木影の血痕

 

序、戦い終わり

 

ハルト砦でリハビリを続けるメルルの所に、モディス方面での戦況の情報が、徐々に入ってくる。

父上がひどく負傷し、以降は戦場に出られないだろう、という話は既に聞いたが。

それ以外にも、被害がかなり大きいようだった。

ジオ王も負傷。

クーデリアさんは左腕が殆ど千切れる重傷。これについては、一月ほど錬金術による治療をして、回復させるそうだ。この機会に左腕を作るかとかロロナちゃんが聞いたらしいけれど。

クーデリアさんは、断ったらしい。

作れるのか、左腕。

しかし、何だかきな臭い話を聞いている。それに間近に行った時、何となく分かったこともある。

ロロナちゃんやクーデリアさんは。

多分体を弄っている。

そういう意味もあって、作り直す方が早い、というのかも知れない。

メルルは。

前は、其処までしようとは思わなかっただろう。

だが、この間のエント戦で、体がオーバーヒートして、今もリハビリで苦労している現状がある。

今後一なる五人や、それに邪神と戦う事を考えると。

もう、いっそ。

体を弄った方が早いのかも知れないと、思い始めていた。

ケイナが来た。

此処はハルト砦の屋上だ。周囲を見回すことが出来る。

すぐ近くには、巨大な森と化したエントの亡骸。枯れることはなく、森としての威容を保ったまま。アールズ北東部耕作地のすぐ側にて停止している。もう少しで耕作地が蹂躙されるところだったという事実は、後で聞かされた。

危ないところだったのだ。

「メルル、耕作地の方から視察の依頼が来ています」

「うん、分かってる。 混乱したって話だものね」

「体の方は大丈夫ですか」

「ま、耕作地にいる荒くれ達に遅れを取るほどじゃないかな」

実際問題、まだ本調子では無いけれど。耕作地の荒くれ達程度だったら、片手でまとめてたためる程度の力は戻っている。

難民達は、エントが止まったこと。

エントをメルルが倒したことを聞いて、沈静化したが。

それでもまだ治安が安定しきった訳では無いという。

何しろ、暴動が起きて。その時に、かなりの騒ぎになった。盗みなどを働く難民も出たという。

今は落ち着いていても。いつ発火するか分からない状況。

それならば、メルルが顔を出した方が良い、と言うわけだ。

難民達。特にアールズ王都北東部の耕作地に隔離されている荒くれ達にとっては、メルルは鬼神か何かのように畏怖される存在である。言うことを聞かない場合、生きたまま喰うという噂まで流れている。

それで別に構わない。

彼らが大人しくなり、面倒が減るのなら。

もう一つ、ケイナが教えてくれる。

「デジエ様の容体が安定して、今日王都に戻るそうです」

「そっか。 それなら、私もアトリエに戻ろうかな」

「それがいいですね。 ライアスには、私が声を掛けておきます」

まだ若干リハビリは不完全だけれども。何処でやろうと同じだ。

アニーちゃんは既にアトリエに戻っているし。他の面子も、大半がモディスに行ったり、それぞれ仕事でハルト砦を離れた。

2111さんと2319さんは待っていてくれたので、下で合流。

そのままライアスとも合流して。四人だけで、耕作地へ急ぐ。

「小川が、エントの侵攻で、かなり荒れたそうだ」

「雨も凄かったし、それにあの巨体が移動してきたらね……」

「それもそうなんですが、見てください」

ケイナに言われて、小川を見る。

なるほど、そういうことか。

一部、エントの森が、上に掛かってしまっている。小川そのものは、エントの下を流れているようだけれど。

これは生態系の激変が避けられないだろう。

エントの中は、現在立ち入り禁止。

完全にエントが沈黙した後は、リス族と兎族が大挙して入り、現在調査中。それが終わるまでは、入らないようにと言われている。

利権云々では無い。

単純に危ないからだ。

正体不明の構造の森である。辺境戦士であれば、誰でも知っている。こういった汚染されていたり、モンスターの住処になっている森が、どれだけ危険か。

リス族も兎族も、森のエキスパートだが。

それでも、時々来る報告は、危険だから出来るだけ近づくな、というものだそうだ。

小川の様子を確認。

魚は泳いでいるし、毒物が流れ込んでいる様子も無い。

これなら、上手く行けば、そう時間を掛けずに安定してくれるだろう。後はリス族と兎族に任せるしかない。

耕作地が見えてきた。

リハビリも兼ねて、少し早めに歩いているのだけれども。それを差し引いても、そう遠くはないのである。

柵や防御魔術は、それほどやられていない。

問題は別の部分だ。

「人手が少ないね」

「かなりモディスに取られている様子です」

「……」

それは、そうか。

あのジオ王が負傷するほどの激戦。邪神三体の猛攻は、それだけ凄まじかった、という事だ。

現在事実上の最前線であるモディスに、兵力を集めるのは当然だろう。

だけれど、どうしてだろう。

何か嫌な予感がする。

流石に、エント以上の脅威は、アールズにはいないはずだが。それでも、これが一なる五人の想定通りだとしたら。

時間さえ、稼げれば良い。

もし、相手がそう考えているとしたら。

ルーフェスは、敵の動きがおかしいと言っていた。

表向きは、今回のエント戦は、理にかなったものだったように思える。戦力の出し惜しみもしていなかったし。

実際負けていれば、その時点で世界が終わっていたのだ。

アールズ王都にエントが乱入でもしていたら、防衛線はずたずたにされ。その時点で、人類の滅亡が九割方決まっていただろう。

しかし、である。

此方の出方を封じながら、時間を稼ぎ。

更にあわよくば、戦線を蹂躙と考えていたのなら、どうだろうか。

確かにあの時。

アールズにもアーランドにも。

迎撃以外の手段が残されておらず。

敵の想定通りに動くしかなかった。

メルルに対する備えも、敵はしていた。

だが、それも、果たして本気だったのだろうか。精鋭を派遣して、エントの内部で仕留めようと思っていたのなら。

もっと適したホムンクルスを送り込んできていたのではあるまいか。

耕作地に足を踏み入れた。

メルルを見ると、反応が両極端に分かれる。

難民達。特に荒くれ達は、心底から怖れるし。

ホムンクルスや悪魔族。

それにアーランド戦士達は、好意的に手を振って来る。

自分がそうなるようにしているとはいえ。

メルルは、こうも視点によって、極端に別れる存在になってきているのか。そして、今更ながらに思う。

世界とは。

視点によって、このくらいは変わるものではないのだろうか。

勿論、考え方次第で病気が治る、などという勝手な事をいうつもりはない。

此処で言っているのは、自分の外側の世界についてだ。

言葉で相手の精神に踏み込むのには限界がある。

メルルにとっては、アールズの平穏を守る事が何よりも大事で。そのためには、あらゆる事に手を染める覚悟がいる。

怯えきった視線を向けてくる荒くれ達を見ていて。

それは実感できる。

此処を抑えている老ハイランカーが来たので、軽く挨拶。戦いの結果については、既に知っているようだった。

「かなり危なかったそうですな」

「ええ。 しかし、最後の最後で、踏ん張ることが出来ました」

「……体を治して、一刻も早く公務に戻ってくだされ」

「分かっています」

ぺこりと一礼すると。

耕作地を巡回。

騒動の傷跡は、まだ治りきっていない。彼方此方で、工具を振るう音がしている。破壊された家屋も少数あるようだ。今回、エントが接近するに従って起きた暴動は、それだけ派手だった、という事である。

牢屋に来た。

此処では、地下に牢屋を造り、入り口を造る事で利便性を図っている。ちなみに、地上部分には強力な防御魔術を掛けて、脱獄を困難にしている。

土を掘ることで逃げる事はまず無理。

もしも脱獄するなら、入り口を突破するしかないが。

それも難しい。

その気になれば、牢内を催眠の魔術で、一瞬にして満たす事が出来るからだ。

更に、入り口には、生体認証の魔術も掛けられていて。生半可な魔術師では、突破など到底無理。

北部列強にも魔術師はいた。

それを考慮しての措置であるが。

メルルから見ても、ちょっとやり過ぎの感は否めない。

脱獄の達人でも、此処を抜けるのは不可能だろう。

少なくとも、人間には無理だ。

看守というか、3桁ナンバーのホムンクルスがいた。全身傷だらけで、見るからに歴戦の猛者という風情だ。

実際問題かなり強い。

実力は、メルルよりずっと上だろう。

軽く挨拶した後、状況を聞く。

「騒動を主導した者はいますか」

「実は今回は、騒動を主導した者はいないようなのです」

「……詳しくお願いします」

「流石に、共振器を導入してから時間が経過しているというのもありますし、スピアの間諜が以前の此方の大勝で根こそぎ削られたというのもあるでしょう。 此処に入り込んでいたスピアの走狗は、もういないようなのです」

いるかも知れないが、少なくとも身動きできる状況にない。

そういう状況下である。

混乱に乗じて、騒動を大きくしようと主導できた者はいなかった。

それが調査の結果であるらしい。

なるほど。

メルルとしても、納得できる、論理的な言葉だ。

今の時点では、それで良いと思う。

もしもこの状況下に置いても、なおも間諜が入り込んでいるとすると。厄介なんて話では済まされない。

「今後も、騒動を起こした者については、厳しく監視してください」

「分かりました」

牢に入れられた者のリストを確認。

以前、窃盗と暴行を繰り返していた子供の名前があったので、メルルは大きく嘆息した。どうしようもない屑は世の中に実在している。こんなに幼い内から、それになってしまった人間。

以前、軽く折檻したのだけれど。

メルルへの恐怖を心に叩き込んでやっても。

この子は、更正しなかった。

それだけ、悪への依存が大きかった、という事なのだろう。そうなると、もはや脳を弄るくらいしか考えつかない。いずれにしても、言葉や環境では、もはやそのねじ曲がった心を矯正するのは不可能と見て良い。

対処法の欄を見る。

今は精神操作魔術が発達していて、相手が何を考えているか、時間を掛ければ分析が可能だ。

一瞬で相手の精神を読み取るのはまず無理だけれども。

逆に言えば、時間さえ掛ければ。相手が何を考えているかは、ほぼ全て察知できる。精神抵抗力が弱い列強の民ならなおさらである。

半分以上の収監者が。

洗脳によって、今後は改心させることが記されていて。

メルルは、もう一つ、嘆息した。

がっかりしたと言うよりも

これだけ悪い状況下で、どうしてエゴによって好き勝手をするという事が出来るのか。自分を最優先で、他を踏みにじる事を考えられるのか。それが、何というか。残念でならない。

方針については、口出ししない。

煮ても焼いても食えない悪党が、喜ばれる時代もあるかも知れない。

しかし今は。

そんな者が存在していては。

人類そのものが、滅んでしまう状況だ。

きっとそういう存在が喜ばれる時代は。余程余裕があって。人が滅ぶ事なんて、誰も考えつかない。

そんな時代なのだろう。

帰ると告げる。

馬車を勧められたが、断って、歩く。リハビリを兼ねているのだから当然だ。

ケイナが、顔を覗き込んでくる。

「メルル、険しい表情でどうしました」

「何とかならないかなと思って」

「ああ、収監された難民達ですね」

「本来、洗脳して更正させるってのは最後の手段だと思うんだよね。 でも、今の状況だと、それ以外には考えられない」

洗脳は、便利だ。

一なる五人が多用していることからも分かるように。

本来は、してはならない事でもある。

だが、この状況。

犯罪者に、手を掛けてはいられないのである。ましてや、更正の望みがない犯罪者には、なおさらだ。

嫌な予感がする。

まさかとは思うが。

一なる五人の行動原理は。

顔を上げる。

考えすぎかも知れない。

いずれにしても、一なる五人が何を考えているか、もっと詳しく知りたい。実際に接触した人間と話をしたい。

或いは、本人と話をしてみたい。

出来ないだろうか。

もしも、話が出来るのなら。

彼らを止める突破口が、見いだせるかも知れない。

 

1、倒れた巨神

 

アトリエに戻ってから。

メルルは、トトリ先生の所に出向く。

以前案内された、先生用のアトリエだ。トトリ先生はもう帰ってきているという事だったし。約束も取り付けた。

入るのは、気が滅入る。

ここから先は。

人の心の負の面。闇の情念が結集した悪夢の土地。

狂気によって心を浸され。

もはや、人と呼べるかも分からない状況になった、トトリ先生の、負の心が形になった場所だ。

うめき声が聞こえてくる。

殺してくれ。

死なせてくれ。

痛切な声。

切実な悲鳴。

此処に収められている、トトリ先生のコレクション達が挙げる嘆き。中には、もう正気を保っていられないらしく、意味がないうめき声を漏らしている生首も存在しているようだった。

トトリ先生は、敵の首を刈り取っては。錬金術で無理矢理生かして、コレクションにしている。

それは分かっている。

そして、もはや説得や説教で、トトリ先生の心が動かない事も。

根本から、状況を変えるしか。それ以外には、もはやトトリ先生を救う手段がないことも。

しかし、それでもなお。

この光景を見ると、胸が痛む。トトリ先生が、昔は優しくて思いやりがある人だったと、周囲の誰もが口を揃えるのを見ると、なおさらだ。

奥でトトリ先生は。調合をしていた。

この無惨な光景は、トトリ先生にとっては、心地よい花園で。無数の悲鳴は、小鳥たちが奏でる美しいハーモニーにでも思えるのかも知れない。

「メルルちゃん、早かったね」

「はい。 一なる五人について、詳しく教えて欲しいと思いまして」

「そっかあ」

「以前、トトリ先生は、一なる五人と直接接触したと聞いています」

メルルも、ニアミスに近い形で、接触したことはあったかも知れない。だけれども、確信は持てない。

夢には、それらしき人達の絶望を見た事はある。

メルルの特殊能力なのか何かは分からない。ただし、メルルが見る夢が、他の人の絶望であったり、過去の悲惨な出来事に直結していることは事実だ。魔力を持つ人間にはたまにある事なので。別に珍しくもない。たまたま、メルルの場合は。他人の絶望や過去にそれが通じている。それだけである。

「一なる五人はね、真なる神になるつもりみたいだね」

「神……」

「人は文明を発展させる過程で、支配の手段として宗教という存在を造り出していったのだけれど。 その際に、人間が及ばない、超越的な存在を考え出したの。 それが、神々だよ」

「何となく分かります」

宗教は。

国家の運営戦略に組み込めば、非常に有利だ。

国によっては、積極的にそうすることで。民衆の心を操作し、反乱などを未然に防ぐ処置を執っている。

だから、おかしな現象も起きる。

神に携わっているはずの神官や僧侶が。

もっとも神を信じず。

教義から反する行いをして。

暴利を貪ることが、珍しくもない。

いにしえの時代から、寺院と貴族と地主が、最も金を持っていた。そう揶揄される所以である。

だけれども。

一なる五人はそもそも人間を必要としていない。そうなると、真なる神というのは、どういうことなのだろう。

「何でしょう、それは……」

「んー。 仮説でしか、今は考えつかないけれど。 ひょっとすると、この星そのものを動かせるほどの存在になる事なのかな」

「!」

「もしも神という存在が実在するのなら、世界のルールに干渉したり、或いは好き勝手に世界を動かしたり。 それくらいは出来るんじゃないのかな」

確かに、そうかも知れない。

だがそれは。

あまりにも、おぞましい事だ。

人が踏み込んで良い領域では無い。

人か。

一なる五人かは確信を持てない。

だけれども、それらしい人達の夢を見た事はある。彼らは、しきりにこう言っていたような気がする。

世界には、人間と呼べる存在は、歴史上存在しなかったと。

そして、自分たちが、初めての人間になるのだと。

少しばかり、分からない。

どういう意味なのだろう。

トトリ先生の言葉は、嘘だとは思えない。実際問題、一なる五人は、人類を不要物だと言わんばかりに、鏖殺し続けている。

スピア麾下のモンスターと、戦闘用ホムンクルス以外。

既に大陸の北部に、動く者はないという惨状だ。

逃げ延びた難民達は、口を揃えていた。スピアは逆らう者を皆殺しにしていたと。そして今、前線が落ち着いたため、諜報が敵地に入っているが。どの都市も、既に完全に無人。労働に使っていた捕虜さえ、既に皆殺しにされているという事だ。

悪夢としか言いようが無い。

黙り込む。

だけれど、トトリ先生はマイペースだ。

「せっかくだから」と、トトリ先生は幾つかのレシピをくれた。非常に難しい錬金術の産物だけれど。

今のメルルだと、作れるかも知れないと言う。

礼を言って、先生のアトリエを出る。

そして、アトリエにつくと。

猛烈な毒を飲んでしまった後のように、まずは水を飲んで。それから、呼吸を整えて。心を落ち着かせた。

まずい。

本当にあの場所は、まずい。

闇を喚起される。

無数に並べられた生首が、生きていて。苦悶の表情を浮かべている彼処は。負の情念の結末だ。

狂う。

冗談抜きに。

だから。外に出た後は、少しでも正気に自分を傾けようと思うのだけれど。上手く行っているとはどうにも思えない。

何度もズタズタになりながら戦っている内に。

心の歪みも、取り返しがつかない所に来ているような気がしてならないのだ。

アトリエに入った後、少しソファで横になる。

でも、眠っている暇も無かった。

すぐに戸がノックされる。

例の、一番若いメイドだ。

来たと言うことは、メルルに登城して欲しいと言うことだろう。無言のまま身繕いをすると、戸に向かう。

少しは休みたい。

ぼそりと呟いてしまう。

頬を叩いて気合いを入れ直して、弱気な自分を押さえ込むと。

メルルは、戸を開けた。

 

お城では。馬車によって、前線から後送されてきた父上が、ベッドに寝かされていた。命に別状は無いが。しかし、かなりひどいダメージを戦闘で受けてしまった。もはや戦場に立つのは難しい。

そう言われているのは、聞いていた。

父上は、目を覚ましてはいたけれど。

10歳は老けたように見える。

何しろ、邪神三体との乱戦だ。

生きて帰れただけ幸運と言うべきなのだろう。

ルーフェスが側に着いていて。色々と補佐をしている様子だ。アーランドからは、優秀な医療魔術師も派遣して貰っている。

「メルル、戦場での活躍、見事であったようだな」

「父上も、良く生還なさいました」

「うむ……」

正直な話。

それで今回の戦いに関しては。良くやった方だとさえ思う。

エントという巨大な脅威は去った。

コアは完全に破壊され。もはや動き出す事はない。エントは本来の意義を失い、移動することのない森に代わった。

巨神は、死に。

その亡骸で、大地が作られたのだ。

不思議な話だが、それは神話によくあるモチーフである。エントは滅び去ったわけではなくて。

ただ森に変わっただけだが。

「執務はこなせそうですか」

「うむ、どうにかなりそうだ。 だが、余はアールズが消滅すると同時に、引退するつもりだ」

「父上!」

「弱気になるなと言うのだろう。 だがな、これは最初から決めていたことだ。 ルーフェス」

頷くと。この国の事実上の宰相である男は。寝室の奥にある戸棚から、蜜蝋で封印されたスクロールを取り出す。

最上の材料で作られたゼッテル。

間違いなく、相続関連の書類だ。

「姫様、此方に目をお通しください」

「……」

此処で、逃げる訳にはいかない。

それに、心はどうしてか、とても冷えていた。

昔だったら取り乱していたかも知れない。

戦士として強くなった、というのは。理由の一つになるだろうか。むしろ修羅場で揉まれに揉まれて。

それで、図太くなったと言うべきか。

無言で、書類に目を通す。

これが書かれたのは。メルルが錬金術師になると宣言した四年前近い日付と、ほぼ一致する。

そうか、その時にはもう。

あの頃は、確か。

一なる五人が、アールズに兵を引き連れて姿を見せて、そう時間もない頃だったか。まだ未熟なメルルは。アールズの兵士達を連れて。前線に出て。

そして、多くの兵士達の先頭に立って戦い。

兵士達に守られながら生還した。

ずっと遠い昔に思える。

書類の内容を確認。

アールズ王家の私有財産を、メルルに全て譲渡。

それに加え、アールズがアーランドの併合された後。州の顔役になった後に保証される権限なども、全てメルルに譲渡するとある。

家臣団も、望む者はメルルに譲渡するそうだ。

なるほど。

相続の書類としては、無難な内容だろう。

そして、効果を示すのは。

アールズが、アーランドに併合されてから。

つまり、一年くらい後の話になってくる。

殆ど躊躇なく。

メルルはナイフで親指を傷つけて、拇印を押した。内容的にも不利になるものはないし。何より、メルルは最初からそのつもりだったからだ。

勿論錬金術も止めない。

一なる五人を退けたとしても。

アールズが受けた損害は甚大。

復旧には、どうしても錬金術が必要になる。トトリ先生やロロナちゃんだって、いつまでもアールズにはいないだろう。

それを考えると。

メルルが、錬金術師として大成するしかない。

書類に印が押されたことを確認すると、父上は一層老け込んだ様子で、ルーフェスに言う。

「これで一安心だな」

「何があっても、姫様はこの私がもり立てます」

「うむ……」

医療魔術師が、そろそろ面会を終えるようにと目配せ。

頷くと、メルルは寝所を出た。

医療魔術師が、強力な回復魔術を掛けているのが見えた。長時間回復効果を増強する、強力な結界が生じる魔術だ。

勿論、負傷者は父上だけでは無い。

これからアールズ王都の彼方此方を出向いて、負傷者を治療して廻るのである。

執務室に移動。

ルーフェスは、難しい事だと、眉をひそめた。

「既に前線で、如何に激しい戦いが行われたか、姫様もご存じであるかとは思います」

「うん。 エントの戦いと、あまり差は無かったらしいね」

「ええ。 姫様は良くエントを打ち倒してくださいました」

乱戦の中。

父上は、負傷者に向けて攻撃しようとした邪神に痛打を叩き込んだという。

邪神は片腕を切りおとされ。

憎悪の声とともに、カウンターを入れ。

それを父上は避けきれなかった。

邪神は片腕を再生するために撤退していった。恐らく、一番弱い邪神だったから、再生能力も低かったのだろう。

それが切っ掛けになり。

邪神達は一時戦線を下げ。

結果として、乱戦での被害は小さくなった。

「そうか、父上は多くの命を守ったんだね」

「立派なお姿にございました」

「……命の方は、本当に大丈夫?」

「少なくとも、姫様が、家督をお継ぎになるまでは」

意地と言う奴だろうか。

ただ、アールズの平穏のためにも、父上はまだ死ねないだろう。もはや戦える体ではないにしても、である。

そして、恐らく家督を継ぐのを急いだのも。

この狭いアールズでは、自分がもはや戦えないと言うことが。すぐに広まると、判断してに違いなかった。

「いいよ、私が家督を継ぐと決めたと、喧伝しても」

「有り難き幸せ。 これで、どうにか混乱は収まるでしょう」

「……そうだと良いのだけれど」

ルーフェスが言うことも分かるのだ。

血族集団であるアールズは、どうしても狭い社会。強烈な混乱に見舞われている今は、少しでもさらなる混乱の材料を減らすしかない。

戦いはまだ終わっていない。

一なる五人を倒してもなお。

おそらくは、戦いは終わらない。

それを見越した上で。

ルーフェスは動いている。

分かる。だからこそ、メルルは。それに対して、反抗を示そうとは、思わなかった。

 

リハビリも順調に終わり、概ね健常な状態まで回復したメルルは。そのまま難民居住区を確認する視察に出た。移動する最中も、参考書に目を通す。ある程度周囲を警戒しながら本を読むくらいのことは、もうメルルにも出来るようになっていた。

農場北の荒野。

此処が一番心配だったけれど。

実際に足を運んでみると、ルーフェスが敷いた情報統制が効果を示して。エントとの決戦が行われていたこと自体が、難民に伝わっていなかったらしい。混乱は最小限に抑えられ、今も静かなものだ。

良かった。

メルルは胸をなで下ろす。

だが、考えてみれば。

難民は此処に流れ込んでから、他に振り分けられる状態が続いている。

此処には外から入ってきても。

内から移動させられるケースはほぼ無いと言える。

考えてみれば、此処に混乱の情報が入るケースはあまり大きくない。つまり、根っこさえ押さえておけば、それほど危険は無いという事か。

少しだけ、やりやすくなったかも知れない。

ジェームズさんの弟子達が、彼方此方を緑化している。この作業くらいは手伝えるだろうと思ったけれど。

やはり、促さないと、働かない者が多い様子だ。

そもそも緑を増やすという行為に、まるで価値が見いだせない者もいると、巡回していると、悪魔族から聞かされる。

だが、それも仕方が無いのかも知れない。

お城にまだいる、西大陸からの難民。リリハルスさん。

彼女に話を聞く限り。

西大陸の、まだ文明が残っていた地域では。そもそも食糧さえ、機械が全て生産していたらしいのだ。

アーランドにも、食糧を生産したり、家畜を世話したりする機械が発掘されて、使用しているという実績がある事を考えると。

それら、遺跡に沈んだ機械が。

現実に地上で活用され続けていた、という事なのだろう。

頷ける話だ。

だから、緑がどれだけ貴重なもので。其処からどれだけの豊かな恵みがもたらされるかも、分かっていない。

やはり、彼らには。

実際に自分で食糧を生産してもらうしかないだろうと、メルルは思う。

もはやそれら機械が、一なる五人の手で奪われてしまった現状を考えると。そうしなければ、生きていけないのだから。

他の耕作地や農場も見る。

農場は、比較的落ち着いている。

既に様々な果実が収穫できるようになって来ていて。それらの加工施設も、きちんと動くようになっていた。

多くは輸出用だが。

国内用にも、必要量は出回っている。

リンゴのジャムが出来たと言うことで、ケイナに早速お菓子を作ってもらう。きちんとしたジャムに仕上がっていて、中々に美味しい。

鉱山も見に行く。

鉱山は、エメス達が働いていて。それをホムンクルス達と、人間が補助するという、一種の協力態勢が出来上がっていた。

これもルーフェスが管理して。

こうなるように誘導した結果だ。

安定して様々な鉱石が採れるのは大きい。

此処はもう少し発展させれば、周辺国から外貨を獲得するための貴重な施設に変貌するだろう。

何処かしら改善する必要はあるかと、管理をしている人達に聞く。

やはり手が足りないと言われた。

それも、難民達では駄目で。エメスか、ホムンクルスか。或いは、戦闘適性がない辺境民か。

いずれにしても、タフな人材が欲しいそうである。

まあ、鉱山だから当然だろうか。

頷くと、要望はメモしておく。

エメスを二十機ほど追加すれば良いだろう。

恐らくは、それで。

足りない人手については、解消できるはずだ。

そのまま、湖に沿って東へ。

沼地の王とも会っておきたかったけれど、それはまた次の機会に。

沼地との境目はしっかり警備されていて、難民が入り込む隙は無い。これならば、いちいち神経質にならなくても、大丈夫だろう。

沼地の方でも。

見せつけるように、大型モンスターが闊歩している。

不用意に踏み込んだら死ぬぞ。

そう示しているのだ。

長城のように作り上げた泥の壁は。今はすっかり整備が進んで、堅牢な城壁へと変わっている。

城壁では魔術による支援と。

ホムンクルス達とエメス達が、ガチガチに守りを固めていて。

難民が誤って入り込んでも、すぐに見つけ出して、連れ戻せる態勢が作られていた。

これでいい。

メルルは満足して、アールズ王都に戻る。

身体能力が上がったこともある。

此処まで、二週間と掛からなかった。

巨神エントが倒れてから、しばらくは混乱が続くと思っていたけれど。この様子なら、それほど今後、混乱の継続については考えなくても良いだろう。

問題は、その後。

まず、アーランドもアールズも、消耗が激しい。

此処からの立て直しには、相当な苦労が伴うはずだ。

それだけじゃない。

敵にしても、エントを失っても、邪神三体は無事。無傷とは行かないだろうが、それでもまだまだ戦力には余裕がある。

そして、無限書庫の内部に格納された、三万を超える敵兵。

スピアの軍事力は、一時期とは比較にならないほど衰えているが。この数だけでも、相当な脅威である。

兵力を失っているのは、此方も同じなのだ。

此処からは、どうやって均衡を崩すか、考えなければならない。

少なくとも次は。

先手を取りたいところだった。

 

2、予兆

 

ふらりと、アストリッドが姿を見せたのは。

アールズの農場である。

其処では何もせず。姿を消して。

そして、次に姿が確認されたのは。農場北の荒野だった。

アストリッドは、厳重要観察の危険人物である。それはアーランドとアールズの共通認識であり。

常に、周囲には監視の人員が着いていた。

今回着いている人員は、エスティである。

エスティは、アストリッドと同年代で。昔は、ステルクも交えて、三人組でアーランドの将来を支えると、嘱望されていた者だ。

結果としてその願いは当たったが。

アストリッドは闇のまた闇というのも生やさしい、悪夢の世界に常在し。幼なじみに近いエスティでも、何を考えているか分からない怪物的な存在と化してしまっている。今回だって、ふらりと移動するのを、エスティが監視がてらに追っている状況だ。

アストリッドが荒野の地面を調べ始める。

緑化されている地区より更に外れた場所だ。

エスティは嘆息すると。

他の諜報メンバーとともに、アストリッドを囲んだまま、問いかける。

「ねえアストリッド。 そろそろ私にくらい、調査の目的を告げてくれても良いんじゃないのかしらね」

「不要だ」

「あのね、私がその気になれば、調査中止と言っても良いのだけれど?」

「その場合、また申請するだけだ」

そうかそうか。

それにしても面倒な奴になったものだ。

ロロナちゃんが、三年の試験を突破したとき。決定的に壊れた。それはエスティにも分かっている。

あの時、ロロナちゃんは。

アストリッドのトラウマを、最悪の形で抉ってしまった。

勿論ロロナちゃんに責任なんてある筈もない。

だけれども、アストリッドには。

どうしても許せる事では無かったのだ。

分かっている。

だが、自分の苦しみを、他の者にも味合わせようというのは看過できない。もう、許してやるべきではないのか。

そう思うけれど。

アストリッドは、基本的にもう、他人の言うことは聞く耳持たない。今だって、そうなのだ。

昔恋人だった男の言う事にも聞く耳を持たない現状。

誰がこの闇に落ちた錬金術師に、対話を持ちかけることが出来るだろう。

「こんな所だな」

「サンプルは充分かしら」

「いや、これから更に北上する」

「北上ってね……」

此処を北上すると、火山に行き当たる。

休火山だが、その麓は殆ど森もなく、荒れ果てた大地が拡がっているだけの、寂しい場所だ。

温泉があると言う噂があり。

火山がある以上、あっても不思議では無いだろうが。

それでも、入ったところでどうにかなるか。

まあ、火山直繋ぎの温泉だったら、多分かなり良い湯だろうし。入る価値は恐らくあるだろうが。

それにしても、危険を冒すほどでもない。

アストリッドは勝手に先に進んでいく。

途中、巨大なサソリのモンスターが、アストリッドの行く手を遮ったが。視線を浴びるだけで逃げ出してしまった。

まあ、無理もない。

エスティも、これでは護衛役では無くて。

監視役だ。

分かっていても、護衛役でいたいのである。

アストリッドが不幸な生い立ちで。周囲に本当の意味での理解者も、少数しかいなくて。心が荒んでいるのは分かっている。

力になりたいと言っても。

アストリッドは拒否するだけ。

もう、手の打ちようが無いのだ。

せめて、敵にだけは回らないで欲しい。

今願うのは、それだけである。

「温泉でも入るつもり?」

「温泉は探すが、必要なのはその成分だ」

「はあ?」

「少しばかり重要な実験があってな」

アストリッドが重要というか。

それは下手をすると、戦況を揺るがしかねないのでは無いのか。周囲も、エスティが不安視しているのを悟ったのだろう。

戦闘態勢に入っている。

一瞬で、激発しかねない状況になるが。

エスティが、静まるように、手を下げて無言で指示。此処でアストリッドと争っても、何の意味もない。

「ジオ王も最近貴方の不審な行動には胸を痛めているそうよ」

「そうか」

「早めに申告はしておきなさい。 実験の内容次第なら、私も擁護してあげるから」

「それは心強いことだ」

心にも無い事を言うアストリッド。

彼女の師匠の葬儀の際。

殆ど誰も参列しなかったことが。アストリッドが、世界を恨む最初の切っ掛けになったけれど。

しかし、その布石は、着実に積み上げられていたと、エスティは考えている。

何しろ、親に怖れられ捨てられたほどの才覚だったのだ。

才能がある人間は。そうでない人間を、見下すことがある。同種の存在と、認識出来ない場合がある。

その逆も然り。

アストリッドの師匠は、例外だった。

その例外を、あまりにもアストリッドは慕っていた。

表面上は、素っ気なくしていたけれど。

実際には、恋人関係にもなった男よりも、優先度は上だと考えていた。

それが同性であるエスティには分かっていた。

だからこそ、なのだろう。

アストリッドは、心が何処か子供のまま、決定的に歪みながら育ってしまった。男が出来てもそれは変わらず。

結局の所、最終的な破滅は、ロロナちゃんの試験突破の時に起きた。

だが、その事件がなくても。アストリッドの心は、いずれ破綻していたのかも知れない。

温泉を見つけた。

と言っても、入るのには適さないような、強烈な熱を持つ硫黄温泉だ。臭いもひどく、下手に踏み込むと失神してそのまま死ぬだろう。

柄杓のような道具を使って、アストリッドが成分を回収。

同じようにして、数カ所の温泉で、成分を回収した。

その中の幾つかは、普通に入っても大丈夫そうな温泉だ。ちょっとだけ食指が動くけれど、今は放置。

仕事中だ。

それも、下手をすると、どんな凶悪なモンスターよりも危険な人物を見張るという、最重要任務中。

アストリッドは、そのまま馬車を改装したアトリエに入ると。

腕組みして、壁際で見ているエスティをよそに。成分分析を開始する。

そして、一刻もしないうちに、結論を出したようだった。

「なるほどな……」

「結論が出たのなら、レポートにして提出しなさい。 貴方がどれだけ危ない立場にいるか分かっているのならね」

「ああ、その通りにするさ」

「偽造は無理よ。 ロロナちゃんが精査するしね」

ぴくりと、一瞬だけアストリッドが動きを止める。

ロロナの名前を出したからだろう。

実際問題、今のロロナちゃんは、人間の外側の領域に行ってしまっている。凄まじいのは火力だけじゃあない。

アストリッドは今まで、何度も書類を巧妙に誤魔化してきたけれど。

それを指摘したのは、全てロロナちゃんだ。

あの子は、幼児に戻ってしまったけれど。

オツムの出来は、むしろ向上しているほどだ。

「ああ、分かっているさ」

「終わったら戻るわよ」

促す。

エスティとしても、アストリッドの立場が悪くならないように、側にいる間は出来るだけ助けてやりたいのだ。

古くからの親友であるが故に。

例え、アストリッドが。

もう、自分もステルクも含めて。世界に興味を持っていなかったとしても。

 

頭に包帯を巻いたまま、ジオ王は積極的にモディスでの視察をこなしていた。少し前の邪神との戦いで、味方に大きな被害が出た。勇敢に戦ったリザードマン族の戦士にも、死者が少なからず出ている。

邪神とはかくも凄まじきものか。

そう、あの王が口にしたほどである。

どれだけの苦戦を強いられたかは、わざわざ口に出すほどでも無い。

そして、その邪神達が籠もるホームグラウンドとも言える場所を、これから攻略しなければならないのだ。

気が重い。

ましてや今は、急速にアストリッドがきな臭い動きを見せ始めている状況だ。

今、裏切りが出る事は致命的になる。

アストリッドが、人類などどうにも考えていない事など分かっている。それは親友であるエスティが一番知っている。

愚民め。

滅べ。

そうアストリッドは、何度も憎悪の言葉を、世界そのものに対して向けていた。彼女の水準から考えたら、人間など全部愚民も同じだろう。つまり、世界全てを憎むと言う事である。

前は、まだ余裕があった。

一手や二手の戦略的ミスが、人類の敗北へは直結しなかった。

だが、今は違う。

アストリッドが妙な行動をすると。

それだけで、人類滅亡へ、ぐんと近づいてしまうのだ。

こればかりはどうしようもない事実である。

ジオ王に次ぐと言われる実力を排除してしまうのは、とてももったいないことではあるのだけれど。

最悪の場合は、処置を下さなければならない。

そして下す場合。

手を動かすのは、恐らくエスティになるだろう。

それもまた、気が重い話だ。

ジオ王が物陰に移動。

其処で、消音の結界を展開。

周囲には話せない事を言う。

ジオ王も、とうに気付いていたようで。

あまり激しい反応は見せなかった。

「ふむ、アストリッドについては分かった」

「対処は如何なさいますか」

「しばし泳がせよ」

「御意……」

普段と違う。冷徹な口調。

こうなったとき、ジオ王には、基本的に明確なビジョンがある。エスティが口を出す場面では無い。

だから、そのまま引き下がることにする。

勿論ジオ王は、今アストリッドが裏切った場合の惨禍についても、理解は出来ているはずだ。

それで敢えて泳がせろと言っているのであるのなら。

何か、裏があると見て良い。

ひょっとするとジオ王は。アストリッドが何をもくろんでいるのか、知っているのではあるまいか。

咳払いするジオ王。

「不安そうだな」

「諜報としても、これ以上不安な動きがあるようだと、予防策を講じる必要があるとは考えます」

「ロロナ」

「はーい」

不意に。

ジオ王とエスティの間に。

ロロナちゃんが出現する。

何だ、どういうことだ。

一瞬前まではいなかった。よりにもよって、レオンハルト亡き今、大陸、いや世界最強の諜報であるエスティの目を誤魔化したというのか。

違う。

これは恐らく、超高速での魔術展開だ。

火力だけではなくて。こんな精密、高速動作も出来るようになっていたのか。

「アストリッドは、何を企んでいる」

「たぶんね、お師匠様は、一なる五人のけんきゅうを、うばおうとしてるとおもうよー」

にへらとロロナちゃんは笑う。

まさか。

ジオ王は、最初から知っていたのか。

「その研究の内容は?」

「ほぼまちがいなく、かみさまになることだとおもう。 あ、でも一なる五人はそう思ってなくて、「にんげんになる」とか思ってるかも」

「ほう?」

「色々と、一なる五人について調べたの。 そうすると、一なる五人って、世界ににんげんがいないってかんがえてるみたいなの。 古い時代から、ずーっとみらいまで。 それで、最初の人間になろうと思ってるみたいなんだ」

鼻を鳴らすジオ王。

嘲笑ったのか。

そうだろう。

一なる五人の、倒錯しきった思考。

恐らく、膨大な知識を得たのだろう。しかしそれが故に、異常なまでにねじ曲がった思考に辿り着いてしまった、天才達。

「エスティよ、だそうだ」

「……」

「しばらくの間、アストリッドが造反することはありえんよ。 もしあるとしたら、一なる五人を倒した瞬間だ。 それまでは、泳がせておけ」

「分かりました」

一礼する。

そして、ロロナちゃんの目を見て。

エスティは、背筋が総毛立った。

この子も。

もはや、師匠と匹敵するほどまでに、闇を蓄えてしまっている。分かってはいた。知っていた。だが、見てしまうと、ショックも大きい。

笑顔の奥にあるのは、地獄そのものだ。

トトリといい、この子といい。

世界は、錬金術をやる人間を、地獄に引きずり込む本能でもあるのか。いや、ステルクが言うように。錬金術そのものが、魔の学問だというのか。

だが、アストリッドの師匠は、心優しい女性だった。

アーランドにいるピアニャや、西大陸の対応を担当している2999は、極めてまともな心の持ち主だ。

極めようとすると。

地獄に足を踏み入れてしまうのか。

それとも、闇に踏み込む素養があるものが。

錬金術の深淵に近づいてしまうのか。

一刻も早く、此処を離れたいと思う。実際問題、ジオ王は、心配などする必要はないのだろう。

この有様では、アストリッドが造反しても失敗するだけだ。

それが一目で分かってしまう。

アストリッドも天才だが。

この世には、相手にしてはならない怪物が存在するのだ。そしてその怪物こそ、人間の中に紛れている。

休憩を入れよう。

そう思って、与えられている天幕に。

消音の結界と防御の魔術が掛かっている天幕の中で横になると、大きく息を吐いた。しばらくは、横になっていたい。

あまりにも、見てしまったロロナちゃんの目は。

凄まじかった。

あの幼子の体の中に。

灼熱地獄というのも生やさしい悪夢が、具現化していた。

錬金術は、本当に魔の学問かも知れない。

昔の、一生懸命で愛くるしかったロロナちゃんの事を思い出すと、涙さえ零れてきてしまう。

あのような姿に変えられてしまって。

闇を抑える気も無い状態になってしまった。

トトリが壊れる訳だ。

そして、今。

メルル姫も、おかしくなりはじめているという話を聞いている。ステルクが必死に食い止めようとしているようだけれど。

恋人だって止められなかった男が。

戦友以上に思われていない相手に、何が出来るというのか。

嗚呼。

嘆きの言葉が漏れる。

もはや世界は。

狂気に覆われようとしているのかも知れない。

 

しばし休んだ後。

精鋭を連れて、無限書庫に出向く。敵の配置と、後あわよくば、内部への侵入を果たすためだ。

無理はしないし、出来ない。

それは、配下にも言い聞かせてある。

此処にいる精鋭は、古くからの部下達。皆、熟練のハイランカーだ。いざとなったら親でも眉一つ動かさず殺せる暗殺マシーンの顔も持っているが。それ以上に、冷静に物事を判断し。進退を決められる頭脳の持ち主である。

敵陣に接近。

話に聞いているよりも、かなり数が多い。三万という報告を受けていたが。これは三万五千はいるかも知れない。

援軍が来たと見るべきだろう。

ひょっとすると、西大陸の維持は、もう諦めたのかも知れない。残存戦力をどんどん此方に転送しているとなると。

最終的には、五万を超える可能性がある。

そうなると厄介だ。

邪神三体だけでも尋常では無く面倒なのに。機動部隊五万が敵にあるとなると、非常に面倒な事になりかねない。

一なる五人は、時間稼ぎに躍起だ。

そうなると、やはり。

ロロナちゃんが言うとおり。何かしらのろくでもない計画を練っていて。それをアストリッドが勘付いて。

奪おうとしている、という事だろうか。

何だか知らないが、出来るだけ急いで止めないと危ない。

西大陸だって、ギゼラを一とする精鋭が頑張ってくれているけれど。それでも限界があるのだ。

敵が維持を諦めたというのは。

もう戦略的に意味を成さなくなったと判断したからの可能性が高い。

そうなると、もはや西大陸に援軍を置いておくこと自体が、無意味かも知れない。

敵の配置を確認。

相当に統制が取れている。正直な話、生半可な国の軍隊では、此処まで統率をとって行動出来ないだろう。

「仕掛けますか」

「止めておく」

「了解です」

ハンドサインで会話しながら、周囲の状況を確認。

無限書庫から。

不意に邪神が出てくる。

三体の力が違う邪神を、それぞれ下からい1、2、3と分かり易く便宜的に呼んでいるのだけれど。

あれは、色からいって2だ。

真ん中の邪神である。

「敵の気配がある。 周囲を探索せよ」

「!」

エスティは、無言で撤退を指示。

気配は完璧に消していたはずだが。

旧時代のテクノロジーによる探知だろうか、いずれにしても、面倒な話だ。

距離を取って、再集結。

欠けた者はいない。

もっとも、敵にもダメージは一切与えられなかったが。

此処はもう味方の勢力圏。

声を出しても大丈夫だ。

「エスティ様。 恐ろしく鋭い敵ですな」

「いや、恐らく気配が漏れていたのではないわね。 一端引き上げて、陛下に報告しましょう」

「分かりました」

撤退開始。

敵の目的は分からないまま。なんとしても探るためには、敵の懐に入り込みたいのだけれど。

邪神がああも鋭いのでは厳しい。

時間がないというのに。

時間ばかりが過ぎていく。

 

3、不死の薬

 

トトリ先生から貰った書物を確認していく。参考書としては異例なほど分厚くて、内部に辞典まで内包している。

メルルが手にした参考書としては。

もっとも分厚い代物だ。

記載されているのはトトリ先生が実際に作っていた薬剤について。

非常に難易度が高く。

理論については、もはや意味が分からない。

存在する確率を操作するとか。

まるで湧水の杯みたいな話も、普通に出てくる。

それらを薬として利用するというのだから、凄まじいを通り越している。何というか、ついて行けない世界だ。

特に凄いのが。

体の中の有害な異物が存在する確率を減らす、というものだ。

いにしえの時代。

もっとも人類が恵まれていた頃。その死因は、体の中身が変質する病気だったと言う。

今も、この病気はある。

特に年老いてから発症率が上がってくるもので。今まで健康だった臓器が、どんどんおかしくなっていく。

文字通り、異物になるのだ。

異物は生きていて。

回復魔術などを下手に掛けると、むしろ活性化してしまう。

最終的には心臓や脳と言った重要臓器までもがこの異物によって侵食され。どんな勇敢な戦士でも、優れた賢者でも、ひとたまりもない。

高齢者の死因としては、今でもそれなりに高い位置にいる病気だ。

もっとも、古い時代とは発症率が段違いで。

特に辺境戦士は、その程度の病気なら、自力で治してしまうことも多い。余程手遅れにならない限りは、魔術でどうにでもなる。

そういう意味で。

病気に対する対抗能力は、いにしえの時代よりも、ぐっと増しているとも言える。

訳が分からないオーバーテクノロジーが闊歩していたいにしえの時代でも、どうにもできなかった病気なのに。

今の時代は、人間そのものが強いので対応出来る。

それもまた、おかしな話だった。

この病気について、対策するのが。異物の発生確率を減らす薬だ。

信じがたい話だけれども。

異物の発生確率を、体の中から減らすことによって。実際に、長生きを可能とするのである。

ここまで来ると、もはや訳が分からない話で。

実際には、今の方が。

いにしえのテクノロジーを凌駕しているのでは無いかとさえ思えてくる。

しかしながら、いにしえのテクノロジーには、現在では再現できないものが山ほどあるのも事実だ。

それらを握っている一なる五人が、どれだけ手強い相手かと言うことを考えるだけでも。厄介さがよく分かるというものである。

参考書を読み進める。

身体を強化する薬は無いだろうか。

メルルはこの間の戦いで、痛感した。

自分の体が。脆弱だと。

能力をフルに活用すると、どうしても負担が大きすぎる。例えば魔力量を増やすとかすれば、全然違うのだろうけれど。

メルルはきっちりとシェリさんに教わって、魔力量を増やしている。

だけれども、まったくそれで追いつかないと感じている状態なのだ。

せめて、今の十倍は欲しい。

しかしながら、メルルも分かっている。

現時点で、メルルの実力は、既にベテラン勢の中でも上位に食い込み始めていて。そろそろ達人と呼ばれるレベルになるだろう。

成長はむしろ早い方だ。

その早い方だからこそ、限界だってもう見えている。

魔力量十倍は、どう考えても無理である。

しかしながら、フルパワーで能力を使い続けるには、最低でもそれくらいは必要なのだと、結論できる。

そうなると、やはり。

身体改造しかないかも知れない。

幾つかの薬物を見る。

副作用に、体をめちゃめちゃにしかねない、というものがあった。

見ると、エリキシル剤という薬だ。

強烈な医療効果がある反面、あまりにも体に強く作用しすぎるため、摂取しすぎると、破裂してしまう可能性があると言う。

恐ろしいと思ったけれど。

実は作り方は極めて簡単。

ネクタルの成分を殺さないようにして、圧縮していく。

それだけだ。

ネクタルは生きている部分がある。これを圧縮していくことで、以前も聞いた事がある、辺境戦士を強くしていった成分を、限りなく生のママ取り出すことが出来る。その効果は強烈の一言。

以前トトリ先生に聞かされたけれど。

生のママの成分だと、植物が勝手に歩き出したりするらしい。

それくらい、強烈な効果を示しているのだ。

摂取しすぎて、体が破裂するというのも。

あまりにも、体が元気になりすぎるから、というのが理由だろう。

空恐ろしいけれど。

現実感のある話だ。

錬金術をやっていると。何か出来ないことがあるのなら、錬金術で補えば良いと、考えるようになってくる。

体を強くすれば良い、と言うのもそれの一つだろう。

メルルの体は、あまりにも弱すぎる。

辺境戦士としては平均的だけれど。

今のままだと、その内壊れてしまうだろう。

しかし、一なる五人という脅威が存在する以上、もたついてもいられない。ぼろぼろになっても、無理矢理にでも立ち上がれるくらいの体が欲しいのだ。

顔を上げると。

ケイナが心配そうに見ていた。

「どうしたんですか、メルル。 凄く怖い顔をして」

「……何でもないよ、大丈夫。 今日は何か美味しいもの作ってくれる?」

「今日は鳥のもも肉を包み焼きにしたものですよ。 肉汁が染みていて、とても美味しく出来ています」

「そう、楽しみだな」

一端、勉強を引き上げる。

そして、すぐに戻ってくると言い残して。

トトリ先生の所に向かった。

 

トトリ先生は、相変わらず。闇の奥底のような場所で。うめき声と絶望の悲鳴に囲まれながら、調合をしていた。

側でちょこちょこ働いているちむちゃん達が可愛い。

同じものを複製するという能力だけではなく。

作業のサポートも出来ると言うのは。優秀極まりない。

そしてちむちむとしか喋れないのに。

トトリ先生とは意思疎通が出来ているし。

それぞれでは、会話も成立している。

ホムンクルス達は、ちむちゃん達との会話も出来るようだ。前に、2111さんに、訳してもらった事もある。

「どうしたの? 分からない事がある?」

「はい。 参考書について、聞きたいことが」

幾つかの場所で、説明を受ける。

さすがはトトリ先生で。細かい所も、すらすらと教えてくれる。この辺りの姿勢は、先生を始めた頃と、何も変わらない。

本人は狂気に沈んでいても。

優秀な教師であると言う事実に代わりは無いのだ。

「有難うございます。 とてもよく分かりました。 あれ?」

気がつくと。

たくさんのちむちゃん達が、此方を見上げていた。

足下を掴んで、ちむちむと何かを訴えかけてくる。

トトリ先生は、笑顔のまま。

恐ろしい事を言った。

「メルルちゃんに、話があるって。 ふふ、私のいない場所が良いって。 何だかやけちゃうなあ。 首をもいであげたいくらい」

「……え、ええと」

まだ、そういうストレートな狂気をぶつけられると。

体が反応する。

トトリ先生が壊れてしまっているのは分かっているけれど。それでも、どうしようもない恐怖が、全身を覆う。

まだまだトトリ先生は、遙か格上の使い手だ。

それを考えると、やはり恐ろしい。

外に出る。

ちむちゃん達は、まだ纏わり付いてくる。切実な様子で此方を見ているので、正直あまり無碍には出来ない。

「どうしたの?」

「ちむ、ちむちむ!」

「困ったなあ……」

2111さんも2319さんも側にはいない。

何しろ2111さんは今日、遠出をしている。これはメルルが頼んだのだ。少し珍しい資料が必要になったので、親書を持って隣の国に言っている。参謀としての才覚を見せてくれている2111さんだ。こういう頭脳労働の経験も積んで貰おうと思って、任せたのである。

2319さんはいる筈だけれど。

訓練場だ。

ちょっと遠いので、辟易するけれど。

側をセダンさんが通りかかったので、2319さんを呼んで貰うことにする。ちむちゃん達に纏わり付かれている有様を見て、ぎょっとした様子だったけれど。何しろ狭い王都だ。すぐにセダンさんは走ってくれた。

すぐに、2319さんは来てくれた。

口をへの字にして聞いていた2319さんだけれど。

話を聞き終えると、頷いてくれる。

「消音結界を張った方が良いでしょう」

「ああ、それなら大丈夫」

メルルに、それは用意がある。

ゼッテルに仕込んだ魔法陣から、魔術を起動する仕組みだ。消音結界バージョンも、シェリさんに手伝って貰って作った。

現時点では大丈夫だ。

ただ、セダンさんも、興味津々の様子で見ている。

巻き込むのはちょっと気が引けるのだけれど。

セダンさんは、メルルと仲良くしたいと前から言っている。此処で断るのも、少しやりづらい。

「ひょっとして、結構困ってます?」

「巻き込むと危ないかも知れないです」

「……そうですか」

残念そうに、肩を落として、去って行くセダンさん。力になってくれると言っているけれど。

こればかりは、巻き込めない。

2319さんは仕方が無い。

通訳が必要だからだ。

話をして貰う。

ちむちゃん達は、こう言っている。

「トトリ様は、大変苛立っています。 貴方を殺そうと、何度か視線を送っていました」

「!」

「トトリ様は、本当はとてもお優しい方なのです。 我々は、トトリ様が、これ以上罪を重ねるのを見たくありません。 トトリ様にこれ以上罪を重ねさせないでください」

「……」

唇を噛む。

そうだろう。

トトリ先生にしてみれば、土足で心に入られているのも同じ。ましてや今は、自分にとって思い入れがあるちむちゃんに、こんな話をされている。

2319さんが眉をひそめた。

「マスター?」

「うん、分かってる。 ええと、此方から話す分には通訳はいらないかな」

「ええ。 普通に通じます」

「うん……」

咳払い。

何度かしたのは。

どう答えて良いか、分からなかったからだ。

ちむちゃん達は、トトリ先生と言葉が通じる。そうなると、何度も諫めようとしたはずだ。

だけれども、トトリ先生の狂気は、もはや可愛いちむちゃんたちの言葉でも、聞き入れないほどの深淵に到ってしまった。

狂気と恐怖の絶望の中。

それでも、トトリ先生に仕えようと。側に残っているのが、このちむちゃん達だ。

決死の覚悟だろうに。

いつ殺されたっておかしくないのだ。

今のトトリ先生は、子供だって平気で殺戮しかねないのである。

メルルは、大きく嘆息した。

なんと声を掛けて良いか分からない。

トトリ先生を挑発しないでくれという言葉については、分かったとしか応えられないけれど。

トトリ先生を救いたいのだ。

そのためには、いずれ。

やはり、土足で心に入る必要も生じてくるだろう。

無論、説得やら説教やらで、トトリ先生を闇の深淵から引き戻せるとはとても思えない。もしもトトリ先生を救うなら。一なる五人を倒し。皆を縛っている悪夢の輪廻を、順番に断ち切っていくしかないだろう。

今は。まだ。

トトリ先生を、刺激しないように、やっていくしかない。

「大丈夫、あまり刺激しないようにするから、ね」

ちむちゃん達を抱きしめる。

2319さんは、口を押さえて、視線をそらした。

嗚咽が漏れているのが聞こえる。

ちむちゃん達が、きっと悲しい返事をしているのだろう事は、分かった。

 

アトリエに戻ってから、参考書に目を通す。

力だ。

知恵は力になる。

そして力は、世界を改変できる。

もうトトリ先生もロロナちゃんも。それにアストリッドさんも。救う方法は、一なる五人を倒した後、状況を改変するしかない。

一なる五人でさえ。

きちんと理解すれば、救えるかも知れない。

そう前向きに考える。

そうでなければ、やっていられない。

「……」

うめき声が漏れる。

メルルは、どうしたのだろう。

いつの間にか、頭を抱えていた。

恐怖からか。

違う。

きっと、絶望からだ。

まだ力が足りなすぎる。この参考書だって、理解できない箇所が多すぎる。まだ、メルルは、他人の掌の上だ。

こんな非力なのに。

どうして、世界を救えるものか。

いつの間にか、眠ってしまっていた。

勉強用の机に突っ伏してしまっていたらしい。毛布を掛けてくれていたのはケイナだろう。

側には夜食のパンがあったけれど。

冷え切ってしまっていた。

「それを食べたら、きちんとベッドで眠ってください」

明日は、ケイナはさぞ怒っている事だろう。

でも、メルルは。もう、止まっている時間がない。

ざっと全体を確認する限り。

幾つか、目的とする技術を拾い上げることが出来た。子供を大人にするには、その逆の研究が必要だ。

時の操作。

広い空間を、長期的に操作する事は不可能だけれど。

限定的な空間を、限定的に戻す事は、決して不可能では無い。古い時代、量子力学と呼ばれていた学問らしいのだけれど。

それを錬金術に応用するのだ。

難しすぎて、全ては再現できないけれど。

トトリ先生やロロナちゃんは、部分的に実験で成功させている。戦闘で使えるほど応用力は無い様子だけれど。

それでも、ひょっとしたら。

まだ、必要な技術はある。

皆の時間を等しく止めてしまうもの。

自分まで止まってしまったら、何もかもが台無しになるから、其処は調整しなければならないけれど。

上手に扱えば、或いは。

落ち着いて、一なる五人と対話が出来るかもしれない。

一なる五人は、恐らく。

昔見た夢の存在だとすれば。

世界に対する思想を、完全にこじらせてしまっているのだと思う。

それであれば。

多少は、話をする事で、他の知識を入れることが出来れば。或いは、少しは考えを変えてくれるかも知れない。

勿論かも知れない、の域を超えない。

スペックでいうなら、向こうが遙かに上。

だけれども、恐らくは固定観念で、何か思考を硬直化させてしまっているのだと、メルルは思う。

だって、それはそうだ。

人間なんて、古い時代からずっといる。

定義をどうするか何て関係無い。

いにしえの人々も。

今生きている人々も。

等しく人間だ。

それを定義することは、恐らくは人には許されない。メルルは人を導く立場にいるけれど。導き方を変えることはあっても、人間以下とか、そういう風には考えない。西大陸から来た人々や、王都北東で囲っている荒くれ達には呆れることもあるけれど。彼らに対するふさわしいやり方。つまり恐怖を使って君臨するだけ。彼らを人間だと思わないようなことは、ない。

でも、恐らくは。

今の状態では、きっと言葉は届かない。

言葉は届くかも知れないが。何も変わらない。世界が変わるほどのブレイクスルーが必要だ。

やはりそれには。

事実そのものを、改変するしかない。

それを成し遂げるには、メルル自身が脆弱すぎる。

人の体か。

いにしえの時代からの、破滅的な破壊と、其処からの生存を経て。人は非常に強靱になったと言う。

メルルの肉体だってそう。

古い時代の人間だったら、即死しているような攻撃をものともせず。一生ものの怪我を、数週間で完治させてしまう。

リリハルスさんの反応を見て。それが如何に異常なことなのかは、よく分かった。

というよりも。リリハルスさんにしても。病気や毒物に対する耐性は、いにしえの時代の人々から見れば、常識外の域にあると言う話だ。

あれで、である。

そうなると、やはり人間は。

まだまだ、脆弱だと考えるしか無いのかも知れない。

いつか、夢に見た。

おぞましい怪物に変わった自分の夢。

もしも、あの姿になったのなら。

私は。

「メルル」

不意に、呼びかけられる。

誰だろう。

ケイナでは無い。

いつの間にか、夢を見ていた。思考を巡らせる内に、どうやら疲れて眠ってしまっていたらしい。

そこにいたのは。

以前から、時々夢に見る人。

優しい雰囲気で。桃色の髪の毛。いつも、メルルに、前向きに考えるようにと、諭していて。

それでいながら、母上には徹底的に嫌われていた。

あの人だ。

周囲は真っ白。

何も必要ないから、そうなのだろうと、メルルは思った。

「貴方は、ソフラおばさまですか?」

「……」

返事は沈黙。

だけれども、微笑みが肯定だと告げていた。

ソフラおばさま。

父上の妹君。

あれから少しずつ調査を重ねて、どういう人だったのかは分かってきた。母上が名前を聞いただけでかんしゃくを起こすので、お城では存在がタブーになっていたのだけれど。母上も亡くなった今は、もう名前を出すことを、躊躇う必要もないだろう。

アールズにおいて、メルルの前の錬金術師と言えば、この人だ。

既にアールズでは脆弱になり果てていた、錬金術の遺産を受け継いだ人。

それ以外は、殆ど分かっていない。

どうやらメルルが使っているアトリエの土地には。前に、ソフラおばさまがアトリエを建てていたらしいのだけれど。

そのアトリエも、母上に壊されつくして。

今は、跡形もなく。

その上に建てられた別の建物を改装したものが。

今のメルルのアトリエになるそうだ。

殆ど覚えていないソフラおばさまだけれども。

何となく分かる。

ずっと、メルルに優しい言葉を掛けてくれて。

亡くなった後までも、メルルに気を配ってくれた人。

お城では、ソフラおばさまが、幽霊として現れる事は珍しくもなく。幼い頃のメルルには、特に良く接してくれていたという。

これらの情報は。

以前お城に仕えていた、老侍女に。

頭を下げて聞き出したものだ。

引退して隠遁生活を送っていた彼女を探し出すのは苦労した。

箝口令を敷かれていたおばさまの話は。

彼女くらいしか、口にすることは許されず。それ以外の者は口に出すことを恐れ。何より、若い世代は、そもそも把握していなかったのだ。

老侍女にしても、ソフラおばさまについては、あまり詳しくは知らなかった。

どうやら若い頃の父上と、ジオ陛下と。一緒に冒険をした事があり。

数年ほど、激しい戦闘に身を置いていたとか。

優しい性格のソフラおばさまだけれども。

錬金術を応用した戦闘技術は凄まじく。

アールズでもエースクラスの戦士の一人だったそうだ。

だけれども。

ある強大なモンスターとの戦闘で。そのモンスターを封印するために、命を落としたとか。

あのジオ陛下がついていて、命を落とすほどのモンスター。

エントか、それと同等以上の存在だろう。

そのモンスターの名前までは分からなかったけれど。

それが、死の原因なのだと言うことは間違いなさそうである。

だけれども。

死した後も、メルルに良くしたことが徒となった。母のヒステリーを招き、しまいには虐待まで呼ぶようになった。

メルルの体には生傷が絶えなくなり。

見かねたソフラおばさまは。メルルの前から、姿を消した。

だけれども。何となく分かる。

きっと、今までも。

見守ってくれていたのだろう。

「メルル、貴方は闇に足首を掴まれ掛けています。 理解していますね」

「はい。 でも、今は力が必要です」

「そうですね。 錬金術を極めれば極めるほど、闇に近づく。 私も同じジレンマに、苦しめられました。 私も同じ世代の錬金術師を何名か見た事がありますが。 呪い師程度の者や、極めようと思わない者は、闇に近づかなくても良かった。 しかし、今の貴方のように、力を欲して錬金術の深淵に到ろうとすると、どうしても闇と向き合うことは避けられない」

なぜなら。

錬金術は、深淵の学問だから。

深淵には狂気が満ちている。

膨大な闇が其処にはあり。

覗き込もうとする者を、引きずりこむ好機を狙っているから。

「それでは、どうすればよろしいのですか」

「私は死した身。 あまり側にいることは出来ません。 しかし、はっきりしている事が一つだけあります」

「……」

「錬金術は、そもそも世界の理に触れる学問だと言うことです。 世界の理である深淵は闇に満ちています。 その一方で、其処は純粋な力に満ちているとも言えます」

まて。

それは、つまり。

力と闇は、むしろ分離することも出来る、という事だろうか。

何となく分かる。

勿論、闇が膨大にある学問だ。

接していれば、心がむしばまれるのは避けられない。

メルルだってそうだし。

もっと偉大な先輩達の惨状を見る限り、闇を避けて通るのは、絶対に不可能だとも断言できるだろう。

だが、おばさまの言葉を聞く限り。

錬金術の本質の一つである力を、そのまま抽出することも、可能だと言う事か。

目が覚める。

寝室に移動して、其処で寝直すことにする。

まだ夜明けまでは時間がある。

眠る訓練はしているから、好きな時間に眠ることだけは出来る。それは辺境戦士故の強みだ。

ぼんやりとしながら、おばさまの言葉を思い出す。

うまくやれば。

メルルは闇に落ちずとも。

狂気に落ちた先輩達を、救い出す路があるのかも知れない。

大きな賭だ。

実際問題、先輩達だって、落ちたくて闇に落ちた訳では無いのだ。そして、メルルよりずっと賢い人達なのだ。

そんな人達でさえ、見つけ出せなかった一筋の糸。

探し出すには。

どうすれば良い。

気がつくと、朝になっていた。

もう、おばさまの夢は見なかった。

いや、あれは夢じゃない。

きっと、おばさまが、本当に来ていたのだろう。闇に落ちようとしている、メルルを見かねて。

勿論、おばさまは死者だ。出来る事には限界がある。

だけれども、メルルは。

その出来る事を、精一杯貰った気がした。

 

4、一筋だけの糸

 

起き出したメルルは。

父上の所に出向く。

何だろう。

視線を感じる。それも、とても強い視線だ。負の意思が籠もっていて。とてもではないけれど。

好意的な視線では無かった。

王都の中だ。

一人で歩いても大丈夫だろうとは思っていたのだけれど。何だか、それさえ不安になってくる。

何度か振り向いたけれど。

視線の主は、姿を見せない。

何者か。

途中、声を掛けてくるのは、メルルの大事な民達。

些細な事を頼まれたり。

或いは小さな仕事をしてくれと言われたり。

全てを笑顔で応じながら。メモを取っていく。

ただ、一つだけ。

堪えたことがある。

前の、ハルト砦での大会戦で。亡くなった戦士の母親である老人に、言われたのだ。

「もう戦争を終わらせて欲しい」

「……」

「分かっておるよ、無理である事は。 だが戦争は、戦いとは違う。 辺境戦士の誇りを満たす場なんてない。 それはよく分かったからねえ」

自然とともに生き。

モンスターと戦って、覇を競う。

それが辺境戦士だ。

無論、そんな理屈は、絶対じゃない。国によっても違う。もしも辺境戦士全員で共通していたら、辺境国家同士で戦争は起きないし、皆で仲良くやる事が出来ていただろう。だけれども、実情は違う。

アーランドによる統一が進んだのは。

その圧倒的な武力が背景にある。

ホムンクルスの大量生産による武力。

そして、何より。

スピアという、未曾有の脅威も大きかった。

二つの要因があって、ようやく辺境はまとまったのだ。

逆に言えば。

辺境戦士の誇りだけでは、とてもではないが。辺境がまとまることなど、なかっただろう事を意味している。

だけれども、お婆さんの言葉を、無碍には出来ない。

その哀しみは、嫌と言うほど理解できたからだ。

「大丈夫、数年以内には終わらせます」

「そうかい。 頼むよ、姫様」

「はい」

というよりも。

数年以内にけりがつかなければ。

多分押し負けるのは人類だ。

今後は、更に民に負担を掛けることになる。それを此処で口に出来ないのは、とても悲しい。

王族と生まれて。

相応の帝王教育を受けて。

故にメルルは知っている。

全ての真実を話すことが、良き政につながるとは限らないことを。だが、それでもおばさまは、全てを話してくれた。

メルルが闇に落ちるのを防ぐためか。

多分違う。

きっと、メルルにはまだ可能性があったからだ。

闇に落ちず。

力だけを、深淵から引き出せる。

だけれども、その可能性は、きっと極小。

メルルの足首を掴んだ闇だって。簡単に離れてくれるほど、甘くは無いだろう。それでも。

メルルは、おばさまが冥府からわざわざ出向いてきて。声まで掛けてくれたのだから。その可能性に掛けてみたいと思う。

本格的に始める必要がある。

メルル自身が強くなる研究もそうだけれど。

ロロナちゃんの体を元に戻して。

それで。

ふと、気付く。

誰だか知らない人がいた。

お城の前で、待っていた。側に立っているのは、ステルクさんだ。この間の怪我が治りきっていないのか。顔に包帯を巻いているが。

寂しそうな笑みを浮かべるその人は。ホムンクルスのように見えた。いや、ホムンクルスの筈だ。

造形は他の子達と同じなのに。

豊富な感情と表情。

何より、他のホムンクルスがまず見せない深い哀しみの表情が、彼女が普通のホムンクルスとは違うと告げていた。

それに、何だろう。

会った事が、あるようなないような。

「貴方は……」

「2999と言います。 メルル姫ですね」

「!」

「そう、貴方の姉弟子です」

トトリ先生には、三人の弟子。

アーランド地方で頑張っているピアニャさん。東大陸の出身者で、既に一方の戦線を任されるだけの実力者。

もう一人が、2999さん。

最近名前を知った、トトリ先生の二番目の弟子。

ホムンクルスだとは聞いていたけれど。これほど、重苦しい哀しみを纏った人だとは思わなかった。

それに、何となく分かる。

うっすらだけれど、覚えている。

この人は、夢で見たかも知れない。

「ああ、良かった。 貴方はまだ漆黒の泥に飲まれていない」

「……」

「メルル姫、彼女は」

「ステルク、良いのです」

はて。

どうしてだろう。経歴でもずっと上の筈のステルクさんを呼び捨て。それにこの人、若々しい容姿と、雰囲気が合っていない。

まるで、中年以上の女性に思えてくる。

いや、違う。

生体魔力の流れが、ホムンクルスにしてもおかしい。この人は、多分見かけ通りの存在ではないと見た。

「私に相談してくれたのは本当に助かりました。 ひょっとしたら、これで活路が開けるかも知れない」

「活路……」

「城の中にて、防音結界を準備して貰っています。 其処で、全てを話しましょう」

何だかおかしな雰囲気だ。

だけれど、メルルは何となく悟る。この人は、恐らく。全ての鍵になる存在だと。

 

トトリがアトリエで作業をしていると。クーデリアさんが来た。

この間の戦いで、片腕が千切れかけるほどの負傷をして。その代わりに、敵の首魁。邪神の一体の、癖を見抜いた。

捨て石にしたのが腕一本で。

それで邪神の癖を見抜けたのだから安いものだ。

クーデリアさんはそう笑っていた。

そして、今も。アトリエの、トトリのお気に入りの生首達を見て、眉一つ動かす事はない。

茶を用意する。

ちむちゃん達に手伝って貰って、茶菓子も準備していると。後ろから、声を掛けられた。

「そろそろ決行するわよ」

「一なる五人を潰せる算段がついたんですか」

「ええ」

クーデリアさんだって、ロロナ先生を元に戻す機会は。一なる五人を潰した後だと知っている。

そうでなければ、あのジオ王が許さないし。

何より、最強最悪の人類の敵に対する切り札も失う。

悔しいけれど、いにしえの時代の最強破壊兵器にも勝るロロナ先生の火力は、確かに戦場を一気にひっくり返す切り札になり得る。

着眼点は。

間違っていなかった。

それだけは、トトリからも、断言できる。

もっとも、絶対に許す気は無いが。アストリッドもジオ王も、後で首を引きちぎってやる。

そう、笑顔の裏で、トトリは考えている。

簡単にできることでは無いが。

償いはさせるつもりだ。

トトリはクーデリアさんの派閥に属して、ずっと動いてきた。ステルクさんも同じように動いているけれど。トトリの方が、ずっと動きが闇深い。

様々なデータを積み上げてきたのも。

この日のためだ。

まずは、一なる五人を潰す。

全てはその後である。

「それで、私の仕事は?」

「邪神を無力化する方法に何か案は」

「幾つかありますが、捨て石が必要になりますよ」

まあ、最悪の場合は、メルルちゃんを使えば良い。

それに対して。

トトリは、何の罪悪感も感じていない。

全てが終わった後、自分だって生きているつもりはない。

殺戮の限りを尽くして、血の海に沈むのも、また乙というものだ。

案をそれぞれ話し合う。

クーデリアさんの手腕で、恐らくは邪神を一匹は潰せる。そしてもう二匹をどうにか引きずり出せば。

邪神の巣である無限書庫はがら空きだ。

勿論、自分たちの急所である事も理解しているだろうから、邪神も中枢部分を簡単に明け渡しはしないだろう。

そこで、捨て石が必要になる。

最適なのが、メルルちゃんだ。

ここしばらく、めざましい活躍が出来るようにお膳立てしたのは、この日のため。

全ては、償いのためだ。

償いのためにさらなる罪を犯すことになるが。

それはもう、どうでもいい。

既に血と臓物に塗れた身。

これ以上穢れようと、気にならない。

「それにしても、少し手が足りませんね」

「手なら足りるわよ」

「へえ……」

クーデリアさんが、見せてくれたリスト。なるほど、この面子が来るのなら、或いは手も足りるかも知れない。

決戦は二月後。

無限書庫への攻撃を開始する。

恐らく、一なる五人は、無限書庫にはいない。邪神共を潰し、一なる五人の手勢を壊滅させてから。

連中のもくろみを叩くことになるだろう。

そしてもくろみに関しては。

エスティさんが、既に此方に情報を流してきている。

既に九割以上の確率で、一なる五人の目的は推定できている。今いる場所と。どう攻略するかも、だ。

アストリッドが独自の動きをしているが。

これ以上先など越させない。

皆殺しだ。

そして、殺す面子の中には。

最終的には、トトリも含む。

もはや未来など必要ない。

「ああ、手の治療有難う。 何の後遺症もないわ。 もう少し鍛えれば、壊れる前のロロナに並ぶわね」

「有難うございます、クーデリアさん」

「いいわ、それよりも、その悪趣味な生首、そろそろ解放してあげなさい」

「いやです」

そう、と言い残すと。

クーデリアさんは消えた。

同じ人を助けようと願う。

それだけで、利害の一致だけで、一緒にやってきたけれど。あの人とは、最近決定的に相容れない事が分かってきた。

あの人は、あれだけ悲惨な目に会った親友を見ても、自分が悪いと考えない。それこそ、魂を分けた友であっただろうに。

そこが、トトリには理解できない。

無言で、釜に振り返ると。

トトリは、何種類かの毒物と。爆発物を作り始めた。その中の一つは、直撃させれば、一なる五人でも無事では済まない、究極の爆発物だ。以前も作った事があるし、実戦投入もしたことがある。

それを更に火力を上げ。

ものが存在する確率を操作して。

極限まで、力を引き出している。

何もかも吹き飛ばしてしまうのには、丁度良い。

ついでにこの国も。

周辺国も。

まとめて消し飛ばしてしまえるかも知れない。

くつくつと、トトリは笑う。

何もかも、滅ぼす。

良い気分だ。

そういう意味では、トトリは。既に一なる五人と、同じ側にいるのかも知れない。思想が同じでも、殺し合う間柄で。絶対に相容れないが。

もう一つ、くつくつと笑う。

既に、時代が。

救い得ない状況に、動き出しているのを悟って。

 

(続)