星は輝く

 

序、国が消える日

 

今日が、この国最後の日だ。アールズはアーランドに併合され。以降はアーランド国アールズ州となる。

メルルは起き出すと、正装に着替える。

普段の錬金術師の正装では無い。

式服だ。

更に言えば。

恐らく、民衆の前に顔をさらすのは、これが最後になるだろう。どういうわけか、仮面をくれたジオ王と。

これから、調印式を民衆の前で行うのである。

城の屋上から見渡すと。

この国の民が集まってきている。数百人程度しかいない民は。身動きできないもの以外、全てがここに来ていた。

難民は、代表者だけ。

リス族、兎族。それに手伝いできてくれている悪魔族も、代表者がいる。流石にリザードマン族だけは、表だっては招く事が出来なかった。心苦しい話だ。

その代わり、悪魔族による幻影の術で姿を誤魔化して、族長には来て貰っている。

メルルの後ろには、近衛として、正装した仲間達。ケイナやライアスは意外になれた様子なのだけれど。

ザガルトスさんは急あしらえの正装で、窮屈そうだ。

戦闘ではいつもいぶし銀の活躍を見せてくれたザガルトスさんだけれど、こういう所では不慣れな様子なので、少し面白い。

車いすに乗った父上が来て。

民に手を振る。

わっと声が上がった。

ジオ王も、同じように手を振る。

民の中には。

大きな傷が癒えていない兵士の姿も目立った。彼らも皆、メルルの民である。今後もそれに代わりは無い。

調印式が、厳かに始まった。

まずは調印の内容から、ルーフェスが一字一句間違わず読み上げていく。

メルルも内容を覚えているから、読まれる端からチェック。問題ない。そもそも、アーランドの州になることには、多くのメリットがあるのだ。国民もそれを納得している。

それに何より。

本当に大変なのは此処からだ。

一なる五人との決戦で、多くの戦士がまた鬼籍に入り。

これから、立て直しの時代が始まる。

モンスターの脅威は世界から消えたわけでは無い。

難民達の中には、祖国に戻りたがる者も多いだろう。

人手は足りていない。

エメスはこれからも生産必須。

忠実な彼らは、アールズの礎石になる。

ホムンクルス達は、更に需要が高い。各国で必要とされる。今後は、メルルも技術を習って、この地で生産することも視野に入れていた。

それに、スピアの軍は、セトが率いて健在。彼らとの交渉も、これからやっていかなければならない。

やる事は、それこそ。

山積みなのだ。

調印の内容を読み終えると。

父上が、印鑑を取り出す。

ジオ王も。

そして、公式文書に押印。

拍手がわき上がった。

後は、厳粛な雰囲気も此処まで。肉と酒が振る舞われる。何しろ、めでたい日であるし。誰もが知っている。これからが本当に大変なのだと。

だからこそ、今日くらいは。

みんなで楽しめば良いのだ。

メルルも手を振って拍手を受けていたが。それも、肉と酒が振る舞われはじめるまでである。

聴衆の中には、見知った人が多いけれど。来てくれなかった人もいる。

例えばエスティさんはいない。

彼女はアーランドの負の仕事を請け負う存在だ。もう、様々な仕事を、処理に掛かっているのだろう。

ステルクさんは、いる。女の人達に囲まれて、困り果てた顔をしている。

ギゼラさんもいない。

話によると、西大陸にまた戻ったとか。彼方の状況が落ち着いたら、本格的に戻るつもりなのだろう。

ロロナちゃんは。

いる。

いや、もうロロナさんと言うべきだろう。隅のほうで静かにしている。側についているのは。

そうか、そういうことか。

ホムくんとホムさん。

トトリ先生が、此方に気付いて、軽く手を振ってくれた。何とか先生は、元に戻ってくれたのだ。色々とあったけれど、トトリ先生は心に後遺症こそのこせど、結局味方の首を狩ることはなかった。それが、致命的な事にならなかった最大の要因だろう。

ロロナさんは、本当にこれからが正念場だけれど。

きっと、どうにかなると信じたい。

ロロナちゃんの精神世界に潜ったとき。神としての存在と。ヒトとしてのロロナさんは、確かに分離した。

だから、きっと大丈夫だ。

クーデリアさんが来る。

一礼すると、軽く話をした。

「アールズは田舎から、大陸の難民問題の中枢になったけれど。 今後もしっかり頼むわね」

「有難うございます。 ご指導ご鞭撻のほどお願いします」

「ふふ、元王族にそう言われるのも不思議ね」

一緒に、城の中を歩く。

ごく短い時間だけ。

このお城は、これから政庁になる。ただ、管理はアールズ王家がしていくし。今後はメルルの第二の家になる。

要はあまり変わる事はない。

無能だったり、暴虐だったりする王家は、アーランドの州に組み込まれたときに淘汰されたりする事もあるらしいのだけれど。

此処ではそれもない。

メルルが握っているものは、それだけ大きいのだ。

会釈して別れると、自室に。

ケイナに手伝って貰って、動きやすい錬金術師の正装に変える。

それにしても。やはり、もう服は煩わしいものでしかない。自分が、ヒトの形をした別の存在だと、メルルは服を着替える度に実感できるのだった。

外に出ると、会食が始まっている。

メルルは、もう普通の食事は必要ない。

食事の概念が、人間と違ってしまっているのだ。食べる事は出来るが。それだけ。栄養にもならない。

ちなみに、味もしない。

臭いは分かるが、それは楽しむためのものではなく。ただの情報として、だ。

代償があったのは当然だ。

あれだけの難敵を相手に戦ったのだ。

それなのに、五体満足でいられる筈もない。

メルルはあの時死んで。

今此処にいるのは、メルルの形をした肉。そして、その肉に、魂が取り憑いている。そういう状況だ。

生理反応もない。

子供を造る事なんて、もってのほかだ。

何処かから養子を取るしか無いだろう。

会食の場にメルルが姿を見せると。

何人かの戦士が、笑みを浮かべて近寄ってきた。

一なる五人の切り札を葬った。

そう聞かされているのだろう。

メルルも笑顔で応じる。

ただし、昔のものとは違い。今のは、笑顔を形作っているだけ。感情に関しては、あるにはあるが。

何しろ体の状態が、人間とは言い難いのだ。

感情と肉体が直結することはないし。

意図的にそうしようと操作しないと、笑顔を作ることも出来はしないのである。

「なるほど、そのようなおぞましい生物が……」

話ながら、隣国の騎士団長は、ヴェルス山を見る。

高度が半分程度に縮んでしまっているあの山は。フラクタル氷爆弾の影響が切れた後、当たり前のように崩落した。

クーデリアさんの手で、負傷者が運び出されていたため、それによる死者はなし。

ただし、当然のことだが。

一なる五人との戦いで、大きな損害が出た。だから、それはあくまで、不幸中の幸いでしかなかった。

「ldfadoagdoghdfp」

耳に入ってくる雑音。

少し違う。

痛覚などはなくなったが。聴覚や嗅覚はむしろ上がっている。視覚に到っては、今まで見えなかった色まで見えるほどだ。故に、会場の音はまざりあって、直接全てを把握できる。

一方で、脳が動いているかというと、よく分からない。

もう、脳が動くという概念が。

そもそも、他の人間と違っている可能性も高かった。

国王クラスの要人もいるので、歓談につきあう。

メルルの美貌を褒める者もいたけれど。

笑顔で応じるだけ。

何の感慨もなかった。

メルルは元々、既に成人していた。容姿は普通。錬金術師を始めた頃から際だった美少女ではなかったし。成人しても、美しいと言われた事はなかった。

ただ、見苦しくない程度の容姿にはなった。

それだけ。

そして今後は、仮面をつけて、顔も隠す。

周囲にとって、顔などそれこそどうでも良い事になるのだから。

「メルル、そろそろ」

「ん」

ケイナに促されて、適当にその場を離れる。

大体の要人との話はした。

アールズの古株の戦士をねぎらい。老人達との会話に応じていく。民は皆不安を抱えている。

メルルが人間ではなくなったという事も知っている。

だからこうやって、不安を解消していく。

少なくとも、王族として。

民の先導を行うものとしては。

問題が無い事を示して行く。

傲慢にはならない。

そう見せる事で、安心させるのだ。

会食が終わったのは、夜。後はメイド達の仕事。食事の片付けと、掃除が行われる。メルルが手を叩くと。

作ったばかりのエメス達二十機が、それに加わる。

彼らも、メルルがヒトを止めてからは、著しい性能の向上が見られる。ホムンクルス達と同じ仕組みを取り入れているから、ヒトを傷つける事もない。メイド達に劣らぬ手際で、エメス達がてきぱきと片付けを行っていく。

「仕事ぶりを近くで見るの初めてですけれど、みんな良く動きますね」

「私の可愛い子供達ですからね」

「……」

メルルがそう言うと。

セダンさんは、相変わらず形容しがたい表情をした。メイド達も、エメスを不気味がっているのが分かる。

だけれども、エメス達は不満を口にしない。

そればかりか、メイド達の手間も減らして。

あっというまに会場を綺麗にし終えた。

この子達の五機は、このままお城に。この間の一なる五人戦でも戦死者が出たし、その補填人員だ。

残りは、各地に廻す。

難民達の問題が一段落したら、輸出をすることも視野に入れている。実際問題、エメス達は研磨され能力を高め。

今では、相当に柔軟な仕事も出来るようになってきているのだ。

側に降り立ったのは、ダークエレメント。

白衣を着込んでいる。

これは、性別がないとわかりきっていても。全裸で過ごすのは問題が多いと、判断されたから、らしい。

相変わらずアニーちゃんの顔で。アニーちゃんの声。

それには、どうしても慣れそうになかった。

「不審者は見当たりませんでした。 警備については問題ないでしょう」

「アーランドの要人の皆さんは」

「順々にお帰り為されています」

「そう」

あのトラベルゲートを用いたり、または馬車を使ったり。時には、走ったり。いずれにしても、スピアの主力部隊も。一なる五人もいなくなった今。

純粋戦士が、アールズに留まる理由はない。

トトリ先生とロロナさんも、その内に引き揚げて行くだろう。

ただ、此処は難民問題における中枢。

先生達がもう二度と来ないという事はない。ましてや、二人ともアーランドの要人だ。州の一つになったアールズには。仕事という点でも、何度も足を運んでくれることだろう。

片付けが終わると、既に夜中。

メイド達は順番に帰らせる。

メルルは、アトリエに戻ると。早めに休む事にした。ケイナがパイを焼こうかと提案してきたけれど、首を横に振る。

「無駄な資材を使わないで。 私はもう、食べなくても大丈夫だから」

「メルル、ヒトは食事をするものです。 あまり、効率ばかりを重視しないでください」

「確かにそうだけれど、会食の時も色々口に入れたでしょ。 これ以上、貴重な材料を無駄には出来ないよ」

「……」

ケイナはしばらく前から、目に光彩が無くなっている。

メルルがヒトでなくなったことを、未だに受け入れられていないのだ。時々泣いている事も知っている。

そしてメルルを、命に掛けても守ろうとしていることも。

だけれど、ケイナにはケイナの人生がある。

メルルのために使ってしまっては、本末転倒でもある。

それに。

もうメルルの戦闘力は、国家軍事力級戦士並み。更に言うと。普通に人間がされたら死ぬような事をされても。

死なない。

だから、護衛は必要ないのだ。

ただ、ケイナの気持ちは有り難く受け取らなければならないし。何より、ケイナが悲しむのは不愉快だ。

だから、ある程度、いつも要望には応えるようにはしている。

「分かった。 それなら明日の朝はお願い出来るかな」

「はい……」

ケイナは肩を落とした様子で、自室に戻っていく。

メルルは、アトリエの外に出ると。ひょいと屋根に上がった。もうひと跳びで、余裕で上がる事が出来る。

空には無数の星。

あれを、ケイナと二人、身を寄せ合って見た事もあったか。

今では、あれらの星が、熱の塊だと言う事を理解できているから。感性に触れることもない。

メルルはヒトを止めたとき。

色々と失ったのだ。

手にしている、戦槍杖を見る。

また、ハゲルさんに打ち直して貰ったコレで、敵を殺したい。

そう、メルルは。

ぼんやり、星空を見ながら思った。

 

1、当代の旅の人

 

ケイナがアトリエにお邪魔すると。パイを焼く香ばしい、とても良い匂いがした。今は、普通の状態だろうか。

そう思ったけれど。

残念ながら違った。

まったく表情の無いロロナさんが、無言のまま動き回っている。

ちなみに、神様が出て行ってから、急激に背が伸びている。元々小柄な人だったそうで、元以上に背は伸びないだろうと言われているけれど。

この様子だと、二年か三年以内には、元の姿に戻るのでは無いかと、言われているようだった。

ただし、これは体が成長しているのではなく。特殊なお薬を摂取して、体を戻しているから、らしい。

薬の製造についてはメルルも関わっているそうだけれど。詳細は教えて貰えなかった。

ロロナさんの無表情な目が、ケイナを見つめる。

「ソファにすわっておまちください」

「はい」

機械的な声。

感情は、微塵もない。

ロロナさんは、神様が体から出ていって、こうなった。

一日に、人格が出てくるのは一刻ほど。それ以外は、ずっとこういう状態で働いている。話によると、戦闘もこなせるらしい。戦闘能力は、前ほどの異常な火力を展開は出来ないけれど。少なくとも、国家軍事力級戦士の名にふさわしい実力は、今でも十二分に維持しているようだ。

クーデリアさんとの名高い連携も、問題なくこなすとかで。

一日に一刻しか人格が出てこないことを除けば。

ロロナさんは、元に戻りつつある、ということだ。

しかし、体が元に戻りつつあっても。精神が表に出てこられる時間は、ごくごく短い。それは、まったく変化が無い。

曖昧な状態。

この状況は、そう呼ばれている。

ちなみに、以前タチが悪いのが、この状態のロロナさんに絡もうとしたところ。いきなり投げ飛ばされて、半殺しにされたらしい。

戦闘力は衰えていないし。

単に感情が表に出てこないだけなのかも知れない。

「どうぞ。 おたべください」

「有難うございます」

パイを受け取ると、いそいそとバスケットに詰める。

本当に美味しいパイを作る人なのだ。だから、メルルにも持って帰ってあげたいのである。

ちなみに、本当の仕事の方も果たす。

向かい合って座ったロロナさんに、提示するのはスクロール。メルルが作った公文書である。

目を通すと。

ロロナさんは、頷いた。

「ないようをりかいしました」

「お願いいたします」

「はい。 予定通りに、作業をじっしいたします」

頭をぺこりと下げると。釜に向かって、作業を行い始めるロロナさん。あんなに快活で笑っていたのに。

今では、人形が歩き回っているかのようだ。

でも、快活でも。殺戮を本当に楽しんでいたようでもあったのだし。

これで良いのかも知れない。

ホムくんとホムさんが、ロロナさんのお手伝いをしているのが見える。最初にホムさんが作られて。ずっとロロナさんのお手伝いをしていたという話だ。そう考えると、二人にとっての古巣は此処。

ずっと側にいたいとも、思っているのだろう。

それならば、むしろ同情するのは失礼なのかも知れない。

ロロナさんは、時間さえ経てば元に戻る体と。

一刻だけとはいえ、外に出てくる心を、きちんと取り戻したのだから。今は、不幸せとは言えないだろう。

アトリエを出る。

此処は、アーランドだ。

そのまま、指定されている家屋へ。アールズ行きのトラベルゲートがあって、一日二回だけ、使用が許されている。これは人数に関係無く二回なので。アールズからアーランドに出向く場合は、面倒な書類の手続きをこなさなければならない。

今回は、ロロナさんに、緑化作業であるお薬を作ってもらう必要が生じたので、わざわざケイナが足を運んだ。

メルルは丁度ライアスと2111さんと三人で、アールズ北東部の耕作地に出向いている。

また彼処の難民達が問題を起こしたのだとか。

だけれども、今のメルルが行くなら、何の問題も起きないだろう。

問題が起きるとしたら、やり過ぎる事だが。

2111さんがついているのだ。

ライアスだけなら少し不安だけれど、きっと大丈夫だろう。

家屋に着くと、強面の戦士が、書類を要求してきた。書類を見せると、最初に渡してきた半券もそれに添える。

しばし書類をチェックしていた戦士。

魔術を使って、念入りに本物かどうか、確認している様子だ。

アーランドでは、戦士が魔術を使いこなすことは珍しくない。この四角い、髭だらけの大男も、それは同じだ。

半券も良く出来ている。

アストリッドさんが作ったものらしいのだけれど。

もう片方の半券とあわせると、偽物かどうかすぐに分かる優れものらしい。しかも暗号が組み込まれているとかで、生半可な魔術での解析は不可能だとか。

勿論、人間が作ったものだ。

人間が突破することも不可能では無いだろう。

いずれその時が来るとしても。

アーランドでは、ピアニャさんを一として、優秀な次世代の錬金術師の育成にも力を入れている。

きっと、大丈夫な筈だ。

「よし、通って良いぞ」

「有難うございます」

家屋の中に入って。其処にぽつんとある扉を通ると。

其処はもうアールズ。

アールズの、寂れた家屋の中。

外では、ホムンクルスの一人が、見張りをしてくれていた。書類を見せて、通る。彼は、元スピアのホムンクルスだった者。

今まで、アーランドでだけ受け入れていた、スピアからの降伏ホムンクルスだが。最近では、実験的にアールズでも受け入れるようになっている。もっとも、これは。アールズが、アーランドの州の一つだから、なのだが。

書類作業を手早く行う。

大柄な男性の姿をしているホムンクルスは、大きな体に、いつもフードを被っている。これは、頭の後ろに、もう一つ顔があるからだ。

邪悪の所行を重ねた一なる五人が、きっと面白半分にそうしたのだろう。

そして更におぞましい事に。

彼は、人間の心を持ったまま。

だからいつも彼は。

後頭部の顔を、フードで隠している。

いたましいことだが。

知っているのは、ケイナとメルル。それに後は数人だけだ。

彼のような、スピアから降伏してきたホムンクルスは、他にも何人かアールズにいるが。皆無口で、心に大きな傷を負っている。

アーランドの、既に周囲に受け入れられ、社会でも大きな役割を果たしているホムンクルス達と違っている事に、コンプレックスも抱えている。

だから、ケイナは。

積極的に話しかけるようにしていた。

悲劇を、これ以上増やしたくは無いのだから。

「いつもお仕事お疲れ様です。 此方、どうぞ」

「すまない。 俺に声を掛けてくれるのは、あんたくらいだよ」

「ううん、いずれ皆、声を掛けてくれるようになりますよ」

「そうだと良いのだが」

そう言って、アーランドに行った時、買っておいた蜂蜜のお菓子を渡す。嬉しそうにそれを受け取ってくれたので、ケイナも少し心が安らいだ。

ただ、ケイナがこの異形のホムンクルスを受け入れられているのは。

メルルの悲劇を側で見ているから、だろうというのもある。

そうでなければ、頭が二つあると言うこの男を、受け入れられていたかどうか。かなり怪しいところだ。

アトリエに戻る。

メルルは、もう戻ってきていた。

伝令として、他の国に行ってくれていた、2319さんもいる。

メルルは素早く書類を見ながら、処理をしていた。もう面倒だと考えたのか、最近はルーフェスがアトリエに来て、作業の補助をすることも多い。今日も案の定、来ていた。

「それでは、私は書類の作成と、各国への返送を行っておきます」

「よろしくね。 ケイナも書類見せて」

「此方になります。 それとお土産です」

「ふむ」

ルーフェスは、甘いお菓子が大好きだ。

この州の顔役としてメルルが。その補佐としてルーフェスがと言う態勢は変わっていないけれど。

最近、アーランドから役人が十人ほど来て、ルーフェスの負担が減ったからだろう。

甘いお菓子が好きという、新しい一面を見せてくれるようになってくれた。

それは余裕の現れ。

今までは凶悪すぎる圧力が前線にあった事もあり。そんな人間らしい姿を見せてくれる暇など、無かったのだろう。

「さすがはアーランドの菓子。 中々に美味だな」

「他にも買ってきてありますよ」

「次に行った時も、是非頼む」

「はい」

少しだけ、心安らぐやりとり。

しかし、ルーフェスがアトリエを出て行くと。

空気は再び変わる。

ライアスが、咳払いした。

「あの荒くれ共、見張りが減ったのを良い事に、また悪さしようとしてやがった。 メルルが姿見せた途端に、ぶるぶる震えながら土下座しやがったがな」

「今度は何を」

「中毒性の強い快楽薬物を持ち込もうとしてやがったんだよ」

「!」

そうか。

それは、なんとしても阻止しなければならないだろう。

戦争が終わって。

難民の帰還作戦が始まった。

各国で緊密な連携を取ることが必要になり。

多くの人が。アールズに出入りするようになった。

難民達がいる耕作地にも、顔を出すようになった者もいる。その中には、いるのだ。今アールズ北東部にいる難民達と同じような、心が性根から腐った輩が。

薬物の摘発も、今回が初めてでは無い。

兎に角、初動を抑えられて良かった。

「すぐに吐かせて、問題の商人は抑えたがな。 俺だけじゃああはいかねえ。 2111さん、ありがとう。 いつも助かるぜ」

「いいえ。 それよりライアスさんは、もう少し肉をつけてはどうでしょう。 少し細すぎて、侮られる要因になるのでは。 もしくは、彼らの目の前で、戦って見るのもいいかもしれません」

「そうだな……」

ライアスは、2111さんを、素直に認めている。

ずっとメルルの参謀として活躍していた所を、見てきたからだろう。だからだろうか、少し毒舌でも、言われる事には素直に従うのだった。

幼なじみだと、距離が近すぎるから、だろうか。

ライアスは、ケイナの言う事は、あまり聞いてくれない。

その代わり、好き勝手な事を、対等の立場で言い合える。

どちらが良いのかは、正直ケイナには分からないけれど。

はっきりしているのは。

此処にいる面子が中心になって、メルルを守って行かなければならない、という事だけである。

「ロロナさんは流石だなあ。 曖昧な状態でも、まったく変わらない精度で調合が出来るなんて、羨ましい」

「メルル、今日のお仕事は、まだ幾つか残っているのでは」

「大丈夫、これから片付けるから」

腰を上げるメルル。

ケイナは頷くと。

ボードを見て。これからこなさなければならない仕事を把握。2111さんを誘って、一緒にアトリエを出た。

 

パメラさんのお店に出向くと。

其処には、もうパメラさんもいない。

戦争が終わったのだ。

アーランドとしても、一線級の人材を、いつまでも此処に貼り付けておく訳にはいかないのだろう。

経済的にも、人員的にも。

今回の戦いでは、計り知れない被害が出た。

西大陸では、野生化したスピアのモンスターとの戦いがまだ散発的に続いていて。現地の戦力では対応が難しいとかで。ギゼラさんは張り付きっぱなし。

アーランド本国も、経済的な打撃も人員的な打撃も無視できず。

他にもハゲルさんや、フィリーさんは、既に帰国している。

ただし、皆、それぞれ後継の人員を残してくれていた。

パメラさんのお店には、セダンさんがいる。

彼女がどうして此処にいるかというと。

子供が好きだと広言していたこと。

それに、国に戻っても、両親と、何より兄と衝突する事が目に見えていること。

今回の戦いで、武勲を挙げすぎたのだ。

もし国に帰れば、兄の家督相続権が、自分に移る可能性がある。そうなれば、家族は分裂。しっちゃかめっちゃかだろう。

なんだかんだで、家族のことを良く想っていなかったらしいセダンさんだけれど。

逆にそれが故に。

今になってみると、その家族が傷つくことは、漠然と嫌だと思えるようになったらしいのだった。

ちむちゃん達も、三分の一くらいは残ってくれている。

だから、此処は。

機能をまだまだ残しているのだ。

「おはようございます、ケイナ」

「セダンさん、少し寝癖がついていますよ」

「あっと、ごめんなさい」

慌てて櫛を入れるセダンさん。

この人は、奇襲特化型の戦士としての性質が強すぎる。奇襲に関しては天下一だけれど。それ以外は本当にぶきっちょだ。

注文書を渡す。

四苦八苦しながら、作業をして。ちむちゃん達に指示を出すセダンさん。

彼女もまた。

ケイナと同じ。メルルの近衛。

メルルを守るためなら、何でもする。

そういう存在だ。

メルルは、恐らく人のままのケイナを、そのままでいて欲しいと願っているはずなのだけれど。

ケイナは、メルルが人ではなくなってしまった以上。

周囲から、守らなければならないと思っている。

人生は、もうどうでも良い。

メルルは王族になった時、既に先導する者としての覚悟を決めた。そして、その生き方を、貫くと誓った。

ケイナに取って、メルルは一番大事な人だ。

それならば。

大事な人を支えるのは、その人生。

何もおかしな事は無い。

セダンさんも、この国に来て、色々と変わる事が出来たと言っている。メルル姫の、王族としての覚悟についても、色々思うところがあったのだろう。

だから今は。

同志として、活動できているのだ。

ちむちゃん達が持ってきたものを受け取る。どれもエメスの部品だ。

新しく配属されてくるホムンクルスが当分先だと言う事を考えると。しばらくは、エメスで失った分の人手を補わなければならない。

今は、どの国も人手が足りない。

更に、北部列強から逃れてきた難民は、帰還運動を始めている。実験的に国境線近くにあった国には、難民が戻り始めているが。

文字通り、何もかもを。

綺麗さっぱり片付けられている状況だ。

これから一からやらなければならない。

支援も必要になる。その支援を誰がするかというと。やはり人間なのだ。特にデリケートな仕事になると、どうしても人間がいる。つまり、彼方此方から、人材を裂かなければならない。

そうなると、穴埋めが出来るホムンクルスやエメスは、ますます必要になってくる。

そして、ケイナも聞かされている。

ロロナさんから出て行った、神の話を。

世界を監視する存在。

もう一度の破滅に、世界は耐えられない。

世界を復興せよ。

そう神は言っていたという。

つまり、これから、更に荒野の緑化が必要になってくる。丸坊主にされている大陸の北半分は、これから本当に大変な時代になるだろう。

何もかもが無くなったのだ。

彼らの恨みも哀しみも、ケイナには分かる。

そして、だからこそ。

何が起きても不思議では無いと考えて、動いていかなければならないだろう。

「予定数が揃っていますね。 有難うございます」

「どういたしまして。 あ、ごめんね。 パイ用意するから」

不満そうな様子のちむちゃん達。

恐らくパメラさんほど、セダンさんは気が利かないのだろう。コレばかりは、新人店主だから仕方が無い。

後、幾つか話を共有しておく。

ザガルトスさんは、主にモンスター狩りの部隊に混じって、街道の守備をしてくれている。

そのザガルトスさんから。

難民がまたモンスターに襲われるケースが増えてきていることが、情報として上がって来ていると告げると。

セダンさんは。手が欲しいときは、遠慮無く呼んで欲しいと言ってくれた。

否、メルルの今の状態を悲しんでいるのは同じだ。

だからこそ。

少しずつでも。

負担を減らしあっていかなければならない。

 

再び、お使いでアーランドに出る。

クーデリアさんに会った後、ロロナさんの所に向かうのだけれど。今日は、当たりだった。

一目で分かる。

今日は、曖昧な状態ではない。

「あ、ケイナちゃん。 おはよう」

「おはようございます」

「はい、これ。 お薬出来ているよ」

バスケットを渡される。

ずっしりと重い。

危険なお薬だから、気を付けるようにと言われて、頷く。この人。当代の旅の人に依頼をするくらいだ。

本当に高度な錬金術の産物だと言う事は。ケイナにも分かる。

ロロナさんは曖昧な状態でなければ、いつもにこにこ嬉しそう。

ケイナのことも覚えているし。

アールズにいたときのことも、覚えてくれているようだった。

「今日はごめんね、用事が入っているから、ちょっと忙しくて」

「いいえ。 すぐに失礼いたします」

「また遊びに来て。 今度はもっと美味しいパイを焼いておくから」

不思議だ。

あの状態でも、ロロナさんは記憶が連続している。心が二つに引き裂かれるというのは、どういう事なのだろう。

分かっているのは、生半可な事では治りはしないという事だ。

外に出ると。

ばったり出くわしたのは、クーデリアさん。

戦士としての装束に身を包んで、武装している。

なるほど、用事というのは。これか。

「用事は終わったのかしら?」

「はい。 これから帰ります。 それと、今ロロナさん、曖昧な状態ではありませんよ」

「そうね。 気配で分かるわ」

苦笑いするクーデリアさん。

一礼だけすると、その場を離れる。

アトリエを出てきたロロナさんと、本当に嬉しそうに話しているクーデリアさん。二人は比翼の友だと広言してはばからないそうだけれど。

その友を取り戻したのだ。

クーデリアさんは、前は何処か陰鬱なところがあったけれど。今は少し明るさも、取り戻しているようだった。

 

2、怒りの終わり

 

ダークエレメントは、自分の事がよく分からない。

死んだ人間ですら無いものから、悪魔族に作り替えられたという事だけは分かっている。前の名前はアニー。

記憶の一部も、無理矢理埋め込まれたけれど。

いつも生意気なことばかり言って。

大好きな人にさえ素直になれなくて。

何だか、回りから嫌われそうな子だなと思った。

でも、それも分かるのだ。

大人になれないことは確定していた。鉱山地下の邪神に、世界に人が再び出られるように、病気を解析するための存在として作られて。そのために生きてきた。

後継者であるリーナという子にもあったけれど。

あの子も、しょっちゅう熱を出しているようで。

やはり、大人になるのは難しいかも知れない。

今、ダークエレメントは。

アールズ北部水源の勢力との繋ぎとして。アールズ王都に常駐している。メルル姫は、いつもダークエレメントを見ると、少し距離を置く。皆悲しそうに見る。その中で、シェリさんだけは。

普通に、少しぶっきらぼうに。昔通りに接してくれるのだった。

そのシェリさんが来る。

人前だから、シェリさんも服を着ている。

ダークエレメントにしても、体温調節くらい魔術で出来るし、性別も無いのだから、服なんていらないと思うのだけれど。

これが人とやっていくのには必要だと言われて。

仕方なく、体を改造したディアエレメントさんから貰った白衣を着て、過ごすようにしているのだった。

此処は。アールズ王都の片隅。

訓練場。

今日のダークエレメントは、若い世代の戦士達に、魔術の手ほどきをしていた。皆、アールズの明日を担う人材ばかり。

中には、難民の子もいる。

アールズの民として、自然と闘いながら生きていきたい。そう決断した子だ。そして幼い内からなら。

この過酷な世界でも、適応できる。

「ダークエレメント、少し良いか」

「はい。 何でしょう」

授業も丁度終わった所だ。

訓練所の外に出ると。シェリさんは咳払いした。

「すまないが、少しばかり大陸西部に向かって欲しい。 アストリッドに頼む物資があるのだ」

「私が行く必要性が分かりませんが」

「情けない話だが、今はお前しか手が空いていなくてな」

この姿になってから。

多分、スペックは跳ね上がっている。

強力な魔力。

処理能力の高い頭脳。

いずれも、一線級の人材と呼ばれるに相応しくなっている。

ディアエレメントさんは、辛くなったら水源に戻ってこいと言ってくれてるけれど。今は、その気は無い。

シェリさんの側にいたい。何となくなのだけれど。

そしてシェリさんがメルル姫のために、何でもしたいと言っているのをみると。

例え今は嫌われても。

いずれはメルル姫と、一緒に過ごしていく方法を考えたいと思うのだ。

「分かりました。 トラベルゲートは」

「悪い事に、今丁度使われている」

「それならば、空を飛んで行ってきます」

「頼むぞ」

頷くと、旅装に切り替える。とはいっても、あくまで「装」だ。魔術によって、冷気への耐性を高める。風を防ぐ仕組みを作る。こうすることで、大事な書類を傷めないようにするのだ。

そして、少し前にケイナさんから貰った鞄に、スクロールを入れる。

シェリさんから、念入りに内容を聞く。

何しろこれから会いに行くのは、筋金入りのくせ者だ。

一なる五人が滅びた後は。

世界最悪の危険人物とさえ言われている存在なのである。

「先生、いってらっしゃい」

子供達が手を振っている。

先生、か。

この子達と、肉体年齢は実のところあまり変わらない。悪魔族になった時、成人女性並みに肉体を変化させられた結果。子供達から見ると、大人のように見えるらしい。それに従って、精神もかなり変わったのだろう。

少なくとも私はアニーじゃ無い。

だけれども、アニーの中にあった感情の一部は。

私の中にもある。

ダークエレメントは、それを自覚していた。

ふわりと浮き上がると、高度を一気に上げる。山よりも高くなってくると、空気が薄く、一気に温度が下がってくる。

此処からは、方角を確認して、一直線だ。

速度を上げる。

途中、街が幾つか見えた。空を駆ける一筋の光に、ダークエレメントが見えるだろう。

ふと、気付く。

前から同じような人影が飛んできて、一瞬すれ違った。

凄い魔力の持ち主だ。

彼方此方を転戦していたらしい、悪魔族の王かも知れない。だとしても、ダークエレメントには関係がない話だが。

数刻ほど飛び続け。

海が見えてきた。

アールズから戦が無くなってから。

能力を生かして、彼方此方を飛び回るようになった。

その過程で海も見た。

今回が初めてでは無い。海に突き当たると、北上。しばらくは荒野と、希に森があるけれど。

ほどなく港が見えてくる。

アーランドが誇る鋼鉄の船、ホープ号と。何隻かの小型バージョンが停泊していた。それに、辺境諸国の艦隊も。

続々と、西大陸から引き揚げてきているのだ。

過剰な武力だなと思うけれど。

北部列強が体勢を立て直したらどうなるか考えると。

あながち、そうでも無いのかも知れない。

何しろ難民の数が凄まじい。

彼らが国に戻り、復興に全力を挙げたら、数世代の後には、たちまちに脅威になるのだから。

高度を落として、着地。

門の外に降りたのは、手続きをきちんとすませるためだ。

これでも、一応は役人なのである。

ダークエレメントが空から降りてきたこと。翼を持っている事。つまり悪魔族かホムンクルスである事を見て取った門番達は一瞬だけ緊張したようだが。

アールズの公式文書を見せると、流石に態度を変えた。

今回の大戦で。

アールズがどれだけの働きを見せたかは。

どの辺境諸国も知っているし。

難民関連の対応に関して、エキスパートになっている事も、また然り。

それを考えると、アールズに不遜な態度など取れない。

更に言うと、難民の中には、アールズに残る事を決めている民も少なくない。それも万単位でいる。

様々な要素を考えると。

もはやアールズは、知らないものがいない国家にまで成長している。

昔の辺鄙な田舎ではないのだ。

「一人案内せよ」

「ははっ」

隊長らしき髭まみれの男が指示すると。若い兵士が敬礼した。敬礼の方式は場所によって違うが、ここのは手をすっと伸ばすやり方だ。

港に入ると。

負傷の跡が残る戦士の姿が目立った。医療施設にも列が出来ている。

西大陸は地獄だったと聞いているが。

ようやく戦況が落ち着いたから、彼らが戻ってくる事が出来たのだろう。人間だけでは無く、悪魔族やペンギン族の姿も目立った。

ホムンクルスは、医療施設に向かう列の中にいない。

まあこれは、アストリッドが設備を持ってきているからなのだろう。其処で治療している、ということだ。

政庁に出向く。

かなり立派なお城だ。

此処も、少し前に、アーランドの州になった。このお城もアーランドの政庁である。王族は引退。今では、たたき上げの、壮年の役人が、此処を取り仕切っている。有能な人物らしく、不満は上がっていない様子だ。

手続きを済ませてから、アストリッドのアトリエに。

やはり地下主体に作っているらしく。

広い土地の中に。

ぽつんと建物が作られているだけだった。

案内はここまでで良い。

兵士を帰らせると、アトリエに入る。

アトリエの主は。

既にダークエレメントに気付いているようだった。

「おじゃまします」

「勝手に入れ」

「アストリッド!」

「師匠、そうがみがみ言うな」

困り果てた様子の声。

咳払いすると、戸を開けて中に。いきなり階段になっている。そして、地下へ地下へと降りている。

階段を下りきると、其処は薄暗い世界。

無数の硝子瓶が並び。

中には、治療途中のホムンクルス達が浮かんでいた。ひどい傷の者も目立つ。手足の再生手術も行われているようだった。

2999さんと、アストリッドが来る。

敬礼をすると、スクロールを手渡して、用件を告げる。

露骨に面倒くさそうな顔をしたアストリッドだが。

2999さんに文句を言われると、逆らえない。

「ほら。 早くお仕事に掛かりなさい」

「分かった分かった。 ダークエレメントとやら、すぐに仕事は終わるから、その辺に座っていろ」

「はい」

言われたまま、妙に綺麗になっている一角に、2999さんに案内される。

ソファがあったので、腰を下ろした。

2999さんか。

アストリッドは今でも、この大陸随一の危険人物として認識されている。だからこそに、その立場を悪くしないように奔走しているのだ。

それが分かっているから。

うるさがっていても。師匠の言う事には逆らわないのだろう。

何より、アストリッドは。

あれだけ困った様子であっても。

嫌そうではなかった。

一刻も待たない内に。

必要量のお薬を揃えたアストリッドが来る。頭を掻きながら。体をいじくって若々しくなっているアストリッドは言う。

「メルル姫は息災か」

「息災と言えば息災です」

「ふん……」

分かっているだろうに。

だから曖昧に返すし。

アストリッドも、意味深に笑うのだった。

用事は済んだ。

2999さんにお小言を言われているアストリッドを横目に、アトリエを出る。あの様子では、大丈夫だろう。

外に出ると、巨大な鉄の人型が歩いていて、資材を運んでいた。

前線で大暴れした鉄の巨人がいると最近聞いたが、あれがそうだろう。巨人の肩には、よれよれの汚い白衣を着た汚い男性が乗っていて、楽しそうに指示をしていた。

幸せそうで何よりだ。

門を出ると、空に舞い上がる。

用事はすんだ。

一秒でも早くアールズに戻りたかった。

 

アールズに戻ると、すぐにまた次の用事を貰った。

ザガルトスさんが所属している討伐チームが、モンスターに手間取っているという。というよりも、試験的に帰還の途についた難民の一部が勝手な行動を取り、其処をモンスターに襲撃され。

モンスターは撃退したものの、何名かが行方不明になったということだった。

今、探しているらしいのだけれど。

何しろ探査の魔術が使える者の手が足りていないという。

帰ってきてばかりで悪いと言われたけれど。

別に構わない。

不思議な話だが。

仕事そのものは嫌いでは無いのだ。

時間がいくらでもあるから、というのはあるだろう。この体になってから、もう寿命は気にしなくても良くなった。

それが、大人になることが絶対に出来ない事が確定していたアニーとの最大の違いで。

ひょっとすると。

それで常に苛立っていたアニーの心の一部が。ダークエレメントに影響を与えているのかも知れない。

いずれにしても、事は一刻を争う。

場所を地図で示される。

アールズの西部。

崩落したヴェルス山の少し西だ。

あの辺りの荒野は開発も進んでおらず、多くの大型モンスターがいる筈。国境近辺と言う事もあるし、人が立ち入る必要性が無いという理由もある。

だから、わざわざモンスターを退治する必要がなかったのだ。

「モンスター、か」

飛行しながら、独りごちる。

ディアエレメントに知識は貰っている。

そして、人間には言わないようにも告げられている。

何故、アニーにモンスターは攻撃しなかったか。勿論全てのモンスターでは無いのだが。アニーを見て、攻撃を躊躇うモンスターは多かった。

理由は一つ。

そもそもモンスターというのは。いにしえの人間達が、自分を守るために造り出した生物の子孫だからだ。

だから、災厄と地獄を乗り越えて進化した今の人間は、別の存在として認識し、牙を剥くけれど。

アニーには攻撃を躊躇した。

もっとも、世代を重ねるうちに、至上命令を忘れてしまった種族もいるし。何しろモンスターの定義がガバガバなので、ただ生物が強くたくましく進化しただけの場合もある。アニーに攻撃を仕掛けた連中は、その手の類だ。

目的地を見かける。

四名だけの部隊だ。あれで千からなる難民達を護衛していたというのだから、人手不足にもほどがありすぎる。

国境を抜ければ、其処でまた引き継ぎがあったのだろうが。

それにしてもコレはひどい。

案の定、本体を三名(一人は伝令としてアールズ王都に来たのだ)で護衛するのが精一杯。

勝手な行動をしていなくなった者達を探す余裕など無い様子だった。

ダークエレメントが降り立つのを見ると。

他の国から来たらしい二人の戦士は緊張した様子で此方を見たが。

ザガルトスさんが、彼らをたしなめた。

「彼女は俺の戦友だ。 失礼はゆるさん」

「ザガルトスさん、状況を」

「ああ」

地図を拡げる。

荒野が拡がっている向こうに。勝手に列を離れた数人が消えたという。

理由は分からないらしいが。

ザガルトスさんが言葉を濁すところから言って、何となく分かった。

恐らくは、違法薬物をこっそり吸うつもりだったのだろう。

水際で爆発的流行は必死に食い止めているが。どうしても、入ってくるのは避けられないのである。

快楽と引き替えに体を壊す薬物。

その魅力は凄まじく。

魅入られると、それこそ廃人になるまで吸い続けてしまうと言う。

勿論見つかれば没収される上に、罰を受ける。

だから、こっそり隙を見て、逃げ出したのだろう。

此処がどういう場所かを考えもせずに。

「頼むぞ、探し出してくれ」

「分かりました」

正直うんざりだが。

実直なザガルトスさんに頭を下げられると、従うしか無い。この人がどれだけ屋台骨として、メルル姫の部隊を支えてきたかは、アニーの記憶の一部だけでも明らかすぎるくらいなのだ。

すぐに荒野に出向くと、探索の魔術を展開。

足跡をたどっていく。

だが、途中から。

足跡に、もう一つ。

大きいのが合流。

モンスターに見つかったのだ。それも、人間なんて、ひとのみにしてしまうような奴に、である。

急ぐ。悲鳴が聞こえてきたからだ。そして、すぐに見えてきた。

巨大なモンスターに押さえ込まれた一人が、必死にもがいている。

他に三人いるが、がたがた震えるばかりで、何も出来そうにない。

肉を生きたまま食いちぎっているモンスター。

悲鳴を上げるのを、おもしろがっているのだろう。本来なら、一瞬でぺろりといけるのに。

無言のまま躍りかかったダークエレメントが。

巨大な猫のような姿をしたそのモンスターを蹴飛ばし、吹っ飛ばした。

空中で体勢を立て直す猫だが。その顔面に、火球を直撃させてやると。分が悪いと判断したのか、逃げ出す。

ダークエレメントとしても。

無意味な殺生をするつもりはなかった。

だが、次の瞬間。

逃げ出した猫の背中から、槍が貫き通す。

そして、串刺しになった猫は、そのまま息絶えた。

槍を手に取ったのは。

ミミさん。

そうか、この人も来ていたのか。

「人肉の味を覚えたモンスターは、駆除しなければならないわ。 その程度の事は理解しないといけないわよ」

「……」

ダークエレメントは、少し困った。

まだ人を殺してはいなかったし、良いかと想ったのだ。

それにミミさんは、どうしてここに来たのか。

ミミさんはてきぱきと、負傷者の手当を始める。回復魔術を頼むと言われたので。肉を食いちぎられて、悲鳴を上げている男を抑えると、回復魔術を開始。抉られた肉の部分をまず消毒。

それから血を止めて。

最後に、傷を塞いでいく。

その間、青ざめて、固まって震えるばかりのこの男の仲間らしい連中。

ミミさんが、手当が終わると。

辺りに散らばっている粉を一瞥。

見ただけで、種類を特定したようだった。

「違法薬物ね」

「い、良いだろそれくらいっ! 明日をも知れない命で、楽しみだって、他にないんだからよっ!」

「貴方たちが自分で勝手に破滅するのは構わないけれどね」

ミミさんが、冷酷に言う。

言いすぎでは無いかと少し思ったけれど。今回の件にしても、ダークエレメントはまだ人間社会での経験が少ない。

見て、覚える事にする。

「周囲にどれだけの迷惑を掛けるか分かっているのかしら? 今は皆で助け合っていかなければならない時なのに」

「きれい事はたくさんだ!」

「そう。 ならば更正の余地無しと判断するしか無いわね」

閃光が走ったかと思うと。

全員が気絶していた。

ミミさんが手をはたく。

ダークエレメントが治療していた一人も、同じように、意識を失っていた。

「連行するわよ」

「はい。 彼らは、どうなるんですか」

「収監ね」

そうか。

せっかく、国に帰るメンバーに選ばれたのに、それもおじゃんか。まあ、確かにミミさんの言葉は正論だ。

違法薬物を習慣化させた人間が、必死に立て直しをしている国に入っても。それは邪魔になるどころか、むしろ有害になるだろう。

ダークエレメントが魔術で全員を浮かび上がらせて、連れていく。

ミミさんはモンスターの死体から槍を引き抜くと。

ふらりと、その場を後にした。

前は、見ていられないほど鬱屈していた。

しかし、トトリさんがある程度元に戻ったことで。

少しずつミミさんも。

心を落ち着かせつつある、のかも知れなかった。

 

3、再び空へ

 

ライアスは、兄に渡された命令書を見て、思わず呻いていた。

苦手な相手の所へのお使いだ。

トトリである。

完全におかしくなっていた頃のトトリを知っているライアスとしては。今でも、出来るだけ近づきたくないなと考えている相手なのだ。

勿論、悲惨な事情で壊れたことは理解している。

それを、必死にメルルが救ったことも。

だが、それはそれ。

怖いものは怖いのである。

今やアールズの中でも、上位の戦士になったライアスでも、それは同じ。単純な戦闘力の問題では無く。

更にそれ以上の。

神経の奥から来る恐怖、とでも言うべきなのだろう。

「参ったな」

ぼやく。

ただ救いがあるとすれば、シェリさんと一緒に行く、という事だろう。あの人は、昔からトトリと一緒にいた。

だから、ある程度は、話も出来るはず。

ライアスは正直、トトリとあまり話せる自信が無い。

城の門を出て、一人黙々と歩く。

城壁の拡張はなおも続いているが。

これは、人口が増加の一途をたどっているからである。

辺境諸国の戦士の中には、セダンやザガルトスさんのように、この国に帰化してくれているものも多いし。

難民の中にも、この国で暮らしたいと考える者が出始めている。

一方で、アーランドから手助けに来てくれていた人材は、殆どが此処を去ったと言うから、おかしな話だ。

訓練所で、シェリさんを見つける。

ダークエレメントと話していたので、思わず隠れてしまった。

メルルは苦手としていたが。

ライアスもそうだ。

碌な話もしないうちに、アニーはあの世に行ってしまった。

そればかりか、同じ顔と声の悪魔が現れたのである。

混乱するというか。

同じように接することは、何だか大変に難しい。

ダークエレメントが行ったので、ようやくほっとする。そして、シェリさんに話しかけると。向こうは向こうで呆れていた。

「アレで隠れているつもりか」

「申し訳ない。 だが、苦手なんだよ」

「気持ちは分かるが、動揺しすぎだ。 気配がダダ漏れだったぞ。 当然ダークエレメントも気付いていた」

「精進する」

情けないことは、ライアスだって分かっている。今では、アールズを代表する戦士の一人に成長したというのに。

この辺りは、まるで変わっていない。

兄と比べられることは減ったけれど。

それでも、自分はまだまだ。そうライアスは思っている。

しばし、歩きながら、話す。

トトリは今、辺境諸国の一角にいる。ペンギン族が人間より多いと言う海沿いの国で、其処での仕事を頼まれているというのだ。

ちなみにトトリが設置していったトラベルゲートを使って現地に出向くのだけれど。

このおかしな道具も。

ライアスは苦手だった。

メルル達はあまり気付いていなかったようだけれど。

ライアスは昔から非常に運が悪くて、事故に会う確率が高い。例えば茸を食べると、滅多に見つからない、食用と見分けがまずつかない毒茸だったりするケースが非常に多いのである。

このような訳が分からない道具。

誤動作でもしたら、何が起きるか知れたものではない。

町外れにある小屋に。

ホムンクルスの一人が見張りをしていたので。書状を見せる。

頷くと、中に入れてくれた。

シェリさんは堂々としたもので、先にトラベルゲートのドアを開けて、目的の国に。トトリの道具を信頼しているのだと、一目で分かる。

ライアスも少し躊躇ったあと。

ゲートをくぐった。

不意に、空気が変わる。

もの凄く蒸し暑くなった。

小屋を出ると、シェリさんが見張りらしいホムンクルスと話していた。ライアスが手をかざすと。

此処が山の上で。

向こうには一面の海と。山より大きそうな雲の塊。

海の側には、アールズ王都が四つか五つは余裕で入りそうな、巨大な港町。あれがこの国の王都。

彼処にトトリがいる。

いや、彼処に拠点を構えている、が正しいか。

あの首狩り魔人が、この大陸でも有数のネゴシエーターであり。アーランドから国家間交渉のグリーンライトを渡されている事は、ライアスも知っている。実際に実績が実績なのだから、当然だろう。

路の神の名は伊達では無い。

砂漠に路を通したと聞いたときは驚いたが。この間、実際に現地を見た。確かに歴史的な偉人として扱われるわけだ。

路の近隣の村人の中には、実際には国に禁じられている神格化までして、トトリを崇めている者がいると聞いている。

それもあり得る話だ。

あのような超常的な偉業、生半可な奴には出来ない。

「手続きが終わった。 行くぞ」

「ああ」

促されて。

一緒に、山を下りる。

山そのものは真っ茶色。植物の気配がない。

植林の手が及んでいないのだ。

「いずれこの山も、緑繁茂する美しい場所に変えたいが。 今は人手が足りん」

「本当に、緑化のことが第一なんだな」

「ああ。 我等はそのために生を受けた一族だからな」

「……」

色々と、返す言葉がない。

シェリさんはそれを当たり前のように受け入れているし。それに対して誇りだって持っている。

ライアスが、ケイナと一緒に誓ったように。

メルルを生涯守るとか。

そういうのと同じ次元なのだろう。

歩いていると、見る間に街が近づいてくる。

街の城壁は新しい。

この国は、ペンギン族と国家規模で争ってきた歴史を持っている。アールズの場合はリザードマン族だったけれど。この国では、ペンギン族がその立場になるのだ。

しかも此処のペンギン族は。

一族を代表する集落を築いている。この国も、対応に苦慮しているだろう事は、政治に詳しくないライアスでもよく分かる。

「此方だ」

「おう」

城壁はあっさり素通りできた。

街に入ると、以前足を踏み入れたアーランドのような繁盛ぶりだ。流石にアーランド王都には到底及ばないけれど。

それでもアールズよりずっと栄えている。

だけれども、アールズをこうしたいとは思わない。

人が増えれば、それだけ問題も増える。

難民問題で懲りているライアスは。

もうアールズは、静かな片田舎に戻っても良いのではないかとさえ、思っているのだった。

だけれど、メルルは拡大路線を打ち出している。

それなら、メルルの言う事に従う。

それだけだ。

自分は勿論失ってはいけないけれど。メルルが高度な判断の末にそう考えていることは理解している。

それを脊髄反射で否定するのは。

メルルがずっと頭を捻って、出した結論に対して、唾を掛けるようなものなのだ。

アトリエに到着。

見覚えがあるホムンクルスがいた。

34だ。

向こうも、此方に気付いた様子だ。

「おや、何かありましたか」

「書状をもってきた。 トトリ殿はいるか」

「もうすぐ戻りますから、アトリエでお待ちください」

「ん……」

アトリエに通して貰う。

地上部分は、少なくとも普通のアトリエだ。だけれども、地下への入り口に、戸がつけられて。鍵が掛かっている。

あの先は。

地獄だろう。

足を踏み入れようとも思わない。

以前見た光景は忘れられない。

無数の生首。

しかもそれらは、生かされていた。

「粗茶ですが」

「お構いなく」

ソファに、シェリさんと並んで座る。

見るとちむが数人、奥で働いている。そのほかに。何人かホムンクルスもいるようだ。大型の移動式アトリエなのだろう。どうやってこの家にしか見えないアトリエを動かすのかは、よく分からないけれど。

不意に。

今まで、そこにいなかった人物が。ソファに座っていた。

トトリだ。心臓が止まるかと思った。

時間を止めたのだろう。今のライアスだったら、幾ら格上のトトリが相手でも、高速移動して接近して来れば分かる。

脅かすためにこんな事をするなんて。

相変わらず、何をするつもりなのか、よく分からない。

其処が苦手だ。

「相変わらずだな」

「ふふ。 それで何用ですか、シェリさん、ライアスくん」

「此方を」

あまり話したくないので、そのままスクロールを渡す。

スクロールをトトリがひもといたと思ったら。もう返されていた。あっという間に読んで、内容を把握した、という事だろう。

「なるほど、分かりました。 ペンギン族の戦士については、此方がどうにかします」

「頼む」

頭を下げると。

トトリは表情を変えないまま、もうその場にいなかった。

シェリさんがぼやく。

「相変わらず忙しい奴だ」

「俺たちを脅かすつもりでやっているんじゃないのか」

「バカをいえ。 トトリは今やこの大陸一忙しい錬金術師だ。 本来だったら、此処で会うことだって難しい」

「……」

確かに、そうなのかも知れない。

34さんが、嘆息した。

「怖がる気持ちは分かります。 しかし昔のあの方は、穏やかで優しい、とても暖かみがある人だったんですよ。 そして今はその昔に戻りつつある。 警戒するのは控えていただきますか」

「いや、俺はそんなつもりじゃ」

「まあ、慣れるまでには時間が掛かるさ。 それに昔の彼奴を知っている俺たちの方が辛かったことも忘れてくれるなよ」

そう言われると、ぐうの音も出ない。

他にも、ちむ達が幾つか薬品をもってきてくれた。これらはアールズの緑化作業で必要になる。

シェリさんは全てに目を通して、何度も頷いていた。

それくらい凄い薬なのだろう。

ライアスが腰を上げると、シェリさんも頷く。

そして、アトリエを出た。

 

海に浮かんでいる船が見えた。

海そのものがとてつもなく巨大で、ライアスには珍しくて仕方が無い。空の色からして違う。

昔、この海も、鈍色に染まっていたらしい。

世界が滅びたとき、無数の毒がばらまかれた。その影響だ。

しかし今では、美しい青を取り戻してきている。まだ一部では、入れないほどひどい状態らしいが。

とびきり巨大な、銀色の船が来る。

あれはアーランドの、装甲艦。

何番艦かは分からない。ただあれの同型艦を主力として、トトリがアーランドの勇者達とともに、島ほどもあるドラゴンと戦い、打ち倒したと聞いている。

港の人々は、あの巨艦が珍しくも無いらしく、別に様子を変えない。

少し離れた丘で見ていたライアスは。側にシェリさんが来るのに気付いて、腰を上げた。囓っていたリンゴを、そのまま全てかみ砕いてしまう。

「急がなくても良いのだが」

「俺は良い。 シェリさんは用事が終わったのか」

「まあな」

そう言って見せてくれる。

それは、酒瓶だった。

シェリさんが飲んでいる姿は滅多に見ない。ライアスももう飲める年になったのだけれど、生来下戸らしく、いつも酷い目に会うばかりだ。

「暇だろう。 飲んでみろ」

「しかしな」

「いいから。 これは飲みやすい」

杯を出すと、注いでくれる。

まだ日も高いのだけれど。今日は、久々の休日だ。それに苦手なトトリとわざわざ遠くの国にまで来て会う事になった。

しばし悩んだ後。

ライアスは、杯を傾ける。

吃驚するほど飲みやすい酒だ。アルコールがとても弱いのに、味わいがとても深い。体も温まる。

「飲みやすい」

「だろう。 魚の旨みを入れた酒だ」

「魚!?」

何だそれは。

思わず愕然としたけれど。確かにこの旨みは魚だ。何度か杯を傾けると、すぐに無くなってしまう。

そして、値段を聞いて驚く。

かなり良い値がついている。

味わい深く、気持ちよく飲む事が出来る。アルコールの度数は弱めだけれど、それが故に味も良く舌に残る。

確かに高いのも頷ける。

「これはホウワイという島国の特産品でな」

「誰だよ、魚を酒に入れるなんて考えた奴は」

「トトリだ。 技術そのものは、ホウワイに元からあったもので、それをアレンジした」

もう一度愕然とする。

シェリさんはからからと笑うと、杯に酒を注いで、一気に呷った。この人は何度かの戦いで、大きな功績を挙げている。多少の出費くらいは、何ともないのだろう。

また杯に注がれたので、飲み干す。

複雑な気分だけれど。

しかし、シェリさんに言われて納得する。

「ちなみにホウワイは、アーランドの更に東の、更に更に先にある島国でな。 一なる五人に滅ぼされ掛けたところをトトリが救った。 其処で生産された酒は、大陸を四分の一も廻ったこの国にまで辿り着いて、人々を喜ばせている」

「……凄い、人なんだな」

「そうだ、だからおかしくもなった。 おかしくなったから、俺は悲しかった」

メルルを見ていると分かる。

凄い奴は、それだけ凄い闇にも触れる。

聞けば聞くほど、信じられない業績ばかりが飛び出してくるトトリだ。あれだけおぞましい闇に染まったのも、頷ける話なのだろう。

ようやく、ライアスは理解できた。

少し、酒が回り始めている。

「これも喰うか」

「肴か。 これ、は?」

「東大陸から輸入された、大型のシダを焼いたものだ。 少し前まで雪に閉ざされていた東大陸だが、どんどん温かくなってきていてな。 こういう独特な植物が、姿を見せ始めている」

口に入れてみると。

ぷつぷつと潰れる独特の粒状の構造があって、歯触りがとても良い。味そのものもこくがあって、苦みがこの酒にとても良くあっていた。

しばらく二人で飲む。

だけれど、酒は飲めば無くなる。

もう酒瓶は空になっていた。

「メルルを支えるのは、あの時の、訳が分からない化け物みたいになっていたトトリ……さんと戦うのと、同じ事なのかな」

「そうかも知れないな。 一なる五人についても、調べて見れば見るほど、おかしくなる前は非常に優れた錬金術師で、思いやりがある優しい者達だったと分かってきている」

「ひでえ話だ。 でも俺は、やり遂げなければならないんだな。 いや、やりとげてみせる」

「良い覚悟だ。 あの時のはな垂れとは別人のようだぞ」

そう言ってくれると、嬉しい。

シェリさんの身体能力を、だいぶ前からライアスは凌いでいる。

単純な格闘戦では、まず勝てる所まで力もつけた。

課題だったタフネスだって。

散々敵の囮になって、メルルが必殺の突撃を叩き込む好機を作るために、鍛えに鍛えたのだ。

自力でなせた事では無い。

ケイナもそうだが、ひよっこだった所を、シェリさんが鍛えてくれた。

だからこの人には。

きっとどれだけ強くなっても、頭が上がらないだろう。

そしてこの人が言う事には。

やはり、ライアスの中で、強い重みがあるのだった。

ふと、丘から見える。

トトリが、何人かの、この国の高官らしき人物と歩いている。そして、歩きながら、国を発展させるためのアドバイスをしているようだった。彼方此方を指さして、具体的な話をしている。

何倍も年上の老人達が、それに真剣に聞き入っている。

狂気を秘めていても。

あの人が、本物の偉人である事は、ライアスにも、今日の件でようやく分かってきた。ならば、メルルだって。

今後は、狂気と一緒にやっていかなければならない。

ライアスとケイナと。他の皆で、支えていくのだ。

「適当に酒が抜けたら、上がるぞ」

「分かった。 ……その、これからも頼む」

「ああ、任せておけ」

この人が側にいれば、ライアスは少なくとも、指標を見失わない。

今はただ。

少しだけ考えが変わったことに感謝しつつ。

海風に吹かれていようと思った。

 

4、深淵

 

牛を一頭、地下室にメルルが連れ込んだ。

ケイナは、地下室の入り口に立つ。防音の仕組みが為されていて。そして、入り口しか、地下室に入る通路が無い。

だから此処で見張っていれば。

誰かが見てしまう事態は避けられる。

牛の悲鳴が聞こえた気がした。

元々、牛を片手で、力尽くで引っ張っていける時点で、既に運命は決しているとも言える。

しばし、哀しみをこらえていると。

音が止んだ。

地下室に入る。

其処は、血の海だった。

メルルは既にヒトの形に戻っている。

服も、殆ど傷めていなかった。

こうなった直後。アーランドにアールズが吸収され、州になった前後では。週一度の食事の度に、全身血まみれになり、服も破いてしまっていたのだけれど。今は、体の形を変えるコツを覚えた様子で。

返り血も浴びないし。

服も破かない。

血の海といっても、比較的綺麗な状態だ。

一部に、内臓の塊。

消化器官と、それに肛門が散らばっている。

どれも牛の残骸だ。

後は骨から何から、全てぺろり、である。

「ケイナ、片付けをしておいて」

「はい」

自分が悟りきった目をしていることを、ケイナは理解していた。

分かっている。

メルルはまだ軽症なほうだ。

トトリ先生のように、首狩り族になったわけでもなく。ロロナさんのように、殺戮兵器になってもいない。

アストリッドさんのように、憎悪で目の前が真っ赤に曇っているわけでも無ければ。

一なる五人のように、世界の滅亡を目指してもいない。

一週間に一度程度の頻度で。

こうして、大型の動物に暴力を振るって、喰らわなければおかしくなる。

それだけで済んでいる。

コレは恐らく、とても幸運なことで。

メルルの体が、人間では無くなってしまっている事を考えると。奇跡的な状態だとも言えた。

片付けを終えると。入れ違いに出て行ったメルルを追う。

少し前にデジエ王が亡くなった。

それによって、アールズの終身執政官に就任したメルルは。今はアールズのトップとして、精力的に活動している。

今までは政務をルーフェスに任せっきりだったのだけれど。

今では2111さんが、参謀としてつき。

見る間に頭角を現して、一目置かれる状態になっていた。

メルルは基本的に、毎日行動パターンが決まっている。

仮面をつけると、朝はアールズの街に出て。民の声を聞く。

民もメルルが人間では無くなってしまっていることを理解はしているが。今までと言動が変わらず。困ったことを解決してくれることに違いは無いので。今までの親しみが恐怖にすり替わった今も。メルルに対しての態度は柔らかい。

自分たちに危害が及ばない。

それを理解しているからだ。

その反面、週に一頭、大型の動物を食していることも知っている様子で。

それについて聞かれると、口をつぐむ。

メルルは少し前に、笑いながら言った事がある。

民が自分を裏切るかも知れない。

もしそうなったら、ケイナはライアスと、他の皆と一緒に。メルルを守るために徹底抗戦する。

錬金術師が、有能になればなるほどおかしくなる事は、ケイナだって知っているのだから。

謁見の間で、メルルは玉座について、客の対応をしていた。

執政官が玉座につくというのも妙だけれど。昔と違って、一段高い位置に置かれていた玉座は。客と同じ目線になるように工夫されている。

ケイナが列席している者達と並ぶと。

丁度四人目の客が帰るところだった。

五人目。

隣国の王子だ。

王子と言っても、既に四十過ぎだが。

ここに来たのは、食料の輸入について、である。少し前に隣国では、定住難民を引き取りたいという話を持ち込んできた。

アールズで、国に帰らないことを決めた難民達が、食糧生産や産業の定着に力を発揮している所を見て。ノウハウを知りたいと申し出てきた国が幾つかあるのだ。

其処でアールズでも希望者を募り、移動したいものを支援している。

難民にしてもメリットはある。

産業の種になったり、技術を持ち込めば、それなりに厚遇して貰えるからだ。

問題は、何処の辺境諸国も、今は人手不足で、特に食糧がないこと。

アールズには膨大な食糧の備蓄がある。

メルルはそれの貸し付けも行っていた。勿論低利ながら利子は付くが。

要求書を、一瞬で読み終えるメルル。

王子に対して、幾つか質問。

最近側近に加わったホムンクルスの4020さんが、メモを素早く取っていく。彼女は戦闘には向かないと判断されて。結局アールズに流れてきた新参だ。多くを失ったホムンクルス達は、増産が続いていて。その中で、彼女のような「落ちこぼれ」も出る事は、仕方の無い流れなのだが。

メルルは彼女らを拾い上げて。活用して。

そして忠誠度が高い側近に育て上げている。

人を止めた辺りから、だろうか。

メルルの政治力の高さは、浮き彫りになって来ている。昔から優れてはいたのだが。今では、アールズ州はメルルがいなければ廻らない状態だ。

「分かりました、その条件でお願いします」

「此方こそよろしくお願いします。 末永き友好を」

握手をして、交渉成立。

スクロールにそれぞれの印を押し。ちむちゃんに複製して貰う。そして、それぞれが控えを保存して。条約がこじれないようにするのだ。

王子が帰ると、メルルが少しばかり退屈そうに言った。

次、と。

 

昼過ぎに、一端メルルが人と会う仕事は終わる。それ以降は、ルーフェスが同じ仕事を担当する。ちなみに、重要度が高い人間は午前に集中するよう、ルーフェスが調整している。

それに今日は、少しばかり重要な仕事があるのだ。

メルルの周囲に、ケイナとライアス。2111さんと2319さんを一として、ともに戦い抜いた仲間が揃う。

ジーノさんだけがいない。

何でもジーノさんは、西大陸に渡って、凶暴化したモンスターと嬉々として戦っているのだとか。

あの人らしい。

その代わり、少し前から、ダークエレメントが加わっている。

皆、不安そうにしているけれど。

ダークエレメントは物静かで落ち着いた物腰で。皆の誤解を解くように苦心を続けているし。

何より魔術師として大変に有能だ。

連れていかない理由は無い。

「揃いましたね。 行きます」

メルルが促して。トラベルゲートに。

行き先は、アーランド。

ただし王都では無い。

最前線の砦だ。

すぐにトラベルゲートを抜けて、砦に到着。外に出ると。砂漠特有の乾ききった熱い風が、肌を撫でる。

ただし砦の中には水路が張り巡らされ。

体感的には、それほど暑くは無かった。

手続きを済ませると、砦から出て、北上。

はげ山の中には、明らかに戦闘の跡が残っているものがたくさんあった。この辺りで、スピアとアーランドが激しい戦いを繰り広げたのも、今は昔。

そういえば、この近くで。

伝説の暗殺者と呼ばれるレオンハルトとの決戦も行われたのだとか。

出来るだけ近寄りたくは無い場所だ。

山を抜けていくと、中立地帯に入る。

スピアは、まだ存在している。

一なる五人が死んだ後。

セトがまとめて、旧スピア領に、全戦力を撤退させたのだ。それが故に、旧列強の難民達は、帰還ラッシュに入っている。もっとも、一度に全員を帰らせるのは、とてもではないが無理。

故に、まだスピアのことは、表面化していない。

今日の交渉相手は。

そのスピアだ。

信じられない話だが。

あのスピアと、交渉できる。

それがどれほど大きな事かは。

実際に戦って来たものしか分からないだろう。

捨てられた砦が見えてくる。

ミミさんが先行して、罠が無いか確認に行く。ダークエレメントが、シェリさんと一緒に、魔術を展開。

伏兵がいないか調べ上げる。

その間も、全員が戦闘態勢を取ったまま。

当然の話で。

どれだけ警戒しても、しすぎと言う事はない相手なのだ。

ほどなくミミさんが戻ってきた。

「敵影無し。 砦の中にいるのはセトだけよ」

「行きましょうか」

メルルは、セトという名前を聞くと、やはり今でも心穏やかでは無い様子だった。それでも、大人の対応が出来るのは立派。

前だったら、出会った瞬間に殺し合いをはじめていただろう。

そして今のメルルは、セトと渡り合える実力がある。

それこそ、砦が崩壊するまで、止めなかったに違いない。

砦に到着。

荒野の中、ぽつんとたたずむ砦の周囲は。

骨が散乱していた。

この辺りは、元々使い捨てにされたスピアのホムンクルス達が、うち捨てられていた場所らしい。

アーランド側にでは無く、スピア側のホムンクルス達の亡骸、である。

そのような扱いをしていたからか。

スピアのホムンクルスは、アーランドに集団で逃亡してくることが珍しくも無く。その中に、ロロナさんの近衛になっているセン達もいたのだとか。

いずれ、この骨も埋葬してあげたい。

そうケイナは思う。

だが今は。

まず、交渉を正式に終わらせるところからだ。

アーランドから預かったスクロール。

トトリ先生が書いたこれを。メルルが交渉に用いる。

目的は、スピアの軍勢を、この大陸から移動させること。

幾つか候補の無人島がある。

もはや、やったことがやったことだ。スピアと人類との共存は、短期的には絶対に不可能だ。

だから無人島に入って貰う事により。

しばらく時を置く。

世代を幾つか超えてから。

ようやく交渉の席をもてる。

それくらいをしないと、とてもではないが、交渉の糸口さえ造る事は出来ないだろう。

砦に入ると、内部は意外に几帳面に片付けられていた。

調度品も、かなり高い品質でまとめられている。

そして。

セトが、姿を見せた。

前に戦った時も、理性的な雰囲気の女性だったが。今もそれは変わらない。もっとも、ケイナが見たところ、妙に立ち振る舞いに違和感がある。

あの一なる五人の事だ。案外素体は男性だったのかも知れない。

「ようこそ、メルル姫」

「交渉に来ました」

「此方へ」

会話は最小限だ。

メルルがセトを嫌い抜いているのと同様。セトもメルルが苦手なのだろう。何しろ、メルルが決定的に人から足を踏み外す戦いの切っ掛けが、セトだった。敵ながら名将と呼ぶに相応しいセトの策にはまって。

メルルは、禁断の秘薬であるエリキシル剤に手を出したのだ。

ケイナも忸怩たる思いがある。

あの時もっと強ければ。

メルルは、皆を守るために、あのような手に出なくても良かったのに。そして今も、きっと人のままで。

交渉が始まる。

どちらも大人の対応をしている。ケイナの方が、むしろ冷や冷やするほどだ。

海上封鎖を一部解くことと。

目的の無人島までの海路の確保。

そして、五年計画の移住。

現在生き残っているスピアの洗脳モンスターは、およそ十一万。これは西大陸の分もあわせた数字だ。

スピアに残留している者達は良いのだけれど。

西大陸の方が問題で、一部は中途半端に洗脳が溶けて野生化している。これらを説得して廻らなければならない。

そして一部のホムンクルス。

ゼウスや、人間に近い者達は。

間に立つ役割を求められる。

セトも時々、人と同じ姿と言う事を生かして、アーランド王都に出向いているとか。中々に大胆な話を聞かされて、ケイナも内心びくびくし通しだ。

もっとも、である。

昔だったら、メルルは確実にキレていただろう。

それに、今だって。

メルルは、セトを殺したくて仕方が無いはずだ。

咳払いして、交渉を急がせる。

2111さんも、顎をしゃくった。

同意してくれたのだろう。

メルルも即座に意を汲み取ると、交渉を手早く進めていく。アーランドの海軍の戦闘力は絶大。更にスピアの近海には、海王と呼ばれる強力なドラゴンが常駐して、監視に当たっている。

それもどかす必要がある。

勿論過激派の中には、スピアのモンスターなど皆殺しにするべしと言う者もいる。多くの命を奪い、惨劇を引き起こした者達だ。ケイナだってそれは理解できる。だが十万を超える数が健在で、名将セトが率いているのだ。

戦うとなると、多くの命が失われるし。

何より、その時には。復興が出遅れた場合、またしても大陸の主導権を列強に取られる可能性がある。

最悪の場合、あの監視者となった神が、誅戮の刃を下しに来るかも知れない。

それだけは避けなければならない。

幾つかの交渉を手早く済ませ。

幾つかは据え置き。

立ち上がると、握手。

しばし、メルルとセトは、火花を散らしていたが。やがてセトから先に離れた。この辺りは、大人の対応。

政治の世界だ。

砦を出ると、メルルは大きくため息をつく。

ケイナがお疲れ様ですと声を掛けると。

目に闇を宿したメルルは、もう一度呟く。

「殺したかった」

「我慢してください」

2111さんが言い、差し出したのはバスケットだ。メルルの好物である干しキノコが一杯入っている。

殺戮を好むようになった今も、メルルはコレが好物だ。

もう味覚が無いのに。

殆ど、習慣に近いのだろう。

バスケットに手を突っ込んで、豪快に食べ始めるメルル。周囲を警戒する皆。手を振っているのは、上空のダークエレメント。

周囲に敵影無し。

セトも引き揚げて行く。

頷くと、此方も後退開始。この瞬間が一番危ない。罠が仕掛けられている可能性も、否定出来ない。

そして罠を仕掛けるなら。

気が抜ける瞬間だ。

果たして、である。

数人の男達が姿を見せる。かなりの腕利きばかりだが。見たことが無い輩ばかりである。これは、いわゆる与太者の類では無い。闇に生きてきた者達だ。ダークエレメントの警戒網をくぐっただけで、実力の高さがよく分かる。

「メルル姫だな」

「そうだけど?」

後の言葉は無し。

一斉に躍りかかってくる男達。

その一人の後ろに、いきなり現れたセダンさんが、躊躇無くメイスを降り下ろす。一撃で地面に叩き付けられる仲間を見て、驚く彼らだが。

閃光のように走った2111さんと2319さん。

それにケイナ自身が、全員を叩き潰したのは、次の瞬間だった。

すぐに縛り上げると。シェリさんが魔術を掛け始める。

口を割らせるための魔術だ。更には自害を防ぐものも掛ける。

舞い降りてきたダークエレメントが、周囲に防御の魔術を掛けるが。2111さんが叫んだ。

「二人ほど、セトの護衛に」

「分かったわ。 ライアス、行くわよ」

「応!」

ミミさんとライアスがすっ飛んでいく。

すぐに男達は、シェリさんの強力な魔術の前に屈して、口を割る。

辺境国の一つ。

スピアの軍勢に、王子も姫も殺された、老いた王の国。其処が、男達の雇い主だった。此処でメルルとセトを殺せば、そうでなくても死者を出せば、一気にスピアとの関係が悪化し、再び戦になる。

そうなれば、地力で劣るスピアは滅びる。

大きな被害が出ることは確実だが。もうスピアが勝てる見込みは無いのだ。

男達も、金で雇われていたが。

その中の二人は。

家族をスピアの洗脳モンスターによって殺されていた。

「そう。 理由は分かるけれど、許すわけにはいかない」

「殺せ……!」

「殺さない」

メルルは、連れていくように指示。

程なく、ミミさんが戻ってくる。ライアスが、男を三人担いで。更に一人を、引きずっていた。

虚しい戦いだった。

メルルは、バスケットに手を突っ込むと、キノコが尽きたことに気付いて、舌打ち。そして、冷徹に、皆に告げた。

「帰ろう。 この男達は、アーランドに突き出します」

「了解……」

メルルの言葉には、一切の感情が無く。

それが故に、此処ではベストの判断を行う事が出来たことが、ケイナには分かる。

そして、今のメルルは。

もはや、昔のメルルでは無いという事も。

街に着くまで皆が無言。

そして、ケイナは。

やはり、今の自分の目から、光が消えているのだろう事を、悟っていた。

 

エピローグ、魔と光

 

アールズからスピアの軍勢が消え。

辺境諸国から、続々と難民が帰還していく。

一なる五人との戦いが終わってから一年が過ぎた頃には。アールズの人口は、三割以上減っていた。

殆どが、国を出て行った難民達。

多くはメルルに感謝していたが。

その中の者達も、メルルが変わった事に気付いてはいたようだった。

外では仮面をつけるようになって。

顔も表情も隠した。

民の言う事を常に耳に入れ。

問題があれば即座に解決に動き。

国力を高め。

外敵を排除する。

民の先頭に立つべき者のする事は、メルルは全てしているつもりだ。そしてアールズは、実際メルルが錬金術師になる前と今では、発展という点でも比べものにならない。アールズ州となってからも、その繁栄に陰りは無い。

そして今後は。有事の際に、またアールズは最前線になるだろう。

昔の、人口数百人しかおらず。亜人種との紛争で国力を無駄に消耗し続けていた小国はもはや無く。

今はメルルという強力な執政官に統治された、大陸の要。

それがこのアールズである。

アーランドでさえアールズ州の繁栄には注意を払っていて。毎年監視役の役人が来る。それをメルルは丁重にもてなし。アールズの繁栄が嘘では無いことを見せてから送り返す。

袖の下を要求してくる者も希にいたが。

音を記録する魔術を常に展開していて。ジオ王に情報を流せることを告げると。すぐに引きつった笑みを浮かべて、冗談だと引き下がるのだった。

外を歩いていると。

大柄なリザードマン族の戦士とペンギン族の戦士が、談笑しながら歩いているのが見えた。

向こうではリス族の子供を、悪魔族の男性が肩車している。兎族の若者が、人間の戦士と、訓練に励んでいた。あれもこれも。昔なら考えられない光景だ。

若い戦士達は、種族も様々。

得意分野も違う。

訓練所では、戦力を整えるために急ピッチの作業が進められている。目標としては、十年で。スピアと開戦するまえの戦力を回復する事。

それと同時に、各地の緑化もどんどん進めていく。

国力の強化に直につながる事だし。

何より、汚染されていて、誰も入れないような土地は、まだこの世界に多いのだ。

ひととおり現状を見て回ると、アトリエに。

まだ今日は。「腹も減って」いない。

アトリエでは、黙々とアーランドから来た若いホムンクルス二人が働いている。二人とも、戦士としては向かないと判断された者達。錬金術師の助手としては申し分ない働きをしているので、メルルも不足は感じていない。

ボードを確認して、今の時点で遅れが無い事をチェック。

それから、おもむろに調合を始めた。

緑化チームから、薬の納品を求められている。

アールズ南部の耕作地からも、備蓄薬が不安だという声がある。

順番に作業を行い。

足りない場合は、今やセダンさんが取り仕切っているお店で増やす。既に一時期ほどの忙しさはなく。

本来だったら、昼寝をする時間を取れるほどにはなっていた。

一通り、作業が終わったところで。

フィリーさんの代わりに、アーランドから派遣されてきた、若い役人の所に、物資を納品。

後は、政務だ。

これも、今では夕方までには、問題なく片付くようになっている。

メルルが錬金術をやっている間に。

ルーフェスが、書類を整えてくれているからである。

全てはおしなべて事も無し。

少なくとも。

メルルが、政務を行う範囲内では、である。

翌日。

腹が減った。

ケイナに告げて、食事を用意させる。大きな牛が準備できているという回答があったので。地下室へ。

立派な牛は、既に怯えきっていた。

自分の運命を悟っているのだろう。

メルルは、錬金術師としても、王族としても。水準以上の働きを行っているはずだ。その結果が、この程度のマイナスで済んでいる。

むしろ、それは。

先輩達を見れば、幸運なこと。

だからメルルは。

既に人ではなくなった体を慰めるためにも。

今後、人の心を維持するためにも。

喰らわなければならない。

メルルの形が、変わる。

服が破けないように、注意深く変えていく。

見る間に、人の姿では無くなったメルルを見て、牛は悲鳴を上げて、逃れようとしたが、無数の触手に捕縛される。

そして、縦に裂けた巨大な口から見える無数の牙が。

一斉に、悲鳴を上げる牛にと突き刺さる。

断末魔が上がったのは、直後。

後は、ただ無言で貪るだけ。

嗚呼。

闇の奥に落ちた心は。

こうして洗われるようだ。

肉の感触。

血の味。

全てが、体に染み渡るようだ。

ケイナに言われている。

人間を食べたくなったら、まずはケイナを、と。

完全に体だけでは無く、心も怪物になったら。そうするのが、筋だろう。最もその時は、メルルはもはや、人の姿を維持することも無くなっているだろうが。

骨ごと牛を食べ尽くすと。

メルルは、人の姿に戻る。

服も傷めていないし。

血も浴びていない。

残ったのは、牛の血と。消化器系と肛門だけ。

おかしなものだ。

この辺りは、メルルがまだまだお上品な事を、如実に示しているとも言えた。

手を叩くと。ケイナが入ってくる。

死んだ魚みたいな目をしている。

そうだ、思い出す。

いつか見た夢だ。

その時は、メルルは罪人を今の姿で喰らっていた。殺す事に、最大の快楽も覚えていたし。何より危険な爆弾の実験素材にしていた。

予言は少しはずれた。

人は殺していないし。

姿も人を保っている。

食事の頻度も一週間に一度で良い。

これだけ良い結果で終わったのは、奇蹟に等しいだろう。

「片付けておいて」

「はい」

ケイナが虚ろな目で、掃除を始める。

メルルは一度だけ舌なめずりすると。

衝動が収まった闇と狂気を確認して。

地下室を出た。

魔の時間が終われば、光の時間。

アールズを発展させるために。錬金術師として出来る事は、未だにいくらでもある。

王族として、人々の先頭に立つこと。

そして愚民であれば、強制的にでも導く。

それは、メルルの軸として消えていない。

一なる五人が、どうして失敗したか。それは民の善性を信じてしまったからだ。

そんなものはない。

人は人だ。

だから相応に導いていけば良い。

それがメルルが出した結論。

今後も変わることがない、人生の方針だ。

城の屋上に出る。

アールズの街は拡大の一途。

荒野だった場所も、どんどん緑へと変わってきている。多くの種族がともにあり、繁栄しているこの様子は。

間違いなくメルルが造り出した光景。

ならば、メルルは間違っていない。

闇と同居するのが、一流の証であれば。

ようやく。

メルルは、一流となる事が出来たのかも知れなかった。

錬金術師は、闇と共にある。

仮面を直すと。

まだ残っている政務を片付けるべく。メルルは、執務室へと向かったのだった。

 

    (暗黒錬金術師伝説5、暗黒!メルルのアトリエ。 完)