心の隔壁

 

序、空の向こうから

 

その空は、どこまでも青く澄んでいて。

だからこそ、見えるのです。

遠くからやってくる、その大きなものの姿が。

虫のようでいて虫で無く、鳥のようでいて鳥でない。黒くて、所々は赤くて、そして恐ろしく長い尾をくねらせています。

青々としたみずみずしい草がどこまでも広がる草原の上に、それは来ました。

そして、翼を豪快に羽ばたかせると、降りてきたのでした。

大きさは、ゆうに人間の何倍。

体を覆う鎧のような外骨格は、太陽の光を浴びて、てらてらと美しく輝いています。口はまるでペンチのようで、その気になれば大木くらい一刀両断にできそうです。

足は八本もあって、それだけで虫では無いとわかります。

かといって、他のどの動物も、それには当てはまりそうにないのです。

私は、手を伸ばします。

それは、私を複眼で一瞥だけすると。おもむろに、人間の言葉で語りかけてくるのでした。

「色金真美はどこにいる」

「だあれ、それ」

「此処で待ち合わせる予定だった相手だ」

お互い名乗りもしない、おかしな会話。

その名前は知っているのですが、教えてあげません。名乗ろうとしない限り。私は、意地悪っ子なのです。

「そもそも、貴方はだあれ?」

「私は」

聞き取れもしない音でした。ちょっと早口だったからかも知れません。

小首をかしげる私に、それはもう一度、聞き取りやすく言い直してくれます。

「私は、グルドテラレアルと言うものだ」

「ふうん。 そうなんだ」

「お前は何者だ」

「私は、そうだなあ」

本当のところ、私も、自分が誰だか分かっていません。

気がつくと、この美しい草原にいたのです。

白いワンピースだけを身に纏って。

下着も身につけていません。ちょっと此処では、肌寒いのです。

鏡を持っていないので、自分がぶすなのか美人なのかもわかりません。ただ。人間だと言うことだけは、分かるのです。

多分、年は十代だろうという事も。

「私は、のはら」

「では、のはら。 改めて聞く。 色金真美を知らないか」

「知っているよ」

指さしてあげます。

目をこらしていたグルドテラレアルは、おののきの声を上げました。

其処には、美しい草原に、一カ所だけ赤い花が咲いていたからです。勿論、それは比喩です。

ぐちゃぐちゃに潰れた人の死体。

どうしてか分からないのだけど。

私は、それが生きているとき、色金真美と呼ばれていたことを、知っているのでした。

「何故、このようなことに」

「分からない。 私も、今、此処に自分がいることに、気付いたから」

のはらと名乗りましたが。

私は一体誰なんでしょう。

謎は深まるばかりです。グルドテラレアルは、死体をしばらく見つめていましたが、大きく羽を振るわせました。

「どうやら間違いない様子だ。 なんということだ。 此処まで探しに来たというのに」

「残念だったねえ」

「のはらとやら、本当に何も分からないのか」

「分からないよ」

普通の人間だったら、こんな大きなムシみたいないきものをみたら、きっと悲鳴を上げて逃げ出すのではないのかなと、私は思うのです。

そうしないというだけでも。

私が何者だか分からないですけれど、ただものではないのだろう事だけは、理解できるのでした。

「そうか、邪魔をしたな」

「いってしまうの?」

「そんな状態で、話を聞くことは無理だろう。 回収は後から来るチームに任せるとして、私は報告に戻らなければならん」

羽を振るわせると、大きなムシはどこまでも広がるお空に飛んで行ってしまいました。つまんないなあ。

少しは、話したかったのに。

でも、此処にいても、きっと退屈なだけです。

あのムシさんは、私がそこの肉塊を殺した可能性があっただろうに、放置していってしまったのです。

それならば、きっとたいした用事では無かったのでしょう。

どこまでも広がるのはらを、歩き始めます。

不思議と、素足なのに。全然痛くはないのでした。

 

いつの間にか夜になって。

そしてまた朝が来て。

次の夜が来たくらいで、ふと私は気付きます。

ずっと自分が歩いていることに。

おなかも空かないし、疲れもしません。風が吹いていても、あまり肌寒いとは思いませんし、何より足も痛くならないです。

髪の毛を掻き上げて、ぼんやりと空を見つめます。

星の様子を見ていると、幾つも言葉が浮かんで来ます。

あれはオリオン座。

傲慢なために神に殺されてしまった、勇者をかたどった星の図。

今の人達が考える神様と違って、ギリシャ神話の神様達は、とても享楽的で残酷で、暴力的で欲望の塊でした。

あれ、どうしてこんな事を思い出すのか。

よく分かりません。

空を見ると、見えるのは北極星。

遙か遠くまでずっとのはらが広がっている此処で、あの星以外に目印は無さそうです。きっと、ずっと同じ所を廻ってしまうのです。

そういえば、どうしてそんなことを知っているのかも、私にはよく分かりませんけれど。それはそれで、面白そうなのです。

何だか分からないですけれど。

おなかも空かないし、そして眠くもなりません。

それなら、この世界をひたすら歩いてみるのも、面白そうだ。私は、そう思うのでした。

 

1、肉塊を見つけて

 

遠くから見ている限り、それは人間だとしか思えなかった。

だが、死体を指さしたときの動作。何よりも、此方の姿を見ても驚きもしない様子からしても、ただの人間だとは、とても思えなかった。

研究所に戻ってきたグルドテラレアルは色金真美の死骸を回収するように部下達に指示すると、自身はデータベースにアクセスする。辺りには、立体的に立ち並んだ無数のPCがあり、青い光に照らされている。目に負担を掛けないように計算され尽くした照明が、働いている者達が仕事を失敗しないよう、それぞれの作業者にあわせるように、動き続けていた。

この体になってから、色々不便なことも多いが。

少なくとも電脳化している事で、調べ物は簡単になったし、擬似的な快楽で体を満たす事も容易になった。

それにしても、あの人間。

一体何者なのか。一応念のために、部下を付けて追跡はさせているが。今のところ、あまりにもおかしな行動は取っていない。

データベースを調べるが、犯罪者などの公開情報に該当は無し。また、視覚データなどからも調べるが、危険な相手であったとは思えないと結論が出るばかりである。

そうこうするうちに、回収班が死体を持ち帰り、分析をはじめた。

既に潰れてしまっているとは言え、貴重なサンプルだ。可能な限り復元して、脳細胞も復旧させれば、話を聞くことが出来るかも知れない。そうでなくても、今後の人類の歴史にとって、重要な研究を完成させる事ができるだろう。

部下達は、いずれも利便性を考慮して、昆虫型のサイボーグになっている。

彼らが動いている様は、さながら巨大な昆虫の星に紛れ込んでしまったかのようだ。

黙々と、仕事を続ける。

やるべき事は、いくらでもある。

途中、二日ほど、本格的に睡眠を取った。食事はこの状態では必要が無い。嗜好品として、食事を口に入れる者もいるが、グルドテラレアルはそういった行動とは無縁だった。どうももったいないような気がしてならないからだ。何がもったいないのかは、よく分からないのだが。

ちかちかと点滅するライト。

書類を整理していたグルドテラレアルの元に、ライトが伸びる。誰か来た合図だ。触手を伸ばして電子書類をメンテナンスしていたグルドテラレアルは、視界を少し上に修正した。

「室長、気になることが」

「どうしたのだ」

あの人間の監視に付けていた部下が戻ってくる。

無人偵察機が今でもステルスで張り付いているから、問題は無いそうだが。本人が戻ってくるという事は、何かあったのだ。

「此方の画像をご覧ください」

「……これは? ただ、歩いているだけに見えるが」

「はい、そうです。 ただし、もう四十八時間、飲まず食わずで、です」

「何……」

サイボーグには見えなかったのだが。あの人間、どうしてそのような時間、栄養を摂取もせず、休憩もせず、ただ歩くという行為でありながら続ける事ができているのだろう。

普通の人間なら、必ず休憩を考える。というよりも、あの訓練もしていなさそうな細身の体で、持久力が続くはずも無い。

だが、休憩することを忘れるほど没頭している、という様子も無い。

一種の薬物によるものかとも思ったが、違うと結論。少し様子がおかしい人間だったが、薬物を摂取しているようには見えなかった。

この空間でならば、不可能では無い、かも知れない。

だが、する意味が分からない。

「監視を続けろ。 場合によっては、確保も視野に入れる」

「分かりました」

「私はこれから、研究を続ける。 人類史を覆すかも知れない結果が出る可能性が高いのだ。 監視は、任せる」

指示だけ出すと、グルドテラレアルは、研究室に戻る。書類仕事に飽きたから、ではない。そちらはもう済ませたのだ。

大きなドアが、瞬時に消失する。

この世界では、普通の形状だ。そしてグルドテラレアルが通り過ぎると、再び分厚いドアが、背後に出現した。

広い通路を行き交っているのは、巨大な虫の姿をしたものたち。ムカデのようなものや、蛇に似ている者もいる。

この体になってから、人間用の研究所は無理になった。しかし、今の時代、その方が珍しいくらいなので、問題は無い。研究所というもの事態が電子ネットワーク上に分散している例さえある。

研究施設に入ると、入り口で厳重なセキュリティチェックがある。全身をスキャンされ、更にはウィルス感染についても調査された。

それを終えて、広い空間に入った。

中央部に、大きなシャーレのようなものがあり、ロボットアームが忙しく動き回っていた。

ぐちゃぐちゃに潰れた死体の復元が佳境には入っているのだ。

意識が回復するまで行くかは分からない。

だが、とりあえず、肉体だけでも生きている状態にできれば、ひとまずは安心というところだ。

それだけ見終えた後、状況を確認して廻る。研究データの一部を確認していたところ、後ろから声を掛けられた。

「班長」

「どうした」

「色金真美の死因が判明した模様です。 此方に来てください」

今時珍しい、人間型のサイボーグである部下がせかす。

どうも、今日はとても忙しい日になりそうだ。

 

復元された色金真美は、まだ二十代の美しい肢体を持っていた。ただし復元は完璧では無いから、頭はないし、体中血まみれだが。一部はホログラフで補われ、はみ出している内臓などの内、表示が必要なさそうなものは「人権的配慮」により隠されている。

おかしな話である。

これだけ人権が蹂躙されている空間も、他に無いだろうに。否、此処ではそもそも、人権が意味を持つとは考えにくい。

「此方を見てください。 この箇所を見る限り、致命傷になったのは……」

説明をしているのは、蛇のように長いサイボーグだ。体は筒状で、何本か触手が生えていて、それを器用に動かしてポイントを指し示しては説明している。

彼が言うには、こうだ。

色金真美は待ち合わせをしていた途中で、鈍器で撲殺された。

使用された鈍器は、周囲には存在しない。ただ、傷口の形状からいって、ブロック状のもので、恐らく氷だろうと。

「氷? つまり、大きな氷の塊で、殴り殺されたと」

「はい、そう言う結論になります」

「問題は、どうしてその死体があんな風になっていたか、だが」

「殺した後、何かの鈍器で執拗に攻撃を加えたようです。 これもおそらくは、氷の塊かと」

つまり、だ。

犯人は証拠を残すことを怖れ、氷の塊で色金真美を殴り殺したあげく、散々叩き潰して挽肉にした、という事か。

まあ、あの場所でなら、あり得なくも無い。別に誰でも、それくらいの行動は取れるだろう。

問題は、あの場に立っていた、ノハラと名乗った人間だ。

あれが犯人の可能性は、恐らく無い。

というのも、周囲の残留物から考えて、ノハラはあの場所に、「いきなり」出現した可能性が高いからだ。

あの場所ではあり得る現象である。

そうなると、何処かに色金真美を殺した犯人がいると言うことだが。それが分からない。意味も、それに意図も。

あの場所での殺人は、現実でのそれとはまるで意味が違う。

リスクは小さいかも知れないが、わざわざする意味が全く無いのだ。中には異常性欲などを満たすために行うケースもあるらしいのだが、それはそれだ。

「しかしまあ、現実社会での色金真美はどうしているのか」

「先ほど連絡がありました。 無事なようですが……」

映像を見て、うっと唸る部下達。

こっちと向こうで姿がまるで違う人間は珍しくない。こっちでは業務優先、効率性優先である事が多いから、殆どがサイボーグ化しているのが現在のスタンダードだ。

しかし、色金真美の場合は、そうではなかった。

あれはかなり特殊な事例で有り、ある意味本人にはまるで存在する意味が無いので、別にどうでも良い。

とはいえ、この美しい肢体の持ち主が、メンテナンスを怠ればどういうことになるのか、分かっただけでも、ある意味貴重かも知れない。

「まあ、無事ならいいだろう。 ネット警察は」

「動いている様子はありませんし、何より今回は政府公認のプロジェクトですので……」

「ならば話を進めるか。 しかし胸くそが悪い話だ」

状況を一旦立体保存した後、解析に戻らせる。

話によると、意識回復の作業を行うのは、これから二時間後。上手く行けば、十時間以内に、色金真美は目を覚ますという。

ただし、その時、記憶が戻るかは分からない。

殺されたときに、恐怖から記憶が壊れてしまう例もある。その場合は、意識の復旧に時間が掛かるし。

何より、このプロジェクトに、大きな障害ができてしまう。

「それにしても、誰が、どうして、このようなことをしたのか。 プロジェクトを知る人間など、そうそうはいないはずなのに」

部下が愚痴る。

愚痴りたいのは自分も同じだが、今は手を動かす方が先だ。

チャイムが鳴る。

休憩を取るように、義務づけられた時間だ。指定通り、プラグを体にめいめい差し込む。全てのネットワークは中断状態になり、PCはスリープモードに移行する。休憩は今や、権利で有り、法で定められている。

こういった、どちらかといえばグレーゾーンの職場でも、それは同じだ。

時間加速を用いて、仮眠を取る者もいる。

グルドテラレアルも、そうする。

しばらく仮眠を取って、目覚めると。丁度頭脳も体も、手頃なリフレッシュを実現していた。

さあ、また仕事に戻ろう。

プラグを外して、デスクに向かう。

今している仕事は、決して後ろ暗いものではない。

むしろ、人類の未来に寄与する。大変名誉な仕事なのだ。

だが、それでも潰れた死体を見ると、やはり何かおかしな事に巻き込まれてしまっているのでは無いだろうかと、感じてしまう。

このプロジェクトに、問題点は無いのだろうか。

もしあるとすれば、何がまずいのか。潰された色金真美の死体を思い出すと、まだ身震いしてしまう。

念のために、警備を強化する必要があるかも知れなかった。流石に、考えすぎかも知れないが。

それに、何よりだ。一番よく分からない「のはら」には、人員を割いてまで、監視を付けているのだ。

おかしな事が起こるはずは無い。

何度考えても、結局不安を払拭しようと、都合が良いように思考を進めているとしか思えず、笑いがこみ上げてきた。

研究者になった時、誓ったはずだ。

どれほど自分に都合が悪いデータでも受け止める強さを手に入れて、的確な研究をしていこうと。

ましてや今回は、人類の未来を作るかも知れない研究なのだ。

部下を一人呼ぶと、指定した。

「悪いが、ネット警察に警護を頼んで欲しい」

「大げさじゃあありませんか」

「いいからやるんだ」

ムカデに似たサイボーグである部下がかさかさと這っていくのを見届けると。

最悪の事態の時はどうするか、グルドテラレアルは考えはじめていた。

 

研究所を出る。

空は真っ赤。現実世界では、夕方と言うことだ。この空間では、あまり背景には力が入れられていない。

場所によっては、宇宙空間までも再現され、星座の運行までもが描写されている場所もあるが。

此処はそもそも、外に出る用事が無い。

リラクゼーション用に空は存在しているが、それはあくまで心理的な圧迫感を作らないためのものなのだ。

八本の足で地面を踏みしめて、遠くを見る。

研究所の外は、見晴らしが良いように、荒野にされている。木も植えてあるのだが、近くに行くと分かるのだ。それが作り物なのだと。

不安が適中した。

既にネット警察が、監視用のプログラムを走らせている。荒野に時々スパークが走っているが、それが監視プログラムだ。

今も昔も、治安維持組織は、見かけにどうしても威圧感を必要とする。

もっと監視必要性が高くなると、ドラゴンの姿をしたワクチンプログラムが出張ってくる。

部下が来る。

「班長、此処にいましたか」

「のはらはまだ見つからないか」

「はい。 少なくとも、あの空間にはいない様子です。 ずっとただ歩いていたので、監視班も油断しました」

「……」

いくらハッカーとは言え、所詮は民間人。

こういうグレーゾーンプロジェクトの用心棒役としては、一見すると充分に思えたが。

かって、ネット犯罪で、ハッカーが猛威を振るった時代は、既に終わっていると、こういうときに悟らされる。

のはらは、不意に消えた。

監視チームが確認したのだが、どうしても足跡が追えなかった。記録を巻き戻しても、ある一点でいきなりいなくなっていて、どうやっていなくなったかが分からないのだ。本当に、何もいなかったかのように、反応が消えているのだ。

それだけではない。

先ほど、色金真美の復旧が完了した。

予定よりも十分ほど時間は掛かったが、おおむね予定通りの仕上がり。しかし、胸をなで下ろす暇も無かった。

精神を覗いた技術者が、吃驚仰天して、飛び上がったほどだったのだ。

なんと彼女の精神は、殺された後も生きていたらしいのだ。

この空間でも、そんなことはあり得ない。

肉体と精神は基本的に切り離されることが無い。ネットでも幽霊話の類は枚挙に尽きることが無いが、一度も証明されたことは無い。

だが確かに、肉体の死亡時間の後も、精神が生きていた事が立証されてしまった。

死んだ肉体をぐちゃぐちゃに潰される様子を、彼女は克明に見ていたらしい。そのため、発狂してしまっていた。

まず技術者は、最大級のノイズである、恐怖を取り除かないとならなくなった。

予想される作業時間は、およそ七時間。

色金真美との会談は、当然その後だ。こればかりは、データだけ取り出すという訳にはいかないのである。

本当に一体、あの場所で何が起きたのか。

オフィスに戻る。

気まずそうな部下達が、せわしなく作業をしていた。誰もが、こんな事例には直面したことが無いのだ。

怯える部下達を、責めることも出来なかった。

「班長」

何だといおうとして、声の主が聞いたことが無い相手だと気付く。

視界を調整して、最初に映ったのは。

ぎょっとして固まる部下達と。

白いワンピースを着た、人間の姿だった。愛らしい女の子のように見えるが、それが見かけ通りの存在か、分からない。

全身を、震えが駆け抜けるのが分かった。

「面白い場所。 まるで大きなムシの展覧会場みたい」

「のはら! ど、どど、どこから入ってきたっ!?」

「おしえてあげない」

まるでいたずらっ子のような表情で、舌を出すのはら。

気が弱い部下が、悲鳴を上げる。既に長時間の作業であり、しかも訳が分からないことが連鎖的に起きていると、皆が知り始めている中での事だ。ヒステリックな声で、警備を呼べといった部下が、棒立ちになって、倒れる。

とはいっても、彼はカマキリに似た姿だ。

死んだカマキリがそうするように、固まったまま、横倒しになっていた。

「あれれー? わたし何もしてないよ?」

「な、何が、目的……だ……」

「さんざん人をストーキングしておいて、酷いなあ。 それよりも、この場所で何してるの? あの死んでいた人と、関係がある事?」

それはこっちの台詞だと叫びかけた時。

警備の人員が、やっと駆けつけてきた。電磁捕縛ロッドを手にした彼らが、一斉にのはらを取り囲む。

「不法侵入の容疑で逮捕する!」

「抵抗は……あれ?」

いない。

のはらが。

今までいたのに、まるで空間から切り取られたように。

ワンピースを着た人間は、その場から消え失せていた。警備の者達は、いずれもクワガタムシに似た姿をしているが、彼らがみな固まる。

冷たい感触が、グルドテラレアルの背中にある。

まさか。

こわくて、振り返ることができない。

「わ、冷たい背中。 おしりが冷えそう」

上に、あの何か分からないのはらが、乗っている。それを理解したとき。

とうとう、悲鳴が口からほとばしり出ていた。

必死に走って、化け物を背中から振り落とそうとする。此奴が殺したに違いないのだ。このままだと、グルドテラレアルも殺される。それだけじゃあない。この研究の人員が、全員消されるに違いない。

悲鳴を上げて走り回るが、ふと隣を見ると、全力疾走のグルドテラレアルに、のはらが平然とついてきていた。しかも、歩きながら。

「おいかけっこ?」

「うぎゃああああああああっ!」

羽を広げて、飛ぶ。

研究所は阿鼻叫喚のただ中にある。

同じように飛んで逃げようとした者同士が、顔面からぶつかって大破したり。転んで大怪我をしたり。

警備の者達は文字通りの右往左往。

のはらは、どうして、グルドテラレアルにだけ、的を絞るのか。

「へえ、空を飛ぶって、こうやるんだ」

となりののはらは、なんと背中に翼を、白い鳥みたいな奴を生やして、平然とグルドテラレアルについてきていた。

流石にこの空間でも、だからこそ、アーキタイプのデザインを好き勝手にする事なんてできない。電子データだけのネットワーク上の話では無い。

此処は、拡張現実空間なのだ。

もう、悲鳴も出ない。

そのままきりもみ回転で、地面に激突。

自分が、大破するのが分かった。

強制ログアウトシークエンス実行と、声が響く。

意識が消し飛んだ。

だが、すぐに戻ってくる。また消える。叩き起こされるようにして、目が覚める。酷い苦痛が、全身を走り回っていた。

こういった、強制ログアウトは、あまり推奨されない。意識にダメージがでることもあるし、同期も上手く行かない可能性が生じてくるからだ。

必死に呼吸を整えながら、自分を確認する。

中々、外に出られない。

「強制ログアウトシークエンス実施。 同期を行っています。 意識主体を、現実空間に委譲します」

「早くやってくれ!」

この真っ暗な空間だけは、慣れない。

だが、此処にまで。プライベートスペースにまで、のはらが来るのでは無いかと思って、グルドテラレアルは、気が気では無かった。

のはらの声がしたような気がして、縮みあがる。

ログアウトが完了したという声だと分かって、心底から安心する。そして、同時に思い出す。

ログアウトの際には、痛烈な刺激を伴うことを。

「くう……!」

頭を抑えて、呻く。そして、乱暴に電脳に接続するためのピンを、ヘッドギアから引き抜いた。

ヘッドギアを放り捨てると、口をへの字にして、天井を見上げる。

拡張現実だったらどれだけでも我慢できる空腹が、一気に存在感を主張して、襲いかかってくる。

普通、拡張現実と現実との間では、認識意識で差異が無い。ところが、ごく希に、いるのである。

グルドテラレアルは。拡張現実で自己認識した時には、二メートル近い大男だった。

これに対して、現実の自分は。

ベッドから身を起こす。

自室から出て、居間に。家族などいない。家庭用メイドロボットが作った、冷めたチャーハンが、机上にあった。

コミュニケーション能力に著しい問題があると判断され、対人恐怖症も生じていたために、家から出られなくなった子供。

背丈は並よりも著しく低い。親兄弟からも見放され、地方都市のちいさな家に放り込まれた、哀れな女。

それが、ネットワーク上では研究チームを任され、国家プロジェクトにまで参加しているグルドテラレアルの現実での姿。栗原伊住である。

あまりにも運動しないため、体はがりがり。

髪の毛は伸び放題で、腰まである。メイドロボットが手入れしているからそれなりにつやはあるのだが、見せる相手も、もちろん触らせる相手もいない。

顔も美人とは、とうてい言いがたい。少なくとも伊住は、自分でそう思っていた。

いわゆる引きこもりになったのは、中学生の頃。学校でチビと罵られるのがとことん嫌になってからだ。女子の間のイジメは陰湿を極める。それはこの時代でも変わらない。特に、女子の間では、コミュニケーションが苦手な存在は、ゴキブリ以下も同然の扱いを受けるものだ。

ただ幸いなのは、この時代、コミュニケーションは一種の特性であり、才能に依存することが認識されていたことだろうか。

伊住は幾つかの再起プロジェクトに参加させられて、コミュニケーション不全の判断をされた。

このままでは社会復帰は無理と判断され、政府からは仕事として、拡張現実での作業を命じられたのである。

拡張現実での仕事は、それが出来るようになってから、急速に拡大している。そして社会で孤立していたいわゆる引きこもり層の救済として、政府として活用する最高の道具でもあった。

拡張現実で適性を見いだされ、とんとん拍子に出世して。稼ぎはとっくに大企業の部長クラスに達していた。貯金は十数年寝て暮らせるだけ、すでに蓄えている。

親に金を仕送りしていただかなくても良いのが嬉しいところなのだが。

しかし、まさかこんな恐ろしい目に遭うとは。

乱暴に顔を洗う。

此方と向こうでは、人格も違う。

言葉とかいう不安定でいい加減なツールに頼らないとコミュニケーションが上手く成立しない此方と違い、拡張現実ではコミュニケーション補正のためのツールが充実している事もあって、グルドテラレアルは現実の自分とはかけ離れた、とても満ち足りた生活をしている。

それに比べて、伊住は。

歯磨きもして、それからチャーハンを食べる。スプーンを握る手が震えているのが分かった。

時計を見ると、夜中の二時半だ。

アレは丑三つ時にでる幽霊だったのだろうか。だが、それにしては。拡張現実上に実在する研究所を、パニックに陥れるほど、完璧な存在感を発揮していた。それだけではない。確かにあったのだ。

触られる感触が。

凄腕のハッカーにしては、言動がおかしかった。

一体アレは、本当に何者だったのだろう。

メイドロボットが、伊住が起きてきたことに気付いて、スリープモードから抜ける。彼女は両親が適当に買ってきたため、もの凄く厳しそうな家庭教師という風情の、眼鏡を掛けた容姿だ。

「マスター、お仕事は」

「一時休止中。 あによ、向こうに行っている方が、楽でいいっていうんでしょ?」

「私はそのような。 チャーハンも、温めてから食べていただければ良かったのに」

「五月蠅い。 あたしの勝手だ」

容姿と裏腹に、伊住はメイドロボットに対して萎縮していない。

適当に食べると、眠ることにする。拡張現実で眠るのと違い、此方では煩わしいことが多すぎる。

向こうに行ったまま帰ってこない人間が社会問題化しているという話だが、知ったことじゃあ無い。

こんな肉体捨てて、グルドテラレアルみたいに、巨大なムシとして生きたい。

拡張現実で生身の体を捨てることには、まるで躊躇しなかった。どうして現実の肉体など、焼却処分できないのだろうとさえ、伊住は思う。

しばらくベッドで横になって、頭をかきむしった。

苛立ちのせいか、眠れない。

此方は、やはり大嫌いだ。

 

2、溶ける二つ

 

念入りにチェックしてから、あたしは拡張現実に戻る事にした。

グルドテラレアルとしての仕事はたくさんある。引きこもりで穀潰しのあたしとは違って、だ。まだ向こうからコールは来ていないが、いつまでも職場放棄はできないだろう。忌々しいが、仕方が無いのだ。

頭にヘッドギアを付けて、ピンを刺して。

意識を拡張現実に移行する。

従来のインターネットの上位存在として、拡張現実が構築されてから、早七年。法整備も技術発展も日進月歩だが、こういった部分では、アナログなログイン作業を経なければならない。

これは法的にツールが定められていて、破ると重大な罰が科せられる。かってネットは無法地帯だったらしいが、既にあたしの時代では、強力な法律が定められていて、しっかりと運用されていた。

古参のネットを知る人間は、息苦しくなったと口を揃える。

だけどあたしのように、「自由な時代」を知らない人間には、実感が無い。最初の頃は反対運動なんかも起きたって聞いているけれど、ネットを使った犯罪が凶悪化する一方だったから、結局誰もが納得して、強力な法と管理を受け入れたと聞くと、仕方が無かったのだとも思うのだ。

プライベートスペースに、のはらがいない事を確認して、あたしはほっとする。

グルドテラレアルの状態を確認。

ダメージは無い。あったとしても、ログアウト中に修復されたのだろう。別にあたしが今更驚くようなことじゃあ無い。

ナビゲーションプログラムにつないで、研究所の状態を確認。

のはらは。既に、いない様子だった。

拡張現実は、ネットワーク上に自分の人格を投影することで、擬似的な心と体を作って、そこで様々な作業を行えるシステムだ。其処では誰もが、第二の心と体を持って行動できる。また時間も圧縮されているから、仕事を何倍もの効率で行う事も可能だ。

拡張現実では、現実世界ではできないことが、何でもできる。

重度のサイボーグ化は勿論、殺し合いに奪い合い。中には人の肉を食べたいというニーズを満たすお店まであると聞いている。

勿論、現実世界でそれを行われると、大変なことになってしまう。

だから、拡張現実にアクセスするあたしたちは、重大な制限を掛けられるのだ。勿論、あまりにも状況が酷すぎる場合は、処罰の対象にもなる。研究施設なんかは、今じゃあ殆どが拡張現実にあるって聞いたこともある。

何倍もの速度で研究できるし、技術が進んでそれこそ分子の構成まで簡単に再現できるようになっているから、当然だ。

そして、拡張現実が普及するようになってから、ある特殊な例が出るようになった。

あたしのように、拡張現実と現実で、人格がまるで違うタイプが出始めたのだ。昔も、ネットでは性格が豹変する奴はいたが、それとは次元が異なる。

今では、そういった二つの心を持つ人間は、いろいろな理由から重宝されてる。

あたしも、その一人。

根暗な引きこもりのあたしが、大企業の部長クラスくらいの収入を得ているのも、この特性が大きい。

心が二つあると、色々つぶしが利く。

それぞれに人間がいるのと同じで、特性が違うスキルを身につけたり、得意分野を切り替えたりできるのだ。

二重人格なんてものとは、根本的に違う。

しかもこれの凄いところは。

その気になれば、二人同時に、別行動できる、てところだろう。

ただし、あたしはこの力をフル活用はしていない。グルドテラレアルの様子を、いつも主人格からぼんやり眺めている。

性別も違う、能力も違うもう一人のあたし。

仕事がバリバリできて、誰からも頼られて、コミュニケーションも得意。

おかしな話だ。あたしみたいなクズの別人格が、どうしてこんなに社会に必要とされる存在なんだろう。

あたしは虫の姿をしたもう一人の自分に、養ってもらっているようなもんだ。

拡張現実のモニタになった時、この特性が判明しなければ。良くて今頃、リソース提供者だろう。

脳のリソースを提供することで、生体コンピュータの機能を補う最悪の仕事。

本人の心がごりごり削られていく、地獄。

どんなクズにでもできる仕事で、しかも確実に稼げるから、借金を返すためにこれをやる人も多いとか聞いているけれど。

実際にやっている奴を見た事があるあたしとしては、ぞっとしない。

まるで映画に出てくるゾンビみたいになってしまうんだ。あの仕事を、長い事続けていると。

「班長!」

コガネムシみたいなサイボーグが来る。

拡張現実だと、体をいくらでも改造できる。現実じゃあ負担が大きすぎて無理な成体改造だって、へっちゃらだ。

だから仕事を優先に考える奴は、大体拡張現実での自分をサイボーグにする。その場合、人間型なんて性能が低いのじゃ無くて、性能が保証されるムシ型にしてしまうのが殆どだ。かくいうあたしも、そうしたのだ。

もっとも、あたしがイケメンとかいうのが大嫌いで、そんな連中はムシにでもなってしまえと思っていたから、という事情もあるけれど。

拡張現実の人格は、現実の人格には逆らえない。

「あの女はどこへ消えた」

「分かりません。 今、ネット警察に痕跡を調査してもらっているのですが、全く見つかりませんで」

「そうか。 皆の様子は」

のはらが、グルドテラレアルに異常な関心を示した理由はよく分からない。ただし、後から調べてみると、あの女はグルドテラレアルにばかり張り付いていて、他をからかうどころか、興味さえ見せなかったそうだ。

監視チームが捕まえようとしたところ、瞬間移動したという報告さえあるらしい。

拡張現実では、色々と現実ではできないことが実現可能だ。

だが、だからといって、それには限界がある。

ましてや今や、一般人のネット技術と、プロのハッカーの技術知識は、あまり変わらなくなってきている。

昔のように、伝説的ハッカーなどという存在は、もはや都市伝説にも上がらないのだ。

あたし、いやグルドテラレアルは、それなりの腕利きの技術者だ。知識だって豊富で、程度の低いハッキングくらいなら、即座に見破ることができる。

だがあれは、異常すぎた。

「途中から、あの女は羽を生やして、空を飛んでいた。 どうすれば、あんな事ができると思う」

「え……?」

部下達が、顔を見合わせる。

分かるわけが無いと言う表情だ。ムシ型のサイボーグになっていても、どういうわけか、表情は分かるものなのだ。

複眼にしている部下も多いのに。

こういう感覚は、あたしもコミュニケーション上手なグルドテラレアルから、共有を受けている。

後ろに張り付いて見ている感じなのだが、ある程度分かるものなのだ。

なお。この張り付いている、という感覚は、他の連中にはないらしい。いっそのこと、グルドテラレアルを一人で自由に働かせた方が、稼いでくるのかも知れないけれど。それはあたしのプライドが許さない。

ゴミはゴミなりに、生きているんだ。

優秀な奴に嫉妬して何が悪い。そいつの技とか盗もうとして、何が悪い。ゴミはゴミとして、底辺を這いずって死んで行けとでもいうのなら、絶対に嫌だ。

徹底的にあらがってやる。

暗い喜びを湛えてあたしが見ているグルドテラレアルに、部下が持論を展開しはじめる。

「特殊なツールを用いても、瞬間的な羽の形成は難しいかと。 ホログラフだけなら可能でしょうが、ゲームなどの空間では無く、此処は拡張現実です。 実際に空を飛ぶ事なんて、どうすればいいのか」

「空を飛ぶというのが、そもそもそれだけに特化した相当に難しいものなんです。 我々も空は飛べますが、それはブースターなどの助けを借りての事です。 しかも、大きな制約も尽きます」

拡張現実では、法的に制限されていることも多い。

一定以上の速度での飛行や、特殊な場所以外での戦闘行為。勿論、人を傷つける事も、本来はまずい。

色金真美の拡張現実体が殺されたことで大事にならなかったのは、特殊空間だったからだ。拡張現実の中でも、ブランクスペースと呼ばれる、ルールも何も殆ど設定されていない、半クローズの場所である。

だからこそに、のはらの異常さは際だったのだが。

咳払いの声。

「どうだね、グルドテラレアルくん」

振り返ると、大きなカブトムシのようなサイボーグがいた。凄い巨体で、体からたくさん触手を生やしている。その触手は、無数のPCと自分を繋ぎ、処理をアップするために用いているものだ。

グルドテラレアルの上司。というか、この研究所には一人しかいない、グルドテラレアルの上役だ。

「カイゼア所長」

「あの女の子のことは、怪奇現象と思って、しばらく忘れた方が良いだろう。 皆も動揺しているようだし、研究スペースは一旦フリーズ処理して、リラクゼーションルームでの回復を図ってはどうかな」

「しかし、納期が」

「なに、君の活躍で、予想よりずっと早く行程は進んでいて、色金真美くんとのデータ照らしあわせで、その結論まで生ける寸前だったじゃないか。 納期もまだまだ先だし、少し休むくらいは、いいだろう」

グルドテラレアルの周囲にいる部下達が、みな一様にほっとするのが分かった。

というよりも、あの女の存在は、殆ど怪奇現象に等しかった。現在ではほぼあり得ない、オカルトも同然の出来事だ。

触手で、肩を叩かれる。

「君も、あれだけ纏わり付かれて、さぞ怖かったのだろう?」

「し、しかし」

「いいからやすみたまえ。 納期を取り戻すのであれば、後で時間加速を倍速にすれば良いだけの事なのだしな」

確かにそう言う手もあるが、しかし時間加速は空間の使用料金をアップさせる。つまり、失敗は許されない、という事でもある。

あほらしい。

あたしはぼやく。

心もガタガタで、身動きできないほどなんだから、素直に休めば良いんだ。この生真面目サラリーマンは、何が楽しくて仕事をしてるんだか。

グルドテラレアルが、あたしの事を内心馬鹿にしているくらい、把握してる。これでも上位の人格で、コントロールもしているんだ。

だから、ちょっぴり気分も良い。

自分の子供のような存在だとか、そんな風には思わない。

世の中には、ヒモと暮らすために、子供を虐待して殺す親までいるんだ。ましてや、あたしの子供でも無いんだ。

何となく、昔の漫画の悪役。

自分よりも優秀な弟を憎む兄貴を思い出す。

あたしには、その兄貴の気持ちが、よーく分かる。

どうせあたしは無駄飯ぐらいの低脳の引きこもりだ。何をやってもものにならなかったし、コミュニケーションだって上手にできない。世間ではクズ呼ばわりして迫害することが正当化されてる、現在の被差別階級だ。

女子の世界で、コミュニケーションが上手にできないっていうのは、死活問題だ。おとなしい女の子なんてのが現実には殆どいないのは、女子のコミュニティに参加できなくて、はじき出されてしまうからなんだ。

不公平が無いように、研究スペースが凍結される。

色金真美の治療だけは続けられる。これはもうオートで出来る事だし、どのみち、後は時間だけが掛かる作業だ。

部下達がめいめい引き上げていく。

一旦ログアウトして、現実世界の方と同期して休憩したり、或いはリラクゼーションルームに籠もったり。

リラクゼーションルームといっても、行き先は千差万別。

グルドテラレアルは、どうしてだか、いつも山の中を再現したスペースを選ぶ。心までムシという訳でもないのに、だ。

リラクゼーションルームに自身を転送し終えると、羽を広げて、グルドテラレアルはうめき声を上げた。

休憩をするというよりも、一人になるために、このサラリーマン野郎はリラクゼーションルームに来た感じだ。

コミュニケーションが大好きな筈なのに、変な話だ。

「マスター。 見ているんだろう」

「見ているけど、何」

「此方は良いから、現実世界で昼寝でもしていたらどうだ」

珍しく話しかけてきたと思ったら、そんなことか。

自分の人格同士で話をするというのもおかしなことだけど、実際こうやって起きているのだから、それは怪奇現象じゃあ無い。

「向こうで何もすることが無いって、あんたには話してなかったっけ」

「私は拡張現実だけに存在する人格だ。 表には出られないし、何より上位人格の貴方には逆らえないし、情報も検索できない。 だからこそいいたいが」

ぴたりと口をつぐむグルドテラレアル。

説教しようとしているのが分かったから、あたしが黙らせたのだ。上位人格だから、こういうことは容易にできる。

「何度も言ってるが、社会の仕組み上、あたしの居場所は無いんだよ。 拡張現実上で、あんたを働かせるくらいしか、食べていく手段も生きていく手段もね。 それとも脳のリソース生体コンピュータに提供して、ゴリゴリ脳細胞を削らせればいいのかあんたはさあ? つまり生きたままゾンビになれって言ってんの?」

説教返し。

相手が何も言わなければ、説教なんて簡単にできる。

案山子に対してなら、誰だって大きな事を偉そうにほざけるのと同じ。

とんちきな寝言を並べ立てる悪役に、主人公が説教するのなんて、これと同じ構図だ。気分は確かにいい。

「あたしが死んだら、あんたも速攻で死ぬってわすれんなよ、ムシ」

「……分かっている。 しかし」

「しかしもかかしもあるか。 奴隷にしてるわけでも無いんだし、仕事も好きなんだろ?」

だったらきりきり働いてろ。

言い捨てると、あたしはまたグルドテラレアルの反論を封じて、黙り込んだ。

現実世界の体は、今頃メイドロボットが手入れしている頃だろ。髪切ったり、場合によっては風呂にも入れてるらしい。

いっそあたしを練炭自殺でもさせてくれれば楽なんだけど。

流石に、ロボットにそれはできないか。

山の中を再現していると言っても、ヒルはいないし、猛獣もでない。熊に襲われることはないし、寝転がっていても耳や鼻に虫が入ってくることは無い。

鳥の鳴き声はしているし、時々見かけもするけれど。

糞を落とされることだって無い。

腐葉土は臭くないし、寝転がっても汚れない。

拡張現実って便利な反面、現実の汚いところを全部取り除いてしまってる。そういえば、それで以前、批判が出たこともあったらしいけど。

あんまりにも便利だからか、今はもう、批判する奴はいないそうだ。いるにしても、ごく少数で、変人扱いされているだけだとか。

グルドテラレアルは、さっきからしきりに周りを見てる。

多分、のはらが出るんじゃ無いかって、怖くて仕方が無いんだろう。

あたしに珍しく説教しようとしたのも、その恐怖の裏返しなのは、間違いない所だな。意外に恐がりな奴。

まあ、のはらについては、あたしも散々怖がってたから、お互い様だけど。

ふと気になって、このスペースにいる他のユーザを検索してみる。

何が楽しいのか、ミミズになって土の中に潜ってる奴が一人。勿論比喩的な意味だ。サイボーグ化しているそいつにとって、呼吸ができないくらいは、何でも無いと言うことなんだろう。

山の向こう側で、休んでいるのが何人か。

男女だから、多分カップルだろう。おかしな話で、お互いムシの姿をしていても、こっちでカップルになる奴はいるんだとか。

「のはらはいないなあ」

「止めてくれ。 冗談じゃあ無い」

「というか、あいつユーザなんかな」

「調べてみたところ、それさえも分からない。 データを見たが、のはらが研究所に現れた時間、それらしいユーザのアクセス記録は無かった」

そうなると、ひょっとするとスクリプトか何かかと思ったが。

それにしては、彼奴は動きも柔軟で、知能も高かった気がする。高度なAIを備えて、あれだけいたずらの限りを尽くせる拡張現実上のスクリプトなんて、考えにくい。世界最高のハッカーでも多分作れないだろう。

だいたい、作る意味が無い。

勿論愉快犯で、そう言うことをする奴はいるかも知れないけれど。

それにはリスクが高すぎる。

「正直、研究所には戻りたくない」

「なんだよ、あんなに誇り高い仕事だとか、人類の歴史が変わるとか、喜んでたのに」

「それは事実だ。 だがあんな訳が分からない奴がでたとなると、ひょっとすると何か踏み込んじゃあいけないところに、入ったのかもしれないと思う」

「大げさな……」

それ以上は、あたしも言えなかった。

空に出現したそれを見て、目が釘付けになったからだ。実体はないというのに。

のはら。

ワンピースを着込んで、にっこにこの笑顔を浮かべている。

本来はとても愛らしいはずの姿なのに。

今は、恐怖の象徴でしか無い。

悲鳴も上げられず、震え上がって固まるグルドテラレアルは。既に、のはらに見つかっているらしかった。

「あ、こんな所にいたんだ。 探したよー」

「ひいっ!」

「研究はしないの? それとも、休んでるところ?」

這いずるようにして逃げるグルドテラレアルだが、いつの間にか前に回り込まれていて、腰を抜かしてしまう。

もう震えるだけで、足腰も立たないムシの上に、のはらが跨がった。

「また飛んでみて! 飛んで飛んで!」

きゃっきゃっと黄色い声を上げるのはら。

こっちはもう、魂が飛んでいきそうなくらい怯えているというのに。グルドテラレアルの恐怖が伝わってきているからか、どうしてかあたしまで怖い。

サイボーグでも、恐怖は殺しきれない。

「お、お前が、色金真美を……」

「違うってば」

「な、ならば、誰があれを」

「ええとねえ」

ひょいと、背中から顔を覗き込まれる。

整った、無邪気そうな、年相応の笑顔。それが今は、悪魔のほほえみに見えて仕方が無かった。

「遊んでくれたら、教えてあげる」

「知っているのか!?」

「正確には思い出しはじめた、てところかな。 ただ、貴方じゃ無くて、奥で見てる人と遊びたい」

のはらが、目を細める。

ぞっとした。

絶対にあいつ、あたしに気付いてる。

どういうことだ。あたしのような、拡張現実で別人格があるタイプは極めて例外的な上に、外からその存在が看破されることはまずない。

あたしみたいな特殊人格保有者が重宝されるのは、足がつきにくいと言うも、理由の一つなんだ。

それなのに、この無邪気そうな子供に見える魔物は。

「ご、ご指名、だぞ」

「……っ!」

「分かっている、よな。 色金真美の持っているデータは、正確には拡張現実上のあの女の記憶の中には、ある特殊な合金の生成法があるんだ。 伝説のオリハルコンとか、そういうのじゃあない。 本当に人類の歴史を変えかねない……」

「ナノカーボンを支える、究極の強度合金だろ! 分かってる!」

人類はまだ、この時代にも、軌道エレベーターを実現できていない。

素材強度が足りないからだ。それを、覆しうる素材を、あの女はデータとして持っている。

現実世界の色金真美など、どうでもいい価値しか無い、クズ。そう、あたしのような、底辺人間だ。

だが拡張現実上のあの女は、世界的な合金の権威。

今では、二つの人格は意識同期をする事も殆ど無かったらしい。だから本人に聴取をしても、意味が無い。

バックアップデータがあるかも知れないが、それの場所がそもそも分からない。

それに何より、あくまでヒントの段階だ。色金真美に協力してもらって研究を進めれば、実用化できるかも知れない。

そういう話だったのだ。

「頼む、マスター!」

「で、でもあたしは……」

拡張現実上では、実体をもてない。

というよりも、法的に禁止されている。拡張現実上で別人格を持っている人間が、本人格で拡張現実に物理干渉することは、できないんだ。

正確には、「拡張現実上での人格」が、「同じ空間」で、「物理干渉している間」は、だが。

つまり、グルドテラレアルが引っ込めば、できるようにはなる。グルドテラレアルの首から鎖を外したくは無いから、もしそうする場合は、研究所に戻すことは無く、ログアウトさせることになる。

でも、こののはらという女、文字通りの化け物だ。無邪気そうな顔をしているが、拡張現実の常識をあまりに越える存在だ。

下手なことをすれば、どんな事態が巻き起こされることか、想像もできない。

震えが止まらない。

だけど。

グルドテラレアルの研究が上手く行けば、今とは桁違いの収入が手に入る。文字通り、一生遊んで暮らせる。

そうなれば、恐らく遺伝子の調整をして、人格を変えることも出来るかも知れない。洗脳に近いが、コミュニケーション不全を直せるかも知れない。そうなったら、外に出ることが出来るだろうか。

他人を怖がらず、笑えるだろうか。

記憶の一部を消すと良いという噂もある。

だが、どれも、今は無理だ。大企業の部長クラスの給料くらいでは、とてもそれらの手術は受けられない。

でも、此処で、この怪物と、遊べば。

人格だけしか存在しない。

心臓は、現実世界に置いてきている。

それなのに、恐怖で、心臓が高鳴っているようだ。心音なんて、聞こえはしないのに。

「か、代われ……」

「良いんですね、マスター!」

「こ、ここ、こうなったら、やってやる!」

グルドテラレアルをログアウトさせ、自分だけを残す。

拡張現実では、意識だけでは存在できない。すぐに、本来の人格用の肉体がダウンロードされて、再構成される。

しかし、これはリスクも大きい。

本人格だから、恐怖はダイレクトに脳にダメージを与えるし、痛い思いをすれば記憶に傷だって残る。

痛みなどの機能はできる限りシャットアウトするが、それでも不安は消しきれない。

呼吸を整えると、目を開ける。

のはらはちょこんと、目の前の腐葉土に座っていた。

にこにこと、愛くるしい笑みを浮かべている此奴が、化け物同然の存在だと言うことは、ずっと見ていて分かっている。

生唾を飲み込む。

「あれ? 面白い格好だね」

「悪い、か」

あたしは、西洋の全身鎧を着た格好で、拡張現実での自身の肉体をモデリングしている。そうすれば、顔を見せずに済むからだ。

最初はサイボーグにしてしまおうと思ってはいたのだが。

手頃な値段のものが、どれもこれもムシだったので、辟易した。グルドテラレアルの奴が躊躇なしにムシになったのも、反発の原因だ。

「な、何をすれば、いい」

「おままごととか、鬼ごっことか、できる?」

「は……あ?」

知っているが、やったこと自体は無い。

あたしの時代は、既に子供が外を遊び回れる環境じゃあなかった。子供の人権保護がどうとかで、公園とかは厳重に監視されていたし、決められた大人以外とは接することだって許されてない。

学校の外で、子供同士で遊んでいる場合も、監視がつく。

そんなんだから、学校でのイジメは酷いものばかりになる。人間は悪いことをするときにばかり頭を使うから、どんなに法を整備したって、それをくぐって子供は悪さをするのだ。

悪ガキ共に、聞いてみれば良い。

イジメは好きかと。

どいつもこいつも、こう答えるだろう。

大好きだ。と。

だから、周りのガキ共が、あたしは大嫌いだった。

結局いつの時代だって、弱い奴には居場所なんてない。強くなれる奴なんて、一握りしかいないのに。

「じゃあ、鬼ごっこね。 最初、あたしが鬼ー!」

「分かった。 十数える間に、隠れれば、いいんだな」

ふと気付く。

この空間、さっきから異常なほど、時間が加速されている。此処での十時間は、多分外では十秒くらいだろう。

つまり、現実には、どれだけ遊んでもあまり影響しない。

ただ、脳へのフィードバックが相当に大きくなる。あまりにも此処に長居すると、脳にダメージが行くかも知れない。

あたしは小走りで、山の中を行く。

適当な茂みがあったので、入り込む。

幸いにも、腐葉土だけではなくて、枯れ葉も一杯積もっていたから、足跡はあまり残らなかった。

のはらが、探し始めたらしい。

どこいったのー。どこいるのー。

声が遠ざかったり、近づいたりしてる。多分、あの無邪気な笑顔を浮かべて、走り回っているのだろう。

不愉快極まりない。

どうせ場所なんて、最初から分かっているに決まってる。

茶番だ、こんなもの。

気付くと、上から覗き込まれていた。

「みつけたー!」

「最初から、此処だって分かってたんだろ……」

「んーん? 探索機能もあるけど、あえてオフにしてたよ。 じゃ、今度は、あなたの番だよ。 名前、教えて」

「伊住だ」

HNを作るのも面倒くさいし、別に珍しい名前でも無い。

だから普通に名乗る。

「いすみん、じゃあねー」

いきなりあだ名にされた。

唖然とするあたしの手を引いて、のはらはふわりと浮き上がった。

「今度は私がかくれるから、探して!」

 

山の中を、歩き回る。

浮いているのはらにつれられて、頂上まで来て。

そこで、十数えてから、探すように言われた。

あたしは茶番だと思う。のはらが言ったことが、どこまで本当かなんて、分かったもんじゃない。

全部嘘の可能性だって、低くない。

今頃、あたしを後ろから見て、けたけた笑ってる可能性も否定できない。

人間が一番楽しそうに笑うのは、自分より劣った存在だと思う相手を、嘲笑うときだって、あたしは知ってる。

要するに、自分からゲスに落ちるのが、人間は一番楽しいと感じる時なのだ。

そんな生物なんだ。人間なんて。

万物の霊長なんて、大笑いじゃ無いか。

枯れ葉を踏んで、歩く。

茶番だと思うけれど、それでも今後の生活のためだ。叩いて直るようなもんじゃない性格を、どうにか出来るかも知れない。

さて、あいつ、どこにいる。

上を見上げても、いない。

茂みを探っても、いない。

ならば、データを改ざんして、土の中にでも隠れたのか。鎧を着込んでいると言っても、剣は身につけていない。武器をデータに含めると、もの凄く許可を得るのに大変になるし、監視用のツールを付けなくてはいけなくて、煩わしいからだ。

本物のプレートメイルは、確か何十キロもあったと聞いている。

伊住の貧弱な体では、多分動く事もできなかっただろう。

いい加減、無言で歩くのも煩わしくなってきた。山を半分ほど歩いて、木の陰に、見覚えのある後ろ姿を見た。

手で顔を隠して、座り込んでいる。

まさか、あれか。

やはり巫山戯ているのか。めらめらと怒りが燃え上がってくるが、ぐっとこらえて、声を掛ける。

「見つけた!」

「あ、みつかっちゃった!」

のはらがひょいと立ち上がると、黄色い声で大喜びする。

こいつ。絶対あたしの事を、後ろからつけ回して見張っていたくせに。白々しく喜んで見せている裏で、一体何を考えているのか。

今度はのはらが鬼と言うことで、また隠れさせられる。

一体何回、こんな茶番を繰り返せば良いのか。ハラワタが煮えくりかえりそうだけれど、今後の生活のためだ。

現在は収入も安定しているけれど、それもいつまで続くか分からない。

グルドテラレアルが稼いでいるお金なんて、難病にでもなれば一瞬で吹き飛ぶんだ。結局、あたしはこの化け物との遊びに、つきあうしか無いんだろう。

「もういいかい?」

のはらの声に追い立てられながら、隠れる。

絶対彼奴、ツールか何かで此方の居場所を見ながらやってやがる。

そういえば、このスペースはリラクゼーションルームだから、他からアクセスがあってもおかしくないはず。いくら僻地であっても、だ。それに、さっき調べたときには、ログインしている奴もいた。

それなのに、誰も見かけないのは。

やはり彼奴、何かやっている。そう考えた方が良さそうだった。

大きめの木のうろに隠れる。

元々小柄なあたしだ。鎧を着ていても、中に入って隠れることは、さほど難しくなかった。

本来だったら無理だろうなあと思いつつ、身を低くして、声に応える。

「もういいよ!」

若干投げやりな声と同時に、鬼ごっこが始まる。

身を潜めているあたしは心細くて、膝を抱える。そういえば、現実世界の意識を、拡張現実に持ってきている本当の理由の一つは。

向こうに居場所を感じられず、ぼーっとしていてもつらいからだ。

色金真美のように、拡張現実上の人格に働かせて、自身は贅沢三昧、ブタのように太って何にも恥じないくらい、図太くて好き勝手な奴だったら、あたしももう少し楽だったのかなあと、思うこともある。

だけど、結局あたしは。

グルドテラレアルに、自分が寄生していることを知ってる。

後ろめたいんだ。結局の所。

多分、だから人間世界でも、生きづらいんだろう。

彼処は、クズであるほど、やりやすい場所のように思えてならない。

「みーつけた!」

随分あっさりと見つけられた。

木のうろを上から逆さになって覗き込んでいるのはら。満面の笑みを浮かべているが、やはり怖いだけだ。

無言で、木のうろからでる。

何回でも、此奴の遊びにつきあうしか無いだろう。それが分かっているから、口惜しくてならない。

時間加速が掛かっているから、おなかはまったく減らないのが、幸いか。

どうせ何があっても、現実世界のメイドロボットが対応するだろうから、それこそどうでもいいけれど。

「楽しいね、いすみん!」

「そうか、良かったな」

「じゃあ、今度は追いかけっこね!」

隠れるの無しの鬼ごっこで、触れば勝ち。

よりハードそうな遊びだけれど、別にどうでもいい。どうせ手のひらの上でもてあそばれてる身だ。

どうにでも、好きなようにしてくれ。

投げやりに言うあたしの手のひらを引いて、のはらは浮いたまま山頂に向かう。

「いすみんは、いつも何してるの?」

「あたしは根暗な引きこもりでな。 家じゃあいつもメイドロボットになんでもさせて、寝てるよ」

「そうなの?」

「コミュニケーション不全を宣告されて、仕事もできないんだよ。 学校に今更行こうって気にもならないしな。 幸いグルドテラレアルが稼いでるから、家には住めるし生活もできる。 だけどこのままじゃあ、トイレに行くだけの肉人形だな」

自嘲的に吐き捨てると、のはらは顔を覗き込んでくる。

よっぽど良いツールで調整しているのか、顔に揶揄している雰囲気は無い。もっとも、あたしの観察力不足だろうけど。

「苦しい?」

「苦しいに決まってるだろ。 コミュニケーションが苦手なことを、本人の努力不足だとか言うような偏見がまかり通ってた時代よりはマシらしいけどな。 結局の所、あたしが寄生虫で、クズだって事に変わりは無いからな。 何が変わればいいだ。 んなこと、できる奴がしないのは罪悪だけどよ、できない奴はどうにもならないんだよ。 結局弱い奴は死ねっていってるのと同じじゃねーか。 何が万物の霊長だよ。 猿とどこが違うってんだよ」

山頂に着く。

さあ、何でも勝手にはじめろ。

心中で毒づくあたしに、のはらは意外なことを言う。

「じゃ、ちょっと予定を変更しよっかな」

「好きにしてくれ」

のはらが目を閉じて、手を前にかざすと。

わら人形見たいのが出てくる。

それが徐々に形と伴っていって、母親の形になったから、あたしはぎょっとした。

忘れもしない。

千円札を押しつけられて、部屋から出てくるなって言われたとき。

兄貴の誕生日パーティだとかで、下の部屋がぎゃあぎゃあ騒ぎ出して。メイドロボットが、携帯用のトイレを部屋に持ってきたとき。

下で馬鹿騒ぎが始まって。

うちには、子供は一人しかいないと、親がほざいているのを聞いたとき。

思えば、あれが。あたしが引きこもりになった、究極的な原因だった。確かにあたしは成績は悪かったけれど、一生懸命努力はしていた。それを根こそぎ否定されて、ついにあたしの中で、何かが壊れたんだと思う。

コミュニケーション不全を告げられたのは、あのすぐ後だ。

親に顔面を思い切りぶん殴られたのも。

あんたみたいなクズ、どうして産んだんだろう。今までの養育費返せゴミ。顔を歪めて、親がそんなことを叫びながら、あたしの顔が腫れ上がるまで殴った。その日に学校で、どれだけ笑われたことか。

クズがブスになった、って。

教師まで笑っていたことを、あたしはよく覚えているよ。

「思いっきり、さけんでみよ?」

「何を」

「不満を」

ふつふつと、わき上がってくる心の痛み。

そうだ、思い出した。

これだ。怒りの間に埋もれて忘れていたけれど、これこそが、あたしの心の中にある、力の原動力だ。

今まで自殺しようと思えば、するチャンスなんていくらだってあった。

メイドロボットに練炭を買ってこさせたって良かったし、なんなら自分で手首を切ったって良かったんだ。

そうしなかったのは、全てへの怒り。

それに、あたし自身の悔しさが、消えるのが嫌だったからだ。

「死んじまえ、お前なんか! 良くもぶん殴ってくれたな! クズを産んで損しただって!? ああ、悪かったな、クズで! 兄貴が結局一流大学への進学ができなくて浪人して、学閥にも入り損ねたのも、あたしのせいだってほざいてるらしいな! 勝手にしろ、この腐れアマぁ!」

「わ、溜まってるね」

「ぶん殴って良い、これ」

「実体が無いよ」

首を絞めてやろうと手を伸ばしたけれど、確かに虚空を掴むばかりだ。

まだまだ、叫びたいことはいくらでもある。

「このクソババア本人を、ぶん殴りたいけど」

「それを現実世界でやったら、犯罪になっちゃうよ」

「……そうなんだよな」

唾を吐き捨てようとしたけれど、上手く行かない。

多分、このスペースではできないように、拡張現実で制限が掛かってるんだろう。不快な制限だ。

それからあたしは、全部叫ぶ。

最後に、こう締めた。

「何もかも死んじまえ!」

 

のはらはずっと笑顔のまま、あたしの狂態を見守ってた。

そりゃあ楽しいだろう。自分とは関係無いんだし、何よりも他人が苦しんでるのを見るのは、人間にとって至上の喜びなんだから。

コントなんかでも、笑いがでるシーンは決まってる。

自分より劣っていると思う相手が、滑稽な行動をしている時。

つまり、そういうのを見て、人間は安心するんだよ。自分より下がいるって。で、笑う、と。

あたしは確かにクズだ。

だけど、はっきり言う。

人間って生物そのものが、クズでゲスなんじゃあないか。

おかしな話だよ。人間が言う道徳とか高潔な精神とか、美徳ってされてるものなんか、誰が守ってるのか。

守ってる奴は確かにいるかも知れないけど、それは周囲から尊敬されることに結びつくのか。違うな。彼奴はバカだ間抜けだって笑われるだけだ。

清楚、誠実、清純。そういった事を口にすると、みんなで鼻で笑うじゃあないか。或いは装ってるだけ。

実際に人間が求めてるのは、金とツラだろ。

もしくは、自分に対する都合の良さだ。愛してくれる人、なんていうのはその見本で、ようは自分の言うことを何でもほいほい聞いてくれる上に、お金をばたばた落としてくれる、見かけと都合が良い肉人形が一番いいってこった。

こんなことをいうのも、コミュニケーション上手のグルドテラレアルを影から見ていて、それを散々見ていることもある。

拡張現実上でのコミュニケーションは、いろんなツールがあるから、現実世界よりもよっぽど楽だけれど。

それでも、グルドテラレアルを見ていると、分かる。

結局、相手にどうこびを売るかが、コミュニケーションじゃあ無いのか、ってね。

ちょっとあたしなりに調べてみたけれど、引きこもりって昔っからいるらしいね。社会が平和で安定してると、どうしてもそう言う人間はでるらしい。

つまりそれは。

コミュニケーションとやらが楽しいどころか、実際には苦痛でしか無いって言ういい証拠じゃ無いか。

のはらが人形を消す。

あたしは座り込むと、ぼんやり虚空を見上げた。

此奴に、狂態を見せ続けるのかと思うと、気が重い。あれだけ叫んでも、まだまだ不満は晴れない。

浮いているのはらが、逆さになって、あたしを覗き込んでくる。

「何かやってみたい遊びはある?」

「どういうつもりだよ」

「私、楽しい事が大好きだから。 いすみんは違うの?」

「楽しいなんて、感じたこと、ここ数年はない」

いろんなエンタテイメントツールを試してみたし、グルドテラレアルの給料使って、ゲームの類も買ってみた。

アイドルとか映像ソフトとか、個人で買えそうなものは、あらかた試してみた。

みんなつまらなかった。

もちろん、拡張現実で遊ぶタイプの奴だってあった。体を動かすタイプも。病んだ心に効くというものだって。

あたしだって、子供じゃあ無い。

個人でできそうなことは、大体試してる。人はかわれるなんて言葉が、上っ面の嘘っぱちだって事くらいは、体で知ってるんだよ。

変われる奴はいると思う。

だけど、それは少なくとも、あたしじゃあないね。

「うーん、そういえば。 いすみんって、全然笑わないね」

「あたし、顔隠してるんだけど」

「何となく、雰囲気で分かるんだよ。 うーん、その調子だと、彼氏ができてもあんまり変わらないだろうし……」

余計なお世話だ。

もういいか。散々オモチャになってやっただろう。

そういいたいけれど、我慢する。此奴が満足するまで弄られてやれば、将来が保証されるんだから。

グルドテラレアルの奴、肝心なときに、余計な事を押しつけやがって。

まあ、あいつもあたしの別人格なんだし、性格がねじ曲がってるのは当然か。コミュニケーションなんて、クソくらえだ。

「よーし、決めた」

「なにすればいいんだよ」

「走ろう!」

まるで青春ドラマに出てくる熱血教師みたいな事を、のはらがほざく。

有無を言わさず、山麓に連れて行かれる。

そして、それから。足腰が立たなくなるまで、散々に走り回らされた。

 

3、三人目

 

グルドテラレアルが戻ってきた。

疲労困憊しているのは、何故だろう。拡張現実上で疲れが出るというのは、よほどのことだ。リラクゼーションの時間は既に終わっていて、グルドテラレアルのデスクには、作業が山積していた。

僕は咳払いすると、とても優秀だけれど、あの化け物がでたときに、非常に取り乱して、怯えきっていた上司に声を掛けることにした。

「班長、報告することが」

「あん? あたしに……」

咳払いしたグルドテラレアルが、体を何度か揺らす。

あたし。グルドテラレアルのベース人格が女の子だったとは、聞いていない。何か特殊なリラクゼーションでも受けて来たのだろうか。幼児になって思い切り甘えたりとか、性別反転とか、そういうスペースがあると言うことも、僕は聞いてる。試してみたことは無いけれど。

「何用だ」

「はい。 色金真美の治療が進展して、ほんの少しだけなら会話もできるようになりました。 完全になおるまで待ちますか?」

「いや、それは朗報だな。 話は聞けるときに聞いておこう」

既に研究所には、かなりの人数が戻ってきている。

それにしても、さっきの言葉は何だろう。

「メッシーナ君」

「はい、何ですか」

「あの化け物だったら、満足して帰ったようだ。 多分、もう出ることは無いだろう」

「それは嬉しい話ですけれど、彼女は一体何だったんでしょう」

グルドテラレアルは応えてくれない。

研究スペースに移動すると、薄着だけをつけて、ベッドに横たわっている色金真美がいた。

あの醜く太った現実上の姿とは似ても似つかない、とても美しく繊細な容姿。

どうしてこんな綺麗な人に暴力を振るい、あんな残虐な殺し方をしたのか。たとえ法的には問題ないとしても、絶対に許せないと、僕は思う。

声を掛けると、色金真美は此方を見る。

彼女は、現実世界上のどうでもいい強欲女と違って、世界的な権威だ。当然会話には、とても高い価値がある。

「グルドテラレアル……」

「面会をようやくする事ができました。 気分はどうでしょう」

「あまりよくは……ないわ」

ベッドには幾つかの機器類が据え付けられていて、その中の一つ。精神の安定を満たすメータが、色金真美の言葉と連動して上下している。

監視用のツールが、これ以上は会話できないとなると、強制的に会合を打ち切る予定だ。具体的には、この部屋からはじき出される。

現在も、会話自体に検閲が掛かっている。たとえば、誰が貴方を殺したの、と言うような言葉を吐くと、色金真美には届かない。

僕自身は、拡張現実ではカマキリと蟻を足したような姿のサイボーグを使っている。ある程度自衛能力があるし、何より僕がカマキリを好んでいるからだ。完全にカマキリだと色々不便なので、繊細な作業は触手を伸ばして行う。

今の時点では、レコーダを起動して、会話を拾うくらいしか仕事が無い。

「新技術についてですが」

「今は、少し頭が……痛いの。 少し休んでから……話すわ」

「分かりました。 貴方が無事であっただけでも、私は嬉しいです。 体を休めてから、研究に協力願います」

メーターが振り切れそうになり、警告音が出る。

グルドテラレアルを急かして、部屋を出る。妙に班長は焦っているように見えた。

「まだ性急ですよ」

「分かってる。 しかしな。 この技術が完成すれば、世界が変わる」

確かに、この合金の技術が完成すれば、ついに夢の存在に過ぎなかった軌道エレベータが実現する。

そうなれば、エネルギー問題は一気に解決に向かうだろう。

勿論問題は腐るほどある。

テロの危険や国家間の軋轢。少し前よりマシになっているとは言え、まだ世界を統一する政権はないし、統一国家樹立の動きも遅々として進まない。

それでも、石油資源がとっくに枯渇している今。

この技術の完成が、世界にもたらす富は、計り知れない。未だに地球から出られない人類が、やっと外宇宙に旅立てる日が来る。

だけれど、色金真美が死んだり、知識が駄目になったら、それどころじゃあない。

拡張現実は、ネットとはだいぶ違う所も多い。0と1だけで構成されているようなことも無ければ、データの復旧だって容易じゃあ無い。

色金真美が死んだら、それまでなのだ。

グルドテラレアルが焦るのは分かる。しかし今の班長は、いつもの冷静さを兼ね備えていないように思えた。

あと十時間もすれば、治療が終わるはず。

そうなれば、一体誰が色金真美を殺したのか、はっきりするはずだ。

デスクに戻ると、ネット警察の人が来ていた。威圧的な円筒形のロボットタイプで、全身に武器を格納している。

それは「見せ武器」であり、実際に犯人を逮捕するときは専門のツールを使うらしい。

ちかちかとカメラアイを点滅させながら、警官は言う。

「今の時点で、侵入者はいません。 そちらに異変はありませんか」

「大丈夫です。 引き続きの警備をお願いいたします」

「了解しました」

意外に親切な警官で助かる。

溜まった仕事を片付けてしまう。大体は書類整理ばかりだ。研究業務は、どのみち色金真美の理論が出てこないことには、何ら進展が無いのが目に見えている。

デスクに向かっているグルドテラレアルは、仕事に没頭することで、ようやく自分のペースを取り戻しつつあるように見えた。

少なくとも、其処には。

いつもの優秀な班長がいた。

 

一度ログアウトする。

現実世界での素性がばれると嫌だから、拡張現実ではキャラを作っている。僕はまだ大学二年生。それがばれないように、拡張現実上では、性格調整用のツールを使っている。同じ事をしている奴は結構いて、大学ではツールの出来について話題になることが、珍しくない。

現実世界では、社会人では無い。これも学費を稼ぐための、一種のアルバイトだ。そう言う立場だから、機密情報には触れられていない。その上、ログアウトするときには記憶の一部をカットされる。

実は、逆の事も起きている。

僕みたいな無知な学生を使うために、ログインしたときに、特殊な専門知識を追加しているのだ。勿論、それは一時知識であって、ログアウトするときには全部カットされてしまう。

だから、アルバイトの後は、記憶が彼方此方抜け落ちている。

特に酷いのが、人命の固有名詞だ。

グルドテラレアル班長とかは覚えているけれど、「あの人はなんていう名前か」というような記憶はごっそり抜け落ちてしまうので、奥歯に物が挟まったような苦痛は、延々と続く。

時間は、殆ど掛からないことが多い。

拡張現実上だと、時間の流れが変化しているから。それを利用して、学生だというのにもの凄く稼いでいる奴もいる。

でも、そう言う奴は。大体記憶の強制追加と欠落に苦しんで、青い顔をしているものだった。下手をするとそのまま学校に出なくなって、やめてしまう奴までいる。文字通りの、本末転倒だ。

ヘッドギアをはずして拡張現実から完全に離れると、冷蔵庫から冷たい水を出して、一気に呷る。

のはらとかいうあの謎の子供が出てきたとき、怖がって逃げ回った。まさか、拡張現実で、これほどまでに怯えるとは思わなかった。

今でも、指先に震えがある。

しかし、妙なことも多い。

改めて思うと、愛らしい子だった。

それでもあれだけ恐ろしかったのは、その子が異常な存在だと、専門知識から一瞬で理解できたから、だろう。

大学の友達に、連絡をしてみる。

今日は休みの筈の友達も多い。でる授業を工夫すれば、休みを作れるのは、大学の古くからの良き伝統だと聞いている。

一番仲良くしている伊佐野に連絡してみる。同じゼミにいる、いつも機嫌が悪そうな女だ。

数度のコールの後に、不機嫌そうに伊佐野がでた。挨拶をしてから話していると、妙なことを言い出す。

「春原、お前拡張現実の幽霊って信じるか?」

「僕になんでそんなことを聞くかな」

「でたんだよ。 タチが悪いのが」

背筋を悪寒が駆け上がる。

まさか、のはらを彼奴も見たのか。

「いるわけないじゃないか、そんなの」

「俺だって最初はそう思ったよ」

伊佐野は自分を俺と呼ぶ。

ずーっと昔には、その一人称を使う女性もいたと聞いているが、しばらくは絶滅していた。

だが、近年に、また出てくるようになった。

これは拡張現実の影響だ。

容姿をツールで男子に替え、口調も補正している場合、たまにこういう影響が出る。拡張現実があまりにも便利だから、今では誰も文句は言わないが。

当然、逆の例もある。

オカマでもないのに、口調が女になるパターンだ。ある文豪は女ばかりの家庭に育ってそうなったと聞いたことがあるが、多分状況としては、それに当たらずとも遠からず、と言うところなのだろう。

話を聞いてみると、その幽霊というのは、男らしい。少なくとも、のはらではないらしいと、僕は思って、ほっと胸をなで下ろした。

「そっかあ、男か」

「何だよ、どういう意味だ」

「僕の所にもでたんだよ、幽霊だか分からないけど、化け物が。 拡張現実でツールも使ってないしサイボーグかもしてないのに、空まで飛びやがった」

「マジかよ、それ」

伊佐野の所にでた幽霊は、彼女の働いていたサービス業のお店に突然現れたという。

壁をすり抜けて出てきたと思ったら、大勢の客が見ている前で、テーブルやら敷居やらをすり抜けて歩き、厨房まで通っていったそうだ。

その間、何十人もの客が目撃。

辺りは大パニックになったという。

「拡張現実で、一体何が起きてるんだ? ネットを見ると、他にも幽霊の目撃談が、複数でてるらしいんだ。 おっさんだったり子供だったり、いろいろだぜ。 俺の所にも、メールとか来てる。 SNSでも、情報を求める書き込みが殺到して、昔で言う炎上みたいな状況だ」

「……ちょっと、調べてみるわ」

僕は通話を着ると、ネットにアクセスしてみる。

最近では、携帯の端末でも、立体映像の投影が可能で、ほとんどモニタは必要なくなっている。

当然、キーボードも同じように呼び出せる。

ネットにアクセスするのは久しぶりで、確かにポータルサイトでは、拡張現実での幽霊が話題になっていた。

本当に何が起きているんだろう。

のはららしい目撃談もある。どうもまとめてみると、幽霊は最低でも七体前後はいるらしい。

大半は無害な様子だが。

そうなると、やはりのはらの異常さが際立つ。

あいつは明らかにグルドテラレアル班長にターゲットを絞って、露骨な物理干渉までしていた。跨がられた班長の取り乱した様子は、気の毒でさえあった。

それだけじゃあない。実際に観測していた班の連中の話も聞いている。いきなり消えたり、二日間ぶっ通しで歩き続けたり。

いろいろな意味で、人間じゃ無い。

ツールの助けも使っていないし、何よりサイボーグ化もしていないのだ。そんなことができる子供が、いるとは思えない。

何だろう。

一体グルドテラレアル班長は、何に巻き込まれているんだろう。

怖くて、ログインするのに、躊躇してしまう。バイトだ。お金を稼ぐためだ。学費を稼ぐためで、更に言えば未来のためだ。

自分に言い聞かせても、中々指が動かせない。

ヘッドギアをどうにか掴むが、なかなか頭に装着できなかった。

グルドテラレアル班長のアドレスにアクセスする。外からも、メールは送ることができるからだ。

ネットでの情報について、書き込んで、送る。

とても今は怖くて、ログインできないとも。

返事は、あった。

「ログインできないのなら、少し休みなさい。 後は私が何とかしておくから」

「すみません。 一眠りしたら、すぐにまたログインします」

なんだかんだいっても、グルドテラレアル班長は優しい。

今は研究所が混乱しているという事もあるだろう。結局あの人(ログアウトすると名前が記憶から欠落する)の治療が終わるまで、何もできないという事情もある。休むなら、今だ。そう言い聞かせて、休むことにした。

ため息をつくと、ベットに転がる。

ヘッドギアを投げ捨てると、途端に楽になった。

班長のことは心配だけれど、それ以上に怖くて体が動かない。ただの学生である身が、もどかしかった。

 

4、ワンピースの孤影

 

マスターがログアウトする。

全身に汗びっしょり。無言で暖かいタオルを差し出すと、殺意さえ籠もった目でにらみつけてきた。

「随分準備がいいな」

「苦しんでおられるようでしたから」

「ふん……」

マスター、伊住は、唾でも吐き捨てそうな気分だった。

これでも彼女は、随分此方に来たときに比べれば、穏やかになった。最初の頃は手首を切ろうとしたこともあったし、発作的に暴れて茶碗を投げつけてきたこともあった。

私は、政府に派遣された監視用のメイドロボット。

マスターは貴重な実験体なのだ。拡張現実でもう一つの人格を動かせる、数少ない例外。自殺は絶対にさせるなと、私は言われている。

シャワーを浴びて戻ってきたマスターが、だらしなく着崩したパジャマのまま、床に転がる。

せめてベットにというが、彼女は拒否した。

「めんどい」

「綺麗な髪が台無しですよ」

「髪なんてどうでもいいね。 だったら丸坊主にでもすれば」

もったいないことを言う人だ。

実際の所、マスターは自分をブスだと思っているようだが、違う。絶世の美女とまではいかないが、そこそこに綺麗な顔立ちだ。人間の美的感覚は正直よく分からない部分もあるのだが、統計から見ると、ブスだとは言いがたい。

むしろ周囲からの刷り込みが、マスターの心を傷つけ続けている。

彼女は、周囲からブスだクズだと言われ続けて、そう思い込んでしまっているのだ。表情もきつい。目つきはいつも鋭くて、対話を拒否している雰囲気が全身から漂っている。たまに一緒に外出するときも、自分に集まる視線を、蔑みのものと理解しているようだ。無理も無い。

学校でも家でも、彼女は虐げられ続けてきた。

機械で作られた奴隷であるから、人間に対して、強く言うことはできない。

だが、思うのだ。

引きこもりという存在は、本人よりもむしろ周囲が、作り上げてしまった心の牢獄の囚人なのでは無いかと。

かっては、引きこもりは悪という風潮があった。社会復帰を、社会の側が、全力で拒んでいた。

被差別階級としても、作り上げられていた。

その悪しき余波は、今でもある。「普通の人」が精神的な衛生を保つために、「見下せる相手」として作り上げられた、可哀想な存在。

私は、そう引きこもりのことを、理解していた。

だから、私は救おうとした。

現在、AIは急速な発展を続けている。私も何度か目のバージョンアップで、心を得ることができた。

人間に対するいろいろなブロックは掛けられている。傷つけるなどもってのほかだし、不利益になることはできない。

今回も、失敗だった。

結局色々試してみたけれど。マスターの心を、開くことはできなかったのだから。

そう。

のはらは、私だ。

ただし、あの女の人を殺したのは、私じゃ無い。

それに、最初は、私が誰かも分からなかった。どうやらログイン時の様々な検閲で、記憶が削除されていたらしい。

中で、どうにか記憶を持ち直したけれど、全ては持ち帰ることができなかった。

だから、薄ぼんやりとしか、あの惨劇の真相は分からない。

「なあ、聞いて良いか」

マスターは、私の名前を呼んでくれない。

二人だけの時は、なおさらだ。

そのくせ、外出するときは、私が側にいないと、不安で仕方が無いらしい。だが、そんな心のもろさも。本人が悪いとして片付けてしまうのには、無理が大きすぎる。

「どうしましたか」

「のはらは、お前だろ」

「……どうして、そう思いますか」

意外だ。

気付くことは無いと思ったのに。

「お前くらいだからだよ。 あたしみたいなクズに構おうとする奴なんて」

「マスター、それは」

「ネット上でも知り合いはできたけど、どいつもこいつもクズのあたしを嘲笑うことだけを考えてたからな。 何回目かのバージョンアップだかで、妙にお前が人間くさくなった事を思い出して、ああ、あたしを心配するのなんて、お前くらいだろうと思ったんだよ」

どうして、そう自分を貶めるようなことばかり言うのか。

結局周りにあわせないと、人は生きていけない生き物なのか。

それは、自己評価も同じなのか。

周りがクズというから、自分もクズだと言わなければならないのか。もしそうだとすると、人間の社会って、一体何なのだろう。

床に転がったままのマスターは、丸くなって、それから長い事何も喋らなかった。

泣いているのは分かった。

だが、どう声を掛けて良いのか、私には分からない。

結局マスターが眠り込んでから、抱え上げて、ベットに横たえた。側でじっと見ている。親にも周囲にも愛されなかった孤独な魂。孤独だからこそ、自分と正反対の人格が、別の世界とも言える拡張現実に生まれたのだろうか。

変われるなんて言葉は、無責任だ。

マスターは、変われない。

必死に努力はしてきた。マスターが変わるために、どれだけいろいろな事をしてきたか、私は知っている。でも、マスターは、どうにも自分を変えられなかったのだ。どれだけ努力しても、お金をつぎ込んでも。

社会は、マスターの努力など、歯牙にも掛けない。

文字通り、ゴミがあがいている姿を、「生暖かい目」で見ているだけだ。

変われない人間は死ねとでも言うのだろうか。そんな言葉が正当化される社会は、一体何なのだろう。

マスターは発熱して、しばらくうなされていた。

それはそうだ。世界で唯一自分を心配していた存在が、人間でさえない、「自分を心配するようにプログラムされた」ロボットだったのだと、分かったのだから。

手当に没頭した。

私はマスターに死んで欲しくない。

熱は39℃にまで達した。通信販売で薬を取り寄せてあったのは幸いだった。風邪薬を飲んでもらう。意識がもうろうとしていたマスターだが、別に薬を飲むくらいはできた。

しばらくして、ようやく体調が回復してきたからか。

熱を帯びた目で、マスターがこっちを見る。

「なあ、結局あの女、どうして死んだんだ」

「それは……」

「見ていたんだろ?」

「分かりません。 私もログアウトするとき、記憶の一部を削除されていますから」

だいたい、真相はもう分かっている。

だが、それはマスターも同じなのでは無いか。

マスターの携帯端末にメールが着信。

あの女が、目覚めたという連絡だ。しばらくは外に出られない、拡張現実にもアクセスできないことを告げて、治療に戻る。最悪の場合、救急車を手配しなければならないだろう。準備はしておく。

どうして、こんな事になっているんだろう。

私は、ため息をつく。

熱が下がれば、マスターはまたあの世界に、人格の半分を送らなければならない。そうすれば、お金は稼げる。グルドテラレアルは敏腕管理職として知られていて、どこの企業からも引っ張りだこだ。

生きては生ける。

だが、優秀なグルドテラレアルを送り出している筈のマスターは、ゴミクズとして世間に見下され続ける。それが正しいこととされ続けるのだ。「普通の人間」が喜ぶために、「無能で」「何ら進歩が無く」「社会に適合性も無く」「コミュニケーション不全な」存在が、必要だから。

一体、社会とは何なのだろう。

眠っているマスターの熱は上がったり下がったりを繰り返して、小康状態だ。

苦しんでいるマスターの顔が痛々しい。

涙が流れない、自分の体の構造も。ただ、口惜しかった。

 

5、血塗られた真相

 

カイゼアとしてログインすると、既に色金真美の治療が終わっていた。

やれやれと、私は思う。

どうしてあれだけ奔走していたのか。大体最初から、真相なんて分かりきっていたのに、である。

グルドテラレアルはまだログインしていない。

現実の体が熱を出したとか。あの生真面目人間がログインしてこないという事は、よほど体調が悪いのだろう。

どのみちあれがいないと、研究は動かせないのだが。

どうせこのプロジェクトは終わりだ。治療に当たってる医療チームは、うすうす気付いている様子だが。

「まだ班長はこないのかね」

「先ほどメールを出しましたが、まだ寝込んでいる様子です。 よほど心労が溜まっていたのかと……」

「ふむ、仕方が無いか」

あの幽霊みたいな化け物については、よく分からない。

だが、別に構いやしない。無害なのは分かっていたのだし。確かに得体が知れなくて怖かったが、無害なら別にどうでも良いことだ。

ネット警察も、既に引き上げている。

ただ、最後に、このプロジェクトを終わらせることだけは、しておかなければならない。

色金真美の様子を見に行く。

気まずそうに、医師達が視線を背けていた。

「記憶は戻りましたかな」

「……」

「というよりも、真相を話していただきましょうか。 この死亡事故、貴方の自作自演、だったのでしょう?」

無言は、証明だった。

あのような徹底的な殺戮、一人や二人で出来るわけがない。

しかしネット警察が洗ったが、殺戮は明らかに個人スペースで行われていたことが、はっきりした。

現実世界上の色金真美は、拡張現実上の自分に、金づる以上の期待は一切していなかった。

それならば、考えられる可能性は、一つだ。

「氷によってじゃあない。 自分の肉体が徹底的に損壊するように、拡張現実上でプログラムを組みましたな? 氷による死に偽装されるように、念を入れて」

「ええっ!?」

真相にまだ気付いていなかった小童が、素っ頓狂な声を上げた。

ネット警察も、とっくに真相には気付いているはずだ。恐らく、グルドテラレアルも、今頃は。

「その理由も大体見当がつく。 画期的な理論なんて、無いんでしょう?」

色金真美は、ゆっくり、だが確実に頷いた。

この女が、拡張現実上では、権威とも言える学者である事は事実だ。だが、上位人格には逆らえない脆い立場でもある。

もっと金を稼いでこいと言われたのだろう。金を稼ぐためには、嘘をつけとも。

だが、ブタのように太り、自尊心で自壊しつつある現実世界の色金真美と違い、拡張現実上の彼女は。

「あの醜いブタは、私にこう言いました。 お前の積み上げてきた実績なんか、どうでも良いんだよ。 一円でも多く稼いできな。 そのためには、嘘でも何でもつけって」

「それで、か」

「あの女は私の研究の価値なんて、何一つ理解していませんでした。 ホストに通うために、金を稼ぐことだけしか頭にありませんでした。 私の研究を、二束三文で売り払うばかりか、私の積み上げてきた権威まで……」

今回の件。

事前に通達があった理論についても、あの女が勝手に独走した結果だと、色金真美は血を吐くように言った。

だから、グルドテラレアルが来る前に。

自壊プログラムを、発動させたのだ。

「ね、ネット警察に!」

「勿論それはできるだろうが」

泡を食った部下に、優しく諭す。

現実世界の色金真美はこれで逮捕されるだろう。

国際的な権威である科学者の研究を、自分の欲求のために売り払い、しかも権威を冒涜するような真似までしたのである。

犯罪がネット上で、というのが致命的だ。

証拠は消せない。

ただし、そうなれば、拡張現実上の彼女は。

絶対に逆らえない存在が、存在を許すとは思えない。政府がどう動くかは分からないが。

「警察への通報は、我々からしておきます。 お前達、プロジェクトの凍結準備。 本当に理論ができあがったとき、この研究は継続されるだろう。 おそらくは、数年後、人員も総入れ替えの末、だろうが」

何もかもが、茶番だった訳だ。

だが、最初から、実はこの結末は読めていた。

拡張現実上での、大スキャンダルとして、この事件は報じられるだろうか。政府の統制が上手く行くだろうか。

正直、よく分からない。

だが、拡張現実上で作られた奴隷の、精一杯の反乱の結果が、これだ。

グルドテラレアルには、カイゼアから連絡を入れておく。現実社会でのアドレスは知らないが、恐らくあれも、実際にはサラリーマンでは無く、よくて学生程度だろうと、カイゼアは見ていた。

所詮、この世は百鬼夜行。

拡張現実ができてから、その人外魔境ぶりは、更に加速しているように、カイゼアには思えてならない。

実体社会でさえ、何が真実なのか、分からないのが普通なのだ。

それなのに、此処と来たら。

研究所の後始末を終えると、私はグルドテラレアルに連絡を入れる。

先ほど意識が戻ったらしい。すぐに、敏腕の班長は駆けつけてきた。

真相を聞くと、触覚を下げて、グルドテラレアルは言う。

「やはり、そうでしたか」

「まあ、状況証拠から、簡単に割り出せることだからなあ。 プロジェクトの凍結には、悪いが君も最後までつきあってくれ」

「分かりました。 他のメンバーは」

「既にログアウトさせたよ。 凍結した研究については、ネット上の政府データバンクに移すことにする」

これで、軌道エレベータの研究も、先送りか。

だが、これでよかったのかも知れない。

人間なんぞ、この程度の生物なのだ。

宇宙には、いろいろな生物がいる。星間国家を作り上げている、偉大な文明も存在するかも知れない。

そんな中に、現在の地球人が出ていけば。

宇宙規模で、大航海時代や、植民地時代の、地獄絵図を再現することになるだろう。

「君は、これからどうするね」

「……」

「前から分かってはいたが、君も第二人格なのだろう? 拡張現実上の。 第一人格に、苦しめられていないのかね」

ふと、気付く。

あの女が。

ワンピースの女が、じっと此方をにらみつけている。

グルドテラレアルは、気付いていない様子だった。

「苦しめられては……いないと思いたいです」

「そうか」

もう、二度と会うことは無いだろう。

それから二人でプロジェクトの凍結を行い、記憶の削除をした。

ログアウトしたときには、もうグルドテラレアルの名前も忘れていた。また拡張現実上でプロジェクトを共にしたら、きっと思い出すだろう、が。

現実世界上で目覚めると、舌打ちする。

どうしてもサイボーグとはいえ、爺の体は慣れない。

電話が来た。

数少ない友人の一人、春原からだ。

「また幽霊の話らしい。 拡張現実上で、目撃例があったらしいよ」

なよっとした男だが、其処が友人として長続きしている原因かも知れない。かくいう私も、拡張現実上で二つの人格を持っている。一つは老人で、もう一つは私。拡張現実上のカフェで働いているのは、本人格の方。

大学にまだ通っているのは、何故だろう。

世間的に、クズと言われないためか。

今の収入なら、引きこもりとしてでも、生きていけるのに。貯蓄をはたけば、家を買うことも、その後寝て暮らすことだってできる。

「私も、さっきまた見たよ」

「本当か!?」

本当だと応えると、煙草に手を伸ばす。

この世は百鬼夜行。

幽霊くらい、可愛いものだ。

本当に怖いのは。

私は鏡を見る。

目つきの鋭い、あまり身繕いをしていない。駄目女が、其処に映っていた。

 

(終)