鬼哭山・嘘解説

 

鬼哭山は中国地方、主に島根県に広く伝わる昔話で、その成立は江戸時代初期とされています。神話が多く伝わる同地方としては、比較的新しい話となるわけです。しかしながら、その凄惨な集団リンチと報復劇、更には悲劇的な終わり方によって感心を集め、結果精力的な研究が行われてきた昔話です。

最近の研究によると、鬼哭山の原型になった二つの昔話があることが分かっています。一つは九州、鹿児島地方に伝わる人身御供の話であり、これは後半部分に相当します。古代の信仰では生贄が不可欠でありましたが、それが無くなった後も、こういった形で物語化したわけです。それが中国地方にまで伝わって、こういった形へ変化したわけです。それに前半部分の話が加わり、現在の形に整ったことが分かっています。初期のこの物語は、「おになきやま」や「鬼泣山」、或いは「鬼吉むかし」などという題名で呼ばれていたことが分かっており、「鬼哭山」と呼ばれるようになったのは江戸時代中期以降のことです。

前半部分の話に関してはさまざまな類話が存在し、どれが原型になったのかが長く議論されてきましたが、最近一応の決着が付きました。意外なことに、それは民話ではありませんでした。

1950年代の中頃に、中国地方に覇を唱えた戦国大名尼子氏の子孫が保有していた膨大な書類が見付かり、そのなかに興味深い記述が存在したのです。それは尼子氏の躍進に大きく寄与した尼子経久(1458〜1541)のものでした。

尼子経久について簡単に解説すると、中国地方十一カ国を版図に納めた英雄であり、親分肌の気のいい人物でした。物欲が少ない人物で、彼の宝物を部下が褒め称えると気前よく与えてしまうため、部下達は相談して彼の宝物を褒めないようにしようと決めたという逸話が残っています。

その尼子経久の逸話の一つに、鬼哭山の原型となるものがあったのです。それは、大体以下のようなものでした。

 

……尼子経久は領内で多くの勇士を募り、各地で腕が立つ者を募集していました。多くの者が集められ、腕を競い合いました。そのなかにまつきち、周囲からは鬼きちと呼ばれる大男がいたのです。

まつきちは小作人ながら六尺五寸ばかりの巨躯の持ち主で、鬼のように恐ろしげな容貌を持ち、素手で木を引き抜き、槍を同時に五本振り回し、矢を十本同時にへし折ったのだそうです。その豪勇のわりに無口で大人しい男であり、何を聞いてもまともに受け答えも出来なかったために周囲からは馬鹿にされていました。しかし経久は大いに気に入り、武士にしようとしました。ですが、幼い盲目の妹が村にいることを理由にまつきちは断り、経久の心遣いである米俵を背負って帰っていったそうです。部下にはそれを咎める者もいましたが、経久はよいよいと言い、むしろ小気味よげに見送ったといいます。

何年かして、経久はまつきちの所在を訪ねましたが、既に亡くなったという残念な報告がもたらされました。まつきちが住んでいた辺りは経久の勢力圏で大きな戦もなく、どうしてあの豪勇の士が死んだのか経久は部下を放って調べさせました。その結果、非道な虐めにあってまつきちは虐め殺され、その亡骸は辱められ、盲目の妹は慰み者にされたあげくに殺されたという報告が入ってきました。豪勇の士を遇することを知らぬ者達に烈火の如く怒った経久は、人をやって虐めの首謀者を捕らえさせ、打ち首にしてまつきちの墓前に備えたそうです……

 

少し状況は違いますが、これが鬼哭山の原型となったのは間違いのない事実のようです。作中に出てくる恐ろしいが優しい龍とは、勿論経久のことでしょう。まつきちと経久が相撲を取ったわけではありません。腕の立つ部下と相撲を取らせて、まつきちの類い希な力に経久が酔いしれたのは間違いありません。紗耶の原型になったまつきちの妹は名前も伝わっていませんが、仕官を断って米俵だけを受け取ったまつきちの心は胸を打つものがあります。ただ、当時の感覚からすると、気概がないとか、臆病だとか言われる原因になったやも知れません。それをも見越した上で、勇士であると褒め称えた経久の度量が文章からは伝わってきます。

体を隠す蓑を被って村を伺った龍というのは、おそらく経久の密偵の事を示しているのでしょう。龍が怒ってけしかけた獣というのは、経久麾下の猛者達に間違いありません。研究のピースがこれほど綺麗にはまる資料は他になく、研究者達は資料の信憑性を念入りにチェックした後に、これが鬼哭山の原型であると断定したわけです。

こうして、鬼哭山の成立背景が判明しました。まつきちの悲劇に感じ入った作者(おそらく複数でしょう)が、彼を救うべく後半部分の話を付けたし、それが長い年月を経て変化していったのが鬼哭山というわけです。

悲劇に遭い命を落とした兄妹と、彼らを愛した英雄の心は、いまでも鬼哭山という物語の形を取り、人々の心の中で生きているのです。