黄金と黒
序、朝一番
目を擦りながら起きると、その足で真っ先に鶏小屋に。
鶏小屋は掃除しないと、あっという間に凄まじい汚染に満たされる。あくびをしながら、さっさとお掃除。
糞をしっかり始末。
そうしないと、まるまる太った蛆が湧いて、不衛生なことこの上ないから、である。
目が覚めない内は、まだ私も調子が出ない。
あくびをしながら、お掃除を済ませて。
鶏の数を数える。
盗まれたりはしていない。あまり広い牧場では無いけれど、しっかりセキュリティはつけてある。
それに、一羽ずつ、触ってしっかり健康状態を確認。
鶏たちも、此方を嫌がったりはしない。
「うーし。 みんな無事っすねー!」
ようやく目が覚めてきた。
次は牛の世話だ。
好きでやっているから苦にはならないけれど。北海道で農場をやって暮らしていると。それなりに大変だ。
朝から仕事はしっかり詰まっているし。
畑も広い。
だけれども、これこそが、私が選んだ路。
他に、今更やる事も無い。
牛の世話をしていると。
後ろから声を掛けてきたのは、この農場を私に譲ってくれたお爺さんだ。
「おーう、ヒロさんや。 調子はどうだね」
「問題ないっすよ。 鶏たちも牛たちもみんな元気」
「そうかねそうかね」
お爺さんとお婆さんには子供達がいるけれど。みな、都会に行ったまま帰ってこない。だから、私が此処を引き取ることになった時。二人は喜んだ。このままでは、処分しなければならないと思っていたからだろう。
ちなみに、既にお金の問題は、解決している。
これでも私は、小金持ちなのだ。
「しっかし精が出るねえ。 うちの子達も、あんたくらいしっかりものだったら、この農場を継いでくれたかもしれないんだが」
「都会で暮らすと言うのも選択肢の一つっすよ。 私は少なくとも、農場でやっていくのはいやじゃないんでね」
「そう言ってくれると、売らずに済んだこの子達も嬉しいだろうよ」
「そうっすね……」
本当に、そうだろうか。
まあ、それはいい。
人間としての視点と。動物の考えが同じ訳はないのだし。それを今此処で言っても仕方が無い事だ。
一通り朝の作業が終わった後、自宅に戻る。
様子を見に来たお爺さんは、トラックで帰っていった。たまに出来た野菜を渡している位で、満足らしい。
農場がある。
それだけで、充分なのだろう。
身繕いをする。
鏡に映るのは、眠そうな目。
やる気が無さそうと、前に随分文句を言われた。口元も、何だか馬鹿にしているようだと。
そう言われても。
私は元からこういう顔だ。
背も、女子にしてはひょろっと高い。
色々な要素から、私は誤解を集めやすくて。お金は持っていても、周囲に人は集まらなかった。
黙々と一人でやれる仕事を探して。
最終的に行き着いたのが此処。もっとも、農場経営じゃなくて。私の仕事は、別にあるのだけれど。
「さーて、今日も頑張るとするっすよ!」
もう、今日は始まっているけれど。
そう、自分に気合いを入れる。
一人しかいないこの農場でおかしな話だけれど。それが、一日を始めるための、大事な儀式でもあるのだ。
一応防犯対策はしている。
家を出ると、飼っている何頭かの犬に声を掛ける。どれも牧羊犬で、かなりの大型種。不審者対策もしてある。
犬は餌で簡単に手なづけられるという話もあるけれど。
これに関しては。しっかり対策した。
牛を農場に出して、適当に草を喰わせる。その間、犬たちは牛の側についていて、見張りだ。
その間に、私は。
幾つかある畑の様子を見に行く。
肥料の状態は大丈夫か。
虫はついていないか。
虫には悪いけれど。ついていたら駆除する。更に、農薬を使う事も考慮しなければならない場合もある。
病気も大変だ。
植物の病気は厄介で、掛かるとかなり手間が掛かる。場合によっては、育ちはじめを全部捨てなければならない場合もある。
植物だって、動物と同じ生き物。
良くベジタリアンが、動物を殺すのは云々と頓珍漢な持論を述べるけれど。植物も立派な生き物で、殺せば死ぬ。病気にもなる。
あれは差別の一種だろうと、私は考えている。
「うーん、みんな良い感じっすねえ」
どの葉っぱも悪くない。
根付きもいい。
一つずつしっかり見た後、次の畑に。これだけきめ細かくやれるのも、この農場の畑が小さいから。
そしてきめ細かく見る為にも。
私は、畑を敢えて大きくしていない。
犬笛をふく。
そうすると、訓練してある犬たちが、遠吠えで返事をしてくる。いずれも、異常なしという意味。
頷くと、私は、次に移る。
農業は、手作業だけじゃない。
農園の一角には、ラボを作っている。其処では入り口で念入りに消毒した後、収穫した素材を綿密にチェックしているのだ。
大学院を出たころから、私は自分で作って見たかったものがある。
だから教授にならないかという声を蹴ってまで。
自分の財産をはたいて、農場を得て。
此処にラボを構えたのだ。
収穫した野菜や卵は念入りにチェック。
しっかり条件を満たしているのを確認してから、出荷。何だか評判が良いらしくて、市場に出すと売れる。
問題は、農家の陰湿な人間関係だったのだけれど。
それも、最近は流石に農家が減りすぎたからだろう。
私が農場を買い取って、一人で仕事を始めた頃には。特に、そこまで陰湿なイジメなどはなくなっていた。
それでも、私に時々嫌みを言う老人は存在しているけれど。
自分の実験用に残した素材を確保すると、後は全て出荷。トラックに積み込んで、売りに行く。
牛乳は結構今日も取れた。
牛乳はしっかり調整しないと、飲むと腹を下す。元々人間が栄養として摂取できるように出来ていないからだ。
味については悪くないという話もあるけれど。
あまり私としては、オススメは出来ない。
積み込みの作業には、ジャッキなどを使う場合もある。結構重いし、力仕事になるからだ。
ガタイに恵まれていても、それでも無理は無理。
腰などを痛めた場合、一人暮らしである以上、命に関わる可能性もある。
体が資本だ。
幸い、夜はさほど遅くならないのが救いか。どうしても農場で働いていると、生活が昼型になる。
そろそろ、農業学校の学生辺りを雇うべきなのかも知れないけれど。
しかし、一人が気楽なのもまた、事実だった。
トラックで売りに行った新鮮な野菜や卵、それに牛乳。
そこそこのお金になるけれど。どうしても、やはり最近は、海外から入ってきている安い野菜も、かなり目立つようになっていた。鮮度や味はどうでもいい。問題は、安さなのである。
流石に新鮮さが必要になってくる野菜に関しては、きちんとした需要があるのが救いだろうか。
それにこの国の人間は、極めて食に五月蠅い。
世界一食に関しては神経質な民族だという声があるほどだ。実際私も、虫などが出荷する野菜についていないか、徹底的に確認しているほどである。
帰宅してから、警報装置を切る。
警備会社と契約していないと、今は危なくて仕方が無い。一時期話題になった野菜泥棒は、何処にでも出る。
ちなみに、警備会社から連絡が何度か来た。
うちも、入ろうとしたのだ。泥棒が。
まあ、うちは仕込んである番犬もいるし、其処までは不安視していないけれど。それでも、警備会社を外すのは論外だ。
なんだかんだで。
お金は掛かる。
それが、農業というものだ。
動物たちの様子を見に行った後、サイロを確認。肥料の様子は悪くない。ある程度は自家生産できるのが、農場の強み。
そして、おいしいものを食えるのも。
メシにする。
やっぱり、自分で作った野菜は美味しい。明日はビニールハウスの様子も確認しておくべきだろう。
適当に料理をしていると。
携帯にメールが着信した。
「んー?」
ご飯を頬張りながら、片手で操作。
思わず、げっと声が漏れていた。
大学時代、苦手な教授がいたのだ。科学的農業の、この国の権威の一人ではあるのだけれども。
色々と対応が重いので、顔を合わせるのが苦痛だったのだ。
「はろー、西尾君。 元気はつらつかい?」
「んなわけないっすよ」
既にこの時点でうんざりだ。
そもそもこんなしゃべり方をしているから信じがたいけれど、此奴は私より年下である。年下で大学教授と来るとこれ如何に。
簡単な話。
導入されている飛び級制度で大学を突破。若干17歳で大学教授となったこの国最高の俊英の一人。
衰退した農業を、科学的農業で一気に盛り返したことで、有名な学者なのだ。
うんざりしながらメールを見る。
それによると、此方に一人、研修中の学生を回したいらしい。本来はアルバイトする場合、お金を払うところだけれども。
大学の方で研修費用を出すので、格安になるのだとか。
つまり、この教授は。
私にそれだけ、期待を掛けている、という事だ。
正直鬱陶しいので面倒くさくて仕方が無いのだけれども。まあ、手があったら良いかな位に考えていたし。
正直、格安で雇えるのなら。
それも農工大。この教授が行っている、この国でも屈指の農工大の学生だ。それならば、きっと役に立ってくれるだろう。
色々うんざりはしたけれど、まあ此方には悪くない話だ。
あくびをしながら、ラボを出る。しっかり汚れを落とした後、眠る。
外の動物たちは、夜になると相応に不安だろう。私は家の中で眠れるわけで、その点彼らよりずっと恵まれている。
この辺りは熊が出るようなことも無いから、其処まで心配はしていないけれど。本土の方から、色々な動物が進出してきているという噂もあって。それにともなって、変な伝染病が流行るのでは無いかと言う噂もあった。
あくまで、噂だが。
布団に入ると、疲れているからか、よく眠れる。
眠っているときは。
何も心配しなくて良いのが、嬉しい。
1、自分の城
私が農場を買ったのは、研究に必要だったからと言うのもあるけれど。やっぱり、人間関係が煩わしかったのが理由の一つとしてある。
人間関係が苦手となる理由は幾つもあるけれど。
私の場合は、みてくれが問題だった。
他人を舐めて掛かっているかのような見た目。それに、女子にしてはみょうにヒョロ高い背。
この二つが。
私の周囲から、人を遠ざけた。
勝手なモノだ。
ルックスなんて、それこそどうでもいい。見かけを基準にして、好き勝手な判断をして。勝手に嫌っていく周囲の人間。
理由に気付くまでは随分傷ついたし。
その後は、人間世界で蔓延する「コミュニケーション」とやらのくだらなさに呆れた。
見た目が悪いから、差別して良い。
そういう理屈がこの人間の世で動いている事を知ってからは。周囲と距離を置くようになったし。
一方で、ある程度の人付き合いも出来るようにはなった。
でも、私は。
根本的な所で、人間が嫌いになっていたのだろう。
だから一人で研究をするのは、前々から夢だったし。
少なくとも、コミュニケーションの基準が違う動物と接するのは、それほど嫌でもなかった。
「おはよーっす」
起きて、鶏たちを見に行く。
卵を回収して、鶏小屋を掃除して。
犬たちに餌をあげて。牛の世話をして。
畑を見ている内に、もう朝ご飯の時間だ。朝ご飯を食べて、力をつけて。今日の仕事をしなくてはならない。
そういえば、あの教授が言っていた学生は、確か今日から来る筈だ。
面倒くさい。
顔を適当に洗って、汚れを落としながら。面倒なのが来るんだろうなあと思う。そうすることで、面倒なのが来た時に落胆しなくてもすむ。
普通のが来ただけで嬉しくなる。
人間関係のコツは、相手に一切期待しないことだ。後ろ向きだけれども。人間を観察すればするほど、それを私は思い知らされた。
ソファでぼんやりしていると。
農場の外側。フェンスで区切っている門の所で、チャイムが鳴った。勿論直には聞こえない。
チャイムが鳴らされたと、通知されるのだ。
一応携帯に直通するようにしてある。
「ほーい、誰ッスか?」
「今日から此方でお世話になります、鷺沢と申します」
「ふーん」
カメラを見ると。
随分とおしとやかな口調とは裏腹に、ラフなファッションの女子が立っていた。髪の毛はショートにしているし、ジーパンに動きやすいTシャツ。男の子と勘違いしそうな格好である。何というか、非常に声とのギャップがある。本人も目つきが鋭くて、肌を良く焼いていて、とても野性的だ。
これは、私の同類かも知れない。
「見かけ」に散々苦しめられた私は。
そういったギャップで、相手を判断しないようにと考えている。そうすることが、普通であったとしても。
私はその普通に反逆する。
ちなみに格好で考えると、彼女は正解だ。
ごてごてした服なんて着て、農業は出来ない。
「向かえに行くから、待っていてねー」
「お願いいたします」
物腰はごく柔らかい。
フェンスの所までそれなりに距離があるので、自転車を使う。丁度休んでいたところだし。別に時間はある。
それに農工大の学生なら、まるっきり素人でもないだろう。
フェンスの所に到着。
監視カメラで見たとおり、非常に目つきの鋭い女の子が立っていた。
どうでもいいが、私より頭二つ分小さい。下手すると、小学生かと勘違いされても不思議では無いだろう。
「鷺沢ちゃんだっけ? 土方教授から話があった」
「はい。 鷺沢優華(さぎさわゆうか)です」
「名前は一致と。 あー、私は西尾千帆(にしおひろ)。 よろしくっす」
鍵を解除して、中に入って貰う。
最初に行くのはラボだ。当然の話。路の左右には、しっかり杭を打ち付けてある。
こういった所は、野外ではあっても、殺菌などには非常に気を遣う。まずラボで、汚れを落として貰って。
それから、仕事場に行くのが、デフォルトになる。
「小さいけれど、随分整っていますね」
「あー、そっすね。 これでも院卒だから、知識はあるし。 金もあったから、必要なのは自分で揃えたし」
「ご立派ですね。 しっかり独立していらっしゃる」
「まーねー」
適当に汚れを落として貰った後、自宅に歩きながら、何が出来るのかを聞く。専門は植物だという。
それならば、畑を見てもらうのが良いだろう。
「畑の世話は出来る?」
「植物は何を」
「トマトと馬鈴薯。 男爵ね。 後は……」
「分かりました。 どれも栽培経験があります」
栽培経験があるのと、売り物を作れるのは、話がまったく別なのだけれども。まあ、それは実力を見てからだ。
私同様、この子は恐らく。見た目で損をしてきた子だ。
まあ、それはあくまで推察。
これから仕事をしていく上で、必要があるなら知れば良いし。知らなくても良いのなら、知らない。
それで構わない。
「此処が畑」
「農場の規模にしては、随分と小さな畑ですね」
「その分作物の質を上げているんすよ」
「……なるほど。 きめ細かく手入れをしているのですね」
やり方について説明。
知ってはいるようだけれども。もっとも、私が虫を一匹ずつ駆除しているのを見ると、非効率的だという顔をしていた。
まあ、それはどうでもいい。
「空いている畑があるなら、大豆もいいですか?」
「あ−、いいっすよ別に。 手抜かないならね」
「ありがとうございます」
手を抜かれると、当然うちの農場の評価が下がる。そうすると面倒な事に、作物が売れなくなる。
一応、金はある。
別に作物が売れなくても、自分で消費すれば良いだけなので、困る事は無いのだけれども。
それでも、現状では、少しでも金は稼いでおいた方が良い。
それは当然の話だ。
しばらく、無心で作業をする。見ていると、鷺沢は、特に問題なく、作業をこなせる様子だ。
ならば、別に良いだろう。
「私はちょっと動物見てくるわ。 何かあったら、携帯でよろしく」
「はい」
立ち上がって見下ろすと、鷺沢の小ささが際立つ。
まあ、それは別にどうでも良い。
仕事が出来るかどうか。
それだけが、重要なのだから。
一日目の仕事終了。
鷺沢がやった分をチェックしたけれど。相応に出来ている。まあ、私から見ると、何カ所か不満なところがあったけれど、まあそれくらいだ。別に後から手を入れればよい。作物を痛めているような場所もなかった。
「ほーい、じゃ、今日はここまでっすね」
「有り難うございました。 それはそうと……研究については、お手伝いしなくても良いのですか?」
「研究……」
そうか。
それであのクソ教授の目的が分かった。
高笑いしているのが、目に見えるようで腹立たしい。まあ、仕方が無い。この子に責任は無い。
「まあ、それはおいおい」
「分かりました。 先生が丁度良いときにでも、見せていただければ助かります」
「んー」
研究、か。
実際には、それほど大した内容でもない。というか、私は大学を出てから、論文を出したことは無いし。
何より、学会に顔も出していない。
今、この国の学会は、かなり力を増している。熱が入ってきているのだ。
飛び級制度が導入されて、更にベビーブームが起きたことで、教授の質が一気に上がった。その結果、世界屈指と呼ばれる教授が、国内に何人も出てきている。
私も、一応それなりに期待されていたのだけれど。
摩擦を繰り返す学会が嫌になったし。
何より、生来の人間嫌いもある。
だから金だけはあったので、農場を買って引きこもっているわけで。わざわざ研究を見に来たというのも、酔狂極まる。
ちなみに、研究そのものは。
それなりに進んでいるけれど。
まあ、やはり他人に見せるのは、気が進まない。
あくびをしながら、戸締まり。鷺沢がどの辺に住んでいるかは知らないけれど。自宅の電話番号くらいは、知っておいた方が良いだろう。
まあ、それも明日で構わない。
ラボに入ると、研究の進捗を確認。
ざっと目を通しておく。
わざわざここまで来て働いているのだ。ある程度は、見せてやるくらい、構わないだろう。
もっとも、内容を見たら。
ほぼ間違いなく失望するだろうが。
一通り整理を済ませた後、ラボを出る。既に真っ暗。灯りはない。空は星空が美しいけれど、足下が見えるほどでもない。
犬共はすっかりおねむの時間だ。
わざわざ見に行くまでも無い。
あくびをしながら、自宅に。
農場の真ん中に自宅を作ったのは、色々と便利だろうと思ったから、なのだけれど。ラボから少し距離があるのが、玉に瑕だ。
ベッドに潜り込んで、寝ることにする。
今日はもう。
此処までだ。
夢を見る。
大学にいた頃。私はある程度周囲と接することは接したけれど。必要以上の交流は、一切しなかった。
最低限だけ接すれば良い。
それで充分だと感じていたからだ。
研究の成果も上げていた。
大学院まで出れば、好きにして良い。そう親に言われていたからである。だから、研究成果も、しっかりあげる必要があった。
問題は、その後。
大学院まで入って。
後は、のんびり自分のペースで行けるだろう。そう思っていたところに、あの土方が現れたのである。
面倒な奴だった。
この国でも、天才と本当に呼ばれる数少ない人間。規格外の能力の持ち主。
大学教授に十代でなって。その後、わずか5年で百近い論文を発表。そのいずれもが、国際的に大きな評価を受けている。
そいつに教わるのは、とても幸運なことだったのだろうけれど。
とにかく此奴が、面倒くささの塊だったのである。
気分次第では全く動かない。
指示もろくにださない。
と思ったら、一週間ぶっ通しで働き続けて、サポートに入っている院生が全員死にかける。
そんな事が、日常茶飯事だった。
それでいながら、記憶力も凄まじいから、院生全員のことを、しっかり覚えてもいて。それぞれの経歴から専攻まで、完璧に把握していた。
しかも出す論文論文が、それぞれ凄まじい出来で。それでいながら、誤字脱字だらけで、そのままだと読めた代物では無かったので。院生達が総掛かりで、皆で直さなければならなかったのだ。
面倒だった。
とにかく、関わりたくないタイプの天才だった。
だから、今でも。
彼奴から連絡が来たと思うと、げんなりしてしまう。
目が覚める。
目覚ましを止める。今はもう、こんなものなくても、起きられる。大学の頃は逆に、いつ叩き起こされるか知れなかったし。
逆に何も無いときは一週間何も無いし。
本当に、生活サイクルがぐちゃぐちゃの滅茶苦茶になって、ブラック企業に勤めている気分だった。
あの土方は。その気になれば一週間ぶっ通しで動いても平気で。逆に数日でも寝続けられるという、人間とは思えない性能だったのだけれど。
思えば、あの頃。
強化クローンの噂があった。
ひょっとすると、強化クローンだったのかも知れない。今になってみると、噂を笑い飛ばせない。
目が覚める。
目を擦って、洗面所へ。
歯を磨いてから、食事。あくびをしながら、ハムエッグを口に入れる。焚いたご飯を適当に咀嚼しながら、外を見て。
まだ、陽が出ていないことを確認した。
農場に来てすぐは、そんなだったから、体がボロボロで。朝、寝坊してしまうこともあったけれど。
今はもう、すっかり大丈夫だ。
食事を終えると、外に出て。チャイムが鳴ったので驚いた。
「鷺沢です」
「随分早いっすねえ」
「夜明けと同時に行動が、農工の基本だと思っていましたが」
「んー、まあそうっすけど」
確かにそうだけれど、アルバイトでまでそれをやるとは思っていなかったのだ。まあ、助かるけれど。
早速ラボに向かう。
昨日鍵は渡したので、入る事は出来る。ラボで落ち合うように電話してから、外に。ちょっと肌寒い。
此処は北海道だから、冬場になると大変なのだけれど。
まだ今は初秋だ。
今から寒がっていたら、北海道で生活する事など出来ない。
一時期の、地球温暖化の噂は何処へやら。
北海道は寒くなる一方だ。特に冬場の寒さは、例年記録を更新している。冬場こそ、家畜の世話が一番大変になるタイミングである。
ラボでは、もう鷺沢が待っていた。
「野菜の世話、しておいてくれると助かるっす。 頼めるっすか?」
「分かりました。 先生は家畜の方ですか?」
「あー」
適当に応じて、汚れを落として。
その場で、二手に分かれる。
家畜小屋に行くと、まずは鶏小屋から。ためると後がひどいので、さっさと処理するに限る。
今日はかなり卵が多い。
収穫して、早めに食べる事にする。電話が鳴ったのは、牛小屋に入って、世話を始めたタイミングだった。
「どうしたー?」
「お芋の一部がおかしいです。 ひょっとすると、病気かも」
「ん、すぐいくので、待っててくれっす」
まずいな。
農工大の学生で、植物専攻となると、あまり笑い飛ばせないだろう。世話を手早く済ませると、すぐに外に。
牛たちを犬に任せて、自転車に跨がり、急ぐ。
到着した畑では。
少し土を掘り返して、鷺沢が状況を確認していた。
「見てください。 葉の色がおかしくて、根も」
「んー、これは」
一目で分かるが、そうか病だ。
まあ、このタイミングなら、直せるだろう。馬鈴薯としてはスタンダードな病気だし、土の酸性が足りなくなっているだけ。
調整をして、すぐに戻す。
札を立てたのは。
これは自分で食べる用、という目印。
一度病気になった作物は、出荷しない。とはいっても、捨てるほどでは無いので、自分で食べるのである。
「流石っすねえ。 あの教授が派遣してくるだけの事はある」
「私、みそっかすでしたけど」
「へ?」
「教授に言われたんです。 苦労して来いって」
何だそれは。
ちょっと瞬間的に苛立った。
つまりそれは、自分の所で使えない奴を、私の所に押しつけてきた、という事なのか。あのクソガキが。
しかも、格安で。
気を害している風もない鷺沢を、作業に戻すと。私は出来るだけ笑顔を保ったまま、自転車に。
家畜の世話に戻る。
とはいっても、それほど今面倒を見ている数はいない。もう少し世話をした後は、ラボにいって、研究に戻れるだろう。
研究を確認させるのが目的では無かったのか。
それとも、鷺沢がただ、自貶しているだけなのか。
それは分からないけれど。どちらにしても、苦労して来いと言うのは、何だか不愉快だ。まあ、あのクソガキらしいと言えば、そうらしいとも言えるが。
家畜たちの世話を終えて、ラボに入る。
収穫した卵をより分けて、傷が少しついてしまっているものとかを、先に使う事にする。順番に、調整して。
一つずつ、丁寧に使って行く。
機械が調合を始めるのを横目に、芋をゆで始める。
出来上がったものを試すには、これが一番良いからだ。
畑の世話を終えた鷺沢が来る。
ラボに入ってきた彼女は。
作業中の私を見て、目を細めた。
「実験中、ですか?」
「まあ、そうなるッスねえ。 とりあえず座って」
「はあ」
芋がゆで上がったので、取り出す。後は少し手を加えて、ふかし芋にするだけ。
そして、機械の方では。
できたての、黄金食の粘性の強い液体が、パック詰めされた所だった。
マヨネーズである。
「ふーむ……」
目を細める。
鷺沢は、そんな私を。呆れるようにして見ていた。
マヨネーズ。
意外な事に、この調味料は日本以外ではさほどメジャーでは無い。勿論存在しているが、かなり扱いが違う。
この国に入ってから爆発的に進化した食物は幾つかある。
ラーメンやカレーなどがその見本だが。
調味料としては、マヨネーズがその一種だ。
実際、近年では海外に輸出され。あまりの違いに、海外の人々を驚かせていると言う話もある。
昔から、日本人は異常に食に神経質だったけれど。
それが故に、食物は異常進化する傾向にある。
よくガラパゴスという揶揄があるけれど。
実際には、異常進化が袋小路や弱体化とは限らない。
実際、閉所に隔離されていた生物が大陸に解き放たれたとき。悪夢の存在と化して、生態系を侵略する例は枚挙に暇がないのである。
「使う?」
「いや、結構です。 マヨネーズを自家生産とは、珍しいですね」
「というか、これが研究ッスよ」
「え?」
聞いてなかったのなら、驚くのは当然だろう。
私の研究は。
マヨネーズにあった卵と、牛乳。その開発だ。
2、似たもの同士
鷺沢が見ている前で、ふかした男爵芋にマヨネーズをつける。口に入れると、充分に美味しいけれど。
まだ不足だ。
まあ、そのまま食べてしまうけれど。
もぐもぐと咀嚼している私に。咳払いした鷺沢が言う。
「マヨネーズの味の向上を行うためだけに、卵や隠し味に使う牛乳の品種改良からやっている、ということですか」
「そうなるっすねえ」
「……大企業に売り込んで、其処の研究職になるべきなのでは。 実際問題、マヨネーズは国内だけでも数社が大手としてカウントできますし、強力な研究チームも抱えている筈です」
「でも、それは主にレシピ改良が仕事」
指摘すると。鷺沢は黙る。
そう言うことだ。
実際問題、科学的農法が発展している今。彼方此方で、進化した農業による生産が行われていて。
新しい品種も出てきているけれど。
それらの開発を支援こそすれど。
実際に自分たちで手をつけていない。
それが、彼らの弱点。それも、最大の、だ。
味に関しては誰よりも五月蠅いし、調整の方法だって知っている。事実、奇形的なまでの進化を遂げたのは、彼らの舌があっての事だ。
だが、提供される品種は、流通任せ。
だから下手をすると。
たまに、とんでもない粗悪品が紛れ込んでくるのである。そうして、大きなトラブルに発展することも多い。
私の目的は。
庶民が普通に手に取れる価格で、なおかつ今までよりもずっと美味しいマヨネーズを作る事。
そして、こういう草の根の研究が。
私の性には、一番あっている。
研究チーム。そんなんに所属するのはもうごめんだ。あの土方の研究チームに入って、それがよく分かった。
チーム長が天才の場合はそれはそれで大変だし。
無能な場合も、相応の苦労があるだろう。
何より、この仕事は。
自分のペースで、好き勝手が出来るのが良い。最悪の場合、外に流通させないで、自分一人で完結した環境だって作る事が出来るのだ。
研究チームの長になるために、我慢するという手もあるけれど。
その場合、散々周囲に気を遣って、十年単位を我慢し。
挙げ句の果てに、チームの長になったところで、今度は会社側に成果を求められ続ける事になる。
人によっては、それが生き甲斐にもなるだろう。
だけれども、私はごめんだ。
鷺沢を連れて、畜舎に行く。
そして見せた。
植物専門とは言え。知っているのだろう。基本的な、流通している品種くらいは。此処にいるのは、そのどれとも違う。普通の鶏もいるけれど、変に交雑しないように念入りに扱っている。
鷺沢は、驚いていた。
「これは、見たことが無い鶏ですね」
「最近開発された品種を購入したんすよ。 ライセンスを貰って増やしている所っすねえ」
「卵は、かなり貴重なんじゃないですか」
「貴重ッスよ」
ついでにいうと、かなり足も速い。つまりは痛みやすい。
だから消費期限をかなり押さえ込んでもいる。
更に言うと。
味そのものは、卵をそのまま食べる場合には向かないかもしれない。他の一般的な品種に比べて、非常に濃いのだ。美味しいと思う人はそう思うだろうけれど。一般受けするかは自信が無い。
だからレストランなどの専門的な扱いをする場所に卸している。
評判そのものは上々だけれど。
そもそも、あまり卵を産まない品種だ。
単価が高くなるのは仕方が無いし。
今でこそ売れるけれど。
昔は、あまり売れなかった。
まあ、自分で研究する分には問題ないので、何とも思わないけれど。
植物の方は、普通のものばかりなのに。
畜産関係は、普通とはかなり違うものばかり、ここに入る。
牛の方も見せる。
此方はスイスから導入した品種だ。勿論ライセンスごと購入した。和牛でもいいかと思ったのだけれど、此方に関しては、チーズ関連の本場から導入した。つまりそれに特化した乳牛である。ちなみにチーズに向いているというだけで、普通に牛乳としても大変に美味しい。
高級な乳牛だ。
現時点で、チーズを作る事は考えていないけれど。
此奴らは寒いところでないと生きていけないので、畜舎にはわざわざエアコンをつけている。
当然、燃費も掛かる。
もっとも、ダメだと判断されたら二束三文になる肉牛と違って。乳牛専門なので、ある程度気楽だが。
ただ、気性の荒い品種で。
ちょっと気を抜くと、暴れる可能性がある。もし巻き込まれたら、ひとたまりもなく確実に死ぬ。
だから面倒は牧羊犬に見させている。
実際、自分でいちいち見ていたら、命が幾つあっても足りないからである。
他にも、重要な要素は、塩。
これに関しては、世界各国の色々な塩を試している。岩塩はそれこそ、有名所のを全部試したと言っても良い。
他にも必要なものは、あらかた試している。
鷺沢が軽く引いているのが分かる。
普通は。
此処までやらないからだ。
「ど、どうして此処まで」
「マヨネーズはねえ。 作り方のノウハウは、もう大体確立してるんすよ。 だから、後は材料を変えるしかない。 でも、この材料については、正直な話コストダウンしか企業は考えていないんすよねえ」
「そうじゃなくて、どうしてマヨネーズに此処までの情熱を」
「好きだからに決まってるじゃないッスか」
何を当たり前の事を。
勿論、三度の飯にマヨネーズというほどじゃないけれど。
これがないと始まらないのも事実だ。
しばらく口を引き結んでいた鷺沢。
これは呆れて、もう来ないかなと私は思った。
バイトを終えて、鷺沢が帰る。
来ないなら、来ないで別にいい。
元から、みそっかすと言われていたようだし。それなら別に此方としては構わない。土方に研究成果を覗かれているようで、気分が元から悪かったし、むしろ大歓迎というのが本音だ。
だが。
鷺沢は、引かなかった。
翌日も来る。
むしろ、前よりも気合いを入れて。格好を整え直して、来たようだった。
「あれ? 驚いたッスねえ」
「何がですか?」
「私の偏執狂ぶりを見て、てっきり逃げ帰るかと思ったんすけど」
「土方先生に比べればまともだと思いますよ」
そっか。
そういえば、更にタチが悪い比較対象が、既にいたのだった。失念していたのは、失敗だった。
鷺沢が持ってきたモノは。
大豆の種か。
「これ、空いている畑で育てても良いですか?」
「良いッスよ」
「ありがとうございます」
ぺこりと一礼すると、鷺沢はラボに向かう。
まずは其処で綺麗にしてから、畑に向かうのだ。勿論長靴なども、此処で使用しているものに変える。
大豆か。
豆類は、発酵食品の基本でもある。
納豆にしても醤油や味噌にしても、豆は必要不可欠だ。それくらい、重要な植物といってもいい。
勿論、それ以外でも、大豆はあらゆる局面で使う事が出来る。
成長が早いのも、大豆の強み。
色々と利用しがいがあるからこそ。大豆という作物は、あらゆる場面で愛されているのである。
もっとも、豆を甘く味付けする文化は海外には無い地域も多いらしく。それが軋轢になる事はあるそうだが。
空いている畑を指して、好きに使わせる。
普段手入れしていないから、草ぼうぼうだが。
農薬で枯らしてもいいのだけれども。
この辺りの土は一旦作ってある。
だから、雑草を全て手作業で処理した後、幾つかの処置を加えれば、すぐに畑として使える。
此処で重要なのは、しっかり根を処理することで。
雑草は非常に強い植物であるから、根が残っていると、後から植えた作物を駆逐してしまう事がある。
まあ、見たところ、繁殖力が凶悪な雑草は混じっていない。
普通に処理するだけで大丈夫だろう。
ただし、一日がかりの作業になるが。
まず大きな鎌を使って、端から雑草を処理する。私が手を出さなくても、かなり鷺沢は手慣れている。さくさくと処理を進めていく様子は、頼もしい。此奴、本当にみそっかすとして扱われ、苦労してこいと言われたのか。
あの教授は、考えがよく分からなかった。
凄く出来る同期の院生がいたのだけれど。
そいつは、いつも説教を受けていた。
当然プライドもあっただろうし、不満を相当こじらせていたのだけれど。いつだったか。教授が言ったとおりの大ミスをやらかした。
あの時は、研究室の全員が驚いて。
不満をこじらせていた院生は、以降黙ることになったけれど。
多分、それに類する、一種の慧眼を持っている、と見て良いだろう。中々に、出来ることではない。
だからこそに、腹が立つ側面もあるのだが。
黙々と雑草を処理していく鷺沢。
リヤカーを持ってきた私が、処理した雑草を回収していく。サイロに放り込んで、堆肥にするのだ。
何度か往復している内に。
青々と茂っていた雑草は、見事にジェノサイドされ。今度は、根を切る作業と。幾つかの薬品を撒く作業に入っていた。
この国の土地は豊かだと言われるが。
それは違う。昔から、この国の人々が、自然を大事にして、育て上げてきたのが、この土地の豊かさの秘密だ。
だから、一時期。
無茶な扱い方をして、土地が多く荒れたのは、非常にもったいないことだったのだけれど。
幸い二十一世紀に入ってから、状況は改善に向かい始めた。改善に向かうまでは、大きな犠牲が続いたのも事実だ。
「手慣れてるッスねえ」
「この辺りの土、良く作ってありますね」
「農場を譲ってくれた老夫婦がね、自分たちの子供のように手入れしてくれていたからっすよ。 二人も喜ぶんじゃないのかなあ」
「それは良いことです」
鍬を振り下ろす。
根を徹底的に切るのだ。そして、ずっと固定されていた土に、空気を入れる。ミミズなどが出てくる。
つまりそれだけ、この土は豊かだと言う事である。
荒れ地だったら、それはそれで、別の処理をしなければならないのだけれど。
雑草が生えていたという事は。
雑草が元気に育てるだけの栄養が、土にあると言う事を意味している。それを活用して、畑にしていくのだ。
念入りに耕す鷺沢。
特に手伝う必要はないだろう。リアカーの往復も、後一回で良かった。歩きながら、犬笛をならす。
犬からの遠吠えは、問題ない事を意味している。
「さて……」
どうにも、分からない事がある。あのタヌキが、どうして鷺沢を派遣してきたのか。研究を盗ませるためか。
それとも、本当に苦労させるためなのか。
どれが、何が、真実かはわからないけれど。
はっきり分かっているのは。
無駄な行動を、彼奴はしない。研究のペースにムラがあって、それに毎回苦労はさせられたけれど。
それすらも、奴には何かしらの合理的な意味があった、という事だ。
リアカーを引いて戻る。
結構深くまで、鷺沢は土を掘り返していた。そして気がつく度に、雑草の地下茎を引き抜いて、捨てている。
黙々とやっている作業だけれど。
非常に丁寧で、とても好感が持てた。
ひょっとすると此奴。
土を作ることが、本来の専門分野で。
むしろ育てるのは、その副次的な知識として、身につけているのではあるまいか。
その証拠に、土の作り方が、異様に手慣れすぎている。
口は出さない。
手慣れていると言っても、此処でずっと仕事をしてきた私に比べればまだまだだし。余計な事さえしなければいい。
土をダメにするようなことはしていないし。
これから植える豆類がなんだかは知らないけれど。雑草を駆除する手間が省けたし、その後で他の植物を植えるにも良いだろう。
「一通り終わりました」
「んー。 その様子だと、二三日寝かせて様子を見る感じっすね」
「はい。 必要な薬品類が全て揃っていたので、助かりました。 今後の作業が、とてもやりやすくなります」
そうかそうか。
念のため、豆の品種を見せてもらう。
発酵食品用に使う品種が、三つ。畑の広さからいって、三カ所に分けて使用するのだろう。
計画についても聞く。
レポートを出すまでも無く。
鷺沢は、すらすらと暗誦して見せた。
この辺り、俊英が揃う大学の生徒だ。出来損ないとかみそっかすとか土方が言っていたようだけれど。
それはあくまで、下手をすると億人に一人というレベルの才覚の持ち主から見ての話なのである。
鷺沢は、出来る。
下手な農工大の学生よりも、はるかに手際も良い。
正直な話。
植物関連に関しては。
鍛えていけば、私より出来るようになるかも知れない。
「先生、植物の世話、私が全部見せてもらってもいいですか?」
「ま、これから様子を見ながらっすね」
「有り難うございます」
「大学には行かなくてもいいんすか?」
鷺沢が言うには。
毎日レポートを書きためて、電子ファイルで土方の所に送っているという。それはまた、面倒な話だが。
研究室から離れて行動しているのだ。
それくらいを要求するのは、当たり前かも知れない。
そして土方は、鷺沢が苦労して書いたレポートを、ソファで横になって流し見るだけで一瞬で全て把握。
此方の状況を、全て掌握する、というわけだ。
あまり良い気分はしない。
それを実際に出来るだけの実力があるのだ。あの陰険ガキには。
「土方先生が嫌いですか?」
「ストレートに聞いてくるッスねえ」
「ごめんなさい。 ただ、どうにも好意的な印象を受けられなかったものですから」
「鷺沢ちゃんはどうなんすか。 結構出来るのに、戦力外通知出されて、僻地に放り出されて、恨んでないんすか?」
少しだけ。
寂しそうな笑みを、鷺沢は浮かべた。
ラフな格好と野性的な容姿と裏腹に。
その表情は、おそらく良家のお嬢そのもの。とても繊細で、傷つきやすく脆いものに見えた。
何日かが過ぎる。特に大きな問題は起きない。問題が起きると大変なのだし、これでいいのだが。
大豆を植えている鷺沢を横目に、家畜の世話をする。
特に鶏は世代交代が早い。
違う品種同士を掛け合わせて、ハイブリッドを造り、それの能力を確認。完全な新種が出来ればそれはそれでいい。雑種にしても、かなり交雑による影響は出る。勿論、卵の味にも、それは現れる。
何カ所かにある畜舎。
鶏小屋も、何カ所かに分散しているけれど。それは一カ所に住まわせると、鶏は社会性を発揮するようになり、地位確認のために弱い個体にイジメを行うようになるからだ。外である程度自由にさせると、そう言うことも無くなる。夕方、小屋にいれるとき。それぞれスペースを区切って分けるのも、争いで無駄にストレスを蓄えるのを、防ぐためだ。ストレスは、卵の味にダイレクトに伝わる。
更に言うなら、ストレスを与えると、それだけ鶏の寿命も縮む。
勿論、温室栽培は意味がない。此処で言うのは、自然ではあり得ないストレス、という意味だ。
元々鶏は、野外で暮らしている間は、此処まで苛烈な社会性を作らない。それぞれに充分な広さがあり、何より天敵の脅威があるからだ。
人間が天敵を排除して、狭い中に多数を閉じ込めると。異常空間でストレスがどうしても生じる。
それは鶏のためにならないし。
更に言えば、回り回って食べる人間のためにもならないのである。
交配に関しては、完璧に管理した状態で行う。
鶏は、徹底的に最初、慣れさせる。
あまり頭が良くない鶏だけれど。
人間になれるような訓練は、一応する事が出来る。慣れさせると、作業が楽になる。最初の内は、鶏小屋に入るだけで大騒ぎしていた個体も。
最近は掃除をしてくれると悟って、大人しくしている。
掃除をすることで、快適になる事くらいは分かるのだ。
「ふむ」
何羽か意図的に作ったハイブリッドの様子を見る。
そろそろ卵を産む時期だ。
味に関しては、これはもう食べてみるしかない。金魚のように、見た目で全てが決まる種では無いからだ。
一通り世話が終わった後、小屋を出て、犬笛をふく。
犬たちの遠吠え。
問題ないという返答だ。
さて、鷺沢だが。
植えている大豆の品種を見る。なるほど、枝豆用のものではない。どれもこれもが、発酵食品用の豆だ。
しかも、かなり珍しい品種である。
植物はそれほど詳しくない私だけれど。
今鷺沢が植えているのが、この国でも滅多に見ない品種だと言う事は、理解できた。扱っている農家は百軒もいないのではあるまいか。殆どは、大学での研究用で育成されている品種だ。
「面白い品種っすねえ」
「気むずかしくて、育てるのが大変です。 育つのは早いですけれど」
綿密に計算しながら、畝を作っている鷺沢。
更に、ビニールがけをしている。
畝にビニールをかぶせることで、地面をそのままビニールハウスにする。日本で普及し始めた技法だ。
もっとも、現在、農業を軽視した日本は、そのツケを色々な形で払わされる事になっているが。
植え方も面白い。
土を少しだけ掘り返して、指をいれて土の状態を確認。
それから、念入りに種をいれている。
非常に神経質だ。
そう。
私が、動物たちに接するように。
「科学的栽培が基本になる今の時代、私や先生みたいなやり方をしている人はあまりみないので。 私も、少し安心しました」
「……」
目を細める。
この子は、或いは。
私のやり方を見て、どん引きしていたのでは無くて。
或いは、同士を見つけたと思ったのかも知れない。そうはとても見えなかったが。行動を見ると、理解できる。
なるほど、そう言うことだったのか。
頭をかく。
人間は見かけによらないことは分かっているし。何より私が見かけに苦しんできたのだけれど。
まだまだ修行が足りなかったかも知れない。
畑の方は、任せる。
植物に関しては、この子の方が色々と出来るだろう。私が色々口出しをするよりも、一人で勝手にやらせた方が良い。
私は、畜舎に戻る。
牛舎を整備して。牛たちを戻す。牛は馬ほど神経質では無いけれど。それでも綺麗にしていた方が良いに決まっている。
ちなみに、マヨネーズには関係無いので、豚は飼っていない。
犬たちに餌を与えていると。
鷺沢がもとってきた。
「先生。 レポート見てもらってもいいですか?」
「どれどれ」
ラボに入ると、まずは汚れを落とす。こればかりは、習性だ。神経質になりすぎるくらいで、今の農業は正しい。
ラボの中には、勉強部屋もある。
鷺沢のレポートを見せてもらうけれど。
意外にしっかり書けている。ただし、何となくだけれど。この子がみそっかすだと自分を卑下して。
苦労をしてこいと、土方に言われた理由が、分かった気がした。
おもしろみがない。
優等生過ぎるのだ。
あらゆる面で、何というか、かっちり杓子定規に作られすぎているレポートなのである。間違ったことは書かれていない。全体的に、かゆいところにまで手が届くようにもなっている。
だがそれだけだ。
土方のレポートを読んでみると分かるが。
彼奴の書くレポートは、悔しいが面白いのだ。論文というものは、こんなに面白いものだったのかと、唸らされてしまう。
ただ、あまりにも誤字脱字が多いし、彼方此方変な表現も出てくるので、必死に学生達で直すのだけれど。
腕組みしている私を見て。
口をへの字に結んだまま、鷺沢は黙っていた。
「問題がありますか?」
「ないのが問題っすねえ」
「……同じ事、土方先生にも言われました」
「仕方が無い。 こればっかりは、適性っすよ」
凄い教授だけれど、レポート書くのが苦手な人は実在する。私も実際に見た事がある。世の中は、そんなものだ。
この子も、或いは。
いずれ独立して。
或いは研究室を持って。
そんなときに、苦労するのかも知れない。
研究者としては悪くない。
何というか、私と同じ。徹底的なまでの情熱を感じる。それが、必ずしも、一緒にやるから、とは限らない。
研究者とは、そういうものだ。
何というか、口の出し方が難しい。土方も或いは、この四角いレポートを見て、どうして良いか困っていたのかも知れない。
だが、みそっかすではない。
それは断言できる。
土方は、どういう意図があって、この子をみそっかすなどと呼んだのか。
見かけはともかく。あの変人の中の変人が、相手の見かけなんかにこだわるとは思えないのだが。
とにかく。レポートはそのまま鷺沢が提出した。
そして、土方には、私が言ったように酷評されて。最後にこう言われたらしい。
面白くない論文だ、と。
3、執念の実
流石に私も、生卵を丸呑みするようなことはしない。まあ、してもいいのだけれど。あまり気が乗らない。
ハイブリッドの鶏が、卵を産んだので。持ち帰って、軽く調整してから、口に入れてみる。
別にそれほど味は飛躍的に変わっていない。
私が予想する味には、どうしても届いていない。
エサは、しっかり管理している。
庭に放って、定期的に虫を食べさせているのだけれど。この際に、他にも色々と食べやすいように、飼料をおいている。
勿論抗生物質入りの飼料じゃない。
そんなものに頼らないためにも、こういった環境で、鶏をのびのび育てているのだ。鶏小屋だって、とても広く取って。
腕組みする。
何が、足りない。
今、最後に必要なピースが、卵なのだ。
日本に入ってマヨネーズが飛躍的に変わったとき。レシピで一番大きな変更となったのが、卵の分量だ。
元のマヨネーズの倍、卵を入れるようになって。更に、黄身だけを使うようにもなった。
非常にまろやかな味が実現された。
私くらい研究を続けていると、今の卵を入れると、どんなマヨネーズになるのかは、一発で分かる。
少なくとも、量産品のマヨネーズよりは十倍はおいしいけれど。
現時点では、まだ完成品には遠いし。
何よりも、完成品を量産する体制にもほど遠い。
レポートを確認。
与えた飼料などを完璧に整理して、並べてあるのだ。計算すると、もう少し味が濃厚で、かつまろやかになるはず。
何処で味が落ちている。
ストレスは、できるだけ与えないようにしている。鶏は実際、私を怖がる事も無いし。鶏小屋を嫌がりもしない。
それだけ、人間になれているのだ。
卵を分析機に掛ける。
恐らく、品種改良に失敗している、という事はないはずだ。十二世代掛けて、美味しい卵を産むことに特化した鶏へ品種改良を続けていて。最初の頃の卵に比べると、雲泥の差になっている。
実際、マヨネーズも確実に美味しくなってきているのだけれど。
どうにも、ひと味足りないのだ。
調味料の問題じゃあない。
絶対に卵の問題だ。
しばらくラボをうろうろしていると。まるで野生の熊でも見るかのような目で、鷺沢が此方を伺っていた。
野性的な容姿と裏腹に。案外この子は臆病だ。
容姿が性格と関係無いのだと、よく分かる。
「何ッスか、そんなところで」
「先生、どうしたんですか、そんなに苛立って」
「上手く行かないんすよねえ」
分析機の結果を確認。
卵の内容物の組成を徹底的に分析して、表に起こす。すぐにデータ化して、記録。ある一定のラインから、卵が理想に近づかなくなった。勿論鶏たちに当たるような愚かな真似はしない。
しばらく考え込んでいると。
鷺沢が言う。
「少し、畑を見ていただけますか?」
「んー」
気分転換も必要か。
ラボを出て、畑に。
すぐに芽が出た大豆だけれども、少し元気が無い様子だ。栄養剤は相応にいれているところを見ると。
何か別に問題があるか。
「病気では無いと思いますけれど」
「この品種はあまり詳しく無いッすけど、酸性度とかで成長が阻害されるようなことは?」
「大丈夫です。 研究室では、こんなに成長は遅くなかったのですけれど」
そうなると、日光が強すぎるとか、気温とか。
それも、首を横に振る。
温湿度計を近くにおいていて、徹底的に管理しているという。なるほど、それならおかしくはならないだろう。
ならば、何か要因があるのか。
「寄生虫、は考えにくいッスねえ。 線虫とか」
「多分大丈夫だとは思います」
「まあ、気楽に。 売るわけでもないんだし、駄目な子はしっかり自分で食べればいいんすから」
「……」
不可解な目を向けられる。
鷺沢は。
そうですかと下を向いて呟いた。
接するのが難しい。
鷺沢の所を離れると、ラボに戻る。今度はミルクを出してくる。
勘違いされやすいのだが、元々ミルクという奴は、基本的に人間には消化できない。当然の話で、牛用のものだからだ。
だから、人間の栄養になるように、調整をする。
その過程で、どうしても味は変わる。
美味しい牛乳は確かに存在する。
だけれども、それは加工後の味だ。こればかりは、どうしようもない、動かし様が無い事実なのである。
今日、作ってきたミルクを一口呷る。
これならば、マヨネーズの材料として申し分ない。
だが。
先ほどの大豆を見ていても思ったが。ひょっとしたら、何か少し離れて見るのもありかも知れない。
そもそも、だ。
大手のメーカーは、レシピの改良に余念がない。
本当に完成されたレシピは、一切動かす必要がない。実際そのレシピのまま、十年以上造り続けられているマヨネーズは存在する。
牛乳を使わないマヨネーズも多い。
だが、私は、究極的に味を求めるなら、牛乳を入れる派だ。
油については、此処では生産できないけれど。
まてよ。
いわゆるサラダ油で手抜きするのでは無くて。もう少し、此処の環境にあった油を使うのは、どうか。メーカーによっては大豆油を使っているが、他にも色々な味の油がある。
たとえば、乳脂肪を利用する。
言うまでも無く、ドレッシングの一種であるマヨネーズには、酢も必要だが。この辺りは、別に気にはしていなかった。
だけれども。
見慣れない品種の大豆に四苦八苦している鷺沢を見て、思い出す。もう少し、視野を広げても良いのではないかと。
勿論、人間関係という奴はごめんだ。
此処で適当に暮らしながら。
自分で一番美味しいマヨネーズを作るのが、私にとって、当面の目標。それは揺らがないし。
他の誰にも邪魔はさせない。
マヨネーズのレシピは完成されていない。
実際、色々なブランド品が、今でも出ている。いっそのこと、これ以上の卵の向上は諦めて。
他で補う事を考えても良いのでは無いのか。
「……」
まさか。
土方の奴、私が四苦八苦しているのを見抜いて。
いや、流石にアレが化け物でも、其処までの事は出来ないだろう。
頭を振って、思考を戻す。
良い味の油を生産して、其処から。現状の美味しい卵を更に引き立てるようにすれば。更に美味しいマヨネーズを作れないか。
牛乳を、油を取り出すための素材と割り切ってもいい。むしろ、それくらいばっさりやっても良いのだ。
「先生?」
「!」
いつの間にか、不可解そうに鷺沢が私を覗き込んでいた。
そうかそうか。
そんなに夢中になって考え込んでいたか。
意外に、良いかもしれない。
若い子と接すると、色々と新しい発見があるとは思っていたけれど。この子の場合は、何かそう言うものがあるかも知れないのだ。
「考え事ですか?」
「いっそ、レシピを大幅に改良するのもありかと思うんすよ」
「……悪くは、無いと思います。 でも、何年も改良を続けたレシピなんじゃないんですか?」
「そりゃあそうっすけど」
何事も、こだわり過ぎると、目の前が見えなくなることもある。
これなどは、正にその一つでは無いかと、私は思うのだ。
まだ残っていた卵を振る舞う。
鷺沢はオムレツになって出てきた卵を見て、しばし警戒していたようだけれど。口に入れて、驚く。
「おいしい、ですね」
「新鮮な卵を使えば美味しいオムレツは簡単に作れるもんっすけどね。 この卵は、ちょっと他とは違うっすよ」
「いえ、そうじゃありません。 ケチャップとかつけなくても、充分に美味しいです」
そう言う意味か。
まあ、本職のシェフが作るオムレツに比べれば、それは味は落ちるだろうが。
「生の卵、いただけますか?」
「いいっすけど」
手渡すと。
手慣れた様子で鷺沢は卵を割って、ひょいと口に入れる。
意外な行動に、私が一番驚かされる。鷺沢はしばらく口の中で卵の味を楽しんでいたようだけれど。
やがて、蛇よろしく、喉を鳴らして飲み込んだ。
「充分に美味しい卵です。 私が食べてきた卵の中でも、一番美味しい卵の一つだと思います」
「……そう、すか」
「でも、これならば、卵をこれ以上飛躍的に美味しくするのは無理だと思います」
そうか。
どうやら、私の辿り着いた考えは、間違っていなかったらしい。
やはり、卵の改良には限界がある。
どうやら、限界に到達していたことに、気付いていなかったらしい。ずっと似たような事をしていたから、感覚が麻痺してしまったのだろう。
今日からは、方向を転換する。
勿論、今までの努力は無駄にしない。
更に先に行くために。
方向を変える。
それだけだ。
鷺沢の様子を見に行くと。
相変わらず手こずっていた。四苦八苦しながら、どうにも元気がない大豆の苗の世話をしている。
発酵食品が専門だと聞いているから。醤油や味噌を、これから造るつもりなのだろう。それは楽しみだ。
もっとも、それらには、本格的な設備がいる。
この農場では無くて、本格的な工場に持ち込んで、其処で加工して貰う必要が生じてくるだろう。
私はと言うと。
卵は現状維持を決定。
勿論鶏たちを邪険にはしない。美味しい卵を作るために品種改良を続けた鶏たちだ。乳牛も、である。
元から美味しい牛乳を作れるのである。それも、かなり大量に。
それだったら、牛乳を売りつつ。
残りを、加工し、調整していけば良い。
簡単な話だ。
畜舎での作業を終えて、ラボに。
取り寄せておいた素材を確認。マヨネーズに使う油は何種類かある。家庭でマヨネーズを使う場合はサラダ油が基本のようだが、生憎こっちは売り物になるマヨネーズを作るのだ。
しかも、生半可な売り物じゃない。
研究でやってきたけれど。
せっかくヒントも掴めたのだ。
これはこれでありだ。
どうせなら、この国随一の。最高のマヨネーズを作るべし。
融点が低い油を作るのは難しくない。酢に関しても、マヨネーズに合う酢は研究されつくしている。
牛乳から抽出した乳脂肪分に軽く手を加えて、融点を下げる。
材料に使って見る。
マヨネーズの味が、露骨に変わった。
美味しくなった、とは一概に言えないのだけれども。今まで、微弱な変化しかなかったのが。
それこそ、強烈に変わったというのが、一口で分かるのだ。
ふかし芋が進む。
牛乳から抽出する乳脂肪についても、加工次第で幾らでも化けるはずだ。融点を下げるための工夫だって、いくらでもある。
突破口が見えた、と言うほどでは無いけれど。
これは、俄然面白くなってきたかも知れない。
人間と接して色々やるのは正直ごめん被るけれど。
それでも。
これくらいの距離を保って人間を観察するだけで、色々と収穫があると言うのが分かったのは、大きかった。
鷺沢の様子を見に行く。
美味しいマヨネーズが出来たぞと、声を掛けに行こうと思ったのだけれど。
気付く。
「はい。 分かっています、おばあさま」
身を縮めて、話をしている鷺沢。
手にしている携帯を掴んでいる指が、青白くなっているほどだ。
震えている。
余程怖い相手なのだろう。
「!」
電話が終わって、振り向いた鷺沢は。
それこそ、真っ青になっていた。
「ああ、悪いッスね。 立ち聞きする気は無かったんすけど」
「ど、どこまで……」
「お婆さんに敬語を使ってたことくらいっすね。 内容については、ほぼ理解できていないっすよ」
「……」
不信の目。
だけれども。此方も、事実を述べているだけだ。
たとえば読唇術が使えたら話は別かも知れないけれど。あれも、実際にはかなり確実性が薄いという話を聞いている。口の中で喋るようなタイプには効きづらいだろうし。更に言えば。鷺沢は、どちらかと言えば、声が小さい方だ。
「あの……」
「プライバシーは、それぞれ個人のものッスよ。 立ち入るつもりは無いから、心配はいらないッス」
とはいっても、だ。
数日前に。土方からメールが来た。
鷺沢は、飛び級で上がって来ている生徒だと。
そういえば、妙に小さいなとは思っていた。だが、それにしても限度がある。ひょっとして、此奴も。
いや、それにしては、先ほどの会話は変だ。
まあいい。
容姿で色々損をしてきた私だ。鷺沢に対して、私が味わってきた苦悩をぶつけるのも、褒められた行動では無い。
ましてや、鷺沢はどうにも何処かで無理をしているように見える。
まあ、それは私もだが。
しばらく、無言が続く。
一人にしてやった方が良いだろう。
そう思ったのか。或いは逃げたのか。私は、その場を後にした。ひと味違うマヨネーズが出来たので、鷺沢に食べて貰おうかと思ったのだけれど。
今は、そんな空気じゃなかった。
ちゃんと、鷺沢は次の日も来た。
飛び級制度を使ったのなら、実際の年は幾つなのだろう。聞いてみたい誘惑にも駆られる。
事実、幾ら小柄と言っても、大学院生にしては小さすぎるからだ。
まあ、極端に発育が悪い子は実際に存在する。
私はむしろ発育が良すぎて、周囲に壁を作られたタイプだけれども。それを考慮しても、なお小さいと感じる。
だが、止めておく。
鷺沢が話すのならともかく。
私から聞くのは、あまり良いことではないように思えるからだ。
幾つか、作った試作品を試していく。
失敗作もある。
味のぶれが大きくなったから、だろう。食べてみると、せっかくの素材が台無しになってしまっているケースも、散見された。
食べる量が露骨に増えたけれど。
その分、間食は減らしている。
元々農作業は、エネルギーを大量に消耗するのだ。多少食べ過ぎたくらいで、気にする事は無い。
「先生、よろしいですか?」
「ん」
ラボに鷺沢が来た。
不可解そうに見ている。幾つかの容器には、×が付けられている。いずれも、マヨネーズの容器だ。
「×は失敗作っすよ」
「……」
無言で掌にマヨネーズを出すと、ぺろりと舐める鷺沢。
言動がお嬢っぽいのに、どうにも大胆なところがある。いや、ひょっとすると、これは。すぐ思考を閉じる。
深入りはよろしくない。
「失敗作でも充分に美味しいですね。 市販品では相当な高級品にならないとかなわないと思います」
「そう言ってくれると嬉しいッスねえ」
「成功した方はとても美味しいですね。 高級料亭で使われていても不思議ではないくらいです」
高級料亭と来たか。
行ったことは、多分あるんだろう。
ちなみに私はお金はあるけれど、行ったことは無い。機会がなかったし、行こうとも思えなかったからだ。
手を洗う鷺沢の背中を見つめながら。
色々と思う。
この子は、私をどう思っているのか。
この間、電話を聞かれていたことに気付いたときの表情は、絶望に満ちていた。まあ、仕方が無い。
私は、容姿で損をしてきたから、知っている。
距離は。
取ってあげた方が良い。
「大豆の調子はどうっすか?」
「ダメですね」
「育ちが悪い?」
「どうしてか分かりません。 研究所と、同じようにしているのに。 気温の変化も、想定内の筈なのに」
上手く行かない。
それがとても悔しい事は、私にも分かる。
最初、挫折を味わったときのことは、よく分かる。
どんなに嫌われても私は、友達になってほしいと思って、色々頑張った。だけれども。女子のグループのリーダーは、こう言ったのだ。
あんた、その舐め腐った目、半笑いの口、ムカ突くわ。
舐め腐った目。
意味が分からなくて、鏡で見て。
この半目が悪いのかと思った。
でも、これは自分がどうにかしているものでもないし。つまり、顔を作り替えでもしない限り、私は人間の世界では受け入れられないのか。
それに気付いたとき。
私は、数日学校を休んで。
以降、誰か友達を作ろうという努力を放棄した。正直な話をすると。それで、随分と楽になった。
孤独がつらいというよりも。
報われない努力を続けるのが、とてもつらかったのだ。
「色々試してみると良いすよ。 売り物じゃないんだから」
「はい。 ありがとうございます」
「時に、いつまで私を手伝ってくれるっすか?」
「今年いっぱいは、此処で研究しろと言われています。 どのみち私、飛び級で来ていますから、時間はありますし」
知っている癖にと、責められているような気がして。
私は少し肩身が狭かった。
駄目な組み合わせを排除。
上手く行く組み合わせを少しずつ、念入りに調整していく。そうすると、分かる事がある。
酢も塩も。
今まで、鉄板だと思っていた組み合わせが、必ずしもそうでは無い事に気付いてしまうのだ。
まだ、新しい可能性があるかも知れない。
そう思うと、作業は一段と楽しくなっていった。
しかし。
鷺沢は、畑の側で、暗い顔をしていることが多くなってきている。大豆がうまく育たないのだから、無理もない。
私の方でも確認したけれど。
土は悪くない。
むしろ、この辺りの土は、前の農場主が精魂込めて育ててきたものだ。悪い筈がない。雑草があれだけ育つ位なのだ。
栄養は、たっぷりなのである。
それなのに、どうしてこの気むずかしい大豆達は、なまっちょろく、なおかつ育ってくれないのか。
ため息を零す鷺沢。
この子はまだ。
人前で弱音を吐くことが出来る段階だと言う事だ。
もっと段階が進むと、人前では絶対に、本音を見せなくなってくる。丁度、私のように、である。
「気分転換でもするッス」
「はい。 今日は、何ですか?」
「マヨネーズトースト」
勿論、ただのマヨネーズ焼きでは無い。
トーストの上にチーズを載せて、その上にマヨネーズを掛けて、延ばして焼くのである。これが手軽で実に美味しい。
のりを載せると、更に美味しい。
チーズを自家生産している農家もあるけれど。うちは流石に其処まではしていない。チーズを作るのには色々と手間が掛かるのだ。
マヨネーズが一段落したら、やっても良いかもしれない。
まあ、今は手が足りない。
やるのは後だ。
「これは、美味しいですね」
「でしょ」
「ジャンクフードそのものの見かけなのに。 良く焼けたマヨネーズがとても香ばしくて、とても美味しいです」
まあ、温かいから美味しい、というのもある。
マーガリントーストなどが顕著だが。あれなどは、冷めると温かいときとは比べものにならないほど味が落ちる。
ものがよければ、それでもちゃんと食べる事は出来るが。
「大豆、何がダメなんすかねえ」
「実は、土方先生にも言われていました。 多分これは、研究室の外では、育たないだろうって」
「!」
「私だけじゃなくて、他の院生達も、みんな悔しい思いをしていました。 それで、此処に来る時に、だったら、と思って持ってきたんです」
まだ心を上手に隠せていないのか。
やっぱり、単純に幼いからか。
鷺沢は、どうにも私から、本音を隠すのが下手だ。そんな様子だと、将来暮らしていくのが大変だろう。
土方くらいにはっちゃければ、変人も楽だし。
私みたいに金がある場合は、事実上の隠遁生活をして、のんびりゆっくり過ごすことも出来る。
でも、此奴の場合。
そのどれもが、選択肢には無いのだろう。
「もう少し、頑張ってみます」
「……」
なあ、お前。
此処で就職しないか。
そう言ってみても良かった。
最近噂の強化クローンは、あくまで秘密裏に進められている計画だ。だから、黒い噂がたくさんある。
そもそも、強化クローンと言っても、完璧な意味でのデザイナーズチルドレンではないし。
何より、遺伝子の調整には、本物の人間を使う。
噂によると、子供が産めるようになると。すぐに種を仕込まれて、孕まされる個体もいるらしい。
失敗作と判断された場合は。
スパコンが割り出した、次の世代に丁度良い子供を作れる種を仕込まれる、というわけだ。
鷺沢がそうかは分からない。
だけれども。あの電話の内容がもし、そういったものだったとすると。今回、みそっかすと言われている鷺沢は。
ひょっとして、相当に焦っているのかも知れない。
頭を掻き回す。
少しばかり、汚い手を使うしか無いか。
人間嫌いの私だけれども。一応、知り合いはいるにはいる。もっとも、仲の方は最悪だが。
鷺沢がいなくなった後、電話を掛ける。
すぐにそいつは出た。
「なんだ西尾。 電話かけてくるなんて珍しいじゃないか」
「どもっす」
土方の前。
私のいた研究室のボスだった男だ。
植物の方に関しては、流石に土方ほどでは無いにしても、相当な専門家である。主に侵略傾向の強い外来種を排除する研究をしている。
つまり、逆に言えば。
外来種を保護する仕組みについても詳しい、という事だ。
この親父、頭の方は良いのだけれど、典型的なセクハラ野郎で。私にも、随分と色々してくれた。
土方の所に移る少し前に、生徒の一人を孕ませて、それが原因で大学を移動。
ちなみに和姦だと主張していたが、単位に困った生徒につけ込んだという話である。文字通り、最悪のゲスだ。
こんなのの手は借りたくないけれど。
今は猫の手でも使いたいところなのである。
いやだけれど、我慢する。
話をすると、セクハラハゲは言う。
「それはおそらく、その世代の豆はダメだな」
「その世代?」
「獲得形質は遺伝するんだよ。 そうで無い場合でも、世代を通して、土を改良していく品種も多い。 品種しだいでは、何世代も掛けてその土地に慣れさせる必要がある奴もある。 まあ、枯れても諦めずに、時間を掛けて馴染ませるんだな」
どうだ、夕食でもと誘われたが、また今度と断る。文字通り何されるか分からないからだ。
そうか。
何世代も馴染むのにかかるものもあるのか。鷺沢に教えるべきか、少し悩んだ。実際、問題が他に見当たらないとすると、ほぼそれ以外に理由は考えられないだろう。
鷺沢は、このままだと、プレッシャーで潰れかねない。
あの子は、見かけ以上に子供だ。
そして、未来がないとも思い込んでしまっている。
それならば。
手をさしのべなければならないだろう。
嘆息。
苦手なのだけれど。こういう話を聞いてしまうと。結局容姿で損して、色々苦労した自分の事を思ってしまう。
そして、鷺沢のことは嫌いでは無いし。
色々と、新しいアイデアを思いつく助けになった事も感謝している。
外に出ると。
鷺沢を探す。
豆の所で、小さくなっている鷺沢を見つけた。
面倒くさいけれど、仕方が無い。歩み寄る。
「ちょっといいっすか?」
「……」
目から光が消えている鷺沢が、振り向く。口をへの字に結んでいて。もう、何の希望も無いという風情だ。
この様子だと。
今までの情報から類推できる事は、恐らく全て事実だと見て良いだろう。でも、聞いて確認しておく。
「ひょっとして、鷺沢ちゃん。 強化クローンすか?」
「……分かっていたんですね」
「実年齢は、まさか10歳とか?」
「13歳です。 流石に年齢まではまだ現在の技術では操作できませんので。 政府からはあまり表向きにはするなとされていますけれど。 既に政府の官僚にも同類がいるので、有名無実な取り決めです。 役に立つと判断されれば、人権が貰えます。 役に立たないと判断されると……実験動物に逆戻りです」
目を擦った鷺沢に、聞いていく。
みそっかすというのは。
使い物にならないと、本気で判断されているという事なのか。
応えは、イエスだった。
鷺沢は、先行モデルである土方と同レベルかそれ以上の能力を期待されていたのだという。
だから、おばあさまと呼ばれた人間。
クローン作成の権威に、言われたのだとか。
成果を上げられない上に、引き取り手が見つからないのなら。来年には強制的に交配させて以降はずっと子供を産ませると。
人権なんてないのだろうなとは思っていたけれど。
ちょっと、想像以上にひどい。
「で、鷺沢さんは、どうしたいっすか?」
「……お外に出て、とても美味しいものをたくさん食べる事が出来て。 研究所には、戻りたく…ないです」
味がない食べ物。
役に立たないと判断されたら、それこそゴミのように消されてしまう命。
今後産む機械にされた場合、埋めなくなったら即殺処分だと、鷺沢は自嘲的に言う。事実、それは。
実際にこれから本当に行われる蛮行と見て良さそうだ。
クローンが国際的に禁止されなくなってから5年。以前騒がれていた人道的問題は、こうも強烈に自己主張を開始している。
医療用のクローンなどが主体と聞いているが。この国でこれだと。よその国だと、更に状態は悪いのでは無いのか。
ため息が零れる。
そうか。此処で成果を上げれば、ひょっとすれば土方がフォローをいれてくれるかも知れないと、思っていたのだろう。
だから、この子なりに。藁をも掴むつもりで来て。
そして今。
どうにもならなくて、絶望している、ということか。
未来は確かに見えている。
土方だって、庇いきれないだろう。この子は正直な話、国が大枚をはたいて作ったにしては、能力が微妙すぎる。天才でもない私だって、はっきり分かるくらいだ。
面倒くさいが、仕方が無い。
他に手が無いのなら。
「この大豆、しっかり仕上げられたなら。 私から、土方教授に、推薦文を書いてあげるっすよ」
「……でも」
「まだ時間はあるし、サイクルも短い。 多分、土になれるまでは何世代か掛かるかも知れない。 諦めるのは、早いんじゃないっすかね」
私だって、諦めるまでは。
随分時間が掛かった。
諦めたことを後悔はしていないけれど。
諦めるまでは、もう少しは頑張っても良いのではないかと思う。私の場合は、両親も周囲の人間も、全部に見捨てられたけれど。
だからこそに。
私は、この子を見捨てないでいたい。
「ほら、手を動かす。 植物にとっては、一世代だけが全てじゃなくて、後の世代も含めて一つの生命なんすから」
柄にも無い事を言いながら。
私は、鷺沢に。動くよう、促した。
4、黄金の
マヨネーズには愛好家が多い。企業レベルで必死に開発しているのも、この国の人々の味覚にあうからだ。
究極的には、自分にとって一番美味しいマヨネーズを作るのが目的だけれど。
私が開発した品種の鶏と乳牛。
乳脂肪に手を入れて、融点を下げて。
それを利用したマヨネーズは。市場に出すやいなや、口コミで爆発的にヒットし。生産がすぐに追いつかなくなった。
今日来たのは、最大手の調味料を扱う企業の営業である。
きちんと入り口で汚れを落として貰ってから、製造工程を見せる。異常なまでに神経質な畜舎を見て、一応本職の営業らしく、驚いたようだった。
「この手の入れ方で、どうしてこの価格を実現できるんですか」
「初期投資は掛かりましたけれど、今はそれほど維持にお金が掛かっていないからです」
「……」
困惑して顔を見合わせる営業。
販売にはライセンス制を利用していること。
販売額の何割かを、権利料として収めること。契約の際には、それらが記載された書類に印鑑を押して貰う。
向こうが用意してきた書類はその場で破棄。
向こうに都合が良いことしか書いていなかったからだ。舐めて掛かってくるにもほどがある。
此方が、もう少し小規模だったら、潰しようもあったのだろうけれど。
今や、うちの牧場の牛乳、卵。それにこのゴールドマヨネーズは、全国的に名前が知られた商品だ。
強気には、出られないし。出させない。
実はこの計画には、立役者がいるのだけれども。今はまだ、表には出さない。
「流石にこの条件では、即座の契約は」
「持ち帰って検討してください。 他にも契約を申し込んでいる企業がいると、言っておきましょう」
「……分かりました。 すぐに検討します」
このレシピは、再現不可能だ。
そもそも、うちで生産した品種が、新種として登録してある。世界でも珍しい、マヨネーズ用の鶏と牛。
しかも、マヨネーズ用に使わなくても、とても美味しい卵と牛乳が取れる。世界的にも、ほぼ出回っておらず。研究用に、何カ所かの大学に廻したくらいである。
最近は警備も強化した。
マヨネーズが売れるようになってから、牧場に忍び込もうとする馬鹿が出るようになったので。
警備会社に言って、徹底的にセキュリティをパワーアップしたのだ。
そのため、牧場の周囲は。鉄条網で覆われた、世紀末的な光景になっている。まあ、金なら余っているし、それでいい。
汗を拭いながら、営業は交渉しようとするけれど。
首を横に振る。
「このマヨネーズは、量産すればそれこそ世界的なヒット商品になります。 現在でも、どれだけ予約が入っているか知っていますか? そのライセンスを渡すんです。 このくらいの対価は当然ですよ」
「分かりました。 重役会議にも掛けますので、お待ちください」
敗北した顔で、営業が帰って行く。
ちなみに、他からも声が掛かっているのは本当だ。実際問題、一番条件が良いところに、ライセンスを渡す予定である。
奥から来たのは、鷺沢。
ずっしりと、収穫した大豆を抱えている。
やはり予想は当たった。
三世代目くらいから、きっちりと育つようになり。今ではすっかり、きちんとこの通り収穫できる。
味も悪くない。
鷺沢自身は、他の農場に足を運んで、豆腐や醤油を作っている。その醤油がまた絶品で、此処のマヨネーズとこの上もなく合う。
マヨネーズと醤油の組み合わせはもともと美味しいのだけれど。
思わず口数が減るくらい、食事時には最高の調味料になってくれる。
「どうでしたか?」
「予想通りっすねえ。 実際問題、既存の市販品とは味も質も比べものにならないのだから、躍起になるのも当然っすよ」
「後は、欲を掻きすぎないことですね。 相手は恐らく契約を丸呑みしないで、書き直してくるはずです」
「分かってるっすよ」
鷺沢は。
色々やらせてみた結果、商売の方にむしろ特性があることがはっきり分かった。でも、今はそれもどうでもいい。
土方の所に推薦文を書いたあと。
もう面倒だから、此方で引き取ることにしたのだ。大学院を出た後は、正式に此処で働いて貰う事にする。
何、金ならある。
この世で、私が接するのが嫌じゃない、数少ない相手だ。一人くらいは、側にいてもいいだろう。
鷺沢は、子供を産む機械にされるのも。研究所に戻るのも嫌だと言った。
私は、それを阻止する力がある。
鷺沢は、私を容姿で判断しなかった。
それに、私にヒントをくれた。
助けられるなら。
助けるくらいは、しても良いはずだ。
電話が来る。
鷺沢の表情は、決して暗くない。
「先生。 新しいお醤油が仕上がりました」
「もう少し稼げるようになったら、空いている土地に発酵用の蔵でも造るッスかね」
「良いんですか?」
「まあ、稼げたら、っすよ」
もう、いっそ。醤油も此処で造るようにしても良いだろう。
ノウハウを売った後は、相応にお金も入るのだ。今もお金には困っていないし、黒字になればそれでいい。
それに。
いや、何でもない。
此処は、世間から隔離された、私の城。
黄金で満たされた。
私だけの、城だ。
(終)
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