中心の不遇

 

序、そのものの名は

 

もしも、世界に平和が満ちたのなら。

皆が幸せになったのなら。

優しい性格のものなら、誰もが考える。勿論、それを純心に、大まじめに実行しようとする大人もいる。政治の最終的な目的は、それだと考えて、終生を過ごした偉人もいることだろう。

普通の人間では入ったら最後、生還が叶わない地獄、フィールド。そこを攻略する事を生業とする者を、フィールド探索者と呼ぶ。多くは特殊能力を備えているフィールド探索者の一人であるスペランカーは、言葉を反芻しながら、意味をじっくり考えていた。元々、スペランカーは海神の呪いと呼ばれる非常に厄介な特殊能力に身を包まれており、十代半ばの年齢固定と不死という強力な特性を得る代わりに、身体能力などが著しく低下している。頭脳活動は、さほど得意ではない。

だが、それでも此処は、考えなければならない。なぜなら、スペランカーはようやく、どうしてもコミュニケーションが出来ないだろう相手と、和を結ぶことが出来たのだ。それが偽りの結果に終わらないように、此処は慎重に動かなければならなかった。

スペランカーは、階段をゆっくり下りていく。

後ろには、まだ足や手に包帯を巻いている、後輩の川背。前回のフィールド攻略で、戦闘面における主力として激しい戦いを演じた彼女の負傷は、いまだ癒えきっていない。しかし彼女には、どうしても側にいて欲しい。もっとも頼りになる相手だから、というのもある。だが、スペランカーも、今回ばかりは不安なのだ。

近年、この世界を騒がす異星の神々とは、何者なのか。

それを知る事は、どういう意味を持つのか。

最初に異星の邪神の雄であり、何度となく交戦したニャルラトホテプの。スペランカーに降伏したそのごく一部である分身体に告げられたのは、世界の平和を願う者がいたら、という言葉だった。

絵空事だとは思わない。

むしろ、とても立派な考えだと思う。

でも、スペランカーだって知っている。この世にはおぞましい悪意も、たくさんたくさん満ちている事を。だから、それはとても苦難の道になる。心優しい人ほど、きっとつらい思いをするはずだ。

本気で、世界の平和と幸せの充足を願う人がいたら、スペランカーは支えてあげたいと思う。

だが、そうは思わない人が、たくさんこの世にはいる事も事実だ。

此処は、アトランティスの最深部。かってスペランカーが仲間達と異星の邪神を打ち倒し、奉仕種族を解放した、移動する大陸だ。宇宙船としての機能も備えているらしい。

この浮遊大陸に古くから住んでいた奉仕種族の長老達さえ知らない、秘中の秘となる場所。スペランカーが取り込んだニャルラトホテプの一部は、そこに秘密があると言った。それを聞いて具体的な場所を教えてくれたのは、今スペランカーのヘルメットの上に器用に乗っている、邪神アトラク=ナクアだ。今では手のひらくらいの大きさしか無い蜘蛛の姿をした彼女は、時々指示を出して、スペランカーを地下へ地下へと導いていく。

「何度も言うが、私も此処については、全てを知る訳じゃあないからね。 そもそも此処は私の住処じゃないし、たまたま会話する事になった他の邪神からの又聞きでしか知らない。 それに、そんな重要なものが此処にあったというのは、初耳だ」

「それでも、分かる事は出来るだけ教えて」

「ならば構わないけれど……」

アトラク=ナクアが懸念しているのは、スペランカーの中にいるニャルラトホテプの一部のことだ。

間諜では無いかと、疑っているのだろう。

同じ疑いについては、川背も抱いている様子だ。

階段を下りると、おそらく魔術によって点った煙の出ないたいまつが、延々と連なっている通路に出る。

壁は石では無くて、セラミックのような素材だ。川背が継ぎ目を確かめているのは、いざというときに機動戦が可能か確認しているから、だろう。壁の幅は五メートルほど。あまり広くは無いし、逃げ場所も無い。

この大陸は、一種の宇宙船だという話だが。この壁を見ていると、納得できる。土を深くまで掘り返すと、きっともっと科学的な構造や、光景を見ることが出来るのだろう。

通路はゆっくり下っている。

既に、三時間以上も歩き続けていた。階段もかなり下りた。帰りが大変だが、それ以上に、この先にあるものを、見るのに苦労しそうだ。

「川背ちゃん、どう思う?」

「進んだ技術の産物ですね。 機動戦は出来ますが、戦闘はできるだけ避けた方が無難でしょう」

「何かいるの?」

「生物の痕跡があります。 重要な場所だとすれば、守護者をおいていない筈もありませんから」

それはもっともだ。

階段は直線で、周囲のたいまつも明々と燃え上がっている。天井を見上げるとかなり高いが、それでも二十メートル以上は無いだろう。

少しずつ、暑くなってきた気がする。

一度キャンプを張ることにした。川背と一緒に作業をするが、相変わらずスペランカーは不器用なので、三倍は時間が掛かってしまう。川背はゆっくりやっているようなので、余計自分に苦笑いしてしまう。

「二時間ほど、交代で眠りましょう」

「うん、アトラク=ナクアさんもそれでいい?」

「ありがとう。 だが、私に眠りは必要ないよ。 あんた達だけで眠りな」

寝袋を出して、中に入って休むことにする。

今の時点では、まだ危険には遭遇していない。川背が周囲にトラップを仕掛けているが、相変わらず巧妙で、分かっていても引っかかりそうだった。

交代で休んで、その間に食事も取る。火は使えないので、川背の料理を食べることが出来ないのが残念だ。缶詰で済ませる。

長老達は、今回もついてくると言った。せめて露払いの人員を出すことを、許して欲しいと。

だが、どのような危険があるかも分からないし、アトランティスには問題が山積みなのだ。

誰も、失うわけにはいかない。

休憩を済ませると、更に深部へと進む。迷宮状の構造になっていないのだけが幸いだ。きっと、ここに誰かが来ることを、想定していたからだろう。

「先輩」

川背が足を止めた。

人影がある。とはいっても、背丈だけでも六メートルくらいはありそうだ。顔も体つきも、人間にはあまり似ていない。とてつもなく巨大で、手には槍のような武具を持っている。

見ると、アトランティスの主要種族の一つである半魚人達と同じような姿だ。ただし、単純に大きい。

間違いなく、川背が言っていた、此処の守護者だろう。こんな狭いところに、ずっとずっと一人でいたのか。

近づくと、槍を構えてくる。

「lkasdjfpodassdlfphmdpajgsgoifhjlskjfhvalhivhb」

聞き取れない言葉だ。

アトラク=ナクアが、訳してくれた。

「ここから先は、通さない、だと。 どうするね」

「通訳は出来ますか」

「出来るけど、どうなっても知らないよ」

丸腰である事を見せるが、守護者は警戒を解かない。目の光もとても強く、歴戦の武人である事は明らかだ。

スペランカーは、相手のことを尊重したいと思う。

こんな所にずっと命令を馬鹿正直に聞いて閉じこもって、などという理屈は非道だ。この人は、忠実に命令を守って、此処で大事な仕事に就いていたのだ。それはとても強いプロ意識と、磨き抜いた精神が無いと出来ないことだ。

「私は、スペランカー。 今、このアトランティスの代表をさせていただいています」

「確かにお前には、神々の力を感じる。 内部に複数。 一体どうやったのだ。 お前はこの星の原住民族に見えるが」

「詳しい話は、いずれ。 この先にある、世界の果ての情報を、閲覧しに来ました。 許して貰えませんか」

「……しばし待て」

じっとスペランカーを見た後、守護者の人は、きびすを返して奥に。

他の人がいるとは思えない。だが、しばし待たせてもらった。

一時間もしないうちに、守護者の人が戻ってくる。手には何かよく分からない機械を持っていた。

「確かに、ザヴィーラ様は既にみまかられ、そなたがこの島の支配者として認められている様子だ。 確認した」

「通して、もらえますか」

「私の使命は、此処を守護する事だ。 進むがいい」

物わかりがいい人で助かった。

あの機械は何だろう。通信装置か何かだろうか。だとすると、誰と話していたのだろう。少し疑問はわいたが、奥には広い空間があって、その中央に、巨大な円形の機械が鎮座していた。

守護者は、あの通路でずっと待っているのだろうか。

「川背ちゃん、あの人、外に出られるかな」

「途中の通路を見る限り、体がつかえることは無さそうですけれど。 命令を解除できるかは、分かりませんよ」

「どういうこと?」

「長老達の態度を、不審に思ったことはありませんか? あの人達は、基本的に奉仕種族なんです」

特定の条件を満たした相手には、逆らえない。

スペランカーのことを慕っているのは、その力を行使しないから。もしもスペランカーよりももっと強力な影響力を持つ神格がアトランティスを乗っ取ったら、彼らはたちまちに反旗を翻すだろう。

そう川背は断言した。

「勿論彼らは先輩に逆らうことを嫌がるでしょうが、それでも彼らにとって、上位者の命令は絶対なんです。 何度か話してみて、その説が事実なのは確認済みです」

「そう、なの?」

「残念だけどそうだよ。 以前には、奉仕種族の反乱が、別の場所で起きたことが何度もあってね。 私達の中では、奉仕種族を作る時には、まず絶対に逆らわないようにする事が、前提条件なのさ」

そういえば、長老達も、このアトランティスを支配していたザヴィーラに漠然と守護を命じられていたから、最後に戦う際に横やりを入れなかったのかも知れない。通してくれたが、それが精一杯の行動だったのだろう。あの時ザヴィーラが長老達に、死を賭してスペランカーを止めろと命令していたら。

頭を振る。

そんな酷いやり方。

だが、人間も、今はロボットに似たような事をしている。結局の所、知的生命体なんて、どれも同じ事を考えるのかも知れない。

「悲しい話だね」

「今は、それについて議論しているよりも、先に確認することがあります。 アトラク=ナクアさん」

「ああ、分かっているよ」

円形の機械には、多くのボタンが付けられている。

これがコンピュータに近いものなのだろう。アトラク=ナクアに言われるままボタンを押していると、立体映像が浮かび上がる。

複雑な文字列に囲まれるようにして、小さな惑星らしい映像が現れた。

「これは?」

「ふん、あの性悪、本当のことを言ったようだね。 この星は「宇宙の中心」。 此処から座標で言うと二億光年ほど離れている場所にある、かってもっとも先進的な文明が栄えた星さ。 もっとも、この宇宙とは次元が違う別の宇宙、平行世界に存在したんだけどね」

「アトラク=ナクアさんたちの、故郷?」

「広義で言えばそうなるね。 皮肉な話で、この星も、かっては地球と呼ばれていたのさ」

それは、皮肉極まりないかも知れない。

此処が、ニャルラトホテプさんの言った、みんなの平和を願った人がいた星なのだろうか。

データが出てきたので、アトラク=ナクアさんが解説してくれる。

それを、更に川背が説明してくれた。

「地球よりやや小型の惑星ですね。 恒星からの距離は若干地球よりも離れているみたいです」

「やっぱり、懐かしい?」

「思い出したくも無い星さ。 此処に今いるやつごと、消し飛ばしてやりたい」

今も、そう思っているのか。

嘆息すると、スペランカーは、データの吸い出しをはじめた。

もしも、コミュニケーションを取るにしても。

或いは、戦いの中で、互いを滅ぼし合うにしても。

ニャルラトホテプの知識を得た今は、出来るだけ後者はとりたくない。可能な限り、前者を採用したい。

いずれにしても、此処の情報は重要だ。

川背が、カメラや様々な機器を操作して、情報を素早く回収してくれる。だが、それでも二時間以上は掛かった。

全てが終わったときは、汗だくになっていた。

此処は、とても暑い。

或いは、この機械が熱を発しているのかも知れない。

「この機械を、持ち帰ることは出来ないの?」

「そりゃあ無理だね。 これはあんた達が言うマザーコンピュータみたいなもんで、このアトランティスの中枢機能と直結してる。 操作系はもっと上の方にあるけれど」

おそらく、スペランカーが以前長老に見せられた、アトランティスをコントロールするシステムがそれだろう。

川背が付け加えてくれる。

つまり、コントロール部分はパソコンで言うキーボードやディスプレイ。此方が本体なのだと。

それである程度納得がいった。

不意に、映像が出てくる。

人間そのものだ。多分、見かけだけならスペランカーと同じ、十代半ばくらいだろう。おかっぱ頭の、セーラーのような服を着た、純朴そうな女の子である。少し肌の色が違うが、人間との相違点はそれくらいである。触角が生えていたり、目が三つあったりするような事も無い。

「収斂進化ですか?」

「嗚呼、此処ではそう言うんだったね。 そうだよ。 多少体内の構造には違う点もあったけれど、今映ってる星の原住民さ」

川背が分からない言葉を言ったので、後で説明してもらおうと、スペランカーは思った。だが。それを忘れるほど、衝撃的なことを、アトラク=ナクアが言う。

「此奴が、宇宙の中心にいる白痴の神だよ」

「……!」

「そしてニャルラトホテプの奴が言っていた、全ての幸せを願った存在さ」

アトラク=ナクアが、心底から不愉快そうに言う。

この場にいたら、噛み裂いてやるとでも、言わんばかりの迫力だった。

どうみても普通の女の子だ。一体何がどうして、この女の子が、宇宙の中心に存在する究極の邪悪、などと呼ばれるに至ったのか。それに、以前アトラク=ナクアの住処で見た、宇宙の中心に座する神という存在の像は、見るもおぞましい触手の塊のようなものであったはず。

分からない。

ただ、スペランカーは。どうしてそんな悲劇が起きたのか。知りたいと思った。

 

1、滅びの星

 

必要な限りの情報を収集して、帰路につく。

守護者の半魚人にスペランカーが話すと、幸いにも納得してくれた。上位者の命令には従うしか無い、という風情であったが。

ただ、此処が最高機密で、誰かを安易に入れてはいけない場所である、というのも、事実だ。

「これからは、交代で見張りをしてもらうから。 だから安心して大丈夫だよ」

「分かった。 それにしても、外に出るのは、一体何年ぶりになるのだろう」

感慨深そうに、巨大な半魚人の守護者は言う。

帰路で、話をいろいろ聞いてみる。元々とても大きく生まれた守護者は、周囲からはあまり良く思われていなかったそうだ。

当時のアトランティスの管理者であるクトゥルフという神格も、便利そうだという理由だけで、守護者を通路に配置したらしい。

だから、スペランカーのお父さんがそのクトゥルフと相打ちになったという話をすると、別に不快そうにはしなかった。

「外に出たとして、居場所は、外にあるのだろうか」

「大丈夫だよ、きっと」

多くの種族が暮らすアトランティスには、今重異形化フィールドで暮らしていた種族も集まりつつある。様々な姿形の者がいるのだから、居場所は、人間しかいない土地よりはずっと作りやすいはずだ。

随分長い時間歩いて、通路を抜けて。

ひたすら続く階段を、時間を掛けて上がりきると。

ようやく、外につながる、朽ちた神殿に出た。神殿の中で、幾つか複雑な操作をして、通路を切り替えて、やっと外に出られる。

既に、夜になっていた。

長老達は、外で待っていてくれていた。スペランカーの養子であるコットンはもう遅いので、眠らせたという。

彼らに守護者を紹介して、住処や仕事について、手配してもらう。

川背はやりとりを横目で見ながら、アトラク=ナクアを持ち運んでいたノートPCの上につまんで乗せた。

「先輩、僕は先に戻って、データの検証をします。 先に休んでいてください」

「無理はしないでね、川背ちゃん」

「大丈夫ですよ。 僕は専門家じゃありませんから、解析班の指揮を執るだけです」

それが不安なのだけれど。

そういっても、実際の問題。川背は、スペランカーに見せる笑顔と、周囲に向ける表情が、全く違うからだ。

他人に対しては非常に厳しい。一方で、川背自身に対しては、特に厳しい。それを、スペランカーは知っている。厳しい姿勢は強いプロ意識から来る物だが、同時に大きな負担が心身に掛かっている。彼女はスペランカー同様、まともな青春時代を送っていない。むしろ、思春期を抜けてからの負荷は、スペランカーよりも大きかったのかも知れない。

大事な後輩である川背は、いつも大きな枷を自身に掛けている。そのことを、スペランカーはここのところずっと気に病んでいた。

不安になった事を察してか、長老は耳打ちしてくれた。

「大丈夫、儂の部下達が既に準備を整えておりますので。 川背様の負担は、最小限に抑えられるはずです」

「お願いね」

「分かっております。 川背様は、スペランカー様の大事な御戦友でありますゆえ。 我らにとっても、最大級の敬意を払わなければならない賓客です」

周りが支えてくれるなら、大丈夫だろう。

一度家に戻る。歩き方のコツは随分前に掴んだとはいえ、今日は相当な距離を歩いた。早めに帰って、美味しいものでも食べたい。そう素直に、スペランカーは思った。

 

翌朝。

早朝から、来客の知らせが入る。まだコットンは寝こけていて、電話の音がしても嫌そうに寝返りをうっただけだった。

今、スペランカーはアトランティスの中心として使われている中央神殿に住むのでは無く、やっと自身の家を作ってもらった所である。とはいっても、ただ働きさせたのではなくて、今までのお仕事のお給金から、適切な代金を払って建ててもらった。

スペランカーの新しい住処は神殿のすぐ側の空き地に作ってもらったこじんまりとした家で、小さくて外観も可愛い。

スペランカーとコットンが暮らして、来客がたまに来るくらいには丁度良い広さだ。

一応IT環境も配備してあるのだが、難しくて操作方法はよく分からない。スペランカーが覚えるより、コットンが使いこなす方が早そうだ。コットンは元々頭の出来がかなり良いらしく、覚えるのも早い。いずれスペランカーよりも、名の知れたフィールド探索者になるかも知れない。

義理とは言え娘が自分を越えてくれれば、これ以上嬉しい事も無い。

「早朝からすみません。 突然のお客様でして」

「誰……?」

「M様です。 かなりご機嫌が悪い様子でして、可能な限り急いで来ていただけると助かります」

「えっ!? わ、分かった。 すぐに行く!」

思わず、むせそうになった。

言うまでも無く、Mは世界最強のフィールド探索者である。無数の能力を有しており、その戦闘能力は絶大。史上最強という声さえあるほどの人物だ。

Mの事だ。ひょっとして飛行機など使わずに、自分の力だけで飛んできたのかも知れない。あの人なら、やりかねない。

すぐに準備をして、神殿に出る。Mは既に神殿の中に来ていて、来客室のソファで傲然とふんぞり返っているそうだ。

川背が応対しているという事だが、あまり長くは待たせられないだろう。苦手な相手だが、それはお互い様。それに何より、今は協力して、この事態に当たらなければならない。

応接の間では、予想通りと言うべきか。

筋肉で全身を覆ったMが、ソファの背に両腕を引っかけて、傲然と足を組んでふんぞり返っていた。その巨体が故に、三人掛けのソファが、まるで子供用の椅子のようである。向かいに座っている川背が話をしていたが、Mは鼻を鳴らして、一触即発の雰囲気だった。川背の少し後ろに控えている半魚人の長老はそわそわしている。護衛らしい腕利きが二人ついているが、いざ決裂となったら、Mに勝てる訳が無いからだ。

川背がMを嫌っていることは知っている。慌てて、スペランカーは居間に入って、一礼した。

「おはようございます」

「おや、これはこれはスペランカーさん。 早朝からすみませんなあ」

Mはそんな風に、とても不自然な敬語を使った。

前々から聞いてみたかった。どうしてか、Mはスペランカーの敬語で接してくる。しかも、嫌みたっぷりな。

だが、怖くて聞けない。

「どうしたんですか? こんなに早くから」

「なあに、私も独自のルートで情報を得ていましてねえ。 貴方が異星の邪神共に対する情報を入手したとか」

眉を、川背が跳ね上げた。

流石に情報が漏れるのが早すぎる。半魚人達の間にスパイがいるとは思えない。そうなると。

いや、体内にいるニャルラトホテプが、酷いダメージを受けていて、身動き取れない事はスペランカー自身が一番よく知っている。

「おほん。 どうして、それを知ったんですか」

「内通者がいましてねえ」

「それは嘘です」

皆に不安を与えたくないから、即答する。

一番驚いた様子だったのは、側に控えている長老だ。二人の護衛がわずかに身じろぎしたのは、信頼を感じてくれたから、だろうか。

Mはにやりとすると、意地悪なことを言う。まるで、獲物を嬲る肉食恐竜みたいな表情だ。

「ほう? まあいい。 嘘ですよ。 私は私で、多くの邪神を叩き潰してきた。 だから、得られるものもある。 そう言うことですよ」

「……」

半魚人が持ってきた茶を、まるでままごと用のカップのように掴みながら、一口で飲み干すM。

それはかなり大きなカップなのだが。Mの大きさが、規格外過ぎるのだ。

半魚人も、度肝を抜かれているようだ。

「川背ちゃん、解析は進んでいる?」

「今、三十五%という所です。 まだ二日はかかるかと」

「うん、それなら。 Mさん、聞いての通りだけれど、どうするの?」

此処で待たせてもらうと、Mは傲然と言い放った。

既に、川背がアーサーや、このアトランティスにいるスペランカーの友人達をかき集めているという。E国最強を噂される騎士アーサーは、単純な戦闘力なら川背以上だろうとスペランカーは見ている、とても強いフィールド探索者だ。川背の次にスペランカーが信頼している戦士であり、現在に生きる本物の騎士である。

彼ら全員に、情報を公開するつもりでいたから、スペランカーにして見れば有り難い。だが、Mがこれに加わってくると、話が違ってくる。

Mは筋金入りの邪神嫌いで、今スペランカーの中にいる者とは別のニャルラトホテプ分身体が漏らした、世界の秘密。四元素神と呼ばれる最強の邪神達が倒れることにより、宇宙最強の邪神がこの星に降臨すること。そしてもしそれを倒してしまうと、世界から異能が消えること、を理解していたとしても。どのような行動に出るか、分からない怖さがある。

だからアーサーや川背と相談してから、Mにも情報を流したかったのだ。

しかしMは、そのような考えを見透かしてか、自分が最初に、しかも何ら事前通達無しで訪れた。

世界最強のフィールド探索者であるMは、文字通り国家軍事力並の戦闘能力を持ち、下手をするとアトランティスを単独で灰燼に帰しかねない。

更に言えば、Mは世界最大のフィールド探索社であるN社のトップだ。経営面ではなく、戦闘力という点で、だが。人外の猛者達が揃うN社の中でも最強の影響力を持ち、下手な国家元首以上の権限も持っている。

Mに情報が流れるというのが、どういう意味を持つか。それは、スペランカーも、よく知っていた。勿論、Mもそれは分かっている筈だ。ただの凶暴なだけの男が、世界でもトップクラスの影響力を持てるようになる筈が無い。

Mはてこでも動きそうに無い。失礼が無いようにと長老に言って、一端応接を出る。宿泊用の部屋などを用意するよう、川背がてきぱきと手配をしてくれた。此処から三日は、とても忙しくなりそうだ。

昼過ぎには、だいたいのメンバーと連絡が取れた。

状況が状況なので、アーサーも来てくれることとなった。他にも、今まで世話になったフィールド探索者にも声を掛けるが。

二日もすると、面倒な事になり始めた。

世界各国の政府や国連軍、果ては文化人などからまで、連絡が入り始めたのである。一体どこから情報が流れているのか。Mが大々的に情報を流しているのか、それとも。

混乱する状況の中、一つの区切りが来たのが、二日後の夜の事。

ある大物から、連絡が来たのである。

そして、殆ど同時に、本人が来たのだった。

喧噪はぴたりと止んだ。その大物が、どれだけの影響力を持っているのか、それだけで明らかだった。

 

その男は、フィールド探索者の中では最古参の一人で、通称P。人間では考えられないほどの年月生きており、外見からして人間とは言いがたい。それ故に、常にフードを被って外では行動している。

備えている特殊能力は、「喰」。

相手を喰らうことだ。正確には、空間ごと削り取るような力であり、実際に腹に入れて消化するわけでは無いと聞いたことがある。フィールド探索者なら誰でも知っている、伝説級の人物である。Mの前の世代の、最強の戦士だった人だ。

当然世界各地に幅広くコネクションをつなげている。潰したフィールドは数知れず、助けた人は世界中にいるのだから当然だ。

専用の飛行機でアトランティスに直接来たと聞いて、スペランカーも夜中であるにも関わらず、出迎えなければならなかった。

直接会ってみると、杖をついてはいるが、足腰は壮健で、受け答えもしっかりしている。未だに厳然たる影響力を持っていると聞いてはいたが、確かにそれも頷ける。そして、噂通り、ものすごく大きな口だ。

その隣には、見たことが無いお爺さんがいる。

左手に手甲をしていて、一目で理解できた。

この人は、人間では無い。

異星の邪神だ。しかも、かなり高位の。

「はじめましてであったかな。 スペランカー。 儂がPだ」

「はじめまして。 お会いできて光栄です。 そちらの方は」

「戦車乗り、と言われている」

本名は知らせない、という事か。

スペランカーが異星の邪神と気付いていると、相手も悟ったらしい。鷹揚に握手を交わすと、歩きながら話す。

「貴方の活躍は聞いている。 多くの異星の邪神を打ち倒し、その撃墜スコアは並ぶ者がいないとか。 戦歴に似つかわしくない姿形だと聞いてはいたが、どうやら噂通りのようだ」

「ええと、褒めてくださっているんですか?」

眉を八の字にして苦笑いするスペランカーに、それ以上戦車乗りはこたえない。おそらく、スペランカーの反応を観察しているのだろう。手はとてもひんやりしていて、人間の体温では無かった。

流石に出迎えだけなので、川背は伴っていない。川背はまだ解析の指揮を執っていて、手が離せないからだ。

スペランカーは護衛の者達を伴って装甲バスに乗ると、P達と神殿へ向かう。装甲バスを見て、Pはからからと笑った。

「厳重な事よ」

「万が一のことがありますから」

「外を見ても良いかね」

頷くと、Pは細い腕でありながら、あっさりと重い窓を押し上げた。とはいっても、超強化硝子が填まっていて、外すことは出来ない。保安上の問題で、分厚い装甲カーテンが填まっているのだ。そのカーテンを開けて、外を見られるようにしたのである。

アトランティスはまだまだ発展途上。こういった装甲バスなどは、まだ手入れも行き届いていないし、最新鋭の品でも無い。故に備品などは不行き届きの要素も多いので、恐縮してしまう。

「不思議な光景だ」

Pが感心したように言う。

半魚人と、骸骨達とミイラの戦士達が、協力して街を作り上げている。

異星の邪神の奉仕種族だった彼らは、自由になった今、それぞれの生活を謳歌しているのだ。

外から流れ込んできた者達も、摩擦を何度も繰り返しながら、彼らと少しずつ仲良くなってきていた。勿論、まだまだ多くの課題が山積している。単純なならず者が犯罪目的で入り込んでくることも多いのだ。

半魚人の子供達と、人間の子供達は、仲良く出来ているとは言いがたい。子供達が遊んでいるのを見ると、だいたいグループが別れてしまっている。まだまだ、軋轢を解決するには、長い時間が必要だろう。奉仕種族にとって、外から入ってきた人間達は、「よそ者」なのだ。一方見かけで相手を判断する人間にとって、自分たちと似て非なる存在は、「気持ち悪い」姿であり、それだけで全否定するに足るのだろう。悲しいが、軋轢は、まだまだ深い。

空港の周囲に発展している町を抜けてしまうと、草原が続く。

この辺りには監視役を兼ねた超大型食虫植物や蜂などもおり、外に出るのはあまりお勧めできない。監視のために、ジープに乗った奉仕種族達が、周囲を見回っている。まだ空軍はいない。以前未来の戦士シーザーが来た時の対応がまずかったので、今後はヘリコプターや、国連軍のお下がりとなる戦闘機を、順次導入していく予定だ。陸軍も、防衛用の兵器を中心に、導入する計画が持ち上がっている。

これは、最悪の未来に対する知識を得たからだ。以前は強い魔術能力を持つ半魚人やミイラ男、骸骨達奉仕種族の戦闘力を信頼しきっていた。しかし未来世界で特殊能力が全て消滅した場合、丸腰も同然になってしまう。

最悪の事態を考え、常に備える必要があると言うのは、この世界の常識だ。

バスが大きく揺れた。

道路は舗装されていない。多分、道路を舗装できるのは、何年も先だろう。暮らしづらいと言われればその通りだが、でもスペランカーは此処が好きだ。

あの女がいる場所よりは、ずっといい。

頭を振って、暗い雑念を追い払う。

二時間ほど揺られると、神殿に着いた。先についている要人達には、応接で休んでもらっている。どう断っても、無理矢理押しかけてきた者達も多いのだ。

まだ今日から明日に掛けて、かなりの人数が来る。

どうするかは、川背とアーサーを交えて、話した方が良いだろう。そのまま情報を公開するのは、大きな悲劇を招くような気がしてならない。

「では、儂らは応接で休ませてもらうよ。 長旅でどうも疲れた。 年を取るといかんのう」

「お茶とお菓子を用意しますから、しばしお待ちください」

「おかまいなく」

適当に相づちを打ちながら、Pは応接に案内されていった。

戦車乗りはしばらく周囲を見て廻ると言って、ふらりと消えてしまいそうになる。スペランカーは、慌ててついていく。

無言ですたすたと歩いていた戦車乗りは、神殿などを見て目を細めていた。奴隷労働は行われていない。交代制を取っているし、娯楽も完備するようにしている。街に出ることも自由だ。

表情も、明るい。

スペランカーを見ると、皆が敬意を払ってくれるので、嬉しい。此処は、スペランカーにとって、今や家だ。

「驚いた。 貴殿は本当に奉仕種族に慕われているようだな。 命令を下して、力で屈服させることも可能だろうに。 多くの人間だったら、そうするだろう。 最初は友であろうとするとしても、軋轢を見ている内に嫌になって、やがて暴力と権利を駆使するようになるのは、私が見てきた人間達のさがであったのだが」

「そういうの、いやですから」

「そうか。 どうやら貴殿の恐ろしさは、その不死の力だけでは無いようだな」

何だか、何もかもを見透かされるような目だ。そして、どこかしら、皮肉のようなものが籠もっている。

この人は、異星の邪神でありながら、人間と一緒にいる。きっとそれは、ニャルラトホテプとは、違う意味で、だろう。

「Pさんとは、古い知り合いなんですか?」

「彼奴が現役を退いた頃からだ」

確か、スペランカーが生まれた頃には、もうPは現役を退いていたはず。そうなると、かなり昔から、という事だろう。

同じお爺さんでも、随分雰囲気が違う。

Pはどちらかというと、かなりひょうひょうとした雰囲気だ。きっと呆けたフリをしたり、茶目っ気もあるだろう。

此方のお爺さんは、年齢と共に風格を積み重ねた印象だ。巨大な花崗岩のようで、触るのがとても難しい。

だが、そのくらいで尻込みはしていられない。

スペランカーは、異星の邪神とコミュニケーションを取りたいと、昔から願っている。人間とコミュニケーションを取ってきた相手と接することが出来なくて、それをどう達成できるというのか。

「宇宙の中心の邪悪……アザトース」

「!」

戦車乗りが足を止める。

そして、此方をゆっくりと見た。その眼光はまるでレーザーのようで、遠慮も呵責もなかった。

「知っているんですね」

「どこでその名を知った」

「それは」

「四元素神と戦って来た貴様でも、その名は安易に口にするな。 ましてや今は、門の神が既に目覚めている。 ここにでも来られると、面倒な事になる」

別人のように怖い顔で、お爺さんは言う。それは言葉では無くて、動物の警戒音のように、厳しく容赦も無かった。

スペランカーは、尻込みしない。

むしろ、ようやくこの人の、本当の姿が見られた気がして、嬉しかった。

「少しだけ、映像で見ました。 私と同い年くらいに見える、女の子……」

「其処まで知っているのか。 くだしたニャルラトホテプから、情報を得たのか?」

「はい。 一体何が、宇宙の中心で起こったんですか? 今、情報端末の解析を進めていますけれど、知っているならば情報を開示してくれても」

「どうやら懸念は当たったようだな。 この人数に情報を開示するのはよせ。 冗談抜きに、門が来るぞ」

門とは、以前話に聞いた、宇宙でも二番目に強いという邪神のことだろうか。

確か名前は、ヨグ=ソトース。四元素神とも、桁違いの存在だとか。そんな相手が来た場合、どうなるのかは、確かに分からない。

「お前の奸計か、ニャルラトホテプ」

「違う」

声が、スペランカーの内側から聞こえる。

以前下したニャルラトホテプのものだ。まだ半分以上眠っているようで、声には力が無い。

「どのみち宇宙の中心の邪悪と戦うには、この者だけでは不足。 この星にいる能力者は確かに強者揃いだが、それでも一丸とならなければ無理だろう」

「試したというか」

「そうだ。 此処で対応を誤り、滅びに向かうなら、それまでの運命だったということに過ぎぬ」

空気が張り詰めるのが分かった。

戦車乗りが、どこから取り出したのか、いつの間にか槍を手にしていた。三つ叉の槍で、しかも手には、今までよりも一回りは大きいガントレットを填めている。

「嘘ではあるまいな」

「この者の前で嘘はつけぬ。 お前も理解しているのではあるまいか」

「……」

槍を収める戦車乗り。

今の会話は、よく分からなかった。ニャルラトホテプは四元素神の一柱で、分神体とはいえ並の異星の邪神とは比較にならない力を持っている筈だ。そのニャルラトホテプが嘘をつけないというのは、どういうことなのだろう。

だが、喧嘩をしないですんだのは、良かった。きびすを返すと、戦車乗りはPの所に戻っていく。今の件について聞いておきたかったが、それは後回しだ。

何だか嫌な予感がする。大きな事が、此処で起ころうとしている。情報を開示するだけで危険というのは、どういうことなのか。

一度、川背の所に行く。

応接は、長老達に任せておいて大丈夫だろう。

早めに対応しないと、危険な気がする。

研究チームは、神殿の最深部で作業をしている。スペランカーが顔を見せると、頭にアトラク=ナクアをのせた半魚人の護衛が、気付いて此方に来た。

「どういたしましたか、スペランカー様」

「川背ちゃんは?」

「彼方に」

非常に難しい顔をして、後輩は腕組みして、何人かの話を聞いているようだった。

小走りで駆け寄ると、すぐに此方に気付く。戦士の表情をしていた川背が、わずかに態勢を緩める。

「先輩、何かありましたか」

「うん。 ちょっとまずい事になっているみたいなの。 今、解析はどれくらい進展してる?」

「八十%という所でしょうか。 何なら、一時解析を中断しますか?」

「その必要は無いけれど、情報の公開については、一端待った方が良いのかも」

頷くと、川背は手を打ってくれると言った。

頼りになる。スペランカーも、アーサーに連絡を入れて、此方に出来るだけ急いできて欲しいと告げた。

 

戦車乗りを見つけたので、スペランカーは小走りで歩み寄る。

応接室を抜け出して、神殿の周囲を見て廻っていたらしい。目元の深い皺と、髭に隠れた口元が、感情を容易に見せてはくれない。

戦車乗りが見つめている先には、木がある。

ただし実は無く、鳥もいない。アトランティスは極めて特殊な生態系が成立していた閉鎖空間だった。今でも、よそからの生物を入れることに関しては、専門家を雇って慎重に検討している最中である。

この植物も、何年くらい此処に植わっているのか知らない。知識が足りないスペランカーには、どのような品種かも分からない。

「戦車乗りさん」

「貴殿か」

振り返らず、戦車乗りはこたえる。

人間のお爺さんの姿をしていても、この人は異星の邪神だ。後ろに誰がいるかくらいは、把握しているだろう。

「解析が終わったら、全てを話してくれますか」

「そのようなことをして、なんとする」

「宇宙の中心にいる邪悪という存在が、どのような者か分かれば。 コミュニケーションが図れるかも知れませんから」

「……愚かな」

振り返った戦車乗りの目には、冷厳な光が宿っていた。

出来もしないことをしようとしている子供を見る目だ。スペランカーは見かけよりは年を取っているが、このお爺さんに比べれば、童も同然だろう。だが、その目はちょっと酷いと思った。

「今、この星に出来る事は、奴を近づけないこと。 或いは、Mであれば奴を倒せるかも知れないが、それは無意味なことだ」

「知っています」

「何……」

「未来から来た人達が、惨状を告げてくれたからです」

未来から来た戦士シーザーと、彼が乗ってきた戦闘機。それにシーザーが一緒に逃げてきた人達は、今でも治療を受けている。シーザーは至って元気で、街に出ては女の子を口説いて廻っているようだが(人間限定で)、しかしこの後来る未来について聞くと、必ず表情を曇らせる。

聴取については、だいたい終わっている。

おそらくこのまま行くと、Mがアザトースを倒してしまう。そしてそれは、悲劇にしかつながらない。

戦車乗りは、じっとスペランカーを見た。

嘘かどうかを見抜こうとしているのだろう。スペランカーはにらみ返すのでは無く、優しく視線を受け止めようと試みて、そうする。

「そうか、それでこのようなことを」

「Mさんも、未来に何が起きるかは、断片的に知っているようです。 アザトースさんと会話をする方法は無いんですか? コミュニケーションを図る方法は」

「存在しない」

「どうして」

異星の邪神は、確かに人間と価値基準が異なる。

理由は簡単で、捕食者だからだ。人間の狂気が、彼らにとってのごちそうである事は、スペランカーも知っている。

くうものとくわれるもの。

題材にした古典文学はたくさんあると、スペランカーも聞いたことがある。だが、それら文学で書かれる友情なんて、きっと簡単には存在し得ない。アトラク=ナクアだって、力が人間より弱まり、なおかつ利害が一致しているから、ここでおとなしくしてくれているのだ。そうでなければ、手など貸してはくれない可能性が高い。

或いは、長い年月を掛ければ、理想的な共生関係を作れるかも知れないが。

今はその時間も無い。

つまり、利害の一致などで、少しずつ話を進めて行くしか無いのだ。

「何故、あれを中心の白痴というと思う」

「本当に知性が無いんですか」

「その通りだ。 あれは眠っているのでは無く、そもそも「人間と同じ意味で」目を覚ますことが無い。 意識はあるが混沌としていて、一定に定まることが無い。 あれが目を覚ます、覚醒するという事は、もっと違う事態を意味している」

一体何が、あのおかっぱの女の子に起きたのか。

それとも、周囲がそうさせたのか。

立ち尽くすスペランカーから視線をそらすと、戦車乗りは言う。

「もう一度言う。 とにかく、今は門を遠ざけることだ。 そのためには、多少の犠牲が出ることを覚悟の上で、ニャルラトホテプを全て封印するのが最適の路だ。 殺さない程度に戦う事は大きな犠牲を伴うだろうが、それで数百年は時間が稼げる」

それは、先送りにしかならない。

そう言おうとしたが、戦車乗りはこれ以上、話をする気が無い様子だった。

一度、側を離れる。

これ以上話しても、きっと平行線のまま。下手をすると、関係をこじらせることになりかねなかった。

 

2、幸せの願いの末路

 

ぼんやりと、スペランカーは自室で膝を抱えて過ごした。

別に悲しかった訳では無い。戦車乗りの拒絶には、何か大きな意味があるのでは無いかと感じたからである。

感情的な問題、ではないだろう。

そうなると、やはりコミュニケーションの困難さが原因か。しかし、一体どうして知性を失うなどと言うことになったのだろう。

異星の邪神は、いずれもが狂気じみた精神の持ち主で、暴虐的な力を持ち、宇宙で好き勝手をしてきた種族の筈だ。

それなのに、彼らのトップは知性を持たないときた。

一体何故、そのようなことが起きているのだろう。

携帯電話が鳴った。川背からの着信だ。

電話に出ると、アーサーが来たと言うことだった。出迎えに行きたかったのだが、もう来てしまった事は仕方が無い。

解析はと聞くと、97パーセントとこたえられる。

正確なアザトースの位置や、門の位置、どうやったら呼び出せるかなどの情報は、既に解析済みだとか。

それを逆用すれば、相手の所には行ける。

「まだ、情報は公開しないで」

「分かっています。 完全なスタンドアロンのシステムで解析していますから、ハッキングされる怖れもありません。 ただ問題は、Mが強引な手に出た場合、対応策が無い事ですが」

難しい用語はよく分からなかったが、最後の内容。それが最大の問題だ。

Mが先ほどの話。数百年先送りするためだけに、多大な被害を払うという提案を、是とするわけが無い。

「その場合は、みんなで抑えないと」

「僕が見たところ、Mの戦闘力は、先輩と僕、アーサーさんが総力で挑んでも及ばないと思います。 おそらくは先輩のカウンターに関しても、対応策を持っているでしょうね」

冷静な川背の分析に、背筋が凍る。

スペランカーの身を覆う海神の呪いには、死んだ場合に周囲から物質補填しての蘇生という機能がある。もしも明確な悪意によって死んだ場合、攻撃者から物質補填を行って蘇生するため、それがカウンターとして機能する。

このため、スペランカーは暴力に対しては、ほぼ無敵を誇る。

その代わり自身から攻撃する手段が乏しく、特に檻に閉じ込められたりすると、もはやなすすべが無い。早く動く事も出来ないし、力そのものも弱い。

スペランカーは、人間を相手にした場合、能力を解析されるとそれこそ子供にさえ制圧されかねない。非常に強力な能力である海神の呪いだが、弱点も大きいのだ。

Mが相手になると、極めて分が悪い。川背とアーサーの支援を元に戦うしか無いのだが。極めて緻密な頭脳を持つ川背にそう断言されると、なすすべがない事を思い知らされてしまう。

「その場合は、情報を破壊しますか」

「え……」

「少なくとも、それでMに好き勝手をさせずに済みます。 此処にいる人達は、絶対に今まで得た情報を漏らしたりはしないですし、僕だって同じです。 拷問に掛けられる前に、命を絶つくらいは出来ますから」

川背は、其処までしてくれるのか。

スペランカーは申し訳なく思う。何も言えず、青ざめていると、後ろから咳払いの声。

野太いその声の持ち主は。誰かは、すぐに分かった。

振り返ると、騎士アーサーがいた。既に全身鎧を身に纏っているが、これは彼にとっての普段着だ。

現在の騎士であり、現役のE国の貴族でもある戦士。アーサーの到着である。

「うぉほん。 我が輩も話に混ぜて貰えぬかな」

「アーサーさん」

「だいたい概要は知っているが、少しはM氏を信用しても良いのではあるまいか。 既にこのまま戦い続ければ、何が起きるかは、かの御仁も知っているのであろう?」

そう言うと、悲壮になりすぎだと言わんばかりに、アーサーは豪快に笑った。この場では、その豪放さと陽気さが、有り難かった。

 

解析が完了したのは、その晩のこと。

99パーセントを越えた辺りからは、スペランカーも泊まり込みで解析の様子を見ていた。念のためアーサーには入り口についてもらっていた。

実際問題、解析を行っている部屋を覗こうとする者が、時々出ていたのである。先に来ていた要人のエージェントであったり、Mとコネクションを作りたいと思う者であったりしたのだろう。

みな半魚人達が捕まえてくれた。場合によってはアーサーが捕らえて、半魚人達に引き渡してくれた。

スペランカーも、あまり無茶はしないように、彼らには告げてある。今回の一件が片付くまでは、牢屋に入れるくらいで良いだろう。

解析完了の声が上がったときには、ほっとしたくらいである。

この件は、文字通り世界が滅ぶかどうかの瀬戸際なのだ。いまだ健在なニャルラトホテプ本体と通じている可能性が高い人間が多くいる国連には任せられないし、N社やC社もしかり。

実際問題、よく考えていることが分からないPや戦車乗りが、N社とコネクションを持っているという話も、スペランカーは聞いている。

誰かを疑うのは、嫌な気分だ。

だがそれでも、今は川背やアーサーの話を聞きながら、取捨選択をしていくしかない。スペランカーは、此処では決断しなければならない立場なのだ。

長老が来た。

「どうやら、解析が済んだことをM様がかぎつけられた様子です。 暴れられたら抑えられません」

「僕が行きましょうか」

「ううん、私が行くよ。 川背ちゃんは、解析した情報の整理をよろしく。 公開できる部分と、そうで無い部分を分けて」

「分かりました」

Mはどうやってかぎつけたのだろう。

しかし、疑惑は、即座に氷解した。応接室に行くと、PとMが親しげに談笑していたのである。

側には、戦車乗りが、まるで護衛のように立っていた。

異星の邪神嫌いのMが戦車乗りの気配に気付かない筈も無い。利害が一致している、ということか。

勿論、「現時点では」、だろうが。

なるほど、戦車乗りから情報が漏れたのだろう。異星の邪神である戦車乗りは、不可思議な力を持っていても不思議では無い。

「お、これはこれは」

肉食恐竜の笑みを、Mが浮かべる。

思春期の女の子だったら、その場で回れ右して、部屋に逃げ帰って警察を呼ぶレベルの怖さだ。

歴戦の筈の半魚人の護衛達が、露骨に怯むのが分かる。とにかく、戦闘力の桁が、四つくらい違う。

「情報が解析できたとか。 すぐに公開していただけますかな」

「少し待ってください。 今ここに来ている人達も騒ぎ出して、収拾がつかなくなります」

「そんなものは、私が黙らせますが」

本気でやりかねない。

Pも大乗気の様子だ。

これは、冗談抜きに、血の雨が降る。

ひょっとして、此処ならば。邪魔な存在を根こそぎ処理できると、Mは判断しているのだろうか。

可能性はあり得る。

Mは純粋な戦士と言うにはきな臭い噂が多くあり、それをスペランカーも知っていた。だが、まさか此処で本領発揮をされるとは、思っていなかった。

部屋を出ようとするMは、完全に戦闘モードと化している。筋肉は盛り上がり、目からはらんらんと殺気を放っていた。本気で、外にいる「邪魔者」達を、皆殺しにするつもりだ。

出せば、外は地獄になる。

慌てて、ドアの前で手を広げて塞ぐ。一緒に来た半魚人達が、反射的に魔術で稲妻を放てる槍を構えていた。

「どいて貰えますか?」

「いやです!」

「そうですかあ。 じゃあ、力尽くで行きましょうかねえ……!」

Mが拳を鳴らす。

ひいっと、悲鳴を上げた半魚人達。スペランカーの海神の呪いがMに通じないとなると、彼らを守るすべが無い。元々スペランカーの身体能力は子供並みかそれ以下だ。Mに殴られようものなら、紙くずのように引きちぎられてしまう。蘇生はするが、その間に守るべき者達は、皆殺しになるだろう。

しかも、スペランカーが唯一持っている攻撃手段は、半径十メートル以内に敵がいないと当たらない上に、相手に隙が無ければ使えない。Mなら、スペランカーが引き金を引いた瞬間に、余裕を持って避ける事が可能だ。

結論は一つ。

戦わずに、Mを止めるしか無い。

それについては、準備をしてきてある。だが、一手でも間違えば、全てが終わる。

「情報は公開します。 だから少し待っていただけませんか」

「全面公開以外は認めませんよ」

「……っ」

「私もね、ずっと我慢していたんですよ。 勿論、アザトースをぶっ潰した場合、何が起きるかは把握しています。 ですが、それをしっかり自分の目で見て、奴をぶっ殺せる方法が無いか確認しておきたいんでねえ」

不意に、咳払いが響いた。

後ろに、アーサーがいる。打ち合わせ通りの展開だ。

Mが舌打ちするのが分かった。まだ、アーサーが来ている事は、知らなかったのだろう。アーサーはさっき、この展開を正確に予想していた。その場合は、Mにある程度喋らせて欲しいと、スペランカーに頼んだのだ。

そして、その結果である。

アーサーは、川背とは違う方向で切れ者だ。大人の駆け引きも知っている。あくまで柔らかくMの視線を受け止めながら、アーサーはスペランカーを守るように、ゆるりと前に出る。

「なるほど、そう言うことであったか」

「……ふむ、一杯食わされたようだな。 貴様がここに来ていたとは」

Mが気色悪い敬語をやめた。

伝説の騎士と、最強の戦士が火花を散らしはじめる。

「政府の専用機を乗り継いで、な。 C社としても、出遅れを気にしていたようで、コネを総動員して我が輩を此処まで送り届けてくれたよ。 各国政府に働きかけてまで、な」

「ふん……そうか」

露骨にMが舌打ちするのが分かった。

Mも、アーサーには一目置いている。Mの価値観であると、歴戦の武人は、自分よりも武力が劣った相手でも、敬意を払わなければならないらしい。これはアーサーに聞いたことだ。

スペランカーの事をMは毛嫌いしているが、その一方で歴戦の武人とも認めている。故に不快感がより増しているのだろうとも、聞かされた。

「貴殿がスペランカー殿に暴力を振るうつもりなら、見過ごせんな。 我が輩も全力で相手をさせてもらおう。 勝てぬとしてもだ。 勿論、その場合、貴殿がやろうとした事は、全国に流させてもらう」

「分かった分かった。 貴様が相手となれば、勝てるとしてもそれくらいの時間は作られてしまうだろう」

だが、とMが言葉を切る。

そして、大迫力の肺活量を披露しながら、ソファにどっかと腰掛け直した。

「情報は全て公開してもらうぞ。 待つことは待ってやるが、私がしたいと思うことに変わりは無い。 無差別に情報公開する事の危険性くらいは、私も知っているがなあ。 だからといって私自身が知らなくても良いとは想わん」

「スペランカー殿、戻ろう」

アーサーに促されるようにして、応接を出た。

半魚人の護衛戦士達は、皆固まっていた。アーサーが咳払いすると、ようやく身動きできるようになる。

無理もない。

あんな高密度の殺気がぶつかり合う場にいたのだ。スペランカーだって、心臓が止まるかと思った。

アーサーが言ったとおりだった。利害を指摘してやれば、Mは引き下がった。ただし、それにはアーサーの存在という手札が必要だったが。

「助かりました、アーサーさん」

「なあに、我が輩としても、Mの強引なやり口は正直気に入らぬ。 それに、時間が稼げただけだ。 奴が本気になった場合、我が輩と川背殿が一緒に戦っても勝てぬだろうから、それは覚悟をしておいてほしい」

川背もそう言っていたと告げると、アーサーは眉を下げて、そうかと呟いた。

時間は出来たが、それだけだ。

まだ、状況は予断を許さない。

すぐに解析チームの所に戻る。此処からは籠城戦だ。途中、何度か長老が来た。念のために、コットンには重点的に護衛を付けている。こういう事態だから、搦め手を使おうと考えるものは絶対にいる。だから、アトランティスの警備をまとめてくれているマッピーが、コットンに張り付いてくれていた。更に、定時ごとに、長老にはコットンの様子を、話してもらった。

「今日もコットン様は食欲旺盛でしてな。 大盛りのかれいらいすを綺麗に平らげられました。 早く大人になって、スペランカー様のお手伝いがしたいのでしょう」

「そうですか、良かった」

自分の孫の事のように目尻を下げて言う長老を見ていると、スペランカーまで心が和まされる。

川背はそれを横目にてきぱきと作業を続けていた。

ほぼ丸二日、そういう状態が続いた。

 

アトラク=ナクアが、データを見て間違いないと呟く。

門を一時的に呼び出す方法が書かれている。

宇宙の中心の白痴へと、直接つながる門だ。スペランカーが目をつけたデータは、向こうにつなげることが出来るのは、精神だけ、というものだった。

他にも、門を呼び出す方法については、記述がある。中には、Mが喜ぶであろうもの。宇宙の中心の白痴へ肉体を運ぶ方法、逆に奴を此方へ呼ぶ方法、もあるようだった。

「一方的にエネルギーを叩き込む方法は、私も知っていたんだがねえ。 ただ、門が二度目は遮断してしまうから、一度の可能性に賭けるしか無かった」

以前、その可能性に賭けて、地球を滅ぼそうとした邪神は、そう教えてくれる。

あのMでも、一撃でアザトースを葬り去るのは不可能だろう。

それにしても、このデータベースは一体何だろう。門の操作方法については、何となく分かる。

「門の操作方法が豊富なのは、この恒星間航行船が遭難した際に、本星に戻るための備えだったのでしょうね。 此処を支配していたクトゥルフやザヴィーラがアクセスして、門を操作するわけですか」

「おそらくはそうなろう」

川背とアーサーが、漠然としか分からなかったことを、的確にまとめてくれる。

流石だ。二人とも頼りになる。

更に解析が進む中、スペランカーは挙手した。

「精神を飛ばした場合、戻ってこられるの?」

「死ぬよ」

即答された。何をスペランカーが考えているのか、アトラク=ナクアは察したのだろう。

そうだ。スペランカーは、直接アザトースと接触してみたい。宇宙の中心の白痴と呼ばれるとおり、本当に精神が虚無なのか、確認しておきたいのだ。それがどれだけ危険を伴う事だとしても。

「戻ってくることは出来るだろうね。 ただし、あんたの精神は、その時には完全にぶっ壊れているだろうよ」

「そんなに危険なんですか」

「あんたがハスターとの精神戦に勝ったことは聞いてるよ。 名だたる多くの邪神に、精神戦で競り勝ってきたこともね。 私だって、あんたに敗れたクチだ。 その強靱さは認めるよ。 だがね、アザトースとハスターじゃ、存在の格も桁も違う。 狂気のレベルもね」

タチが悪いことに、気まぐれのまま、アザトースは動くという。

アトラク=ナクアも気まぐれで造り出され、この星へと放り出された。

極論だが、アザトースは自分が滅びることさえ、何とも想っていないという。奴の夢が、この宇宙に特異な能力をもたらしているが、それさえ力のほんの一端。

奴が生まれた宇宙に出向いたりすれば、一体どのようなことになるのか。見当もつかないと、アトラク=ナクアは言った。

「存在の次元が違うんだよ。 あんたが如何に強靱な精神の持ち主だったとしても、勝てる理由も、見て生きて帰れる可能性も無い」

「それでもやってみたい」

「あんたは……!」

あきれ果てたように、蜘蛛の邪神は呻いた。

川背は、反対していない様子だ。

アーサーは腕組みしたまま、やりとりを見守っていた。

「そろそろ、Mがしびれをきらす頃だろう。 我が輩が抑えるのにも限界がある。 やるなら、いそいだほうがよかろう」

「有り難うございます、アーサーさん」

「先輩、くれぐれも気をつけて」

半魚人達に、川背が指示。

アトラク=ナクアが、前の足二本を挙げて、もう言葉も無いという意思を動作で示して見せた。

「あんたたち、親友が死ぬのを見過ごすのかい?」

「貴殿も丸くなったな、蜘蛛の邪神」

「なに……」

「親友などと言う概念を口にする上に、スペランカー殿を心配するとは。 それだけスペランカー殿の影響力は大きいのだな」

恥ずかしくなるようなことを、アーサーが堂々と言ったので、スペランカーは顔から火が出そうだった。

川背が、てきぱきと準備を整えてくれた。

隣の部屋に、魔法陣が書かれる。事前に用意されていた輸血パックから、人血を流して。抽出されたデータの通りに円を描き、複雑な模様を書き込んでいく。生け贄には、家畜の鶏を用いる。

此処でいろいろな魔法の道具を必要とするのだが、それは得られた情報の中に、代替手段が書かれていた。

スペランカーは覚悟を決めると、頬を叩いた。

そして、魔法陣の真ん中に、言われるままに座り込んだ。

聞いたこともない言葉で、詠唱が開始される。

気付く。

とんでも無く、強い気配だ。これが、門の神だろうか。

しかも、物理的に接触してくるのでは無い。世界から、にじみ出してくるような雰囲気だ。

宇宙で二番目に強い邪神というだけの事はある。

戦おうにも、そもそも捕らえることさえ出来ない相手なのだろう。

「ヨグ=ソトース顕現!」

「先輩、転送できる時間はあまり長くありません。 出来るだけ、急いでください」

「うん。 川背ちゃんも、気をつけて!」

来た、と思った時には。

既に、スペランカーは、真っ白な世界にいた。

 

3、罪業の白

 

上下が無い。

左右も無い。

ただ引き延ばされた、白い白い世界。

白い中に、つぶつぶが浮かんでいる。

それが惑星なのだと気付いて、スペランカーは愕然とした。周囲に満ちている力の、なんと強い事よ。

わずかな空間だけでも、邪神が数体は収まりそうな力。

それが、野放図なまでに広がっている。一体どれくらいの広さ、この白いものが広がっているのだろう。

何となく分かる。

これが、宇宙の中心に座する白痴、アザトース。

敵意は無い。

というよりも、敵意を抱く相手さえ存在しないというのが正しいのだろう。唯一にして最強絶対の存在。

そして、宇宙に群れなす異星の邪神達の産みの親。

以前、アトラク=ナクアの所で見た禍々しい姿は、おそらくは外から見たときの図なのだろう。

内部から見ると、存在は希薄だ。いや、むしろとんでも無く濃い、精神的な存在とでも言うべきなのか。

ふと、側を光のようなものが通り過ぎた。

酷い痛みを感じた。

これは、どういうことか。今のは、純粋な痛みだ。

辺りを光が飛び交っているのが分かる。アザトースの全身を、まるで神経細胞のようにつないでいる光の網。

まさか、この全てが、痛みだというのか。

「幸せ……」

声が聞こえる。

言葉では無い。精神の概念が、直接流れ込んできた。

「私がいたい思いをすれば、みんな幸せになれる……」

これは、きっとあの。

おかっぱの女の子の声だ。

声の出所を探すが、すぐに無意味だと悟った。その声は、ありとあらゆる場所から聞こえてきている。

意識が、文字通り拡散してしまっているのだ。

目を閉じて、集中。

きっと何が起きたのかは、漠然とみているだけでは分からない。中をしっかり覗いて、記憶の断片を見ていくしか無いだろう。

肌が少し違うだけで、人間にとてもよく似た存在だったのだ。出来ないはずが、ない。

目を閉じて、周囲を探る。

愕然とした。

此処は、そもそもスペランカーのいる宇宙では無い様子だ。そういえば、元は違う宇宙の住人だったと、アトラク=ナクアは言っていたか。それにしても、とんでも無い存在である。

宇宙が重なり合う場所に、それを完全に制圧するようにして、座しているのだから。

希薄に拡散した、白い世界を泳ぐ。

何となく、見えてきた光景がある。大きな円形の空間。そこで十字架のような装置に掛けられている姿が見えた。それが硝子のような透明なものに映った、おかっぱの女の子自身だと分かる。

声が、聞こえてきた。何故か意味は理解できる。

或いは、この空間にいるから、かも知れない。

「もう少し、出力を上げてみよう」

「アザトースさん、我慢できるかい?」

「はい、大丈夫です」

声には、苦々しい痛みがある。

このような非道をしなければならないことが、苦しくてならないという雰囲気だ。だが、声に、畏れや躊躇は無い。

痛み。

記憶が、はじける。

どういうことだ、今のは。出力を上げると言っていた方は、苦しそうにしていたが。むしろ、痛みを受ける側。

あのおかっぱの女の子の方は、むしろそれを悄然と受け入れていたように聞こえた。

もっと、知らなければならない。

そうスペランカーは思う。制限時間は、それほど長くは無いと聞いている。Mがしびれをきらすまで、さほど時間は無いだろう。

そして此処が重要なのだが。

アザトースは、スペランカーを異物とさえ認識していない。あまりにも巨体で、あまりにも強大だからだろう。

だからこそ、心を見ることが出来るかも知れない。

少しずつ、わかりはじめてきた。この空間が、どういったもので構成されているか。大量の痛み。膨大すぎるほどの。

そして、何よりも。

圧倒的なまでの、悪意だ。

その濃度は尋常では無い。蓄積された悪意は、一様に、濃厚な感情を有しているのが分かった。

あまりにも感情が濃すぎて、分からない。大量に砂糖やお塩を入れすぎると、味の感覚がおかしくなるのと同じだ。一体この悪意は、何の感情によって構成されているのだろう。それが、分からない。

見えてくる。

何処かのお店だろうか。棚のような構造物に、色とりどりのものが陳列されている。硝子か何かの容器。商品だろう事は間違いない。手を伸ばして、買おうとすると、落としてしまう。

手の力の入れ方がおかしいとか、つかみ方が弱かったとか。理由は、よく分からない。いずれにしても、取り返しがつかない。

がちゃんと、鋭い音と共に、容器が割れた。

「あ……」

「困るよ、君。 あれ? ああ、君か。 怪我もしている。 おおっ! ならば仕方が無いね! 嬉しいよ!」

「弁償します」

「いいんだよ。 君にとっての不幸が、我々の幸せなんだから」

小走りで来たお店の人が、どうしてだろう。

此方を見ると、許してくれた。そして満面の笑顔で、お店から送り出してくれる。

見ると、手を怪我していた。落として割ってしまった容器で、傷つけたからだ。

直後、どっとお客さんが、お店に入っていく。駐車場らしき場所が瞬く間に埋まる。偶然の、産物なのだろうか。

いや、違う。

お店の人は、こうなることを知っていた。だから、粗相をした相手を、許した。あれだけのお客が偶然来るとは思えない。あの子が、怪我をしたから、なのか。

違う記憶が見えてくる。

石に躓いて転んだのか、鋭い痛みが体に走る。

こっちを歩きながら見ていた子供が、それを見て立ち止まり。その眼前に、街灯か何か、大きな構造物が落下してきた。

もしも転ばなければ。子供は歩みを止めず、潰れていた。

子供は、死を免れた。

わんわんと泣き出す子供。その親は、此方を見ると、パッと顔を輝かせた。

有り難うございます。助かりました。

待て。この女の子は何もしてない。どうして、助かったと、あの親は言ったのか。鈍い痛みが体に残る。

スペランカーの、体にも。

この惑星規模どころか、恒星系規模、いやそれ以上のの空間に、痛みだけが満ちているのか。こんな密度で。

これは、異星の邪神達とは、規模が違う存在なのだと、よく分かる。小さな恒星という風情だったクトゥグアでさえ、この邪神に比べれば、芥子粒も同然。

文字通り桁違いだ。

吐き気がしてきた。まさか、記憶の全てが、痛みを伴っているのか。その痛みそのものが、この空間全てを構成している。

漠然とした痛みの記憶だけが満ちている中、時々形がある。

貧しそうな家庭の様子。

女の子には幼い弟や妹がいるようだった。

「私の分、食べて」

「いいの、お姉ちゃん」

「うん。 私がおなかすいて苦しい思いをすれば、二人ともきっと幸運が訪れるから」

まて。

それは。

弟と妹は、がつがつと食べ始める。

そして、ひもじいおなかを抱えて、女の子は一人、自室で眠る。苦しくて、眠れない。だが、思考は一点に向いていた。

我慢しよう。そうすれば、二人とも、きっと幸せになれるのだから。

翌朝。

親が戻ってきた。目を輝かせている。宝くじが当たったのだと言っていた。幼い弟と妹を抱きしめる様子を、少し離れたところから見つめる女の子。此処で幸せになると、きっと幸運が逃げていってしまうから。

それに、あの幼い弟と妹とは、血もつながっていないのだ。

割り込まない方が良いだろうと思う。そして、宝くじが当たったからと、買ってきたごちそうの少しだけをもらって、一人で食べた。

涙が流れる様子も無い。

孤独にも、痛みにも、慣れきっている。

ぶつりと、何かが突き刺される痛み。

心の痛みでは無い。物理的なものだ。

思わず肩を押さえてしまう。また、別の光景に入っていた。清潔な衣服を着た男性が、声を歪ませながら言う。

「おかしいなあ。 これだけの痛みを与えても、まだ駄目なのかい」

「ごめんなさい」

「あらゆる暴力は試したんだけどなあ」

鏡に映った姿を見て、戦慄する。

もう、体が、原形をとどめていない。服もはぎ取られ、考えたくも無いような暴力の痕跡が、全身に残されていた。

他にも清潔な白衣を着た人達が、大勢見下ろしている。

「食事を断ってみようか。 栄養は体内に投下して、それでいて満腹中枢は満たされないようにするの」

「ああ、それはいいかも」

さっきと違う。

もう、苦渋の声は無い。どうすれば如何に効率よく痛みを与えられるか、皆が真剣に考えている。

やめて。

スペランカーは、思わず叫んでいた。

だが、女の子は、たとえ何をされようとも。逃げようとさえせず、抵抗もしなかった。悄然と、何もかもを、受け入れている。

これは、一体何だ。

何の悲劇だ。

死なないように工夫しながら、ありとあらゆる拷問が加えられる。それに罪悪感を感じている者は、誰もいない。

いや、違う。

「戦争が、とまらないんだ。 君が頑張ってくれなければ、大勢の人が、死んでしまうんだ。 利権が複雑に絡み合っていて、政治的努力ではもはや埒があかない。 このままだと、仁義なき殲滅戦の末に、この星は滅んでしまう。 反物質爆弾さえ投入されるかもしれない状態なんだ。 既に戦死者は二千万を越えている。 君の能力しか、もう頼るすべが無いんだよ」

「君は何をされると苦しい? もっと苦しい方法を、教えてくれ。 全部試してみて、それで良い結果が出るか、試してみよう」

少しずつ、分かってくる。

何が起きていたのか。

もっと幼い女の子の手が見える。がりがりに痩せていた。非常に貧しそうで、親に連れられて歩いているのか、都会的な光景が、左右を流れていく。

「能力研究所の結果が出たよ。 やはりお前は……」

これが、本当のお父さんだろうか。

異星人だから、見かけと性別が一致しているかは分からない。とにかく、お父さんらしき人は、淡々と言った。

「幸運発生能力者だ」

「幸運……? なあに」

「お前が大人になれば分かる。 ただ覚えておきなさい。 お前が頑張れば頑張るほど、周りのみんなは幸せになるんだよ」

大好きなお父さん。

つないでいる手が、暖かい。でも、これは頑張っているという事にはならない。大好きなお父さんには、幸せになって欲しい。

それだけじゃない。

知っている限り、どんな人にも。

手を離す。

お父さんが、大企業の重役になった。とても綺麗な新しいお母さんを得ることが出来た。

捨てられたけれど、それでも良かった。新しい親に引き取られた。

弟と妹が、とてもいい学校に入ることが出来た。とても美味しいものばかり食べる事ができるようになった。

私の入ったお店が、とても繁盛した。

私自身は、その度に痛かった。

痛い事なんて、我慢できる。我慢すればするだけ、みんなが幸せになれるのだ。

みんな、幸せになりたがっている。

私が幸せじゃ無ければ、それだけみんなが幸せになれる。

スペランカーの中に、徐々に濃い思考が流れ込みはじめてきた。これは、完全に、狂気の域にまで達している。

漠然としていた理解が、形になろうとしている。

それは、宇宙で最も残酷な物語の。結末だった。

 

史上最悪の戦争だって終わらせることが出来たんだ。

それならば、恒久的な平和だって。

宇宙規模の幸せだって、実現できるはずだ。

そうだ。

いっそのこと、無限の苦痛を与えるために。

意識を破壊してみよう。

一人の意識を破壊し、虐待することで。全ての幸せが得られるのなら。多くの戦争で、無為に命が失われるのを止められるのなら。

冗談抜きに、吐き気がした。

そんな思考が流れてきたからだ。世の中は多くの犠牲で成り立っている。中には快楽のためだけに、地獄を送らされる生物もいる。

だが、最低限の倫理さえ投げ捨てたその思考法を、スペランカーは容認できない。

何となく、事情が掴めた。

この女の子、アザトースの元となった人間、宇宙人と呼ぶべきか。彼女がいた星では、特殊能力を持って生まれてくる人間がいた。

その中でも、アザトースは、自分の不幸を、周囲の幸福へと変換できる能力を持っていたのだろう。

そして、不幸なことに。

彼女自身は極めて欲が無く、献身的な性格だった。

だから自分を犠牲にした。する事を、一切ためらわなかった。普通、人間には欲がある。利己的な感情がある。

どの星に行ってもそうだろう。よほどの全体主義的な国家でも作っていない限り。特殊な訓練でも受けていない限り。

だがこの子は、どういう理由か分からないが、利己的感情が存在しなかった。

或いは、自分の痛みが、他人の幸福に直結することを、本能的に知っていたのだろうか。だから、自分が痛い思いをして、それを我慢すれば。他の人が笑顔になると、方程式を立てていたのだろう。

ひょっとすると。

他の人達が笑顔を浮かべているのを見るのが、好きだったのか。

膨大な情報が流れ込んでくる。

だんだんクリアになってきた。

痛み。あらゆる方法で、体に加えられる痛み。

茫洋としている情報は、きっと。意識を破壊された後に、加えられた痛み。きっと、どれだけでも体を破壊できるように、体そのものにも、様々な改造を加えられだろう事は、想像に難くない。

触手が無数に生えていて、肉の塊のようなあの姿は。

あらゆる苦痛を効率的に与え、なおかつ徹底的に体を破壊してもしなないように、作り上げられたもの。

そしてそうされた本人は。

何一つ、自分にされたことを、恨んではいなかった。

むしろ喜んでいたのだろう。自分の痛みで、周囲が幸せに、笑顔になれるのならばと。

スペランカーは今、宇宙でもっとも悲惨でおぞましい過去の出来事を、目にしたのかもしれない。

何も残虐非道なのは、地球の人間だけでは無い。

知的生物は、いくらでも利己的な感情で、弱者を踏みにじることが出来る。そして、踏みにじりながら、笑うことが出来る。そうして得た幸せを、享受することが出来る。

アザトースを生み出した文明は、最終的にどうなったのだろう。一人に対する徹底的な虐待の結果、戦争を終わらせ、或いは最高の文明を実現したのかも知れない。

今も最大級の不幸に陥れた存在に感謝しながら、平和で穏やかな日常を送っているのだろうか。

精神体だけで宇宙を漂っているから、涙は流れない。

嘔吐もしない。

はっきり分かっているのは。

この悲劇は、終わらせなければならない、という事だ。誰かが、この宇宙史上最悪の運命にもてあそばれた孤独な魂を、救わなければならない。しかし、その方法が、見当もつかない。

気付く。

無数の光が、一定の方向性を持って、流れはじめている。

何が起きているのだろう。流れている光の一つが、スペランカーを通過した。

衝撃が走った。

 

気がつくと、魔法陣の真ん中で、横になっていた。

よほど顔色が悪かったらしい。川背が本当に心配そうな顔で、覗き込んできていた。口を押さえたのは、まだ吐き気が止まらないからだ。

コップを差し出されたので、水を一息に飲み干す。

「何を、見たんですか?」

「……川背ちゃん、ごめん。 時間が、欲しいな」

背中をさすられる。

戻した方が良いかもしれないと思ったが、こらえる。

此処に戻される寸前に見た光景。あれはもう、もはやどう形容したら良いのか、分からなかった。

悪意の塊が、善意を踏みにじるというのは、どうしてこうも醜い行為なのだろう。

しかも自分が正しいと思いながらそれをやるのだから、あまりにもタチが悪すぎる。しばらく口を押さえて、目を閉じて。じっとしていた。

スペランカーがこれほどに精神的な打撃を受けているのを見たのは、おそらく初めてなのだろう。

アーサーさえ、心配そうな顔をしていた。

「余程の光景を見たようであるな」

「少し回復まで時間が掛かりそうです。 Mが騒ぎ出さなければ良いのですが」

「大丈夫……。 紙と、鉛筆、ある?」

用意よく、半魚人の護衛の一人が差し出してきたので、受け取る。

見たものを整理して、順番に書き記していった。

アザトースは、どうやら現在の地球に似た惑星にいた、自己犠牲心が強く、欲求がとても弱い献身的な人物であった。

彼女の持っていた能力は、自分の不幸と引き替えに、他人を幸福にする力。

その能力はとても強く、際限が無かった。

彼女は自分を犠牲にすることで、周囲の幸せを見たかった。おそらく始まりは、父子家庭だった際に、父の笑顔が見たかった、からだろう。

やがて、大きな戦争が起きた。

どうしようもない悲惨な戦争を解決できなかったその文明は、彼女に頼った。

凄まじい拷問と虐待が加えられたが、アザトースはむしろ自分が犠牲になることで平和が来るのならと、喜んでいた。

戦争は終わった。

だが、欲は際限が無い。

その星の幸福度を上げるためにという大義名分の元に、誰かが思いついたのだ。アザトースに際限の無い虐待と暴力を加え続ければ、理想社会が来るのでは無いかと。とっくの昔に、感性は麻痺しきっていた。

それには人間である事は不都合だった。

どれだけでも暴力を加えられるように、壊しても壊しても再生する肉体が必要だった。

余計な事を考えないように、人間的な思考が出来る精神は不要だった。

その結果、造り出された。

宇宙の中心に座する、白痴の主神が。

それは、アザトースという名にて、慈悲深くも隠されし存在。神ですらない、もっともおぞましき存在の一つ。

おぞましいのは、アザトース自身では無い。

それを作り上げた者達。

「きっと、彼女は、地球で言う聖者に一番近い存在だったと思うの。 だけれど、地球人と同じように駄目だったその星の人間達は、彼女に甘えきってしまったんだね」

もう一杯水を飲み干すと、スペランカーはまた口を押さえた。

最後に見た光景が、忘れられない。

もっと幸せを、周囲に与えたい。

みんなに、もっともっと幸せになって欲しい。

あれだけの事をされて、何もかもを文字通り滅茶苦茶にされてもなお、茫洋とした意識の中で、アザトースはそう願っていたのだ。

故に、宇宙には夢が満ちた。夢はいろいろな生物に、未来を切り開く力を与えた。

同時に、多くの異星の邪神が生み出された。

歪んだ狂気の幸福欲求から生まれた存在が、まともな精神を持っている筈も無い。本人の幸福論を歪めきったのは、その星にいた存在達だ。

今、アザトースの母星がどうなっているかは、よく分からない。

始末に困ってアザトースを放逐したのか、或いは邪神達によって滅ぼされてしまったのか。

それとも、際限ない肥大を開始したアザトースに、飲まれてしまったのだろうか。

ニャルラトホテプに問いかけてみるが、分からないと返された。

「異星の邪神と呼ばれる存在は、人間的だと以前から思っていました」

川背が、メモを見ながら言う。

彼女の表情は冷静だ。これくらいの事態は、想像していたのかもしれない。

「スケールが桁違いに巨大なだけで、あくまで彼らがしているのは、人間の想像の範囲内での凶行だったからです。 流石にこれほどの罪業が籠もった存在だったとは、僕も思ってはいませんでしたが」

「救われん話だ」

アーサーが、珍しく本気で怒っているのが分かった。アーサーは社会的な大人で、世界の闇もたくさん見てきている。そんな彼が怒るほどの罪業が此処にあるのだ。

どうにかしなければならないと、スペランカーは思う。これでは、あまりにも酷すぎる。

アザトースは言うならば、宇宙の中心にいる主神と言うよりも、夢を司る存在なのだろう。

その性質から言っても、夢こそがアザトースの本質だ。

そしてそれを有効に使えればと考えてしまった結果、最悪の方向へ暴走したのが、彼女の母星だった。

今、宇宙全土が、その付けを払わされている。

強い気配が近づいてくるのが分かった。

戦闘態勢に入っているMが、此方に来ている。もう待ったなしというわけだ。青ざめたまま、スペランカーは立ち上がる。

川背に肩を借りて、部屋を出た。

あまり大人数に、この事は知らせたくない。きっとアザトースを利用しようと考えるものが出てくるはずだ。

アザトースは幸福発生装置だ。

今は特殊能力という限定的な形で、「幸福」が発生している。それを利己的に用いようという奴が、真相を知れば必ず出てくる。

かといって、暴力でアザトースを斃す事は、ベストでは無い。絶対にやってはならない事の筈だ。

或いは可能なのかも知れない。未来世界の状態を見る限りは、きっと出来るのだろう。

だが、それはさらなる悲劇を招くだけだ。

それにしても、Pは一体何を考えているのだろう。真相を知ったあとも、Mはアザトースを葬る気満々のようだし、どこで利害が一致したのだろうか。Pの一派は、以前の川背の調査では、確かアザトースをこの星に呼ばせないことを第一に考えていた筈であったのだが。

先ほどの話を聞く限り、戦車乗りも同じ意見の筈だ。どうして、協力しているのか。

くらくらする頭のまま、どうにか部屋を出ると、Mが既に其処に立っていた。

「見せてもらいましょうかねえ、全てを」

「見て、どうするんですか」

「奴を殺す」

「どうなるか、分かっている筈なのに?」

Mはにやりと笑う。スペランカーが消耗しきっているのに気付いたからだろう。

異星の邪神と戦った後は、数日寝込むことがあった。その状態と今は違う。普段はいうならば、海神の呪いによる負荷が極限に達している状況だ。今は精神が、ずたずたに切り裂かれている状態である。

普段よりも、ダメージが大きいかも知れない。邪神に何万回も殺されることは戦いの際にはよくあった。精神にダメージも受けた。だが、そういったときよりも、今は心の負荷が大きい気がする。

ふと、気付く。

もしかすると、Mがいった殺すというのは、文字通りの意味では無いのか。

Mの後ろには、Pと、それに戦車乗りもいる。

そして、部屋に押し入られた。

 

4、黄昏の時

 

Mは頭も良いことを知ってはいたのだが、まさかざっと見るだけで、だいたいのデータを把握してしまうとは。其処までとは、流石にスペランカーも思ってはいなかった。

スペランカーは素早く川背とアーサーに目配せ。もしも、無茶なことをするようならば、勝ち目が無い事を承知で、止めなければならない。

「なるほどな……」

「Mよ、どうじゃ。 やれそうか」

「問題なかろう。 提供を受けたデータに、これで補完が可能だ」

「何をするつもりですか」

謎の会話をするMとPに、スペランカーはたまらず問いかける。

Mは此方を一瞥だけすると、後は用も無いと言わんばかりに、部屋を出て行った。代わりに、Pがこたえてくれる。

「宇宙の中心に座する邪悪には、このまま永遠に目を覚まさずにいて貰う」

「! それは、どういう」

「文字通りの意味だ。 夢だけ見ていてもらうと言うことだ。 それには、奴の人間の部分を、完全に消去する必要がある。 いうならば、完全な意味で、夢を見るだけの装置になったもらうということだな。 それは殺す事と、何ら差異があるまい」

思わず、絶句した。

知っていたのか。

「酷い話だと思うかも知れんが、人間の世界には、これさえ凌ぐ悪徳の歴史が山積しておる。 全ての尊厳を否定されて闇に葬られた存在など、それこそ数限りなく存在しておるわ。 その全てを救えると思うほど、儂は手が大きくはないのでな。 必要に応じて、必要な行動を取るだけよ」

「救える存在を、救おうとも考えないんですか」

「この方が手っ取り早い。 何よりも、犠牲が出ないことが、最大の魅力だ。 Mの実力なら、出来るだろう。 だから手を組んだ」

戦車乗りは、ずっと黙っている。

まさか、同じ考えなのか。

Pは、最古参のフィールド探索者で、今でも歴史の上層にいる重要な存在だ。その影響力はとてつもなく大きく、一声掛ければ複数のフィールド探索社が動く。

どこで、アザトースの真相を知ったのかは分からない。

「戦車乗りさんは……」

「はっきり言うが、我らお前達が言う異星の神は、宇宙の中心に座するアザトースに敬意など払ってはいない。 ずっと眠っていてくれるのであれば、それこそが最上だと言い切れる」

即答である。

生み出された経緯を考えれば無理も無い事だが、それにしても。これは、残酷すぎるのではないのか。

アーサーが咳払いする。

「P殿。 少し話をする余地があるのではと、我が輩は思うのだが。 如何かな」

「既に我ら有識の者達が、何十度と会議を行い、出した結論だ。 此処まで詳細なデータが表に出たのははじめてだがな」

「さては貴殿ら」

「そうだ。 今までMが捕らえ、捕獲したニャルラトホテプの分身を解析し、情報を得た」

危うく騙されるところであったがと、Pは笑った。

シーザーが来た未来世界では、おそらくMもPも、結局はニャルラトホテプに騙されて、アザトースを倒してしまった。

皮肉な話だ。

ニャルラトホテプに騙されなかった歴史でも、結局アザトースを「殺す」選択肢に、変わりは無いというのか。

川背を見ると、まんざらでも無い雰囲気である。

「感情論で語ることでは無いと、僕は思いますよ」

「川背ちゃん!」

「少し落ち着いてください、先輩。 具体的な策がないならば、P氏の言うことが正しいと、僕は言っているんです」

「それは我が輩も同意見だ」

血が凍るかと思った。

二人とも、正論を言っているのは分かる。だがどうしても、体の方が受け付けてくれないのである。

あの現実を、見てしまったからだろうか。

「Pどの、このデータを元に、何か策を練り出すことが出来ないか、川背殿と我が輩が考えてみるとする。 少しばかり、待っては貰えぬか」

「あまり長くは待てぬが」

「良い、それも一興では無いか」

此処で、はじめて戦車乗りが会話に介入してくる。

驚いたようにゆっくり振り返ったPに、戦車乗りはなおも付け足した。

「それでより現実的な案が出てくる可能性もある。 何も最初から悲観論だけで話を進めることもあるまい」

 

感情論は有害だと、誰よりもスペランカーは知っていたはずだった。それなのに。あれだけ強烈な負の現実を見せられて、まだ頭の方が、理解に追いついていないようだった。冷静なのはアーサーと川背の方だと、分かってはいる。

しかし、どうしても、耐えられない。

自室に一度戻ると告げて、スペランカーはその場を後にする。

そして心配そうに此方を見ているコットンに殆ど構いもせず、寝室に閉じこもると、ベットに転がった。

分かっている。

正しいのは、周囲の方だ。

歴史的に見て、人間は愚行を際限なく積み重ねてきた。国家も文化圏も関係無い。どこでも同じだ。そしてどれだけの愚行を積み重ねても、反省などする事は無く、そればかりか正当化さえしてきた。スペランカーでさえ知っている事だ。

人類史の常識と言っても良い。

知的生物というお題目は、どこに放り捨てたのか。

天井を、ぼんやりと見つめる。

今は、頭が働かない。大人がこれではいけないと分かっているのに。どうしても、心の整理が出来ない。

ため息がこぼれる。

何か、策はあるのだろうか。

薄ぼんやりと覚えている。アーサーと川背は、何か考えてくれるはずだ。自分もそれに加わらなければならない。

だが、体が動かない。

情けないと思う。自分の欲望を優先して、スペランカーをネグレクトしたあの女と同じでは無いか。

ましてや、あの女より、今のスペランカーはずっと責任のある立場にいる。

最悪の場合は、切り捨てることだって、考えなければならないのに。

頭が動かない。

実際に見てしまうと、どうしても感情的な拒否感が、論理性を押しのけてしまう。ベッドの上で寝返りを打つ。いつも、半魚人の人達が、丁寧に洗濯までしてくれている。コットンも家事を覚えたいと最近は言っていて、スペランカーは是非教えてあげて欲しいと言っていた。

最低限のことしか出来ないスペランカーには、養子とは言え子供が家事の達人になれば、鼻が高い。

何を考えていたのだろうと、ぼんやり天井の明かりを見つめる。

そろそろ動かないとと考えているのに、思考が働いてくれない。体が、自分のものではないようだ。

いつの間にか、涙が流れていた。

本当に、欲の無い女の子だったのだ。

みんなの笑顔を見るのが、好きで。それで、自分をいくらでも犠牲に出来る、尊い魂の持ち主だったのに。

それを、よってたかって、我欲のために滅茶苦茶にした。ヒトとしての姿形どころか、心までもを徹底的に蹂躙し尽くした。

文明単位での暴虐を、一人の弱者に加えたのだ。

許されるはずが無い。どうにかして、この暴虐から、救わなければならない。だが、どうやったら出来る。

Mはおそらく言うだろう。

そのようなことを言っていて、アザトースがこの星に来たらどうなるでしょうねえ。

あの嫌みたっぷりの敬語で、そう言う姿が容易に想像できた。

Mだったら、被害を構わずに戦うのであれば、或いはアザトースを倒せてしまうかも知れない。

さっき言っていた通りに、永遠に眠らせる、という方法も可能だろう。

だがそれは、どうなのだろう。

洗面所に行くと、かろうじて吐き戻すのをこらえた。水を流したまま、ぼんやりと鏡を見つめる。

今まで、スペランカーは。

どんな暴力にも耐えてきた。

異星の邪神と戦うときには、あらゆる暴虐を身に受けて、それでもなお耐えきった。それがスペランカーの戦い方だからだ。

今回のは、それとは根本的に違う。

死ぬのは今だっていやだ。

しかし、我慢は出来る。してきた。

目を乱暴にこする。コットンには絶対に見せたくない、情けない姿だ。顔を洗ったが、さっぱりしない。

それで、ようやく気付く。

今は昼少し過ぎで、コットンはこの時間、学校に行っている。まだ出来たばかりの学校で、殆どシステムも整備されていないが、楽しそうに毎日過ごしているのだ。

子供のスケジュールも把握できていないなんて。

タオルで、顔を拭く。

何をしていたのか、忘れていて。本気で愕然とした。

チャイムがなった。

鉛のように重い足を引きずって、玄関に出る。川背だった。川背は、スペランカーが本調子どころか、疲弊から立ち直っていないことを、一目で見抜いた様子だ。だが、それでも、敢えて言う。

「先輩、心の整理はつきましたか」

首を横に振る。

信頼出来る後輩の川背に、嘘をつきたくない。

「先輩が其処までダメージを受けているのを、はじめて見ました。 概要を聞いただけでは、やはり現実を完璧には把握できないものなんですね」

「川背ちゃん、ごめん。 時間は、もうないの?」

「まだ少しあります。 ただし、Mはいつまでも待ちはしないでしょう」

「何か名案は浮かんだ?」

「名案かは分かりませんが、具体策は順番に考えています」

川背の表情は変わらない。

今、話を進めているところだという。仮にアザトースという巨大な神格の精神が完全に破壊されていたとして、それを再生するにはどうするのか。まず惑星系全体と言って良いほどまでに拡散してしまっている精神を、どう圧縮するのか。

圧縮したところで、元に戻るのか。

人間としての人格は、まず間違いなく崩壊している。それを抽出する、具体的な方法は存在するのか。

「それらの技術的問題については、今調査中です」

「あてがあるの?」

「現在の時点で、幾つか、利用できそうな技術を、アトラク=ナクアさんがピックアップしてくれています。 この世界よりもかなり高度で大規模な魔術を駆使すれば、或いはという話だそうです」

雲を掴むような話だったが、現実的な方法があるとすれば、嬉しい。

だが、川背は、なおも言う。

「もう一つ、大きな問題があります」

「ええと、まさか目覚めると世界が滅びるという奴?」

「はい。 アザトースはおそらく、既に半覚醒しているということです。 門を使って先輩がアザトースの精神をのぞき見するのに簡単に成功したのも、もう目覚め掛けているから、というのが理由として大きいから、だとか」

それは、まずい。

今目覚めようとしている「アザトース」は、巨大な幼児も同じ存在だ。ただ原始的な欲求に従って行動し、ためらいもなければ自己制御もしないだろう。

もしも本当に目覚められた場合、悔しいがMのやり方に従うしか無い。

「順番としては、二つです」

「うん。 説明して」

「一つは、アザトースの覚醒状態を抑えます」

これは、四元素神を滅ぼしたことが、覚醒の大きな原因となっている。だから、それに代わるものを用意すれば良いという。

そんなものが用意できるとは思えないのだが、もしも宛てがあるとすれば。

スペランカーに、心当たりがある。

ただし、これは話を付けるにしても、かなり難しいだろう。今体内にいる分身体が、言っているのだ。本体は筋金入りのアザトース嫌いだと。

そもそも、自分が死んでも構わないから、アザトースを覚醒させてこの星に呼び込もうとしていた存在だ。

対話は、極めて難しいだろう。

「……二つ目は」

「アザトースの肉体と、精神を分離します。 人間だった状態の精神を分離するには、さきに説明した二段階を踏みます」

その後は、空っぽの概念的な存在だけが、宇宙に残るという。

もはや目覚める可能性も無い。ただし、人間としての命を救い出すことは無理だろうとも、川背は言った。

「これが、ぎりぎりの妥協点だと思います」

「とても大きな技術的な壁があるみたいだけど、クリアは出来るの?」

「どうにかして見せます。 後は……」

「大丈夫。 私がしっかりしないと、みんなが……」

不意に意識が飛びかけて、川背に支えられる。

「具体的な手は、ひょっとしてニャルラトホテプと話を付ける、ですか?」

「うん。 四元素神の存在が三つ消えたことで、覚醒が始まっているなら。 ニャルラトホテプさんなら、何か知っているかも知れないから」

「無謀です。 特に、そんな状態で、何が出来ますか」

「それでも、やらないと」

此処からは、スペランカーの戦いだ。

コンディションは最悪。

このような状態で戦って、どうにかなるとはとても思えない。それでも、やらなければならない。

具体的な目的が分かったのだから、どうすれば良いのかも見えてきている。

此処で、立ち止まってはいられない。

「肩を貸して、川背ちゃん」

まずは、神殿に行って、詳しい話を聞いて。それからだ。

おそらく、しばらく此処には戻ってこられないだろう。下手をすると、生きて帰ることだって、出来ない。

迷いは、まだ晴れない。

だが、それでも、足を動かす。

まずは、ニャルラトホテプの本体を見つけ出す。全ては、それからだった。

 

Mは腕組みしたまま、応接室のソファに腰掛けていた。

時々、Pが話しかけてくる。

「もしもスペランカーが、具体的な策を出してきたら、どうするね」

「現実的であったら乗るさ」

Mにしてみれば、異星の邪神共を皆殺しに出来ればそれでいい。もしも人間だった頃のアザトースとやらを助け出そうというなら、別に止めない。それで全てが解決するなら、利害は一致する。

戦車乗りが、Mを一瞥した。

「そなたの圧倒的な能力、それは何に起因しているか、知っているのか」

「さあな。 私もどうして此処まで強くなれたのかは、よく分からん」

「仮説があるが、聞いてみるか」

「好きにしろ」

傲然と構えていたMだが。戦車乗りが次に発した言葉を聞き、思わず眉を跳ね上げていた。

アポトーシス。

それは、自死機構の事だ。

「つまり私は、というよりも私の能力は、本来はアザトースの自死機構だというのか」

「それならば、その圧倒的な戦闘力にも納得がいく。 素手で邪神を倒せるのは貴様くらいだという事を考えれば、なおさらだ」

そうなると、弟のLは、その力の一部を受け継いだスペアと言うことか。

不快だが、確かに納得できる仮説ではあった。

「……話は変えるが、どうしてスペランカーにニャルラトホテプ本体の居場所を教えた」

「試してみたいからだ」

「ふん……」

相変わらず、あの女は不快きわまりない。

だがMとしても、見てみたくはある。あの貧弱な、子供以下の身体能力しか無いくせに、その驚くべき精神力と特殊能力だけで、Mをも越える邪神の撃墜数を稼いできたスペランカーが、どこまでやれるかを。

「一つ気になることがある。 私が自死機構だとすれば、彼奴は一体何だ?」

「これも仮説の段階だが……」

戦車乗りの言葉を聞いて、Mはなるほどと頷いていた。

確かに、それはあるかも知れない。

世界は何とも皮肉に満ちている。

残虐で冷酷で、非情で暴力的。

Mには、実に過ごしやすい。

手を叩くと、Mは連れてきていたN社のエージェントを呼び出した。黒服サングラスのエージェントは、すぐに姿を見せる。

「如何なさいましたか」

「アーサーに、しばらくは様子見をすると告げろ。 N社は様子見の間、不介入を貫くとな」

「良いのですか。 本社の社長達には」

「かまわん。 文句を言ってくるようなら、私が潰すと告げておけ」

無言のまま、エージェントが下がる。

からからと笑うと、Mはグラスに残っていたコーヒーを一気に飲み干した。

これで、他の勢力も動きづらくなる。ただし、待ってやる時間は、そう多くは無い。此方には、アザトースを永遠に眠らせる手札も揃っているのだから。

「一つ聞かせてもらいたいな、M」

「何だ、長老」

長老と呼ばれたPは、大きな大きな口を開けて、笑う。

「仮にお前さんと「姫」の間の子がアザトースだったとしても、同じ判断をしたのか、知りたい」

「愚問よ。 同じ判断をしただろうな」

「それが致命的な事態を招いても?」

「聞くまでもないことだ」

短いやりとりが終わる。それだけで、充分だった。

Mは再びソファに深く腰掛けると、しばし寝ると言い残し、本当に眠りはじめた。

訓練しているから、いつでも眠りたいときに、好きなだけ眠ることが出来る。

夢はいい。

だが、いつかは覚まさなければならない。

そう、Mは思った。

 

(幕間、終)