逃げ切りの人生

 

序、エイハヴの鷹

 

旧帝宮にて、厳かに行われる記念式典。クラナの指揮下にある軍が、帝国を滅ぼした事によって、執り行われたものである。既に帝都での組織的抵抗は止んでおり、クラナの勝利は誰の目にも明かであった。実質的な戦後処理も済んでおり、後は辺境旧帝国集の抵抗戦力を潰していくだけである。

かって大陸の半分を支配した帝国皇帝の玉座は既に撤去され、代わりに質素な座が据えられて、クラナが腰を下ろしている。長い謁見の間には、左右に侍臣が立ち並び、クラナの言葉を待っている。

このめでたい場には王都の留守番部隊を除く、全ての上級士官が集まっていた。いずれも歴戦の猛者達であり、誰もが死線を潜り続けてきた熟練の指揮官達だ。だが、その中には、とてもそうとは思えない者が多数含まれている。

クラナ朝バストストア王国は、人材の宝庫であったことが後々に知られている。身分や出身を問わぬ人材収集体制の結果だが、その中には普通であればとても上級軍人になれないような者も多勢含まれていた。気弱で引っ込み思案なパーシィなどはその典型であろう。轟将と言われたフオメテルも、クラナが引き立てなければ妻想いの下級士官止まりであっただろう。そして不敗の名将と湛えられたルラーテも、そんな色物の中に間違いなく入る一人である。

雄大な体躯とか、筋骨隆々だとか、そういった強そうな形容とこれほどかけ離れた男も珍しいだろう。まだ若いのに、既に頭は禿げつつあり、体もだらしなく弛緩している。顔も美男子とは到底言い難い造作で、当然異性にはもてたことがない。これでそれなりの使い手であれば話も違ったのだろうが、どうして軍人になったのかと教官がぼやくほど、彼は武術が不得手だった。

そんな彼が出世街道に乗ったのは、後に大陸を統一し、後の世から史上最高の名君と称えられるクラナに拾われてからである。

ルラーテは感無量だった。このような場に立つことを許された栄誉が、嵐のように心を駆けめぐっていた。まだ戦いは終わっていないが、もうルラーテの仕事は実質的にない。後は田舎に引っ込んで、幼い頃からの願い通り、何事もなくただ静かに暮らしたいと考えていた。多分クラナはすぐにはそれを許してはくれないだろうが、いつかはその夢を叶えたかった。

クラナが立ち上がる。立ち並ぶ侍臣達に、一斉に緊張が走る。

「皆の者、ご苦労であった。 これで帝国は滅び、今後は大会戦が発生することも無くなるだろう。 平和な時代は、もうすぐ我らの前に来る」

おおと、感激の声が挙がる。感極まって泣き出す者さえもがいた。生けるカリスマであり、畏怖の対象であるクラナの言葉は、皆の心を確かに打った。

恩賞が説明されていく。それぞれに新たな領地が割り振られ、統治するために配下に入れるべき人材や、それに国庫からの報奨金も説明される。これから帝国領で旧勢力の残党に睨みを利かせなければならない者や、王国領に戻り、役に立たなかった旧貴族の土地をも纏めて管理する者、両国の境界部分に腰を据えて情報と人材の流通に力を入れなければならない者、さまざまであった。

ルラーテには、旧帝国領の内、南部の幾つかの州が任された。当然の配慮であった。その辺りでゲリラ戦を繰り返して、クラナの覇道に大きく貢献したのだから。その辺りなら良く人心も把握しているし、何よりルラーテは怖れられている。もっとも、ルラーテの顔を知っている人間は殆どいない。今だって、隣に立っている強面の副官がルラーテだと思っている士官が殆どだろう。

式典が終わる。質実剛健を帝国以上に重視するクラナ軍では、戦勝パーティも極めて質素である。外に務める兵士達にも交代で休憩と酒が振る舞われ、高級士官とはいえども無体に高価な食物を貪ることは出来ない。だが、その質素な食べ物こそが、ルラーテの好物であった。貧相な中年男は、見るからに強そうで威厳がある副官を連れて歩きながら、素朴なテーブルの料理に舌鼓を打った。

「たまには高価な食物を口にされるのもよいかと思われますが」

「いいんだ。 私にとって、一番幸せなのは、今だ」

「良く言っておられる事ですな」

「そうだ。 私には、平穏と、認められることと、その二つだけあればいい。 後は何もいらない。 ほら、貴官も食べよ。 此処にいる者達は皆食い意地が張った戦場の勇者だからな、すぐに無くなってしまうぞ」

部下に皿から料理をよそおおうとするルラーテを、慌てて周囲が止める。流石にそれは部下としても許容できない。

人格的に破綻してしまっている者や、農民や貧民出身の者、たたき上げの軍人という以外に個性が無い人間もいる。中には犯罪組織出身の者すらいるという。人材の坩堝であるこのクラナ軍であるからこそ、皆で自主的に行儀良くしようと言う風潮がある。ルラーテは残念そうに部下達の制止を受けて、自分の皿から鶏肉の蒸し焼きを頬張った。

クラナは玉座のあった場所で、時々高級士官の接待を受けながら、何やら話している。激しい戦いについに終止符を打ったというのに、全く油断していない辺りは流石だ。後で接待に行くとして、ルラーテはこの数年間の事を思いだし、更に認められるまでの長い苦しい日々を思い出して、感慨にふけっていた。

クラナ軍で苦労をしなかった将などいないとは聞いている。今回の帝国軍との決戦で、最も裏側で活躍したルルシャも悲惨な幼少期を過ごしたと聞いているし、大規模な侵攻作戦を可能にしたルングだって似たようなものだそうである。彼女らに比べれば、自分の苦労など大した物では無かったのかも知れない。しかし、それでも喜ぶのは自由ではないかと、ルラーテは思う。

貧相な中年男は、小市民であり、大人物とはほど遠い人間だった。自己愛とも欲とも無縁であり、それが故に特化した才能を開花させる事が出来た。

後にゲリラ戦の創始者とまで歌われる、クラナ軍の誇る影の名将ルラーテは、今はただ素朴な料理を貪り食う、頭の禿げ上がった小男に過ぎなかった。

 

1,逃げ隠れる人生

 

エイハヴ州。大陸を縦断する巨大山脈の東で、唯一バストストア王国の領土として残された貧しい土地である。ルラーテはそこで産まれ育った。

ルラーテに姓はない。水飲み百姓と言われる、貧困な生活を送る小作農の出身なのだから、仕方がない事であった。一家は七人。両親と祖父と、子供が四人。ルラーテはその大家族の、一番下の姉弟であった。上に姉が二人と兄がいたが、姉は早くに嫁ぎ、兄は父の手伝いで毎晩遅くまで畑を耕していた。ルラーテも背が伸びると、すぐに兄と同じ生活をするようになった。

朝、陽が昇ると、もう起きなければならない。

「ほら、おきな!」

母親の蹴りが飛んでくる。背中を押さえながら起きあがると、すっかり老け込んでいる母親が布団を引きはがす所だった。隣に寝ている兄が文句を言いながら、体を起こす。外では目覚めを促す鐘が鳴り始めていた。

ルラーテは兎に角個性のない少年だった。誰にも何かしら美点はあるのだが、ルラーテにはそれが決定的に無かったのである。顔は誰にも覚えて貰えなかった。目にしろ鼻にしろ、特徴のあるパーツが一つもなかったのである。その上背が低く、体格的にも恵まれず。力は弱くも強くもなく、声は高くも低くもなく。そのため、ルラーテは家族にすらあまりよく扱われていない。朝食も質素で、兄の半分しか食べさせて貰えない。

役に立たないからだ。

残酷なようだが、貧しい農村では、それが全てである。飢饉の時には、隣同士子供を交換して非常食にする事すらある。親の命が、子供に対して絶対優先する社会なのだ。

食事が終わると、鍬を担いで、兄と父と祖父と、畑に出る。その間、母は一度も優しい視線など向けてはくれなかった。勿論、他の家族も、である。

エイハヴは貧しい土地である。山々が天をも突かんとそびえ立ち、川は荒れ地を駆けめぐり、木々は少なく、土地は痩せている。何より気候の変動がとても厳しく、冬は凍死する人間が後を絶たず、夏は半裸でないととても農作業が出来ない。冬には家族は寄せ合って眠るが、それは仲がいいからではなく、そうしないと死ぬからだ。魔物の類も比較的多く生息していて、城の中に入ってくることさえある。

こんな環境で、王国が領土を維持できた理由は、農民でも知っている。此処が極めて守りやすく攻めにくい土地だという理由が一つ。もう一つは此処に戦略的価値がほとんど無いという事であった。王国は躍起になってこの土地を守備しようとして城を建設して土地の要塞化を計り、帝国はこの土地に固執する訳にもいかず目を離す訳にも行かず、二〜三個師団の守備部隊だけを配置してお茶を濁す。そんな状況が二十年以上も続いていたのである。

畑に着いた。少し高い櫓で、地主がパンを口にしながら小作農の作業を見守っている。当然奴は文句を言うだけで、作業などしない。鐘が鳴る。作業を始めなければならない。

ルラーテは幼い頃から、一つの歌を聴かされて育った。この土地に遙か古く存在した、一つの王国の物語を歌にしたものなのだという。

「山の中、山の中、ある日月が落ちてきた。 光る月に、蒼い湖、恋をした」

エーイヤホイ、エーイヤホイと合いの手が入る。この合いの手が体を動かすのに極めて的確で、まだ小さなルラーテはこれに併せて楽しく農機具を動かしたのである。鍬を振り上げ、振り下ろす。歌うのは大体最年長者と決まっている。時々、歌が上手い男が居るときは、その者が歌うこともあるという。

妙な話で、ルラーテがその湖が何処にあるのか、そもそも湖とは何なのか聞いて、答が帰ってきた試しがない。疑問を抱きながら鍬を振るう内に、歌詞が進む。

「寂しい山、険しい山、月と湖が畑を作る。 畑を作る。 川がそれに嫉妬して、ごうごうごうごう吠え立てた。 月は無視して、湖は嘆いた。 川は暴れて、畑を流した」

ここでまたエーイヤホイ、と合いの手が加わる。何がエーイヤホイなのか分からないのだが、これが合いの手としては最適なのは事実。ルラーテも一緒になって鍬を振るう。

「月は怖れ、空に帰った。 湖は泣いて、この地を去った。 後は暴れ川が、残るのみ、ああ残るのみ」

合いの手に併せて鍬を振るう。歌は此処でお終いである。この後最初に戻って繰り返す。少年ルラーテも分かるほどに、あまり明るい歌ではないのだが、旋律だけはとても楽しく、体を動かすストレスを軽減してくれる。これを三十回も歌った頃だろうか。昼が来て、食事に手を伸ばすことになる。持ち運びの便利な塩パンがこの地での主食だが、ルラーテの分は不当に小さく作られている。抗議すると両親に説教された挙げ句殴られるので、文句も言えない。

だから、昼飯の時間は、ルラーテにとっては食事確保の時間だった。

ルラーテの村はこの地には珍しい盆地にあり、周囲には小さな林が何個かあった。午後の労働が始まる前に其処に出かけていって、食物を取るのがルラーテの日課になっていた。背が伸びてきて、食べる量が増えてきてからはなおさらだった。取り柄が無く、出来ることの少ないルラーテに対する家族の視線は冷たく、食事を増やしてくれる気配はなかったから、仕方がなかったのだ。

林の中を歩き回り、石をひっくり返す。葉を裏返す。木の幹を叩いてみる。大きな芋虫が見つかればついている。鳥の雛などが見付かれば、とんでもないごちそうだ。自分で見つけた火打ち石で火を起こして、焼いて食べる。口数が少ないルラーテにとっては、至福の時間であった。

だが、残念ながら、それも長くは続かなかった。

茂みをかき分ける音。素早く焼いた芋虫を口に入れると、ルラーテはさっとその場を後にする。

腹が減っているのは皆同じ。いつ頃だろうか。小作農の子供達が、ルラーテがお腹一杯食べている事に気づいたのは。

太い棒を持って現れたのは、ガキ大将だった。体格が良く、強面で、もう女の何人かと関係していると噂されている奴だ。ルラーテのいた跡を見つけて、大きく舌打ちしている。そして一番下っ端のジャックを掴んで地面に引きずり倒すと、容赦なく蹴りを入れた。

「グズがっ! てめえのせいで逃げられただろうがっ! ああっ!?」

「ひい、ひいっ!」

「死ね! 死ねっ! 今死にやがれっ!」

容赦なく蹴りを入れられるジャックを、岩陰に隠れたルラーテは、何の感慨もなく見ていた。逃げおくれれば、ああされていたのは、自分なのだから当然だ。やがてガキ大将は地面を忌々しげに何度も蹴りつけて、部下達を引き連れて帰っていった。

この辺の小作農の子供は、皆それぞれに食事が足りていない。だから、ルラーテが虫や鳥の雛を捕まえるのが上手だと分かってから、搾取が始まったのである。見つけた所を取り上げられて、状況によってはその場で殴られた。親など助けてくれる訳もない。だから、逃げるしかなかった。いつのまにか、隠れるのがとても上手くなった。そして、不思議と絶対に見付からなくなった。

作業中には流石に彼らも突っかかってこない。後は不用意に近づくのさえ避けて、道具から目を離さないようにするだけで良かった。これは才能だった。何も長所がないと、ルラーテ自身も思っていたのだが、それは違ったのだ。

物陰に隠れたルラーテは、捕まえた蜥蜴を木の枝に刺して炙ると、さっさと腹に収めて農作業に戻る。刺し殺すような目でガキ大将が見ていたが、知ったことではない。地主は小作農を奴隷としか見ておらず、ものを言う道具が減ることを良しとはしなかったから、どんな理由であろうと喧嘩は禁止していた。禁を破ると鞭で殴られた。流石のガキ大将も、地主には逆らえなかった。用心棒を何人も雇っている上に、軍隊にも顔が利く地主は、絶対権力者だったからだ。だから農作業の間は平穏無事だった。後は、家に帰るときと、寝てからが不安だったが、それもいつのまにか気配が分かるようになっていたので、何度かあった襲撃も無事に逃れることが出来た。

こうして、上手く搾取と暴力から逃げ隠れながら、ルラーテの少年時代は終わっていった。

 

ルラーテが村を出たのは十四才の時である。一応外で働ける所まで体が出来上がったというのが理由の一つだが、一番大きな要因は親に二択を一方的に押しつけられたからである。

最小限しかない荷物を背負って、朝の内に村を出たルラーテは、一度も故郷を振り返らなかった。むしろ、暗い喜びが口をついて出た。

「二度と帰るか」

ルラーテは言い終えると、ちょっと笑みが口の端に浮かぶのを感じた。それから一気に山の斜面を駆け下り、朝日に向かって走り出す。

両親は言った。

街に仕事場所を紹介してやる。それが嫌なら村を出ていけ。

分かり切ったことであった。両親が周囲の人間同様、ルラーテをゴミ同然に考えていると言うことも。ついでに兄が結婚したので、ルラーテが家の中で邪魔になったという事情もあった。半年ほど前に、同じような理由で祖父が山に捨てられた。次はルラーテの番だったと言う訳だ。

街の仕事とやらが、奴隷労働だというのは分かり切っていた。村から「余った」人間を買い取って、奴隷として使い捨てにする事くらい、ルラーテだって知っている。だから、ルラーテは出ていくことを選んだ。それなのに、両親は、今まで「育ててやった」恩を忘れた行為だとルラーテをなじった。幾ら金を貰えるのか、既に腹の中で皮算用していたのかも知れない。知ったことではない。

村にはもうあらゆる意味で未練など無い。好きな女なんていないし、仮に一時期良いなと思っても、見向きもされなかった。というか、異性以前に人間だと思われていたとは思えない。家族なんて呼べるものはいなかったし、いたとしても向こうはそうだとは思っていなかった。

マイナスの意味でも、プラスの意味でも、もう村には何も残っていなかった。ガキ大将は去年、既に死んでいた。あろう事か地主の娘に手を出して、見せしめに首まで地面に埋められて、なぶり殺しにされたのだ。ジャックはその少し前に「事故死」していた。ルラーテは真相を知っている。ルラーテをなかなか捕まえられないので、ガキ大将の虐めの矛先がそっちに向き、激しい暴力の中頓死したのである。ガキ大将が捕まったのはその直後。ジャックの親が密告したのは間違いなかった。ちなみに、奴が手を出した地主の三女は折檻が過ぎて死んだと噂されている。誰もあの事件の後、顔を見ていないからだ。

同情などしていない。当たり前の話だ。ジャックが死ななければ、ルラーテが殺されていたのだから。みんな死ねばいいのだ。ルラーテは心底そう思う。あきれかえったのは、ガキ大将の取り巻き共だった。誰一人として、親分を庇おうとはしなかったし、率先して被害者面さえしたのである。

人間社会は嫌だとルラーテは思う。出来れば静かに一人で生きたかった。ただ、ルラーテは身体能力から言っても、森の中で一人暮らしする自信はなかったし、今後も社会の中で生き残るしかなかった。それには奴隷として生きる他は、逃げ足の速さを生かすしかない。唯一使い物になる才能はそれしかなかった。

親からも兄からも馬鹿だ屑だと罵られ続けたルラーテも、それくらいの計算はきちんとしていた。

楽しいのは、山を下りている時だけ。街が近づいて来るに連れて、ルラーテは不安を覚えるようになってきていた。逃げ足を生かした職業とは、何があるのだろうか。

まず最初に考えたのがこそ泥だ。だがすぐに考えを撤回する。逃げ足は早くても、あまり頭は良くないのだ。すぐに捕まるに決まっている。足そのものが早い訳ではないから、配達夫だって向いてはいないだろう。ならば、ホームレスとして生きるか、犯罪組織の一員となるか。どちらも縄張りがどうの腕っ節がどうのという世界である。そういうのがルラーテは大嫌いだ。基本的に向いていないとしか思えなかった。

悶々と考える内に、街に着いてしまう。

街に来たのは初めてではない。一度だけ、兄の結婚式用の食事の買い出しで、ついでという扱いで連れてきて貰った。その時は周囲を見ている余裕など無かった。迷子になったら置いていかれるのが目に見えていたからである。今は違う。観察する余裕があった。もう誰にも縛られる事はないし、誰にも遠慮する必要はなかったからである。

家の造りからして、村とは違った。煉瓦の質が違うし、屋根もしっかり張ってある。大通りには人間が溢れ、ざっと見ただけで村の人間全てより多い。家が何処までも建ち並び、通りの向こうには城が見える。あまり背の高い城ではなく、延々と連なる城壁が何処までも続いていた。

「安いよ、安いよー!」

通りを行くと、道の左右に露店が連なっていた。野菜に小道具、服、挙げ句に武器まで売っていた。奴隷も売っているかも知れないと思って歩いていたら、首に輪を付けられたルラーテと同じ年くらいの少年が、虚ろな目で座り込んでいた。案の定だった。こういう状況になることが、あの親に対する「恩返し」で、「恥を知る」行為だった訳だ。笑止千万である。同情心も湧いてこない。一歩間違えば、こうなっていたのはルラーテなのだから。

バザーを抜けた頃だろうか。追跡に気づいたのは。数は二人。徐々に距離を詰めてくる。

そういえば聞いたことがある。街には人買いと呼ばれる連中がいると言うことを。村から出てきたばかりだと、看破されたと言うことか。躊躇している暇はなかった。

角を曲がった途端に、全力で走り出す。

「や、野郎ッ!」

「逃がすな! 周りこめっ!」

怒声が轟いた。危険を感じたルラーテは直進を避けて、また角に逃げ込み、ゴミ箱を飛び越えて暗がりへ走る。追っ手の数が増えていた。待ち伏せしていたのだろう。

「捕まえろっ!」

わめきながら追ってくる三人。更に、行く手にもう一人が立ち塞がる。停まったら終わりだと感じたルラーテは、全力でタックルを掛ける。立ち塞がった一人は受け止めきれなかった。肋骨が折れる音がした。そのまま飛び起きて、更に駆ける。案外手応えがないので驚いた。そういえば、あのガキ大将以外、ルラーテに直接暴力を振るう相手は、いつのまにかいなくなっていた。何故なのかは、良く分からなかったが、今漠然と理由が分かった。多分、逃げ回りながらきちんと食べていたからだ。その分体がしっかり作られたのである。

考えてみれば妙だった。親がどうして奴隷商人に無理矢理売り飛ばさず、わざわざ軽蔑しきっているルラーテの判断に任せたのか。肉親の情がどうのこうのというのはない。年頃の娘を売り飛ばすのが当たり前の貧村である。ルラーテなどに遠慮する訳がない。彼奴らは、ルラーテが逃げた場合の、復讐が怖かったのだ。

さっとさらに角を曲がる。曲がって大通りに飛び出し、人混みに飛び込む。わめきながら追ってくる連中の視線の動きを予想して、人の中を縫って逃げる。

いつのまにか、追跡者はいなくなっていた。

冷たい石の壁に背中を預けながら、大きくため息をつく。どうにか逃げ切れたが、失敗したら奴隷にされる所だった。それでは、親に売り飛ばされるのと同じではないか。何のために一人村を出てきたのか分からない。

息を整えながら、物陰に隠れて辺りをうかがう。連中はまだ周囲を探しているようだが、やがて諦めて出ていった。かくれんぼならお手の物だ。行ったと見せかけて連中はルラーテが出てくるのを待っていたようだが、それも見越して隠れ続け、ついに去るのを確認した。見事なルラーテの逃げ切り勝ちであった。

 

勿論路銀や飯など用意して貰える訳もなかったから、夕食はゴミ箱から漁るしかなかった。案外食べる所が沢山残っている肉や、しなびた野菜が捨ててあって、それなりに豪勢な夕食を楽しむことが出来た。毎回こうやってゴミ漁りが上手くいくとは思えなかったから、早めに職を探さなければならない。手に着いた肉の脂を舐めながら、ルラーテは漠然と夜の街を歩き続けていた。

今日ルラーテが相手にした連中は、大人の犯罪組織だったのだろうと思う。今までルラーテが見たこともないほど綺麗に連携して動いていたし、あのガキ大将とは比べものにならないほどに威圧感が強かった。出来れば二度と会いたくない。ふらふらと歩いている内に、客引きを目にした。けばけばしく化粧した女が、道の脇に立っていて、時々金がありそうな男に声を掛けている。村では噂しか聞いたことがないが、あれが娼婦というものだろう。ルラーテには流石に見向きもしない。ガキ過ぎるし、金もないのが分かっているのだろう。というか、ルラーテ自身にも彼女らに構って欲しいという気分が起こらない。

星明かりの下、町はずれにまで出る。街の方へ振り返ると、蛍のように所々光が灯っていた。街の中枢部ほど光は強く、外側ほど弱い。

人は沢山いるのだと、これだけでも分かる。ぼんやりと立ちつくしていたルラーテだったが、頭を振って歩き出す。さっさと仕事を見つけないとまずい。あまり長期間は、一人でふらふらしていられないだろう。廃屋でも見つければ少しは楽になるかも知れないが、それも絶対ではない。持ち主が来たら逃げなければならないだろうし、犯罪組織の人間が押し込んできたらどうにもならない。

文字なんか読めないから、どんな店かも分からない。がんがん灯りを焚いている、景気の良さげな賑やかな店に入ろうとしたら、まだ早いと言われて放り出された。何が早すぎるのか分からない。また人買いに目を付けられると厄介だから、さっさと夜闇に紛れて、別の店を探す。何処かで雇って貰わないと。しかし焦ると危ない。何回かガキ大将に捕まって死ぬような目に遭わされたが、それはいずれも焦ったときばかりだった。

二軒目では笑われて追い出された。三軒目では門前払いだった。最後に足を運んだのは、松明が焚かれて、武装した男女が見張りに就いている場所だった。軍隊とは少し違うようだが、それに近い雰囲気だった。馬のいななきが聞こえる。

近づくと、いきなり槍を向けられた。

「止まれ」

応えられない。此処も駄目かと、思いかける。だが槍を構えた男の隣に立っていた女が、なだめるように言った。

「その格好、農村から出てきたばかりか?」

「はい。 仕事を探していて……」

「ならば筋違いだろう。 此処は傭兵団の仮設陣地だ。 その年で、傭兵になろうというのか?」

傭兵。聞いたことがあった。夜盗のように戦場を荒らし回る連中だと。

だが、それでも別に良かった。奴隷として使われず、飯にありつけ、最終的に静かに暮らせるのなら。ルラーテは何もいらない。伴侶もいらない。金もいらない。

ただ、最終的に、静かに暮らしたいだけだ。

「仕事を下さい。 奴隷労働以外なら、なんでもします」

「……隊長に掛け合ってくる」

「物好きだな、お前も」

「お前こそ、村から出てきて、途方に暮れていた時のことを思い出せ」

軽口を叩く同僚を肘で小突くと、女は仮設陣地とやらの奥へ入っていった。ルラーテの激動の人生が始まったのは、実にこの時であった。

 

2,蹂躙

 

完全武装の帝国軍が、黒い人の波となって押し寄せてくる。平野を覆い尽くすほどの数で、統率が取れていて、武器も最新鋭の装備が揃っていて、指揮官まで優れている。勝てる要素が一つもない。

それでも金を貰った以上、戦わなければならない。そうしなければ傭兵団としての信用が落ち、次の戦いから声がかからなくなるからだ。王国軍で信用して貰えなくなれば、帝国軍にも噂は伝わり、信用はして貰えなくなる。それを盾に、いつも戦場では使い殺しにされる。それが傭兵団の宿命である。ただし、出世次第では、貴族のお抱え軍人となって、大軍を指揮する機会も巡ってくる。そうなれば、若干余裕のある生活も出来るようになる。それを狙って、傭兵団は今日も戦場を駆けめぐるのだ。

ここの所、エイハヴには王国軍からぞくぞくと増援が送られてきており、東のピミール州の奪還に向けた動きが出てきていた。何人かの将官級の指揮官と、二十を超える傭兵団も集められ、兵力は五万を超えた。これに対して帝国軍も兵を増強、およそ四万の戦力を州境に展開した。

止せばいいのに、王国軍の指揮官であるジュダート伯爵は、ここで決戦を挑んでしまったのである。

結果は見るも無惨な大敗北であった。統率が取れていない寄せ集めの王国軍に対して、帝国軍は全ての質が根本的に違っているのだ。今までエイハヴを保つことが出来ていたのは、地の利を生かしての防衛戦を行っていたからだというのに。王国軍が敵に勝っていたのは兵力だけ。総合力が全てを決める戦いでは、結果は当然のように帝国軍の勝利になった。会戦というようなレベルではない。王国軍はいいように敵にあしらわれて、中枢を電撃的に突破され、更に後方から半包囲されて袋だたきにされた。

王国軍は司令部をほぼ全滅させられ、戦力の半数を戦死させ、必死に州都に逃げ込んだ。傭兵部隊は瀕死の重傷を負ったジュダート伯爵に後詰めを命じられて、今勢い乗る帝国軍の姿を眼前にしている。ルラーテの所属する紅熊傭兵団も、先の敗北で戦力の三割を失いつつも、それに加わっていた。既に戦力差は完全に逆転している。しかもここで時間稼ぎをした所で、何も状況は変わらないだろう。むしろ傭兵団を使い殺しにする今回の作戦は愚の骨頂。戦力を温存し、一緒に州都に立てこもって、ゲリラ戦を行えばまだ勝機はあるというのに。戦術的なだけではなく、戦略的にも無能なことを、愚かな伯爵はさらけ出していた。

エイハヴは落ちる。

ルラーテはそれを強く強く予感していた。

傭兵団に参加してから四年。ルラーテが目にする、最悪の事態。此処は逃げるべきだと、全身に満ちる動物的本能が主張している。戦ったら絶対に死ぬ。平原での会戦などもってのほかだ。せめて森か山に引きずり込み、地の利を生かして戦わなければ、そもそも「戦い」にすらならないはずだ。敵は負傷兵を後方に下げても三万八千、此方の戦力は負傷兵まで狩り出して三千を割り込んでいる。王国軍主力が逃げてしまったのだから当然だ。しかも兵の質、武器の質、指揮官の質、全てにおいて敵に負けているのだ。

それでも逃げる訳には行かない。二年前に、戦場で捕まえた駄馬に跨るルラーテの少し前に、その理由がいる。

赤熊団団長、ネルテ。傭兵団には珍しい女性指揮官で、ルラーテの恩人だ。村から出てきたばかりのルラーテを人間として扱ってくれた上に、逃げ隠れる才能を見出し、複雑な戦場ではそのアドバイスを仰いでくれる。そのアドバイスの幾つかが図に当たり、ルラーテは二十才にもならない若さで、馬に乗る事を許して貰っている。残念ながら美女ではないが、そんな事は関係がない。

彼女に貰った手紙が、胸当ての奥の、更に服のポケットに大事に大事に仕舞ってある。もしこの戦いに生き残ったら、王国本土で信頼できる指揮官に見せろと言われている。つまり、推薦状だ。ネルテ団長は主立った部下や、古くからの仲間には皆これと同類の手紙を渡しているのだという。部下想いの彼女であれば、やりそうな事だ。

団長を死なせたくないとルラーテは思う。しかしこの近辺には、隠れる場所も逃げる場所も無い。防御陣地は築いているが、それも気休めにしかならないはずだ。しかも支援が全く期待できないのである。これでは死ぬしかないではないか。

帝国軍は間合いを計るように距離を詰めてきている。若干傾斜気味の平野に、ぽつんと築かれた防御陣地の中、傭兵部隊の生き残り達は身を寄せ合うようにして、息を潜めていた。やがて、不意に大きな声がした。

「私は帝国軍指揮官、レーン少将である!」

流暢な王国語だった。レーンという人物は、更に続ける。

「無能で卑劣な王国軍とは似ても似つかぬ貴君らの戦い、私は感服している! 故に貴君らを殺したくはない! 降伏せよ! そうすれば悪いようにはせず、事と次第によっては我が栄光ある帝国軍の一員として迎え入れよう!」

誰も一言も発しない。信用できないと言うのもあるし、現実感がないというのもある。

ルラーテの隣にいる騎兵は右腕が無い。周囲に散らばっている傭兵達には、片目がなかったり、指が何本かなかったり、唇が半分こそぎ落とされている者も珍しくない。戦いで負ければ拷問を受け、情報を引きずり出されるのが当たり前で、今敵の指揮官が言ったような事はあり得ないのだ。少なくとも、ルラーテは見たことも聞いたこともない。

「考える時間を与える! 我が軍は一日、貴君らに時間を与える! その間にどうするか考えよ! 降伏して生を保つか、華々しく散って後世に名を残すか、好きな方を選ぶが良い!」

レーンの言葉通り、帝国軍は下がり、一定距離を保ったまま陣地を構築し始めた。多分逃げても追いつかれるし、此処で攻撃を仕掛けても返り討ちにされるだけだろう。悔しいが、敵が隙を見せているのは余裕があるからだ。

「こ、降伏した方が……」

誰かがぼやくと、ざわざわと全体に動揺が広がっていった。死にたいと思う少数を除いて、生きたいと思う人間の方が多いのが自然な話だ。傭兵などという因果な商売をしている以上、死を覚悟しているのは当然の話だが、こうやって目の前に生と栄華をちらつかされると、どうしても心が動いてしまう。ルラーテもどうしようかと思い、周囲を見回す。彼方此方で青ざめた顔での議論が行われていた。

「ルラーテ!」

「はい!」

不意にネルテ団長の声がかかった。団長は側に来るように言うと、視線で指し示す。

「見ろ」

「はい」

紅熊傭兵団から見て左翼に位置する蒼鷺傭兵団の一部が、ひそひそと話をしている。あの傭兵団は先の戦いで団長が戦死し、副団長が指揮官になっているはずだが、統制はきいていないようだった。新団長が無能と言うよりも、急なことだし、経験も足りないのだろう。

「彼奴らは恐らく今夜中に脱走するだろう。 お前はこっそり後を付けていって、帝国軍がどう彼らを遇するか見てこい」

「は……はい」

「何か不満か?」

「はい……その、帝国軍がもし約束を守るようなら、我々も降伏すると言うことですか?」

「無論だ。 私は傭兵団皆の命を預かっている。 意地や義理で皆を死なせる訳には行かない」

団長ははっきり言いきった。だから、ルラーテはこの人に着いていくのだ。

貧すれば鈍するという。貧しい村では、どこでもルラーテのような扱われ方をする人間が出てくるのだという。特別に自分が不幸でも悲惨でもないことを、傭兵団に入ってからルラーテは知った。だが同じような状況でも、誇りを失わない稀少人種がいることも、今では知っている。その一人が、このネルテ団長だと言うことも。

万夫不当の勇がある訳でもなければ、百戦百勝の計があるわけでもない。だがこの人の気高い行動が、皆を結束させ、数々の戦いで生き残るという結果を生んできた。美女ではないし、雌としての魅力はほとんど無いのに、密かに懸想する男が多いというのも頷ける。ルラーテもその一人だったのだ。

すぐにネルテ団長は主な部下を集め、説明した。誰も団長の命令に逆らう者はいなかった。

聞けば、帝国の領土に組み込まれた旧王国領が、地獄と化しているという事はないようだ。貴族がいなくなって軍制になった程度の違いしかない。帝国軍の軍規はしっかりしていて、略奪や暴虐も最小限に抑えられるという安心感もある。ただ、それはあくまで全体としての話に過ぎないが。帝国軍でも愚かな指揮官はいるだろうし、略奪をする部隊だってあるはずだ。

夕方。ルラーテは防御陣の隅で柵にもたれて、機会を待った。蒼鷺傭兵団の者達が、何人か連れだって敵陣に駆けだしたのは、直後のことであった。

 

夜の平原を駆ける。前を走るのは、脱走した蒼鷺傭兵団の三人。時々後ろを伺っているが、草や木立を利用して隠れながらついていっているルラーテには、今のところ気づいていない。

もう帝国軍陣地はすぐそこだ。帝国軍の哨戒部隊の姿が見え始めていた。

逃げ隠れる事が何故上手いのか。どうして敵に発見されずに、獲物をかっさらい続けることが出来たのか。団長にそれを分析するように命令されたことがある。直前の戦いで、ルラーテが見つけた場所に部隊が伏兵して、戦いに勝った後であった。

ルラーテは村の悪ガキ共や一般人に対してなら、なんとか渡り合える身体能力を持っているが、残念ながら才能がまったくなかったらしく、剣も槍も全くものにはならなかった。弓はもっと駄目だった。だから戦闘ではこそこそ皆の間を走り回りながら、手負いや此方に気づいていない相手を背後から切り伏せていた。それでも上手くいかないことさえあった。毎回苦労して、皆が取りこぼしたような手柄をこそぎ取っていたのだ。

だが、それがなかなか難しいことなのだと、団長に指摘されてから、確かにそうなのかもとも思った。同じように立ち回れる人間はそうそう多くはないのだ。同僚を見ていても、妙に要領が悪いという印象を受けることが多かった。逃げ足と同じ才能なのかとも思っていたが、それが何の才能なのかを知ることで、今後の人生を有利に運べるはずだった。

そうして出た結論が、行動の推測だった。ルラーテは他人の行動をある程度までなら読めるのだ。個人レベルの思考や、細かい行動は読めないのだが、こういう地形を見たら大体の人間はどうする、こういう状況なら何処へ伏せるなど、おおざっぱな予測は立てやすいのである。しかも、かなりの正確さで。だから悪ガキ共から逃げることも出来たし、戦場で走り回って弱いのに手柄を立てたり出来た。その結論を述べると、団長は頷き、ルラーテに戦利品の馬をくれた。駄馬だったが、嬉しかった。

最終的には、貴族なり貴族のお抱え軍人になりなって、安楽に暮らしたい。それがルラーテの願いである。しかしそれに優先するほど、今青年は、ネルテ団長のために戦いたかった。彼をこれほどに認めてくれた人間は他にいなかった。

やがて、蒼鷺傭兵団の三名が、偵察兵に見付かった。誰何の暇さえもなく、取り押さえられ、陣地の奥へと連れて行かれる。物凄く嫌な予感がした。柵へ忍び寄り、影に身を隠しながら、さっと陣地の奥へ潜り込む。

流石に奥まではいるのは危険すぎる。というよりも、陣地の中に入っただけで、頭の中で最高ランクの警告が点滅しっぱなしであった。本当なら即座に逃げ出す所だが、此処で逃げてしまっては団長の戦略に支障をきたす。場合によっては降伏すれば助かる所を、皆が死ぬ事になってしまう。

丁度いい木が見付かったので、静かに登る。木の枝を揺らしたら見付かってしまうので、出来るだけ枝に触れないようにして、慎重に這い上がる。やがて、丁度良い所まで登って、枝と葉の陰から、陣の中枢を覗き込む。

焚き火が煌々と焚かれた天幕の前に、さっきの三人が引きずり出されていた。多分さっきの声の主であるレーンという奴だろう。そいつが大股で三人へ歩み寄る。地面に這い蹲っていた三人と何か会話している。嫌な予感は、どんどん膨らんでいった。

笑った。レーンが、どういう意味か、笑った。そして手を横に振る。飛びかかった帝国兵が、瞬く間に三人の首を落としてしまった。死体が引きずられていく。その先に、既に山と積まれた死体があった。あの三人より先に降伏した傭兵達のなれの果てであるのは、一目で分かった。

なんで、どうして。一体どうしたというのだ。幾ら何でも、これは酷すぎる。降伏してきた所をだまし討ちというのは考えられた。しかしこれでは、殆ど害虫駆除ではないか。木から降りて、恐怖に激しく跳ねる心臓を抑えて、陣地から逃げ出す。そして柵を越えた所で、敵に見付かった。

誰何の言葉さえもなかった。いきなり矢が飛んできた。後指一本くらいの差で、首に突き刺さる所だった。もうその後の事は良く覚えていない。走って逃げた。必死に逃げた。後ろから帝国兵が追いかけてきた。ルラーテの剣の腕は人並み以下、槍の腕は更にそれ以下である。それに対して、屯田制で鍛え抜かれている帝国兵は、まともに戦ってどうにか出来る相手ではない。しかも複数だ。逃げるしかない。馬蹄の響きを聞いたときには、もう駄目かと思った。それが前から来た事に気づいたとき、しかし絶望は希望へ代わった。

「せああっ!」

鋭い叫び声と共に、槍が夜空に一筋の銀を走らせる。馬上から繰り出された槍が、瞬く間に帝国兵の一人を突き伏せ、更に一人を貫いて空へ跳ね上げる。頭を抱えて地面に蹲ったルラーテの後ろで、帝国兵の悲鳴が轟いた。月灯りを浴びて、悪鬼のように暴れ狂うは、ネルテ団長だった。

帝国兵の最後の一人が、踏みとどまって槍を構え直す。手綱を引いた団長が、愛馬を駆って距離を取り直す。まずい。奇襲だったから良かったが、最後の一人、多分偵察隊の隊長らしい人物は、馬というハンデを加味しても団長より強い。ルラーテより頭一つ大きい男で、全身は筋肉の甲冑に覆われ、巨大な槍を全く苦もなく振り回している。剣を抜くと、這いずって団長に集中している敵の斜め後ろに回り込む。草の影に隠れて、必死に這う。

「おおおっ!」

「来いっ!」

物凄い迫力で、二人が距離を詰める。ゼロになる。激突、飛び散る鮮血。

敗れたのは、団長だった。

脇を抉られた団長が落馬しかける。同時に草むらから飛び出したルラーテが、敵の背中から剣を突き込んだ。剣は鎧に弾かれて火花を散らし、二太刀目でどうにか脇の下の継ぎ目を浅く斬った。そこで振り返った敵の槍が飛んでくる。横薙ぎだが、槍は棒としても充分な殺傷能力を持っているのだ。思いっきり殴られたルラーテは、ひとたまりもなく地面に転がる。勝ち誇った敵の表情も一瞬である。団長が投げつけた槍が、敵の首を後ろから貫いていた。声も無く崩れ落ちる敵は、すぐに動かなくなった。

踏ん張って、どうにか落馬を避けた団長は、荒い息をついていた。肋骨をへし折られたルラーテは、それでも彼女を心配した。

「だ、団長!」

「かすり傷だ。 それよりも、何を見た」

「じ、陣地で、陣地に戻ったら話します!」

「今は一刻一秒が惜しい。 後ろに乗れ」

痛む肋骨を抑えながら、鞍の後ろに乗せて貰う。周囲に散っていたらしい傭兵団の皆がおいおい集まってきた。何人か足りないと言う。帝国軍はかなりの数の斥候をこの周囲に放ち、威力偵察をしているらしい。

「どういう事だ、話が違うぞ!」

「……一端引き返すぞ。 ルラーテが敵陣に入り込んで情報を持ち帰ってきたから、それも加味して結論を出す」

「だ、団長……」

「情けない声を出すな。 この世界に踏み込んだときに、もう覚悟はしているはずだ」

団長の言葉に、泣き言を言いかけた傭兵団の幹部が黙り込む。静かに全員夜闇に覆われた草原を疾走し、防御陣地に戻る。天幕に入った団長は鎧を脱ぐと、片腕のない医療行動専門の傭兵に手当をさせながら、ルラーテの話を聞き、頷いた。

「なるほど……」

「帝国軍は、一体何を考えているんでしょうか」

「考えられる線は幾つかあるな。 此方の戦力を出来るだけ削っておいて、明日の戦いを楽にしようというものなのか。 或いは手柄を水増しするつもりなのか」

腐敗した軍規で知られる、貴族私兵で編成された王国軍が良くやることなのだが、倒した敵の数を多く見せるために、死体を切り刻むというものがある。帝国軍がそれをやっているという話は聞いたことがないのだが、それも過去の話になるのかも知れない。

「しかし、此方の戦力はもう向こうの何分の一もありません」

「だからこそ、必死の抵抗で受ける被害を少しでも減らそうとしているのかも知れないな」

味方を守るために、敢えて非道に手を染めるというのか。何だか酷い話である。

だが、戦争は殺し合いだ。勝った方が生き残り、好き勝手に歴史を作って喧伝する。そうルラーテは認識している。過去の罪を客観的な視点から告発することは可能だが、しかし負けた人間は死ぬ。帰ってはこない。

包帯を巻き終わると、団長は鎧を着直し、何事もなかったかのように天幕から出た。これから他の傭兵団とも話し合いを始めるのだろう。事態は加速度的に悪い方向へ動いている。今から全員で逃げ出しても、一体何人が生き残れるのやら。多分途中で捕捉されて皆殺しだ。しかし抵抗した所で、生き残れる可能性は万に一つもない。

交代で休む時間が来た。体が火照って眠れない。初めて人を殺したときもこんな感じだった。寝ておかないと、生き残る可能性が更に低くなる。

どうにか眠りにつけたと思ったら、急を知らせるドラが鳴り響く。どうやら、敵は本気で、傭兵団を皆殺しにするつもりのようだった。

 

陣地の周囲には、ひたひたと帝国軍が押し出してきていた。数は相変わらず三万を超えている。一気に攻めてこないのは、こちらが混乱するのを見計らっているのだろうか。

昨日のように、呼びかけても来ない。もう充分な戦果が挙がったためなのか、それとも別の理由からか。どう団長が他の傭兵団を説得したのかは分からないが、少なくとももう周囲の空気は浮ついていなかった。降伏したら殺されるという事実を、皆が認識している良い証拠だ。

やがて、戦が始まった。

膨大な量の矢が防御陣地に叩き込まれる。騎兵が陣の周囲を回りながら矢を叩き込んでくる。更に歩兵が四部隊に別れて、交互に突出しては火矢を打ち込んでくる。盾は見る間に針鼠のようになる。次々に傭兵達が喉や胸に矢を生やし、倒れていった。殆ど一方的な殺戮である。貧弱な防御陣の設備では、この雨のような矢は防ぎきれない。更に火矢の脅威もある。消火に当たる傭兵達は真っ先に狙われ、次々に射倒されていった。

消火活動に当たる者達を除き、陣地の内側では、皆息を潜めて伏せている。敵が陣地に直接攻めてくるのを待つようにと、全体に命令が行き渡っているのだ。それでも矢に当たって倒れる傭兵は次から次へと出る。

生き残る策はこれしかないと、さっき団長が言った。敵が陣地内部に直接乗り込んできた時、接近戦に持ち込み、混乱させる。混乱させるために、何人かの精鋭が既に選抜されて、陣の最外縁に伏せていた。彼らの攻撃により、敵中枢に攻撃を仕掛ける。そして敵が混乱した隙に、各自めいめい勝手に逃げる。落ち合う場所は決めない。敵に捕まる可能性が極めて高いので、決めておくと生き残りが集まった所で皆殺しにされかねないからだ。

至近に矢が突き刺さり、首をすくめる。天幕に巨大な矢が突き刺さり、物凄い金属音がした。攻城戦で用いるクロスボウだ。土嚢が積まれた陣の入り口へ、徐々に敵が近づいてきている。それも、まるで隙のない重厚な布陣で。怖気が走る。

飛んでくる矢の密度が上がる。盾が砕けると、露出した傭兵の体に容赦なく矢が突き刺さった。すぐ隣で潜んでいた傭兵が針鼠のようになり、流石にルラーテも頭を抱えた。本能は故障してしまったかのようだ。怖すぎて、危険すぎて、もうこの場にはいられないと言うのに。

敵の第一波が、ついに土嚢を乗り越える。その瞬間だった。

獲物に群がる黒蟻のように湧いて出た味方が、一斉に帝国軍の前衛に襲いかかる。槍を揃えて迎撃にかかる帝国兵だが、それ以上の獰猛さで、傭兵団から選抜された精鋭が敵陣に食らいついた。そして一気に戦闘を拡大、強烈な錐を敵陣に食い込ませる。

「今だ、突撃!」

「させるか! 押し潰せっ!」

双方の怒号か交錯する。

味方に揉まれるようにして突進したルラーテは、海のように平原を埋め尽くす帝国軍の黒い威容に唖然としつつも、麻痺した感覚を置き去りにしたかのように走り出した。完全に自暴自棄になった傭兵達は無我夢中で刃を振るい、困惑する帝国兵を切り伏せ、なぎ払い、蹴散らした。しかし次の瞬間には冷静さを取り戻した帝国兵達によって、四方八方から槍で突かれて息絶える。中枢部へ驀進する精鋭部隊に続く者は少なく、各所で味方が寸断されていく光景を、ルラーテは死の恐怖と同じものとして網膜に焼き付けた。

そして、見た。

精鋭部隊の中に混じり、全身朱となって突撃していたネルテ団長が、敵将レーンを見つけた。もみ合う敵味方を押しのけ、名乗りを上げて突き掛かる。それを察した傭兵達が、護衛の兵士達に躍りかかり、自分の身を犠牲に道を切り開く。

「だ、だんちょおおおっ!」

声は届かない。あまりにも遠かった。というよりも、その光景が見えたこと自体、奇跡に近かったのかも知れない。

レーンは手綱を退き、馬首を巡らせに係るが、遅い。ネルテ団長は槍を抱え上げ、投擲した。彼女の投擲技術は天下無双を歌われるほどの腕である。それは正確無比にレーンの背中を直撃、貫通、馬の首に胴体を縫いつけた。吐血したレーンが、地面に落ちて、竿立ちになった馬に踏まれる。即死だ。

同時に、四方八方から繰り出された槍が、ネルテ団長の全身を貫いていた。

「今だ、逃げ散れええっ!」

何処かの傭兵団の団長が、同じように体中串刺しにされながら叫ぶ。やり玉に挙げられた彼は空中に放られ、ズタズタに千切れて地面に落下した。鮮烈な光景に思考が麻痺していたルラーテは我に返り、誰にも負けない逃げ足を最大活用して、戦場を走り回って逃げ出した。

鎧を投げ捨てた。剣も捨てた。槍を杖のようにして、足を支えて、必死に走った。

周囲に味方は誰もいなくなった。敵も誰もいなくなった。いつの間にか州境を越えていた。森へ逃げ込んだ。

何度か傭兵団時代に、食料集めに入った森だった。何処に何があって、何が住んでいるかは知り尽くしていた。腰が抜けてしまう。心臓が破裂しそうなほど動き回り、肺も伸縮を繰り返した。

涙がやっと零れてきた。

死体を回収することなど出来る訳もなかった。団長が体中切り刻まれて、敵の戦利品にされるのだと思うと、悔しくて恨み言も出てこなかった。敵だって、帝国兵だって負ければそうされていたのだから。彼らを無闇に恨むことが出来ていたら、どんなに楽だったろう。

強く槍を握りすぎて、手の皮が破けていた。涙が際限なくこぼれ落ちてきていた。

ルラーテはこの時、生まれて初めて、自分以外の相手のために泣いていた。

 

後で聞いた話は、どれもろくなものではなかった。エイハヴの州都に逃げ戻ったルラーテは、帝国軍が撤退したという報を聞きながら、なけなしの金をはたいて酒場で飲んだくれた。同じように逃げ戻ることが出来た傭兵は、殆どいなかった。

この戦い、第二次ニールールツ平原会戦に参加した傭兵の中で、生き残った者は僅か百名たらず。しかしその多大な犠牲が生きて、帝国軍はエイハヴへの侵攻を断念した。しかしそれは表向きの事に過ぎなかったと、偶然知ることになった。

隣の席で飲んでいた連中が言っていたのである。王国兵である彼らは、捕虜が話したという真相を、面白おかしく笑いながら話していたのだ。

敵将レーンは、二年前の王国側の侵攻で、傭兵団によって親兄弟家族を皆殺しにされていたのである。その憎しみが功名心と相まって、傭兵団に対する無意味なまでの虐殺と、謀殺に繋がったのだという。憎しみの連鎖が、全ての原因だったのだ。この戦いは元々レーンがかなり強引に独断を通して発生したものであったらしく、本来帝国軍は侵攻してきた王国軍を撃破するだけで撤退する予定だったのだそうだ。

真実を知れば幸せになるとは限らない。王国兵共は、笑いながら馬鹿な奴だとレーンをあざ笑っていた。何故だろう。団長を殺した相手だというのに、レーンのために此奴らを殺してやりたくなった。だが、そんな事をする勇気は、或いは無謀さは、ルラーテには備わっていなかった。

臆病だったから、今まで生きてこられたのである。怒りに恐怖は常に勝った。今回も、王国兵に手を出していたら殺されただろうし、そうでなくとも罪に問われ、やはり殺されただろう。

臆病であったから、ルラーテは助かった。しかしその悔悟は計り知れなかった。

数日後、ルラーテはエイハヴを離れた。王国本土へ赴き、ネルテ団長の手紙を使って、何処かの傭兵団か部隊にでも潜り込むつもりだった。

もう、ルラーテの居場所は、エイハヴには無かった。物理的な意味でも、精神的な意味でも、である。

船に揺られながら、ルラーテは思う。どうにかして、この時代を終わらせたいと。ネルテ団長を死なせたくなかったと。

平穏があれほど好きだったのに。ルラーテの中で、いつのまにか優先順位が逆転していた。あの何もかもが蹂躙された戦いの中で、ルラーテの心に変化があったのは、間違いのない事実であった。

 

3,覇王との邂逅

 

エイハヴを離れて二十年があっという間に過ぎていった。傭兵業はその間も不況知らずであり、特に王国軍には重宝された。更に第二次ニールールツ会戦で生き残ったという事実が、冴えない見かけのルラーテには幸いした。何処の傭兵団でも、小首を傾げながらも雇ってくれたからである。雇って貰えればしめたもので、後は機転を効かせてナンバーツーに収まり、安泰なその位置で比較的平和な生活を楽しむことが出来た。

だが、それはあくまで建前上の話に過ぎない。

ルラーテは探した。この国を、いやこの時代を終わらせることが出来る英雄を。ルラーテ自身にその力がないことは、多分幼少期にはもう分かっていた。だから、ルラーテに出来るのは、その力を持つ人間を捜し出して、全面的な忠誠を誓うこと。これでも戦歴は二十年以上にも達するのだ。それに、今や不名誉な二つ名の数々を頂戴している身である。

その一つが、ブッシュワーカーであった。ブッシュワーカー・ルラーテと言えば、帝国軍が忌み嫌う存在と化しつつある。

エイハヴを離れてから、ルラーテは己の技能を磨きに磨き抜いた。隠れて敵を撃つ。勝てない相手とは絶対に戦わない。弱るのを待つ。弱ってから倒す。待てないときは弱らせる。

ゲリラ戦の達人。それが現在のルラーテの姿である。それなのに、本人は到って冴えない中年男だ。髪の毛は年々減っているし、肌は妙に脂ぎり、体も鍛えてはいるのにたるみ始めている。若い頃から恋愛には縁がなかったが、今では更にそれが酷い。たまに寂しくなったときに娼館に出かけるくらいである。それにルラーテ自身が、妙な遠慮を抱えていて、あまり特定の女性と深い関係になろうとはしなかった。

こうして、ある程度の地歩を確保しつつも、ふらついた人生を送っていたルラーテに、何度目かの、そして決定的な人生の転機が訪れた。

覇王、クラナ=コアトルスとの出会いである。

 

その日は、豪雨だった。ルラーテには絶好の戦闘日であった。

現在彼が所属しているのは、やはり傭兵団であった。何の因果か名は紅虎傭兵団。王国北部での活動を主体にしている傭兵団で、規模は兵員三百五十とかなり大きい。何度かの会戦にも参加したベテランの傭兵団であり、装備もそこそこに優れている。今ルラーテは、この傭兵団の参謀長に近い仕事をしていた。

三百五十の傭兵は、しずしずと雨に煙る森の中を行く。目的地は、帝国軍の前線基地の一つ。王国軍の要衝リリフトハイルを狙って建設された基地の一つで、五千の兵士が駐留し、今も虎視眈々と機会をうかがっているはずであった。今回の作戦は、それを事前に叩くことを目的としている。

王国軍の二個師団が既に動いており、それを助ける形で六つの傭兵団が動いていた。合計して千名ほどが、主力の王国軍に呼応して敵基地の搦め手から攻め上がり、敵を滅ぼす作戦である。傭兵団の中軍には、油がたっぷり詰まった壺を搬送する荷車があり、音が立たないようにゆっくりゆっくり進められていた。何頭かいる馬は皆轡を噛まされ、鳴き声を上げないように工夫されている。

傭兵団の長は虎の異名を誇る剛力の持ち主で、ジェイルという。ルラーテと同じ年だが、体格は子豚と熊ほども違う印象がある。事実十キロ近い大斧を自在に振り回す化け物のような武力の持ち主であり、戦場で斬った敵は五十を超えると言われている。傭兵達も、皆その武勇を頼りにしている。

雨の中、そのジェイルの馬がゆっくり進む。巨大な主君を乗せて辛そうだ。傘を被ったルラーテは、内心あまり気が進まなかった。この作戦は失敗するような気がしてならないのである。

最近王国軍は戦況を五分に持ち直しつつある。クラナと呼ばれる将の活躍と、熟達した指揮官であるイツァムの立身がその要因である。だが翻って見れば、王国軍の質は決して上がっていない。事実殆どの王国軍は惰弱で腐敗していて、プロではない傭兵団より腕が劣るほどであった。

その王国軍が、危険な任務を自分たちで引き受け、傭兵部隊に華となるようなポジションをくれるというのである。これはどういう風の吹き回しだろうか。事実多少なりと頭が回る傭兵は、皆不審に思っているようだった。

敵城が見えてくる。雨足は強くなる一方で、少ない髪が濡れて気持ちが悪い。一層慎重に行軍する。流石に敵の斥候がそろそろ見かけられるようになってきた。城壁の上にも見張りがいるし、森の中にも小隊単位で動いている。彼らに出来るだけ気取られないように接近し、場合によっては一気に押し包んで殲滅しなければならないので大変だ。しかも殲滅した場合、任務にタイムリミットが生じてくる点も厄介である。

傭兵団の斥候が続々に戻ってくる。馬上で報告を聞く限り、敵の斥候は警戒範囲をかなり狭めているらしい。臨戦態勢で、奇襲を警戒している。そう分析したルラーテは、主将であるジェイルに説明。一端連合部隊を全停止するように進言した。

ジェイルのナンバーツーをやっているのは、奴の頭があまり良くないので色々と仕事がやりやすいという事。もう一つは、頭が悪いことを奴自身が理解していて、部下の言うことを良く聞く事、である。一歩間違えれば英雄の素質となるものをもちながら、致命的な所で無欲な点が、彼をただの凡将に押し下げてしまっている。ジェイルは意味を理解しているのかいないのか、鷹揚に頷くと、全軍の停止を命令した。他の傭兵団も若干後退して伏兵し直す。これで、後は正面攻撃のタイミングと合わせて、突入するだけである。

「攻城兵器の様子は?」

「攻城用クロスボウよし。 破城槌よし」

どちらも軍のものに比べれば小ぶりだが、搦め手の門を破るくらいの事は出来るだろう。ただ、問題は敵が奇襲を察知していた場合だ。火をともした油壺を投げてこられると、この位の雨でも攻城兵器は瞬く間に灰にされてしまう。

悪条件での戦いは、ルラーテにとってもっとも得意なものだ。だからこそに、リスクの高さも知り尽くしている。

「全軍、そのまま待て」

息を殺して、およそ千人が、雨の森の中潜み続ける。じりじりと胃が焼けるような緊張感が、全身を蝕み続けた。額の汗だか雨だか分からないものを拭いながら、機会を待つ。

その時、一つの叫び声が、状況を急転させる。

「城から煙が!」

まさか、奇襲が成功したというのか。今回王国軍を、噂のクラナが指揮しているという話は聞いていない。帝国軍の罠ではないのか。だが、煙に続いて、喚声も響き始める。同時に、待ちきれなくなった幾つかの傭兵団が、動き出してしまった。

「出遅れます! 突入した方が」

「待て」

「え? し、しかし」

「待つんだ。 少し様子を見る」

逸る味方を抑える。ジェイルはぼんやりとその様子を見ていて、動こうとはしない。多分、何も考えていないのだ。この男の仕事は頭脳労働ではない。単純に戦うことと、ルラーテの補助をすることだけだ。

白虫傭兵団が城壁に取り憑き、遅れじと他の部隊も次々と城壁に取りすがる。そして彼らが半ばまで登った、その時だった。

城壁の上に、一斉に敵兵が現れる。しかも、弓矢を構えた状態である。

今や、ルラーテの危惧は的中していた。

どうしてばれたかなどと言う事を考えている余裕はない。更に、背後から殺気が沸き上がる。背後に伏兵されたのだ。

城壁から降り注ぐ矢が、功を焦った傭兵達を次々に叩き落としていく。必死に反撃する者もいたが、数が違いすぎる。更に背後からは、分厚い帝国軍の伏兵が、数を頼りに押し出してくる。多分二千はいるはずだ。正門に廻ったはずの王国軍は何をしている。ぼやく暇など無い。

とどめとばかりに、搦め手門が開き、帝国軍の騎兵部隊が泥を蹴散らし突撃してきた。混乱は極に達する。ルラーテは急いでジェイルに耳打ち。叫ばせる。

「全軍撤退! 敵の一角を突破して逃げるぞ!」

それが契機となった。

攻城用クロスボウも油も置き捨てて、皆逃げる。幸い、此処は森だ。散り散りになったことで、帝国軍は網を張りきれず、混乱が生じた。其処を未だに秩序を保っているジェイルとルラーテが指揮する一団が強引に突破、道を造る。そして踏みとどまり、味方を逃がしにかかる。散り散りになっていた傭兵達は蟻のように退路に群がり、それに追いすがってきた帝国軍に、陣形を素早く組んだ紅虎傭兵団が雨のように矢を降らせた。

下がりつつ反撃し、反撃しては下がる。細い道はつながり続け、逃げる傭兵の中には、槍を持ち直して一緒に戦ってくれる者もいた。だが、長くはもたない。帝国軍は鍛え抜かれた精鋭揃いで、指揮官にも有能な者が多い。すぐに陣形を立て直し、組織的な反撃を行ってきた。弓隊が一斉に矢を降らせ、ひるんだ所を槍隊が穂先を揃えて突進してくる。雨露に濡れた草を踏みしだき、格闘戦が展開される。ジェイルがいる紅虎傭兵団は良く敵を押し戻したが、反撃は三度で潰え、四回目の突撃を敵が開始したときには、既に戦力差は十倍を超えていた。

「そろそろ、逃げる、べきだ、な」

たどたどしくジェイルが言う。言われずとも分かっている。

ジェイルの優れている所は、武勇だけではなく、本当のこの部隊の指揮官がルラーテであることを理解していると言うことだ。殆ど欲がないジェイルは、ルラーテの巧みなゲリラ戦術で味方の被害を最小限に減らせると知ってから、ジェイルに指揮を一任するようになっている。ただし、ルラーテの迫力無い容貌と声では、味方を効率的に動かすことは出来ない。だから、ルラーテもジェイルを必要としているのだ。

「逃げましょう」

「うむ。 それで、どう、する」

「第一隊は最後に逃げてきた連中を保護しつつ、全力で退避。 第二隊と第三隊は交互に交代しつつ、撤退」

「う、む。 それで、いこ、う」

迫力ある胴間声でジェイルが味方を叱咤。正規軍ほどではないとは言え、訓練されている傭兵隊はすぐに動く。敵軍の突進を槍隊がくい止め、それを弓隊が援護。混成部隊は負傷者や逃げてきた残存戦力を庇いながら必死で逃げる。帝国軍の騎馬隊も森では折角の機動力を生かし切れず、次々ジェイルの振るう大斧に叩き落とされる。

森を抜けた。その時、ルラーテは二つの有り得ぬものをみた。

一つは、敵の要塞から火が上がっている。今度は陽動ではない。天を焦がすような凄まじい炎だ。

そしてもう一つ。平原には、黒々とした、巨大な部隊が展開していたのである。いや、規模はそれほどではない。異常なのは、その戦気。圧倒的な、爆発的な威圧感が、その部隊からは発せられていた。

「ひ、ひいいっ!」

思わずルラーテは悲鳴を上げていた。敵の本軍が待ち伏せていたのかと思ったのだ。だが困惑する味方を避けるように、その謎の部隊が動き始める。そして森を突破し、追撃にかかってきた帝国軍の先頭部隊と接触。激突した。

それは、帝国軍と戦っているのだから、王国軍に間違いはなかった。しかし、動きがルラーテの知る王国軍とは根本的に違っていた。鋭く、猛々しく、早く、そして主将を心の底から怖れている。

「つ、よい……」

鎧に刺さった矢を無造作に引き抜きながら、ジェイルが言う。

謎の部隊の規模はほぼ帝国軍と同じだろう。だが、戦況は見る間に代わっていった。帝国軍はほんの二揉みに押しつぶされ、敗走し始める。それを追う王国軍謎の部隊は、容赦なく矢を浴びせて戦力を削り取りつつ、二つの部隊を交互に動かし、秩序を粉砕していった。

謎の部隊はまるで一頭の生き物のようだった。そしてその頭は、ルラーテの視線に、一瞬だけ入り込んできた。

小柄だ。女だろう。女なのに、やたら大きな馬に乗っている。乗っている理由は一目瞭然。とんでもなく巨大な剣をもっているのだ。震えが停まらない。この場から全力で逃げろと、体が命令している。それなのに動けない。分かる。本能で分かる。頭でも分かる。今ルラーテが見ているのは、今まで彼が見てきたどんな猛獣よりも、強い生き物なのだと。

それが、ルラーテと、彼の生涯の主となる、クラナとの出会いであった。

 

戦いが終わった。帝国軍はほぼ全滅。敵拠点も業火の下に焼け落ちた。

傭兵部隊は三割ほどの被害を出していたが、全滅は免れた。この状況下では、奇跡的な生還率と言っても構わない。更にクラナ隊の補給部隊が救援物資を出してくれて、更には治療までしてくれた。

ルラーテも戦いの中で、幾つかの軽傷を負っていた。刀傷を二つと、矢傷を一つ。六本の矢を受けたジェイルほどではないが、傷自体は戦いが終わると、じくじくと痛む。戦闘中は頭がどうにかなっているのだが、後になると痛みが分かるようになってくるからだ。このギャップに絶えられず、戻したり気絶したりする新人もいる。

看護専門の兵士が手当をしてくれる。あまり美人ではないが、手際の良い手当が好感の持てる女性兵士だった。彼女が戦況を説明してくれた。

王国軍は最初、傭兵隊を囮にして、帝国軍基地をやすく乗っ取ろうと考えたのだという。無能な貴族指揮官が思いつきそうな下劣な作戦である。しかし、策は失敗した。事前に接近を察知した帝国軍指揮官は、城に少数の部隊を残し、残りを城全面の森に伏兵。王国軍が攻撃を開始した途端に、総反撃を行ったというのだ。

「なるほど、流石に帝国軍。 指揮官も粒が揃っていますな」

「うちの司令官ほどではありませんけれどね」

「ええ、同感です」

他人事のように笑いあった。異常な心理状態だが、戦場に長くいるとこれが普通になってくる。ジェイルはむっつりと黙り込んで、手当てされるに任せている。鎧は血だらけの穴だらけだ。補修費だけでも、馬鹿にはならないだろう。

苦もなく王国軍を蹴散らした帝国軍は二手に分かれ、一方が城の中で煙を上げ、もう一方がルラーテ達の背後に回り込んだのだという。理想的な兵力運用だ。敵ながらほれぼれする。しかし、そこにクラナ隊が到着したわけだ。クラナ隊は一千ほどの別働隊を城に向かわせて攻略させ、残りを傭兵部隊に気を取られている帝国兵に叩き付けた。伏兵を伏兵したわけだ。

戦場の女神とクラナは呼ばれているとルラーテは聞いていたが、無理もない。多分ルラーテが同じように彼女の麾下にいたら、女神だと思っているだろう。状況を一瞬にして把握、帝国軍の裏を掻いて一気に粉砕したのだから。王国軍は全滅から勝利にこぎ着け、帝国軍は完勝から完敗に叩き落とされた。

「クラナ将軍が来られた! 紅虎傭兵団の幹部を呼ぶようにとのおおせだ!」

談笑していた看護兵達が一気に青ざめた。場が緊張し、全員が襟を正す。困惑している兵士達の中で、ジェイルが静かに立ち上がった。鎧は脱いだ後だから、戦縫の襟を直しながら言う。

「何かあったと、しても、責任は、俺が、取るから、心配する、な」

「……首を出せと言われたら、私の分も出しましょう。 他の幹部には罪が及ばないようにしておきますから、安心してください」

部下達を安心させるために、ルラーテはそんな事を言った。

本当は逃げたい。というよりも、あの距離で見ただけでも、全身が凍るような有様だったのだ。至近ではドラゴンと鼻先を付き合わせるに等しい。発狂せずにいられるのか、まともに受け答えが出来るのか、不安でしょうがなかった。

屈強な兵士がぞろぞろと来た。仏頂面の、見るからに強そうな大男達だ。ジェイルでも勝てるかどうか。鷹揚に頷いて歩き出すジェイルに続いて、ルラーテが小走りで後を追う。これで人生が終わるのではないかと、死ぬのではないかと、恐怖が頭の中を堂々巡りしていた。

雨は止んでいた。だが地面はぬかるんでいて、気をつけて歩かなければ滑りそうだった。クラナ隊の仮設陣地の一番奥に、天幕が設置されていた。周囲の兵士達が緊張しているのが分かる。無理もない。

天幕に通される。中で椅子に座って待っていたのは、異常に目つきの鋭い女だった。クラナである。背は低い。ルラーテよりも低いくらいだろう。しかし全身から発する威圧感と、圧迫感が、尋常な代物ではない。クラナはしばしルラーテとジェイルを値踏みしていたが、やがて手を鳴らして部下に合図した。

「座るものを用意してやれ」

「はっ、ただちに」

兵士達がすぐに動く。天幕の中には、指揮官級の人間も何人かいたが、一人優しそうににこにこ笑っている娘を除くと皆緊張しきっている。椅子が運ばれてくると、座るように促された。ジェイルが言われずとも座ろうとしたので、ルラーテは心臓が止まるかと思った。

「紅虎傭兵団の活躍、見せて貰った。 なかなかの働きぶりであったな」

「きょ、きょうえつ、しごくに、ぞんじます」

「うむ。 そこで、だ。 ……実質的にお前達の指揮をしているのはどちらだ?」

さらりとクラナが言う。ルラーテは全身から汗が噴き出すのを抑えることが出来なかった。

「そ、それはどういう意味でしょうか」

「……三度は言わぬ。 どちらが紅虎傭兵団を実質的に支配している」

部下達に怖れられるのが何故か、良く分かる。ルラーテは敵の大軍に取り囲まれて、刃を突きつけられているも同じの状況に陥っていた。どうしてこうも簡単に実情を見抜くことが出来るのだ。汗がぽたぽたと地面に落ちた。自分だと応えるのは簡単だが、それは傀儡とは言え今まで良くしてくれたジェイルに対する裏切りにもなる。

全く動けないこの状況下、身を乗り出してくれたのは、ジェイルだった。

「そ、それは、ルラーテです」

「ふむ……そうか」

「お、俺は傀儡に、すぎま、せん。 作戦は、いつもルラーテが、立てて、いました」

「そうだろうな」

必死に意識を保っているルラーテは、視線の刃で貫かれ、内臓をえぐられるのを感じていた。殺される、殺される、殺される、殺される、絶対に殺される!

「ルラーテとやら」

「ひっ! は、はいっ」

「この者の言葉は正しいか」

「は、半分ほどは!」

必死だった。それなりに修羅場も潜ってきたのに。それなりに一生懸命戦ってきたのに。怖くて恐ろしくて、何も気が利いたことが考えられそうになかった。

「ほう?」

「わ、私めは、こ、この通り見かけが悪く、気も弱く、体も弱いもので、私が指揮をしても、傭兵達はついてきてくれません! ジェイル団長はそれを補ってくれているものでして、はい。 私だけが、傭兵団を支配しているというのには、ご、語弊が!」

「なかなかに面白い奴よ」

もう目の前が良く見えなかった。だがクラナが立ち上がったのが気配で分かった。顔を上げるようにと言われて、顔を上げた瞬間。光の束が眼前に降ってきた。

巨大な剣を鼻先すれすれに振り下ろされたのだと気づいたのは、たっぷり五秒も経ってからであった。

「自分が事実上の支配者だ等と現実に即さぬ事をほざきよったら二つに切り分けてやろうかと思っていたが、まあよいだろう。 紅虎傭兵団、全員纏めて私の麾下へ入れ。 これ以降、汝らは私が面倒をみてやろう」

拒否は、選択肢にはなかった。

生き残ることが出来たことを、ありとあらゆる神に感謝しなければならなかった。

最後の最後で、どんな状況でも逃げおおせてきたルラーテを捕縛したのがクラナだったのである。流石のルラーテも、この歴史的な英雄から、逃げおおせることは出来なかったのであった。

 

4,生涯一度も負傷せず

 

陣形をずたずたにされた帝国軍が、慣れない森の中を右往左往していた。小高い丘の上からそれを観察していたルラーテは、隣に立つ副官に頷く。かってその仕事をしていたジェイルのように大きく、威厳があり、そして声が遠くまで届く副官が吠えた。

「総員突撃! 敵にとどめを刺せ!」

「総員、突撃!」

「突撃せよ!」

狼煙が上がる。レンジャー訓練を受けた二個師団が、一気に攻勢に出た。怒濤の如き突撃の前に、逃げ散る帝国軍は必死に秩序を取り戻そうとするが、指揮官を倒され、後は一方的な殺戮に代わる。

投降を呼びかける。降伏する兵が出始める。生き残った兵士達の殆どは降伏、森から逃げ延びたのは僅かに過ぎなかった。彼らは小首を傾げているだろう。勝っていたのに、いつのまにか負けていたのだから。

斥候が敵の撤退と、味方の完全勝利を告げる。湧く陣の中で、ルラーテは額の汗を拭っていた。もう頭頂部の髪は歴史の果てに姿を消し、側頭部に僅かに残っているばかりである。

むっつりと威厳のある沈黙を称えている副官に対して、ルラーテの姿は何とも見苦しい。汗はだらだらと流れ、挙動もおどおどして情けない。事実、幹部級の人間以外の全てが、ルラーテを副官だと考えている。

敵の撤退を見届ける。後は追撃など必要ない。エイハヴ駐留軍の任務は、この州を防衛すること。すぐに全軍撤退に入る。そして戦場は、最初から何事もなかったかのように、静かになった。

 

エイハヴ州の指揮を任されたルラーテが、得意のゲリラ戦術を駆使して帝国軍を翻弄、ついに一歩も領内に入れなかったことは、誰もが知る歴史的事実である。もともと非常に守りやすい地形の上に、敵から上手く逃げ回りながら勝機を捜すことが得意なルラーテが指揮官となったことで、その守りは鉄壁となった。政治的にもクラナが育てた政務官が隙のない統治を行い、軍事的にもルラーテの育てた防衛に特化した部隊が帝国軍を寄せ付けず。一時期このエイハヴは、大陸一安全な州とまで言われたのである。

慎重なルラーテは味方にすら居場所を明らかにせず、そのため不死身伝説を始めとする数々の噂を周囲に作り上げた。それを更なる防壁とし、ルラーテは全力でエイハヴを守備し続けた。

そうして、生涯一度も負傷しなかったという伝説が作り上げられた。勿論これは嘘である。ルラーテは若い内から苦労していたし、戦場では何度も大きな怪我をした。だが験を担ぐ者も多い傭兵団で人生の大半を過ごしたルラーテは、如何に噂が人の心に大きな影響を与えるか、良く知っていたのである。

何年か後。ついに元帥になり、王国を完全掌握したクラナが大攻勢を開始、ルラーテはエイハヴに上陸した大軍と共同して、帝国軍に対して攻勢に出た。もはや昔日の力を持たない帝国軍は、ひと支えも出来ずに崩れ去り、そして皇帝の降伏によって完全に滅び去った。

帝都で行われた戦勝パーティーを切り上げると、ルラーテはジェイルの所に向かった。今ジェイルはクラナ軍の中級指揮官として、クインサー隊の一将をしている。以前と同じように指揮を行う副官が別にいて、自身はあくまで容姿と声と武力を生かして傀儡指揮官の任務に当たっていた。クラナ軍の生還率は極めて高い。古参で生き残っている者は珍しくなく、下級〜中級の指揮官にも散見する事が出来るほどだ。まして中期から参加した者となると、ジェイルだけではなく数え切れないほどいる。

今後、帝国軍残党の処理が進めば進むほど、屯田によって鍛えられた兵士の中には、農化を選ぶ者が増えてくる。ジェイルは最初から一段落した後には農民になると公言しており、何年後かには彼の作った野菜を味わえる日が来そうであった。

ジェイルの天幕にはいると、彼はむっつりと頬杖を突いて、書状に目を通していた。時々妻子から手紙が届くと言っていたから、恐らくはそれだろう。ルラーテが天幕に入ってきた事に気づくと、ジェイルは顔を上げた。

「久しぶりです、団長」

これは皮肉ではない。今でもルラーテはジェイルに感謝している。最初の恩人がネルテ団長だとすると、大人になってからの恩人こそこのジェイル団長だ。

「ひさし、ぶり、だな。 元気に、やってい、るか」

「はい、おかげさまで」

「いつだか言っていたことを、おぼえて、いるか」

「何を、ですか?」

ジェイルは少しだけ落胆したようだった。そして荷物の中から、油紙に包まれた小さなものを取り出す。

ドライフラワーだった。

「そなえて、やれ。 命日は、ちかいの、だろう?」

「……これは、有り難うございます」

「俺は不器用、だから、こんなこと、くらいしかできない。 後はお前が好きなように、な」

ジェイルは見かけよりもずっと大物なのだと、ルラーテは思う。今も、忘れかけていた大事なことを気づかせてくれた。この人の家族は幸せなのだろうなと思う。

ネルテ団長の墓は、まだ存在している。あの悲惨な会戦で倒れた皆との共同墓地だが、武勇談も相まって、今でも供え物が絶えない。帝都からはかなり距離があるが、どうせ時間は有り余っている。ルラーテは元々ゲリラ戦の名手であり、もう暫くは仕事らしい仕事もない。それに団長の墓は帰り道だ。今後ルラーテは、エイハヴを中心とした土地を管理し、政務官と共に支えていくことになる。

三週間がかりで、エイハヴに赴く。その間きちんと副官に仕事を伝えながら、ルラーテは去来する思い出を整理していた。初恋の人だった団長は、生きていればもう五十になるはずだ。

あの人の下で、平穏を願った。あの人の生存を祈り、幸せを望んだ。

もしあの人が二十年遅く産まれていて、クラナ元帥の下についていたら、きっと死なずに済んだだろうに。そう思うと、ルラーテは悔しい。五十と言えば、子どころか孫がいる年だ。ネルテ団長に子供がいたという話は聞いていない。全ての線は、あの戦いできれてしまった。

墓があった。平原の隅に、数千の死者と共に葬られている。大きいが、粗末な墓である。元々あった巨岩の表面を磨いて、死者達を鎮魂する文字を刻んだだけのものだ。

「全員止まれ!」

ルラーテの意志を汲んで、副官が皆を停止させる。およそ二万の兵が、かって何度と無く死闘が行われた平原に整列した。クラナ元帥が、などとはいわない。もしあの時、これほど整然とした部隊が王国軍に一つでもあったら。

悔しくて、涙が零れてきた。何十年も前の悔しさをようやく果たしたというのに。あの時願った事を、達成したというのに。ルラーテの弛みきった顔を、涙が伝い続けていた。副官が馬上のまま軍へ振り向き、演説する。

「かって、ここで大きな会戦が何度と無く行われた! 愚劣な旧王国軍は無駄に兵力を消耗し続け、戦場の露と消えた民間人も数多くいた! 傭兵も数多く死んだ! そんななか、善戦した者もいる! 帝国軍の指揮官と合い果て、味方を救った紅熊傭兵団団長、ネルテの話は皆も知っているだろう! 皆、今から彼女に黙祷すべし! 今後の武運と、一刻でも長い平穏の時を願って!」

ジェイルよりも饒舌で威厳があって、しかし実質上の指揮能力がないから、この男が副官をしている。ルラーテは皆と一緒に黙祷した。そしてドライフラワーを捧げた。

整列していた部隊は黙祷を終えると、整然とエイハヴに帰還した。今後彼らをどう遇するかが問題になる。駐留軍としては充分すぎる戦力であるし、ある程度は屯田の利を生かして農民化する必要があるだろう。政務官がプランを用意して待っているかも知れない。これでルラーテ達武官は一段落だが、政務官達にはこれからが本番なのだ。

森を抜けて、山厳しいエイハヴへと入る。無数の城の内、半分は既に解体と廃棄が決まっている。残り半分もおいおい処理される予定だ。民間施設としての使い道がないし、放置しておけば犯罪組織などが住み着く可能性がある。そして今まで軍用地だった場所を農耕地に転化できる。今までよりも、生活はずっと豊になるはずであった。

これからは、一人で暮らしたいなどとは言っていられない。社会的な義務のためにも結婚するか養子を迎えなければならないし、一人で静かに暮らせるのは最晩年になるだろう。だが、それが何だ。戦場で散っていった者達は、そんな事を考える権利すらも放棄したのだ。彼らのためにも、ルラーテが我慢をするのは当然だ。

それに、もう逃げなくてもいいのは嬉しい。逃げ続ける人生は、クラナ元帥に捕まったときに、一度終わった。そして今、完全な終わりを告げたのである。

州都に凱旋する。副官が歓呼の声を浴びる中、その後ろから無言でルラーテは着いていく。迎えに来た恋人と抱き合う兵士もいた。今日だけは少し軍規を緩めても良い。ただし、羽目を外しすぎた者には制裁を欠かしてはならない。

城で執務室に入って、執事に上着を預けてようやく一息。おつむの汗をハンカチで拭いながら、すっかり脂ぎった体を椅子に沈めると、ルラーテはやっと気を抜くことが出来た。窓から外を見ると、ルラーテが初めて降りた頃とは比較にならないほど豊かになり、もう人買いが白昼横行することも出来なくなった州都があった。もう帰る気はないが、故郷の農村も大分ましな状況になっているのだと人づてに聞いている。そっちは真実だろうが嘘だろうがどうでもいい。

何だか、やりたかったことは、いつのまにか全て終わってしまっていた。

「ルラーテ将軍」

「ん、何かね?」

執務室に主席政務官が入ってくる。ルラーテよりも頭一つ分背が高い、ひょろっとした男だ。頬の鰓が張っていて、目がぎょろりとした異相である。髪がたくさんあるのは実に羨ましい。背後に何名かメイドを連れている。更に隣の州で有名な画家の姿もある。嫌な予感がした。

「そろそろ伴侶を決めて貰おうと思いまして、見合い用の肖像画をもって参りました」

「そ、そうか。 で、後ろの者達は?」

「流石にその格好で見合い相手と会うのは失礼に当たりましょう。 着替えて頂きます」

「一日くらいは、休ませては貰えないのかな?」

「一般兵ならともかく、高級士官の身で何をおっしゃいますか」

選択権は無いと言うことか。苦笑いをするルラーテを、手慣れたメイド達が取り囲んだ。

「着替えて貰うように」

「し、しかし流石に急なのでは?」

「そのお年まで結婚なさらないと言うのが悪いのです。 ただでさえ高級士官には未婚の人間が多くて、部下が身を固めにくいと言う苦情が来ています。 寿命の事も考えられますし、一刻も早く婚姻して子を為して貰います」

「じゅ、寿命って、君」

正論でぐさぐさ突き刺してくる政務官。逃げるのを辞めた以上、この状況から逃れる術は無さそうだった。結婚しないこと、養子を既に迎えていることを言明しているクラナ元帥が羨ましいと、急いで着替えさせられながら、ルラーテは思った。

 

この後、ルラーテはあまり表に顔を出すことなく、ごくまっとうな力量を持つ統治官として、政務官とも特に衝突することなく生涯を終える。他の高級指揮官同様、権力を実子に継がせることもなく、ごく自然に一番力のある部下が後を継ぐ態勢が作られたため、死後にも混乱はなかった。血は農民に帰化したとも、知られず軍の中に残り続けたとも、異大陸に子孫が渡ったとも言われている。

これがルラーテだと断定できる肖像は存在しない。そのため、後世ではルラーテの姿形について、さまざまな憶測から噂が飛び、絶世の美男子だったという噴飯もののものまでその中には含まれていた。

晩年はごく平穏で静かだったが、ルラーテはクラナ政権の一方を支えた名将であり、指揮を執るようになってからは一度も「負けた」ことのない司令官であったことも事実である。安定した長期政権となったクラナ朝バストストア王国の立て役者の一人こそ、間違いなく彼であった。

 

(終)