真無双の者

 

序、人が変わった

 

劉備は、思わず絶句していた。

確かに彼が知っている趙雲は、勇将だった。大軍の指揮には向いていない。少数精鋭を率いて活躍する、縁の下で皆を支える存在だ。

様々な戦いでそれを見てきた。

実際の武勇に関しても、万人敵などと言われる彼の義兄弟、関羽や張飛に劣らない。

それについては分かっていたつもりだった。

ただし、それは現実的な範囲での話だ。

今、賊を蹴散らしている趙雲の姿は、そもそも決定的に何かが違っていた。

側にいる関羽と張飛も、思わず唖然としている。

賊が、文字通り。

紙くずの様に引きちぎられ、消し飛んでいる。

振り回している槍が唸りを上げる度に、賊が十人単位で赤い霧になっている。賊の首領は棒立ちしているところを一瞬で槍で貫かれ、文字通り飛んだ。

そもそも、槍で貫かれると言う事はあっても。

あんな風に吹っ飛ぶことはあり得ない。

やがて、文字通り千人規模の賊を一瞬にして単独で制圧した趙雲の筈である何者かは。劉備の所に戻って来たのだった。

「劉備殿。 如何ですか。 これで信用していただけましたか」

「あ、ああ」

劉備は、運に恵まれなかった。

今まで各地で歴戦を重ねてきた。様々な戦いでめざましい活躍をし、一時期は要地である徐州に地盤を持ったこともあった。

だが、同時期には政戦両方の天才である曹操がいて。

劉備がそれ以上躍進することはどうしてもできなかった。

やがて劉備が身を寄せていた軍閥の一人、河北の支配者である袁紹が曹操に敗れた事で、劉備はここ荊州に落ち延びてきた。

今は荊州を支配する軍閥である劉表の麾下になり。

最前線の一つで、曹操に対する砦となっている新野を任されている。

兵力は三千もいない。

関羽と張飛、それに趙雲という勇将がいて。

更には二人の妻。

子にも恵まれているが。

雄飛の機会は得られそうにもない。そう考えていたのだった。

だが、昨日。

突然、趙雲が変わった。

趙雲も間違いなく良将であり。少数精鋭を投入して一点を突破させるような戦いをさせれば麾下の猛将の中では随一という人物ではあったが。

まず背が関羽と同じくらいまで伸び。

何よりも顔とか色々変わった。

その辺にいる馬より三周りは大きい白馬を不意に連れてきて。

何処の鍛冶でも唖然とするような、複雑な意匠の槍を手にし。

更には白と美しい緑を基調としたきらびやかな鎧を着込んでいた。

何よりも、そもそも趙雲は劉備達と同年代で、既に中年にさしかかっている筈なのに。

どういうわけか、趙雲は見た所二十歳そこそこの若者にしか見えなくなっていた。

どういうことなのか。

混乱する劉備に、趙雲も最初疑念の言葉を掛けてきた。

貴方は本当に劉備殿か、と。

関羽と張飛も困惑しているようだった。

そして、更に困惑する話をされた。

今まで趙雲は、獣が立ち上がって人として過ごしている世界に呼び出され、戦っていたのだという。

様々な英雄達とそこでともに戦い。

中には違う時代の中華からきたものもいたのだとか。

あの呂布もいたという。

更にはあやしの技を使うものや。

驚天の技を使いこなすものもいたのだとか。

そこでの問題が解決したので帰してもらったのだが。

元いた中華とは様子が違うというのだ。

劉備も、趙雲?が知っている劉備とは雰囲気が違うと言う。

混乱した劉備だが。人を見る目だけは確かだ。

この趙雲と名乗る人物が、万夫不当の勇者である事はすぐに分かった。

そこで、まずは賊の退治をして貰おうと思ったのだが。

なんと千を超える賊を、単独で退治してくると言い放った。

流石に無茶だと関羽も張飛も難色を示したのだが。

その結果がこれである。

降参した賊は、一人残らず配下に組み入れる。新野はさほど豊かでは無い都市だが、それでも帰農させれば生産力にはなるだろう。

それに何よりだ。

あの武勇を見て、もう悪さを働こうとするものなどいないだろう。

ともかく、兵を率いて新野に戻る。

小さな城だ。

この時代は、どの都市も城である。城内に街を作り、人を収容できるようになっている。

漢の全盛期は、今の何倍も人がいて。

此処まで城で固める必要はなかったらしいのだが。

何しろ王莽の暴政、更に光武帝後の無能な皇帝達。決定的になった黄巾の乱以降は人が減る一方で。

こうして賊から身を守れるように城を作らなければ、あぶなくて暮らしていけないというのが実情だ。

賊だらけなのである。

実際ここはまだ良い方で、この荊州の南部の方は賊の大規模な蜂起の兆候がある程である。

文化人が集まっている、比較的安全な荊州ですらこれだ。

人は強い君主の元に集まる。

今、袁紹の息子達を攻めている曹操は、現在中華の最強勢力と言っても過言ではなく。

そこへどんどん人が集まるのは当然と言えた。

命は惜しいのだ。誰でも。

だから、それを責める事は劉備には出来ない。

城の中を見回しながら、趙雲は言う。

「関羽殿。 周倉の姿が見当たりませんな」

「周……倉? 何者かそ奴は」

「関羽殿を誰よりも慕っていた、あの快足の男です」

「いや、知らぬな」

そうですか、と趙雲は寂しそうに言う。

どうやら、趙雲の言葉について、詳しく聞く必要がありそうだった。

異世界から戻って来た。

その話に、どうも嘘はないように思える。

そして何より、である。

あの圧倒的な武勇でありながら。趙雲がいたもとの世界。劉備達とは同じ名前の別人としか思えない存在がいた世界では。

恐ろしい事に、趙雲は決して最強ではなかったそうなのである。

呂布は更に強かったと聞いて。

確かに呂布は凄まじかったが。それでも千人の賊を単騎でゴミのように引きちぎるほどではなかったと、劉備は頭を抱えたくなった。

ともかく、順番に話を聞いていくことにする。

趙雲は少し悩んだ後、話を始めた。

「現時点ではまだ袁一族は滅びていないのですな」

「ああ。 つい最近袁紹殿が亡くなった。 官渡の大戦での二度にわたる大敗が病んでいた体にとどめを刺したのだろう。 それで家臣団が分裂し、今では息子達が相争って、曹操に良いようにされている」

「ふむ……」

「何か知っておるのではあるまいか?」

趙雲はしばし考え抜いた後。

劉備の目をじっと見た。

「私の知る劉備殿は、天下万民のため、塗炭の苦労を惜しまない人であられました。 貴方は同じ劉備どのでも、何というか少し後ろ暗い要素が見受けられる」

「……そなたのいた世界でのわしは聖人に近い存在であったようだな」

「いえ、自分は聖人では無いと時々呟いておられましたし、激高することもありました」

「いや、それでも聖人に近い。 この終末の乱世で、天下万民のためという旗印を掲げ、本気で信じられるというのは驚異的だ」

劉備は寂しく笑う。

そもそも劉備は劉姓を持ってはいるが、実態は田舎貴族の出身。

関羽は塩賊の出で、もとの名前は違う。

張飛にいたっては荒くれで、劉備が見いださなければただの賊か何かとして暴れ狂うだけで終わっていただろう。

劉備の配下に関わらず、この時代はこう言う人間だらけだ。

そもそも今建業に地盤を張っている孫氏ですらそんな調子で、部下は得体が知れない連中と、地元の有力者の連合体制である。

少し前に孫氏の頭領である孫策が死んだが。

小覇王などと持ち上げられていたが、実態は袁術から兵を借りて格が幾つも劣る軍閥を切り従えた後独立した存在に過ぎず。

その死も、横死に近かった。

跡をついだ孫権も、優れた政治家ではあるが軍人としてはまるで駄目だ。

趙雲は自分が知る孫策は誇り高く皆を家族として大事にしているなどと言っていたが。

間違ってもそんな人間では無かった。

孫権は守りに長けるという話をしていたが。

実際に兵を率いて勝てる男では無い。政治家としては優れているが。

この時代、聖人は食っていけない。

学者もいる。

だが、実務能力がなければ論外なのだ。

事実孔融という孔子の直系子孫がいるが。

学者としては優れていても、政治家としては駄目であったため。任地を奪われてしまい、今は曹操の所でむしろに座らされている。しかもそれでも自重しないため、先は長くないと劉備は読んでいた。

他にも色々な情報を聞かれたので、応えていく。

この趙雲は、劉備をまだ信用していない。

だから誠実に応じるしかない。

そう判断したからだ。

もしこの趙雲の武が自分に向けられたら、それこそ関羽や張飛もろとも一瞬で新野は滅びるだろう。

それくらいの圧倒的な戦闘力が、さっき実際に見せつけられたのだから。

「なるほど、分かりました。 それでは劉備殿。 最後の質問です。 貴方は天下万民と自分の野心。 天秤に掛けられるのなら、どちらを取りますか」

「無礼であろう」

「よい雲長。 趙雲よ。 わしも群雄の一角。 勿論野心を持っている。 だがわしは、こう見えて貧農同然の生活をしていた身だ。 たまたま身内の裕福な人間の支援があって、教育を受ける事が出来たが。 それがなければ、黄巾の乱の頃から武名を上げる事も出来ず、更には今こうして小さな一城を任されている事すらなかっただろう。 だからわしは、民に感謝しておる。 できれば、民のためにまずある国を、この中華に作りたいと思っているよ」

これに関しては本当だ。

ただし、そのためには手段を選ぶつもりもない。

そこが、恐らく趙雲の知る劉備との違いだろう。

趙雲は目を閉じて考え込んでいたが。

やがて頷いていた。

「分かりました。 貴方は劉備殿ではないが、劉備殿であることは同じのようだ。 私の知る事を、当たり障りがない範囲内で教えましょう」

「うむ……」

「この近くに諸葛亮という若者が住んでおります。 劉表殿の縁戚である黄一族との血縁がありますが、劉表殿に出仕はしていません」

「聞いたことがないが……」

趙雲は頷く。

趙雲の知る世界でも、ある人物から教えられ。

三度も足を運んで、やっと劉備は配下に諸葛亮を加えたのだと。

「いずれ劉備殿の王道を引き継ぐほどの俊英にございまする。 今内政をできる人間はいても、知的活動をできる人間はおりますまい。 是非今すぐおたずねください。 曹操軍が此方に目を向ける前に、対応をできるように急ぎましょう」

「分かった。 すぐに調査させる」

「それと私を江夏に向かわせください。 劉表殿にお手紙を出されよ。 私一人で充分でありましょう」

「江夏。 黄祖どののおられる最重要拠点か」

江夏。

劉表軍の宿将、黄祖。

若干性格に難はあるが、董卓との戦いでもっとも力戦した孫堅を撃破したことを皮切りに、江夏という土地で毎年のように攻め来る孫氏の軍勢を退け続けている人物である。

劉備とも話をしたことがあるが。

相手は劉備をあまり快くは思っていないものの、実力を認めてくれているようではあった。

ただ歴戦を重ねている人物と言う事もあって、年齢にそろそろ問題が出てくるころでもある。

劉備の見た所、あと数年で寿命が来てしまうだろう。

「後顧の憂いを断って参りまする。 私のいた中華における孫権どのやその宿将達は、みな誇り高い敵ながら立派な人物でありました。 だがこの世界の孫権やその一味はどうやら違うようだ。 山越の民を奴隷同然に駆り立て無理矢理兵にしたて、戦の勝敗は兵家の常であるのに仇だのなんだのと一人の人物に憎悪を向け、挙げ句の果てに戦においてもみるところがない。 そのような連中、力をつける前に一気に駆逐するのが上策でありましょう」

「……分かった。 そなたほどの武勇であれば、確かにそれも可能であろう」

「孫権及び、周喩などの参戦している武将を悉く仕留めてしまえば、孫氏は再起不能となりましょう。 その隙に攻勢に出るべく、劉表殿との交渉ごとはお任せいたしまする」

「分かった。 それについては任せよ」

ではと言い残すと、趙雲はひゅんと飛ぶような勢いで江夏に向けて馬を走らせた。

呂布の使っていた赤兎でもあれほどではない。

とんでもない怪物に化けたが。

しかしながら、これは好機である。

おそらく江夏にいつもの調子で攻め寄せてくる孫氏の軍は、文字通り消滅することになるだろう。

黄祖も、劉備の人を見る目は信頼してくれている。

趙雲を冷遇はしないはずだ。

孫乾を呼ぶ。

寡黙な男性だが、劉備麾下にいる外交の専門家だ。

いわゆる論客と言う奴で。

古くから、舌先三寸と言う言葉があるように。伝説的な論客の中には、絶望的な状況を単独で解決した猛者が存在している。

そういう伝説に近付こうとして、論客になろうとしているものは多い。

そんな中で、劉備も見込む実力の持ち主が孫乾である。

ただし普段は極めて寡黙な文官である。

仕事以外では口を使うつもりはないらしい。

言葉を軽くしないため、という理由らしいが。

劉備としては、仕事ができるのならそれで良かった。

竹簡に文をしたため、指示を出す。

「これより劉表殿にこの文を渡してほしい」

「分かりました」

最低限の事だけ言って、孫乾は南下していく。劉表がいる襄陽に向かうためである。

劉備は更に、関羽と張飛に声を掛ける。

趙雲が言うには、実際には数年後に行う事であるそうだが。

早ければ早いほど良い。

確かに、劉備の後を事実上継ぐ事が出来る程の人物なら。

是非とも麾下にほしかった。

「兄貴。 あいつ、本当に信用して良いのか? どうも俺には、彼奴の言葉はなんだか別の世界の事のように思えたんだが……」

「別の世界の事であろうよ」

「……」

「だが、話を聞く限り、殆ど何があったかの大筋は変わっていないし、同じ人物も存在しているようだ。 それならば数年早くなろうが関係はない。 わしとしては、最善を尽くすだけだ」

あの趙雲が、何故か文字通りの鬼神も逃げ出すような強さになった事についてはどうでもいい。

趙雲が行ってきた異世界とやらも。

趙雲が元いた世界とやらもどうでもいい。

劉備は今三千弱程度の兵しか有しておらず、曹操相手の壁として劉表に配置されているだけの地方軍司令官に過ぎない。

ここから天下をうかがうには、あらゆる手を尽くす必要がある。

更に言えば、劉備は既に相応の年齢を重ねてしまっている。

黄巾の乱に参加した頃に比べると、もう年齢は倍近いか。

もたついている余裕も暇も無い。

曹操が挙兵したときは、至弱とまで言われた。

だが、曹操は今や中華最強の勢力である。

袁紹の馬鹿息子達では、時間稼ぎは出来ても。いずれ曹操に併呑されるだけなのは目に見えている。

もたもたしていたら、河北の強大な勢力を丸ごと取り込んだ曹操が、そのまま南下してくる事になるだろう。

そうなれば手遅れだ。

しかもそのくらいの時期に、最悪の状況で劉表が死ぬと趙雲は言っていた。

ならば、少しでも早く動かなければならない。

新野にも、劉備を慕ってくれる民は大勢いる。

新野だけではない。彼方此方にいる。

劉備だって、戦場に生きてきた人間だ。

誰もを救えるなどとは思っていない。

だけれども、それでも何かはしたい。己の足跡を残していきたいのだ。この混乱の時代に。

そして漢王朝を光武帝のように再興したい。

光武帝ほどの力がない事などは分かっているが。

それでも、それは願いだった。

きっとあの趙雲がいた世界の劉備とは違うだろう。

野心もあれば、性格に後ろ暗いところだってある。ねじ曲がってもいる。

だけれども。趙雲は信じてくれた。

ということは、根に通じる所があると判断してくれたという訳だ。

言われたところにあると、小さな庵がある。

確かに劉表の強力な軍閥の親族にしては、随分と小さな庵だ。

訪ねると、まだ若々しい夫婦が出て来た。

諸葛亮殿はおられるかと馬を下りて礼を尽くすと、背の高い青年が、ふっと笑った。

「どこで聞きつけたか分かりませんが、劉備どのですな。 私が諸葛亮です」

「貴方が文字通りの龍と呼んで良い人物であることは伺っております。 是非我が幕下に来ていただきたい」

「このような若くして隠者を気取る私をそこまで評価してくださるのですか」

「はい」

頭を下げる。

しばしして、若者は頭を上げるように言った。

「分かりました。 これより諸葛亮、貴方の麾下にはいりましょう。 決して、損はさせませぬ」

「ありがたい」

さて、趙雲の方だ。

今、確か江夏で黄祖と孫家の主力がぶつかり合っている頃である。

あの凄まじい武勇なら。

一閃だろうなと、劉備は静かに判断していた。

 

1、無双蹂躙

 

孫権は、思わず絶句していた。

こんな光景を見るのは初めてだったからだ。

いつもいつも上手く行かない江夏攻略。

水上戦だったら勝てる自信もあるのだが、黄祖は乗ってこない。

そして陸上戦に持ち込まれると、経験差が出る。

だいたい孫家の軍は陸上戦が苦手なのだ。

兄孫策の時代には、徐州で寡兵にて軍を蹴散らされた苦い思い出がある。

そのように、そもそも孫氏には陸上戦を得意とする武将が少なく。

鍛え抜かれた黄祖の軍勢に、いつも翻弄されるばかりだった。

その上兵士の多くは、山越から人狩をして集めて来た者ばかり。

劣勢だと判断すると、すぐに逃げ出してしまう。

勝てない要因はその辺りにあり。

また江夏にて指揮を執っている黄祖の頑強な防備もあって、毎回成果を上げられないのだった。

史書には勝利を記載させているが。

毎回虚しくなるばかりである。

士気を挙げるためとは言え、兵士達は知っているのだろう。

また勝ちだと抜かしているが、毎回負けている。

有名な将軍も何度も戦死している。

それなのに江夏を落としたとか喧伝している。落とすどころか、城にかすりもできなかったのに。

そういう状況が続くから、山越はその度に反乱を起こし。

鎮圧のために兵を割かなければならなかった。

それらについてはいつものことだからいい。

今回は、決定的に違っていた。

軍に何かが突貫してきた。

巨大な馬と、きらびやかな姿。

格好だけ飾った、戦も知らぬ愚か者だろうと孫権は思って。押し包めと指示した。

瞬時に、押し包んだ兵士達が爆散した。

文字通りの爆散である。

孫権は、思わず顎が外れていた。

「な、なんだあれは……!?」

文字通り、兵士達が硬直する中。

それは信じられない速度で、蹂躙を開始する。

長身であり、孫家麾下のなかでも武勇自慢の董襲という武将が躍りかかろうとするが。文字通り槍で一突きされ。

串刺しどころか、上半身が消し飛んでいた。

それを見て、もはや兵士達は悟ったらしい。

なんだか分からないが。

絶対に勝てない相手がきたと。

逃げる。

逃げ崩れる。

同時に城から、黄祖の軍がどっと押し出してくる。その軍勢がやるのは、逃げ惑う兵士の掃討。

まだ戦意を残している武将は、遠矢を放ったり押し包もうと必死に怪物を止めようとしていたが。

どいつもこいつも一瞬で赤い霧と化すのだった。

配下の勇将、凌操が文字通り鎧柚一触に消し飛ぶ。

更に、荒くれで知られる呂蒙もその後を追った。最近は学問を学んで、かなり伸びしろがある武将だったのに。

彼処までの圧倒的な暴を前には。

文字通り、何もする事が出来なかった。

逃げ崩れる兵士達を必死に叱咤して、孫権も逃げ始める。

文字通りその兵士達が、振り回され、残像すら残して繰り出される槍に引きちぎられ、消し飛ばされる。

これは悪夢だ。

何を一体敵に回してしまったのか。

もう少し行けば、周喩のいる水軍がいるはず。

だが、周喩は常識外の劣勢を見て、兵を率いて救援に出て来た。

逃げよ。

叫ぶが、孫権の横を、暴風が薙ぎ払う。

あの怪物が突貫したのは明らかだった。

あっという間もない。

周喩が、文字通り吹っ飛んでいた。

体の残骸すらも残っていない。

文字通り、一撃である。

更に、急行した黄祖の精鋭らしい部隊。恐らく黄祖麾下の猛将甘寧だろう。兵士達が、船に火のついた油壺を放り投げ始める。

水軍が、燃え上がり始めていた。

呆然としている所を、暴風が襲う。

周囲にいる孫家の一族達が、次々に文字通り消し飛ばされた。

ひいっと声が上がる。

孫権も馬も弓も自信がある。個人的な武勇であれば、そこらの武者には遅れを取らないつもりだ。

それなのに、これはもはや。

逃げようとして、馬が恐怖を悟ったのか、放り出され。

地面に強か叩き付けられていた。

這うようにして逃げようとするが。

その先にはあの怪物がいて。

哀れみをもって、見下ろしているのが分かった。

「私が知る孫権殿は、孫堅どのや孫策どのの跡を守ろうとする誇り高い人物であったのだがな」

「お、お前は、な、何者だ!」

「私は趙子龍。 劉備軍の一将だ。 軍の様子を見たが、山越からかり集めた殆ど奴隷のような兵士ばかり。 私が知るのとは程遠い、殆ど賊同然の者ばかりの将。 そなたは語るに値しない。 生きていても世を乱すだけの存在だろう」

ま、待て。

そう言おうとして、手を上げたが。

一瞬にして、孫権は首を刎ね飛ばされていた。

この日。

孫氏の主要な武将全員と。

孫氏の成人している人間全員が。

文字通り、人型の嵐に蹂躙され。歴史から姿を消していた。

 

趙雲が戻ってきた時には、劉備の所にも既に勝報は届いていた。

孫権をはじめとして、孫氏の主要な武将はあらかた戦死。また孫静などの一族も全滅だそうである。

これで孫氏は終わりだ。

建業を地盤にして万全の構えかと思われたが。内部崩壊は避けられないだろう。

後は劉表に任せておいてかまわない。

それにしても、想定通りの結果だ。

曹操ならともかく。

戦下手の孫権では、対応すら思いつかないだろうというのは分かっていた。

問題は、曹操の事だ。

優秀な細作を多数放っているはず。

多分この戦の事は、そう遠くない未来に伝わっているはずだ。

ならば、動くのを急がなければならなかった。

「趙子龍、戻りました」

「うむ……汚れ仕事をさせたな」

「実際にこの目で見てみましたが、怒り以外が浮かばない酷い有様でした。 集められた兵士の大半は山越の者達を奴隷化したもの。 故に士気は低く、一度崩れるとひとたまりもない。 武将達も私のいた世界の誇り高いものとはまるで別物で、孫権などは命乞いをする有様。 見苦しいにも程があるので、一突きで首を落として参りました」

関羽も張飛も青ざめている。

諸葛亮だけは、涼しい顔をしていた。

「さて、趙雲よ。 少し休んだら、すぐに出立の準備をしてほしい」

「はっ」

与えた庁舎に戻っていく趙雲。

それにしても凄まじい武勇だと、周囲からひそひそ話が出ている。

それはそうだろう。

いにしえの覇王項羽ですらも、あれには及ぶかどうか。

だが、趙雲が元いた世界には、あれくらいの武勇の持ち主は幾らでもいたと言う話である。

どんな魔郷だったのか。

想像もしたくない。

ほどなく、兵が届く。

趙雲が言っていた黄忠という武将を、劉表が回してくれたのだ。

また、魏延という武将もいる。

いずれも荊南であまり評価されずに働いていた武将であり。

今回抜擢されたことを感謝しているようだった。

黄忠はかなり年老いているが、実直で非常に優れた武将に見える。ただし感情の制御がそれほど上手ではないように見えた。

かなりの老齢で、今の劉備達よりも更に年を重ねているようだが。

それでも、これは期待して良いだろう。

魏延という武将は逆にかなり若く、目に野心がぎらついている。

ただし、劉備のことは前から慕っていたらしく、そう述べると跪いて包拳礼をとった。

最大級の忠義を示す行動である。

この二人に加えて兵五千。それを支える物資。

劉表がくれたのはこれだった。

黄祖に攻めかかっている孫権の軍勢を蹴散らしたら、物資と軍の支援をする。

その約束を、劉表は果たしてくれた。

そもそも劉表の防衛線は、実の所もう少し昔は、更に北の宛という都市だった。

この宛は長い間混乱が続いた都市で。

今も統治には苦労していると聞く。

昔は張繍という武将が、劉表の支援を受けながら頑張っていたのだが。残念ながら調略を受けて、曹操に寝返ってしまった。

今は曹操の一族である曹仁や夏候惇などが駐屯しているが。

防御戦を得意とする曹仁はともかく。

夏候惇は完全に曹操軍の中では、裏切らないという事しか取り柄がない人物であって。

そもそも若い頃から多数の裏切りに泣かされた曹操が、裏切りが起こられると困る要地に配置している人物である。

故に、戦闘では恐るるにたりない。

警戒すべきは曹仁である。

兵も三万以上存在している。

前線にある幾つかの城にも、万を超える兵が駐屯していて。

劉備はここ二年ばかり、これらの強力な軍を捌き続けて来たのだ。

勿論曹操側から嫌がらせのように調略もあり。

それがこの間の賊蜂起だったりもしたのだが。

これで、一気に攻勢に出ることが出来る。

皆で話をしにいく。

趙雲は大丈夫。あれは人型の鬼神だ。

必要な地点を指示して、暴れて貰えばそれでいい。あれには軍略など必要ない。文字通り、戦場を貫く一筋の槍である。

此方の軍勢は八千ほどだが、この軍勢が宛に攻めこむという話を既に派手に流し始めている。

防御戦が得意な曹仁といえども、流石にこれは黙ってはいられないだろう。

当然細作も放って、此方が出る準備をしている事は掴んでいるはずだ。

兵を出してくる。

一瞬で蹴散らしてやる。

諸葛亮に作戦を立てさせるが、話通りの才覚だ。

歴戦を経た劉備ですら、まるで文句の付け所がなかった。

これは趙雲の言葉は本当であったらしい。

関羽も張飛も舌を巻いていた。

既に二人も、趙雲を疑っていない。

「よし、これで敵の前線の一角を文字通り突き崩せるな」

「それだけでは足りませぬな」

「諸葛亮。 詳しくたのめるか」

「宛を落とすと同時に、西涼に使者を。 馬騰殿と確か人脈がございましたな」

あるにはある。

曹操の麾下にいたことが昔あるのだが。

その頃に、色々とあったのだ。

ただ直接会った事はない。

馬騰は西涼軍閥の長ではあるが、西涼という土地が混沌の極地であり、親兄弟で殺し合うのが当たり前のような場所だ。

劉備でもまとめ上げるのは至難だろう。

「宛を落とし次第、長安を攻撃するように指示を。 これで曹操軍は、攻勢から守勢に回らざるを得なくなります。 少なくとも河北を攻撃するどころではなくなるでしょう」

「うむ……。 だがあの曹操の事だ。 恐らくはわしの所を狙って全軍を……」

「それが狙いにございます」

なるほど。

確かに急ぎでくれば、趙雲の圧倒的武勇については知らないだろう。

だったら其処で、一気に曹操を討ち取ってしまえば全てが終わる。

曹操が崩れれば、その版図は瓦解する。

残念ながら、曹操の息子の曹丕は、政治については優れているが。戦争については全くという程駄目だ。

個人の武勇はそこそこに優れているが。

武勇が優れている事と、指揮官として優れている事はまるで別の話なのである。

幾つもの手を打っているうちに、数日が過ぎ。

出陣の準備が整った。

趙雲は口を引き結んで、何も言わない。

その趙雲に、諸葛亮が順番に指示を出すと。地図を見た後、頷いていた。

「わかり申した。 最終的には、必ず夏候惇殿と曹仁殿を討ち取って参りまする」

「頼むぞ」

一礼すると、趙雲はあの白い馬に跨がって、先行する。

あれは隠し札だ。

ある程度は、劉備が戦わなければならない。

ただ、はっきりいって。

曹仁ならともかく、夏候惇程度が相手だったら。

兵力差が三倍程度だったら、負ける気はしなかったが。

 

戦闘が始まった。

新野北の森林地帯で、両軍が接触する。最初は小競り合いが続いたが、前線に劉備と張飛が出ている。

軍の指揮そのものは諸葛亮に任せ。

中軍として攻勢に出るために、関羽が控えていた。

数は少ないが、劉備と共に幾多の戦場で揉まれて来た兵士達と。

黄忠と魏延が率いる精鋭の実力は高く。

精鋭で知られる曹操軍を圧倒し始める。

特に万人敵として警戒される張飛が前線に出て来ていると悟ったか。敵兵の戦意はどんどん下がり。じりじりと下がりはじめていた。

この辺りは森が多い。

ただし今は雨期なので、火計には向かない。

地の利は此方にあるので、劉備としても戦術の振るいがいがある。

今中華で最強の用兵家は間違いなく曹操だが。

その次は間違いなく劉備だ。

この程度の用兵ではさほど苦労はしない。

森から、敵をたたき出す。逃げ遅れた敵を殲滅しながら、森を出ると。そこには堅固な陣地を曹仁が構築していた。

兵は四万という所か。

最低限の守備兵だけを出して、全軍を出してきたというところだろう。

此方も森を出て、兵を展開する。

宛南にある広大な草原で、一大決戦をする。

方陣を敷いている曹仁は、どんな攻めにも耐えきれるという構えだ。

事実堅固さでしられる曹仁は、各地の戦いで勇猛な活躍をしてきた闘将だ。劉備も侮っていない。

夏候惇のように、裏切らないから重用されている武将とは違う。

実績を上げている猛将なのだ。

だが、それが徒になった。

あの陣はあくまで常識的な範囲での布陣で。普通に戦ったのなら崩す事は困難だっただろう。

だが残念な事に。

此方には人型の鬼神が存在しているのだ。

兵を展開し、いわゆる鶴翼に拡げる。

戦場で敵を包囲するための陣形だが、相手は五倍。本来は包囲なんてできる訳がない。薄くなった場所を喰い破られるだけである。

曹仁もそれをすぐに見抜くはず。

だが曹仁くらいの武将になれば、当然劉備が考えも無くそんな事をする筈も無いと理解するだろう。

だから、思考に一瞬の隙が産まれる。

それが、命取りだ。

狼煙を上げる。

同時に、趙雲が突貫した。

この時代、馬に乗る事が出来る武将は稀少だ。趙雲の馬には、普通と違う馬具がついていて。あれが普及していたなら、多少は馬に乗る難易度も下がっていただろう。だが、そうはいかない。

馬に乗れるだけで、軍として採用が確定。

それくらいの稀少さなのである。

同時に全軍を進める。

劉備麾下の軍は問題ない。

劉備とともに敗戦も勝利も経験してきた精鋭だ。

全く問題なく動く。

黄忠と魏延が連れてきた精鋭に関しても、見ている限りは問題ない。

さっきの森の中での前哨戦が圧倒的勝利であった事からも、此方が強いと言う経験に酔っているからだ。

このまま、ゆっくりと軍を進めていく。

一騎で突貫してくる趙雲に、困惑していた曹仁軍だが。ともかく「蠅」を払うつもりにしたらしい。

膨大な数の矢を放ち、浴びせかけるが。

「蠅」は、その全てを槍を振るって叩き落とすと同時に、信じられない速度で敵陣に突貫した。

後は、文字通りの阿鼻叫喚となった。

槍が振り回され、同時に人体が粉々になって消し飛ぶ。

文字通りの蹂躙である。

一瞬にして、堅固な方陣がゴミクズのように内側から引き裂かれた。しかも食い込んだ刃は、内部を縦横無尽に引き裂いた。

突貫する鶴翼に編成された部隊。

そのまま敵を包み込む。

普通だったら、曹仁が主導して一点突破からの各個撃破を狙って来るだろうが。相手の動きで分かる。

曹仁はもう、趙雲の手に掛かった。

夏候惇はいてもいなくても同じだ。

あいつは元々曹操を支える事は出来ても、戦には向いていない。

そのまま趙雲には徹底的に暴れさせ。その後北に抜けさせる。宛の城を単騎で攻めて貰うためだ。

単騎で城攻めなんて本来は絶対にあり得ないのだが。

あの趙雲だったら別に無謀でも何でもないだろう。

大混乱に陥った敵を包囲して、徹底的に蹂躙する。曹仁の部下達も完全に負けた事を悟ったらしく。一箇所だけ逃げ場を開けて攻撃を続けるうちに、逃げ出した一部以外は、殆どが武器を捨てて降伏した。

これらの兵は、武装解除後、後方へと送る。

荊州の肥沃な土地なら、これらの兵士を養うことが充分に可能である。

劉表には書状を送ってある。

宛を陥落させ兵を大量に捕虜にしたら、兵糧を送るように、と。

本気にはしていないかも知れないが。

この戦いには、劉表の指示で来ている目付もいる。

その目付は、呆然と戦況を見やり。

慌てて伝令を飛ばしているようだった。

それでいい。

劉表はああ見えてかなり優れた人物だ。

長年にわたって平穏を荊州に作りあげ。

孫氏の侵略を、江夏で防ぎ止め。荊州には寸土も踏み込ませなかった。

今荊南に火種があるが、それについては既に知らせてある。今頃首謀者が捕らえられている事だろう。

「兄貴!」

側にいた張飛が、流れ矢を矛で払っていた。

うむ、とだけ応える。

多分、前衛に出て来た敵の勇者による必死の反撃だったのだろう。

張飛に顎をしゃくると、すぐに意図を理解して飛んで行った。

やがて捕らえられてきた武将は。

気むずかしそうな顔をした人物だった。

満寵というそうだ。

確か、曹操軍の若手将校の筈。

曹仁の麾下にいたところを、さっきの趙雲の怒濤の猛攻を逃れたというところだろうか。

いずれにしても、もう大勢は決した。

兵士達も人間だ。

捕虜にした相手を殺すような真似はしない。

劉備は、趙雲がいた世界の劉備ほどではないにしても。

少なくとも民に非道をしないと思われる程度には振る舞っている。

それが例えフリであっても。

今更、そのフリを変えるわけにはいかなかった。

諸葛亮が来る。

「戦闘は終了しました。 我が軍の損害は軽微です。 敵はおよそ四万の内、戦死五千、逃亡三千、残りの一万ほどが負傷しています。 逃亡したもの以外は全て降伏しました」

「よし、関羽。 見張りを兼ねて捕虜を連れ、新野に戻ってくれ」

「わかり申した」

これは三万以上という大兵力が突然新野に出現したことを意味する。

もしも劉表が約束を違えるようなら、分かっているな、という恫喝も兼ねている行動である。

勿論劉備も無体はしたくないし。

趙雲の話を聞く限り、後六年程度で劉表の天命は尽きる。

焦る必要など、一つも無い。

そのまま、六千程まで目減りした兵(残りは監視兼護衛のために捕虜と一緒に新野に戻した)を率いて、宛に向かう。

遠目でも分かる。

既に宛では、火が上がっていた。

文字通り、単騎で城を蹂躙するか。

宛は黄巾の残党が荒らしていた時期や、あの偽帝袁術が荒らしていた時期もある。それに張繍が強力に要塞化していた事もあって、極めて攻めづらい城である。

単騎で突貫してきた趙雲に、城兵が油断したという事もあるのだろう。

それにしても、凄まじい。

出城には抑えの兵だけを置いて、劉備は張飛、諸葛亮と共に進む。

劉備軍本隊が来たのを見て、まだ必死に何とかしようとしていた城兵の心が折れたのが、遠目にも分かった。

矢は、飛んでこなかった。

城の戸が開けられる。

後ろ手に縛られ、項垂れている夏候惇と。それを乱暴に引っ張ってきた武将がいる。

多分、名前も知られていないような武将だろう。

あまり良い気分はしなかった。

城を文字通り一人で落とした趙雲も、戻って来たが。

生き残るために味方を差し出す浅ましい姿勢には、思うところがあるようだった。

「趙雲、縄目を解いてやれ」

「分かりました、劉備殿」

「良いのかよ兄貴」

「ああ。 よくあの乱戦を生き延びる事が出来たな、夏候惇将軍」

悔しそうに、片目で知られる夏候惇が劉備を見上げる。

劉備にとって、この男は敵ではない。

曹操にとっても。

裏切らない、周りに休まることがない曹操が側に置く、信頼出来る唯一の人物。曹操の心の安全弁とも言える。

「解放してやろう。 曹操殿に伝えてやれ。 劉備の所に、鬼神が現れたとな」

「……後悔する事になるぞ」

「この機を逃して飛翔できないようなら、この劉備もそれまでと言う事だ。 では行くが良い」

夏候惇はにらみつけるように劉備を見ていたが。

やがて趙雲に対しては怯えの目を向けつつ。

そのまま、戦場を後にしていった。

戦場を検分する。

宛の守備兵だけで二千人以上が、趙雲一人によって撃ち倒されていた。いずれもが、人間の死に様ではなかった。

この武は、確かに異世界のものと呼んで間違いないだろう。

そして劉備は、軍略では曹操に劣るが。

人を見る目だけは、誰にも負けない自信がある。

だから分かる。この趙雲は、絶対に裏切らない。

 

2、帝奪還

 

諸葛亮の力量は凄まじいもので、新野と宛、更に中間にある幾つかの今回の戦で取得した小規模都市を瞬く間に掌握。

兵の徴募を行い。

次の作戦に向けての準備を進めていった。

劉備が口を出す暇も無い。

劉備の所にも徐州時代に麾下に加えた糜竺をはじめとする文官は存在するのだが。全員が束になってもかなわないだろう。

また軍略も優れている。

流石に曹操ほどではないにしても、文字通り龍の如き働きぶりである。

確かにこんな逸材を後六年も放置しておいたら、それはあまりにも惜しすぎたと言えるだろう。

ただ、少し趙雲の話と違う所もあった。

諸葛亮は、元々劉備の所を訪れるつもりだったらしい。

要するに趙雲の記憶にあった三顧の礼、というのはなかったようだ。

劉表は優れた君主ではあるが。

内部では外戚による権力争いが行われており。劉表が死んだ後は未来は無い、と諸葛亮は判断していたようである。

故に、劉備をもう少し見極めてから仕官するつもりであったらしい。

ただ劉備が直接来てくれた。

それを見て、流石に驚き。

少し嬉しかったそうだ。

頷くと、幾つかの軍略を打ち合わせ。

劉備は領内を見回って、倍以上に拡大し。万の兵を養えるようになった状況を確認しながら、各地を慰撫して回る。

実の所この辺りは劉備も人脈があるので。

曹操軍がいなくなった後は、驚くほど静かになった。

あの賊なども、上手く言い含められて不満をかき立てられた連中が、新野にけしかけられていたらしい。

まあ、今になって分かった事ではあるのだが。

それにこの間の戦で得た三万からなる捕虜は、劉表に譲渡した。

劉表は近年荊南の統治が上手く行っておらず、嬉々として荊南にその兵を投入。造反分子を抑え込むのに成功しているようである。

それだけではない。

宛の東にある地域、汝南。

山深く、山賊も多い土地だが。

曹操の本拠である許昌の南で、文字通り指呼の距離にある。

劉備が一時期本拠にしていた事もあり、この辺りにも、劉備は顔が利く。

既に、手は打ってある。

孫乾が戻ってくる。

彼もまた、汝南時代に苦しい思いをした一人だった。

「今戻りましてございまする」

「うむ、成果は」

「汝南の民はすぐにでも蜂起すると判断して良いでしょう」

頷いた。

新野では、趙雲から聞いた徐庶なる人物を発掘し、この人物も今までいた文官以上の辣腕を振るっている。

劉備は糜竺らと徐庶に新野の拡大と戦力整備を指示し。

宛に集めた一万ほどで。そのまま許昌を襲撃する作戦を実行に移すべく動いていた。

勿論曹操も慌てて河北の戦線から引き返してくるはずだ。

曹操は袁紹を二度にわたって破ったが、まだ河北の総本山であるギョウを陥落させていない。

かなり袁家の勢力を削り取り、黄河の南側は全て制圧したし。黄河の北側にもくさびを打ち込んだようだが。

それでもまだまだ袁家の勢力は簡単に滅ぼせるものではない、ということだ。

其処に背後に痛烈な一撃を受けたのだ。

戻る他無いだろう。

更に宛に大兵力を置いて、あらゆる備えにしていた所にこれである。

ついでに、宛を強襲しうる北西の大都市長安には、今諸葛亮の策通り馬騰が仕掛けている。

こんな広域戦略は、確かに劉備には立てられなかった。

趙雲が諸葛亮を派遣してくれなければ、どうにもならなかっただろう。

趙雲が戻ってくる。

兵の調練をしていたらしい。

宛でかなり新規に兵を雇ったのだが。

一応の形になるまではやってくれたようだ。

「劉備殿。 ご相談がございます」

「うむ」

「新兵の訓練は張飛将軍に任せていたようですが、以降は私が引き受けましょう」

「……そうだな」

言われなくとも分かる。

張飛は酒を飲んで暴れるような事はない物静かな男ではあるのだが、兵士に対しての接し方に問題がありすぎる。

今まで再三兵卒から苦情が来ている。

元々万人敵とも呼ばれ。

将軍としては劉備麾下でも屈指の力量を持つ男ではあるのだが。

その一方で、兵士を育成するのには致命的に向いていない。

誰にも向き不向きはある。

人材不足で、張飛に兵の訓練は任せていたのだが。

確かにその方が良さそうだなと、劉備は考えていた。

「分かった。 だが、趙雲よ。 そなたには、文字通り戦場での活躍にのみ注力して貰いたいと思っている。 今後は陳到に兵の訓練は任せることにしよう」

「はっ」

陳到は地味な男だが、前の趙雲同様に少数精鋭を率いて活躍する武勇に優れた男で、寡黙ながら忠実な人物だ。

軍略も一通りわきまえているから、訓練を任せるには丁度良いだろう。

一月ほど地盤固めに奔走しているうちに斥候が戻ってくる。

長安では曹操軍が押し気味だが、まだ馬騰を排除するには至らず。

そして許昌に戻って来た曹操が、早速劉備を討伐するための軍を編成しているという。

二十万などと称しているようだが、実数は五万前後と諸葛亮は判断。

確かに宛を攻め落とすには充分過ぎる数だが。

勿論そのまま倒されるつもりはない。

すぐに、最小限の兵を残して出撃する。

新兵も多いが。

それでも出撃した兵は一万一千にまで達していた。

劉表から兵糧を大量に送って貰ってある。

これは三万の捕虜を獲得した事に対する見返りで。交渉は孫乾に任せた。

だから兵糧の心配は無い。

関羽と張飛を両翼に展開した劉備は、兵を進めて、許昌の西にある平野に布陣。

徐州の頃を思い出した。

曹操は、劉備に勝てるのは自分のみと悟っていた。

だから、劉備が袁紹と連携する姿勢を示すと。即座に自身で精鋭を率いて徐州に攻め寄せて来た。

流石に曹操の率いる精鋭にはどうしようもなく。

劉備は徐州を追われ。家族とも離ればなれになり。

関羽とさえ一時的に離れて。

離散し、袁紹の所に逃げ込むしかなかったのだ。

だが、今度は違う。

数年前の雪辱を果たさせて貰う。

諸葛亮に意見を聞く。

「幾つかの事態を想定していましたが、曹操は流石ですね。 恐らく夏候惇将軍から、趙雲将軍の武勇を聞いているのでしょう。 分厚く陣を展開し、陣頭に自分を配置せず、趙雲将軍の消耗を待つ形を取っております」

「ふむ。 して如何に対応する」

「前衛のあの地点をご覧ください」

虎、の旗が翻っている。

知っている。

あれこそが、虎豹騎。

曹操軍が誇る最精鋭部隊だ。

今の時代、趙雲が乗っているような馬はいない。三周りほど小柄な馬が主体である。

馬を戦場で用いる場合、古くには「戦車」と呼ばれる馬車が主体だった。これは二頭引きのものが多く、威圧感と圧迫感で文字通り平原での戦いならば歩兵を蹂躙する事が出来たのだが。

狭い所に入る事が出来ない、小回りがきかないなどの問題点があり。色々な理由から廃れていった。

かといって、まだ馬具がどう見ても未完成な事もある。

長年かけて改良を続けているのだが。

諸葛亮が趙雲の使っている鞍を見てほくそ笑んでいたが。いずれにしても、騎兵はまだ本当に一部も一部。

ごく少数の例外以外は、馬を乗りこなす事が出来る者はいない。

馬に乗れるだけで、この時代食いっぱぐれる事はない。

その理由である。

曹操自慢の虎豹騎には、将校級の人物が抜擢されることもあるのだが。

それは要するに。

馬に乗れる人物は、そこまで少ないことを意味している。

「趙雲将軍、あの虎豹騎。 蹂躙できますか」

「容易い御用にて」

「マジかよ……」

張飛が絶句する。

まあそれもそうだろう。

張飛だって、あの虎豹騎とまともにやり合うことは避けるだろう。それほどの精鋭部隊なのだ。

だからこそ、ともいえる。

あの部隊が一瞬にして崩壊したら、曹操軍はそれこそ精神的に致命的な打撃を受けることになる。

後は、幾つかの策を諸葛亮が事前に立てているので。

その通りに動くだけである。

頷くと。

全軍が、行動を開始していた。

曹操軍もすぐに動き出す。

だが、それよりも早く。戦場に突貫した趙雲は。白と緑の鎧と、凄まじい槍を閃かせて。

文字通り生きた槍となって、敵陣前衛を消し飛ばしていた。

赤い霧が舞うかのようである。

吹っ飛んだ敵の手足が、劉備の所からも見える。

いにしえの項羽の再来か、という声さえもあがった。

あれが普通にいたのがあの趙雲の世界なのか。

寒気がする話だなと感じる。

いずれにしても、全軍を進める。趙雲は敵前衛を短時間で蹂躙し尽くすと、前衛後方で機を窺っていたらしい虎豹騎に、躍りかかっていた。

虎豹騎は、曹純という優秀な将軍に率いられた部隊だ。

趙雲は知らないと言っていたので。恐らく趙雲のいた世界では、目立たなかったのだろう。

不思議な話では無い。

あんな超越的な武人が当たり前のように存在する世界だ。

此方でどれだけ存在感を示している人物でも、目立たなくてもまるで不思議ではないと言える。

曹操軍の宝である虎豹騎が、文字通り引きちぎられ、吹っ飛び始める。

それを見て、目に見えて曹操軍が動揺するのが分かった。

分厚い陣を敷き、趙雲の突貫も見越していたらしい曹操軍だ。

最初には膨大な矢を浴びせてきたし。陣地を分厚く展開する事で、将校を簡単に討ち取られるのを避け。

ある程度趙雲が消耗してから、反撃に出るつもりだったのだろうが。

いきなり虎豹騎が引きちぎられたことで、その前提が瓦解した。

曹操も、流石にこんな非常識すぎる相手には対応がいきなりは出来ないだろう。

そう諸葛亮が予見していたが。

その通りになった。

曹操はこの時代随一と言って良いほどの用兵家だが。

それが逆に徒になったと言える。

全軍が接触。

内部を滅茶苦茶に蹂躙されている曹操軍は、五倍といえど混乱が酷く。関羽と張飛が率いる両翼が交互に突撃を行い、徹底的に兵を削り取って行く。

それでも曹操軍の将校は粒ぞろいで、対応を必死にしてくるが。既に趙雲は名だたる将を何人も消し飛ばしたらしく。

曹操の本陣すら揺れ始めていた。

曹操軍が引き始める。

追撃をと思ったが、諸葛亮はむしろ兵を一旦引くように指示。頷くと、劉備はすぐに関羽と張飛に追撃中止の指示を出した。

同時に、南から兵が突貫してくる。

戦場を迂回していた曹操軍別働隊だろう。

数は五千ほど。

確かに深追いしていたら、致命傷になっていた。

そのまま迎撃する。

敵の五万は趙雲に任せてしまってかまわない。趙雲が好きかって暴れ回った後には、更地しか残っていないだろう。

南から来た五千を、全軍で迎撃。

率いているのは張遼か。

曹操軍屈指の名将だが、流石にこれは状況が悪い。張遼も、本隊が文字通り潰乱するのを見て、時間稼ぎのために身を捨てての突入を仕掛けて来たのだろう。

鬼気迫る勢いだが、それでもどうしようもない。

関羽が突撃を受け止め、張飛麾下の軍がわっと横腹を突く。更に劉備は本隊を張飛とは逆方向に動かし、張遼を包囲した。

後は連携しながら、攻撃と防御を相手の先手を打ちながら叩き込んでいくだけである。

見る間に撃ち減らされていく張遼軍だが、それでも堅固な砦となって崩れる様子が無い。曹操のために、捨て石になってでも時間を稼ごうというのだ。

だが、関羽の率いる部隊が、ついに張遼を捕捉。

短いが激しい戦いの後。

血だらけになっている張遼が、縛り上げられて劉備の所に引き立てられてきた。

何度も顔を合わせた。

呂布の所にもいた事のある名将だ。

此処で張遼を失えば、曹操は右腕を失うのも同じだろう。

それでも、少し躊躇した。

「兄者。 拙者が対応しよう」

関羽が来る。

張遼の軍の生き残り三千ほどを捕虜にして、それで戻って来たのだ。

張遼は何も言わなかった。

関羽と張遼の友情は有名な話だった。

「以前、張遼殿。 貴殿に助けられた事があったな。 今度は拙者がその恩を返そう」

「……有り難い話だが、劉備殿に降るわけにはいかぬ」

「くだらなくともよい。 兵士達の命は保証する。 その代わり、檻の中で頭を冷やされよ」

「……くっ」

張遼が俯く。

流石に三千もの兵士を自分の誇りのために死なせる訳にはいかないと判断したのだろう。

賢明なことだ。

劉備も、これほどの武人を斬らずに済んだのは良かった、と思う。

それに、趙雲が曹操軍の武将を殆ど倒してしまっただろう。

人材を失うのは、できればあまり派手にはやりたくないのも実情だった。

兵をまとめる。

趙雲も戻って来ていた。

諸葛亮が状況を整理してくる。

「曹操軍五万五千の内、損害は一万を越えたようです」

「趙雲だけで一万を倒したのか」

「……」

勿論一万の中には、張遼軍の損害二千や、関羽と張飛が軍でぶつかって潰乱している所を撃滅した被害もある。

いずれにしても、戦死二割は全滅と同義である。

負傷者は四万を越えているだろう。

許昌は今頃地獄になっている筈だ。

「対して此方の損害は軽微。 今、斥候を放って曹操軍幹部の戦死者を調べている所です」

「うむ。 それと……」

「はい。 各地に勝報を放ちました。 これで徐州や寿春では反乱も起きましょう。 更に袁尚どのに使いを出しました」

袁尚か。

袁紹の息子で、三男。

はっきりいって、劉備から見ても無能な男だ。

見栄えだけはいいが、それだけの人物。

袁家の見苦しい内部権力闘争の結果、長男である袁譚をおいやり、跡継ぎに成り。

跡継ぎになった後は傲慢な振る舞いで一気に人心を失っていった。

正直、劉備としても手を組むつもりはなかったのだが。

曹操軍を追い詰めるためには、必要な采配であろうと我慢をする。

すぐに兵をまとめる。

兵はほぼ目減りしていなかったが、負傷者は下がらせ、宛に来ていた予備部隊と交代させる。

勝報を得て、汝南から続々と援軍がやってきた。

汝南は既に曹操軍が撤退し、事実上劉備の手に落ちたも同然だ。

許昌を包囲したときには。

劉備軍の兵は、二万にまで増え。

兵糧の恐れもない状態になっていた。

ただ曹操はまだ挙兵時の本拠である陳留などが無傷の状態で残っている。敵の援軍は来る可能性が高い。

油断はとてもではないが、できる状態ではない。

包囲が完了した頃。

諸葛亮が、曹操軍の戦死者をまとめてきた。

曹純。まあ虎豹騎が文字通り消し飛んだのだ。当然だろう。

夏候淵。夏候惇と並ぶ、裏切らない事で曹操に重用された将軍。軍才はそれほどでもなかったが、忠実な人物だった。

李典。優秀な男だった。とにかく何でもできる有能な人物で、何処にいても活躍出来ただろう。

楽進。曹操軍の前衛を常に務めた曹操軍の一番槍。

若干小柄だがその勇猛さは群を抜いており、文官から抜擢された闘将だった。

張コウ。

袁紹の麾下にいた猛将。

その性火のごとしと言われた猛将であり、袁紹の所から降ってから日も浅いのに、曹操には重用されていたという。

曹洪。

曹操が挙兵した頃からの古参。多少金に汚い所はあったが、歴戦の名将だった。

曹休。

曹操が目を掛けていた一族の武将。曹仁と並ぶ曹一族の名将で。どうも曹操が軍才がないようだと嘆いていた後継者候補、曹丕と違って軍才に恵まれていた。劉備も何度か見たことがあったが。曹操の子供だったら、跡継ぎ候補だったかも知れないと思える程の人物だった。

そして徐晃。

元々楊奉という、あの董卓の残党の軍閥の一人にいた将軍だ。

楊奉が曹操を頼って落ち延びてきたときに、曹操の麾下に移り。

以降は無敗を誇った曹操軍屈指の名将だった。

これだけの人員が、一度の戦いで死んだのか。

劉備は流石に慄然としていた。

張遼は死なずに済んだが、それも捕らえられている。

曹操は両腕どころか、両足も失ったのと同じだな。

そう思うと、大きな溜息が出る。

だが、劉備はこの後、自分がどうなるかを趙雲に聞かされている。

雄飛が遅れた劉備は、勢力を拡げた頃には年老いており。関羽と張飛も悲惨な最期を遂げることになったのだと。

もしも今、趙雲が来てくれなければ。

いずれこうなっていたのは、劉備の方だったのだろう。

「城内の敵の様子は」

「必死に曹操が励ましているようではありますが、それでも損害があまりにも衝撃的だったこともあり、体制を立て直せておりません。 まずは降伏の使者を。 断るようなら……」

趙雲を見る。

趙雲は、今名前が上がった人物の殆どを知っていたようだ。

皆、趙雲の世界では。趙雲と肩を並べる武人だったのかも知れない。

いずれもを無意識の内に消し飛ばしていたのだろうし。

心が痛んでいるのかも知れなかった。

「すまぬ、無理をさせているか」

「いえ。 この戦、許昌にいる曹操を撃てば一旦は終わりましょう」

「いや、曹操の子息達がいる。 彼らは陳留をはじめとする別の土地にいる。 仮に許昌を即座に落としても、曹操軍の残党は、時間を掛ければ其方にまとまるだろう」

「分かりました。 ……私が知る曹丕どのは、冷厳ではありましたが邪悪な人物ではなかったのですが……」

趙雲が肩を落とす。

この様子だと、趙雲がいた世界では、このように何もかもが荒れ果てたこの世の終わりではなく。

武人の誇りや、侠が生きていたのかも知れない。

今の時代も食客や侠客はいるが。

実態は殆どが愚連隊だ。

趙雲は圧倒的に強いが。多分、間違ってこの世界に戻ってきてしまったのだ。

それならば、いつ本来の世界に戻るか分からない。

それも考えて、できるだけ早く。大勢を決してしまわなければならないだろう。

「許昌攻めを行う。 趙雲、あの城壁の突破はできるか」

「流石に駆け上がるのは無理ですが、鉤縄を使って突貫する事は可能です」

「そうか。 内部から戸を開けることは」

「造作もなく」

頷く。

全軍を包囲に振り分ける。

許昌内部にいる無事な兵力は一万もいない。残りは殆ど負傷兵である。

兵に略奪は厳禁と指示。

既に充分に訓練をしている新野の軍や、宛で新たに調達した部隊については問題はないだろう。

問題は汝南から来ている連中だ。

此奴らは山賊と殆ど変わらない。

だから、攻城戦には加わらせない。

その代わり、充分な恩賞を一兵卒まで与える事を約束した。

この戦いが終わった後、徹底的に訓練をして。

山賊から正規兵に鍛え上げれば良い。

まずは、目の前の戦いに勝つことだ。

夜を待って、趙雲が動く。

機敏に鉤縄を掛けると。

そのまま、城壁を駆け上がっていった。まるで飛仙だ。誰かが呟く。そのまま巨大な許昌の城内に踊り込む。

すぐに、包囲している全軍が城内に矢を撃ち込み始める。

敵が大混乱している中。

城門が、開かれた。

関羽が指揮する部隊が突入を開始。

他の部隊には、そのまま待機を命じる。もう一箇所の城門があく。其処から、我先に兵士が逃げ出す。

其方は途中に張飛を伏せてある。

もしも曹操がいるようなら討ち取ってくれ。

そう指示だけはしておいた。

城内に続けて劉備も入る。民草に手を掛けるな。そう厳命しながら、乱戦を制していく。

とはいっても、趙雲が大暴れしている状況だ。それを見るだけで、曹操軍は潰乱するばかりである。

実数五万の軍勢が、文字通り単騎に潰されたのだ。

それは、もはやあの白と緑の鎧を見るだけで、恐怖して逃げるのは当然だと言えた。

やがて、宮城に入り込む。

帝が、いた。

「おお。 劉備よ。 来てくれたか」

「遅くなりました。 劉備、ここにありまする」

「朕は針のむしろにいるようであった。 今後は常に側にいてくれるか」

「はっ」

包拳礼をし、周囲の警護を任せる。

帝を残したと言う事は、恐らく曹操はそれを囮に逃げ延びたと言う事だ。恐らく陳留か、或いは洛陽で再起を図るつもりかも知れない。

曹操だけは、倒さなければならない。

朝になる前に勝負はつく。

負傷兵の大半は降伏。

降伏した中には、程cをはじめとする曹操軍の頭脳労働を担当する者達が殆ど含まれていた。

荀ケや荀攸もいる。彼らも曹操を支えた名臣だが、それ以上に儒者である。

故に帝の側に、と考えたのであろう。

曹操は張飛の網にも掛からなかった。

どうやら、許昌の包囲が完成する前に、再起を図って逃走したらしい。

曹操は柔軟にこの辺り判断出来る人物だ。

逃げた事を、責める事はしなかった。ただし、追撃にも容赦をするつもりはないが。

一旦、兵をまとめ直す。

汝南から来た兵士達も、城内に入れ。すぐに報酬を配った。曹操軍は国庫に鍵を掛けており。

倉庫は全て無事だった。

曹操は現実主義者ではあるが。

こういう国の財産はきちんと保全する程度の良心はある。

怖れられるほどの邪悪ではないことを。

間近で見た事がある劉備は知っていた。

「関羽、許昌を任せる。 特に汝南から来た者達に略奪を働かせるなよ」

「わかり申した」

「張飛、曹操にとどめを刺す。 軍を率いよ」

「分かったぜ。 これで最後だな」

最後か。そうなればいいのだが。

そもそも曹操の粘り強さは尋常では無い。呂布と抗争していた頃も、本拠地を落とされて窮地に立たされてから、盛り返した実績がある。

曹操自身を仕留めないと、全く安心などできない。

しかも曹操は、まだ五万以上の兵力を動かせるとみて良い。

勿論許昌で撃破した精鋭ほどの力はなく、各地からかき集めた兵力でしかないだろうが。

それでもまだまだそれだけの底力があるという事だ。

油断すれば負けるとみて良いだろう。

すぐに追撃を開始。

帝を抑え、豫州一帯を手にした今。

劉備は新野にいた頃とは全く立場が変わっている。

今後劉表が掌を返して劉備の背後を突こうとするかも知れない。

そういった隙を与えないためにも。

秒でも早く、曹操を倒さなければならない。

それに、やはり見ていて思ったが。

趙雲の武勇ははっきりいって摂理を越えてしまっている。

この様子だと、劉備の天下統一の最後まではつきあってはくれはしないだろう。

少なくとも、曹操を仕留めれば。劉備は天下を取る自信はある。

情報は来ているが、江東はもはや支離滅裂。

地元豪族のいわゆる四家が完全に分裂し、孫策が築いた地盤など木っ端みじんになってしまっている。

袁尚など元より劉備の敵ではないし。

馬騰や劉璋なども同じく。

劉表には未来が無いし、領土を拡げていく気概も無い。

曹操が。

曹操だけが、後は倒すべき相手だ。

それと、趙雲が言っていた。

司馬懿という者にだけは警戒しろと。

司馬一族と言えば、前漢の頃から各地に根を張っている名族だ。確か官渡の戦いの頃、曹操が仕官させたという話は聞いている。司馬八達などと言って、この世代に優秀な人材が集中しているとも。

曹操は案の定陳留に逃げ込んだようだが、曹操が育て上げた将兵はもういない。

次の戦いで、勝負を付ける。

劉備は、軍を進めながら、そう決意していた。

 

3、曹操の最後

 

流石に曹操は動きが速かった。

陳留に戻るや否や、すぐに三万ほどの兵を再編。

主力や股肱を殆ど失ったにもかかわらず、その動きは驚嘆すべきである。

それに曹操自身がこの時代屈指の用兵家だ。

油断すれば足下を掬われるだろう。

これに対し、劉備は八千ほど。

宛から更に追加で送られてきた兵士や、許昌で降伏した者の中から、劉備が知っている者を選抜。

これを軍に組み入れていた。

兵力は圧倒的に曹操軍が勝っている。

また精鋭では無いが、青洲で組み込んだ黄巾賊の残党であるいわゆる「青洲兵」が主力となっている様子だ。

この部隊は愚連隊も同然だが、とにかく戦闘力が高い事で知られている。

しかしながら、陳留を失えば、曹操の領土は東西に別たれ、文字通り致命傷を受ける事になる。

長安では馬騰が撃退されたと言う事だが、時既に遅し。

いずれにしても、此処で曹操は仕留めてしまう。曹操さえ仕留めてしまえば。

後は、ゆっくり時間を掛けて天下を統一していけばいいだけだ。

趙雲が変わってから。

三ヶ月ほどしか経過していない。

それなのにこの有様である。

本当に世の中とは分からないものだ。

曹操軍を観察して、劉備は判断する。

曹操はあの中にいる。

今回は最後の賭けに出て来ているとみて良い。趙雲が単独で主力を潰したのを見て、同じ手でやられるほど甘い相手ではない。

きっと何か目論んでいる。

諸葛亮に意見を聞くと。

諸葛亮は、敵陣を指さしていた。

「あの辺りに着目ください」

「ふむ、敵陣に妙な粗が見受けられるな」

「はい。 恐らくは何かしら大がかりな罠があるとみて良いでしょう。 趙雲将軍が突入してきたところを足止めし、その隙に此方本軍を叩くつもりのようです」

「そのような罠、一息に踏み砕いてしまいましょうか」

趙雲が言うが。

劉備は首を横に振る。

諸葛亮は信頼出来る軍略家だ。

意見はしっかり聞いておきたい。

「続けてくれ、諸葛亮」

「はい。 あの罠については、交戦を避けるべきかと。 趙雲将軍は、地図上のこの地点にまず移動し。 その後、旗が振られ次第曹操一人を狙って戦場を一直線に駆けてください」

「曹操殿だけでよろしいと」

「邪魔に入るものは全て蹴散らしてくだされば」

頷く。

趙雲の表情に影が差している。

それはそうだろう。

明らかにいるべき世界ではない場所にいるのだ。敵将は皆紙屑のように引き裂かれるものばかり。

この趙雲に匹敵する武人が大勢いたらしい世界に比べたら。

此処は何もかもが違うのだから。

それに、趙雲が曇れば槍も曇るだろう。

そうなったときには。

世界が過ちに気付いて。

趙雲を戻すかも知れない。

そうなれば、いつ形勢が逆転してもおかしくはない。急いで勝負は決めなければならなかった。

軍を動き出す。

敵は青洲兵を前衛に、動き出した。

愚連隊も同然の連中だ。この間の許昌攻防戦でも一部が加わっていたようだが。形勢不利とみるとすぐに逃げ出した。しかも味方から身ぐるみ剥いで、である。

流石に山越の民を奴隷兵として使い潰している孫家ほどではないにしても。

今の時代は、賊や、賊同然のものを使いこなす手腕が必要であることは劉備にだって分かっている。

前衛が激突。

張飛が凄まじい暴れぶりを見せているが。

趙雲の暴れぶりとは流石に比べられない。

前衛は一進一退。

曹操はまだ動かない。

趙雲を警戒しているのは明らかだった。

頃合いだな。

頷くと、諸葛亮が指示を出し。兵士の一部が叫び出す。

「趙雲将軍だ! 趙雲将軍が出られるぞ!」

銅鑼を叩き鳴らす。

それだけで、敵陣に動揺が走った。

戦闘開始前に、諸葛亮は言った。

凄まじい暴れぶりを見て、曹操の軍は趙雲という言葉だけで恐怖を覚えるようになっている、と。

それは如何に曹操という強大な求心力が存在していても、一月やそこらでぬぐい取れるものでもないと。

だから、こうやって敵をまず乱す。

そうすると、劉備にも見えてきた。

敵の隙が、である。

確かに陣地の内部に、かなり大がかりな罠を張っているようだ。大胆にも、趙雲もろとも曹操は相討ちするつもりらしい。

曹操がいる場所がだいたい分かってきた。

周囲に油をしみこませた藁を山のように積み込ませ。

その中で、青ざめた曹操がいる。

また。周囲に多数の弓兵を伏せてもいる。殺傷力の高い弩だ。

なるほど。

曹丕などに後を継ぐこと。

後の時代に何とか生き残る事を託し。

趙雲だけはどうにか倒すつもりだというわけだ。

すぐに諸葛亮が動く。

趙雲に対して、指示を変える使者を送る。

そのまま戦闘が推移すれば、兵力差で此方が押し切られる。殆どの有力武将を失ったとはいえ、曹操軍はまだ機動軍三万を出す力が残っているのだ。しかも時間を掛ければ、更に兵が集まるだろう。

張飛もじりじりと押し込まれている。

前線は一進一退。その時、不意に趙雲が動いていた。

文字通り鎧柚一触。

張飛と戦っていた、青洲兵に横から突っ込む。文字通りゴミのように吹っ飛んだ青洲兵。陣を横切るだけで、千人は死んだのではあるまいか。

それだけで曹操軍はどっと崩れる。

五万がたった一人に蹂躙された悪夢を思い出したのだろう。

更に、誰かが火をつけた。

慌てていたのだろう。

曹操は立ち上がったようだが、既に遅い。曹操ほどの傑物でも。部下全てを完璧に制御はできないのだ。

青洲兵の一部が文字通り粉砕されたのを見て、形勢不利とみて青洲兵が逃げ出し始める。

こうなると、もう制御はきかない。

逃げ崩れる兵士達は、趙雲から、そして劉備の率いる軍から逃げるようにして、我先に散り始めた。

曹操が鍛え抜いた精鋭は、許昌の戦いで壊滅している。

こうなってしまうと。

もはや哀れな小蠅の群れに過ぎない。

張飛が怒号を張り上げながら、突貫する。

劉備軍では、最も軍略のある将軍だ。

関羽よりも軍指揮官としての手腕は確実に上である。

兵士に厳しすぎるのが難点だが。

その手腕は、劉備も疑ったことはない。

敵を蹴散らし始める中。

曹操は、諦めたように、炎の中で座り込んでしまったようだった。

そこへ敵陣を突破した趙雲が突貫する。

そして、曹操を。

一槍で屠っていた。

死体が消し飛ぶようなこともなく。

上空に放り上げられはしたものの。

地面に落ちて、原型を留めていた。更に趙雲は、陳留城へと突貫していく。そして、城を迂回し。

脱出している者達の前に躍り出て、逃げるなら容赦しないと叫んでいるようだった。

まさかこれほどまで早く軍が敗れるとは思っていなかったのだろう。

高台から様子を見ていた劉備は、慄然たる思いを味わっていた。

恐らくあの避難民の群れの中には、曹操の一族達がいるはず。

命がけで、曹操はあの者達を逃がそうとしたのだ。

冷酷非情のように思われている曹操だが。

決してそんな事はないのを、劉備は知っている。

情だってある。

時代が、それを表に出すのを許さなかっただけだ。

無言で劉備は、張飛に使者を出し。降伏を促すように指示。

更には、曹操の遺骸を探させていた。

戦いは終わった。

曹操の軍は、これにて。

文字通り消滅したと言って良かった。

 

降伏した二万ほどの兵を後方に送らせながら、陳留に入る。

曹操の本拠地の一つだった土地だが。

内部は、もはやその面影もなかった。

全てを擲って、この決戦のために兵をかき集めたのだろう。

元々官渡の大戦だって、曹操は九割方負ける筈だった。それを勝つ事が出来たのだ。

以降の戦で精彩を欠いたのも、やむを得ない事だったのかもしれない。

趙雲が来る。

険しい顔をした男性を、数人連れていた。

見覚えがある。

曹丕。

曹植。

いずれもが、曹操の子息達である。

二人は乱暴に座らせられる。趙雲は、抵抗もできない相手を見かねたか、慈悲を掛けるのだった。

本当に、別世界の英雄なのだなと分かる。

本当だったら、容赦なく斬っていただろう。

劉備すら影響を受け始めているほどだ。

この趙雲が仕えていた劉備は、本当の仁君と呼ぶに相応しい存在だったのだろう。

勿論劉備は違う。

だが、正直な話。

そのような自分には、この年でありながら。なってみたいとさえ思い始めていた。

「寛大な処置を」

「……すまぬな趙雲。 曹丕どの。 曹植どの。 面を上げられよ」

「くっ……筵売りの下郎めが……!」

曹丕が顔を上げる。

武勇には優れているが、成人するやすぐに戦場に出たにもかかわらず、まったく戦果がない曹丕。

性格が最悪だと曹操が零しているのを聞いたが。

少なくとも憶病ではないらしい。

実は彼の前にも男子はいたのだが、曹操が敗戦で死なせてしまっている。

その時曹操は妻に愛想を尽かされ三行半を突きつけられている。曹操も、そういう失敗をした事があるのだ。

曹植。曹操の詩の才能を受け継いだ男子。

此方も戦場には連れ出されているが、全くというほど戦果がない。

要するにどちらも曹操の軍才を引き継がなかったのだ。

まだ幼い曹彰という息子には、軍才の片鱗があると一緒にいた頃に聞かされた事があったか。

いずれにしても、惜しい話ではある。

「もはや抵抗できぬ事はわかっておろう。 一定の地位は与える。 降伏なされよ」

「……」

「私は、降伏いたします」

ぐっと頭を下げる曹植。

曹植は、こうして見ても、恐らくだが元々覇王の器ではなかったのだろう。今は、それが助かる。

しばらくぶちぶちと陰湿な発言を繰り返していたが。

それでも、やがて顔を上げた曹丕。

怒りと悔しさと、それ以上に敗北感が目の中にあった。

「分かった、 降伏してやる。 だが貴様に王たるものの資質がないと判断した時には、分かっておろうな」

「ああ、分かっている。 それに何よりも、一刻でも早くこの戦乱を終わらせなければならないのでな」

「……ふん」

曹丕が引き立てられていく。しばらくは監視をつけ。反乱などができないようにしっかり手を打ってから、後は内政などをしてもらう。殺すつもりは無い。

二人を生かしておくのは、無益な殺生を避ける為でもあるが。

それ以上に理由がある。

諸葛亮の指示で、各地で抵抗を続けている曹操軍残党に降伏の使者を送るためである。

主力軍は壊滅したとは言え、もしまともにこれらを平定して回ると、とんでもない時間がかかる。

故に曹操が死んだ事を示し。

その息子である曹丕の書状によって降伏を促せば。それである程度は、その時間を短縮できるだろう。

その時間で、どれだけの犠牲を減らせるか、分からないほどなのである。

後は河北に攻め上がる。

劉表がどう動くかが懸念材料だが。それもどうにかできるだろう。

後方にはどんどん兵力を増強している。

それができる余裕が出来てきたからだ。

何より、劉表軍には黄祖くらいしか一線級の将軍がいない。

新野は何よりも、劉備が要塞化してしっかり改良している。

ちょっとやそっとの兵が攻めてきた程度で、どうにかなるほど柔な土地ではないと言える。

陳留には関羽に交代して入って貰い。

劉備は許昌に戻る。

更に糜竺を汝南に派遣して、汝南の安定を確立。また古参の武将である簡雍を派遣して、その支援をさせた。

二ヶ月ほどで旧曹操領は殆どが劉備の元に降った。

特に曹操軍の残党を糾合していた于禁が降伏の意思を示したのが大きく。かくして劉備は、一気に中原という広大な土地を手に入れたのである。

一部それでも抵抗を試みる者達もいたが。

それについては、趙雲が鎧柚一触で蹴散らしてきた。

残念だが、そうする他には無かった。

劉備は民には歓迎された。

劉備の人望は前から篤かったし。

それに、略奪をしないように厳命していたことも大きかったのだろう。

曹操の場合はそうはいかなかった。

どうしても強権的な政治をしたし。

捕虜を殺す事も多かった。

劉備は昔は、それを差別化として用いて。

自分の「徳」を示していたのだが。

どうもあの趙雲の影響を受けたらしい。

演じていて、その内本当になってしまったのだろう。

聖なる統治者として、変わらなければならないと思い始めていた。

更に一ヶ月で、河北への侵攻の準備が整う。

そして、その頃には。

趙雲が警戒していた司馬氏八達の事も調べがついていた。

司馬懿という男は、確かに野心的ではあるが才気煥発この上無しという、使いこなせば他に類が無い実力者であるようだ。

ただし諸葛亮ほどではない。

それにこの時代、野心を持たない者の方が珍しい。

問題は司馬氏が強力な名士であることで。

曹操軍の中で、既に根を張り始めていた、と言う事。

危険だと、諸葛亮は断言していた。

「司馬氏は、漢が興る前、楚漢戦争の頃には強力な地盤を持っていた古い家柄です。 曹家や夏候家、それどころか劉家よりも更に家柄は古うございまする。 放置しておけば、恐らくは良くない事態を引き起こしましょう」

「……如何にすればよい。 諸葛亮、道を示せるか」

「はっ。 まずは転封して、地盤を奪いまする。 同時に司馬懿については、側近には絶対にせぬように。 元々出仕したがらなかったのを、亡き曹操殿が半ば脅して連れ出したという話もあります。 もとの生活に戻させてやるとよいでしょう。 生活に困らぬ程度の土地を与えて、です」

「分かった、そうするように」

さて、これからは河北攻めだ。

袁紹の長男である袁譚は勢力争いに敗れ、既に曹操に半ば従属していた。今も劉備に従属する姿勢を示している。

だが、それはいわゆる面従腹背である。

いつ裏切るか分からないと判断して良いだろう。

袁譚を呼び寄せて、顔を見てそれはすぐに分かった。

河北は袁紹の三男である袁尚が現時点では実権を握っているが、混乱が激しく、昔のような強固さはない。

ただし攻めれば損害も大きいだろう。

しかしながら、利もある。

劉備は元々河北の出身。

本来は趙雲もである。

人脈はある。

今の袁尚は、若いものの明らかに覇者の器ではない。

内側から崩していけるだろう。

長安からの降伏の使者を受け入れて。

そして劉備が河北への侵攻の準備を本格的に始めたのは。新野に元と違う趙雲が現れてから一年。

その日。

趙雲は、別れをいいに来た。

 

許昌で、劉備は河北に攻め入るための軍が整った事を、関羽と張飛から報告を受けていた。

荊州の劉表とは表向き友好関係が続いている。だが、勿論油断はせぬように厳命もしている。

魏延と黄忠はこの外征軍に加わって貰う。一方逆に、降伏した旧曹操軍の満寵に新野を任せ、劉表への備えとしていた。

趙雲は、十万程度にまで膨れあがった劉備の軍勢を見て目を細めると。膝を突いて包拳礼をした。

それだけで、だいたい劉備には意思が分かった。

「劉備どの。 私は恐らくですが、間もなくもとの世界に戻るのだと思います」

「そうか。 そなたは本当に助けになってくれた。 その豪勇、万年先にすらも語り継がれるだろう」

「いえ、私がこの世界で振るったのは武ではありません。 暴にございます。 恐らく私は何かの間違いでこの世界に来てしまったのです。 私の事は、あまり史書には多くを遺さないようにお願いいたします」

趙雲の体から、光が迸り始める。

恐らくは、趙雲の言う通り。

もとの世界に戻るときが来たのだろう。

この趙雲と、肩を並べるような武人が幾らでもいる人外の土地。

そこで、きっと戦い続けるのだ。

「司馬懿については処置をした。 既に望んでも権力は得られないようにしてある。 司馬一族についてもだ。 安心はしてほしい」

「……戻る前に知っている事を少し話しておきまする。 私はここに来る前にいた世界で、後の時代の者と接触して話を聞いてしまったのです。 この時代の後、統一を果たすも疲弊した漢民族は相争う過程で周辺の民族を領内に引き入れ、それらに乗っ取られてしまうのです。 人民、文化、全てが陵辱され尽くされ。 その地獄の戦乱は、三百年にもわたって続いたとか」

「なんだと……っ!?」

「故に、劉備殿。 一刻も早く、そのような隙を与えないように天下を統一なさいませ」

分かった、と応える。

劉備の中に残っていた、最後の野心がこの時消えたかも知れない。

そのような時代が来るのだと分かっていれば、野心どころではない。

ともかく急いで、漢民族の力が残っている間に。全てを片付けなければならないだろう。

静かに微笑むと。

若者のように凛としていて。

まるで鬼神のような強さを誇った趙雲は。その場から消失していた。

代わりに、もとの年老いた。

武勇には優れ、少数の精兵を率いるには長けているが。しかしながら、あくまで現実的な範囲の武勇しか持たない趙雲が、そこにいたのだった。

「趙雲。 記憶はあるか?」

「うっすらと。 殆ど霞のようにしか覚えておりませぬが」

「それでよい。 そなたは夢を見ていたのだ。 恐らく、そのまままともに体を動かすことはできまい。 半年ほど静養せよ。 その後、軍に復帰してほしい」

「はっ……」

趙雲が一度屋敷に戻る。

やはり異常すぎる身体能力から元に戻った影響か、かなり歩くのにさえ苦労しているようだった。

もとの趙雲も軍内で最強を狙える武人の一角だったのだが。

それでもあれほどに、違和感を覚えるほどだという事である。

如何にあの趙雲が凄まじかったのか。

劉備にもよく分かった。

いずれにしても、だ。

聞かされた話。絶対に再現をさせる訳にはいかぬ。

側で話を聞いていた関羽、張飛、諸葛亮とも頷きあう。

諸葛亮は元々泰然としていたが。それでも様々な事を考えているようだ。まあそれも当然であろう。

関羽も張飛も、あの趙雲の言葉で大きな影響を受けたらしい。

特に関羽は、少し前に自身の末路を聞かされたそうだ。

あの趙雲がいた世界では、関羽は誇りで身を滅ぼしてしまったのだという。そしてそれが切っ掛けで、乱世が簡単に終わらない状況ができてしまったのだとも。

流石に関羽もこたえるものがあったのだろう。

関羽は誇りが行きすぎて傲慢な所のある人物だったが。今はそういう事もかなり緩和されてきている。

勿論全てを直すのは無理だろうが。

張飛も、良い影響を受けている。

張飛は関羽が死んだ後、乱暴に扱っていた部下に眠っている所を暗殺されたという。

それを聞いて、張飛も流石に口をつぐんでいた。

張飛は昔から部下の兵士達に乱暴で。暴力を振るうのは当たり前だったし、その暴力を振るった兵士を無警戒に側に置いたりもしていた。

劉備から言っても治らなかった悪癖だが。

それでも、あの趙雲の武勇を見せられ。

その上で聞かされた言葉だ。

信じざるをえなかったのだろう。

諸葛亮は。ようやく口を開いた。

できれば後二十年以内に天下を統一して、この世界にもっとしっかりした法治体制を作りたいと言う。

見て来たが、諸葛亮は軍略も優れているが。最も優れているのは内政だ。

諸葛亮が本腰を入れて内政をすれば、中華は信じられないほど豊かになるだろう。

それに何より、外戚や宦官が好き勝手をしない、安定した体制を作り上げられる筈である。

劉備は、気合いを入れてこれからの戦いに臨まなければならない。

河北は降伏を拒否した。

ならば討ち果たすしかない。

河北を統一すれば、後は外交攻勢でどうにかなる。

そのための論客も揃えている。

その後は諸葛亮に負担が掛かるが。

まだ諸葛亮は二十代という若さが武器になる。

かならずどうにかなるはずだ。

進軍開始。

劉備が声を掛けると、軍勢が進み始める。

もはや瓦解しかけている河北だが、国そのものがとても豊かだ。力押しではとても時間が掛かるのは分かりきっている。

だからこそに。

劉備は、この戦いを一刻も早く終わらせ。

この戦乱の悲劇の時代に。

終止符を打たなければならなかった。

 

4、時代が変わり

 

趙雲が戻った土地は、どうやらまた中華のようだったが。また何かが違うようだった。

幸い言葉そのものは変わっていない。

平穏そうな空気の中で、趙雲を見て不思議そうにする民達。

近くに城が見える。

出向いて、話を聞いてみると。

どうやら、あの違う劉備殿のいる時代から、100年ほど後の時代らしかった。

今は劉氏の四代目が宰相として統一政権の統治を行っており。

勿論国号は漢。

献帝の子孫と劉備殿の子孫の間の子が三代目皇帝と成り。劉家は一つに戻って、後漢は再生したのだ。

趙雲ですら知っている。

後漢は末期には、酷い腐敗政治で誰もが苦しむ状態だった。

それが原因で黄巾の乱が引き起こされた。

当時の皇帝を霊帝というが。

この霊という諡は皇帝が死後に受けるものとしては最悪のものの一つで。

どういう目で見られていたのか、よく分かるというものである。

そういえば。此方に来てから思いだした。

どうしてあの世界では献帝と呼ばれていた。

帝は在位中はそのまま帝と呼ばれるはず。

或いはそれも。

何かの乱れが故なのかも知れない。

いずれにしても、此処にも長居はしないだろう。

多分だが、確信として趙雲はまたあの世界に戻る事になるだろうと思う。

そこで最後まで戦い抜くのだろう。

武人として、だ。

あの劉備殿も。

趙雲が仕え続けた劉備殿も。

違ってはいたが、天下を治めるのには相応しい存在だったと思う。

酒場で軽く酒を飲みながら思うのだ。

程なくして、兵士達がきた。

犯罪者を捕らえようという雰囲気ではない。

優れた武人がいるので、是非とも仕官してほしいという話だった。

趙雲は腰を上げる。

この平和な世を実現している場に、恐らく自分は不要の存在だろうけれども。

もとの世界に戻るまでの少しの間くらいなら。

仕官をするのはいいだろう。

劉備殿だけならともかく。

あの諸葛亮が徹底的にこの国の制度を整えたのであれば。

異民族が四方八方から侵入し。

国を陵辱し尽くし。

三百年にわたる地獄が到来するなどという事は起こらない筈だ。それは確信して良いと想う。

出仕すると、有能な士を探しだし、どんどん登用せよという但し書きが目に着いた。

そのまま州牧らしい人物に、武勇を見せて欲しいと言われたので。

裏庭で背の高い武人と手合わせをする。

一瞬でその武人を死なない程度に撃ち倒してみせると。

おおと、周囲から感嘆の声が上がった。

「凄まじい武勇だ!」

「あの関連どのを一瞬で……!」

話を聞いていくと、今の人物は関羽どのの子孫に当たる人物のようだ。

ふっと笑うと、手をさしのべる。

やはり来る世界を間違えてしまっている。

そして、此処に長居すべきでは無いだろう。

武官としての地位を貰ったので、治安維持のために周囲を見て回ることにする。こんな平穏な時代でも、悪さをするものはいる。

だが、趙雲の名は短時間で知れ渡り。

そして悪さをするものは怖れて出てこなくなった。

それでいい。

平穏を趙雲は謳歌する。

一瞬の平穏である事は分かっている。

それでも、こう言うときがあっても良いだろう。

趙雲は果てしない戦いを、何度も何度も繰り返してきた気がする。そしてその度に、劉備の負けを止められなかった気がするのだ。

徒労はたまりにたまり。

趙雲の苦悩はずっと続いていた。

だから、いいのだ。

たまには、こういう時間の中にいても。

空は青く。

人々の声は平穏を楽しむものに満ちている。

政治が上手く行っているのだろう。

平和がどれだけ続くのかは分からない。

漢だって、王莽が簒奪した頃には、内部が腐りきっていた。この劉備殿と諸葛亮殿が整えた王朝だって、百年以上も経てば腐敗が始まってもおかしくない。

それでも今は平穏を謳歌出来ていると言う事だ。

それならば、それだけで充分である。

趙雲は、久しぶりにあくびをしているのに気付く。

そのまま眠る事にした。

或いは、眠っている間に、もとの世界に戻ってしまっているかも知れないが。

それはそれでいい。

今見たのは泡沫の夢。

それで充分過ぎるほどなのだから。

今後も戦鬼として槍を振るわなければならないだろう趙雲にとっては。

滅多にない、穏やかな時間だった。

 

(終)