鳳仙花

 

序、転ばせの坂

 

ずっと、泥のように寝ていた。その前は、何をしていたのか分からない。気付いたときには、何か、よく分からないところに転がされていて。

側に誰かがいた。

顔もよく見えない。

声も判別できない。

そしてぼんやりしたまま、聞かされる。

もう少しで、エサにされるところだったと。

何を言われているか分からなかったけれど。

頭が冴えてくると、少しずつ思い出してきた。

街が、モンスターに囲まれた。

軍隊は全滅。

モンスターは街になだれ込んできて。目を覆うばかりの殺戮が行われた。そして、其処から記憶がない。

可哀想に。

そう言われたけれど、実感が無くて。

震えが来たのは、事実を理解してから、四日後。

その時には。

何もかもを失って。

もはやこの「大陸」そのものに、人を養う力が無くて。

よその大陸から助けに来てくれた人達が派遣してくれた船に乗って、逃げるしか無いという事だった。

荒くれらしい大男が、悪態をつきながら側を歩いている。

女の子が泣いている。

おばさんも。

お爺さん達が、苦しい苦しいと言っていて。

でも、怖くて、大声は出せなかった。

本当に助けてくれたのだろうか。

だって、周囲にいるのは。同じ人間だとは、とても思えない連中ばかりだったから、である。

モンスターだとしか認識していなかった、悪魔族までいる。

他の人間達も、素手でモンスターを薙ぎ払い。武器を持たせれば、モンスターの群れを単独で制圧してみせる。

そんなバケモノ。

伝説の英雄と言えば聞こえは良いけれど。

実際に戦う有様を見ると。

血しぶきが飛び散り。内臓がまき散らされ。

凄い凄いなどと喜んではいられなかった。

それほど、過酷な移動は強いられなかった。食事も貰えたし、休むときは比較的温かい空間だった。ただのキャンプではなくて、雨風も和らいでいたように思える。

魔術による防御結界だというけれど。

魔術なんて、失われて久しい技術だ。たまに魔術師も姿を見せる事があったけれど、モンスターの同類くらいにしか、周囲には思われていなかった。

「何処へ連れて行くんだよ!」

わめき散らしたのは、神経質そうな中年男性。

食ってかかった相手は、彼の肩までも背が無い小柄な女性だけれど。私は何て命知らずなんだろうと思った。

その小柄な女性が。

素手でモンスターの首を引きちぎり。

裏拳一発で人間大のモンスターを、赤い霧に変えるのを見ていたからである。

「半数ほどは、まだ交戦を継続している街に移動して貰います。 少しでも人手が必要ですから」

「お、おい、バケモノとやり合えって言うのか!」

「猫の手でも必要な状況です。 貴方のように健康な人間なら、役に立てるはずです」

露骨に青ざめる中年男性と。

落ち着き払った。

いや、感情さえ感じられない女性の声。

そういえば、この女性。

彼方此方で見かける。一族か何かか。

「戦闘力がない女性や子供、老人は、我々の船で、東の大陸に移動して貰います。 しばらくは其処で後方支援に従事してもらう事になります」

「後方支援って、なんなや……」

「畑を耕したり、服を縫ったり、或いは食事を作ったり」

老人が不安そうにする。

畑仕事なんて、した事もない。

農民は被差別階級だ。この大陸は豊かで、殆どの人は働かずに暮らせる。一部の身を持ち崩したような人間が農民となり、多くの人の食糧を生産する。そういう仕組みで動いてきた。

多くの機械。旧時代の遺物である、自動機械群が、少数の農民だけでの大量食糧生産を可能としていた。

食糧という観点では。

誰もが働く必要などない。

ごく一部のはぐれ者だけが、懲罰を兼ねて働けば、それで全てが解決する。膨大な旧時代の機械群があってこそ、可能だった事。

勿論、機械群は、他にもあらゆる面で市民のその生活を支えていたのだけれど。

そういえば。殆ど見かけない。

便利な生活に欠かせなかったあの機械達は、何処へ行ってしまったのだろう。

モンスターの襲撃が、ひっきりなしにある。

アーランドとかいう国から来たと言うその戦士達は、非常に勇敢で、一人だって難民を死なせはしなかった。

だけれども、難民皆が怖れた。

あまりにも、桁外れすぎる強さだからだ。

特に、リーダーらしい大柄な女性は、もう人間とは思えない。家ほどもある巨大な剣を振り回して、どんなモンスターでもゴミのように打ち砕いてしまうのだ。

子供達でさえ、怖れて泣く。

勇敢という言葉は間違いかも知れない。

強いて言うならば。

獰猛だ。

猛獣なんて、目では無い。勿論この大陸にもモンスターは生息していたし、退治するための専門職だっていた。モンスターに襲われて亡くなる人だって、年に十人以上は存在していた。

だが、それらは他人事だった。

実際目の前で、現実を見せられると。

それが如何に凄まじい代物だったのか、理解できる。

昔話の英雄譚が大嘘だって、私は今更思い知らされる。

戦いはこうも恐ろしく。

血と臓物に塗れているのだと。

モンスターの死骸がぶちまけた汚物と血を見て。

徹底的に叩き込まれる。

みな、吐いて。

それでも、歩いた。

そして、海が見えてくる。

海には、何隻もの船が浮かんでいて。その周囲では、多くの戦士達が、守りを固めていた。

屈強な人は、其処で戦いに加わるように説得された。そこにいる戦士達は、殆どは皆、難民と変わらない人間のようだった。

バケモノに抱え込まれているようで、生きた心地がしなかったからかも知れない。

最初は威勢が良かった荒くれも。

すっかり萎縮しきって、役には立ちそうに無かった。

「これは、駄目だな……」

「無理もありません。 人間加工工場から、間一髪で助け出した人達です。 どれだけ怖い目に遭っていたことか」

大柄すぎる女性に、一杯同じ顔がいる小柄な女性が受け答えしている。

名前は、少し前に知った。

大柄な方がギゼラ。

小柄な方が108。

ギゼラの方はともかく。小柄な方は、大量生産品みたいな名前だなと思ったのだけれど。同じ顔のが十何人もいるので、あながちその感想は間違いでもないかも知れない。

手を叩いたのは。

いかにも将軍という風情の大男。

厳しい表情で。

いかにも強そうな鎧を着込んでいる。

アーランドの戦士達がいずれも軽装なのとは対照的だ。非常に分厚そうな鎧で。見かけだけは此方のが強そうだ。

実際は、逆だろうが。

「それでは、皆、避難船に乗り込んで貰う」

「故郷に帰してくれよ!」

誰かが叫ぶ。

殆ど全員が、着の身着のままだ。

裸のまま訳が分からない場所から助け出されて。量産品としか思えない安物を着せられて、歩かされ。

家がどうなったのか。

私材がどうなっているのか。

誰も分からない。

せめて家族の形見の品だけでも欲しいと呻く人達もいる。

その気持ちは、私にもよく分かった。

「皆には辛い話になるが、故郷となる街は既に存在しない。 瓦礫どころか、既に完全に平らにされてしまっていて、荒野に戻っている」

「嘘だろ……」

「この大陸で暴れているモンスターどもは、そういう連中に変わってしまったのだ。 全てが洗脳、改造され、人間をひたすらに殺し、そうで無い場合も捕獲して食糧に変えてしまう。 アーランドから援軍が来なければ、どうなっていたことか。 今頃この大陸からは、人がいなくなっていたかも知れん」

道中、散々見せられた、モンスターの獰猛さ。

あれを考える限り。

そして、記憶が途切れる前の、悪夢。

総合して、考えれば。

その言葉が嘘などでは無い事は、容易に判断できる。

この世界は。

狂ってしまった。

「アーランド王国がある大陸で、皆の身を引き受けてくれるという話だ。 此処では食糧さえ足りないが、向こうでは食糧もある。 今、戦況はようやく好転し、各地で敵を押し返すことに成功し始めている。 この勢いを、食糧難などの足かせで失うわけにはいかないのだ。 わかってくれ。 私も心苦しいが、他に方法が無いのだ」

将軍らしい男の言葉に。

誰も、もはや文句は言えなかった。

戦う事を志願した少数以外が、いずれもが船に乗った。家族連れらしいのは、殆ど少数しかいない。

帆船だったり、外輪船だったり。

船の技術は、端から見ても、様々。

大きさもだ。

それらが雑多に艦隊を組む中。

まばゆい金属装甲の船もあった。

なかなかの大型船で。

武装も立派な様子だった。

促され、船に乗り込む。私自身は、小さな帆船に振り分けられた。

もうどうにでもなれ。

そう自棄になって考えたけれど。

地獄は、此処からだった。

 

船が出ても、モンスターの襲撃は相変わらず。連日、訳が分からない巨大なモンスターが、艦隊に仕掛けてくる。

その度にアーランドの戦士達が撃破してくれるけれど。

生きた心地がしない。

小さな船など、丸ごと締め上げてくる巨大なイカ。

勿論船が締め潰されたりしたら、乗員の運命なんて、どうなるか決まり切っている。

自然のものとはとても思えない、船サイズの鯨。

金属船が放った、水平線の果てまで届くような攻撃を食らって、一瞬で木っ端みじんに消し飛ばされる。

残った肉や内臓が、夕食に出た。

とても食べる気にはなれない。

一方、小型のタブレットのようなものも出されて。

それは、そこそこに美味しかった。

味はパイのようで。

中はしっとりしていて。しかも食べると元気が出る。水もいらないし、結構凄い食べものだなど、私は思った。

同じ顔の、数字が名前に割り振られている戦士達は。

話しかければ、応えてくれる。

今も見張りをしていたので、聞いてみると。

これは耐久糧食と言うらしかった。

「何年か前に、当代の旅の人と呼ばれる偉大な錬金術師が作り上げたもので、兵糧の概念を一変させたものです」

「錬金術師……」

知らない言葉だ。

魔術師よりも、更に身近では無い存在なのは、確かだろう。

いずれにしても、これは美味しい。

それだけは、助かる。

もっと貰えないかと聞いてみる。実際、周囲にも。モンスターの肉はとても食べられないけれど。

これなら、と言う人は少なくなかった。

寂しそうに、同じ顔の女戦士はほほえむ。

「兵糧として優れていると言うことは、汎用性が高く、数にも限度があります。 この艦隊が往復するのも、皆さんを救助するだけでは無く、食糧を補給するためです。 出来れば、中途で得た肉や植物を食べる努力をしてください」

「ママの料理がいいー!」

子供が泣き出して。

側の老人が慰める。

陰鬱な周囲は、地獄絵図だ。狭い船底。いつ襲ってくるか分からない、巨大すぎるモンスター。

たまにしか出ない美味しいもの。

これでは、皆が病むのも、無理はない。

船旅は続く。

たまに出る耐久糧食だけが楽しみだ。

船酔いに苦しむ人もいるけれど。幸い、それに関しては、緩和薬が準備されていた。

不満を口にする人も多い。

「俺たち、どうされるんだよ」

「またあの工場みたいな所に入れられて、殺されるのかもな」

「冗談じゃねえよ」

大の男が泣き言を言っているけれど、誰も咎めない。と言うよりも、もはや誰もが、他人に構っている余裕が無い。

もしも資材を持ち込んでいる人がいたら、略奪も起きたかも知れないけれど。

今はみんな平等に、衣服しか着ていない。

しかも、バケモノを素手でなぎ倒す戦士達が、鋭い目を常時光らせているのだ。とてもではないが、悪さをする余裕のある奴なんていない。

病気になる奴もいるけれど。

気味が悪いほど簡単に治されて、戻ってくる。

薬や医療については、少なくとも私達より発達している連中らしい。それだけは、見ていて理解できた。

 

ようやく船が止まる。

目的地に着いたらしい。

すぐに降りるように促されて、船を下りる。船そのものは、半数ほどが修理ドッグらしき場所に入り。

残りはすぐに物資を積み込んで、私達の大陸に向かうようだった。

多くの人々で、周囲はごった返している。

多分みんなが。

私と似たような境遇の人達だろう。

不意に、気弱そうな声が聞こえてくる。ただし、大音量で、だ。

「ええと、皆さんには、これより東に向かって貰います」

「巫山戯るな! これ以上好き勝手にされてたまるか!」

「モンスターのエサにするつもりなんだな!」

「恐ろしいモンスターの軍勢によって、脅威にさらされているのは、此方の大陸も同じなんです。 皆さんには、後方支援をしてもらいます。 皆さんがおつらいのは分かりますが、我々もずっと総力戦態勢を続けています。 今は、互いに手を取り合って、この脅威に立ち向かいましょう」

反論は。

届かなかったし。

誰も、口にしなかった。

総力戦態勢。

この大陸でも。

つまり、ちょっとでも間違えば、あっという間にモンスターのエサにされてしまう、という事を意味している。

子供が泣き出す。

此処もまた地獄だと悟ったからだろう。

私、リリハルス=バークマンは。

天を仰いで、呟いた。

神がいるなら。

何処でさぼっているのだろうか、と。

 

1、休む間すら無し

 

ようやく回復してきたメルルの病室に姿を見せたのはルーフェスである。わざわざハルト砦まで来たのだ。

お見舞い、などではないだろう。

「姫様、お体の具合はいかがですか」

「そろそろ戦えるかな」

「まことに申し上げにくいのですが。 また大きな問題が起きております」

「話してくれる?」

側にケイナもいるけれど。

彼女はメルルの側近だ。別に構わない。

咳払いすると。

ルーフェスは言う。

難民が、ついに許容数を超えたと。

「今まではごまかしながらやってきましたが、ついに限界収容数を超えました。 これ以上は、受け入れが不可能です」

「やっぱり来たか……」

そうなることは、わかりきっていた。

前から警告されていたのだ。

勿論、急ピッチで居住区も作っているのだけれど。それでも到底足りないほどの人数が、押し寄せてきている。

西大陸での戦況改善が。

それに拍車を掛けている。

皮肉としか、言いようが無いが。

「新しく、居住できる地区を開発するほかございません」

「鉱山や農場ももう限界?」

「ええ」

「そうなると高原かな……」

高原地帯にも、今難民を送り込む計画が出てきているのだけれど。まだ緑化も完成していないし、いきなり難民を送り込めば、モンスターの餌食になるだけだろう。

モディスが陥落した事で、このハルト砦の近辺は、安全地帯にはなった。

だが流石に、敵がいつ押し返してくるか分からない状況で。此処に難民を多数受け入れる勇気は、メルルには無い。

「受け入れは無理だって伝えられない?」

「周辺各国にも余裕がありません。 我々でどうにかして欲しいと、矢の催促が来ております」

「……」

此処で周辺国の機嫌を損ねると。

対スピアの足並みが揃わなくなる可能性が高い。

とにかく一度、父上も交えて、会議をする必要がある。

それに、西大陸から来た人達は、まだ顔もあまり見ていない。

どう接すれば良いかは、実際に顔を合わせてから判断する他にはないだろう。色々と辛い状況だ。

難民達の食糧については、問題が無い。

生産が本格的に始まった新世界レーションは、既に難民達に配布されている。現状では、相応に評判は良い様子だ。

ただこれだけでは、主食にはなっても、栄養の全てをカバーできるわけではない。あくまで、食糧の補助。

全ての食糧をこれでまかなえるかと言えば、それはノーだ。

ルーフェスが行くと、嘆息した後。思惑を巡らせる。

もし後空いている所があるとしたら。

農場の、北西部。

広めの荒野がある。

ただし、其処には大きな問題がある。

モンスターではない。モンスターに関しては、むしろ少ない方である。開発だけなら、何時でも出来る。

だが、完全に後回しにしてきたのには、理由がある。

火山があるのだ。

それも、過去何度も火を噴き。

アールズを火の海に変えてきた。悪夢のような火山が。

もしも難民居住区が、火砕流に襲われでもしたら。誰も助かることなど、ありえはしないだろう。

火山についての調査。

噴火まで、後どれくらい掛かるか。

ルーフェスに、調査させる必要がある。場合によっては、メルル自身が出る必要もあるだろう。

何より、だ。

多数の難民が入り込んでくるのだ。

ここぞとばかりに、スピアが間諜を使って、工作を仕掛けてくるのは、ほぼ疑いが無い所で。

難民居住区近辺は、トトリ先生が作った共振器があるからまだ良いとして。

アールズに入る前の難民に悪さをされると、もうどうにもならない。

「メルル、横になってください」

「ん、ごめん」

ケイナに釘を刺されたので、言われたまま休む。

いずれにしても、このままではまずい。体が動くようになったら、すぐに視察を始める必要があるだろう。

そのためには。

無茶をして滅茶苦茶になった体を、一秒でも早く回復させることだ。

 

2111さんが運んでくる情報に目を通しながら、一週間ほど療養。治療が適切だった事もあって、メルルはもう歩けるようになった。

リハビリがてらに修練。

多少は衰えてはいるけれど。

ほぼ、戦闘力は維持されている。

勿論、現状維持などでは意味がない。

最低でも達人級くらいにはならないと。

今後、邪神をまだ三体も有しているスピアと戦うには、力が不足しすぎているのが現実だ。

ケイナはもう少し早く回復して、修練を始めていたので。

リハビリを手伝って貰う。

その合間に、状況も確認。

資料に目を通すと。

幸い、火山の噴火は、まだしばらく先らしかった。

「現在、火山は休眠期に入っており、向こう百年は噴火の恐れはないと学者達の見解が一致しております」

「……百年、か」

難民キャンプを作るには、それで充分だろう。

もとより、一なる五人を倒したら、西大陸に帰還してもらう事を視野に入れているのだ。2111さんの説明を聞きながら、体を動かす。

ルーフェスの書状を受け取った2111さんに、読み上げて、もらう。

それによると。

火山の麓を開発することにより、更に一万。

その間にアールズ南、鉱山周辺、農場周辺、アールズ北東部、それに高山地帯。これらにて住居を増やして、もう一万ほどを、受け入れる事が出来るという。

ただ、火山の麓に入って貰う人々は、かなり粗末な建物で、しばらく過ごして貰う事になるとか。

だが、こればかりは、仕方がない。

他に方法も無いのだ。

疲弊しているのはアールズだけではない。

周辺国も、続くスピアとの戦闘で、有為な人材を多数失っているし。国力だって消耗している。

どんどん流入してくる西大陸の難民を。

ノウハウがあるアールズで受け取って欲しい。

そう悲鳴混じりの要求が来ている。

勝手な話だとは言い切れない。

メルルだって、分かるのだ。

これは、世界全体の問題であって。一つの国で、どうこうできるものではない。アールズに全てを押しつけているようにも見えるが。周辺国は軍事力にしても資源にしても、アールズに最大規模の支援をしてくれている。

此方だって、それには応えなければならない。

何しろ今回は、相手が相手なのだから。

二日後。

医師から、王都へ戻って良いと許可が出て。

メルルは、久方にアトリエに戻る。

ホムさんとホムくんが掃除をしてくれていたので、中はぴかぴかだ。お布団もお日様を吸ってとても気持ちが良い。

アトリエでしばしゆっくり過ごして。

自分なりに気持ちを落ち着かせると。

ルーフェスの所に向かう。

城では。メルルが来るのにタイミングを合わせて。国の主要幹部が、あらかた顔を揃えていた。

玉座の間で、そのまま会議を行う。

玉座についた父上は、あまり顔色が良くない。

父上も、勿論この間の総力戦に参加している。

その時に負傷したのも、メルルと同じだ。

邪神とやり合ったのだ。

負傷で済んだのは、ラッキーだったのだろう。

むしろ、五体満足で此処に座っていられるだけでも。父上は、今年分の幸運を使い果たしているかも知れない。

「それでは、流入し続ける難民についての、会議を始める」

父上が宣言。

ルーフェスが頷くと、状況について、説明を始めた。

現在、アールズの難民居住区は、何処もパンク状態。難民達に、優先的に新しい家屋を作らせているけれど。

都市計画に沿って家屋を作ると、どうしても限界がある。

ましてや周辺に無秩序に難民キャンプを拡大するわけにも行かない。

沼地の王の契約や。

いつスピアが仕掛けてくるか分からない現状、共振器の範囲外に、住居を拡げる訳にもいかないのだ。

それなのに。

難民は、怒濤の如き勢いで、入国してくる。

「今月中に、更に二千。 これは、最低限の数字です」

「無茶だ、パンクする」

そう呻いたのは、古参の戦士の一人。

パンクというのは、既に形骸化している古い言葉なのだけれど。アールズではよく使われている。

意味が殆ど分からなくなっても使われている言葉は、よくある。

「提案が」

「聞こうか、メルル」

「はい。 農場の北西部、火山の麓を開発するべきかと。 モンスターは少なく、一時的な住居ならば、其処でまかなえるかと思います。 天幕などの資材については、アーランドに提供して貰いましょう」

「……! あの火山の麓に!?」

周囲にどよめきが走る。

火山は、アールズにとっては、タブーそのものだ。エントに喧嘩を売るようなレベルの無茶だとも言える。

特に父上は、ぐっと口を引き結んだまま、一切喋らなくなった。昔、何かあったのかも知れない。

だけれども。

此処で、踏ん張るしかない。

「共振器は私が作成します。 エメスをあと二十機。 それに、前線を離れた戦士と、各国に護衛の人員を要求します」

「お、お待ちくだされ」

悲痛な声を上げたのは。

老大臣だ。

実務はルーフェスに殆ど譲ってしまっているが。彼もまた、長年この国を支えてきた人材の一人。

「あの火山は、活火山にございます。 いつ噴火しても……」

「学者の調査によると、あと百年は噴火しないそうです。 難民キャンプを永続的に作るわけではありませんし、どうにかなるかと思いますが」

「し、しかし」

「大臣、良い」

父上がぴしゃりと言う。

非常な不快感と。

メルルを見据える冷たい視線。

父上は、怒っている。

それが、びりびりと肌に伝わってきた。

でも、此処で負けてはいられない。

実際、他に方法が無いのだ。ハルト砦は、まだまだ危険すぎる。モディスを失ったとは言え、まだ二万が敵兵力としては健在。邪神三体だって、ハルト砦に遠征することは、難しくない。

アーランドの国家軍事力級戦士達は、全員が大なり小なり負傷している。

その状況で。

ハルト砦近辺に、難民を追いやることなど、絶対に出来ない。

父上は、重苦しい口を開く。

「ルーフェス」

「はい、陛下」

「まず第一に、この戦いは後どれほど続くとみる」

「一なる五人さえ討ち取れれば、すぐにでも終わることでしょう。 しかし、それには、最低あと数年は必要かと」

勿論、それは味方が勝つ場合。

負けた場合は。

もはや人類に後はない。

一気に食い潰されて。

人類は滅亡するだろう。

一なる五人が、支配地域で徹底的なジェノサイドを行い。今後も行うつもりなのは、わかりきっている

前線の幾つかは、敵陣を破って、偵察を敵領に送り込んでいるが。

どこの国も、共通した報告を送ってきている。

生存者、無し。

スピアが支配した地域には、もはや草一本生えていないと。

「第二に、他に手は無いのか」

「ございませぬ。 もしも周辺国に難民をとどめた場合、以前以上の問題が噴出することは疑いが無いかと」

「……やむを得ぬか」

大きく嘆息すると、父上は下知を出す。

メルルの提案を入れると。

ほっとしたけれど。

大変なのは、これからだ。

まずはルーフェスの執務室に移動。

話を詰める必要がある。

地図を拡げるメルルに。ルーフェスは、ぴしゃりと言った。

「難民達の反応は、恐らく今までで最も冷ややかなものとなるでしょう。 それはお覚悟ください」

「分かってる」

「その上で敢えて申し上げます」

これから、難民を受け入れる地域は。

火山岩が散らばる、寂しい土地だ。

モンスターはほぼ生息しないが、それでもスピアの攻撃については、警戒する必要がある。

「共振器の作成は、お任せできますか」

「うん、どうにかしてみせるよ」

「それならば此方は、各国に人材と資材の派遣について、交渉を進めておきます」

各国も、飲まざるを得ない。

アールズがへそを曲げた場合。

膨大な数の、いつ爆発してもおかしくない難民を、抱え込まなければならないからである。

西大陸の難民は、北部列強の民と同程度か、更に劣る程度の身体能力しか持たないようなのだけれど。

その代わり、高い技術力を持つ。

元々、北部列強以上の技術力を残していた民らしく、旧時代の遺跡を積極的に活用し、エメスのような機械の人間も駆使して、豊かな生活を実現していたらしい。逆に言えば、それが徒となった。

今まで入ってきた情報によると。

それら機械の人が。

反乱を起こしたらしいのだ。

勿論一なる五人によって狂わされたのだろう。

エメスに関しては大丈夫だ。

機械仕掛けでは無い。体は機械で出来ているけれど、精神部分は悪霊を利用しているからである。

だが、西大陸では。

心まで機械仕掛けの人を、使役していた。

人間は狩りにでることもなく。畑を耕していたのも、一部の人だけ。

軍隊でさえ、機械にかなりの部分を依存していたという。

それでは、機械そのものが掌握されてしまった場合。

確かに、勝ち目は一切なくなってしまう。

そして、西大陸の難民は、早速問題を起こしている。それも一つや二つでは無く、たくさんである。

北部列強の難民達も、問題行動は多かった。

アールズ北西部の難民居住区に移してある民は、特にその傾向が強かった。

だが、彼らは南の「蛮族」を侮っていたのであって、それが問題につながっていたのに対して。

西大陸の難民は。働かないのである。

身体能力の面もあるだろう。

だが、そもそも、働くという習慣が、無い様子だった。

機械に頼りきりで。

働くという習慣さえない民。

さっそく、悪魔族からは、怒声が上がっている。

あんな連中を、どうして身を切ってまで守り、養ってやらなければならないのか。

西大陸に追い返せ。

悪魔族と普段は仲が悪い一部の戦士達さえ、その声には同調しているほどだ。そして、言われれば言われるほど。

西大陸の難民達も反発。

ますます働かなくなる。

衝突が日々激しくなる状況は。

実は、モディスの攻略前から続いていた。

しかし、ルーフェスがどうにか押さえ込んでくれていたのだ。それも、限界近い状況だが。

「姫様、難民達もそうですが、護衛に来る戦士達の説得には、特にお気をつけください」

「分かってる」

メルルだって、話を聞くと、流石に苛立つ。

西大陸が地獄に変わり、混乱しているのは分かる。慣れない土地で、苦しんでいるのだって理解できる。

だが、ただメシ食いを要求するのは間違っている。

今は、世界全体が、人類の敵と化している一なる五人と戦っている状況で。総力戦態勢なのである。

勿論、彼らにも戦って貰う。

武器を持てないなら。

後方支援は、当たり前だがこなして貰わなければならないだろう。どうしてそれが理解できないのか。

習慣がないから働けないのなら、造れば良い。

どうして、それさえしようとはしないのか。

しばらく、彼らを説得する方法を考える。

また、ジェームズさん達にも声を掛ける必要があるだろう。モンスターが少ないと言っても、荒野は荒野。

モンスターはいるのだ。

少ないとは言え、強いモンスターもいる。

緑化作業は必須。

それらを、難民に手伝わせるのも良いだろう。

もっとも、次の噴火の際に、全部台無しになってしまうかも知れないが。

執務室を出ると、アトリエに。

ケイナとライアスが待っていた。

ケイナも、そろそろ会議には出て良いのではないかと思うのだけれど。本人が遠慮している。

若造が出しゃばっている。

そう思われるのを、避けるための配慮らしい。

メルルの側近なのだし、良いと思うのだけれど。

ライアスについても同様だ。

二人が出てくれれば。

メルルも、少しは会議で、発言しやすくなるのだが。

「メルル、どうでした」

「農場の北にある荒野を急いで開拓することになったよ」

「何かとれるのか、あそこ」

「多分何も」

ライアスの指摘ももっともで。

メルルも、そう返すしかない。

勿論、開発を進めていけば、作物は採れるようになるだろう。だが今は、それどころではない。

まずは、人を受け入れる場所そのものが必要なのだ。

それに、こういうのは、下世話だが。

西大陸の人達には、働く習慣を身につけて貰わないといけない。

一なる五人を打倒した後の話になるが。

彼らを西大陸に帰すとして。

其処で待っているのは。

今まで彼らを世話してくれた機械の人々では無い。

破壊されつくした、地獄だ。

其処を復興させなければならないのである。

働く習慣がなければ、とてもではないが、やってはいけないだろう。当たり前の話ではあるのだが。

「おいおい、早い話が、働く気も戦うつもりもない無駄飯食いを、うちの国で面倒見るって事か。 今、世界を滅ぼそうとしているバケモノとやりあってる最中なのに?」

「そうなるね」

「やってられるか!」

ライアスが、流石に頭に来たのだろう。

吐き捨てて、床を蹴った。

様子を見ていたホムさんが、冷静に言う。

「床が痛みます」

「分かってる。 悪かったよ」

「ライアス、訓練所に行って来ると良いよ。 今日、ステルクさんが、訓練を見てくれるらしいから」

「……分かった」

ライアスは、恐らくステルクさんの稽古の方が、興味が勝るからだろう。後は何も言わず、アトリエを出て行った。

とはいっても。

もうベテラン相当の実力があるライアスは、自力で技を磨く段階だ。ステルクさんにも、実戦形式の稽古をつけて貰うくらいしか出来ないだろうが。

「それで、どうするんです? メルルは我慢するとして、護衛のために来てくれた戦士達は、多分納得してくれませんよ」

「そうなんだよね……」

それが、最大のネックだ。

いずれにしても、事態は動き始めている。

一なる五人だって、モディスを失ったところで、戦力を全て手放したわけでもない。まだ邪神三体が健在で。しかも、恐らくは無限書庫そのものが、邪神達のホームグラウンドだ。

モディスがもはや戦略拠点として活用できない現状。

問題は、山積みを通り越している。

幾つか、対策を考えている内に。

容赦なく、時間は過ぎていった。

 

2、習慣なき怠惰

 

噂以上にひどいなと、メルルは実態を見てうんざりした。

西大陸から来た人達は、白い目で見られようが平気の平左。北部列強の民まで最近ではきっちり働いているのに。

しらけた様子で座り込んで、何を言われようと知らん顔。

そのくせ、食事だけはきちんと要求するし。

もっと立派な家が欲しいとか。

生活が苦しいとか。

勝手な事ばかり言うのだった。

アールズ南の耕作地に出向いたメルルは。

統括している悪魔族のバイラスさんに、早速不快感を示された。

「何だあの連中は。 お高くとまっていた北部列強の民よりもタチが悪いぞ」

「ごめんなさい。 本当に苦労を掛けます」

「いや、世話になっているあんたに頭を下げられると、此方としても心苦しいのだがな……。 とにかく、部下達も皆、相当に頭に来ている。 どうにかしないと、衝突に発展するし、何より他の難民も悪影響を受ける」

頷く。

これは、今アールズ北東部の耕作地にいる難民達よりも、ある意味ではタチが悪いかも知れなかった。

高原地帯には、既に二千ほどの難民を移動。食糧生産のために頑張ってもらっているのだけれど。

其処に西大陸からの難民を入れても、邪魔になるだけだろう。

かといって、高原に移動した真面目で勤勉な難民達の穴を、この穀潰しと現状化している難民達で埋められるわけがない。

戦士達が脅しても、怖がったり泣いたりする事はあっても。

それでも、働こうとしないのだ。

食糧を減らしても、である。

「働かなければ、食事だって減らすしかない。 如何に食糧生産が出来ているといっても、ものには限度がある。 働かない連中に、分ける食糧はないと思え」

「働く事を強制するな! こっちはこんな訳が分からない土地に連れてこられて、今まで必要もなかった努力なんて強いられてるんだぞ! 働きたい奴だけ働けよ! 俺たちは寝て飯だけ食ってるからよ!」

「この、いい加減に」

ブチ切れた悪魔族が、手を出そうとしたけれど。

メルルが間一髪止める。

せせら笑おうとした難民の前で。

メルルは無言のまま、戦槍杖を地面に全力で突き刺した。

岩盤が砕けて、周囲が隆起し、ひびが入る。

今では、人間破城槌の応用で、これくらいの事は出来る。

「今、貴方たちは、獅子に喧嘩を売っている鼠と同様です。 ちなみに私でも、瞬きする間に此処にいる全員を殺せます。 自分がどういう立場にいて、何をしているのか。 それを思い知りなさい」

「……」

白目を剥いている奴。

失禁している奴。

いずれもが、あまりにも情けない反応だ。

意識がある奴も、完全に固まって、震えあがっている。

戦士として生きてきた者達は、誰もが情けなさに脱力していた。あれだけの大口を叩いていたのに、この有様か。

悪魔族の戦士をなだめる。

彼は、メルルが直接慰めの言葉を掛けても、なおもぷりぷりしていた。

「あんたが怒ってくれたことは嬉しいが、あの連中の怠惰はどこから来ている。 どうして我々を見下すことが出来る。 働かなければ、食べる事だって出来ない。 何処の世界でも当たり前の話だろう」

「それが当たり前では無い世界から来た人達です」

「冗談じゃあない」

状況は、最悪だ。

荒療治も必要だと、メルルはこの時、判断した。

いずれにしても、だ。

このままだと、キレた悪魔族か護衛の戦士が、だらけきった西大陸の難民を、いずれ殺すだろう。

そうなれば、難民は更に言うことを聞かなくなるし。

更に言えば。

他の場所から来た難民達だって、刺激を受けて反乱という手に打って出る可能性もある。

今も、不満分子は燻っているのだ。

そして数が数。

如何に此方の戦闘力が桁外れでも。

難民全部が蜂起したら、スピアと同時に、後背にも敵を抱えることになる。それだけは、避けなければならない。

それにしても、である。

どうしたら、彼らを働かせる事が出来るのか。

思った以上に、頭を使わなければならなさそうだった。

 

農場北部の荒野。

それについて、状況を確認完了。

既に来ている難民くらいなら、収容は余裕で可能。これから来る難民に関しても、どうにか収容できる。

ルーフェスから報告を受けると。

メルルは、既に作っておいた共振器を、フィリーさんに納品。

まずは、粗食と労働になれて貰うところからだ。

 

メルル自身、まだ前回の戦闘でのダメージが回復しきっていない事もある。リハビリを兼ねて体を動かしながら、難民達の様子を見て回る。

アールズ北東部の耕作地帯では、案の定難民達が騒ぎ始めているようだった。

荒くれ揃いの彼らである。

総力戦が二回行われて、多くの戦士が死んだことを、敏感に悟っているのだろう。だが、同時に噂も流しておく。

この間の戦いで。

メルルが、敵の大物を討ち取った。

そればかりか、悲鳴を上げて懇願するのを、一撃で粉々に消し飛ばし。笑いながら、血と臓物のシャワーを浴びて立ち尽くしていた。

敵は怖れて逃げ散り。

その背中にも、容赦なく追撃を浴びせて、数百体を殺しつくした、と。

勿論そんな事実はない。

メルルが戦ったメリクリウスは気の毒な境遇で、戦士としても尊敬できる相手だった。貶めるのは気が進まない。

だが、荒くれにはこれが一番効果的だ。

事実、メルルが姿を見せると。

恐怖の声を、彼らが上げる。

「聞いたか、殺戮姫、殺した敵を喰ったらしいぞ」

「スピアのモンスターをか」

「そうらしい。 しかも、気が向いたときは、生きたまま喰うそうだ」

「こええ……」

体に威圧のために墨を入れたりしている荒くれ達が、メルルを見るだけで、ドラゴンを見た子ネズミのように震えあがる。

見回るだけで効果は充分。

虚名で結構。

メルル自身が、今や此処にいる荒くれなんて、百人を短時間で殺し尽くせる程度の実力はある。

時々、喧嘩を売ってきた相手を、デコピン一発で吹っ飛ばして、地面にバウンドさせたりもして見せている。

辺境戦士の中では、まだ達人に及ばない程度の実力でしかない。

だが、此処にいる連中には、到底刃が立たない。

その恐怖を持続するだけで充分だ。

護衛のケイナが、噂を耳に入れて眉をひそめた。

「メルル、何だか魔王のように怖れられていますよ」

「いいよそれで」

「戦略の一つだと言うことは分かっています。 でも、何だかメルルの実像がおかしな風に伝わっているようで」

「……仕方が無いよ。 元々、社会の隙間で好き勝手をしてきた人達だから。 まともなやりかたで、彼らを動かせる訳もないしね」

この辺りは、メルルとしても心苦しいところだけれど。

仕方が無い。

後は、駐留している指揮官に話を聞く。

メルルが来た後は、どの荒くれも大人しくなる。

そう聞かされると、流石に苦笑いが出た。

だけれども、効果としては充分だ。

そのまま、次へ行く。

ルーフェスの指示によって、西大陸の難民達は、新しい荒野へと、どんどん移送が開始されていた。

他の難民に悪影響が出る、と言う判断だ。

それに各地の前線は優勢に戦いを進めていて。広大な中立地帯を確保できた地点もある。

故に、土地に余裕が出てきた国も存在し始めている。

アールズで蓄積したノウハウを周辺国に展開すれば。難民の問題も、多少は緩和できるかも知れない。

いずれにしても、荒くれに下手に出るのは悪手だ。

暴力を使って、社会の隙間でのさばってきた者達は。

絶対に勝てない。

逆らったら殺される。

そう思わせることで、手綱を握るのが一番である。

出来れば見せしめのために殺す事は避けたい。

それはあくまで、最終手段としたい。

馬車で、移送されていく難民達の中には、子供もいる。

子供達は、大人ほど、だらけきった生き方には染まっていないはずだ。それに、孤児になっている子供も多いだろう。

里親を見つけてあげるような余裕は無いけれど。

少なくとも、労働の習慣をつけ。

生き抜く知恵をつけさせ。

西大陸を奪還できなくても、暮らしていけるようにする。

その必要はあるだろう。

2111さんが来る。

急ぎの様子だ。

メルルも、何かあった事を悟る。

「マスター。 お耳を」

「ん」

外に漏らしたくない話題、という事だ。

着いてきてくれていたシェリさんが、すぐに遮音の結界を展開してくれる。メルルも頷いて、話を聞く体勢に入る。

「西大陸の難民の中に、話が出来そうな者を見つけました」

「ありがとう。 案内してくれる?」

「はい。 すぐに」

これは助かる。

そもそも、相手がどうしてこうも怠惰なのか。

それを理解する必要があると、メルルは前々から感じていたのだ。

荒くれ達は早期に理解できたのが良かった。悪い意味で、辺境戦士達と通じる部分があるから、理解もしやすかった。

だが、西大陸の難民達は違う。

彼らは、根本的に考え方が此方とは異なっているのだ。

だから摩擦も大きくなる一方。

しかもタチが悪いことに、西大陸の民は、此処を野蛮人の住む場所と考えて。見下しまくっている。

北部列強の民にも似たような考えを持つインテリが少なくなかったが、それよりも更に極端だ。

2111さんに案内されて行くと。

キャンプスペースの一角で、その人は待っていた。

メルルより数歳年上の女性だろう。

リリハルスという名前らしい。

此方では聞かないタイプの名前だ。

とにかく、である。

リリハルスさんは、少しは話が出来そうだ。2111さんがわざわざ見込んだくらいなのだから。

軽く挨拶をした後。

相手を軽く観察する。

メルルより少し背が高く。黒い髪の毛を乱暴に肩の辺りで切っている彼女は。難民達に支給している、量産品の麻服を着こなせているとは言えない。

もっとも、安物を着こなしても仕方が無いが。

「まず、相互理解が重要だと私は考えています。 あなた方はどういう生活をしていて、何故に辺境の民を見下し、努力と労働を嫌悪するのか。 それを知らない限り、激しい環境の中で揉まれて生きてきた民は、納得などしないでしょうし。 貴方たちを守ろうとも思わないでしょう。 ましてや貴方たちは、守られても感謝さえしないという話もあります」

「殿下、とお呼びすればよろしいですか」

「お好きに」

「はい。 ではメルルリンス殿下。 簡単に説明すると、あなた方が同じ人間だとは、我々には思えません」

これはまた、直球で来た。

ケイナが気色ばむが、2111さんが押さえ込む。彼女は冷静だし、何より。ホムンクルスとして、やはり謂われ無き差別を受けたことがあるのだろう。だから、こういう言葉にも耐性がある。

悲しい話だが。

「どういう意味か、順番に説明してください、リリハルスさん」

「まず、身体能力がおかしいです」

そう言って、彼女は見せてくれる。

一抱えある程度の岩も、大の大人が何人かがかりで運んでいる様子を。怠けているのかと、シェリさんがぼやくけれど。

何となく、メルルには分かった。

本当にその程度の身体能力しかないのだ。

「むしろ、あの人達は、力がある方です。 私では、同じ人数がいても、あの岩を動かすことができるかどうかも……」

「不便極まりないですね」

「そう感じたことはありません。 そもそも、私達は、西大陸の中でも、旧時代の文明が残っている地域で暮らしてきました。 周囲の事は、機械達が全てやってくれていましたから」

機械が。

そういえば、少しだけディアエレメントさんに聞いた事がある。

旧時代の末期には。

豊かな生活をしている層は、自分で歩く必要さえなくなっていたという。それだけ技術が進歩して。

周囲の全てを、自動で行えるようになっていた。

そういうことらしい。

なるほど、そんな技術を継承した人達が、西大陸の民。しかも、今難民として来ているわけか。

「勿論、西大陸の民全てが、今此処に難民として流れてきている人達と、同じ水準での技術生活をしていたわけではありません。 でも、そうでは無い人達は、みんな西大陸で戦っているようです」

「……」

弱者は悪ではない。

だけれども。

なるほど、西大陸では、その弱者を守る余裕が、本当に無い、ということなのだろう。そもそも、国家軍事力級戦士であるギゼラさんを一として、ランク9冒険者数名、それに準じる実力者達。最新鋭の戦闘艦や、ホムンクルス達。

それら援軍を送り込んでいるだけでも、手一杯なのだ。

ようやく戦況が好転したと言っても。

後方整備など、している余裕は無い、というのが実情なのだろう。

分かってきた。

万を超える、生活能力を持たず、努力とも無縁な人々が来てしまったという事が。

そして彼らに。

これから、自分の力で生きることを、学んで貰わなければならない。

頭を抱えたくなるが。

これも王族としての責務だ。

「少しばかり、ご足労願います」

「わ、私を殺すつもりですか? それとも、噂のように、生きたまま引きちぎって食べたりするつもりですか」

「どんな噂……」

呆れたが、考えてみれば。

荒くれ達を抑えるために流した噂が、変質した可能性が高い。モンスターを生きたまま食べるという噂が流れているのだ。

人間を生きたまま食べるという噂が流れても、不思議ではないか。

「これから、私の国の事実上の宰相、それに国王に会って貰います」

「ど、どうして」

「私達は、というよりも我々辺境戦士全員が、貴方たちの事情と、どうして怠惰を肯定しているのか、その二つの理由を知りません。 皆で話あって、対策をしなければならないからです。 何度も道中で聞いているでしょうが、今世界は総力戦態勢に入っていますし、貴方たちだけを楽させるわけにはいきません。 前線に立てないにしても、後方支援はしてもらいます」

青ざめた彼女。

まだ、メルルの言葉を、信じ切ることが出来ていないのだろう。

同情はする。

何しろ、どれだけのオーバーテクノロジーか、見当もつかない技術だ。それらに囲まれて、平穏な生活をしていたというのだから。

彼女に罪は無い。

だけれども。

そのオーバーテクノロジーは、一なる五人の手によって奪われ、失われた。

世界の敵は。

彼女ら弱者にも、容赦なく牙を剥いたのだ。

だから、彼女たちにも戦って貰う。

もはや、世界には。

安楽に、惰眠を貪ることが出来る場所などないのだから。

予定を変更して。農場と鉱山の視察を後回し。

リリハルスさんを連れて、王都にとんぼ返りする。途中で採集を兼ねて森に入り。リス族に挨拶。

リス族を見て、リリハルスさんは更に怯えた声を上げていた。

そして、リス族と一緒に、メルルが大猪を狩ると。

悲鳴を上げようとしたので。

2111さんがとっさに延髄を一打ちして、気絶させた。

周辺のモンスターを興奮させる恐れがあるからだ。

「狩り如きで悲鳴を上げるなんて……」

ケイナがぷりぷりと怒る。

だけれども、メルルは。

同じように怒る気には、なれなくなりつつあった。

リリハルスさんの肩を掴んで気合いを入れ、目を覚まして貰って。

それから、一緒に猪を捌く。

捌き方を教えるが。

震えて、ろくに山刀も持てなかった。というよりも、体が脆弱すぎて、辺境戦士用の山刀は、重すぎる様子だ。

これは骨が折れそうだ。

少しでも話が出来そうな人でこれだ。

他の人達との交流は、どれだけ骨が折れる事か。

猪を吊して。

頸動脈を切って、まずは血を出す。血はきちんと回収して、後で活用する。

皮を剥いで腹を割き。

内臓を取り出して、近くの小川で洗っていく。

その光景を見ている間。

何度もリリハルスさんは嘔吐した。

呆れたリス族のベテラン戦士が、メルルに言う。

「メルル姫、何だアレは」

「西大陸の民です」

「列強の奴らもひ弱だが、いくら何でも軟弱すぎるだろう。 あんなのを守ってやらなければならないのか」

「弱者を虐げるのでは、一なる五人と同じです。 でも、彼女たちにも、強くなろうとしてもらわなければなりません」

その通りだと、納得してくれた。

リス族は話が通じやすくて助かる。

ほどなく獲物の解体が終わった。まだ生きている寄生虫もいるので、肉はしっかりと火を通す。

例えば雷使いや炎使いなら、そのまま獲物を生きたまま焼いて、食べるという荒技も可能らしいのだけれど。

メルルには出来ない。

シェリさんも、そんな事に魔術を使おうとは思わないだろう。

だから、丁寧に解体する。

切り分けた肉を、骨がついたまま、はいと差し出すと。

リリハルスさんは、やはりまた吐きそうな顔をした。

「貴方たちは、恐ろしすぎます」

「これは、相互理解には、まだたくさんの壁がありますね」

「メルルリンス殿下は王族でしょう。 理解できません。 王族なのに、自分でこんな事をするんですか?」

「王族だからです。 誰でも出来るような事さえ出来ない王族に、誰が着いてきますか」

頭を振るリリハルスさん。

言葉でも言っていたが、やはり理解できないという風情だ。

気を利かせた2111さんが、お皿を用意して。其処に切り分けた肉を準備。リリハルスさんも、それを見て。

解体が終わった猪の残骸を出来るだけ見ないようにしながら、食事を始めた。

だけれども、食べる量が少ない。

「これ以上は、すみません。 味が、その、野性的すぎて……」

「自然に生きているものを食べる。 それが普通のことだと思いますが」

「……ごめんなさい、無理です」

溜息が零れる。

残りは、土に埋めて、栄養に返す。

捨てるなんて選択肢はない。

リス族には、メルルから代わりに謝っておく。彼らも、メルルに同情したようだった。

 

3、生きる力

 

錬金術師になってから三年以上が経過して。

何度かアーランドとの共同作戦があった。

その過程で多くの戦士が死んで。

アールズのお城には、若い兵士が増えた。ライアスやケイナより下の世代も、既に十人を超えている。

リリハルスさんをお城に連れてくると。

まずは、控え室で待たせる。

見張りには、ケイナではなくて、2111さんをつけた。ケイナはかなり強い反感を抱いていたようだし、見張りには不適だと判断したからである。それを説明すると、ケイナは文句を言う。

「理由は分かりますけれど、どうしても納得できません。 向こうが、此方にあわせるべきだと思います」

「正論だね。 でも、彼女の身体能力、見たでしょ。 生まれた世界が違う人だと思うべきだよ」

「でも……」

「アニーちゃんの事、考えてみたんだけれどね」

そう口にすると、ケイナも黙る。

意図を察してくれたのだ。

あの鉱山の邪神。ダブル禿頭は、古い時代の人々が生きる力を得るために。情報を得るために必要として、アニーちゃんを派遣してきた。

アニーちゃんは、ちょっとしたことでも、すぐに熱を出す。

それは体が弱いからではない。

彼女が情報をフィードバックしなければならない存在が、弱いから。そしていずれは。その弱い存在達とも、共存していかなければならないのだ。

ケイナは、頭を冷やしてくると言って、裏庭に。

多分若手の戦士と、稽古でもしてくるのだろう。相手は気の毒だが、辺境戦士である。簡単に死んだりはしないだろう。

ルーフェスの所に行く。

そして、自分で説明。

少しばかり考えた後。

ルーフェスは、納得してくれた。

「実は私の方でも、彼らの事は調査して、怠惰の理由については掴んではいました。 しかし陛下も交え、話が少しでも出来そうな相手としっかり話しておくことには、大きな意味があるでしょう」

「じゃ、さっそく話し合いと行こうか」

「分かっております。 調整をいたしますので、アトリエにてお待ちください」

「ま、そうだよね」

流石に父上も多忙の身だ。

仕事を放棄して、「客」といきなり会うわけにも行かないだろう。如何に今、それが切迫した案件だとしても、だ。

アトリエに戻る。

その間、お城でリリハルスさんは預かって貰う。まあ、流石にペットでもないのだし、死なせたりはしないだろう。

一なる五人も、かなり活動できる間諜を減らしていると聞いている。

何度かの総力戦で、軍を壊滅させられたのだ。

そうそう新手など繰り出せはしないだろう。

アトリエに戻ると、アニーちゃんが、ホムさんとホムくんと一緒に、お料理をしていた。二人ともそこそこ料理が出来るのだけれど、アニーちゃんは飲み込みが早い。シェリさんが帰ったと聞いて露骨にむくれたが。

出てきた料理は、ケイナのものほどではないけれど。ちゃんと食べられる出来に仕上がっていた。

少し遅れて、ケイナが戻ってくる。

軽く汗を掻いたと言っていたが。

多分、二三人はぼこぼこにしてきたのだろう。まあ実戦形式の稽古でも、しっかり相手が死なないように措置はするから、大事にはならない筈だ。

しばし、調合をしながら待つ。

今要求されている道具をチェック。

現時点では、特にこれと言って必要なものはないのだけれど。エメスは今後、荒野の開発でかなりの数が必要になる。

高原の整備にも、まだ必要だと言う追加要請が来ているし。

これからも、最低でも後三十機は必要だ。

それだけではない。

完全崩壊したモディスを再建するという話が来ている。

そのために、砕けた地盤をどうにかしたいというのだ。

これについては、まだ具体的な方法も決まっていない。地盤ごと粉砕してしまったのは事実なので、もし対応するとしたら、まずは地盤を固めるところからだけれども。

リザードマン族としても、あんな状態のモディスを返されても、困るというのが本音なのだろう。

メルルも分かる。

だから、対策をしてあげたいのは、山々なのだが。

少し考え込んでいると。

ドアがノックされた。

どうやらルーフェスが、優先度を高めにして、スケジュールを組んでくれたらしい。出ると、城のメイドの一人だった。ケイナより後に来た人で。まだ十四歳。つまり成人したばかりである。

実はアールズの出身者ではなく。他の辺境諸国から、この戦いのために移住してきた一家の出だ。

だけれども働きものなので、お城での評判も悪くない。

彼女に呼ばれて、お城に出向く。

ケイナには、夜かなり遅くなるかも知れないと、伝えておいた。

 

父上だけではない。

アーランドからも、何人か重鎮が来ている。クーデリアさんもいるし、トトリ先生も。ロロナちゃんは、多分前線で何かしているのだろう。姿は見えなかった。

お城の中が、かなり窮屈に思えた。

ステルクさんもいるのだ。

その気になって皆が暴れたら、アールズ王都が消滅するレベルの使い手ばかりである。城が小さく見えるのも、仕方が無い事か。

玉座についた父上が促して。

リリハルスさんが話し始める。

状況については、これで皆も理解してくれるはずだ。

話が終わると。

最初に父上が、口を開いた。

「なるほど、西大陸側の事情はよく分かった。 だが君達を遊ばせておくわけにも、怠けさせておく訳にもいかない。 此方でも、君達を襲った敵は猛威を振るっていて、多くの者がその暴虐に苦しんでいる。 君達も、戦いの手助けはして貰う」

「……」

「意見を交換しよう」

父上が促すと。

最初に挙手したのは、クーデリアさんだった。

「まずは身体能力を必要としない仕事を廻した方が良いでしょうね。 裁縫などの加工業が良いのでは」

「それと、代表者には、戦場を見てもらいましょうか」

トトリ先生が、残酷な提案。

動物を捌くだけでゲーゲー戻すような人達をそんなところに連れて行ったら、ショック死するのではあるまいか。

だが、ショック療法としては良いかもしれない。

「まず第一に、貴方たちは権利を主張することは出来る。 だがそれと同時に、此処でかくまわれ、食糧を提供されていることに対する義務を果たすべきだ」

ステルクさんが、厳然と言った。

まあ、こんな所だろう。

メルルが咳払い。

「皆でリリハルスさんを責めても仕方がありません。 今後どうするか、しっかり現実的な対策をしていきましょう」

「ふむ、ルーフェス、どう思う」

「まずは裁縫業などは、農場北部の開拓地に重心を移します」

更に、である。

モンスターとの戦闘。

更に猛獣を解体するなどを、積極的に見せていく。

此処は、自分たちが住んでいた、何でも周囲がやってくれる場所では無い。そう彼らに認識させる戦略だ。

ルーフェスが提案すると。

クーデリアさんは呻く。

「上手く行くかしらね」

「まずは試してみましょう」

「……」

特に反対意見も出なかったので、その場は解散となる。

リリハルスさんは、生きた心地がしなかった様子なので、軽く慰めておいた。

「大丈夫ですか?」

「本当に恐ろしかったです。 貴方たちが気まぐれを起こせば、何をされていたのかと思うと」

「お互いに、少しずつ偏見を取り去りましょう。 このままだと、不幸な結果になるだけだと思いますが」

「……」

青ざめているリリハルスさん。

まだ其処まで考える事が出来ないのだろう。

お城の兵士もメイドも、彼女を見る目は冷たい。ケイナもそうだけれど。無駄飯食いのくせに権利ばかり主張するのでは、確かに周囲の態度だって冷える。

少しずつでも。

強くなって貰わなければならない。

「弱者である事を、悪い事であるとは私は思いません」

リリハルスさんを促して、お城を出る。

そして、外の街路を歩きながら。

メルルは付け加えた。

「しかし、強くなれる人間が、強くならないのは罪悪だと思います。 少しは、動いてみましょうか」

まだ青ざめたままのリリハルスさん。

とにかく、難民達が此方を侮る事だけは辞めて貰う。

そして、その後。

共生関係を構築できるかは。

それぞれ次第だ。

 

荒野の方では、住居の準備が急ピッチで進んでいた。とはいっても、大半が野営用の天幕である。

ただ、これは一周まわって良かったのかも知れない。

ここに入る難民達には。

自然と世界の厳しさを、知って貰わなければならないのだから。

メルルも指揮を執る。

現場にメルルがいると、悪魔族は一目置いてくれるし。、リス族も兎族も、それなりに敬意を示してくれる。

最初にメルルがしたのは。

彼らへの説得だ。

「まず、彼らは周囲の全てを機械がしてくれる世界から来ました。 彼らの身体能力は低く、本当に気を付けないと、小枝のように折れてしまいます。 勿論、彼らをだからといって怠けさせろとも言いません。 少しずつ、この世界で生きて行く事が何を意味しているか、理解して貰うのです」

「メルル姫、あんたがそう言うなら、俺は従うがね。 だが、納得できる奴は多くないと思った方が良いかもしれないぞ」

悪魔族の一人が、不満げに言う。

メルルも、分かっている。

彼らにしてみれば。

こんな所に貴重な人手を割きたくない、というのだろう。

だけれども、である。

「人の世界と野獣の世界の違いは、弱者を守るかどうかにあると私は思っています。 一口に弱者と言っても、生存能力が低い者だけの事を指す場合、彼らはたくさんの有用なスキルや知識を持っている事があります。 それらを捨ててしまうのは、あまりにも社会にとってマイナスです。 少しずつ、様子を見ながらやっていきましょう」

一応、納得はしてもらえた、とは思う。

エメス達にも、此処で働いてもらう。

難民達は、エメスを特に怖れた。

子供は泣き出す。

老人は腰を抜かしそうになる。

これがメルルには、無性に腹が立つ事だったが、我慢だと自分に言い聞かせる。文化や感性が違うのは当たり前の事だ。

ちょっとしたことでいちいち腹など立てていられない。

勿論、此方を舐め腐った態度には出られないように、対策もしなければならない。

食事用に、猪や大山羊を捕まえてくると。

捌く。

その度に、周囲の難民達は、ゲーゲー戻した。

だが、空腹には勝てないようで。しばらく時間をおくと。燻製にしておいた肉は、食べられるようになって行った。

時間が掛かる。

それはメルルもはっきり理解しているので。

短時間での融和は無理だと諦めている。

アールズ王都北東部の耕作地に集めている荒くれ達に到っては、未だに虎視眈々と乱を起こす機会を窺っている有様だ。

ただ、あれくらいたくましいと。

少しはやりやすいかも知れない。

子供の中には、エメスに慣れる子も出てきた。実際エメスは親切で、誰にでも優しく接する。

どうして怖がるのか、メルルには分からない。

ケイナやライアス、他のみんなも。

メルルがエメスを可愛いと言うと微妙すぎる顔をするのだけれど。まあ、それはどうでもいい。

とにかく、環境適応力が強い子供から。

少しずつ、試していく。

 

まずは、刃物の使い方。

小さな動物から、捌き方を教える。失敗しても、どうせお肉は美味しく食べる事が出来るのだ。

兎からが良いだろう。勿論、うさぷにではなくて、野生の野ウサギの事だ。

最初にそう判断したので。

メルルはまず、自分で肩慣らしも兼ねて、野ウサギを何匹か仕留めてきた。坂に追い込めば簡単に捕まえられるので、大変に楽しい。

捕まえた後は、首を捻るだけで絞められるのも楽だ。

繁殖力が高い兎は。

世界がこんな状態になっても、まだ各地で繁殖している。この辺りは。流石に大した生命力である。

とにかく、兎を捌く。

その過程で、刃物の使い方を覚えて貰う。

木を組んで、兎を吊す。

適応力が高い子供を、十人ほど見繕って、そしてやってもらう。まずはメルルが手本を示すけれど。

早すぎるとどうやら彼らには見えないらしいので。

できるだけゆっくり、ゆっくりと言い聞かせながら動く。

兎を解体し終えてから。

子供達に、一人ずつやって貰う。

泣き出す子供もいたけれど。

歯を食いしばって、ちゃんと兎を捌くことが出来る子供もいた。子供は覚えが早いので、教えておけばかなり役に立つ。

「はい、ご褒美」

ちゃんと出来た子には飴をあげる。

メルルが錬金術で作ったものだが、ちゃんと美味しい事はリリハルスさんで確認している。まさかいきなり子供に食べさせるわけにはいかない。

その辺りは、メルルもちゃんと配慮はしているので、大丈夫だ。

「上手に出来るようになったら、もっと飴をあげるからね。 はい、其処、すぐに自分で食べるように」

「妹がいて、喰わせてやりたい」

「だったら、妹を次に連れて来て。 出来たら妹にも飴をあげるからね」

「本当か! じゃあ連れてくる!」

その子が嬉しそうに笑う。

子供の笑顔はいいものだ。

兎は全部綺麗に捌き終わったので、その場で焼いて、食事にする。皆で焚き火を囲んで食事にしながら、色々聞く。

大人とは違う視点で。

子供は、色々とものを見ていた。

「自分から逃げた大人がいて、真っ先にモンスターに喰われたんだ。 凄く強い戦士が助けに行ったけど、間に合わなかった」

「子供をおいて逃げる大人も多かった」

「モンスターも、子供はいきなり襲わなくて、まずは大人から狙ったんだ」

なるほど。

頷きながら一つずつ聞いていく。

実際問題、話を聞く限り。今来ている西大陸の難民達は、極めてエゴイスティックな環境で育った者達だ。

全てを機械に依存していたのなら。

生命の危機にさらされたとき。

どんな愚かしい行動を取っても、不思議では無いだろう。

子供があめ玉を貰ったと聞いて、大人も獣の解体に参加し始めたのには苦笑したけれど。実際問題、数が揃えば、周囲と性格が違う人間だって出てくる。

此処で生きるというのが、どういうことか。

少しずつ、学んで貰わないとならない。

 

手をかざしてトトリが見ている先。

メルルが、難民達に、動物の解体について、レクチュアしている。まあ初歩レベルだけれども。

あの姫は、それも王族のたしなみとして、習得していたのだ。

だから教えられる。

王族は常に民を導くもの。

象徴となるもの。

だから、皆が出来る程度の事は、こなせなければ話にならない。

それが以前聞いたメルル姫の持論だ。

親から受け継いだ玉座に胡座を掻いて、何ら能力もないくせに、搾取をすることが当たり前。

そんな寄生虫のような王族も実在する中。

メルル姫は、大変立派だとは言える。

ただ、それでいながら歴史や作法の授業はサボりがちだったり。

武術の鍛錬もそれほど熱心では無かったというのだから、妙な話ではあるが。そういう意味では、面白い子である。

ただ、あの子は。

最近少しばかり、不快感を覚えさせる。

トトリの心に土足で踏み込んでくるような事をしたら。その時は、許すつもりは、ない。

気配が近づいてくる。

パラケルススだ。

「見つかりましたか?」

「ええ」

邪悪な笑みを浮かべて、頷くパラケルスス。

少し前から。あるものを探させていたのだけれど。どうやら、見つかったらしい。話を聞くと、やはり予想通りの場所だった。

勿論これは。

一なる五人にとっても、想定範囲内だろう。

モディスが陥落した事で、連中も、そろそろ本腰を入れてくるはず。

もしも、何かしらの大きな目的があって。それを隠すつもりだとすれば。切り札を順番に切ってくるはずだ。

それも、対応しなければまずい切り札を。

まずはその一つ目を見せてきた。

それだけのことだ。

「それで、エントの様子は」

「既に汚染されていますね、あれは。 殺さないといけないかと」

「調査を続行」

「わかりました」

消えるパラケルスス。

そうか、エントを殺さなければならないか。

特に人間を虐げるわけでもなく。進路上にたまたまいた、という状況でも無ければ、おそわれる事もない。

そんな無害なモンスターだったのだが。

この様子では、殺さなければならない。

そうかそうか。トトリは、笑みを浮かべる。だって、楽しみなのだから、仕方が無い。勿論、あの山のような巨体を、そのまま殺す事は難しい。トトリが改良したテラフラムを、理想的な場所に仕掛けても、恐らくは殺せないだろう。

だが、あの巨大な体だ。

コントロールをしている中枢が絶対に存在している。

それさえ見つけてしまえば。

後は、たたきのめすだけである。

それにしても、だ。

機械に全てを依存し。

それらを失った後も、自分たちを優れた存在と錯覚して。辺境の民を見下す連中。これはまんま、世界を滅ぼした優性主義者共と同じではないのだろうか。

いっそのこと、こっそりと処分してしまうと言う手もあるのではないか。

そうトトリも思うのだが。

メルルは、しっかり対応をしている。

真面目に、彼らと共存する路を探そうとしている。

目を細めて、様子を見守る。

何だろう。

昔の自分が。

そこにいるような気がして。

際限なく。

不快感が、高まっていくのを感じた。

 

4、変わる流れ

 

砕けた地盤を、固める方法、か。

難民達の居住区から戻ってきたメルルは、アトリエで少しずつ、研究を進めることにした。

向こうで過ごしたのは二週間ほどだけれど。

少しずつ難民達とは打ち解けることが出来るようになってきた。

粗食にも。

粗末な生活にも。

彼らには、慣れて貰う。

機械はもはや、彼らの味方では無い。一なる五人の手で破壊されつくしたか、或いは支配下に置かれたか。

どちらにしても。

彼らは、生きるために。

自然と折り合いをつけていかなければならないのだ。

メルルはその手助けをしただけ。

今後は、彼ら自身に。

努力をしてもらうほかない。

死にたくなければ、である。

此処では、働きもしない人間に。無意味に食事を与える余裕は無い。昔、優れた戦士だった老人や。病人であっても、何かしらのスキルを持っているもの。病気から回復すれば、活躍が見込めるもの。

そういった者達と。

よそからやってきて、保護と美食を要求した上に、此方を見下してくるような人間を、同列にする事は出来ないのだから。

トトリ先生がアトリエに来る。

「あ、先生。 相談があって」

「どうしたの?」

「モディス再建の案です。 地盤が完全にやられてしまっていて、どう回復させるかを悩んでいます」

建物の残骸については、順次処理を進めている。

勿論崩落の危険があるので、一度徹底的に砕いてから、だが。

幸い、潜入作戦で崩落に巻き込まれた戦士はいなかった。躊躇なく、外から攻撃を加える事が出来る。

徹底的に砕いた後は、運び出す。

というのも。

中途半端に粉砕された瓦礫の上に土をかぶせても、それ自体が崩落する可能性が、非常に大きいからである。

ましてや地盤としては、使い物にならない。

今は、建物を砕いて運び出している所で。

一連の戦いで大きな被害を出したリザードマン族の集落に、多くの物資を譲渡している。残りはハルト砦に運んで、砦の規模拡張に用いる。

だが、やはり、である。

リザードマン族は、モディスに城を再建したいらしいのだ。

必須では無いが。

どうにか、地盤を回復したい。

それが、彼らの願い。

ならば、今後の関係改善のためにも。

メルルが一肌脱ぐ必要があるだろう。

「まずは建物の残骸を運び出し終えるとして、それからだって話はしている?」

「はい。 それはもう」

「エメスやホムンクルス達を動員して、三ヶ月って所だろうね。 その間に開発は住ませた方が良いね」

「分かって、います」

ちょっとプレッシャーだ。

でも、トトリ先生の言うことは正論でもある。

目標があった方が、メルルが動きやすいのも、また事実だ。

「どうすれば、地盤を回復できるのか、アイデアをまとめてみたんです」

「どれどれ」

トトリ先生に案を見せる。

一つは、頑丈な地盤を、かぶせてしまう、というもの。

要するに大きな魔法の石材だ。

地面に多数これを埋め込んで、安定させてしまえば。

その上に、城塞を造る事だって、出来るだろう。

続いてみせるのは。

魔術によって、水を永続的に凍らせる方法だ。

水は凍らせてしまうと、かなり頑強になる。

ただの水ならともかく。

土砂などの不純物が混ざり込むと、その強度は非常に高くなるものなのだ。これを利用すれば、滅多な事では砕けない地盤になるだろう。

問題は魔術が切れたらどうにもならないこと。

定期的なメンテナンスが必要になってくる。

最後だけれど。

地面に、何かしらの粘性が高い液体を流し込んで、固めてしまうことだ。そうすれば、地盤ごと砕かれている現在でも。

あまり関係無く、固めることが出来るだろう。

問題は、粘性が高いだけでは、固めることが難しい、という事で。

最終的にガチガチに固まるくらいのものがいい。

膠などを案に出したのだけれど。

どれも、適しているとは言えなかった。

資料を現在、漁っているのだけれど。

どうにも条件に合うものが見つからないのである。

「一番目は論外だね」

「どうしてですか?」

「モディスの面積を考えてみて。 元々地盤が砕けている状況なのに、どれだけの巨大な地盤を後から作るつもり?」

「あ……」

それもそうか。

2も駄目だと言う。

「メンテナンスの必要な時期になった頃には、水が流れ出して、地盤の安定度ががた落ちだよ。 下手をすると、せっかく作った城塞が再度崩壊する可能性もあるね」

「うわ……それは駄目ですね」

そうなると、三番目か。

少し考えた後、資料を他にも無いか、見てみることにする。トトリ先生は頷くと、アトリエを出て行った。

入れ替わりに。

あくびをしながら、アニーちゃんが入ってくる。

訓練所で、魔術師に色々教わっていたらしい。アニーちゃんは覚えが早いので、訓練所でも人気があるようだ。

ただ、もう少し愛想良くした方がいいかもしれないとは思う。

「ただいまー」

「お帰り。 訓練、楽しかった?」

「それはそうだけれど、お客」

「!」

アトリエの外に気配。

あまり、良い空気じゃない。

外に出ると。

その人は。木に背中を預けて、待っていた。

ミミさんだ。

モディスの戦い以来である。あの日、全員がボロボロの状態でモディスから脱出した。メリクリウスの攻撃を激しく受けていたミミさんは、メルルよりも意識が戻るのが遅かったらしい。

今は、回復したようで、何よりだけれど。

それでも。

恐らくは、トトリ先生とすれ違ったからか。

雰囲気は、あまり良くなかった。

「アトリエに入っても良いかしら」

「はい」

「お邪魔するわ」

ミミさんは。

周囲を見回して、咳払い。

メルルに、依頼があると言う。

この人ほどの戦士が依頼か。武器の強化だろうか。ミミさんが使っている武器は、言うまでもなくプラティーン製。彼女にあわせて最適化されているはず。

誰もが認める達人であるミミさんだけれど。

それでも、国家軍事力級には到底及ばない。

だから、プラティーン製の武器は妥当だ。

もしもメルルに依頼して、ハルモニウム製に切り替えて欲しいと言うのなら。まあ、出来ない事はないけれど。

かなり、お金は張る事になる。

ソファに座って貰って。ケイナにお茶を淹れて貰う。

その後、人払いをして欲しいと言われたので。

アニーちゃんに、遮音の結界を張って貰った。

これで口元さえ読まれなければ、周囲に会話の内容が伝わることはない。

しばし、無言だったミミさんだけれど。

不意に、絞り出すように。ため息をついた。

「トトリを見て、どう思う」

「いつもと同じように見えますけれど」

「そろそろ見せられたでしょう。 あの子のコレクション。 そして言われたんじゃないの。 此方においでって」

「!」

知って、いたのか。

いや、知っているのが普通か。

この人は、トトリ先生の親友だと聞いている。

もしも、トトリ先生がまともだった頃からの親友だとすれば。今の状況を、好ましいと思うはずがない。

「私の依頼は、ただ一つだけ」

「……」

「あの子を救ってちょうだい」

あまりにも。

その依頼は、重い。

メルルは、思わず、くらっと来た。

トトリ先生は、あの境遇を受け入れている。地獄の底にも等しい悪夢の中で、狂気に身を浸すことを良しとしてしまっている。

助け出す。

どうやって。

トトリ先生の戦闘力は、どう見ても今やミミさんを凌いでいる。つまりそのレベルの達人だと言うことだ。

もしも機嫌を損ねたら。

一瞬で首をもがれてあの世行きだ。

トトリ先生が、どれだけの相手の首を引きちぎったか。間近で戦闘を何度も見ているメルルである。

あの人が、今や。人を殺すことなど、何ら躊躇しない事なんて、痛感しすぎているほどなのだ。

「無理、かしら」

「その……」

「分かってる。 私だって、何度もしようとした。 あの子に分かって欲しくて、戦ったことだってある。 でも、もうトトリは、私の手に負えない……!」

ミミさんが、涙をこぼしている。

まさか。

この人ほどの達人が。

メルルも、心を揺さぶられる。

確かに、狂気が力を引き出すことはあるかも知れない。だけれども。周囲に際限なく不幸を撒くだけだ。

今のトトリ先生は。

狂気にむしばまれている。

制御出来ているとは思えない。

それほど、狂気というものは、強大なのだ。

自分だって分かっている。

いつ、足首まで掴まれている狂気に、悪夢の沼底に引きずり込まれることか。時々見る悪夢では、メルルが最適化した体で、狂気の実験の限りを尽くしている。あれがありうる未来だと言うことは。

他ならぬ、メルル自身が一番よく分かっている。

「心の病の専門家にも聞いたことがある。 でも、トトリの場合は、原因を取り除かないと無理だって言われた。 もう、錬金術に頼るしかない……」

いつも高飛車で。

尊大なくらいのミミさんが。

これほどまでの、弱みを見せるなんて。

メルルは、しばらく俯いた後、顔を上げた。

「分かりました、やってみます」

「……」

「トトリ先生が壊れてしまっている現状を、嫌だと思っているのは私も同じです。 こんなこと、許して良いはずがありません。 トトリ先生が壊れる前に何か悪い事をしたって言うなら、地獄に落ちるのも仕方が無いかも知れませんけれど。 トトリ先生が、壊れる前に、何か悪い事をしたって言うんですか? 今だって、トトリ先生は、敵に対しておぞましいまでに凶暴かも知れません。 でも、味方には」

「あの子は……」

ミミさんが、話してくれる。

トトリ先生が、如何にして壊れていったか。

勿論ミミさんから見たトトリ先生の物語だ。

だが。

メルルは、神経に来るような、恐怖を全身に感じていた。

感情の、全否定。

あれほど頭がいい人が、そんな結論に到るなんて。確かに、トトリ先生は、普段から落ち着いた物腰だ。

壊れる前は、普段から優しい人だったのかも知れない。

でも、周囲は。

世界は。

そんな彼女には、一切報いることがなかった。

絶望の極限。

怒りの究極で。

彼女が失敗をする度に。

容赦なく、くさびが叩き込まれた。

お前が心を乱したから、致命的な失敗が生まれた。お前の感情は、呪いそのものだ。お前の心は、感情などと言うものがあるから、周囲に不幸をまき散らす。

嗚呼。

嘆きの声が漏れる。

トトリ先生の源泉を聞かされて、おぞましいまでに狂った心の理由が、メルルには理解できた。

トトリ先生は、才能で言うとロロナちゃんにだいぶ劣る人だったと聞いている。しかしながら、過酷な環境を生き抜き、努力を重ねることで。観察力と理解力という武器を最大限に生かして、今の地位まで上り詰めた。

だけれども。

地位以外に、彼女に。

何か、報いられたものがあったのか。

世界は過酷だ。

冷酷で、人間などどうなろうと知ったことでは無い。特別扱いされる人はいるかも知れないが、あくまでごくごく例外。

トトリ先生は、そういう意味で。

普通の人に過ぎず。

だからこそ、彼女は。

究極の究極にまで、墜ちてしまった。

「お願い。 あのままだとトトリは、恐らく無差別虐殺を始めかねないわ。 今は、敵にだけ、あの狂気が向いている。 でも、一なる五人が終わったら、死刑囚や社会の隙間で生きている人間を手始めに、その内無差別に、人を殺し始めかねない……!」

「ミミさん……」

「私にとって、トトリは、ほとんど一人だけの親友なの! 私が救わなければいけないのに、できないのは、どうしてこんなに心苦しいのかしらね。 もう、私の言葉は、あの子の心には届かない……。 お願い。 あの子を、救って」

報酬は。

以降の臣従だと、ミミさんはいう。

つまり、アールズに籍を移して、メルルに仕えてくれるというのだ。

それは、とても心強いけれど。

メルルは、俯いてしまう。

「自分を、もっと大事にしてください。 それが、私が、依頼を受ける条件です」

「……兎に角お願い」

「時間が、掛かると思います。 トトリ先生の狂気は、私だって、まったくどうして良いか分からないレベルのものです。 あんなに深い狂気の沼から、どうやって先生を救い出せば良いのか……」

でも、受ける事にした。

この仕事は。恐らく。

メルルが手がけたものの中でも。

屈指の大一番になる筈だ。

そして、トトリ先生を救う事が出来れば。

此処で。

面々と続いてきた狂気の連鎖を断ち切り。

錬金術を魔の学問と呼ばせる事が、なくなるかも知れない。

 

ミミさんが帰るのを、アトリエの入り口で見送る。

あんなに悩んでいたのか。

あれほどの戦士が。

どれだけ強くなっても。

心の問題はつきまとう。

錬金術が、狂気と切っても切れない関係にある事はメルルも認める。だけれども、狂気は制御出来るはずだ。

今のトトリ先生は。

もはや、狂気の制御が効いていない。

何とかしなければならない。

言われるまで、そう思えなかった自分が口惜しい。

メルルは決める。

少なくとも、この狂気の連鎖は絶対に断ち切る。そして、この世界は、一なる五人の好きにもさせない。

もしも、残酷な世界のルールが、全てを引き裂くというなら。

そのルールそのものを、変えてやるまでのことだ。

頭痛。

頭を抑えると、メルルは見た。

笑顔のまま、トトリ先生がそこにいた。

無言のまま、向かい合って立つ。

凄まじい狂気が。

トトリ先生を包んでいるのが分かる。

そして、メルルには。今は、どうすることも出来ないと、告げてくる。

だが、そんなものはクソくらえだ。

「どうしたの、メルルちゃん。 ミミちゃんに、何か聞かされた?」

それは、きっと宣戦布告。

だけれども、メルルは。

今は、引けない。

「今から、ちょっと大事な調査を始めます」

「ふうん……」

「結果は、トトリ先生に、最初に見せますね」

アトリエに入る。

強がって見せたけれど。

本当は、膝が笑いそうだった。

でも、やらなければならない。

世界の命運に関わっていることでもある。トトリ先生を救って、狂気の連鎖を断ち切れば、きっと。

一なる五人を葬った後も、世界に錬金術が、破滅をもたらすのは、防げる筈だ。

でも、怖い。

震えが全身に来る。

それでも、メルルは顔を上げた。

例え足首を狂気に掴まれていたとしても。

今は、メルルがやるしかないのだ。

 

(続)