小田原城悲哀歌

 

序、最大最強の終わり

 

無敵を誇っていた。

戦国最強を謳われた虎の軍勢も、龍の指揮も、この城を落とすことは出来なかった。

どんな敵が来ても、跳ね返すことが出来るのだと思っていた。

だが、それも今日、終わる。

見渡す限りの大軍勢。数は二十万を超えているという。しかも実数で、だ。その上補給経路も完璧。物資が尽きる様子は、一切見えない。

どんなに強固な城壁に守られていても。どれだけ深い堀が覆っていても。

救援が来ない城は、必ず負ける。

それは、この戦国最強の城、小田原城でも例外では無いのだ。

最初は、無敵では無かった。

関東の覇者北条家の居城として相応しいように、巨大に強力に改装されていって。そして、今のような姿となった。

最強の城の姿は、五代にわたって関東に君臨した、北条家の歴史そのものでもある。

鳥が、頭上を旋回している。

やがて、降りてきた。

瑠璃色の翼を持つ大きなその鳥は、小田原城の友であった。

「やあや、小田原のお城殿。 なにやら、大変なようですな」

「不肖の馬鹿息子共が、時勢も読めず、儂に頼り切り、そのあげくがこの結果よ。 今でも馬鹿な会議を、延々と繰り返しておるわ」

「なんと愚かな。 さぞや恨めしいでしょうな」

「決まっておろう」

城として生まれたからには、最強の存在として、最後の時までありたかった。

或いは、今でも物理的な攻撃には、なんぼでも耐えきれるかも知れない。

だが、中の人間共が耐えられない。関東を支配したことが長く続いて、すっかり惰弱に落ちた北条は。既に、この城を持つには相応しくない、貧弱な存在になり果てていたのだった。

「小田原のお城殿は、これからどうなるのでありましょう」

「まず、解体であろうなあ」

小田原城は、残しておくには強力すぎる。

この戦いが終われば。いや、もう今日には終わるが。終わった後は、堀を埋められ、塀を崩され、櫓を潰されて。

裸城になり、そして。

全てが終わったときには、人々の記憶からも、消え去ってしまうだろう。

「無念よ……」

「ならばその無念、晴らして差し上げましょうぞ」

「気持ちは嬉しいが、そなたに何が出来る」

「出来ますとも。 幾百年か後、貴方の思いが形になるとき。 貴方を最強のまま死なせる事が出来なかった無能な人間達に、思い知らせることが」

いつの間にか、鳥は姿を変えていた。

天狗と呼ばれる、妖怪へと。

「そうか。 そなたとの仲も随分と長い。 信じてみるとしようか」

「ええ。 お城殿、今はお眠りを。 私が呼びかけるときに目を覚まし、そして存分に無念を晴らしなさいませい」

「おお……」

城の正門が開き、降伏を受け入れる旨の書状を携えた使者が出て行く。

こうして、関東の覇者。北条家とともにあった、最強の城の歴史は終わった。多くの恨みと、悲しみを残したままに。

やがてそれは、後世に小さな事件を、誰にも知られぬままに起こすこととなる。

 

1、小さなヒロイン

 

現代。

科学が発展し、オカルトが否定されつつある時代にも、都市伝説は存在する。物語性の強い噂話である都市伝説は、国によっても地域によっても特色が違ってくる。

米国では犯罪者が絡む都市伝説が主流になっている。一方で、日本では幽霊話を中心とした都市伝説が根強い。

勿論、主流に属さない都市伝説も、また多い。

とっくに死亡したはずのある人物は、実は生存しているという

地下下水道には巨大なワニが住んでいて、夜な夜な人を襲うという。ホームレスが毎日犠牲になっているのだとか。

そんな、他愛も無い都市伝説の一つに、こんなものがある。

魔女と呼ばれる不可思議な存在が、夜の街に現れると言うのだ。

それが噂では無く、本当である事を、推子は知っていた。

夜闇を走る小さな影。

正確には、少し違っている。影はピンク色をしたステッキに跨がり、空を飛んでいたのだから。

ただし、それが極めて低空である事から、影が走っているようにも見える。方向転換をしやすくするために、低空での機動を行うように。敢えて低く飛んでいるのだ。

影が、街灯に一瞬姿を照らされる。

桃色の三角帽子と、フリルが付いたヒラヒラのスカート。靴はスポーツシューズのようだが、鋭角な牙に似た翼が付いている。箒に跨がるのは、子供。

そう、推子自身だ。

無言のまま加速した推子は、ステッキの半ば、跨がっている少し先に触れる。

立体映像が飛び出し、文字が幾つか浮かび上がる。捕獲という漢字は、まだスイには読めないが、何度か使って意味は知っている。

「捕獲」に触れる。

同時に。

少し先を走っていた、ひったくり犯が、足をもつれさせて転んだ。

それでも後生大事に、奪ったバックを抱えていたのは、ある意味滑稽というか、いや哀れであった。

そのまま推子は高度を上げて、その場から離れる。

ひったくり犯が、追いついてきた警察に確保された。警察は、ひったくり犯の足に絡まっている縄を見て、小首をかしげるかも知れない。だが、それは術式で作り上げたものだから、足など付くはずも無い。

警察に、ひったくり犯が小突かれながら連行していくのを、近くの家の屋根の影から見守る推子。

声が掛かったのは、その時だ。

「さ、かえろっか」

「うん。 今夜のパトロールでも、悪い人をやっつけたしね」

「がんばったね、スイ」

そういって、頭を撫でてくれる。

撫でているのは、手では無い。見える事さえも無い。

どうやら、何か長い紐のようなものらしいのだが、実績を積んだ推子にも、まだ見ることは出来ない。

見ることが出来るようになったら、きっと悲しむだろうと、声の主は言う。

だが、それでも気にしないと、推子は決めていた。相手がどんな姿だろうが、関係ないのだ。

推子こそ、現在の都市伝説の主人公。

夜な夜な街に現れては、姿も見せずに、悪を成敗していく謎の魔女。その正体であった。

 

目覚まし時計が鳴り響く。

辺りをまさぐって、時計を見つけて。止めたときには、目をこすりながら、ベットから半身をはみ出していた。

水色のパジャマに身を包んだ推子が、大きくあくびをする。

昨日は比較的早く終わったし、使った魔力もさほど多くは無かった。だが、蓄積した疲労は、嘘をつかない。

回復が早い子供の体でも、やはりそれは代わらないのだった。何度か目をこすりながら、最低限の身だしなみを整える。髪が長いと、手入れも色々と大変なのだ。

小学三年生でも、既に身だしなみには興味がある。酷い格好では外に出たくないし、出来れば綺麗に着飾りたいとも思う。今日は学校に、どんな格好で行こうかなと、推子は考えながら、起き出して、一階に。

お姉ちゃんが、既に料理を始めていた。両親はこの様子では、既に仕事に出かけた後なのだろう。

「推子、おはよー。 今日は目玉焼きだよー」

「はーい」

まだ推子は料理当番のローテーションに入っていないが、そろそろ加えて欲しいと思っている。

朝早く起きられた日は、お姉ちゃんと一緒に料理をする事もあるし、筋自体は悪くないと言われているのだ。

まだ、料理のレパートリーは三種類くらいしかないから、まだまだ要修行だが。

お姉ちゃんが料理台から降りて、手際よく皿を並べていく。

焦げてはいない目玉焼きに醤油を掛けて食べながら、お姉ちゃんは学校のことを聞く。高校で生徒会長をしている姉は、成績も常にトップクラスで、国立の大学、それも海外の、へ進学がほぼ確定している。一方で平均的な性格の推子は、何をやっても平均点だ。体育だけはちょっとだけ平均より高いが、後は冗談のように横一線である。

学校では堅物だと思われているらしいお姉ちゃんも、家では冗談を言うし、推子とも色々と遊んでくれる。

ただ、最近は受験勉強で遅くまで起きていることが多く、遊んでとはとても言えない空気もあったが。

食事が終わると、着替えて出かける準備。

お姉ちゃんは先に出た。電車を使って二つ先の学校に通っているから、途中までも何も、家を出るともう逆方向なのだ。

推子は集団登校のグループに混ざると、小学校へ。

姉は自転車を使っているから、振り返っても、もう影も形も無かった。三階建て一軒家の自宅前には、もう推子の肉親はいなかった。

 

推子が通っている公立桧林学校は、県内でも有数の設備が整っている。

入り口では、生徒はIDを組み込まれたカードを守衛さんに渡さなければならない。カードを忘れると、仮発行のカードを借りて、一日不自由な時間を過ごすことになる。

昔は下駄箱というのが主流だったらしいのだが、この学校には無い。正門を通ると、それぞれ上履きを渡される。上履きは遠赤外線の殺菌が行われていて、受け取った直後は少し熱い。

そして、下履きは入り口で預けなければならない。

体育の時間は、設備が整った体育館で行うのが殆どだ。学校が終わるまで、まず外に出ることは無い。

昔はこういう進んだ設備をハイテクとか言ったらしいのだが。今では、警備のおじさんたちでさえ、そんな言葉を口にすることは無い。

この学校はいじめも無い。というよりも、素行調査を徹底的に行い、問題のある生徒は即座に転校させられるからだ。故に、非常に品行方正な学校だとは知られているが。

だが。

学校の彼方此方にある監視カメラや集音マイク。

それに、巡回しているロボット。勿論人型などでは無く、お掃除をしている丸い円盤みたいな奴。

そういったものが、常に子供を見張り、素行をチェックしている。

授業中に私語を発する子供はいない。

否、それは違う。

私語なんて、発する事は出来ないのだ。

一時間目の授業が始まる。今日は国語からだ。子供達は皆必死である。成績が落ちても、退学をちらつかされるからだ。

真っ青になっている生徒が多い中、推子は平気だ。元々物静かな性格である推子は、沈黙はむしろ心地よく感じるほどである。

「では、此処を、七番」

「はい」

基本的に、生徒は番号で呼ばれる。これは以前、子供に珍妙な名前を付けることが社会的なブームになった時の対策の名残だ。子供を番号で呼ぶことで、おかしな名前で呼ばれることを避け、結果差別を回避するというものである。

正解した七番、真島弘幸は、ほっとして着席した。

当然のように黒板は電子式で、額にしわを刻んだ年配の男性教師が少し触るだけで、書いたものが消える。生徒の側でも、いつでも書いたものを呼び出すことが出来る。

無言でノートを取っているうちに、授業終了。

休憩は十分。

昔はこの時間を利用して、子供達は遊んだり話をしたりしたそうだが。この学校では、黙々と次の授業の準備をすることになる。

漫画の持ち込みなんてもってのほかである。この学校で、漫画やアニメを家で見ることは禁止されてはいない。だが、授業に関係ないものを持ち込みでもしたら、それだけで厳しい罰則がある。持ち込んだもの次第では、即座に退学だ。

準備を終えると、すぐに次の先生が来る、

この学校に、自由は無いとよく言われる。その代わり、いじめも無ければ体罰も無い。そう言う意味で、推子は此処で、むしろのんびりとやることが出来ていた。

子供同士の間で暴力が飛び交い、授業中は私語が飛び交い、いじめが横行していた前の学校よりずっとマシだ。

そう、推子は思ってさえいる。

昼休みが来ると、やっとまとまった時間が出来る。この学校では、バイキング形式で給食をやっているので、食堂だけが唯一騒がしい。

この時間だけが、子供にとって唯一自由が許される。

ただし、此処にも監視カメラなどは設置されている。子供の言動を逐一チェックするためだ。

カードを通すと、盆の上の料理が、自然にスキャンされる。

あまりにも偏ったメニューを並べていると、この時点でブザーが鳴る。減点の対象だ。今日はスパゲッティが中心だったのだが、サラダも取らないとブザーが鳴ると推子は知っていたので、抜かりは無かった。

席に着くと、同じクラスの女子生徒が何人か群れていた。

「すいこちゃん、こっちー!」

「うん、いまいく」

無邪気に手を振っているのは、中島茜。

成績は中の下という所だが、明るくてかわいらしい、子供らしい子供だ。ただ、親の収入がこの学校に通わせるので精一杯らしく、いつも代わり映えの無い服ばかり着て登校してくる。

髪型を変えたりとかで工夫はしているのだが、それでもどうしても限界がある。本人は明るく振る舞っているのだが、時々悲しそうにしているのを、推子は知っている。

短い自由時間を、できる限り明るく過ごそうと、皆心がけている。

アニメの話題が一巡すると、今度は少女漫画の話題になった。そういえば、他の学校では、そもそも漫画を読んでいる子供さえいなかった。

きゃいきゃいと黄色い声が飛び交うのは、この時間だけだ。

お昼が終わると、それから三時間。また静かな授業時間がやってくる。それが、むしろ推子には心地よいのだが。

此処にいるかわいいひな鳥たちには、それが理解できているのかどうか。

「すいこちゃんは、あの漫画の誰が好き?」

「ひなこちゃんかなあ」

「可愛いよねー!」

周囲に合わせただけなのだが、皆大喜びしてくれる。

あの漫画というのは、現在この学校でも知名度が高い少女漫画、魔法少女フロリーフロ−ベルである。週刊連載している漫画で、今時珍しいくらい正統派の少女漫画として評判だ。

女子の間では、少女漫画では、同世代の人物よりも、少し年上の人物が好かれる傾向にある。

今話題になったひなこというのは、小学校六年生のキャラクターで、いつも個性的かつ魅力的なファッションをしていることで子供達から人気がある。ファッションは女の子にとって、非常に重要な要素なのだ。

一方で男子達は、向こうでロボットアニメの話題に興じていた。やはり向こうは、どの戦闘ロボットが一番強いか、という話題になるようだ。男の子は残酷なものが大好きだから、そう言う意味でも女子とは話が合わないことが多い。

小学生低学年くらいまでは、子供は男女関係無しに、仲はさほど悪くない。

だが小学校でも最上級生になると、もう壁が出来る。この壁に傷つく純心な子供は、最近ではもう絶滅したのか、見かけない。

この時間だけは、羽を伸ばすことが出来る。授業中は、誰も彼もがスイッチを切り替えて、必死だ。

予鈴が鳴ると、皆の表情が、ぴたりと消える。

盆を指定の洗い場に出すと、すぐに教室に。天井にも壁にもロボットがいて監視している中、出来るだけ目をつけられないように、並んで歩く。走ろうものなら、即座に減点される。

青い顔をして、半ばうつむいて歩いている子供達。その中で、平然としている推子は、逆に何処かが不自然であったかも知れない。

多分、この学校に通っている生徒の中で、唯一だろう。

むしろ他の子供と話すとき、スイッチを切り替えている。

そんな変わり者が、推子だった。

 

授業が終わると、子供達は即座に帰宅する。以前は部活動というものもあったのだが、今では無い。

子供に自治をさせることに、あまり意味が無いと、この学校では判断しているからである。他の学校でも、部活動が無い場所は多い。下手なことになると、PTAが怒鳴り込んでくるのが目に見えているからである。

多くの場合、部活動をするのは、中学校からだ。

放課後は、基本的にすぐに帰るもの。この学校の方針である。

帰りも、基本的に集団行動だ。学校で活動している監視ロボットは、主要な帰宅路にもいて、生徒を監視している。

寄り道、買い食い、一切禁止。

どこに監視の目があるか分からない以上、下手は踏めない。実際、下手を踏んだ生徒が何名か出てからは、その傾向は更に強くなった。今の時代、町中にも店にも監視カメラが多数配置され、子供の人権を守るという名目で、PTAはそれを好き勝手に見ることが出来る。

つまり、子供は四六時中監視されているのだ。

ただし、このシステムのおかげで、変質者に会う可能性はほぼ零だ。自衛能力を持つロボットは強力なスタンガンを中に秘めており、実際変質者を一撃でノックアウトして逮捕した実績もある。

ただし、当然のごとく、ロボットは子供達には嫌われていた。

「あのバケツロボ、またいるよ」

「しっ! 聞かれたら減点の対象になるよ!」

子供達がひそひそと話している。

無言で歩きながら、推子は思うのだ。人権の定義はよく分からないが、これは大人が子供を自分の所有物だと思って、監視するための仕組みでは無いのかと。

もっとも、推子は、おかげで静かなので、心地よいとは思うのだが。

枷が外れれば、子供は五月蠅いだけだ。

徐々に子供は減る。通学路から離れる度に、子供はほっとした表情になる。もっとも、今では家でも子供の部屋に監視カメラを付けることが法律で認められ、しかも流行になっているらしいから、家でも気が休まらない子供は大勢いるだろう。だが、学校の、二重三重の監視よりはマシだ。

幸い、推子の親はこういう監視の強化には興味が無いらしい。

そういえば、だが。

推子の見た限りだと、変な名前を付けられている子供ほど、家でも滅茶苦茶に監視されたりしているようだ。そして、そう言う子供ほど、親を徹底的に嫌っているのだった。良く理由は分からない。

或いは、そういう親を、推子が持っていないから、かも知れなかった。

家に着く。

通学路から外れたのは、推子が最後では無い。まだ残っている何人かがいる。無言で手を振りながら、列から離れた。

ちなみに、学校帰りに他のこのところに寄ることも、禁止されている。他の子供の家に行くときは、学校に書類を提出しなければならない。もしこの手続きを忘れていると、後で家に怖い顔のPTAの人が何人も乗り込んできて、子供の部屋を徹底的にひっくり返して行く。漫画やアニメ、ゲームなんかあった日には大騒ぎになり、全部取り上げられるくらいですめば良い方で、悪いと即日退学になる。

子供の人権を守るため。それも、同じ理由なのだそうだ。

煩わしい手続きをした後も、遊んでいる様子は全部監視カメラで撮影される。監視カメラが無い部屋の場合は、通学路にいるようなロボットが付いてくる。

これも、勿論子供の人権を守るため、である。

二年前くらいまでは通学路に、良く子供を檻に入れたポスターが貼られていた。だが、そのポスターを貼っている人達が、みんないつのまにかいなくなったことを、推子は知っている。

怖い噂も、たくさんあった。

家に戻ると、玄関にある認証センサに指を押し当てる。それからキーを押すと、ドアが開く。

玄関に、靴は一つも無い。

どうやら今日も、夜まで静かな時間を過ごすことが出来るようだ。

それは大変に嬉しい事である。

一人で、静かでいること。それはとても推子にとってはリラックスできる時間なのだ。監視カメラの無い部屋で、静かに本を読む。様々な知識が、自分のペースで取得できる。今時、本も通信販売で買うのが普通だ。小遣いの額は決められているから、毎月新しい本を買える訳では無いのだが。

しばらく無心に本を読んでいたが、玄関の方で気配。

多分、お姉ちゃんが帰ってきたのだろう。気がつくと、窓の外はもう真っ暗になっていた。

「スイコー。 ただいまー」

「お帰りなさい」

「ふいー、つかれたー。 おなかは空いてる−?」

「ううん、平気だよ」

お姉ちゃんは学校から帰ってくると、まず推子の様子を見に来る。背が低いお姉ちゃんは、推子の背が伸びるのが楽しみで仕方が無いようで、良くその話題を振られた。

今日もそれに変わりは無い。推子の顔を見ると、お姉ちゃんは満面の笑顔を浮かべて、キッチンに向かった。

家事をする音が下でした。どうやら手を動かしながら、推子に話しかけてきているらしい。下は見えないので、実際の様子はよく見えないが。

「何だよ、食べないと背が伸びないぞ」

「学校じゃ、間食禁止って言っているのに?」

「あんなん気にするな。 家じゃPTAの連中にだって好き勝手はさせん。 というか、子供は悪さをするもんだ」

薄い胸を張って、自信満々に言うお姉ちゃんが、目に浮かぶようだ。

まだ高校生は子供のような気がするのだが、まあ推子に比べればずっと大人なのだから、不思議では無い物言いだ。ただ、お姉ちゃんの場合は飛び級を重ねているらしいので、その辺りは微妙かも知れない。

ただ、食べたくないというものを、無理に食べさせる気も無いようだ。お菓子を作っている様子も、別に無かった。多分今やっているのは、夕食の下ごしらえだろう。

しばらくすると、呼ばれる。

また気がつかないうちに、随分時間が経っていたらしい。あくびをして、眠気を飛ばす。これからが、推子にとっては本番の時間なのだ。

ダイイングに出向くと、既に料理が並んでいた。

「お父さんとお母さんは?」

「今日も出張だろ。 よっと」

料理台から降りたお姉ちゃんは、シチュー鍋を手にしていた。ぐつぐつ音がしている。今時、全自動で料理をしないで、きちんと手で作っているのはお姉ちゃんくらいかも知れない。

背が低いお姉ちゃんは、料理をするときに専用の台まで使っている。そんな不自由をしてまで作る情熱は、やはり好きだから沸いてくるのだろう。推子も、本が好きだから、その辺はよく分かる。

「今日も豪華だね」

「原価はそんなに掛かってないぞ。 さ、遠慮無く食べてくれ」

「はーい、いただきます」

「いただきます」

今日のメニューは、ご飯にシチュー、サラダに焼き魚。シチューは冷やしておいて、これから何日かの夕食になる。

学校では言えないが、お姉ちゃんの料理は給食よりずっと美味しい。これを学校で言うと、義務教育の否定だとかで、ポイントが引かれてしまうのだ。ましてお姉ちゃんは、飛び級で高校に入り、海外の大学に入学をもう決めている。他の子供と同じように過ごすことを大事に考えるPTAの人達から見れば、目の敵にされるような存在だ。それにお姉ちゃんは、今の義務教育を心の底から嫌い抜いているようだ。推子に同じ感情を持つことを強制はしないが。

学校で、お姉ちゃんの言うことを聞かないようにと、先生に言われたことさえある。お姉ちゃんも、学校の先生を馬鹿にしきっているようであったが。

「今日な、学校でジェイムズがさー」

ジェイムズさんというのは、お姉ちゃんの学校にいる面白い先生だ。マッドサイエンティストとか呼ばれているらしいのだが、実際にはそれほど悪いこともしないし、怖い人では無いのだと、お姉ちゃんは言う。

名前からすると外人みたいだが、日本人だという。しかしジェイムズという名前は本名らしい。

おかしな名前がはやるようになった頃の、最初の世代の子供だったのだそうだ。

「それでさ、ボンって試験管から火が出て、コントみたいに髪の毛がチリチリになって、みんな大笑いしたんだぞ」

「何だか凄いね」

「でもよ、凄いのはその後で、ジェイムズの奴「こんな事もあろうかと」とかいって、カツラにしてやがったんだ。 周りがどん引きしたけど、私は笑いをこらえるのに必死だったぜ。 ありゃあ、素人いじりしか出来ない駄目芸人より、ずーっと芸人の魂を持ち合わせてやがる」

何だか楽しそうである。

基本的に教科書にある事しかしない推子の学校の先生とは、大きな違いだ。

「お前ももうちょっと勉強が出来たら、私が見てあげるんだけどなあ。 そうすりゃあんな牢屋みたいな学校行かないで、私も通ってるようなちっとはマシなところに行かしてやれるんだけど」

「お姉ちゃん、本当に私の学校が嫌いなんだね」

「あたぼうよ。 あんな人権蹂躙学校、思い出すのもいやだね。 子供の人権を守ることを、牢屋に入れて自分の思うことをやらせるのと勘違いしてやがる」

シチューを食べ終えると、お姉ちゃんはエプロンを洗濯機に放り込んで、そして自室に戻っていった。

大学受験の準備で忙しいのだろう。

少し遅れて推子も食事を終えると、自室に戻る。

そろそろパトロールの時間だ。ベットに横になって本を読んでいる、来た。

空間が歪んで、気配が現れる。

推子にも見ることが出来ないのだが、確かにそこにいる。

「推子、お待たせ。 今日もパトロールに行こうか」

「ハイドラ、今日はどの辺りを見回るの?」

「そうだな、どうも空気がおかしいから、小田原城の辺りを見に行こう」

「分かった」

部屋の隅に隠してあるステッキを出すと、一振り。

立体映像で、文字が出てくる。その中にある、変身という文字に触れると。

もう次の瞬間には、推子は「魔女」の装束を身に纏っていた。

良くある魔法少女もののアニメでは、半裸になったところに凝った衣装のお着替えシーンがあるが、現実はこんなものである。ぴかっと光ってそれでおしまい。鏡に映してみると、相変わらず可愛いが。

最初、ハイドラにこの仕事を提案されたときは、怖かったこともある。不思議な力を使えるという事は確かに嬉しかったが、それ以上に実際に目にする悪い人が、どれだけ恐ろしいか知っていたからだ。

だが、この衣装を見た時、とても嬉しかった。それに実際にお仕事をしてみると、思ったよりもずっと安全だった。ただ、それは的確なサポートと、魔法の力があるからだという事も、推子は理解している。

今は、仕事に誇りもある。

そういえば、どうしてだろう。

前に、姿を隠蔽するのを忘れて、悪い人を追い詰めたとき。何かこの世の終わりがきたかのような目で、推子を見られたのは。

とにかく、今は推子では無い。この衣装を纏ったときから、魔女だ。

街の平和を影から守るパトロールをして、悪い人をやっつけて、困っている人を少しでも助ける。

お姉ちゃんはとても頭が良いから、きっとそれを使って世界をよくしてくれる筈である。自分は頭も良くないし、運動神経もしょっぱいから、出来る事は限られている。せっかく手に入れた不思議な力なのである。元々平凡な力しかない推子は、これを出来るだけ使って、世の中を少しでも良くしたかった。

この衣装を身に纏って、すぐに隠蔽の術式を掛ける。隠蔽の文字を押すと、姿が消えた。悪い人といっても、怖がらせるのは避けたい。

術が発動して、自分だけに姿が見える事を確認。鏡に自分を映してみても見えない。自分の手を見ると、桃色の手袋が、肉眼では見える。

これでいい。

後は、お姉ちゃんが部屋を覗きに来る事があるから、その対策だ。部屋に入りたがらなくなる術式を掛けておく。そうすれば、もう寝ていると勘違いしてくれる。

最初は半信半疑だが、お姉ちゃんが推子を疑っている様子が無いことが、その術式に効果がある証明だ。

「前は変身だけで結構疲れてたのに、今はもうすっかり平気だね」

「中学に上がる頃には、もっと頑丈になってみせるよ」

「それは頼もしい」

窓を開けると、ステッキに跨がって、空に踊る。飛行の術式は、窓を出るときには、既に発動済み。

舞い上がる。

お空は雲一つ無く、まん丸のお月様が、無数の星達と一緒に輝いていた。

一旦中空まで舞い上がってから、ゆっくり高度を下げていく。

電線とかにぶつかると危ないので、速度も調整しながら、下を見回せるように。適当に飛行になれたところで、ステッキに触り、メニューを呼び出す。

悪意検出に触り、術式を発動。

前は、力が足りなかったから、こんなに一度に術式を使うことは出来なかった。

既に、魔女になってから一年。

昔は四苦八苦していたパトロールも、今ではすっかりこなせるようになり始めていた。

「悪い人、見つけた!」

今日も、パトロールが始まる。

 

2、暗き翼の躍動

 

見事な手際だと、天狗は思った。

目をつけた獲物を、確実に追い詰めていく。自分の姿は見せず、超常現象が起こったと相手に錯覚させながら。

闇の社会を生きてきた男だろうが、関係ない。人間は、自分が理解できない事象に対しては、著しく恐怖の感情を刺激される。

悲鳴を上げて逃げるチンピラ崩れの男が、持っていた違法な品をばらまく。覚醒剤の類だろう。不自然なばらまき方だが、勿論故意に引き起こされたものだ。

後は警官が来て、御用。

怒声をあげながら引きずられていく男。警官達が集まって、現場検証をしながら、話をしていた。

「また魔女か」

「正義の味方を気取ってるのか知らんが、迷惑な話だな」

検挙率がうなぎ登りに上がっているのに、警官達はあの子供を邪魔者扱いしているらしい。まあ、市民は誰もが知っているからだろう。魔女が悪を裁いているのであって、警官はその後片付けをしているの過ぎないのだと。

「ほう、見事だ」

重苦しい声。

数百年来の睡りから目覚めた友が、側で楽しげに様子を見守っていた。友は最初、随分嘆いた。

己の姿が、あまりにも変わり果ててしまったことに。

今は少し落ち着いているが、それもいつまで保つことか。

「だが、抜本的な解決にはほど遠い。 対処療法でしかない」

「その通りだ」」

頷くと、長年の友は。

小田原の城の精は、空を見上げた。

計画の発動が近づいている今、共に余計な事を考えさせたくない。天狗が願うのは、この腐りきった世界をどうにかすること。

今、この国は長く続いた平和の結果、腐敗が蓄積しすぎている。一度崩壊した学校教育はその一例だろう。世界大戦はどうにか免れたが、それ以外の部分で、現在の文明には無理が来すぎたのだ。

先進国の中でも、もっとも豊かで平穏なこの国でさえこの有様だ。

他はどのような状態になっているのか、想像する事さえ恐ろしい。人類は、緩慢な滅びに向かっているのでは無いかとさえ思わされる。

だから、対処療法では駄目だ。

抜本的に、世界を変えなければならない。人間は、今ある快楽を放り捨てられるほど、存在が出来ていないのである。

「それにしてもあの魔女、何物か」

「さてな。 恐らく人間が関わっているかとは思われるのだが、あの姿だ。 元はどのような存在なのか、見当も付かん」

「そなたでさえ分からぬか」

「類例がないからなあ。 科学技術だけでは説明が付かぬものが多すぎる。 しかし、我ら異形ともまた違うように思える」

実際、このような存在は、見たことも無い。

強いて言うならば、近い存在は。

頭を振って、その思考を追い払う。あり得る事ではないからだ。

「計画は、いつ開始する」

「既に下準備は済ませている。 後は星の巡りが揃ったときに、一気呵成に畳みかける」

「そうか。 儂は守りにしか長けぬ存在だが、手伝えるだろうか、友よ」

「汝以上の適任はいない」

それは、天狗の本心からの言葉だ。

そして、友に、それは伝わっていた。

 

パトロールを終えると、既に深夜になっていた。

かなり目がしょぼしょぼになっている。悪い人を今日は五人もやっつけた。みんな怪我をさせずに、お巡りさんに捕まえて貰ったから、誰も不幸になっていない。

「あんなお薬のんでも、誰も幸せにならないのに」

「大人になると、現実から逃げたくなる。 そのために、命を放り捨てる者もいるということなんだよ」

「何だか悲しいね」

「少なくとも、スイがやっていることは間違っていないよ」

窓から、家に入る。静まりかえった家だが、お姉ちゃんの部屋の窓からは、まだ明かりが漏れていた。

お姉ちゃんは、口癖のようにこう言っていた。

「可哀想だが、努力が報われない人はいる。 だけど、私の場合、天才かどうかは知ったことじゃないが、少なくとも思った通りの成果は出る。 だから、努力が報われなかった人達の分も、頑張るんだ」

まだ勉強を頑張っているのだろう。

実は、お姉ちゃんについて知らないことはいくつもある。お父さんもお母さんも、もっと大きくなったら話してくれると言っていた。

一つ、分かっているのは。

お姉ちゃんの年は、推子とあまり離れていないと言うこと。飛び級をしているからと言う事もあるのだろうが、何しろあの見かけだ。

だが、推子はお姉ちゃんが大好きだ。それで良いでは無いか。

術式を全て解除。

鏡に、自分が映る。最後まで、ハイドラは見えないが、別にそれで構わない。

「ふうー、疲れたよー」

「栄養ドリンクを飲んでおくといいよ」

「うん。 分かってる」

子供にとって、一番良い栄養ドリンク。

それは牛乳だ。経験的に、推子はそれをよく知っている。まだ背が伸びる推子にとっては、今後のために飲んでおくべきものでもある。

お姉ちゃんは牛乳が大嫌いで、結果背はあまり伸びなかったと嘆いている。これだけは努力だけではどうにもならないとも。

降りると、いつのまにかお姉ちゃんがいた。

「どうした、眠れないのか?」

「うん」

「ふん、牛乳は嫌いだ」

やっぱり、今でも嗜好は変わらないらしい。冷蔵庫を開けて牛乳を取り出すと、嫌そうに目を背けた。

お姉ちゃんの寝間着は、ピンク色である。ブルー系が好きな推子とは色も正反対だ。

だが、普段は勇ましいところもあるお姉ちゃんがピンク系が好きなのに、普段はおとなしい推子がブルー系を好むのは、少し面白い。

「早めに寝ておくんだぞ」

「何だかお姉ちゃん、お母さんみたいだね」

その時。

何か、妙な違和感があった。だが、お姉ちゃんは適当にうなづくと、部屋に戻っていった。

疲れが溜まっているから、横になるとすぐに眠ってしまう。

気がつくと、朝。

五人も悪い人をやっつけたからか、睡りはとても深かった。最近は全く夢を見ないのだが、それも関係しているのかも知れない。

あくびをして、着替えに入る。

ハイドラは、基本的に夜にしか現れない。最初のうちは昼間に現れることもあったが、ここ一年はずっとそうだ。

通学の列に加わって、学校に向かう。

今日も、ロボットが通学路を巡回していた。彼らに聞かれないように、当たり障りのない会話しか出来ない。

ちなみに、推子はテレビアニメを録画して見る派だ。気に入らないシーンは飛ばすことが出来るし、CMだって早送りできる。

お姉ちゃんがやっていた癖が、いつの間にか自分でも身についてしまった。

「昨日のひなこちゃん、何だか不思議だったねー」

「話が難しくてわからなかったー」

昨日の話は、確かに難しかった。要するに、夢の中で生きていきたいと思う人が、現実をそう改造しようとする、という話だった。そして悪い人の手助けによって、それが現実になり、男の人は夢の世界に行ってしまう。

だが、其処は、語るもおぞましい混沌の世界だったのだ。

過去も未来もごちゃ混ぜで、何もかもが唐突に飛び出し、実在の人物と非実在の人物がめまぐるしく入れ替わって、時には夢を語り、或いは現実を堕とし、男の人は頭がおかしくなってしまう。

最終的には整合性が全くとれない夢の中で、その人は後悔して、現実に戻りたいと願う。手をさしのべた魔法少女フロリーフローベルの手によって、男の人は救い出される。そして、やはり現実を生きようと、男の人は誓うのだった。

「なんだかぶきみだったよね。 きもいし」

「そうだね」

適当に相づち。しかし、推子の意見は違っていた。

あの夢の世界は、珍しく可愛いだけが取り柄のフロリーフローベルでは、とてもリアルだった。

推子は、何となくあの男の人に好感が持てた。周囲はキモイとかなんとか好き勝手に言っているが。

人の心を覗いたとき、同じ事が言えるのだろうか。

女の子は恋をする。男の子も恋をするが、恋の形が違っている。

だが、さっき、キモイとか、よく分からないとかいっていたものが、誰の頭の中にもあると知ったとき。

その恋は、続くのだろうか。

そうは思えない。

同級生達の話題は、フロリーフローベル自身よりも、ひなこの服装に移っていた。ちなみにひなこは脇役の一人で、戦闘要員でも無く、むしろギャグキャラに近い。だが、その格好が女の子達の琴線に触れるらしく、本来のタイトルで呼んであげない子供達も多いのだった。

ちなみに、推子自身は、ひなこを好きでも嫌いでも無い。好きだと言っているのは、コミュニケーションのためだけだ。

周囲が五月蠅いので、適当に合わせているのである。

こういうドライな関係は、高校などに進学すると、更に顕著になるらしい。お姉ちゃんが言っていたが、確かに小学校でも、頷ける事例は周囲にたくさん転がっている。

学校に着く。

今日も、代わり映えの無い、静かな檻での生活が始まる。

お姉ちゃんの話だと、昔は廊下を走り回る子供がたくさんいたり、活気がある小学校も多かったという。

今の学校は、宿題も無い。いじめも無い。学力は以前よりはるかに高くなっている。いずれもが良いことづくめだと、PTAは自画自賛をしている。

そして、この静かさが、推子にはむしろ心地よい。

周囲に煩わされることが無いから。

「四番、此処の問題を解く」

先生が言うと、指さされた四番が、机と一体化しているデジタルボードに答えを書き込む。

正解では無い。

幸い、答えを間違ったくらいでは、失点はされない。授業態度が悪い方が、むしろ失点は大きい。

その様子を見ていた先生が、次へ授業を進めた。今は、先生は、優しく答え方を教えてくれるなどという事はしない。マニュアル通りに、解説するだけだ。つまりマニュアルでの解説を逃した場合、どんどん授業から遅れていくことになる。

この問題は、推子にはちょっと難しかった。お姉ちゃんに言うと確実な答えを教えてくれるが、それは最後の手段だ。

パトロールで時間が限られているから、勉強は学校でしてしまうことにしている。

授業中、退屈そうにしている同級生は視界に入れない。今の小学生は、如何にポイントを引かれないようにさぼるかばかり考えている。周囲には、影響されない。

幸い、今は面倒くさいグループとかスクールカーストとかの悪習がない。自分のペースで動けるのはありがたかった。

数学が終わり、社会科に。

郷土史という事で、北条家の歴史が出てきた。

北条家については、推子も知っている。関東を支配した戦国大名だ。戦争はさほど強くなかったようだが、粘り強い支配力で関東に君臨。何より鉄壁の防御力を誇る小田原城が、その力の要になっていたという。

しかし、今の小田原城は。

殆ど何も残っていない。城跡はあるにはあるが、堀はないし城壁も殆ど残されていない。中には小さな動物園があるだけで、ほとんど見るような場所さえない。

それなりに人はいるが、それは小田原のお城を見に来ているのでは無い。

場合によっては、ただ道として通り過ぎている場合さえある。

「何故、小田原城がこれだけしか残っていないのか。 それは、北条家が滅ぼされたからです」

当然の話だ。

北条家のシンボルであった小田原城が、そんなときに残されるわけが無い。江戸時代にも取り壊しが行われ、更に規模を縮小したと、先生は説明。

小田原の人達は、そんな姿になっていく城を、どんな風に見上げたのだろう。

宿題は、現在は無い。

子供の人権を奪う行為だと、PTAが決めたからだ。そして、それに対して、疑問を持つことは許されない。

通り一辺倒の説明だけがされて、授業は終わった。

窓の外から、小田原城は見える。実際に小田原城に行ってみるとかすれば、面白いと思う。

しかし、それも煩わしいかと知れないと考え直して、推子は思考を切った。いずれにしても、今の会話内容が、テストに出る。

テストで点を落とせば、ポイントに響く。

今の学校では、それが全て。

そして学校でポイントを落とせば、それは就職後にも響く。最悪の場合、就職どころか、もっと酷いことになるという噂も聞いたことがある。しかもこれは、親にまで監督不行き届きとかで、影響が行く。

だから、子供は必死だ。

何しろ、子供の素行次第で、親にまで影響があるのだから。

後で、パトロールの時にでも、小田原城を見に行けば良い。

授業が終わると、生徒達が話をしていた。

「あの城、そんなに古くからあったんだ」

「ひろいだけだよねー。 ほこりっぽいし、くさいしー」

「でも、武田信玄とか、上杉謙信とかの攻撃を退けたんだぜ」

「だれそれ」

歴史好きな男子生徒に、女子生徒が返す。言葉も無いと言う様子で、男子生徒は自席に戻っていった。

武田信玄や上杉謙信くらいなら、推子だって知っている。だが、それは口にしてはならないことだ。

子供の世界では、「普通の人が知らないこと」を知っている者は、異常者の一種と認識される。酷い場合は、それがいじめの起点となる事もある。だから、知っている事は敢えて口にしない。お姉ちゃんの話だと、その傾向が変わるのは高校生くらいかららしい。

あの子も、余計な事を言わなければ良いのにと、無言のまま推子は思った。子供は純粋だとか考えている大人がいるが、それは推子から言わせればお笑いぐさだ。子供は悪意の塊である。相手が弱ければいじめのターゲットにするし、そうしたことになんら罪悪など感じない。平均的な子供の、それが現実だ。

現在の学校では、かってのような暴力的ないじめは無い。しかし、何となく会話に加えてくれないというようなことはある。そういうことになると、精神にダメージを受けることは、あり得るのだ。

学校にいる間は、ネットへの接続も禁止されている。

有害な情報に触れるのを、避けるためだと、PTAが決めたためだ。

小田原城を、少し調べてみたいなと、推子は思った。だが、それが出来るのは、家に帰ってからだ。こればかりは、静かな学校の、煩わしい部分である。

授業が終わる。

疲れ切った同級生達に混じって、帰宅する。

誰も、いない。この時間ではしかたがないことだ。居間に入ると、PCを立ち上げて、インターネットに接続。ポータルサイトから、小田原城を検索していた。

ポップアップで、子供の人権を守ろうとか、PTAが義務化した広告が上がってくるが、全部自動で削除される。お姉ちゃんが仕込んだツールによるもので、これで検索が随分快適になる。

家によっては、回線まで監視されているという。子供の権利を守るためという題目だが、其処まで来るとおかしいような気もする。

家では、お姉ちゃんが法的な知識を使って、監視をさせないようにしているとか言うのだが。

だが、それでも、PTAの「番犬」らしい人が、家の周りをうろついているのを、推子は何度か見たことがあった。

多分あれは、無線LANから違法の情報を拾い出していたのだろう。ただ、お姉ちゃんが組んだシステムが、隙を見せるとは思えないけれど。

小田原城を調べてみると、色々と出てきた。

確かに男の子が言ったとおり、歴戦の実績がある城である。

小田原城は、そもそも北条家の初代である北条早雲が敵から奪取した。ただし、初代の内は根拠地にする事は無く、前線基地として活用しつつ、規模を拡大していた様子だ。実際には、北条家が作ったわけでは無いのだが、拡大して、形を整えたことに間違いは無いらしい。

二代目の氏綱が小田原城に根拠を置いて、それからが本格的な発展を促すこととなる。城下を内包した、この国でも珍しい大型城塞の誕生である。北条家のシンボルとしての存在として、小田原城は諸国に睨みを利かせた。

三代氏康は武田信玄や上杉謙信とも渡り合った英傑で、この時代に小田原城は戦国を代表する二英雄に攻撃を受けて、いずれも凌ぎきっている。だが、どちらの攻撃も短時間で終わっている上に、支城からの支援もあり、後の落城時の状況とはだいぶ様子が違っていたようだ。

あまり詳しいことは推子も分からないのだが、お城というのは、他から味方が助けに来るときだけ、守っていて意味があるのだとか、彼方此方の情報サイトには書いてある。どんなに強力な城でも、完全に囲まれた状態では、どうにもならないものなのだそうだ。

だが、悪いことに。

氏康以降、これといった英雄が出なかった北条家は、周囲に強敵がいなくなった事もあって、これで変に自信を付けてしまった。

兵力だけはあった。だが、歴史から取り残されたように、北条家は停滞を続け、やがて腐敗は極限に達する。

そして、秀吉による、日本史上空前の大軍勢による攻撃を招くことになってしまうのである。

PCを落として、自室に戻る。

まだパトロールまでは時間がだいぶある。ハイドラは決まって陽が落ちるまでは現れないから、それまでは自分の好きなことをして過ごすことが多い。いつもはテレビアニメの録画でも見たり、本を読んだりするのだが。今日は、そんな気分にはなれなかった。

なんだか、切ないなと思ったのだ。

小田原城は何も悪くない。むしろその存在感で、北条家を守り続けてきた。それなのに、守られる側の北条家は、努力を怠った。末期の北条家には、愚かな逸話がたくさん残っているという。

腐敗した大国の末路だと、歴史は嗤う。

だが、推子には、それが他人事だとは、とても思えなかった。

お姉ちゃんは、今日は何か用事があるのだろうか。帰ってこない。暗黙のルールとして、夕方の六時を回って帰ってこない場合は、自分でご飯を作って食べる事になっている。今の時代、自炊しなくても、ご飯はいくらでも食べられる。自炊のレパートリー自体も多くないし、美味しくも作れない。

冷蔵庫を漁ると、好きな冷凍食品もあった。レンジで温めて、その間にご飯を炊いてしまう。

ご飯は夕方の六時にセット。これも自炊の一環かと思ったが、其処までたいしたものでもないだろうと、思い直した。

お姉ちゃんは、結局六時には帰ってこなかった。

一人で夕食を済ませると、小田原城について、もう少し考える。幾つかの情報サイトだけでは無く、今夜のパトロールで見に行きたい。

そう、推子は思った。

 

いつものようにハイドラが現れて、すぐにパトロールに出る。

そういえば、最初にハイドラに会ったのは、お外でのことだったか。夕方、迷子になって困っていた推子を、家まで送り届けてくれたのだ。

今時、迷子に関わろうとする大人はいない。下手なことをすれば、それだけで犯罪になるからだ。

ただ、「気持ち悪い格好をして立っていた」だけで、逮捕された人もいるらしい。そんな状況で、子供に触れようという大人がいるだろうか。だから子供はいろいろな自衛手段を用意しているのだが、その時推子は、運悪くお姉ちゃんに連絡を取る手段を持ち合わせていなかったのだ。

迷子になったのは、そういえば。

小田原城の近くのような気がした。長いトンネルがあって、それで。

雑念を払う。今は空を飛んでいることを忘れてはならない。ハイドラのバックアップがあるとは言え、飛行時は気をつけるように、心がけている。一度電線に引っかかりかけて、酷い目にあったからだ。

今日は曇り空で、お星様も月も見えない。

ハイドラが、雑念があるようだねと言う。その通りだと分かっているので、苦笑いして集中を高めた。

夜の街は、意外と騒がしい。

悪い人も、たくさんいる。

それに、まだ数えるほどしか戦っていないが、人では無い存在もいる。そう言う相手と出くわさないとも限らない。

少し高度を上げて、悪い人を探そうとした、その時だ。

頭上に気配。

全力で加速して、一気に地面近くまで降りた。遮蔽物を利用しながら、距離を取る。言われなくても分かる。

こんな風に気配を見せてくる相手は、本物の命のやりとりをもくろんでいる。

最初に人ならぬ存在と戦ったとき、その怖さを思い知った。

「ハイドラ!」

「分かってる。 まだ、攻撃をしてくる気は無いみたいだけど」

「ほう、良い動きだ」

至近。すぐ後ろ。

返事はせず、加速。今度は上を取る。複雑な街の地形を利用して、相手の追撃を凌ぎつつ、向き直った。

闇夜の空で、対峙する。

相手には、隠蔽の術式が通じていない。此方の姿は見えていると判断して良いだろう。見ると、背中に翼が生えている、黒づくめの男の人だ。ただし顔には大きなくちばしがあり、特徴的な一枚歯の下駄を履いている。

「貴方は?」

「天狗」

「てんぐ……?」

「日本古来の妖怪でも、最も有名な存在の一つだが。 さては貴様、よそ者か?」

そう言われると困る。

そもそも、正体を悟られるようなことは一切口にするなと、ハイドラに何度も言われている。実際、それは好ましくないと、推子も思う。

そういえば、天狗と言われれば、聞き覚えがある。

童話か何かに出てきた、鼻が長い妖怪だ。鳥のような姿をしているタイプもいるのだろうか。

「お前は、何を目的に動いている」

「えっ……?」

「お前の動きは、見事だ。 世にはばかる悪を懲らしめるという点では、だが。 だがな、一つ聞いておきたい。 それは対処療法に過ぎないと、お前は分かっているか?」

難しい言葉を使われた。

そもそも、この天狗という妖怪が、何を言いたいのかもよく分からない。推子がやっていることを、一定の評価はしているようだ。

だが、その後、批判しているのだろうか。

小首をかしげる推子。

だが、反応を見せない。隠蔽の術式は見破られているはずだが、動作は相手に見えていないのだろうか。

「まあいい。 一つ提案がある」

「なんですか? 悪いことだったらしません」

「この世の中を、根本から変えたいと思わないか」

いきなり、とても大きなことを言われる。だが、経験的に知っている。

こういうことを言う人は、大きな大きな痛みを伴う行動を、提案してくると。

「小田原城は知っているな」

「はい」

「其処に膨大な怨念が蓄えられていることは?」

知らない。

多分、口に出さなくても分かっていたのだろう。天狗は、知らないのかと、若干感慨を込めた言葉を吐いた。

「ならば、それを使って何を出来るかも知るまい。 ……まあいい。 考える時間をやろう」

「え……?」

何だろう、この反応は。

上から目線と言うよりも、チャンスをくれてやると言っているかのようだ。

気がつくと、天狗はもうその場にいなかった。

以前戦った、人ならぬものと。根本的に実力が違うようだ。これは、ハイドラにアドバイスを貰ったくらいでは、勝てないかも知れない。

しばらく滞空していた推子は、思う。

きっと今の妖怪は、力になってくれる存在が欲しかったのだろう。

だから、推子の様子を見に来た。

だが、それが間違っている場合は。止めなければならない。

 

夜の街をパトロールするようになって、推子は同級生より視界が広がった。勿論、大人じゃないし、解らない事も多い。

だが、其処に蠢いているのが、業だと言う事は分かる。

闇の中、振るわれる暴力。

勿論、暴力を楽しんでいる悪い人には、躊躇無くお仕置きをする。だが、それにいたる過程が、人それぞれにある。性根から腐っている人もたくさんいるが、そうで無い人もいるのだ。

警察に掴まった人を、見に行ったこともある。こっそり、裁判を覗きに行ったこともあった。隠蔽の術式を使ってだが。

家庭の環境に問題があったり、異常な周囲に振り回されたり。

学校でポイントを奪われて、何もかもが終わったり。

やがて、人は闇を這いずる獣に落ちていく。

だが、獣の爪に掛からないように、守らなければならないものもまたあるのだ。

最初はそれが分からなかった。

必ずしも、どちらかが間違っているとは、限らない場合もある。

だから、パトロールしているとき、いつもとても頭を使う。学校で静かにしている分の頭を、此処で使っているのかも知れない。

故に、帰ってくれば、余計に疲れが溜まっている。

たくさんの魔術を使っているからとは、言いがたい。やはり、頭をいっぱい使っているから、疲れている部分もあるのだろうか。

小田原城に到着。

夜になると、小田原城は静まりかえっている。中には古い施設もいくつかあるが、いずれもがあまり整備されているとは言いがたい。

一応、魔法の力を使っているわけだから、死人を見ることが出来る。

幽霊さん達の多くは、特に害も無い。害がある一部の幽霊さんたちも、恨みや怨念を蓄えたりしていて、それさえ取り除けば救ってあげることが出来る。

パトロールの時、そういう幽霊さんを救ったことは、今までに何度かあった。魔術の助けが無ければ、出来ないことであったが。

「あまり、幽霊さんはいないね」

「この城は、戦いにはなっても、酷いことにはならなかったようだよ。 死んだ人も少ないし、あまり多くはいないんじゃ無いかな」

「どういうこと?」

「西に大阪城って言う大きな城があるんだけどね。 其処なんかは、滅びたときは本当に酷かったらしいから」

ハイドラが、あまり聞きたくない話をしてくれる。

頭を振って、中庭に降りた。

ぬちゃりと、嫌な音がする。魔女になっているとき、地面に降りると、どうしてか湿った音がするのだ。だから、基本はステッキから降りない。

見かけが嫌だとか、臭いが嫌だとか、そんな事で推子は他人を差別したくない。だが、出来れば嫌な音は聞きたくないというのが本音なのだ。

幽霊さんは、殆どいなかった。いるにはいるが、落ち武者とか、そういう古い存在はほとんどいない。いるのは害が無い、死んだばかりだったり、或いはもうこの世から去ろうとしている、穏やかな幽霊さんばかりだ。

本当に、膨大な怨念が蓄えられているのだろうか。

パトロールの範囲内には、そう言う場所がある。

多分、昔戦争があったのだろう。最初見つけたときは、多くの、悲しい姿をした幽霊さんがたくさん群れていた。

地元でも心霊スポットとかで有名な場所だったそうである。いずれにしても、皆を浄化の術式で、恨みも怨念も取り除いてあげた。みんな感謝して、光の中に消えていった。その後も、定期的に見に行って、集まってくる幽霊さんは、皆助けている。

此処は、どうも空気が違う。

歩き回ってみる。

昔は暗いところが怖かったが、今は平気だ。隅まで見て廻るが、特に変な場所も無い。

「お城と言うよりも、何だかその残骸みたいだね。 何かが攻めてきても、とても守れそうに無いよ」

「観光地化している城には良くある事みたいだよ。 いずれにしても、形が残っているだけ、マシじゃ無いのかな」

ステッキに跨がって、飛ぶ。

城を見回してみるが、あまり代わり映えがするものは無い。しかしながら、さっきの天狗という妖怪が、嘘をついているとは思えないのだ。

天守閣というのか、城そのものの周囲をしばらく旋回。その後、中にも入ってみる。

多少埃っぽい。

だが、別段危険なものや、変わったものは存在しなかった。

この力を得てから、勘が働くようになった。危ない場所や良くないものは、感じ取れるようになってきたのだ。

周囲を見ても、勘は働かない。

だから、この辺りには何も無いと言い切って良いはずなのだが。どうも、嫌な予感そのものは消えないのだ。

時計を見ると、いい加減良い時間だ。

他の場所も見回りたい。実際、盛り場などは、数日行かないだけで悪い人が増えたりする。

「ハイドラ、どうやって調べたらいいのかな」

「見て廻るだけじゃあ、駄目かも知れないね。 魔術で幾つか仕掛けをしてみたら?」

「うん……」

少し疲れるが、それくらいは仕方が無い。

あの天狗という妖怪が、何を考えて行動しているのか。それくらいは掴んでおかないと、危ないだろう。

広域を調べる術式を、城を囲むように四つ。そして、城そのものにも一つ仕掛けていく。その途中で寄った閑散としている城内動物園には猿山があるが、それしか残っていなくて、かなり寂しかった。

城を後にする。

盛り場に行くと、今日も悪い人を見つけることが出来た。

道を歩いている人だけでは無い。いかにもなお店や、地下に作られている通路なんかでも、悪い人は悪いことをしている。

殺人事件を今までに六回阻止し、悪そうな取引を十八回潰した。

今回も、同じように悪いことを阻止できるのなら。

推子は、やらなければならない。

対処療法というのが、なんだかよく分からないが。

それでも、出来る事を出来るだけする事が、今の推子のやるべき事で。存在意義のような気がした。

 

3、動き出す影

 

舞い降りた天狗は、翼を畳むと、腕組みした。

小田原城は、盟友の機嫌が悪いことを、敏感に感じ取っていた。

「あの存在……。 正体がそなたにも分からぬか」

「既存の妖怪ではないし、何しろあの姿だ。 人間とも思えん。 隠蔽の術式を破ったときは驚いたぞ

「よその国の妖怪では無いのか?」

「可能性があるとすれば、それなのだろうが……」

だが、それにしては、力が大きすぎる。

そもそも天狗のような妖怪は、人間の思念が長年積み重なった結果、生み出される。都市伝説から生まれた妖怪の力が弱いのは、それが原因だ。あれは少し喋っただけの印象だが、随分と頭が幼いように思えた。

しかし、その割には。

妖怪は、年を重ねれば重ねるほど強くなるのに。

天狗と空中戦で良い勝負をするほどにまで、あの存在は習熟している。元の火力が大きいのだ。

本当に一体、何物なのだろう。

「いずれにしても、計画に支障は無いか」

「ああ。 戦闘力は高いようだが、此処に隠された力の秘密には、あの様子では10年経ってもたどり着けまい」

「油断は禁物だぞ」

「分かっている」

人間の思念から生まれたが故に。

妖怪は、基本的に人間を戒める存在である。人間を喰らうことも、人間の恐怖を刺激するための、後付けの設定だ。

実際、どこの歴史に、妖怪に喰われて死んだ人間が出てくるだろうか。

人の死に関わっているのは、基本的に自然現象である。逆説的に言うと、妖怪には人間を殺す「権限」が無いのだ。

だからこそに、いやむしろそれが故に。

天狗は今、人間に改革をもたらそうと思っている。

あれが邪魔をするのなら、排除する。相手が人間で無ければ、いくらでも戦う事が可能だ。

途中から隠蔽の術式を強化したか、天狗にも追うことが出来なかったあの存在。

恐らく、明日も現れるだろう。

もし、勝負をするならば。その時だった。

「明日、仕掛けるのか」

「あれの力は大きい。 対処をするなら、早い方が良い」

「まて。 戦うのであれば、儂も助勢しよう」

「いや、殺すつもりは無い。 まずは様子見だ。 もしも本気で此方に立ち向かうのであれば、早めに対処をした方が良いからな」

いずれにしても、隠蔽の術式を使っているとしても、消耗と移動速度から計算して、小田原市の何処かに奴が潜んでいるのは確実だ。

ならば、天狗にとって長年の縄張りでの戦いとなる。

負ける要素は、無かった。相手が何物であったとしてもだ。

 

帰宅すると、どっと疲れた。

ハイドラのアドバイスで、帰り道は隠蔽の術式を何倍にも強めて掛けたのである。身を守るためとはいえ、それが疲弊の原因だった。悪い人をやっつけるのに、八回も術式を使ったことも、疲労を上乗せしていた。

部屋に掛けていた術式を解除。

お姉ちゃんはどうしたのだろうと思ったが、今日は気配も無い。或いは疲れて眠っているのかも知れなかった。

推子も、そのばで寝てしまいたいくらいだったが。

パジャマに着替えるくらいはしないと、お姉ちゃんを心配させる。変身を解除しても、しばらくはハイドラは側にいるので、ボタンに指を掛けながら話をした。眠くて、頭がこくりこくりとしているが、どうにか頑張る。

こんなに疲れたのは久しぶりだが、初めてでは無いからだ。

だから、頑張れる。

「あの天狗って妖怪、何を企んでるんだろうね」

「大きな事だと思うよ」

「何だろう。 悲しい事じゃ無いといいんだけれど」

世界では、たくさん悲しい事が、今でも起きている。

チョコレートを食べているとき、思い出すのは、お姉ちゃんが言っていたアフリカの農場の話。

焼け付くような日差しの下で、痩せた子供達が鞭を振るわれながら、息も絶え絶えに働いている。子供達には親もいない。親に売り飛ばされたからだ。

だから、農場主も、子供達を平気で使いつぶせる。人間じゃ無くて、買い取った「モノ」だからだ。使いつぶされた子供達は、誰にも助けを求められず、死んでいくしか無い。

チョコレートは子供達の血の塊だ。お姉ちゃんは、そんなことを言っていた。

世の中は、悲しい事の塊で出来ているとも、お姉ちゃんは言う。だから、それを変えたいのだとも。

推子も、世の中を変えたいと思う。

あまり気は乗らないが、お姉ちゃんが言うとおり、今の学校は確かにおかしいとも思う。推子自身は心地が良いのだが、他の子供はみんなつらそうにもしている。

誰も嬉しそうにしない学校行事の数々。

何もかも、PTAの監視の下でしか出来ない子供達。何かあればポイントを引かれ、最終的には家族もろとも、社会から追い出されてしまう。

お姉ちゃんでさえ、その先にどうなるかは教えてくれない。きっと、とても悲しい事なのだろう。

「今は眠るんだ。 明日、あの天狗と、どうなるか分からない。 待つとは言っていたけれど、いつまで此方を放置するつもりかも分からないからね」

「うん、分かったよ」

悲しい事を考えると、おなかが痛くなる。

学校で、とても静かにしているのは、それが原因かも知れない。

 

クラスの隅っこに、とてもおとなしい女の子がいる。

推子とは別方向でおとなしい子だ。コミュニケーションが苦手らしく、まともに他の子の目も見ることが出来ない。

ただし勉強は出来る。このクラスで一番勉強が出来るので、飛び級の第一候補だ。

推子は、この子、長沢佐登二と話す数少ない同級生である。彼女は色々と詳しいので、話を聞くと楽しいのだ。

移動教室の前に、話しかけてみる。

天狗のことを聞くと、案の定知っていた。

「ああ、それはきっと、烏天狗」

「カラスてんぐ?」

「大きな声出さないで……」

赤面してうつむく。周囲の視線が集まるのが、嫌なのだろう。

別の意味で孤独を愛するタイプだ。

不思議な話で、大人になると、こういうタイプは内向的とか言われて、毛虫のように嫌われるという。よく分からない。

「普通の天狗と、何が違うの?」

「古いタイプの天狗なの」

話によると、鼻が長いよく知られている天狗は、最近作られたイメージなのだという。

娯楽の時代でもあった江戸時代、妖怪にも様々な変化が生じた。元々、いろいろな姿とイメージがあったカッパに、皿が頭にあって甲羅を背負っている、というような定型のイメージが付いたのも、この頃だという。

天狗もそれは同じだとか。

「昔の天狗は、鳥と姿が似ていたの。 烏天狗は、古い時代の天狗が、そのまま姿を残した存在なのよ」

「へえ……」

そういえば、ハイドラに聞いた。

人ならぬものは、古ければ古いほど強い傾向があるという。あの天狗は、非常に強い力を感じた。

きっと、とんでもなく古い妖怪なのだろう。

それから、休憩時間の合間に、天狗について順番に聞いていく。

「天狗は奥が深い妖怪なの。 原点は、インド神話のガルーダにさかのぼるとさえ言われているわ」

「インド? 遠いね」

「うん。 とても遠い国」

仏教を通じて、インドから様々な神話が入ってきているのだと、佐登二は言う。

天狗の原型になったガルーダもその一つ。

元々あった山の神様などをまつる信仰と混じり合い、悪くなったり偉大な存在になったり。いろいろな変遷を経て、天狗はやがて鼻の長い、人を悪い世界に導く存在であり、同時に偉大な山の守護者としても知られるようになった。

日本の妖怪は、神様と区別が付かない存在が多いのだと、佐登二は言う。天狗はその代表例だろうか。

「それにしても、どうしたの? そんなことを聞きたがって」

「私は、知ってることを、異常なことだって思わないから」

「……」

嬉しそうに頷くと、佐登二はうつむいた。

きっとこの子は、ずっとそれに苦しめられてきたのだろう。知っている事は、異常だという学校の風潮は、こういう賢い子にはつらいはずだ。

お姉ちゃんを見ていて、それはとても強く感じる。

強いから、お姉ちゃんは迫害を躍進のバネに変えることが出来た。

でも、そうじゃない人は。こういう環境では、きっとつぶれてしまう。天狗は、一体何をどうしたいのだろう。

それに、お姉ちゃんは。

解らない事は、多い。

学校が終わる。何だか今日は、考え事が多いからか、あっという間だった。ホームルームで、先生が何か言っている。ぼんやりと、デスクを操作して、内容を確認。

魔女について、だった。

PTAが魔女を目の敵にしていることは、推子も知っている。そういえば、以前やっつけた悪い人が、PTAの人に悪いお薬を渡していた。そのお薬は、やっつけたとき、大勢の人の前でばらまかせてあげた。確かその様子が、動画でアップロードもされていたはずである。あのときかなり騒ぎになって、PTAの上の方の人が入れ替わったのだとか。知っているのは、お姉ちゃんに聞いたからだ。

お姉ちゃんも、魔女のことは知っている。

「正義を勘違いした妖怪だと思っていたが、粋なことをするじゃ無いか」

そう、お姉ちゃんは愉快そうに笑っていた。その様子を見て、少し推子も嬉しかった。お姉ちゃんが魔女を褒めてくれたのは、初めてだったからだ。

その後も、「メンツを潰された」PTAは、執拗に魔女叩きをしている。もっとも、それを真面目に信じている子供など、一人もいなかったが。

推子が知る限り、子供は大人を信じていない。

嘘まみれである事を、知っているからだろう。

「変質者に声を掛けられたら、すぐに防犯ブザーを押すように」

結局はそれだ。

気が利いたことを言おうにも、今や学校はPTAに全てを掌握されている。だから、PTAが作ったマニュアル以外のことは何も出来ないのだ。或いは、先生達も、歯がゆいのかも知れない。

ホームルームが終わって、帰路につく。

子供達は、今日に限っては魔女の話をしていた。とても怖い姿をしているのだとか、悪いことをすると食べられてしまうのだとか、そんなことを言っていた。

笑いたくなるのを、こらえる。

そんな怖い魔女が、すぐ側にいるのに。この子達は気付いていない。

そして、その正体にも。

家に着くと、今日は珍しくお姉ちゃんが先に帰っていた。家のお掃除をしていたので、推子も一緒になって作業をする。自分の部屋の窓を開けて埃を追い出し、空気を入れ換える。

お掃除をすると、不思議とハイドラがいやがるのだが。

だがハイドラには悪いが、お掃除をしなければ、お姉ちゃんに怒られるのだ。それはもっと嫌だ。

お掃除を済ませると、夕食に丁度良い時間が来ていた。

手際が良いお姉ちゃんは、もう夕食を作ってくれていた。今日はハンバーグに、豆腐のサラダである。

豆腐のサラダはちょっとドレッシングが酸っぱくて苦手なのだが、お姉ちゃんのことだ。栄養とかそういうのを、よく考えて作ってくれているはず。何より残したら、豆腐がどうやって作られるかを、延々と説明されかねない。

我慢して、全部食べる。

嬉しそうにお姉ちゃんは目を細めて見ていた。

それから、自分でも天狗を調べてみる。佐登二の言ったことに殆ど間違いは無く、むしろネットの情報サイトよりも詳しいくらいだった。

しばらく情報を調べて廻る。

やはり、関東にも天狗の伝説はあるのだそうだ。天狗は二面性がある妖怪で、人間を悪の道に引きずり込む側面と、山の偉大な守り神である面がある。やはり、佐登二が言っていたように、複雑で奥が深い妖怪なのだろう。

推子が出会った天狗は、山の守り神に思える。

だとすると、容易な相手ではないだろう。

自室に戻ると、ハイドラが来ていた。相変わらず姿は見えないが、機嫌が悪いのは分かる。

「部屋を掃除したみたいだね」

「ごめんね。 でも、お姉ちゃんが怒るから」

「別に怒っていないよ」

怒ってる。

以前聞いたことがあるのだが、部屋にある推子の臭いを頼りに、ハイドラは来ているらしいのだ。

お掃除をすると、その臭いが薄れる。

だから、いやがるらしい。だが、推子の事情も分かってくれてはいるらしいので、あまりくどくど言うことは無かった。

パトロールに出かける。

お姉ちゃんの部屋の明かりは、まだついていた。

きっと今夜も、遅くまで勉強を続けるのだろう。

「天狗さん、来るかな」

「時間をやるとはいっていたけれど、そんなに長く待つとは思えない。 彼にしても、自分の庭で好き勝手をされているに等しいだろうからね」

「確かに、それはそうなのかも。 調べてみたんだけど、天狗さんって、すごくすごく古い妖怪みたいなの。 山の神様と、ほとんど区別もできないんだって」

「なるほど、それならあの強大な力にも納得がいく」

ハイドラは、そういえば天狗にはあまり詳しくないらしい。

この力をくれた存在として、とても感謝はしているが。一体何物なのかは、今もよく分からない。

この力についても、解らない事だらけだ。

前に興味本位で魔術について調べてみたことがあるが、もっと神秘的な存在で、悪く言えばいい加減だった。

今使っている魔術は、どれも極めてシステマチックに思えるものばかりだ。

むしろ、科学的に感じる部分さえある。だとすると、古代から人間が魔法とか魔術とかと呼んでいるものとは、別物なのかも知れない。

だとすると、この力は、一体何なのだろう。

小田原の街の上空に出る。今回は最初から警戒していたが、しかし天狗は現れない。今日は天気が悪く、雨が降り始めるまで、時間も掛からなかった。

遠くで、稲光が走っている。

雨よけの術式を使っても良いのだが、そうすると隠蔽の術式に重ねがけすることになり、更に消耗が大きくなる。

もし天狗と戦う事になると、色々面倒だ。

だから、できる限り低空の、雨脚が弱そうな所を選んで飛ぶ。速度を上げすぎると危険だから、いつも以上に飛ぶルートには気を遣った。

だが、雨脚が強くなってくると、そうも言っていられなくなる。

雨のせいか、今日は悪い人もほとんど見かけない。悪意もあまり感じない。

一旦街を抜けて、山の方に。

そこで、大きな木の下で、雨宿りしながら。昨日小田原城に仕掛けてきた術式を、遠隔で回収して、分析を行おうとした。

とっさに避けなければ、その時点で黒焦げになっていたかも知れない。

木の至近に、雷が直撃。

轟音と共に、辺りに今まで以上の、もの凄い雨が降り注ぎ始めていた。

大木の上に、天狗の姿。腕組みして、手には不思議な形の団扇を持っている。あれは天狗の術を制御している要だろうか。

「さて、返事を聞こうか」

「あなたがしようとしている事によります」

「ほう……?」

天狗が、まるで空を滑るようにして、此方に迫ってきた。

戦いながら、話をするとでもいうのだろうか。ステッキに跨がったまま、飛行を調整して、距離を取る。

天狗はまるで此方をもてあそぶように、なめらかな機動で後ろを取ろうとする。気がつくと、上を取られてしまう。

加速して、木の下をくぐり抜けるふりをして、急停止。天狗がそれにつられて止まった瞬間、再度急加速。一気に距離を取り、振り返った。

天狗はいつのまにか、至近に迫っていた。

鳥のような顔が見える。瞳孔の形は人間と違っているようで、見るとやはり異形だった。

「中々見事な空中機動だ」

「……!」

「だが、私には勝てないな。 具体的に何をしようとしているかについて聞いて、それから判断するつもりらしいが……その場合、計画への参加を拒否したら、殺すぞ?」

殺すと、とても強い言葉が天狗の口から出た。

戦慄が背中を駆け上がる。

だが、怖くても、屈してはいられない。

夜の街では、悪い人がもっとおっかない言葉を使っている。中には、獣の雄叫びと変わらないものだって少なくない。

だから、平気だ。

付いてくるように、天狗は言う。

言われるまま、小田原城の上空に向かった。やはり、特に悪い力のようなものは感じない。

あれから、色々調べてみた。

日本にある様々な古城には、殆ど例外なく、怖い話が残っているものだ。城の形が残っていないようなものでも、それは同じである。

小田原城はその点大変穏当で、特に怪談話の類も無い。あるにはあるが、小田原城にまつわる悲惨な逸話があまり存在しないからか、とてもおとなしい内容だ。

この城は、戦乱の中焼け落ちたのでは無い。

落城したとき、多くの人を道連れにした他の城とは違う。圧倒的な力でねじ伏せられたことに変わりは無いが、それでも平和裏に終わりを迎えたのだ。

「不思議そうな顔をしているな」

「不思議です」

「ほう」

「このお城は、たくさんの悲しいお話と一緒に残ったのでは無い、って調べてみたらわかりました。 どうして、闇の力がどうのこうのって事になるんですか?」

天狗は、天守閣というのか、城の唯一残っている大きな建物の上で振り返る。

その周囲に、渦巻く力が。

確かに、推子にも見えた。

「それはあくまで人間の主観だ」

「え……?」

「城の立場に立って考えて見たことはあるか? この城は一体何の目的で作られた。 そして、どうして滅びていった」

その言葉と同時に。

城そのものから、吹き上がる。それは、あまりにも濃厚な闇の力。

どうしてと、推子は呟いた。

あれだけ調べたのに。どうして、こんな強大な力が残っていたのか。

まさか、この城そのものが。何かのいきもののような存在で、力を隠しているのか。巨大な生き物のような存在である事を失念していたから、力を感じ取れなかったのか。

「この力で、貴方は何を……」

「この城は、地脈の上に立っている」

地脈とは、力の流れ。

それは逆に言えば、世界そのものをコントロールするものだと、天狗は言う。

「この地脈を操作し、歴史を、小田原城が陥落しなかったものに、移動させる。 本来だったら世界を作るも同然の大術式で、私の手に負えるものではないが。 地脈の上に立ち、何百年も怨念を蓄え込んだ小田原城のバックアップがあれば、それは可能だ」

「そんな……」

「この世界は狂ってしまった。 私は人間共を戒め続けたが、もう修復不可能なところまで歪んでしまっている」

子供を檻に入れて教育するような、異常な価値観の蔓延。

一見良さそうな事を逆利用して、暴虐の限りを尽くす者達による世界の支配。

仮にそれを打破しても、同じようなやり方が蔓延するのは目に見えてしまっている。だから、一度大きな地点から修正を行って、其処から事態の解決を図る。

そう、天狗は言う。

「今、生きている人達は、どうなるんですか」

「……」

「この世界は」

「全ては灰燼に帰す」

それは。

絶対に、認めることが出来ない。

お姉ちゃんが言うように、おかしな事になっているとは、推子も思う。だが、他ならぬお姉ちゃんのように、この世界にあらがっている人もいるのだ。

全てを灰燼に帰すような事を、許してはならない。

「どうする。 我々と共に来るか。 それとも、あらがうか」

「あらがいます」

「この腐った世界を肯定するつもりか」

「よくわかりません。 でも、お姉ちゃんがいなくなるのは、嫌です」

小さな痛みだと、天狗は言う。

それを、認めるわけにはいかなかった。

「ならば、お前にも。 新世界の礎となってもらおうか」

天狗が翼を広げる。

同時に。

小田原城が、地鳴りを挙げて、せり上がり始める。

否。これは、違う。

周囲の光景が歪んでいく。世界の法則そのものが、作り替えられているのだ。以前にも、強力な人ならぬものと戦ったとき、同じような光景を見た事がある。

影響を周囲に及ぼさないため、独自の閉じた空間を作る技術。

確か、結界と言ったか。

だが、これで。

推子は、戦いから逃げられなくもなった。天狗を倒さない限り、この結界から逃れることは出来ないだろう。

「ため込まれた闇の力、存分にその身で味わうがよい! 異形のものよ!」

天狗が、手にしている団扇を振るうと、狂風が辺りに吹き荒れた。

 

4、小田原城血戦

 

狂風が収まると、辺りの様子は一変していた。

空はワインをぶちまけたような、禍々しい色に。周囲に人気は一切無く、どこまでも続く荒野が広がっていた。

そんな中、小田原城の姿も変わっている。

どこまでも続く城壁。

彼方此方にそびえ建つ、戦いのためと思われる建造物。

立派なお城だと、推子は上空から見下ろしながら、感心した。

北条家は、関東地方を支配した、戦国大名の中でも屈指の力を持つ存在だった。関東地方を支配してからは衰えて、色々と情けない所もあったらしいのだが、それでも戦国屈指の大名であった事に違いは無い。

その、北条家を支え。そして、シンボルとなった城。

それが、小田原城だ。

北条の一族が、大きな気になったのも、無理は無いかも知れない。この規模、まさに圧倒的。

関東を支配した一族に相応しい威容を持つ城だ。これを見てしまっては、小規模な大名では、勝てるとはとても思わなかっただろう。

「此処を起点に、世界を書き換える」

天狗が、小田原城のてっぺんに降り立つ。

それに呼応するように、辺りからもの凄い鬨の声が上がった。えいえいおう、えいえいおう。

大河ドラマでしか見たことが無いような、凄い光景である。

それも、何万人という武者が上げている様な、とてつもない歓声だった。

城の彼方此方に、旗が立つ。

いずれもが、血にまみれていたり、破けていたり。だが、その誇りと共にあるのが、一目で分かるのだった。

だが、城に人影は見えない。

何となく、推子にも、からくりが見え始めていた。

これは、この城に暮らした人達の怨念では無い。そもそも、推子は目の付け所を間違っていたのだ。

風が吹き荒れる。

天狗が、真上に回り込んでいた。加速して、そのまま前に。後ろにつかれる。

至近を、何かがかすめた。矢だ。

真下から、無数の矢が飛んでくる。矢は天狗には飛ばず、推子だけを精確に狙ってきていた。

前からは弾幕。右、左、かわす。だが、矢は次々にかすめた。

「防御の術式を……」

「だめっ!」

ハイドラのアドバイスをはねのけ、更に加速。そしてある一点で、急降下。後ろの天狗が、戸惑ったのが分かった。

まっすぐ直進。地面が、見る間に近づいてくる。

其処には、人影は無い。ならば、矢はどこから飛んできているのか。

上。

無数の槍が、降り注いでくる。地面すれすれを、加速しながら飛ぶ。天狗は困惑しながらも、ぴったり後ろに張り付いてくる。

一瞬でも機動をミスしたら終わりだ。息を呑むと、風から体を守る術式を展開した。更に加速するためだ。

城壁が見えてくる。

足を、手を、槍がかすめる。跨がっているステッキにも、何度かかすめて、鋭い金属音がした。

天狗が、急上昇するのを感じた瞬間、推子もそれに習う。

地面に、爆発のような、空気がはじける感触。無理矢理方向転換するために、空圧を下にぶつけたからだ。

今度は垂直に上がる。

下に、天狗を見下ろす。ついに、機動が相手を上回った。ステッキに触り、コマンドを呼び出しながら、一回転した。

速度が零になる。

同時に、ステッキの右隣に。大きな槍が出現していた。大きさは全長六メートル半。普通の槍と違って極太で、先端部分には加速機能も付いている。

「そんな大味な武器が……」

天狗が左右にぶれ、残像を残しながら、刀を抜く。

「投槍、射出!」

順番にコマンドに触れ、槍を撃ち出した。

槍が、天狗の残像を貫く。勿論当たるとは思っていない。

「貰った!」

至近。刀を振りかぶった天狗。

だが、下で爆発。さっき、空圧をたたきつけた地点に、更に槍を叩き込んだのだ。槍には爆発の術式も仕込んであった。

轟音と共に、城にひびが入る。

それは小さな罅だが、怨念のうめきに、ノイズが確実に混ざるのを、推子は感じ取っていた。

やはり、天狗の言う事は、観念的なものではなかったのだ。

天狗の顔が、怒りに歪む。

再び空中で、追いかけっこの開始だ。さっき以上の速度で、天狗は追いすがってくる。刀を振り下ろしてきた。だが、わずかに肌をかすめられながらも、左に大きく弾かれるように飛んで、逃れる。

斬られた瞬間、何か緑色っぽい粘液が飛んだように見えたのだが、気のせいだろうか。

加速して、再び下に。ステッキに触れて、術式を呼び出す。

奇声を上げながら、天狗が追いついてくる。

刀を腰だめしている。刺し貫いてくるつもりだろう。勿論、刺されたらおしまいだ。

「スイ、距離を取るんだ! 空中戦では、相手に分がある!」

「大丈夫、任せて!」

さっきから見ていると、城からの槍や矢は、絶対に天狗には当たらない。恐らく完璧なまでの連携と言うよりも、信頼関係が力になっているのだろう。

視界が遮られる。

悩んでいる暇は無い。左に急加速。体の右側に、灼熱を感じた。

きりもみのまま、墜落しそうになる。

今のは、大砲か。

至近で炸裂する大砲なんて、戦国の時代にあったのだろうか。

真上。

天狗が、全力で突っ込んでくる。

このタイミングだ。

術式を展開する。

必殺の気迫で突っ込んできた天狗が、推子をすり抜けていた。

透過の術式だ。一瞬しか効果は無いが、天狗の速度が、それを逆の意味で生かす。

最大加速だったから、天狗もすぐには止まれない。翼を広げてブレーキを掛けるが、その時には既に、推子は次の術式を準備し終えていた。

「投擲、投網!」

「なっ!」

空中で広がる、魚を捕るための巨大な網。

これでも推子は、空中での機動だけは自信がある。だからこそ、空中戦で、ブレーキが如何に難しいか、その後の機動に移るまでの間が如何に危険かはよく分かっている。

天狗も、それは同じ筈だが。

だが、機動力だけなら。此方が上だ。

他の全てが負けていても、空中戦では。それで、逆転が可能なときもあるのだ。

網に包まれた天狗が、もがきながら落ちていく。

空中戦はデリケートな調整が必要な、非常に難しいものだ。さぞや膨大な経験を積んでいるだろう天狗も、これではひとたまりも無い。

加速して、下に。天狗を追う。

今の大砲はともかく、天狗自体を盾にすれば、矢を放つことも、槍を撃ってくることも、お城は出来ない。

網を破ろうと、天狗がもがく。

その至近まで出ると、術式を展開。空中に、巨大な戦槌が出現する。

もちろんこんなもの、振り回せるわけが無い。術式で使うのだ。

地面に、天狗が激突。

その至近に降り立った推子は、槌を振り上げたまま(実際には、柄に触れているだけだが)、言う。

呼吸を整えるのが、大変だった。

「計画を、止めてください」

「……っ」

「お姉ちゃんがいなくなるの、嫌です。 だから、止めてください」

「断る!」

網には、重量の術式も掛けてある。

天狗は地面に直撃したダメージもあり、身動きが取れない様子だ。

「我らの存在する意義は、人を戒めること! 人の闇が作り出した我らが、今こそこの腐敗しきった末法の世を変えなければ、人に未来は無い! 我らにも、必然的に未来は無くなる!」

不意に、無数の手が、推子の足を掴んだ。

地面から生えてきている青白い手だ。呻きを挙げながら、地面から現れる無数の亡者。だが、それらには顔が無く、とてもかって存在した実在の人間だとは思えない。

色々な幽霊さんを見てきたが、みな顔はしっかりあった。今此処にいるのは、鎧こそ着ているが、いずれもが顔無しである。

「今だ、天狗よ、逃れよ!」

「小田原殿! すまぬ!」

縄を切り払うと、天狗が空に舞い上がる。

結界をどうやって抜けたのか、その姿はまもなく見えなくなった。

 

結界に取り残された推子は、手足を無数の顔無しに掴まれたまま、途方に暮れていた。この巨大な城を、破壊し尽くすのは難しい。

さっき投げ槍を打ち込んだ時のようにダメージを重ねていけば、いつかは倒せるかも知れない。

だが、既にへとへとな状態の推子には、とても無理だ。

これは、詰んだかも知れない。天狗は一瞬の隙を突いて撃退したが、このお城そのもの。そう、怨念の塊では無い。天狗の言っていたように、怨念を蓄えた小田原城そのものを落とすのは、無理だ。

「小田原城さん?」

「何か」

「あ、喋れるんですね」

「先ほどから聞いていただろうに」

足を引っ張る顔無し武者達の力は、正直なところさほど強くは無い。

魔女に変身した時、推子の身体能力は上がっている。そうでなければ、高速機動の時に、振り落とされてしまうからだ。

だが、それにしても、妙に顔無し武者達は弱い。

どうしてなのだろうか。

「小田原城さんも、歴史を変えることに、賛成なんですか」

「儂は落城してからこの方、ずっと眠っていた。 そして目覚めたら、この有様よ」

「……」

確かに、今の雄々しい姿に比べて、現実の小田原城はあまりにも無惨すぎる。

城郭としての形状を残して無いどころか、観光地としても中途半端だ。まさか中に動物園を作られるなど、かって小田原の城を築いた人達は、思いもしなかったことだろう。

「でも、今はとても平和な時代です。 それに……」

「歴史は学んでいる。 要塞は既に時代遅れだというのだろう?」

現在、観光地以外で、城は存在しない。軍事基地も、城とは呼べない代物だ。

何故か。

攻撃兵器の極大的な発達のためだと、佐登二は言っていた。どんなに装甲を分厚くしても、近代兵器の火力の前には役に立たない。

だから、世界対戦の頃には、要塞は時代遅れのものとなっていた。

日本でも、戦国時代後期には、既に巨大城郭は見た目ほどの力を持たなかった。戦国最大の城郭である大阪城も、実際には内部にまで大砲を撃ち込まれ、首脳部が動揺するほどの被害を出していたという。

「大阪の城のように、戦った末で滅びたのであれば、諦めもつこう」

「戦いたかった、のですか?」

「そうだ。 私は北条の者達を守り、民達の希望として、この地にあり続けた。 だが愚かな北条の末裔は、私の存在を全く生かせず、自滅に等しい最後を遂げた。 滅びるまで殺し合えなどとは言わぬ。 だが、せめて戦略的な価値を生かし、その末での戦いで終わったのなら。 私も、あきらめが付いただろう」

口惜しくてならぬ。

そう呻く小田原城は、本当に悲しそうだった。

きっと、小田原城は、天狗と同じ意見を持っていたのではない。歴史を変えることで、雄々しく最後を迎えたかったのだ。

推子には、そういう事はよく分からない。

推察は出来た。だが、気持ちは理解できない。

相容れない部分も多い。この小田原城が言うように、激しい戦いが歴史で本当に起こって、その末に滅びたのなら。その時に、たくさんの人が亡くなったはずだ。それを容認するのは、推子には出来ない。

だが、人がたくさん死ななくて良かったでは無いかという理屈は、通用しないはずだ。

価値観が、違うのだから。

以前、人ならぬものと戦ったとき。価値観が違う存在がいる事を、推子は知った。

それは、怒りながら否定して、自分と同じ価値観にしなければならない、という事では無い。

受け入れられない部分は、どうしてもある。

だが、価値観が違うと言って相手を否定していたら。絶対に、殺し合いになってしまうのだ。

それはとても悲しい事なのだと、推子は思う。

わかり合えなかった相手のことを思うと、なおさらだ。

「私が戦ったら、小田原城さんは、満足してくれますか?」

「ほう……」

一瞬の隙を突いて、無理矢理飛び上がり、空中でステッキに跨がる。

無数の矢が瞬時に飛来する。こればかりは、ガードするしか無い。防御の術式で矢の軌道をそらして時間を稼ぎつつ、上空に加速。

どのみち、小田原城をどうにかしなければ、結界からは出られないのだ。

もう、力は殆ど残っていない。この巨大な、全盛期の姿を再現した小田原城を、全て粉砕するなんて、不可能だ。

だから、もしもやるとしたら。

疲弊の中、それだけが浮かんだ。

どうしてか、死は怖くない。今は限りなく詰みに近い状態の筈なのに。最初、夜の街で、悪い人同士の罵り合いを聞いたとき、怖くて震えが止まらなかった。今はどうしてか、それが滑稽な。

たとえば、イヌがエサをほしがって吠えているのと同じように聞こえる。

それと同じなのかも知れない。

「ハイドラ、お願いがあるの」

「なんだい」

「どこにいるかわからない? 分からないなら、探してくれる?」

 

無数の矢が追いすがってくる。あまり高度を上げると砲撃が心配だから、ジグザグに飛びながらも、あまり高さを保てない。

今度は、前方から槍が飛んできた。素早く左に飛んで避けるが、一本が脇をかすめた。既に術式で作った服は、彼方此方で破れ始めている。当然、かすめただけで、かなり痛い。直撃を受けていたら、その時点で撃墜確定だ。

相手は、何でもありだ。

だが、もう怖くは無い。

相手には心がある事が分かった。

多分、学校を子供の牢獄にしているPTAの人達よりも。何よりも、そんな牢獄で、むしろ孤独を喜んでいる推子よりも。

心があるのなら。

色々と、分かる。話してみて、分かったことも、たくさんあった。

考え方は決定的に違っている。仲良くなることは難しいかも知れない。

だけど、きっと。

不可能では、無い筈だ。

加速して、天守閣という、一番大きな建物を目指す。

戦国の後期からはやり出したらしいという天守閣。何層にも重なっている、とてもかっこいい、お城の見本のような部分だ。日本のお城といえば天守閣だし、推子もそれは知っていた。

無数の顔無し武者が、天守閣の各階から、姿を見せる。

手にしているのは、凄く大きな弓ばかり。いずれにも矢をつがえていて、一斉に放ってくる。

視界を覆い尽くすほどの、矢の弾幕。

「スイ!」

ハイドラの声が聞こえる。加速して、一気に高度を落とす。高さを速さに変えながら、地面すれすれで上昇。

射線が追いついてくる。

すぐ後ろを、矢がかすめる。

これだけの矢を、良くも放ってくるものだ。各階を覗くようにして、急上昇。手に、腕に、痛み。

矢がかすめた。至近だ。とても避けきれるものではなかった。

呼吸を整えるのが大変だ。

もう、視界も霞み始めている。

どうして、怖くないのだろう。不思議だ。悲しいという感情は、ずっと前から残っている。

夜の街で、人間の業をぶつけ合う人達を見ていると、とても悲しい。

だけど、大人達の喧嘩や、欲望まみれの行動を見ていても、怖いとは思わない。いつの間にか、戦いも怖くは無くなっていた。

天守閣の高度を、超える。

まるで、周囲を覆い尽くすような矢。

ハイドラの声が聞こえた。やはり、そうだったのか。

最後の力を振り絞り、ステッキに触れる。術式を発動。

出現させたのは、穂先の部分だけで、推子の体の四倍はある、超巨大な戦槍だ。

大型の武器を出現させる術式は、相手を驚かせるためにも、よく使う。

だが、今回は。

そのまま、推子は。

天守閣の真ん中に向けて、槍を「落とした」。

その巨大さ故に、とてつもない質量をもつ槍が、突き刺さり、一気に天井を押し破って中に穂先を潜り込ませる。

同時に、無数の矢が、槍が。

推子の全身に殺到した。

槍に続いて、自身を天守閣に押し当てるようにして、身を守るのが精一杯。

飛んできた武器が、何本も体に突き刺さるのが分かった。

何か、粘着質の物体が、切り裂かれ、破られるような音が、何度も重なる。

歯を食いしばって、痛みを耐えた。

天守が、鳴動する。

それは慟哭にも、驚愕の雄叫びにも聞こえた。

 

ぼんやりしている推子は、その声を聞いた。

全身が酷く痛む。

いつの間にか、結界は消え。現実の小田原城の道に倒れていた。夜中だから、周囲には誰もいない。

「天守を貫かれるとは。 儂の負けだ」

声が聞こえた。

さっき、何度か会話した、小田原城さんその者の声だ。

全身はまだ痛い。だが、変身している時。推子は、致命傷を受けなければ死なない。手足は多分使い物にならないほど痛んでいたから、数日は酷く苦しいだろうが。不思議と血は流れないし、歩くこと自体は出来る。

「やはり、儂は時代遅れの存在だったのだな。 空を舞う者には、無力であった」

「そんなことは……」

「いや、良いのだ。 一度総力で戦ってみたかった」

上杉謙信は。多くの兵を率いて攻めてきたが、そもそも彼は野戦での戦いを好む武将であり、最初から小田原城を落とせないことも理解していた。だから、早々に引き上げてしまった。

武田信玄は、そもそも小田原城を落とそうとは思っておらず、政治的駆け引きの一端として、包囲しただけだった。

戦国最強の武将二人は、小田原城を攻め落とすことが出来たのだろうか。

或いは、出来たのかも知れない。もしも、戦略的な計算を度外視して戦っていれば、或いは。

いずれにしても、小田原城は生き残った。強いから勝ったのではなく、戦略的な価値判断から生き残ったという事実のみを残して。

だが、後の方法では、最強の二人を追い返したという実績だけが、無為にふくれあがった。

それが、空虚で無意味な自信を作り上げてしまった。

「儂もいつしか、その空虚な自信に引きずられてしまったのかも知れぬな」

「小田原城さんは……手強かったです」

それは、嘘偽りない、推子の言葉。

この力は、夜の街をパトロールするには、過剰すぎる気は前からしていた。だが、今、それを生かせて、良かったと本当に思う。

有り難うと、一つの言葉を残して。小田原城の気配が、どんどん弱くなっていく。

ため込んだ願いが、霧散していくのだ。天狗は悲しむかも知れない。だが、これで世界が全て書き換えられてしまうことは、恐らく無いだろう。

明日は筋肉痛が酷そうだ。寝坊してしまうかも知れない。

ステッキに跨がって飛ぶ。ふらふらしていて、人に見られそうだった。情けないけれど、達成感はあった。

小田原城は、満足してくれた。消えたのでは無く、眠ってくれたのだ。今度は、怨念を蓄えるのでは無く、ただ静かに。

平和な時代、お城には存在する意味が無い。

だから、歴史の遺産として以上の価値が無い。戦いを求めてはいけないのである。だから、ああいう存在は、安らかに眠るか、後はその場で静かに周囲を見つめているしか無い。それで、満足できるようになったのなら。

きっと、それは悲劇では無かった。

さあ、帰ろう。

自分に言い聞かせる。家に帰れば、お姉ちゃんが待っている。

そして、どれほどに腐っている世の中でも。明日の太陽は、地平の果てから昇ってくるのだ。

そう、推子は信じていた。

 

5、闇を這う者

 

訳が分からなかった。

路地裏でシンナーを吸っていると、警察より先に魔女とか言う化け物が飛んでくる。それは、ヤスも聞いたことがあった。だが、そんなものが怖くて不良など出来るかと、学校で笑い飛ばしていた。

だが、出たのだ。

それは夜闇に紛れて、突然現れた。

姿は見えなかった。だが、一瞬だけ、蛸のような烏賊のような、見るも恐ろしい触手が現れると、円座を作ってシンナーを楽しんでいたヤスの仲間の一人を捕らえ、何も無い空間に引きずり込んだのである。

そして、凍り付くヤス達の前で、飲み込んだ仲間を吐き捨てた。

粘液まみれになった仲間を見て、皆が絶叫する。

逃げようとするが、誰も逃げられない。ヤスも、路地裏から飛び出そうとしたところで、足首を掴まれた。

「ひぃぎゃああああっ!」

絶叫。

だが、今時、そんなもので誰が駆けつけてくるだろうか。

泥棒と叫んでも、関わり合いになるのが嫌で、警察を誰も呼ばないご時世である。チンピラが悲鳴を上げている位で、誰が動くものか。

それを知っているはずのヤスなのに。涙と鼻水を垂れ流しながら、絶叫する。それが、見えた。

まるで、触手と粘液の塊。無数の目玉が付いていて、水生生物の特徴があった。エラが、空気を求めて呼吸している。

「な、なんなんだよ! なんなんだよーっ!」

「くとぅるふ」

「く……?」

触手に絡み取られたヤスは、見る。

闇の存在が、大きな口を開けるのを。絶叫は、かき消えた。

 

天狗は腕組みして、盟友を打ち破った何物かが、仕事をしているのを見ていた。

路地裏に屯していた連中を、一網打尽。飲み込んだ後、はき出している。どうやら飲み込んだときに、精神を浄化する術式を掛けているらしい。

粘液まみれになってはき出されたチンピラ達は、意識を取り戻すと、おいおい泣き始めた。

そして、自分から警察に向かったのだった。自首するつもりなのだろう。

確かに、あの手の連中は、説得したところでどうにもならない。刑務所に入れられても反省することなど無く、恨みばかりをため込んでより大きな悪事に手を染める。

だったら、洗脳してしまうのが一番良い。精神の浄化も、一つの手だろう。

だが、それは。今の腐りきった教育機関と、何が違うのか。

「対処療法を繰り返して、何になる……」

小田原城を打ち破った彼奴は、結局大きな力に喧嘩を売ることも無く、対処療法を繰り返し続けていた。

だが、もっと大本が腐っているのだ。

こんな事を続けて、何になるというのか。力の使い方を分からぬ子供なのだろうとは思っていたが、歯がゆい。

ふと、隣に気配。

飛び退く。其処には、腕組みした人間の女が降り立っていた。随分小柄な女のようだった。

「あー、やっぱりこっちに来てたか」

「貴様、は?」

「あの子の親。 あの子は姉だと思ってるけど」

「何っ! 貴様、その体型で、子供を産んだことがあるのか?」

そうじゃないと、やたらとちみっこい女は言う。遺伝子を組み合わせて作り出したのだとか言うが、天狗には理解できなかった。

それよりも、もっと大きな問題があった。あれの親と言う事は、人間があの触手の塊を作り出したというのか。恐ろしいことだ。

髪の毛を掻き上げると、女は気だるそうに言う。

「やっぱり魔法少女システムだと、公権力には喧嘩を売らないか。 クトゥルフ型魔法少女は試作品としては、ステータス面に限っては良く出来てたんだけどなあ……。 こうちまちました善行ばっかり繰り返しても、対処療法にしかならないっていうのにね。 支援に付けてるAIも、文字通り支援しかしないしなあ……」

「あの者の知り合いなのか」

「親だって言ってるでしょ?」

女はやはり、魔術の方の心得があるらしい。使っているのは見た事も無い術式だが、西洋のものだろうか。いや、それとも違うように思える。

或いは、噂に聞く、地球外の魔術か。

女は、天狗の目を見る。そして、闇を幾重にも含んでいそうな笑みを浮かべた。

「私のこと、手伝わない?」

「……どういうことか」

「あの子の家庭環境を擬似的に構築するだけで、人手が足りないんだよ。 私も暇なわけじゃないし、かといって力のある奴じゃ無いと、魔法少女システムを使うように調整された強化人間から、自分の正体をごまかせない。 この国を出来るだけ犠牲を小さく根本的に変えるには、どうも組織を大きくするしか無いみたいでね」

確かに、利害は一致している。

だが、この女の目的はまだ見えない。どこまで信用して良いものか。

しかし、その時気付いてしまう。

女の後ろに、あまりにも強大な気配が複数、存在していることを。

同じ天狗でも、鞍馬山の大天狗。日本最強最古の邪竜、八岐大蛇。そして、この国最大とも言われる妖怪、ダイダラボッチ。名を変え姿を変え生き残り続ける蛇神、ミジャグジ。そして、天津神がついに討伐できなかった、最強最大の闇の神、アマツミカボシ。

その場にいるわけでは無い。だが、気配から分かるのだ。この女が、それらを従えていることが。

それだけではない。日本中の強大な霊場を、既に従えている気配もある。とんでもない存在だ。

「既に、試作段階だけど、他のタイプの魔法少女も機動を開始してる。 この国をひっくり返すには、この国の神霊的存在、それも支配者側に属さない奴の力が必要でね。 どう、ついてこない?」

「……この国の、よりよき未来のためであれば」

既に、クトゥルフ型魔法少女と呼ばれた存在は、その場からいなくなっている。

悩んだ末に、天狗は、女が差し出した手を取った。

「貴殿の名前は」

「浅古」

「アサコか。 よりよき未来を作ると約束するのであれば」

闇の中で、二つの大きな力が、同盟を結んだ。

 

推子は今日も、無事にパトロールを終えて帰ってくる。

ステッキから降りると、ぬちゃりと粘着質の音がする。それが締めの合図だ。術式を解除。

フリフリヒラヒラの変身服が、元の普段着に戻っていく。

それと同時に、どっと疲れた。

今日は悪いことをしていたお兄さん達を、何人かやっつけた。悪い薬を飲んでいたから、その影響と、それに悪い心を、術式で浄化したのだ。

おとなしくしていてと言ったのだが、おしっこを漏らしそうなほど、お兄さん達は怯えきっていた。可哀想だと思ったので、すぐに術を使って、悪事から解放してあげた。

今頃、警察に出頭しているだろうか。今度は改心して、世の中のために働いて欲しいものである。

下に降りると、お姉ちゃんが作ったらしいハンバーグが冷蔵庫に入れられていた。お姉ちゃんのお手製は、とてもおいしいから大好きだ。

電子レンジで温めると、すぐに食べられる。

ハンバーグを食べながら、ふとネットニュースを見ると、だまし絵について書かれていた。一方から見ると壺に見え、もう一方から見ると女の人の顔になる。

不思議と、こうだと認識してしまうと、もう一方には見えづらくなる。

何だか不思議だなと、推子は思った。

いずれにしても。

明日も、学校がある。学校が終わったら、パトロール。

自分に出来る事を、出来るだけして行きたい。可能な範囲では、助けられる人は、みんな助けたい。

それが、推子の、本音なのだ。

たとえ現実が如何に醜悪でも、構わない。

推子には、出来る事がある。それだけで、推子は幸せなのだった。

 

(終)