた者は、確かに今、月の下に存在していたのであった。

 

5,幸せの形

 

クラナに引き取られたルルシャは、まずその屋敷へと案内された。この国で最強の将軍だというクラナの屋敷は広く、多くのメイドや執事が働いていた。人間は嫌いだったが、その理由がルルシャに対する敵意と虐待である。だが、彼らはクラナが連れてきたルルシャに対し、そんな視線を向けなかったし、行為を行うそぶりもなかった。そんな事をしたらクラナに何をされるか分からないからだと知るのは、少し後の事だった。

ルルシャがクラナに紹介されたのは、インタールという大男と、ライレンと呼ばれる老人だった。インタールは戦闘術の、ライレンは人間社会における一般常識の教師だった。彼らの教育をこなせば、クラナの役に立つ事が出来る。そう思うと、自然と勉学にも気合いが入った。何しろクラナは口約通り、ルルシャから何も奪わず、そればかりか護ってくれたからである。彼女には部屋が与えられ、(たからもの)が並べられた。誰もが目に見える位置にあるというのに、それを奪う物は誰もいない。たまにルルシャをバカにする者もいたが、そう言った者にはクラナから制裁が下った。それら現実を実感すればするほど、ルルシャの勉学には熱が入っていった。

インタールは強かったが、すぐに超えた。元々ルルシャは強いし、強さに対する貪欲さに関しては誰よりも勝っているのだ。だが一方で、ライレンの授業には若干手こずった。それも、少しずつ、そして着実にこなしていった。

「そう言うわけで、敵意を向けてきている相手も、すぐに殺しては行けません」

「理解出来ない、です」

「出来ません、ですな。 ふむ、ではこうしましょうか。 そう言った相手もすぐに殺していては、クラナ様が迷惑します」

「分かった、です。 では、クラナ様の許可を得ない相手を殺しても、クラナ様は迷惑するの、ですか?」

「うむ、筋が良いですぞ。 そのとおりですとも。 言葉に関しては、分かりました、ですがな。 それと、するのですかとつなげる事」

ライレンはルルシャが理解するたびに、暖かい視線を向けてきた。そんな視線など受けた試しがなかったルルシャは困惑したが、やがてそれも心地よくなっていった。そして、この環境にいつまでもいたいと思うようになった。それが、忠誠心を、ますます引き上げていった。

二ヶ月ほどで教育が一通り終わると、荒事にかり出されるようになった。ルルシャは(裏)と呼ばれる任務にかり出される事が多かった。他人の住処に忍び込んで書類を奪ったり、或いは何人か指定された者を殺したり。屋根裏に潜んで、会話を拾ったりもした。その全てに置いて、ルルシャの能力は卓絶していて、周りの人間をぐいぐい追い越していった。クラナの周辺警備も表向きは任されていたが、これはクラナ自身が出鱈目に強いと言う事もあって、形式的な側面が強かった。あくまでルルシャの仕事は、裏がメインだった。

たまに失敗する事もあったが、クラナは次に成功したら必ず許してくれた。失敗しても、(たからもの)を取られる事はなかった。そればかりか、(お給金)と呼ばれる金もくれた。お給金の寡多よりも、成功した際に必ず褒めてくれるクラナの言葉の方が嬉しかった。能力を利用されているのは分かり切っていたが、能力に対して完全に報酬が支払われる事、能力を正当に評価されている事、そして褒め言葉は本当である事が、ルルシャの心をいつも温かくした。

ルルシャの感情は、豊かになりつつあった。失われていたものが、徐々に取り戻されていった。

四年が経った頃には、もうルルシャは同僚の中でも最高峰にいて、(幕僚)と呼ばれるクラナ軍最高幹部の一人になっていた。会議には必ず呼ばれ、無論発言権も与えられていた。中将だの大将だのすごそうな肩書きを持つ同僚達も、ルルシャに暴力を振るう事はないし、奪う事も出来なかった。そればかりか中将以下の幕僚は、ルルシャに敬語を使う事が義務づけられていた。

努力と忠誠心に併せて、適正な報償が与えられる場所に、ルルシャはいた。彼女は、幸せだった。

 

出世の過程でルルシャが手に入れた屋敷には、メイドや執事達が入る事を禁じられた部屋がある。彼女はそこを(宝の部屋)と呼んでおり、鍵が常にかかっていた。仕事が終わると、必ずルルシャは其処に籠もり、一時間は出てこなかった。もしこの時メイドなり執事なりがルルシャに声を掛けると、厳罰を必ず受けるので、この部屋の事はタブーになっていた。ルルシャもクラナの次くらいに畏怖される人物だったので、間違っても陰口を叩く者はいなかった。クラナは得体が知れない所があっても、根本的には人使いが上手く、多少の冗談は許された。一方でルルシャの場合は、下手な事を言うと首をはねられそうな雰囲気があった。実際極端に無口なルルシャは、部下達にもあまり心を開かなかった。

覇道をすすむクラナの開いた重要会議に出ていたルルシャは、多少疲れた体を引きずって、屋敷に戻ってきた。簡素で実用的な上着を執事に預けて、勲章を外すと、机の上に放り出す。そして、それには目もくれず、さっさと(宝の部屋)に向かう。勲章や衣服の管理は執事の仕事であり、完全に任せていたからである。これは要するに、能力に対する信頼であり、彼女なりの部下に対する配慮だったのだが、それは執事には通じなかった。放り出される勲章を手にする執事の顔はいつも気が気ではなく、だが別に心が通じなくてもルルシャにはどうでも良かった。彼女の事は、クラナだけが理解してくれていれば良かったのである。

複雑な鍵を開けて宝の部屋に入ると、入った者がいない事を確認して、ルルシャはカーテンを開けた。月の光が差し込み、部屋の中を濃く幻想的な蒼に塗装する。部屋の中央に設置された安楽椅子に、一番大事な(たからもの)である砕けた硝子を持って座ると、非常に高級で柔らかい布を使って、ルルシャは愛おしくそれを撫でた。

絶対に犯されない場所が、最強の力によって与えられている。その結果、誰も(たからもの)を、奪う事は出来ない。自分の力を確認させてくれた、錆の臭いがする鋭く尖った凶器を、ルルシャは我が子のように、愛しながら撫でていった。息を吹きかけて、優しく布で拭う。月の光を反射させて、美しい光の乱舞を楽しむ。どういう訳か錆の臭いはいつまで経っても落ちなかったが、それで別に良かった。器用に上半分しか残っていない瓶の内側も綺麗に拭くと、ルルシャは(たからもの)に頬ずりした。

闇を生き、闇に見いだされ、その覇業に協力した娘は、今幸せに包まれていた。

 

後にルルシャは公爵になり、神聖統一王国の英雄として、長く歴史にその名を刻まれる事となる。

 

(終)