うたかたの夢
 
序、業
 
王立魔法アカデミーの手によって、魔王ルシェルトの正体が明らかになり、大幅に歴史的見解が修正されてから百二十年ほどが経過した。人間の愚劣さはその間も変わらず、醜い争いは繰り返され、幾度も地を鮮血に染めていた。国境はまるで生きているかの様に変化し続け、わずかな土地や利権を漁っての殺し合いが続き、世界の各地で死体が無意味に大量生産されていた。殺し合いの技術のみが奇形的に発達し続け、如何に法の網の目を潜るかだけが研究され続け、弱者から如何に血を啜るかだけが真剣に議論された。それは人類が発生してから今までに変わらず続く愚劣なる営みであり、科学が発展した所でそれに変化は一切無かった。そんな愚かな人類の集団の一つが、魔王の存在に目をつけ、生物兵器として利用しようと計画を立てたのが、破滅の始まりであった。
 
魔王は再び城に人間が入り込んできたのに、すぐ気づいた。今までも、面白半分に忍び込んでくる者はたまにいたが、今回のそれは明らかに組織的である。それに、数百年ぶりに入り込んできたあの者達と違い、気高い魂が感じられない。その心にあるのはよこしまな欲望のみで、誇りや使命感と言った物とは無縁だった。しかも強固に武装して、まっすぐ寄り道せずに、自分の元へ向かってくる。そして、邪魔な人間が入らない様に施しておいた封印を、強引にこじ開け始めたのである。
破城槌を城門に打ち付ける様な轟音が、魔王の耳に届き始めた。自分のいる広間に施した封印は既に破られ、人間達は魔王自身を封じた封印に攻撃を開始したのだ。封印は見る間に消耗し、程なく破られるかと思われた。抵抗は無駄だと、魔王は判断した。彼女は嘆息すると、口の中で何かを呟き始めた。それは、魔法の威力を増幅する、(呪文詠唱)と呼ばれる行為だった。小さな音は規則的に紡がれ、彼女の周囲の(魔力)と呼ばれる力が、静かに、だが確実に高まっていく。その間も、封印へは激しい攻撃が加えられ、やがて小さな穴が開き、見る間に拡大されていった。
雷が落ちる様な激しい音がして、封印が裂けた。人間が、或いはそれが造った機械か、何かは分からないが、何かとても恐ろしい者が手を伸ばす気配を、魔王は感じた。同時に、彼女の姿は、この世のどこからも消え失せた。……人間に心の底から絶望した魔王は、自らが生まれた世界を捨て、別の世界へと去ったのである。
 
魔王は光と無縁だった。生まれたときから彼女は目が見えず、光とは何か、色彩とは何か、そもそも感覚的に知らないのだ。無論概念的には知っているが、それ以上でも以下でもない。後、両親に国立の研究所に売り飛ばされてから、生物兵器として改造を受け、その際に熱と(気)を感じることが出来る様にはなった。(気)とは人の心が発散する力の事で、(魔力)とは似て非なる物であった。これによって、魔王は多少他人の心を洞察することが出来たが、あくまでそれは補助的な物にすぎず、細かい分析など不可能だった。彼女にとって、世界とは大雑把な物であり、人間にしても動物にしても、個体識別は大の苦手だったのである。
別の世界に到達した魔王は、力のほとんどを使い果たし、疲れ切っていた。とりあえず、薄い膜を作り出し、自分自身を周囲の環境から隔離すると、周囲の大気の分析、地形の分析、生物の分析等を行い始める。ほどなく、新しい世界は、元いた世界とほとんど大差がないことが判明し、彼女は小さく舌打ちした。いっそのこと、生きていけない様な環境ならいいと思っていたのだ。それなら、自ら命を絶つ度胸がない彼女も、素直に死ぬことが出来るのだ。
彼女の着衣は、以前、数百年ぶりに、人間に遭遇したときに造った物と同じままだった。力を使い果たしているため、別の物を作れないという事情もあるが、彼女はこれが気に入っていたという理由もある。僅かに宙に浮いていた魔王が地面に降り立つと、足の裏に、靴を挟んで硬い土の感触が伝わってきた。まだ今いる場所が昼なのか夜なのかは分からないが、少なくとも固い地面が此処にはあるらしい。数秒間の沈黙を経て、魔王は歩き出す。そして、七歩進んだ所で、柔らかい物を踏んだ。周囲との温度差が余り無かったため、岩と判別出来なかったのだ。元々バランス感覚に優れていないこともあり、魔王はその柔らかい物の上に折り重なる様に転んで、それの正体に気づいた。
死体だった。手袋越しにさわり回してみると、堅い部分があり、どうもそれは金属や他の堅い物質で出来ているらしい。要するに、武装していたのであろう。まだ腐敗は進んでいない様で、形はしっかりしていた。堅い部分の温度分布は独特だったので、それを覚え、立ち上がって埃を払うと、魔王は周囲を探り回した。予想通りと言うべきか、やはりと言うべきか。同様の物が、辺りには無数に転がっていた。どうやら、数日以内に、ここで戦争があったらしかった。
「ここも同じか……」
小さなつぶやきは、際限なく深い悲しみを内包していた。魔王は、死に場所を探すことを、本気で考え始めていた。人間に見つかったときのことを考え、魔力で簡単な光学迷彩を起こし、角を隠すと、彼女は一人、孤独に歩き出したのだった。
 
1,無限の孤独
 
古戦場から離れた魔王は、堅い棒を杖代わりにして、山の中を歩いていた。手にしている棒は、先ほど拾った物で、死体が手にしていた。近くには先端につけられていたらしい鋭い金属が落ちていて、さわって危険な部分は除かれていた。また、棒自体も途中で折れて手頃な長さだったため、杖にするのに最適だったのである。棒の折れた部分は流石にさわると怪我をする可能性はあるが、そもそもさわらなければ大丈夫である。棒を持っていた死体は小柄で、肩口から一刀両断にされていた。他にも魔王は辺りに転がる死体を調べたが、矢傷や刀傷が多い。若干、魔法による傷らしい物もあった。地面には小さな穴が開き、合金の塊らしい物がめり込んでいた。どうもこの世界の軍事文明は、彼女がいた世界の物より千年分ほど遅れているらしい。どうやら火薬は発明されている様だが、まだ火器は大砲がようやく造られた程度で、弾が炸裂する様には造られていない。少なくとも、魔王が調べた範囲内には、塊状の大砲の弾はあっても、炸裂後の弾の残骸や、それによって出来た破壊跡は残っていなかった。大砲の弾丸は、金属の塊を飛ばすよりも、敵の側で炸裂する方が遙かに威力が大きい。それを知るルシェルトは、その部分から、そう推測を下すことが出来たのである。
死んでから数日経っているだけあり、戦場に残されていた死体の脳細胞は崩壊していて、それから情報を引き出すことは出来なかった。そのためこの世界の情報は、推測でしか分からない。杖代わりの棒を入手したのは、歩行の際の補助にするためである。熱量で地形の大体の起伏は分かるのだが、硬度は判別が着かないので、そのまま歩いていると泥やら腐った死体やらを踏んだり蹴飛ばしたりしかねないのだ。丁度、先ほど死体に躓いて、転んだ様に。元いた世界でも、常識などと言う物には無縁で、触れる機会さえなかった魔王にとって、行動は全て自分のために行う物であった。エゴと言うよりは、動物的で、より純粋な欲求が彼女を動かしていたと言っていい。
足跡から相手の姿形を判別するという特殊能力も世の中には有るが、魔王はそのような物、持ち合わせてはいなかった。だから、出来るだけ足跡が付いている場所から外れた方向へ、植物が豊富に茂る方向へ彼女は進んだ。何にしても、人間になど会いたくないのは今も同じだった。
異世界ではあったが、死体に触れて確認する限り、人間の姿はほとんど変わりがない。強いて違う点を上げるとすれば、平均的に少し体が大きい様な気がするが、それも大した差ではない。或いは、此処で戦争をした者達の、民族的特徴かも知れない。
色彩を感じられない魔王だが、その感覚能力が人間に比べて劣っているわけではない。耳や鼻は通常の人間と同じように機能しているし、熱量を見る能力は、大雑把であると同時に、周囲360°全てを、それなりの広範囲にわたって把握することが出来るのだ。だから、周囲の地形を、色彩情報以上に立体的に把握することが出来、山の中をふらつきながらも一定の方向に進むことが出来た。要するに、魔王はレーダーに近い感覚を有していて、それが故に人間より便利な点も不便な点もあった。
周囲の気温が上がってきた。そして、上から、少しずつ熱量が漏れてくる。どうやら、先ほどまでは夜だったようだ。足を止めると、魔王は近くの木に手をつき、嘆息した。かれこれ数時間は歩いたことであろう。暫く足で地を掻いていなかった事もあり、少女は疲労を感じ、汗を拭った。現時点までに、彼女の障害になりうる、獣や生きた人間は現れていないが、これからはどうなるか分からない。何度か蛇によく似た生き物が近くを通ったが、興味を示さなかったためか、或いは利益がないと判断したが、そのまま通り過ぎていった。だが、今後もそうなるとは限らない。休む必要があるだろう。
間隔をとぎすまし、熱量探査の範囲を広げる。幾つかの木に、食べ物になりそうな実がなっているのが分かったが、こればかりは調べてみないとどうにもならない。幸い物体の内部を探査する能力は持ち合わせているので、毒があるかどうか、栄養成分は豊富かどうか、は判断が可能である。もっとも、味の方は、流石に食べてみるまで分からない。
続いて探すべきは、休む場所であろう。日陰になる場所や、雨をしのげる場所がよいのだが、どうせすぐ去るのだから、あまり高望みをしても仕方がない。幸い、近くに倒木があり、触れてみると倒れたばかりで苔も生えていない様だった。雨にも濡れておらず、座り心地は丁度良い。埃を払い、その上にちょこんと腰掛けると、魔王は幾つか木の実を並べて分析に入った。初めて自分で手に入れた食べ物であり、分析するのはとても楽しかったのだ。滅多に笑みなど浮かべぬ彼女が、分析をしている最中だけは、にこにこと可愛らしい笑みを浮かべていた。
数時間の休憩の後、魔王は再び歩き出した。木の実には幸い毒はなかったが、その代わり極めて不味かった。そのため、魔王は不機嫌であり、ぶつぶつ呟きながら森の中を進んだ。一度、彼女と同じくらいの大きさの動物が、進行方向に立ちはだかったが、ゆっくり顔を上げ、無言の圧力を向けるだけで、甲高い声で吠えながら逃げ去っていった。
暫く歩いていると、徐々に温度が下がり始めた。どうやら昼が終わり、午後へ、そして夕方になり始めたようだった。先ほどは小休止で良かったが、今度は寝床を探さねばならないだろう。
魔王に、生きるための努力をしているという自覚はない。彼女は今、極めてネガティブな思考にとりつかれており、死に場所を探している。だが、初めて自分で動くことが楽しくて、生きる努力に身も入っているのだ。無論、ここぞという死に場所があれば、命を放り捨てていたかも知れない。不安定な精神が、今はたまたま、無意識的に生に傾いているだけである。
周囲を探すと、水の流れがあった。熱量の分布から言って、深さが膝ほどにすぎない小川らしい。まず魔王は水の成分を調べ、純度が高いことを確認すると、最初に手を洗い、ついで手袋を洗った。今日一日、色々な物を触った指先と手袋は、様々な汚れが付着していて、特に衛生観念のない魔王も、洗浄が必要だと悟っていた。
水は此処でよいとして、次は寝床だ。今のところ、周囲に虫や小動物はあまりいない様だが、寝ている最中に服やら口の中やらに潜り込まれないとは限らない。出来れば乾燥した地面に焚き火を起こして、その側で寝袋にくるまって眠りたい所であろう。乾いた場所は案外簡単に見つかり、近くの木にぬれた手袋を掛ける。焚き火の材料になる薪も、三十分ほどの調査で揃った。だが今の魔王は異世界へ強制移動したことでかなり力を使っており、魔力で物質を構成するのは出来れば避けたい所である。剰り魔力を使いすぎると、動物にひねり殺される可能性もある。寝袋は我慢し、諦めるしかない。
そこまで考えて、ふと魔王は我に返った。自分は死に場所を探しに来ていたのではなかったかと。うつむいて、彼女はそのことについて考え込んだ。獣に殺され、八つ裂きにされ、胃袋に納められても良いではないのか、と。
 
故郷にいた頃のことを、魔王は思いだしていた。目の前に引っ張り出され、嘆願しても聞き入れられず、八つ裂きにされ、むさぼり食われていく人間達。悲鳴は今でも耳に残っているし、呪詛は詳細に思い出せる。そして、調理された人肉を、恭しく差し出され、それを食べた自分。今度は自分が、同じ憂き目に会う番であろう。
そこまで考えた魔王ルシェルトの脳裏に、また別の思い出が割り込んだ。彼女は以前、一度死んだことがあったのだ。人に(勇者)と呼ばれた英雄に、首をはねられ、体を刻まれ、頭を踏みつぶされた。体に残る、斬られた感触。勇者が発していた、常軌を逸する殺気。そして、恨みに充ち満ちた言葉。
そして、次にまた別の事が浮かび上がってきた。魔王は簡単には死ねないのだ。特殊な薬品で細胞を汚染しないと、細胞自体が再生を行い、長期の休眠の後、復活する。意志にかかわらず、そうなるように(製造)されたのだ。
甦ったときのことを、魔王は思いだしていた。斬られ、倒れた位置に、唐突に彼女はいた。何があったか、暫く思い出せず、ぼんやりしていたが、やがて全てを思い出す。そして少女は、周囲に生者が誰もいないこと、死体の腐食具合から言って大体四百年が経過したこと、この場所が完全に歴史から隔離され、自分が孤独になったこと、等を悟った。そして彼女は、二度と世に出ぬように、自分自身を封印したのだ。
自分に何の価値がある。元々親に売り飛ばされ、生物兵器として造られたクズではないか。魔王などと言っても、それは要するに魔なる者達の女王蜂で、本人には何一つ価値など無い。その言葉が、落雷のごとく魔王の頭脳を支配した。だが同時に、殺されたときの恐怖、それに痛みも甦る。自分の肩を抱きしめて、唇を噛み、魔王はへたり込んでいた。
どれほどの時間が経過したのか、我に返った魔王は、薪を積み上げ、簡単な炎の魔法を使って火をつけた。そしてその横に転がると、そのまま思考を閉じてしまった。以前、自分を封印したときのように。そのまま、まるで死んだように眠った。
誰か、殺したければ殺せ。消したければ消せ。価値無き存在を、抹消してしまえ。体をぎゅっと縮めた彼女の顔には、そう言った言葉が、口に出す以上に、雄弁に張り付いていた。
 
2,狭間に住む者
 
魔王が目を覚ますと、何かの甲高い鳴き声が複数していた。故郷にいた鳥の物にも近いが、微妙に違ってもいる。発生源は以外に低い位置にあることから、虫か、地上性の小動物の鳴き声らしかった。無言のまま体を起こすと、埃を払い、ゆっくり立ち上がる。焚き火は既に消えており、手袋もきちんと枝に掛かっていた。指先が出るタイプの手袋は、丁度いい感じに乾いていて、小さく丸っこい指を通すと、気持ち良さそうに魔王は笑った。だが、影のある笑みであり、心からの喜びではなかった。
魔王の感覚の利点は、周囲を総括的に把握することが出来る点にあるだろう。無論、それは立体的な物だ。空腹を覚えていた魔王は、何のためらいもなく棒で地面を掘り返し、すぐに何かの植物の大きな球根を、二つ三つと掘り出した。それを川へ持っていき、器用に先端だけを掴んで水につけ、泥を落とす。そして、棒の先端を水につけ、暫く黙り込んでいたが、やがてそれを鋭く着きだした。水から棒を上げると、ささくれだった棒の切り口に、魚が一匹突き刺さっていた。
朝食として、それらは充分だった。毒もなく、焚き火を再び熾して焼くと、昨日食べた木の実よりは遙かに美味であった。少しずつ力が回復してきたのを魔王は感じ、それに伴ってほんの少しだが気持ちも上向きになってきていた。不器用な魔王は、魚を食べるのに四苦八苦し、結局指先は油だらけになってしまったので、また手を洗いに行った。
だが、楽しい気分も其処までだった。雨が降り出したのである。最初は小粒であったが、見る間に大粒になり、機銃掃射の様に地面に雨粒が叩き付けられ始めた。焚き火は下火になり、やがて鎮火した。閉口した魔王は木陰に非難したが、風が雨粒の軌道を幾度も激しく揺らしたため、ずぶぬれになるのは避けられなかった。近くの小川は増水し、ごうごうと凄まじい音を立てている。雨は止む気配もなく、数時間も経った頃には、足下に小さな川が幾つも出来ていた。
 
夜になったらしい、と魔王は感じていた。らしいというのは、気温が下がったまま上がらないからで、こういうときは大雑把な感覚器官の欠点が身にしみることとなる。ようやく雨は止み始めていたが、増水した小川は相変わらず恐ろしげな音を立てていて、水は退く気配もない。
木に背中を預けていた魔王は、憂鬱そうにため息をついた。靴も、服も目一杯濡れており、しかも湿度が高いため、乾く当てはない。乾燥した場所に移動して、また焚き火を熾したい所であろうが、彼方此方増水している上に、地面はぬかるんでいて危険である。風邪を引くほど柔に製造されていないが、気持ち悪い事に違いはない。まさに、最悪の状況といえよう。思う存分いじけた後に、魔王はぬかるんだ地面を踏んで歩き出した。靴の中は水が入っており、一歩一歩足を踏み出すごとに、嫌な感触が足の裏に伝わった。力が回復してきているとはいえ、無駄な消耗は絶対避けたい所であり、靴を作り直すのは得策とは言えまい。
周囲の凹凸、高低を総括的に把握し、魔王は高い所へ、高い所へと非難していく。やがて、一番高い所へ、山の頂上へと、魔王は出た。そこには大きな木が生えていて、人間の来た形跡があった。明らかに人の手が加わったと思われる、石積が存在していたのである。特に機能的に石が積まれているわけではなく、極めて小規模であることから、呪術的な物か、宗教的な物らしい。しかも、個人的に造った物であろう。
雨がそのとき、ようやく止んだ。魔王は石に触れてみたが、特に模様が刻まれたり、削って形を整えたりと言った加工が行われた様子はなく、だが綺麗に磨かれて汚れや苔は付いていなかった。
魔王は周囲を見回すと、石積みから離れて、木陰にへたり込んだ。杖代わりの棒をぎゅっと抱きしめ、木に背を預けてぼんやりとする。強力に製造されていても、所詮精神力は見かけの年齢程度しかない。精神的な疲労が重々しく魔王の心と体を蝕んでおり、汚れることまでは気が回らない様子であった。
 
泥の様に数時間眠った後、魔王は腰を上げた。彼方此方体も服も泥まみれで、何より空腹と疲労が全身を縛り付けている。それに、この状況でも、近くに人間が、いる、もしくはいた、ことくらいは判断がつく。出来るだけ早く、この場所から離れたいのが魔王の本音であった。来た方向とは逆に、杖をつきながら山を下りる。靴の中の水は、いつの間にか気にならなくなっていた。
山を下り始めた魔王は、視線を感じた。敵意と好奇心の混じった視線が、少し前から、複数向けられている。組織的であることが不愉快ではあるが、だが近づいてくることはない様だし、人間でもない様なので、捨て置き、山を下り続ける。やがて、ある一線を越えると、視線はぱたりと途絶え、向けられなくなった。
魔王は泥まみれの右手をゆっくり前に伸ばし、拳を開閉してみた。力は回復しつつあり、そろそろもう少し強力な魔法も使えそうである。しかし、精神力は消耗する一方だったし、そんなことは、何の慰めにもならなかった。もともと魔王は自分をとことんまで嫌悪している。自分の力とて、嫌悪の対象外ではなかった。鼻を鳴らすと、魔王は茂みをかき分け、更に進んだ。虫の鳴き声が、再び周囲からは聞こえ始めていた。再び温度が下がり始めた事からも、どうも夜になったらしい事が伺えた。
山の斜面は、徐々に緩やかになり始めた。山を下りきったと言うよりも、単にその地点の傾斜が緩やかなだけであろう。草の数が減り、傾斜が更に緩やかになり、やがて平らになった。茂みをかき分け、魔王は唐突に開けた場所に出ていた。彼女の眼前には、妙に規則的に生えた植物があり、実がなっていた。周囲の土は踏み固められ、植物の周囲の土だけが、触れてみると柔らかい。あらゆる状況証拠が、これは畑の一種であると告げていた。と言うことは、この近くには恐らく人間がいることであろう。
何か、明らかに生物が発したと思われる音がした。同時に、魔王の熱量探査範囲内に、生物が入り込んできた。大きさから言って、十中八九人間であろう。指先を宙に走らせて、情報記憶の魔法を発動するのと、何かが飛んでくるのは同時だった。何かは珪素を含む化合物で、魔王の拳ほどの大きさがあり、彼女の頭を直撃した。要するに、それは小石だった。当たり所が悪かったらしく、魔王の意識は闇に沈んだ。何も考える暇はなかった。戦闘態勢に入っていれば結果は違っただろうが、今更言ってももう遅かった。
 
「人には人の、魔には魔の、存在する意義がある」
遠くから声が響き来た。いつか聞いたことのある声だった。記憶をたぐり、思考を巡らせ、魔王はその声の主の形状を思い描く。いつだか、不意に現れ、不意に消えた男だった。部下の魔族達は気づかなかった様だが、魔王はその存在に気づいていた。
「何故、意義から逃げる?」
「それは……」
「どのみち、人間にお前を受け入れる様な度量など無い。 だったら魔たる者の頭領として、それにふさわしい行動を取れば良いではないか。 部下達に力を分け与え、人類との戦争に率先して出向き、そして勝利の暁には人間を奴隷化すればいい。 そうすれば、魔族支配下での、世界平和が実現するだろう。 本能だけの魔族の方が、よほど人間などが世界を支配するよりマシだ」
容赦のない言葉だった。もしもっと心が強ければ、それを受け入れることも出来たかも知れない。だが、普通の子供、いや普通の子供よりも心弱い少女には、到底受け入れることが出来なかった。
「……」
「人間が嫌いなのに、何故人間に近寄りたがる? 奴らはお前を人間などとは認めない」
「妾は……ただ……」
「親が欲しいか?」
図星を差された魔王が黙り込むと、更に容赦なく男は続けた。
「何故、魔族に力を与えるのを止めた。 奴らがあんなに必死に獲物を運んできているのに、何故答えようとしない」
「……妾は……こんな力……嫌いじゃ」
「愚かな。 魔たる者達には、お前しか頼る者がいないのにな。 人間が嫌いなくせに、人間に受け入れて貰いたい。 だから魔族へ力を与えるのを停止した。 争いが嫌いだという以上に、人間に媚びを売り、それを誰かに評価して貰いたいのだろう? そんなことをしても、受け入れる人間など誰一人いないと、自分でも分かり切っているのにな」
唇を噛み、黙り込む魔王の前で、男は肩をすくめた。そして、背中を向けて歩き去り、数歩も行かぬ内に空に解ける様に消えた。(勇者)に魔王が殺される、丁度三年前の話だった。
今になって魔王は思う。この男の言葉は、全て正論だったのである。そしてその気になれば、今からでも言葉に従い、行動することは十分出来るのだ。今からでも……。
 
次に魔王が目を覚ましたとき、彼女は生きていた。当然の事ながら、何が起こったかは、すぐに思い出す事ができた。頭に手をやると、案の定小さなこぶが出来ている。体には何か薄い物体がかかっていて、それは保温効果を期待した物質らしかった。触れてみると、それには無数の細かな毛が密生していた。此処に連れ込んだ相手の意図が理解出来ず、魔王は小首を傾げた。ともあれ、必要とあらば脱出の算段を練らねばならないだろう。ゆっくり熱量探査を使い、周囲を調べていくと、そこはどうも小さな小屋の中のようであり、周囲の環境に比べて密閉性が高い。材質は木であり、それほど高度な技術で造られた訳ではない様だった。更に熱量探査の範囲を広げていく。力は回復しつつあり、探知出来る範囲は徐々に広がりつつある。限界一杯まで探査範囲を広げてみると、周囲に同様の小屋は存在せず、先ほど石をぶつけられた時に調べていた畑の他には、ほとんど人工物はない。強いて上げるなら、不自然に地面に彫られた穴くらいである。水をくみ上げる目的で掘られたのであろうか、その底には地下水が貯まっている様であった。石をぶつけた人間は、その穴の側で何かしていたが、何をしているのかまでは分からなかった。魔王は半身を起こすと、再び、分析を行うべく指を空に走らせる。
空中に微妙な熱量で造られた、情報集積体が出現する。幾度もそれを操作し、プログラムを作動させると、それは起動し、情報収集を開始した。穴の側で人間はぶつぶつ何かを言っている様であり、その言葉を集めて分析し始める。そして、明らかになった単語を記憶中枢へ直接移行させ、知識へと変換するのである。
本当は、もっと強行的な手段で、相手から直接記憶を読みとることも可能なのだが、この世界の人間は、まだ致命的なレベルで自分を憎んでいない、と魔王は知っていた。もっとも、存在自体知らないのだから当然とも言えるが。である以上、できれば力を隠すことで、相手を刺激せずにおきたい所であろう。
人間が小屋の中に戻ってきた。そして、目を覚ました魔王に気づいたらしく、何か言った。情報集積体が目まぐるしく相手の表情や言葉を読みとり、分析を行う。人間はなにやらしゃべっていたが、程なく言葉が通じないこと、更に目が見えないことに気づいた様で、魔王の手を取り、自分に触れさせていった。口調は柔らかく、声は低く落ち着いている。体型からして、どうやら女性らしかった。
「マリア」
「……ルシェルト」
二人が最初に交わした会話は、自己の名を相手に伝えることであった。
 
3、戦を捨てし者
 
マリアと名乗った女は、妙に親切だった。言葉が通じないことが分かると、彼方此方の物体を示しながら名前を言ってくれたので、翻訳の作業は随分はかどった。魔王の目が完全に見えないわけではない事にもすぐ気づいた。結構頭も良い様であるが、一方でかなり要領が悪い様で、よく観察していると失敗をしていることが少なくなかった。
どうもマリアは、かなり若い様であった。おそらく、肉体年齢的に、成人になったばかりであろう。細身ではあるが、歩くときの無駄がない体重心移動や、周囲を伺う隙のなさから、おそらく元軍人だろうと、魔王は分析した。農具だと思われる棒状の器具を持っている際も、握り方などが槍を持つときの物にそっくりである。おそらく、軍人としての実力よりも、武人としての評価が高かったであろう。他にも、様々なことが分かった。魔王は体内の分布温度から、大体の相手の年齢を分析するという特技を持っていた。この世界の人間の体の構造が、故郷の物とほとんど大差がないことは、最初に到達した戦場跡で確認したから、分析にはほぼ間違いがあるまい。ここ数日で、最高温度到達点と最低温度到達点を分析した所、大体惑星の自転速度も大差がないことも分かっており、故郷とこの世界は極めて環境が似ていると言えよう。とっさに並行世界へ避難したが、行動がとっさすぎたため、元の世界と極めて近い関係にある世界へ来てしまった、というのが実情であったかも知れない。
ともあれ、相手が好意的なのは確かである。最初の石は、おそらく泥棒か何かと間違えたのだろう。此処で有る程度の情報を入手しておけば、後で此処を去ったときにも、様々な行動が取りやすくなると魔王は判断し、しばらくは大人しくしていることに決めていた。
数日が過ぎると、翻訳した言葉が充実し始め、簡単な会話が可能になってきた。それが出来る様になれば、加速度的に新しい言葉が記憶され始める。そして、更に複雑な会話と、意志疎通が可能になり始めた頃、事態に変化が到来した。
 
魔王はここ数日、簡単な手伝いを行う様になっていた。確かに細かい作業は出来ないが、大まかな物体の位置は把握出来るので、単純な手伝いだったら実行可能だった。物理的な力は普通の子供相応にしかないが、力はそれだけではないし、つぶしは利く。それにしても、よく分からないのがマリアの反応だった。新しい単語や、それの使い方を覚えたことを示してみると、まるで自分のことの様に喜ぶのだ。何を考えているのかさっぱり分からなかったが、ともあれ危険はないと判断して良いのだろう。ただ、此方の警戒心にも気づいている様で、単純に割って判断出来る相手ではないことも確かであった。
今日は洗濯物の取り込みを任せて貰っていたので、いそいそと物干し竿から乾いたそれを回収している際、人間の声がした。マリアの他に、最低もう二人いるようだった。
早速熱量探査の範囲を広げ、分析をしてみると、案の定人間が四人いる。熱量の形からして一人はマリアだが、もう三人は正体が分からない。もうすこし体が大きい事、体型などから、おそらく男であろう。
マリアの声は淡々としていたが、いつも話しているときとは違い、言葉に突き放す様な雰囲気があった。話している三人組は、何かを懇願している様だったが、マリアは言下に拒絶している。男の一人が徐々に興奮し、言葉が乱雑にぶれたが、マリアはまるで動じていない様だった。もっとも、男三人の熱量から分析出来る筋肉の使い方や、体重心の移動方法、更に隙だらけな様子からして、マリアが恐れる理由もないのも事実であった。
それにしても、偶然とは言え、他の人間の言語データを入手出来たのは大きい。これで、此処を離れた際、更に行動がやりやすくなるであろう。それによると、どうもマリアは口調が随分と荒っぽい。声は淡々としているのに、言葉遣いは乱暴な様であった。これはもう少し情報を収集してみないと結論は出せないが、軍内で舐められるのを防ぐのが目的で使い始めた乱暴な言葉が、染みついてしまったのやも知れない。マリアの言葉遣いを参考に、自分の言葉遣いも調整出来るので、様々に理有る収穫であった。
やがて、男三人は去っていった。マリアは頭に手をやり、短く切りそろえている髪の毛をいじくっていたが、やがてため息をついて農作業に戻った。畑に植わっている植物を丁寧に世話し、虫をいちいち手で取って、実の状態を確認している。畑に植えられている植物は、円筒状の実に放射状の果肉をつける構造で、その果肉を食べるらしい。名は(セルモ・ホゥア)だと、マリアは言っていた。この辺では珍しい農作物で、育てているのはマリアだけだとも言っていた。
異邦人が消えたのを確認すると、魔王は再び洗濯物の取り入れに戻った。気温が落ちるまでマリアは農作業をしており、それが済むと穴から水をくみ上げ、ようやく戻ってきた。農作業は厳しい労働だが、それでも疲労が少ないのは、如何に厳しい環境で体を鍛え続けたかを示しているだろう。
魔王は視線を持たない。実際に相手を見ているわけではなく、相手の存在を総括的に把握しているというのが正しい。ただ、会話の際は、相手の方を見るのが人間の礼儀だと学習していたので、それに従って言った。
「……さっきの人達は?」
「見ていたのかい? あれは麓の村の連中だよ」
マリアが倉庫から取ってきた野菜を床におき、苦笑いを浮かべた。魔王はその側にそそくさと寄ると、野菜を水で洗い始める。一つ二つ、洗い上がった野菜を手渡すと、マリアは野菜を切りながら、視線をちらちらと魔王へ向け、言葉を続ける。
「あたしに、軍事顧問として協力して欲しいんだってさ」
有る程度の言葉は推測で翻訳しているが、ほとんど間違いはあるまい。ひょっとすると、軍事顧問という程堅い物ではないのかも知れないが、ニュアンスに差はないだろう。
「軍事顧問?」
「……山にさ、村の連中と対立している奴らがいてね」
マリアの言葉で、魔王は山中を移動している際に、視線を感じたことを思い出した。おそらくあれがその(対立している連中)だろう。おそらく正体は、人間ではあるまい。
「そいつらを山から追い出したいけど、村には戦闘経験者がいない。 だからあたしに、顧問として指導をして欲しい、んだってさ。 随分前からしつこくしつこくしつこくしつこく来てるけど、毎回断ってる。 あたしは戦を捨てたんだ」
「……何故、そやつらを山から追い出したいのだ?」
マリアが野菜を切る手を止めた。魔王は野菜を洗い続けながら、疑問を言葉にしてはき出す。特に敵意がある様にも見えなかったし、むしろ臆病な連中にも思えた。先ほどマリアにくってかかっていた連中の方が、余程乱暴そうである。
「妾は山を通る際、幾つか視線を感じたが、特に敵意のある視線には思えなかった。 それに、もしもそうなら、妾は山を下りる前に襲われていたじゃろう」
無論、そのときは反撃しただけである。石をぶつけられたときと違い、相手の存在に気づいていた以上、幾らでも手を打つことは可能だった。だが、それを言っても意味がないので、単純に襲われていたであろう事のみを述べる。
「そりゃあそうだ。 もともと彼奴らは、命の危険さえなければ、相手に一切手を出さない、どちらかと言えば臆病な種族だからね。 あたしも戦場を離れて此処に落ち着く前、あの山通って来たけど、確かに襲われなかったよ。 ……山に住んでるのは、一種の亜人さ。 種族名は(ルハム)」
マリアが野菜を切りながら淡々と言い、言い終えた後で気づいた様に付け加えた。
「ごめん、難しすぎたかい?」
「……いや、大丈夫」
今の言葉も、何とか翻訳は可能だった。幾つかの単語は推測で訳しているが、致命的な間違いは恐らく無いだろう。続けてくれと魔王が促すと、マリアは頷いた。
「村の連中は、ルハムの存在自体が気に入らないらしい。 色々言ってはいるが、要は人間に近い生物が、集団で、すぐ近くの森に住んでいる、てことが不安なのさ。 それに、あの森からルハムを追い出せば、森を切り開けるって理由もあるらしい。 ばかばかしい話さ。 今まで何も起こらなかったし、共存は出来てきていたのにね。 村の長老に話を聞いてみると、たまにトラブルもあったらしいけど、それも全部人間側が悪かったらしいよ」
マリアの口調からして、嘘を言っているとはとても魔王には思えなかった。これが本当だとすると、ますます理解出来ない事である。故郷で、彼女は人間が嫌いであり、同時に憎まれても仕方がないとは思っていたが、それは魔族と人間が直接対立関係にあり、魔族によって殺された人間が沢山いたからである。特に敵意も害意も持たない相手を、力ずくで森から追い出そうという発想は全く理解が出来ない。そんなことに、一体何の意味があるというのであろうか。
以前、部下が捕まえてきた人間の記憶を読んだ所、似た様な意味不明な事項を見つけたことを、魔王は思いだしていた。その人間は、とある湖の(浄化作業)に関わっていたらしかったのだが、その内容がまるで意味不明な代物だった。湖に、血を吸う小さな昆虫によく似た昆虫が多数生息しているので、それを殺虫剤で駆除し、浄化作業を行おうという物だったのである。薬剤散布は効果を示し、人間に害を為すわけでもないその昆虫は、湖から永久に消滅した。この記憶を見たときも、魔王は人間に対して恐怖を感じた。自分が嫌いな生物に似ているからといって、根元的に相手を抹殺する。魔族は確かに人間を沢山殺したが、それは生きるために必要なことであったのだ。魔王は、今回、人間がやろうとしていることも、湖への無闇な殺虫剤散布、それに大差がないのではないかという印象を受けた。そして、更に人間への恐怖を深くしたのである。
「どうしたんだい? 手が止まってるよ?」
「……何でもない」
マリアの言葉に我に返った魔王は、野菜を再び洗い始め、程なくそれを終えた。最後の一個を手渡しながら、マリアに聞いてみる。
「マリアは、村の奴らをどう思う?」
「……バカだと思うさ。 でも、気持ちが分からない訳じゃないんだ。 あたしだって、生きるために沢山人を殺した。 人間てのは、基本的に他の存在を犠牲にして生きていくものだし、村が豊かになるためには、色々としなければいけないのも分かる。 貧しい村では、親が子を人買いに売り飛ばす事さえ有るんだよ。 それを考えたら、村の連中を非難するのも難しいね。 あたしに出来るのは、ただ中立を保つことだけさ」
だったら、何故妾によくしてくれる。魔王はそう言いかけて、口をつぐんだ。あまりにも非建設的な言葉に思えるし、此処で関係を悪化させると後々不味いかも知れないからだ。魔王は口をつぐんだが、マリア自身も自分の言葉に納得しているわけではない様で、野菜を刃物で刻みながら、無言で通した。
料理の腕に関して、マリアは一流とは言えなかった。家庭料理と言うよりも、サバイバル時に作れる軍式料理のようで、味よりも栄養効率を優先しているらしい。そして、本人はそれを知覚しながら、改善する気はない様だ。従って、料理はいつも、あまり美味しくなかった。魔王は最初味覚の違いかと思ったのだが、どうもマリア自身も美味しいと思っていない様だった。
力は順調に回復してきている。恐らく、後数日休むことにより、その気になれば麓の小うるさい人間共を村ごと消し飛ばす程度の力は復活することであろう。だが、そんなことをする気は、魔王にはさらさらなかったし、今後も起こらないことであろう。人間が嫌いであっても、その存在を消してしまおうとは決して思わない。それが、魔王と人間の違いであったかも知れない。
 
翌日、魔王が目を覚ますと、もうマリアは起き出している様だった。兎に角マリアは朝が早く、その上睡眠時間がいつも短い。軍生活の名残らしく、一度早起きして、マリアが起きてから何をするか確認した所、外で筋肉トレーニングを行っていた。今日も恐らく日課をこなした後、農作業に移ったのであろう。小さく欠伸をして、延びをすると、魔王は寝床から起き出した。
寝間着等という豪華な物は存在しない。よって幾つか有る普段着を、使い回していくしかない。乾いた着替えの袖に手を通すと、魔王は戦場で拾った棒をついて、外に出た。太陽の光は感じることが出来ないが、徐々に周囲の温度が高まっているのは自覚出来る。マリアは丁度野菜の世話を行っていて、手伝いを申し出ると喜び、何かを言いかけて止めた。
「また彼奴ら……」
魔王は近隣を立体的に把握出来るが、遠くを(見る)事は出来ない。故にマリアが言うまで、昨日の連中の接近に気づかなかった。今日は全部で六人もいる上、体温が若干上昇している。既に興奮状態に入っている様で、高圧的な交渉をしに来たのは明らかだった。
「マリア! 例の件だが、今日こそいい返事をして貰うぞ!」
居丈高にわめいたのは一番前にいた男だった。男は一瞬だけ、魔王に視線を向けた様だが、すぐマリアに戻す。もう魔王のことは、彼らに知れ渡っているのかも知れない。
「何人で来ようと同じだよ。 あたしは戦争からは足を洗った。 ついでに争いごとに関わる気も毛頭無いね」
「このアマ、つけあがりやがって!」
後ろにいた一人がわめき散らしたが、先頭の男が手で制すと、途端に黙る。体の熱量分布からして、かなり若い男の様だが、皆から一目置かれているのだろう。或いは、顔役の息子などの、将来確実に重要なポストに就く人物なのかも知れない。
「なあマリア、どうしてそうなんだ。 村の連中は、あんたの力を必要としてるんだぜ?」
「あんたらが必要なのは、あたしじゃなくて、レンジャー技能と戦闘経験だろう? だいたい、自分のケツぐらい自分で拭きな。 あんたらの村が衰退しようが栄えようが、あたしの知った事じゃない。 未来の富は、自分で掴めばいいことだろうが。 あたしの力を、都合良く当てにするんじゃないよ」
マリアの言うことはいちいち正論だった。村の連中が殺気立つのを、魔王は感じた。人間が一番逆上するのは、図星を突かれたときだ。ずけずけと本当のことを言われて、流石に頭に来たのであろう。
「農作業の邪魔だ。 さっさとかえんな!」
マリアが手を振ると、男達は頭から湯気を発さんばかりに興奮した。歯ぎしりの音が聞こえてくる様で、魔王は興味深くやりとりを見続ける。不意に先頭の男が振り向き、そして言った。
「……お前達は戻れ。 俺が交渉を続ける」
「し、しかし、若!」
「戻れって言っただろうが! 二度も言わせるんじゃねえっ!」
若と呼ばれた男が一括すると、後ろの者達が明らかに動揺し、頭を下げ、戻っていった。マリアがとなりで欠伸をするのを魔王は感じ、視線を戻して若と呼ばれた男をもう一度見やる。
「なあマリア、前から聞きたかったんだけど、そのガキは何だ?」
「あたしが産んだ」
魔王も唖然としたが、露骨に動揺したのは男の方だった。その様子を見て、魔王はこの男がマリアに抱いている感情に気づいた。同時に、マリアの様子からも、マリアに全くその気がないことにも気づいた。何にせよ、動物本能と、それに基づく感情など、魔王の知ったことではなかった。マリアは呆れた様に言う。二人の様子を、魔王は冷酷な視線で見やっていた。
「冗談に決まってるだろう。 バカかいあんたは」
「そ、そうだったな。 考えてみれば、あり得る事じゃない」
「……誰が残ろうと、あたしは手伝いなどしないよ。 さっさと帰りな」
突き放すマリアに、男は食い下がる。どうもこの男にも、何かしらの事情はある様だ。
「そういうな。 あの山は、どうしても俺達の物にしなければならないんだ」
「知った事じゃないね」
「……俺達の村は貧しい村だ。 土地も肥えてるとは言えないし、飢饉の年には餓死者も沢山出る。 時々子供だって売られるんだ」
やはりこの世界でも同じかと、魔王は思った。彼女の親も、そういえばそう言う理屈で、子供を換金したのだ。そして魔王は体を弄くられて、今の姿になった。凍った時の中に生きる、永久の子供。魔なる根元、邪悪なる女王蜂。人間の敵にて、破滅の使者。
ふと我に返った魔王は、不快そうに身を翻し、近くの切り株に腰を落とした。マリアがここに落ち着く際、木を数本切り倒した名残だそうで、魔王の体格に丁度あう椅子になっている。もう魔王は男からは完全に興味を無くし、翻訳のために言葉を収集するだけにとどめていた。ぼんやりと頬杖を突く彼女の耳に、男の言い分が届いてくる。
「でも、あの山を俺達が手に入れれば、村は豊かになる! もう子供は売られずにすむんだ! だからマリア、手を貸してくれ!」
「身勝手な理屈をこねるんじゃないよ。 山にだってルハムが住んでるじゃないか。 確かに貧しくて子供を売らなきゃいけないのは分かる。 山を手に入れれば生活も豊かになるのかも知れない。 でもね、それは他者の犠牲で手に入れる富だろう。 相手を犠牲にして、富を手に入れること自体を悪いとは思わない。 あたしも軍人だった。 だから、それを悪いとは思わないさ。 自分の手を汚さなきゃいけない時ってのは、確かにあるんだ。 でも、それは自分自身で行う事だよ。 少なくとも、あたしは自分のために手を汚すことがあっても、他人の汚れを引き受ける気はないね。 そう言うことをしたい奴だっているだろうし、それには正当な理由がある場合もあるんだろうけど、少なくともあたしはごめんだ」
「どうしても、手は貸さないっていうんだな?」
「くどい!」
男の体温が高まっていく。静かな興奮が、男の体内で荒れ狂っている。この男は危険だと、魔王は感じた。根元的な部分で、自分の思い通りにならない物があると、きれるタイプだろう。こういう輩は普段紳士的でも、一旦きれると歯止めが効かなることが多い。何をするか文字通り分からないので、例えマリアが元軍人でも、油断は出来ないだろう。
「だったら、ルハムを山から追い出した後は、てめえの番だ。 貴様はもう、俺達の村には出入りさせねえ! 今の内に、此処を逃げ出す準備でもしておくんだな!」
「あっそう。 やれるもんならやってごらん。 仮にあたしがあんたらに遅れを取ったとしても、此処を去るだけさ」
「謝るなら、今の内だぞ?」
振り返り吐き捨てた男に対して、マリアは流れる様な動作で跳躍すると、側頭部に後ろ回し蹴りを見舞った。素晴らしい動きとは、まさに之のことである。体を完璧に制御していて、筋肉と骨がまるで鞭の様に撓って敵を討つ。しかも、充分に手加減している様だった。これは並の軍人ではなく、若くして特殊部隊の精鋭を務めていたのかも知れない。男は案の定、もろに吹っ飛んで地面に叩き付けられ、罵声をあげながら逃げていった。ついてもいない掌の埃を払うと、マリアは魔王の方へ向き、言った。
「待たせたね。 其処の野菜を、倉庫に持っていってくれないかい?」
「分かった。 そうする」
マリアの対応に、魔王は少しだけ頼もしいと感じた。しかし、それ以上のことは思わなかった。
 
4、ルハムと人と
 
それから男達は現れなくなった。魔王はそんなことにはお構いなしで、ようやく生活になれてきた事もあり、近くを彷徨く様になっていた。通ってきた道や、マリアの小屋の周囲を回って、辺りの地形を総合的に把握していく。生息している生物や、温度、湿度の上下、地形の起伏なども調べ上げ、頭の中へ叩き込んでいった。
力が戻るに連れて、熱量探査出来る範囲は広がり、それに伴って調査の効率も上がった。マリアに教わったのだが、この世界では方角を七つに分割し、それぞれを数字で示すそうである。ゼロは惑星の南極点へ向けた方向、後は右回りに約51.4°ずつずれていく。北極を示す方角がない理由は、感覚が戻るに連れて分かり始めた。北極の磁場が、南極のそれに比べて極端に弱いのだ。それで、故郷の感覚から見れば一見不可解なシステムが採用されたのであろう。これは、故郷とこの世界で、完全に異なる点だった。
周囲を歩き回るに連れて、例のルハム達のなわばりもわかり始めた。マリアの家は、あの失礼な村人達の住む村の、3の方角の、山の中腹にある。その家を通り過ぎて、更に3の方角へ進むと、一度小さな山の頂上を越し、その少し先にもう少し大きな山があって、そこがルハムのなわばりになっていた。以前はそこを通らず、小さな山の頂上を迂回する形で、そのまま下ってマリアの畑に着いた様だ。ルハムの縄張りは、人間達の住む山の丁度隣になり、山の大きさ自体は此方のほうが大きい。村人達はそこを接収して、木を切り倒し、木材にして売ろうとしている様子だと、マリアは言っていた。なんでも、ルハムの森には、建材として価値のある木が沢山生えているのだそうだ。この辺りは山深く、亜人が住む山も多い。そして人間とは、ことあるごとに対立している様子だとも、マリアは言っていた。
魔王はルハムに興味を抱き始めていた。ルハムは縄張りにはいると、ほとんど間をおかずに監視を始め、逆に縄張りを出るとすぐに姿を消す。しかも、此方の位置を正確に把握し、等距離を保って監視を続けるのだ。熱量探査で調べた所、形は良く人間に似ていて、大きさは一回り小さいくらいであろう。表面の保温効率が良いことから、恐らく体は毛に覆われている。コミュニケーションをどうやって取っているのかは分からない。というのも、鳴き声を聞いたことも、複数現れたこともないからである。
子供らしい好奇心と言うのだろうか、魔王は面白がって辺りを探検した。ルハムは縄張りを荒らす者には勇敢に立ち向かうというマリアの話であったが、ただ縄張りの中を通るだけの者には何もしない事はここ数日で実証されたので、監視が着いていることを承知の上で、魔王は彼方此方歩き回った。時々転んだが、今は別に苦にならなかった。帰って洗えばよいのだから。この世界に来る前、魔王はほとんど地を足で掻く事はなかったが、今はそれが面白くて仕方がない様子だった。もっとも、転び方をもう少し練習しないと、そのうち洒落では済まない怪我をしそうではあったが。そうすれば、おそらくマリアが心配するだろうと自然に考え、魔王は転ぶ練習をしようと考え始めていた。
村の連中は、何をしているかよく分からなかった。村の近くまで行き、熱量探査で調べてみると、どうも戦闘が行えそうな者が集まって何かしている様子だったが、それ以上は分からなかった。それに対し、ルハムは動きを見せた。四日目、魔王にコンタクトを取ってきたのである。
 
魔王が足を止めた。周囲を囲まれている事に気づいたからである。どうもルハムは、魔王が周囲全てを把握していること、さらにその範囲を、ここ数日で学習したらしい。熱量探査の範囲外から一斉に現れたので、魔王も気づかなかった。ルハムとは、かなり頭がよいのか、或いは魔法的な感覚を持つ生物なのかも知れなかった。
本来魔王は好戦的ではない。勇者に襲われたときでさえ、無抵抗で殺されたほどである。だが、今回は逃げるか、それが無理なら戦おうと考えた。この思考の変化が、何によってもたらされたのかは、魔王自身にも分からなかった。戦い方は知っている。万を超える人間の記憶を、故郷で読み、学習したからだ。
周囲を取り囲んだルハムは、およそ三十。皆、木の枝の上にいて、身じろぎもせずただ(いる)。その中にひときわ大きい者がいて、それがおそらく、群れのリーダーかと思われた。やがて群れのリーダーらしい個体は、魔王の前にゆっくり進み出てきた。おそらく、小柄な人間ほども背丈があるだろう。全身は無駄なく鍛えられた筋肉の塊で、動きにはまるで無駄がない。温厚でありながら、とても強い力を秘めている事を、対峙者に悟らせるには充分だった。そして、大きなルハムは、人間の言葉を発した。多少たどたどしいが、間違いなくそれは人間の言葉だった。
「ふしぎ、な、めしい、の、しょうじょ、よ」
「……。 何用じゃ」
「なんじ、は、なにもの、だ。 ひと、では、ないな?」
しばしの沈黙の後、魔王は頷いた。周囲のルハムが、若干緊張した様子で、体温の変動が感じられた。
「ここ、しばらく、なんじ、は、この、あたり、を、うろついて、いるな。 なに、を、して、いる?」
「……この辺りの地形を調べているだけじゃ。 興味本位での。 気分を害したのなら、謝る」
「いや、なんじ、は、われら、の、とち、の、しんせい、なる、かみ、を、けがしたり、うばったり、しなかった。 だから、なんじ、は、ここを、とおって、いい。 もちろん、いても、いい。 でも、にんげん、に、して、は、めずらしい。 だから、なんじ、には、よけい、きょうみ、が、わいた」
神というのは、木のことだとルハムの長は付け加えて説明した。要は一種の宗教で、自分の生活に密着している木そのものを、神としてあがめているのだろう。亜人と言うだけあり、動物などより遙かに複雑な知能と、文化を持っている様だった。
「妾には、そんなことをする理由がない。 だが、理由があったら、切ったかも知れぬの」
「そう、か。 だが、こんご、は、われら、の、なわばり、の、しんせい、なる、かみ、ではなく、じぶん、の、なわばり、の、しんせい、なる、かみ、をきれ」
「そうする」
素直に魔王が言い、頷いたので、ルハムの長は好意を抱いた様だった。親愛の証だと言って、大きな木の実を一房持ってきた。それを受け取ると、長は不意に立ち上がり、胸を激しく叩きながら、周囲に轟く咆吼を上げた。それに呼応する様にルハムが一斉に吠え、周囲は時ならぬ音の洪水に飲み込まれた。それが収まると、ルハムの長は、どうも笑顔を浮かべたらしかった。ただ、それを見ることが出来たら、少し怖かったかも知れなかった。
「われら、なんじ、を、とも、と、みとめる。 ふしぎな、めしい、の、しょうじょ、よ」
「そうか、ルハムの長よ。 ……妾はルシェルトという。 以降はそう呼んでくれると嬉しいの」
「るしぇると、だな。 わたし、は、ゴルホス、と、いう」
大きく頭を下げると、ゴルホスは身軽に木の上に上り、枝を揺らして隣の木に飛び移り、他の者共々去っていった。後には、魔王の手の中に、木の実が一房残されただけだった。
 
マリアの家に戻ると、彼女は珍しく早めに農作業を切り上げ、居間でくつろいでいた。魔王は今日の出来事を話すべきか一瞬迷ったが、マリアであればと自然に思い、話してみた。マリアは嘘だと頭から決めつけもせず、話をきちんと最後まで聞いた上で、木の実を受け取って料理してくれた。
「この木の実はね、灰汁が強くて、そのままじゃあ食べられないんだ。 人間にはね」
「そうなのか」
「そうさ。 茹で上がるまで少しかかるから、待ってな」
「なんで、そんなことを知っておるのじゃ?」
「……あたしも、ゴルホスとは友達なのさ」
さらりと答えると、マリアは此方を見て、何かした様だった。多分、故郷でのウインクに相当する動作であろうか。元軍人ではあるが、結構茶目っ気のある行動を取ることも出来る様だった。
茹で上がった木の実は、塩気が強く、栄養価が高かった。ただ茹でるだけで、特に味付けをせずにも食べることが出来る。ただ、殻を割るのに少しコツが必要で、四苦八苦しなければならなかった。木の実を食べながら、魔王はふと気づいた。マリアは、怖くないのだ。いつの間にか、警戒心が心から消えていた。今でも人間は嫌いだが、どういう訳か人間であるマリアには、心を許すことが出来そうだった。
 
翌日からも、魔王はルハムの縄張りへ時々赴いた。縄張りの中には、清水が湧いている箇所があり、その周囲には様々な種類の木の実がなっていた。魔王にとって、人の手が加えられていない此処は、憩いに最適の場所だった。傷ついた心を癒すにも、ここは良い場所であった。
更に周囲を調査し、様々にルハムと情報をやりとりしていく内に、魔王は面白いことに気づいた。この山の傾斜は、曲がりくねった上で、隣山の頂上を迂回し、麓の村へと直結しているのだ。その間には、マリアの家もあるが、重要なのは村の上にある、と言うことだ。ここの山に生える木々を切り倒し、土地が持つ保水力を奪うと、さぞ面白いことになるであろう。しかも、それを説明した所で、人間が納得するとも、理解出来るとも思えなかった。村の連中は、まさしく自滅へと向かっているのだった。戦いを起こせば、人はルハムに勝ち、滅ぼすかも知れない。しかし、それによってもたらされるのは、一時の富貴と、根元的な破滅なのである。
この愉快な事実をマリアに教えてやろうと、魔王は思い立った。そして喜び勇んで家に戻ったが、其処にマリアはいなかった。熱量探査の範囲を広げ、辺りを調べてみると、山の頂上に、その姿があった。そこはルハムの縄張りを越えた先だったから、マリアがルハムと交流があるというのも嘘ではないだろう。そうでなければ、そこまでたどり着くのに、大幅に迂回して行かなければならないのだ。
マリアは積み上げられた石の前で、何かを飲んでいた。どうもアルコールが多量に含まれた飲料らしく、動きが鈍くなり、体表面の温度が上がっている。魔王が近づくと、いつもはすぐ気づくのに、隣に行くまで気がつかなかった。
「あ……ルシェルト、いたのかい?」
「それは何じゃ?」
「……あたしの恋人が、この下に眠ってる」
マリアはそれだけ言うと、液体を石積みにかけた。細かい表情は分からないが、雰囲気からして、どうも寂しげな笑みを湛えているらしい。
「……悪ィ。 少し、二人きりにしてくれないか? 今日は此奴の命日なんだ」
それ以上の言葉はかけられなかった。魔王は心底残念だと思い、その場を後にした。どうも不愉快な気分を感じながら家に戻り、ふとそこで気づいた。不愉快?何故?家?ここが?
頭を押さえ、魔王は床にへたり込んだ。マリアを頼もしいと思ったが、何故自分はここまであの人間に心許しているのだ?しかも、嫉妬まで覚えた?
自分の感情を否定する気は、魔王にはなかった。だが沸き上がってくる感情の理由が理解出来なかった。人間の愚行は、嫌と言うほど見てきたはずだ。嫌と言うほど身にしみて感じたはずだ。
理解不能の感情に翻弄される魔王は、同時に暖かいものを感じていた。マリアはごくごく自然に、魔王を受け入れてくれたのだ。しかし、それはすぐに極寒の嵐へと変貌する。それは魔王を、であろうか。ただの、行きずりの目が悪い子供だから受け入れたのではないだろうか。ひょっとして、自分の真の姿を知れば、阻害するのではないか。過去を知れば、虐待するのではないか。
果てしない恐怖を感じた魔王は、同時に確かめるべきだとも思った。あの男に言われた事は全て正論なのだ。今後も逃げ続ければ、結局今までと同じ事態が永遠に続くだけなのだ。意義からこれ以上逃げても仕方がない。自分の存在意義を、マリアの側に確保したいと、心の底から魔王は思った。
それは、心弱き者が、始めて抱いた勇気だった。魔王は顔を上げると、マリアが帰ってくるのを、今か今かと待ちわびたのだった。
 
陽が落ちた頃、マリアは戻ってきた。酒はすっかり抜けている様で、足取りもしっかりしていた。そして髪の毛をかき回しながら、魔王へと開口一番に謝った。
「さっきはごめんね、ルシェルト」
「いや、妾は気にしておらぬゆえ、大丈夫じゃ」
「ありがと。 で、何か知らせに来てくれたんじゃないのかい?」
小さく頷くと、魔王は軽く心の中で思惑を巡らせた。分かったことを大まじめに言っても良いのだが、どうしたら自分の正体を知らせることが出来るのか、それによる反応を引き出せるのか、考えたのだ。この辺の、結構行き当たりばったりな所は、魔王が所詮子供並みの精神しか持ち合わせていない所に原因があろう。背伸びしても、所詮子供は子供なのだ。マリアが小首を傾げたのを見て、魔王は咳払いした。結局何も思いつかなかったので、そのまま言う。
「マリア、実は、ルハムの縄張りを調べた所、面白いことが分かったのじゃ」
「面白いこと?」
「傾斜や土質等を調べた結果、彼処に生えている木々を切り倒したりしたら、想像を絶する土砂崩れが、麓の村を襲うのだ。 村は一発で壊滅じゃな。 どうじゃ、面白かろう」
「……それの何処が、面白いんだい?」
マリアの口調は叱責する様なものではなく、むしろ柔らかい。だが、同時に無言の非難も、言葉の中に含んでいた。だが、魔王には、その理由が分からない。
「ヒトの身勝手なエゴは、破滅に直結している。 面白いではないか」
「……そうだね。 確かにあんたの言うとおりだ。 でも、あたし以外のヒトの前で、それを言っちゃあいけないよ」
小首を傾げる魔王の前で、マリアは嘆息した。そして、核心を突く言葉を発した。
「ルシェルト、あんた、ヒトじゃあないね?」
「……! ……知っておったのか?」
「ああ。 あらゆる状況証拠が、そうだって告げてたからね。 勘って言うには鋭すぎる第六感、早すぎる言葉の学習、どう考えても百年は先を行ってる技術で作られたとしか思えない靴や服。 それにあんた、周囲全てを総括的に把握してるだろ。 人間には、残念ながらそんなことは出来ない。 それと……最後の決め手になったのは、あたしの思考じゃなくて、ゴルホスの証言さ。 彼奴は、悪気無く、あんたが人間でないことを、あたしに教えてくれたよ」
魔王は、膝の上で、握り拳を作った。マリアは全てを知っていたのである。この事態は、想定していなかっただけに、混乱が頭の中を満たす。やがて、言語化した恐怖が、口から漏れ出た。
「……で、マリアは、妾をどうするつもりなのじゃ?」
「どうもしないよ。 あんたが良ければ、今まで通りに暮らして欲しい。 あたしも、妹が出来たみたいで嬉しいんだ」
その言葉は、時ならぬ雷の様に、魔王の心に響いた。しばしの思考停止は、混乱と、それ以上のうれしさが要因だった。ようやく絞り出した言葉は、震えていた。
「……む、村の連中みたいに、ヒトではない存在が怖くないのか?」
「怖くないね」
断言したマリアは、以前村の男を追い返したとき以上に、頼もしく見えた。思わず魔王は、マリアに抱きついていた。
「本当か? 本当なのか?」
「ああ」
「此処にいても良いのか? 妾は……妾は……」
優しさを感じながら、魔王は言った。相手の感情を体温の変化から読みとれる彼女には、マリアがうそをついていないのが、よく分かっていた。
「妾は、嬉しいのじゃ……」
「あたしもだよ」
マリアは、強く魔王を抱きしめ返した。恐らく、生まれて初めて、魔王は幸せを感じた。
 
5,変転
 
小高い丘の上から、マリアが村を見下ろしていた。側には魔王が居て、周囲を熱量探査している。その左手には、なにやら丸められた紙束があった。現時点で、近くに人間は居ない。だが、魔王は緊張していた。これから、人間が山ほどいる場所に赴くからだ。
「ルシェルト、行くよ」
「……分かった」
マリアが言うと、魔王はその服の裾をぎゅっと掴みながら答えた。昨晩話し合った結果、村の連中を説得するという方向で結論が出たのである。何にしろ、人間を戦争しない方向へ誘導しなければ、ルハムも人間も双方が破滅するのだ。この近くには、他に村を建てるに好条件な場所はなく、あってもそこは別の町や村の管轄区だ。最初、魔王は放っておけと言ったのだが、マリアが首を横に振ったので、頷くほかになかった。そして、条件をのむ代わりに、自分も連れて行くことを了承させた。
正直、魔王はこのマリアの決断を疎ましいと思ったが、それは考えてみれば自分の側にいてくれることも疎ましいと思うのと同じである。以前側にいてくれた研究員や、百何十年か前に城を訪れた研究者同様、マリアは冷酷で合理的な気を発しているにもかかわらず、魔王に親切だった。理詰めで考えれば不合理な話である。ならば不合理でも良いではないかと、魔王は結論していたのだ。
魔王にとって、相変わらずマリア以外の人間は恐怖の対象だったから、それがうようよ居る村に入る事など、少し前までは文字通り言語道断だった。だが今は側にマリアが居るのである。絶大な安心感と信頼感があり、その行動に恐怖は感じても、尻込みする理由にはならなかった。一歩ごとに村は近づき、やがて人間が熱量探査の範囲に少しずつ入り始めた。すぐに向こうも此方に気づき、門番らしい二人の村人の内、先頭に立った方が誰何する。
「マリア! 何しに来た!」
「村長に用がある。 取り次いでくれないか?」
「何を今更……気が変わって、手伝ってくれるって言うのか?」
「さあてね。 何にしろ、あたしが用があるのは村長だ。 あんたじゃあない」
村人の体温が、明らかに変動した。マリアの眼光に押されたか、発する猛々しい気に第六感が反応したか。いずれにしろ、二人居た村人はあわただしく何か相談すると、一人が村長の家に向かった。もう一人はマリアから視線をはずし、気まずい雰囲気が流れた。マリアは丸腰だが、その戦闘能力は良く村でも知られているのだろう。困惑し、おどおどする村人の体温は激しく変化し続けたが、マリアのそれはほとんど変化がない。ただ、静かながらも筋肉は引き締まり、精神的に戦闘態勢を取って居るであろう事はすぐに分かった。
やがて、村人が戻ってきた。村の戸、粗末な木で作られたそれが軋みと共に開けられ、二人が中に通される。魔王は周囲を探査したが、周囲に塀がある以外は、特に要塞化された様子もなく、ただ雑然と家が並び、しかし立て直した後が何カ所かに有る。考えてみれば此処より歩いて数日の所で、戦が行われていたこともあり、戦乱に巻き込まれたことがあるのかも知れない。しかし軍事に詳しい者がいないため、要塞化しようにもノウハウが分からないのかも知れなかった。
村の外に探査の触手を伸ばすと、そこには畑らしい軟らかい土と、規則的に生えた植物の群れが広がっている。畑を作れる様な平野には限界があり、結局村の経済は有る程度以上の発展が見込めないのだろう。無論、閉鎖的な村社会が、それに拍車をかけているのは間違いがない。
様々な状況を、熱量探査する魔王の傍らで、マリアは鋭い視線を、村長の家らしい一番大きな家屋に鋳込んでいた。周囲の人間は、二人に構わず何か作業をするか、或いは等距離をおいて此方を伺っていた。やがて村長らしい人間自身が、大きな家屋の中から、数人の人間を伴って現れ、二人を中に招き入れる。後ろにいる人間の中には、形状から言って(若)と呼ばれていた例の男も混じっている様だった。その(若)以外は、いずれも体温の分布からかなり齢を重ねている事は疑いない連中で、間違いなく村の重役達であろう。それを裏付ける様に、マリアが村長と最年長の男を呼び、男は鷹揚に頷いていた。
村長の家に入ると同時に、魔王は動物の匂いを感じた。所詮は小さな村の長、中は大きな農家と形容する他にない。奥からは家畜の鳴き声がして、足を踏みならす音もした。勧められた席に着くと(土の床に、獣皮らしい物を敷いただけであったが)何か飲み物が出され、それと同時に村長が口を開いた。
「マリア、それで今日は何の用なのだ」
「……あたしなりに、この辺りの地形を調査してみたら、面白いことが判明した。 それで、あんたらにも教えてやろうと思ってね」
「ほう? 面白いこととは?」
此処でマリアが言う(面白い)は、魔王が口にした(面白い)と根本的に意味が異なる。前者は脅しのテクニックで、後者は単純な感情の発露だった。手はず通りにマリアが魔王に視線を向けたので、手にしていた丸い紙束を広げた。それは、この辺りの詳細な地図だった。等高線がきちんと書き込まれ、想像を絶するほどに詳細な代物である。魔王が魔力で構築した物で、マリアに初めて見せた力の一端だった。最初、これを見たマリアは詳細すぎるかと危惧した様だったが、村人達は単純に驚いただけだったので、危惧は良い方向で外れた。
「ここが村、この辺がルハムの縄張りになる。 それは良いかい?」
「ああ、しかしなんというか、精密な地図だな」
「あたしとこの子で書いた。 ま、あたしにもこの子にも不要な物だから、説明が終わったらあんたにやるよ。 で、話を続けるよ。 この辺のルハムの縄張りで、木を切り倒しすぎると、面白いことが起きるのさ。 木が、山の土を守っていることは知ってるね?」
マリアの言葉に、村長はただ黙って耳を傾けていた。魔王は周囲の人間の体温分布を探査していたが、一人だけ不穏な動きを示す者がいた。
「ルハムの縄張りから見て、傾斜を見てみると、ここをこう通って、こういう風に傾いてるんだ。 そして、もし木を切りすぎた場合、山の土は雨水に押し流されて、ここをこう流れて……」
村長の顔が、マリアの言葉を受けて見る間に青ざめた。もともとさほど愚かな人間ではないらしく、すぐに言わんとすることが分かったのだ。しかもこの辺りは、かなり雨の多い地域なのである。
「も、もしタイミング悪く大雨でも降ったら、村は、大量の土砂に襲われて、壊滅してしまうではないか!」
「そう言うことさ。 ま、これを知った上で、どうするかはあんた達次第だ。 最初の内は、計画的に木を切り倒して、適度な利益を上げられるかも知れない。 だけどそれが数年経てばどうなるかな? もともと小さなこの村の経済は、思わぬ高収入で乱れに乱れるんだ。 確実に制御は聞かなくなるよ」
禿げ上がった頭を、しきりで布で拭いながら、村長は困惑していた。その体温は、しきりに乱高下し、落ち着きを見せない。背後の連中も、体温に露骨な動揺が現れている。多少脅しを含んだマリアの言葉は、見事に彼らの肺腑を抉ったのだ。マリアの、容赦ない、さらなる追撃が、村長の尻をひっぱたいた。
「……あたしは、協力しない、と言うことで良いね?」
「ああ、何にしても、少し皆と相談せねばならないからな」
「じゃ、あたしは失礼させて貰うよ。 邪魔したね」
「……皆を集めろ、すぐにだ!」
振り向き、村長が言う。体中に焦りを浮かべていた。顔に出る以上に、体温の変動は雄弁だった。その様子からして、おそらく作戦決行はかなり近かったのであろう。或いは、今日行うつもりだったのかも知れない。不意に慌ただしくなった村長の家を、マリアと魔王は悠々と後にした。そして家から数歩離れた所で、魔王はマリアの袖を引いた。
「マリア、あの(若)とかいう男なのだが」
「ジェムスがどうかしたのかい?」
「……他の奴よりも、遙かに激しく体温が上下していた。 気も殺伐としておった。 気をつけろ、きっと何かしてくるはずじゃ」
「分かった、気をつけるよ」
緊迫した魔王の言葉に、思い当たる節があったのか、マリアは静かな声で頷いた。そして、程なく危惧は現実となったのである。
 
それからしばらくは、何も起こらなかった。臨戦態勢になっていた村は、どうやら自分のしようとしていた行為が愚行だと悟ったらしく、落ち着きを取り戻していた。貧しさを解決しなければならないのは当然のことだが、いずれそれは村の連中が、自分自身で解決しなければならないことなのである。貧しさを、他者の富と財産を強奪することで解決しようなどと言う結論は、結局破滅を産むだけなのであった。相手が人間でなければ、侵略が許されるなどと言う理屈は、そもそも成立しないのだ。
魔王は相変わらず周囲の森を彷徨く様になっていた。時々転ぶが、だいぶ上手な転び方を覚えたため、怪我をする確率も減った。時々ルハムの森にも趣き、ゴルホスと話もした。ゴルホスは縄張りの中のことなら文字通りなんでも知っていて、逆にそれ以外は何も知らなかったので、魔王へ他の世界の話をせがむことが良くあった。魔王は知る範囲でその疑問に答え、いつもゴルホスは感心して、なおかつ喜んでくれた。
村に赴いてから数日の地、ルハムの縄張りから家に戻ろうとしていた魔王は、足を止めた。自分の前に、怒りに狂った熱量が立ちはだかったのに気づいたからである。形状からして、十中八九ジェムスであった。気が、既に正気をとどめておらず、体内の温度も異常なほど上下して、文字通り荒れ狂っていた。
「てめえのせいだ……」
魔王の前で、ジェムスがわめいた。手にはどうやら合金の加工物らしい物がある。形状が鋭く、おそらくは刃物であろう。
「てめえが来てからだ、全てがおかしくなったのはあああああッ!」
沈黙を守る魔王の前で、ジェムスは激発した。魔王は不意に体を翻すと、ルハムの縄張りに向けてかけだした。本来ならすぐに追いつかれるだろうが、魔王は周囲の地形、木の生え方などを完璧に把握している。それらを使って上手く姿を遮蔽し、ジェムスを翻弄しながら、森の奥へ奥へと誘導していった。しばらくはそれで巧くいっていたが、不運が彼女を襲った。いつもの様に、転んでしまったのである。襟首を掴んで、追いついてきたジェムスが魔王を引きずり起こし、木に叩き付けた。そしてわめき散らす。
「てめえが来てからだ! マリアは別人の様に強くなっちまった! もう少しだ、もう少しだったんだ! もう少しで、俺の物に出来たんだ! それを、それを……! この、クソガキがああっ!」
「っ!?」
魔王は左手に灼熱が走るのを感じた。ジェムスが、刃物を突き入れたのであろう。刃物は皮膚を突き破り、筋肉に達していた。それを抉る様に動かしながら、ジェムスはわめき続ける。左手に走る痛みは、徐々に激しく、深くなっていった。鋭い刃先が、筋肉を傷つけ、切り裂き、骨にまで達したのだろう。鮮血が吹き出すのを、魔王は感じた。痛みという感覚にはなれていたが、今回のそれは、絶望を伴っていた。魔王はこのとき、自然に、死に対して嫌悪を抱いていた。死にたくないと、思っていた。
「てめえが全部悪いんだ! こきたねえ猿共を追い出すことを成功させて、俺が村の英雄になって! マリアを好きにして! 全部手に入れようと思ったのによォッ! てめえが、てめえがいけねえんだ! 責任をとれっ! クズがあああああっ!」
「……っ、いやじゃ。 ……そんな勝手な責任など取りたくない。 死にたくない!」
「うるせえええエェえっ! 俺の許可無く喋るんじゃねえっ! このどこぞのモノとも知れネエ流れ者のクソガキがああっ!」
ジェムスは乱暴に刃物を魔王の左腕から引っこ抜き、たかだかと振り上げた。魔王は冷静に、動く方の右手で魔力を構築し、ジェムスに向けて放った。閃光が炸裂し、目を灼かれたジェムスが狂咆を上げた。素早くその手から体を強引に引き離すと、魔王はルハムの縄張りへさらに走った。うしろから、狂鬼と化したジェムスが、吠えながら追いかけてくる。それは、まさに魔王が恐れ続けた、人間そのものの姿だった。鮮血がしたたり落ちる左腕は後で回復しないと、使い物にならないだろう。痛みは我慢出来たが、死への恐怖が、今回はどうにも我慢出来なかった。あれほど望んでいた死なのに、である。
ジェムスを殺すのは簡単だったが、マリアのためにもそれはやりたくなかった。そうこうする内に、魔王はまた転んでしまった。ジェムスはその背を容赦なく踏みつけ、髪の毛を掴んで引っ張り、首にナイフを突き込もうとした。その顔面に、不意に木の実がぶつかり、動きが止まる。困惑するジェムスの手を、別の手が掴んだ。ジェムスに負けないくらい激しい怒りに体温を上げた、マリアだった。魔王の言葉から、ジェムスに危険を感じたマリアはまめに周囲を見回ることにしていて、今回はそれが実ったのである。
「マリア!」
魔王が苦痛をこらえてそう呼ぶと、マリアは容赦なくジェムスの右腕をひねり、そのまま筋をねじ切った。悲鳴を上げるジェムスを前のめりに押し倒すと、後頭部を掴み、激しく石に叩き付ける。更に素早く立ち上がり、左腕を掴んで左肩を踏みつけると、全体重をかけてそれをひねり、一気に関節を破壊した。壊れた悲鳴が上がった。マリアの息が上がっている。どれほど冷静さを失い、どれほど真摯な怒りが体に満ちているか、それだけでも明らかだった。それが、魔王には嬉しかった。
「……やってはいけないことをしたね……ジェムス……! 絶対に許さないよ……!」
「マリア……俺は……お前のためにも……英雄に……そのガキがいけないんだ……」
苦痛の中で声を絞り出すジェムスの背骨を、マリアは体重をかけ、激しく踏みつけた。絶望的な苦痛を味あわされたらしいジェムスが、とうとう泡を吹いて気絶した。
程なく駆けつけた村長は、ジェムスの様子が最近おかしかった事に気づいていたようで、驚くよりも、やはり起きてしまったかと言った様子で嘆息した。また魔王の怪我にも目をとめ、静かに頭を振った。誰が見ても、事情は明らかだった。そして村長は、マリアの説明を全面的に認めた。息子の精神のたがが外れていることは、彼にとっても悩みの種であったのかも知れない。
「バカ息子が迷惑をかけた。 すまなかったな。 こいつはわしが、責任を持って根性を入れ直す。 だから許してくれ」
「……いや、妾は命が助かったし、もう良い。 マリア、帰ろう」
まだ血が止まらない左腕を押さえながら魔王が言うと、村人を促し、ジェムスを引きずりながら村長は帰っていった。途中、申し訳なさそうに一礼した様だが、知ったことではなかった。
「ありがとう、ゴルホス」
魔王が帰る途中、不意に振り返って言った。村長は気づかなかったが、木の上にはゴルホスが居たのだ。彼が木の実を投げつけてくれなければ、マリアは間に合わなかっただろう。縄張りに生える木以外のことで、ルハムが助力してくれるのが如何にまれなことか、魔王はその生態から悟っていた。マリアも隣で一礼していた。ゴルホスは胸を叩き、大きな吠え声を上げると、森の奥へと飛ぶ様に去っていった。
 
6,ぬくもり
 
ジェムスに襲われた数日後、マリアは魔王を山の頂上へ連れて行った。そして石積に視線を向けながら、魔王に言う。
「紹介するよ。 ロイド=ゼファード。 前にも言ったけど、あたしの恋人さ。 もう、違う世界の住人になっちまったけどね」
「そうか。 初めまして、ロイドとやら。 妾はルシェルトじゃ」
大まじめに礼をする魔王と共に、むき出しの地面に腰を下ろすと、マリアは此処へ落ち着いた経緯を話し始めた。
「……スラム出身だったあたしは、実力で自分の存在意義を証明するしかなかった。 軍に入って、必死に実力を付けて、功績を挙げた。 気がついたときには、十代で精鋭部隊の一人になってたけど、同時に何にもあたしは持ってなかった。 なりふり構わず駆け足で人生を送ってきたから、何も持っちゃあいなかったのさ。 ふとそれに気づいて、愕然とした時、側にいてくれたのがこいつだった。 弱いくせに、他人のことばかり考える、本当に良い奴でさ……」
マリアの体温が、微妙に上下している。その変動は、とても暖かく、悲しかった。
「此奴とつるむようになった頃から、任務に疑問を持つ様になって来たんだ。 前は村一つ丸焼きにして、女子供も皆殺しにしろ、とか言われても、平気でやってたのにね。 他人を自分より大事にする此奴に毒されて、いつの間にかあたしは、人の心とかって物を手に入れてたんだと思う。 事実、あたしの心は、此奴に貰った様なもんだったのさ」
マリアが陶器の瓶のふたを開け、中の液体を石積みにかけた。どうも酒か何からしかった。マリアは、そのまま続けた。
「破局の時は、以外に早かった。 国が内戦になって、最精鋭だったあたしは、情報収集を主任務にするこいつと組んで、ゲリラの掃討に当たったのさ。 あたしの他にも同じ任務についてた奴は居たけど、国の政治が不味すぎたのか、ゲリラの勢いは強くてね、ほとんどみんな死んだよ。 こいつも、子供を庇おうとして、その子供に刺された傷が元で死んだんだ。 悪魔、鬼、とののしられてね。 でも、それで良いって笑ってた。 あたしは瀕死の此奴を担いで逃げた。 逃げる途中に、国家が解体されたって聞いたけど、もうどうでも良かった。 そして、ここで、此奴は死んだ。 あっけない最後だったよ」
「……」
マリアは酒をあおった。そうせねば、この先は言葉に出来なかったのだろう。
「全部無くしたあたしは、ここで畑を耕して暮らしてた。 ゴルホスと会ったのも、その直後だった。 畑を耕して、受け入れてくれる友達が出来て。 少しずつ生き甲斐はできはじめてたけど、あたしは自信を亡くしてた。 だってそうだろ、あたしに心をくれた恩人が、いなくなっちまったんだから。 だから、あんなバカに、もう少しで押し切られる所だった」
「……妾も、ここに来る前は、死に場所だけを考えていた。 妾も、マリアと同じくらい酷いことをたくさんしてきたからじゃ。 生きる資格もない、クズだと思っていたからだ」
「……やっぱりね。 最初の頃のあんた、昔のあたしと同じ顔してたから。 でも、ロイドに貰った物を、あんたにもあげることが出来て、本当に良かった。 そして、あんたと暮らして、それによってあんたが優しく代わっていくのが嬉しかった。 あたし、あんたのお陰で自信を取り戻せたんだ。 あたしの力は、存在は、無駄じゃない。 他人を守るために使えるんだって」
マリアは笑ったらしかった。熱量探査では、どうしても細かい表情までは分からない。だが、雰囲気で分かった。魔王も、笑顔を作ると、ロイドに頭を下げた。
「ありがとう、マリア。 今、妾は生きたい。 ありがとう、ロイドとやら。 汝は妾の、恩人の恩人じゃ」
暖かな風の吹く中で、魔王は自分の意義を見つけることに成功していた。魔王としての意義は持つことが出来なかったが、マリアの側にいる、家族としての意義を見つけることが出来たのだ。ふと、頭の中に、あの男の事が思い出される。あの男は、中途半端に、魔王としての意義にこだわることを糾弾していたのであったのではないか。そして今の自分を見れば、笑って認めてくれるのではないか、そう思ったのだ。
罪は消えない。だが、それはこれから返していけばいい。マリアと居られる時間は、おそらく短いが、それでも構わない。今後の人生は、明るく開けている様に、魔王は思えた。
「マリア、その……これから、姉上と呼んでも良いか?」
魔王の言葉に、マリアは一瞬驚いたが、すぐに笑って了承した。この時マリアは、魔王の、いやルシェルトの、姉となったのだった。
 
(終)