ドラゴンクリーナー

 

序、その国の選択

 

その土地は入り組んでいた。無数の山々と盆地に人里は区切られ、山は森深く、昼なお暗い。人間の集落は基本的に規模を限定され、連絡も密には取りえない。そのため、統一政権が登場することは、極めて困難だった。村ごと、集落ごとが一つ一つの国家として機能し、或いは連合し、或いは対立し、歴史を刻んできた。ある村が戦に勝っても、長期的に支配統治するのは困難を極めた。ある程度勢力を広げた村が、一斉蜂起によって自壊してしまう事は珍しくなかった。そして不安定な国内は、頻発する戦争と治安の悪化を産んだ。悪意も螺旋のように連なり、停滞が破滅に繋がる例も多々あった。

いつしか、土地の者達は気付いた。この国は、内側からは統一できないと。対話で平和を作れるほど、人間は理性的な生物ではないのだ。技術だけは奇形的に発達していたが、それ以外は何もなかった。この土地を平和にするには、方法は二つしかなかった。

まず一つ目の選択肢は、余所の地域にある信頼できる巨大国家の支配を受け入れる事であった。巨大国家の圧倒的軍事力によって睨みを利かせ、群落同士の争いを終結させる。それは一見極めて合理的な方策に思えた。事実、最初はその方策が採られた。そして百年ほどは平和が保たれた。

しかし、大国の崩壊と共に、平和の時代もまた終わりを告げた。再び混乱の時代が訪れた。外敵の侵入も頻繁に起こるようになり、略奪にも虐殺にも小規模集落のまとまりがない連合では抵抗できなかった。再び治安は極限まで悪化し、人間達は生きるために第二の選択を選ばざるを得なくなった。

すなわち、その土地の奥地に住む、ドラゴンに支配を委託する事である。

ドラゴンは人知を超える存在だった。その炎の息は、ただの一吹きで軍隊を蹴散らし、砦一つを灰と化した。操る魔法は千を越え、人間では及びもつかない知識を持ち、不老の生命を持っていた。

龍は人間に興味など持たず、山奥で静かに暮らしていた。その龍に、土地の者達は頭を下げ、支配を依頼したのである。龍は幾つかの条件付きで、それを認めた。結果、数度の殺戮の後に、平和が生じたのであった。

こうして、龍に支配された国家、エルミール龍国が誕生することになる。そして三百余年が経過した。

 

1,新人龍官

 

今日、三着の白い服が届いた。事前に聞かされてはいたが、それを見ると、いよいよ来たかとフラネルは思うのであった。

旅の支度は既に出来ている。荷物は纏めてあるし、財産も処分し終えた。今後は生まれ故郷に戻れない可能性もある。一応土地と家は法律によって保護はされると聞いているが、持っていても仕方がないかも知れないのだ。

春の暖かい日。外では鳥が鳴いている。

届いた白い服を、寝床の上で広げてみる。丈はぴったりだ。農衣を脱いで、龍官の正装である白服に着替えてみる。似合うだろうかと、フラネルは自問自答した。鏡などこの小さな家にはないし、品評してくれるような人間もいない。両親は随分前に死んだし、兄弟姉妹も、勿論恋人だっていない。少し前までは家と土地を目当てにおじ夫婦が押し掛けてきていたが、それも出ていった。フラネルがどうしても家を譲ると言わなかったからである。皮肉なものである。

背が低いフラネルは美男子ではないし、喧嘩も弱く気も弱い。今年で十四になるが、要領の良い同年代の男はもう所帯を持っている者が珍しくもない。龍官になった者はこの村でも少ないし、更にその中で村に戻ってきた者は一人もいないという話だから、今後はどうなるかも良く分からない。不安は山ほどあった。そしてそれは、悩んでも解決するものではなかった。

馬車が来るのは翌朝だと、印が押された蝋にて封印されていた手紙には書かれていた。正確にはそう書いてあると村長から聞いた。王都は山を四つ越えた先。百年がかりで山を一つ崩して作り上げた、この国唯一にして歴史上初めての大都市だ。行くのも見るのも初めての土地。そこでフラネルは家を与えられて、今後龍王が良いと言うまで暮らすこととなる。

もうやることもない。米びつの残りも少ない。今日の食事と、旅行中の保存食を作ってしまえば無くなってしまうだろう。もう、何もない。何もないのだ。

家の外に出る。村人達の品定めするような視線が飛んでくる。中には憎悪の視線を向けてくる者もいた。露骨に嘲笑の視線を向けてくる者もいた。王都にこんな冴えないガキが行けると言うことを憎悪をしている者。龍のエサになるという噂もある龍官にフラネルがなると聞いて、影でせせら笑っている者。いずれも好意的なものではない。

村はずれの小さな沼に出た頃には、もう夕方だった。自分の姿を映してみる。

白いと行っても、完全に白一色という訳ではない。汚れることを最初から予想し、縁の辺りには濃い緑色が使われている。全体的に村の皆が着ているくすんだ茶色の麻服とは偉い違いだ。デザインも美しいし、白も空へ抜けるようだ。だが、結局顔の造作がどうという事もないので、案山子に晴れ着を被せるようなものであった。

苦笑い。所詮駄目な奴は何をやっても駄目かと、諦めに近い言葉が心の中で蠢く。幼い頃から、ずっと言われてきた言葉だ。両親からも言われ続けてきたし、おじ夫婦からも言われてきた。

まあいい。どうせ王都に行ったらドラゴンのエサだ。

フラネルは諦めきった表情で頭を振ると、自宅へ戻る。もう農作業はしなくて良いのだが、却ってそれが手持ちぶさただった。あれほど無能を罵られて来たというのに、こなせもしない農作業をしなくてもよくなると物足りないというのだから不思議である。フラネルは生粋のマゾヒストなのかも知れなかった。

すぐに陽が落ちる。寝床に転がって天井を眺める。手入れがしっかりしていないから、藁葺きが乱れている。あの分だと、また雨漏りするだろう。腐りかけた梁の上を鼠が通っていった。

耳を澄まさなくとも、近くの家で、談笑の声が聞こえる。不思議なものである。食事の場で笑ったことなど、産まれて一度もない。どんな感覚なのだろうと、単純に興味が刺激される。しかし、どうせ無駄な興味だと言い聞かせ、目をつぶる。鼠がまた、梁の上を通り過ぎていった。

油がもったいないから、暗闇の中でぼうっとしていると、いつのまにか、もう朝だった。屋根の隙間から、板の窓の間だから、差し込んでくる日差しが痛い。

鶏が、元気良く鳴いていた。

 

村の人間達は一応形式的にフラネルを見送っていたが、相も変わらずその視線には負の感情が多分に含まれていた。村を離れることに未練は全くない。もうどうにでもなれと、馬車に揺られながら思う。

馬車は二頭立てで、騎兵が二人護衛についている。御者と役人らしい女性がいるので、全部で四人。馬車が村を離れると、フラネルは正直ほっとした。眼鏡を掛けた女性は、村では考えられないような、綺麗で感じの良い人物である。着衣も清潔で、同じ生物とはとても思えない。同じ白服でも、着る人が違うとこうも映えるのか。

「フラネル君、だったわね」

「はい」

「私は王都の役人、四級龍官のメルラ・エイ。 王都に着くまで、貴方の指導を担当することになるわ。 よろしくお願いね」

「あ、はい。 此方こそ」

丁寧な受け答えに、深々と頭を下げてしまう。メルラ女史は頬の筋肉を調整して、清楚な笑顔を保ったまま言う。

「まず確認しておきたいのだけれど、文字は読めるかしら?」

「読めません」

というよりも、村で読み書きができる者などは、村長一家くらいしかいない。王都に近づけば近づくほど識字率は高くなるとかいうが、噂でしかないし、フラネルには何の関係も無い話だ。

「素直でよろしい。 では仕事の合間に文字を覚えて貰います」

「文字を、覚える?」

「その様子だと、龍官の仕事の内容もほとんど聞いていないようね。 それも併せて勉強して貰わなければならないかしら。 少し手間がかかりそうだわ」

お姉さんが嘆息する。嘆息されても困る。龍官については、本当に何も聞かされていないのだ。王都に行って、龍に仕えるという事しか知らない。権利関係の話はいやいやながら村長がしたので聞いているが、それ以外は何も知らない。

それも併せて説明すると、メルラさんは頭を抱えて更にもう一つため息。

「あの強欲村長、本当に義務通りの事しかしなかったのね。 ごめんなさい。 これは此方の手落ちだわ」

「え、その、あの……」

「分かりました。 一から、龍官について説明します。 この様子だと、村レベルで流れているような根も葉もない噂しか知らないでしょうし。 何も知らないまま王都に連れて行ったら、私が怒られてしまいますからね」

フラネルが恐縮してしまうような勢いで、メルラさんは言う。ちょっと意外だった。村で聞く王都の女性の噂は、どれも芳しいものではない。金に汚く、厚化粧で、ずるがしこい。そんなものばかりだ。噂は噂としか思っていなかったが、この人は随分誠実なのだなとフラネルは思った。

小石を踏んで、馬車が揺れた。やがて上り坂から下り坂へ切り替わる。余所ではどうだか知らないが、山を一つ越えると、この国ではもう全く知らない土地である。交通が極めて不便なため、人間が住める土地が限られているのである。

メルラさんは一つずつ、丁寧に龍官の説明をしてくれた。まずは、龍官という職業の成り立ちからである。

およそ三百年前。この大陸の覇者であったウィッドマード帝国が滅亡してから時が経ち、混沌が満ちあふれていた。百年ほどの平和を帝国の強大な軍事的庇護下で得ていたエルミールは、それを完全に失った。

再び村単位での争いが始まり、秩序は消滅。治安は加速度的に悪化した。更に周辺の地域から無頼の輩や盗賊山賊が入り込み、好き放題に武力による搾取を開始したのである。まとまることも出来ず、逆らうことも出来ず。英雄が誕生する気配もなく、誰かが名案を出すこともなく。緩慢な滅びが、エルミールの地を覆っていった。

村々の長老達は、ついに決めた。人間ではこの土地を収めることが不可能であると。しかし雑多な宗教が群居するこの地で、特定の信仰が力を持つことはまずあり得ない。そこで、具体的に巨大な力を持つ、人外の生き物を王として迎えることを皆で決定したのである。

それが、龍であった。

エルミールの山奥に住んでいたその龍は、長老達の話を聞き、鼻を鳴らした。下らない人間の争いを自分の元へ持ち込み、押しつけ、自分たちだけのうのうと暮らそうなどとは虫が良すぎると。当然の話である。

例えば。人間がアリの戦争に介入してくれと言われて、はいそうですかと従うであろうか。場合によっては力を貸すかも知れないが、それがアリの社会内部での権力争いだったり、人間から見れば二三歩で歩きわたれる土地を巡ってのものだったらどうだろう。余程の物好きを除けば、アリの提案に乗る人間はいないだろう。

長老達は生贄を出すと言ったが、ドラゴンは白けきっていた。人間はまずいし、肉の量も少ないというのだ。もっともな話である。ならば作物を収めると長老達は言うが、ドラゴンは興味を抱いてくれない。人間の味覚に合うよう調節された野菜など、ドラゴンの舌には合わないのだ。大体、あまりにも巨大なドラゴンは、長い年月を生きるうちに、食を得ずとも生を保つ術を身につけていたのだという。食事は嗜好に過ぎず、それで言うことを聞かせようなどとは無茶な相談だ。

困り果てた長老達の間だから進み出た少女が言う。彼女こそ、最初の龍官となった人物である。

貴方の体を、私達が綺麗にします。洞窟の中で過ごしている貴方を、清潔に保ちますと。確かに洞窟の中には、龍の糞尿から発せられる悪臭が満ち、埃がうずたかく積もり、不潔極まりなかった。この言葉に、初めて龍は心を動かされ、しばらく考えた末に幾つかの条件を追加して王となることを許諾した。

「ここまでで、何か質問はあるかしら」

「いえ、その……ありません」

話を聞いて、フラネルは驚きを抑えられなかった。この国の王が龍であることは、無学な彼でも知っている。だがそんないきさつがあったとは、思っても見なかった。龍が王である事は当たり前の事で、疑問など抱く余地はなかったのである。

それにしても、龍の心を動かしたのが、食物でも権力でもなく、清潔だったとは。フラネルは驚く心をなかなか静めることが出来なかった。世の中には知らないことがたくさんあるものだ。

メルラ女史の話は続く。

王となった龍は、圧倒的な破壊力を振るった。巨体は軽々と空を舞い、その白く輝く炎の息は山賊が作った砦を瞬く間に灰と変えてしまった。無頼の輩は皆殺しにされ、或いは必死に国外へ逃げ散った。国の中央にそびえ立つ山に陣取った龍を、村々の代表があがめ奉り、今まで幾ら人間の代表達が雁首揃えて話し合っても成り立たなかった平和と安定が一瞬で成立してしまったのである。灰と化した山賊の砦を見て、なお龍に刃向かおうという者は一人もいなかった。

それは確かに武断政治であり、恐怖政治の一種であった。だが、これによって国は平和を取り戻し、治安は急回復したのである。恐怖と暴力による支配など間違っていると批判するのは簡単だ。しかし、実際の平和と安定にまさる綺麗事があろうか。何百年も己の主張をし続けた挙げ句、平和を得ることも自力での安定を得ることも出来なかったこの国に住む人間に、龍を批判する資格など無かった。それを誰もが知っていた。これは自業自得の結果であり、最善の結末だったのである。

また、龍は人間の心を読むことも出来た。今まで司法の手を逃れていた悪人が次々に龍の予言で捕まり、証拠も見付かったので、その統治に誰もが納得した。

国が安定するのを見ると、龍は村の代表を集めて政治のシステムを説明し、自ら任命して国の体裁を急速に整えていった。それは極めて公平で理にかなっていたので、人間が口を挟む余地など無かった。龍が完璧だと言うよりも、存在が人間に比べて偉大すぎたのである。人間が最も偉大だなどと吹く宗教は多いが、その馬鹿さ加減が良く分かる事例であろう。所詮人間は、発展した社会と知性を持つ動物、程度に過ぎないのだ。それ以上でも以下でもない。

巨大な洞窟が掘られ、龍の新しい住居兼龍殿となった。中央部にあった山が百年がかりで切り崩され、其処に王都が建設された。王都は村々を有機的に結合し、エルミールを一気に中規模国家へと引き上げたのである。それから社会は安定し、繁栄を続け、現在に至っている。

「余所の国に王都から繋がる道も、龍の指示の元造られたものなのよ。 それによって、エルミールは今まで断絶状態だった余所の世界との交流が可能となって、多くの文化や技術が流入したわ。 でも、龍によって与えられた安定は、龍がその気になればすぐにでも滅ぼされてしまうものなの。 噂によると、一万を超える兵士を数分で滅ぼしたという力の持ち主ですもの。 契約の履行は絶対なのよ」

「……僕たちって、小さな存在なんですね」

「太陽と人間を比べて、自らを卑下しても仕方がないでしょう? 龍官はそうやって作り出された職業よ。 初代龍官のアンナ=ミルフィーヌが具体的な形をまとめた当初は混乱もあったらしいけれど、今ではすっかりシステムが安定しているわ。 龍官は基本的に、龍王が直に選抜して、王都に連れてこられるようになっているの。 そして、龍官の仕事なのだけれど」

メルラ女史はようやく龍官の具体的な仕事の説明に入ってくれた。フラネルは村で聞いていた噂とあまりに違うそれに、興味を引きつけられ通しであった。

それほど記憶力が良くないフラネルだが、今回は良く耕した畑に井戸水を注ぐかのように、言葉が頭に入ってくるのを感じていた。もう生まれ故郷の村などどうでも良くなっている。ドラゴンのエサにされるかも知れないという怖れも消え去っていた。

話を総合すると、そんな怖れもない。龍王は人肉を好まないようだし、何より仕事は洗うことなのだから。

山を二つ越えた頃、その日が終わった。龍の印が刻まれた宿場に泊まって、翌朝も山道を行く。龍官の仕事については一通り聞いたので、赴任するまでに少しでも勉強をしておく必要があったから、メルラ女史の手ほどきで読み書きを習い始める。勿論すぐにはマスターできないが、日常会話くらいなら覚えておきたかった。

妙な話である。びくびくし通しだったのに、いつのまにかやる気になっている。全く新しい世界へ踏み込むことが、恐怖では無くなっている。勉学にも身が入る。筆など今まで持ったこともなかったのだが、楽しいという事は素晴らしい向上補助をもたらすもので、すぐに持ち方も使い方も覚えてしまった。

朝出発して、夕方宿に泊まり、翌朝また出発する。山を越え、山を下り、また山を登る。たまに平野もあったが、どこも大した広さはなく、すぐに坂へ移った。地形は不必要なほどに入り組み、互いに隔絶しあっている。この国がどうしても統一できなかった理由が、良く分かる気がする。移動が大変なのは、自分の村周辺だけではないのだ。馬車は揺られ揺られ、狭き山の国を行く。

そうして半月が過ぎた頃。フラネルは、王都へと到着したのであった。

 

2,王都の初日

 

この山を越えれば王都だと聞かされたときから、フラネルは期待で胸が高鳴っていた。馬車の窓から身を乗り出して、木々が鬱蒼と茂る道の脇に広がる森を透かすようにして、必死に目を凝らす。目は悪い方では無かったのだが、それでも無情、王都は見えない。

道が広い。馬車の轍がずっと続いている。旅人が、馬車から身を乗り出しているフラネルを見てくすくすと笑った。赤面したフラネルは一回馬車に引っ込み、うずうずする心身を必死に押さえた。メルラさんがくすくす笑う。

「別に王都は逃げないわよ」

「え、あ、はい……その……」

「なに?」

「その、分かってはいるんですけれど、気になってしまって」

平らだった道が下り坂にさしかかる。同時に、森が途切れた。今までとは比較にならない光が、馬車の中にも入り込んでくる。

もうすぐだ。

隣を馬車がすれ違っていった。騎馬の人や、徒歩の人が大勢通り過ぎていく。馬車が曲がった。窓から顔を出して、前を見る。其処には、今まで想像もしなかったような光景が広がっていた。

辺り一面、ずっと畑である。見渡す限り、地平の果てまで畑が続いている。地平が見えるというのも驚きだが、所々ぽつぽつと建っている小屋は丁寧に区画整備されて、畑の間には時々川さえ流れていた。

道の向こうには、ぼんやりと見える灰色の何か。近づくに連れて、それが城壁であると気づく。石を積み上げた城壁は、川に沿って立ち並び、巨大な橋で内部と結ばれていた。分厚い城壁を通って中へ。更に何度か検問を通過して、王都の奥へと入っていく。一度、二度と連なる城壁を潜るたびに徐々に畑が減り、家が増えていく。その家も、どんどん大きくなっていく。やがて道の両脇は家しかないようなありさまとなった。人間の数も桁違いである。当然のように、その全てが知らない人である。これほど多くの人間を見るのは初めてだった。

「凄い……」

「この辺りは王都でも二番目に賑やかな所よ。 朝はあの辺りに市が立ったりするの」

「市、ですか?」

「龍官になったら、いやでも通うことになるわよ」

金銭を使って取引をする市の話は既に聞いている。村ではあり得ない大規模な取引の仕組みだが、これだけの人間がいるとなると、納得できる。

この王都は、規模だけなら大国のそれと匹敵するものなのだという。元々人口は決して少なくなかったこの土地では、地形に阻まれて、その潜在能力が発揮できなかったのだ。それを龍の強大な力によって主導し、土地を削り、山を砕き、百年がかりで作り上げたのが、この王都。人口は実に二十万に達し、この大陸でもっとも豊かな都市の一つだという。

いつの間にか馬車が通る地面は、完全に石畳で舗装されていた。家々の屋根ももう藁葺きではなく、瓦葺きだ。街の彼方此方には水路が通っているが、これはそれほど綺麗ではない。馬車から覗き込んでみると、にごりが酷かった。そんな中でも、魚影は見える。

やがて、上り坂にさしかかった。王都の中に山があるらしい。手を翳して見てみると、それほど険しくもなければ大きくもない山だ。傾斜は緩やかだが、かなり先まで続いている。元々山を崩して作った土地であるし、その名残であろうか。

「あの山は何ですか?」

「あれが龍殿よ。 龍王の住処」

「あ、あれが……」

「高級官吏や龍官は、不便を承知で皆あの周囲に住んでいるの。 いざというときは、龍王が簡単に灰に出来るように、ね」

ステータスシンボルではなく、公認の人質という訳だ。人間を遙かに凌ぐ存在というのは、伊達ではないらしい。

馬車が止まる。此処が短い旅路の終着駅であった。

「着いたわよ」

「あ、はいっ」

「私は他の新人龍官の様子も見に行かなければならないし、他に仕事もあるから、当分はこれでお別れね。 貴方の案内は別の者がするわ。 暫くはその人の指示に従って頂戴」

馬車から身軽に降りると、メルラ女史はさっさと何処かへ行ってしまう。徐に降りようとしたフラネルは、辺り一面石畳なのに気づく。物凄く広い平面が石畳で舗装されているのだ。多分村全部よりも広い。その彼方此方に馬車が止まっていて、中には露骨に他国の貴族と分かる人間もいた。馬車だけではなく、兵士の数も多い。客を降ろした馬車が、緑色の服を着た役人に引っ張られて、隅っこの方へ移動していった。

遠くには、巨大な建物が見えた。何だか分からないが、物凄い規模だ。村が何個も中に入りそうなほどである。馬車から降りた人達は、其方へ向かったり、其処から出てきたりしているようであった。

「ハイヨッ!」

至近で威勢の良い声がして、ずっと乗ってきた馬車が移動していく。見れば隅っこの方に馬車が止められると、馬が外されて、別の方へ連れられていく。馬糞は殆ど見あたらない。これだけ馬がいるのに不思議だと思っていたら、役人がめざとく落ちているのを、籠のような形の器具へと箒で掃き入れていた。馬糞を掃除している専門の役人がいる訳だ。

石畳はよく見ると、一定間隔で浅く溝が掘られている。馬車を止めるのに便利なように、区画分けされている訳だ。そして数字が振られていた。数字は覚えたばかりで、正確には解読できなかったが、聞いたこともない桁の数字が並んでいるようだった。

見回す見回す。何もかもが珍しい。馬車も一つとして同じものはなく、馬も村で使っていたものとは別種としか思えない。体も大きいし、毛並みもつやつやしている。馬具の何と煌びやかな事よ。護衛についている兵士達はどうしてあんなに強そうなのだろうか。談笑している紳士達は身なりから言っても体格から言っても、村にいた人達とは別の生物にしか見えなかった。

「おーい!」

手を振って近づいてくる人物に気づく。白服だから龍官だ。フラネルより少しだけ背が高い、顔中にニキビが浮かんだ青年である。ニキビなんて、村では村長一家のどら息子ぐらいにしか無かった。皆、ニキビが出るほど食べられないのだ。

まさか自分に手を振っているとは思わず、フラネルは慌てて周りを見るが、龍官に反応している者はいない。まさか自分かと思ったときには、龍官はもうすぐ近くだった。胸には翼を象った紋章を付けている。近くで見ると、やっぱりとても健康そうだ。彼はいきなり、考えられないことを言った。

「フラネル君だね」

「えっ……ええと……はい」

「もう名簿には目を通してある。 メルラさんに連れられてきたんだろ? 勉強勉強で大変だったんじゃないか?」

どうして名前を知っているんだと困惑するフラネルだったが、すぐに気づく。その可能性があるとしたら。

「ひょ、ひょっとして」

「うん?」

「先輩の龍官の方ですか?」

「ひょっとしなくてもそうだよ。 なんだい、魔術師とでも思ったのか?」

青年はけらけらと遠慮無く笑った。そして、君で最後だよと言った。

 

馬車から降りた場所は「駐車場」と言って、この国の政務に携わる人や、他国の使者などが馬車を預ける場所だと、歩きながら先輩は説明してくれた。フラネルよりもちょっとだけ背が高くて、肉付きの良いその人は、カーレットと名乗った。

広い駐車場を出ると、左右に木が植えられた石畳の道に出る。所々に水路が走っていて、村とは基本的に違う服装の人達が、談笑しながら通り過ぎていく。その一方で、家を造っているらしい場所では、半裸の逞しい男達が工具を振るっていた。見たこともないものばかりの反面、土臭い男達も存在している。何だか、別の世界に迷い込んだような気分だった。

「今から向かう龍官の寮は、この区画の西の果てになる」

「え、ええと」

「何だい?」

「分かりません。 区画ってなんですか? 寮って何ですか?」

フラネルの言葉に、カーレット先輩は唖然とした。何故唖然とされるのか良く分からない。しばし腕を組んで悩んでいたが、やがて歩きながら手を叩く。

「そっか、村長に説明を受けていないのか」

「はい。 メルラさんにもそう言われて、謝られました」

「あの人ならそうするだろうな。 たまにあるんだ。 本当に辺境の村なんかの人が龍官に任命されると、上手く情報が伝わらなかったりして、仕事に無知なまま王都に来ちゃったり。 勿論、君が悪い訳じゃないよ。 というよりも、此処に来た時点では、みんな知識は付け焼き刃だから」

何だか良く分からないが、慰めてくれているらしかった。安心するフラネルに、カーレットは言う。

「王都は広いだろ。 だからいる場所を分かりやすくするために、土地を区画で分けているんだ。 600の区画が王都にあって、今も増え続けているんだぜ」

「何だか、想像できません」

「だろうなあ。 僕だって、最初はそうだった。 で、寮ってのは、家を持っていない人が仮に住む場所なんだ。 と言っても、家と変わらないから、安心して良いぜ」

「え、ええと、その」

「つまりだ、貸して貰った家だと思えばいいさ」

不思議な話である。王都では、家が貸し借りされるというのか。どんな家なのだろう。雨漏りしないか、少し不安だ。貸し出されるような家なのだし。

道が少し入り組んできた。また坂にさしかかって、少し疲れてくる。途中、立ち止まったカーレット先輩が、軽く遠くに向けて一礼した。其方には、こんもりとした山があるだけだ。王都の中にあるのに、木々が生えた、そのままの山。それほど大きくはないが、奇異な光景だった。

まさか、あれだろうか。

「あれが、その、龍殿ですか?」

「そうだよ。 龍王が住まわれる龍殿で、僕たちが働く場所だ」

一気に不安がこみ上げてくる。龍は洞窟を好むと聞いた。龍王も同じなのだとも。つまりあの自然を残した山の中に洞窟があり、其処にこの国の王が住み着いている訳だ。人間の理屈がやはり全く通じないのだと分かる。

坂がきつくなってきた。汗を拭うフラネルに、笑いながら先輩は言う。

「きついだろ、この坂」

「え、ええ、はい」

「龍王のお達しにより、わざときつく作られてるのさ。 この程度の坂を毎日行き来してこそ、健康な肉体を維持できると。 まあ、怠ければ体は際限なく衰えるし、言っていることは間違ってないよな」

若干太り気味なのに、先輩は全く疲れた様子がない。なるほど、こうやって鍛えられていれば無理もない訳だ。

坂は長かった。山を横目に登り続けて、周囲に気を配る余裕も無くなってきた頃であった。先輩が足を止めた。

「着いた。 此処が僕らの住んでる第三龍官寮だ」

顔を上げる。呼吸が乱れて、視線が定まらない。

「あんまり綺麗じゃないけど、冬は暖かいし、夏は涼しいし、住みやすいんだぜ」

満面の笑みでそういう先輩の背後には、三階建ての、石造りの大きな建物があった。見上げるほどに大きい。建物は長方形で、人工物であることが一目で分かる、角張ったデザインをしている。建物の周囲には庭が広がっていて、隅には花壇が幾つか。木も植えられていた。畑はない。

各階の外側には出っ張った部分がある。ベランダと言うそうだ。中には、ベランダに植木鉢を置いている所もある。よく見ると、ベランダは窓ごとに区切られていた。

「区切られていますね」

「そりゃあそうだ。 区切られている所ごとに、部屋が違ってるからな」

「部屋が違う?」

「分かりやすく言うと、その部屋ごとが、それぞれの家になってるんだよ」

こっちだと、先輩はフラネルを建物の中に連れて行く。

入り口は石造りで冷たい感じだった。中には所々照明が置かれている。少し変わったランプだと思うのだが、中に灯っているものが何なのかは良く分からなかった。煌々と輝いていて、火よりもずっと明るい。不思議な質感もある。小首を傾げていると、魔術で作った照明器具なのだと先輩が説明してくれた。国が安定してから、役人が周辺の国に行って、技術を収集してくるようになったのだという。その過程でもたらされたものなのだそうだ。原型はこの国の人間が作ったのだが、光の基幹となる技術は、余所から調達しないと結局実現できなかったそうである。

一階の一番奥は広い部屋になっていて、外側には窓が十以上も取られており、人が二十人以上歩き回っていた。この部屋だけで、フラネルの家と畑がまるまる入りそうだ。部屋の一番奥には太ったおばさんが机についていて、周囲で役人が書類を手に歩き回っていた。

机の前まで行く。周囲で歩き回っている人達は、若い人も年老いた人もいた。老若男女区別無く、まるで統一性がない。机の前で立ち止まると、右手を額の高さまで上げて、カーレット先輩が言う。

「新人を連れて参りました、三級龍官」

「御苦労様。 貴方がフラネルね」

「は、はい。 フラネルです」

「今日からここで、七級龍官として務めて貰います。 急なことだし、慣れないことも多いと思うけれど、よろしく」

穏やかそうな反面、非常に余裕を含んだ声であった。恐縮してしまって何度も頷くと、そのまま先輩に連れて行かれる。あの人は此処で一番偉い人で、寮の管理と、新人の教育、更に人員の配置を全て行っているのだという。

「王都には龍官の寮が三つあるんだ。 その中でも此処は、新人の龍官達が勉強する所でな。 龍官になってから五年以内の奴は、大体みんな此処か、もう一つの新人寮にいる」

「あのお爺さんやお婆さんもですか?」

「あれは仕事で此処に来ているだけで、住んでいるわけじゃないんだ。 もう少し年を取ってくると、別のもっと専門的な仕事が出来る特殊寮や自分で買った家に移って、そっちで生活することになる。 此処の寮では新人が住むほかに、色々仕事をしているから、どうしても人手は必要になるのさ。 まあ、仕事を始めれば分かるようになる」

三階へ向かう。階段はとても冷たい感じで、壁はむき出しの石だった。手すりは木製だったが、力を入れると壊れそうだった。灯りが隅まで届ききっておらず、足下が少し危ない。

「新人は三階なんですか?」

「いや、そういうわけでもねえんだ」

先輩は言う。定期的にこの寮からは人が出入りするので、年ごとに新人が入る階は決まっているのだそうだ。今年は三階の奥が新人達の部屋になっていて、フラネルは一番奥であった。この法則が崩れたことは滅多にないそうである。

廊下の一番奥。窓からは、空しか見えない。部屋に入る。

重厚な部屋だった。一番奥には窓があり、ベランダに通じている。むき出しの石の質感が全体に秩序を与えていて、天井は手が届かないほどに高い。少しくたびれたベットの他に、唯一あるのは、さっきから何度か見かけたあのランプのような照明器具だけだ。

これが、今後自分の家になるのだという。困惑が隠せない。いやなのではない。不思議なのである。

「取り合えず、当面の生活費は渡されるから、それで一月はしのげ。 その後は給金が出るから、少しずつ好みの家具を買いそろえていくといい。 家具を置くのは自由だ。 この寮は頑丈だから、多少のことじゃ床はぬけねえしな」

「はい。 それで、これからどうしたら」

「新人研修は明日からだ。 あ、そうだ。 他の新人にも会っておけ」

他の新人はこの隅に全員固まっているそうである。一人が男で、二人が女だそうだ。今回の新人は男女比が同じだと、先輩は何が楽しいのか大笑いしていた。

他に大事な説明をして貰う。ベットの脇には、突きだした、蓋のついた菅がある。これは大事な用事があるときなどに、呼びかけを行う道具だそうだ。先ほどの寮長が管理していて、いざというときは此処から声が出て呼び出されるのだという。逆に此方から呼びかけるときには菅に備え付けの玉を落とすのだとか。玉は管にぶら下げられている袋に入っているが、滅多なことでは使わないようにとも念を押される。

この寮は極めて火に強い構造になっているが、それでも火事になる可能性はあるという。その時はロープを使ってベランダから降りるのだと説明される。ロープはベットの下に巻かれた状態で入っていて、これを使う。もっとも、使う機会はまずないだろうと先輩は言った。覗き込んでみると、随分古いロープだ。これでは使ったら切れかねない。最初のお給金の買い物はこれにしようと、フラネルは思った。

「後はくいもんだが、朝晩はメシが下の部屋で出る。 昼はそれぞれ好き勝手に余所に喰いに行くのが普通だな」

「外に、ですか?」

「何なら今から僕と行くか? 丁度いい、他の新人も誘うか」

返事を待ってくれない。強引な人である。ただ、嫌な気分がしないのは、フラネルが元々引っ込み思案なのを、強引な行動で助けてくれているからだろう。おろおろしているうちに先輩は部屋を出ていってしまい、隣の部屋の戸を叩く音が聞こえた。

 

先ほどに比べて若干余裕があったので、寮の外の様子が随分良く分かった。王都は基本的に四角いのだ。区画区画は大通りで区切られ、四角い地区の中に色々なものがある。店もあるし、中には畑や池もある。無数の四角が、「区画」として連続して、王都が形作られている。山を切り崩して作ったという話通り、起伏でさえもそれを考慮して作り上げられている。恐ろしいほどの規模の力が働いたのだと、無知なフラネルにも一目瞭然だ。

この国は、龍が絶対的な王として降臨するまでまとまらなかったが、それでも潜在的な力はそれなりにあったのだと、馬車の中でメルラ女史がいっていた。人口はそれなりに多かったし、比較的交流のある街などでは技術力も馬鹿にしたものではなかったのだとか。

だから、まとまるのを待っていた者達は、それこそ必死に働いたのだという。龍が労働を強制したのではなく、指導をする存在の登場を待ちわびていたのだ。乱世には誰もが英雄を求めるというが、それと同じ集団心理だったのだろう。その結果が、山をまるごと消し去って作り上げた、この王都だ。

区画を一つ越えて、たどり着いた。満面の笑みで、振り返った先輩が言う。

「よーし着いたぞ。 ここだ」

「また随分と小汚い店ですの」

「ですの」

フラネルも同感である。フラネルの家よりは綺麗だが、王都の他の店や家に比べるとずっと小さい。

「本当においしいんですの?」

「ですの?」

口々に言ったのは、新人の女子二人。双子で、先に喋る方が姉のシャド。後で言葉をなぞるのが妹のユノだという。黒髪はショートで、瞳も同じ色である。顔の造作は小さく、全体的に猫に似ている。肌は浅黒く、手足も短め。背もかなり低くて、フラネルと同じように、元農民だと分析できた。真偽は分からないが、多分外れてはいないだろう。年はフラネルよりも何歳か下に見える。ただ、女の子らしく、もう白服を綺麗に着こなしている。フラネルなんて、最初などは渡された白服を着るのに随分手間取ったのだ。

後ろに影のように着いてきているのは、フラネルより一つ年下だというアンツだ。無口で、頬の大きな星形の傷が目立つ。大人に対する視線がとても冷たく、体は痩せていて少しびっこをひいている。何も喋らないが、親なり保護者なりに虐待されていたか、村の中で被差別階級にされていたのではないかと、フラネルは見ている。名前を名乗る所しか、フラネルは見ていない。声は聞き取ることが出来なかった。それほどの小声だった。

「正直、凄く美味しいってわけじゃないんだが、安くて沢山食えるんだ。 丁度僕ら見たいな育ち盛り喰い盛りには、一番良い所だぜ」

「何だか必要以上に食い意地が張ってますの」

「ますの」

「ま、まあまあ。 お腹が空いているのは事実だし、まずは入ろうよ」

なだめると、二人は納得してくれたらしく、先輩について店に入る。店は入り口が引き戸になっていて、入ると熱気が外まで溢れ出てきた。一瞬アンツが無言でごねるかとフラネルは思ったのだが、いつのまにか後について店に入ってきていた。

まだ字はさほど読めないので、品書きが書いてあるという札を見てもどうにも出来ない。それは双子やアンツも同じらしい。分かるのは値段くらいだ。それもまだあまり実感がない。

先輩が頼んでくれて、おばさんが運んできたのは、故郷の村でもおやつ代わりに食べるユムという菓子に似たものだった。使い古した油で、余った米粉や麦粉を練って揚げる。安くて美味しい上に腹が膨れるので、子供には人気がある。村長の家では砂糖をかけて食べていたが、流石にそんな贅沢はしたことがない。それが、山盛り積まれている。ユムルムというらしい。名前も似ている。

「今日は僕が驕るから、お金は気にしなくていいぜ」

「ありがとうございます」

「ありがとうございますですの」

「ですの」

「……」

ぼそりとアンツが何かを言ったのだが、殆ど聞き取れなかった。多分御礼を言ったのだろうと好意的に解釈して、ユムルムを一つ手に取る。見た目より重い。手にそれほど油も付かない。

口に入れると、ユムよりずっと美味しいのだと分かった。油が上品だし、衣はしっかり硬くてぱりぱりしている。中身も何か練り込んでいるらしく、味が付いていて、のどごしも良い。文句を言っていた双子も顔を見合わせると、先を争って食べ始めていた。

「追加は自分で払えよ」

「あ、はい」

さりげなく飛んでくる牽制にもめげずに、二つ目を手に取る。噛みちぎって、切れ目を見て悟る。味の正体が分かった。肉だ。おやつに肉がはいるとは、やはり王都は贅沢な所だ。獣肉なのは分かるのだが、正体が知れない。兎肉だろうか。蛙肉だろうか。或いは蛇肉だろうか。まさか大奮発して鶏肉だろうか。値段から言うと、兎肉が一番ありそうなのだが。

四つも食べると、流石にお腹が一杯であった。食事が終わった頃を見計らって、布が人数分運ばれてくる。見ると先輩がそれで手を拭き、皆それに習った。

「同じテーブルに着いた場合、基本的に、一番偉い奴から最初に手を拭くんだ。 お前達みたいに立場が五分の場合は、年齢順に拭くようにな。 此処ならともかく、役所の食堂でもし順番やぶったら寮長の雷が落ちるから、覚悟しとけよ」

「はいですのー」

「ですのー」

「ごちそうさまでした」

「……」

耳を澄ませてみたが、やはりアンツの言葉は聞き取ることが出来なかった。

 

その後は色々王都を廻った。娯楽施設にも連れて行って貰った。風呂は共同制で、専門の風呂屋があるという。男性用と女性用に別れているそうで、寮の側で考えると男性用の方が少し遠いそうである。

道を歩いて気づいたが、極端に貧しい人はそう多くないようだった。人々の表情は明るいし、笑い声も絶えない。何だか村に比べると随分居心地が良い。ただ、石畳はずっと踏んでいると足が痛くなっていけないが。また、異常に大きな家はほとんど無い。どの家も似たかよったかのサイズである。

あっという間に日が暮れて、田舎と同じ夜がやってくる。何着かある白服は旅の途中も洗ってはいたが、実際にそれを着たまま食事をすると汚れも目立つ。丁寧に洗ったので綺麗になり、部屋の隅に干して置いた。窓の外では星が瞬いている。星座は村で見たのと、皆同じだ。

明日は龍王と会うのだという。それから龍官としての仕事が説明されて、今後のスケジュールが分かる。どうなるかはまだ分からないけれど、少しずつ自分の未来が開けていることを、フラネルは感じた。

随分気が楽になってきている。未来はきっと明るいと、いつのまにか思えるようになってきていた。

 

3,龍王

 

陽が昇ると同時に起床。先輩に連れられて寮の庭に出て、全員で体を動かす。体操というそうだ。見よう見まねで手足を動かしている内に、リズミカルなドラムが終わった。首を動かしたり、肩を回したりしている龍官達の後に続いて、食堂へ。

朝食はライ麦のパンとスープだったが、量が多くて暖かく、味も薄かったが悪くはなかった。食事が終わるとすぐに周囲が片づけられ、政務が始まる。

同じ机で食べていたフラネルとシャドとユノとアンツだが、食後には机も動かすので驚いた。見た目通り皆力が無いので机は重かったが、どうにか四人で共同して、周りに従って配置を換える。素早く雑巾掛けが行われ、さっと床が掃かれると、もう其処は仕事場へ早変わりしていた。執務机が壇上に置かれ、書類が持ってこられる。色々短期間で起こりすぎるから、驚く暇もない。

少し休みたいなと思って、連れだって外へ行こうとした四人の襟首が器用に掴まれて引き戻される。先輩だった。

「よーしお前ら、龍王に会いに行くぞ」

「えっ? もうですか?」

「まだお日様が昇りきっていませんのー」

「せんの」

アンツは何も言わず、首筋の辺りをさすっていた。だが、こういう場合、逆らうことは出来ないのだと、少しずつフラネルには分かり始めている。多分双子もそうなのだろう。口を尖らせてはいたが、先輩が歩き始めると、ぱたぱたその後を追った。アンツは無言で歩き始めていた。表情も変わらないので、何を考えているのか良く分からない。

坂を下って、昨日此処に来たときとは違うルートで、龍殿へ向かう。目的地はずっと左手に見えているのだが、それが全然近くならない辺りが悔しい。暫く歩くと、駐車場が見えてくる。相変わらず大きな空間で、こんな朝早くからもう馬車が激しく行き来していた。

立体交差したアーチがあり、そこを通る。馬車の行く大通りを、そこならば回避できるのが嬉しい。どんな事故があるか分からないからだ。アーチを渡ると、駐車場の向こうの巨大な建物もよく見える。人が住む場所ではなさそうだが。

駐車場で思い出す。メルラ女史は別れてから一度も顔を見ていない。

「そういえば、メルラ女史って、どんな仕事をなさっているんですか?」

「あの方は取り次ぎだ」

「取り次ぎ?」

「政務は殆どが龍王の指定した役人が行っているんだが、そのお目付と、龍王との言葉の取り次ぎをしているんだ。 龍官の中じゃ中堅の仕事だな。 他にも色々仕事があって、新人龍官の見定めもあるんだが、まあ、説明の時に纏めて話す」

何だか少し楽しみだ。

大きな建物を横目に駐車場を横切ると、やがて山が至近に見えてきた。寮前の坂からは見えなかったのだが、此処からだと大きな穴が見える。あれが龍王の住処なのだろうか。そうだとすると、物凄い巨大さだ。村一つ分ほどもある巨体だとは聞いたが、穴のサイズからは確かにそう思えてくる。

穴の前には大きな道が整備されていて、時々人が行き交っている。警備の兵士らしい人影もある。一番多い人影は龍官らしく、遠目にも白い。他はやたら豪華な服を着ているので、多分他国の貴族だろう。

また坂が始まる。双子はむくれていたが、まあこれは仕方がないだろうと思って、フラネルはえっちらおっちら歩いた。途中一回兵士に呼び止められ、先輩が対応。ボディチェックもされたが、当然何も出てこない。双子のボディチェックは女性兵士が行っていた。どっちも手慣れていて、すぐにパス。

「分かってると思うが、龍王の所には私物持ち込み禁止な。 武器になりそうなものももってのほかだ」

「やはり、龍王を守るための処置ですか?」

「いや、むしろ持ち込もうとした奴を守るための処置に近いな。 龍王は感覚が人間の比ではないし、記憶を含めた思考も読めるらしいんだ。 もしある程度以上の敵意や殺意を隠していたときは、そのままバリバリ喰われちまうそうだぜ」

なるほど、それが村に恐ろしげな話として伝わったという訳か。うわさ話の原典が此処にあった。

時々通りかかる兵士に頭を下げて、坂を上る。見かけよりもずっと長い坂だ。何度か龍官にもすれ違ったので、頭を下げる。二歳くらい年上らしい女性が、笑顔で頭を下げ返してきた。多分先輩にだろう。多少長面で、穏やかな雰囲気の綺麗な人だ。

「カーレット先輩、知り合いですのー?」

「ですのー?」

「あ、ああ。 同期の奴だよ」

「紅くなってますのー」

きゃっきゃっと楽しそうに双子が言う。この分だと、先輩は随分好かれているんだろうなと、フラネルは思った。

洞窟の入り口にたどり着く。中からは独特の臭いが漂い来ていた。入り口には階段があり、例の照明器具が足下を明るくしている。手すりは随分綺麗に整備しているが、肝心なのは雨よけが無いことだ。この分だと、階段の掃除は随分大変そうである。

天井がやたら大きな洞窟である。しかも直線的に下に続いている。下からは生臭い風が吹き出し来ており、しかも行ったり戻ったりしていた。嫌な予感がする。

不意に段差が無くなる。巨大な階段の底には、非常に大きな空間が広がっていた。地面は土。多分入り口以外は、補強剤を除けば直堀だ。随分しっかり固まった土だが、それも当然であった。

見た。真っ正面から、それを見てしまった。

闇の中に、煌々と光る目二つ。巨大な、巨大すぎる塊の中、それは光り輝いている。さっきの風の正体が分かる。この巨大な影の吐息だ。大きいなんてものじゃない。この巨大な洞窟が、少し狭く感じるほどだ。

目が慣れてきて、闇の中で蹲るそれの、龍王の形が分かってきた。全身は蜥蜴に似ている。背中からは巨大な翼が生えており、だらりと地面にぶら下がっていた。翼は蝙蝠のそれに似ていて、体と同じく深緑だ。首は長く、頭部は小さいと行っても、牛や馬を一のみにしそうな程に大きい。乱杭歯が口の脇から見えている。そして全身は、一つ一つが兵士の持っている大きな盾ほどもある鱗に覆われている。あれはタワーシールドと呼ぶとか聞いているが、それにしても桁違いな大きさの鱗だ。

「ほら、頭下げろ」

「は、はいっ!」

「六級龍官カーレット、ただいま参上いたしました。 龍王様、この四名が、新たに赴任した龍官でございます。 以後お見知り置きを願います」

「うむ……」

多少退屈そうに、荘厳な声が頭に直接響く。耳からではなく、声が頭に直に入ってきた感じだ。双子などはフラネルよりもずっと驚いたらしく、小さく悲鳴を上げて、頭を抱えて蹲ってしまった。

龍は洞窟の床に、腹這いになっている。伏せていると言うよりも、格好から言ってそれが一番楽なのであろう。爬虫類と違って、体の脇ではなく下へ足が出ているから、動物の種類としては蜥蜴とは違うのかも知れない。その足も、信じられないほどの巨大さだ。爪の一つ一つが、人間よりも大きいだろう。頭の先から尻尾の先まで考えると、フラネルを70人か80人、横に並べたくらいの大きさはありそうだ。

顔は物凄く怖い。瞳孔が縦一筋に入っているため、目が怖い。龍王は口を一切動かさず、やはり頭の中に直接語りかけてきているようであった。その証拠に、皆困惑を顔に貼り付けている。

「多くは期待せぬ。 ただ職務を丁寧にこなすがよい」

「ははーっ。 有り難きお言葉にございまする」

「うむ……。 それでは、退去するがいい」

茫然自失としている双子を促して、先輩が立ち上がり、もう一度深々と龍におじぎをした。龍の背中には人間を串刺しに出来そうな棘が、背骨のラインに沿ってずらりと並んでおり、それがまた怖い。

洞窟の脇には溝が掘られており、見ると水が流れていた。促されて階段を登る。後ろから龍の息が追ってくる。生臭いそれは、物凄い風量で、双子は白服がめくれないように足の辺りを抑えていた。

洞窟を出ると、そこでは太陽が当たり前のように輝いている。思わずため息が出てしまった。

「おっかなかったですのー」

「ですのー」

「そう、だな。 龍王様はおっかない方だな。 ただ、最初は無礼があるのも仕方がないけれど、今後もあんな調子じゃ困るからな」

「はい。 それにしても、本当に大きいんですね、龍王様」

それが忌憚無い感想だった。尊敬とか畏怖とかよりも先に、まずその驚きが染みついてしまった。妙な話だが、フラネルにとって、龍王の第一印象は大きい、だったのである。これが一般的な反応かどうかは自信がない。

「ん、ああ。 話によると、大体80レレあるらしいからな。 しかもあの体で空を飛ばれるってんだから、本当にすげえよ」

「80レレ……! あの方を、洗うんですね」

「ああ。 当番交代制でな。 最初は体の脇や、足の爪から。 一番偉くなると、お顔を洗わせて貰うんだ」

僕はまだそこまでの権限がないけどなと、カーレット先輩は言った。

そのまま山を下りて、駐車場を通り抜け、寮に戻る。その途中で、山に向かう龍官の集団と会った。これから龍王を洗うのかも知れない。何だか凄い。どんな風に洗うのか、物凄く興味がある。

寮に戻ると、奥の部屋に通された。部屋の戸には、勉強部屋という表札が着いていた。中では三級龍官というさっきのおばさんが、にこにこの笑顔を浮かべたまま、椅子に座っていた。黒板やチョークが用意されており、六つある席の一つに座らされる。それを見届けると、一礼してカーレット先輩は出ていった。

本格的に、これから龍官としての仕事が始まる。それを感じて、体は嫌が応にも緊張した。

 

最初はメルラ女史に説明されたこの国の歴史から始まった。ざっと歴史が説明された後、三級龍官は続けての説明に移る。

「龍官は七官位に別れています。 いずれも龍王が指名することによって着任し、それぞれに仕事が決まっています」

龍官についての説明がまだまだ続く。読み書きを覚えるのと並行し、まずは基礎的な仕事の知識を覚えるのだという。さっき帰り道でカーレット先輩が少し話してくれたが、龍官は慢性的に若干手が足りないそうで、余剰人員と呼べる人間はいないのだそうだ。ちらりと横を見ると、双子は退屈そうにしていた。

「現在、王都に着任している龍官は全部で三百名ほど。 龍王のお体の洗浄から、洞窟そのものの維持管理、そのお言葉を役人との間で取り次ぐ者まで、全て含め皆龍官と呼ばれています。 この国の龍官と上級の役人は全て龍王様がお選びになるので、人員の変動は龍王様次第です」

実感がない。というよりも、あの巨大な龍王がわざわざ人間を選抜したり、更にどうしてか自分を選んだりと言った事をしたのか。

「なお、この国の上級役人は、毎年龍王に必ず拝謁する事を義務づけられています。 もし不正を行っている場合は、その場で罪がばれてしまうそうです。 龍王は心を読む力を持っておられます。 くれぐれも、御前で失礼なことを考えないようにしなさい」

質問はありますかと言葉が続くが、質問などしようがない。

続けて、具体的な仕事の内容に移った。

「貴方達七級龍官は、龍王様の糞尿の掃除と、おみ足と尻尾の洗浄から始めます。 糞尿は大体一月に一度ほど、側溝にして頂けるので、今では外に搬出する必要が無くなっていて、衛生的です。 その代わり、側溝がつまらないように、常に水の流れの管理が必要になっています。 貴方達は六級龍官の説明を受けながら、その管理の仕事をすることになります」

スケールが違う存在だけあって、生理的なサイクルも桁違いであった。一月に一度しか排泄の必要が無いというのは、何というか、人間と根本的に違う存在なのだと、別の方向からも教えてくれる事項だ。

細かい注意に移る。爪の洗い方、尻尾の先は案外繊細な部分だから丁寧に洗うようにとか。更に、龍王は暇つぶしに体を洗っている龍官に話しかけてくることがあるという。その時は失礼の無いよう応対するようにとの説明もあった。

一通り説明が終わると、小休止を挟んで読み書きの勉強。基礎的な挨拶や数字くらいはもう読めるようになっていたので、其処の所はすらすらと進めることが出来た。夕方まで続いた学習が終わると、流石に脳味噌がくたくただった。

明日からは、朝体操の後龍殿に出仕して、早速仕事に取りかかるのだという。夕食を食べた後は、どう自室に戻ったのか覚えていない。ぼんやりしている内に、もう意識が落ちていた。

気づくと夜中だった。照明器具を付けたまま眠ってしまったらしい。布団が暖かい。朝干して出かけて良かったとフラネルは思った。日光を吸い込んだ布団は、一日の疲れを全て取ってくれる。

心地よい夢の中、フラネルは明日からのことを考えていた。

 

3,仕事始め

 

洞窟の奥がこんな空間になっているとは、フラネルは思ってもいなかった。水を回すための水車の制御部分があり、務めている龍官達の集まる広場があり。道具を格納している倉庫があり、龍王に会いに来た他国の貴族のための控え室まである。それらは洞窟の奥、通路になった部分に配置されていた。

元々此処は天然の洞窟ではない。人工で山を作り、その中に掘ったものだ。だからこういう融通は利くのだろうか。或いは龍官の仕事が軌道に乗った頃、後から付け足したのかも知れない。

朝、体操が終わった後、先輩に連れられて来た此処が、それであった。天井は流石に龍王のいる洞窟に比べれば低いが、複数の照明器具が設置されていて、明るい。護衛の兵士達もいる。部屋にはいるとき、寮を出るときに手渡された身分証を見せなければならなかった。

集合しているのは五十名程か。いずれも七級龍官から五級龍官ほどの人間ばかりで、壇上にいる二級龍官がこの場を仕切っているらしい。一応今洞窟内にも一級龍官がいるらしいのだが、其方は今訪れている隣国の貴族の接待で忙しいそうだ。同期の四人で隅に固まり、話を聞く。

壇の脇には大きな黒板が置いてあり、龍王の絵が描かれていた。その何カ所かに○が付けられている。重点的に洗う場所だと解説を受けている。今日は左後ろ足を担当するのだという話であった。

来る途中に先輩が話してくれたのだが、たまに龍王の虫の居所が悪い日もあるそうだ。そう言う日は、相談の末に上級の龍官だけで洗浄をするそうである。下級の龍官だと龍王と話し慣れていないため、更に機嫌を損ねてしまう事があるためだと、フラネルは言われた。

「であるからして、おほん。 今日は龍王様はご機嫌がよろしく、しかも湿度も低くて絶好の御洗浄日和である。 逆鱗の周りは私が掃除するので、特にお顔の洗浄には注意するようにな。 以上である」

話が終わると、全員が一斉に右手を挙げた。慌ててそれに習う。

「今日も一日、龍王様のために!」

「きょ、今日も一日、龍王様のためにっ!」

少し声がうわずってしまった。

倉庫へ行って、道具を貸して貰う。今日は足下なので、移動式の梯子はいらない。寮の仕事場に勝るとも劣らない巨大さを誇る倉庫の奥の方には、車輪の着いた梯子装置が何個も置かれている。体の上の方を洗うときには、あれらを使うのだ。今日は足の下の方を洗うので、雑巾とモップで問題ない。後は手桶が必要だ。

勿論側溝の水を使う訳には行かないので、通路の一番奥、水車管理施設に行って、そこで水を汲む。沢山の歯車が廻っている水車の横を、一筋だけ桶で水が組みやすいように、小さな水路が走っている。

「早くするですの」

「ですの」

「分かってる。 ちょっと待ってて」

双子にせかされて、桶に水を汲む。力仕事はフラネルとアンツでするべきだし、これは仕方がないことだ。桶は大きいので、かなり重いが、力がないと言ってもこういう労働には幸い慣れている。排水溝の上で雑巾を絞って、桶に掛けると、いよいよ仕事場へ。途中すれ違った貴族に一礼して、龍王の所へ急ぐ。到着すると、もう先輩が待っていた。

「おそいぞ。 すぐ始めるからな」

「はい」

先輩は自分の分のモップを持ってきていた。話によると、仕事に拘りのある龍官は、自前でモップを用意する事もあるのだという。先輩もその一人で、このモップはかなり金を掛けて、特注で作ったものなのだとか。

「曲がっている部分、膝や踵、それに足の裏を洗うときは、龍王様に一声掛ければ聞いてくださるからな。 それと、相手は龍王様だ。 くれぐれも敬意を忘れず、丁寧に作業を行うように」

「はい」

来る途中、分担は既に決めてある。龍王は面倒くさそうに足を横に出し、伸ばしてくれた。フラネルの担当は爪。物凄い爪だ。近くで見るとその凄まじさが良く分かる。黒光りするそれは鋭く、人間など掠っただけでボロ雑巾のようになってしまうだろう。戦いの道具だということは分かる。しかしこんなもので、いったい何と戦うというのだろうか。同種の龍か、或いは凶悪な怪物だろうか。

双子は綺麗に連携して、すぐに作業に取りかかる。くるぶしをモップで洗い始めていた。アンツはモップを手に取ると、徐に足の甲を丹念に磨き始める。それらを見てから、水を少し多めに含ませると、徐に爪を磨き始める。

思ったよりずっと抵抗が大きい。すごくざらざらしているのだ。力を入れないとモップが引っかかってしまって擦れないし、かといって力を入れすぎると雑になりそうで怖い。しばらく四苦八苦している内に、何とか爪一つが磨き終わる。こんなに労力がいるとは思わなかった。汗だらけになった額を手の甲で拭う。そうしている内に、龍王が今磨き終えた爪を持ち上げる。そうだ。地面に触れていた部分があるのだ。

龍王の指の下に潜り込む。ふと龍王が力を抜いたら、ぺしゃりと潰されてしまう位置にいるのが恐ろしい。幸い殆ど土は付いていなかったが、磨くと泥水が垂れていて、慌てて雑巾を持ってきてふき取る。見る間に桶は泥水になっていった。無言でアンツが桶を奥へ持っていって、水を取り替えてくる。

二つ目の爪が終わった頃、くるぶしから踵に双子は移っており、アンツは足の甲を半分ほど洗い終えていた。三つ目の爪に取りかかる。龍王は片足を不自然な形で上げている訳だが、殆ど疲れないのか、全く文句を言う気配はない。膝の辺りを洗っている人が、梯子の上で一生懸命モップを動かしているのが、視界の隅に見えた。

モップと言っても、室内掃除に使うものとは根本的なものが違う。見た感じ素材が凄く良いし、振ったときの手に残る感触も良い。触った感触だが、先の部分は取替が可能なように作られているようだ。多分痛んできたら取り替えたり、今後は洗浄用具の手入れの仕事もあるのではないかと、思ってしまった。

力がいるし、肩が凝る。腰を入れて磨くとある程度楽だと言うことが分かってきた。最後に乾拭きしたが、やはり爪は物凄くざらざらしていた。力のかけ方を間違えたら、雑巾が破れるかも知れない。

足の裏を双子とアンツが共同して洗浄しているのが見えたが、足の裏は体と違い、若芽のような鮮やかなエメラルドグリーンだった。どうしてそんな色をしているのかは分からないが、妙に綺麗である。

ふと気づくと、桶はドロドロだった。想像以上に、龍王は汚れていたのだ。何となく、龍王が人間の頼みを聞いた訳が分かった気がした。

鐘が鳴る。顔を上げると、二級龍官が手を叩きながら歩いていた。

「昼だ。 ノルマまで終わった人間から食事に行って良い。 次の鐘が鳴る前には、帰ってくるようにな」

つまり、仕事が遅れれば遅れるほど休憩時間が減る訳だ。それでは必死に成らざるを得ない。生唾を飲み込むフラネルに、梯子を持ち出して膝関節の辺りを洗い始めていたカーレット先輩が声を掛けてくる。

「心配するな。 お前達七級は、この仕事は午前中一杯だ」

「良かったですのー」

「ですのー」

「その代わり、これが終わったら、食事を挟んで勉強だけどな。 早く読み書き学問ものにして、一人前になるんだな」

希望が見えたら、再び不幸のどん底へ。フラネルも肩を落としたが、双子の落ち込みようと来たら無かった。がっくり地面でうなだれて、ユノに到っては地面を指先でかき回している。

「ほら、どっちにしても、龍王様は足を上げたままでいらっしゃるんだ。 急いですまさねえと、失礼だぞ」

「はい!」

「あんたって、そんなに勉強が好きなの?」

「好きなのー?」

モップを急いでかけ始めるフラネルを、双子がちょっと恨めしそうに見上げていた。無言でアンツが水を代えに行く。次はフラネルが行かなければならないだろう。

今七割と言う所だ。さっさと残りを仕上げてしまうべきだ。ぶつぶつ言いながらも、双子は再び仕事に取りかかる。おなかがぐうぐうなり始めた頃には、どうにか洗浄が終わった。

控え室に行くと、体中が痛かった。めい一杯肉体労働をしたのだから当然だ。顔には泥水がかかって、それが乾いた跡があった。用意されているぬれタオルで顔を拭く。アンツは上手く体が拭けないようなので、横で色々アドバイスしてやる。無言で頷く少年は、見かけと裏腹にとても素直なのかも知れなかった。

「あーあー、もうくたくたですのー!」

「でーすーのー!」

椅子に並んで座った双子が、裸足をぶらぶらさせながら大声で不満をぶちまける。こういう所は、女子だから許される行為だろう。男子が同じ事をしたら、確実に白い目で見られる。苦笑しながら視線を逸らしたのは、白い双子の足先が視界にどうしても入るからだ。

農作業をして生きてきたフラネルだから、素足など見慣れているが、それはあくまで土にまみれている状態だけだ。多分農民だろうと思っていたのだが、その割りに双子の足は随分細くて白い。ひょっとすると、都会出身かも知れない。しかし、妙に雑務には慣れているのが気になる。もっとも、龍官になった人間は訳ありばかりのようだから、何があっても不思議ではないだろう。そういえば、足首に目立たないが、妙な痣がある。足輪か何かがはまっていたかのような。詮索は良くない。思考をうち切る。

顔を手をぬれタオルで拭いて生き返った所で、靴をはき直す。白服はすっかり汚れてしまった。三着では足りないだろうと思う。最初のお給金の使い道がまた見付かった。寮をの自室の設備を充実させるだけではなく、こういう所でも力を入れたい。

「随分熱心だな」

「ひわっ!?」

突然響いた声。吃驚して椅子からずり落ちる。何事かと驚く双子とアンツに適当にごまかしながら、フラネルは椅子に座り直した。声の主は誰だか分かっている。龍王陛下だ。

「新人にしては随分と意欲的ではないか。 万物の霊長を自称する人間の中には、現実にそぐわぬプライドばかりを肥大させ、人間ではないのに人間の上に立っているとか言う良く分からぬ理由で余に敵意をむき出しにする者も少なくないというに」

「そ、それは。 多分……何だか、仕事をしてるって、実感があるからです」

「ふむ」

この仕事は楽しい。村での仕事とは偉い違いだ。

村でフラネルは邪魔者だった。仕事はしていたが、それは純粋に自分が生きるためだけのものであり、搾取は日常茶飯事だった。おじ夫婦には日常的に虐めを受けていて、拷問まがいの暴力を振るわれたこともあった。狭い田畑がそんなに欲しいのかと、フラネルは苦痛の中思った。そして絶対に貴様らなどにくれてやるものかとも。

「まだまだ辺境では辛い生活をする者が少なくないようだな。 ここ二百年程で随分改善させたのだが」

「はい。 正直、村にはもう帰りたくありません」

「それならば、龍官として地位を登り詰めよ。 弱者の苦しみを知る者が社会の上層に立てば、その社会そのものを浄化更生することが出来るからな」

……それは、後になってみればなるほど、意図の掴めない言葉だった。龍王は自分を激励していたのか、それとも健全な社会体制を作るための布石と思って、フラネルを調整していたのか。

体を綺麗にしてから、洞窟を出る。もう一度龍王に礼。双子も少し神妙な顔をしていておかしかった。ひょっとすると、双子も何か龍王と話をしていたのかも知れない。アンツはいつもと変わらず氷のように無口で、何を考えているどころか、何を感じているかも全く知れなかった。

昨日と同じ店で昼食。同期の人間が少ないというのが、却って不思議な連帯感を作ったのかも知れない。別々で食べても良いだろうに、不思議と四人同じ店に向かい、同じテーブルで食べる。

多分、四人とも出身地でまともな境遇になかったからだと、それは簡単に分析できた。

午後は勉強だ。村には絶対戻りたくないと言う気持ちは依然強い。それ以上に、龍王に言われた言葉が、フラネルの心を圧迫する。

まだまだ、最初の一歩に足をかけたばかりなのだ。今後疾走できるか、転ぶだけなのかは、フラネルの心がけ次第だった。

「フラネルさん」

不意に知らない声がしたので、驚いて辺りを見回す。誰も声を掛けてきていない。となると、答は一つしかない。

「えっと……アンツ?」

無言でアンツは頷いた。驚いているのはフラネルだけではない。ユムルムを囓っていた双子もである。

「龍王様と、話した?」

「う、うん」

「……俺、少しずつ、喋ることができそうだ」

少し嬉しそうに、アンツはそう言って、俯いた。

だがその日、それ以上アンツの言葉を聞くことは出来なかった。少年に龍王が何を言ったのかは、結局分からなかった。

 

4,新人の道

 

仕事が楽なのは最初の内だけ。そう先輩に釘を差されていたことが、一月もした頃には身に染み始めていた。

仕事は覚えると、非常に短い間隔で追加された。洗い方を覚えた日の次には、洗浄用具のチェックについて教え込まれた。夕方まで勉強した後、また龍殿に向かって、洗浄作業後の用具を全てセットするのである。梯子などは改良に改良が重ねられているのだが、技術が稚拙だった頃には転落事故を起こしたこともあるらしく、念入りにチェックするようにと言われた。他にも、寮での洗濯の手伝い、物資の搬送、書類を書く紙の受け取りなど、やることはまだまだ山のようにあった。

龍王を洗浄するという点では、龍官の階級の上下に別はない。その代わり、その他の部分では、階級が上がれば上がるほど責任が大きくなり、その代わり徐々に体を使わない仕事が増えてくる。

結婚出産で龍官を休む人間はいても、辞める人間は殆どいないのだという。それはその仕事量のバランスが、丁度良い具合で取れている所が大きいのだとか。結婚を考えるくらいの年になると、必然的に五級龍官程度になっているそうで、そうなると家を自前で購入できるくらいの収入を得ているそうだ。家さえ買ってしまえば、後はシッターやメイドを雇って家事関係を任せ、今度は仕事場になった寮へ出かけていけばいい。女性龍官は若干大変だが、収入が元々大きいので、人手を使って家族の世話を任せることが出来る。そうやって、皆上手く龍官を続けていくのだそうだ。

学べば学ぶほど、色々なことが分かってくる。龍官の世界は、フラネルが思っていたより、ずっと広がりが大きいのだった。

夕方。

簡単な数学を勉強し、四則演算を使いこなせるように模擬試験を散々行われて、流石に頭が疲れていた。龍殿に戻った新人四人は、移動式の梯子の整備に取りかかっていた。倉庫の奥に、整備用のスペースがある。十二台ある梯子を、其処へ運び込んで一台ずつチェックしていくのだ。

梯子の下部には滑車が着いている。まずは其処のチェックからである。男子二人で押して、整備スペースへ。これが重くて、骨が折れる。汗を掻いて、腰を使って押す二人を、女子が手を振ってリードする。

「オーライ、オーライ! こっちですのー!」

「急ぐんですの! ノルマは三台ですわよー!」

二週間目くらいからだろうか。今まで姉に追従するだけだったユノが、自分の言葉を喋るようになってきたのは。これがどうしてなのかは分からないが、ひょっとすると龍王との会話の影響かも知れない。自分だけが龍王に話しかけられている訳ではないのだ。それは皆の様子を注意深く観察していれば分かる。勿論新人だけではない。一度などは二級龍官が仕事前の説明中に話しかけられたらしく、一瞬だけ説明を停止した事があった。慣れているので、誰もそれには何も言わない。

腰を入れて、梯子を押す。今手入れしているのは、長老とあだ名を付けられている一番古い梯子だ。どれもサイズこそ微妙に違うものの、作りは同じだから、余計に痛みがよく目立つ。

どうにか整備スペースまで押し込む。押してみて良く分かるが、車輪を始めとした可動部分の痛みが酷い。交換となると、今度は先輩を呼んで大人数で行うか、或いは新しい梯子の購入を考えなければならない。それに対して梯子部分は、見た目ほど痛んでいない。木は古めかしいのだが、埃を拭けばどうにでもなるし、強度もしっかりしている。腐ってもいない。充分に体重を支えられる。

車軸をハンマーで叩いてみると、カンカンといい音が帰ってくる。強度が高めの木で造り、金属で補強した車軸については、まだまだ現役で行ける。問題は車輪だ。多分車軸との接合部がさび付いてしまっている。外して掃除するとなると、更に多くの人手が必要になってくる。

逆Vの字の形をした梯子は十メートルほども高さがある。勿論これが作業中に動いてしまっては致命的なので、六輪を一度に固定するストッパーは丁寧に作ってある。身長ほどもある巨大なレバーを体重で倒して、更にグリップに噛ませて固定するのだが、歯車を用いた非常に高度な仕掛けが施してある。最初に見たとき、どうやってこんなものを作るのか、フラネルは真剣に悩んだほどだ。今は慣れているので、ただの技術として認識できる。そのストッパーの痛みも酷い。

「ストッパー、掛けてみて欲しいですの」

「はいはい。 ちょっと待ってね。 アンツ、手伝って!」

ぶら下がるようにして、ストッパーのレバーにもたれかかる。レバーは物凄く硬いので、手も足もこれをやると痛くなるのだが、今の内に慣れておかないと行けない作業だ。ギュッ、ギュッと音を立てて押し込んで、最後に一気合い入れてグリップに噛ませる。これだけでかなりの重労働だ。息が上がってしまう。呼吸を整えながら、フラネルは地面に座り込む。シャドが出してくれた、冷たい水を染みこませた手ぬぐいが気持ちいい。

一仕事終えた男性陣を前に、双子は梯子を押したり退いたりしていたが、やがて肩をすくめて首を横に振る。

「駄目ですのよ。 固定されていませんの」

「……グリップが、上手く車輪を固定していない、んだと思う」

「そうなると、もう専門の修理を呼ぶしかないよね。 ちょっと僕らの手には負えないよ」

「これを見捨てる、の?」

少し寂しそうにアンツが言った。古いものにこの少年は妙な愛着を見せる。

「今日の作業で、長老使われてたんでしょ? 固定できないのなら、どうやって」

「作業している向こうがわで、私達と違う七級が抑えて、それでやってたみたいだけれど」

「それで人手が取られてしまっていたから、上の方の人達は良い顔をしていなかったようですの」

「無理もないよね。 慢性的に手が足りないのに」

戦力は何でも用いるという風潮があるのが、今の龍官の現実である。一番下っ端であるフラネルもそれは感じる。流石に洗浄の仕事を兵士達に手伝わせることはないのだが、グレーゾーンの仕事には、かなり役人や兵士の手を借りているのだ。時には民間人の手を借りることもある。寮で出る洗濯の一部は、外部業者に委託している程なのだ。

そんな状況だから、この梯子を修理しなければならないのだ。先輩達を呼ぶのは最後の手段となる。先輩を呼んだら、一発で事態が解決、また梯子を使えるようになった、等という状況だけは避けなければならない。一月仕事して、少しずつだがここの仕事の意味が分かってきたからだ。

「油を差してみる?」

「もうやってみましたの。 駄目でした」

何時の間に。ちょっと驚かされた。双子は最初フラネルが思っていたよりも、ずっと手際がよい。しかし油を差して駄目だと、錆ではないのかも知れない。錆ではないとすると、もっと質が悪い事態しか思いつかない。

「そうなると、車軸、歪んでいるかも知れない、ね」

「もしそうだとすると、どうにもできないかもしれない」

「もう少し調べてみましょうよ。 このまま諦めるのはいやですの」

「私もいやですの。 折角だし、四人でどうにかしてあげたいです」

ドアが開いた。会話を中断して其方を見ると、兵士が巡回に来たのだった。照明器具で此方を確認すると、一礼して倉庫を出ていく。巡回の時間は決まっている。かなりやばい。下手をすると、このままでは寝る時間が無くなってしまう。夜更かしは危険だ。翌朝の仕事に、もろに響いてくる。そして龍官の先輩達は、手抜きを見逃してくれるほど甘くもないし優しくもない。

年齢から言っても、フラネルが四人のリーダーのポジションになってくる。四人の意志は同じであるが、しかしそれが仕事のためになるかきちんと考えないと行けない。悲しい話だが、場合によっては四人の意志を曲げる方へ行かなければならない。

「自覚が出てきたな」

「えっ? は、はい」

「ならば余からヒントをやろう。 それが何故まだ捨てられていないか、考えてみれば良い」

不意に頭に入り込んできた龍王の言葉。ぽかんとしているのはフラネルだけではなかった。全員が同時に考え込む。

意味は分かった。つまり、この梯子はまだきちんと活用できるのだ。やり方次第では。では、何故今日は臍を曲げている。車輪は硬い。ストッパーはかからない。油を差しても変わらない。

四人で穴が空くほど梯子を見つめる。長老に感情があったら、赤面していたかも知れない。

新人ならではの不慣れな作業。しかし、連帯感だけは本物だという自信はある。

この四人なら、きっと欠点を補い合えるのだという自信もある。

ならば、きっと解決策を見つけることが出来る。

「大丈夫。 僕たちなら出来る」

フラネルの口から、自然にその言葉が漏れていた。四人頷き、さっと長老の周囲に散る。もう一度可能性を細部から点検する。何か見落としているかも知れない。諦めていたら、それも見付からないだろう。

「! これ、は」

最初に声を上げたのは、アンツだった。

 

ノルマ分の梯子の整備が終わった頃、カーレット先輩が倉庫に入ってきた。手には袋を提げている。お夜食かも知れない。丁度双子が靴を脱いで、足を拭き始めていた。フラネルも腰を落として、うなじを濡らした手ぬぐいで拭いてリフレッシュしていた所である。これは、お給金で買った白衣を、更に追加しなければならないだろう。

「おーう、おまえら。 終わったか?」

「今、丁度終わった所です」

「先輩、それなんですのー?」

「ユムルムですのー?」

共通の好物があるというのは、やはり連帯感を強くする。先輩は太った顔を、笑みに歪めて言う。

「そうだよ。 腹減ってると思ってな、包んで貰ったんだ」

「わーい! 先輩、大好きー!」

大喜びした双子が、袋をひったくるようにして取って、四人で分け合って食べる。先輩は長老を見ていたが、笑顔のまま言う。

「おまえらのことだから、長老を放ったらかしって事はないよな? どうした?」

「はい、実はちょっと傾いてたんで、ハンマーで叩いて微調整しました」

「! 自力で、気づいたのか」

そう言って貰えると誇らしい。四人が一致団結しなければ、多分見つけることは出来なかっただろう。フラネルはそれを可能にしてくれた、龍王の後押しに感謝していた。

要は、長老は少し傾いていて、それが動きの悪化を招いていたのだ。多分車輪の方の劣化が原因なのだろう。そこで、車軸をハンマーで叩いて微調整したら、気持ちが良いほど動くようになった。後はストッパーなのだが、これは何のことはない、止め方にコツがあったのだ。最後に噛ませるときに、わずかに力を抜く感じで、綺麗にストップがかかった。昨日使っていた人達は、どうしてかこれを知らなかったのだろう。

カーレット先輩を呼びに行かなくて良かった。これで長老はまだ頑張れるだろう。人の命を支える道具だから無理は禁物だが、それでも二年は固いはずだ。

先輩は少し表情を暗くして、長老を撫でながら言う。

「僕も新人の時、先輩から長老を任された事があったんだ。 その時はどうしても上手くいかなくて、翌日先輩に素直にあやまってな。 そしたら先輩が一瞬で直してよ、あの時は悔しかったぜ」

なるほど、それなら驚く訳だ。先輩に対する評価がどうこうという訳ではない。フラネルは何だか、胸が熱くなるのを感じた。

「おまえら、いいチームだぜ」

「ありがとう……ございます」

「それと、もう夜中だ。 もう帰って寝た方がいいな」

高揚も吹っ飛んだのは言うまでも無いことである。

体中くたくたに疲れきっていたから、寮に帰り着くのも一苦労だった。アンツなどはずっと眠そうにしていたし、双子などは半分居眠りしながら歩いていた。

ベットに潜り込むと、照明器具をいじる暇もなく落ちてしまう。だが幸せであった。充足していた。とても気持ちが良かった。

決して自分から切り開いた道ではない。引きずられて乗せられた道だ。だが、その道の上を自主的に進む事で、フラネルは非常に短期間に成長していた。あの村の生活とは、得られる経験の密度も質も違いすぎる。あの村の一年が、此処での十日にも価しないだろう。

フラネルは夢を見た。ずっとこの生活が続けばいいと思ったから、そんな夢を見たのだろう。老人になっても七級龍官のままだった。同じように七級龍官のままの仲間達と、あれこれ工夫しながら龍王の洗浄と、さまざまな雑務に当たり続ける。それが絶対にあり得ないのは分かっている。

今後仕事になれてくれば、引退したりドロップアウトした人間の代わりが入ってきて、経験を積んだフラネル達は地位が上がり、下を指導していかなければならないからだ。体だって今とは確実に違ってくる。勉学を重ねていく内に知識も増えていくし、生理的な面でも変わっていく。結婚して子供だって欲しくなるだろうし、寮を出て家に住みたくなるかも知れない。家事の負担を減らすために、そのうちメイドや執事だって雇うだろう。

だが、今は間違いなく幸せだった。全身泥のように疲れ切っているというのに、である。

気づくと、もう朝。だが若い肉体が、豊富にとることが出来るようになった良質の栄養が、体をもう甦らせてくれている。

大きく伸びをしたフラネルは、今日も頑張ろうと思った。朝の気持ちいい空気が、肺に流れ込んできた。

 

5,新人の終わり

 

朝、目が覚めると、ベランダに蝶が来ていた。青紫の、大きな翼を持つ美しい蝶だ。窓を開けて外に出る。植木鉢の花を目当てにやってきたらしい。脅かさないように静かに顔を引っ込めて、布団をどうしようかと少し思案する。しかし、蝶は僅かに目を離した間に、移り気な天気のように余所に飛んでいってしまっていて、悩む必要はなくなっていた。布団を干す。今日もいい天気だ。

覚えれば覚えるほど、新しい仕事が出来るようになってくる。仕事そのものも、楽しくなってくる。フラネルは心身共に充実していて、毎日が楽しくて仕方がない。

七級龍官になっておよそ一年。季節は巡り巡って、また春がやってきていた。文字は完璧に読めるようになった。書くのはまだまだだが、読みの認定試験はパスしたので、これでまた出来る仕事が増えた事になる。

龍王の洗浄についても、スキルが上がってきた。足の洗浄はもうほぼ行けるようになってきたので、そろそろ腹の洗浄を任せて貰えるかも知れない。腹の洗浄は、兎に角位置的な問題もあって難しい。場合によっては龍王に立ち上がって貰って、足下の空間に梯子を入れて洗いに行かなければならないのだが、照明も使わなければならないし、非常に難しいのが見ているだけで分かる。その前に尻尾の洗浄へ行く可能性もある。尻尾の先の方はかなり難しいのだと、既に体験者であるカーレット先輩から聞いている。

もうフラネルは新人ではない。フラネルの後に二人、龍官が入ってきている。同じ七級だった龍官の内、半分が六級になっている。同期の三人はまだみんな七級なので多少気が楽だが、それもうかうかはしていられない。

六級に上がりたいかと聞かれれば、それはイエスだ。ずっと七級のままがいいかと聞かれれば、それもイエスと応えてしまうかも知れない。

それくらい、フラネルは今の境遇を気に入っていた。

朝の準備をし終えて廊下に出ると、欠伸をしながらシャドが歩いていた。少し遅れて、ドアを眠そうなユノが開ける。アンツは結構しっかりしているので、多分この時間、既に顔を洗い終わって食堂だろう。

一階へ下りると、案の定アンツが待っていた。いつものように四人固まって座り、それぞれめいめいに配給食を取ってくる。ここの食事は決して悪くないのだが、そろそろたまに違う朝食をとってみたいという欲が湧いてきたのも事実。その場合は事前に申請して、自前で朝食にする事も出来る。ただし、スケジュールは周囲にあわせなければ行けないので、その分早起きしなくてはならなくなってくるのだが。七級の内は止めた方がいいだろうと、先輩にも言われている。

「ねえねえ、フラネル」

「なに? シャド」

「噂で聞いたんだけど、先輩結婚するらしいんですの」

思わず吹き出しそうになる。咳き込むフラネルに、今度はユノが話しかけてくる。

「知らなかったんですの?」

「知りませんでした。 というか、相手は?」

以前すれ違った同期だという女性が、先月結婚したので、その線はないだろう。カーレット先輩は、五級龍官につい最近昇格したが、そんな話が出ているとは夢にも思っていなかった。後輩の面倒見が良い分、異性関係が極めて希薄だったからだ。双子が側にいるから、どうしても恋愛関係の話や、ゴシップネタは耳に入ってくるのだが、それでも初めて聞く。視界の隅で、同期と食事をしている先輩を確認。シャドの言葉に耳を傾ける。

「それが良く分からないんですの。 龍官でもないようですし、役人でもないって話ですし」

「かなり綺麗な人でしたの。 遠目に見ただけですけれど。 ただ、随分幼いようでしたけれど」

「先輩はいいひ、とだから、もてるのも、無理、ないな」

不思議に途切れる喋り方で、アンツが言う。彼が極端に無口だったのは、その喋り方が原因だと、今は知っている。両親がいない彼は、誰にも教わらず独学で言葉を覚えた。覚えたには覚えたのだが、どうしても発音にはおかしな点が少なくなかったのである。結果、彼は大きくなればなるほど、激しい虐めを受けるようになった。特に喋り方は虐めのネタとなり、世話を受けていた叔母の家では、人間だと思われていなかった。龍官にならなければ、折檻と栄養失調で今頃この世にいなかっただろうと、アンツは何ヶ月か前に、寂しげに話してくれた。少しずつ直してはいるようなのだが、まだまだおかしな発音やアクセントは減らない。今後も継続的な努力が必要だろう。ただ、みな似たような環境出身であり、龍王の的確な(向こうにとっては暇つぶしなのかも知れない)アドバイスを受けられる環境が、きっと彼を完全に立ち直らせてくれるだろう。

ああでもないこうでもないと話している内に、体操の時間がやってくる。最初はたどたどしかったが、今ではすっかりスムーズに動ける。今日のスケジュールは昨晩の内に把握済みだ。体操が終わると、誰が言い出すでもなく、すぐに龍殿へ向かう。

噂をすれば影が差すと言うが、途中引っ越し屋とすれ違った。荷物運び用の大型馬車が、坂道を揺れながら通り過ぎていく。寮をこうしてまた一人巣立っていく訳だ。

後で先輩に少し話を聞こうかなと思っている内に、駐車場にさしかかる。隣国の王が今日は来ているはずで、一級龍官は全員が接待に出払うことになる。下っ端のフラネルはあまり関係がない。龍王は同格の龍が訪ねてきた時以外は、体を洗わせたまま客と対処するので、いつものように洗浄を行うだけである。流石にそう言うときに排泄はしないようだが。駐車場を見ると、非常に目立つ六頭立ての巨大な馬車が停まっていた。多分アレだろう。貴族のものらしい馬車も六台停車している。龍官は龍殿で接待だからまだ時間が少しあるが、役人達はもう既にてんやわんやだろう。

なじみの坂を上り始める。道の周囲は、背の高い木ばかりなのだが、これが暗殺用に近づく者を発見しやすくするためだと聞いている。灌木が多いと身を隠しやすいのだそうだ。もっとも、龍王の暗殺に成功するとは思いがたい。思考を読む上に、人間の武器では傷付けることなど不可能だろう。敏感だとされる箇所はあるが、どんなに洗浄しても鉄より固く、龍王の血を見たという人間はいまだいないとも聞いている。

龍殿に入る。龍王に礼をして、奥へ。集会をさっと済ませる。やはり話題は隣国の王が来ることであった。横目で見ると、はいったばかりの新人がガチガチに緊張している。フラネルが入ったばかりだった頃、六級に昇格した人が彼らの世話をしているのだが、大変だろうなと思う。もっとも、もうじきフラネルにもその仕事が廻ってくる可能性が高い。

今日は左後ろ足の洗浄と決まっている。倉庫へ向かって、梯子を同じ箇所担当の龍官達と共同して引っ張り出す。排泄日は昨日だったから、今日はそれほど仕事も大変ではない。

双子が担いでいるのは、それぞれ自前で用意したモップとタワシだ。給金で買ったもので、使いやすいように工夫したオーダーメイド品である。フラネルも今度、洗浄作業用に靴を買おうかと思っている。白服と一緒に供給された靴は、使いやすいことは使いやすいのだが、何カ所かフラネルと合わない所があるのだ。以前そこを龍王に指摘されたことがあり、自分でももっともだと思ったので、今ではどう改良すべきかを詰めている。

掃除が始まる。ざらついた爪に、丁寧にモップをかける。これにもコツがあるのだと、四回目くらいに悟った。ざらついていると言っても、それには方向性があり、上手く力を入れるとすっとモップが通るのだ。巨大な爪に、腰を入れて、モップを掛けていく。

「えいやとう、えいやとう、えいやとう!」

威勢良くリズミカルに作業をしているのは、この間六級に昇格した人の管轄する七級チームだ。何でもこの国には珍しい港町の漁師出身者を集めたらしく、作業の時にかけ声をかける事を取り入れている。龍王の許可済みらしく、上位の龍官は何も言わない。つい体が釣られてしまいそうになる。自分のペースを崩すと、やっぱり作業ははかどらない。鼻歌でかけ声に合わせてしまっているのに気づいて、人知らず赤面。いそいそと作業。モップをかけ終わり、さっと乾拭き。双子はいつものように丁寧な連携を見せ、知らない間にアンツが水を清浄に保ってくれている。チームの連携はいつもばっちりだ。

丁寧な作業が功を奏し、かなり時間が余った状況で洗浄が終わった。先輩が満面の笑顔で近づいてくる。

「随分早くなったな」

「はい、有り難うございます」

「じゃあ、いよいよ腹、やってみるか。 ちょっとだけだけどな」

「!」

「こっちだ、着いてこい」

腹と言っても、巨大極まる龍王のそれである。掃除の時は八パートにわけて、四ローテーションで丁寧に洗浄する。今日掃除しているのは、一番尾に近い左側の部分と、一番頭に近い右側の部分。フラネル達が連れて行かれたのは、頭に近い方だった。

砂漠に住む蜥蜴の中は、熱を避けるために足を交互に上げる種類がいると聞いたことがある。龍王には洗浄中それに近い格好を取って貰うわけで、それを考えても時間をあまりかけるのは失礼に当たる。小走りで行くと、悪戦苦闘している六級と五級の連合チームがみえた。六級は洗浄メインの人間と、指導メインの人間に別れる。といっても、どっちが本業という訳ではなく、今日は洗浄、今日は指導という風に、ローテーションで作業を決めているらしい。まだ六級になったわけではないので、詳しくは分からない。

「連れてきたぞ」

「ありがと、カーレット。 悪いけれど、手前のそこ、五人がかりやってくれる?」

「おうっ。 しかし、これはどうしたんだ?」

「寄生虫よ。 昨日くらいに繁殖したらしくって。 もう取り除いたんだけれど、一応念のために、卵が残っていないか調べてね」

これは大変だ。今まで二度あったから、寄生虫掃除が如何に大変かは身に染みて分かっている。まだ七級のフラネル達が手伝いに呼ばれる訳である。

皮肉な話だが、龍王の最大の敵は寄生虫だ。鱗から分泌される特殊な油は殆どの寄生虫をシャットアウトするのだが、一種類だけ、その油を目当てに龍王の体で繁殖する奴がいるのだ。蜘蛛位もあるダニで、噛まれるとかなり痛い上に、非常に強烈な悪臭を放つ糞をする。これが湧いてしまうと、まずダニを全部取り除いて魔法で作った火にくべた後、丁寧に鱗を磨いていって、なおかつ卵があったら潰さなければならない。龍王の鱗は非常に頑強なのだが、卵はその隙間に産み付けられている事があり、針や櫛を使って取り除く作業になるととても煩わしい。

話通り、やはり臭い。双子は自慢のモップが汚れるので、嫌そうな顔をしていた。先輩は寄生虫の駆除にかかりっきりなので、もう駆除した箇所の洗浄をして欲しいのだという。結果割り当てられる四人の担当部署は、今先輩達が作業している所よりもずっと狭い。ただ、梯子を使わなければならないので厄介だ。

すぐにアンツと倉庫に梯子を取りに行き、予備のを持ってくる。皮肉なことにというべきか、残っているのは長老だった。

すぐに長老を龍王の腹の下に運び入れる。梯子を撫でながら、フラネルは思わず声に出して呟いていた。

「頼むよ、長老」

レバーを押し込んで、長老を固定。こつはもう体に染みついている。アンツとフラネルで、まず登ってみる。そして長老の頂上部分に照明器具を引っかけ、腹を照らす。

蛇腹と言うが、龍王の腹部はまさにそれだった。鱗はなく、若干周囲に比べて色が薄い。恐らく装甲も薄いはずだが、それでも人間にはまだ破る手段がないのだろう。巨大な龍王の呼吸に併せて、ゆっくり動いている部分もある。かなり怖い。

「大丈夫ー?」

「はい、何とかやってみます!」

四人が任されたのは、先輩達がやっている所の半分程度の面積でしかない。しかし、梯子に乗ってモップを動かす作業は初めてだ。照らされた龍王の腹部はかなり汚れている。慎重にモップを差し伸べて、拭く。

梯子の踏み台はかなり広く取ってあるから、それにもたれるようにしてモップを動かすと、かなり安全だ。安全ではあるが、しかし怖いことに代わりはない。一拭き、二拭き、三拭き。時間がゆっくり流れていく。呼吸が荒くなる。目眩がしそうだ。

「大丈夫ー?」

「は、はいっ!」

「無理はしちゃ駄目よ!」

同じように仕事をしている先輩の声が、意識を引き戻す。耳を澄ますと、腹の下に入り込んで作業している人は、皆同じように声を掛け合いながら仕事をしていた。冷静さが戻ってくる。なるほど、これは工夫の一巻なわけだ。

黒く汚れてきたモップを抱えて、一度降りる。桶にモップを突っ込むと、つんと鼻を突く臭いがした。本当に臭い。それより問題なのは、汚れが予想以上であることだ。この様子だと、モップを二回洗ったらもう水を代えてこないと行けない。時間のロスが、そうなるとかなり危険な事になる。

もうフラネル達は、駆け出しではない。勉学の時間は少しでも欲しいのだ。出来るだけ、昼食開始時までには終わらせたい。

「桶、二つ用意しようか?」

「うん、お願いするよ」

「任せて欲しいですの」

さっとユノが倉庫へ駆けていく。それなら火事の時に行う桶リレーの要領で、交互に水が供給され、モップを清潔に保つことが出来る。ユノのことだから、用意されている石鹸を桶に入れてきてくれるくらいの機転は利くだろう。ずっと同じ仕事をしてきたのだ。それくらいの期待はしても良いはずだ。

降りてくるアンツと入れ違うように梯子を登る。これは今回は、前線と後方支援が綺麗に別れることとなる。それをピストン運動的に運用すれば、一気に洗浄を進めることが出来るだろう。

モップを動かす。乗ってきたから、スピードが上がってくる。先輩の声に答ながら、一拭き二拭き、もう一拭き。汗を拭おうとした、その瞬間だった。

ぐらりと、体が揺れた。必死に梯子に捕まる。ほんの僅かだけ梯子がゆれて、それに体が吃驚したのだ。心臓が胸から飛び出すかと思った。ゆっくり呼吸を整えていく。モップが地面に激突した。

「だ、大丈夫ッ!?」

「な、なんとか!」

「良かったー。 気をつけてねー!」

下と横から聞こえる言葉に交互に答ながら、フラネルは態勢を立て直す。今回初めて取り組む仕事なのだ。気を抜いては行けない。妙な熟練意識を持っては行けない。まだまだ、自分は新人だと思え。いつでも新人だと思え。

言い聞かせながら、一度降りる。アンツも降りてきた。もし梯子が横倒しになるような事態になれば、死ぬのはフラネルだけでは澄まないのだ。一度深呼吸。

「どうして、私達が、こんな危険な仕事に抜擢されたんですの?」

「それは、私も疑問でしたの」

双子の疑問はもっともだ。フラネルにも分からない。でも、はっきりしていることがある。

「僕たちも、いつまでも同じ仕事をしているわけにはいかないんだ。 上の人達は時々抜けていく。 その人達の代わりが、必要なんだ」

「……この国は、龍王様の存在でやっと成り、立っている脆い国、だしね」

「それで?」

「やるしかない」

短いが、意味を全て込めた。フラネルは円陣を作って、皆と見つめ合った。

意志が、通じる。頷きあう。

此処にいるのは、給金のためではない。龍王とギブアンドテイクの、この国の基幹的な法則を維持するためなのだ。

「二人だと、バランスが取りづらくなるかも知れない。 一人ずつ、交互にいこう。 シャド、ユノ、バックアップよろしく」

「分かりました、ですのー」

「次回は逆のローテーションで行きましょう」

「分かっ、た」

短く、的確にミーティング終了。再びはしごを登る。出来るだけ、同じ失敗は繰り返さない。意志を出来るだけ束ねる。成功率を可能な限り上げる。

丁寧に、丁寧にモップを動かす。アンツと交代するように降りて、モップを洗浄。見る間に異臭が立ち上る桶を抱えて、シャドが走る。ユノが帰ってくるのを見る前に、登る。再び、龍王の蛇腹にモップを付ける。

擦る。擦る。汚れを落とす。

自分の未熟さを擦り落とすように。

 

フラネル達四人は、既に全員が読みをマスターし、書きの勉強に入っている。一番勉強が進んでいるのはアンツだ。一方、算術は双子がとても得意である。この間、シャドとユノが揃って四則演算マスターの資格を取得していた。勉強が嫌いだと言っていたのに、途中からその必要性を感じ、なおかつ面白くなってきたためらしい。フラネルはまんべんなく勉強が進んでいるが、それは可もなく不可もない事でもある。

だから、午後の勉強が終わって一息ついているとき。全員が同時に六級になったという連絡を聞いたときも、驚きはなかった。来るべき時が来たと思っただけである。驚きの代わりにあったのは、一抹の寂しさだった。

今後は、半日だけ洗浄という緩やかなスケジュールは終わりを告げる。七級新人の指導が仕事に入ってくる。勉学も自主的に行わなければならなくなる。何よりも、洗浄部分の範囲が広がるし、仕事もより複雑になる。

チームを組めなくなると言うことはない。だが、その時間は確実に減る。六級の仕事については把握しているが、五級の仕事の勉強だって必要になってくる。若干余裕ができはじめるのは、その五級から。どんなに早くても、四年後だ。それも十代後半で龍官になった人間の話であり、十代半ばのフラネル達なら、多分七年か八年後だろう。

連絡を入れてくれたメルラさんは、既に気を使って退出してくれている。時々訪れる彼女は、人間的にもフラネル達よりもずっと大きくて、素直に上司として尊敬できる人だ。 しばしの沈黙。最初に口を開いたのはシャドだった。

「ね、ねえ」

「うん?」

「雪屋いきません?」

「……いいね。 いこっか」

字が読めるようになってから覚えた単語は幾つもある。雪屋というのもその一つ。ユムルムが美味しい、あの店だ。最近は、頼めば龍殿にできたてのユムルムを届けてくれるサービスをしている事も知った。

シャドも粋なことを言う。明日からは今日以上に忙しくなる。今日は最後の、皆で楽しむ時間だとも言える。幸い今日は、これから仕事もない。

寮から出る。あれほど積もっていた雪も、春になった今はもうない。その代わり、色とりどりな蝶が舞っている。この一年で色々なことを知った。寮の周囲に植えられている木が、緊急時には食用になること。豚が王都では一般的な家畜で、ユムルムの主要な材料である事。龍官の給金は役人よりも若干安めである事。

仲間達の事だって色々分かった。悲しいアンツの過去。双子が飲んだくれの母親に、娼館に売り飛ばされる寸前だった事。龍官がみんな同じような境遇の人間である事。龍王に拾われて、初めて人間らしい生活を知ったと言うこと。だから仕事熱心で、なおかつ忠誠心が非常に高いと言うこと。先輩だってメルラさんだって、みんな同じだ。白い髭の一級龍官の人達だってそうなのだ。

抜け道だって見つけた。先輩も知らない、ちょっと険しいが時間を大分短縮できるとっておきだ。白服を汚さないように斜面を四人で駆け下りる。低い塀を一斉に飛び越えて、短い路地を切り抜けると、雪屋の目の前。若干汚いが、今日も繁盛している。

戸を開けると、立ちこめる熱気。ユムルムを頼むのと同時に、提案してみる。

「今日は、いつもとは違うのも食べてみない?」

「わかっ、た。 面白そうだ」

「記念に残るようなのがいいですの。 私、これ」

「では、私はこっちですの」

当然のように別々の料理を頼む双子。フラネルはちょっと冒険して、低濃度のアルコールを頼んでみた。

運ばれてきたそれは泡立っていて、珍しかった。口を付けてみると、苦くて、全然美味しくなかった。皆に大笑いされたが、フラネルもおかしかった。

これが七級龍官としての、最後の日の、思い出になった。

 

6,新人から新人へ

 

馬車が揺れる。馬車に乗るのにも随分慣れた。御者にチップを払わなければならない暗黙のルールや、護衛についてくる腕利きの騎兵の給金。どんな所に猛獣が出て、どんなルートなら安全か。それらも全て頭に入っている。

これから会う相手が新人だと言っても、失礼があってはならない。最近生やし始めた髭を、妻に貰った手鏡で確認しなでつけ直すと、再び読書に戻る。時々外を見て、自分が通っているルートを確認。

盗賊の危険は、山奥だというのに少ない。龍王の存在が圧倒的な抑止力になっているのだ。賊もある程度の規模に成長すると、確実に潰されてしまうので、この国で長く働こうと言う者はいない。年に何度か、龍殿を飛び立った龍王によって、見せしめに焼き尽くされる連中が必ず出るので、恐怖は他国にまで響き渡っているのだ。それに、龍王のシステム下で育て上げられた役人と兵士達は非常に有能で、ほとんどの盗賊を逃がさない。この国の他国に比べて極めて高い治安は、そうやって維持されている。政治も何処の国に比べても恥ずかしくないレベルで清浄だ。それを維持しているのも、不正を働けば龍王に確実に露見するという仕組みが大きいだろう。

五級龍官になった頃から、フラネルはそういう事情を知り始めた。

四級龍官に昇格したばかりの今では、ごく身近な事として肌で知っている。他国の貴族や役人にも良く会うようになり、接待もする。だから異国の風俗にも触れるし、考え方も知った。二度ほど外交をかねて役人達と異国へも赴いた。

このエルミール龍国は、決して物語に出てくるような楽園ではない。少ないとは言っても社会矛盾はあるし、盗賊だって出る。下級役人の中には小悪党もいるし、辺境の村では愚かしい差別が脈々と息づいている。貧富の差が激しい街もある。ストリートチルドレンだっている。つまり、人間で構成された国家だ。ただ、龍王がその上に乗っているだけである。

だが余所の国に比べれば、随分マシだ。無能で腐った門閥貴族が牛耳る幾つかの国では、民は家畜以下として扱われている。政治もろくにしない責任感のない王が贅沢三昧をし、領土欲に駆られて貧しい者達を無理矢理兵士に仕立てて戦場に引っ張り出し、使い殺しにしている。そういった国に比べれば、どれだけエルミールはましなのだろう。

それがあくまでギブアンドテイクの関係だと言っても、龍王は統治に手を抜かない。手を抜いている所を、少なくともフラネルは見たことがない。

フラネルが龍官になって十数年だが、その間でも解消されつつある社会矛盾は幾つもあるし、役人によるスキャンダルも殆ど発生しない。公金の私物化など、異国の物語だ。それに、仮に向こうが暇つぶしのつもりであったとしても、精神を読みとる力を持つ龍王の言葉は的確に人の心を打つ。フラネルも随分救われた。アンツが笑顔を取り戻したのだって、互いに依存しあうことでしか生きられなかった双子が自立できたのだって。それが要因だ。元の動機はともかく、それで大勢の人間が救われているのである。その成果は厳然としてある。

何度か、人間絶対至上主義の思想を持つ者にもフラネルは会った。彼らの主張は、一様にして龍王による統治は暴力によるものであり、間違っているというものだった。しかし。ならば龍王がいなくなって、この国が以前のように混沌の渦に叩き込まれればいいのかと問うと、まともに応えられた者は一人もいなかった。

龍王が巨大な存在だとフラネルは思う。しかし絶対者だとは思わない。思うのは、このシステムが上手くいっていると言うこと。より多くの人間が、このシステムで幸福を得ていると言うこと。

多分、龍王の要求が、人間と重なっていない所に、この奇跡のバランスが生じた鍵があるのだろう。

考え込むフラネルに、御者が声を掛けてくる。

「フラネル四級龍官、そろそろピッケ村に着きます」

「うむ、ありがとう。 そこで小休止にしよう」

「はっ!」

ピッケ村、故郷の名。

今回の目的地の途中にそれがあると聞いたとき、フラネルは感慨深かった。林を抜けた先に広がる、何の良い思いでもない故郷。馬車が村長宅の前に停まる。卑屈な笑顔を浮かべて出てくる村長は、成長したフラネルの顔を見て硬直した。

「久しぶりですな、村長」

「あ、お、あ、あなたは!」

「フラネルです。 以前は随分お世話になりました」

多少皮肉を込めて言うと、村長は蒼白になって俯く。兵士と御者に休んで良いと告げると、フラネルは自宅へ赴く。法できちんとフラネルの所有権が認められ、一応の維持が行われているはずだ。果たして、家は残っていた。誰かが勝手に住んでいる事もなかった。

だが、中にはもう何もなかった。処分したのだから当然だ。

この家は、もういらない。後で村長に取り壊して、畑にして良いとでも言っておこう。

形だけの歓待を受けた後、村を出る。多分、もう寄ることは無いだろう。帰りは距離的に、この村は素通りだ。

馬車は行く。多分昼までには目的地に着くだろう。七級龍官として指名されたメティルタは、この先の村でもう白服に着替えて待っているはずだ。さぞ心細いだろう。出来るだけ早く行ってあげたい。

フラネルは龍王に随分色々なものを貰った。最近でも、悩んでいると的確なアドバイスを良くくれる。あの方は、王と呼べる存在だと、フラネルは思う。だから、フラネルは貰ったものを新しく龍官になるものへ渡す。自分がそうして貰ったように。今は三級龍官になっているメルラさんがそうしてくれたように。あの人も酷い境遇から這い上がったのだと、今は知っている。自分と同じなのだと、知っている。

だから、受け継いだそれを、次へと渡すのだ。

常に新人であれ。言い聞かせている内に、いつのまにか座右の銘となっていた言葉だ。四級になったばかりなのだ。なったばかりなのだから、新鮮な気分で、全力で仕事に当たれ。いつものように言い聞かせる。

自分が渡せるのだろうか。一抹の不安はある。少し前に一足早く四級になったアンツは、随分若い龍官達に慕われているらしい。そうなれるだろうか。不安はある。だからこそに、仕事に全力投球できる。

きっかり昼少し過ぎに、目的地へ着いた。持ってきたユムルムは、さっきピッケ村で暖め直しておいた。豚肉の薫製を用いた耐久食用のユムルムは、時々火さえ通しておけばかなり長い時間保つ。

馬車から降りると、随分堂々とした村長が歩いてきた。元職業軍人らしく、体格が良く、しかも態度が卑屈ではない。四角い顔の彼は一礼すると、フラネルを歓迎する旨を正確かつ完璧な礼儀作法を守って言った。故郷の村長とは偉い違いだ。案内して貰う。

自分が住んでいたような襤褸屋ではないが、寂しい家だった。暗がりの隅に、膝を抱えた小さな影一つ。白服に着替えてはいるが、裸足で、手も汚れていた。ぼんやりとしているようで、此方にも気づいていない。

事情は聞いている。この間他国から侵入した賊を龍王が焼き尽くしたのだが、その少し前に、彼女の両親が凶刃の餌食となったのだ。辛いだろう。悲しいだろう。龍王の所で赴任して貰う前に、フラネルが少しでも助けてあげなければならない。

前に立つと、ようやくメティルタは気づいて顔を上げた。赤毛はぼさぼさで、大きな目は悲しみと猜疑に満ちている。盗賊は親切な人間を装って近づいたと言うから、当然だろう。腰を落として視線を合わせると、出来るだけ笑顔を作ってみせる。そっぽを向かれる。村長が眉根を寄せるが、手で制し。

「話は聞いているかい?」

「はい」

「ならば、行こう。 行く所は天国じゃないけれど、地獄じゃないよ」

「……はい」

逆らう気力も無い様子だった。立ち上がる彼女の肩を叩くと、馬車に乗せる。村長が厳しい表情でそれを見送っていたが、一抹の憐憫がその目の奥に宿っているのを、フラネルは見逃さなかった。多分厳しい父として、村長はこの子に接していたのだろう。いつかこの子が、この立派な村長の不器用な優しさを理解する日がくれば嬉しい。

馬車が動き出す。坂を上り始める。林の中にさしかかる。

「私はフラネル。 王都で龍官をしている」

「……」

「君はこれから、七級龍官として龍王様に仕える事となる。 仕事は確かに厳しいけれど、それほどつらいものじゃない」

俯いているメティルタに、暖めなおしたユムルムを差し出す。

「これから初めて王都に行く君と同じく、私も君みたいな子を迎えに行くのは初めてなんだ。 同じ初めてどうし、仲良くしよう。 これ、王都の食べ物。 美味しいよ」

無言で手を伸ばしたメティルタは、あまりにも美味しいので驚いたようだった。笑顔を崩さずにフラネルは言う。

「大丈夫、王都は怖い所じゃないよ」

「……はい」

少しだけ、少女の表情が弛んだような気がした。

その笑顔をみて充足したフラネル。しかし、ここで満足してしまってはいけない。

まだまだこれからだ。フラネルはそう言い聞かせて、心を引き締めたのだった。

 

(終)