鬼哭山異聞

 

序、経久文書

 

1951年、島根県の旧家の倉で発見された尼子家に関わる数々の文書を、経久文書と呼ぶ。戦国の業火に消えていった尼子一族の生々しい記録、特に中国地方の十一カ国を制覇した英雄経久の日常が記された極めて歴史的価値の高い代物であった。尼子経久の、ある日の夕食の献立が記されたものなどは、当時の食生活を知るための貴重な文書として評価されている。

その中に鬼哭山に関する書物があったことは有名であった。それによって鬼吉の原型になったまつきち(松吉)が実在し、悲劇的な死に怒り狂った経久が集団リンチを行った村人達に死を賜ったことが確認された。鬼哭山に関する研究はこの資料の発見によって一段落し、しばらくの間動きはなかった。

しかし、2006年になって、新しい動きがあった。膨大な経久文書の中に、興味深い記述が見付かったのである。それは紙が貴重な昔、練習用に使われたらしく、真っ黒に塗りつぶされていた。寺等に保管された古文書には良くあることなのである。それを最新の技術によって書いてあることを解読した結果、驚くべき事が判明したのである。

松吉が死んだ理由は、閉鎖的村社会の差別が産み出す卑劣な集団リンチによるものだけではなかったのだ。勿論それが最大の理由であったが、経久もそれだけが理由であれば、農民達を打ち首にすることはないのではないかと、一部の研究者達は指摘を続けていた。それが実証されたこととなった。

鬼哭山を巡る物語には、数多くの昔話同様、凄惨な裏の事情があったのである。当時の人間達が必死に隠し、現在まで伝わる事無かった、闇の歴史が。

 

1,分岐点の夜

 

闇の中、疾走する男が一人。その背には、幼い少女が背負われている。男の背後からは、せまる無数の松明。夜闇に浮かび上がる幾多の松明は、獲物を狙う獣の眼光を錯覚させた。風を切って、矢が何本も飛来する。幸い狙いは正確ではないが、男は背中にいる妹のことを思い、前に抱きかかえなおした。目が見えない妹は、男の腕の中で身じろぎする。

「にいさま、うまくいかなかったの?」

「すまない」

「……にいさま、ひょっとして、すぐ後ろまで追っ手が来ているの?」

「大丈夫だ」

最小限の返事しかしないのは、せっぱ詰まった状況だから、ではない。男は極端な口べたでどもりであったから、まともに喋ることが出来なかったのだ。

男の背中に矢が突き刺さったのは、次の瞬間だった。分厚い男の筋肉に刺さった矢は、肩胛骨でとまった。普通の人間なら骨を突き破っていたかも知れない。弓の破壊力は生半可なものではない。男、松吉の屈強極まりない体だったからこそ、矢は一撃で致命傷をもたらさなかったのだ。

歯を食いしばると、松吉は険しい山道をかける。懐には、以前経久公に貰った紹介状がある。これを渡せば、恐ろしい容姿の松吉はともかく、ひょっとすると妹のさやは助かるかも知れない。上手くいくと、若殿様の側室にして貰えるかも知れない。そうすれば、きっと幸せになることが出来るはずだ。

力が入りすぎて、さやを抱き潰さないように。松吉はそれだけを怖れていた。闇も怖くなかったし、矢も怖くなかった。自分の死だって怖くはなかった。

ただ二人、この世で自分を人間として接してくれたその一方が腕の中にいる。命を賭けるのは、当然のことであった。

「逃がすな! 殺せ! 殺せー!」

狂乱した村人共が、後ろで騒いでいる。怒りを覚えないでもないが、それよりさやを守るのが絶対だった。

闇の中を疾走する巨漢、松吉。身の丈六尺五寸。この時代としては異例の巨体であり、生まれが少し違っていれば、鬼神として名を残した可能性が極めて高い。大きいだけではなく、その力は正に百人力で、まともに戦って勝てるものなどほとんどいない。しかし、残念なことに、松吉は性根が優しすぎた。戦場で武勇を振るうには、決定的に向いていなかった。更に、知性も元々自覚するほど魯鈍だった。松吉が仕官を断ったのは、さやのためだけではなく、自分が仕官しても役に立てないと言う自信のなさが大きく起因していた。

やがて松吉は、追跡を振り切った。空は白み始めていて、鳥の鳴き声がした。耳ざといさやは、松吉の腕を掴んで言う。

「にいさま、もう大丈夫。 誰も追ってきていないわ」

「……ま、まだ、分からない。 隠れる所があれば」

振り返った松吉は、見た。己が燃やした山の有様を。鬼哭山は真っ赤に燃え上がり、天をも焦がさんと夜闇に炎を吹き上げていた。あれなら、村がばらまいてきた災厄はもうお終いだ。経久公も、きっと困ることはないだろう。

「にいさま、背中に矢が刺さったでしょう? 手当てしないと大変よ」

「ん……うむ」

目が見えないさやはぺたぺたと松吉の背中を触り、矢を探り当てると、足をかけて全身の力を込め引っ張った。綺麗に鏃が抜け、血が流れる感触がした。小作人とは言え、村はずれに住む兄妹は狩りの経験も多く、矢を抜くのはお手の物だ。膠の持ち合わせはないから、布を巻いて凌ぐしかない。上着を脱ぐと、それをさやに渡す。さやはその一部を裂いて、松吉の大きな体を巻くようにして、傷口をしばりつけた。小作人の松吉だが、さやがいつもまめに選択をしているために、衣服は小綺麗である。それが今回の場合救いとなった。

朝になったら山を下りる。そうすれば経久の配下が詰める屋敷まですぐだ。そこで鬼哭山の事、それに村の裏の顔を告げる。それで、全てが終わる。

「すまん、すまん」

「どうして謝るの?」

「お前、を、巻き込んでしまった」

「いいの。 それにあのお山が焼けてしまって、良かったのよ。 あんな村、滅びてしまえば良かったのだから」

さやの言葉には、恨み以上に、深い義侠心が籠もっている。村の実態を知る二人だが、二人は決してそれを良しとはしていなかったのである。

「明日、明るくなってから、屋敷へ向かおう」

「……」

「経久様は、きっとお前にも良くしてくれる」

「にいさまは、どうするつもりなの?」

さやの言葉に、松吉は応えない。応えることが出来なかった。彼にはやるべき事があった。恩を受けた、経久のためにも。

松吉は産まれ育った、いや自力で生きてきた高砂村の方をもう一度見た。そして、どうしてこうなったのか、もう一度丹念に思い出していった。思い出を固定し、決意を新たにするために。

 

生まれ故郷というと、殆どの人間が何かしらの良き思い出を持っているものだ。少なくとも平均的な人間はそうなのだと、松吉は聞いていた。しかし、松吉にはその言葉に、どうしても現実が感じられなかった。

松吉が育った、出雲の国の中程にある高砂村は、表向き特色のない小村である。戸数は三十一、人口は百八十。高砂氏という土豪が村を治め、小さな畑を幾らか、あまり実りが良くない水田を幾らか保有している。村の人口の半数以上が小作農であり、少数の豪農と土豪にこき使われており、劣悪な環境の中ひもじい生活をしているのが現状だ。だが、別に特筆するほど貧しい村ではない。この位貧しい村なら、出雲にも中国地方にも幾らでもある。

この、何も特徴が無いというのが、真の姿を隠蔽する巧妙な工作であったのだ。

高砂村は、変種の麻から作られる魔の薬を栽培して近隣の村にばらまく、邪悪の生産工場だったのである。

この変種麻がどこから入ってきたのかは、誰も知らない。四代ほど前から、近くの「鬼哭山」で密かに栽培されるこの麻は、粉状に加工してから燃やすと強烈な幻覚作用を発し、尋常ではない常習性も持っていた。麻には麻薬成分があるものだが、この変種の効用は通常のものとは完全に桁が違っていた。これを加工して売りさばくことにより、村は表向きの三十倍以上の収入を得ており、一部は都にまで流入していた。その金と、薬そのもので周囲の村に対して口封じを行い、村は静かな繁栄を続けてきたのである。

この薬は常習性が強い分、毒性も半端なものではなかった。だから、村人の中にはこの所行を怖れる者もいた。しかし、領主である尼子氏に訴える者は誰もいなかった。もしこの事がばれたら皆死罪になると言うことを村長である高砂氏が吹聴しており、更に裏切り者は容赦なく殺す態勢を取っていたためである。用心棒を多く雇う高砂氏の武力は圧倒的であったし、村自体が盆地の中にあって陸の孤島であった。この二つの要因が重なり合って、誰も逆らえない土壌を作り上げていたのである。また、労働力は殆どが小作農であったし、自分の手を汚していないので、農民達は致命的な反発を感じなかったという理由もある。小作農など、彼らからすれば使い捨ての道具に過ぎなかった。

松吉は幼い頃、この村に売られてきた。親の顔など知らない。戦で死んだと聞いているが、本当とは思えない。それが嘘だとしか思えない噂を、幾つも松吉は知っていたからだ。他にも何人か同年代の小作農はいたのだが、いずれも仲は良くなかった。村の上層部の人間は大量に抱えている小作農を上手く支配するため、互いに憎ませる策を取ったからである。わざと小作農達は違う土地の出身者達を集め、家も村の端や危険な場所ばかりに造らせた。松吉の家などはその最たるものである。何しろ、もし戦があれば、真っ先に蹂躙される村の隅に作られた掘っ建て小屋だったのだ。

辛い労働、非人道的な邪薬の生成、売買。更には、時には人体実験。恐ろしい生活の中、小作農達にとって唯一の楽しみといえるのは、みそっかすや弱い者をいびることだけであった。そして村の上層部も、それを支配体制に組み込んで利用した。丁度いい対象が、松吉であった。

村の農民達はありとあらゆる難癖を付けて松吉に対して有形無形の暴力を振るい、それに便乗する形で小作農達も松吉を虐め倒した。頑丈な松吉は幼い頃は泣いてばかりだったが、恐ろしいほどに巨大に成長すると心身共に頑強になり、虐めなど受けた所で何とも感じないように成長していった。

六尺五寸という体躯はこの時代としては巨人の域に達しているし、力も尋常ではなく強かったから、ここに奇妙な均衡状態が生じた。松吉が怒った場合、本気で反撃されたらひとたまりもないことを村人達が悟ったのである。無口で木訥な松吉の人柄も、彼らに対して得体の知れない恐怖を与えるのに充分であった。松吉は大人しい人間であったが、そういう者こそ本気で怒ったときに危険なことは、村の者達も良く知っていた。怖い者知らずの若者達はそれでも松吉をいびっていたが、彼らでさえ松吉をいびりすぎると破滅が生じることは理解していた。

そのために、新しい生贄が必要とされた。それがさやであった。

さやは村の女達が虐めのターゲットにしやすいようにと、長老が人買いから選んで買った娘であった。心優しいし、器量は特に良いのだが、目が見えない。裕福な村であれば、恐らく皆から大事にされた娘であったかも知れない。だがこの村の場合、弱者は「安心して虐められる」格好の餌食であった。下劣であるが、別に高砂村の人間が目立って邪悪なわけではない。標準的な人間などそんな風に物事を考える生物である。更に村で一番「汚くて気持ちが悪い」松吉の家に暮らさせ、義理の兄妹とすることで、村の長老達は虐めをよりやりやすくした。「汚くて気持ちが悪い」奴の家に、「一番役立たずな」妹がいるというのは、村人の溜飲を下げるに充分な事象だったのだ。

かくして公認の暴力差別対象となったさやであったが、松吉は必死に庇った。自分がいるときは何があっても手出しはさせなかったし、既に自身の無口が強烈な威圧効果を持っていることを、松吉は良く知っていたのだ。松吉は知っていた。さやが狩りで使う矢と同じ、使い捨ての道具だと。目が見えず、小さな物音にびくびくしていた可哀想な少女を護れるのは、自分だけだと言うことを。そして、村人達の、卑劣な魂胆も。

そうして、何年かが過ぎた。松吉は村の者達の恨みを大いに買った。特に松吉を恨んだのは、小作農達だった。虐めくらいしか楽しみがないのに、松吉のせいでそれが邪魔されるのだから、当然であったかも知れない。どうしても松吉が目を離さなければならない時もある。そうしたときには、さやは命の危険を感じるほど酷い虐めを受けることが一度や二度ではなかった。特に松吉を悲しませたのは、肉体的な暴力ではなく言葉の暴力だった。それに関しては、村の女達は男よりもずっと巧妙だった。泣くばかりのさやを見るのは、松吉に何よりの苦痛をもたらしていた。

だから、松吉は自衛策に出た。引っ越しをしたのである。

村のはずれ、熊も住んでいる森の中へ、自分の掘っ建て小屋を移したのだ。昼なお暗い其処は、村人も怖がって近づかない場所で、さやを守るには打ってつけだった。後は獣をどうにかしなければならなかったが、元々村はずれの非常に悪い場所に無理矢理住まわされていた松吉は、森の獣たちがどういう縄張りを持っているか良く知っている。狼も熊も野犬も松吉にはかなわなかったし、彼らは絶対に松吉の家には近づかなかった。後はさやが連中の縄張りに踏み込まないように良く教えておくだけで充分だった。

また、松吉は小作農としては誰にも文句を言わせないだけ働いていた。兎に角力が強いし、森のことも良く知っている。畑はいつも綺麗に耕していたし、厳しい労働にも文句は言わなかった。そして口べたと言うことで侮られていて、誰にも麻のことは言わないだろうとも思われていた。だから、さやに対する村人達の非道な暴力的虐めが限界点に達することはなかった。

再び、奇怪な均衡状態が訪れていた。多くの人間の生き血を啜って生き延びる村での、ささやかな静かな時間であった。

 

回想から戻った松吉は、背中の痛みを引きずって、洞窟から外に出た。この辺りの森を、松吉以上に良く知っている人間などいない。

この時代、村人は決して戦火に怯えるだけの存在ではない。戦があれば積極的に落ち武者狩りをやって小遣いを稼ぎ、或いは槍を担いで出かけていく。だから戦闘経験がある人間は少なくない。ましてや村の中には、長老達が雇った用心棒もいるのだ。武器のない現状、用心棒が束になって襲ってきたら、松吉でも勝てない。

「にいさま、外は大丈夫?」

「ああ」

さやの声が洞窟の中からする。安心させようと松吉はしたが、どうしていいか分からなかったので、ただ短くそう応えた。

嫌な予感がする。すっかり燃えて黒くなった鬼哭山がよく見える。頭を狂わせるあの麻の匂いが、此処まで漂ってくるかのようだ。

「月山富田城に行く」

「? 経久様の居城へ?」

「ああ」

「……分かった。 私は大丈夫だから、気にしないで」

松吉はそんなさやの健気な言葉に、返す言葉が見付からなかった。

 

2,大恩

 

松吉が麓の屋敷を避けたのには理由がある。もう既に、村の人間達の手が回っている可能性が高かったからだ。

村の者達がこうも非道な行いを続けていられるのには、高砂氏が代官に鼻薬を嗅がせているからだという理由が一番大きい。変異性麻の薬で得られた利益は、当然代官の懐に入っているのだ。出雲は尼子氏の本拠地がある場所だが、直轄地と言っても実際に統治をしているのは代官であり、である以上末端にはどうしてもこういう連中がいる。

元々中国地方は半独立勢力が多く、それをどう味方に付けるかが戦の鍵を握ってきた地域である。この地方で長く続いている尼子氏と大内氏の戦いも、実戦よりも政治戦の意味合いが強く、利益を巡っての打算が人を動かし続けてきた。

それらの事情を松吉もうっすらとは知っている。というよりも、この近辺の住人にとっては常識的な事なのだ。

だから、直訴するなら富田城へ行く。月山富田城に行けば、きっと経久様がどうにかしてくれる。松吉はそう考えていた。そう考えられる辺り、松吉は決して知能が劣っているわけではない。ただ、それを他人に伝える手段において、極端に劣弱なのだ。

尼子氏の居城である月山富田城は、代々の出雲守護が居城にしてきた堅城だ。城と言うよりも要塞地帯というのが正しい場所であり、周囲の城と連携して鉄壁難攻不落の威容を誇る。その圧倒的な防御力は中国地方にて最強最大を誇り、尼子氏は経久とこの城を擁する限り無敵かとも思われる。

さやは歩くと言ったので、手を引いて森を抜ける。何日か強行軍を続けたが、どんなに疲れてもさやは決して弱音を吐かなかった。

さやが、自分のことを重荷だと思っていることを、松吉は知っている。自身に自信を持てなくなったのは、村人達による日常的な虐待が原因だが、それ以上にいたましいのが松吉による守護がその一因になっていると言うことだ。守られるだけの人生など嫌に決まっている。だが、さやのように守らなければ命を保てない者もこの世には少なくない。この点に関しては、松吉はどうしていいか全く分からなかった。

「にいさま」

「どうした」

「経久様は、どんな人だったの?」

どうしてこんな時にそんなことを聞かれるのか、一瞬松吉は分からなかった。今でも何処に村の追っ手が潜んでいるか分からない状況だ。悠長に話などしている場合ではないというのに。

思い当たる節に気付いたのは、何歩か進んでからであった。心配なのだ。本当に経久が信頼できる人間なのか。

松吉を頼りにしてくれているさやだが、その言葉を妄信する訳ではないのもまた事実。その辺り、松吉には本当にありがたい。さやのてを引きながら、松吉は言う。

「俺を、人間として、見てくれた」

「……そう」

「そうだ。 だから俺は、経久様を、信じる」

それ以上の説明は、もう必要なかった。

森が開ける。がけになってはいたが、何とか降りることが出来そうだった。森の切れ目から、向こうに広がる山々と、それに這うようにして作られている巨城、月山富田城が見えた。

何もかもが懐かしい。あそこに松吉が集められて、その無駄に有り余った力を披露したのが、まるで何百年も前のことのようであった。

 

戦国の世、何処の大名でも積極的に集めていたものがある。まずは金だ。金は土地を上手く納めることによって手に入れることが出来る。領地経営術が上手い大名は土地を肥やして民の信頼を得つつ収入を上げ、周囲の大名に先んじることが出来た。金があれば軍備を整えることも出来たし、調略で味方を戦わずに増やすことも出来た。無理に民草から金を搾り取って蓄えるような者もいたが、真っ先に滅ぼされて消えていった。時は戦国時代、民の考え方は極めて峻烈だ。どの時代でもそうだが、特にこの時勢では、暴君は内側から他にはない速度で滅んでいく。

続いて人材。戦絶えず、常に富国強兵の必要性に追われるこの時代、どの大名も有能な武人を喉から手がでるほどに欲していた。感状というシステムなどは、これを端的に現している。感状というのは、早い話が戦いで活躍した者に、大名が送る感謝状だ。これは再就職の時に役立った。何処何処の戦場でどのように戦功を立てたと言うことが分かれば、採用する側から見ても相手の人物を計りやすいからである。逆説的には、感謝状を貰うような有能な武人を、常に何処の大名も欲していたのである。

後者の理由で、経久は国内の埋もれた人材を発掘しようとした。当然高砂村にも、有能な武人を徴募する手紙が届いた。有能な武人と言っても、今回は在野の人材発掘であったから、経歴は問わないとも文書にはあった。そして、松吉が選ばれた。

腕利きの用心棒を多数抱える高砂村で、どうしてわざわざ松吉が選ばれたのか。それには当然の事ながら理由があった。

折角の虐待対象を取られた村人達は、松吉を非常に恨んでいた。そのために、非常に陰湿な仕返しを考えていたのである。

経久は恐ろしい人物として村人達に認識されていた。その経久の前に、吃音癖のある松吉を出せばどうなるか。最低でも周囲の人間達には失笑されるし、不興を買って首をはねられる可能性もある。実力的には優れている松吉だから、ひょっとしたら経久の目に留まるかも知れないが、何しろまともな受け答えもろくに出来ない松吉だ。期待した相手に裏切られたときほど、人間が失望することはない。かってない大恥を掻くのは間違いないだろう。更に、松吉がいなくなれば、さやを虐め放題だ。輪姦した挙げ句に殺してしまっても構わない。獣に襲われたとでも後で何とでも説明できる。

それらの村人の思惑が、松吉には手に取るように分かった。下劣だが、今に始まったことではない。だが、経久の正式な召喚状である事には代わりがないし、断ろうにもどう断って良いのか分からなかった。

出かけるのは出かけなければならない。だが経久の招集に応じてから帰るまで、およそ半月。どうにかしてさやを守る手段を考えなければならなかった。そのままにしていけば、高い確率で村人達にいびり殺されるのが目に見えていたからだ。

連れて行くことは出来ない。この頃のさやはまだ良く歩くことが出来なかったし、何より会場にはどんな荒くれが来ているか分からない。中には高砂村の者達より質が悪い連中もいるだろう。彼らからさやを守りきる自信が、松吉にはなかった。

そこで松吉は、早めに痩せた畑からソバを収穫すると、山の中に見つけておいた洞窟へさやを移した。食物は年貢分以外のソバがある。一応火を通しておいたし、それほど湿気が多いわけではないから、どうにか保つ。数日間洞窟の周囲で暮らして、さやに慣れて貰った。そして当日が来た。ほぼ半月間、どうにか生活できるかと聞くと、さやは少し寂しそうに大丈夫だと応えた。どうして寂しそうなのか、この時の松吉にはまだ分からなかった。

そうして、またしてももくろみを裏切られ、殺気だって睨む小作人達に送られて、松吉は月山富田城へ向かった。粗末な格好であった。持ち物はわらじと推薦状だけ。素足で行くのはあまりにも寂しいからと言うことで、さやが作ってくれたわらじだった。

徒歩で数日。どうにか月山富田城へたどり着く。見上げる先には曲がりくねった長い坂、その先に門番である足軽が詰める正門があった。麓から見上げる富田城は、十重二十重に城壁を巡らしているようで、これを攻め落とすのはどうしても無理なのではないかと、松吉は思った。意を決して坂を上り始める。踏み固められた地面は、とても固い。

道行く松吉は、最小限の金しか持ってこなかったし、極めてまずしい食事で我慢した。洞窟の中でさやが我慢していると思えば、その程度の苦労はどうと言うこともなかったが、しかし空腹はどうしても体を蝕む。ただでさえ汚い格好の松吉は更に窶れたため、当然門番に咎められた。召喚状を見せても、すぐには信じて貰えず、怪しんだ足軽が城の奥へ駆けていく。やがて城から出てきたのは、口元に髭を蓄えた身分の高そうな男だった。まだかなり若い。足軽達の話を聞くかぎり、どうやら今回の催しの責任者らしい。

「宇山飛騨守様、この男です」

「ほほう、この男か。 ……流石にこの格好では、殿の前に出すは見苦しかろう。 風呂を使わせてやれ」

「はっ。 よろしいのですか?」

「構わぬ」

不器用に頭を下げ、まずは名前を記帳して足軽についていく松吉。勿論自分で字は書けないから、受付の品が良さそうな侍に名を告げて書いて貰った。城の風呂はそれほど大きくはなかったが、それでも川に入る習慣しかない村人である松吉には衝撃的な代物であった。湯というものがそもそも珍しいし、それに入るという発想がそもそもない。億かな吃驚体を洗う松吉を侍女が笑っていたが、村人のような陰湿さが無いので、特に何とも思わなかった。

風呂から上がると、三の丸という場所に集められた。城の中では前線基地に辺り、比較的低い位置にあるが、それでもかなりの高所である。武芸自慢の猛者達は既に百人以上も集まっていた。その中でも、松吉は群を抜いて大きい。武士ばかりではなく、怪しげな身分の者も少なくないようで、少しだけ松吉は安心した。

皆の視線が時々向く先には床几に座った初老の男が居た。左右に如何にも屈強そうな者達を侍らせ、眼光鋭いその人は、この城の主に違いないと松吉は思った。城の主だとすると、尼子伊予守経久様だろう。細長い顔をした老人は、一見細いのだが、全身から発する気迫ただならず、松吉も背筋に寒気を覚えた。

屈強なもののふ達が順番に呼ばれ、経久の前にでていく。経久はいちいち何の芸があるかと聞き、前口上を遮って実技だけを見せるように要求した。殆どの者が前口上を用意していたらしく、それだけで意表をつかれている者が少なくない。武芸を得意とすると言った者には、経久が部下に命じて軽く立ち会わせた。殆どの者が口ばかりで、地面にすっころばされた自称強者に対し、経久はもういいと言って下がらせるのだった。軍を率いるのが得意だと自慢する者もいたが、経久は二三質問をし、殆どに落胆しているようであった。

それでも、何人かは気にいられている。松吉ほどではないが、かなり大柄の毛むくじゃらな男が居た。格好から見て猟師らしいのだが、身の丈以上もある大きな槍を振り回し、経久がけしかけた部下と五分以上に渡り合った。多分松吉が知るどの村の用心棒よりも強い。熊野とかいう名前だそうだ。彼の豪勇を見た経久は、にっこり微笑むと手をとって武士になるように言い、感激して涙を流して熊野は喜んでいた。

松吉の出番が来た。周囲の視線を大量に浴びて、ただでさえどもりがちの松吉は、殆ど何も喋れなくなった。

「芸は何か」

「は、はい。 力、です」

どもりながらの返答に、周囲から失笑が起こる。だが、熊野と経久は笑わなかった。護衛の武士さえくすくす笑っているのに、である。

「ならば、力を見せよ。 飛騨守、米俵を持って参れ」

「はっ。 ただちに」

宇山飛騨守が周囲の武士達に下知をすると、すぐに十俵以上の米俵が運ばれてきた。米俵は一つ一つが人間の重量ほどもある。だが、松吉はいつもこれを背負って歩いているのだ。

「ふん、ふんっ!」

まずは一つ目。続いて二つ目。三つ目を持ち上げると、周囲からどよめきの声が挙がった。まだまだこんなものではない。松吉は喋ることはあまり得意ではないが、力だけは誰にも負けない。その自負がある。四つ目、そして五つ目を持ち上げた所で、そろそろきつくなってくる。顔を真っ赤にして踏ん張りながら、六つ目を抱え上げようとしたが、そこで限界が来た。

どずんと音を立てて、米俵を降ろす。流石に息が荒い。いつも三つくらいなら同時に抱えて持っていくのだが、流石にこの数は厳しかった。経久だけではなく、いまや誰も笑ってはいなかった。生唾を飲み込む声さえ聞こえる。

「ふむ。 飛騨守、槍をもて。 複数だ」

「はっ。 ただちに」

額を拭う松吉を興味深げにみる経久。すぐに槍が運ばれてくる。経久は、驚くべき事をいう。

「折ってみせい」

「は、はい」

一礼すると、まず手始めに一本を取る。かなり頑丈な木で造られているが、この位ならたやすい。そのまま無造作に折る松吉。経久は同時に何本まで折ることが出来るかと聞いた。この堅さなら三本までは行けると松吉は思った。

「さ、さんです」

「うむ。 折ってみせい」

緊張で倒れそうだった。拾い上げた槍を束ねると、流石に全身の力を込め、松吉は一気にへし折った。周囲からのどよめきが、恐怖に取って代わった。

経久はしばし顎を摘んで考えていたが、やがて槍を五本同時に握るようにと言った。松吉が素直に従うと、よいよいと頷きながら、眼光を鋭くする。

「振り回せるか?」

「は、はい」

「振り回してみせい」

ぎゅっと握り込む。間違えて経久の方へ飛んでは大変だと松吉は思った。渾身の力を込めて握ると、頭上に振り上げて振り回した。ごうごうと物凄い音がした。ひとしきり振り回してみせると、流石に力が抜け、肩で息をつきながら槍を降ろす。無言のままじっと見ていた経久は、宇山飛騨守に言う。

「このものの名は、松吉であったな」

「はい。 高砂村の松吉です」

「松吉よ。 余に仕える気はないか?」

息をのむ松吉。これがどれだけ名誉なことなのか、彼にも良く分かっていた。でも、今回ばかりは、言うことを聞くわけには行かなかった。

村にはさやがいる。さやはまだ幼いし、自分が常に側にいなければならない。経久に仕えれば、家を何ヶ月も開けることも多くなるだろう。そうなればどうなるのか、考えるのも恐ろしかった。

さやは義理の妹という以上に、数少ない、自分を人間として見てくれた相手だ。だからこそに、自分の命よりも貴重な存在だった。

首をはねられる覚悟で、松吉は土下座した。そして言う。

「た、たいへん、もうしわけないのですが」

「む?」

「村には、お、幼い、もうもく、の、妹が、おります。 で、ですの、で」

「貴様、無礼であろう! 殿の折角の申し出を!」

「いや、良い」

顔を上げた松吉は、経久が怒っていないのに気付いた。むしろ小気味よさげに、松吉の顔を見ていた。

「口は廻らぬようだが、その優しさ、そして剛力、まことに天晴れなり。 何年かして、妹の手が掛からなくなってから、余を訪ねよ。 その時に、改めて仕えて貰おうか」

「へ、へへえーっ。 ありがたき、しあわせにございます」

「飛騨守。 このものが担ぎ上げた米俵のうち、一俵をくれてやれ。 それと推薦状もだ」

「はっ。 仰せのままに」

松吉は、経久の優しさに、思わず涙していた。経久が自分を人間だと見てくれたことに、この無口すぎる男は、気付いていた。

 

経久のことを思いだしていた松吉は、思わず天を仰いでいた。経久の徳に甘えてしまったあの時のこと。そして帰ってからさやに怒られたこと。今さっきの出来事のように懐かしい。

経久は中国地方の十一カ国を従える大大名であり、その身は極めて多忙であるという。自分のことなどもう覚えていないかも知れないと言う怖れもあった。松吉も聞いたことがある。成功を収めると、人は変わってしまうことがあるのだと。

「にいさま、いきましょう」

さやが手を引く。無言で頷くと、松吉は城への長い長い坂を歩き始めたのだった。

 

3,破滅と再生

 

月山富田城の門には、以前来たときよりも明らかに多い足軽が詰めていた。厳戒態勢だというのは一目で分かる。状況はさやも肌で感じ取ったようだった。

坂の半ばで、既に松吉は彼らに発見されており、足軽達はああだこうだと言いながら備えを始めているのが見える。彼らにまで高砂村の人間の手が及んでいたら終わりだが、其処まで経久が部下を掌握できていないとも思えない。経久を信じて歩む。近づくに連れて、兵士達は槍を揃え、無言で戦闘隊形を取っていた。

「にいさま、私が喋ります」

「うむ……」

「止まれ! 何者だ!」

会話の半ばで、誰何が飛んできた。さやは一歩前にでると、口が極端に不自由な兄の手助けをするべく、胸に手を当てて喋り始めた。

「高砂村から来た者です! 大変重要な用事があって、宇山飛騨守様にお会いしとうございます!」

「そ、その証拠は?」

「此方をご覧下さい! 以前兄がご領主尼子伊予守様よりいただいたものです!」

非常に淀みのない口調は、松吉を感心させた。目が見えない分、さやは頭も良いし耳もいい。こういった喋り方は、侍の会話を聞いて覚えたのだそうである。具体名を出すやり方も上手い。それに例え末端の連中が腐敗していても、側近中の側近である宇山飛騨守が直接でて来てはどうにもならないはずだ。それに宇山飛騨守も、松吉の武勇を目に焼き付けて印象に残しているはず。

「しばしまてい!」

足軽達はひそひそと話し合っていたが、やがて組頭が奥へ走っていった。やや警戒を解いた感のある足軽達だが、依然緊張が色濃く見える。さやは落ち着いた様子で聞いた。

「何かあったのですか?」

「村人の知る所ではない! ……といいたいところだが、いいだろう。 そろそろ戦が近いのでな、警戒しておる」

言い直したのは、さやと松吉が尼子の密偵だという可能性を考慮してだろう。そして戦が近いとなると、考えられる相手は一人しかいない。勃興勢力の、毛利元就だ。

尼子と大内という、この中国地方における最強の二大名。その間に挟まれる形で、両者のどちらにも場合によって協力する小勢力が多数ある。その一つが毛利である。毛利は少し前から急激に勢力を拡大していて、その当主元就の卓絶した頭脳、両川と呼ばれる優秀な息子達の話は、高砂村にまで伝わってきていた。

ほどなく、足軽組頭が戻ってきた。渡した紹介状は、その手にあり、松吉はほっと一息つくことが出来た。

「高砂村の松吉だな」

「はい」

「そちらは?」

「妹のさやです」

「どうやら間違いなさそうだな。 宇山飛騨守様がお会いになる。 すぐに此方に来い」

招かれて、城へはいる。相変わらずの規模の月山富田城の中では、完全武装の足軽達がせわしなく動き回り、時々奇異の視線を松吉に向けてきた。二の丸の武家屋敷で、宇山は待っていた。周囲には護衛らしい、厳しい表情の侍達が大勢詰めている。宇山自身は鎧を付けていないが、表情は厳しかった。

「松吉か。 久しいな」

「宇山飛騨守様も、おひさしぶりです」

「うむ。 して、急の用件とは何かな? その怪我から言っても、ただ事ではないのも分かる。 しかし見ての通り、今は火急の事態だ。 場合によっては、後回しにしなければならなくなる」

何処から説明していいものなのか、松吉は分からなかった。困惑する松吉の手をさやがおさえる。躊躇の末頷いた松吉。さやが一歩前にでて、膝をついて頭を下げた。

「松吉の妹のさやです。 兄に代わって、状況を説明させて頂きます」

「出過ぎた真似を……」

「いや、よい。 さやとやら、続けるが良い」

以前はまだ若かった宇山だが、既に圧倒的な貫禄と迫力が身に付いている。口調も少し重くなっていて、自然と部下達を黙らせるものがあった。

口が苦手と言うよりも、もはや絶望的に不自由な兄を補うべく、さやが熱弁を振るう。それもきちんと相手の方角を把握して、である。感心した様子で、話を聞き終えると、宇山は言った。

「ふむ、なるほど。 それは由々しき事だな。 噂には聞いていたが、高砂村が発信地で、しかもそれほどの規模であったとは。 良く知らせてくれたな、松吉、さや」

「飛騨守様、それでは」

「いや、まずは確たる証拠がまず欲しい。 これから密偵を派遣して、詳しく調べることになるだろう。 それと、松吉、さや。 風呂に入ってこい。 殿に今の話を直接して欲しいのだ。 それにはお前達の格好はちと汚れすぎてる。 お前達、この者達に少しはましな服を用意してやれ」

そういえば、以前この城に来たときも、最初は風呂に入れと言われたものだ。懐かしくて、そして安心して、松吉は涙を一筋こぼしていた。

風呂から上がると、別室に通される。旗本用の宿舎の一角らしい。流石に粗末だが、それでも村の掘っ建て小屋よりはマシだ。燃やされてしまった家よりは。

状況を説明するのはさやがすると言うことになったが、それでも聞かれたら応えなければならない場合も想定される。腕組みした松吉は、破滅に至った経緯を、もう一度頭の中で分析していた。

 

松吉が米俵を担いで村に帰ると、早速凶事が発生していた。自宅が灰になっていたのである。

村人共は、松吉がいなくなった途端に、さやを痛めつけようと家に押し入ったらしい。そして何処を探してもさやがいないのを見て、腹を立てて火を付けたらしいのだ。今まで溜まっていた松吉への苛立ちを怒りを抑えられなかったという事情もあったらしい。誰もが知らぬぞんぜぬを通していたが、状況証拠から見て事態は明白だった。流石にこれには松吉もこたえた。幾ら何でも、此処まで無茶な事をするとは思っていなかったからである。

折角貰った米なのに、全部売り払わなければならなかった。さやと一緒に、燃え落ちてしまった家を建て直し、更に貧しい生活の中、松吉は耐えた。何度も村をでることを考えたのだが、それは難しかった。

元々この村は、人倫の道に外れた行為で私腹を肥やしている場所である。そのため村境の警備には過剰なほどの人数を常に裂いている。家の周囲の森は良く知っている松吉も、村境の辺りはあまり知らない。それに一人ならともかく、さやを連れて逃げるのはまず無理だ。

さやは自分が重荷になっているのではないかと常に感じているらしかったが、松吉にしてみればさやがいたからこそ今まで生きてこられたのだ。自分が命を落としたとしても、さやだけは幸せにしてやらねばならなかった。誰か良い婿が見付かればよいのだがと、いつも松吉は思っていた。

それに、もう一つ問題もあった。経久に対して非常に大きな恩を感じた松吉は、村の事業に対して看過でき無くなりつつあったのである。この高砂村がやっているのは、経久の領内を食い荒らすも同様の行為であった。

松吉が村を歩くのは難しくなりつつあった。差別がより一層激しくなってきて、罵声とともに石が飛んでくる事が珍しくもなくなっていた。しかも、加害者はさっと逃げてしまう。今までのように「手軽に」弱者を虐待できなくなった原因が松吉であると村人達は考えていて、鬱屈させた怒りをそう言った形で晴らしに来ていたのだ。松吉は別に石を投げられようが棒で打たれようが我慢するつもりでいた。しかし、さやをこれ以上危険にさらしたくなかったし、何よりも経久に対する裏切り行為は許せなかった。

最初は説得から始めるべきだった。さやにそれを話したが、止めた方がよいと言われた。松吉も、さやがずば抜けて頭がよいことを良く知っている。それに言われるまでもなく、松吉だって、効果があるとは思えない。状況から考えて、そんなことを言った所で村人が己の行為を翻す可能性は皆無だ。この村の者達は、外の者から生き血を啜る形で私腹を肥やし、それで贅沢もしているし甘い汁も吸っている。噂によると、兵役さえごまかして貰っているという。場合によっては、金は命すらも買うのだ。贅沢に、しかも楽に浸かっている人間が、それを手放すのはとても難しい。

更に、根深い理由もある。高砂村はいわゆる神話の時代より続く古い村だ。古代、出雲は良鉄の山地として知られ、此処も例外ではなかった。だが鉄には限りがある。掘り尽くせば無くなる。平安時代にはもうこの辺りで鉄は取れなくなり、玉鋼といわれた出雲鉄による収入は消えて無くなった。それまでそこそこ裕福だった村人達は貧乏のどん底に叩き落とされた。

かって日本の中心地であったかも知れないが、いまでは出雲は辺境の土地。しかもその中でも更に貧しい村なのだ。その生活の厳しさは言語を絶した。飢饉の時は隣同士で子供を交換して食べたこともあると松吉は聞いている。そんな砂を噛むような生活の中、膨大な利益を得られる手段が入ってきたのだ。人倫に外れる行為だと分かっていても、村人が魔薬の栽培に手を出してしまったのは仕方のないことであったのかも知れない。長年かけて一族レベルで歪んでしまった心は、多分カタストロフがないと元には戻らないのだ。

それでも、暴力は最後の手段にしたい。それが松吉の思想だった。無益だと分かってはいたが、松吉は長老である高砂氏の当主に直接掛け合うことにした。こういう離れ業が出来るのが、人数の少ない村での利点である。

ある日の、野良仕事が終わってすぐのことであった。家に帰る農民達とは逆に、松吉は長老の家に向かった。一応武家屋敷になっている長老の家は、小さな戦闘用家屋である。周囲には塀と浅い堀が巡らされ、入り口には歩哨が立っている。高砂村から魔の薬が流れているという噂は、今のところそう大きくはないが、それでも用心に越したことは無いからであろう。それに今は戦国の世、いつ此処が戦場になるかも分からないご時世だ。

だが、設備が如何に整備されていても、人間がそれを使いこなせているわけではない。長老は昼間から護衛も連れずにのこのこ外を歩いていることが多く、松吉は其処を狙った。案の定、長老は屋敷から出てきた。良くあることらしく、歩哨は咎めさえしない。小作農達が悲惨な労働をしている影で、ぬくぬくとしていられるのだから、たいそうなご身分である。

角を曲がり、歩哨から見えなくなった所で、松吉は長老の前に立ち塞がった。巨漢の松吉がいきなり立ち塞がれば、驚いて固まる。固まる長老に、松吉は言う。

「長老、話があります」

「な、なんだいきなり! 無礼だろうが!」

「重要な話です」

棒を振って松吉を追い払おうとした長老だが、松吉の容赦ない視線に射すくめられて、生唾を飲み込んだ。もし松吉が本気で縊り殺しに来たら逃げ切れない位置だと判断したのだろう。目まぐるしく思案した末に、長老は言った。

「何だ、話して見ろ。 バカの貴様に、何の重要な話がある」

「(玉鋼)の事です」

玉鋼とは、村で使われている暗号的な単語で、魔薬の事を指す。かっての栄光よもう一度という意図が見え隠れていて、切ないほどに哀れである。せわしなく周囲を見回す長老に、松吉は効果がありそうな、必死に考えた言葉を言った。

「尼子伊予守様は、既に、情報をつかんでいます。 もうやめるべきだと、思います」

「馬鹿なことを。 何を血迷ったか、この木偶の坊が!」

「長老。 会ってきたから、分かります。 伊予守様は、とても賢い、方です」

「ええい、だまれだまれ! 早くどかんか、このうすのろが!」

吐き捨てると、長老は松吉の脇を抜けるようにして、向こうへ行ってしまった。長老は経久が何だ、名君が何だと呟き続けていた。外の人間に対する不信、特に支配体制に対する警戒心は、この村の誰もが強い。貧しい生活を何百年も送った要因の一つがそれなのだから、仕方のないことでもある。だが、誠意を込めた説得が功を奏さなかったのは事実。松吉はがっかりした。

それから、松吉へ加えられる暴力がますます酷くなった。長老からの、無言の圧力であることは間違いなかった。

何年か我慢したが、状況が変わる可能性は皆無であった。ますます魔薬は周囲の村々にはびこり、多くの人間が死んだ。松吉は行動を決意した。

 

「なるほど、それで麻の畑に火を付けて、逃げてきたのか」

「はい。 そうするしか、村境を固めている人間を減らす方法がなかったのです。 風向きもきちんと考えて、燃えた麻の煙が村に流れ込む火を決行日に選びました」

さやが言うと、伊予守経久は感心して何度も頷いた。さやが少しだけ持ってきていた魔薬は、罪人に対する実験で言葉通りの効果を示し、家臣達もどよめきながら納得した。

火を付けたのには、戦術的な意味もあった。村の連中は殆どが麻の煙を吸い込んで行動不能に陥り、見張りの殆どが畑に向かった。松吉とさやを追いかけてきた者達は、見張りに就いていた残りの僅かな人数である。

周囲の重臣達は、困惑顔を交わしあっている。領内にはびこる魔薬の存在は彼らも薄々知っていたのだろう。それに、盲目のさやの知略も彼らの関心を買う要因であった。松吉の計画を具体的に練り直して、成功率を飛躍的に上げたのは彼女なのだ。天賦の才と言うべきか。それに、この物怖じしない態度、すらすらした言葉。どれを取っても素晴らしい。

戦国時代、決して女性は軽んじられていない。後の時代になるが、前田家のまつや豊臣家のおねを始めとして、女傑と呼ばれた人物は幾らでもいるのだ。

「分かった。 すぐに密偵を差し向けよう。 お前達については、ご苦労であった。 褒美として、余の配下として召し抱えよう」

「有り難き幸せにございます」

「あ、ありがたきしあわせ、にございます」

妹に釣られるようにして、松吉も頭を下げた。さやはきっと松吉が煮え切らないだろうと見越して、率先して返答したのだろう。経久が下がるようにと言う前に、さやはもう一言言った。

「一つ、お願いの義がございます」

「ふむ? なんだ」

「わたし達兄妹を、死んだことにして頂けないでしょうか」

ほう、と経久は感心したように言い、良かろうと頷いた。松吉にはとっさに意味が分からなかった。

二人が案内された部屋は、最初よりもずっと綺麗な部屋だった。部屋をぺたぺた触り廻っていたさやは、嬉しそうに声を弾ませる。

「こんな綺麗な部屋、触ったことがないわ」

「俺達、ここで、暮らせるのだろうか……」

「覚悟を決めて、にいさま。 にいさまはやっと自由になれるの。 それに、わたしも、ここでなら……にいさまのお荷物にならなくてすむわ」

さやの言葉は、抉るようだった。松吉には、漸くさやが時々見せていた悲しそうな表情の意味が分かっていた。しかし直接口から聞くと、やはり悲痛だった。どんな状況でも弱音を吐かないさやが、どれだけ苦しんでいたか、松吉には手に取るように分かった。

経久の下で働くとなると、多分個人の武勇を生かした仕事になる。しばらくは身を隠さないと危ないだろうから、密偵か、それとも城内限定の警護役か。今までにない誇りが体の中から沸き上がってくるのを、松吉は感じた。

これからは、さやを守るのではなく、さやと一緒に戦うことが出来る。村の脱出や、先ほどのやりとりで見せたさやの頭脳は、きっと松吉の力になる。松吉は有り余る力で、さやの頭脳を手伝ってやればよい。此処でならそれができる。経久のためなら、さやのためなら、槍働きだって何だって出来る。してみせる。

「酒が、飲みたい」

生まれて初めて、松吉はそう思った。

 

4,ありがちな……

 

経久文書の中にあった、鬼哭山の真実。それを知った学者の中には、ため息をつく者が半分おり、喜びを覚える者が半分いた。前者は悲劇だからこそ鬼哭山は面白いと思う者達。後者は悲劇の人生を送った松吉に同情する者達であった。

その後の記録は、ほぼ昔話と同じである。松吉とさやを保護した経久は密偵を送り込んで高砂村を調べた後、すぐに村の主だった者達を捕らえ、何人かの首をはねた。村に保管されていた麻の種は全て焼却処分され、出雲を中心に広がっていた魔薬の脅威は去ったのである。更に、高砂村を含む周辺の管理を任されていた代官も首をはねられ、経久の膝下にあった腐敗も綺麗に一掃された。

その後、数少ない記録を総合するに、松吉とさやは経久麾下の特殊部隊の最精鋭として活躍し続けたらしい。松吉に勝てる者など何処にもいなかったし、さやが立てる策も恐るべき精度で敵を粉砕し続けた。経久死後も二人の活躍は続いたようだが、尼子氏は次第に毛利氏に追いつめられていき、月山富田城は自壊するような形で滅び去った。この辺りになると、もう二人の消息は分からない。毛利との戦いで命を落としたか、或いは。ただ分かっているのは、二人の力だけでは、歴史のうねりを変えることは出来なかったと言うことだ。

記録が残っていないと言うことは、さまざまな想像が出来ると言うことでもある。毛利元就の長男隆元に関しては、暗殺説があるが、下手人はひょっとすると松吉かも知れない。後の世に名高い山中鹿之助の手助けをして、尼子再興の夢を追ったかも知れない。もしそうだとすると、二人のゲリラ戦術はさぞ毛利軍を悩ませたことだろう。経久文書からは発見されていないが、いつか二人がどんな活躍をしたのか、詳しく分かる書物が発見されるかも知れない。それは何も尼子側の記録からとは限らない。

ただ、一つ分かっている事がある。どんな死に方をしたとしても、恐らく兄妹は最後まで満足していただろうと言うことだ。物語以上に幸せな現実などほぼ無いと言えるが、数少ない例外が、此処にはあったのである。

 

                               (終)