償われる罪、だが罰は容赦なく

 

序、自らに課す罰の重み

 

達哉が<此方側の自分>と同調したのは、新世塾による事件が活発化する少し前のことである

その時、達哉はアラヤ神社で、自分の罪の重さに絶望感を覚えていた

自分の前に現れた、宿敵の片割れにも、声を掛けられるまで気がつかなかった

「たつやおにーちゃん。 どうしたの、ふさぎ込んで」

「・・・何をしに来た。 俺を殺せとでも言われたのか?」

達哉が相手に気付き、応えた。 彼の眼前にはルヴィアがいて、にこにこと微笑んでいた

「まさか。 ここでお兄ちゃんを殺すよりも、生かしておいた方が色々と楽しいモン」

「そうか。 俺には殺す価値もないんだな・・・」

自嘲的な微笑みが宙に流れた。

達哉はその時、どこからか拾ってきたジッポライターを大事に握りしめていた

向こう側の宝物であった、淳にもらったジッポライターの代わりにしようというのだろう

握りしめる力が、ルヴィアが現れてから若干強くなっている

「・・・ニャルラトホテプは聞いているのか?」

「んーん。 ニャルちゃんね、私のする事だけは覗かないの

だから、何かお願いするなら、今がチャンスだよ。 何か言いたいんじゃないの?」

達哉の問いに、ルヴィアが目を細めて応えた

ナナミのように少女のなりをしていても、流石に桁外れの年数生きているだけあり

彼女は普通の人間等よりも、人間精神に対する感性に於いて、判断力に於いて、遙かに鋭い

相手が何かを望んでいる事を瞬時に察し、そういう答えを返したのである

達哉は彼女の言葉を信じた。 そして、決然と顔を上げた

「一つ、願いがある。 俺に罰を課して欲しい」

「どんな罰? 私おにいちゃん大好きだから、大体のことは聞いてあげるよ?」

「舞耶姉が、絶対に俺を男として認識しないようにして欲しい」

ルヴィアはしゃがむと、いつものように笑みを浮かべたまま、小首を傾げて見せた

「どうして? まやお姉ちゃんは、向こう側でお兄ちゃんの事男として好きだった訳じゃないでしょ?

嫌いだった訳じゃないと思うけど・・・男として愛されるなんて、思い上がりじゃない?

ひょっとして、それが自分が一番望むことなの?」

「理由は二つある。 一つに、たとえ万が一でも、俺には舞耶姉に愛される資格がない

あんな罪を犯して、その上舞耶姉に愛されたりしたら・・・俺にはもう誰にも合わせる顔がない

もう一つは、身体を借りている此方側の俺のことだ

・・・此方側の俺には、もう将来を決めている恋人がいる。 同調して分かったんだ

此方側の俺はその子・・・吉栄杏奈の事を真剣に好いているし、向こうもその様だ

・・・俺が舞耶姉に愛される資格は、ありとあらゆる理由で存在しないんだ」

「ふーん、私たちに勝ったとき、まやお姉ちゃんがお兄ちゃんを好きなままだと

こっちのお兄ちゃんが、迷惑するって考えてるんだ。 ふふーん。

わかった。 お兄ちゃんのお願い、聞いてあげる。 んふふふふふ・・・・・

ニャルちゃんだったら、そこでまやお姉ちゃんの心を達哉お兄ちゃんに向けただろうけどね」

ルヴィアが笑っている、達哉は顔を下げ、じっと沈黙していた

「聞いてあげるけど、条件があるよ」

ルヴィアは咳払いをすると、達哉に向け<条件>を蕩々と語った

それは達哉が許容できないような物ではなく、むしろ望むところであり

故に少年はその条件をのみ、頷いた。 彼は、目の前にいる相手がどういう存在か良く知っていた

次の瞬間、彼の腕に焼け付くような痛みが走った。 達哉の腕に、小さな黒い腕が絡みついていた

「じゃ、指切りげんまん。 その傷がある内は、私との約束を絶対に忘れちゃ駄目だよ」

あまりの苦痛に、達哉は絶叫し、ライターを取り落とした

乾いた音が響き、そしてルヴィアは微笑むと、この世から姿を消した

後は腕を押さえて苦痛にもがく達哉と、誰もいない神社と、腕の傷だけが残った

そして、虚空にルヴィアの声だけが響いた

「それだけじゃあんまり可哀想だから、少しアポロをパワーアップしてあげる

せいぜい頑張ってね。 んっふふふふふふふ・・・・」

この時から、達哉の地獄は始まったのだろう。 そして、それは半分以上、自分で科した物だった

 

1,因縁の対決

 

達哉の目の前には、地上最強の人間がいた。 彼女の名は、鳩美由美。

ギリシャ神話最強最大の怪物テュポーンをペルソナとする、執念と怒りに満ちた復讐鬼である

ニャルラトホテプの作りだした迷宮に、彼女は二十時間以上も前から、達哉を待ち、目を光らせていた

少し前、<御前>と呼ばれていた存在に、精神同調をしていたニャルラトホテプと由美は

竜蔵を介し、接触を果たした。 それは、どちらにとっても都合のいい邂逅であった

由美にとって不倶戴天の敵を葬る好機、ニャルラトホテプにしてみれば面白い手駒を得る好機

両者は少なくとも表面上は同盟を組み、互いに協力を誓った

元々この二人は以前から接触があった事もあり、同盟が簡単に成立したという事情もあった

そして確実に達哉を補足できるこの場所で、由美は待っていたのだ

「・・・遅かったわね。」

由美はそれだけ、静かに、そして威圧感を込めて言った。 既にテュポーンは、彼女の頭上に具現化し

無数の蛇が、舌を鳴らし達哉に殺気を向けている。 その姿は前に戦ったときより数段強大化していた

達哉の後背には、見えない壁があった。 この場所に彼が入った途端、自動的に作動したのだ

「何故、俺をつけねらう」

刀を抜き放ち、達哉が言う。 後ろでは、他の四人が不安げな視線を彼に向けていた

達哉と由美の間にある殺気は一秒ごとに収束し、そして突序にして爆発した

残像すら残し、由美が走った。 もはや人知を超えた速度で間を詰め、抜き手を繰り出す

とっさにアポロの防御結界を展開し、達哉の眼前に火花が散った。 凄まじい攻撃に慄然としながらも

達哉は身を屈め、居合い抜きを放つ。 だがそれは由美をかすることすら出来ず、空を切った

「腕を上げたわね。 これで私も気兼ねなく本気を出せるというものよ・・・」

一撃を受けるのに精一杯だった達哉に対し、距離をおいた由美は余裕綽々である

その身が、更なる凄まじい魔力に覆われた。 咆吼する由美の周囲から、常軌を逸する力が吹き上がる

大砲を撃つような音が響き、強烈に圧迫された空気が爆音を轟かす

由美が走ったのだ。 そして、叫び声と共に身体を捻り、後ろ回し蹴りを放つ

凄まじい圧迫感を感じた達哉は結界を全力で展開、さらに腕も使ってガードしようとした

だが、それは余りにも無謀だった。 彼は結界ごと吹き飛ばされ、地面に叩き付けられ、バウンドした

「おい、天野、壁を破るぞ! あれは一人で勝てる相手じゃねえ!」

壁に拳を叩き付け、パォフウが叫んだ。

その向こうでは、何とか起きあがった達哉が、またしても横殴りの蹴りを喰らい

今度は異形の模様が刻まれた壁に叩き付けられ、吐血していた

もはや魔王クラスの実力を身につけた由美は、人外と言って過言ない存在である

その彼女にとって、幾ら強いと言っても、人間である達哉一人ではもう勝ち目はなかった

だが達哉は起きあがり、勝機を狙って刀を構える。

その周りでは結界が負荷に悲鳴を上げ、スパークを繰り返していた

「おおおおおおおおっ!」

煉獄の炎が形を成し、達哉の頭上に集まる。 由美は鼻を鳴らすと、またしても地面を蹴った

一瞬おいて、彼女が炎に包まれる。 しかしそれは由美の前進を止めるにはいたらず

意に介さないように走り続ける由美は、瞬時に炎を払いのけ間合いを制圧、達哉の眼前に躍り出ていた

それを待っていた達哉が、一気に刀を振り下ろした。 魔力を持った強力な刀、七星剣が空を薙ぎ

だが無情にも、敵を傷付けることあたわず。 唖然とする達哉の前で、刀は由美の手に捕まれていた

素手で刀身を掴みながら、由美は平然としている。 そして右手を延ばすと、結界を楽に掴み破り

そして、達哉の左腕を掴んで、肉をちぎり取った

間髪入れずに、達哉が横に吹っ飛んだ。 由美がそのまま繰り出したハイキックを側頭部に受けたのだ

吹っ飛んだ相手には目もくれず、達哉から強奪した刀を放り捨てると、由美は恐るべき行動をとった。

ちぎり取った肉を、血塗れの手で口に運んだのである

小さな音のはずなのに、それはいやに大きく聞こえた。 肉を噛み、唾液と混ぜ、飲み込む音

思わずうららが目を背け、そして蒼い顔で口を押さえた。 嘔吐感を覚えたのである

「い・・・いかれてる・・・いかれてるよあの女っ!」

うらら以外の誰もが無言だった。 舞耶は感情を抑え、何度も魔力の塊を壁に叩き付けている

その時、鳩美由美は、誰がどう思おうと、既に意に介していない

口中に残った服の切れ端を地面に吐き捨てると、面白くもなさそうに、しかも正気を保って言った

「ふーん・・・噂通り人肉ってまずいわね。 一番美味しいらしい上腕二頭筋でこれ・・・

まだまだ死なないでよ・・・これから全身の肉をむしり取ってあげるから」

「くっ・・・何故だ、何故其処まで俺を憎む!」

血が噴き出す左腕を押さえ、達哉が叫ぶ。 想像を絶する苦痛が、声を自然と大きくしていた

由美は肩をすくめ、大股で敵に近寄っていった。 そして、敵の耳元に口を近づけると、何か囁いた

目を大きく見開き、達哉が硬直した。 敵の動機が、理ある物だと感じたからである

腰砕けになった達哉の腹に、由美の膝がめり込んだ

宙に浮き上がった青年を、容赦なく拳が追い打ちする。

そして、テュポーンが首を延ばし、空中で達哉を捕獲して身体を締め付けた

「達哉! 達哉ー!」

我に返った克哉が叫ぶが、そんな事で事態が好転するはずもない

克哉がペルソナを発動させ、舞耶と一緒に攻撃を壁に叩き付ける、しかし壁は破れない

「くっ、ならばもう一度だ!」

「やめとくです。 そんな攻撃、その壁には効かないですよぉ」

聞き覚えのある冷徹な声に、皆が一斉に振り向いた

「おまたせして申し訳在りません。 Ms,Amano、ただいま参りましたわ」

「約束通り、加勢いたしましょう」

そこには、フィレモンの手引きで今この場に辿り着いた、南条、桐島、ナナミがいた

体力は完全回復し、武器の整備も気力も完璧である。 同盟者達は、此処に集結したのである

 

壁に張り付いている克哉をどかせると、ナナミは精神探査の触手を延ばし、壁の分析を始めた

数秒の思案の末、ナナミは結論を出した。 そして振り向き、静かに言った

「今からこの壁に、ナイトメアが中和魔力を送るです。

色が一瞬変わるだから、その瞬間を狙って全員で一斉攻撃・・・それで多分破れるです

おそらく、全開でなくても大丈夫・・・少しでも力を温存するですよぉ!」

冷静に舞耶が頷いた。 ナナミの手が淡く輝き、壁に見えない波紋が広がり、そして色が変わった

飛び退いた悪魔の少女がいた場所に、複数の攻撃魔法が炸裂する

それは爆発と濛々たる煙を巻き起こし、奇怪な音を立てて、壁が崩れていった

舞耶が走る、全員がそれに続く

壁のあった場所の向こう側には、巨大なペルソナを具現化させ、達哉を締め上げる由美がいた

苦しむ達哉を楽しそうに眺めながら、最強のペルソナ使いは舌なめずりしていた

「苦しい? もっと苦しめてあげるわよ。 全身の骨をへし砕いて、その後素手で解体してあげる

ほら、泣き叫びなさいよ、あがきなさいよ・・・

アンタに殺された私の両親の苦しみは、こんなもんじゃなかったわよ

・・・ところで、いつまでそんな所につったってるの? 全員がかりで良いから、かかってきたら?」

「貴様・・・新世塾の関係者か?」

克哉が憎悪と拳銃を由美に向け、言い放つ。 その言葉の意味は明確である

もし由美の両親が新世塾の関係者なら、達哉に殺されたのを恨むのは筋違いだというのだろう

だが、それは現実とは違う。 由美は余裕を見せながら、肩をすくめた

上で苦痛にもがく達哉を、更にきつく締め上げながら、復讐鬼は静かに応える

「おあいにく様。 私の母は普通の主婦、父は小さな商社の部長だったわ」

「だったら何故、達哉に殺されねばならないんだ! 本当に殺したのは達哉なのか?」

克哉の声には、微塵の揺るぎもない。 達哉に対する、絶対の信頼があるのだ

彼は弟のことを何も知らないようで、実は全て知っている。

どんなにぐれていようと、達哉は一度も理にかなわぬ悪事はしなかったし

弱い者いじめや恐喝のような醜行は一切行わず、誇り高い少年だった

だから絶対、由美が言うような事をするはずはない。 そう信じていた。

だが、由美は目に今までと違う光を浮かべ、冷徹に達哉の罪状を告発し始めたのである

「私の両親はね・・此奴に・・・此奴に生きたまま解剖されたのよ

押入で震える有作と、私の目の前でね・・・喉を切られて声を出せないようにしてから

腹を割かれて、内蔵を引っぱり出されて・・・・!」

青ざめるうららを前に、吐き気を催すような殺害現場の情景が、蕩々と語られた

由美は更に苛烈に、凄絶に、自分の見た物を語っていった

そして、最後に、吐き捨てるように言った

「・・・下手人は須藤竜也・・そう、此奴じゃない

私が助かったのは、たまたま近くを警察の車が通りかかったから・・・ふん。

まだ小さくて、身よりもなかった私は孤児院に入れられたわ。 もう10年も前の事よ

そこで、私は最初の殺人を侵したわ・・・懐かしい話・・・ふふふふっ」

「須藤竜也はもう死んだ! 大体、何故、それが達哉のせいになるんだ!?」

克哉の声には動揺の要素が多分に含まれていた。 彼も、他の者達も、もう気付いていたからだ

そして由美は、それを冷徹に指摘した

「もうあなたも気付ているんじゃないの? ・・・リセットが不完全になり

ニャルラトホテプが跳梁跋扈し、大勢の人が死んだのは・・・其処にいる周防達哉のせいだってね!」

場を沈黙が支配した。 由美は達哉を更にきつく締め上げ、骨のなる音が宙に響きわたった

 

由美が有作と一緒に入った孤児院は、地獄そのものと言っていい空間だった

やる気のない職員は子供の面倒など見ず、与えられる食事は家畜の餌並

無論、殆どの孤児院はそうではないが、由美の入った孤児院は最低最悪の場所であった

やがて、由美の力が覚醒するきっかけとなる事件が起きた。 所長によって、有作が乱暴されたのだ

職員達に輪を掛けて最低な人間だったこの所長は、閉鎖空間を良いことに

年頃になった孤児に性的乱暴を加えたり、無理な労働をさせて金を稼がせたりと

文字通り人道に外れる行為を行っていたが、やがてそれが由美と有作にも向けられた

有作はその日、ただ所長と目があっただけで、半殺しにされた

もともとこの少年は身体も気も弱く、所長の暴力に為す術がなく

所長の行動を面白がって助けようともしない職員と、恐怖にすくむ孤児達に囲まれ

無力感と絶望感に立ち竦む姉の前で、有作は大柄な所長に殴られ

体中にアザを作り、血を吐き、死ぬ寸前まで追い込まれた

この孤児院では、過去に「事故」によって、何人もの孤児が死んでいたが

それは殆どが環境による栄養失調や病気、所長の暴力による人為的な死であり

しかも警察に個人的なコネを持つ所長が巧妙にそれらを隠し、世間には何も真相が漏れなかった

つまり、所長は何をやっても大丈夫と考えており、この時実際に憂さ晴らしで有作を殺すつもりだった

由美のペルソナが覚醒したのは、その時だった。 結果起きた事は、所長以下、職員全員の死だった

彼女は一切手加減しなかった。 所長は生きたまま八つ裂きにされ、職員達も順次挽肉にされた

事件によって、流石に孤児院の実態が世間に知らされることとなったが

12名もの人を殺した由美が無事でいられるはずもなく、彼女は弟を連れて社会の闇に消えた

それから暫くして、ファントムソサエティという組織に、由美は所属することに成功したのである

其処はペルソナ使いとなった彼女が強力な霊的嗅覚と執念を生かし、新たに勝ち取った居場所であった

だが、そこは決して平穏な居場所でも、安全な居場所でもなかった

 

毎日が殺人と、死と、闇との隣り合わせの日々だった

其処で由美は、持ち前の執念と才能を生かし、瞬く間に地位を確保していった

ペルソナ使いがサマナーに比べて珍しいと言うこともあり、由美はファントムでも重宝され

その圧倒的な実力もあって、今では勝手に単独行動をとることが許されるほどの幹部になっている

有作はサマナーとしての才能があり、姉の庇護を常に受け、また運良く良い師匠につく事が出来

良い部下を得ることが出来たため、何とかやっていくことが出来た

竜蔵に由美が接近したのも、直接の仇である須藤竜也を殺すためであった

放って置いたら、いずれ由美が竜也を殺害していただろう

だがその時、彼女に「這いよる混沌」が接近し、全ての真実を告げたのである

それから間もなくして、須藤竜也は死んだ。 だが、もう由美にはどうでもいいことだった

彼女の脳裏には、もうこの事態の主原因である、達哉への恨みしかなかった

無論、這い寄る混沌を許す気もない。 達哉を殺したら、這い寄る混沌も倒すつもりであり

実際、魔王クラスの実力を持つ由美にとって

現世に出ているほんの一部にすぎない、此処にいる這い寄る混沌を撃破することは不可能ではない

だが彼女にとって、一番許せないのは達哉だった。 だから、這い寄る混沌は後で良かったのだ

 

ナナミが一歩前に出た。 南条の方にちらりと視線を向け、頷く

南条はそれに答え、眼鏡をなおした

パートナーがやろうとしていることを悟ったからであり、それを止める気がない事を示したのだ

舞耶がそちらに視線を向け、だがすぐに目をそらした。

必要だと分かっていても、彼女には、ナナミほど過激なことが出来そうにはなかったからである

ナナミが浮き上がり、達哉の前に出ていた。 そして沈鬱な表情を確認すると、咳払いをし、叫んだ

「この、おバカぁ!」

乾いた音が響きわたる、少年の頬に、平手打ちが炸裂したからである

唖然とした達哉が顔を上げると、更にナナミは一撃を浴びせた。 乾いた音がもう一つ、虚空に響いた

「な、何するんだ!」

「それはこっちの台詞ですぅ。 達哉お兄ちゃん、こんな所まで何しに来たんですか?

自分で科した誓いは忘れたんですか? 応えろ! でくの坊か貴様はっ!」

達哉の目に烈火が宿った。 沈鬱な感情に押し潰されていた、目的意識が戻ってきたのだ

少年の身体を締め上げている、巨大な蛇が苦痛の悲鳴を上げた

鼻を鳴らした由美が視線をそちらに向けると、達哉が絶叫した

「うおおおおおおお! 俺は、俺は! 二度と背中を見せないと、誓ったんだ!

ここで死ぬわけには行かない! 罰は受けるが、それは全てを精算した後だ!」

ナナミが微笑みを浮かべ、すぐにその場を離れる

巨大な魔力が収束し、周囲を閃光が蹂躙した。 ペルソナ・テュポーンの一部である蛇が吹っ飛び

自由になった達哉が、地面に降り立つ。 そして、刀を構えた

舞耶が駆け寄り、回復魔法を発動させる。 彼女は事態がどう推移するか、正確に把握していたのだ

主神クラスペルソナのアルテミスだけはあり、回復能力は強力無比であった

由美に負わされた、肉体的なダメージは見る間に回復していく、少なくとも体表面にある傷は。

再び戦う力が戻った少年を前に、由美は鼻を鳴らした。 彼女の頬には、亀裂が走るように傷が付き

鮮血が吹き出して、小さな川を作っている。 だが、由美の余裕は代わらなかった

「何、私に傷でも付けたつもり? あははははははははははははは!

テュポーンが誰の父親だと思ってるの? 更なる恐怖に絶望する事ね・・・」

驚愕した皆の前で、テュポーンの吹き飛んだ蛇が、瞬時に再生した

同時に、由美の頬についていた傷も、跡も残さず消え失せた。

「再生能力か・・・厄介だな。 無論精神力は消耗するのだろうが」

南条が呟く、更なる死闘を覚悟したその場の全員が、心身を共に整え直した

「だが、無敵じゃないことは証明されたな・・・」

パォフウが構えを取る。 流石に、全員がかりでかかれば、この怪物とて倒せない相手ではないはずだ

普通の使い手なら、此処で間合いを取るか、各個撃破をするかしただろう

だが、由美は違った。 彼らを意に介さないように、達哉に歩み寄り

そして、凄まじい一撃を繰り出し、壁に叩き付けた。 誰一人、その速度に反応できる者はいなかった

壁に叩き付けられた達哉の胸ぐらを掴み、由美は更に一撃を浴びせる

吐血する達哉だが、戦意を失ってはいない。 その目には、炎が如き輝きがあった

振り上げた刀を、気合いと共に振り下ろす、束縛が外れ、連続して達哉は反撃に出た

強烈な炎が、灼熱の塊が、幾度も由美に叩き付けられる。 だが、それはいずれも効果を示さなかった

そこで、由美はテュポーンを発動させた。

だがペルソナは主君に従わず、そればかりか悲しげに見つめ、口を開く

「もうやめよう、ご主君。 みていられぬ」

「・・・・あっそう、じゃあいいわ。 私一人でも、こんなカスは充分よ」

吐き捨てると、由美は更に身に纏うオーラを吹き荒れさせ、拳を繰り出す

達哉も反撃するが、残念ながらもともと戦闘力の次元が違う

拳は正確で強烈な打撃を与え続け、鮮血をばらまいた

それでも達哉は屈しない。 目に炎を輝かせ、由美に反撃してくる

「向こう側でね・・・」

達哉の反撃を捌きながら、由美が言う。 その表情には、達哉と同様に、今までと違う物があった

「私は普通の人間だった。 家族も普通の人間だった

無論、貴方達みたいに大きな事なんて出来ない・・・路傍の小石ってやつよ

大きな事など出来ず、時代に流され、無力で弱い。 まあ貴方達の目から見たら、雑草みたいな物よね

でもね・・・覚えておきなさい!」

轟音と共に拳が繰り出され、何とか達哉はそれをかわしたが、続けざまに放たれた回し蹴りはかわせず

大きく吹っ飛んで、壁に叩き付けられ、ついで地面に転がった。

既に由美は上にいて、さっき肉をちぎりむしった左腕を、容赦なく踏みつける

内部の傷までは再生しきれなかったのだろう、達哉の表情が、苦悶に満ちた

由美は何度も踏みつけた、正気を保った表情のまま、傷を何度も踏みつける

「覚えておきなさい・・・覚えておきなさい・・・覚えておきなさい!

雑草だってね、踏まれれば痛いし、家族を失えば悲しいし、身体をちぎられれば苦しいのよ!

ええ、私は雑草よ! だけど覚えておきなさい! 雑草だって、命有る者なのよ

大義の前には、貴方達は雑草なんて見えないでしょうよ。 だけどね・・・

雑草にだって命もプライドも家族もある! アンタだけは、絶対に許せない!

大義の前に犠牲は付き物? そうやってアンタ達は常に自己正当化する!

罪を償うために戦う? ああ、そうやって、せいぜい自己陶酔してなさいよ!

アンタはそれでいいでしょうよ・・・自分が成長する糧になるんでしょうよ

だけど、全てを踏みにじられた者はどうすればいいの!?

私は、だから、限界を超えて強くなった・・・正義ぶったアンタを絶対に許せないから!

アンタを殺すためなら、私は何でも捨てるわ。 感情だって、心だって、人道だって、人間だってね!

さあ、挽肉にしてあげるわ・・・何やってるのよ貴方達・・・隙だらけと思ったら攻撃してきなさいよ

・・・・? 何よその顔は・・・」

長身の達哉を利き腕ではない左手一本でつるし上げ、由美は振り向いた

その顔が、怪訝さに満たされる。 舞耶は、誰よりも悲しそうに、彼女を見つめていたからだ

疑問が沸き上がり、由美は思わず吐き捨てていた

「大事なデジャヴの少年を痛めつけられてそんなに悲しい?

だったら、全員がかりで攻撃しなさいよ・・・そうしないと、私には傷一つつけられないわよ」

「違うわ・・・頬に手を当ててみて」

舞耶は沈痛な表情のまま、そういった。 由美は怪訝そうに空いている右手で頬に触れ、硬直した

水がついた。 暖かい、それでいて冷たい悲しさに満ちた水。 ・・・それは涙だった

「貴方は、優しすぎるのよ。 達哉君の哀しみも分かっているし、自分の行動の矛盾にも気付いている

人間を捨てたなんて嘘・・・達哉君を傷つけているとき、誰よりも貴方は悲しそうだった」

「・・・馬鹿な・・・何故? 何故こんなモノが流れるの?」

涙が止まらない、由美は拳を何度も壁に叩き付けたが、溢れるように流れ出る感情は止まらなかった

「何で・・・何で・・・・! あは・・・あはははははははは!

こんな・・・こんな・・・どうして悲しいのよ・・・こんな・・・はずは・・・」

由美は堪えられなくなったのである。 自分を偽ることにも、相手を傷つけることにも

それが涙という形を取って、この場で噴出した、ただそれだけの事であった

今まで押さえつけていた感情が、奔流となって爆発していた。

最近は弟にも冷たかった。 矛盾だらけだと分かっているのに、達哉を殺す事だけに思いを馳せていた

弟は、唯一の家族は、それをやめさせようとしていた。 何故、それに応えなかったのだ・・・・・!

膝から崩れ伏し、由美はただ泣くばかりであった

本当は、人並み以上の優しさを持っているこの娘にとって、今までの事は辛すぎたのであろう

如何に罪悪感と矛盾感と怒りが彼女を傷つけ、苦しめていたかは

先ほどのテュポーンの態度や、最近の由美が精神に半ば異常をきたしはじめていた事

それに、達哉に対する苛烈すぎる攻撃からもあきらかであろう

しばらくは嗚咽とすすり泣きばかりが場を支配していたが、やがて小さな声が漏れた

「・・・私の気が・・・変わらない内に・・・さっさと行きなさい・・・

早くしなさいよ・・・早く行かないと、あんた達の首へし折るわよ・・・

許した訳じゃないわよ・・・早く行きなさい!」

「いくぞ。 この状況を作りだし、俺達を弄んでる奴をぶちのめす」

パォフウが、尋常ならざる表情で、うららの袖を引いた

程なく、その場には由美だけが残った。 彼女はもう、仇敵を追おうとはしなかった

駒としての役目を、彼女は完全に果たしたことになる。 自分の意志に関わらず、である

それをパォフウは悟っていた。 ナナミも南条も、克哉も舞耶も悟っていた

故に、絶対に糸を引く者は許せなかった。 その感情が、敵に力を与えると分かっていてもである

同時に、そろそろ達哉の精神も限界に近い

由美に完璧に事実を指摘され、自分の罪を改めて思い知らされたからである

今は強力な精神力で全てをねじ伏せてはいるが、それもいつまでもつかどうか分からない

更なる問題として、ニャルラトホテプの手による世界滅亡がいつ起きるか分からないと言う事もあった

つまり、急ぐ以外に道はない。 だが、無駄に体力を消耗するわけにも行かない

もどかしい思いをもって走る八人の前に、突如として広い空間が開けた

その先には、天井のない空の下、延々と道が続いている

「運命にあらがい、現実にあがく愚劣なる諸君、ようこそ私の体内に」

その言葉を聞いた瞬間、達哉の眉が急角度に跳ね上がった

最後の決戦は、今正に、この場所にて始まったのである

 

2,招く者、従う者、抗う者、滅びに取り込まれる者

 

広場の中央には、四人の人影があった

一人は覆面をした青年、サーディン。 いま一人は学者風の服装をした女性、李香花

彼らの奥に座っている可愛らしい少女が、ルヴィア=クレッセント

そして、達哉が殺気を込めて睨み付けているのが・・・・這い寄る混沌、ニャルラトホテプである

彼らは四人で一つであり、一つで四人である。

克哉がサングラスの奥に、劫火を燃え上がらせ、拳銃を敵に向けた

敵首塊の姿に、超絶的なまでの冒涜を感じたからで、その表情には妥協という物が一切無かった

全ての災厄の根幹・・・今回の事件の首謀者・・・這い寄る混沌、ニャルラトホテプ

それは、達哉と同じ顔をしていた。 背格好も、髪型も、持っている武器までもが同じだった

しかしながら、根本的に違う物が三つあった。 一つは、全てを見透かすような、黄金色の瞳

そして服。 達哉の通う、七姉妹学園の制服を着ている

最後に、雰囲気が全く違った。 全てを見下し、嘲笑し、侮蔑し、断定する雰囲気であった

「人の命を駒と扱う外道の分際で・・・弟の姿を模するか!」

最初に激発したのは克哉だった。 素早いモーションで、拳銃を立て続けに撃ち放つ

だがそれは無駄だった、驚くべし、敵は素手で飛来した全ての弾丸を防いだのである

一瞬おいて、達哉が抜き身の七星剣を振りかぶり、ニャルラトホテプに斬りかかる

心、体、技、全てが揃った渾身の一撃であった。 剣閃は虚空に残り、敵を一刀両断するかに見えた

「まあ、そう急くな。 私はこの姿が気に入ったのだよ・・・

運命に抗うと言いながら、私の掌の上でもがく人形の姿をね・・・くくくくくくっ」

指二本だけで、余裕を持って刀を掴んだニャルラトホテプが、静かに哄笑した

他の六人も、今の言葉に強烈に殺意を刺激され、あるいは冷徹に敵の弱点を探り

全員攻撃の隙をうかがっていたが、サーディンや香花が目を光らせている上に

ルヴィアの動きが全く予想できなかったため、続いての波状攻撃に出ることが出来なかった

達哉をはじき飛ばすと、ニャルラトホテプは笑った。 そして、手を広げ、演説する

「さて、お遊びの最終段階に移行するとしようか

今、私は地脈龍を体内に取り込んでいる。 だが、これを抑えられるのもそう長くはない

つまり、君達を私の体内で堂々巡りさせていれば、龍は開放され、すぐに世界は滅亡する・・・

くくくくくく・・・しかし、それでは余りにも面白くない。 君達も、私もな

それで、君達にもチャンスを与えてやろう

私はこの一本道の最奥で、君達を待っている。 私を倒せば、さらってきたあの三人は返してやろう」

ニャルラトホテプが手をかざすと、迷宮の奥に、栄吉、リサ、それに淳の姿が見えた

皆十字架にかけられ、意識を喪失している。 身じろぎもしなかった

楽しそうにそれを見ると、ニャルラトホテプは含み笑いし、言葉を続けた

「くっくっく・・・無様な姿だな

そうそう、私を倒せば、更なる効果も期待できるぞ。 私の手によるこの世界への干渉は封じられ

地脈龍も噂効果の消滅によって、大人しくなる・・・・かも知れないな

だが、途中には私の分身達が待っている・・・くくくくく・・・時間がないぞ、どうする?

まあ、せいぜい頑張ることだな・・・くくくく・・・くくくくくくくくくくくっ」

笑いだけが虚空に残った。 肩をすくめると香花がそれに続き、サーディンも無言で続いた

そしてルヴィアが消え、何もない無だけが残った。 向こう側には、延々と続く通路があった

 

「あれが這い寄る混沌、ニャルラトホテプか・・・」

パォフウが憮然として、静かに呟いた。 胸ポケットに手をやり、煙草がない事に気付き、舌打ちした

彼ほどの猛者が、驚くべし、ふるえを殺すのに必死になっている

余りにも超絶的な、圧倒的なプレッシャーであった。 歴戦の猛者をさえ怯えさせる、文字通りの怪物

舌打ちするパォフウの隣では、慄然としながら、克哉が呟いている

「傲慢、不遜、他人を見下し、嘲笑し・・・・何という奴だ

救えないな・・・奴の表情は人間を凝縮した物だった・・・人間そのものだった」

「私・・・ペルソナが覚醒してから、気配とか読めるようになったけど・・・

なにあれ・・・半端じゃないよ・・・あんなのと私たち戦うわけ?」

うららが言う、その顔が蒼い。 彼女はパォフウのようにふるえを殺すことなど出来ず、怯えていた

「Kei、これはあの敵以上では・・・」

「だが、戦うしかない。 この空間では、負けたと思った瞬間、俺達の負けが決定するぞ」

桐島が不安に顔をゆがめ、南条が眼鏡をなおした

ナナミは頷くと、自身の分析した敵の概要を披露する。 全員の視線が彼女の顔に集中した

「・・・奴は魔界から、本体を此方に召喚して、肉体を実体化させてるですぅ

それは本体の数分の一・・・傷つけることもできる。 ・・・勝てる可能性はあるです」

皆の顔に、僅かな赤みが差した。 手を叩く音が響き、一斉に全員が振り向くと、そこには舞耶がいた

「ほらほら、みんな、情けないぞ。 現実主義者のナイトメアちゃんが勝てるって言ってるんだから

絶対に勝てるわ! レッツ・ポジティブシンキング!」

「へへ・・・やっぱり天野、てめえがリーダーだよ」

肩をすくめ、パォフウが言うと、皆の顔に笑顔が戻った

気合いを入れ直し、全員足並みをそろえ、通路へ走る。 全員の思考の中に、勝機が見えていた

 

「ナイトメア、敵の目的は何だと思う?」

他の六人と少し遅れて、ナナミと南条は走っていた

普段はこう言うとき、浮遊して移動するナナミが、より体力を温存するためか、魔力を温存するためか

わざわざ地べたに足をつけて、一緒に走っている。 敵の力の巨大さが今更ながらに思い知らされる

「まず考えられるのは、此方が時間がない事を利用しての、各個撃破ですぅ」

「常識的な判断だな。 しかし、何かが引っかかる」

南条が走りながら、表情を曇らせる。 通路はどこまでも続いているかと思えるほど長く

だが、やがて向こうに光が見え始めた。 強大な敵の気配も、この距離から伝わってくる

既に話は付いている。 敵の分身は間違いなくあのサーディン、香花、ルヴィアであろう

である以上、敵一人を此方の二人ずつで抑え、舞耶と達哉をニャルラトホテプ本体にぶつける

時間がない以上、そうやって時間を節約するしかない。

戦力低下は著しくなるが、他に方法がないのだ

真に恐ろしい戦略という物は、敵にそれしか選択肢を無くすという物である

敵の思うとおりに動かざるを得ない。 その不利さを改めて痛感し、南条は続けた

「奴は四人で一つの存在なのだろう? だったら同時に戦った方が明らかに有利なはずだ

確かに各個撃破しても、俺達にはより確実に勝てるだろう。

或いは、これも遊びだとでも言うのか? しかしそれにも疑問が残るな」

「本当に遊びだというなら、ナイトメア達を死ぬまで迷わせれば良いだけのことですし

確かにそれは、ナイトメアも思うです・・・ ならば一体、奴の目的は何?」

疑問に応えるには、判断材料が少なすぎる。 このままでは、現実離れした結論しか出てこないだろう

思考を一旦切って、二人は仲間に合流した。 通路が開け、其処は予想通り広い空間だった

広場の真ん中に、覆面をした青年が立っている

隙は全くなく、全身を覆う黒布の上からも、無駄なく鍛えられた肉体の存在がうかがえた

「・・・逃げずにきたか。」

ただそれだけ口にすると、サーディンは押し黙った。 周囲に満ちる殺気が、場の空気を重くする

前に出たのは克哉であった。 拳銃に新しい弾丸を装填すると、振り向きもせず言う

「弟の行く道を切り開くのは、兄の役目だ。 此処は僕が出よう」

南条が視線を桐島に向けると、彼女は頷き、前に出た。 レイピアを構え、言う

「ここは私たちが引き受けますわ。 Kei、Ms,AMano、Good luck!」

「お前達二人か。 丁度良い・・・しばらく肉体での戦いを忘れていたところだ」

別段サーディンは構えを取らなかったが、それでもこの男が纏う殺気は尋常ではなく

圧倒的な、肉体を駆使した戦闘術の使い手だと言うことは、誰にもすぐに分かった

「早くいけ! 正直、僕にもどれだけ此奴を抑えられるか自信がない!」

克哉の頭上にペルソナ・ヒューペリオンが具現化する。 隣では、桐島がペルソナを再覚醒させていた

それは数ある天使の中でも、メタトロンに次いで最強の力を持つ存在であり

炎を体現する、神々しい天使。 熾天使達の中でもっとも高名な存在・・・

「おいでなさい・・・熾天使ミカエル!」

複数の翼を持つ、炎に包まれた天使が場に降臨した

青白く力強い炎を纏ったヒューペリオンと好対照のトラストである

彼らの脇を、六人の闘士が駆け去って行く。 南条は桐島に目礼し、ナナミは親指を立て笑って見せた

そして最後に、舞耶が克哉の耳元に何か囁き、走り去った

「始めるか。 久しぶりに楽しめそうだ」

サーディンの言葉をきっかけに、三つの影が宙に舞い、熾烈な戦いが始まった

 

再び何もない通路が続く。 後方での戦闘音は、すぐに聞こえなくなった

周囲は壁というか、虚無というか、実体はあるのだがどうもそうは見えず

うらら等は何度も壁にぶつかりかけ、そのたびに置いて行かれそうになり、慌てて走った

先と同じくらいの距離を走った頃であろうか、再び通路が開けた

広い空間があり、その中央には机があって、李香花が何やら本を読み、難しい顔で何やら呟いていた

「ふーん、面白い論文だわ。 こういう切り口でニーチェを分析するのも悪くないわね・・・

所で貴方達、いつまで其処にいるつもり? 罠なんか無いから、さっさと部屋に入ってきなさい」

床に手をつき、念入りに周囲を魔力探査していたナナミが舌打ちし、顔を上げる

確かに、香花の言うとおり罠はない。 あったとしても、少なくとも彼女には分からなかった

それに、今までのことから判断して、香花は知的であっても卑劣ではない

冷酷ではあるが、姑息なまねで体力を削るようなことはしないだろう

それらの事象から、罠がないことを悟った南条が、大股で部屋に入った

他の全員も部屋に入った事を確認すると、香花は指を鳴らし、机が消滅した。

本も同時に消え、周囲に殺気が満ちる。 圧迫感は、決してサーディンに劣らない

さもあらん、この一見ひ弱そうな娘も、サーディンに劣らぬ使い手なのだ

「さて、私の相手は誰がするつもり?」

「俺達がしよう。 行くぞ、ナイトメア」

南条が刀を抜き放ち、構えを取った。 彼の後方では、当然のようにナナミが構えを取る

ナナミは一瞬視線を達哉に向け、すぐに戻した。 そして、振り向きさえせず言う

「達哉お兄ちゃん、これ以上逃げたら、地獄の底まで追いかけていってぶっ殺すですよぉ」

「俺はもう逃げない。 さっきは本当に済まなかった。 おかげで目が覚めた」

小さな笑い声が漏れた。 ナナミが口に手を当て、静かに笑っていた

普段は冷笑するか、笑うと言っても微笑むだけの彼女が、声をあげて笑うことは滅多にない

初めて南条のことを認めたとき、同じようにこの悪魔の少女は笑った

南条は表情に出さなかったが、一瞬不快感を感じたようだ。 香花はそれを悟り、僅かに目を細めた

合理主義者の青年、南条も、人並みに嫉妬は覚えるのだろう、無論滅多にあることではないが

それを察してか、舞耶はうららと達哉をおして、部屋を後にした

パォフウは押されるまでもなく南条の心理を察していたので、肩をすくめて、先に部屋を出ていった

部屋の出口で舞耶が振り向き、親指を立てて笑顔を見せる

「サンクス、南条君! 後で何かおごるわ」

「それでは、何か考えておきましょう。 御武運を、Ms天野!」

足音は遠くに消えていった。 ナナミはいつの間にか笑うのを止め、戦闘態勢に戻っている

南条はとうに雑念を押さえ込むことに成功し、刀を構えなおしていた

「・・・よし、ナイトメア、総力戦だ。 回復アイテムはどれだけ残っている?」

「マグネタイトは全部使っちゃったですけど、チューインソウルは四本残ってるですぅ」

現在南条は、五本と半分のチューインソウルを所有している

豊富とは言えないが、とりあえずの分量の補給物資は在ることになる

この間再覚醒した彼の最強ペルソナ山岡は、その破壊力に見合った精神力消耗を強いる

特に奥義のガーディアン・ハンマーは、文字通り必殺技と言っていい魔法で

超級の破壊力を誇るナナミの奥義、威力最大収束型ジオダインにすら匹敵する威力を持つ

だが消耗も凄まじく、広範囲拡散型のため、極点での破壊力はナナミの奥義に劣るのが欠点であろうか

ナナミの最終奥義である、ディザスター・シスルほどの消耗はないが、だが決め手になるのは疑いなく

それ故に、回復手段が在ることは嬉しい。 敵の間合いを測る南条に、ナナミは静かに声を掛けた

「ダーリン、ナイトメアは浮気なんてしないですよぉ。

デジャヴの少年を認めたのは、ただその決意を認めての事。

ダーリンは、その意志力と、心意気と、可能性と、成長力において、あの坊やをはるかに凌いでるです

で在る以上、ナイトメアはダーリンについて行くです!」

「・・・案ずるな。 俺もお前が俺から離れて行くなどとは思っていない

ただ・・・お前が俺以外の、他の人間を認めるのは・・・何か不愉快だったものでな」

南条は笑っていた。 それに釣られるようにナナミも笑い、香花も笑った

「さて、そろそろ良いかしら? 世間一般の恋人同士とは違うけど、貴方達みたいのも見てて楽しいわ

ま、時間がないんだし、かかってきなさい。 遠慮は不要よ」

「言われるまでもない!」

南条が地を蹴り、蒼い閃光が空に走った。 この場所に置いても、激烈を極める戦いが始まった

 

再び通路が続いた。 先ほどまでとは違い、妙に曲がりくねった通路であり

走る速度は落ちざるを得ず、時間の無さが皆を焦らせるかと思われたが、唐突に空間が開け

其処には小山のような量の、得体の知れない物体の上に、ルヴィア=クレッセントが腰掛けていた

「ふーん・・・克哉おにいちゃんとエリーおねえちゃん、南条おにいちゃんとナイトメアちゃん

四人を残したんだ・・・んふふふふふふ・・・で、残ったのが貴方達ね」

「見つけたわよ、アンタの親が誰か知らないけど、たっぷりお仕置きしてあげるわ!」

前に出て、拳を振り上げたのはうららだった。 彼女は躾のなっていない子供が大嫌いであり

まして、人の命を何とも思えないような子供に対しては、容赦なく憎悪を抱く習慣があった

だが、ルヴィアは本来、決してうららが誤解しているような子供ではない

その辺を状況から理解しているパォフウは、煙草がないのを不満そうにしながらも、静かに前に出た

「天野、達哉、行け。 此奴は俺と芹沢で抑える

・・・へへ、まあ、お前らがあのクソ野郎を叩きつぶす間くらいは、持ちこたえてみせるさ」

「分かったわ。 パォフウ、うらら、頑張って。」

舞耶が部屋を走り出る、そしてそれに続こうとした達哉に、ルヴィアが声を掛けた

「約束、守ったね。 良く今まで頑張ったよ

どうする? 解除する? 私はそうしてあげても良いと思うんだけど?」

「・・・いや、いい。 最後まで、解除しないでくれ」

「ストイックだね・・・あいかわらず。 んふふふふふ、そーゆーところが大好きだよ

行ってらっしゃい、おにーちゃん。 頑張ってね

これで最後になるかな? まあ、私にはどうでもいいことだけど」

第三者から聞けば理解不能な会話をすると、達哉は舞耶の後を追い、奥へと消えていった

ルヴィアは先ほどからうららに殺気を叩き付けられ続けているが、怯える様子は全くない

いつもと同じ笑みを浮かべ、ニャルラトホテプの一部である少女は、小首を可愛らしく傾げた

「どーしたの? さっきから怖い顔で。」

「貴方みたいな躾のなってない子見てると、いらいらしてしょうがないのよ!

貴方、一体どういう教育を受けたの? どうしてあんな事が平気で出来るの!

なにへらへら笑ってるのよ・・・こっちは真剣に怒ってるのよ!?」

あんな事というのは、この子が竜蔵にした仕打ちのことである

音もなく座っていた得体の知れない物から降りると、ルヴィアは相変わらず空虚な笑みを浮かべたまま

ゆっくりうららに歩み寄っていった、その周囲に殺気が満ちるが、先ほどまでの物とは微妙に違う

「親? パパとママはね、ユダヤ人だって言うだけで、兵隊さんに、お家に火付けられて

パパはその場で黒こげ。 ママはまわされて、挙げ句に首を落とされて死んじゃったよー」

戦慄を覚える言葉を吐きながら、ルヴィアの表情は変わらない

硬直したうららの前で、ルヴィアはただ笑っていた。 笑い続けていた

「それにお仕置きって拷問のこと? もう私の体に痛覚なんて残ってないから、やるだけ無駄だよ?」

「・・・やはりな。 お嬢ちゃん、お前さん、怒ったり泣いたりできるか?」

相手の虚無に気付いていたパォフウが、静かに構えを取る

ルヴィアは相変わらずの笑みを浮かべたまま、そちらに振り向き、声を立てて笑った

「んふふふふ・・・気付いた? 私ね、もう感情って呼べる物は、これしか残ってないんだ

喜びと楽しみ。 この二つだけが、私の中に残ったの。

後の感情はみんな、ニャルちゃんと一緒になる少し前に消えちゃった

味覚も触覚も、視覚も無くなっちゃったんだけど、これはニャルちゃんと融合したら直ったの

・・精神体になった今では、肉体が関係した生体機能なんて関係ないから、なのかも知れないけどね」

少女の指先に、蒼い光が収束する。 攻撃魔法だろうが、今までに見たことのないタイプの物であった

「芹沢、行くぞ。 惚けてるんじゃねえ!」

パォフウの声が飛び、我に返ったうららが防御結界を展開する

ここでも、死闘が始まった。 そして殆ど同時に、最後の死闘も始まっていた

 

「くくくく・・・二人だけで来たか。」

「貴方のお望み通りにね」

舞耶が二丁の拳銃を構え、隣では達哉が刀を抜き放つ

ニャルラトホテプは周囲を静かに回りながら間合いをはかる二人には目もくれず、ただ哄笑していた

「天野舞耶、君が向こう側で、最後に言った言葉を覚えているかな?」

「私の死を乗り越えて、私を忘れて、夢を掴んで!

・・・そう、そうやって私たちを怒らせて、更に力を増すつもりなのね」

嘲笑に満ちた表情が、それを是と告げていた。 達哉も我慢している様だが、いつまで耐えられる事か

「君は私との決戦の前に言ったな。 人を本気で憎いと感じたのは初めてだと

くくくくく・・・私が「人」だと認識していたのは、君だけで、子供達の中にはいなかったな

よく分かっているではないか。 私は人そのもの、人が望んだ者。

故に、人と共にあり、人を常に嘲笑う。 人が普遍的無意識を作れるほどに成長してから、常にな

さて・・・始めるか。 他の者達が体を張って作ってくれた時間、果たして生かせるかな?」

「生かしてみせる、生かしてみせるさ!

兄さんも、桐島さんも、南条さんも、ナイトメアさんも、うららさんも、パォフウさんも!

俺達を信じて、道を造ってくれた! だから、俺は二度と背中を向けない・・・・!

犯した罪からも、自分自身からもだ!」

達哉の周りに漂うオーラが、より強力に、火力を増して行く

だが、ニャルラトホテプは動じない。 全て計算ずくの事だからだ

この怪物もまた、達哉に合わせるように身に纏う力を強大化させていった

「うぉおおおおおおおおおおおおおおっ!」

両者の絶叫が重なり、迷宮の最奥で響きわたった。 同時に場を灼熱の炎と極寒の冷気が蹂躙しつくし

それは珠阯レ市からも見えた。 紅の空の中、四つの輝きが星のように瞬いていた

 

3,罪そのものの形、償われる事なきその形。 誰も直視せず、故に罰が形為す

 

「どーしたの? それでもう終わり?」

余裕をもって、いつものように微笑むルヴィアの掌の上には、青白い光球が実体化していた

それは最大級の火力を誇る攻撃魔法、メギドラオンである。

何とかパォフウとうららは攻撃に対し、防御結界を複合させて耐え抜いていたが

ニャルラトホテプの中でも抜きん出た力を持つこの娘の攻撃力は圧倒的で、防戦一方だった

今、それでも反撃を行ったのである。 パォフウが、ペルソナを使った強烈な肉弾技を浴びせたのだが

それは敵を吹き飛ばしたにも関わらず、全く効果を示さず

ルヴィアは平気な顔をして、埃を払う余裕さえ見せ、立ち上がってきたのであった

「そういえば、うららおねえちゃんが舞耶おねえちゃんと一緒にいるのは・・・」

精神攻撃に切り替えたルヴィアが、うららを見据える。 お喋り中と言っても、攻撃出来る隙はない

ルヴィアの前に、うららそのものの姿が現れる。 そして、隣にはパォフウも現れた

影であった。 ニャルラトホテプは普遍的無意識のネガティブ思考を統括する悪魔であり

その中には、当然うららやパォフウもいる。 ルヴィアが出現させた者達は、そんな影だった

「くく・・・アンタがマーヤの世話してるのは、劣等感を隠すためよね

何をやっても板に付かない、色気零。 それは認める

でも料理はうまいし、化粧も上手。 成績だって、ずっとマーヤより上だった

なのにろくな男がよってこない。 よってくるのは牧村みたいな屑ばかり

一方、あんなにお間抜けなマーヤはどう? 格好良い達哉君には慕われ、素敵な克哉さんには好かれ

充実した毎日を送り・・・ふふふふっ・・・れっきとした自分を持ってる」

パォフウが敵の攻撃の意味に気付いた。 図星を指すことで怒りを直接刺激して、更に自分の力を増す

おそらく、今南条や桐島、ナナミや克哉も同じように影と相対していることだろう

「だからJOKER呪いしちゃったのよね・・・あっはははは!」

影うららの冷徹な指摘に、うららは顔を上げた。 その表情には、決意があった

「そうよ。 私はマーヤをねたんでた! 劣等感があったから、マーヤの世話をしてた!

でも、それは一面だわ! 私は友達としてマーヤが大事よ!」

影うららはたじろがない。 手を広げ、静かに言った

「じゃ、あんた自分は見つけられたの? ふふふふっ・・・

自分は? 居場所は? 成り行きでついてきてるような物なのに」

この、自分に対する同じ指摘を、うららはかってナナミに話した事があった

その時ナナミは言った。 決して、うららお姉ちゃんはバカじゃない

うららは今では、自分の意志で戦いを選んでいた。 決意を秘め、彼女は顔を上げた

「ばかねえ・・・私。 自分は捜す物じゃない!

今回の事ではっきり分かったわ。 一番意志が強かった人達は、みんな・・・自分を作った人だった!

だから私も自分を作る。 いつか必ず、絶対に!」

「あらら、精神ダメージ無しだね」

影うららは突如として消滅した。 ルヴィアに取り込まれたのだ

続いて影パォフウが歩み出る。 煙草をさもうまそうにすうと、ナナミのように冷徹な笑みを浮かべた

だがその笑みには、ナナミの物とは違う要素があった。 自身への嘲笑である

「貴様が本当に許せないのは何だ? 這い寄る混沌か? 須藤竜蔵か?

違うな・・・これを見ろ。 貴様が本当に憎いのは、貴様自身だ!」

パォフウの前に、かっての相棒、浅井美樹が出現した。 その瞬間、パォフウの冷静が吹き飛んだ

美樹の腹部に、影パォフウの手が突き刺さる。 鮮血が吹き出し、哀れな女性が崩れ伏す

「美樹を殺したのは俺だ。 俺だ・・・俺だ・・・俺だ・・・俺だ・・・・!」

「止めろ! 止めろ止めろ止めろ止めろおおおおおおおおおおおっ!」

パォフウの頭上にプロメテウスが出現し、攻撃を叩き付けようとする

だが、それはなせなかった。 うららが横面を張り倒したからである

「アホっ! 私でも勝てたのに、アンタが負けてどうするのよ、パォ!」

殺気が消えた。 パォフウは地面に視線を落とし、そして呟く

「そう、俺だ・・・俺が許せないのは・・・俺だ! 愚かで、弱かった、今でも弱い俺自身だ!

俺がなんでお前らに近づいたと思う? 一人で敵討ちが出来ないことが明白だったからだよ・・・

へへ・・・俺はバカだ。 一人じゃ女の敵討ちさえ出来ないバカだ・・・本名なんか名乗れるか!」

「・・・・あらら、すごいね。 これならかなり効くと思ったんだけど」

影パォフウも、いつの間にか消えていた。 同じように、元いた場所に帰ったのだ

そして、消えた影達の代わりに、宙に無数の光が浮かんでいた

「じゃ、本番いこうか。 今度は私の過去を見せてあげるね」

ルヴィアが言うと、周囲に無数の気配が満ち始めた。 無数の人魂が、光の糸を引き、虚空を占領する

それは強力を極める霊の姿であり、真の恐怖の開始合図だった

 

サーディンの体術は圧倒的だった。 おそらく、地上のどの格闘家も、彼の前には赤子同然だったろう

体を文字通り凶器と化し、頭、腕、足、あらゆる箇所を使いこなし

敵には必ず攻撃を炸裂させ、逆に敵の攻撃は体にかすらせもしなかった

克哉はこれでも柔道、剣道、空手でそれぞれ段位を持ち

ペルソナを覚醒させてからは、その肉体戦闘術は相当な次元まで高まっていた

彼は防御以外で体術を使おうとはしなかったが、それは何か思うところがあるようで

今もサーディンの強烈無比な攻撃をなんとか捌き、結界の力も借りて、致命傷を避けていた

桐島も、細剣の使い手として比類無いほどであったが、サーディンの前には手も足も出ず

ペルソナの魔法を使った遠距離戦を挑もうとしても、敵はそんな隙を与えてくれず

凄まじい打撃になんとかペルソナの防御結界と、剣の防御術を駆使して、守りに徹するほか無かった

ペルソナ・ミカエルは、熾天使の名に相応しい強力なペルソナである

魔法戦闘に置いては、強烈無比な火炎魔法と、魔法を殆ど防ぎ抜く防御結界を有する為、無敵に等しい

だが一方で、物理戦闘能力は脆弱で、故にサーディンはハイリスクな対戦相手だった

一方で、克哉のヒューペリオンもミカエルに劣らない強力なペルソナであり

此方はバランスが取れた接近戦タイプのペルソナで、攻防ともに優秀な力を持っているが

サーディンはその能力を遙かに凌ぐ戦闘力を持つ相手であり、つまり決め手を欠く

頭脳をフル回転させ、戦術を考える克哉と桐島が驚いた。 敵が構えを解いたのである

「なかなかやるな。 ペルソナ使いといえど、この私と此処まで戦えた者はそうそういないぞ」

サーディンの言葉は克哉を驚かせた。 驚きのあまり、桐島と顔を見合わせたくらいである

この無骨な男が、誉め言葉を口にするなど考えられなかったのだ

「それにしても、法を至上の価値・・・二人とも、不文律と明文法共に・・・

ともあれ法を至上とする二人が、この私の相手とはな。 皮肉な話だ

さて、と。 これも仕事なのでな・・・少々卑怯な手を取らせてもらう」

うららとパォフウの時と同様だった。 影桐島と、影克哉が、虚空から現れる

彼らの表情は、先ほどの影共と同様、本人には絶対に存在しない表情・・・

冷徹な、自分自身をも含んだ侮蔑に満ちていた。 克哉が眼鏡を直し、桐島が嫌悪を露わに舌打ちする

最初に前に進み出たのは、影克哉だった。 憮然とする克哉の前で、小さく笑う

「くく・・・法、法、法。 お前の信じる物は、他人が決めた義務だ

本心では疎ましいだろう? 弟が・・・。 くく、社会的道徳によって、お前は弟を守らねばならない

だが、あの女に惚れている貴様には、本当は弟など疎ましくて仕方がないはず・・・違うか?」

「まあ・・・本当ですの?」

口を押さえ、元女の子に相応しい好奇心に顔を見たし、桐島が聞くが、克哉は黙ったままだった

以外に鈍い桐島は気付いていないようだったが、ナナミなどは会ったときから気付いていたし

南条も、それにパォフウもすぐに気付いた。 未だに気付いていないのは達哉とうららだけだろう

影は本人を一瞥すると、更に続ける。 口元の笑みは、ますます嘲笑の色彩を濃くした

「何一つ主体性はなく、他人の決めた正義しか考えられない

法にあれほど裏切られたというのに、法にすがらざるをえないのはそれ故だ」

「そうかも知れないな。 いや、おそらく貴様の言うことは正しいだろう」

毅然とした口調で、克哉が影の演説を断ち切った

「だが、貴様は大きな間違いを犯している。 僕が弟を愛しているのは、義務だからなどではない!

確かに、僕は法にすがりすぎだろう。 だが、家族への愛は義務など関係ない物だ

警官になったのもそれが理由だ・・・僕自身が信じる、僕だけの心だ!

そして今、僕は自分が信じる物を貫く! 何故ならそれは、僕が決めたことだからだ!」

「ほう・・・影を退けたか」

サーディンが素直に感嘆の声を挙げると同時に、影克哉は虚空に消えた。 元々いた場所に帰ったのだ

続いて、影桐島が前に出る。 レイピアを振ると、嫌みったらしく礼をした

「How stupid・・・・Huhuhu・・・

そんなによく見られたい? 可愛いと思われたい?

貴方は自分でも訳が分からない、恋という感情の奴隷。 無様ですわ

・・・主体性のない感情のために、今までもそうだったように、可愛く見られたいと思って自分を殺す

でも心の奥では感じていますわ。 私の本性を知られたらどうしよう。 それで嫌われたらどうしよう

今は売れっ子だから良いような物の、売れなくなったら何をさせられるか。 Huhuhuhuhu

・・・そうなったら、<彼>はどう思うかしら」

桐島の拳は静かに震えていた。 確かに、何故弓月が好きと言われれば、明確に応えられまい

あえて分析するなら、子孫を残すことを考える生物本能である。

惚れた張れたと言ったところで、結局最終的には其処に行き着く事であろう

男女間の好きという感情は、結局はどうしても其処に辿り着いてしまう

南条とナナミのような関係は、例外中の例外で、特殊事例に入るのだ

そもそもあの二人のコンビを、男女間の関係と言って良い物か、良しという者は殆どいないだろう

影桐島は、更に追い打ちをかける。 肩をすくめ、邪悪に顔をゆがめてみせる

「貴方は他人に媚びる人間の見本ですわ。 社会の秩序を破ることを考えられませんものね

Takahumiが何か言ったら、歓心を買うために何でもするんではなくて?

それで可愛いと思って貰えるなら、安い物ですものね・・・huhuhuhuhu」

「・・・確かに貴方の言うことには一理ありますわ」

桐島は目を瞑り、頷いた。 そして目を開けたときには、自らのペルソナである炎の熾天使同様

その瞳は炎を宿し、影をたじろがせた。 桐島は、自信と威厳に満ち、自分自身の弱さをうち払った

「今、ようやくTakahumiの言ったことが分かりましたわ。 きっと、彼は知っていたんです

私がこのままではいけないことを。 今のままでは、深みにはまる一方だと

もう、私は他人に媚びませんわ。 私自身を、モデルという職で、輝きの中に魅せて差し上げます!

その時こそ、私はTakahumiに、胸を張って会えるのですわ」

影桐島が消えた。 先ほど以上の力にみちみちた二人が、それぞれ武器を構える

サーディンはただひたすら感心していたが、やがて覆面に手をかけた。 布が滑り落ち、素顔が現れる

桐島が手を口に当て、絶句する。 克哉も息をのみ、次いで敵の顔をまじまじと見つめた

其処にあったのは、ガラスの罅が如く、顔中に走る無数の傷だった

「君達の暗部を暴いた詫びに、どうして私がニャルラトホテプとなったか教えてやろう

そして、ここからが本番の開始だ・・・最後まで見ることが出来るか?・・・」

サーディンの殺気が更に膨れ上がった。 殺気が支配する場に、映像が流れ出した

 

広場に、爆発光が間断なく出現し、消えていた。 周囲に満ちるは焦げ臭さと、それ以上の煙だった

香花は凄まじい魔力の持ち主であり、魔力だけならルヴィア以上だった。 当然火力は圧倒的であり

ナナミさえその凄まじさに閉口して、回避と防御に徹し、攻撃に転じようとはしない。

南条も防御を固め、隙をうかがっていたが、敵は容易に尻尾を見せなかった

しかも、敵は決して愚かではない。 自分を着実に守ってから、じわじわと攻撃する戦術の使い手で

防御結界はあのX−1改以上の性能を持ち、しかも攻撃は確実で無駄という物がない

じわじわと言っても、その攻撃能力は一撃一撃が戦車砲以上の破壊力である

流石に肉体の六割を召喚して、米軍第七艦隊の一部を撃滅した時ほどの力はないが

それでも充分以上に、凄まじい強さであると言えよう

積極攻撃型のナナミと、慎重攻撃型の南条は、非常にバランスの取れた戦闘力を有するコンビだが

流石に敵の能力が此処まで高いと、それもそうそう発揮できない

巧みなコンビネーションで、南条とナナミは攻撃を何度か加えたが、それは尽く通じず

無駄に精神力を消耗しただけで、敵には全く打撃を与えられなかった

しかも香花は狙いを魔法防御能力が低い南条に絞ってきており、人数を利用しての攪乱戦は通じず

戦況は香花が有利なまま、膠着状態に入ろうとしていた。 その矢先であった、香花が口を開いたのは

「結構やるわね。 なかなかに楽しいわよ・・・

私と戦った連中の中で、高位悪魔や高位神族を除けば、貴方達ほど長く戦えた者は居ないわ」

誉め言葉を口にされて、ナナミも南条も疑問は感じなかった

敵が純粋に、戦いに喜びを感じているのは明らかだったし、その原因は対戦者の力以外に思いつかない

この女性がサディストである可能性は薄い。 打撃が当たったときも喜ぶ様子を見せなかったし

まだナナミも南条も、敵の攻撃を巧みにかいくぐり、戦力を温存し

殆どダメージらしいダメージも、それによる苦痛も受けていないからである

むしろ香花は、見事なコンビネーションを敵二人が見せたときにこそ喜んだ程だ

ふと、戦火が止んだ。 南条が構えを解いたのである

いぶかる香花をよそに、彼はナナミに何か耳打ちし、そして咳払いをすると、言い放った

「貴様らの目的はなんだ?

ニャルラトホテプが真に品性下劣な輩だというのは、今までのことで承知している

だが、貴様らは違うな。 戦い方にも、行いにも義がある。 何を目的とし、奴に協力しているのだ!」

「知らない方がいいと思うけど? でも、どうしても知りたいって言うなら教えてあげる」

沈黙、それ即ち是。 香花が肩をすくめ、場に新たな人影が二つ現れる

一つは南条の影、今一つはナナミの深層心理を解析して作りだした影だった

「ま、その前に少し卑劣な手を使わせてもらうわ。 此奴らに勝てる?」

香花の声に応えるように、影南条が前に出る

その表情は、自分自身を完全否定する冥い思いに満ちていた

「一番か・・・くく・・・俺よ、それが何なのか、明確に応えられるか?

それに、それがなんなのか分かったところで、俺は決して一番になどなれない

理由は分かっているな・・・俺。 そうだ、そうだとも。 俺は一人では何もできないからだ!」

南条は敵の哄笑を沈黙したまま聞いていた。 ナナミは落ち着いたもので、平然とそれを見守っている

自分の「ダーリン」の能力を正確に把握している彼女は、絶対に大丈夫だと分析していたからである

「俺よ、弱き俺よ! ふははははははははは・・・

かっては山岡がいないと何もできなかった。 今も山岡が心の中にいないと何もできない

それに、そこの悪魔もそうだ。 そいつががいないと何もできない・・・違うか?

俺は何もできない人間だ・・・ひひゃははははははははは・・」

「貴様の言葉は・・・半分は違わない。 山岡とナイトメアに対する貴様の指摘は完全に正しいな

俺は弱い人間だ。 山岡がいないと、それにナイトメアがいないと何もできないだろう」

毅然と顔を上げ、南条が応える。 その瞳に烈火が宿り、場が一気に灼熱した

「だが、だからこそ、俺は頂点を目指せる! 俺の最高の存在が、俺のブレーキであり、俺の起爆剤だ!

山岡は今でも見守ってくれている! 故に弱い俺でも、道を踏み外さずに行ける!

ナイトメアは常に俺に逆の意見を示してみせる! だから俺は、偏らずに進める!

一番がなんたるかは、俺自身が決めることだ! そして俺は、必ず其処に辿り着いてみせる!

山岡が願い、俺が望んだ、一番の日本男児にな!」

「お見事、ダーリン。 流石ですぅ」

ナナミが笑みを浮かべ、手を叩く。 南条が鼻を鳴らすと、既に影は普遍的無意識へ墜ちていた

手を叩いたのはナナミだけではない。 香花も真に賞賛を目に浮かべ、拍手していた

実際、此処まで強固な意志力を持った人間などそうそうはいない。 ナナミの高い評価は完全に正しい

今度は翼在る少女の姿をした悪魔の影が前に出る

その瞳には、冷徹な吹雪ではなく、漆黒の闇があった。 そこが、根本的に違っていた

「私って、なんでこんなに主体性がないんですかぁ?

そんなんだから大事な存在に裏切られるんですぅ。 んくくくくく・・・

いつも人のお手伝い。 冷酷なくせに、それでいてそれを止めてくれる存在を欲してるです

それで、決して何一つ生み出せない。 たまには自分の主体的意志で何かしてみたらどうですかぁ?」

ナナミが目を細める、凄まじい憎悪がその奥に蠢いたが、すぐにそれを抑える

調子づいたか、影ナナミは本人の動作とよく似た風に肩をすくめ、鼻を鳴らして見せた

「へっ・・・ま、負け犬には無理ですか、どーせ

未だにモニカに殺意を抱いてるのに、殺しに行かない。 どーせ勝ち目なんて無い

だから人間のガキにくっついて、その可能性を見たいなんて言って逃避してる。 違いますかぁ?」

ナナミは暫く無言だった、だが南条はそちらを見ない

さっきパートナーは、自分を信頼してくれたのだ。 ならば今度は、此方が信頼する番だろう

そう考えた末の行動であり、そしてそれは的確な判断だった

「へっ・・・何を抜かすか、自分。 確かに、ナイトメアは自分じゃ何もできないかも知れない

でも、そのかわり可能性を育て、ともに歩むことは出来るです!

ダーリンは絶対にナイトメアを裏切らない! もし裏切ったとしても悔いはない!

何故なら・・・ダーリンを選んだのは、ナイトメア自身だから。

誰かと共に歩み、その可能性を育てる・・・これは、立派な主体的意志・・・そう思うですけど?

世には主体となって何かをする者と、その補助をして何かを為す者がいる。 ナイトメアはその後者

この数百年で、そう分かったです。 そしてそれは、決して恥ずべき事ではない!

そして、自分の判断が正しかったとき・・・ナイトメアは、今度は自分の可能性を捜してもいいです」

ナナミがそう叫んだとき、影は無念そうな表情を残して消え去った

香花が眼を細め、心底楽しそうに手を叩いた。 空虚な拍手は宙を流れ、やがて止まった

「ご苦労様。 誇って良いわよ、自分の意志力を

・・・今時、そうそういないわよ、ここまでの意志力を持つ者は」

「ごたくはいい。 貴様らは一体何を望んでいる!」

南条の声は凛と響き、空を沈黙で覆い尽くした。 少しの間をおき、香花が笑った

「それはね・・・まず、私の過去を見せてあげる。 それを見れば分かるわ」

場の空気が一変した。 余りにも重苦しい空気が、南条とナナミの肺を圧迫する

ナナミはその正体を悟り、慄然とした。 心強き者が抱く絶望、その数百倍も増幅されたものである

それは圧倒的な負の圧力で、彼女を責め立てた。 南条はパートナーの変化に気付き、慌てて駆け寄る

地獄が始まる、その瞬間だった

 

ルヴィア=クレッセントは、ユダヤ人の商人の娘として、生を受けた

彼女が生まれた街は、それほど豊かでは無かった。 平和でもなかった

理由は簡単である。 最前線とも言っていい場所だったからだ

「かって、十字軍ってのがこの世に存在したの。 当然歴史で勉強したよね

聖地を悪魔の手から奪回するとか言って、よそ様の持ち物を強奪したり、土地をぶんどったり

抵抗できない子供を殺したり・・・まあ大義名分なんて何の意味もないっていい証拠だねー」

笑みを浮かべたまま言うルヴィアの背後には、実際の出来事と全く遜色無い映像が映っていた

神の名を背に、殺戮を行う狂信者集団。 日本でも、地下鉄に毒ガスをばらまいた狂信者集団がいたが

それと殆ど大差ない連中だったと言えば間違いないだろう、いや国に支援されているだけ更に質が悪い

十字軍は殺戮と暴虐の限りを尽くすと、やがて巣に引き上げていった

そして、ヨーロッパ諸国を悪魔の脅威から守ると称して、文化の境界線に当たる地域に

最前線となる、小さな国を無数に建てたのである

ルヴィアが暮らしていたのは、そんな国の一つだった。 故に、其処には平和などなかった

国王は勇猛さと政治駆け引きの巧さを持って国外に知られる男で、名はストラヴス伯という

異教徒との戦に出れば百戦百勝、国内では産業を栄えさせ、政治腐敗を一新、国民の信頼を得ていた

だがこの男には、裏の顔があった。 確かに比類無い名君であり、戦の天才だったのだが

それ故か、この男は異常な性癖の持ち主だったのである

異常な性癖などというのは、まだ生ぬるい呼び方やも知れない。 異常者と言って言い存在だった

この男は幼児愛好症であり、肛門愛好症であり、サディストであり、しかも人肉嗜好者でもあったのだ

名君を務めることは、異常なストレスを肉体にもたらす

それを解消するには、こう言った異常快楽しかなかったのであろうか。

夜な夜なストラヴス伯は、奴隷として買ってきたユダヤ人の子供(男女問わず)や

或いは部下に捕獲させたユダヤ人の子供を、力のままねじ伏せ、暴力を振るい

快楽に狂乱しては、ストレスを発散していた。

それを毎晩繰り返し、やがて犠牲者の子供がぐったりしてしまうと、巨大な刀を持ち出し

その場でバラバラに捌いて、鍋に放り込んで肉を喰らった

この凶行は、家臣団は勿論、多くの国民も知っていた。 だが誰一人、それを止めようとはしなかった

理由は二つある。 その一つは、その犠牲無くして国が維持できないと言うことだった

ストラヴス伯の凶行を、一度家臣団が止めようとしたことがある。

その様なことは神の御心に背くことだと無理矢理説得し、半ば力尽くで止めさせたのだが

翌日から名君は精彩を欠き、単純な政治的ミスを連発、日に日にやせ衰え、見る間に弱っていった

見かねた家臣団が再び犠牲を与えたところ、たちまちストラヴス伯は精気を取り戻し

二ヶ月後の戦で、三倍の敵を一撃の下に粉砕するという大戦果をあげ、国を外敵から守ったのである

つまり、この国は犠牲を狂人に与える事で維持されていたのだ

今一つの理由は、更におぞましいことである。

ストラヴス伯はユダヤ人にしか、その異常快楽を感じなかったのだ

ユダヤ教とキリスト教は、親子と言って良い関係なのだが、これ程に仲の悪い宗教もない

その反感の原因となるのは、互いの宗教が持つ排他性、一元思想の徹底、ユダヤ人の放浪性などである

国を持たぬ民ユダヤ人は、古くから世界各地を彷徨っていた。 そして、よそ者であると言うことと

修羅場でもまれて必要以上の処世術を身につけていると言うことが、現地人の反感を買う

現在でも、ユダヤ人を憎む者は非常に多い。 思想的に似ているキリスト教徒は特にである

アドルフ・ヒトラーの凶行は有名だが、彼の思想は、少なくとも初期には国民の大多数に支持され

熱狂的な拍手喝采を持って、民衆にむかえられていたのだ

(流石に大量虐殺が行われた後期にはそうでもないが

やはりそれだけ、ユダヤ人は周囲に憎まれているのである)

かくして、ストラヴス伯の国に住む者は、主君の凶行を黙殺した

宗教が、この凶行を助長したと言っていいだろう。 ユダヤ教徒に同情するキリスト教徒は殆どおらず

そればかりか、国を維持するためには仕方がないではないかと、卑劣な自己正当化をする輩もいた

こうして、ルヴィアは目の前で両親を殺害され、狂獣の犠牲となった

誰一人、彼女を助けようとはしなかった。 当然ながら、彼女が信じていた<神>も例外ではなかった

この国に住む住民全てが、彼女を犠牲にすることで、身の安泰をはかったと言っても良かっただろう

他の子供達同様、恋も知らぬ幼い娘は、ストラヴスの異常快楽の餌食にされ

心身共に徹底的に弄辱され、しかもその間殆ど食事らしい食事も与えられなかった

その日、ルヴィアは暗い牢屋に、雑巾のような襤褸切れを着せられ、しかも手かせをはめられていた

そろそろ今の生け贄に飽きてきていたストラヴス伯は、次の子供を調達するように部下に命じている

今夜、哀れな少女は殺され、狂気の名君の胃袋に納められるはずだった

だが、そうはならなかった。 神ならぬ、悪魔が彼女を欲したからである

 

暗い牢屋の中で、疲れ果てたルヴィアが、鎖につながれて下を向いていた

牢番はそれほど悪い人物ではなかったが、ルヴィアに同情する以上のことはせず

それ故、決して助けようとはしなかった。 同情だけなら、誰にでもできるのである

靴音が牢屋の中に響き、ルヴィアが顔を上げた。 それは反射行動に過ぎなかった

もうこの娘は、視力も嗅覚も失っていたのだ。

かろうじて残っていた聴覚で、相手の接近を感じ取ったのだが、その姿を確認する事は出来なかった

「誰・・・?」

「私か。 私の名はニャルラトホテプ。 君達が言う悪魔だ」

ルヴィアは僅かに身をよじると、笑い始めた。 牢番は一瞬そちらへ顔を向けたが、すぐに戻す

子供が発狂してしまった事は、今までに一度や二度ではなかったし

別に哀れな生け贄がそうなったところで、助ける気などさらさら無かったからだ

「どうした、私が怖くないのか? 何故笑う」

「んふ・・・ふふふふ・・・。 ちょっと前まで、痛いとか、悲しいとか、辛いとか

それに怖いとか感じたのに・・・楽しくて仕方がないの・・・どうしたんだろ・・・・私・・・・

あれ? 涙も出ないや・・・んふ・・・ふふふふ・・・ふふふふふふ・・・」

笑い続ける少女を、ニャルラトホテプは見据えていた。 正確には、その精神を観察していた

話す相手もいなかったルヴィアは、相手が悪魔だろうと関係ないようだった

心の底から楽しそうに、見ることの出来ない相手に対し、語り続ける

「ねえ、悪魔さん。 どうしてパパとママはあんな風に殺されなければならなかったの?

何で神様は助けてくれなかったの? パパもママも、神様をあんなに信じていたのに

お祈りだってかかさなかったし、とても優しくて、素敵なパパとママだったのに

悪魔さんが、あの人達を手引きしたの?」

「・・・・・・。 いや、私は全く関係ない。 全ては人の業がなせることだ」

少女の中で、残された数少ない感情が爆発していた。 それは消えゆこうとする最後のきらめきを

花火のようにまき散らしながら、荒れ狂い、そして終焉の時を迎えた

「そう・・・悪魔さんの仕業じゃないの・・・

教えて? どうしていつも、神様はえらい人や強い人しか助けてくれないの?

パパとママが殺されたことの方が、私がこうしているよりずっと辛いよ・・・

神様なんか・・・・神様なんか・・・大っ嫌い! 王様なんて、大っ嫌い! 絶対に許さない・・・!」

次の瞬間、少女の中から<怒り>が消失した。 そして、喜びと楽しみだけが残った

ニャルラトホテプが指を鳴らすと、ルヴィアの手かせが消滅し、そして奪われた感覚が戻ってきた

その時既に痛みは感じていなかったが、体中の無惨な傷も消滅した。 だが、感情は戻らなかった

痛覚も戻らなかった。 これはニャルラトホテプの配慮だったのだろう

「教えてやろう。 答えは、神は自分に都合のいい者しか助けないから、だよ

奴にとって、貧乏人や弱者など、助けたところで何の意味もない。 信仰心(餌)を得るためには

国家を牛耳る者や、相対的に大きな力を持っている者を助けた方が都合がいいからだ・・くくくくく

私の手助けをして欲しい、ルヴィア=クレッセント

くくく・・・君は理想的な存在だ。 私は、君が欲しい

さあ、共に行こう。 そして、愚かな人類と、彼らが奉じる神に裁きの鉄槌を下そうではないか」

ニャルラトホテプが手をさしだし、何の躊躇いもなく少女はそれを掴んだ

次の瞬間、その精神と肉体はこの世から消え、普遍的無意識と一体化を果たし

這い寄る混沌・ニャルラトホテプの重要なコアの一つとなったのである

 

李香花は、中国の出身者である。 儒教思想の支配する彼の地では、道徳が重んじられると同時に

女性の社会的地位が低く、長い長い歴史を見ても、女性の皇帝はただ一人しか出ていない

それ故に悲劇は起きたのかも、あるいは悲劇は最小限にすんだのかも知れない

香花は天才であった。 何の天才かというと、政治の天才である

彼女は幼い頃から知識欲が強く、儒学者だった父の蔵書を自発的意志で読みあさり

10歳を過ぎた頃には、2万冊以上とも呼ばれる大量の本を全て読破してしまっていた

そして、香花はそれをただ読むだけではなく、実質的な知識として身につけ、吸収したのである

結果、怪物が誕生した。 政治的才能に知識が伴い、若くして異常熟練した政治家が生を受けたのだ

きっかけは何だったか分からないが、やがて香花の下には無数の人が訪れるようになった

いずれも複雑な政治的判断をするときの助言を仰ぐためであり、しかもそれをいちいち的確に捌いた為

香花の名声は嫌が応にも高まり、やがて実質的な発言力は政府高官の父をはるか凌ぐようになった

また香花は自分の出した決断がどういう結果を生んだかを綿密に調べ上げ、更に才能を強化していった

「このころの私は、政治が楽しくってしょうがなかったの。 全く、今思い出してみれば哀れなものよ

私には夢があった・・・そして、その夢と、私の組み上げた理論が重なった時・・・悲劇は起きたのよ」

香花の口調は淡々としていた。 ルヴィアのように感情を喪失しているわけではないようだが

周囲に満ちた絶望の圧迫感は凄まじく、ナナミは強烈極まる精神攻撃に苦しんでいた

香花は意図的にそれをやっているわけではないようで、悪びれた様子もなく、再び映像が流れ出した

十年が過ぎた頃、もう彼女は皇帝にも知られる存在になっていた

皇帝は幾度も使者を彼女の下に遣わして、政治的判断を仰ぎ、結果飢饉を回避し

異民族を、武器を使わず撃退することに成功し、不穏分子を抑え、民の支持を得ることに成功した

香花には一切政治的野望はなかった。 彼女はただ政治が出来ればそれで良かった

幾ら功績を挙げても、実質的な名誉が得られなかったが、別にその事を気にしはしなかった

彼女をねたむ者も多かったが、政治的野心の無さは良く知られていたから

実際に暗殺しよう等と考える者はおらず、屋敷の強固な警備もあって、手を出せる者などいなかった

彼女には、夢があった。 それは理想の政治を作ることであった

弱者は虐げられることなく、強者は驕ることなく。 国は富み、経済的敗者にも救済の道があり

血筋などと言う愚かな物で支配者は決まらず、そして誰もが向上を忘れない

結局の所、それは我欲によって権力の強奪を企む殆どの政治家以外の、良心的政治家が考える

ごくごく平凡な、だが決して届く事なき夢であったろう

だが、香花はその夢に、若くしてもっとも近くにいる存在だった

おそらく、長い歴史の中でも、彼女に比肩する政治能力を持つ者は、そうそうはいなかった事であろう

それ故に、彼女は別の結論に辿り着いてしまったのである

政治的判断を重ねながら、彼女は自分の政治理論の構築を進め、そして結論に辿り着いた

それは正に、地獄とも言っていい結論であったろう。 結果、絶望が香花の身を覆い尽くしたのである

 

「香花! どうしたのだ、止めよ! 死んでしまうぞ!」

「五月蠅いわね・・・放っといてよ!」

もう老人になっている父の手を払いのけ、香花が叫んだ。

彼女は酒など飲めないのに、その手にはかなりアルコール度の強い酒が、酒瓶ごと握られ

しかも猪口につぐことなく、そのまま口に付けて飲んでいる。 眼は血走り、真っ赤になっていた

彼女は部下に命じて(家庭内で、もう彼女に逆らえる者はいない)父を放り出させると、酒を放り捨て

机に突っ伏し、笑い始めた。 部下が彼女の幼なじみの到来を告げ、手を振って部屋に入れさせる

「香花さん、どうしたんですか・・・そんなにお酒を・・・顔、真っ赤ですよ!」

「あー、奉高。 ま、其処に座りなさいよ」

困惑する幼なじみの張奉高を机の向かいに座らせると、香花は笑いながら新たな酒瓶を手に取った

この気が弱い青年は、近くの役所で下級官吏として働いている

幼い頃からの友人だが、常に香花の尻にしかれっぱなしで、今でも求婚する勇気もなく

だらだらと、友人づきあいを続ける生活を送っている(香花も彼を決して嫌いではないようだが)

酒を一気に飲み干すと、服にかかったのも気にせず、香花は酔眼を光らせた

「アンタ、私と結婚したかったんでしょ? いーわよ、今の私だったらべろべろで抵抗できないもの

力尽くで既成事実でも作れば? あっはっはっはっは・・・」

「! 香花さん、一体何があったんだ・・・貴方はそんな人じゃないはずだろ!?」

青年の正論には、暴力が報いられた。

奉高は酒瓶を投げつけられ、呼ばれた部下によって放り出された

部屋には沈黙が残った。 新たな酒瓶を手に取ろうとし、香花は新たな訪問者に気付いた

「誰・・・貴方達・・・どこから入ったの?」

「私か? 私の名はニャルラトホテプ。 此方はルヴィア=クレッセント

私たちは二つで一つ。 ・・・君達が言う、鬼とか妖怪とか、そういった者のもっとも強い存在だ

一体何があったのかね? 自分をもっとも愛してくれている存在までにも、あんな仕打ちをして」

香花は、妙に頭が冴えて行くのを感じた。 そして、何もかもぶちまけたいと唐突に思った

それは、人を超えた存在に、全てをぶちまけたいと、彼女の深層心理が考えたからかも知れない

「・・・政治ってさ、何だと思う? 私はね、国家という物を通じて、相対的多数に祝福を与え

それでいながら少数も救う・・・そういう事だと思ってた

あっはっはっはっはっは・・・でもね、私は研究を続けて・・・知ったのよ!」

拳を机に叩き付け、香花は叫んだ。 ニャルラトホテプは、ただ沈黙を持ってそれを見据えていた

「世の中でもっとも<成功>した政治って、何だと思う? いや違うわね、言い換えましょう

国家をもっとも効率よく動かす方法って、何だと思う?

それはね、宗教や主義を使って国民を洗脳し、一元思想を植え付け、<統一的意志>を下に

民を絶対に上に逆らわない奴隷にして、思考力も判断力も奪う・・・そういう政治よ!

だから古代から、支配者は宗教を優遇した!

国民を洗脳しておけば、自分が何をしても逆らわれる恐れはないし、批判する者もいない!

そして何より・・・何でこんな事が成立すると思う!? こんな馬鹿げたことが、成立すると思う!?」

「・・・そうだな。 皆が楽をしたいと考えるからか?」

ニャルラトホテプの言葉に香花は狂人のように笑い、それを肯定した。

その眼には、今や涙が光っていた。 凄まじい絶望が、彼女の心を踏みにじっていた

「私は、みんなが物事を考え、自由を獲られる政治をしたかった・・・・

でも、皆はそんな事など望んでいない! 少なくとも、相対的多数は!

自由と思考よりも、支配され考えを与えられる事を望むのよ!

それである以上、どんなに優れた政治をしても、夢は夢でしかない!

自由を獲られ、考えられる環境があったとしても、此奴らには無駄よ!

そうなったとしても、支配され、主義を与えられる事を望むわ・・・

民衆が喜ぶのは、自由な時じゃない! 法と、その執行が万人に公平なときだけ!

そして、民衆が立つときは、自由が欲しい時じゃない! 食事が出来ない時よ!

此奴ら以上に許せないのが、その民衆の特性を利用し、自分だけの為に弱者を踏みにじる奴らよ・・・

私は・・・私は・・・全てを許さない! 永久に、絶対にっ!」

絶叫が響くと同時に、涙が机にこぼれ落ちた。 ニャルラトホテプが微笑み、手を差し出した

「君は理想的な存在だ。 私と一緒に来ないか?

共に、人の堕落に鉄槌を下そうではないか。 くくくくく・・・私は、君が欲しい」

香花は迷うことなく、ニャルラトホテプの手を取った

そして彼女も、ルヴィアと同様に、這い寄る混沌の最も重要なコアの一つとなったのである

 

サーディンは、戦絶えぬ地に生まれた。

かってムハンマドという男が建てた、イスラムという宗教が支配する土地の事である

その国は、長らく隣の国と争っていた。 実力は伯仲し、戦いは終わる様子も無かった

主義主張がどうのこうのという話ではない。 戦いの原因は、小さな土地を巡ってのいさかいだった

やがて一方の国が、在る事を思いついた。 特殊部隊を編成して、敵国の主要人物を暗殺する事である

「私は、そうして<作られた>。 私には両親の記憶など無い

私同様、たくさんの子供が奴隷市場で買われてきて、コードネームだけが与えられたのだそうだ

そのコードネームが、私の名だ。 実際、どんな意味かは教えられなかったがな」

サーディンはあくまで冷然と言った。 その身からは、相変わらず途轍もない殺気が迸り続けている

様々な<教育>が彼に施された。 ルヴィアは成長して感情を持って後、心を破壊されたが

そもそもサーディンは、心などと言う不要な要素は与えられなかったのである

ありとあらゆる殺人技術が、彼に教え込まれた。 それと同時に、戦闘術も教え込まれた

各地の言葉や文化、それに特色も教え込まれた

時が過ぎ、十数年が過ぎても、戦いは終わらなかった。 そして、サーディンらが投入された

予想以上の戦果を彼らは挙げた。 命惜しまぬ殺戮兵器は、有能な将軍や、心ある文官を次々と葬り

そしてついに敵国の王を暗殺、そして新たに就任した王も暗殺することに成功した

結果、敵国には不和が生じた。 次の王を争っての権力闘争が発生したのである

戦いの決着はついた。 敵国の半数を抱き込み、一気に反対勢力を駆逐

返す刀で油断していた和平派すらも葬り去り、一気に戦乱を集結させたのである

サーディンらは用済みになった。 周囲の勢力は安定しており、手を出す隙はなく

また国も疲弊して、余所に戦争を仕掛ける余力などもう無かったからである

指揮官に呼ばれ、サーディンは十数名の仲間達と共に、城の広間に集まった

彼らは其処で命令された、自ら死を選べと。

仲間達は次々と自分の喉をナイフでかききっていった。 だが、サーディンは最後までそうしなかった

かって任務地で、彼は普通に生きる人間を見た事があった

それは微妙な心境変化を彼にもたらし、やがて、自由への渇望を芽生えさせていたのである

サーディンはナイフを閃かせ、指揮官を一瞬で葬った。 駆け寄ってくる兵士達も次々に葬り去り

いぶかる兵士達の脇を疾風の如く駆け去って、王宮を脱出した

自由の大地に彼は出られた様に思えた、だがそれは見せかけの自由に過ぎなかった

 

血みどろの地面に、彼は倒れ伏していた。 周囲は血臭、鮮血、肉塊、そして臓物

皆、彼が倒した賞金稼ぎであった

サーディンはこの一年で、100名以上の追っ手を殺した。 追っ手は倒しても倒しても新たに現れた

彼に自由など無かった。 彼は殺さねばならなかった。

殺して、殺して、殺し続けねばいきられなかった。 殺しても殺しても、自由など無かった

それは結局、指揮官に使われていた時と同じ生活だった

その日、彼は二十人以上の追っ手に追いつかれ、その全てを殺さねば生き残れなかった

周囲には、その追っ手達が、全て死体となって転がっている

サーディンは涙を流していた。 彼はもう殺したくなど無かったのに、周りはそうではなかった

彼は自由が欲しかった。 いつかは自由が獲られると思っていたが、もうそれも潰えようとしていた

むせ返るような血臭が、腐臭に代わりかけている。 そして、そこに異邦者が現れたのである

「おじさん、どうしたの?」

サーディンの顔を、可愛らしい女の子が覗き込んだ。

かってなら反撃を考え、更なる敵の気配を感じ取ろうとしたであろう暗殺機械は、微動だにしなかった

「新たな刺客か? ・・・もういい、疲れた。 殺すがいい」

「殺す? 私たちは敵じゃないよ。 ほら、立ち上がって」

言われるまま、青年は立ち上がり、そして他にも若い娘と年齢不詳の男がいる事に気付いた

「誰だ・・・貴様らは」

「私はね、ルヴィア=クレッセント。 こっちのおねえさんは李香花ちゃん。

で、こっちのおじさんがニャルちゃん。 私たちは三人で一つ。 這い寄る混沌、ニャルラトホテプ

おじさん達が言う、悪魔みたいなものだよー」

サーディンは、少女の平和な笑みの中に、地獄を見た。 そう、自分と同じように、地獄を味わった者

そう理解したとき、彼は全てをぶちまけたいと、唐突に考えた

「私は自由が欲しかった。 余所にいる者達は、自分で考えることが出来、自分で生きる事が出来る

それだけが、私は欲しかったのだ・・・なのに、なのに・・・何故そうさせてくれないのだ

自分の意志と関係なく、私は殺さねばならない! かってもそうで、今もそうだ!

自由は欲しかった・・・・でも、もう私はこんな事は嫌だ・・・もうたくさんなんだ!

もう、自由なんていらぬ・・・頼む、悪魔とやらよ・・・私に命令してくれ

これ以上殺さねば自由を得られないのなら・・・私は自由などより、束縛を選びたいんだ・・・」

青年の眼からは、涙が流れ落ちていた。 それは迸る熱い感情の滝だった

彼は想像を絶するストレスの中で、地獄を味わい続けていたのだが

ルヴィアとは逆に、心にかけられていたプロテクトを破壊し、感情を得る事に成功した様だった

「分かった。 命令してあげるね

私の、私だけのナイトになってよ。 サーディンおじさん」

サーディンに、それを拒む理由は全くなかった。 彼は差し出された手を取り、この世から消えた

青年もまた、肉体と精神を普遍的無意識と融合させ、ニャルラトホテプの重要なコアとなったのである

 

4,伏兵の戦い

 

トリフネの中を、犬が疾走していた。 その背には、まだ幼い少女の姿が見える

周囲には、悪魔の死骸はあっても、生きた悪魔はいない。 二度に渡り侵入者に攻撃されたからである

少女の名は高田留美子、犬の名はペス。

犬は実際にはヘルハウンドと呼ばれる悪魔で、戦闘力は一個小隊の兵士に勝る

また、少女も邪神エキドナと須藤竜也をペルソナとする強力なペルソナ使いであり

実質的な戦闘能力は、最初にここに入っていった第十五師団の兵士一個中隊より上である

「ルミ、コチラデヨイノカ? モウ、ナニモノコッテイナイヨウナキガスルノダガ」

「間違いないわ、こっちよ。 すごく強い気配を、この奥から感じる」

留美子の言葉に曇りはなく、ペスは無言でそれに従った

この娘は、現在ニャルラトホテプと死闘を演じている者達に比べ、実際の戦闘力は劣ったが

その代わりに、凄まじいまでの霊的嗅覚を持ち、勘の鋭さは他に類を見ないほどであった

彼女は、彼女なりの方法で、舞耶やナナミを助けたかった。 それは純粋な心であると同時に

唯一心を通じ、今はペルソナとなって守ってくれる<竜也お兄ちゃん>に報いようという事でもあり

だからこそ、ペスはそれに従う。 主人が心を開き、自分も認める少女の言葉に。

ヘルハウンドは疾走し、やがてトリフネの最深部が彼らの前に開けた

そこは滅茶苦茶に破壊されていた。 壁は焦げ付き、床には穴が空き、壊れた機械が散乱している

周囲には真っ暗なクレバスが口を開け、風の音がしていた。 正面には、巨大なモニターがあり

宙に浮かび、紅いもやに包まれたトリフネが、異様を周囲に見せつけていた

留美子は床に降り立ち、クレバスの方に歩いていった。 小さな靴がその縁に立ち、下を覗き込む

「ルミ、アブナイゾ。 ・・・・ケハイハ、ソノシタカラスルノカ?」

「うん。間違いないわ。 ペス、降りられる?」

ヘルハウンドは悪魔の姿に戻り、頷いた。

穴の途中には出っ張りがあり、そう無理せずとも彼なら降りられるだろう

留美子は頷くと、小さな手帳を取りだし、しおりを挟んでいるページを開いた

そして、空いている方の手で、素早く字をなぞる。 周囲に負の気配が満ち、悪魔が出現した

鵬と呼ばれる鳥の悪魔であった。 自分に忠誠を示す悪魔に、留美子はまたがり、首を優しく撫でた

「さ、行くよ、鵬」

 

留美子がペルソナ化した竜也をその身に取り込んですぐの事。 生気のないメイドが彼女の前に現れた

彼女はメアリと名乗ると、留美子を業魔殿という、小さなホテルに連れていった

其処の主は、奇怪な格好をした、ヴィクトルという名の老人であった

この人物、悪魔使いの素質がある人間に、その主義主張、意志力の有無関係無しにサマナーの力を与え

自分は見返りとして、悪魔合体の研究をさせてもらう仕事をしている存在である

正体は謎だが、サマナーなら誰もが知っている男である。

どこからサマナーの素質を持つ人間を捜すのかとか、目的は何かとか、知られないことは多いが

どのサマナーも彼には深く感謝しており、どうこうしようと言う者はいない

(例えいたとしても、この老人は、簡単に撃退することが可能な力を持っていた)

老人は留美子を見ると、暫く思案した末に、ハーモニカ、ぬいぐるみ、銃、それに手帳を取りだした

それらは皆、そういった形状をしたコンピューターであり、市販の物とは比較にならない性能を持ち

悪魔召喚プログラムを組み込むことが出来る、悪魔使い必須の道具であった

留美子は差し出された物の中から、手帳を選んだ。 そして街の各所で悪魔を探し回り

契約しては業魔殿に連れて行き、今はそれなりの悪魔をそろえることに成功している

鵬もその一体だった。 主君をとても気に入っている悪魔は、一声無くと、クレバスの中に降りて行く

ペスも数度地面を引っ掻くと、身を宙に躍らせ、それに従った。

クレバスは深く、冷たい空気が充満していた。 十分間降りても、底は見えなかった

「ペス、ごめんね。 帰りはコンピューターに入って」

「ワカッタ。 タシカニコレヲノボルノハツライナ」

「HAHAHA・・・相変わらず固いな、ワンコ君」

ペスが留美子の言葉に大まじめに応えたので、鵬が笑った。 やがて、小さな横穴が見えてきた

留美子が眼を細め、そして確信する。 求める物は、あそこにある

「鵬! あの穴よ・・・気を付けてね。 何があるか分からないわ」

「OK、マスター! とばすから、しっかりつかまっててくれー!」

いつもながら軽い調子の、鵬の言葉が吐き出されると、悪魔は一気にその速度を上げた

急角度に、巨大な鳥は穴に突っ込んでいった。 ペスがそれに続いた

彼らの前には、奇怪な物があった。 奇怪な鍾乳洞のような空間の真ん中に、巨大な柱がある

留美子の上に、須藤竜也が具現化した。 しばらく柱を見た末に、指を鳴らして言った

「成る程、そういうことか。 これは・・・橋頭堡だな」

「キョウトウホ?」

小首を傾げる留美子の頭を撫でると、竜也は視線を柱に向け、続けた

「お前もサマナーならしってるだろ?

強力な悪魔になればなるほど、現世に出るには膨大なマグネタイトが必要になるんだ

だが奴は、どういう訳かマグネタイトも無しで、地上に好き放題でてやがる」

「そういえば・・・そうだね。 みんな、出番よ。」

嫌な気配を感じた留美子が、保有する悪魔を全て呼び出した。 最初に仲間にした堕天使セエレ

それに邪竜ラドン、他には妖鳥ハーピーに魔獣オルトロス、邪鬼ミノタウルスの姿も見えた

「おそらく奴は地上に出るために、これを何百年もかけて作ったんだ

これを使って、奴は自分の本体から、地上のほんの一部に、力を送り込んでやがるに違いねえ・・・」

「これを壊せば、どうなるの?」

竜也が黙り込んだ。 ペルソナ化した青年は、暫く沈黙していたが、やがて結論を出した

「倒すのは無理だな。 悔しいが、あの野郎は・・・・人間そのものだ

人間が死に絶えるか、別の精神的次元にでも到達しない限り、奴は絶対に死なない・・・!

だが、本来普遍的無意識も、ここまで現実世界に関与できるものじゃねえ。

関与はするが、こんな物を作ったり、物理的な効果を示すことなんて不可能だ

だから・・・多分、時間は稼げる。 またどこかに橋頭堡を作られるとしても、それまでは・・・

奴の現実世界への関与を、封鎖できるはずだ」

「そう。 ・・・・ならば、盛大に壊しましょう。 みんな、頑張って!」

留美子が手を振るって、悪魔達に攻撃開始の命を下した

まず先手を切ったのは、ペスとオルトロスだった。 二匹が息を会わせ、灼熱の息を柱に叩き付ける

続いてラドンが冷気の吐息を、柱に向けて叩き付けた。 周囲の温度が、一気に低下する

更にセエレとハーピーが、風の魔法を叩き付け、最後にミノタウルスが剛腕を振るい、柱を殴りつけた

ほんの僅かに、柱に罅が入った。 だが、攻撃は其処で一旦中止せざるを得なかった

柱の側の空間が歪み、巨大な悪魔が現れたからだ。

その悪魔は、不死の力を持つと呼ばれる、高名な魔物ヒュドラであった

ヘラクレスですら、相当に苦戦した強力な魔物である。 テュポーンの息子であり、その実力は強烈で

最終的に、ヘラクレスも滅ぼすことが出来ず、封印することでその動きを封じたのである

「ルミ! ゴシュジン! コイツハ、ワタシタチガヒキウケル!

ハヤクソノハシラヲコワセ! ハヤク! ソウナガクハモタナイゾ!」

ペスが相手の力を感じ取り、戦慄を含んだ声で警告した

留美子と竜也は頷き会うと、柱に向けて走り出した。 後ろでは、悪魔同士の死闘が始まっている

ペスをリーダーに、悪魔達は連携して戦っている

皆、使い魔としてではなく、大事に扱ってくれる留美子が好きだったから、主君を守ろうという心にも

打算ではなく、本心からの気合いが入った。 ヒュドラはそれを感じ取り、復頭をゆらして笑った

「雑魚共が・・・完全体とまでは行かなくとも、私の力は感じ取れるな

貴様ら如きが私と戦うつもりか? この私と。 くあっはっはっはっはっはっは!

其処のガキ、なかなか美味そうだが、アレを差し出せば逃がしてやってもいいのだが?」

「フザケルナ! ヘラクレスニイシノシタニフウジラレ、ナニモデキナクナッタブンザイデ・・・

キサマゴトキガナニヲイウカ! ワガホコリハ、シュクンニササゲラレル! ワタシハ、ワタシタチハ

ゼンリョクヲモッテキサマヲハイジョスル! ココヲトオシハセヌゾ!」

「良く吼えた、犬ころが!」

複数の蛇が、一斉に口を開け、炎が、冷気が、電撃が、そして圧縮された風が吹き出された

ヘラクレスと戦ったときにはこんな能力はなかった、後で身につけた物なのだろうか

いずれにしろ、桁違いの破壊力である。 凄まじい力に、鵬が吹き飛び、ミノタウルスが蹌踉めく

当然皆が反撃を行うが、びくともしない。 ヒュドラは笑うと、留美子に攻撃しようとした

その腰に立ち上がったミノタウルスがタックルをかけた。 オルトロスも噛み付き、ペスがそれに習う

「鬱陶しいぞ、雑魚があ!」

ミノタウルスの巨体が持ち上がった。 驚くべし、蛇の一つが締め上げて持ち上げたのだ

更に、突進してきたラドンを尻尾の一撃で吹き飛ばすと、二匹の魔犬を振り払う

だが、ペスは諦めなかった。 再び息を合わせて、オルトロスと一緒に頭に食いつき、食いちぎった

しかし、努力を嘲笑うように、即座に首が再生した。 炎の息に吹き飛ばされるペス

彼は見た、留美子がエキドナを発動させる様を。 そして笑った、勝負ありと。

エキドナは、悪魔達とは桁違いの凄まじい冷気を放ち、一瞬で柱を凍結した

そして、ヘルハウンドの主君が、代わりに具現化した。 刀を振るうと、炎の渦が巻き起こる

「よくも俺を・・・いやルミの人生を弄んでくれたな・・下司野郎が!

俺は悟ったんだよ。 俺よりも大事な存在が、この世にいるってな

今まで俺は、自分の身が一番可愛かった。 だから俺は、てめえに操られて、墜ちたんだ!

もう俺は墜ちねえ! てめえは、ルミのためにも・・・絶対にぶっこわしてやる!

この時のために取っておいた技だ・・・たっぷり味わいやがれ!

ヒャッハア! 燃えろ燃え尽きろ、骨の髄まで燃えちまえ! 必殺! 暗黒・デッドリーバーン!」

炎の塊が、極限まで圧縮され、柱に叩き付けられた。 アポロのノヴァサイザーをも凌ぐ破壊力だった

這い寄る混沌が数百年の時をかけて構築した橋頭堡が、轟音と共に壊れた

完璧な計画が、滅びの足音が、思わぬ伏兵の手によって、小さすぎる故直視しなかった存在により

そして負け犬として軽く見ていた者の手によって、崩壊させられた瞬間だった

少なくとも、竜也にはそう思えた。 他の誰にも、そう思えたことであろう

 

悪魔達は、かろうじて皆生きていた。 柱が破壊されて、すぐにヒュドラが逃げ出したのも幸いしたが

留美子がペルセポネーを発動させて、回復魔法を惜しまず使ったのも助かる要因となった

結果、精神力を使い果たした留美子は倒れてしまった

もし、彼女が悪魔達に嫌われていたりしたら、その場で八つ裂きにされて殺されてしまっただろうが

そんな事をしようとする者はおらず、殆どの者達は自主的に戻り

鵬が主君を掴み、ペスを背にのせ、静かにその場を離れた

上で行われている戦いに、変化が生じたのはこの時である。

絶対に勝ち目がないはずの戦いが、そうではなくなり、諦めなかった者達が勝利を得る事になったのだ

滅びの運命は、ここに変化を向かえた。 それは、彼女が信頼した、誰もが喜ぶ結果だったのである

 

5,救いなき戦い、勝者無き戦い、全てが終わる時。

 

「んふふふふふ・・・いっくよー! みんな!」

ルヴィアの声に、数え切れないほどの声が唱和した。

皆、彼女同様、勝手に<必要な犠牲>にされた者達で、その数は数万とも数十万とも数えられる

今までの映像で、完全に戦意を喪失してしまったうららが、床にへたり込んでいた

その肩を揺さぶり、パォフウが叫ぶ、その眼には、やりきれない戦いに対する哀しみがあった

「芹沢、芹沢っ! 惚けてるんじゃねえ! 来るぞ!」

「だって・・・・だって・・・・こんなのって・・・・あんまりだよ・・・・パォ・・・・!」

腰が引けてしまっている彼女の前で、霊達が数十の塊へと凝縮して行く

そして、ルヴィアの号令と共に、唸りをあげて二人に襲いかかった

「か・く・さ・ん、せんえいさーつ!」

周囲が轟音と爆音に蹂躙され、そして濛々たる煙が、全てをかき消した

うららが顔を上げる、そこには結界を全開にし、彼女を守ったパォフウが立っていた

パォフウは傷つき、結界には無数の穴が空いていた。 蹌踉めく不良中年を、うららは慌てて支えた

「パォ! 大丈夫!?」

「大丈夫にきまってるだろ・・・芹沢、眼を逸らすな。 あいつが、何であんなに苦しんでると思う?」

相も変わらず、ルヴィアは微笑みを浮かべて立っている。 相変わらずの笑みで、それだけしかない

困惑したうららを諭すように、静かに、だが熱くパォフウは続ける

その声は冷静であると同時に、膨大な感情を含んでもいた。 哀しみ、怒り、そして敵への理解である

「笑ってるように見えるだろ、あのガキ・・・だがな、あいつはそうすることしかできねえんだ

俺には、泣いているようにしか見えねえ。 悲しんでいるようにしか見えねえ!」

ようやくその言葉を理解し、ルヴィアをパォフウと同じ目で見るうらら。

現世にて、弱いという理由だけで地獄を体感した少女は、それを見て微妙に違う微笑みを浮かべた

「んー、同情してくれるの? 泣く、悲しむ・・・

そうだね、私にそういう感情が残ってたら、そうしてただろうね

パォフウおじさんにも、うららおねえちゃんにも、敵意は感じないよ。

だって、ここまで逃げずにきてくれたモン。 立派なものだよー・・・・でもね」

再び霊達が、数十の塊に凝縮されて行く。 空気が帯電し、そしてルヴィアは言った

「私たちの死から目を背け、やれ<祖国の誇りに傷が付く>だとか、<民族の汚点となる>とかいって

歴史から抹消し、死を無駄にした奴らと、連中に甘んじてる奴らは絶対に許せない

どうして、ヒトは個人レベルでは学習能力も羞恥心もあるのに、国家レベルじゃそうではないの?

同じ事を延々と繰り返して、犠牲だけを積んで、全く省みない!

必要な犠牲だとか言って、後でそれをもみ消し、素知らぬ顔でのうのうとしてる!

国の誇り? それは要するに、国を牛耳ってる連中の誇りでしょう

彼らが国家主義を使って民衆を支配するのに、都合が悪いから、国家の汚点をねじ曲げようとする

そんな簡単なことに、どうして気付かないの? 私は・・・許せないの。

んふふふ・・・ふふふふふふ・・・・ふふふふふふふふふ・・・

貴方達なら、ここで怒るんだろうね。 でも、私には楽しく感じるだけ

さ、終わりにしよう。 長すぎたよ・・・我慢する時間が」

凝縮された霊達の中には、彼女と共にストラヴス伯に殺された、254名もの子供霊も混ざっていた

無論、彼らの名は、<国家の名誉に傷が付く>とかいう下らない理由で、歴史から抹殺されている

しかも、それをやった輩は、<他の国もやっているのに自分がやって何が悪い>等と、自己正当化し

呆れたことに、周囲の<社会的大人>も、それが正しいと認めることだろう

風が鳴り、再び膨大なエネルギーが襲いかかる。 パォフウが叫んだ

「眼を逸らすんじゃねえ、芹沢! 俺達が、眼を反らしてきたから、此奴はこんなに苦しんできた!

せめて、俺達だけでも・・・此奴の、此奴らの哀しみを真っ正面から受け止めようじゃねえか!」

「分かった・・・・分かったよパォ! ルヴィアちゃん、私貴方を誤解してたよ

気が済むまで撃ってきな・・・! 全部受け止めてあげる!」

芹沢の言葉は何とも勇ましかったが、それは明らかに不可能である

彼らの哀しみを全て受け止めたら、米国全土が壊滅する程の力を真っ正面から受け止める事になるのだ

だが、心意気は伝わった。 ルヴィアが再びエネルギーを凝縮させ、また微妙に異なる笑みを浮かべた

「じゃ、お言葉に甘えて、いっくよー! か・く・さ・ん、せんえいさーつ!」

轟音が再び周囲を蹂躙し、霊達の哀しみが響き渡る

更に次の一撃が放たれ、爆音が響き、もう一撃を放たれると、攻撃がとぎれた

「まだ・・まだ・・・まだまだまだまだ!」

煙の中、うららとパォフウが立っていた。 結界は傷つき、体のあちこちから出血しているが

まだまだ気力は衰えないようで、笑みを浮かべる余裕さえ在る・・・様に見えた

だが、ルヴィアは彼らの実状を把握していた。 攻撃の手を休め、静かに二人を見つめた

「どうしたの。ルヴィアちゃん! まだまだ撃ってきなよ!」

「・・・・無理は良くないよ。 もう殆ど体力が残って無いじゃない

ま、私は構わないけどね。 次の一撃を受けたら、木っ端微塵になっちゃうよ?」

うららの強がりに、冷静に応えるルヴィアの瞳には、虚無のみがあった

本来なら哀しみに縁取られているのだろうが、もう彼女にそれは存在しないのだ

 

「じゃ、行くわよ。 必殺・・・」

香花が手をかざすと、凄まじい量の魔力が集中して行く。 淡く、それでいて美しく魔力は輝きを放つ

ナナミも南条も、それを見るばかりで、反撃しようとはしなかった

その様を鼻で笑うと、香花は呪文詠唱の最後の一節を唱え、そして効果を発動させた

「リング・オブ・フォーチュン!」

輪状の破壊的な魔力が、南条と、彼をかばったナナミの結界を舐め尽くす

空気自体が爆発を起こすほどの高熱が発せられ、そして周囲を漂白した

「へえ・・・すごいわね。 これを耐えられる奴はそうそういないわよ?」

南条が片膝をつき、大きく息をついていた。 ナナミも側で、宙に手をかざし、脂汗をかいている

周囲の床は未だに凄まじい熱を放っていたが、どういう形質なのか、すぐに冷えて静かになった

眼鏡をなおし、南条が立ち上がる、その眼には今までとは違う光があった

「残酷すぎる話だな・・・俺には・・・・よく分かる

自分の信じていた理想を、信じていた者によって、完膚無きまでに、しかも論理的に打ち砕かれる

来い・・・俺でどれだけ役に立つかは分からないが、少しでもその絶望を受けてやろう」

「ま、私だけの絶望だったらどうって事はないでしょ

私はね、高潔な政治的理想を、信じる者自身によって踏みにじられた者達の絶望を統括しているの」

言葉を発し終えた香花の周囲が、凄まじいまでの負の力に覆われた

無数の絶望が、知在る故により深く増幅された絶望が、周囲を舐め尽くしていった

彼女の周囲に、無数の人影が見えた。 それは高潔なる賢者達だった

いずれ劣らぬ知識と見識を持つ者達であり、ある者は道徳によって民衆の覚醒と支配者の抑制をはかり

ある者は法によって同じ事をしようとし、ある者は理性によってそれを行おうとした

しかし、それらは無駄だった。 周囲全ての嘲笑が、彼らの理想を打ち砕いたのである

誰も自由など、自主的意志の覚醒など望まなかった

民衆は例え相手が極悪人だろうと、自分を侮蔑する存在だろうと、パンさえくれれば尻尾を振り

支配者は自分の権益を守る事だけを考え、真の国政などに見向きもせず、ただ保身の方法だけを考えた

無論例外はいた、だがそれは小数だった。 それが現実だったのだ

だが、南条は動じない。 現実を受け止めて、そして毅然としていた

その姿を見て、ナナミが浮き上がり、彼の前に出た

「ダーリン、ナイトメアは誇りに、これ以上ないほど誇りに思うですぅ。

生き残るためにあいつを倒すなら、ナイトメアが何とかするです。

あいつの哀しみを受けきるなら、ナイトメアが何とかするです。 さあ、選んで・・・」

「馬鹿なことを言うな。 お前が死んだら、俺はまた大事な存在を失うことになるんだぞ

あの技だけは使うな。 本気で撃ったら、奴は倒せるにしても・・・・命がなくなるのだろう?

それに俺は、奴と<戦い>たい。 そうせねば、俺は一番の日本男児になれない気がする

力をかしてくれ、ナイトメア。 俺だけでは、勝てるかどうか分からぬからな」

ナナミの表情は、南条の指摘が正しいことを肯定していた

限りなく冷酷で、現実主義者の彼女が、自分のために本気で其処までしようとしてくれた

それだけで、南条には充分だった。 それに、彼は本心からもう大事な存在を失いたく無かったのだ

「分かったですぅ。 ダーリンとナイトメアで、あいつと戦うです!」

「そういうことだ。 来い、絶望を統べる悲しき者よ!」

香花は頷き、更にもう一撃、熱の輪を打ち出した。 周囲が灼熱地獄と化し、すぐに収まる

蒸気の中、南条とナナミが二人で結界を増幅しあい、今の攻撃に耐え抜いていた

「私はね・・・貴方達にはそう敵意を感じない。 特に南条君、君はかっての私を思わせるわ

でも、人類はそうじゃない・・・

どうしてヒトは、個人レベルでは学習能力も羞恥心もあるのに、国家レベルではそうじゃないの!?

これは私たちの共通の問いよ! 何故ヒトは、しようと思えば出来るのに、愚鈍から脱しようとしない!

理由は・・・分かってるわね。 そんな面倒くさいことをするよりも、惰眠を貪った方が楽だからよ

貴方は戦える? 敵は上だけじゃなくて、下にもいるのよ。 横にもいるし、自分の中にさえいるわ」

「確かに、貴様の言うことは一面に於いて正しい

だが、全てがそういうわけでもない。 小数ながらも、自由思考に覚醒した者はいる

確かに今は、それは小数で、嘲笑を受ける立場にある。 だが、未来永劫そうとはかぎらん!」

再び放たれた熱の輪が、南条の返答を中断させた。 結界の内部は相当熱くなってきたようで

ナナミの額にも、南条の額にも汗が滝のように流れ始めていた

「むう、汗がこんなに・・・体内のミネラルがもったいないな」

壮絶な台詞を南条が呟き、再び気合いを入れて結界を強化した

ただ実際には、どれほどそれに効果があるかは疑問である。 防御結界を展開している主力はナナミで

あくまで南条は補助に過ぎない。 香花が笑みを浮かべ、攻撃を一旦中断した

「スピードと攻撃魔法の破壊力を生かした速攻が得意なのに、防御に徹せざるを得ない・・・

南条君が、よっぽど好きなのね。 普段の貴方なら、彼を囮にして私に奥義を叩き付けたんじゃない?

それによって、自分が死ぬとしても。

合理的判断をすれば、両方死ぬ可能性が高い今の戦い方よりも、犠牲が独りですむ方がいいのにね」

「へっ、分かってるならわざわざいうな・・・。 ナイトメアは、自分の信じた者と共に歩む!

それが例え合理的に見えなくても、非論理的な分を含んでいたとしても! 後悔はないです!

ただ、もしダーリンが目を離したら・・・その時は分かってるですね・・・

例え滅びようとも、千々に砕けようと、どんな手を使ってでも貴様をこの世から抹殺してくれる!」

ナナミが凄絶な笑みを浮かべ、香花もまた笑った。 そして再び、両者は手に魔力を集中させた

 

「行くぞ! 女性や心ある闘士を手に掛けるのは忍びないが、致し方ない」

サーディンが疾走する、惚けたように立ちつくす克哉が、慌てて結界を展開するが、時既に遅し

拳の先端が消え、そして克哉の腹の辺りに突然出現した。 そのまま腹に直撃を受け、克哉が吹き飛ぶ

壁に叩き付けられた克哉が、吐血し、壁からずり落ちる。 桐島も、それを見ながら動けなかった

「これぞ奥義、ガードパニッシュ・・・」

サーディンの言葉は、誰に向けられた者でもないようだった

彼は、自分の意志と関係なく、国家に使い捨てにされた者達の無念さと

自由に絶望した者達の負の思念を統括している。 他の三名同様、生者死者関係無しに。

「君達を攻撃するのは、本意ではない。 だが、私は人間を許せない・・・故に戦う

何故人は、自由を得られる環境にありながら、束縛を選ぶのだ。 戦いもせず・・・・

それに、何故人は、国家の為にという寝言で思考停止するのだ・・・

何が国家のためだ。 それが国家を牛耳る者のためだと、何故気がつかないのだ!

だいたい国家の為になどと声高に言う輩は、自分の利益のために生きる価値在る者に死を強要している

それに等しいと、歴史は証明している。 なのに何故、直視しない!

何が愛国心だ。 愛国心等という物は、絶対に強要されるべき物ではないし

愛国心を抱かせる教育など、支配者に盲目的に従う奴隷を育成する教育だと知れているではないか!

私は許せない・・・エゴのために個人の全てを破壊する権力者も、楽がしたい故にそれを肯定する者も!

そして、何よりも・・・・何よりも・・・・!

私は許せない・・・私自身を破壊した奴らよりも、主君をあんなめに会わせた奴らが許せない!

いったい、どれだけ無意味な犠牲を増やせば、人は気が済むのだ・・・・・!」

「多くの人は、強くない。 それぞれの生活を送るためで精一杯だ

君の怒りはよく分かるつもりだ・・・僕も君と同意見だ」

サーディンは鼻を鳴らし、眼を細めた

確かに、克哉は法に従う存在である。 だが今回の事件では、社会的道徳の徒としての立場から

法を利用しながら、法を根本的な面から踏みにじる連中との戦いを迷わず選んだ

それは、克哉の信じるものが法であり、法を支配する者ではないという事も関係していただろう

だが、もしも社会的道徳や法が、差別や政治腐敗を肯定する物だったら、彼はどうしていたのだろうか

実際、未熟な文化の支配する社会や、逆に文化が爛熟しきった社会では、そういうことがあり得るのだ

克哉が立ち上がり、桐島が回復魔法を発動させる

ミカエルの回復魔法は強力だが、今の一撃は、結界内部への直接攻撃である。

克哉の肋骨は折れ、かなりのダメージが肉体を痛めつけていた

だが、克哉は笑っていた。 口の中の血を吐き出すと、微笑みさえ浮かべて見せた

「サーディンと言ったな。 僕は全身全霊を持って、君の怒りを受け止めよう

だが、僕とて死ぬわけには行かない。 どこまで受けられるかは不安だが・・・

桐島君、女性である君を痛めつけさせるわけには行かない。 回復魔法を頼む」

「そんな・・・・Mr、Suou、私も戦いますわ

・・・あの方の哀しみ、それに怒り、私も深く感じました・・・黙ってみてはいられませんわ!」

桐島もまた、細剣を構える。 ミカエルは一層紅く輝き、炎が熱く、高貴に瞬いた

また、克哉のヒューペリオンも、蒼い炎を、高貴に輝かせていた

サーディンは静かに笑った、彼の周囲には、無数の怒りが渦巻いている

生きている者、死んでいる者。 ルヴィアの周りには、自分でも分からず犠牲を強要された者達が

香花の周りには、理想と希望を信じる者達に裏切られた者達が

そしてサーディンの周りには、国家レベルでのエゴを満たすために、全てを踏みにじられた者達がいた

死者では、神風特攻隊の青年達がいた、サーディンの同僚達がいた

そして、戦場で上司に使い殺しにされた、無数の数え切れない兵達がいた

生者でも、憤怒に満ちた無数の無意識が、サーディンの力だった

彼らの力を凝縮し、サーディンが叫ぶ。 その身が、凄まじい量の、漆黒のオーラに覆われた

「その心意気や良し。 我が怒り、そして我らが怒り、とくとうけるがいい!」

地面が連鎖的に抉れ、殆ど一瞬で、間合いが征服された

拳が繰り出され、ヒューペリオンの結界に火花が散る、続いてミカエルの結界にも火花が散った

「Oh・・・・my・・・・早すぎて見えませんわ!」

桐島が周囲に散る火花に驚愕し、正面に出現したサーディンを見て息を止めた

瞬間、繰り出された回し蹴りが、彼女を吹き飛ばし、壁に痛烈に叩き付ける

「桐島君!」

克哉が叫ぶが、それもすぐに中断した。 再び結界の中に拳が転移し、腹部を直撃したからである

だが、眉をひそめたのはサーディンだった。 克哉は立ち上がり、笑みさえ浮かべて見せたのである

「どうした、それで終わりか?」

「まだまだ・・・・いけますわ!」

逆方向では、桐島が端正な顔をゆがめ、立ち上がってきていた。 依然ミカエルは輝きを失っていない

「・・・・ふむ。体力の45%を喪失させたのだが・・・まあいい。

まだ立ち上がるか・・・ならば続けて行くぞ!」

サーディンの拳が高速で繰り出され、瞬く間に克哉が壁に追いつめられる

そして、防御結界へ克哉が精神を集中しすぎた瞬間、再びガードパニッシュが繰り出された

克哉は崩れ伏す、血だまりが地面に広がった

隣では、強烈なミドルキックを受けた桐島が倒れ伏している。 だがまたしても、彼らは立ち上がった

「まだ立ち上がるのか。 ・・・意志強き者達だ」

サーディンが再度ファイティングポーズを取る、その眼には微妙な光が宿っていた

 

「はあっはっはっはっはっはっはっは! 実に、愉快!

誇れ、誇れ、誇れ! この姿を人間世界で曝したのは初めてだ!」

迷宮の最奥に、巨大な影が揺らめいていた。 それこそ、ニャルラトホテプ中心コアの、真の姿だった

巨大な蛸のように、頭状の物体から無数に触手が生え、それぞれには眼のような物が無数についていた

達哉の姿をしていた最初の形態は、達哉自身のノヴァサイザーによって砕かれた

だがその瞬間、ニャルラトホテプは<月に吼える者>と呼ばれる

<向こう側>でヒトラーのペルソナをしていた存在に変わり、桁違いの攻撃力で猛威を発揮しだした

そして、それを辛くも退けた瞬間、この更なる恐怖が姿を現したのである

ニャルラトホテプは、文字通り体をゆらして哄笑した。 その無数の眼が、四方八方に向けられる

完全なる狂気、それがこの場にあった。

ニャルラトホテプ本体は、残った全てのネガティブマインドを統括している

故に、人の罪を統括する他の者達とは異なる、少なくともこの場ではそう見えた

「人の身で、この私にこの姿をとらせたことを誇るがいい!

だが聞かせてやろう・・・くくくくく。 この姿とて、私の全力ではない

しかも今の私は、お前達を瞬時に粉砕するだけの力を持っている。 私の言っている意味が分かるな?

ゆくぞ・・・さあ、踊れ、踊れ、踊れ・・・!」

ニャルラトホテプの笑いが止まった。 舞耶が銃を降ろし、溜息をついたからである

達哉が驚き、視線をせわしなく動かした。 防御結界さえ解除し、舞耶は言う

「ようやく・・・弱みを曝してくれたわね」

「何を言う? 我の動揺を誘うためか?」

舞耶が達哉の方に視線を向け、困惑しながらも達哉が刀を降ろした

困惑していたのは少年だけではない、元凶たる存在も同じである

触手をせわしなく動かし、視線を更にあちこちへ向ける。 その様を見ながら、舞耶は口を開いた

「もしも私が貴方だったら、最後の瞬間まで希望を持たせ、そして世界の滅亡を見せてから私を殺すわ

でも、貴方はそうなる前に、私たちを倒せるだけの力を持った形態に変化した

弄んで殺すのなら、最初の形態で充分だったはず・・・・違う?

貴方は人間よ、ニャルラトホテプ。 だというのに、何故そんな姿で私たちを威嚇するの?

矛盾・・・矛盾・・・また矛盾。 貴方の言葉通りに取るには、行動に矛盾が多すぎるわ」

「それがどうしたというのだ。 それから何の結論が導き出されるのか理解に苦むが?」

心理戦における攻守は、完全に逆転していた。 舞耶は目を瞑ったまま、静かに続ける

「・・・・まず第一に、もう貴方の負けよ。 ニャルラトホテプ。 貴方も分かっているとおりにね」

「舞耶姉・・・それは!? 本当なのか!?」

半ばヤケになっていた達哉の目に、生気が戻る。 ニャルラトホテプの表情にも、動揺が走り始めた

「達哉君、君には黙っていたけど、トリフネから出てすぐにね、ルミちゃんと連絡が取れたの

それでナイトメアちゃんとも打ち合わせをしたのよ。 それを何故知らせなかったかは後で言うわ

ルミちゃんの勘の鋭さは知ってるわね。 彼女は言ってたわ・・・敵の中枢を壊せる気がするって。

彼女は場所まで特定できてるらしかったわ。 ・・・何の勝算も無しに、私たちが来るはずはない

それを知っていたはずなのに、貴方は知らないフリをしていた

そして、この空気の変化・・・ルミちゃんがやったのね。」

舞耶の言葉に、達哉が周囲を見回すと、成る程確かに空気が変化していた

ニャルラトホテプの体が、揺らぎ始めていた。 空間が圧縮され、皆がこの場に瞬間的に集まった

ルヴィアの体も、香花の体も、そしてサーディンの体も薄れていた

<橋頭堡>が破壊されたことにより、肉体が自動的に魔界へ戻り始めたのである

「第二に、貴方の目的は人に鉄槌を下すこと。 ・・・野心にエゴに踊らせて、自滅させる事

貴方にとって、この二つは同義だった。 向こう側の記憶が、その推論を導いたわ

卑劣なだけの存在だと思っていたけど、貴方はそうではない

・・・私は今でも貴方が憎い。 それは罪・・・貴方が犯した罪故よ

貴方は・・・本当は・・・・死にたかったのね

あの形態になったのは、自分の心臓部を攻撃に曝したかったから

ルミちゃんを止める気が無かった以上、もう時間がないことは悟っていたんでしょう?

・・・いや、違うわね。 それすら、貴方の布石だった。 自分を弱体化させ、私たちにも勝機を作る

貴方は私たちの力が予想以上だったら自分が死に、そうでなかったら人を滅ぼすつもりだった

だから、フィレモンも認めた私達を選んだ。 自分の知る限り、最も意志強き者達を選んだ。 違う?

どっちにしろ、人は致命的な打撃を受けることになる。

普遍的無意識が崩壊したら、人が滅亡するのと同義だものね。 戦っても、私たちには勝ちはなかった

勿論貴方は死ぬけれども、それで良かった・・・そうよね」

「くく・・・くくくく・・・くくく・・・・其処まで分かっていたのか」

ニャルラトホテプが人の姿に戻り、笑い始めた。 ルヴィアが肩をすくめ、サーディンが俯き

そして香花が、冷徹に目を光らせた。 彼らの方を見て、ニャルラトホテプは悲しげに笑った

「・・・君達も見ただろう、彼らの記憶を。 人の業を

私は人であり、人は私だ。 だが、いやだからこそ私は、自分を許すことが出来なかった・・・・・!」

それからの事は、圧縮された記憶として、皆に送り込まれた

ニャルラトホテプは、静かに語った。 哀しみと、怒りと、絶望を込めて

 

「太古の昔のことだ・・・私がニャルラトホテプとなり、奴がフィレモンとなったのは

私たちは当時、不老の術を研究していた。 そして、育ちつつある人の普遍的無意識に目を付けた

人の普遍的無意識は、二つの側面を持っていた。 君達が光と呼ぶ部分と、闇と呼ぶ部分だ

ふふ・・・それからはいうまでもないな。 私は闇を選び、奴は光を選んだ

そして役目を決めた。 私の目的は、人を信じず、弱き者を奈落へ引きずり落とす

奴の役目は、人を信じ、だからこそ故に、力だけ与えて後は干渉しない

くくく・・・これには当然理由がある。 光の影には闇があり、闇の底には光があるからだ

本来なら、それでバランスが取れるはずだった。 強すぎる光は全てを焼き尽くしてしまうし

暗すぎる闇は全てを凍り付かせてしまう・・・だが・・・人は私たちの想像以上に愚かだった

人が文明的に成長すると、私の力は加速度的に強くなっていった。 逆に、奴の力は弱くなっていった

私の中に、凄まじいまでの業が流れ込んできた。 私も最初は、それが人間だと我慢していた

だが、ルヴィアの事を見て・・・・彼女に人間がした仕打ちを見て・・・我慢の限度に達したのだよ

人には、恐怖すべき対象が必要なのだ。 だが、人は何もおそれず、やがて種族レベルで墜ちたのだ

私は、それを補正するため、ルヴィア達を取り込んだ・・・ふふ、いや違うな

無限の、負の渦の中で、私は孤独にさいなまれていたのだろう・・・

私を外道と呼ぶならそうしろ。 だが、覚えておくがいい

墜ちる者達は、自分でそうする決意を下したと言うことをな。 私が唯一しなかった事を教えてやろう

それは、精神に対する直接干渉だ。 力尽くで墜とした者は一人とていない・・・

きっかけは与えた、だが墜ちることを選んだのは、個人個人だったと言うことをな

そして、ルヴィア達を取り込むために、工作などは一切していない・・・

彼女らを永遠の闇に墜としたのは人そのものだ・・・だから私は・・・」

 

周囲には、淳と栄吉、それにリサが倒れていた。 壁が薄れ、急速に魔力が弱まっていく

そして、ニャルラトホテプが消えていった。 その姿は薄れて行き、そして最後に呟いた

「勝っても負けても私の勝利になるように、全てを構築したのだが・・・ふふふ、まあいい

完全な意味で、君達の勝ちだ。 次の橋頭堡が出来るまでは、魔界から君達を見るだけにしよう

・・・それまでに、君達が自滅しなければ、の話だがな・・・くく・・・くくくくくくく・・・・

それと、最後に言わせて貰おう。 良く最後まで、逃げずに戦った。 君らには敬服したぞ」

哄笑と共に、元凶の姿は消えていった。 他の三名もそれに習おうとしたが、ルヴィアが制止した

「ん、私はちょっと用があるわ。 香花お姉ちゃん、サーディンちゃん、現世に残ってる力くれる?」

「・・・良いわよ。 やりたいことの見当はつくしね」

「私にはそれを拒む理由がない。 主君、魔界で待っている」

相次いで消えた二人を見送ると、ルヴィアは振り向いた。 別れの時が始まった

 

6,少年は罪を償い、だが罰は容赦なく

 

「ナイトメア、ひょっとしてお前は・・・」

「・・・知っていたですぅ。 ただ、気がついたのは舞耶お姉ちゃんの記憶を岩戸で見たときですけど」

急速に薄れ行く迷宮の中で、南条が問い、ナナミが応えた

彼女は敵の目的に気付いていた。 舞耶も気付いており、故に相談は誰にもしなかった

無論、南条もある程度は気付いていたが、完璧に理解は出来ていなかった

だが、それを怒る気には到底なれない。 これだけは、絶対に喋ってはいけないことだったからだ

相手の意志を知っていて、全てを受け入れ、自分自身との戦いを選んでは意味がないのだ

やりきれなさに顔を下げる皆の前で、ルヴィアが静かに笑った。 何もその表情は変わっていない

「さあ、後始末をしていくよ。

まず、えいきちお兄ちゃん、じゅんお兄ちゃん、リサおねえちゃん達の記憶の消去

トリフネの消滅、それに珠阯レ市を地面に降ろして、地脈龍も本来の姿にしないとね

そして・・・たつやおにいちゃん、さようなら。 向こう側まで、安全に送ってあげるね」

達哉が地面に倒れる、そしてその上に、影のように薄い達哉が立っていた

<向こう側>と<此方側>が、次元的に完全分離を始めたためである

涙が止まらないうららと、沈鬱な表情をする舞耶の前で、達哉は口を開いた

それは自らの罪の告白だった。 自分を告発する行為だった

自分で明言しなければいけない事であり、ようやくそれを口にする勇気が彼にわいたのだ

「今回の事件は、全て俺のせいではじまったんだ。 あの時・・・向こう側で舞耶姉が死んだ時

みんなで、過去に俺達が神社で会った・・・その現実の消去を願った

強い思念が現実になる、トリフネの内部だったらそれが可能なはずだった

だが、俺はそれが出来なかった。 一人になるのが怖かったんだ。

折角再会できた、本当の親友達と別れるのが怖くて怖くて仕方なかったんだ・・・!

いやだ・・・別れたくない・・・俺をおいて行かないでくれ・・・一人はもういやなんだ・・・・!

そう考えた俺のせいで、リセットが不完全になってしまって・・・・結果沢山の人が死んだ

須藤竜也だって、俺が願えていたなら、まっとうな人生を送れていただろう

あの戦車に乗っていた自衛官の人達だって、無駄に死ななくて済んだはずなんだ!

俺は、鳩美由美に殺されても当然だったんだ。 救いがたい罪人なんだ!

・・・舞耶姉・・・俺は、この世界での罪は・・・償えただろうか

俺がやったのは、最後まで諦めずに戦う事だけだった・・・それで良かったんだろうか・・・」

「ええ・・・償ったわ。 達哉君、立派だったぞ・・・だから・・・もういいわ」

堪えきれずに舞耶が泣き出した。 克哉も目頭を押さえ、ナナミ以外の全員が俯いていた

ナナミは気付いていた、舞耶の涙が、死に行く弟を見送る涙だと言うことを

決して、愛する者を送る涙ではないことを。 それを行っているのが、ルヴィアであり

そして、それを達哉が望んでやってもらったと言うことを・・・

達哉は自分を許していない。 いくら、此方側の自分と、舞耶自身のためとはいえ

ニャルラトホテプさえ美学から行使しなかった、精神への直接干渉を、一種の洗脳を行ったのだ

しかも、それは自分の手で行ったわけではない。 頼んでやってもらったのである

他人の手を使って、あの這い寄る混沌さえ委棄したことを行ったのだ

達哉は今後も、絶対に自分を許すつもりはないはずだ。 これからの人生は地獄となるだろう

向こう側でも、ずっとそれを背負い、しかし負けずに少年は生きて行くだろう

負けることが更なる罪だと知っており、そしてもう罪を犯すことを許容しないであろうから

切ないが、直視しなければいけない事だったろう。 少年の生き様を、覚えておかねばならないだろう

ルヴィアもナナミの考えていることに気付き、前に歩み出た。 相変わらず笑みを浮かべ、言う

「どうする、最期の一瞬だけでも解除する? 罰。」

「いや・・・だめだ。 俺は此方側での罪は償えたかも知れないが、向こう側での罪は償えていない

そんな事よりも、散々傷つけてしまった、此方側の俺の体の修復をしてくれ」

沈鬱な表情で、達哉が言う。 半透明の体が、下から徐々に消えていった

「向こう側はまだ残っている・・・世界はもう珠阯レ市一つだけしかないがな・・・

それでも俺は、そこを守らなければならない・・・それが俺の、向こう側での償いだ

パォフウさん、うららさん、助けてくれて有り難う

南条さん、桐島さんは、向こう側でもまだまだお世話になりそうだ。 此方側ではもう別れだが・・・

兄さん、俺はアンタに冷たかった・・・許してくれ。

そしてナイトメアさん、俺にいつも厳しくしてくれて・・・助かった

・・・最後だ。 さようなら・・・舞耶姉」

舞耶が手を差し伸べ、何かを言おうとした、だが言葉にならなかった

そして次の瞬間、<向こう側の>達哉はもう、世界のどこにもいなかった

 

「さて、これで後始末は終わり、と。 じゃあ、私も魔界に帰ろっと

・・・ただ、覚えておいてね。 私たちは・・・許してはいないから

人が変わらなければ、私たちは何度でも帰ってくるよ。 次はどうなっても知らないよ

私は、私たちは人を許せない。 人を許さない・・・罪から逃げ、罰を受けようとしない人をね

それに、人の業はこれだけじゃない。

人が傷つけているのは、内部の弱者だけじゃないわ、外部の弱者もよ

いつまで人は驕り続けるの? ・・・・時間ね・・・んふふふふ・・・次に会うときが楽しみだねー」

此方側の達哉の傷をいとも簡単に修復すると、ルヴィアは言った

トリフネだった珠阯レ市は徐々に降下し、もう海面が近い

周囲は海になるかも知れないが、浮上の時とは違い死者は出ないだろう

いつの間にか、その場にはフィレモンもいた。 皆の沈鬱な視線を受けながら、ルヴィアも消えて行く

皆の沈黙の中、うららと舞耶の涙は止まりそうもなかった

迷宮も消滅し、彼らは小さなビルの屋上にいた。 無言のまま、パォフウが南条にビデオを渡す

やるべき事を忘れないのは流石だ、だがこんな時に良くそんな事が出来るものだと言う者もいるだろう

「フィレモン・・アンタ・・・・なんとかできないの? アンタ神様みたいなもんなんでしょ!?

こんなのって、こんなのってないよ・・・・切ないよ・・・切なすぎるよ!」

うららが声を絞り出した。 なんとかできないかとは、勿論ルヴィア達を救えないかという事だ

だが、それが無理なのは彼女自身にさえ分かっている。 フィレモンも当然否定した

「それは無理だ。 君達が滅びるか、或いはより高みにのぼるか・・・

それしか彼女らを救う手だてはない。 忘れるな、彼らを苦しめているのが何かと言うことを

君達は全てをやり遂げた。 だからこそ、この思いを忘れずに、これからを生きてくれ」

「当然よ・・・達哉君のためにも、ルヴィアちゃんや香花さんやサーディンさんの為にも

そしてニャルラトホテプの怒りと哀しみも・・・絶対に忘れないわ」

皆が代表し、舞耶が応えると、フィレモンが満足して微笑み消えた

これにて、後に<新世塾スキャンダル>と呼ばれる、人類の業がもたらした戦いは終わった

 

7,エピローグ

 

戦いが終わって、数日後。 三日間不眠不休で事後処理に当たり、的確に事態を解体し

ようやく一段落し、倒れるようにベットに倒れ込んだナナミが、朝の光を感じて目を覚ました

彼女は最後まで起きていた。 ナナミの二時間前に南条がベットに倒れ、程なく松岡も落ち

部下達も殆ど床をベット代わりに寝ている状態の中、ナナミは最後まで地道な処理作業を指揮した

彼女らの仕事は、困難を極める作業であり、故に誰にも代わってもらうことが出来なかった

克哉も事後処理に四苦八苦していただろうが、此処までの苦労はなかっただろう

第十五師団の中で最後まで抵抗していた第七歩兵連隊の、政府に対する降伏を確認し

世界中から集まってきた学者達を、何とか南条コンツェルンの指揮の元スケジュール拘束する事に成功

米国第七艦隊の壊滅のもみ消しと、日本政府と米国政府による裏工作の証拠消去を

自分たちが主体になり、様々な権益交換と経済提案をする事によって成功させた

この時点で、南条が力つき、松岡も後を追って眠り込んだ

(無論、並行作業していた他の重要事は、きちんと解決寸前まで処理してからの話である)

更にその後、ナナミは二足歩行型戦車を開発した学者達を全員確保、情報漏洩を遮断

松岡が行っていた、南条コンツェルンが事件に関わっていた証拠を消す作業を完成させ

そこでようやく一息つき、後を交代休憩を終えて起き出してきた部下達に任せ、眠り込んだのである

眠たい目をこすり、時計を見たナナミの視線が止まる。 既に二日が過ぎていたのだ

思えば、今回の事件で、一番無理をしたのが彼女であったかも知れない

上位種になった事で体力は増大しているが、それでも何度も気絶寸前まで魔力を使い

そのたびに無理な回復で戦線復帰、最後の決戦でも南条を守るために七割以上の魔力を消耗して

更にそれから休息なしで、作業に挑んだのだ。 これ以上の無理は、どこを捜してもそうはないだろう

体には相当な負担がかかっており、本当なら5時間で起きるつもりで床につき

普段だったらそれが可能だったのに、二日も眠り込むという失態を演じてしまったのだ

勢いよく起きあがろうとして、ナナミは失敗し、程なく断念した

園村や黛も協力してはくれたが、彼女らに政治工作をさせるわけにも行かず

結局重大な決断は南条とナナミで処理し、故に疲労は膨大に蓄積したのである

今、無理矢理ねじ伏せてきた疲労が、全身に苦痛の形を取って、存在感を示している

全身がバラバラになりそうな痛みとは、正にこの事だった

動こうとすると、鎖のようにそれが全身を締め付ける。 何度か立ち上がろうとして、諦め溜息をつき

ベッドに再び横になり、どうしようか考えようとしたナナミが、訪問者に気付いた

「やっほー、ナイトメアちゃん!」

「舞耶お姉ちゃん・・・」

後ろでは、松岡が礼をし、部屋を出ていった。 一番疲労が少なかった彼は、最も早く目を覚まし

ナナミの的確な処理に感心すると、残った雑事を片づけ、そして現在に至る

松岡は普段はナナミと仲が悪いものの、相手の力は素直に認める事が出来る男なのだ

一方で、南条はナナミとほぼ同じ状況である。 少なくとも今日一日は動けないだろう

松岡があの様子なら、おそらく大丈夫のはずだ。 そう判断し、リラックスしたナナミに、舞耶が言う

「松岡さんが、もうあらかた片づいたから、休んでいて良いっていってたぞ

三日三晩不眠不休だったんだって? ご苦労様、ナイトメアちゃん」

「舞耶お姉ちゃんこそ。 会社でさぞこってり絞られたんじゃないんですかぁ?」

ナナミの言葉に舞耶が苦笑し、その推理の正しさを認めた。

実際、今回の事件で、発行部数第一主義の編集長にも、思うところがあったようだが

いくら事件の後半は、街の混乱によって会社も休みになっていたとはいえ

数日間、全く会社に連絡しなかったのは事実なのだ。

その辺に五月蠅い編集長が、けじめのためにも舞耶を呼びつけ、たっぷりと説教をしたのである

「で、お姉ちゃん、みんなは元気にしていますかぁ?」

「うん。 また遊びに来てね。

当分引っ越しはしないし、うららもナイトメアちゃんがきたら喜ぶと思うわ

それとね、あんまり無理しちゃいけないぞ。 いろいろスタミナ食買ってきたから、ゆっくり休んでね」

後は暫く雑談をすると、舞耶は部屋を出ていった。 ナナミの前には南条にも合ってきており

結構時間を消耗していたのである。 結局、最後まで達哉のことには触れなかった

舞耶は気付いていたに違いない、達哉がルヴィアに頼んで、してもらったことを

そして、決して自分を許してはいないことを。 切なすぎる事件の幕引きだった

 

更に時が過ぎた。 断発的な事件は起こったものの、それらは充分松岡だけでも対処が可能であった

だが南条はナナミと共に、いちいち床から指揮を執り、解決に当たった

流石に二日も過ぎると、南条もナナミも体を回復させ、自由に歩き回れるようになっていた

ナナミは南条に断り、外に出た。 既にそこには、穏やかなる平和が戻っていた

珠阯レ市の周囲は、運河のように細い海が走っている、周囲には惨禍の爪痕が残っている

だがそれでも、平和には違いなかった。 しかしそれを謳歌する者達は、何も努力などしていない

今回はからくも勝てた。 だが人がこのままで在れば、次の結果は見えきっている

鼻を鳴らし、冷徹な光を眼に宿らせると、ナナミは花屋に走った

そこで墓前に捧げる花を買うと、街の縁にある墓地へ、急ぐ必要もないからのんびり向かう

墓地には先客がいた、そこにある墓には花が供えられ、一人の男が俯いていた

台湾でなくした相棒、浅井美樹に会いに来たパォフウだった

 

「・・・何だ、お前もきてくれたのか。 ありがとうよ」

ナナミに気付き、パォフウが笑った

お前もと言う事は、先に花を持ってきた者がいたのだろう、それはほぼ間違いなくうららのはずだ。

そう聞かれるとパォフウはそれを肯定し、笑って見せた

「芹沢のヤツ・・・会社辞めたんだってよ。 代わりに俺の助手をするとかいいだしやがってなあ

事務仕事はそれなりに優秀なようだから、まあ無駄にはならねえな」

「へっ、相変わらず素直じゃないです。 ・・・美樹お姉ちゃん、良かったじゃないですか

このやんちゃな不良中年を見張ってくれる保護者が見つかって。 安心して成仏できるですぅ」

たちまち頭に血を上らせ、憤慨するパォフウを軽くあしらうと、ナナミは次の目的地に向かった

 

彼女が向かったのは港南区の海岸だった、そこで克哉と待ち合わせしていたのだ

克哉は三十分も前から待っていたようであり、隣には達哉の姿も見えた

だが、少年はナナミには目もくれず、黙ったまま去っていった。 元々人見知りする性格なのだ

彼の中に、向こう側の自分の記憶はない。 これもルヴィアが慎重に取り除いてくれたのである

弟は普段と変わらない様子だったのに、克哉は嬉しそうだった

喜色満面の様子で、状況報告をする間も楽しげであり、そして聞かれもしないのに語り出す

「達哉が・・・嬉しい事を言ってくれた。 警官になりたいんだそうだ

僕は鼻が高い。 警察官になるにはどうしたらいいかと聞くあいつに、僕は言ってやったよ

二つの物が必要だ。 法を守る心、そして自分が信じるべき法を見分ける正しい眼

必要ない物は、法を支配する人間に振る尻尾。 ・・・こんな感じで良かったのかな

どう思う、ナイトメア君。 あいつは、どう思ったんだろう」

「・・・それは要するに、今回の事件で克哉お兄ちゃんが出した結論ですね?

へっ、わかりやすい性格。 だからいいんですけど、お兄ちゃんは。

まあ、達哉お兄ちゃんは相当勉強さぼってるはずですから、きっちり鍛えてあげるです

達哉お兄ちゃんは、兄の偉大さを再確認して、嬉しいはずです」

後はアドレスを交換し、ナナミはその場を離れた。 克哉はその日、一日中楽しげにしていた

 

次の目的地である、留美子の入院する病院に向かうナナミの携帯電話に、着信があった

電話をかけてきたのは園村であり、隣には黛もいるようだった

園村の用事は、同窓会を開きたいという物だった

今までにも何回かやってはいるが、今回は是非全員を揃えたいそうである

「私とゆきので、街にいるみんなと優香に連絡するから、ナイトメアちゃんは稲葉君と弓月君お願いね」

「分かったですぅ。 そういえば、何か言いたそうですけど、何ですかぁ?」

自分の口調の微妙な変化を見透かされ、園村が驚き、そして笑った

黛には聞こえないように、声を殺して、知った驚くべき事実をナナミに伝える。

これはナナミが親友であると同時に、情報をばらまかないと言う信頼からもきた行動だった

この情報は、今のところ、噂の当人と園村しか知らない

ナナミがこういう件に関して、如何に信頼されているか良い証拠であろう

「へえ、玲司お兄ちゃんが。 じゃ、それは今度の同窓会で公開するです」

「うん、みんなでお祝いしてあげようね!」

楽しそうな園村の声が別れを告げ、ナナミは電話を切った。 もうすぐ目の前に病院があった

 

「お姉ちゃん、いらっしゃい。」

明るい表情で、パジャマ姿の留美子がナナミを向かえた。 ベットの側には、人間には見えなかったが

ペスがおり、透明のままナナミに挨拶した。 以前の非礼を詫び、頭を下げる

簡単な挨拶を彼らと交わすと、ナナミは出された椅子に腰掛け、リラックスして話し出した

「元気になったようで、良かったです。 もうじき退院できるんじゃないんですかぁ?」

「うん。 もう精神的に落ち込むことも少なくなってきたし、先生もそろそろ病院でていいって」

言葉がとぎれた、誰もが知っている事だが、問題はその後なのだ

留美子には身寄りがなく、当然金もない

在るのは事件で身につけたペルソナ能力と、サマナーとしての力だけである

それを利用して、ナナミは南条コンツェルンに彼女をスカウトしようと考えていた

今日はその為にきたのである。 それを言おうとしたナナミであるが、留美子がその言葉を遮った

「大丈夫だよ、お姉ちゃん。 私はもう一人じゃないもの

竜也お兄ちゃん、まだ私の中にいるんだ。 私が死ぬまで、絶対に私を守ってくれるって

人前には出るつもりが無いみたいだけど・・・それが自分の償いなんだって」

「へっ、あのイカレサマナーが・・・ま、最後に良い決断をしたです

で、話は分かってるですね? 学校に行く学費も、家もナイトメア達が用意するですから

是非うちで働いてほしいですけど・・・」

ナナミが肩をすくめ、不思議そうにそれを見る留美子に、続けていった

「それは留美子ちゃんが決めること。 その気になったら、いつでもこの電話番号に連絡するです

後それと、松岡おじさんに必要な事を言って於いたから、ここをでたらすぐにも学校いけるですよぉ」

「有り難う、お姉ちゃん。 このお礼は、いつか必ずするわ」

別人のように眩い、それでいて大人っぽい笑顔を浮かべ、留美子が言った

ナナミは手を振ると、病院を出ていった。 彼女には、まだ行くところがあったのである

 

そこは小さなアパートであり、中は散らかっていた。 そして、鳩美有作が、ナナミを待っていた

事件後、有作とナナミはひょんな事から連絡を取ることになった。 かっては刃を交えた間であり

今も由美を警戒しているナナミには、有作との連絡は重要事だった

だが、ここへきて彼女は安堵することになった。 有作の驚くべき台詞を聞いたからだ

「魔界に・・・行った?」

「そうや。 魔王ルシファーはんが、姉貴を自らスカウトしにきたんや

・・・姉貴は少し考えてはったが、結局OKした・・・償うとかいっとった

わいも、間もなく魔界へ向かう。 悪魔のあねさん、安心していいわ・・・

もう多分、姉貴は二度と人間世界にはこないやろ。 多分、わいもやがな」

ナナミは暫く周囲の状況を探り、それが真実だと確信した

由美は結局、自分を許せなかったのだろう。 彼女は達哉を殺すために、様々な事や命を犠牲にした

そのけじめとして、世界を去ることに決めた、そうに違いあるまい

肩をすくめると、ナナミはその場を去った。 もう、ここには何の用も無かったからである

一度だけ、ナナミはアパートの方を振り向いた。 だが、それだけだった

 

最後に、ナナミは蓮華台に向かった。 三科栄吉の様子が気になったからである

幾ら苦手な相手とはいえ、自分を姐さんと慕う以上、様子を確認しないわけにはいかないだろう

予想通り、栄吉はアラヤ神社にいた。 淳とリサと一緒に、俯いて何かを考えているようだった

「忘れてはいけない物を忘れた・・・でも、それは絶対に思い出しちゃいけない・・・

なんだろう・・・大事な人を・・・大事な思いを・・・!」

リサの言葉には多分に涙の成分が含まれており、切なそうに淳と栄吉が応じた

「切ないね・・どうしてこんなに切なくなるんだろう」

「こんなに苦しいのは初めてだ・・・だが生きなきゃいけねえ・・・そんな気がする」

後は彼ら自身に任せるしかない。 ナナミは彼らの様子を見てそう結論し、帰途についた

既に空は暗くなりかけていた、戻ればまた仕事を、彼女にしかできないことを片づけねばならない

だが彼女はそれに不満を持っていなかった。 何故なら、南条の側にいられるのだから

 

「む、ナイトメア・・・眠ったのか」

居間で桐島、上杉と事後処理の報告、打ち合わせをしていた南条が、眠ってしまったナナミに気付いた

やはり、まだまだ疲労は回復しきっていなかったのだろう。

ソファで腕を組んだまま、少女は寝息を立てている、いつもならあり得ないことだった

帰ってきたナナミは、事態の報告をすると、それからずっと事後処理をしていた

故に、蓄積した疲労が眠気を誘ったのだろう。 信頼すべき存在の隣にいる事もそれを促進したはずだ

「あんなにおっかないのに、寝顔はカワイイものっスね」

「・・・上杉、今もしナイトメアが起きていたら、お前確実に殺されるぞ

それよりも、ベットに運ぶと起きてしまいそうだな。 毛布を取ってこよう」

桐島が、自分が毛布を捜すことを提案したが、南条はそれを謝絶した

南条が暫く辺りを探し回り、やがて毛布を発見できずに松岡を呼ぶ、桐島と上杉が笑いを堪える前で

毛布を抱えてきた南条が、それを優しくナナミにかけてやる。 そして、大まじめに言った

「これでは時間がもったいないな・・・後で日用品がどこにあるか松岡にまとめさせよう」

「huhu・・・Kei、家事は大変でしょう? Nightmareに感謝しなければなりませんわ」

「俺様にも、家事してくれる人がいたら嬉しいんスけど・・・」

上杉が桐島の方を、笑みを浮かべながら見たが、軽くあしらわれて悲しみに暮れる

笑みを浮かべながらその様を見ていた南条の顔が、ふとかげりを帯びた

「桐島、上杉。 俺は一番になる。 しかし、俺はそれを成し遂げられるだろうか

李香花は、俺によく似ていた。 俺は逃げるわけには行かない、絶対に最後まで戦い抜く

だが・・・・不安は拭いきれん」

「大丈夫ッスよ、絶対に。 何故なら・・・」

上杉の言葉に南条が顔をあげ、桐島がそれを続けた

「貴方には、その子が・・・Nightmareが・・・全幅の信頼を寄せているんですもの

成し遂げられますわ。 絶対に・・・」

「そうだな、そうだった。」

南条が言葉を切ると、新たな決意が、更なる強固な根を彼の胸に生やしていた

戦いは、まだ始まったばかりである。

パートナーと共に、南条はその道を行ききる決意を、新たにしたのだった

                                (完)