赤い花畑

 

序、苦悩

 

メルルが急いで駆けつけた先は、農場の北部にある荒野。其処の北にある平原で。人影を見た者がいるという。

別にそれはどうでも良いことなのだが。

問題は、その人相が、明らかにあのゼウスだ、ということだ。

一なる五人を裏切り、一度はメルルを助けてくれた。最強のホムンクルスの一体。いにしえの神話におけるゼウスは残忍で享楽的な存在だそうだが。メルルの知るゼウスは、重厚で老人らしい落ち着きを持つ男性だ。

そのゼウスが、怪しい動きをしているとならば。

何かおかしな事が起きた可能性が高い。

ましてや、あの辺りは。

今は、それはいい。メルルは出来るだけの戦力を集めると、荒野に急ぐ。ついてこられたのは、まだ傷が治りきっていないケイナとライアス。2111さんと2319さん。それにセダンさんとアニーちゃん。

他の皆は、負傷がひどかったり。或いは仕事が忙しくて、すぐには来てくれなかった。特にミミさんとジーノさんは。この間の戦いで更に前線を離れたハイランカーが増えたことで、寝る暇も無い状態らしい。

今、セトが率いるスピア軍主力はクーデリアさんが抑えてくれているけれど。

奴は悔しい事に有能だ。

いつ、どんな手に出てくる事か。

荷車にはアニーちゃんが乗っているが。走ると言ったのを。無理矢理乗せてきたのである。

今回は急ぐべきだと判断したからである。

街道を駆け抜け。

途中、すれ違う戦士に挨拶。

兎族の戦士がいたので、足を止めて話を聞く。最近はすっかり治安も安定してきたとかで、感謝された。

「モンスターも普通に戻って、対応しやすい。 不謹慎な話かも知れないが、早くあんたの代が来て欲しいとさえ思うくらいだ」

「ありがとう。 でも私以外にそんな事を言っては駄目ですよ」

「分かっている」

兎族にとっては悪気のない言葉だと分かっているから、メルルは笑顔のまま。相手にあわせるのも大事だ。

幾つか、重要な情報が得られた。

ゼウスらしい老人は、何カ所かで目撃されたのだが。

いずれも森や川を避けて移動していたらしいというのだ。

どういうことか。

ホムンクルスは食糧をそれほどたくさんは必要としないが、それでも無かったら死ぬ。ゼウスは、死ぬつもりなのか。

空模様が怪しい。

これは、一雨来ると見て良いだろう。

「雨よけの魔術、張る?」

「降り始めたらよろしく」

「ん」

アニーちゃんが頷く。

そういえば、最近は。ちょっと体つきも女っぽくなって来ている。今までと違って、明確に女性の特徴が出始めてきた、という事だ。

そろそろこれは、ちゃん付けして呼ぶのも終わりかも知れない。

いずれにしても、魔術師としては、何処に出しても恥ずかしくない腕前に成長しているアニーちゃんだ。

後は熱さえ出さなくなれば。

何処でもやっていけるだろう。

荷車を引いている2319さんが、不意に警告の声を上げた。

「マスター。 大きな気配です」

「! 感じる?」

「俺も感じた」

ライアスが続いて言う。

ゼウスがいるらしい地点が、まだかなり先。もし二人が察知したのがゼウスだとすると。二人の気配察知能力は、メルルよりかなり上だ。

続いて、2111さんが。

そしてメルルも感じ取った。

ケイナとセダンさんは、最後にほぼ同時。

確かに大きな気配だ。セトのものとも違う。知っている国家軍事力級戦士の誰とも違っている。

メルルはこの間、人間を半分止めたことで、爆発的に力を増したが。

何もかも強くなったわけでは無い。

皆も努力している。

うかうかしていると、すぐに追い越されるだろう。

メルルはそろそろ二十歳に手が届く。

皆もそう。

つまりそれは、まだ伸びると言う事だ。

走る。

荷車は何度か根本的な所から変えたが。やはりこれを引いていると、兎に角安心感がある。

荷物もたくさん積み込めるし、お薬も。

走りながら、荒野の難民居住区に飛び込む。

悪魔族が、走り込んできたメルルを見て、すぐに来た。族長クラスの大型悪魔が、ゆっくり翼を動かして、降りてくる。

バイラスさんだ。

少し前に、此方に移ったのである。

「どうしたのだメルル姫、急だな」

「バイラスさん、此方の様子はどうですか」

「何か変事か」

備えようとするバイラスさん。

メルルは首を横に振ると。気配を指さす。荒野の向こうにあるそれに。バイラスさんも、気付いてはいた。

「無害な様子だから放置していたが、知り合いか」

「その可能性があります」

「シェリはどうしている」

「手酷く負傷して、治療中です」

そうかと、バイラスさんは肩を落とす。

皆もそうなのだ。

今、アールズの戦士も。アーランドの冒険者も。無事な人間の方が少ないくらいなのである。

間断なく続く戦いが原因だ。そして、それも、そう長くは続けられない。限界が近い。多くの種族が疲弊し、有能な戦士もどんどん鬼籍に入っていく。

恐らくは。

いにしえの時代以来の、人類初の総力戦。

そろそろ限界が近いことは、誰の目にも明らかだ。

救いなのは、後は一なる五人と。

前衛のセトさえどうにかできれば。後は対応は難しく無さそう、という事だろうか。今はとにかく。一なる五人を潰すことが先だ。

そして、ゼウスは。

それに関連して、動いている可能性が高いのだ。

「儂が護衛に出よう」

「良いのですか?」

「かまわん。 最近は腕が鈍って仕方が無かったしな。 それにシェリの代わりくらいにはなるだろう」

「ご謙遜を」

メルルも思わず苦笑する。

昔悪魔族の族長と言えば。人間からは、それぞれが「魔王」と呼ばれて怖れられていたほどの存在だ。

バイラスさんも、それは同じである。

荒野の様子を確認。

流れ込んでくる難民は、かなり落ち着いている。住居の建造も、どうにか間に合い始めていた。

主に此処の難民には、緑化作業を行って貰っていて。

ホムンクルスやエメス達、悪魔族の補助をしてもらっている。

また、一部の技術持ちは、それぞれにふさわしい作業をして貰っていて。緻密な細工が美しい工芸品や。精巧な歯車など。中々に使いどころが多い品物が、生産されている状況だ。

これらについては、後で極めて有用な外交手段として活用できる。

また人数が多いこともあって。

一部では、農場から運ばれて来た食材。果実。他にも家畜類の肉。それにきのこなどを、加工させている。

特にきのこは、アールズの名産として有名だ。

この名産品の品質向上と、大量生産を、難民達に任せている。彼らは良い生活をしていただけあって、とにかく舌が肥えている。それを逆利用するのだ。

様子を見に行くと。

メルルを見て、誰もが背筋を伸ばした。

後ろには、難民達が怖れるバイラスさんまでいるのだから、当然だろうか。

「ひいっ!」

「お、お願いにございます! 殺さないでください! 子供だけは、どうか、殺さないでください!」

「仕事次第だ」

出来るだけ冷ややかな声を造り、メルルは応じる。

難民相手でも、メルルは態度を変えることを覚えている。最初の方に受け入れた、行儀が良い難民に対しては、可能な限り優しく接するようにしている。これは言葉遣いなどでも同じだ。

しかし、荒くれ揃いのアールズ北東部の耕作地。それに、西大陸の、怠ける事を正当な権利と考えてしまっているこの荒野の難民に対しては。

恐ろしい殺戮姫としての噂が流れることを止めず。

今でも、こうして、恐怖の対象として君臨している。

早速試作品を確認。

虫眼鏡まで使って、作り上げられたものの品質を確かめる。

桃の蜜漬けを賞味。

悪くない。

充分に、周辺国に売り込める味だ。しかも蜜漬けは美味しいだけではなくて、保存も利くのである。

ただ、耐久糧食のように、ゼッテル包みは流石に出来ない。昔大量生産されて、今ではお払い箱になっている缶詰の容器を使う。これはアーランドから輸入していて。この容器に蜜漬けを詰めて、いずれ輸出を考えていた。

貴重な外貨獲得手段になる。

歯車の方は、荒野の隅に作られた工廠で確認。

アーランドから提供されたり。他の遺跡から引っ張り出された機械類を使って、此処の者達が歯車を加工している。

勿論それだけではない。

金属板なども、此処でかなりの量を作っていた。

出来がいいものは、ハゲルさんに引き渡して、加工するのである。

そういえば。

ハゲルさんは、どうしてだろう。

この間、かなり悲しそうにしていた。

いずれ、様子を見に行くべきかも知れない。

品質を確認。

まだ完璧とは行かないが。それでも、相当に良くなってきていると評価できるだろう。満足して、メルルは頷いていた。

メルルが行くのをみて、技術者達は胸をなで下ろしたようだった。

反抗する奴を何度かぶちのめしたり、どれだけ実力があるかしっかり見せておいたのが効いている。

恐怖の存在として、彼らの心に、メルルはくさびを打ち込んでいて。

それは良く機能しているのだ。

「しかし、やり方が徹底しているな」

「本来は、彼らにも優しく接してあげたいのですけれどね」

「だがそうすると、調子に乗る、か」

「悲しい事ですが」

バイラスさんが言うとおりだ。

彼らに優しく接した国もあった。

だが、そうすると、難民は調子に乗った。人数が多いのだから、この国を寄越せと言い出した奴らまでいた。

無駄飯食いに等しい連中ほど傲慢で。

「辺境の蛮族」を、舐めきっていた。

だからこうして、一度恐怖を徹底的に叩き込まなければならなかった。辺境で誰のおかげで生きてこられたのか。

それを思い知らさなければ。

受け入れた難民によって、アールズどころか、辺境全てが自沈してしまっただろう。

彼らは、自分の弱さを盾にして、好き勝手するという、前代未聞の連中だった。

くしくも、だが。

いにしえの書物をひもとくと。

同じようにして、社会に迷惑を掛けながら平然としている連中が、いにしえの時代には大手を振っていて。

金儲けにまで利用していたらしい。

人権屋、などと呼ばれていたそうだが。

勿論それは、本来の弱者を利用している事であって、唾棄すべき連中だ。

少なくともメルルの目が届く範囲で。

同じ事は行わせない。

とにかく、荒野の確認は完了。

すぐにその場を離れて、ゼウスらしきものがいる場所に出向く。2319さんが偵察を申し出るが、首を横に振る。

此処は周囲からよく見えるからだ。

セダンさんに、狼煙を渡しておく。

火を焚くタイプではなく、発破が内蔵されていて。発動すると、空中に打ち上げられる形式である。

使い方を説明。

極めて簡単なので、すぐに覚えてくれた。

ちなみに作ったのはメルルだけれど。

発明者はトトリ先生だ。

アニーちゃんには、防御魔術で壁を作ってもらう。バイラスさんがそれを見て、感心した。

「見事な術式だ。 これなら、どの悪魔族の部族でも通用するぞ」

「褒めてくれてるの? ありがとう」

「人間族の成長は早いな。 ちょっと前までは生意気なだけのはな垂れだったのに、今ではもう一人前では無いか」

「……」

流石にはな垂れとまで言われてむくれるアニーちゃんだが。

それでも、文句は言わなかった。

それだけ大人になっている、という事である。

陣を展開したまま、進む。前衛はメルルが務める。後衛はバイラスさんに任せる。本来はそれぞれをミミさんとジーノさんに任せるのだけれど。今回は二人がいないので、こういう配置だ。

荒野を進む。

小物のモンスターが様子を見に来るが、此方の実力を察してさっさと離れる。

それでいい。

殺しは大好きだが。

無意味に始めようとは思わない。

気配は、どんどん近づいてくる。

そして、見えてきた。

大きな岩の影に。

もたれるようにして、ゼウスはいた。

地面に書かれているのは魔法陣だ。強力な魔術によって、防御の壁が作り上げられている。

そして、遠目からも分かる。

ゼウスは、窶れきっていた。

「……メルルリンス姫か」

「何があったのですか」

「近寄るでない!」

不意に大きな声。

まさかこれは。

死病の類か。

ゼウスが、視線で指す。

それは移動してきた地点を示す地図。

「どうやら、一なる五人は、遠隔操作で。 儂の体内にある何かを壊したらしい。 その結果、儂の体内には、恐ろしい病気が蔓延しておる。 進化した辺境の民であっても、耐えられるかは分からぬ」

「!」

最悪だ。

まさか、一なる五人は、そのような手に出てきたのか。

ゼウスは、バイラスさんに言う。

「そこの悪魔族、族長クラスだな。 頼みたい。 儂は此処で果てるつもりだが、この枯れた肉体を用いて、病気への特効薬を造り出して欲しい。 それと、感染者が出ぬよう処置を」

「承知した……!」

これは、由々しき事態だ。

すぐにバイラスさんが、他の悪魔族を集めに戻っていく。メルルも地図を確認。この経路は、即座に封鎖する必要がある。

何しろ一なる五人が炸裂させた病気だ。

どれだけのおぞましさを誇るか、見当もつかない。

じっと俯いていたが。

アニーちゃんが、顔を上げた。

「私が、病気を解析する」

「ちょっと!」

セダンさんが止めようとしたけれど。アニーちゃんは、表情を変えない。この子は、本気だ。

そして、その理由が、何となくメルルには分かった。

「いろんな病気になってきて、解析してきたから、私が一番早くできると思う」

「駄目だよ、危険すぎる!」

「危険なのは、この病気に関わる人達」

正論である。

この子は、本来とても賢い分。すぐに病気に対抗するリスクが分かるのだろう。何よりも、だ。

この子は。そもそも。

あらゆる病気に対応出来るように、作られているのだ。

昔、あのダブル禿頭が憎くて仕方が無かった。しかし今になって思うと、連中の考えは正しかった。

辺境戦士でさえ死ぬような病気もあるのだ。

いにしえの人々なんて。

外に出たら即死。

それが現実。

現実を変えるには、荒療治しかないのである。

すぐにバイラスさんが戻ってきた。

強力な防護の術式で、身を守っている。

「すまぬが、メルル姫。 増援のホムンクルスを最低でも二個小隊は廻してくれ。 それとエメスを三十機。 此方からも、悪魔族の戦士を二個小隊ほど、この件に動かす」

「そんなに!」

「まずはこの移動経路を徹底的に消毒する。 周辺にいる動物も検査して、感染が確認されていたら殺処分だ。 最悪なのは鳥などに感染した場合だ。 とにかく、事は一刻を争う。 パンデミックが始まったら、取り返しがつかない事になるぞ!」

「分かりました、すぐにでも」

無茶だが。

それでも、下手をすると辺境が滅ぶ状況だ。

やるしかない。

すぐに2111さんに、伝令として、モディスに出向いて貰う。此処からなら。全力で走って二日か。

ケイナにも、同じように、アールズ王都に出て貰う。

これから納品予定だったエメスが十機いるので、それを今回の件に廻す。それと、冒険者を、この荒野の護衛に廻して。その代わり、ホムンクルス達とエメスを、パンデミック対策に動かす。

他のメンバーは、此処で悪魔族の手伝い。

医薬品を確認。

一応の分はあるが。

アニーちゃんが病気になったとして。恐らく症状は、最悪のレベルにまで達するだろう。下手をしなくても、死に瀕する可能性が高い。

だけれども。

特効薬を、一秒でも早く作らなければならない状況だ。

悪魔族の一人が、モンスター化している馬を引っ張ってくる。人間が飼っている馬とは根本的に違う、雑食の種類だ。何でも免疫力が高いらしく、強力な病気への抗体を作りやすいらしい。

更に、悪魔族達は、消毒設備を作りたいと言ってきた。

まずは大量の蒸留水。

それに、熱での消毒を行う仕組みだ。

サウナのような感じである。

魔術による防御だけでは足りない、というのだろう。

周囲を壁で覆い始める悪魔族。

バイラスさんが、ここしばらくの風向きを、魔術で再現し始めた。そして、見る間に顔を青ざめさせる。

「病気に感染していると自覚したのはいつだ、ゼウスとやら」

「七日前」

「最悪だぞ……」

もしも、空気感染するタイプの病なら。

今、難民キャンプにいる者が、感染している可能性がある。

すぐにメルルも、覚悟を決めた。

これは、下手をすると。

最悪の事態になる。

 

1、その敵はあまりに微細

 

即座に厳戒態勢が取られた。

悪魔族の専門チームが、強力な魔術で防備を固め、ゼウスの移動経路を調査し始める。同時に、ホムンクルス達も到着。

無理にでも数を出せ。

そうメルルが、書状に綴り。ジオ王に送らせたのである。

ルーフェスにも最大厳戒態勢を取らせる。

もしもこれが空気感染するタイプの病であったら。下手をすると、一気に辺境が全滅しかねない。

滅菌体勢にある小屋の中では、ゼウスの解析が始まっている。メルルはその外で小屋を建てて、総指揮を執っていた。

幾つかの小屋が即時で建てられ。それらで、様々な作業が、並行で行われる。二次感染を防ぐための消毒室も作られた。

バイラスさんが、ゼウスが入れられている小屋から出てくる。

薄いリネンを着込んだアニーちゃんを連れていた。

「良い知らせと、良くない知らせがある」

「まずは悪い知らせからお願いします」

「経路を調査中の班から、連絡が来た。 どうやらこの病、動物にも感染するタイプらしいな。 同じ症状の鼠が、移動経路で発見された」

「!」

最悪だ。

病気の中には、複数の動物を経由するものがある。

これが下手をすると、一気に感染を爆発させるのだ。

とにかく、荒野の。ゼウスが通った地点を、念入りに焼却処分。その近くで見つかった小動物も焼き払う。

可哀想だが。

これは仕方が無い。

他の動物たちに感染したら、それこそ手に負えない事になる。

ゼウスはしっかりした様子で、受け答えには応じているけれど。それでも、疲弊しているのがメルルにも分かる。

「良い知らせは」

「病気の元を発見した」

「すぐに解析してください」

「実施中だ」

バイラスさんが、アニーちゃんを視線で指す。

非常に弱くしたサンプルを注射したという。こうすることで、病気に対抗できるものを作るそうだ。

本来は自殺行為だが。

アニーちゃんは病気に対抗するために作られた体だ。

何とか出来る。

そうでないとしても、メルルは複数の薬を持ってきている。可能な限りの事はする。

戦闘では頭がおかしくなる事を自覚しているメルルだが。それ以外では、前と変わっていないつもりだ。

誰も。

こんな事では、死なせない。

巡回班が、調査を進めてくれる。ゼウスが潜んでいた地区を徹底的に調査。どうやら、植物にまでは感染しないようだと、二日後には判明。

しかし、である。

三日目に。

最悪の事態が起きた。

病の元を注射した馬が発症。凄まじい勢いで消耗していき、あっという間に死んだのである。

バイラスさんも、愕然としていた。

どちらかと言えば免疫力が高い馬のモンスターだったのだ。それが、こんなにあっさりと。

如何に危険な病気かは、一目瞭然だ。

アニーちゃんは、耐えられるのか。

背筋が凍る思いである。バイラスさんも、ゼウスと同じ症状で死んでいった馬を見て、戦慄を隠せない様子だ。

「なんということだ……」

「他に手は」

「ワニはいるか。 生きたままがいい」

「……何とかしてみます」

バイラスさんの話によると。

ワニは病気に対抗する力に関しては、全ての生物の中でも最上位に入るというのだ。それくらい強い対抗能力を持つという。

ドラゴンなら更に良いらしいのだけれど。

流石にそれは無理だ。

ゼウスはまだ生きている。

それだけタフに造られていると言うことだが。これはひょっとすると、それでも危ないかも知れない。

メルルは頷くと、戻ってきていたケイナとライアスに声を掛ける。勿論滅菌室に入ってからだ。

2111さんと2319さん、それにセダンさんにも同行して貰う。

「沼地の王に会いに行くよ」

「えっ!?」

流石にセダンさんが吃驚。

あのドラゴンは、時々同盟関係にあるからか協力してくれるけれど。其処まで目立って友好的な訳では無い。

利があるから、手を貸してくれる。

それだけの存在だ。

あと、沼地の王の後は。

ディアエレメントさんにも会いに行きたい所だ。

兎に角、今は出来る事を全てこなさないと危ない。難民達がいる荒野でも、対応策を進める。

まず、人の行き来は禁止。

消毒室を作って、どの難民のいる地区にも建てる。王都にも。

最悪の場合に備えての事だ。

悪魔族がノウハウを知っているから、難しくは無い。ただし物資を準備するのが大変なので。トトリ先生に書状を出して、手伝って貰う。

ロロナちゃんも手伝ってくれれば、多分どうにかなる。

ゼウスはアールズから出ていない。

パンデミックも最悪の場合、アールズ内部で収束させないといけない。今、悪魔族が、最悪の状況で飛んだ鳥を想定して、探索を進めてくれている。周辺国でも、調査をしてくれている状況だ。

手際が良い。

本当に助かる。

だが、それでもパンデミックが始まったら洒落にならない。バイラスさんも、恐らく決死の覚悟で、戦ってくれている。

メルルも此処は、何でも出来ることはしなければならない。

 

休まず走って、沼地に到着。

既に、アールズ王都南部の耕作地帯と鉱山は、厳戒態勢に入っていた。ルーフェスが手を回してくれたのだ。

すぐに水を口に入れて、一気に飲み干したあと、状況を確認。

此処を守っている老戦士が、今の時点で感染者は出ていないと教えてくれた。頷くと、すぐに沼地に。

モンスターとの戦闘は避ける。

沼地の王とは、今戦うべきではない。いや、今後もだ。

沼の中の浮島に向けて。

メルルは呼びかける。

沼地の中から、である。

「沼地の王! 話があります!」

しばし待たされる。

沼地の王の、赤い巨躯が、ぬっと森の上に顔を出したのは直後である。メルルは、昔ほどの圧迫感を覚えなかった。

今、殺し合えば。

多分勝てる。

だけれど、それには意味がない。今はもっと重要な事をするために、ここに来たのである。

うずうずとわき上がる殺意は、必死に抑える。

「どうした。 何か用事か」

「ワニのモンスターはいませんか? もしも良ければ、お貸しいただきたく」

「ワニ……ふむ。 理由を聞かせよ」

頷くと、最初から順番に話していく。馬のモンスターが瞬く間に死んだと聞くと、沼地の王も、流石に事態を理解してくれたようだった。

だが、危険な話である。

部下に死にに行けというようなものだからだ。

「貴様、自分が何を言っているかは分かっているな」

「承知の上です。 対価も用意しましょう」

「お前達が最近飼育し始めた家畜用の牛。 あれを三十頭」

「……」

今の時点で、あの牛は、かなりの高級品だ。それに一度に三十頭は少しばかり難しい。

実は、この間。

邪神との戦いで、沼地の王を援軍として呼んだときも。この牛で手を打ったらしい。それだけドラゴンにとっても美味、という事だ。

「分割払いでお願い出来ますか。 今、三十頭は持ち合わせがありません」

「ならば十頭ずつ三年で」

「良いでしょう。 ケイナ」

ケイナから受け取った国書用のゼッテルに、さらさらと、ペンを走らせ。書状を仕上げる。

この手の書類仕事も、もうメルルは慣れっこだ。沼地で立ったままやらなければならないのは少々大変だけれど。どうにでもなる。

実は、十頭でも結構負担が大きいのだけれど。

後で生じる損害を考えれば。

はっきり言って、この程度は安い。

スクロールを持って、2111さんが浮島に。其処に現れた、幽鬼のようなモンスターが受け取り。顔を近づけて、沼地の王が文章を読む。

何度か確認を取り。

それを、2111さんがメモ。

トトリ先生なら更に早かっただろうけれど。メルルだって、こういう折衝は経験を増やしているのだ。

程なく、沼地の王は、了承した。

「よし。 良いだろう。 ただし、無為に死なせるな。 我が部下である事に代わりは無いのだからな。 できれば生きたまま帰せ」

「分かっています」

沼地から、のそりと現れた。メルルの背丈の七倍はある大鰐のモンスター。しばし向き合う。

促されて、大鰐は自分で、沼地の縁へと歩いていく。きっと、自分がしなければならないことも理解しているはずだ。

沼地の縁で待っていた悪魔族の戦士が、八人がかりで抱えて飛んでいく。それが一番早いからだ。

メルルは、疲れている皆に、もうひとがんばりを指示する。

今度は、ディアエレメントさんの所だ。

セダンさんが、流石に音を上げた。

「て、あの路を往復して、更に先まで行くの!?」

「はい、これ」

口に、耐久糧食を突っ込む。

メルルも、黙ったセダンさんを横目に、耐久糧食を口に入れた。

丁度良い。

ディアエレメントさんの所に行く前に、荒野の様子も確認できる。そして、状況の全体把握もする。

もしも、最悪の感染爆発が始まっていたとしても。

絶対に抑えてみせる。

メルルの決意は揺らがない。走る。

無心に。

今なら、鳥よりも早く行ける。恐らく、その認識はさほど事実と乖離していない筈だ。メルルはもう達人級の実力を身につけているし、周囲の皆だってそう。特にライアスとケイナは、どれだけの努力を重ねたか分からない。

前線に出向いて、クーデリアさんやステルクさんに、頭を下げて修行を漬けて貰っているとも聞いている。

メルルを補佐するためだ。

そんな忠臣達に応えるためにも。

メルルは、飛ぶ鳥より速くでも走る。

途中、農場による。

此処も厳戒態勢。話を聞く限り、感染者は出ていない。しかし、皆、不安が伝染しているようだった。

恐ろしい病気が流行るかも知れない。

それについては、知られ始めているのだろう。

どうパニックを抑えるか。

それが、パンデミックの拡大を防ぐための、措置だ。

今の時点では、順調に推移している。

腹立たしいのは、病気だと理解したあと、ゼウスが理想的な動きをしているにもかかわらず。パンデミックの恐怖が去っていないこと。

一なる五人が仕込んだ病気の恐ろしさが、手に取るように分かる。

再び、ゼウスの所に。

悪魔族達が、額を集めて、深刻そうな話をしていた。これだけで、何かろくでもないことが起きたことが分かる。

ワニはもう到着して。

治療のための措置を受け始めているようだった。

「メルル姫」」

「バイラスさん、どうですか、状況は」

「調査部隊から、良くない報告が次々に上がっている」

それによると。

ゼウスが排泄をした場所の近くから、感染し、既に死んでいる動物が複数見つかっているという。

つまり、少なくとも。

排泄物を媒介にして、病気は感染するわけだ。

これは恐ろしい事である。

例えば、今の人間には風邪ほども効かないけれど。鼠の排泄物を媒介して感染する病気が存在する。

その毒性が千倍になったらどうなるか。

あまり考えたくない事である。

「その死んだ動物を口に入れた鳥らしき死骸が、最悪の感染距離の円周上で発見され、今滅却処分が始まっている」

「やはり、そうですか」

「つまり、その鳥の移動経路で、糞が落ち。 それを誰かが何かしらの形で触っていたら……」

パンデミック成立だ。

すぐに地図を確認。

最悪だ。

よりによって、アールズ北東部の耕作地を、横切っている。

鳥の糞なんて直接口にするはずは無いが。

例えば農作物に付着して、それを何かしらの形で触っている可能性は、否定出来ない。その経路でも、鳥が糞をしている可能性は低くない。

「即座に調査部隊を。 それと、耕作地は閉鎖、最大厳戒態勢を取るように、ルーフェスに伝達」

「はい!」

ホムンクルスの一人が、飛び出していく。

メルルは頷くと、もう一つの悪い話を聞くことになった。

アニーちゃんの熱が下がらないという。

「今まであらゆる病気を経験して克服してきたらしいが、それでも厳しいかも知れん」

「……熱は高いのですか」

「ああ。 これ以上上がると脳細胞が死滅する可能性があったから、解熱剤を少し投与した」

もしもあの子が死んだら。

メルルのせいだ。

皮肉屋で怠け者で。だけれどシェリさんの事が大好きで。

戦いでは、きちんと活躍してくれて。

いつも必死に大好きな人のために頑張っていた。

自分が、病気と闘うためだけに造り出された存在だと知っていても。アニーちゃんは、拗ねたりしなかった。

いや、本当にそうか。

あの斜に構えた性格は。

自分をはかなんでのものではなかったのか。

シェリさんには、既にホムンクルスから伝達が行っているという。これならば、きっとだけれど。

最悪の場合にも、間に合うはずだ。

勿論、そんな事は絶対にさせない。

「ワニの方はどうですか」

「此方は順調だ。 ひょっとすると、既に対抗できるかも知れん」

「凄いですね……」

「元々泥の中で生活する事を前提としている生物だ。 あらゆる病気に強いのは当然で、そうでなければ生きてはいけんからな」

バイラスさんが、ガラスに入れたサンプルをくれた。

病気の元だ。

これを、ディアエレメントさんの所でも調べて貰う。

ひょっとすると、何か分かるかも知れない。

すぐに出る。

ライアスが、隣を走りながら、声を掛けてくる。

「もしアニーに何かあっても、彼奴はお前を恨んだりしない。 だから馬鹿な事は考えるなよ」

「私は王族だよ」

「……」

メルルのために死んでいった人は。

今までいなかったわけでは、ない。

戦いの時も。

それ以外の時だって。

アニーちゃんがそれに加わったって。

今更馬鹿な事なんて考えない。

冷徹でドライなことは理解しているけれど。

それでも、メルルは。民の先頭に立ち続けなければならないのだ。それが、税金を受け取っている立場の者が、するべき事だ。

走る。

水源の森まで、半日ほど走る必要がある。

不意に、隣に並んで走っている人に気付く。

トトリ先生だった。

「やあ」

「応援に来てくれたんですか?」

「そうだよ。 というか、ちょっとだけ情報伝達ね」

トトリ先生によると。

厳重に封印されている無限書庫に足を運んで、調査を始めているという。それによると、幾つかのデータが出てきているそうだ。

「いにしえの時代に記録がある、エボラ出血熱って病気の変種じゃ無いかな。 今調べてる奴は、エボラなんかとは比較にならないほど危険だけれど」

「何か対応策は」

「根本が同じなら、対策も同じ。 対抗できる物質ができ次第、皆に投与して、終わりだけれど、時間との勝負になるね」

そうか。

ならば、より急がなければならない。

これから数日は、多分寝る暇も無いだろう。

いつの間にか、側からは、トトリ先生がいなくなっていた。

 

水源で、ディアエレメントさんの所に到着。

知性持つモンスター達には、すぐに事情を説明。彼らもアールズとは同盟を組んでいる身だ。

即座に厳戒態勢を取って貰った。

「今度は病原菌による攻撃か。 手段を選ばぬ奴らだな」

そう言ったのは、ヴァイスハイドさん。

以前世話になった、此処のリーダー格のモンスターだ。案内して貰う。ディアエレメントさんは、奥で静かにしていた。

彼女にサンプルを渡して、解析できるか聞いてみる。

設備を一瞥すると。

ディアエレメントさんは、やってみるとだけ応えてくれた。

調査の間。

他の皆には休んで貰う。

メルルも座るように言われたので、言葉に甘える。

持久力がついてきているとはいえ。

それでも、体力は無限ではないのだ。

時間が惜しい。

じりじりとした焦りが、腸を焼くようだった。

実際に腸を焼かれた事があるメルルは。あの時によく似た感覚だなと、苦笑しながら思う。

それだけ図太くなっている。

良い事なのだろう。これに関してだけは。

「エボラをベースとした病気か。 しかも恐らくは、一なる五人が、任意のタイミングで、休眠していたものを目覚めさせられる」

「そうです。 しかもほぼ確実に、時間稼ぎのためだけでしょうね」

「そのために、こんな超危険物質を、ばらまく事が出来る、か。 いにしえの時代にも、子供に爆弾を抱えさせて敵に特攻させるような異常者どもが大手を振って歩いていた時期があったが。 それに匹敵するな」

やはりこの世で一番恐ろしいのは人間だ。

ディアエレメントさんは、大きく嘆息する。

解析完了。

四刻ほど、経過していた。

やはり、だが。

エボラ出血熱という病気をベースにしたものらしい。解析によると、空気感染はしないが。その代わり糞尿などに蓄積され、これに触った瞬間感染するという。そして相手の中で爆発的に繁殖。

相手を殺せる段階まで来たら。

突然発症する。

このため、相手の体力によって、潜伏期間が異なるというのだ。

「対応策は」

「今、悪魔族がワクチンを必死に作っているのだろう?」

ワクチン。

そうか、あの対応するものの事か。

頷くと、ディアエレメントさんは、幾つかの物資を示してくれた。そのワクチンを、複製するためのものだ。

「君達の所にいる小型の複製専門ホムンクルス達を総動員しつつ、潜伏期間にある可能性の者には、眠って貰う必要があるだろうな。 まずは眠らせる所から始めるべきだろう」

「……なるほど」

眠らせるのも、普通のでは駄目だ。

それこそ冬眠のような、半分生命活動を停止させるような状況にしないと。

頷くと、メルルはそれについての術式について考えつつ。

ディアエレメントさんの所持機械から出力された結果を受け取った。

2319さんに、まずはそれを手渡す。

「これをバイラスさんに。 その後、アールズ北東部の耕作地に。 全速力で」

「分かりました、マスター」

「お願いね」

敬礼すると、2319さんは、びゅんと凄い勢いですっ飛んでいった。

ケイナも、その護衛をして貰う。

メルルは他の三人と一緒に、アールズ北東部の耕作地へと、直行する。小型のカヌーを貸してもらったので。

これを使って、川下りをするのだ。

舵はライアスに任せる。

途中でメルルは。

2111さんと、話した。

川の水しぶきが凄い勢いで周囲を飛ぶのは。それ以上の凄まじさで、カヌーが進んでいるからだ。

「耕作地の悪魔族に、強烈な睡眠の魔術を準備して貰わないと」

「移動まで二刻半と言う所でしょうね。 そうなると、もしも発症する可能性がある人がいたら……」

「ギリギリか」

発症者がいても、隔離して無理矢理眠らせるようにと、ディアエレメントさんには言われている。

ワクチンとやらが完成しても。

患者が弱り切っていたら、意味がないそうなのだ。

発症したら、即座に眠らせるくらいで無いと、多分間に合わない。それに、だ。

ネクタルを投与は出来ない。

何度かの経験ではっきり分かったが。

メルル達でさえ、ネクタルの過剰摂取は毒になる。

大陸北部の軟弱な人間なんて。

下手をすれば、ネクタルを入れるだけで、年単位で寿命が縮むだろう。

「速度上げるぞ!」

「お願い!」

ライアスに叫び返す。

幾つかの相談を、2111さんとする。彼女はとても緻密で整理された頭脳に、磨きを掛けてくれている。

今後もメルルのブレインとして、ずっと側にいて欲しい。

荒野に出る。

フォーマンセルで移動中の悪魔族の編隊が見えたので、手を振る。向こうも気付いたようで、軽く返礼してきた。

川下りを楽しんでいる状況だったら。彼らに話を聞くのもありだったのだろうが。

しかし、今はそれどころじゃあない。

あらゆる状況について想定しながら、話を進めて。

そして、見えてきた。

耕作地だ。

淡い光のドームで包まれているのは、隔離のためだ。鼠一匹逃さない態勢である。すぐにカヌーを下りて、飛び込む。

護衛についている悪魔族に、状況を説明。

族長クラスの悪魔族が出てきて、話を丁寧に聞いてくれた。

「コールドスリープか。 しかもこの人数」

「発症してからでは間に合わないかも知れません。 急いで」

「……実は、既に遅い」

「!」

案内される。

どうやら、それらしい症状の人間が、数人出ているらしい。厳重に隔離された上で、治療の魔術を掛けられているが。まるで効かない様子だ。

「発症したのは」

「一刻ほど前だ」

「まずい……!」

糞尿に接触しただけで感染する。

その可能性を考慮して、触った可能性がある人間をリストアップして貰う。なお、隔離されている者達は、即座に眠りの魔術を投入。その場で、死んだように眠って貰った。これでどうにか、病状の進行は抑えられる。

案の定、ならず者達が騒ぎ出しているが。

メルルが出て行くと。

流石に彼らは押し黙った。

「殺戮姫……」

誰かが呟く。

普段なら放置しておくそれも。

今はかんに障った。

だが、敢えてそれには反論しない。何度か咳払いすると、メルルは、彼らに対して、声を通るように工夫しながら喋る。

「既に察しているだろうが、今恐ろしい病気が流行ろうとしている。 これについては、現時点での解析で、エボラ出血熱改と名付けている。 感染すると、数日も保たずに命を落とす恐ろしい病気だ」

「何だよそれ!」

「俺たちはどうなるんだ!」

「今から言う事を守れ! そうすれば助けてやる!」

高圧的に。

敢えて恐ろしさを強調しながら、メルルは吼える。

黙り込んだならず者達に、順番に説明。

まずは糞尿への接触絶対禁止。触っただけで感染する。逆に空気感染は絶対にしない。其処だけは、安心して構わない。

感染者も、絶望の必要はない。

今、対応するための薬を量産している。

これを投与すれば、助かる。

メルル自身、これについては確信は出来ていない。だが、きっとどうにかなると思っている。

そう思いながらでないと。

相手を納得させる弁舌は振るえない。

「体調を崩したら、即座に申し出ろ! 隠していると、確実に死ぬ事になる! それと、逃げても死ぬぞ。 外はモンスターが手ぐすね引いて待ち伏せている! お前達など、モンスターに襲われたら即死だと思い知れ!」

「……」

気力を削がれたらしい暴徒達が、沈黙。

メルルは頷くと。

発症者達が働いていたスケジュールを確認。何が原因かをたどると同時に。同じトイレを使用した者を、即座に洗い出させる。

幸いにと言うべきか。

川の中は、強力な、小さな生き物たちの巣窟だ。

このエボラ何とかでも、川に流してしまえば、あっという間に死滅してしまうと言う。それくらい強烈なのである。

ホムンクルス達が、労働スケジュールを、必死に洗う中。

感染者が更に八名、発見された。

即座に隔離。

眠らせる。

そしてメルルは知らされる。

感染の可能性がある人間が、百六十名に達することを。

「恐らくは、この畑の作物が原因です。 鳥の糞が落ちたのでしょう」

「料理をした者も危ないですね」

「私です」

挙手したのは、悪魔族の戦士の一人。

意外だ。

料理を悪魔族がしたのか。

彼も即座に、隔離。彼の場合は、体力があるからだろう。まだ病気を発症はしていなかった。

ただし、問題は。

この人数の糞尿となると、恐らくトイレ全て、という事だ。

一端トイレは閉鎖措置。

そして、下手をした場合。数千人を、眠らせる必要があることを、メルルは悟っていた。

しかも、まだ今の時点では、分かっているだけで、此処でパンデミックが起きかけている、という事である。

最悪の場合。

他の難民居住区でも。

下手をすると、前線でも。

同じ事が起きる。

流石にメルルも、焦燥で胃が焦げそうだ。

2319さんが来る。

ケイナも。

全力で走ってきたらしく、流石にへばっていた。彼女たちは、伝令として。バイラスさんからの情報を預かっていた。

「ワニの方が上手く行きそうです。 病原菌への対抗するものが、明日中には出来るのだとか」

「良し……」

「アニーちゃんは!?」

セダンさんが、ちょっと大きめの声で言う。

分かっている。

良い状態の筈がない。

「アニーちゃんも、病気の対抗物質が体内で出来つつある様子です。 でも……」

「どうかしたの」

「熱がひどくて、下がらないそうです。 既に脳がおかしくなるレベルの熱が、ずっと続いている様子で」

「何てこった、畜生」

やはり、止めるべきだったのか。

ライアスの悪態を聞いて、メルルも拳を握り混んでいた。

アニーちゃんが経験した病気については、これからこの世界に来る人達が対抗できるように、フィードバックされる。

そしてアニーちゃんは。

危険を承知で、これに志願した。

誰も止められない。

分かっていても。止めるべきだったのか。しかし。

空を仰いで、頬を叩く。

今はメルルが、誰よりも冷静でいなければならない状況だ。

「王都に戻るよ」

ワクチンとやらが出来たタイミングで、量産に入る必要がある。

それに、王都にいれば。

パンデミックが発生した場合。其処に等距離等時間を維持できる。つまり、同じタイミングで、駆けつけられる。

この戦いは、過酷なものになる。

まだ、メルルは。

心折れるわけには、いかなかった。

 

2、朦朧の夜

 

メルルが足を運んだのは、アストリッドさんのアトリエ。もしも、だが。正気を取り戻してくれていれば。

助けになるかもしれない。

其処まで上手く行くかは分からない。

だが、状況を見に行く必要はあると判断した。

いずれにしても。

ワクチンとやらが届くまで、まだ時間が掛かるのだ。

アトリエは外から見ると、ただの建物。

しかし、中に入ると。

つんと強烈な薬品臭がする。

階段を下りて、地下に。

そして、其処では。

やはり、まだ拘束されているアストリッドさんと。側にずっと寄り添っている2999さんの姿があった。

「どうですか、状態は」

「……」

首を横に振る2999さん。

まだ、辛いのだろう。

アストリッドさんは、二度にわたって心が壊れ。憎悪だけで心を燃やして、今まで生きてきた人だ。

そのよりどころを粉砕したのである。

元に戻るまで、時間が掛かるのは当然だ。

「何か事件ですか」

「一なる五人による病原菌攻撃です。 今、必死にパンデミックを防いでいます」

「まあ」

2999さんが、思わず立ち上がる。

そういえば彼女は。

この世界に戻ってきてから、しばらくは西大陸の難民を担当していた。病気に対する措置も、知識があるはずだ。

「ワクチンが届き次第、量産を開始します。 此処のアトリエで、その手伝いをしていただきたく」

「分かりました。 多少不自由ですが、どうにかしましょう」

「待て」

冷え切った声。

拘束されているアストリッドさんだ。

「おおかたエボラかエイズかだろう」

「はい。 知っている病気ですか」

「これでも、いにしえの時代に何が起きたかは把握しつくしているつもりだ。 いにしえの時代の末期には病気を武器にすることが流行った。 エボラはその中でも特に人気でな、貧民が集中する国で、良くばらまかれたそうだ。 医者に行く金もない貧乏人が、主にターゲットになり、ばたばた倒れていったらしいな」

外道が。

吐き気がする。

例の、世界を滅ぼした、優勢主義者だとか優性主義者だとかいう連中だろう。そう思ったが、先を見通したようにアストリッドさんは言う。

「違う。 主にそれをやったのは、宗教関連の原理主義者どもだ」

「原理主義者?」

「いにしえの時代の宗教の、創始者が唱えた思想だけを信仰し、その時代に合わない思想までも強要した阿呆共だ」

「……」

分からない話だ。

宗教だったら、時代に合わせて柔軟に変えるべきだろう。そんな時代に合わない思想を無理に信じ込んでも、弊害が生じるだけだろうに。

いにしえの時代から。

人間は愚かだった。

そういうことか。

「エボラだったら、特効薬は作れないが、予防薬くらいなら作れる。 ワクチンの前に、それを配っておけ。 恐らくパンデミックは防げる」

「レシピはありますか」

「……其処の棚にある」

2999さんが、すぐに取り出す。

なるほど、見る限り、メルルにも作れる。

アストリッドさんは、拘束されたまま。じっと此方を見ていた。

「有難うございます。 これで、被害を更に減らすことが出来る筈です」

「……貴様。 何時からあのような無茶苦茶を考えていた」

「人間を止めた頃からです」

「そうか」

2999さんが視線を背ける。

分かっている。それは一般的には、悲劇に分類されることだから。だが、メルルはもう、何とも思っていない。

若返る過程で人間を止めたアストリッドさんも。

恐らくそれは同じだ。

「貴方を鎖から解き放つには、荒療治しかありませんでした。 恨むのであれば、受け入れます」

「今更これ以上恨めるか。 だが、今はまだ許すこともできん」

「アストリッド」

「師匠、こればかりは無理なんだ。 分かって欲しい」

頷く。

だけれども。今回は、知恵を貸してくれただけで充分だ。

それにこの人には。

ロロナちゃんを戻すときに、手伝って貰う必要がある。今のうちから、少しずつでもいいから、協力関係を構築しておきたい。

すぐにアトリエに戻る。

予防薬のレシピは、さほど難しくもない。というか、こんなもので大丈夫なのかと、小首をかしげるレベルだ。

兎に角量産。

説明を見る限り、これを発症前に飲ませれば、それだけで症状を緩和できるという。

数万人分を作るのは大変だが。

他の製造ラインを脇に置いてでも、これとワクチンを作る必要が、今はある。ちむちゃんも足りるかどうか。

お城に行っていたケイナが戻ってくる。

青ざめていた。

「メルル!」

「今度はどうしたの」

「前線に敵が姿を見せました! セトが率いているのは確実です」

「いや、むしろ好都合」

今、前線にはジオ王がいる。負傷は癒えきっていないが、押さえ込むくらいは余裕を持って出来るだろう。

むしろ、敵の動きを理由にして。

皆の心を引き締められる。

「敵が来ている中、軽挙妄動は起こさないように。 そう通達して」

「分かりました。 それよりもメルル」

「どうしたの?」

「貫禄が出てきましたね。 何があっても動じなくなって、頼もしいと私も思います」

そうか。

ケイナにそう言って貰えるのなら、本当なのだろう。

「でも、無理をしすぎです」

「お願い、我慢して」

「……」

ケイナは視線をそらす。

そしてそれ以上は、何も言わなかった。

ホム君とホムさんを呼ぶと、薬の中間生成物の量産を手伝って貰う。後は、少しずつ。出来る範囲で。

動いていくしかない。

 

ワクチンが届いたのは、翌日の夜。

話を聞くが。これは体内で作られた病に対抗するものを、悪魔族の術式で最大限に強化。本来ではあり得ないほど、効果を強くしているもので。いにしえに言われたワクチンとは、厳密には違うものなのだとか。

それは別にいい。

効けばそれでいいのだ。

そして悪魔族は、世界の汚染と戦い続けてきた種族。

その手腕を、メルルは信じる。

メルルも動く。

徹夜で作り上げた予防薬数百人分を、早速アールズ王都で配布。効果はあると信じるしかない。全員に飲んで貰う。第一陣としては、まずこれが必要となる。

勿論最初にメルルが飲んで、毒がないことは実証済みだ。

アストリッドさんを信じるのは危険では無いのかと、ケイナは言ったけれど。大丈夫だろう。

だって師匠が見ていたのだ。

あの人は、師匠に嫌われる事だけはしない。

それについては確信できる。

師匠の前で、嘘をつくこともないだろう。そういう人だ。ひねくれていても、あの人にとっては、師匠は絶対の存在なのだから。

予防薬は、成分が少なめなこともあって、数万人分ならどうにか用意できそうだ。

問題はワクチンである。

今、丁度アールズ北東部の耕作地から、伝令が来たが。

予想通り、感染者が増えている。

発症者が三十一人。そして、感染予想者が三百人を超えたところだという。

一刻ももはや待てない。

さて、ワクチンだ。

メルルは、ふと小首をかしげた。これを持ち帰ってくれた2319さんの荷車には。二つの瓶がある。

「ワクチン、二種類あるね」

「バイラス様の説明によると。 此方は効果が強いワクチン。 その代わり少量しかとれないし、量産も難しいとか。 逆に此方は効果が弱い代わりに、大量に造る事が出来るそうです」

話を聞いて、納得。

効果が強い方がアニーちゃんからとれたワクチン。

弱い方が、ワニのだ。

すぐに、パメラさんのところで、両方とも量産して貰う。効果が強い方は、パメラさんも、一瞥して言う。

「これはハイコストよ。 如何に剛腹なジオ陛下も、流石に鼻白むのじゃないのかしら」

「このパンデミックが拡大したら、下手をすると辺境全てが滅びます」

「そう。 そうね……」

パメラさんは、寂しそうな目をする。

そして、ハイコストであっても、量産はしてくれると約束してくれた。

やる事はたくさんある。

まずはルーフェスの所に行き、書類仕事を任せる。ハンコだけは先に欲しいと言われたので。メルルが預かっている印鑑を、先にゼッテルに押す。絶対の信頼があるから、だ。それでも、ルーフェスは紙に特殊なインクで印をつけて。後で持っていくので、確認をして欲しいと言う。

真面目な奴だ。だが、だからこそ信頼出来る。

まずは効果弱めのワクチンから優先。これは。アールズ王都北東部の耕作地で、症状が弱めだったり、感染が予想されている者に配る。

感染はアストリッドさんのお薬で防げるとしても。

感染した場合は、ワクチンを投与しないと駄目だ。

お薬は、生産し次第、順次各地に配る。前線にも送り出すように指示。もう数日寝ていないが、まだ動ける。

そして、今は。

動かなければならないのだ。

アトリエに飛び込んでくるホムンクルス。

「伝令っ!」

「聞こう」

「悪魔族からの連絡です! アニー様の状態悪化! 解熱剤効果無し! 意識を失っている様子です」

「……そのまま処置を続けてくださいと伝えよ」

シェリさんには、現地に向かって貰う。

だが、メルルは。

此処から動けない。

そしてアニーちゃんも。

恐らく、メルルが向かっても、喜ぶ事はないだろう。

無心に薬を生産して。ワクチンの増産を実施。

そうしている間にも。アールズ北東部の耕作地帯では、どんどん感染が確認されていた。症状が重い者から、アニーちゃんが体を張って作り上げたワクチンを投与。そして、出来次第、他のワクチンも輸送させた。

メルルは此処で。

自分に出来る事を、こなし続けなければならない。

それが王族としての責任。

そして、錬金術師として。

メルルがするべき事だった。

 

怖れていたことが起きたのは、ワクチンを増産し始めた次の夜である。

アールズ王都の東の森に展開していたリス族が。どうやら今回の病で死んだらしい野鳥を発見したのである。

すぐに滅菌が行われたが。

死んでから日が経っている。

かなりの危険を予感させた。

幸いにも、植物は感染しないことが分かっている。危険なのは鳥や、動物だけだ。このうち、野獣は気にしなくて良いだろう。

なぜなら。

鳥は、沼地に突き刺さるようにして、死んでいたからである。この沼地は、生物が存在しないタールのもので、それは救いだった。

すぐに現地に悪魔族の専門家が向かう。

メルルは、王都から指示を出し続ける。

その時には。

予想通りというか何というか。

アールズ北東部の耕作地は、綱引き状態になっていた。

次々に発症する患者。

ワクチンを投与。

ワクチンが間に合った事もあって、患者が死ぬ事は避けられたが。それでも、一刻の猶予もならない。

お城では、ルーフェスが目を皿のようにして、人の移動記録を確認。耕作地に立ち入った者全てに対して、面会と調査を行っていた。

シェリさんから文が来る。

アニーちゃんが、危篤だという知らせだった。

「此方は俺がついておく。 メルル姫は、自分に出来る事をしてくれ」

シェリさんの文に書かれたそれを見て、流石にメルルも躊躇う。ずっと一緒に戦って来た子が。

死に瀕していても、側にいることも出来ないのだ。

だが、メルルが今此処で手を抜けば。

一気に感染が爆発する。

目を乱暴に拭うと、作業を続行。なんとしても、一耕作地内で、流行を押さえ込む。リス族とも協力して、感染を防ぐ作業を続けなければならない。

既に薬品は二千人分以上を生産。

錠剤で大丈夫な事。

そして一度に釜で百人分以上作れる事が大きい。もっとも、作成の過程が非常に複雑で、前だったら手も足も出なかっただろうが。

釜を見ると。

負荷が祟ったのか、かなり痛んできている。

これは近いうちに、新しいものを用意しなければならないかも知れない。

アールズ王都の防疫は完了。

順次、難民居住区にも廻していく。

また、各地を移動するホムンクルスや悪魔族にも、積極的に防疫を受けて貰う。これは感染を伝染させることを避ける処置だ。

難民にも、メルル自身が出向いて説明。

ワクチンの摂取と。

予防薬の摂取を、同時に受けて貰う。

既に事態発覚から一週間。

その間、メルルは一刻程度しか眠っていない。

頬を叩くと、更に予防薬を生産。

パメラさんの所で増やしたワクチンも、順次配っていく。配るタイミングや順番に関しては、ルーフェスに任せる。

また、万が一に備えて。

各国にも、厳戒態勢を取るように、通達はしておいた。

ケイナが来る。

厳しい表情をしていた。

「メルル、ルーフェス様から伝言です」

「どうしたの」

「少し休むようにと」

「駄目だよ。 ルーフェスは一週間で、一秒も眠っていないでしょう? 私だって、今は父上から、事実上この国を受け継いだ身だよ」

ケイナが視線をそらす。

体を震わせているのは。

怒りと哀しみからだ。

「お願いです、メルル。 もうこれ以上おかしくなるのを見ていられません」

「戦闘以外では狂気を押さえ込めているし、大丈夫」

「大丈夫じゃないっ!」

ケイナが、こんなに激しい言葉を、メルルに対して使うのは初めてだった。哀訴というのは、このことだろうか。

錬金術なんて。

この世に無ければ良かった。

そうケイナは言う。

嘆息すると、メルルは返す。

錬金術が無かったら。

恐らく世界は、もっと酷い事になっていただろうと。

一なる五人の侵攻には、もはやなすすべが無かっただろうし。今回の件だって、対応出来なかったはずだ。

「まだ、状況が落ち着かないの。 だから、ケイナ。 もう少し我慢して」

「知りません」

乱暴に涙を拭うと、ケイナはアトリエを出て行った。

それでも。

メルルはやらなければならない。

薬の生産そのものは、軌道に乗っている。強いていうならば、ナントカの秘薬とでもいうべきだろうか。

さすがはアストリッドさん。

あらゆる局面に対応出来るカスタマイズ性の強い薬品で。

今回の件では、一なる五人の作った病気を事前防御できる薬になっているが。手を入れれば、様々な使い路もある。

錠剤二百セット仕上がり。

すぐにホムくんに、持っていって貰う。ちなみに今回は総力戦態勢と言う事で、輸送の手配事態はフィリーさんがしてくれている。また、各地の行商人もこれに協力してくれていた。

アストリッドさんを正気に引き戻す作戦でも大変だったが。

今回の件でも、国家予算規模の金がすっ飛んだことが、既に分かっている。

ジオ王も流石に鼻白んでいる様子だ。

如何に敵をアールズからたたきだし。

そして後は一なる五人を探し出すだけの状況であると言っても。

これでは、もはやなすすべがない。

後何年か一なる五人との戦いが続けば、どのみち辺境連合は、経済的な意味でも失血死するのではないのか。

そう言われている様子だ。

もっとも。

メルルが見たところ、一なる五人との決着は、年内につく。

これだけなりふり構わない時間稼ぎに出てきているのだ。

恐らく連中は。

最終段階に、王手を掛けているはずだ。

もう六百セット仕上げたところで、栄養剤と、メンタルウォーターを飲み干す。そして乱暴に、造りおいてあったパイを口に含むと、ろくに噛まずに飲み下した。栄養だけ摂取できればいい。そのまま味も確かめずに、作業に戻る。

これなら、一日千セットは行ける。もっとか。

そして、メルルが無理をすればするほど。

助かる人は、増えるのだ。

 

アニーは、高熱を出して、瀕死の状態だった。

それだけ凄まじい病、ということである。

今眠っているいにしえの人類が、この病を受けてしまったら、即座に全滅する。それほどの代物。

だからアニーは。

命を賭けて、これを解析しなければならない。

シェリは事情を知っている。

そしてアニーが、本能でそれをやっていることも。

病気に対して、戦いを挑む。

それはアニーに植え込まれた本能だ。

だから積極的に様々な病気を体に取り込み。それらを解析して、鉱山地下の遺跡に存在する邪神へと送ってきた。

だが、シェリは知っている。

体には無理が蓄積し続けていたことを。

当たり前だ。

病気の中には、いにしえの破壊を経て、意味不明な変化を経た凶悪な代物が山のようにある。

いにしえに猛威を振るったエイズやエボラなどは、今や風邪にも劣る程度の、鼻で笑われる代物でしかない。

毒性でいってもいにしえの病気の数千倍。

そういった代物が、ごろごろしているのだ。

それをアニーは、小さな体で受け止めて。必死に解析してきた。人類の未来のために、である。

その体は、造りもので。

シェリは一度解析したことがあるが。

生殖能力も存在せず。

そもそも、大人になることも、想定はしていないようだった。

用が済んだら死ぬ。

それだけの存在。

鬼畜と言うのとは違う。

あの鉱山の邪神達は、ただ合理的なだけ。

アニーが死んだら、代わりを出してくるだけだろう。そもそも、アニーが此処までがんばれるとは、思っていなかったのだろうから。

額に触るが。

凄まじい高熱だ。

人間だったら、とうに脳細胞が全滅している。アニーだって無事では済んでいないはずなのだが。

アニーはどうしてだろう。

目を開けた。

「シェリ……さん」

「聞いている」

「ふふ、良かった。 最後の戦いが、この病気で。 もう、長くはもたない体、だったから、ね」

知っていたのか。

そうだろう。知っていたはずだ。

極端に厭世的だったのは、アニーが知っていたからだ。邪神がどうせ吹き込んでいたのだろう。

或いは、下手な希望を与えると、むしろ残酷だという慈悲からか。

違う。

連中に、そんな事は分からない。

「シェリさん、私悪魔族になりたい」

「お前は立派な戦士だ。 今のままで構わないだろう」

「そうかなあ」

「そうだ。 だが、それが願いなら、叶えてやる。 お前を悪魔族にしてやる。 その後は、私がずっと側にいてやる」

嬉しいなあ。

そう呟くと、アニーは目を閉じる。

ワクチンの摂取は既に済んでいる。量産して各地に送っている。トトリとロロナがそれを担ってくれていて。恐らく感染爆発は防げる。そうでなければ、アニーがこんな風になった意味がない。

悪魔族は。

世界を救うために、体を魔と化した種族。

ばらまかれたおぞましきナノマシンを中和するために。

体がおかしくなる事を承知で。体内でカウンターナノマシンを培養し。

生殖能力さえ捨てて。

世界の回復のために、命を投げ出すことを選んだ存在。

現在の人類を恨む同胞も多い。

何も知らないで、悪魔族なんて見かけだけで呼んで。邪悪の権化のごとく扱って。のうのうと良いものを飲み食いして。

だが、シェリは。

今は、悪魔族である事を、誇りに思っている。

トトリと一緒にこなした多くの戦いで。

儚いながらも、尊い光があることを知った。

その後にトトリが壊れてしまったことで、絶望もしたけれど。

今では、錬金術の負の側面だと考えて、受け入れる事が出来ている。

そしてアニーも。

今、儚く、しかし尊い光を見せてくれた。

自己犠牲は、常に褒められた行為になるわけではない。

だがアニーは、自分にもう時間がない事を知っていた。だから、こうして。最後の戦いに、挑んだのだ。

満足そうに眠っているアニーの。

脳死が確認されたのは、少ししてからのこと。

シェリは、もう生まれてから何年生きているか忘れたが。

戦士になる前の、幼き日以来。

初めての涙を流していた。

アニーの死に立ち会ったのは、シェリだけ。他のメンバーは、全員がパンデミックを食い止めるために、全力で戦っている。メルル姫などは、十日以上眠らずに働き続けているというではないか。

誰も責められない。

一なる五人に対する、灼熱のような憎悪だけが。

今、シェリの中にあった。

 

3、転生

 

病気の発覚から、一月。

ついに、感染爆発は押さえ込むことに成功した。

アールズ北東部の難民達は、全員が生還。一時期重篤に陥った患者もいたけれど、それもワクチンが効果を発揮して、救う事が出来た。

関係者全員が疲弊しきっていて。

メルルも、一月で四刻程度しか寝ていない。

状況が落ち着いたと聞いた翌日は。

ベッドに倒れ込むと。

その次の日まで、眠り込んでしまった。

そして、ようやく。

状況を整理することが出来た。

アニーちゃんは亡くなった。

シェリさんが、立派な最期だったと、告げてきていた。

遺体は残してあるという。

脳が死んだ状況で。もはやただの肉の塊だが。

ディアエレメントさんの所に運んで。これをベースに、悪魔族に作り替えるのだとか。

脳が死んでしまっている状態だ。

悪魔族になったところで、なにも覚えていないし。

恐らくは、病気に対抗するスキルも持っていないだろう。

不愉快なことに、例のダブル禿頭が、早速代わりを用意してきたそうだ。今度は金髪の長い髪が綺麗な、優しそうな子だけれど。

メルルはまともに対応出来る自信が無かった。

リーナという彼女は、2999さんに預かって貰う。

此処で、アニーちゃんのリタイアは、戦力的にも痛いけれど。そう考える自分が、一番不愉快だった。

メルルは、手紙を握りつぶすと。

顔面を、机に叩き付けていた。

何度も。

それでも、血さえ出ない。

強靱になりすぎた体は。

むしろ、机を壊しかねなかった。

外に出ると、無言のまま、戦槍杖を振るう。メルルの怒りを理解しているように、うおん、うおんと。戦槍杖は鳴いた。

勿論、空気を切って、そう錯覚させているだけだけれど。

メルルには、戦槍杖も、怒っているように聞こえていた。

ケイナが来る。

そして、メルルを、無言のままひっぱたいた。

平手をケイナに貰ったのは、いつぶりだろう。

「反省してください」

「分かってる」

「……」

ケイナに、これからどうするかを告げる。

恐らく、一なる五人は、さらなる嫌がらせに出てくる筈。ワクチンと薬は、既に他の錬金術師が生産に掛かれる。事実アーランドにいるピアニャさんという錬金術師が、既に以降の予防生産を請け負ってくれている様子だ。

更に、もう一つ。

アストリッドさんに、聞いておくべき事がある。

ロロナちゃんを、元に戻す方法だ。

完全に人の域を外れてしまったロロナちゃんは、言うまでも無くアーランドの最大火力だが。

恐らくは戦争が終われば、用済みになる。

そうすれば、悲劇が待っているだけだ。

人に戻す方法。

それを、知らなければならない。

幼子のままでは不憫でもある。

「それにね。 恐らく、トトリ先生が、このままだと、一なる五人の計画を乗っ取って、世界を滅ぼしかねないと思ってる」

「……!」

今、西大陸は、やっと互角の戦況に持ち込んだそうだ。

此処で、戻ってきて貰う人がいる。

ギゼラ=ヘルモルト。

トトリ先生の母上である。

彼女は半分この世界からはみ出してしまった存在になっている。

トトリ先生の闇の原因は。

ロロナちゃんと、ギゼラさん。

この二人だ。

ミミさんから聞いているから間違いない。

二人を、現実に引き戻すことが出来れば。

トトリ先生を、元の優しい人に、直す事だって出来るはずなのだ。其処まで行かなくてもいい。

正気が、狂気を上回れば。それでいい。

それで、トトリ先生は、次の一なる五人にならずとも済む。

「メルル、少しは休めませんか?」

「もし一なる五人が、次の手を打ってきたら。 きっと時間切れになる」

「それほど切迫しているんですか?」

「敵の動きがおかしいの」

これは恐らく。

クーデリアさんも気付いている筈。

一なる五人は、戦いに勝とうとしているとは思えないのだ。今回のパンデミックだって、下手をすれば辺境全域が滅びていたが。

そうでなくとも、一月は対応に掛かりっきりになる。

そして、敵は。

明らかに高みの見物を続けていた。

勝つ気があるとは思えない。

時間さえ稼げば、それでいい。

本気でそう考えているのに、間違いは無かった。

「だから、まずは、急いでロロナちゃんとギゼラさんの問題を片付ける。 そして、トトリ先生が正気に戻ったら、一なる五人を屠る」

綱渡りどころか。

一手でも間違ったら、その場で詰む、とてつもない冒険になる筈だ。

まずは、ジオ王を説得しなければならない。

それに、ロロナちゃんを戻すにしても、どうするのか。

変わってしまったものは、簡単には戻らないのだ。

人としてのロロナちゃんと、今のは、完全に別物だと聞いている。

或いは、人としての意識を優位にする。

そういう手も、あるかも知れない。

「メルル、分かりました。 でも、一つだけ、する事が先にあります」

「なあに」

「決まっています。 アニーちゃんに会いに行くことです」

「!」

そうか。

そうだった。

メルルは大きく嘆息。ケイナが怒るわけだ。

きっとケイナは。

メルルが無理をしていた以上に。合理的思考の怪物と化してしまいかねないから、怒っていた。

そして、今やっと気付いたことで。

ケイナは感極まって、泣き始めてしまった。

時間は、どうにか出来るか。いや、捻出する。これを後回しにしたら、きっとメルルは、人ではなくなるからだ。アニーちゃんは、今回の件における。世界滅亡回避の立役者なのである。

「ごめん。 みんなの手配は、私がするから」

「メルル、お願いです、人でいてください。 私、世界なんてどうなったって構わない、貴方が人でいてくれれば、それでいい。 他には、何も欲しくありません」

「……」

人、か。

もはや人とは思えない自分の体を思うと。

その言葉に、はいとは。応えられなかった。

あまりにも、真剣すぎる言葉であるが故に。

安易な嘘も、つけなかった。

 

皆で揃って、水源に行く。

先にシェリさんが、仲間の悪魔族と一緒に。脳が死んだアニーちゃんの亡骸を、其処に運び込んでいた。

ちなみにダブル禿頭の方は。

死体などどうでも良いとかで、興味さえ示さなかったそうだ。

「良く来てくれたな」

シェリさんが、出迎えてくれる。

此処は水源の地下。

ヴァイスハイドさんが連れて行ってくれる、不思議な場所。

周囲には、難しい機械がたくさん。複数の硝子瓶があって。

いにしえの人々がそうされているように、裸のアニーちゃんもよく分からない液体が満たされた中に浮かべられていた。

魔力はある。

生体反応は、むしろ強いくらいだ。

だが、脳が耐えられなかった。

シェリさんが、説明してくれた。

元々アニーちゃんは、限界が近かったそうである。様々な病気を体で文字通り処理し続けた結果、永くは生きられない身だった。大人になることも。出来ない事は、本人も最初から承知していたそうだ。

体は大丈夫だった。魔力も強かった。

だが、脳が耐えられないのは、わかりきっていたらしい。

限界も近づいていた。

そして、今回の大病。

元々病と闘うことを本能で決められていたアニーちゃんは。

むしろ喜んでいたという。

最後の戦い。

そしてこの戦いで、アニーちゃんには生きた意味が出来たと。

アニーちゃんが、あれだけ厭世的で、怠け者だったわけだ。メルルには、全ての理解がつながって。そして、暗鬱たる闇が心を満たしていくのが分かった。だが。それでも、正気が狂気を押さえ込む。

打ち克つ。

大きく嘆息して。そして、意識をどうにか整えた。

ワクチンには、アニーワクチンと名付けられている。

これは非常に強力な抗体で。

無数の病に効果が確認できるという。

今後、多くの人達を救うことは確実だとか。

その代わり。

アニーちゃんは、もはや記憶を取り戻す事は絶対にないし、人間として蘇ることもないという。

元々、アニーちゃんは。人とは言い難い存在だったけれど。

側でずっと、生意気でぐうたらな女の子として生きていた事を。メルルは忘れない。

ディアエレメントさんが来る。

彼女が、皆の前で、説明をしてくれた。

難しかったので、メルルがかいつまんで、要点を話す。

「彼女はこれから悪魔族としての肉体を得ます。 といっても、何世代も重ねた結果、多種多様に変化した今の悪魔族ではなくて、ディアエレメントさんのような、直系の悪魔族に近い存在になりますが」

「それで、どうなるんだよ」

「完全に別の生命体としての生を得ます。 死滅した脳細胞はまったく新しいものとして、造り変えられます」

ライアスが、意味が分からないと吼えた。

だが、シェリさんが、吼え返す。

「黙れライアス! これがアニーの望みだ!」

「何だよそれ! 如何にあんただって、訳が分からないこというとゆるさねえぞ!」

「彼奴は、死ぬ前に、ほんのわずかだけ俺に語った! 死んだ後は悪魔族になりたいってな! アニーは死んだ! だからこれから、願いを叶える! それだけだ!」

「最初から死ぬ事分かってた何て、そんなのって、ないよ……! アニーちゃん、何で一言も言ってくれなかったの……?」

セダンさんが、めそめそと泣き始める。

肩を叩くと、ザガルトスさんが、休むかと声を掛けていたが。手で顔を覆ったまま、セダンさんは首を振った。

メルルは。

知る義務がある。

「ディアエレメントさん」

「何か」

「再構築までは、どれくらい掛かりますか」

「四日って所だな」

そうか、そんなに速く。

そして、それが終わると。

もうアニーちゃんの肉体は完全に消え失せて。

世界を浄化することだけに特化した、悪魔族としての新しい命が生まれ出る事になる。記憶の残滓としての肉体も、これが見納めだ。

「ケイナ」

「はい」

「此処で、アニーちゃんのお葬式をするよ。 アールズの戦士のやり方で」

「準備は、して来ています」

葬式は、簡単だ。

遺体を前に。

アールズの戦士として、如何に勇敢だったか。立派だったかを語る。戦士として活躍できなかった場合は、その人柄を。何も無い場合は、来世での栄光を祈る。その後に、死体を処分する。

神などへは祈らない。

戦士にとっての誉れは、如何に戦士として生きたか、だからだ。

故人への言葉は。

アニーちゃんが大好きだった、シェリさんに担当して貰う。

「お前は怠け者でぐうたらで、どうしようもないやつだった。 だが立派な魔術師で、才能の塊だったな。 短時間で俺に並んだときは驚いたぞ。 俺の全てを、お前に託して、世界を少しでも浄化したかったな。 肩を並べて、世界を少しでも、住みやすく働きたかったな」

シェリさんは、きっと気持ちの整理も出来ていたのだろう。

メルルも、それは同じ。

アールズの戦士は、たくさんこの戦いで死んでいった。

身近で話していた人が、翌日には亡くなっていた事なんて、両手の指でも足りない。

だから、もう。

仲間が死ぬ事には慣れている。

簡素で、心がこもった葬儀が終わる。

そして、ディアエレメントさんが頷くと。

遺体の処理を始めた。

シェリさんは、悪魔族として生まれ変わるアニーちゃんだった存在を、最後まで見届けないといけないと言って、此処に残る。

メルルは。

それを引き留めることは、出来なかった。

 

4、最後の鍵

 

モディスの最前線。

ジオ王に会いに来たとメルルが告げると。歩哨は露骨に顔を青ざめさせた。ホムンクルスだが、怯えが伝わるのだ。

どうしたのだろう。

すぐに取り次ぐと言ってその場を離れた歩哨。

ケイナが、手鏡を見せてくれた。

恐ろしいまでに険しい表情だ。

それこそ、怨敵をこれから殺しに行くような、である。

そっか。

アニーちゃんが亡くなってから。

こんな厳しい顔をしていたのか。

それに一月、ほとんど眠らずの作業だった。

人相が変わるのも、致し方がない。

すぐにジオ王の所に通される。

ちなみに今回は、ここに来るまでの過程で、全員で原稿を精査した。トトリ先生の手は借りていないし。

何より、ルーフェスにも話はしていない。

場合によっては、その場で戦闘になることも、覚悟の上だ。

しばし待たされた後。

モディス要塞の隣にある、応接用の別館に通される。

リザードマン族の族長が来たのだが。

尻尾が半ばから無くなっていた。

「どうしたのですか」

「この間の戦いでな。 何、この程度の傷なら安い」

リザードマン族の族長は、からからと笑う。黒い鱗の彼方此方にも、もの凄い傷が見て取れた。

立ち会いたいという。

メルルが一瞬渋るが。

それを見越したように、族長は言った。

「世界の破滅に関わる重要な話だろう。 噛ませて貰えるか」

「最悪の場合は戦闘になりますよ」

「あのジオ王とやりあうつもりで来たのか」

「はい」

ならば良しと、興奮した様子で、リザードマン族の族長は吼えた。

むしろ大喜びしている。

辺境民以上の戦闘民族なのだと、一目で分かる。

そしてそれが。此処では心地よかった。

側にはミミさんとジーノさんにいて貰っている。他の皆は外で待機だ。ミミさんは呆れたように、メルルと族長のやりとりを見守っていたが。ジーノさんはにこにこし通しだ。

「やれやれ、騒がしいことだ」

「お久しぶりです、ジオ王」

当人が姿を見せる。

負傷もすっかり癒えたようだが。

しかし、目が笑っていない。

恐らくは、メルルの覚悟を察知した上で来たのだろう。今のジオ王は、大陸最強の戦士としての存在だ。

「この度は大活躍だったな。 感染爆発を押さえ込めたのは、本当にメルル姫がいてこそだ。 民の代表として礼を言うぞ」

「私よりも、命と引き替えにワクチンを完成させたアニーちゃんと。 最前線で戦い続けた悪魔族のみなさんに、称賛の言葉をお願いします」

「うむ……分かっておる」

まずは、軽く話の応酬。

幾つかの話を進めた後。

メルルは、切り出した。

「一なる五人の住処について、見当がついています」

「ほう」

これは、前からほぼ確信していたのだが。

アストリッドさんとも少し前に話して、結論として出た。多分トトリ先生も既に知っていると見て良い。

「それは何故分かったのかね」

「一なる五人の目的が、この世界を一度原初の状態に戻すことだから。 それには、恐らくは、世界を破滅させる規模での火山噴火が最も効率的です」

そう。

考えてみれば、既に色々と、察知させるものはあったのだ。

ピースを組み合わせていくと、分かる。

一なる五人が潜んでいるのは、恐らくは火山。

今西大陸の難民達がいる荒野の北。

誰も近づかぬ不毛の大地にて。

百年は噴火しないと太鼓判を押されている火山である。

だが、火山とは。

ディアエレメントさんの所で得た資料。様々な情報。何より、無限書庫で許可を貰って調べた資料によると。

この世界の内側に眠る熱が、外に出るための場所。

この世界の内側は熱の世界。

人間など容易く焼き尽くしてしまう熱が、世界の奥底には眠っていて。やりようによっては、それを、世界を滅ぼすレベルで噴出させることが可能なのだという。

それだけではない。

噴出した熱は、世界を雲となって覆い尽くし。

溶岩によって溶かされた大地と。

毒の空気。

更に太陽を完全に遮られることによって。

もはやこの世界は、完璧に死ぬ。

アーランド戦士が如何に強かろうと、関係無い。吹き上がる膨大な溶岩の前には、洪水の前の小石と同じだ。

地図を出す。

そして、指さしたのは。

ヴェルス山。

現在は休火山として知られるが。この大陸でも屈指の規模を持つ火山だ。

この地下に、一なる五人はいる。

証拠もある。

実はアストリッドさんが、こつこつと情報を集めていたのだ。その中に、巨大な力の反応がヴェルス山の中にある事が、はっきり示されていた。

アストリッドさんは、横から成果をかっさらうつもりだったのだろう。そして恐らくは、トトリ先生も。

だからそれらは、事前に防ぐ。

アストリッドさんは防いだ。

後は、トトリ先生だ。

「そうか、ならばすぐにでも奴らを討伐せねばなるまい」

「その前に一つお願いがあります」

「何かね」

「ロロナちゃんを、元に戻すことをお許しください」

一瞬、空気が止まる。

族長さえ、思わず身じろぎしたほどだ。

ジオ王が、一瞬にして。

剣を抜きかねない態勢になった事を、メルルは悟る。

今の実力でも、とうてい勝てる相手では無い。

だが、此処は引けない。

引くわけには、いかないのだ。

「あれの火力は、一なる五人との戦いで必要だ」

「今のロロナちゃんは、人間の外の存在です。 その結果、トトリ先生の精神に、極めて悪い影響が出ています。 下手をすると、トトリ先生が、戦いの後。 一なる五人の位置に座りかねません」

「ならば打ち倒すまで」

「もはや世界はもちません!」

メルルが叫ぶ。

ジオ王も一歩も引かない。

一なる五人との戦いでさえ。此処まで疲弊したのだ。

辺境諸国の疲弊は凄まじく。

アーランドだって、もうこれ以上、総力戦態勢は続けられない。

此処で一なる五人がもう一人現れでもしたら。

世界は終わる。

そしてトトリ先生は。

その気になれば、それが可能だ。

彼女をつなぎ止めるには。

少なくとも、ロロナちゃんが、元に戻る必要がある。

しばし、にらみ合う。

勝てる筈もないのに。

ミミちゃんも矛を構え。ジーノさんも剣に手を掛けていた。二人とも、味方をしてくれる、というわけか。

ジオ王は護衛を連れていない。

だが、それでも。

族長が味方に廻ってくれても。メルルには、万に一の勝ち目もない。達人三人と、世界最強の男。

力の差は、それだけ大きいのだ。

「ならば、条件付き折衷案でどうでしょうか」

「ほう?」

「今、ロロナちゃんの中に。 本来のロロナさんの心は眠っています。 その心を、任意に呼び覚ませるようにします」

「……」

これならば。

正直、ロロナちゃんをいきなり大人に戻すよりも、幾分か現実的だ。

そして、ロロナちゃんの言葉は聞かなくても。ロロナさんの言葉だったら。トトリ先生の心に届く。

そうすれば、世界を焼き尽くすほどの、トトリ先生の罪悪感と憎悪も。

きっと、どうにか出来る。

今、ロロナさんはいない。トトリ先生の母上は世界からはみ出してしまっている。

この現実が、トトリ先生の心を闇の果てに至らしめている。

ならば、現実を変える。

それだけだ。

「……戦闘力は落ちないのだな」

「その分は、補える宛てがあります」

「ほう?」

「ゼウスさん!」

部屋に入ってくるのは、ゼウス。既に完全に快癒している。

そして今回の一件もあって。此方への全面協力を約束してくれた。

更に、ロロナちゃんの実力が落ちるなら。

その分を、メルルが補う。

「どうですか、これで釣り合いは取れるはずです」

「言っておくが、儂が協力するのは、あくまでメルル姫にだ。 我が同胞たるホムンクルス達にもあの病は感染するものだった。 もはやあの外道、一なる五人を、放置する訳にはいかぬ」

腕組みするジオ王。

そして、嘆息した。

「良いだろう。 やってみるがよい」

「有難うございます」

「エスティ」

手を叩くジオ王。

エスティさんが、どこからともなく現れる。

流石だ。

「ヴェルス山を徹底的に調べろ。 恐らく、次が決戦になる。 余は、時間稼ぎをしようとするセトとその軍勢を防ぐ準備に入る」

「御意」

メルルも頷くと、席を立つ。

最後の戦いが。

この時、始まったのだ。

 

(続)