鬼哭山

 

1,鬼吉

 

 むかしむかし。ある所に、鬼吉という大きな大きな男が住んでいた。

 鬼吉は村中から嫌われていた。背は家々よりも高く、肌は岩よりも硬く、髪は針千本のように逆立ち、顔は本物の鬼のように恐ろしく、そして何より無口であったからだ。本当の名前も松吉と言ったのだが、村の者達に無理矢理鬼吉に変えられてしまったのである。

 鬼吉は近くの村には住まず、少し離れた所にあばら屋を建てて住んでいた。鬼吉の親父様が造った家で、鬼吉はそれを受け継いだのだ。鬼吉は川で魚を捕ったり、畑仕事をして生きていた。畑仕事はよいのだが、川へ降りるにはどうしても村を通らなければならなかった。

「鬼だ! 鬼が来た!」

「はやくにげるだ! とってくわれるだぞ!」

 鬼吉が村を通るたびに、子供は悲鳴を上げて逃げ散り、女達は飛ぶようにして家へ逃げ込んだ。若い衆は鬼吉が恐ろしい形相をしていても村人に手出しをしないことを知っていた。だから何もしないことを良いことに、怖れるふりをして鬼吉に石を投げたり、棒でぶったりした。そういった村人の行動は正しいこととされた。若い者達は鬼吉に加えた惨い仕打ちを、村を守るためにしたことだと自慢した。鬼吉は鬼吉で、別に何をされても気にすることもなく、ただ静かに暮らしていたのだった。

 誰にも人間扱いされなかった鬼吉だが、ただ一人仲の良い相手がいた。村のはずれに住んでいる、紗耶という娘だった。紗耶は美しい娘であったが、哀れなことに産まれたときから目が見えなかった。貧しい村では、役に立たないと言うことはそれだけで罪となる。村はずれで細々と暮らす紗耶は、村の娘達の誰にも相手にされず、寂しい日々を過ごしていた。鬼吉は、紗耶の数少ない話し相手だった。鬼吉は余った魚や獲物を、紗耶に届けると、殆ど喋らずいつも帰っていった。交わす言葉と言っても、挨拶や、御礼だけ。だがそれだけでも、他の村人よりも、ずっと多くの言葉を交わすのだった。

 鬼吉はある日、紗耶が村の娘達に虐められているのを見た。紗耶はたいそう美しかったので、村の男達は自分のものにしようといつも獣のように目を光らせて狙っていたのだ。娘達はそれが気に入らない。自分より劣っていると思える相手が、自分よりも男達の心を引きつけるのがいやだったのだ。娘達は女だけで集まって目が見えない紗耶に無理に機織りをさせ、下手だとあざ笑ってははやし立てた。気が弱い紗耶はさめざめと泣くばかりであった。鬼吉はとても悲しかったが、自分が出ていけば紗耶がもっと酷い虐めに会うのは目に見えていたから、黙っているほかなかった。だけれども、鬼吉にとって紗耶はただ一人の友達だった。だから、どうにかして助けたいと思った。

 ある日、鬼吉は決心して、旅支度を調えた。十三里ほど離れた所に、恐ろしい龍が住むという黒龍山という場所があり、そこにいって龍の出す難問に答えることが出来れば、願いを叶えてくれるという話を旅人から聞いたからだ。紗耶が虐められるのは、目が見えないからだと、鬼吉は思った。だから、龍に頼んでどうにかしてもらおうと思ったのだ。

 黒龍山は恐ろしい山だった。辺りには黒い水が流れる荒川がごうごうとさかまき、昼でも分厚い雲が空を覆っていた。岩はささくれのように逆立って尖り、どんな名工の刀よりも鋭かった。風は獣のうなり声のように吹き下ろしてはわめき叫び、斜面はついたてのようだった。そしててっぺんはおおきなおおきな鬼吉でも、どんなに背を伸ばしてもまったく見ることが出来なかった。

 怖いもののない鬼吉も、さすがにこれは恐ろしゅうなったが、可哀想な紗耶のためだ。決心して、恐ろしい山を登り始めたのだった。

 

2,龍の山

 

 黒龍山は、鬼吉を歓迎しなかった。鉈を持ち、わらじを履いた鬼吉を、恐ろしい風が吹き飛ばそうと襲い、彼方此方に潜んでいた獣たちが飛びかかってきた。水はほとんど無く、空は常に真っ暗で、雷がなんどもすぐ近くに落ちた。生えている木はどれも命を冒涜するように曲がりくねり、真っ黒に染まり、実も葉もなかった。恐ろしい斜面は、鬼吉をあざ笑うようにして天に伸び、命綱に使った丈夫な蔦を何度も千切ろうと風が吹き荒んだ。

 そんな恐ろしい山を、鬼吉は必死に登った。紗耶が自分のように虐められるのを見たくなかったからだ。鬼吉は頑丈だし強いから、虐められてもたえられる。でも紗耶は目が見えないし小さい。あんなに大勢で虐められるのは、あまりにも可哀想だった。鬼吉は一生懸命斜面を登った。手は傷だらけになり、岩のような体も血だらけになった。汗が滝のように流れて、何度も手を滑らせそうになった。それでもえいやえいやと声を上げ、必死に山を登ったのだった。

 ついに黒龍山も、鬼吉を屍にすることは出来なかった。鬼吉の頑丈な体と執念は、その体をてっぺんまで運んだのだ。肩で息をつく鬼吉が見たのは、山の頂上に立つ、寂しい小さな社だった。そして曇り渦巻く空から、今まで見たこともないほど太い怖い雷が、社へと落ちかかった。突風が吹き荒れ、社の上の空に、長い長い姿が現れる。龍だった。

 龍は目をぎらぎらと光らせ、何里もある、鱗だらけの体を空一杯に泳がせていた。髭は百年を経た松のように長く太く、枯れ果てた檜のような角が生えていた。大きな手は鬼吉を鷲掴みできるほどで、四本も指が生えていた。そして顔は、鬼吉が観音様に見えるほどに恐ろしかった。龍が一言喋ると、空が落ちてくるかのようだった。

「我の住処へ来た者は誰ぞ」

「鬼吉だ」

「その名は知っておる。 麓の村に住む鬼吉だな」

 鬼吉は龍が自分を知っていることにたいそう驚いたが、怖れぬように自分へ言い聞かせる。そして龍を見上げながら言い放った。

「お、俺の友達が、目が見えずに困っている。 目を見えるようにしたい」

 どうにか間違えずに言えたことで、鬼吉は安心した。ちょっと間違えるだけで村の衆は鬼吉をはやし立て、石を投げてきたからだ。村人には別に何をされてもこたえない。でも、間違えて龍を怒らせてしまっては一大事だと、鬼吉は思っていた。龍が怒ってしまっては、紗耶が助けられなくなってしまうのだから。龍は鬼吉の気持ちを知ってか知らずか、面白そうに髭を揺らしながら言った。

「たやすいことだ。 ただし、それは我に勝ってからだ」

 再び稲光が空に走り、驚いた鬼吉は目を覆った。鬼吉が目を開けると、其処には高笑いを上げる、鬼吉よりも大きくて恐ろしい大男がすっくとたっていたのだった。鬼吉よりも更に体が大きく強そうで、もっと怖い顔をした大男は、社の側に生えていた枯れ木を片手で引っこ抜くと、地面にそれで円をかいた。すもうを取ろうというのだ。

「来い! 鬼吉! 我に一度でも勝つことが出来たら、汝の願いを叶えてやろう!」

 龍への挑戦であったが、鬼吉は怖れなかった。まっすぐ円の中に入ると、体ごと龍の変じた大男へとぶつかっていった。えいやとう、えいやとう。激しいかけ声が辺りに響き渡る。やがて、大男は鬼吉を軽々と投げ飛ばした。転がった鬼吉は、高笑いする大男に、泥だらけになりながらも再び挑み掛かった。再び投げ飛ばされた。気を失った鬼吉は、目が覚めると、また大男に立ち向かっていった。えいやとう、えいやとう。気合いと共にかけ声が迸る。不思議と疲れは一回の戦いごとに消えていき、新しい力がみなぎっていくようだった。

 いつのまにか、龍の配下の獣たちも、鬼吉と龍の相撲を、固唾をのんで眺めていた。そうして、三十回も戦ったときに、ついに鬼吉は気合い一閃、龍を投げ飛ばしたのだった。ずってんどうと転がった大男は、大笑いしながら立ち上がり、天へと再び登って龍に戻った。周りを囲んでいた獣たちも、やんややんやと鬼吉をはやし立てた。

「見事である! 鬼吉!」

 とても楽しそうに言うと、龍は円をかくのに使った枯れ木に、息を吹きかけた。そうすると桃によく似た形の紅い木の実と、柿によく似た形の青い木の実がそれになった。

「紅い木の実は、お前ではない誰かの願いを叶える。 青い木の実は、お前の願いを叶える。 それを食べれば、たちどころに効果を発揮するだろう」

何と応えて良いか分からない鬼吉は、ただ感謝とともに頭を下げた。龍はからからと笑う。

「礼はよい! 我も、こんなに楽しかったのは久しぶりだ! 汝を友と呼んでも良いだろうか!」

 再び深々と頭を下げる鬼吉に、再び龍は高笑いする。龍は木訥だが一途な鬼吉をとても気に入ったのだった。だが、どこか悲しそうな響きが、笑いには籠もっていた。

 

3,悲劇

 

 村へ飛ぶようにして帰った鬼吉は、さっそく紗耶の所へ向かった。驚いたことに、村では一年の時が過ぎていた。相変わらず虐められていた紗耶は、鬼吉だと分かると、涙を流して喜んだ。とても心配していたのだと紗耶は言う。鬼吉はなんと紗耶に言って良いのか分からず、一言すまないとだけ謝ると、龍の所へ行ったこと、そして目が治ることを紗耶に告げたのだった。

赤い実を渡された紗耶は、しばしおろおろしていたが、やがて決心して実を口に入れた。桃のような実を囓ると、紗耶は咳き込んだ。そばにどっかとあぐらをかいた鬼吉は、龍のことを信じていたから、不安は感じなかった。

 咳き込んでいた紗耶は、目を開いた。そして言う。

「ああ、見える、見える。 鳥がいる、雲がある、おうちがある」

 くるくると回って辺りを見て回る紗耶。曇ってばかりだった美しい顔に笑顔が甦り、喜びの涙が水晶のような目から流れ落ちた。よかったと鬼吉は思った。しかし。

「ああ! 鬼がいるわ! 助けて! 誰か助けて!」

 鬼吉を見た紗耶は悲鳴を上げ、自分の家へ逃げ込んでしまったのだった。

 

 がっかりした鬼吉は、すっかり肩を落として家に帰った。礼を期待していたわけではない。優しい言葉なんて欲しくはない。でも、あまりにも悲しい結末に、何度も何度もため息をついた。流石に黒龍山を登りきり、龍と相撲を取ったつよき者の心も、これにはこたえたのだった。今までどんなに虐められても平気だったのに、今回ばかりは耐えられなかった。鬼吉は、今まで飲んだこともなかったお酒を飲んだ。一杯に飲んだ。飲んでも飲んでも、酔うこともなく、気持ちが晴れることもなかった。鬼吉は浴びるようにして、お酒を飲んだ。

 昼が終わり、夜が来て、どれだけ経った頃だろう。鬼吉は、家の周りが騒がしいことに気付いた。なんと、村の者達が、松明を持って囲んでいた。皆殺気立ち、鬼のような形相だった。流石にこれには鬼吉もたまげた。

「出てこい! 鬼吉!」

「良くも紗耶を襲って喰おうとしただな! この鬼め!」

「成敗してくれる!」

 紗耶が村の若い男達に人気があることは、鬼吉も知っていた。多分誰かが見ていたのだろう。そして、村全体をけしかけたのだ。外に出ると、人の輪がわっとくずれた。槍を持ち、クワを持った村人達を見回すと、鬼吉はさっさと逃げることにした。彼らをやっつけるのは簡単だったけれど、そんなことをする気にはならなかったからだ。黒龍山を登りきった鬼吉は、みるまに村人達を引き離した。でも、振り返ると、自分の家が燃えているのが見えた。村人達が、鬼吉を逃がした腹いせに、火を付けたのは間違いなかった。

 何もかも無駄になってしまった。親父様からもらった家も焼かれてしまい、友達もいなくなってしまった。がっかりし、すっかり心を痛めてしまった鬼吉は、村はずれの何もない平原にどっかと座り込むと、龍からもらった青い実を懐から取りだした。ため息をつくたびに、地面に亀裂が走った。ごうごうと風が吹き、草が枯れていった。俺の心のようだと、鬼吉は思った。

 鬼吉は青い実を口に入れ、たねごとばりばり食べてしまった。そして平原に寝転がると、何もかもどうでもよくなってしまい、目を閉じて眠ってしまった。

 

 翌日、村の者達は驚いた。今まで何もなかった村のはずれの平原に、世にも恐ろしげな山が出来ていたからだ。山はまるで地獄から生えてきたような姿だった。巨大な岩が恐ろしげに尖り、まるで血のような色の川が流れていた。鼻が曲がるような匂いが立ちこめ、空は曇って雷が光っていた。そして山の上からは、ごうごう、ごうごうと、鬼が泣くような風が吹き下ろしていた。

 鬼吉は、人間に絶望し、死んで山になってしまったのだ。

 

4,龍の怒り

 

 全てを見ていた龍は、人間への怒りと、友の死への悲しみで、一週間泣き続けた。巨大な龍は心も巨大で、一度泣き始めるとずっと涙が止まらないのだった。何里もある大きな体をくねらせ龍が泣くと、辺りは嵐になり、雹が降り注ぎ、雷が木を焼き尽くすのであった。そうして泣いていた龍の心は、やがて怒りへと向かった。龍は人間の姿になると、たからものの誰にも見えなくなる不思議な蓑を被って、鬼吉を虐め殺した村へと降りていった。

 村の者達は鬼吉の家があった所をあろうことか肥だめにして、鬼吉の畑に勝手に作物を植え、毎日鬼吉の悪口を言っていた。何か悪いことがあると全て鬼吉のせいにしていた。獣が死んでいると逃げた鬼吉が戻ってきて殺したのだと言った。木が邪魔な形に倒れていると鬼吉が倒したのだと言った。勝手に使っているくせに、一番悪い土地を押しつけたくせに、畑の実りが悪いのは鬼吉の性根が腐っているからだと言った。龍が起こした嵐も、鬼吉が呼んだに違いないといっていた。全てを鬼吉になすりつける迷信深い老人達は、龍を怒らせた。

 邪魔な鬼吉がいなくなった若者達は、紗耶をどんな順番で「味見」するか毎日話し合い、牽制しあっていた。誰も紗耶を味見するつもりはあっても、妻にする気などないのだった。若い女達は、紗耶をどんな風に虐めるかで毎日盛り上がっていた。今までは鬼吉が居たから毎日は虐められなかったのだが、今は思う存分紗耶を虐めることが出来るのだ。欲望まみれの勝手で狡猾な若者達も、充分に龍を怒らせた。

 愚かな人間達に怒りを覚えた龍は、最後に紗耶の家に向かった。

 紗耶は毎日泣き暮らしていた。鬼吉を見て怖がってしまったことを後悔し、見えるようになってしまった世の中を嘆いているのだった。鬼吉しか自分を人間としてみていなかったことに、今更に気付いたのだった。龍はその愚かさに怒った。でも、紗耶がどうしたって、結局村人は鬼吉を虐め殺したのだともわかっていた。

 村を出ると、龍は元の姿に戻り、空へと舞い上がった。そして鬼吉が死んで自分と同じように怒っている獣たちへと呼びかけた。

「獣たちよ! 我が友の敵を討て! 鬼吉を虐め殺した村人共をみんな喰ってしまえ!」

 突如降って湧いた災厄に、村人は逃げまどうばかりだった。老人や子供をおいて真っ先に逃げ出した若者達も、獣たちはみんな逃がさなかった。

 獣たちは、紗耶以外の村人を、たったの三日で全部食べてしまった。紗耶は殺す価値もないと龍が言ったので、誰も見向きもしなかった。

 

5,償い

 

 一人になってしまった紗耶は、山になってしまった鬼吉を見て、泣くことしかできなかった。しかし、ずっと時が経つと、気付くことが出来た。山になってしまった鬼吉も、同じように悲しいのだと。鬼吉を救わなければならないと、紗耶は思った。

 紗耶は準備をすると、黒龍山に登った。鬼吉は龍に頼んで、紗耶の目が見えるようにして貰ったと言った。それならきっと、鬼吉を救うことが出来るに違いないと、紗耶は思ったのだった。山に住んでいる獣たちは、紗耶を見ても、目も合わせようとはしなかった。ただじっと監視していた。

 鬼吉の何十倍も時間をかけ、ぼろぼろになりながら、紗耶は登った。体中傷だらけになりながら、やっと登っていった。どれくらい時間が過ぎたのかも分からない。ほとんど乞食のようになって、紗耶は黒龍山の頂上にたどり着いた。其処には龍がいた。龍は鬼吉が死んでしまった悲しみをまだ癒すことが出来ず、蜷局を巻いてふてくされ、お酒を熊につがせていた。龍は紗耶を見て、目を爛々と光らせて、空へ飛び上がった。

「何をしに来た! 帰れ! 人間!」

 龍の怒りの声を聞くだけで、紗耶は気を失いそうだった。でも、鬼吉が味わって来た悲しみを考えれば、こんな痛みなどなんだと思った。ずっと一人で痛みに耐えていた鬼吉を、紗耶は裏切ってしまったのだと思っていた。

「鬼吉を、助けてください!」

「助けられるのなら、とうに我が助けておる! かの者を助けたいのは、我も同じだ!」

 そういって、龍はおいおいと泣いた。紗耶も一緒になっておいおい泣いた。暫く泣き続けると、龍は気が進まない様子で言った。

「娘、死ね。 そうすれば、鬼吉が救われるかも知れない」

 

 龍は栗に似た黄色い実を紗耶に渡すと、こういった。まず、鬼吉の山に登れ。その頂上でこの実に、紗耶の心の臓から流れた血を吸わせろ。そうすれば、鬼吉の魂は天国へいけるかも知れないと。ただし、鬼吉が紗耶を好きでなければ、それは無意味だと。

 紗耶は同じくらい時間をかけて山を下りた。そうすると、麓では三十年が過ぎていた。村は新しい人々が住み、その人達は鬼吉の山を鬼哭山と呼んでいた。彼らは突然現れた若く美しい紗耶に驚いたが、構っている暇はなかった。

 紗耶はすぐに鬼哭山へのぼった。黒龍山よりは楽だったが、とても厳しい道のりだった。手も足も血だらけになり、時間の感覚もなくなっていった。流れる紅い川に腰まで浸かり、鋭い岩に指を半ば千切られても、紗耶は諦めなかった。どんなに風が吹いても山にしがみつき、どんなに苦しくても諦めなかった。せめて少しでも鬼吉のために何かしてあげたいと、紗耶は思っていた。

 頂上にまでたどり着く。罅だらけで、殺風景で、草一本生えていなかった。地面には大きな穴が空いていて、其処から吹き出す風が、ごうごう、ごうごうと音を立てているのだった。

「鬼吉、ごめんなさい。 鬼吉、許して」

「ごうごう。 ごうごう」

 返事は風の音だけだった。紗耶は木の実を胸に抱いた。そして短刀を取りだし、一息に心の臓へ、突き刺したのだった。

 薄れる意識の中、紗耶は見たような気がした。大きな、とても大きな、鬼吉の背中を。

 

6,鬼哭山

 

 紗耶が死んで百年ほどして。鬼哭山を山伏が訪れた。山を見上げて、山伏は絶景かなと呟いた。

 そこは浄土のような美しさだった。綺麗な花々が咲き誇り、澄んだ水が流れ来て、丸い岩の間では小さな獣たちが戯れあい、小鳥たちが美しい声を競い合っていた。麓にある、鬼哭山の看板を見て、山伏は言った。

「この山が鬼哭山だというのはおかしい。 わしがもっと相応しい名を与えよう」

 そして、筆を取り出し、一文字を消し、一文字を書き加えた。

 看板に新たに現れた文字を見て、山伏は満足して去った。

 看板には、「鬼笑山」と書かれていた。鬼も思わず笑みを湛えるほどに美しく、そして和やかな山という意味である。

 山伏は、龍であった。

 

(終)