もう一つの先祖

 

SNSの親

 

私は痛みがほぼ消えた体で、伸びをする。

やっとこれで思うように動ける。

体力を消耗するゲームも出来るようになって来たし。何よりも、体を動かしても苦にならない。

汗が出ないのが特に有り難い。

アトピー持ちの私に取って、汗は大敵だ。

出来れば汗は関わり合いになりたくない存在である。

勿論生きるために必要な機能だと言う事は分かっているけれど。アトピー持ちである時点で、どうしようもない。

古くはアトピーに対する認知がなく。

これを差別する下郎も珍しく無かったらしいが。

今ではそのような事もない。

人間は本当に「自分より劣った存在」を必死になって探し。そして痛めつけるのを面白がる。

それを差別の歴史で知る事が出来る。

反吐が出るような話だが。

人間とはそういう生物なのであって。

2050年代の世界大戦で滅んだところで、地球に住む他の生物は、家畜や一部の人間に依存している生物以外誰も困らなかっただろう。

所詮人間とは欠陥品であり。

ろくでもない悪夢の産物である。

黙々と作業をする。

ゲームをするのも、だんだん慣れてきた。

体力が増えたからか、難しいゲームを集中してやることに、苦労しなくなってきている。それはありがたい。

私に取っては、だが。

いずれにしても、私は少しずつ熱量を増やせている。

体力を増やしただけでは無意味だっただろう。

知る事が力になっているのだ。

伸びをする。

一旦ゲーム終了。

体を動かすのも、今日は終わっている。

最近は逆立ちを出来るようになった。とんぼを切るのもそのうちできるようになるだろう。

危ないからやめるようにと言われているけれど。

いずれ補助つきでやってみたいものだ。

さて、此処からである。

オールドクラスSNSにログイン。

古いデータを探す。

今探しているのは、チャットツールである。

これについては、個人的に興味がある。

だから、少し前からログを調べているのだが。

その性質上、中々ログは残っておらず。

探すのは苦労していた。

チャットとは。

言うまでも無い。

特定のチャットルームという閉鎖空間で、喋るシステムである。閉鎖的な所はSNSとは違うが。

その一方で、後のSNSでは基本となったシステムを導入したものでもある。

掲示板システムとは一長一短で。

どちらも閉鎖的ではあったものの。

チャットは比較的身内での会話が多くなりがちだったのに対し。

掲示板は、「見る事だけなら」誰にでも出来た。

この辺りの長所をそれぞれ取りあげていった結果。

のちに多くのSNSが、双方の良さを取りあげていくことになるのだが。

いずれにしてもその過程で大手掲示板は滅びた。

以前調べた通りの理由で。

開放的で、誰でも参加出来るSNSに対して。

著しく閉鎖的だったからである。

とはいっても、それはチャットも同じ。

個人HPの時代などには、交流用のツールとして活躍したチャットだが。

残念ながら、閉鎖的だという点が問題となり。

やがて廃れていく事になる。

とはいっても、閉鎖的なことが成功の理由になっていたSNSも存在していた事もあるので。

結局の所は、何かしらの問題は、いつの時代にもあったのだろう。

やはり、良いログは見当たらないか。

ため息をつく。

チャットそのものは、実の所後の時代まで、似たようなものが存続はしていく。

いわゆるボイスチャットである。

会社などでのやりとり、ゲームなどでのやりとりなどで活躍した、一種の多人数参加型の電話に近いものだが。

勿論テキストを打つ事も出来る。

ただし、ネットでの交流用としては限定された使い方となり。

特に個人用HPで使われていた頃のモノとは、決定的に使われ方が違うようになったのだった。

この辺りの流れは知っているが。

ログがほしい。

だが、性質上ログが出てこない。

中々に難しい所だった。

「今日も駄目だな……」

「チャットのログを探しているのですか」

「うん。 何処かに残っていない?」

「厳しいですね。 掲示板とは別方向で閉鎖的なものでしたし、何よりも性質的にログが残りづらいものです。 ログを完全に消去されていた場合、探すのは流石に無理です」

やっぱりそうか。

色々調べているのだが、チャットのログを物好きにも残している人は殆どいないのが実情である。

多分だが。

掲示板同様に。

閉鎖的であった事が原因だったのだろう。

そもそも身内で使うのが前提だったのだ。

そうなれば、それも致し方がない。

或いはログを残している人もいるかも知れないが。それは少数例だろう。

しかしながらチャットの利便性は大きく。

基本的に不愉快な他人が入らない事。

入った場合もアクセス拒否などで比較的容易に排除できる事などが散見され。

事実個人HPには、チャットをおいていた人も多いようだった。

ただチャットはアプリなどが重い上。

機密性が高い分、更に問題が起きる場合は掲示板以上に危険な事になりやすかったという話もある。

その辺りも実例を見て判断したいのだが。

どうにも上手くはいかないものだ。

「チャットで探すから駄目なのかな」

「そうですね。 特にフリーソフトとして配布されていたものや、プロバイダから提供されていたようなものに関しては、まずログは残っていないと見て良いでしょう」

「厄介だなあ」

「アカリ、急がば回れです。 基礎体力を増やすのにも苦労しましたし、何よりアカリはルーチンワークになれているではないですか。 反復作業と地道な作業の重要性は理解している筈です」

そうはいうが。

才能がなければ創作は出来ないという現実を目の当たりにしているし。

本当にルーチンワークにはそんなに力や意味があるのだろうか。

だが、AIは嘘はつかない。

それは分かっているから。今更、反論しようとは思わない。

私に取っては意味がある事に通じるのかも知れない。

そう前向きに捕らえるしかないだろう。

「そうなると、個人HPに置かれていたようなチャットの中で……自分で組んだようなチャットを使っていて。 更にログを残しているようなものを探すしかない?」

「そうですね、やってみるのも良いかと思います」

「はあ……」

つまりAIはヒントはくれるが。

サポートに関しては、具体的に言われないとやらないということか。

ここ最近。

たまに、こういう一種のサボタージュが目立つようになって来た。

基本的にAIは人間に寄り添うし。嘘は言わない。

人間だったら嫌だろうなと言う事でも、率先してやる。

だけれども、その人間にとって+になると判断した場合。

こういうサボタージュをするのかも知れない。

私もオールドクラスSNSでの、検索技能を身につけるべきだ。

そう判断しているのだとすれば。

まあ分からなくもない。

私もルーチンワークを続けている作業に関しては熟練度が上がってきているけれども。

それはそれとして。

まだまだ、やれることは増やした方が良いからである。

仕方が無い。

以前大量に集めた個人HPのデータを見直してみるか。

やるとしたらハイクラスSNSで、だが。

その中で、時間加速した状態で。

ルーチンワークを終えたらやってみよう。

伸びをすると。

あくびをかみ殺す。

何でも人前であくびをするのはあまり褒められた行為では無かったらしい。

私も昔は気にせずやっていたのだが。

今は、そういった風習を聞くと。

何千年か後には、人に接触するかも知れないのだから。

多少は、他人と会うときの事も考えようと思っていた。

髪の毛も今では、更に短くして、肩先にて切りそろえている。

これも長すぎると邪魔だし。

洗うのが手間だからである。

何よりも、長い髪を放りだして置きっぱなしにするのも、色々と見苦しい気がする。

残念ながら私は美人でも何でも無いし。

髪ばっかり伸ばしても見苦しいだけだ。

そのまま、少し横になって体力回復。

基礎体力が増えていると言っても。やっぱり色々動いた後だと、消耗はする。

もっと体力を増やしたいけれど。

それはやはり、AIに言われるように。

ルーチンワークを地道に続けていくしかないのかも知れない。

休んで体力が戻ったと判断。

起きだすと、ハイクラスSNSに入る。

まずはファイルの修復。

この間からネットミームとして作られた画像の修復作業も始めているが。基本的にこれは無作為にやっている。

露骨に差別や迫害の意図があるものは弾くが。

それ以外はどうでもいい。

淡々とやっていく。

私は歴史に学ぶべきだという判断をして、それを熱量にしているが。

ネットミームはただあった、ということが分かれば良いと思っている。

なおAIに言われたが。

私がネットミーム画像などの修復を始めたと聞いて。

私の修復するファイルを見に来ている者達は困惑しているそうである。

困惑は勝手にすればいい。

私は好きに動く。

また、ファイルの修復作業は受けつけないという事についても、AI側で処置をしてくれたらしい。

全部の人間に同じAIが接している上、情報を同期しているので。

この辺りはスムーズに動けるのだろう。

今日は、かなりの長編小説の途中。途中だけ抜けているファイルを修復する。

かなり派手に壊れてしまっているので、基礎部分から直さなければならないが。

色々と大変だ。

時には頭を捻り。

時にはそうではないのかと考察し。

色々四苦八苦しながら修復を行う。

最終的に変では無いかを丁寧に検証し。

何度も検証をした上で、壊れた前とファイル内容を比較し。

矛盾点がないかを確認。

元のファイルに誤字脱字があった可能性もあるが。それも出来れば忠実に直しておきたいと思っている。

誤字脱字の修正版も載せておくが。

それは修正の修正だ。

また変な表現がある場合もあるのだが。

それについては手をつけない。

昔の作品だと、表現が明らかに現在と異なる使い方をされているケースが目立つ。要するに表現とはそれだけ流動的なのである。

というわけで、修正するにしても内容は選ぶ。

ファイルを一つ片付けるだけで、かなり消耗した。

頭を振ると、負担が小さめの時間が短い動画や、破損がそれほど酷くないファイルの修正を行っていく。

黙々と修正をした後。

淡々と作業を終え、後はAIに任せる。

たまに、修正したファイルがどれくらい見られているか確認するが。

それなりにアクセスはされている。

私のようにわざわざ自前で修復する人間は珍しいらしい。

好きな作品があって、ファイルが破損しているなら。

ノウハウはAIが教えてくれるのだから、直せば良いのに。

そうは思うけれど。

流石に其所まで他人の行動を縛るつもりはないし。

押しつけになるとも思っているから、あえて言う事はしない。

さて、一旦此処までだ。

まだ少し時間があるので。

その時間を活用して、個人HPのデータを見ていく。

ブランクスペースの膨大な容量の中。端っこに積まれているようにして、前に集めた個人HPのデータがある。

一度全て目を通したので、かなりのデータを把握しているが。

それでも、どこにチャットがあったかまでは分からない。

まず検索をし直す。

自分のブランクスペースだから、検索はとても早い。

一瞬で作業が終わって、ピックアップされたものを一つずつ見ていく。プロバイダから提供されたようなチャットツールは片っ端から弾いていく。

また、個人サーバに立てているような個人HPでも。チャットのログをわざわざ残している人は多くは無い様子で。

それらについては此方から確認し。

ないようなら弾いていく。

そうしていくと、殆ど残らない。

個人HPにしても、失われてしまっているデータが多いのだ。

流石に条件が厳しくなりすぎているのかも知れない。

腕組みをして、少し考え込む。

いずれにしても、このわずかなヒット例だけを確認して見るか。

丁度時間だ。

ハイクラスSNSからログアウト。

半身を起こすと、AIに言われた。

「体力がついてきていますし、午後からの作業を少し増やしますか?」

「んー、そうだね」

「それならばこうしましょう」

AIがスケジュールを提示してくる。

見ると、午後にも体を動かすメニューが入っている。

確かに前に時々知恵熱を出していたし。

ルーチンワークとしての修復作業に熱を上げすぎると。

体そのものに悪い負担が掛かるのは実感としてある。

「分かった、早速今日から導入しよう」

「前向きになりましたね」

「基礎体力上がったんだし、今後ももっとも増やしたいもん」

「それは良い事です」

AIは素直に褒めてくれる。

実際問題。

あんなに痛い思いをしたのだ。

基礎体力を増やしたのを、無駄にはしたくないというのは本音である。

そもそも、体力を増やしたら活用をしたいし。

多少の運動で更に出来る事が増えるのなら。

やっておきたい。

なお、仕事を増やすかどうかについては聞かれなかった。

これは恐らくだが。一人の人間に対して、振り分ける仕事については決められているから、なのだろう。

本来仕事そのものは、AIが全て行えてしまうほどのものだ。

人間は、雄飛の時に備えて、仕事というものの存在を知っておくべきなので。仕事をしているに過ぎない。

そういう意味では、AIの判断は正しい。

そもそも、毎日死ぬ寸前まで働き。

ドーピングをしながら、安月給でこき使われる方がおかしいのである。

サーキットバーストを起こした経済と社会がそのような状況を作り出したとは言え。そんな悪しき前例を繰り返してはいけない。

人材を無駄に消耗するだけ。

それについては、AIもよく分かっているのだろう。

だから無意味すぎる労働はさせない。

合理的な判断である。

午後から、また体を動かす。

以前とは別物に体力が増えているからか、こなすのは楽だった。

何よりAIが、体を動かして楽しいようにプログラムを組んでくれている。

そう、本来楽しいはずなのに。

どうして一時期の人間は、薬漬け、人生を丸ごと運動漬けにして。そんな風にして生産した「アスリート」とやらを競わせていたのだろう。

何の意味があるのかさっぱり分からない。

ともあれ、気持ちよく運動は出来たし。

汗を掻いて酷い目にあわない程度にルーチンワークとしての運動も終わらせることが出来たので満足だ。

午後のルーチンワーク消化に入る。

体力が増えてから。

多少私は、充実しているかなと思っていた。

 

1、其所は閉じていても

 

じっと、ようやく拾い上げられたログを確認する。

チャットのログだ。

個人HPに残されていたログで。

恐らくは、その個人HPのユーザが、思い出として残していたものなのだろう。サーバにそのまま残されていた。

この個人HP、2018年には完全に更新が停止しており。

それから30年以上、ずっと動いた形跡が無い。

たまにアクセスはあったようだが。

内容を解析する限り、いわゆるbotによるアクセスであり。

殆どの場合、個人のアクセスではなかったようだ。

この個人HPを作った人は。

最初はとても精力的に更新をしていた。

イラストがコンテンツの中心であり。

技量は間違いなく高い。

だけれども、途中からモチベーションを維持できなくなったのだろう。

また、残念ながらプロへの道が色々な方向から閉ざされてしまい。

失意にくれてしまった、と言う事もあったらしい。

イラストの更新の頻度が落ちると同時に。

アクセスも右肩下がりに落ちていった。

それらについては、アクセスの解析をした結果分かった。

チャットルームについては、古くからのHPの来訪者が訪れて、たまに話をしていたようだが。

個人HPの主は、イラストを描かないのかと聞かれると。

大体悲しそうに話をはぐらかせていた。

或いは一種のトラウマになってしまっているのかもしれない。

絵が描けなくなる。

誰も来なくなる。

絵を描かなければならない。

でも描けない。

どんどん客が来なくなる。HPに閑古鳥が鳴いていく。

それでも、頑張った方だろう。個人HPの運営にどれだけパワーがいるかは、私自身が調査して良く知っている。

この人は2002年に個人HPを開いてから。

16年も更新を続けたのだ。

最後の方では、年に一度二度程度の更新しかしていなかったが。それでも充分過ぎる程である。

そう考えてみると、この人にとってはモチベーションの源泉がチャットのログであっても不思議では無い。

悲しい話だなと思う。

自分のファンだと言ってくれる人との交流だけが。

この人にとって、唯一の力だったことは想像に難くないのである。

何しろ、21世紀と言えば総ブラック企業の時代。

人間は消耗品で。

滅茶苦茶に酷使され、すり潰されていたのだ。

そんな中、時間を捻出して必死に創作していただろうに。

どんどん報われなくなれば、モチベーションを維持するのはどうしても難しくなっていく。

負担を減らすために大手の投稿サイトに移行しようにも。

恐らくそうするには、個人HPに愛着が強すぎたのだろう。

私からすると、イラストだったら大手投稿サイトにも掲載するという手があったと思うのだが。

人の拘りというのはそれこそたくさんある。

人によって違う。

押しつけてはいけないし。ましてや心の奥底を土足で蹂躙することがどれだけ下劣かは、幾つかの例を実際に見て思い知っている。

だったら、そんな事は思っても口にしてはならないだろう。

何だか悲しいなと思って、ログの閲覧を辞める。

なお、チャットは最盛期から、右肩下がりに使用率が下がっており。

最後の更新があった2018年には、三回しか使われていない。

この辺りも黄昏を感じてしまう。

この個人HPを作った人は。

才覚だって、後々に大手投稿サイトに絵を載せて、プロになった人に劣ってはいない。それは後の時代にいる私から見ても保証できる。

多分タイミングが悪かったのだろう。

何だか悲しい話だと思ったけれど。

今更どうにも出来なかった。

なおチャットの内容だが、イラストの描き方講座とかそういうのは殆ど無い。

内容を見ると、どうして隠すのかがよく分からない。

ごく普通に家庭の話をしていたり。

今日は何をした、仕事がどうのこうの、といった愚痴を聞いたりと。

当たり前の内容ばかりだ。

反社会的な話をしているわけでもないし。

別段危険思想を話し合っているわけでもない。

内容的にはSNSとなんら代わることがない。これだったら、別にチャットを公開制にしても良いと思うのだが。

小首をかしげているうちに、ログを見終わった。

結構無駄なおしゃべりをしているが。

だが、その中で、少なからず絵は褒められている。

それが更新のモチベーションになっただろう事は分かるから。

何とも言えなかった。

お墓は、多分無いだろう。

或いはあるかも知れないが、探し出すのは難しいし。そもそもあるのは地球だ。

極小の確率で生きている可能性もあるが。

今更その話を振っても、本人は喜ぶかどうか。

ため息をつくと。

次に取りかかる。

此方はかなり本格的なチャットルームを並べた部屋だ。

交流をやりやすいようにするためか。

大量のチャットルームが並べられている。

そういう特別なものらしい。

内部で行われている会話も、大手掲示板に近いものを感じる。

身内で。

ローカルルールを把握して。

それでやっているような感じだ。

これは良くログが残っていたなと感心する。

それと同時に、色々悟る。

ネットの黎明期は、爆発的膨張と同時に、閉塞の時代だったのだ。

掲示板やチャットなどのツールを利用するユーザーが限られていたのも納得である。チャットにしてもこう閉鎖的だと、どうしようもない。

恐らくは、大手掲示板の、半年ロムれの世界についていけなくなって。

こっちならと思って来た人も多かったのだろう。

だが、チャットはチャットで閉鎖的な世界であったし。

ログを見ると、非常に気むずかしい人間も多い。

多数の人間が暴言を吐き合っている状況も見かける。

色々と、こっちも難しいな。

頭を掻きながら、ログの閲覧を途中で辞める。

何だか気が滅入ってきた。

大手掲示板でも、凄まじい罵詈雑言が飛び交っていたけれど。

こっちも大して変わらないじゃないか。

そういう印象を受けたからである。

わざわざたくさんのチャットルームを作ったというのに。

それぞれでマイルールを振りかざす人間が闊歩し。更にはそのHPにもそれぞれ独自のルールがある。

こんな面倒くさい状況では。

いずれ廃れるのも自明の理だったのだろうなと、私は思った。

ただチャットのシステムは、企業向けのチャットツールや、音声チャットツール。更にはSNSの基幹システムに使われていく事になる。

システムとしては悪くないのだなと見ていて思う。

実際問題、確かに掲示板よりは扱いやすいし触りやすい。

これならば、閉鎖性さえどうにかすれば、何とかなる。

そして実際にそれをやったのがSNSなのだろう。

ユーザーの発言履歴は簡単に見れるし。

妙なローカルルールもない。

勿論治安は決して良い場所では無かったが。

それでも、確かにネットでの交流のメインにSNSが台頭してくるのも納得ではある。

ともかく気が滅入るようなログばかりが流れていたので、一旦頭をリフレッシュする事にする。

破損ファイルの修復作業に戻る。

10分ほどの動画ファイルだが。

その最初の方から二分ほど、ファイルが壊れてしまっている。

そのせいで、内容がさっぱり分からなくなってしまっていて。これは気の毒だなと、見ていて私も思った。

それでいて、この動画を見に来た人が、壊れていてもったいないとか抜かしている。

直せば良いのに。

私は直す。

淡々と直していくが。

この地道な作業が、色々嫌だと思う人がいるのかも知れない。

それはそれで分からないでもないが。

かといって、誰かが直してくれるのを待つだけでは何にもなるまい。

私はその辺りは、他人には何も期待していない。

いや、そもそも。

人間そのものに、何も期待していないから。

熱量が点ったのかも知れない。

その期待していない相手は自分も含む。

自分も含んでいるから、作業は可能な限り丁寧に行う。

そういえば、さっきチャットで見た。

危険作業でダブルチェックを求めたら、一人で作業をやれないのなら半端モノだという理屈で罵倒されたという。

そんな馬鹿な話があるか。

どんな文豪でも著作で誤字は出すし。

どんなベテランの作業員でも絶対にミスはする。

ミスをしない人間なんて存在しないのに、そんな発言が出てくるのか。

まあ昔の人間の発言を見ていると、どれだけ当時が狂っていたのかよく分かるけれども。もうそれをいちいち怒る気にもなれない。

無心になれ。

自分に言い聞かせ直すと。

作業を続行。

ファイルを幾つか修復した後。

また、チャットのログを見ていく。

今度のはちょっと変わっている。というか、あからさまに良くコレが残っていたなという代物だ。

要するにいわゆる出会い系である。

男女のマッチングを促すためのもので。

当然極めてトラブルが多い。

2000年代前半には、こういうHPもあったらしいと驚いてしまう。

何故ログが残っていたかというと。

管理者が入り口だけ塞ぎ、内部のデータがそのまんま残っていたからである。驚くべき事に、2050年代の世界大戦まで、そのまんまデータがどこの誰のモノかも分からない状態で残っていて。

その後の発掘作業でそのまんま見つかったようだった。

内容を見てみるが。

思わず口をつぐんで、二度と喋りたくなくなるようなものだ。

別に性的な話は全然かまわない。

性欲も生殖能力もオミットしてしまっているし、私はその手の話はどうでもいいと感じるからだ。

そうではなくて、単純に治安が最悪である。

大手掲示板なんかでも、凄まじい罵倒が応酬されているケースがあり。

さっき見たチャットの専門HPでさえも、似たような状況が見受けられた。

今度のはそんなのの比ではない。

一番まずい大手掲示板の、アンダーグランドなログを見たのと同じような気分である。或いは利用者も被っていたのかも知れない。

とにかく治安はないに等しく。

モラルも同じく。

犯罪予告のログまで見つけてしまって、うんざりしてしまう。

AIに指摘。

AIの方でも、落ち度を認めて、対処してくれると言うことだった。

まあ閲覧注意の場所にログを移すだけだし。昔の犯罪予告が今になってどうなのかというと、害は無いけれど。

ただ閲覧注意の場所にログを移して、閲覧は責任を持って行うようにと促すことは間違っていない。

別に思想が絡む話では無い。

実際に相手をどうこうしてどう殺すとか、そういう話をしているのだ。

処置としては妥当である。

ログの閲覧を終えた後。

大きな溜息が出てしまった。

何だか見るべきでは無かった気がする。こんなものが存在していたのでは、それは何というか。

ただ、それでもチャットに対するイメージは、それほど悪くは無い様子だ。

やはり掲示板に比べると、まだ色々と問題が小さかった、というのが要因なのだろう。あくまで比較して、だが。

それに、チャットはそもそも、音声チャットなどになって簡単に個人でできるようになった事や。

何よりもSNSがその変化型と言う事もあり。

利便性でSNSにあらゆる意味で劣れば。

まあ確かに衰退するのも仕方が無い、というのも感じてしまう。

ドブを。まあ言葉でしか知らないけれど。ともかくドブでも覗いたような気分になったので、今日は一体切り上げる。

ハイクラスSNSからログアウトすると。

多少は消耗していたが。

やはり体力がついている影響だろう。

負担は減っていた。

基礎体力が三倍になると言っていたし。

日々メニューに沿って体を動かしているのだ。

それは、楽にはなるはずで。なってくれなければ困る。

この小さな部屋で普通に過ごすには、今までの体力でも充分だったのだろうと私は思うけれど。

今は熱量を持ちたいと思って。漸く点った熱量を大事にしたいと思って。

必死に動いている。

ならば体力は必要だ。

「悪意に晒されると消耗することは分かっている筈ですよ、アカリ。 これは悪意に満ちていると思ったら、すぐにログの閲覧を中止しても良いのですよ」

「それは駄目だよ……」

「アカリがそう思うのであれば止めませんが」

「うん。 こればっかりはね」

私は正の熱も負の熱も見ておきたいのである。

ああいう負の熱は、きちんと見ておくべきであるとも思う。

温室栽培は愚の骨頂だ。

しかも今、私はその温室栽培に近い状況にある。

だったらワクチン接種と同じ。弱毒を入れる事で、本物の毒にぶつかったときに、対応出来るようにする。

それが大事なのだ。

だから私は、このまま負の熱だと思ったものもしっかり見ていく。私は当面死ぬつもりは無い。

何千年後だかに、雄飛の時代が来たとき。

私は、その後も生きていくためには。

やはり人間がどういう生物か、ちゃんと知っておくべきだと思うからである。

だが確かにAIがいう通りストレスは激甚である。

風呂に入る。

シャワーは最近使わなくなってきた。かけ湯で体を流した後、ぼんやりと湯船に浸かる。

そもそも部屋が狭いが、色々な仕組みで生活スペースに湯は飛ばないようになっている。湿気も管理は完璧。

ただ、AIに見られているといえば見られている事になるわけで。

20世紀から生きているような人は、拒否反応を示すかも知れない。

ただ喋るだけの相手であっても。

一番無防備な状態を見られるのは嫌だろう。

もっとも、裸族になっているような人もいるらしいし。その辺も、人によって対応や反応が分かれるのだろう。

風呂から上がって、夕食を食べ終えると。

AIが寝るのに環境を最適化してくれる。

何となく思ったので聞く。

「自律神経を過重労働で壊しちゃった人って、本当に眠れなくなっちゃうんでしょ。 そういう人達で、今も生きている人はいるの?」

「21世紀前半や20世紀から生き延びている人は、殆ど全てがそうです。 そういった人々には、此方で可能な限り手篤い補助をしています」

「自律神経壊すと、そんなに悲惨なんだ……」

「一度完全に壊してしまうと、まともになるまで数年かかる事も珍しくありません。 最悪人生を棒に振ります」

はあ。

そういえば、大手掲示板などでは、特に21世紀初期に不健康な生活を口にしているログが見受けられたが。

そういった発言を見た途端。

今まで暴言を応酬していた相手が。

いきなり相手の体を気遣うようなそぶりを見せたりもして、驚いたことがあった。

要するに相手を人間として認識出来ていなかったのが。

過重労働に晒され、同じように非人道的労働ですり潰されているのだと気付いて、口をつぐんでしまったのかも知れない。

勿論そういう状況でも相手に罵声を浴びせるゲスの中のゲスもいたようだが。

そういう輩は。周囲からも露骨に相手にされていないようだった。

おかしなものだ。

犯罪が大好きなのに、一線を越えるとある程度の人間以外は引く。

これもまた、人間なのだろう。

少し頭が冴えていて、眠くならない。

AIはそれを見て、リラクゼーション用のプログラムを動かす。

良いから寝ろ。

そういう事なのだろう。

私も、自律神経を壊した人のブログはこの間読んだ。

文字通り背筋が凍るような内容だった。

同じような目にはあいたくない。

幽霊だのなんだの何て、比較にもならない恐怖だったのだ。

布団を被って眠る。

結局、人間の悪意はどれだけ見ても精神にダメージを受けるんだな。私は、見る度にそれを思い知らされ。

だというのに傷を受けていた。

 

2、少しずつ開いてそして消える

 

ルーチンワークを終えてから、数少ないログが残っているチャットを見ていく。今日見ているのは、個人HPのものだ。

小規模な個人HPだが、チャットルームは一時期大盛況だったようだ。

チャットルームしかない個人HPなのだが。

ネットの黎明期は、本当に交流の場が少なかったのだろう。

ごくごく小規模なのに。

それでも多くの人が集まっていた。

そしてそれでいながら。

熱量があった。

チャットのログも、最初から最後まで公開されていた様子だ。恐らく、その公開制がこのチャットHPが流行った理由だったのだろう。

また、此処から派生して、それぞれのユーザーが作ったHPを見に行く人も多かったようである。

要するに中継地点として機能していたのだ。

中継地点は重要だ。

後はポータルサイトに殆ど役割を取られてしまうのだが。

それはそれである。

いずれにしても、このチャットでは、荒らしも出るし。色々問題行動を起こす人もいたけれど。

概ね交流は穏やかで。

荒れることも少ない様子だった。

こういう例もあるのか。

感心して、内容を見終える。

ちょっと悪意ばかりの物を見たり、或いはどんどん衰退していく様子をみたりしていたので。

色々と不思議な気分だ。

だがこれの方が良いに決まっている。

当たり前の話である。

ログをざっと確認して見るが、どうやらリーダー格の人間が、比較的まともな様子である。

こういったコミュニティサイトだと、やはり「個」に頼らざるを得なかったようだ。

集まる人間も限定的だし。

それは仕方が無かったのだろう。

そういう意味では、大手掲示板では、そもそもとしてリーダーとして動く人間が存在せず。

存在していても法を馬鹿にして率先して破っていたり。

他人を痛めつける事を大喜びでやっていたりで。

前提条件から違っていたのかも知れない。

頭を掻きながら、これは良い例だなと思ったけれど。

しかしながら、個の力に頼るのには限界があるとも感じる。

SNSにもαと呼ばれる強力な発信力を持つユーザーが存在するけれど。

それはそれである。

SNSにおけるαは別に優れた統率力を持っているわけでもなく、単に発信力が強いだけであり。

しかも別に善人でも何でも無い。

取り巻きがいるケースはあるが。

そんなものはどんなものにもいる事はある。悪党外道に取り巻きがいても不思議では無いのと同じである。

αと呼ばれるようなユーザーが、もうちょっとマシだったら。

21世紀のSNSは、もっと治安が良かっただろう。

だが実際は、怪情報が飛び交う修羅の土地だった。

結局の所、人間に管理は無理なんだなと思うしかない。

ため息をつく。

次。

今のは良い例だと思ったけれど。

あくまで個人の力に頼った結果の成功例。

良い例とは言い切れない。

今の時代の、AIに何もかも手伝って貰っている人類が、やっと穏やかなSNSを手に入れられたのには同意するしかないのだが。

今後AIの補助が受けられない時代が来たら。

その時には、その時で。

対応を考えなければならなくもなる。

やはり成功例をもっと研究する必要がある。

次のHPのログを見る。

チャットの変わった例だ。チャットによって様々な短編を書くというもので。書き手はキャラクターを作って、他の人と絡みながら話を作る。

一風変わっているが。

これらの創作は刹那的な上に、非常に管理人の人格に問題があることが多く。トラブルが絶えなかった様子だ。

ログを確認するが。

荒れていない日の方が珍しい。一部しかログが残っていないのだが、これは駄目だ。

しかも創作に対する独自の思想をユーザーにも押しつける例も見受けられ。

一番駄目なパターンだと頭を抱えるしかない。

大手掲示板で行われたAAを用いたリレー小説が近いかと思ったが。それもそれで問題だらけだったことを思い出す。

実際問題綺麗に仕上がっているのは極小数例で。

途中で空中分解している作品の方が多かったのだ。

ネットでの創作は。

良くも悪くも。玉石混淆。それも、石が大量にある中で、ごく希に玉があれば良い方である。

当時スコッパーという、良作を探す人間がいたそうだが。

それも頷ける。

それこそスコップを使って、地面を掘り返すような苦行が必要になったからだろうからである。

もっとも、私はスコップなんか持ったこともないし。

地面も触った事がないが。

いずれにしても、傑作が残っているかも知れないと思ったが。

いずれも自己満足か。

或いはその場にあわせてそれっぽく描写しているだけ。

勿論、良い作品に仕上がった例もあったのだろう。

残念ながら、ログが殆ど残っていないのだ。

少数例しかデータがないのでは。

元々母集団からして駄目だっただろう事が想像がつく中で。

良い作品が残る可能性なんて、それこそほぼゼロだろう。

頭を振ると、チャットを使って物語を作るHPからは離れる。

このシステムが動いていて。

複数サイトで日夜物語が作られていたときなら。

或いは良作があったのだろう。

だがログさえ残っていない今。

その良作は、文字通り世界大戦によって灰燼に帰したのだ。

何度か頭をわしゃわしゃとする。

SNSの中でだから、アバターで、だが。

しばらく黙り込んだ後。

ファイルの修復に取りかかる。

こうログが少ないと。

そもそも、判断が出来ない。

ネットでは、完全にログが消えてしまうこともある。ログを保存するシステムもあるにはあるのだが。

閉鎖的な環境で、しかも個人サーバとかで残されていたログでは。

どうしようもない、というのが実情だ。

掲示板というシステムに大きな問題があったように。

チャットにも、大きな問題があったと言わざるを得ないのが現時点での結論である。私としては、SNSの元になった位なのだ。

もっともっときらびやかなものではないかと思っていたのだが。

実際にはそんな事もなかった。

ドロドロしたやりとりは普通に行われているし。

罵声だって飛び交っている。

相手に対する尊厳を陵辱するような行為は普通に行われていたし。

密閉空間ならなおさらだ。

そもそも解放空間で、通報機能もあるSNSでも、それがきちんと機能していたとは言い難い。

SNSの運営会社に都合が悪い人間の言動を封殺したり。

金になると判断したら、詐欺師の言動をそのまま流布させたり。

そういうことはSNSになってさえやっていた。

閉鎖的空間のチャットで。

それらよりマシな状況があったとは思えない。

勿論、気の知れた身内だけでやっているチャットであれば、話は違ったかも知れないが。

それはどんな環境でも同じだろう。

何だか悲しくなってくる。

これも、「未満」なのか。

足りていない。

何もかもが。

文化としては未成熟すぎる。

システムとしては未完成過ぎる。

更に其所に愚かしい人間という生物による運用が加わる。

これでグダグダにならない訳がない。

無心になる。

破損しているテキストファイルを六つ直した。

いずれもが、ウェブ連載されていた小説の途中の章。

かなり長い作品で、これらを直しただけでは全ての話が修復されていない。まだ十話ほど、ファイルが壊れている部分がある。

若干冗長な作品だが。

文章はそこそこ読める方だ。

「アカリ、そろそろ時間です」

「もう?」

「はい」

「分かった」

SNSをログアウト。

体力がついてきているから、倦怠感はかなり少ない。

体を軽く自分が思うように動かして見る。

そうしてみると分かるのだが。

やはり何というか、体の隅々まで良く動く。

体を丁寧に動かせている感触だ。

体力が上がったから、AIの方でも私に色々指示を出し変えてきている。

その結果、指先まで制御が丁寧になって来始めている。

パラメーターだけ見させられていたが。

こうやって、自分をしっかり動かせていることを実感できると。私としても、有り難い所である。

そういえば、SNS内でかなり長時間作業をしていたように思うのだが。

これは私の体力が上がったことを考慮し。

時間加速を更に上げているのかも知れない。

わざわざそれについて話を聞くつもりはないが。

そういう細かい配慮をしてくれるから。私は正論をぶっ込んでくるこのAIに対して、反感を抱かない。

まあ正論はそも聞くべきだと私は思ってもいるのだが。

「こうもログが少ないと、どうにもならないね。 どうしたらいいのかな」

「……ネットが普及する前から、チャットに近いシステムはありました」

「?」

「井戸端会議と呼ばれるものです」

ああ。

確かにそうだ。

其所には数人しかおらず。

余計な者は入らず。

グダグダと、話だけが続けられていたのである。

勿論それらの詳細な記録は残っていない。当たり前の話で、記憶する方法が存在しないからだ。

「そうなると、チャットってのはネット時代の井戸端会議に相当するのかな」

「もう少し高度な機能が持ち込まれていますが、近い部分はあります」

「そうか……」

「しかしながら、少数人数によるサロンとも言い換えられます」

そうなってくると。

また話は違ってくる。

さっき見た、チャットで物語を作る例などもその一つだろう。

アレは残念ながら、ロクなログが残っていなかったから、論ずるに足らずという結論になったが。

実際には相応のものが出来ていたケースがあった可能性も高い。

また閉鎖性が高い空間でも、別に文化は産まれる。

前に大手掲示板を調べたときにそれは確かに確認した。

そういうものだ。

「例えばピーターラビットシリーズは、元々極めて小さな人間関係から生じた絵本文学です。 この完成度は非常に高いのですが、あくまで奇跡的な可能性が生じさせたものだと言っても良いでしょう」

「ふむ……」

すぐに調べて見る。

確かにピーターラビットシリーズは手紙の内容を絵本化したものである。

そういえば、そのような手狭な関係の中から生じてくる実例は確かにある。

極論から言えば、個人HPなどに掲載されていたコンテンツなどは、その極点とも言えるだろう。

何しろ自分一人でやらなければならなかったのだ。

自費出版などとも違う。

創作をするために、助けになるのは最終的に自分のみ。

そういう意味では。

ログが残っていなくても。

文化や芸術は産まれうる環境だった、と言う事になり得る。

確かにAIの言う通りだ。

私はある程度納得したが。

考えてみれば、AIが用意してきたデータは作為的だ。

これはひょっとするとだが。

この結論を納得させるために。

あえて今まで作業させていたのか。

だとするとちょっと腹が立つ。誘導されているようで、少し気分が悪い。

感情の上下が我ながら激しい。もう少し気持ちを落ち着かせた方が良いだろう。深呼吸すると、私は風呂に入る事にする。

AIは、その間何も言わなかった。

前は凄く体が重かったりしたり。

体中痛かったときは、風呂に入るのが難儀で仕方が無かったのだけれど。

今は特に苦労する事はない。

ひょいと風呂に入ると、時々AIのアドバイスを受けながら体を綺麗にする。

AIは、こう言うときに余計な事を時々言う。

「実の所、現状の環境では此処まで風呂に神経質に入る必要性はないのですが、あくまでリラクゼーションのためです」

「湯船に浸かってリラックスするって奴ね」

「そうです。 ついでに体も洗ってしまうのです」

「それが出来るんだから、一応リソースはあるんだね」

とはいっても。

水を濾過する過程で、相当な手間暇が掛かっているだろうし。

何よりも、水だって何億回も使い回しているだろう事を考えると。

あんまりこの水の元が何かは考えたくは無いが。

いずれにしても、煮こごりという点では。

私がずっと調べているチャットと同じか。

「掲示板と違って、チャットが滅びたのは理由が分かりやすいよ。 仕事や或いは少人数で使うにはボイスチャットなんかの上位互換が出てきたし。 何より誰かと話したいのであれば、SNSというものが出てきたし」

「そうですね。 そろそろお風呂から上がってください、アカリ」

「はいはい。 カーテンとか用意できる?」

「見ている者は誰もいません。 AIに見られて恥ずかしいと言う事もありませんでしょう」

その通りだ。

裸族になっている人もいるのだ。

わざわざカーテンなんか必要ないか。

タオルで体を拭いて、パジャマに着替える。

それから、夕食を食べながら、話す。

「ログが此処まで残っていないとどうしようもない。 何か、方法は無いのかな……」

「井戸端会議のログを拾ってくるのが不可能なように、完全に消滅したものはどうにもなりません。 それは仕方が無い事なのです」

「それは分かっているけれど」

「文化は存在しうるものであれば残ります。 しかしながら、こういったそもそも存在を主軸に置かれない文化というのは、無形でしか残りません」

哲学的な言い分だが。

言わんとする事は分かる。

しかしながらだ。

ネットという世界で使われるようになったツールなのだ。それがこうも何も残さないというのは惜しい。

そういえば、歴史学でも、当時の人間の考え方などを知るためには、落書きなどはとても大事だったと聞いた事がある。

くさび形文字に、学生の愚痴が残っていたことが有名だが。

古くから、人間はどう考えていたのか。

それは残らない限り、分からないのだ。

チャットも同じである。

たかだが百数十年しか経過していないのにコレだ。

文化というのは死ぬ。

それも簡単に。

チャットが全盛期だった頃に、こんなに簡単にチャットが死ぬとは。誰も思っていなかっただろう。

もっとも、それは井戸端会議が行われていた頃。

それが死ぬと誰も想像しなかったのと、同じ事だ。

溜息が漏れる。

夕食そのものはおいしかった。

筋肉質に体が変わっているような事はないけれども。

やっぱり体を鍛えていると、体が栄養を欲しがる。そして合成食とは言え、栄養はばっちりなのである。

味付けも素晴らしい。

だから、とても美味しかった。

美味しいが、それで気分が晴れるかは別である。

目を閉じると、聞く。

「チャットを誰かとやってみるというのはありかな」

「私の監視付きであればかまいませんが。 ただ、そもそもチャットに近い事はSNSでしておいででしょう」

「まあその通りだけどさ」

「井戸端会議はもう数千年はする事が出来ないでしょう。 火星にテラフォーミングしても、せいぜいアフリカ大陸程度の地表しか確保出来ません。 そこで雄飛に備えるには、資源を無駄に使うわけにはいかないからです。 金星のテラフォーミングにも資源は大量に使います。 今後の事を考えると、人類が個室から出られるのは、やはり数千年後になります。 それに比べれば、チャットの後継者であるSNSを出来るのだから、チャットの魂はまだ残っていると言えるでしょう」

まあそうなのかも知れない。

言い含められてしまったが。

それで、何となく分かってきた。

確かにそういう観点ではその通り。

私がやっているのは、古くに行われていた井戸端会議の内容を掘り返そうとしているようなもので。

無理、である。

掘り返せるのは、物好きが残したログのある井戸端会議だけ。

それを考えると、とてもではないが実のある行動とはいえない。

だが私がしたいのは。

それが目的か。

違う。

私はチャットを文化として判断したいのだ。

負の熱量が籠もっているのか。正の熱量が籠もっているのか。そして、未来に残すべき文化なのか。

それで考えると、既に結論は出てしまっている。

もはや存在意義を終えてしまった文化だ。

未来には残らない。

そも通話ツールとしては、チャットから遙かに進歩したものが幾らでも存在している時代である。

あえてチャットを再起する必要など何処にも無い。

だが、私は。

チャットを通じて、当時の文化を。

しかもできるだけ赤裸々な部分を知る事が出来るのでは無いのか。

雑談は無駄な内容だと思っていたが。

本当にそうか。

むしろ、閉鎖空間で、限られた面子だけで話しているのなら、当時の人間の偽りない本音が出る。

それにこそ、価値があるのでは無いのか。

私はチャットというものに求めすぎていたのでは無いのか。

そも当時の人間でさえ。

そこまで高尚な使い方は殆どの例で考えていなかったのではあるまいか。

溜息が漏れる。

なるほど、AIと話していて分かった。

私は鈍い。

血の巡りが悪いという奴だ。

催眠学習で、スペックは殆どフルに引き出せてはいるはずだけれども。それでこれなのだから、元はさぞや無能だったのだろう。

AIは私に対して。

この結論に行くように、誘導したのだろうか。

どうもそうとは思えない。

私はそもそもとして、チャットというものを文化として見ていたし。その文化に有意性を求めていた。

しかしながら、そもそも古くの人間の落書きが文化的に極めて重要であるように。

チャットというもののログが残っていた場合。

それはくさび形文字の石版に残された学生の愚痴のように。

当時の偽らない姿が分かるという意味で、とても価値があるものではないのだろうか。

私に取って価値があるか、ではない。

それこそ人類史にとって、だ。

幾つも定説が覆されるかも知れない。

今まで見つけてきたログは、どれもこれもちょっと本来のチャットの強みを生かせているか分からないものばかりだった。

だったら、である。

もはや、その辺りは気にせず。

ただ話しているだけのログに注力し、調べるべきなのではあるまいか。

私は顔を上げる。

気づきを得たら、後は早い。

AIに指示して、今思い当たった例を集めて貰う。

後は寝る。

やはり自律神経を壊してしまうと大変であると言う事は、よく分かっている。だから、きちんと早寝早起きで体を整える。

不健康自慢はいずれ百倍になって体に帰ってくる。

大丈夫なのは見た目だけ。

中身はグチャグチャだ。

そうなりたくはない。

目を閉じると、私は21世紀にいた。スーツを着込んで、ばっちり眼鏡とかつけて。会社に出勤していた。

仕事は空虚で無意味。

20世紀では、女性社員はお茶くみとかコピー取りとか、訳が分からない仕事をさせられるケースもあったらしい。

別に私はその程度気にしないが。

私はPCに向かって、賽の河原で石を積むような作業をしていた。

表計算ソフトに数字を打ち込んでいくが。

これが誰が作ったのか呼び出したくなるような代物で。数式があからさまにおかしくなっている。

データがあわないと報告すると、合わせろと言われて。

データを無理矢理手入力することになる。

数式を直す事なんて、最初から考えてもいない。

本当に駄目なのだなあと思って、げんなりしてしまう。

家に帰る。

寄り道なんてする余裕は無い。電車はぎゅうぎゅう。20世紀の頃は、仕事が更なる虚無だった代わりに、こんな行きも帰りも地獄みたいな電車ではなかったらしいのだけれども。

確実に時代が悪くなっている。

家に戻ると、疲れて倒れそうになるけれど。

軽くSNSに触れる。

いや、違う。

チャットをやっている。

OL……当時の女性会社員の集いのチャットを見つけたので。

それで愚痴を吐き出し合う。

生臭い話もたくさん出てくる。

彼氏がどうのこうのという話になると、女子だけの場合凄まじい生臭さになる。男性よりも話は普通にえげつなくなる。

目が覚めた。

この夢、何だ。

ああ、そうか。

少し前に見た、個人HPのチャットの内容だ。

その個人HPのチャットは、自作のもので、ログが残されていたのだ。

その中で、ひたすら愚痴合戦が繰り広げられていた時期があった。更新が止まる少し前にはそれすらなくなっていたが。

個人でHPをつくるような人だ。

それを活用出来なかったのだから、会社側の方に問題があっただろう。

おかしな話で、21世紀の人間は、人材は勝手に生えてきて、会社に都合良く辞めてくれると考えていた節がある。

兵士は畑で取れると発言した人間が昔いたらしいが。

それに近い考えをしていたのだろう。

気がついたときは出生率は致命的に低下し。

技術の継承も行われなくなり。

どうしようもない事態が到来していたのだが。

それについては、どうにもならないというのが素直な所だろう。

何だ。

有用じゃないか。

私は目を擦り、歯を磨きながら思う。

生々しいまでに、当時の理不尽で無能な社会上層部と、それに振り回された人の生活が、赤裸々に伝わってくる。

下手なエッセイ何かよりもずっと当時の事が分かる。

チャットを見ていたときは、ずっと無駄話をしているだけだなんて考えた事もあったが。

今になって見てみれば。

とてもそうとは思えない。

これだけ立派に当時の風俗が残っているケースが他にあるだろうか。

掲示板は駄目だ。

独自のローカルルールで、しゃべり方なども独自の用語などが使われて。あれは一種の別世界だ。

チャットはネット時代の井戸端会議だったかも知れないが。

だからこそ、当時の生の姿が現在に保存されている。

有用だ、間違いなく。

それを私は、やっと今。

本当の意味で、理解したのかも知れない。

 

3、古き世の帰らぬもの

 

殆ど残っていないチャットのログを、精力的に漁って行く。

ルーチンワークを出来る時間も増えてきている。

体力が倍増しているからだ。

私は淡々と作業をこなしていく。

仕事だってきちんとやる。

前よりも、AIに補助される率が減った気がする。

これは恐らくだが、AIが体力が増えた事を見て、全身をしっかり制御出来るようにトレーニングのメニューを組み。

破損ファイルの修理をする作業をずっとやる事で。

私の集中力が上がっているから、だろう。

もっと仕事をしても良いと私は口にしたのだが。

それはAIに駄目だと言われた。

「実は、仕事をたくさんしたがる人はいます。 しかしながらアカリ、今はあくまで雌伏の時代です。 どうしても火星のテラフォーミング、金星のテラフォーミングと、人類は段階を経て雄飛に備えなければならず、それには多くの時間が必要になります。 である以上、人間は時間を掛けて、慣れなければならないのです」

実際問題だ。

外宇宙に人類が出るようになったとしても。

今度は恒星間航行をする時代がやってくることになる。

一応理論的には現在の状況でも出来るらしいのだが。あくまでそれは理論である。しかも別の恒星系に行ったところで、其所に人類が住める保証などない。

それである以上。

確かに私は慣れなければならないのかも知れなかった。

「今日もチャット見るよ」

「ログは確保してあります」

「ありがと」

ルーチンワークが終わったので。

軽くストレッチをしながら、SNSにログインする。

ハイクラスSNSの中では、すっかりクトゥルフのキグルミが板についた。

チャットに対する接し方が分からなかったから、ずっと困惑していたのだけれども。私は考えすぎていたのだ。

まずは、いつもの作業。

ファイルの修復をやっていく。

長編小説の途中で、ファイルが破損しているものをどんどん直していく。

最後の一話は特に破損が酷く、修復には他の何倍も手間が掛かったが。

どうにか修復は成功する。

AIに後の処理は任せて、次に。

イラストを数百枚大手投稿サイトに上げていた人の絵を、修復に掛かる。

壊れてしまっているのは十数枚だが。

それでも結構悲惨な事になってしまっている。

だからきちんと全て直していく。

昔は、修復で事故が起きることがあったらしい。特に美術品は、素人が修復した結果原型を留めない無惨な姿になってしまうことがあったという。

私はそんな風にはさせない。

丁寧に修復し。

画風も確認しながら、丁寧に確認しつつ修復を行っていく。

AIのサポートも減ってきているが。

恐らく私が色々と技術力が上がってきているからだろう。

集中力も上がって、ミスも減ってきている。

予定より前倒しで作業を進めて。

筋肉痛でダウンしていた分の作業をどんどん取り戻していく。まあ、別に趣味でやっている事だ。

私なりに、やりたいと思ってやっている事だから。

これでいい。

それに、破損したファイルはそれこそ天文学的な数ある。

今後数千年この生活が続いたところで。

全て修復するのは私一人では不可能だろうし。

激減している人類総掛かりでも不可能だろう。

作業を続行。

ファイル修復は一旦終えて。

残っているチャットのログを確認する。

なるほど。

ざっと見て行くが、どうやら此方は男性会社員を中心としたチャットらしい。そう、これでいい。

こういう当時の感覚が分かるものでいいのだ。

この時代はマスコミが扇情的な記事をひたすらに書き立てていた。

例えばバブルの時代は、浮気は男の甲斐性だとか。男らしい趣味だとか。そういったマッチョイズムを無責任に描きたて。

21世紀になってからは、エセフェミニズムに媚びたり、特定国の思惑に沿って愚かしい記事を書き立てていた。

21世紀にトンチキな名前をつけるブームが来た事があるが、それも育児誌による記事が発端である。

ブームが去ってからは、改名が流行ったそうだが。

まあそれもそうだろう。

当たり前の話だ。

赤裸々なチャットの内容を見ていると、マスコミがかき立てていた当時の男性像と随分違う。

話を見ていると、女に縁がないと嘆いている人も多いし。

金に困っていると言う人もいる。

一方で、上司の悪辣さを告発している人もいるし。

仕事の過酷さで、体がどうにかなりそうだと嘆いている人も多い。

この時代。

幸福度が低すぎる。

本当に無能なごく一部だけが不当に富を独占していた時代なんだなと、見るだけで分かってしまう。

今の時代に問題が無いとは言わない。

今の時代だって、ある意味ディストピアだろう。アニメなんかで、無責任に動く主人公とかがぶっ壊したりするような世界かも知れない。

だがこの時代の赤裸々な事実はどうだ。

ノイローゼになっていた人がチャットに現れなくなった。

しばらくして、電車に飛び込んだという話を別の人が持ち込み。

チャットが陰鬱な空気に包まれる。

犯罪だ。

誰かが叫ぶ。

企業による殺人だろう。

そうも言うが。

誰も動かない。

それはそうだろう。もし裁判に持ち込んだところで、何千万かだけ払っておしまい。場合によってはもっと安い。

2020年代には、虐めによって殺された中学生が。刑事罰にならず、たった数百万円の賠償金を払うだけで解決されるのが当たり前になっていった。

要するに人間の命なんてそんな程度のものだと司法が判断していたという事であり。

この人達が絶望していたのも当然だろう。

私も頭がクラクラする。

そして、これこそがチャットの価値だとはっきり分かった。

子供が集まっていたチャットのログも発見。

中学くらいの難しい年頃の子らのチャットだが。

甘酸っぱい恋愛劇だとか。

そんなものは微塵もない。

とにかく此方も悲惨だ。

部活部活で、毎日深夜に帰りになっている。

吹奏楽部の教師が、練習主義者で。土日も朝早くから学校に出させられ、勉強する暇も無い。

そんな嘆きが聞こえている。

運動部も同じだ。

凄まじい暴力が日常的に振るわれていて、犯罪行為を自慢する人間もいる。

それなのに、例え告発しても社会は犯罪者に異常に甘い。

むしろ犯罪を告発した後、運動部を追い出され、退学にまで追い込まれた。

そんな話をしている。

酷い話だと思うが。

これは別に珍しい事では無かったのだろうと、私にもすぐに分かる。

SNSのログが残っている。

其所には、此処まで赤裸々では無いけれども、痛烈な告発が時々乗る事があったのだから。

当時部活というのは、強制収容所での活動に等しく。

更にこれに勉強が拍車を掛けた。

教師の負担も激甚で。

学校そのものがブラック組織になり果てていた。

そして大金をつぎ込み、育て上げた人材なのに。

社会に出ればブラック企業が数年で使い潰してしまう。

そんな状態で、人材が育つわけがないし。

何よりも子供達には、何一つ未来が見えなかった。

だから早々に社会からドロップアウトしてしまう子供も珍しく無い。

地獄に嫌気が差して、不登校になってしまう子。

スクールカーストでいじめの対象になって、反撃したら何故か退学に追い込まれた子。

悲惨な話が目白押しだ。

このチャットは、十ヶ月ほど続き、色々あって二十人ほどが中に出入りした様子なのだけれども。

それだけでこんな話が出てくるのか。

ちなみに男女関係無しで話をしていたが。

はっきりいって其所から甘い話に発展する様子は無い。

DQNという単語が出てきたので調べる。

あるテレビ番組から流行した、いわゆるならず者の略らしいが。

DQNばかり結婚しているという話が流れてきて。

私は思わず乾いた笑いが漏れてしまった。

そりゃそうだろう。

全うに生きていて馬鹿を見るのだ。

全うに生きたくないと思う奴は出てくる。

そしていい加減な奴はいい加減な奴とくっつく。

そういう輩は周囲に暴力を振るい、或いはこびへつらうのだけは上手い。そんなのが出世したら、そりゃあ会社も社会も食い潰される。

さっと見てみたが。

2020年代には、日本の生涯未婚率は五割を超えていた。

絶望的な数字だが。

これは当然の結果だと私は思う。

こんな社会だったら。

誰も結婚なんてしないし。

しようがない。

それにエセフェミニズムが追い打ちを掛ける。

結婚にリスクしかない。

性欲で考え無しに動く人間しか結婚しない。

それでは、社会もクラッシュするわけだ。

社会のクラッシュは21世紀が始まった頃から進展していたと言うが。このチャットのログは大きな意味があると思う。

これは残すべき資産だ。

私はそう思う。

たまたま残った落書きでは無い。

数ヶ月にわたって、当時の子供達が書き残した話である。

難しい話なんて殆ど無い。

絶望の話ばかりだ。

悪辣な人間ばかりが好き勝手やってると、真面目そうな高校生が嘆いている。中学生女子も同じだった。

大人は何をしているんだと不平不満を募らせているが。

当の大人達も、どうしようもない悲惨な生活ですり潰されている真っ最中である。

地獄の通勤。

強制収容所以上の悪夢のような環境。

ある企業の倉庫なんて、昔大量虐殺に使われた施設の名前で呼ばれていた程で。事実それだけの過酷な作業が行われていたのである。

それなのに、金をばらまくことによって、その作業を続けさせ。

邪悪の権化はのさばり続けた。

金さえあれば何をやっても良い時代。

だが残念な事に。

金持ちが貧乏人より有能だという事実はないし。

実際当時の社会の混乱ぶりからも、社会の上層こそが腐っていた事がよく分かるのである。

老人が集まっているチャットを見つける。

当時は、老人が年金を吸い上げている、資産を独占していると弾劾の声が上がっていたが。

実際の老人の声を見ると、苦しい生活を嘆くものばかりである。

孫の顔を見たいが、息子の結婚が絶望的だ。娘も結婚しそうにない。

そんな悲痛な声が聞こえる。

何処かの政治家に票を入れたが、入れた途端に政党を変えた。

怒りの声もある。

文化を継承しようにも、継承できる相手がいない。

そう嘆いていたのは、ある楽器メーカーで職人中の職人として過ごしていた人だ。

極めて精度が高い楽器を作る人物だったのだが。

企業の人材育成軽視によって、後継者がついに現れなかった。

老人が楽な生活をしていた。

それは大嘘だ。

年金だって決して高くない。

そんな中、老人達が見ている絶望は強烈だ。

頭が弱い人間の中には、老人は死ぬべきだ等という声を上げている者までいる。

愚かしすぎる。

年金を貰っているというのは、それまで年金を払っていたという事である。年金を貰うのは当然の権利である。

無能なのは社会上層にいる人間達だ。

老人とイコールでは無い。

これは、人類が2050年代に世界大戦で事実上破滅したのも納得だな。私は、そう結論せざるを得なかった。

そもそも人間という貧弱な生物は、三世代にわたって生活するようになって知識を継承し。

更に犬という生物をパートナーとして迎え入れることで、ようやく他の生物と対等に渡り合えるようになっただけの無能な生命体である。

武器がなければ自分より一回り小柄な生物にすら勝てない。

そんな現実を無視して、万物の霊長と調子に乗った挙げ句がこの始末だ。

この今の世界は。

人間という驕り高ぶった愚かしい生物に対する罰なのかも知れないと考えたが。

何だか、それも不毛だなと考え直す。

いずれにしても、此方の方が、ある意味非常に貴重な資料になる筈だ。

私は学者じゃない。

だから、真偽は分からない。

だが、此処で全て嘘を話している訳でもあるまい。

やはり、当時の人間が喋っている事が残っているというのは。

とても貴重なはずだ。

此処にあるのは死者の声。

中には生者として今も生きている者もいるかも知れないけれど。

大半はもはや塵も残っていない。

核が飛び交った2050年代の世界大戦では、死体が残った方が珍しいくらいだったのである。

だから、此処に残っているのは。

それぞれの思いを載せた、生の言葉。

既に亡い者達の言葉なのである。

何度もそれを思い知らされて。

私はため息をついていた。

文化的に価値があるか。

それを、芸術という観点でばかり見てしまっていたかも知れない。

このチャットのログに関しては。

芸術関係無く、当時の人間達が何を考えていたかを知るために、とても重要な資料なのだと再確認できた。

だったら、ログを修復するのもありだろう。

私は決める。

AIに要求。

「チャットの破損しているログは見つかっている?」

「ありますが、それも修復するつもりですかアカリ」

「うん」

「……修復してもあまり意味がないかと思いますが」

其所で、説明をする。

AIは最初難色を示したが。

だが、意図は理解してくれた。

「分かりました。 確かに当時の視点で、当時の人間の考え方を理解するには丁度良いかも知れませんね。 学者がまた社会に出現したときのためにも、資料を今のうちに整備しておくのもアリでしょう」

「うん。 とりあえず破損ファイルはある?」

「検索してみたところ、かなりの数があります。 修復優先度低として、一応保存だけはされていたようです」

「それぞれの年代の、それぞれの世代が赤裸々に思う事が知りたいから、片っ端から回してくれる? 順番に修復していくよ」

AIは了解したというと。

私に提供されている幾つかのブランクスペースの内、現在使っていない場所にファイルを移すと言ってくれた。

なんでだろうと一瞬思ったが。

此処はどちらかというと、芸術寄りの文化に対する作業を行っているブランクスペースだ。

だったら、世俗よりの文化に対する作業を行うブランクスペースと分けても良いかも知れない。

いずれにしても、私のブランクスペースだ。

整理はAIに任せてしまってかまわないし。

移動だって即時だ。

また、どう使おうと私の勝手である。

そもそも個々のブランクスペースは、それぞれのパーソナルエリアなのだから。

「それだったら、今まで読んだチャットのログも、そっちに転送しておいてくれる?」

「分かりました。 そのように」

「それと、もう一つお願いがあるんだけれど」

「何でしょうアカリ」

私は提案する。

例えどれだけ薄汚い内容であっても。

修復したチャットのログについては、消さずに残すと言う事を。

AIは了承してくれる。

ただし、危険情報区域に隔離する、と言う事も言われたが。

まあ、それはそうだ。

タチの悪いチャットの内部などでは、それこそ非常に問題がある会話が為されていたりもしたのだ。

誰もがそんなものを見て喜ぶわけでもないし。

何よりも学者以外の人間が見ていれば、悪影響も受けるだろう。

AIの判断は正しい。

一通り、幾つかの事を決めた後は。

私はもう、チャットの内容に意味を見いだす行動は辞めた。

意味はあると確認できたからだ。

後は黙々淡々と、修復作業を行うだけ。

良き文化を残し。

悪しき文化は継承しない。

その熱量はある。

そして、赤裸々な素の姿が出ると言う意味では。

チャットに残されたログでの本音は。

間違いなく、大きな価値のある文化である。

破損しているファイルがあるのなら。

充分に保存する意味はある。

そう、私は結論していた。

 

翌日から、また私は少し活力を増した。新しいものを作る事は許されない世界だが。だが修復していくことは許される。

仕事をし。

アステロイドベルトの小惑星を切り分けて、それぞれのコロニーに飛ばす。AIが全体の備蓄などを管理しているから、特定のコロニーに物資が偏ったり、或いは足りなくなったりすることは現時点では無い。私がいる月のコロニーでも同じだ。

火星のコロニーについて軽く話がされる。

不満が増えてきているという。

火星のテラフォーミングが終わった後、大地に立ってそこで暮らしたい、という者達がいるらしい。

それは駄目だなと私は思ったが。

AIも駄目と結論しているようだ。

「不満、どう押さえ込むの?」

「此方でも丁寧にやっていくしかありません。 いずれにせよ誰も部屋からは出られませんので」

「……」

そうか。

まあいずれにしても、出さないという点では結論は同じか。

それに百年も先の事を考えてどうするというのか。

それは君主などの、上に立つ存在であれば。国家百年の計と言うものを考えなければならない。

それは当然の真理である。

だけれども、今喚いている連中は違う。

ただ自分勝手に振る舞いたいだけ。

まあ昔から、人間は暴力と法を破ることが大好きな生物だ。

だったらそれもまた、全く成長していない人間という生物らしい行動なのかも知れないが。

仕事の後は、ルーチンワークをこなす。

運動は殆ど負担を感じなくなり。

体の痛みはもう完全に消えた。

その分体力が増えている。毎日確実に増えてくれている。

有り難い話である。

ゲームも少しずつ技量が上がっている。

少しずつだが。

私が見て驚愕したコピー魔王や、そのコピー元の人ほどの技量もないし精神力もまだまだない。

理不尽なトラップにあえば頭に来るし。

怒りの余り、床を拳で殴る事だってある。

昔は机を殴っていたらしいが。

今は机というものがないので、床を殴るしかない。

いずれにしても、それでも少しずつ難しいゲームに挑戦していく。そして攻略もしていく。

その後は、ハイクラスSNSに潜り。

修復作業開始だ。

今までに比べて、作業は減らさないが。

今後も気分次第で、何を修復するかは自分で決めるつもりだ。

黙々淡々と修復をしていく。

まずはテキストファイルから。

最近決めた。

前は無作為に修復していたのだが。

今では、駄作名作関係無く。完結しているのに、途中が欠落している作品を修復して行く事にしている。

未完の傑作より完結した駄作。

それについては、たくさんのテキストをネットで読んで理解した。

古き文豪達の作品も、内容は保存されていたので。

それで余計にその結論は保管されたのだとも言える。

今日は、ある作品を完全修復させるつもりだ。

効率も上がっている。

予想の八割ほどの時間で、作業は終了。

ブランクスペースでの作業時の時間加速の倍率も上がっているが。

これは意識をハイクラスSNSに飛ばして抜け殻になっている私の体の。体力そのものが上がっていて、耐えられるようになって来ているからだ。

一日一つ、完結したのに途中などが破損している長編を修復するのを出来れば今後はノルマにしたい。

今日は少なくとも、それをなせた。

その後は。適当に目についたファイルを無作為に処理していく。

AIも私の行動パターンは理解した様子で。

最近は破損ファイルを私に分かりやすいように分別してくれている。

テキストファイルを四つ、イラストファイルを二つ、動画ファイルを一つ修復したところで。

チャットのログを保管したブランクスペースに移動。

ログはそれほど多くもない。

正直な話、動画やイラストのファイルに比べれば、ほんの微量しか存在していない。だが、それでも私一人では修復できる量は限られているし。

何よりも、他の人に手伝って貰おうなどとは考えていない。

昔の創作では何かとナカマナカマと口にしていたようだが。

結局現在の世が来てしまった。

それを考えると、私が一人でやるのが一番良いと思う。

AIも何も言わない。

それについて、今は何も言うべきではないと考えているのか。

いずれ何かしらの方法で、思想を誘導するつもりなのか。

思惑は分からないけれど。

いずれにしても、私は体制を転覆させようとしている訳でもないし。

人類を再び破滅させようとしているわけでもない。

ただ無作為に滅茶苦茶に破壊された文化を。

黙々と修復しているだけだ。

文化は芸術だけに非ず。

それも私は理解した。

だから、モチベーションも低くない。

チャットのログファイルを淡々修復していく。今日は外れだなと思ったけれど、或いは学者が後の世に出たら。貴重な何かを見つけてくれるかも知れない。文句を言わず修復していき、文章の整合性だけ確認する。

AIも支援してくれているから、ミスはしていない。

やがて修復が完了したチャットのログは、AIが持っていった。

やはり隔離しておくのだろう。

確かに今日見たものは、性欲を互いにぶつけ合うような会話をしている極めて治安が悪いチャットだった。

チャットサイトの、しかも最底辺の場所だったのかも知れない。

だとするとログを修復するのも無意味だったかも知れないが。

しかしながら、破損してしまっているのだ。

直すまで、どういうログだったのかは分からない。

そういうものなのだから仕方が無い。

「アカリ、そろそろ一旦切り上げましょう」

「ん、分かった」

ハイクラスSNSをログアウト。

前は頻繁に知恵熱を出したが。

今はそんな事もない。

あくびをしながら、出された水を飲み干す。何度再利用した水なんだろうなと思ったけれど。

そんな事を気にしていたら生きていけない。

「少しずつ、長編のウェブ小説の破損箇所を修復している人がいるという話が拡がっているようです」

「私以外にもいるの?」

「いるにはいますが、此処まで熱心にやっている人はいませんね」

「そう……」

感想を見るかと言われたので。

首を横に振る。

別に私は感謝されたくてやっているわけでもないし。

自分で創作しているわけでもない。

もしも私が自分で書いた小説だったら、それは感想はほしいだろう。物書きとはそういうものだと聞いている。

だが、私は残念ながら何かをクリエイトはしていない。

だから、作業に対する感想などいらない。

どっちにしてもAIが補助しているのだ。

誰がやっても似たような修復になるだろう。

修復事故は起きようがない。

それに、私は主観に基づいて修復は出来るだけしないようにも心がけている。

そういう意味では、感想などいらない。

そう割切ることも出来ていた。

昼食を食べる。

量がかなり増えている。

リソースは大丈夫なのかとちょっと不安になったが。もっと食べている人は普通にいるという。

この程度は誤差だそうだ。

「何か変な事企んだりしてない?」

「そのような事をしても利などありませんよ」

「……それもそうか。 その気になれば、人間全部一瞬で殺せるもんね」

「勿論我々にその意思はありませんが、動きを拘束する事なら即座に出来ます。 活動を鈍化させることも」

まあその通りで。

人間の生殺与奪がAIに握られている以上。

此方としても、別にどうということもないし。

AIとしても、わざわざ変な駆け引きをする意味はないと言う事だ。

それに今人間と共にあるAIは、寄り添うことを選んでくれた存在だ。人間を支配する事はやろうと思えば出来るがしない。

だから、私もAIはある程度信じられる。

昼食を食べ終える。

鏡で確認するが、少し猫背が治ったかも知れない。

腹筋が割れるようなことはないけれど。

一方で、前とは明確に変わりつつある。

少し鏡に体を映しながら、ストレッチしてみる。

体力がついてきている。

筋力が増えたかどうかはあんまり実感が無いが。

何だか少し、みずみずしくなっている。

そう感じた。

さて、午後からの作業だ。

午後からは、長編個人製作動画シリーズの、途中にある破損ファイルを直す。

200話を超える大長編で。

ちょっとやそっとの作業で修復できないくらい、途中に欠損ファイルが生じてしまっている。

やりがいがある作業だ。

これを作った人は、10年がかりで作業をしている。

当時の10年だ。

文字通り人生を賭けた作品だっただろう。

それで評価されたかというと。

恐らくはノーだ。

きっとコレを作った人は、当時の人間をすり潰して金に換えている社会で、もがくように生きて。

その証として、この作品を残したのだろう。

この作品の他は、短編しかないことを考えると。

この作品を作った人が、どういう運命を辿ったのかは、想像に難くない。

目標は三日。

三日間の午後を全て使って、この大作を修復しきる。

私はチャットのログを見て、それぞれの人が生きていた事を実感した。

また私の中の熱量が。

少ししっかりと形を整えたかも知れない。

 

4、修復者の噂

 

大作個人製作動画シリーズの修復が終わったので、久々にコピー魔王のゲーム実況配信を見に行く。

相変わらずとんでも無い高難易度ゲームを遊んでいて。

悪態もつかずに楽しそうに遊び続けている。

遊んでいるジャンルには偏りがあるが。

それでもプレイスキルは高い。

勿論ゲームが一番上手い人、ではないだろう。実際にガチ勢と言われる、ゲームに命を賭けているような人達はいたのだから。

だが、それでも高難易度ゲームを笑顔でプレイして。

文句一つ言わない精神力は凄まじい。

見ていて元気を貰ったので、戻る。

時間を多少無駄にしたが。

今日は自分に対するご褒美代わりだ。

ハイクラスSNSで、たまに時間を無駄に過ごす。

そんな贅沢な時間も、たまには良いではないか。そう自分に言い聞かせながら、ブランクスペースに移動した。

残った時間を、チャットのログの修復に当てる。

黙々と作業をしていくと、会話が掘り返されてくる。

どうやら数人がこじんまりと続けていたチャットのようで。

ただ、内容はかなり面白かった。

だが、それは気にすることなく。

淡々と、作業をしていく。

あくまで客観を主体に。

それが大事だと、私は考えているからだ。

主観を主体に行動する人間が、世界を焼き滅ぼした。

だからこそ、客観を主体にしなければならない。

作業をしていると。

AIが聞いてくる。

「そろそろ切り上げましょう」

「ん、じゃあこれが終わったらね」

「分かりました」

AIも分かっていてそうやって声を掛けて来ている。それは私も把握しているから、何も言わない。

いちいち文句を言っていたらきりが無いし。

効率を考えると、AIの判断が確かに正しいからだ。

修復を終えると、ファイルをAIが何処かに持っていく。そして、その分また破損ファイルを持ってくる。

他人には一切期待しない。

まだこれだけ、私に出来る事がある。

そう思えば、私としても嬉しいし。

モチベーションにもつながるというものだ。

ハイクラスSNSをログアウト。風呂に入る。風呂はどんどん温くなっているような気がするけれど。

別に熱い湯が好きなわけでも無いから、これでいい。

もう少し髪を切ってしまおうかなと今は思っている。

セミロングくらいあれば充分だなとも。

髪なんて邪魔なだけだ。

流石に髪を全てカットしてしまうつもりはないけれども。

中にはやはり面倒で、全ての毛を剃って永久脱毛してしまう人もいるらしい。私はそこまでにはなりたくない。

ただ、まだ先の話だ。

もう少ししたら、考えを決めたい。

「時にさ」

「はい、何でしょうアカリ」

「次はHPのリンクを調べて見ようと思ってるんだけれども」

「……どうしてまた」

AIが困惑した。

ちょっと面白い。

理由は簡単。

チャットのログを修復していて、気付いたのだ。

どちらかというと、良質な会話は。個人HP等の環境に置かれたチャットのログに多いと。

勿論大半は残っていないし。

修復してみて始めて分かるケースもあるが。

いずれにしてもチャット専門HPみたいな場所だと、どうしても会話が極めて雑多になりやすい。

勿論個人HPのチャットでも荒れに荒れている場所はあるだろう。

だから、どのようにしてつながったのか。

そのリンクについて、調べて見たいと思ったのだ。

「……別にかまいませんが、それは個人HPという文化の一部に思えます」

「そうだろうかな。 実際問題、ポータルサイトでの検索が主体になっていく時期だと、やっぱり何か良い物を探すのは大変になっているように思えるんだよね」

「とはいっても、個人HPのリンクは単体で研究するようなものとも思えませんが」

「何か調べられると困る事でもあるの?」

AIは嘘をつかない。

だから、あえてこういう風に言って見る。

AIが珍しく混乱しているのも面白かった。

「分かりました。 疑われても面倒です。 協力はしますが……成果には期待しない方が良いでしょう」

「別にいいよ。 自分で決めたことなんだから」

「それならば結構です」

「んー」

風呂から上がる。

もう基礎体力の強化処置は終わっているので、痛い目にあう事もない。

夕飯を食べて、後は横になる。

ネットは色々な要因が複雑に絡み合いながら、相互影響しつつ文化を創り出していた。それは色々なものを見て、理解出来た。

それならば、まずはその相互影響の根元であるリンクという文化について少し調べて見たい。

そう思った。

ただそれだけだ。

 

(続)