母の愛情
序、最も恐ろしいひと
帝国軍人からクラナの麾下に移り、今は王国軍高位大将を務めているクインサー将軍は、主君より届けられた手紙を見て、大きく嘆息していた。ちなみに、高位大将というのは新設された階級であり、彼を含め二人しかいない。ある意味名誉な地位である。髭を最近生やし始めた顎をひと撫ですると、クインサーは本部の内部を、司令室へ向け歩き出す。
旧帝国領は、旧帝都帝宮に本部を置く東方竜軍が支配下においている。広大な帝宮の殆どは閉鎖されており、その一部が軍施設として使用されている。その指揮官になっているのはパーシィ元帥で、両翼になっているのがクインサー高位大将とリリセー大将である。更に参謀にルラーテ大将が配置されている。帝国軍残党の掃除が終わったフオメテル大将は既に本国に帰還し、インタール高位大将や他の一線級将校は各地の重要拠点にいる。確定でも固定でもないが、現在の人事はそのような様子である。基本的に何事にも野心のないパーシィは、帝国粉砕の最大の功労者と影で囁かれたルツラトを押さえ、現在クラナ麾下にてもっとも重要な役割を任された事になる。ルツラトはと言うと、王国軍元帥にして最高司令官となっているわけであり、実質上の権限では上だから、少なくとも文句を言うような事はなかった。もっとも、極端に無口なルツラトは、不満があったら直接クラナに手紙を出して直訴するだろう。事実クインサーは、何度かその場面を目にしている。同時に、クラナの説明を聞いてすぐに引き下がる様子も、同じ回数目撃している。ルツラトの行動はクラナの意思を確認する為だけ、それ以上でも以下でもないと、クインサーは分析している。
途中寄った高級士官のサロンで新聞を読んでいたリリセーを見つけたクインサーは、咳払いした。一分ほど前に立っていたのだが、気付かなかったからである。
「リリセー」
「うん? どうしたの、クインサー」
最近眼鏡を掛けるようになったリリセーは、既に三十過ぎであるにもかかわらず、僕という一人称を辞めようとはしない。こう長い事続けられるとそれの方が自然のように聞こえてくるから不思議だ。浮いた噂は時々流れてくるのだが、未だに伴侶に縁がない点はクインサーとリリセーは性別こそ違えど共通している。かといって、二人で婚姻する気もまたさらさら無い点で共通していた。軍での活躍は息が合っていて、二人一組での戦いを得意とするのに、男女としての関係は皆無。奇妙な二人であった。近すぎて、故に却ってくっつくには至らないのだと、クインサーは分析している。
「実はな、陛下から手紙が来た」
「僕の所には来てないよ」
「そうだろう。 俺に一人部下を預ける、て事だからな。 しかも配属すると決まっている部隊が問題の多い所でな」
「やれやれ、ご愁傷様。 それで、パーシィ元帥にも用事があると」
着いてもいない埃を払いながら、リリセーが立ち上がる。どうしてか彼女はやたらと埃を嫌うのだ。一方で、クインサーは埃に全く無頓着で、メイドが部屋の掃除をしても知らん顔で、舞う埃の中平然とソファで本を読んでいたりするのである。
二人で並んで歩き出す。軍の話をしながら、敢えて手紙の話はしない。どうせコレから聞く事になるからである。この辺の息の合いぶりは、クインサーには心地よい。ほどなくパーシィの執務室に着く。かって巨大なシャンデリアが飾られていた部屋は、今は複数の武官文官が務める、機能的な部屋に早変わりしていた。執務机でペンを走らせていたパーシィは顔を上げ、隣にいる副官に何か囁いた。副官は頷くと、クインサー達を見て言う。
「何事でしょうか、クインサー高位大将、リリセー大将」
相変わらずの美声だな、とクインサーは思い、リリセーに肘で小突かれた。
パーシィはいつも無言で執務をしている。ただ、その無言は、ルツラトのものとは性質が違う。彼女の側には、いつも声が良く通る女性士官が控えていて、代わりに喋るのだ。極端に小声ではにかみ屋の彼女は、クラナ以外の人間とのコミュニケーションがとても下手であり、指揮や意志疎通の為に特務副官が付けられている。常人離れして耳がいいクラナはともかく、普通の人が彼女の声を聞き取るのは困難なので、こういう特例が許可されているのだ。有能な人材はあくが強い。クラナ以外の存在が、果たしてパーシィを使いこなせたかどうか、難しい所である。
「お人払いを」
「はい。 みなさん、少し外して頂けますか?」
「あ、はい」
すぐに武官達が部屋を出ていき、文官がそれに続く。副官は忠誠度が評価されている人材であり、部屋への滞在を無言の了解で許可されていた。
「で、何でしょうか」
「此方を。 陛下からこの様な書状が来まして。 元帥にも協力を願います」
のぞき込んでくるリリセーに見せてから、パーシィに直接手渡す。大した物で、副官は覗きたい素振りすら見せなかった。しばし考え込んで後、パーシィは副官の耳元に囁いた。
「へえ……なるほど。 それで、何かしらの手を打つ必要があると?」
「はい。 仮にも失礼があってはいけないと思いますので。 配属部隊をこっそり変えた方がよいかも知れないと思いまして」
「必要ないでしょう」
「……は?」
「何もする必要はなく、そのまま受け入れて動いて貰うのが一番良いでしょう、と言っているのです」
パーシィは兎に角頭が切れる。大声で自己主張をしない分、内にこもった頭脳はとても良く練り上げられているのだ。だから、クインサーも相手の発言に噛みつかず、まず説明を求める。
「説明を頂けますか?」
「まず陛下は、肩肘張った状態での対応は望んでいないでしょう。 例の子は、多分将来的に我々を操作しやすいように派遣されるのだと思います。 ならば素のまま他者と区別せずに扱って、鍛えておいた方が本人のためにもなると思いますよ」
「成る程。 それに陛下も泥水の中から這い上がって今の地位を得たと公言している方ですからな」
「そう言う事です。 後継者も甘やかさずに、徹底的にしごきあげてから使う。 それが確立すれば、きっとこの王朝の未来は明るいでしょう。 世襲と外戚といういう諸悪の根元が排除される原因となるかも知れません。 永遠の平和には繋がらないでしょうが、それでもかなりの長期間、良質の態勢を維持出来るはずです。 聞けば若くして戦功も立てている様子ですし、それにそのくらいの苦境を跳ね返せなければ、陛下の後継などつとまりませんよ」
頷くと、クインサーはリリセーを促して、部屋を出る。
「元帥も、不思議な人だよね。 あの恥ずかしがり屋の小声ちゃんが、どうしてあんな能力の持ち主なのかな」
「さあてな。 ただ、変人はお互い様かも知れない」
「ははは、それは言えてる。 僕にしても、一般人になろうなんて今更思わないしね」
互いに笑いあった後、リリセーが手にしていた扇でクインサーの頭を強か叩いた。何の予備動作もない行動だったので、唖然としてクインサーは双翼の盟友を見る。リリセーは笑顔を崩さないまま、言った。
「自分が変人だってのは分かっているけど、面と向かって言われると流石に腹立つね」
「すまなかった。 反省している」
「じゃ、頑張って。 部下の話だと、そろそろもう来ているはずだから」
やられたとクインサーが思うよりも先に、リリセーはさっさと歩き去っていた。
馬車から降りたカナは、太陽の光を手で遮りながら、壮麗な建物を仰いだ。殆どが閉鎖されているとは言え、流石に見事だ。
「此処が東部竜軍司令部か」
独語は空に流れる。カナは十六才になっていた。体の成長はほぼ停止し、背も伸びきった。体脂肪率は極めて低い水準に押さえられているが、それも当然である。午前中の基礎体力向上訓練は今も続いており、食事レベルからの肉体構築も続いていたから、そんなもの付きようも無かったのだ。好物も時々食べる事が出来たが、そればかり食べる事は許して貰えなかった。元々そう言う体質だったのか、或いは訓練の結果か。どちらかと言えば平均よりも背が低かったカナは、今では平均より頭半分背が高い美しい娘に成長している。元々の造作よりも、強い意志力と落ち着いた物腰がそう見せるのだ。胸には少佐待遇の勲章。カナは既に何度も辺境の軍務や小規模な氾濫鎮圧に狩り出されており、その過程で実績を幾つか上げているため、少佐待遇は決して過剰なものではない。
司令部を歩き出す。入り口の兵士に手紙を見せて通して貰った後は、案内の兵士が何名か付いた。渋い色の壁に囲まれた廊下は、質実剛健を旨としながらも、後期は貴族化していた帝国の迷走ぶりを良く現していた。所々に妙に凝った芸術品がぽんとおかれていたり、一方で機能性しか考えていない手すりが延々と続いていたり。ただ、綺麗に整理整頓されていて、窓にも手すりにも埃一つ無い。此処を預かるパーシィ元帥はとらえどころがない人だと聞いている。兵士達の噂だと、声を聞いた事もないと言う。何となく、この宮殿に似ているなと、カナは思った。逆の意味で、だが。
「クインサー将軍の部屋は此方です」
「有り難うございます」
「御公務、頑張ってください」
案内の兵士は、よく見ると伍長待遇のまだ若い兵士であった。敬礼に敬礼を返すと、カナは部屋にはいる。何か憮然とした様子で、噂のクインサー将軍が頬杖を付いていた。つかつかと机の前まで歩くと、ゆっくりと、威厳を持って敬礼する。
「カナ=コアトルス少佐です。 今日を持って、クインサー将軍の麾下に入るようにと、辞令を受けました」
「うむ。 一日の休暇の後、新兵をくわえて新設される第三師団第六十六遊撃中隊の指揮をとってもらう。 部隊の駐屯地や、君の宿舎は其処にいるユリント中佐に聞くように」
「はっ。 了解いたしました」
「うむ。 では私も執務があるので、下がるように」
頭を下げると、ユリントと一緒にカナは執務室を後にする。まともな相手で良かったと、心の中だけで呟く。今までの(上官)の中には、クラナへの恐怖が先行したり、将来の出世を考えたりして、露骨な差別待遇をしてくる輩が少なくなかったのだ。
ユリントは大柄な禿頭の軍人で、顔には大きな向かい傷があり、腰に馬鹿でかいウォーハンマーをぶら下げていた。凄まじい強面であり、この見かけで案内役というのは珍しい。普通案内役とは副官が行う事が多いのだが、机の上の書類の山から判断して、副官を出すのは時間的に無理だと高位大将が判断したのかも知れない。別にカナにしてみれば、怖くも何ともない。というよりも、クラナより怖い存在などカナには想像も出来ない。
「ユリント中佐。 宿舎は何処になるのですか?」
「帝都の北西部にある、第三師団の士官寮の一つになります。 高級士官用のものにはなりませんが、十六で少佐になった貴方なら二十歳までには高級士官寮に入れるでしょう」
「いやいや、士官寮で全然問題ないですよ」
「それを聞いて安心しました」
実のところ、高級士官寮と士官寮で、内装の豪華さが異なるとか、そう言った事は全くない。両者の差は護衛の兵士が巡回するか否かである。このため、数が減りつつある貴族出身軍人の中には、わざわざ邸宅を購入して其方を使っている者もいる。喧噪絶えない旧帝都を歩きながら、不意にユリントは言った。
「ところで、新任兵士の部隊を指揮して、旧貴族層が扇動した反乱部隊を三日で鎮圧したというのは、貴方ですかな」
「はあ、まあ。 恥ずかしい話ですが」
「それなら、その若さで佐官になっているのも無理のない話ですな」
「いやいや、優秀な後見役が付いていたからですよ。 お恥ずかしい話です」
威厳は損なうな。ただし、傲慢にはなるな。クラナは戦場でもカリスマと威厳が先行していたと聞くが、カナは実戦を経験した後、それを真似できないことにすぐ気付いた。士官寮に案内され、様々な説明を受けた後、カナは壁により掛かって大きくため息をついた。
まだまだ、まだまだ先はある。じっと手を見る。剣を握り、槍を握り、鍛え上げられた手だ。こうやって趣味をしていると昔と同じなのに、体はもう全然違う。否応なしに大人になっていく。
「さ、頑張るかな」
短く簡潔なカナの言葉には、わずかの迷いと、先に進もうという意志力が、強くにじみ出ていた。壁から背中を離すと、カナは頭を切り換えるべく、洗面所に向かった。
1,膝下へ
ダークグレーの緩やかにウェーブした髪と、透き通ったスカイブルーの瞳を持つ、今年九才になるカナ=フォン=ナールジェントが最初にその人を見た時、単純に怖いと思った。今までも、色々と怖いと思った事はある。与えられていた暗い部屋の闇は何よりも怖かったし、夜中に聞こえる得体の知れない咆吼も怖かった。だが、それはあくまで二次的副次的な恐怖にすぎなかったことを、その人に会う事でカナは知ったのである。
一見して、その人は小柄な女性に見えた。ツインテールに髪を結んでいて、周囲にえらそうな大人を何人も従えている。服には幾つも勲章を着けていて、階級章から、軍での階級は元帥だと知れた。歩く動作はとかく堂々としていて、何にも恥じる事はないように感じられた。いつも傲岸な父も兄弟達も、蒼白になってその人に頭を下げるばかりであった。身動きどころか、無意識に呼吸をも止めていたカナは、いつの間にか相手の顔が至近にあることに気付き、ひっと小さく声を漏らしていた。幼いカナにも分かった。この人は怖い。危険だ。
「お前が、カナ=フォン=ナールジェントか?」
「は、はい」
すっと手が伸びて、カナの顎を撫で、顔を掴んだ。手は温かかったが、同時に肌の底へ染み渡るような威圧感を放っていた。自分に無理矢理視線を合わせながら、その女の人は言った。
「私は、クラナ=コアトルス。 王国軍元帥だ」
一呼吸をおいて、その人は続ける。口だけしか笑っていないその恐ろしい表情を、生涯カナは忘れられないだろう。この時カナは、ドラゴンと至近で顔を合わせていたに等しかったのだ。
「じきに、お前の母親になるかも知れない存在でもある。 覚えておくようにな」
クラナ=コアトルスという名前は、カナも聞いた事があった。英雄という存在をその身で体現している人であり、既にこのバストストア王国の大半を掌握しているという事も。まだ若い女性なのに、誰も逆らえる人がおらず、戦場でも最前線に立って剣を振るうのだとも。憧れる女性も多いのだと聞くが、カナにはどうもぴんと来なかった。あまりにも世界が遠かったからである。
だって、カナの住んでいる世界は、とても狭かったのだから。
カナは虐待とまでは行かないものの、とても寂しい世界で生まれた。自分は妾腹の子だと、カナは知っていた。幼い頃からそれが原因で、兄弟の中でも最も低い位置に置かれていたからである。貴族の子は庶民に比べて遙かに豊かな生活をする事が出来るが、それは長子や、最低でも正室の子、という条件が必要になる。使用人に面白半分に父が手を付けた結果、カナが出来てしまったと、兄弟達が侮蔑混じりに話しているのを、良くカナは聞いていた。妾腹の出来損ない。そう呼んで、周囲の誰もがカナをバカにした。部屋も与えられてはいたが、それは屋敷の隅にある小さな場所で、光も差し込まず、遊ぶものもほとんど無かった。座敷牢に半ば軟禁されていたと言っても良い。母には会った事もない。消息すらしらない。
ただ、周囲に誰も人がいなかったわけではない。使用人達は却って彼女の境遇に同情し、食事を多めに差し入れしてくれたり、隙を見て外に連れ出してくれたりもした。弱者を見て虐待したくなるのが絶対的多数の人間が持つ基本的な性質だが、たまたまナールジェント家の使用人には善良な者が多かったのである。たとえ、良くしてくれるのが、自分より立場が悪い人間に対する同情であったとしても、カナはそれによって潰される事を免れたのだ。
それらが作用し、致命的な性格の崩壊が起こらなかった事が、カナの運命を良い方向へと向けた。
カナはあまり屋敷の中を出歩けなかった。もし兄弟に見付かろうものなら、目障りだの臭いだのと暴言を吐かれて、直接的な暴力を振るわれる事も珍しくなかったからである。大人しい上に、運動量も少ないカナは兄弟の暴力に抵抗する術を持たず、耐えるしかなかった。結果、カナの行動は室内に限定せざるを得ず、読書が多くなっていった。屋敷には祖父が作ったという小さな図書館があり、そこの蔵書は二万冊を超えていた。「親」が将来もしもの時の為に、と基礎的な学問だけを教えてくれたのは幸運だった(一応彼女も家督相続用のスペアなので、もしものことがあった場合に、最低限の能力がある事は必須だったのだ)。カナは部屋に辞書を常におきっぱなしにし、難しい本をどんどん読んでいった。幸いカナは孤独に対する耐性があり、静かな事も平気だったので、この環境は却って心地が良かった。そして兄弟達が(教養)と称する無駄なスキルばかり身につけ、他は空虚に遊んでいる間に、実用的な知識を積み上げていったのである。六つの頃には、カナは兄弟の誰よりも博識になっていた。暗い部屋におきっぱなしにされていたから、肌は生白いままであったが、実のところ、祖父が集めた書物の中身を誰よりも知っている存在になっていた。実戦の中生き、王国軍の誰よりも豊富な戦歴を誇った、祖父イツァムが集めた知識を飲み込み咀嚼した存在へと変貌していたのである。実戦経験がない以上、それは机上の知識に過ぎなかったが、それでも一般的な貴族の子弟よりずっとましであった。
唯一彼女を人間扱いした貴族は、祖父であるイツァムだけであった。ずっと幼い頃には、屋敷を訪れても半ば無視されていたイツァムだが、カナが本を読むようになった頃から家族の態度が豹変、不意にすり寄るようになっていた。理由は簡単で、年老いてから出世街道に乗ったからである。数々の戦いで派手な武勲を立てた結果元帥になったということをカナは聞いていたが、イツァムは前からずっと変わらなかったので、どうもカナにはぴんと来なかった。それよりも、イツァムが家に訪れる事自体が、カナには楽しみだった。座敷牢に等しい部屋から堂々と出して貰える数少ない機だからである。
元帥も、カナにはただの優しいお爺ちゃんだった。好々爺であるイツァムは誰にでも優しく接していた為、使用人にも人望があり、カナが受けている待遇も知っていた。それで家族に口を利いてくれて、屋敷を訪れた時には外に連れ出してもくれた。馬の鞍の前に乗せて貰い、外をただ彷徨くだけでも、カナはとても嬉しかった事を覚えている。物静かなカナは、お爺ちゃんのゆっくりした喋り方が嫌いではなかったし、色々な、博識さに裏打ちされた話も大好きだった。お爺ちゃんは戦争の話だけではなく、童話も昔話も良く知っていて、カナに色々な事を教えてくれた。二万冊の本よりも、お爺ちゃん一人の方が物知りなのではないかと、カナは錯覚する事があった。
家族と一緒の席で夕食を取った事などカナは一度もなかったが、お爺ちゃんは遠出のついでにと、良くカナを食事に誘ってくれた。今まであまり豪華な食べ物をお腹に入れる事は出来なかったが、それが粗野な料理だというのは分かった。野豚の丸焼きとか、野鴨の炙り焼きとか、お爺ちゃんが部下と一緒に作ってくれる野性的で粗野な料理は生命力溢れていて、カナの体を内側から燃やしてくれるようだった。お爺ちゃんが帰った後、もし兄弟に出くわそうものならいつもより酷く虐められたが、そのくらい何でもなかった。いままで散々阻害されてきたカナは、多少の虐めくらい空気と同じだったからである。顔に青あざが出来ても、体に擦り傷が出来ても、カナは平気だった。元々幼いカナには男女という概念自体が希薄であったし、身を飾ろうという気持ちも無かったし、何よりお爺ちゃん以外に好きな人間もいなかったからである。
お爺ちゃんとさえ話せればカナは幸せだったが、それも長くは続かなかった。カナが八歳の時、お爺ちゃんが死んだからだ。病死だったが、老衰に近かったと、使用人達が話しているのをカナは聞いた。最初は実感がなかったが、徐々に空虚な感触が、心の中で大きくなっていった。いつの間にか本を読む気も無くなり、食事も喉を通らなくなった。そんな時であった。不意に部屋の外に連れ出されたのは。そして彼女は、クラナに引き合わされたのである。
お爺ちゃんは連れ出してくれた時、カナを鞍の前に乗せて、ゆっくり馬を歩かせながら言ったものである。
「儂には、お前の他にも孫のような者がおる。 ん、お前と比べると、親子ほども年が離れておるがな。 性格もだいぶ違う」
「どんな人なの?」
「そうさな。 とても厳しくて、とても怖い人だ。 儂が今まで見た者の中でも、一番怖い相手だな」
「……」
「だが、自分にとって必要な相手にはとても良くしてくれる。 いざというときは、お前も頼ると良い。 お前がその人の役に立てるなら、きっと良くしてくれるだろう」
話半分に聞いていたその相手が、クラナである事は、カナにはすぐ分かった。(怖い)というのが、カナが想像していたようなレベルとは全く違う事も。
暗い闇の底で静かに流れていた人生が、激流に放り出された事を、敏感にカナは感じていた。
あれよあれよという間に、カナは屋敷から連れ出された。荷物はほとんど無かったのが幸いだが、読んだ事のない本も少し残っていたので、それは残念であった。一度も乗った事がない馬車に乗せられて、見た事もない宿の大きな部屋に泊められて。部屋の外には強そうな護衛が何人も付いて、中にも神経質そうな女性の軍人が常に張り付いていた。名前は確かフィッチャーと言ったが、不要な場面で喋る所を見た事がなかった。元々弱気で臆病なカナは、そんな状況で心安らかでいられるはずもなく、三日と待たずに寝不足になっていた。同じ宿に泊まる事も二日と無く、毎日馬車に揺られては何処かへ護送という日が続いた。
馬車の外を見ると、騎兵が五人、歩兵が二十人、常時護衛に当たっている。護衛に隙はなく、殆ど私語も発しない。馬車の中は向かいに席が配置されていて、カナは護衛の女性軍人と向き合う形で座っていた。馬車特有の揺れにはすぐに慣れたし、無言の沈黙はカナも嫌いではない。しかし、ずっと誰かといる状態で、無言が続くというのは好きな状況と言い難かった。
「あの……」
三日目、我慢しきれなくなったカナは、上目遣いに軍人を見ながら言った。分厚い本を読んでいた彼女は、無言のまま顔を上げる。見ると少佐の階級章を点けており、士官だと言う事が分かる。まだ三十前で佐官だから、相当に有能だと言う事は、カナにも分かる。クラナのように二十歳前後で将官になると言う方が特例なのだ。
「何処へ、行くんですか?」
「リリフトハイルです。 カナお嬢様。 それと、我らには敬語を使わずとも結構です」
低く重い声であった。恐らく戦場で指揮をする為に、敢えてそういった声質にしているのだろうとは、カナにも見当が付く。じっと見られて息をのんだカナだが、視線を逸らして威圧感を和らげながら、続ける。
「リリフトハイルに、何をしにいくの?」
「クラナ元帥は、去年ほどから養子の選別に当たっています。 自らの後継者にするべく、優秀な子供を捜しているとか」
「……はい?」
「噂では、元帥は御子を為せぬ体なのだとか。 或いは特定の夫を娶る事によって、国内での人事のバランス崩壊を危惧しているのだとも言われております」
混乱する頭脳。カナは口に手を当て俯くと、状況を理解しようと務めた。クラナの事情については、正直どうでもいい感がある。お爺ちゃんに孫のような存在だと言う事は聞いていたが、怖いだけで親近感は今のところないし、実際に身近な存在だとも思わない。問題は、養子の選別と、優秀な子供が云々という下りだ。
優秀?誰が?
カナは自身が優秀だ等と思った事は一度だってない。もし優秀だったら自力で事態を打開していたはずだ。カナは自分の事を、あんな穴蔵に隠れ籠もって、兄弟の暴力を恐れながら生活していた人間だと、卑下している。混乱するカナに、軍人は咳払いすると続けた。
「あまり気を揉まなくとも大丈夫です、カナお嬢様。 もし養子の候補から外れても、クラナ元帥の麾下にて、将来的な出世はほぼ約束されております。 これから行われる教育プランはかなり厳しいものとなる事が予想されますが……」
「え、ええと、そうじゃなくて」
「……」
「どうして、私なの?」
カナの疑念ももっともである。それにようやく気付いたらしく、軍人は少し考え込んだ後、言葉を選びながら言う。
「人員の選別はクラナ元帥が自ら行ったと聞いております。 それ以上は、小官には分かりかねます。 ただ……」
「ただ?」
「クラナ元帥は、故イツァム元帥と主従を超えた親子のような関係であったと、小官は聞いております。 クラナ元帥の義理堅さは国内外に有名ですし、ひょっとすると故イツァム元帥の頼みだったのではないかとも思います」
「それならば、何故私の兄弟達ではないの?」
後継者には貴族の後ろ盾がついた人間を選ぶ事が珍しくない。その方が部下達も従いやすくなるし、施政もスムーズになる。しかしそれが外戚というガン細胞を国家にもたらし、悪政と国力の疲弊を産んで来たのもまた事実だと、カナは知っていた。それを知った上で、カナは発言した。軍人はその時初めて、少し柔らかい笑顔を浮かべた。
「クラナ元帥は、一応カナお嬢様の兄弟方にも会ってきました。 その上で、カナお嬢様をお選びになられたそうです。 百戦錬磨のクラナ元帥は、自らの判断で貴方を選んだのです、カナお嬢様。 もう少し自らを誇られても良いですよ」
「……そんな事言われても、私」
「それに、残念ながらナールジェント家の皆様は、私の目から見てもクラナ元帥の後継者になられる器ではありません。 お嬢様は、もう公式にナールジェント家から籍を外している事をご存じでしたか? 彼らが外戚になる恐れはありませんし、クラナ元帥と権力を争えるような力は元々ありません。 カナお嬢様は、その点について心配なさらずとも大丈夫ですよ」
あまりにも動きが激しすぎて、カナの頭はショート寸前だった。しばしの沈黙は、当然思考を練る為のものだ。そうでもしないと、とても事態の嵐が如き変遷にはついていけなかった。
「私を、いったい、どうしたいの?」
「まず、カナお嬢様には、基礎的な政治知識と軍事知識を身につけていただき、人の使い方を覚えて頂きます。 同じような教育を受けて、新世代の担い手になる事を期待されている者が何名か居るようです」
「そうじゃない。 私を、どうしたいの!」
案外大きな声を出してしまったので、カナは自分で驚いていた。勿論、実戦経験を山と積んできたであろう少佐は、全く動じる気配がない。
「私、自分で分かってる! 私なんて、本に埋もれてただけの、何もした事がない、何も出来ない、無力な小娘だよ! それに比べて、クラナって人は実力でのし上がって、今はこの国を実質上奪い取った大英雄でしょ! 私とあのクラナって人の接点は、お爺ちゃんだけ! そんな私に、一体何をしたいの!?」
「おそらく、クラナ元帥は、能力以上にカナお嬢様のそんな所を評価したのでしょう」
「分からない……よ……」
「じきに分かります」
その時、初めて能動的に少佐が動いた。馬車の窓を開け、光を車内へと招き入れる。促されて外を見ると、遠くに巨大な城壁が広がっていた。
「あれがリリフトハイル。 クラナ元帥にとって栄光の中心になった土地であり、帝国と王国の戦いの歴史をその存在で示している要塞です」
あまりにも大量の血が染みついたその城壁に、カナは最初言葉もなかった。黒ずんだ石の壁には、膨大な執念と怨念がこびりついているように見えた。カナもこの地と、周囲で行われ続けた数々の大会戦は知っている。最近はクラナの手によって帝国軍主力が何度と無く叩き潰され、結果この辺りで戦争が行われる事はなくなったと言う事も。帝国の大要塞も陥落し、すでに帝国本土侵入を睨んだ大編成が行われていると言う事も。
リリフトハイルの城壁は丁寧に整備され、門は大きく開け放たれている。頑丈な三重の鉄門であり、門へ至る橋にも様々な防御施設が施されている。堀は深く、中には水が入れられていて、水鳥が餌を採っていた。要塞の周囲には幾つもの軍陣地が建造され、カナがざっと見ただけでも七種類以上のカラフルな旗が風にはためいていた。平野では陣形を敷いた部隊同士が激しく動き回っており、鋭い訓練の声が此処まで届いてくる。窓から乗り出して外を見る。鉄の匂いが鼻をついた。鎧を着た兵士達が大勢行き交っていて、それが原因なのだろうなと、カナは思った。
「凄い数の兵隊さんたち……」
「リリフトハイルには、現在五万の兵士が駐留し、もう五万が訓練の為に訪れています」
「戦争が近いの?」
「ご明察。 おそらく、来年中に帝国は地図から消えるでしょう」
自信満々の体で少佐は言った。クラナに対する絶対的な信頼が、その笑顔からは伺えた。
馬車はリリフトハイルに入ってから速度を落とし、北部へと進み始めた。話によるとこの大要塞は内部で三つの城に別れており、一カ所が制圧されてもすぐには落ちぬようになっているのだという。城壁は天にも届けとそそり立ち、大勢の兵士が警備に当たっている。奥へ行くと住居も増え始める。特徴的なのは無駄に広い貴族の屋敷が建て壊されて兵舎や畑に作り替えられている事であり、兵士達が農具を振るって畑を作っているのにも何カ所かで出くわした。
今後は貴族にとって厳しい時代が来ると、それを見ながら少佐が言った。カナも貴族は嫌いだったから、二つ返事でそれに応えた。リリフトハイルの最深部に到達した頃には、夕日が沈もうとしていた。
いきなり城のような大邸宅に案内されたらどうしようとカナは思っていたのだが、馬車が止まったのは案外慎ましい屋敷であった。兵士達は各部屋に散り、少佐は部屋にもきちんとついてきた。方角から見ても日当たりの良い部屋であり、あの暗い部屋と比べると随分過ごしやすそうで、カナは少しうきうきしながら辺りを見て回った。質素な内装であったが、別に文化を否定しているわけではなく、燭台や手すりなど、細かい所に意匠が凝らされている。手すりに指をなぞらせてみると、埃一つ付かない。とても良く整理整頓されていて、神経質ですらある。後は静かだったら完璧なのだが、どうもそうは言っていられないようであった。
カナが屋敷の案内を一通りしてもらうと、向こうから筋肉質の大男と、髭を蓄えたお爺さんが歩いてきた。どっちも目つきは鷹のように鋭く、大男は腰にカナを真っ二つに出来そうな巨大な剣を帯び、お爺さんは丸めた鞭を点けている。どちらも軍の正装だが、体格は殆ど熊とリスの差であった。お爺ちゃんが腰に点けている鞭はとても良く磨かれた皮鞭で、とても痛そうだった。先に口を開いたのはお爺ちゃんで、隠れる所もないカナをまっすぐ正面から見据えながら言う。
「お嬢ちゃんがカナ=フォン=ナールジェントですかな?」
「は、はい」
「儂がライレン。 其方がインタールです。 とりあえず、この屋敷では、儂らが基礎的な事をお嬢ちゃんに教えます。 朝から晩まできっちり仕込むから、そのつもりでいてください」
一瞬迷ったようだが、それでもライレン老人はカナに敬語を使ってくれた。見た瞬間にとても厳しい人だというのは分かったのだが、それ以上に自分に厳しい人だと言う事も良く理解出来た。
「あの……お願いします」
ぺこりと頭をカナが下げると、不思議そうにライレンとインタールは顔を見合わせた。頭の上に疑問符を浮かべているカナ。不意にその頭に手が置かれ、わしわしと撫でられた。驚いて目を白黒させるカナに、インタールは撫で撫でを続けながら言う。
「んー? どんな山猫かと思ったら、随分行儀がいいな。 多分ライレンの旦那が面倒見た餓鬼共の中で、一番良い子なんじゃねえか?」
「いやいや、儂が面倒を見たどの子も、基本は皆よい子ですよ。 ただ、歪んでしまって、捻くれてしまっている子が多いだけですとも」
「やれやれ、旦那は強いな。 俺のかわいい子供達がルルシャみたいになった所を想像すると、ぞっとしねえや」
「失礼ですよ、インタール殿。 さて、まずは此方へ。 どのくらい基礎的な知識があるのか、見せて貰いましょうか」
呆気に取られているカナの手を引いて、ライレンはささと歩き出す。節張っているが、骨格はしっかりした、随分と力強い手だ。ひょっとすると元は軍人なのかも知れないと、カナは思った。
2,育ち行く芽
最初の数日は、ペーパーテストに終始した。ライレンは山ほど紙を持ってきては、カナの前に並べた。最初のうちはすらすらととけたカナだったが、三日目くらいからは全く書いてある事が分からなくなり、最終日には同じ国の言葉かすら分からなくなっていた。最後のペーパーテストは完全に白紙であった。頭を抱えて樫の机に突っ伏すカナの耳に、屋敷の外でなく小鳥の声が届く。
「どうでしたか?」
「じぇんじぇん分かりません……」
「分からないと言う事が把握出来るなら充分です。 と言うよりも、貴方の年で二日目まできちんとついてこれていたのは立派です」
教室になったのは、貴族の個室ほどもある広い部屋だ。窓からは光が差し込んでいて、空色のカーテンが風にはためいている。ぐるぐるになった頭に、風が涼しい。窓を開け、涼しい風を部屋に招き入れたライレンは、カナの頭頂部を見ながら言う。
「貴方の今の知識量は分かりました。 そうですね。 知識を比較的多めに持つ貴族の中年男性程度でしょう」
「……あの、それはどういう意味ですか?」
「周囲の並の大人よりもきちんとした知識を持っているという事です」
「有り難うございます……」
頭がゼリーになった気分のカナは、机に持たれたまま動けない。この数日だけで、一体何枚のペーパーテストをやったのか。多分百三十か四十はやったはずだ。
「明日からは、テストはひとまずおいて、今度はインタールの授業を受けて貰います」
二つ返事で部屋に引き上げたカナは、少佐のいうまま風呂に入って体を洗い、ぐったりしてベットに入る。お日様の匂いをたっぷり吸い込んだ温かいベットだ。家にいた頃の、湿気をたっぷり吸い込んだ冷たいベットとは随分違う。もう本を読む気力もなく、現のままカナは眠りに落ちていた。明日からは、少しはましな授業になる事を期待しつつ。いつのまにか、どうしてこんな事をしているのか、自分に何をさせたいのか、そういった疑念は疲労に解けて消えていた。
最初の数日に比べて、次の数日が楽になるかと思っていたカナだが、予想は見事に外れた。屋敷の外のお庭で、その訓練は開始されたからである。
「いいか、カナお嬢様。 クラナ元帥みたいな特例の特別製は別として、あんたみたいな立場の人間は、敵を倒す必要なんてない。 敵に囲まれた場合、とにかく生き残ればそれで良いんだ。 戦いの際の至上命題は、敵を倒す事じゃあない。 敵の攻撃から逃げ延びる事だ」
「……」
カナは無言である。インタールはまっすぐにその目を見ながら、鞘に入れたままの大剣で肩を叩きながら言う。革製の丈夫な訓練着を纏ったその姿は、無言の威圧感を周囲に放っている。カナも丈夫な革製の上下に靴をはいて、手には軽い訓練用の木剣を持っている。というよりも、武器と名が付くものを、それが訓練用だとしても初めて手にするカナは、完全に腰が引けてしまっていた。
「しかし、それでも剣の基礎は必要になってくる。 何故か。 それはな、基礎が分かっていれば、相手が何処を狙ってくるか、狙ってきた時にはどうすればよいか、最低限のマニュアルにしても、頭の中に出来るからだ。 対応方法が分かっているのと、分かっていないのでは、基礎体力があろうが無かろうが全然結果が違ってくる。 そう言うわけで、俺の授業で、まず戦闘技術を1から学んで貰うからな」
大剣を背負いなおすと、インタールは側に控えていた兵士から木剣を受け取った。カナが手にしているものと同じサイズのものだ。どう見ても体格に会わないが、しかしカナは好感を持つ事が出来た。この辺、とてもフェアな事がよく分かるからだ。
まずカナは構え、握り方から教えられ、素振りから始めた。ちょっと油断すると剣は振った途端にすっぽ抜けて、遠くへ跳んでいってしまう。貧弱なカナの握力ではなおさらだ。兵士達もそれが如何に困難なものかよく分かっているらしく、きちんと安全地帯まで引いて二人の訓練を見守っていた。よく見ると頭に白いものが混じり始めているインタールは、カナの側で逐一指示を飛ばし、剣がすっぽ抜けても確実に避けるか跳ね返すかした。そして、訓練は必ず昼前には終わった。そして昼食には山ほど肉料理が出され、それにセットで野菜も大量に出された。何とか昼食を食べ終えると、今度は学問が待っていた。無論全く手加減無しに、敬語のままライレンは難しい学問を次から次にと続けた。カナの耐久力を見ながら、二人の教師は、徹底的にしごくつもりのようであった。当然夜更かしなど出来るわけもなく、訓練が終わると無理矢理夕食を胃に掻き込んでベットにダイブし眠りに落ちる日が続いた。
手が豆だらけになり、それが潰れて更に豆が出来た。頭の中は今までに聞いた事もなかったような情報で充たされ、しかもそれを忘れないように重複学習をさせられた。剣を振らない時は体を動かす訓練を行い、走ったり飛び跳ねたりした。数ヶ月があっという間に過ぎた。その間に、インタールが仕事があると言って屋敷から出ていった。外が慌ただしく動き、軍人の数が目立って減った。
そして気が付いた時には、帝国が滅亡していた。
インタールの代わりに戦闘訓練を引き受けたのは、ずっと護衛をひきうけてくれていたあの少佐であった。本人はあまり最近機嫌が良くなかったが、その理由はカナにも何となく分かった。おそらく、彼女も決戦に参加したかったのだろう。夜になると良く素振りをしているのを、カナは知っている。戦いが好きだと言うよりも、若い体の内で燃え上がる膨大なエネルギーをもてあましている感じだ。軍人という道を選ばなければ、乱脈な異性関係を築いていたかも知れないと、いつだか同僚と語っているのを、カナは聞いてしまった事があった。
豆の上から豆が出来て、それも潰れて暫くした現在、もう訓練用の剣を握る事は苦にならなくなっていた。少し小ぶりのものなら、実戦用のショートソードだって振れるようになっていたのだ。一日に百回素振りしようが三百回素振りしようが、もう豆など出来ない。食事レベルから肉体強化を考えて行われている訓練だというのは、カナにはもう分かっていた。逆に言えば、自分が第三者の意志で(構築)されているという現実の理解も、カナの中にはあった。だが、不思議と嫌な気分にはならなかった。
ノルマの素振りを終える。もう何でもない。二の腕に触れてみると、いつのまにか随分硬くなり、また太くなっていた。色白だった肌は日に焼けており、邪魔な髪は束ねて縛っておくものだという無言の習慣が身に付いていた。お洒落など二の次だ。大体、あの暗い部屋にいた頃から、お洒落など殆ど気にはしなかったではないか。
「はい、今日も実戦訓練で締めましょう」
「はい。 お願いします」
嬉々として、カナは呼吸を落ち着かせ、構えを取る。構え自体も状況に応じて色々なものがあると教えて貰って以降、自分で様々に試してみるようになっていた。何故嫌な気分にならなかったのか、分からない。馬車の中で、私を一体どうしたいのかと、食ってかかった事も、もう遠い世界の昔話のような感触である。カナは自分が強くなっていく事を、明らかに楽しんでいた。まだまだ成長期にある体は、一度運動の味を占めると、それを貪欲に要求していた。頭脳も筋肉と同じで、今の環境を歓迎していた。多方向の知識を与えられると、大喜びでそれを吸収した。周囲の教師も皆教え方が上手だったし、何より旺盛な学習意欲が役立っていたのだと、自分でも分かった。
カナはやや上段に構え、切っ先を少佐に向ける。少佐は全く構えず、じりじりと間合いを詰めてくる。前はそのままつかつか歩いてきて一撃で終わり、だったのだから、これだけでも随分な進歩だ。リーチの差がある相手には下から攻めろと言うのは鉄則なのだが、敢えてカナは最近こういった奇手を試す事に喜びを得ていた。風がなる。無言のまま、少佐が摺り足で間合いを詰めてきたのだ。上段から無遠慮に一撃を叩き落としてくる。以前は手加減している事が丸分かりだったが、最近はどんどん剣筋が鋭く一撃が重く速くなってきていた。足を引きつつ、カナは微妙に構えを降ろす。一撃が鼻先を掠め、空を切った。少佐はそのまま、刷り上げるように顎を下から狙ってきた。連鎖的な攻撃で、並の使い手ならひとたまりもなく顎を跳ね上げられる所だが、カナが狙っていたのは正にこの瞬間だった。そのまま渾身の力を込めて、剣を振り下ろす。剣の根本の微妙な所に一撃が見事入り、僅かに少佐が体勢を崩す。力の差は大きいが、これは力の掛かる場所を考えての一撃だ。そのまま体を泳がせて前に出、踏み込んで胴を狙うが、流石に実戦経験豊富な現役軍人は違った。当て身を浴びせてカナに蹈鞴を踏ませ、息を止めたカナが態勢を立て直す前に、頭に一撃を軽く当てたのである。審判役の兵士が声を張り上げた。
「それまで!」
「ふえー。 また負けちゃったよ」
「まだまだ。 その程度で私には勝てませんよ」
頭をさすってぼやくカナの肩を叩くと、少佐は訓練剣を鞘に収め、兵士に渡す。そして代わりに訓練槍を手に取った。地面にへたり込んだまま、カナはそれをぼんやりと見ている。
「明日からは剣にくわえて、槍を始めましょう」
「ええ? 寝る時間が遅くなるって事? 堪忍してよお」
「いいえ。 剣の時間を削ります」
「え? どゆこと?」
「貴方の剣の実力は、年齢から考えれば充分です。 剣で食べるつもりならそれ以上の向上が望ましい所ですが、貴方の目的は剣を覚える事により、剣から身を守る事。 ならば、その実力で充分です」
いまいちカナにはぴんと来なかった。更に数ヶ月が過ぎ、槍の次は弓矢を学ぶ事になった。長弓はとても引くのに力が入り用だったが、しばし訓練すれば引けるようになった。弓の次はナイフ、そして最後に格闘術と移る。更に一年が過ぎた頃には、クーデターによってバストストア王国の実権をクラナが完全に掌握、新たに女王として至尊の座についていた。
カナには興味がなかった。兎に角今は、強くなり、力を増す事に興味が向いていた。新しい学問はまるでおやつのようにカナの興味を引いた。新しい武器が出てくると、兵士達に混じってカナは嬉々として触りに行った。
カナの成長はめざましかった。十一才になった頃には、ライレンが何を聞いてもすらすら応えられるようになっていた。インタールには一本も取れなかったが、少佐からは三本の内一本は取れるようになっていた。肌も健康的に焼け、基礎体力も付き、どちらかと言えば低めだった背も、急激に伸びてきていた。カナの能力はとっくに平均的な同世代の女子を越え、高みへと登り始めていた。
3,第一歩
十二才になって三日が過ぎたその日、訓練を早めに切り上げた(効率が良くなってきたので、こういう余裕日ができはじめたのだ)カナは、自室で背中を壁に預け、通り過ぎる侍女や侍従達の声を聞いていた。良く焼けたきめ細かい肌と言い、訓練の結果実戦的な筋肉が付いてすらりと伸びた手足と言い、かって暗い部屋に閉じこめられていた虚弱な少女の面影はもう残っていない。むしろ、同世代の少女がうらやむ健康的な美貌をカナは自然と手に入れていた。緩やかにウェーブした髪は最近伸ばし初めて、リボンで一つに縛って垂らしている。訓練の時、それが邪魔になる事はもうない。
ぼんやりと他人の会話に耳を傾けるのが、カナの静かな趣味だった。実はあの暗い部屋に閉じこめられていた頃から、これは静かな趣味であった。この頃から人並み外れて耳が良かったカナは、今になって気付いたのだが、危険を避けるのが並の人間よりも上手かったのである。趣味はその些細な能力を最大限まで生かしたものであった。ひそひそ話を聞くのも楽しいが、やはりカナも年頃の女の子。女性の井戸端会議を盗み聞くのが一番の楽しみであった。
「聞いた? 旧帝国の辺境州から名産品が届くようになったらしいわよ」
「それってどういうこと?」
「治安が回復したって言う事。 あの辺もくすぶってた期間が長かったけど、もう安心かしらね」
「フオメテル将軍が平定した場所も多いけど、それ以上に帝国の先代皇帝の宣撫工作が大きいらしいわよ。 クラナ陛下には本当にかなわないわ。 人の使い方上手すぎでしょ」
「そうねえ。 ところで、名産品って、どんなのがあるの?」
部屋の前を通りかかった女性軍人達は、今度は旧帝国の名産品をああでもないこうでもないと語り始めた。遠ざかっていく声の中に出てくる語句には、カナの知らないものもあったので、ライレンに後で聞いてみようと思った。思えば影が差すとは良く言ったもので、慌てて背中を壁から離したカナは、蝶ネクタイを結びなおし、咳払いする。明るく、そして鋭さを加味した瞳が向いたドアから、ノック音がした。
「カナ様。 おいでですかな?」
「うん。 鍵は開いているよ」
三年前からは想像も出来ないほど明るくなった言葉を受けるようにして、戸が開く。部屋をのぞき込んだライレンは、相変わらず猜疑心の強そうな光を瞳に湛え、カナを見た。カナの趣味を、ライレンは良く思っていないらしく、一度思いっきり見られた時にはかなり長い時間説教を浴びる事となった。それ以来、ライレンは不意に部屋に来る事があり、カナはそれを警戒していた。ライレンは言葉遣いこそ柔らかいが、とても神経質な老人だ。この辺り、言葉遣いは乱暴だがとても根は優しいインタールと好対照である。蝶ネクタイを横に引っ張りながら、カナは言う。
「どうしたの? ライレン先生」
「また盗み聞きをしておったのですな」
「ま、さ、かあ。 あはははは」
「そろそろ言っておこうと思いましたが、後ろめたい事があると蝶ネクタイを横に引っ張るその癖、そろそろ改めなさいませ」
引きつったカナの頭を、つかつかと歩み寄ったライレンの振り下ろした教鞭が一撃した。蹲るカナを冷たい目で見据えながら、ライレンは続ける。
「今日から、新しい訓練を始めます」
「ふえ? 新しい訓練?」
「ええ。 新しい訓練です」
最近は余裕が出来てきていて、訓練の時にも白いシャツを着たり、多少のお洒落をしてみたりと言った事も出来るようになっていた。前は汗はかくは汚れるわで、汚れても平気な訓練着がほとんど普段着になっていたのだが、要領よく訓練がこなせるようになるとお洒落に気が配れるようになったのだ。全然興味がないお洒落に目覚めたのは、少佐(今は中佐)に仕込まれたからである。ただし、少佐は殆ど汚さず訓練がこなせるようになるまでは、訓練中にお洒落などさせてはくれなかった。つかつかと歩くライレンの後について、屋敷の中を急ぐ。多少大股で力強い歩き方には優雅さよりも、余裕と実用性が重視されている。急いで慌てる事は部下の前では絶対にしないようにと、ライレンに徹底的に仕込まれていた。余裕のある今は、無論無意識のままそう歩ける。
「ねえねえライレン先生。 そろそろ実戦訓練とか?」
「ある意味はそうです」
「ある意味?」
「これからは、少しずつ人を使えるようになってもらいます」
いよいよ来た、とカナは思った。今まではあくまで個人としての能力を伸ばす訓練ばかりだったのだが、これであらゆる意味において後には引けなくなった。今後の訓練は、上に立つ人間としてのものになるのだ。不思議な話だが、こういった訓練をしている貴族は殆どいないと、カナは聞いている。
「まずは、年下の同性を扱えるようになって貰います。 それの人数を増やしていって、その後は異性。 最終的には大人の異性を複数、指揮下において動かせるようになってもらいますよ」
「……」
「それが出来るようになったら、貴族に正式登録。 小領から少しずつ経験を積んでいって、最終的にはクラナ陛下の片腕として働いて貰います」
「……もう、そんな時期なの?」
無言のライレン。その厳しい表情が、全てを物語っていた。今までのは、所詮訓練。今後は訓練を交えつつも、血で血を洗う実戦を行っていく事になるのだ。剣を振るか権力を振るうかの違いはあれど、その凄惨さは未経験者のカナにも充分よく分かった。今後は平和な時代が来る。そして、クラナが統治する以上、無様な権力闘争が起こるとは考えにくい。しかし、可能性はこの世に幾らでもある。カナはウェーブを描く髪の毛を首の後ろで縛っているリボンを撫でると、指の間から抜けていくその感触を懐かしむように、表情を引き締めた。
応接間の戸をライレンが開ける。其処には、懐かしい顔が二つ、知らない顔が四つあった。一人はインタールで、今一人は綺麗で優しそうな女性。彼女はワンピースタイプの緩やかなロングスカートを着ていて、裾に三人の子供達をまとわりつかせていた。いずれも女の子で、同じ顔をしている。聞いた事がある。インタールの奥さんはこの国随一の魔法使いで、三つ子がいると。ならば間違いない。この人が、迫害されていた黒魔法士でありながらクラナを支え覇道を成し遂げる一助となった、大魔法使いイオンだ。そして部屋の一番奥で、腕組みして立っているその人は。忘れない。忘れるはずもない。喉を冷たい唾が通り過ぎた。鼓動を落ち着かせるのに、カナは必死だった。恐怖を押し殺すのに、全力を用いなければならなかった。
「なかなかの若者に育ったようだな。 ライレン、ご苦労であった」
「恐縮です、陛下」
「お前の鍛えた若者はいつも役に立つ。 後で褒美を使わす故、しばし休むと良い」
頭を下げると、ライレンは部屋を出ていった。呼吸さえ殺し、カナは出ていくライレンの横顔を見た。いつもとは違う、微妙な違和感。ポーカーフェイスのライレンの口の端が、ほんのわずかにだけ引きつっていた。わずかな恐怖が、その顔にはあったのだ。少しだけカナは安心した。誰だって、クラナは怖いのだと実感出来たのだから。それが例え、老練のライレンであっても。
「カナ」
「あ、はいっ!」
「あの色白で脆弱だった娘が、良く此処まで腕を上げた。 嬉しく思うぞ」
「光栄に、ございます」
「うむ。 では明日より、お前に新しい訓練を与える。 補佐官はそこのインタール、それに一日休憩を経てライレンにも復帰して貰う。 訓練の内容は……イオン」
「はい。 アルト、レルト、ミルト。 挨拶なさい」
「「「初めまして、カナお姉様」」」
一歩退いたのは、クラナの前で不覚ながら、同時に頭を下げて言う三つ子の様子が可愛かったからである。母と同じ髪の色、父と同じ瞳の色の三つ子は、声まで三者でそっくりであった。
「その子供達を使って、幾つか作業をこなして貰う。 課題はインタールに用意させよ」
「作業とは、どういうものになるでしょうか」
「そうだな、子供達にも簡単な作業から初めて、すぐに難しいものにも挑戦して貰うが、ここで重要なのは……」
インタールはちらりとクラナを見た。クラナは腕組みしたまま、何を今更と雰囲気で言いながら立ちつくしている。どちらかと言えば背は低いのに、その威圧感と存在感は凄まじい。
「お前さん自身は一切手出し無用と言う事だ。 つまり、部下に状況を説明し、指示を出し、行動をさせることをこれから覚えて貰うことになるな」
「一人前にこなせるようになったら、お前を私の養子として正式に登録、発表する。 では、これからも日々励め。 期待しているぞ」
仕事は終わったとばかりに、クラナは出ていく。これが養母になる人間の行動なのだろうかと、カナは心の中で薄ぼんやりとした不満を覚えたが、不思議とそれで良いような気がした。
クラナが部屋を出ていくと、インタールがこっそり小さく嘆息していた。この歴戦の猛者を持ってしても、クラナはやはり怖いらしい。それが少しだけカナには嬉しかった。一方で、イオンは全く怖がっている様子はなかった。この人は強いなと、カナは感心していたが、顔には出さなかった。咳払いし、インタールが三つ子の背中を押す。
「じゃあ、うちの子供達を頼むぞ」
「はい、インタール先生」
素直そうな子供達だが、大人しい子供だからと言って簡単に扱えるわけではない。インタールが言う(課題)を聞いて記憶にピンで留めながら、カナはどうやったらこの子達を上手く扱えるようになるのか、真剣に考え込み始めていた。
最初の課題は簡単である。ちょっと複雑なルールのパズルを、子供達に完成させるというものであった。完成し、それを半日保持する事が課題クリアの条件になる。パズルは三階の第二応接室においてあると言う事で、カナは三つ子を鳥の雛のように連れて、少し急いで其処へ向かっていた。
カナはクラナの事を怖いと思うが、嫌いだと思ってはいない。最近ライレンに知らされたのだが、彼女の着衣の幾つかは、クラナが手作りで編んだものだと知っているからだ。お気に入りの靴も、クラナが手を包帯だらけにしながら作った物だと知っている。お気に入りのサマーセーターも、クラナが針を手に何度も刺しながら編んでくれたものだと知っている。使い込んでお気に入りになった頃に知らされたのだが、だからといって嫌いになるような事もなかった。ぐっと履き心地良く作られた靴。温かくて、とても丈夫に編まれたセーター。きめ細かくて、くせっ毛もきちんと纏めてくれるリボン。どれもカナのお気に入りだったからだ。それに、使い込んでいるからこそ、これが技術以上の愛着を込めて作られている事がカナには分かる。だから、カナはクラナが嫌いじゃない。この程度の事もしてくれない母親が腐るほどいる事を、カナは良く知っているからだ。
ふと、急ぎすぎたかと思い、カナは振り向く。子供達はちゃんと付いてきていた。廊下の端を並んで歩いていた子供達は、事前に話し合っていたかのようにぴったり同時に止まり、先頭の子が言う。
「カナお姉様」
「ん? なあに」
「私たちの見分け、つく?」
「ごめん。 まだ付かない」
素直に笑顔を浮かべてカナが言うと、先頭の子はにぱっと笑った。子供らしい可愛い笑みだが、同時に老獪さも秘めている事をカナは敏感に悟る。流石にクラナが自ら見に来た日だけの事はある。厄介な訓練になりそうだと、カナは思った。
「私がアルトで、好きなものはカーテン。 私よりちょっと背が高くてお菓子が好きなのがレルト。 ぬいぐるみが好きなのがミルトよ」
「アルトちゃんは、カーテンが好きなの?」
「うん。 カーテンの周りにはね、微細な魔力が集まりやすくって、それが光る様子が綺麗なの」
「へえ……私、魔力見えないから、知らなかった」
「う、そ」
再びにぱっとアルトが笑う。カナは別に笑みを崩さない。促して歩き出す。後を付いてきながら、アルトが言う。
「カナお姉様、私ね、いつもお母様に言われているの」
「うん?」
「必要のない場面で嘘を付く人は信用するなって。 クラナ様の後に付いていくってお母様が決めたのも、その言葉に従っての事なんだって」
「それは本当?」
「うん。 半分くらい。 でも、私はお姉様を信頼してみようかなー」
とらえどころのない子である。これでは、本当に先頭の子がアルトなのかも信用は出来ないとカナは感じる。ただ、腹立たしさは残らない。
第二応接室は、この屋敷が貴族の邸宅だった頃の名残だ。機能性が欠片もない部屋で、無意味に広い部屋で、クラナが使わなかった理由がよく分かる。カナも好きではない。見回すと、三十人はダンス出来そうな広さがあり、天井も馬鹿馬鹿しいほどに高い。当然のようにシャンデリアが照らされた其処には、格式はあるかも知れないが、空虚さがそれ以上にあった。前王朝で流行り、今は見向きもされなくなった形式だ。
床には大きな木のブロックが山ほど積まれていて、その一つ一つに数字や文字がふられている。上に載せられている紙に説明が書かれている。要は同じ番号をもつブロックを組み合わせて行く事で、最終的に簡単な城の模型が出来上がるのだという。側では監視役をかねて、中佐が丸テーブルについて茶を啜っている。
「ブロックを手に取るくらいはいい?」
「駄目です」
「けち」
「ケチですもの」
仕方がないので、ブロックの山の側に腰を下ろして、上から下からブロックを観察する。孔はとても複雑で、丁寧に研磨されてはいるものの、簡単に組み合わせてどうこうとは行きそうにない。向きを間違えてセットしそうなブロックも多く、これは難題だとカナは思った。子供が遊ぶには難易度が高すぎるからだ。完全にマニア向けの玩具だ。ブロックを観察しながら、カナは言った。
「貴方達は、中佐と一緒にお茶を飲んでいて」
「お菓子は食べて良いの?」
「うん。 その代わり、静かにしていてね」
子供達の喜ぶ声を聞きながら、まずはどうするか、カナは考える。ライレンに教わった事を高速で反芻していく。
彼曰く、部下を従わせるには、自らの力を見せるのが一番だということであった。荒くれには暴力を、賢者には知識を、普通の人間には能力の大きさを。他にも個人差に併せて、見せるものを変えて行かねばならない。素直に従いたくなる大きさや器を適度に見せれば、部下は付いてくる。子供には愛情を。ただし、絶対に舐められないように、なおかつ過度の愛情散布は避ける事。
分量から言って、カナ自身なら、このパズルを三日以内で解く自信がある。全力で掛かれば一日でも行けるだろう。あの子達の能力はどれほどかは分からないが、まずルールを説明し、やって貰い、それを継続して貰わないといけないのだ。一番の難関が最後だというのは、やる前から分かる。きゃっきゃっと騒ぐ背後の声が一段落した頃、カナは大きく嘆息した。
やって貰うしかない。そうしないと、先に進めないのだから。
今まで同様、自己の能力を拡大したいという気持ちはある。クラナの事も嫌いではない。しかし正直な所、クラナの右腕になりたいとか、クラナの養子として相応しい存在になりたいとか、そんな事はあまり考えていない。だが、この先に何があるのか、見てみたいとは思う。あの部屋から連れ出されてから、ずっと先には色々なものがあった。剣も槍も並の兵士よりも腕を上げたし、魔法の才能がない事も分かった。クラナが貴重な時間を裂いて、彼女なりの愛情を示してくれた事も分かった。それは多分、話に聞く機械的な優しさなのだと言う事は分かっているが、それでもカナには充分だ。その先に何があるのか、見てみたいと、今は強く思う。
「みんな、コッチに来て」
「はーい」
まずは、三つ子の見分けを付けられるようにならなければならない。腰をかがめて子供達と視線を同じ高さにすると、細かいパズルの説明を始める。子供達の一挙一動を見て、少しずつ特徴を覚えていく。
「じゃあ、そのブロックと、そっちのブロックをとって見てくれる?」
「うん。 これー?」
最初に手を出す子がいる。指をくわえて、無言でじっと見ている子がいる。マイペースに、ぼーっとブロックを見ている子がいる。三つ子といえど、やはり一人一人違う。その違いを、頭に叩き込む。
「そう、それ。 同じ数字がふってあるでしょ? 組み合わせてみて?」
「うん。 ……ええと、これ、どうやって合わせるの?」
「もう少し右のブロックを回して、くっつけてから逆方向に回してみて?」
「あ、ほんとだ。 お姉様、すごいね」
「ありがとう」
興味を持ったらしく、指をくわえていた子がブロックに手を伸ばす。ぼーっとしている子は、まだ動き出そうとしない。床に敷いてあるシートの上に、組上がったブロックを一つずつ並べて貰う。ブロックの中には、木の模型や小さな人型が付いているのもあり、それはブロックの上下を判別するのに大いに役立った。後は、動かない子を活用しなくてはならない。ぼーっとしている子に、カナは出来るだけ優しい笑顔を作りながら言う。
「ええと、ミルトちゃんでいいのかな?」
「うん」
覚えた。もじもじするというような態度ではなく、単純にぼーっとしている感じの子だ。さっきの狸な子は恐らくアルト。慎重にブロックを見ていた子がレルトだろう。これはあくまで表だった判別で、今後はもっと詳細に分析して見分けられるようにして行かねばならないが、今はコレが出来ただけで上出来。
「ミルトちゃんも、手伝ってくれる?」
「……うん」
「面倒くさい?」
「ううん、違う。 どうしたら楽しく出来るかなーって、考えてただけ」
あくまでマイペースな子である。そのままミルトは、ブロックを一つ二つ手に取り、組み合わせ始める。積極的に組むがかなり失敗も多くいい加減なアルトに比べ、時間こそ掛かるがとても正確にブロックを組み合わせていく。三人はそれぞれ性格も役割も分担しているのだなと、カナは思った。彼女らは、家族なのだ。そして、これからこういった家族を、カナは無数に守って行かねばならない。
時間は瞬く間に過ぎていった。パズルが組み上がっていき、徐々に忙しさは増していった。最初組んでいる内は良かったのだが、すぐにそれでは成り立たなくなってきたのだ。複雑なブロックの凹凸を組み合わせるには、やはり子供の頭脳だけでは厳しいものがある。難しいからと言って、投げ出さないように、指導して行かねばならない。組んだブロックを両手に持って小首を傾げているアルトの肩を叩くと、不思議そうに小首を傾げる彼女に、カナは言う。
「それはね、一つずつがそれぞれ連携して、順番に組まないといけないタイプだよ」
「どうして? 折角あったのに」
「でも、此処には入らないでしょ? まず分けて、その上の出っ張りを差し込んで、それから次の奴。 そうすれば、もっと大きな塊になるでしょ」
「……あ。 ほんとだ。 お姉様、凄いね」
「同じようなのがどんどん出てくるから、次も頑張って。 きっとみんななら出来るから」
自分でやるよりも、やはり何倍も難しい。何とかアルトが納得してくれたので、額の汗をシルクのハンカチで拭う。尊敬させて、意欲を削がないようにして、継続させる。一日目は早めに切り上げて、二日目の作業に入る。良く出来たパズルであり、組みがいはある。朝からおやつや休憩や無駄話も交えながら、少しずつ、少しずつ。徐々に形が出来ていく。ただのブロックの山が、一つの結合へと変化していく。テーブルで茶を飲んで本を読んでいる中佐も、興味深げに作業を見るようになり始めていた。
塊が大きくなってくると、一度分解しなければならない作業も増えてくる。アルトは特にそういうものを見るとむくれるので、カナもなだめるのに苦労した。一方でミルトは監督していないと無言でさぼるので、此方も扱いがかなり難しかった。平均的なレルトは、逆にとても扱いやすく、カナも彼女の面倒をみている時は肩の荷を降ろす事が出来た。
バラのブロックが無くなるまで、一週間掛かった。城の外壁部分が出来るまで、更に三日。内部に塔が立ち、本体の城が組み上がるまで、もう一週間掛かった。最後のブロックは、極めて簡単な塊だったが、それを組み込むまでに七つの凹凸を介しており、城の塔に当たる部分を、一度分解しなければならなかった。この解析作業だけで丸一日かかったほどである。
「ようやく、最後が来たね」
「ミルトちゃん、頑張って。 これは貴方にしか出来ない」
「うん……頑張る」
呪わしい最後のブロックを、慎重にはめ込む。アルトも自分が不得手だと言う事は分かっているらしく、ミルトの作業を横で固唾をのんで見つめていた。レルトはといえば、ミルトが最後の作業をしている横で、今まで組んだ部分に不備がないか確認している。カナも腰を落とすのが面倒くさくなってきた為、床に腹這いになって作業を指示していた。最後のブロックの、非常に複雑な凹凸を、何とかねじ込んでいくミルトの手が震えている。全ての動きが、嫌にゆっくり見えた。誰もがブロックに視線を集中していた。息が止まる一瞬。かちっと音がして、ブロックがはまった時には、思わず安堵の声が漏れていた。
「ふう……」
「終わった?」
「うん」
「やったああああ!」
きゃっきゃっとアルトが騒ぎ、ミルトに抱きついて押し倒した。レルトはマイペースにブロックを全てチェック、完璧に組み上がった事を確認した。カナも立ち上がると、ハンカチで額を拭った。汗でぐっしょり濡れたハンカチは、すぐに洗濯が必要なほどに汚れていた。
不思議な達成感がその場にはあった。完成した瞬間はさほどでもなかったのだが、完成してから累乗的に感情が沸き上がってくる。間欠泉が吹き上がるようにして、感動が漏れ出てきた。汚いハンカチで目を押さえながら、カナは呟いていた。
「これが、第一歩」
「ええ。 貴方が歩む万里の道の、第一歩です」
たかが子供にブロックを組ませただけなのに、この感動は何だろう。ハンカチを取って目を擦ると、見事に組み上がったブロックがあった。再び感動が湧きだしてくる。
「あれ? お姉ちゃん?」
「ん、なんでもない。 目にごみが入っただけだよ。 ありがとう。 君達がこう優秀じゃなければ、こんなに速くは出来なかったよ」
「ううん、私たちも楽しかったよ。 何かあったら、いつでも呼んで。 出来る事なら、何でも手伝うからね」
「うん」
立ち上がったアルトと、硬く握手を交わす。立場にも年齢にも関係ない感動が、その場にはあった。
「中佐」
「はい?」
「私、頑張るよ。 未来を切り開く為にも」
カナの声には、使命感も高揚感もなく、ただ将来を見据えた一体感のみがあった。
4,後継者
十六才になったカナが指揮を任された第三師団第六十六遊撃中隊。その駐屯地は帝都郊外にあり、一歩踏み込むだけで異様な雰囲気がカナの身を包んだ。殺意を含んだ視線、値踏みするような視線、舌なめずりの音さえ聞こえてくる。
荒くればかりが集められた部隊だと、カナは思った。戦の中でしか生きられないような性格破綻者や、殺しが何より好きなキリングマニア、血を見る事に快楽を覚える者。カナの下に配属された部隊は、そんな連中ばかりが揃っていた。残りの連中は新兵ばかりである。今まで見た中でも、まとめ上げるのに最も苦労しそうな部隊であった。何とかお行儀が良いと言えるのは直接指揮下におかれている小隊のみで、他の二つは指揮官からして信頼出来そうにない。ちらりと小隊の天幕を覗いてきたのだが、一人は熊のような赤毛の角刈りの大男で、顎に針のような髭を無数に生やしており、昼間だというのに娼婦を連れ込んで左右に侍らせていた。ガハハハハという馬鹿笑いが、実に耳障りである。今一人は相当に腕が立つ剣士らしいのだが、黙々と愛剣を磨き続ける寡黙な女で、全身から刃物のような威圧感を放ち続けていた。近づくだけで斬られそうな雰囲気である。
自室へ戻ってもう一度資料を見る。熊男はバッケスと言う名で、命令違反を三度侵しており、上官から苦情の声を何度も寄せられている。剣士はと言うと、クルーフという名で、こちらも命令違反を何度も侵しているのだが、熊男とは少し性質が違う。熊男は不利な戦況での逃亡を図ったのに対して、此方は部下を放っておいて戦闘(というよりも殺戮)に熱中し、膨大な戦果を挙げつつも査問にかけられている。寡黙な女だが、重度のキリングマニアらしく、母を手込めにしようとした帝国兵を斬り殺して以来、百人近い敵を殺しているという。強烈な刺激で戦いよりも殺しに目覚めてしまったのだ。驚くべき事に、まだ二十歳になっていないとかで、カナと殆ど年齢は変わらない。
士官寮に呼びつけると、バッケスは巨体を揺らしながら、何が楽しいのか大笑いしながらやってきた。背中には馬鹿でかい戦斧を背負っており、刃には脂が付いていた。クルーフは無言で、まるで影のようにいつの間にか近くに立っていた。馬鹿笑いし、執務机に就いているカナを値踏みするように見回しながら、バッケスは言う。
「おう、あんたが新任の中隊長様だって? 噂には聞いていたが、随分若いな。 まあよろしく頼むわ」
「……」
「此方こそよろしく」
無言のままクルーフが頭を下げる。とりあえず、従う姿勢だけは見せてくれているが、今後一つでもミスをしたら何をしでかすか分からない。危険だが、クラナも最初に配属された部隊は寄せ集めだったと聞くし、軍に入る前は傭兵隊を指揮していたとも聞く。クラナになれない事は承知しているが、コレくらいはどうにかしないと行けない。
「で、新任隊長様。 遊撃部隊って事は、独立行動するんだろ? 最初の任務は何だ?」
「流石に私も配属されたばかりだから、まだ知りません」
「おう、そうか。 何にしても、動く時には言ってくれや。 いつでも働かせて貰うかんな」
馬鹿笑いしながら、バッケスが士官寮を出ていく。クルーフがその背を見送ると、自分も何事もなかったかのように無音で出ていった。バッケスもクルーフも、少しだけ困惑していたのをカナは見逃さなかった。カナは護衛無しの状態で、全く二人を怖れていなかった。しかもそれは無知から来る蛮勇ではなく、より強烈な恐怖を知っているから出来る事である。性格は破綻気味だが、小隊長はどちらも戦場を生きてきた猛者達であり、それくらいは見抜いてくれたらしい。まずは好印象という所である。
クラナだったら、恐らく眼光だけで猛者達に更なる猛者である事を見せつけ、本能的な恐怖を喚起して従わせる道を選んだかも知れない。或いは利益で釣ったかも知れない。いずれにしても、それは覇道というものだ。クラナにはそれが最適であり、実際効率的に大陸を征服し平和への道を切り開いた。カナは相手を必要以上に怖れず、調和と共存を計る道を進みたいと思う。子供達とパズルを組んだ時に、それが最適だと思ったからである。それにはまず力を見せる事が絶対条件となってくる。どんな道を選ぶにしても、それを進むに相応しい力を見せなければ、人は動かないのだ。しばし考え込んだカナは、机から紙片を引っ張り出すと、手早く手紙を書き上げていった。
手を叩いて伝令兵を呼び、手紙を渡す。最近は、一月に一度か二度、クラナと手紙をやりとりし、もう少し少ない頻度で直接会う。まだ時々カナ用に靴や服を造ってくれるクラナは、王道を進みたいという言葉に、好きなようにやれと許可をくれている。自分と全く逆の道を進もうという子に、理解を示す親がどれだけいるだろうか。少なくとも、この点に関しては、カナは親に恵まれていた。
手が空いたカナが、少し考え込もうとした時。寮の戸が叩かれた。入ってきた兵士は、クインサー高位大将の元へ行くようにと告げると、そそくさと出ていった。案外速かったなと、立ち上がったカナは埃を払いながら思った。
帝国が瓦解して、その広大な領土はクラナ軍によって制圧された。だが、それはあくまで重要点と組織戦力の話である。まだまだ、特に辺境には不満分子が残っており、クラナ軍に対してテロまがいの事をする場合もある。そう言った連中は年々数を減らしてきており、もう軍に対するテロは殆ど行えず、山賊化したり海賊化したりして、民間人を専門に虐げている場合が殆どだ。クラナの施政は徹底していて、辺境までかなり目が届いて善政が敷かれているが、それでも人間の憎しみの連鎖は恐ろしい。カナは知っている。こういった反社会者が、決して人格破綻者ばかりで無い事を。
カナは三日ほどの行軍の後、ユンツハール山地と呼ばれる場所に到達した。兵士達は皆大人しくしているが、作戦が失敗したらどうなるか考えるのも恐ろしい。新兵達は行軍に着いてくるのがやっとで、怖い先輩から身を守る為に身を寄せ合って一カ所に固まっていた。これはこれで度し難い。これからこの近辺の住民を蹂躙する山賊化した帝国軍残党を片づけなければならないのだから。敵の数は三十ないし五十と推定されている。最大でも此方の戦力の約半数だが、敵は実戦訓練を積んだ元兵士だし、レンジャー技能も身につけている可能性が高い。
取り合えず麓の村に到着する。兵士達は殺気だった目で辺りを見回していたが、流石に村人に何かしようと言う愚か者はいない。だが、気の早い何人かは既に娼館や色宿を探している。犯罪にならぬ範囲内なら、羽目を外しても良し。それがクラナ軍の良き掟だ。ここに来る途中に目を付けておいた信頼出来そうな何人かに情報収集を命じると、カナは司令部を村長の家に置き、早速小隊長達の意見を聞いた。
「何か良い意見は?」
「ガハハハハ、真っ正面からぶっつぶしましょう。 どうせ大した防備も敷いてないでしょうし、楽勝でさ」
「……斬る事が出来れば、それでいい」
あまりにもあまりな意見。流石に頭を抱えたくなったカナだったが、この程度の事は想定の範囲内だ。それに、こういった連中を使いこなしてこそ指揮官だ。年下の同性から始めて、年下の異性、同年代の同性、異性、年上の同性、そして異性と人間の集団を統率する訓練をしてきたカナは、その過程で色んな人間と接する術を否応なく覚えさせられてきた。問題の多い人間ほど、適所に配置すれば絶大な破壊力を発揮する事も覚えた。それらを生かし、まずは部下をてなづけにかかる。
「つまり、バッケス小隊長は突撃したい。 クルーフ小隊長は斬りたいと」
「そういうことです。 ガハハハハハハハ」
「速く斬りたい。 殺したい」
馬鹿笑いするバッケスも、ぼそりと怖すぎる台詞を呟くクルーフも、一般人から見れば恐ろしすぎる。現に側に座る村長は真っ青になって震え上がっていた。地図を広げて、村長に質問する内に、村人からの情報が集まってくる。それによって、徐々に山賊の現状が分かってきた。
敵の戦力は現在大体四十名。最も高い山の中程に、粗末だが堅固な砦を築いている。近くには泉があり、それが彼らの水源になっている。彼らは帝国軍再興を声高に叫んでおり、王国軍の補給隊を主に狙う反面、関係ない民間人が襲われる事も珍しくない。制裁と称して、若い娘が浚われたりすることも少なくない。こういった存在は地元の住民を味方に付けている場合があり、それだと対処が厄介なのだが、少なくともこの村の住民は山賊共を良くは思っていない様子であった。しばし考え込んだ後、カナは小さく指を鳴らした。
「策が決まりました」
「お、でどうするんでさ。 突撃ですかい?」
「斬りたい」
「二人とも、少し我慢して頂ければ、すぐに望みを叶えてあげられますよ。 村長さん、村人の間に、今度来た王国軍の司令官は若造で、山賊を舐めきっているという噂を流してください。 クルーフさんは、新兵達を連れて一度手前の街まで戻り、これを買ってきてください。 経費は軍に請求するように」
やや不満そうに、だがむっつりと立ち上がったクルーフは、腰まで届く銀の髪を揺らしながら外に出ていった。カナはバッケスに向き直り、言う。
「バッケスさんは此処に布陣。 そして、私の軍が敵に突き崩されたら、敵の側面を突こうとして、敵の伏兵に襲われて逃げてください。 その後、兵を纏めてこのルートで此方に移動。 夜明けと同時に突撃を開始してください。 その後は存分に暴れてくださって結構です」
「は、はい? ちょっと待ってくだせえ。 側面を突くまでは良いとして、敵がどうして伏兵をおくと?」
「腐っても帝国軍は戦闘のプロです。 この地点から正面攻撃した時点で、偽装退却と伏兵による挟撃に気付くでしょう。 第一次の攻撃は囮で、今クルーフさんが買いに行っているものを敵に渡すのが目的です」
半信半疑の様子であったバッケスは、首を傾げながら部下達の所へ戻っていった。荷物を持って戻ってきたクルーフも、指示を受けてすぐに部下達と共に消えた。そして翌朝、カナは主力およそ四十人を率いて山へ登った。中途に陣を仮設して後、敵陣へ向かう。山賊は案の定待ち伏せていた。村人の誰かが密告したのは疑いない。予定通りである。
新兵達は緊張し、青ざめている。その中でカナは一人落ち着き払っていた。実戦は始めてではない。人が死ぬのも、何度と無く見た。作戦通り兵力を運用する事も覚えたし、その難しさも身に染みている。失敗だって何度もした。先に進みたい。そのカナの欲求が、此処まで彼女を押し出してきた。まだまだカナは先に進む。
「総員、作戦通りに動くように。 構え!」
カナがクラナに作ってもらった革手袋を填めた右手を挙げると、新兵達が一斉に弓を構える。山賊は動かない。カナは一気に手を振り下ろしていた。
「撃て!」
カナにとって三度目の実戦が、こうして始まった。
「以上が、ユンツハール山賊撃破の報告になります」
「うむ、ご苦労であった。 下がってくれ」
敬礼すると、ユリント中佐はクインサー高位大将の執務室を出ていった。クインサーの脇に立っていたリリセー大将が、顎に指を当てながら言う。
「予想よりもやるみたいだね」
「うむ。 陛下ほど洗練されてはいないし、少し策に頼りすぎているきらいはあるが、見事な用兵だ」
クインサーもリリセーに同意した。事実、一線級の指揮官と言っても良いほど、見事に障害を処理する事に成功している。
山賊の砦に一次攻撃を仕掛け、伏兵を看破されて敗退したカナ。彼女が攻撃前に仮設した陣地には、高級な酒が山ほど残されており、意気揚々と山賊達はそれを自陣に運び込んだ。反乱軍を気取った彼らだが、最近は民間人にも危害を加えていた事からも分かるように、物資の欠乏は深刻な所にまで達しており、酒など此処暫く見た事もなかったのである。それに、そこは酒盛りの用意さえされており、酒樽には戦勝祝いと書かれていた。馬鹿笑いした山賊達はひとしきり王国軍の無能を嘲ると、慎重にカナの部隊がいなくなった事を確認した後、酒樽と一緒に撤収。山の獣を肴に酒盛りを始めた。そして夜明けの絶妙なタイミングに、バッケス隊が切り込み突撃を敢行。大混乱に陥った山賊達は我先に逃げ出し、待ち伏せしていたクルーフの陣の真っ正面に飛び出す事となった。クルーフは十人以上を斬り大満足したという。更に逃げ散ろうとした山賊達を、カナの本隊が残さず捕縛して作戦は完璧に終了した。
作戦でだした戦死者は二名、重軽傷者が七名に留まった。山賊は三十名が戦死、十名が捕縛。逃走者は無し。山賊の砦に収監されていた人質は全員が救出された。麓の住民達の間からは感謝の声が挙がっており、カナの元に配属された兵士達の評判も上々だという。また、主力の運用を見ると、バッケスやクルーフが失敗した時にもフォロー出来るよう、絶妙のポイントに移動して機会をうかがっている。隙がない行動であり、消費したコストから換算しても膨大な戦果だ。クインサーは満点の評価をした。リリセーは戦死者が出た事をふまえ、九十九点と評価した。
クインサーが窓に寄る。館の外で待たされているカナが、馬鹿笑いするバッケスに肩を叩かれて苦笑しながら咳き込んでいた。クルーフもまんざらではない様子で、カナにぴったり付き従い、側の木陰で愛剣を磨き抜いている。あの灰汁が強い連中を、用兵の才を見せる事によって一度にてなづけたのである。見事な人使いの妙であった。ライレンとインタールによって鍛えられたと聞くが、それにしても素晴らしい。才能もそうだが、何より本人の飾らない意欲が大きいのは間違いない。
「クインサー、陛下には何と報告する?」
「ん、そうだな」
クインサーはしばし考え抜いた後、言う。
「貴方の後継者は、見事に成長しています、だけでいいだろう」
事実だけを淡々と述べたクインサーは、それを大まじめに手紙にしたため、部下に持たせて主君の元へと届けさせたのであった。
……カナ=コアトルスが二代目神聖女王に即位したのは、彼女が三十七歳の時。既に多くの武勲と政治的成果を上げていた彼女を後継者として認めない者は一人もいなかった。重臣達との間に張られた糸も強固で、イオンの娘達を始めとする忠臣達に支えられて、彼女はクラナの築いた基礎を万全のものにしていく。二代目として最適の決断をし続けたカナは、後見に回ったクラナの指示を受けつつも、クラナ朝バストストア王国を確固たる体制に押し上げた。先に進みたい。そう願い続けたカナは、究極的なその先で、歴史的なレベルでの業績を残す事となったのである。
カナ=コアトルス。彼女の名は、神聖女王クラナの理想的な後継者として、クランツ大陸の歴史に大きく刻まれている。
(終)
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