破滅の肉塊
序、不可解な襲撃
カリフォルニア州のある州軍基地に、それは突如姿を見せた。
それは唸り声を上げながら突如として軍基地の鉄条網に突進。何度か突進して、体がぼろぼろになりながらも強行突破。
驚く兵士達に、襲いかかった。
兵士達もそれが何なのか、全く理解出来なかった。
そして、理解出来ずに棒立ちになっているうちに、一人の兵士が引き裂かれてしまった。
鮮血が飛び散り、悲鳴と怒号が上がる。
M16が火を噴き、その何かに無数の銃弾が浴びせられるが。
肉に食い込む銃弾をものともしないのか、それとも全身が壊れようとどうでもいいのかそれは暴れ続け。
ジープを一台ひっくり返し。
太い腕を振り回して更に兵士一人を殺し、五人に重傷を浴びせ。
出て来たM1エイブラムスにも突貫して体当たりするほどだった。
だが流石に重量において50トンを超えるM1エイブラムス。世界最強のMBT相手には。どれだけ強くても生物ではどうにもならない。
文字通り弾き返され。
エイブラムスに据え付けられている機関銃を浴びて、やっと動かなくなった。
辺りが血だらけになるなか、必死に救助活動が行われ。
救急を担当する兵士が負傷者を運んでいく。
そんな中、暴れた何かの残骸を軍のMPが運んでいく。
それはとてもではないが、生物には思えない暴れ方をしたが。よく見ると、生物のようにも見えたからだ。
程なくして、それは軍の研究施設に運び込まれていた。
研究施設でも、それはしゅうしゅうと煙を立て、異臭をまき散らしており。軍医が調査に当たったが。その中にはどんな酷い兵士も見慣れている筈なのに、吐くものもいた。
解剖する間も、死体が動き出すのでは無いかと、誰もがおののき。
腹を開いて、中から多数の兎やら鳥やらが出て来て。それでやっと安心する医師もいたほどだった。
人間の残骸が出てくるのでは無いのか。
誰もが、そう考えたのである。
幸い、それはないようだった。
やがて軍とは関係無い生物学者が呼ばれてくる。
こんな生物、誰にも見た事がない。
それが故の処置であったのだが。
何人か呼ばれた生物学者の一人が、一目で正体を特定していた。
まだ若々しい博士で。
大学にコネもなく。
それが故に、今回の事件で急いで引っ張られて来たのである。
いかにも米国では嫌われそうな、絵に描いたような元ナードであり。
屈強な兵士達はいかにもな視線で博士を見たが。
その元ナードが、この生物の正体を一目で見抜いたのであった。
屈強な筋肉しかないような人間達には、できなかったことだった。
「これはアメリカクロクマですね」
「アメリカクロクマ?」
「はい。 北米に棲息する熊は三種類いて、うち一種類はホッキョクグマ。 この辺りでも見かけるのは、いわゆる灰色熊とこの種類になります。 アメリカクロクマはどちらかというとかなり小型で、普段は人間を襲うことなど滅多にないのですが……」
「こんなのが熊だってのか!」
声を荒げる軍医。
それに萎縮する学者。
士官が咳払いした。話を続けるようにして、学者に促す。
眼鏡をふるえながら直して、学者が順番に説明していく。
「ええとこの熊は、何が理由かはわかりませんが、酸か何かを浴びたようです。 変質者にそうされたのかも。 結果として毛が全て抜け落ち、そして痛みが凄まじいので、暴れ狂ったのでしょう」
「熊に酸を!?」
「普通、生物は酸に落としてもすぐに簡単に溶けたりはしません」
おどおどしながらも、学者が話をする。
筋肉の付き方などを説明して、この死体がアメリカクロクマの標準的な雄である事を解説しつつ、学者が説明をしていく。
「見てください。 力が入りすぎて、筋繊維が崩壊しています。 余程苦痛が凄まじかったんです。 此処などは骨が折れています。 戦車にぶつかった時の傷とは違い、明らかに自分で折ったものです」
「仮に酸を誰かが浴びせたとして、どうして此奴はそれを抵抗せずに受けた。 更には、どうやってそれが軍基地に来た」
「それはぼくには分かりません」
「ちっ、役立たずが!」
声を張り上げる下級士官を、士官が制止。
北米の最悪の文化がこのマッチョイズムだ。ひ弱そうな人間には何をしてもいい。だからスクールカーストの上位はアメフトをやっている男とチアリーダーの女だけで占められる。
それ以外の人間はどれだけ勉強ができてもナードだのギークだの言われて虐げられていく。
そんな環境では、それはこういった歪んだ言動に出る奴も増えてくるだろう。
軍内でも、マッチョイズムは横行していて。
士官は頭を痛めている一人だった。
「すぐにMPに連絡。 州警察、それにFBIと連絡して、動物虐待の前歴がある人間、更には大量の酸を有している可能性がある人間を洗い出せ」
「イエッサ!」
「他にも、このクソッタレな熊がどこから来たのかを急いで洗い出せ。 軍医、胃の中の残留物の分析は」
「今出来たのですが、妙なものが」
士官は話を聞く。
胃の中に入っていたのは、兎の残骸が二羽分。それと、何かの鳥の卵と、雛の残骸だという。
アメリカクロクマは体格が小さく、大型の熊と違って木登りが出来る。
熊は木登りが得意なイメージがあるが、実際には小柄な熊にしか出来ず。大型のグリズリーにはとても出来ない。
走る速度も、熊を神格化した作品なんかでは時速70qとか掲載していたりするが、そんな訳がない。
アメリカクロクマなどの小型種なら60qでる事もあるが、多くは50q代。大型になりすぎると、それすら出無い事もある。
そもそも食肉目として最大種である熊は、かなり無理をして体を巨大化させており。
攻撃力と防御力を上げるために機動力を殺してしまっている。
だからアラスカでは、体格が劣るシベリア虎にカモにされて、良く喰われてしまっているのだ。
そういった事を、学者が説明する。
マッチョな軍医は苦々しげに頷き、なるほどと士官は納得していた。
「ただ一つ、よく分からないものが出て来ています」
「具体的にはなんだ」
「これです」
そういって、別にされていたものを、軍医は見せてきた。
それは、なんだかエナメル質の塊に見えた。大きさは子供の拳ほどもない。
灰褐色のなにかよく分からない代物で、一応綺麗に拭かれているようだったが。それ以外は何も分からない。
軍医はゴミでは無いのかとぼやいたが、学者は違うと言い切った。
「此方を見てください」
「なんだ。 ここだけ色が違うな」
「切り口です。 とんでもなく鋭利な刃物で切り裂いたとしか思えない」
「何かのゴミを熊が誤認しただけではないのか」
苛立ちながら軍医が言う。
学者は首を横に振っていた。
「この切り口は明らかに生物のものです」
「だったら何か熊が喰ったものの名残だろうが!」
「全く消化されていないんです」
「喰った直後にトチ狂って暴れただけなんじゃないのか! いい加減な事を並べやがって!」
苛立ちながら激高する軍医。
こういう人間は、自分より下と見なした人間の発言そのものに苛立つ傾向がある。
そういった存在を人間だと見なしていないからである。
だから言葉を喋るだけでこう感じるのだ。
さかしいと。
ましてや自分が取れなかった博士号を、ヒョロヒョロのが取っていると思うと、逆恨みもそれに加わる。
呆れた話だが、人間の心理なんてそんなもの。
そして相手の機嫌を伺いながら回す社会というのは、こういった人間の機嫌を取りながら回していくものになる。
古くには、欧州の王侯は自分の周囲に道化師を置き、自分の悪い所を真似させたという話がある。
そんな古代の人間でも、自分の機嫌で全てを回していたら、何もかも駄目になると分かっていたのだが。
今の人間にはその知恵は引き継がれなかった。
結果、自尊心で膨れあがったエゴの怪物が、彼方此方を跋扈するようになった。そういうことである。
士官が咳払い。
「その何か得体が知れないものについて、専門家の観点からおかしいというわけだな」
「はい、そうなります……」
「中佐どの! このヒョロガキを放り出してください! いい加減な事ばかり抜かして、調査の邪魔甚だしい!」
「君は少し黙っていろ」
士官の言葉は冷酷で、軍医は黙り込む。
この手の人間は、上役には絶対服従だ。
だが、それでいながら。
今の言葉で、学者を敵認定したようだが。
凄まじい憎悪の瞳で学者を睨み始める軍医。
もう一度咳払いすると、士官はそれぞれに指示を出す。
「軍医、君は仕事に戻れ。 学者どのは、この死体を引き続き調査」
「イエッサ……」
「分かりました」
地面を蹴りつけながら、屈辱を浴びせられたという雰囲気で軍医が去る。
大きく士官は嘆息していた。
「何人か助手をつけよう。 彼らを自由に使って良いので、この死体と、その何か分からないものを徹底的に調査してくれ。 タチが悪い化学物質か何かで、熊が凶暴化した可能性も捨てきれない」
「はい。 ありがとうございます」
「あれのことは気にしないでくれ。 もう少し若い頃は、ちゃんとした軍医だったんだがな」
「……」
そんな訳がない。
その場の誰もが知っている。
マッチョイズムは北米を蝕むガンそのものだ。学者にすら筋肉質であることを求めるほどに。
健全な精神は健全な肉体に宿るとかいう言葉があるが。
だからといって、誰も彼もが筋肉ムキムキの長身である必要などないだろうに。
いずれにしても、その場は解散となる。
そして、調査が始められた。
州軍基地の周囲は、いつもの数倍の警備が行われ。
軍の研究施設の周囲も騒がしくなった。
この件の責任者である士官、ウィルキン中佐が手を回したからである。
研究施設で、学者は順番に全てを調べて行き。
そして、数日で簡単な結論を出していた。
ウィルキンの下に報告書が届く。
それは極めて簡潔なものだった。
まず熊の死因だが、銃撃を浴び続けたと言うよりも、酸による全身の浸食が心臓と脳を著しく破損させたため。
銃弾が体を壊す前に、熊は死んでいた、と言う事である。
脳や心臓が壊されても、少しの時間動く生物は存在している。昆虫などは、頭が取れても動く事があるほどだ。鶏も、頭が取れて一日以上動いていた記録が残っている。
だが、この酸による破壊は凄まじく。見た目以上に熊を蝕んでいた。
良く運ぶ時に怪我人が出なかったな。
そう思いながら、ウィルキンは報告書をみていく。
簡潔な内容である。
「熊の体内から出て来た謎の物質は成分不明。 熊の胃液を拭いて調べて見た所、既存の生物の部位とは一致していない事が判明。 切り口も、何で切ったのかが分からない。 少なくとも熊の牙や爪で破損したものではない」
なるほど。
未知の物質という訳か。
現在、ウィルキンは報道などで、熊による軍基地襲撃についての対応に追われている。
熊はどこの国でも妙な勘違いをした環境活動家が保護を訴えている生物で。
誰が迷信をばらまいたのか、共存出来るとか。熊に襲われるのは人間が悪いのだとか言う寝言を信じている阿呆がわんさかいる。
いわゆるテディベアのぬいぐるみが、人気があるからかも知れないが。
詳しい事情は、ウィルキンにもわからない。
だが、どんな危険な生物だって、赤ん坊の頃は可愛いものだ。
幼い少年の妄想の世界で、熊のぬいぐるみが主役となって活躍する物語はあまりにも有名だが。
あれは出てくる動物が全てぬいぐるみであって。
故に熊と他の生物が共存出来ている。
言われている程熊が肉ばかり食べていないのも事実だが。
だからといって、人間を一度喰うと、弱くて狩り易い獲物と認識して、人間を襲い続けるのもまた事実なのだ。
実際問題、熊は友達などと抜かしている環境活動家が熊に喰われたり。
幼い頃から熊を飼育していた人間が、熊に喰われた死体になって発見されたりの事件は後を絶たない。
幼い頃から人間に慣れていようが。
力が人間とは比較にならず。
思考回路も人間と違う。
それを理解出来ない阿呆が世界にはたくさんいる。
そして、ウィルキンはそんな阿呆が。プラカードを掲げて、軍基地の周囲で騒いでいるのに対応しなければならなかった。
マスコミも案の定この手の阿呆を支援するような活動を続けている。
良くしたもので、どこの国でも似たような状況であるらしい。
ジャーナリズムが神聖視されていた時代もあったが。
今はどいつもこいつも脳がシロップ漬けか何かになってしまっている。
呆れた話だった。
報告書はまだ続いている。
極めて簡潔で分かりやすかった。
「そもそも熊があれほどの酸を浴びる状況が考えにくい。 資料を見る限り、酸を扱っている設備などで被害報告はなく、また変質者が酸を熊に浴びせるにしても、熊が無抵抗でいるわけもなく、あれほどの濃度の酸を熊に浴びせる方法も考えられない。 やはり腹の中から出て来た異物が関係しているとみられる。 この異物について、他にも専門家の意見がほしい。 協力を要請する」
「そうはいってもな……」
学者、フライト博士はあのおどおどした言動とは裏腹に、報告書では硬質の文章である。こういう人物は実は珍しくもないのだが。まあそれはいい。
ともかく、中佐の権限では出来る事も限られている。
まずウィルキンがやったのは、カルフォルニアの軍の現トップにいるパークス少将に連絡を取ることだった。
パークス少将は頑迷な人物で、軍にたまにいる時代錯誤をしたごついおっさんで。絵に描いたようなマッチョイズムの信奉者だ。
湾岸戦争の時に豪腕を振るって大きな戦果を上げたこともあって出世コースに乗ったが。それ以上に、筋肉質な見かけがマッチョイズムに毒された連中に好まれたという話もあり。
実際に枕営業の噂もある。
筋肉ムキムキのおっさんだが、それを好む人間もいると言う事で。
まあ、嗜好は人それぞれだからどうでもいいが。
それで頭が硬い筋肉しか取り柄がない輩が少将になっても困る。
実際問題パークスは無能で知られていて。軍の士官、下士官の間では、ウェイトリフティングだけやっていれば有能とか陰口をたたかれていた。
そんなのとも折り合いをつけなければならないのが佐官という中途半端な階級の人間の仕事である。
面倒だが。連絡を取るしかない。
連絡を取って、軽く話をする。
最初から不機嫌極まりなかったパークスは、話を聞いた後、言いたいことだけいった。
「うちの娘がなあ。 熊を殺さないでと俺に泣きついてきているんだよ。 面倒くさい事を増やしやがって」
「複数の兵士を惨殺した熊ですが」
「知るか! 軍の警備がたるんでいたからそうなったんだろう! ともかく貴様でどうにかしろ! 俺はしらないからな! 騒いでいる奴らも黙らせろ! 娘も騒いでいるやつらがいなくなれば静かになるだろうしな!」
がちゃんと電話を切るパークス。
うんざりしたウィルキンは、嘆息すると。
中佐の権限で出来る事を見直し。
結局、警備を増やし。
彼方此方にいるあまり年収などが良くない、フリーランスの学者に声を掛けるしかなかった。
そうして仕事に謀殺されている間に、事態は刻一刻と悪化していく。
この事件は、想像以上に危険なものなのだったと。
ウィルキンが思い知ったときには、何もかも遅かったのだ。
1、肉塊の謎
何人か、うだつが上がらない学者が後から研究施設に来る。みんな、フライト博士と似たような立場の人間だ。
北米でもそうだが、大学の教授といっても天地の差がある。
権力を持っている教授は本当に凄まじい。
エリート教育の総本山といわれる北米だが、実際の所それは嘘だ。
裏口入学は今や公然の事実であり。
多少セレブなだけの人間でも、出来の悪い息子や娘を有名大学に簡単に入れ。卒業させる事が出来る様になっている。
買っているのだ。経歴を。
これがエリート教育の総本山の実体だ。こうしてマッチョイズムに思考回路が染まった、エゴで全身が肥大化した化け物ばかりが社会の上層に巣くっていく。どこの国も今は似たようなものらしく。フライト博士はいつも苦労ばかり絶えなかった。
更に言えば、裏口入学の便宜を図る教授などは、金もコネも持っている。
当たり前の話で、裏口入学には相応の金がいるからだ。
更には金持ちのコネもその時に出来る。
当然大学も、膨大な収益があるわけで。そういった教授はとても大きな権力を大学内で持つ事になる。
かくして真面目に研究をしていた学者は隅に避けられ。
そういったクズ教授の論文が、学内でのパワーバランスなどを考慮し優先される事も多い。
しかもその手の論文は、クズ教授がそもそも書いていない事すらあり。
フライトも、何回か首にされたくなければ論文を書けと脅されたこともある。
必死に断ると、恩知らずがだとかヒョロヒョロがとか罵られ、大学を追放されたっけ。
よくある「学会を追放される」なんてのは滅多にない事だが。
大学を追放されることは珍しくもない。
フライト博士は、大まじめに勉強して、博士号までとったのだが。
それが一切報われずに今に至っている。
そして、無茶ぶりをされながらも。今も真面目に仕事をしている。
もうやめちまえよ。
そう、学生時代の友人に言われた事もあるが。
真面目に仕事をするのが性分だ。
そういうわけにもいかなかった。
あまり見栄えが良くないフリーランスの学者が集まって、状況の説明を受ける。中にはかなり怪しい大学で数回教鞭を執っただけというものもいて。英語も怪しい人間も混じっていた。
不安になったが、ともかく研究をするしかない。
粗暴そうなフリーランスの学者が一人混じっていた。
ケルテンという男で。
いかにもな筋肉の持ち主で。本当に学者かも怪しかった。
「そんなクソみたいな代物が、どうして熊を酸漬けにして殺した原因だってんだよ、ああん?」
「そう大きな声を出さないでください。 熊が高濃度の酸を浴びて死んでいたのは事実ですが、周囲の酸を扱うような場所で熊が侵入していないことも、変質者の類が熊に酸を浴びせていないことも分かっています。 ですから、分からないものから調べて行くしかありません」
「ちょっと寄越せ」
ケルテンという男があろうことか素手で保管中の肉塊を掴もうとするので、あわてて兵士達も混じってとめる。
凄まじい怒号を張り上げていたが、やがてケルテンは兵士を殴り。それが原因になってつまみ出されていた。
フライト博士も殴られた。
まるで熊が人間の振りをしているみたいだな。
そう思って、痛みを堪えて起き上がる。
他の学者はああでないと良いんだが。
ブロンズという少し年老いた学者が挙手する。
今の騒動を、横から要領よく見ていた。
この年でフリーランスか。
それはまた、大変な人生だろうな。
そうフライトは思った。
「それで、この肉塊の他には兎や鳥しか腹の中から出て来ていないと」
「はい」
「それらが原因の可能性は」
「ありません」
そもそも、完全に腹の中で消化されてこなれていて、兎や鳥であるということしか分からなかったのである。
一応正体は判明したが、それも半ばドロドロの状態だった。
確かに荒っぽく殺されたらしい傷なども見つかっているが。
それはそれである。これらの鳥や兎は無関係だろう。
多分因果関係が逆で。
酸で凶暴化した熊が、痛みに苦しみながら暴れ狂い。そして殺したのだろう。
ひょっとするとだが。
あの熊は、痛みに苦しみながら。敢えて一番危険な場所……人間がたくさんいる場所に出向いてきたのかも知れない。
理由は痛みを終わらせるためだ。
熊が自殺するなんて事は聞いたこともないが。
或いは、それほどに痛みが凄まじかったのかも知れなかった。
「それで、その肉塊については正体がわからんのだね」
「酸に長時間さらされていたことは分かっています。 しかしこれがどんな動物の、どんな部位かすらも分かりません」
「で、研究すると」
「そうなります」
学者達は頷くと、後はめいめい散ってそれぞれのやり方で研究を始める。
フライトは顕微鏡などで、肉塊を調べようと思ったが、それで気付く。
サンプルの細胞を取ろうとしてみたが、どうにもできないのだ。
この大きさだと、流石に直に顕微鏡で見る事はできない。それもあって、ピンセットなどで表面部分を削ろうと思ったが。それを許してはくれなかった。どうしても、細胞すら取ることが出来なかった。
思案した末に、鋭利な刃物で切られたらしい場所を調査してみる。
そこからなら細胞が取れるかと思ったが。
そもそも酸を取り除いた後は、表面部分からは分泌物らしいものすら出て来ていないのである。
細胞も、取ることは出来なかった。
手際が悪いな。
そういう声も上がってくるが、調査の状況を説明する。他の学者が怒鳴り声を上げていた。ベックという女だ。
しばらく黙っていたが、どうも実際はかなり気が短いらしい。
乱暴にピンセットなどを奪い取ると、貴重なサンプルを乱暴に抉ろうとした。とめようとしたが、ギャアギャア騒ぎ出して手に負えない。
触ったらセクハラだとか言い出しかねない。
ひっかくようにしてピンセットで抉っていたベックだが。
何度顕微鏡を覗いても、何も見えないので怒り心頭になったらしい。
サンプルを遠ざけると、文字通りベックは跳び上がっていた。
「唐変木の分際で、何をしてくれてるのよ!」
「貴重なサンプルを傷つけるのは止めてください!」
「五月蠅いわね! あんたみたいなグズがタラタラやってるから、時間だけ無駄にすぎてるんでしょうが! だいたい誰の許可を得て、あんたみたいなクソナードが私に口を利いているわけ! 私は元々ジョックだったのよ! チアガールのリーダだったのよ!」
さいですか。
今はすっかり溶けかけた豚みたいになっているベックという女。話によると、若い頃に結婚してそれきりらしいが。恐らく大学を出てあっと言う間に太ったのだろう。
そして今更ナードだのジョックだの言っている。
文字通り、この世の終わりだな。
そうフライトは思った。
更に乱暴にサンプルを扱おうとして、皆で必死にとめるが。兵士の一人が、肘をもらって横転。
触るのが悪いとかわめき散らしたベックだが。
流石に兵士達も問題ありと理解したのだろう。
騒ぐ人豚を、別室に連れて行った。
これで博士が二人消えた。
フライトは殴られたりで散々だが。とにかく丁寧にサンプルを扱う事にする。丁寧に調べて行き、分泌物とかないかと確認していく。
そうして、三日が経過した。
ウィルキンとか言う中佐が連絡を入れてくる。
なんというかくたびれた雰囲気の中佐で、ハリウッド映画とかで離婚歴がありそうな感じの人物だったが。
苦労人だと言う事は、少し話しただけでわかった。
確か佐官くらいになると実際には前線には出ることはなく、軍内での政治闘争が主な仕事になるらしいが。
あの人物は州軍基地の指揮官だったようだし。
何か他に事情があるのかも知れない。
「なるほど、二人博士がいなくなったと」
「調査は進んでいません。 非常に不可解な肉塊でして。 腐るどころか、細胞の採取すらできません」
「まだ生物として生きている可能性は」
「それもあります」
何回かだが。
ぴくりと動いたような気がするのだ。
ただ。それほど大きな肉塊でもないし、なによりも動いて害があるわけではない。
ただ、なんとも分からない肉塊が動くというのは、少し不気味ではあった。
「念の為に、追い出された博士も含めて、気密状態にしてください。 エボラなどの危険な病気は発見されていませんが、何が出てくるか分かりません」
「分かった。 いざという時は滅却処分で構わないか」
「残念ながらそうなります」
勿論、そういうことは分かっていた。
軍に連れてこられた時点で覚悟はしていたのだ。
最悪の場合は、施設ごと「事故」で処理するしかない。
あの熊のような死に様になってもおかしくないのだ。
ただ、どうにもこの肉塊が、あのような死を与えるものだと言う事は思えない。一体なんなのだろうか。
連絡を終えると、再び調査を進める。
連携も何もない。
皆学者は、それぞれ好き勝手に研究をしている。
フライトもはじめとして。これは皆がフリーランスであるのも、納得な気がした。そして、あの中佐の権限では、こんな学者しか集められかったのだろう、ということもだ。
嘆息すると、黙々と調査を続ける。
異変が起きたのは。
五日目の事だった。
フライトが叩き起こされる。
研究所でサイレンがなっていて、殺気だった兵士が走り回っていた。フライトも起こされると、他の学者と一緒に集められる。
MPが来ている。
何かあったことは明白だ。
「気密服を着るように」
「は、はい」
もしガスだのが漏れたのだとしたら手遅れだろうな。そう思いながら、兵士の指示通り気密服を着る。
やがてウィルキン中佐が来る。
そして、ぼそぼそと耳打ちされると、様子を見に行き。
しばらく待たされた後、他の学者と一緒に呼ばれた。
うっと、誰かが呻く。
其処にあったのは、研究室から放り出された後、待機していたらしいベックというあの女フリーランス学者の遺体だった。
それも、尋常な遺体ではない。
文字通り、顔面から始まって、腹の辺りまで巨大な刃物で抉り取ったように切り裂かれて死んでいる。
顔の半分くらいから抉られているから、太った顔面の半ばくらいから頭蓋骨の内部が露出していて。口の辺りは内部が見えていた。
臓物もはみ出しているが。その臓物にも、鋭い傷口が出来ているのは明らかであり。
文字通り、一刀両断されたのは一目で分かる。
余程の大男が。とんでもない切れ味の刃物でも使ったのか。
大昔のサムライとかにでも斬られたのか。
なんともいえないが。
少なくとも、この研究所にいる人間には、とても出来そうになかった。
後ろで別の博士が吐いていた。
兵士が青ざめたまま連れて行く。
MPと、この間のとは別の軍医が検死しているが、こんな死に方は明らかに尋常ではない。
年老いた、真面目そうな軍医が説明をする。
「これは普通の人間の仕業ではありませんな。 もし刃物を使ったとしても、こんなに凄まじい傷をつけることは不可能ですのう」
「刃物でないとすると、なんだねこれは」
「さあてね。 チェーンソーなどではこういった傷はつけられないし、何よりも被害者が暴れてもっと傷は大きくなったでしょうな。 これは一瞬で被害者を両断したんでしょう」
「りょ、両断……」
ぞっとする。
そういえば、最初に乱暴に肉塊を掴んだあの博士は。
ケルテンとか言う博士はどうなった。
確認をすると。
そのケルテンという博士もまた、酷い傷を受けていることが分かった。
此方は死ぬほどではないが、両腕を複雑骨折したらしい。
兵士達に乱暴に扱われたと本人は主張しているらしいが。そもそも自室で一人でいるときに骨折したらしく、誰も相手にしていなかったようだ。
なんだかとても嫌な予感がする。
フライトも、事情聴取をされるが。そもそも兵士達が複数、フライトが部屋と研究室しか往復していない事を証言し。
監視カメラでも、それが裏付けられた。
確かに研究室でトラブルはあったが、フライトには殺す手段がないし。
それにこんな風には、何をやっても殺せない。
しかも、これは素人が見ても一発で分かる。
即死だ。
死因は、切り裂かれたときに脊髄を損傷したのが……損傷どころか抉り取られたのが直接だろう。
それ以外にはなにもない。
現場の鮮血の飛び散り方なども、ベックという女が即死したことを示しているという話である。
そして軍医は、こう締めていた。
「わしは検死が長いから、ひどい死体は散々見て来たがね。 これはどう考えても尋常じゃあない。 何をしているか分からんが、手を引くんだな。 なんかとんでもないヤマに足を突っ込んでいるんじゃないのかね」
軍医が去った後、死体が片付けられる。
勿論機密として処理されるのだろう。
誰もが青ざめている中、ウィルキン中佐が周囲に箝口令をしいた。MPも、尋常では無い状態に何も言えないようだった。
それに、これは殺人ではないだろう。
いや殺人だが。
多分人間による殺人ではない。人間だったら、こんな風に殺す事はできない。ゲームの人間だったら出来るかもしれない。
だが、それだけだ。
部屋には、ベックという女以外の遺留物もなかった。
そうなると、密室状態でこの殺人が行われた事になる。
ならばなおさらお手上げだ。
フライトは、別室で一応尋問を受けたが。あり得ない事だとしか、返す事ができなかった。
一日丸々潰れた。
そして、更に事態は加速していく事になる。
翌日朝。
また、死人が出たのである。
朝起きると、ウィルキン中佐から連絡が来る。
いったん研究は中止。
そういう話だった。
何が起きたのかは分からない。ただまたMPが来ていて、悲惨な死に方をした誰かが運び出されているようだった。
一瞬だけ死体が見えたが、ごっそり体が抉り取られているのが分かった。
ああ、これは。
またどう考えても、人間の死に方ではない。
そうフライトは悟る。
少しずつ、恐怖に心が慣れ始めたかも知れない。
そして、聴取をまた受けた。
研究どころではなくなっていることが、少しずつわかり始めていた。
まず、被害者の顔が聴取の途中に写される。
見た事がない人物だった。
誰なのだろうと小首を傾げると、この研究所の所長だという。
所長。
そんな人物、あった事もない。
「今、初めて知りました」
「そうか。 確かにウィルキン中佐が指示して漠然と集めた学者の一人が君だと聞いている。 例の州軍の事故の調査をしていたらしいな」
「恐縮です。 そうなります」
「そういう事情ならやむを得ないな。 それにアリバイもある。 殺人には関わっていないだろうな」
項垂れると、話をしてくれる。
この研究所の所長は、あのベックとかいう女よりも、更に酷い同じ死に方をしていたらしい。
頭から腹に掛けて、ごっそり肉がなくなっていたらしいのだ。
それどころか、欠損した肉はまるごと消えてしまっていたらしい。
ぞっとする話だ。
「此方でも調べているんだが、とにかく元々影が薄い人物で、しかも研究所から殆ど出てもいない。 殺される理由がないんだ。 何か思い当たる節は」
「あった事すらありませんので……」
本当に申し訳ない。
だが、一つだけ、気付いた事がある。
もしかして、だが。
あの肉塊を乱暴に扱ったのが要因ではあるまいか。
いや、流石にそれは論理が飛躍しすぎか。
まて。
そもそも、あの熊の酸。
どうして酸なんだ。
同じなのではないのだろうか。
熊は、あの肉塊をどこかで見つけて、何の気も無しに口に入れたのではあるまいか。そして胃酸と酵素がドバドバ出て、肉塊を消化しにかかった。
そして、「やり返された」のだとしたら。
あの全身が酸浸しの、凄まじい熊の死に様を思い出す。
そういえば、肉塊を乱暴に掴んだケルテンは、謎の複雑骨折を起こして半死半生。
乱暴にピンセットで抉ろうとしたベックは惨殺された。
だとしたら、どうしてここの所長は。
「あの、研究所の所長は、私達が調査しているものに触ったりしたのでしょうか」
「いや、そもそも最近は研究もしておらず、自室で陰気にSNSを見ていただけのようだな」
「はあ……」
「検死による死亡時間は……」
話を聞く限り、今朝の騒ぎになるまで所長は生きていたようだ。
そうなると、一体何がなんだか分からない。
とにかく、この研究は止めた方が良い。あの謎の肉塊はどこかの金庫にでも封じ込んで、それで見てみぬふりが一番ではないのだろうか。
そうフライトは思い。
いったん解放されて自室に戻ると、ウィルキン中佐への連絡をお願いする。兵士は鬱陶しそうにフライトを見ると。
後で覚えていたらつないでやるとか言った。
一応研究を任されて、それで呼ばれたのに。
自室で、しばらくぼんやりする。
スマホも取りあげられてしまっているから、やる事が一つもない。仕方がないので、今まで分かった事を頭の中で反芻する。
まずあの肉塊だが、むりやり顕微鏡で見た。普通できることではないのだが、大型の顕微鏡で適当に挟んで確認して見た。
そうしたら、細胞のようなものはあるようだが。それしか分からない。
そもそも細胞も、どちらかというと植物のものに近いようで、強靱極まりない細胞壁に近いものを備えているようだった。
何しろ傷つける事が出来なかったから、それしか分からなかったのだ。
一応レントゲンでの調査もしてみたが、中は一切見えなかった。
そういえば、レントゲンをやったのは、一緒にいた博士の一人。ブラウン博士だったっけ。
寡黙な男性で、同じようにヒョロヒョロが理由で学生時代に虐げられたんだろうなと一目で分かる人物だった。
まさかな。
そう思って、はっと気がつく。インターホンで、兵士を呼ぶ。
「ブラウン博士は!」
「なんだ急に。 ばたばた人が倒れて忙しいんだ。 大人しくしていてくれよ、学者先生」
「そうじゃない! ひょっとして、倒れているんじゃないのか!」
「おいおい、マジかよ。 ちょっと調べて見る」
そういえば、あの人。
非常に具合が悪そうにしていた。
程なくして、兵士が血相を変えて戻ってくる。やはり、ブラウン博士も倒れていた。どうしてわかったと、MPに問い詰められた。
ブラウン博士は、高濃度の放射線を浴びて、体調を崩したようだ。放射線を浴びたタイミングまでは分からない。
だが、昨日の時点で体調は悪そうだったし。
もし、放射線を浴びたのが、所長が死ぬ前だったとしたら、全て説明がついてしまう。あり得ない話だが。
そもそもあの肉塊も。
酸を浴びた熊もあり得る話ではないのだ。
仮説を、ゆっくり説明する。
説明していると、見る間にMPの顔が青ざめていった。
「あんたらが調査中の熊の腹の中から出て来た変な肉塊が悪さをしている!?」
「被害にあっているみんながそうだ。 最初の熊から始まって、みんなやったことが何倍にもなって返ってきている! 所長以外みんなそうだ! あの肉塊が何かのカルトの神体で、それにそった儀式殺人かもしれないが、それが出来る人間がいない!」
「じゃあ何か、あれは悪魔か何かだってのか。 密室にいる人間を惨殺出来るような?」
「分からない、とにかくウィルキン中佐に連絡を! あの肉塊の研究はリスクが高すぎる、だから……」
まるで病人でも見るような目でフライトは見られた。
必死に訴えるが、無視された。
自室に戻されるが、これではどうなるか分からない。
そして、気付く。
天井に、何かある。
その何かに気付いたとき、フライトは絶叫していた。
今まで、天井の変わった模様かなにかだと思って。気にもしていなかった。あり得ないと思っていた。
だが間違いない。
ずっとフライトはあの肉塊を見ていたのだ。
丁寧に扱ったかも知れない。
もしも、あの肉塊が全てに仕返しをするのであれば。
天井にびっしりあるあの模様は、目なのではないのか。
悲鳴を上げながら、フライトはインターホンを連打した。そうすると、部屋中の壁の模様が動き出した。
じっと見られている。
それを悟ったフライトは絶叫し、怪訝そうに出て来た兵士は、フライトの形相を見て絶句した。
「駄目だ、あの肉塊は仕返しをしてくる! 絶対に関わるな!」
「な、なんだ、何を言ってる!」
「わ、分かったぞ! 所長は、仕事を……「攻撃」をやらせている人間だと見なされたんだ! だから……!」
「何言ってるんだよ!」
次の瞬間、フライトは恐怖で完全に発狂し。
心臓麻痺を起こして、死んだ。
2、得体が知れないものの欠片
ウィルキン中佐は、フライト博士が死んだと聞かされて。慄然とする。死の間際の言動も全て聞かされた。
研究所はいったん閉鎖。
所長が死んだ事もある。あの肉塊は、兵士達が怯えながら金庫にしまい、それっきりだという。
研究所の人間は立て続けの不可解な事件にパニックを起こしており。暴動寸前。
そこを後から来たMPの部隊が鎮圧するしかなかった。
報告を受けた後、大きな溜息をつく。
まさか、これほどの事になるとは。
何があったのかは分からない。とにかく、対応を順番に進めて行くしかない。
まずは、多数の死者をどうするかだ。
マスコミの封じ込めは、実の所難しくは無い。
マスコミは現在……いや昔からそうだが。スポンサーの犬だ。金を出してくれる人間に都合良く動く。
自分にとって危険がない相手を叩いて金にする。
だから現在は多数が他国のスパイ同然の活動をしているし。
少し前に「人権活動家」の大物が、自分の家で多数の幼児に性的虐待を加えて奴隷として扱うというとんでもない行動をしていたが。
それについてもほぼ黙り。
現在動いている「人権団体」を敵に回したくなかったからである。
そんな程度の連中だ。
ハリウッド映画で神聖化されているマスコミなんて、もはやどこの国にも存在しないのである。
最悪の場合FBI、いやそれどころかもっと上位の組織が動く。
そう判断したら、マスコミは何人死のうが動かないのである。
だからウィルキンは、まずは被害者の遺族に面会をして。
事故が起きて、皆が死んだ事を伝えていくことからやっていくしかなかった。無論マスコミは嗅ぎつけているだろうに、動きもしなかった。
憮然としている関係者に頭を下げて回った後。
次はこの件をどう処理するかを、ウィルキンは考える。
研究所はいったん閉鎖して。様々なサンプルは別の研究所に移している最中である。研究所の兵士の中には、凄まじい有様の死体を見てPTSDを発症した兵士も多い。特にフライト博士は、両目を自分からえぐり出した上で、心臓麻痺を起こして死んでいた。凄まじい形相で死んでいて、それを見ただけで吐いたものも少なくなかったのだそうだ。
事後処理を淡々と進めていくと。
やがて、パークスが連絡を入れてくる。
確か愛人とともにバカンスに行っていたはずだが。
まあ、そんなことはどうでも良かった。
「貴様、また面倒ごとを起こしやがったな!」
「貴方に報告書は出したはずですが」
「黙れ低脳!」
お前に言われたくは無い。
そう思ったが、黙って置く。パークスは、こう言うときは感情を最優先にして動く人間である。
つまり言葉など発していない。
癇癪を起こして喚いているだけで、会話など試みるだけ無駄だ。
確か日本ではこの手の人間を体育会系とか言ったのだったか。
日本でも嫌われているらしいが、それは北米でも実は同じである。
それはそうだろう。
自分の感情にまかせてわめき散らすだけ。そうでなければ暴力で相手を威圧して黙らせるだけ。
悪しきマッチョイズムの権化のような存在であり。
マッチョイズムが大好きな北米の人間ですら、鼻をつまむような相手なのだから。
しばらく意味不明に怒鳴っているのを聞き流す。
ようやく静かになったのは、三十分ほど後。
勿論真面目に話なんか聞くつもりはない。
その間。スピーカーモードにして、事務作業を進めていた。
「それでどうしますか? 私を解任して、他の人間にこの件を任せますか?」
「本当だったらそうしてやりたいんだがな」
ようやく冷静になったのか。
パークスが怒りを込めながら言う。
そもそも此奴は、少将にもなって州軍トップがせいぜいの人間だ。少将となると、空軍でのかなり良いポストにつくか、海軍の艦隊副司令官クラスになっていてもおかしくないのである。
恐らく、指示を出しているのはもっと上の人間だろう。
だとしたら、もう何を言っても無駄だ。
「そのまま引き続き調査をしろ」
「私に出来る範囲での人員集めだと、同じ結果になる可能性が高いですよ。 資金だってそれほど潤沢にはありませんしね」
「研究所が閉鎖したらしいな」
「別の研究所に現在研究成果を移動中です。 ただ、例のものについては分からない事が多すぎる。 下手に動かすのは危険でしょう」
少しずつ冷静になって来たらしい。
咳払いすると、恐らく上司からの指示を録音しておいたのを聞いているのだろう。しばらく音が途絶えて。それから、パークスは指示を出してきた。
「その研究所で、引き続き研究をしろ。 軍から何人か、科学者を手配する」
「分かりました。 それで私への処分は」
「むかつくが、お前自身に落ち度はないという判断らしい。 そのまま続けろ」
通話がきれた。
ため息をつくと、ウィルキンは作業に戻る。
程なく、名簿が送られてくる。
どれも軍にコネがあるだけの学者ばかり。
どうやら、軍の上層部は事態が分かっていないらしい。
フライト博士の手記については、既に確認してある。
あの妙な肉塊は、とんでもなくヤバイ代物である可能性が高い。そうなってくると、ウィルキンに出来る事は、被害の拡大を減らす事だけだ。
それもどこまで閉じ込められるだろうか。
あまり、自信はなかった。
やがて、各地の大学から教授が集められる。
いずれも軍にコネがあって名声を確保したような人間ばかりだ。尊大で、軍幹部とのコネをちらつかせる、不愉快な奴ばかりだった。
フライト博士の方がなんぼもマシだったな。
そう思って、敬礼をかわし、話をする。
そして研究所に案内した。
研究所で起きた事について、研究所で説明。
なお、内部の人員は全て入れ替えてあるのだが。
兵士達の間では、既に此処で細菌兵器による大規模バイオハザードが起きたという噂が流れていて。
警備に当たっている兵士達は、怯えきっていた。
まずは博士達を呼ぶのと同時に、軍の建設部隊を動員。それで研究所の気密設備を更に強化した。
現在の研究所の外側に更にドームを作り。
軍の企画に沿って、エボラだろうが天然痘だろうが、絶対に漏れないようにゲートを作る。
それでも安心できない。
フライトの死体は実際に引見したが、凄まじい有様で。はっきりいって、人の死に様ではなかった。
呪いなんてものを信じてはいないが。
どうしてもウィルキンも一神教文化圏の人間だ。
悪魔の仕業という言葉が脳裏をよぎってしまう。
こればかりは、どうにもならないのだった。
死体などを集められた教授達に見せ。それから研究について。そしてフライトの手記についても見せておく。
死体を見て閉口した教授達だが。
フライトの研究を見て、全員が爆笑していた。
「実に非科学的なことこの上ない!」
「これは妄想によるただの駄文ですな」
「どう判断するかは結構。 研究についてもお任せします。 結果だけを出してください」
「ええ、分かっています」
一番偉そうにしているのは、北米でももっとも有名な大学での席次を確保している教授である。
なんでも軍幹部の子息に対する裏口入学の窓口になっているとかで。
手下の教授を使って論文を書かせたり。
気にくわない教授をコネを使って大学から追放したりと。
ろくでもない輩だという話だった。
嫌な予感がするが、とにかく念を押す。
「オカルトを信じるつもりは私にもありませんがね。 変死だけで三件も起きている。 それも、軍医が診ても死因が一切分からなかったほどのものだ。 いや、熊も含めると四件でしょうな。 くれぐれも、注意して研究を進めてください」
「分かっていますよ。 それで、外部への連絡手段は」
「ありません。 今回は軍の兵士に被害が出ている。 それもあって、機密も機密の研究となります」
「そんな話は聞いていないぞ!」
いきなりいきり立つ一番偉そうにしている教授。確かグレンジャーとかいったか。
どうせ、通信回線で手下に連絡をして、研究を代行させるつもりだったのだろう。
いつも代行させて論文を書かせているように。
だが、残念だが。
ウィルキンに連れられて、ここに来たのが運の尽きだ。
成果を上げるまでは出さない。
それを説明すると、コネのある軍幹部と話をすると叫び出すが。ウィルキンはいい加減苛立って来たので、話をしておく。
「研究の結果成果が出たら、この研究所を出て好きになさればよろしい。 ただし、此処は大規模バイオハザードに備えて鉄壁の要塞にしてある。 仮に通信機器を持ち込んでも、外に電波は通じません」
「……」
「貴方方は軍が直接声を掛ける程のスペシャリストの筈だ。 その手腕を発揮して、すぐにでも真相を解明してほしい。 その後、どうにでもなされると良いでしょう」
「後悔するぞ」
どこでも聞いたような捨て台詞を吐くグレンジャー教授。
だが、その顔は確実に青ざめていたのだった。
グレンジャーと、軍にコネがある教授四人が研究を開始する。レポートが上がってくるが、これは監視につけた兵士が上げて来たものだ。いわゆる情報士官という奴で、軍務でも特殊な立ち位置にいる。
こういうのは普段所属部署が違っているのだが。
今回はあまりにも異常な事態だ。
それで、必要だと懇願して、やっと一人回して貰ったのである。
かなり高齢の情報士官で、既に前線で様々な国の諜報機関の人間とやりあうのは無理だから、だろう。
だが、それでもしっかり仕事をしてくるので、安心した。
グレンジャー達は早速外部に連絡を取ろうとするが、全てのもくろみが失敗。兵士達を次に買収しようとしたが、現金の持ち込みもさせなかったし、カードも此処では使えない。更に兵士達は動転してしまっていて、早く解決してくれと教授達に泣きつき。それで動転している様子だと言う。
呆れた。
とりあえず、軍上層部に連絡を入れておく。
コネのある学者だかなんだか知らないが、フリーランスの学者の方がマシ。
そう連絡をしておくが。
完全に黙殺された。
まあいい。
この様子だと、何が起きてもおかしくない。
手記を見る限り、研究途中のフライトはどんどん錯乱気味になっていたが。それでも実際に起きた出来事は彼の発言とぴったり合致している。
死体をもう一度軍の高官立ち会いで検死したようだが、どの軍医もこれはあまりにもおかしいと、匙を投げたようだった。
それもそうだろう。
あんな死体、実戦経験もあるウィルキンも見た事がない。人間の死に方じゃない。
案の定兵士達の間では、悪魔の仕業だという噂が流れ始めている様子で。
それをとめようと、ウィルキンは思わなかった。
幸い、同じように凶暴化した熊だけは出ていない。
あの熊のせいで、軍兵士にも被害がでたのだ。
もしもあれが住宅地にでも出現していたら、何が起きていたか知れたものじゃない。
銃で武装している市民も北米には多いが。
拳銃や市販されている小型のショットガン程度では、あの熊をとめるまでに十人や二十人が引き裂かれていただろう。
ともかく、事後作業と、軍基地の再整備、人員の配置などを行っていると、それだけで時間が過ぎていく。
きな臭い国際情勢が続いている状況だ。
州軍からも、優秀な人材は引き抜かれていく。行き先は空軍や海軍など様々であるが。それはそれ。
中には、軍用の兵器まで陸軍や空軍に引っ張られていく。
北米は凄まじい物量で知られているが。
それはあくまで全力での戦時体制になった時の話であって。
普段は各地の軍はカツカツで回っている。
日本などは、更に酷い状態で自衛隊とか言う軍隊を回しているらしいが。それについては、ウィルキンは同情してしまう他無かった。
無言で作業を続けていると。
三日ほどで、早速悲劇が起きた。
グレンジャーと一緒に研究所に入った教授が一人、変死したのである。
それ見た事か。
そう思って、そして。
あまりにも後片付けが面倒くさくなることを悟って、ウィルキンは嘆息し。
フライトの手記の内容を思い出して、更に憂鬱になった。
とにかく、現場に出向く。
ドームで覆った上に、内部は複層構造で、細菌一つ漏れることはない要塞のような研究所に足を踏み入れ。
そして、まずは順番に話を聞いていく。
研究の内容もみる。
フライト博士の方が、まだ手際がマシだ。
昔は或いは。
裏口入学とかで金を稼ぐのを覚えるまでは、ある程度マシな学者だったのかも知れないが。
軍の上層部が集めて来た学者どもは、どいつもこいつも文字通りのでくの坊だった。
研究内容を見た後、MPに案内されて死体を見に行く。
研究をしていた一人の教授は。
文字通り。ぺしゃんこに潰されていた。
巨大なハンマーで、一瞬にして押し潰したかのようである。
もう人間の死体かすらも判別がつかない。
工場の機械などに巻き込まれると、人間は酷い死に方をする。それでも、指とか普通に残ったりはする。
だが、この教授の死体は。
全身が満遍なく、綺麗に潰されていたのだった。
「これは……」
「昨晩の1809。 食事中のケネル教授……この人ですが。 いきなり、食堂でこのようになりました。 監視カメラの映像も残っています」
「見せて欲しい」
監視カメラの映像を見る。
スプーンを手に、何やら隣の教授と談笑している。話の内容はウィルキンの悪口のようだが、別にそんなことはどうでもいい。
1808までは何も起きていない。
だが、1809。
いきなり前触れもなく、ケネルという教授は、上から押し潰されて死んでいた。
そうとしか言いようがない。
それも、ケネルだけが死んでいる。
座った椅子などはそのまま無事。
死体が、椅子などの接地面に沿って一瞬でぺしゃんこになったのである。それも、血などが噴き出すことすらなかった。
「人間には数リットルの血液が含まれている。 それは……」
「検死の結果、血液すらも圧縮されていまして。 司法解剖の際に噴き出して、軍医達が悲鳴を上げたほどです」
「……」
絶句してしまう。
そして、研究の内容を見る。
どうやら圧力試験をしていた様子だ。あの肉塊に対して、圧力を掛けてどうなるかを試していた。
100気圧の圧力を掛けた所で、いったん研究を中止。
翌日は、万力で押し潰してみようと考えていたようだが。その前に、こうなったというわけである。
あまりの凄まじい死に方に、隣にいて談笑していた教授は失神。
今も目を覚ましていないそうだ。
まあ、これは正直、目を覚まさない方が幸せだろうな。
そうウィルキンは思った。
続いて、話を聞かせて貰う。
「他の教授達は」
「夜間で作業をしようと考えていた教授もいたようですが、あまりの死に様を見て仰天し、研究を拒否しています」
「そうだろうな……」
あれだけわめき散らしていたグレンジャーも、同じように黙り込んでいるという。
まあ、こんな死に様を見せつけられたら無理もない。
こいつらは軍の高官にコネがある人間だ。それも裏口入学という点で。
だからこそに、変な仲間意識とかもあったのかも知れない。
研究は、グレンジャーが主導していたようだが。
それも一体どうなるか。
ウィルキンは、いったん他の教授の行った研究を見せてもらう。
炎で炙る研究をしている教授もいる。
普通の炎で炙るだけでは全くダメージ無し。
業を煮やして、鉄も溶かす軍用バーナーで炙ったそうだが。それでも何のダメージもなかったそうだ。
そいつも死ぬだろうな。
そうウィルキンは思っていたが。予想以上の事態になる。
次の瞬間。
ウィルキンは、何が起きたのか、理解出来なかった。
理解出来ないまま。
その場にいたMPも。兵士達も。研究中の教授達も何もかも、燃え滓になっていた。
研究所の外の跡地にいた兵士の一人が、全てを目撃していた。
文字通り、研究所が消し飛んだのだ。
いや、爆弾などではない。
軍の演習に出たこともある。それで。軍用兵器などの爆発も、間近で見た事がある。だから、あれは違うと一発で分かった。
軍の強力な爆弾でも耐えるように、憶病なくらいに慎重に設計された軍の研究所が、文字通り一瞬で融解したのである。
続いて爆発した。
まず熱があって。
その熱が、空気を爆発させたのだと分かった。
兵士が命を落とさなかったのは、比較的遠くにいたから。それでも凄まじい爆発で十メートル以上吹っ飛んで、鉄条網に叩き付けられていた。
兵士は噂を思い出す。
あの研究所では、悪魔の研究をしている。
何人も教授が不審死をしている。
どれも人間の死に様ではなかった。
誰もミサになんかいかなくなった今でも、ジーザスクライストなんて恐怖を感じればいうように。北米文化圏では思想の根元に一神教が根付いている。
だから、誰もが思うのだ。
こう言うときには、悪魔の仕業だ、と。
そう、兵士も思った。
痛みに気付いて、手を見て。絶叫する。
右腕が、肘から先がなくなっていた。体もまともに動かない。気絶して、目が覚めると、軍病院にいた。
錯乱した兵士は、腕を返してくれと絶叫。
そして気付いた。
両足も、なくなっていることに。
更に言えば、北米では医療費があまりにも異常高騰している。軍関係者ですら、それは同じだ。
医療保険なんて貧乏な兵卒には入れない。
だから、この治療の借金返済だけで人生が終わる。
それが分からない程に兵士は錯乱し。
全身の火傷の度数があまりにも酷すぎる事もあって。残りの人生を治療に掛かった借金支払いに費やすこともなく。
傷病兵として名誉の民間復帰をする事もなく。
息を引き取っていた。
ほぼ同時刻。
愛人(まだ十代前半のヒスパニック系の少年)で性欲を発散して、シャワーを浴びていたパークス少将の自宅が消し飛んでいた。
家にいた全てが巻き込まれた。
とはいっても、パークスとその不幸な愛人、後はペットの犬だけだが。
発火はパークスを中心に発生し、そして消防隊が駆けつけたときには、あまりの異常さに全員が目を剥いていた。
史上最悪のテロリストと呼ばれる男が、飛行機を使っての最大規模のテロを実施してから。北米ではテロ対策を消防隊なども訓練で受けている。
そんな彼らも、見た事がない有様だった。
消防隊の隊員であるキレッシュは、ぼんやりと呟く。
「あまりの高熱で、家が一瞬で燃え尽きて、空気が爆発したんだ……」
「と、とにかく火を消せ! 延焼を防げ!」
呆然と立ち尽くしていた消防隊員を叱咤し。チームリーダーが率先して動く。
給水管と消防車をつなげて、猛烈な放水を叩き込む。
爆発は凄まじかったが、一瞬の事で。周辺にある家の窓硝子が割れる程度で、二次被害はそれほど拡がらなかった。
中の人間は助からなかった。
それでも、延焼が拡がらなかったのだけは幸いだっただろう。
消防隊員達も、皆もう中の人間は助からないと判断し、消火に集中。被害をパークス邸だけに抑える事に成功していた。
救急隊員が来て、周辺の被害を受けた家なども確認。
幸い其方での被害者は出なかった。
そして、火災が収まって数時間後。
場に、軍の諜報部隊が到着していた。
後は引き継ぐ。
そう言って、消防隊をさがらせる。
諜報部隊はその後、全員を下がらせ。場を閉鎖すると。なにやら調査を開始するのだった。
3、復讐者
軍の特務はどこの国家にも存在している。
北米も同じ。
特殊部隊には有名なシールズのような、存在を公にしている超エリート部隊も存在しているが。
軍内部の内通者を狩ったり。
スパイを殺す事を任務としているような、特務が存在している。
北米もそれは同じである。
そんな特務の一つが、「黒い鴉」。
表向きの任務は、ただの後方部隊だが。一小隊からなるこの部隊は、主にユーラシアの国家の諜報員を消すのが仕事で。
今年に入ってからだけでも、既に五十人。マスコミや軍、大学に入り込んでいるユーラシアに存在する国家のスパイを消してきた。
死体は全て不審死で処理。
同時に、この仕事はリスクが高く。
今年に入ってから二人が殉職している。
チームリーダーのカロス大佐は、報告書を読む。
今年に入ってから死んだ一人。
既に引退間近だった、ブロンズ少佐が残したものだった。
カリフォルニアの州軍基地で起きた事故からの、一連の事件をまとめたものである。
ウィルキンというそこそこに出来る中佐が指揮をしていたのだが。
そのウィルキンも、軍の研究所もろとも消し飛んでしまった。
以降は、引き継ぎは黒い鴉でやるしかない。
カロスは、呻いていた。
「それで、この報告書にある肉塊は」
「既に回収して、厳重に保管してあります」
「そうだな。 それがいいだろう」
現在、保管してあるのは軍の最高機密管区。
どこぞのエリアでは、UFOの目撃例が相次いだとか言う話だが。そういった噂すら流れないほどの機密管区だ。
軍による非人道的実験から、捕まえた諜報員の拷問まで、全てを行うアンダーグラウンド設備。
軍のコネで集めてくるような学者ではなく。
後ろ暗いものを持っているが、本当に技量が高い学者だけを集め。非人道的兵器を研究させている設備もある。
現在、例の肉塊はそこに運ばれ、保管されている。
現時点では、研究は凍結。
まあ、当然だろう。
研究所がまるごと吹き飛んだことで、合計89人が消滅。死亡では無く、もはや消滅が正しい。
そして、軍幹部の一人になるパークスも、自宅で愛人とみられる十代前半の少年もろとも消し飛んだ。
パークスの死体は細胞すら見つからなかったが。
彼の家の監視カメラが、パークスが消し飛ぶ瞬間の映像を、遠隔で撮っていた。
生存は絶望である。
また、愛人とみられる少年も、10万度に達する熱で一瞬にして焼き切られており。
此方も死体は、炭クズになったごく一部しか見つからなかった。可哀想な話ではあるのだが。
とにかく、話を整理する。
ここにいる諜報員は、冷戦の頃から動いてきた精鋭揃いだ。
近年は各地の敵対国家との激しい諜報戦を続けて来て、そのノウハウを蓄積してきた精鋭中の精鋭。
軍の内部でも、アンタッチャブル化している組織であり。
元帥クラスの人間しか存在を知らず、介入も許されていなかった。
「原理は分かりませんが、最初に民間のフリーランスであるフライトという博士が残した研究と発言の通りになっていますね」
「復讐する肉塊か。 ともかく無意味な刺激を与えないようにしないと危険だろうな」
「問題はどうやって復讐をしているか、ですが」
「いきなり十万度の熱量を出現させるような存在だぞ。 現在の科学で、考えるだけ無駄だ」
この場には、プラズマが自然発生して、などというような寝言を口にする輩は存在していない。
ただ、十万度に達する熱量が、軍の研究所を内側から文字通り消滅させ。
パークスを消し飛ばした事だけが分かれば良い。
原理については、後で学者とかが調べれば良いことだ。
とにかく、まずは火消しが最優先である。
「事件の方のもみ消しは」
「マスコミは黙らせました。 警察もこの件には軍の関与を知っているので動いている様子はありません」
「昔は危険を承知で首を突っ込んでくる記者も、正義感から巨悪を暴こうと動く刑事もいたんだがな。 もうムービーの中にしかいなくなってしまったな」
「そうですね……」
部下達が苦笑いする。
咳払いすると続ける。
「問題はユーラシア側の勢力です。 諜報員が不審事故を嗅ぎつけて動いています。 対処はどうしますか」
「現時点で、フライト博士の論文が正しいとみて良いだろう。 我々は其方の処置を優先する」
「処置はどこまでやりますか」
「実働部隊を消す。 それ以上は必要ない」
頷くと、全員が出る。
勿論カロス大佐も出る。
カロスも兵卒から此処まで成り上がったのだ。直接殺してきた諜報員の数はとっくに三桁を超えている。
他の隊員達も皆同じだ。
だからこそ、一人を失えば百倍で返すのが板についている。
今回は、クソッタレな肉塊が相手にはなるのだが。
現時点では、手を出さない方がいいと発覚している。
鉄を溶かす高熱だろうが、超圧力だろうが、びくともしない。
もしも核で破壊とか試みたら、北米全土が消し飛びかねないとカロスは考えている。いや、熱で炙っただけで研究所が消し飛んだのだ。
それを考えると、下手をすると地球そのものが。
そう言ったことは、あまり考えたくは無い。
とにかく今は、出来る事をやるだけだった。
数日かけて、動いていた大陸国家の諜報員を全て消す。いずれも練度があまり高くなく、中には諜報員を手伝っていると知らないチンピラも混じっていた。
ヤバイ山に足を突っ込んでしまったんだな。
そう思いながら、淡々と消す。
死体の処理は、ただの殺人事件に偽装する。
警察の専門部署に、死体を引き渡す。
敵側も一個小隊ほどが動いていたが、そもそもの練度も装備も桁外れである。此方は被害無し。
それでも、人は簡単に死ぬ。
だから相手に容赦はしなかったし。そんな余裕もなかった。
一通り敵を消す。いつもの仕事だ。相手だって、自分がいつ死んでもおかしくない仕事をしている覚悟はしているはず。殺すのを楽しんでいるような人間が出てくる事もあるが。
そういうのは実際にはあまりいない。
ただ、近年敵の質が落ちている。
経済的に絶好調だったのが止まり、一気に下り坂に入ったからだろうか。
しかしながら、勿論それでも敵に油断すれば死ぬ。相手を殺さなければ、此方が殺される。
そういう場所で、カロス達は働いているのだ。
嗅ぎ廻って動いていたユーラシア国家の諜報員を片付けると、相手の動きは止まった。下手に動くと人員を消耗する。
そう判断して、引いたとみて良い。
それでいい。
とりあえず、此方だって無駄な殺しはしたくないのである。向こうもそうだと思いたい。そうでないと、とても正気なんて保てない。
それが、この仕事だった。
一通り片付いた後、カロスの所に連絡が来る。
軍の司令部からだった。
部下達に現場の警戒を任せて、ペンタゴンに出向く。一応大佐である。ペンタゴンでも、敬礼で迎えられる。
ペンタゴンの地下施設に移動する。
この地下施設も機密になっていて。外部の人間に潜入されたことはないそうだ。
あまり良い予感はしないが。
とにかく、何があっても答えられるようにしておかなければならない。
エレベーターの中で襟を直すと。
そのまま無言で、軍のお偉方との会合に出向く。
軍のお偉方といっても、本当に優秀なのは一握りだ。殆どはコネ出世をする輩ばかり。エリート教育の総本山も、今ではこの有様だが。
それでも幸いなことに。
まだ優秀な士官は残っている。
ただ、それもいつまで続くか。
カロスもあまり長い事は続かないかも知れないと。最悪の事態に備えた思考はしているのだった。
地下につくと、長い通路の先にある会議室に通される。
重武装の兵士が護衛に当たっている、最高セキュリティの部屋だ。勿論武器の持ち込みは禁止。
何があっても対応できるように、それぞれが別の部屋からテレビ会議で話をする仕組みになっている。
憶病なのでは無く、実際に色々な問題が起きた。
この国も、昔はアルカポネのようなカスが危うく全てを牛耳る寸前まで行ったことがある。
現在でこそ世界最強の国家だが、そうなるまでには様々な紆余曲折があったし。今でもマフィアは金にものをいわせて隙あらば国を乗っ取ろうとしている。彼奴らには国家百年の計なんて戦略的な判断能力は無いから、平気で他の国に全てを売り渡すような真似だってする。
だから、こうやってペンタゴンは警備が極めて厳重なのだ。
例の最悪のテロ以降は、更に警備が厚くなった。
そして、カロスが呼ばれたと言う事は、そういうことなのだろう。
テレビ会議に入る。
元帥をはじめとして、大将が三人も会議に出ている。他にも、軍関係の教授としては名が知られている、IQ250オーバーの。怪人と呼ばれる博士もいた。
「今回の会議の内容は、カルフォルニアで起きた例の事件だ。 カロス大佐、概要を説明してくれ」
「分かりました」
淡々と、内容を説明していく。
フライト博士の研究がどうやら正しいらしいこと。
そして復讐という概念があるらしいこと。
更には、復讐の相手はそもそも責任者に対しても向くだろうと言うこと。
それらを淡々と説明し終えると、皆ざわついていた。
「なんだか分からんが、復讐を行う肉塊か」
「得体が知れないオカルトについては、確か今までも何回か議題に上がった事があったな」
「はい。 魔術の類を使う人間は、現在も少数ながら実在しているようですので」
これも本当だ。
今ではすっかり数を減らしたが、魔術の類を使う者はいる。
抑圧の末にすっかり姿を見せなくなり、それどころか体制に対して非常に強い憎しみを持っているが。
こう言う連中は厄介だ。
カロスも今まで何度か交戦した事があるが、その度に多くの部下を失った。
ただ、それでも頭を銃で撃ち抜けば死ぬ。
他にもオカルト絡みでアンタッチャブルになっているものは幾つもある。
日本で言うと将門公の首塚などがそうだ。
あれはちょっとした噂話程度で日本では抑え込まれているが。
GHQがあれに手を出したとき、かなりの騒ぎになって。得体が知れないものが大暴れして、沈静化させるまでに相当数の本職の諜報員が命を落とした。あのダグラスマッカーサーも危うく死ぬ所だったらしい。
GHQが手を出さなかったのではなく。
手を出した結果、本当に危ない所まで行くところだったのだ。
他にも似たような危険物は各地にあるらしく。カロスは今回、それにたまたま関わってしまったと言う事だ。
「今回のはオカルト案件と見て良さそうか」
「ほぼ間違いなく」
「そうか。 だとすると、そもそも手を出さずに封印するのが良さそうだな」
「お待ちを」
IQ250の怪人が立ち上がる。
まだ若い男だが、倫理観念が頭から全てすっぽ抜けている事で有名だ。ノイマンといい此奴といい、IQが高すぎると人間は化け物になるらしい。
カロスはうんざりしながら、その怪人の話を聞く。
「今回の事件の肉塊とやらは、そもそも捨て駒を使う事で破壊力や特性を理解出来ています。 活用してはどうでしょうか」
「活用だと?」
「復讐するというのなら、その復讐を指向化させる……要するに敵国にでも向けさせてはどうでしょう」
「馬鹿な事を考えるな」
カロスが呻く。
怪人は嫌そうに顔を歪めて、露骨に唇を尖らせる。こいつは頭が良いかも知れないが、脳みそは幼稚園児並みだ。
癇癪を起こして暴れる事もあるという。
成果を上げているから軍でも飼っているが、あらゆる意味でも超危険人物なのである。
「パークス少将は現場に足を運んでおらず、連絡を取っていただけでも殺された。 しかもパークス少将の別荘と、研究所は千qも離れていた。 それを考えると、あの肉塊は復讐する相手を選んでいるとみて良い。 此方が利用しようとすれば、それすら察知される可能性がある」
「そんなこと、試してみないと分からないじゃないですか」
「復讐には研究の責任者も巻き込まれるんだぞ。 下手な事をすると、大統領まで復讐のターゲットになる可能性がある。 此処にいる全員もな」
流石に周囲がざわつく。
咳払いすると、現在北米の軍のトップにいるホーク元帥が立ち上がり。テレビ会議の面々を見回した。
かなり太ってしまっているが。
それでも元帥として、軍を引っ張って来た実績もある。
「フライト博士の研究を確認したが、肉塊は「見られている」という事にすら反応しているようだ。 文字通りそれの逆鱗がどこにあるかも分からん。 幸い、しまいこんでからは動きも見せていない。 今はただ、静かに放置しておくのが一番だろう」
「なんでー。 度胸がないなあ」
「我が国の軍は核の配備率も軍の戦力も練度も世界最強だ。 核を持っていると口にしているだけの国家と違ってな」
核兵器というのは。保持しているだけで凄まじいコストを消耗するものだ。
このため、実際に持っていると公言している国家が、動かせる核兵器を持っているかは話が別。
実際幾つかの国家の核兵器は、使える代物では無いことも判明している。
カロスや同僚、前任者達が文字通りいのちを削りながら調べ上げたことだ。
それらは、絶対に生かして欲しい。
「現時点では何かあったとしても、他の国に遅れを取る事はない。 だが逆に、君のような考えを持つ人間が、他の国にいて。 もしもあの忌々しい肉塊を奪取でもしたら、とんでもない事になる可能性がある」
「あ、僕が裏切ると思ってます? 大丈夫ですよ、これだけ好き勝手に研究させてくれるパトロンいませんもん。 でも、研究をさせてくれる間は裏切りませんとは言っておきます」
「今回の件については駄目だ。 その代わり、今まで凍結させていたプロジェクトを幾つか好きにして良い」
「ほんと! やったあ! おじさん大好き!」
本当に幼児みたいな言動の怪人に、カロスは呆れる。
おじさんと公式の場で呼ばれた元帥は席に着くと、太った体についている汗を拭いながら皆を見回す。
「というわけで、この件は凍結とする。 ただし、状態だけは確認をしておいたほうがいいだろう。 現在は金庫にしまっているが、もし肉塊が巨大化でもして、金庫で締め付けられているとでも考え始めたら大変な事になりかねないからな」
「それなら、僕の方で自動監視カメラで状態を確認するようにプログラムを組んでおきます」
「任せるぞ博士。 それでは解散する」
カロスは立ち上がると、敬礼。
その場を後にした。
とりあえず、これで一段落か。
まだ、この国の上層部は、そこまで無能では無いのだな。そう思って、少しだけ安心した。
それからしばらく、仕事が続いた。
諜報員の仕事は、暇なときはとことん暇だが。そういったときには、体を鍛えておかなければならない。
妻もいない。
子供もいない。
そもそも、そういった全てが弱みになりうる。
弱みを持てば、仕事をミスする可能性だってあるし。何よりも、人質にでも取られれば、これ以上ない悲惨な事実が待っている。
幸い、今の時代はフェミニズムだのが流行したせいで、結婚は誰もが嫌がるようになっている。
そもそも随分前から、北米では結婚制度が破綻の兆しを見せていた。
ハリウッド映画のヒーローですら離婚ばっかりしているような国だ。リアリティのない映画のヒーローが、人間らしさを見せる行動。それがリアルな結婚事情なのである。つまり、それだけ無茶が浸透していたと言う事だ。
自身の遺伝子データは残してある。
いずれ、遺伝子データだけで子供でも作れる日が来たら。
その時は、自分の子供には。
日の下を歩いて貰いたいものだ。
詰め所に戻る。
部下達が敬礼してきたので、返す。此処は軍の屯所の一角であり、大佐が部下と一緒に居座るには狭すぎる部屋だ。
だが、設備は全て揃っている。
無言で状況を確認していると。
看過できないものを見つけていた。
「……例の肉塊に変化が起きているようだな」
「例のカルフォルニアで問題を起こした奴ですか?」
「そうだ。 少し確認を取る」
一度手から離れた問題でも、きちんと覚えておくのが諜報員だ。今回は元帥まででて、封印指定が出たものである。
きちんと覚えておくくらいの事はしないと話にもならない。
カロスも引退して、安全な仕事ができるとはとても思えない。
警備員でもやれるだろうか。
いや、それも怪しいだろう。
機密に触れすぎたと言う事で消される可能性だってある。忠誠度が低い諜報員は、引退と同時に消される事もある。
そう思われていないといいのだが。
まあ、たくさんたくさん殺してきたのだ。
殺されて終わるのも、また運命だろう。
軍の最高機密研究所に連絡を入れる。管轄をしているのは、例の怪人とは別の人物である。
彼奴は組織を回すようなタイプの人間ではない。
妥当な判断だと言えるだろう。
「例の肉塊が、ですか。 確認します」
「やっほー大佐ぁ」
いきなり通話に割り込んでくる怪人。昂奮しているのが分かった。
呆れている様子の所長だが、好きにさせる。
こいつは成果を上げるが、機嫌を損ねると大変なのだ。余程の事がない限りは好きにさせるように。
そう元帥も話していた。
なお、テレビ会議で話しているのだが。怪人は全身血まみれだった。
捕まえてきたマフィアだとか敵国の諜報員の捕虜とか使って、人体実験でもしていたのかも知れない。
「例の肉塊の話かい?」
「ああ、そうだ。 データを見ると、大きくなっているようだが」
「ちょっと違うなあ。 僕の見た所、あれは大きくなんてなっていない」
「なんだと」
分かりやすく、大げさな動作をする怪人。
奴は道化のような動作で言う。まるでコミックに出てくるヴィランのようである。
「あの切り口、僕なりに調べて見たんだ。 まあ僕もあいつに認識されるのは怖いから、例のフライトとか言う博士の研究データからね」
「それで?」
「あの切り口、僕の仮説だと多分空間の穴だわ」
「何……」
空間の穴、だと。
つまりそれはどういうことか。困惑しているカロスに、半笑いで怪人は説明してくれる。とても楽しそうに。
どうやらあの肉塊は、体の一部に過ぎないらしい。それは、カロスも報告書を見てそうではないかと思っていた。
だが、傷ついたり切り離されている様子もない。
だったら、本体はどこにある。
そう考えてみれば、確かにそう考えてもおかしくは無い。
幾つか、難しい話をされる。
データはあまり取れていないが、それでも空間の裂け目などに理論的に出現する現象があの肉塊。
特に鋭く切り取られているように見える場所に発生しているらしい。
つまり、だ。
「あれは何処かの化け物が切り離して、それが独自に動いているわけではないんだなあ。 空間の穴から、何処かの別の次元か平行世界だかにいるなんかとんでもない得体が知れない存在が、ちょっとだけ顔を出している。 そういう状態なのだろうさ」
「な、なんのために!」
「知らないよそんなの。 気まぐれか、それともこの世界を乗っ取るために顔を出して様子を見ているのか。 少なくとも、この世界のルールで其奴は動いていないし、人間なんかでは理解出来ない力も行使できるから場所なんか関係無しに復讐を行える。 多分この世界に出て来た所を、馬鹿な熊が喰ったんだろう。 それで、熊はあんな目にあったと」
「……」
カロスは絶句していた。
それらの全てが、状況証拠から正しい事が分かってしまっている。
そいつが何者かは分からない。
別の次元にいる生物なのか、それとも生物とは呼べない存在なのかすらも今の状況では分からないだろう。
だが、いずれにしても、鬱陶しい蠅を払うようにして、干渉した相手に反撃して叩き潰した。
その程度にしか、相手は思っていない。
そして、遠くにいる相手にも、何の問題もなく報復できるし。
躊躇う理由もない。
相手が何者かは分からないが、人間なんて歯牙にも掛けない存在であるのは確定だろう。
全身に、寒気が走るのを感じた。
「元帥にすぐに連絡をしてくれ」
「ああ、僕の個人的な所感については話したよ」
「ど、どう反応されていた」
「その場で卒倒。 泡噴いてたよ。 あのおじさん、本当に気が小さいなあ。 だから実能力よりも政治闘争の手腕がものをいう高級将校なんかやってられるんだろうけどさ」
爆笑が、言葉に続いた。
カロスは、暗然たる気持ちになって、通話を切った。
狂人と話していても埒があかない。
それよりも、どうするべきか考えないとまずいだろう。
まず、上層部に連絡を取る。
既に元帥は把握している。少なくとも、軍の幹部だけでもそれについては把握しておかなければまずい。
相手は千q離れていても、まるで問題にしない相手である。
あれが体のごく一部に過ぎず。
全身がこの世界に現れたら。
その時、人間は今まで万物の霊長などと驕り高ぶっていたことを後悔する事になるのだろう。
少なくとも、あの肉塊の本体が、この世界を蹂躙し。
もしも人間が存在を許して貰えれば、御の字くらいに思うしかない事態が来てもおかしくない。
文字通りの世界滅亡案件だ。
パニックになった各国の首脳が核でも使ったら、それこそ世界は一瞬で破滅しかねないだろう。
ちょっと通話して指示を出していたパークスが焼き払われたのだ。
核なんか使ったら、その国家の人員全てが、一瞬にして消滅する事態だって考えられる。
兵器化どころじゃない。
ゾンビゲームに出てくるゾンビ化ウィルスのごとく。
人間には手に負えないし。
一度でも使えば、その瞬間全てが終わる。
もう、全て遅い。
カロスは仕事を切り上げると、酒を飲みに行く。
酒でも飲んで、逃避するしかなかった。
連絡が来たのは、飲んでいる最中。いつ仕事が来てもおかしくないから、深酒はしないようにしている。
それにしても夜の11時過ぎだ。
余程の事があったとみて良いだろう。
連絡は、上役の一人である中将からだった。
「何が起こりました」
「た、大変だ。 例の肉塊を収容した研究所で電子システムの全てが恐ろしい勢いでハッキングを受けている!」
「それは……」
「それも、ハッキングの出所は外部じゃない。 内部のサーバやPCでもない。 内部でデータが自己増殖でもしているかのようだ!」
今、怪人が面白がって調査しているそうだが。
カロスは、外部犯の可能性を考慮して、念の為に動いてほしいと言う事だった。
すぐに軍基地に戻り、部下を招集する。
部下も慣れっこだ。
昔から、いきなり深夜に呼び集められることは珍しく無かった。その分の給料は出ているのである。
「軍の最高機密研究所がハッキングを受けている!?」
「ああ。 それも正体は、例の肉塊だろう」
「なんてことだ……」
「今から全員で、そうでない場合に備えて動く。 深夜にすまないな。 もしも例の肉塊がやっていることであったら、どうにもできないだろうが」
此処にいる皆も、例の肉塊のことは知っている。
覚悟を決めるしかないだろう。
研究所に連絡を入れる。
そうすると、既に研究所のシステムはダウンしているようだ。代わりに、スマホが鳴る。軍の特注品のスマホだ。
連絡してきたのは、怪人だった。
「やあ大佐ぁ……」
「な、何が起きている」
「い、いぇへへへ、見られてる、見られてる! フライト博士とか言う奴と同じ状況だあ」
「……」
周囲に、無数の目があって。
此方を見ていると、怪人はいう。
それだけじゃない。
怪人の全てが解析されているようだとも。
「これは多分、元帥達も死ぬなあ。 相手はただ観察しているだけでも、僕の体が彼方此方削られてるよぉ。 観察したから、観察されているんだぁ。 そして僕の上司も、無事ではすまないよお……」
「おい、しっかりしろ!」
「すぐに研究所をコンクリと鉛で、何もかも逃さず塞ぐようにするんだぁ。 そうすれば、あの肉塊の本体が、出てくるまでは大丈夫だろう。 僕の計算では、多分50年くらいは平気だと思うけど、ある一定まで体が出て来たら。 もう後は指数関数な感じで空間の穴が拡がるかも知れないなあ。 ひひひっ、そういう場合は、十年ももたないかもしれないねえ」
「……っ」
スマホが落ちる音。
甲高い嬌声が上がっていた。スピーカーモードで怪人は喋っているらしい。
「ひひっ! 僕の手がなくなっちゃったあ!」
「お、おいっ!」
「急いで言った通りにしないとまずいよぉ。 どっかのバカが研究所に足を踏み入れるかも分からない。 もしも肉塊が持ち出されたりしたら終わりだ。 文字通り、世界のね」
「……」
怪人が、冷静に自分の状態を話す。
既に首と胴体の一部しか残っていないらしい。
研究所の人間は、みんな発狂して、銃を乱射したり自殺したり、狂死したりで全滅状態。
自分を組織的に見ていると、あの肉塊が判断したらしいと。怪人はいった。
「これは、僕を彼奴が喰ってるんだなあ……。 ひひっ、普通だったら死んでる筈なのに、僕はまだ生きてる! アハっ、頭の半分が消えた! 僕を丸ごと取り込んで、情報を得るつもりなんだあいつ! なんだろう、神様なのかな! 僕は消化されて、そいつの養分にされるんだ! ヒヒャ!」
カロスは通話を切る。
そして上層部に連絡。
元帥が、自殺したことを聞かされた。
更に、数名の高級士官が、それぞれ連絡がつかなくなっているそうである。
終わりだ。
そう判断するしかなかった。
ならば対処療法しかない。
相手は千q離れた相手を瞬殺する化け物だ。宇宙空間に放り捨てても無駄だろう。
すぐに、怪人の遺言を連絡する。
まだ生きている軍幹部の一人は、沈み込んだ声で言った。
「分かった。 そうするしかなさそうだな」
「軍内でも、情報を閲覧しないように徹底的な箝口令をしいてください。 興味を相手に持たれたらおしまいです」
「そうだな……」
多分考えるのも止めた方が良いはずだ。
幸い、奴は此処をまだ認識していないらしい。恐らく、直接研究していた人間とその周辺人物。
それに、組織の長に対して、された事を返すだけの存在なのだろう。
それならば、封じ込めをするだけだったら、何もしないはず。
例の研究所には、他にもやばいものがたくさん封じられているはずだが。
今回のは、文字通り次元違いの存在だ。
もはや、関わる事すら恐ろしい。
すぐに軍の工作部隊が動き出し、研究所を巨大なドームで覆う。もはや。この研究所は全て終わりだ。
工事にはカロスも立ち会う。
内部は全滅。地獄絵図。
だが、死体を回収することすら出来なかった。 もうあの中は、化け物の腹の中だと判断して良いだろう。
怪人の言葉によると、もっとも楽観的に見て五十年。
最悪で十年もあれば、あの肉塊の本体が、この世界に出てくる。
そうなれば、おしまいだ。
人間なんて、あっというまにこの世界から駆逐されてしまうことだろう。
嘆息すると、カロスは一人でその場を離れる。
もう気付いていたからだ。
周囲に、変な模様がある。
それは、カロスを観察している。
怪人と何度か会話していたのだ。相手に認識されていない筈もない。他の諜報員も駄目かも知れない。
だから、連絡だけしておく。
「もしも見られていると判断したら、家族に告げず死ぬしかない。 すまないが、これも祖国……いやそんな小さなもののためではない。 人類のためだ」
「大佐……!」
「さらばだ。 みな、今までよく働いてくれたな」
自殺用の拳銃を取りだしながら歩き。
そして、カロスは森の中に入った。
大きくため息をつくと。
カロスは拳銃を口に咥え。
そして引き金を引いていた。
死の瞬間、カロスは見た。
周囲の森中に拡がっていたその模様が一斉に開いて。人間のものとは違うが、確実な「目」が自分を見ている事を。
もう終わりだ。
だったら、せめて自分の最後くらいまでは選ばせてもらう。
カロスはそうして、最後のプライドだけは自分で守った。
4、破滅までの時間
詳細な報告をすれば、それだけで興味を持たれかねない。
大統領の下へは、簡単な報告だけが届けられた。
人類の破滅まで、そう時間がない。
最悪の場合は、コンクリで固めた研究所を宇宙に捨てるしかない。ただし、そうしても恐らくはもう無理だ。
相手は人間を学習し。認識し。
そして興味を持ってしまった。
そいつがどういう精神性を持つかは分からない。或いは、幼児が虫をちぎって遊んでいるような感覚なのかも知れない。
千q先を一瞬で焼き尽くす怪物だ。
宇宙に捨てたところで、一瞬で戻ってくる可能性が極めて高い。
それでも人間に出来るのは、出来るだけ急いで奴を。汚染された研究所もろとも宇宙に捨てる事。
それしかなかった。
大統領はNASAへの大規模な予算の追加を指示。
十年以内に、宇宙に巨大な物資を運び出せるように研究を増額。
理由は告げない。
観察した。
それだけで、軍のトップである元帥が死んだのだ。
事情を告げたら、今度はNASAが全滅しかねなかった。
幸い、肉塊はいったん興味を持つと徹底的に動くものの。
それ以降は、しばらく静かにしているようである。
復讐はいったん止まったようだ。
それならば、大統領も恐らくは。
ただ、それでも幾つか、手は打って置かなければならなかった。
もしも自分が死んだ場合について、秘書に話をしておく。
NASAは、例の研究所を可能な限り急いで、宇宙に打ちだして、外宇宙に捨てるように指示を出す。
後任の大統領は、あの研究所の跡地には、絶対のアンタッチャブルを指示。
更には、一連の事件の資料は全て破棄。
そうするしか、なかった。
国際的にも問題ばかりが起きている。
そんな中で、それだけの手を打つと。大統領は気付いた。
何か、壁にあり得ない模様がある。
全身を、汗が滝のように流れていく。
そして、その模様は。
目だった。
絶叫する大統領。
恐怖で大統領の心臓が止まった。秘書が鋭い悲鳴を上げている。それが、意識が薄れ行く大統領の、最後に聞いた音だった。
大統領が死んで、選挙で次の大統領が選ばれる。
何事もなかったかのように、病んでいる人類の文明は先へと進んでいく。ブレーキが壊れた大型車のように。
だが、それもタイムリミットが出来てしまった。
いや、資源の枯渇が始まっている今。
とっくにタイムリミットなんか動き出していたのかも知れない。
NASAが大幅に増加した予算で人員を雇い。前大統領の遺言に沿って、ロケットの開発を始める。
ユーラシアにある大国が、それが新型ICBMの開発に違いないと難癖をつけたが。
北米は全て無視。
研究を続けた。
挑発を続ける相手国を一切無視して、膨大な資金を投じ。十二年後には、飛躍的に発展したロケット技術で。そのコンクリと鉛の塊を宇宙に撃ち出す事には成功。
その塊は、第三宇宙速度で地球を離れ。
太陽系の外へ向けて飛んでいった。
だが。
打ち上げた後、観測を続けていたNASAの職員が気付く。
打ち上げるようにと、厳命を受けていたそのコンクリの塊に罅が入る。コンクリといっても強化コンクリートで、強力な補強も鉄筋などで受けている。簡単に壊れるようなものではないのだが。
まあいいか。
ただ打ち上げるように指示を受けただけである。
それに、宇宙に打ちだして、気圧の問題などもあったのかも知れない。絶対零度に晒されて、コンクリが変質したのかも知れない。
研究に戻る。
破滅が始まった。
それを誰も知らない。
だが、誰もがすぐに知る事になる。
全てが、終わるのだと。
(終)
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