蕾の祭

 

1,奇樹

 

それは不思議な樹であった。村はずれに生えているその樹は、常緑の存在であり、春も夏も秋も冬も、常に葉をつけ続けていた。葉だけではない。いつも蕾を葉の間だから覗かせ、咲き誇ろうともしていた。ただし、その願いかなうことは、ここ数百年無かったわけであるが。

山間の小さな村。信仰を一手に引き受ける、村はずれの小さな祠。その裏に、この樹は根を下ろしている。周囲の土は柔らかに盛り上がっており、雑草は丁寧に抜かれ、辺りの養分も日光も独占した樹は一杯に枝を伸ばしている。背が高い木ではない。村の中で一番長身なブルネイン青年よりも、二倍ばかり高いくらいだ。山にはこれより高い樹がいくらでもある。

この樹は、村の周囲にあるどんな樹にも似ていない。というよりも、村からで稼ぎに出た者も、この樹に似たものは何処でも見たことがないと、口を揃えている。枝の張り方が特殊なのではない。普通に傘状に、上から下にかけて徐々に枝が長くなっている。葉が不思議なのではない。普通に丸く、若いうちは葉の縁が鋸状になっている。幹が妙なのではない。矯正したようにまっすぐな幹だ。特に木肌も特徴的なものではなく、普通にすべすべしている。それらの普通な特色が重なり合うとき、この樹には類種が無くなる。

そしてこの樹は、この村の全てを象徴もしている、特異な存在だった。

神木として崇められる樹。祭の中心として動かないのに活動する樹。奇習の中心に、この樹はあった。

カムラーガルと、この樹は呼ばれていた。

 

1,祭の準備

 

電気もまだ通っていないこの山村では、陽が沈むと同時に一日が終わる。農作業を行っていた者達は皆家に帰り、後響くは、村の中央を流れるシュトナ川のせせらぎと、水車の歯車が軋む音だけ。油は貴重品だから、夜更かしをする人間も殆どいない。だが、この村においては、全員がすぐに眠るわけではない。

木戸が叩かれる。日中の激しい労働の疲れからうつらうつらとしていたホルンは、目を擦りながらランプに手を伸ばした。そういえば、今日は彼の当番だった。欠伸をしながら、もう眠りについている親たちと弟たちを起こさないように跨いで、木戸を開ける。案の定というか何というか、二つどなりに住むアリョーシカがふくれっ面でそこにいた。ランプが作り出す限定的な光源が、彼女の顔の一部だけを照らし、怒りの表情を倍加させている。かなり怖い。赤毛がまるで、神の憤怒を示す炎のようにそそり立っているかのようだ。まだまだ多分に丸みと幼さが残った顔で、アリョーシカは不機嫌そうに言う。

「なに、ホルン、あんたまさか寝てたわけ?」

「いや、ごめんよ。 ちょっと疲れてて」

「あんたさあ、前から言おうと思ってたんだけど、シュトナ様の事を尊敬してないんじゃないの? ちょっとたるみすぎよ。 そもそもあんたは……」

同い年のアリョーシカがくどくどという小言にいちいち謝りながら、黒い短い髪をなでつけなおして、ホルン少年は外に出た。並ぶとアリョーシカとほぼ背丈は同じというのが情けない。もっとも、少し前まではアリョーシカの方が上だったのだから、未来に希望は持てる。星明かりが辺り一帯をうっすら照らしているが、作業をするにはランプがないと無理だ。二人とも、「蕾つみ」の作業に参加するようになったのは今年からだ。だがシュトナ神を熱心に信仰するアリョーシカは、誰よりも一生懸命「蕾つみ」を行っており、どうも乗り気ではないホルンは何度も感心していた。

二人の家は、神の名が付く小川を挟んで、祠の反対側にある。油がもったいないから、向こうに着くまでランプは一つしか付けない。小川に掛かった端を渡るとき、橋桁がぎっしぎっしと鳴った。そろそろ取替時かも知れない。橋というのはかなり高度な技術の集積体で、村では直せる人間も少ない。村はずれに住んでいる飲んだくれのアレンシュとかがそうだ。あいつに頭を下げる大人をみるのかと思うと、ホルンは少し憂鬱になった。

橋の側には、二輪で木製の、箱形をした小さな荷車が置いてある。引きやすく掴みやすい、機能的な、それ以上にこれからの作業に必要な道具である。無言でホルンが引き始める。いつ頃からだろうか。力仕事はホルンがするようになってきたのは。数年前までは、知力ともにアリョーシカが勝っていたのだが。昔は語るも恐ろしいことを色々されたものだ。不思議と最近は何もされない。小言は前より酷くなったが。

人口が二百に達しないこういう小さな村では、住人のほぼ全てが幼なじみであり、嫌なことを些細な点まで殆ど知り合っている。それは当然良いことばかりではなく、聞かれたら首をくくりたくなるような、悲惨な話も多数含まれているものだ。都会などから入り込んでくる本などには幼なじみが如何にも良いように書かれているが、ホルンにはそれこそ冗談ではなかった。

時々車輪が石に乗り上げるが、何でもない。やがて荷車を引いたまま、二人は祠に着いた。三角形の屋根を持つ小さな祠の中では、鎮座した鏡が星明かりを照らしてうっすらと輝いていた。その後ろには、黒々としたカムラーガルの樹がそびえ立っている。今日の当番は、ホルンとアリョーシカと、後二人。一人は祠の側の大石に腰掛けて、もう待っていた。木こりのジュナーエフ老人だ。山羊のように髭が長くて、山のことなら何でも知っている。年なら結構いっているのに、ホルンの父さんよりもずっと逞しい。ただ、頭の方はもうガタが来始めている。今も挨拶したのに半ばきこえていないようで、笑顔でうんうんと頷くばかりだった。

残りの一人は、祭でもないのに時々酒を飲んでいる罰当たりで、しょっちゅう蕾摘みをさぼるろくでなしだった。年齢的にはホルンの父と同じで、アリョーシカの母とも同じである。村はずれに住んでいるアレンシュと友人で、普段はろくな仕事もしていないのに、技術を持っているからでかい顔をしている嫌な奴だ。ブレネルという。類は友を呼ぶというのはこれのことである。ちなみに、姿は見えない。

「ブレネルさん、来ていないね」

「ほっときましょう、あんな奴。 それよりも、早く蕾を摘まないと、シュトナ様が目を覚まされてしまうわ」

「おうおう、おうおう」

何度も頷きながら立ち上がったジュナーエフ老人が、梯子を持ってきて、カムラーガルの樹にかける。一方アリョーシカは下の方の太い枝にあるくぼみにランプを置くと、丹念に枝を調べ始めた。ホルンは荷車を木の幹に寄せると、アリョーシカの手伝いを始める。上は大人になってから年を重ねた人間の仕事。下は大人になったばかりの人間の仕事。

奇習、蕾摘みが、今日も始まった。

 

ホルンが暮らす帝国領南部山間地帯第二十四村落に残る風習を、蕾摘みという。村落で大人と認められた人間、すなわち十七歳以上になるか、生殖能力を得た人間が夜中に交代で行う、他の村落においては類がないものである。基本的に妊婦や重病人を除いて義務が免除されることはない。

他の村で一切行わない行動だと、ホルンは何処かで聞いたことがあるが、それでもあまり抵抗はない。なぜなら幼い頃から知識面で身近に接してきた作業で、側にある事が当たり前だからだ。実際に自分で行うようになるのにも、殆ど抵抗はなかった。枝をまさぐり、蕾を探す。蕾は葉の芽に似ているが、形が微妙に違うので、何度かやればすぐに判別できるようになる。分からないうちはランプを使うが、今ではホルンにも問題なく闇夜で探せる。蕾は三日ほどで花咲かせると伝えられており、三人はそれぞれくまなく枝をまさぐって、芽の状態の蕾を探し出していく。大体一晩で二百から三百が見付かる。季節による差はない。見付かった蕾は毟って、荷車に放り込んでいく。

作業は夜に限られ、それは雨が降ろうが嵐だろうが関係ない。兎に角、枝には絶対に蕾を残しては行けないのだ。枝の隅々まで触り、一本一本まで丁寧に確認して、蕾を取り去る。樹の上部を年かさの人間が担当するのは、慣れてきていて見落としをしづらいから。逆に樹の株は年若い人間が担当、二重に確認して見落としを無くす。これは、存外な重労働だ。

枝に跨って蕾を探し始めたアリョーシカの額に汗が浮かんでいる。彼女は足でしっかり枝を挟み込んだまま器用に移動して、蕾を摘んでいく。そこまで上手く出来ないから、ホルンはゆっくり丁寧に全部見ていく。ランプの油は容赦なく減っていく。日中の検査で蕾の取り残しが見付かると大目玉だし、ホルンもそれなりに必死だ。アリョーシカの信仰から来る必死さとは違うが、長老の巨大な拳骨を頭には喰らいたくないという考えは嘘ではない。

蕾を毟っては、手元の袋に入れる。ある程度まとまった所で、荷車に移す。蕾を落とすのは論外だ。風が強い日などは皆必死である。蕾を一つ見失うたびに、村に一つ災いが起こると言われているのだ。そう言う日などは荷車を使わず、袋のみを使って念入りに蕾を落としていく。

遠くで鴉の悲鳴が聞こえた。昼間は威勢がいい鴉も、夜は目が見えないためフクロウのいい餌食なのだ。誰も驚かない。「大人」になってから夜の蕾摘みは散々やってきたし、良くきこえるからだ。やがて、ジュナーエフ老人の声が上から降ってきた。

「おう、もうそちらは終わったか?」

「後一本です!」

「おうおう、素早いことだな。 此方ももう終わった。 今降りていくでな」

頭の方はかなり痛んでいるが、ジュナーエフ老人が蕾摘みでミスをしたことなど無い。するすると梯子を降りてくる動作も危なげがなく、ホルンは安心して見ていることが出来た。程なく作業が終わる。袋の中の蕾を丁寧に荷車へ落としていたホルンは、ランプを片手に辺りを入念に見回って、地面に落ちている蕾がないか確認しているアリョーシカに言う。

「こっちはもういいよ」

「そう。 もう少し待って」

アリョーシカは真面目だ。どうしても気力が続かないホルンから見れば羨ましいほどの生命力を有し、年かさの大人の誰よりも真剣に作業を行う。ランプに照らされる横顔は鬼気迫るほどだ。時々唾を飲み込まされる程に。

「終わったわ」

「おうおう、それでは天酵部屋に移そうか」

老人が荷車を押し始める。流石にこればかりは危ないので、左右にホルンとアリョーシカが立って、蛇行しないように注意して歩き始めた。別に儀式の一部ではないのに、アリョーシカが祠に一礼するのが、ランプを持つホルンには見えた。油は殆ど減っていない。大分手際が良くなった証拠だ。道すがら、アリョーシカはぐちぐちとぼやく。

「昨日の摘み残しが二つもあったわ」

「仕方がないよ、夜にやらなければ行けないんだし」

誰も見た者はいないが、カムラーガルは三日で蕾が花咲くと言われている。そして花が咲くときには、村は未曾有の災害に襲われるという。以前咲かせてしまったときには、地震とそれが発生させた山津波に村が飲み込まれ、半数の戸が消滅したそうである。それでもカムラーガルを切らないのには、当然切実な理由がある。神話的な要因だけではなく、村を支える重要な要因があるのだ。

「それに、結局あの怠け親父来なかったわ。 帰ったら村長に言いつけてやるんだから」

ホルンは苦笑いを浮かべながら、確かにそろそろ仕方がないなとも思った。村に必要な人間だという事を笠に着てのブレネルとアレンシュの行動は、最近特に目に余るものがある。美学を持った格好良い悪い奴らというのならあこがれを抱く若者もいるだろう。だが此奴らはただ怠け者で、罰当たりで、たまたま運良く身につけたスキルにすがって余生を食いつぶしている穀潰しだ。都会者じゃあるまいし、その行為は皆の軽蔑の的となっていた。山深い村であればあるほど信仰は人々にとって大事なものとなる。神を侮辱する行為を、良しと思う村人などは、少なくともこの村にはいない。

天酵部屋は、村のはずれにある。外れと言うよりも、もう森の中と言うべきだろうか。周囲を鬱蒼とした森に囲まれた、山間のこの村の僅かに外、森の一角にそれはあるのだ。正確には山肌を削って、半ば埋もれるようにして作られている建物である。春夏秋冬通して湿気が少なく涼しいために、此処に作られたと言われている。建物は箱状で、僅かに傾斜した三角形の屋根と、其処から天へ向けてつきだしている数本の棒以外、特徴のある外部構造はしていない。目線ほどの高さにある一角には取っ手のついた丸い蓋があって、鍵を使って開けるのだが、これはまだ年若いホルンやアリョーシカにはやらせて貰えない。下の方にある、もっと大きな祭り用の蓋に関してはもうもってのほかだ。先が複雑に出っ張ったり引っ込んだりしている鍵を取り出すと、老人は若者達に見えないように蓋をがちゃがちゃ動かして、やがてかちりと心地よい音が響いた。

蓋が開くと、植物質の甘い濃厚な匂いが外に漏れ出た。蜂蜜を作るとき、巣ごとねじるように潰す際に漏れる強烈な匂いをホルンは嗅いだことがあるが、それよりもずっと甘くくどい。初めてこの匂いを嗅いだときは、噎せ却ってしまったほどだ。台を持ってきて荷車を乗せ、中に蕾を流し入れる。蓋は開けると受け皿のような形になるが、それでも流し込む際に零れないように細心の注意が必要だ。全部綺麗に流し込んだ後は、ジュナーエフ老人が天酵部屋の屋根に登り、セットされている棒をぐるぐると回し始める。かなり力がいる作業らしく、まだホルンもアリョーシカもこれはやらせて貰えない。棒の途中には皿のような金具がついていて、水や虫が中に入らないように工夫が凝らされている。それにしても、かき回すと一層匂いが強くなる。咳き込むホルンの背中を、無言で何度かアリョーシカが叩いた。

「おうおう、終わったぞ」

「ジュナーエフさん、お疲れさまです」

「おうおう、今降りるでな。 二人こそ、お疲れさま」

少し危なっかしい様子で老人が降りてきた。これでようやく今晩の作業は終わりだ。大人になってからもう日中の作業がかなり忙しくなってきているのだし、早く帰って眠りたいというのが本音だ。アリョーシカはぴんぴんしているが。

「蕾はどうでしたか?」

「おうおう、今年は仕上がりがよいのう。 この分なら、近いうちに祭を執り行えるじゃろうての」

「やった!」

「今年からはお前達も酒を飲めるぞ。 楽しみに待っているがよい」

もうすぐ祭。その言葉を聞くと、大人が楽しそうに飲んでいた酒と、猛烈な匂いの中踊り狂うみなの事が思い出される。それに、祭と言えば、婚姻の義のこともある。アリョーシカはしっかりものだから、大人になってすぐに結婚するのではないかと言われていたが、ホルンもそんな気がする。相手は誰になるのか。アリョーシカのことだから、しっかりもののベイツや、力持ちのブルネインを指名するのだろうとホルンは思った。この村では、婚姻の際に女性に選択権がある。離婚も同様であり、そのため男性は女性の関心を買おうと必死になる傾向がある。年頃の「大人」になればなるほどその傾向は顕著だ。

後は解散になり、欠伸をしながらホルンは荷車を押して家に帰る。アリョーシカは何か言いたそうに見ていたが、やがてついっと顔を背けて、自宅へ走っていってしまった。

 

2,祭の前に

 

村の朝は日の出とともに始まる。正確には、村の東の隅に設置されている鶏小屋が、朝の到来を示すわけだ。日光を感じた鶏が鳴いてしばらくすると、もう起きだしてきた村長が、村の真ん中の鐘楼に登って鐘を叩き始める。四回も鐘が鳴る頃には、どんなねぼすけでも、起きだしているのが普通だ。

帝国の西部辺境ではまだ戦いが行われているという話もあるが、ホルンに実感はない。何しろ南部のこの辺りは平和そのものであり、兵士が徴募されることもほとんど無いからだ。

だが、村の外から人が来ないわけではない。都会からたまに行商人もやってくるし、何より年何回か役人も来る。殆どは税を徴収するためだが、ここ数年そうではない目的で来る者がいるのだ。

朝日の中、目を擦りながらホルンが外に出ると、もう大人達は働きに出ていた。規則正しく広がる畑には、青々と小麦が生い茂り、他にもさまざまな作物が風に葉を揺らしている。その畑の畦の間を、護衛のむっすりした兵士二人を連れて、馬に乗った役人が村長の家へ向かっていた。役人らしく、村の女性の誰よりも背が高く、顔つきも丸くなくて大人っぽい。髪の毛も複雑に編み上げていて、まるでレースの織物のようだと、遠目に見ながらホルンは思った。殆ど別種の人間なので、機械的な美しさは感じても、人間的な魅力はほぼ感じない。

後頭部に軽い拳の感触を受けて振り返ると、相変わらず不機嫌そうなアリョーシカが立っていた。そのまま促されて、畑へ歩き始める。

ホルンとアリョーシカはまだ自分の小麦畑を持たせて貰っていない。大人になったばかりの人間は、村の南外れにある青いも畑の世話から始める。収穫量は多いが世話がとにかく簡単なので、入門的に此処から作業をするのだ。もう少し年を経ると、農作業組と狩猟組に別れる。狩猟組は山に詳しく屈強な者が選ばれ、女子が選抜されることはほとんど無い。もっと年を取ってきて老人になると、今度は主婦達と一緒に脱穀作業や製粉作業を行うことになる。

「あの学者センセイ、今年も来たのね。 良い迷惑だわ」

アリョーシカは言う。彼女は村の外の人間を嫌悪している節があり、それは役人でも例外ではない。特に今来ているあの「学者」に対しては、むき出しの嫌悪を隠そうともしていない。ホルンも好きではないが、このアリョーシカのむき出しの敵意には、苦笑せざるをえない。

「ミンゾクガクだっけ? この間説明聞いたけど、良く分からなかったよ」

「シュトナ様の祭を珍しいから調べさせろだなんて。 役人じゃなかったら、簀巻きにして放り出してる所だわ。 いくら帝国のお偉いさんだからって、やって良いことと悪いことがあるって知らないのかしら。 あの役立たず達を連れて、村から出ていって欲しいわ」

そういってアレンシュとブレネルの家を見るアリョーシカ。実にわかりやすい行動だ。ただ、幾ら役立たずと言っても、アレンシュもブレネルも村に必要な人間だと言うことも、ホルンも分かっている。きっと彼女をなだめ続けなければならないアリョーシカの旦那は大変なのだろうなと、ホルンは思った。

村はそれほど広くないし、歩いていけばすぐに芋畑だ。同年代の少年少女に軽く挨拶しながら、受け持ちの畑へ移動する。ホルンとアリョーシカの担当する畑は隣通しだが、畑の面積自体がそれなりにあるので、話しながら作業とはいかない。アリョーシカは屈んで葉を一枚一枚調べ、肥料の状態をいちいち確認して、物凄く丁寧な仕事をしている。あの様子では虫一匹つきそうにない。元々芋類は虫害にも病害にも強いが、それでもアリョーシカの作る芋は評判になりそうであった。ただ、貧しい生活の中激しい労働をすると、老けるのも早い。そうなったら、折角綺麗なのに可哀想だとホルンは思った。

自分の作業をこなしながら、ホルンは今後のことを思う。大人として認められたからには、今年の祭にも婚姻する可能性がある。滅多にないことなのだが、村の外から嫁や婿を迎えることもある。村の者達も知っているのだ。濃すぎる血が、弊害しか産まないことを。

アリョーシカほどではないが、ホルンも出来るだけ細かい作業を心がけている。苗の一本一本を丁寧に確認し、傷んだ葉や芽は先に取り除いておく。やがて、畑の三割ほどが終わったとき、ホルンは影を感じた。

「君、ちょっといいかな」

「え? あ……」

顔を上げたホルンは、間抜けな声を上げていた。さっきアリョーシカがこき下ろしていた学者センセイが、腰をかがめて笑顔で自分を見下ろしていたからである。近くで見ると、その美しさはちょっと別格であった。丸みが取れた顔には子供っぽさはほとんど無いし、笑顔には婉然とした色気がある。肌のきめの細かさと言い、服の上からもくっきり見えるボディラインと言い、同じ人間とは思えない。

「少し聞きたい話があるんだけど、いい?」

「え、あの、そ、その」

「ちょ、ちょっと待ってください!」

真っ赤になってしどろもどろになるホルンの耳に、けたたましいアリョーシカの抗議が飛び込んできた。仕事を放り出して、鬼気迫る表情で学者先生にアリョーシカが詰め寄ろうとするが、無言で護衛の兵士達が学者センセイとの間に立ち塞がった。

「村のことは、村長さんに聞いてください! わたし達は何も知りません!」

「あら、あなたはこの人の奥さんか恋人かしら?」

「違いますっ! と、に、か、く! 農作業をしていて危ないですから!」

「そうむきにならないの。 別に取って食いやしないわよ」

くすくす笑う学者先生。どうみてもアリョーシカの完敗だ。真っ赤になって膨れるアリョーシカは放って置いて、学者先生はホルンに向き直る。

「こっちで働いていると言うことは、貴方はもう「大人」?」

「はい。 今年から、ですけど」

「それなら、蕾摘みはもう行っているの?」

「ホルン!」

アリョーシカを見ると、夜叉のような形相でプレッシャーをかけてきていた。此処で下手なことを言うと、後で何をされるか分からない。

「あら、村長さんにはいちおう許可をいただいてあるわ。 本当なら実際に蕾摘みを見てみたい所だけど、其処までは要求しないわ。 どんなことをするのか、少し聞かせて貰いたいだけよ」

「畑の作業って、簡単には終わらないんです! 無駄話をしている暇はありません!」

「それなら、昼食休みの時に聞かせて貰おうかしら」

案外物わかり良く引き下がってくれたが、逆に言うと、昼食時には必ず押し掛けてくるだろう。去っていく学者先生と護衛達の背中が、悪魔のそれに思えた。拳を振るわせてそれを見送っていたアリョーシカの形相は、それ以上に怖かったが。

「ホルン!」

「な、何?」

「あんたもはっきり断りなさいよ! なによ、都会の女にでれでれしちゃってさ!」

「え? あ、あの……」

地面を踏みならして去っていくアリョーシカの背中を見送るホルンは、言われたことの意味が分からず困惑するばかりであった。

 

予想通りというか何というか、学者先生はぬかりなく昼食時には現れた。だが、ホルンは話を結局せずともすんだ。理由は簡単で、アリョーシカが自分が話すと言い始めたからである。

畑仕事の手伝いをしていた幼い頃から、二人は小川の縁にある日当たりの良い河原で昼食を摂っている。日当たりが適当な上に涼しいので、ホルンにとってお気に入りの場所なのだ。座るのに適した石もある。

思春期の一時期は村が男女を遠ざける雰囲気を作るが、今はむしろ積極的に仲良くするように言っているので、白い目で見られるようなことはない。しかし、アリョーシカは前よりずっと怖くなったような気が、ホルンにはしていた。

弁当などと言っても、そう大した物は作れない。溜め置いた小麦粉をパンに焼いて、それに薫製の魚肉を多少挟んだだけだ。牛肉も豚肉も、間食程度の役割しかない昼食では、取ることを許されていない。何処の家でも母親がこれを作るのだが、アリョーシカはもう母と一緒に食事を作っているそうだ。気が強い彼女のことだ、一刻も早く大人になりたかったし、一刻も早く一人前になりたいのだろう。そんな風にホルンは考えていた。

学者先生はアリョーシカにいちいち的確な質問をする。蕾摘みはどうして行うのか。アリョーシカがカムラーガルを咲かせないためですと応えると、何故そうなのかと質問が帰ってくる。当然、災いを避けるためだという返答をアリョーシカが行うと、ならばどうして木を切ってしまわないのかとまた聞かれる。そしてそれらを捌いていくアリョーシカの言葉にいちいち感心しながら、丁寧にメモを取っていた。

「なるほど。 話を纏めると、カムラーガルはシュトナ神の恵を現す樹であると同時に、災いを呼ぶ根元でもあると。 カムラーガルの蕾は大地を潤す蜜となると同時に、花開いてしまうと悪魔をも呼び寄せてしまうと。 なるほどねえ」

「もういいですか?」

「ううん、まだまだ。 カムラーガルの由来になるような、神話は残っていないの?」

「それはお婆ちゃん達に聞いた方がいいと思います。 わたしは聞かされていません」

これに関しては全くの事実だ。いちおうホルンも何度か話は聞いたことがあるが、細部までの記憶は残していない。埃を払って立ち上がりながら

「そう。 ありがとう。 色々参考になったわ」

「此方からも聞いて良いですか?」

「ええ、もちろん」

「シュトナ様の事を調べて、何か帝国に特になることがあるんですか?」

アリョーシカの言葉は鋭い。ホルンも脇で話を聞いていて、いつも驚かされる。嘘はまず通用しないし、どんな形にしても大体筋は通っている。

「それは勿論あるわよ。 文化文明というのはね、川の流れと同じように、基本的に殆どの地域で連結し、影響を与えあっているの。 それを学習して理解することによって、さまざまなことが分かってくるし、得られる物もおおいのよ」

「ふーん……」

分かるような、分からないような話であった。というよりも、そもそもホルンにとってこの村が世界の全てであり、外の世界がどうのこうのと言われてもぴんと来ない。帝国に対しては税やさまざまな義務のこともあるから存在の感覚があるが、大小関係なく、他の集落に関してはたまに交易する場所くらいの認識しかないのだ。

昼食の時間が終わると、意外にも学者先生はしつこく食い下がることもなく、自分から帰っていった。お婆ちゃん達に話を聞きに行ったのか、それとも約束を守ってくれたのか。それにしても美味しそうなお弁当を食べていた。美味しいものを食べているから、あんな人種が違うような育ち方をするのかなと、ホルンは少し思った。

 

夕刻にはまた鐘が鳴り、それをもって農作業は終わりになる。慣れてくれば泥だらけになるようなこともないが、まだ作業が下手なホルンは体中土まみれだ。入浴の習慣などと言うものを都会者は持っていると言うが、この辺では川に入って汚れを落とす。当然、その時に洗濯も済ませてしまう。男子は川の上流で洗い、女子は川の下流で洗うのだが、村によってはそんな贅沢も出来ないとホルンは何時だか聞いたことがあった。

さっぱりして川から上がると、既に空は暗くなり、各家からは炊煙が上がっている。多くはパンであり、それに殆どの場合芋のスープが付く。山に出ている者達が獲物を射止めてきた場合は、これに鹿肉や猪肉、場合によっては熊肉が加わる。村長の一際大きな家には、学者先生が乗ってきた馬がつながれていて、外では兵士が見張りに立っていた。忠実というか機械的というか、彼らは学者先生が終始喋りっぱなしなのに、一言も喋ることはなかった。

「ホルーン!」

ご機嫌の様子で、アリョーシカがかけてきた。彼女も川に入っていたらしく、赤毛が水に濡れて乾ききっていなかった。あれだけ喜んでいると言うことは、考えられる可能性は一つしかない。

「一週間後、祭を行うって!」

「良かったね」

「何他人事みたいに言ってるのよ。 この村の人全員のお祝いでしょう!」

楽しそうに言うアリョーシカ。確かにホルンも嬉しいことは嬉しいが、彼女ほど素直には喜べない。家に向けて歩きながら、さまざまな話題が出る。今年の(蕾焼き)は上手くいくのか、豊作は来るのか酒ってどんな味なのか。

それだというのに、今年の婚儀についての話に対しては、アリョーシカは言葉を濁した。別にホルンに聞かれて困るような話でもあるまいし。

こういった小村では情報伝播が早く、誰と誰が仲良くしているとか、誰と誰が次の婚儀で婚姻するとかは、一日二日の間に広がってしまう。それにしてはアリョーシカの相手が誰になるのか、ホルンはまだ知らない。自分ではないだろうと思っていることに加え、単純に興味がないこともあり、失念していたのだ。

「一週間後に祭となると、明日からはまた忙しくなるね」

「そうね。 きっと寝不足が続くわ」

どうしてか少し安心した様子で、アリョーシカは言った。明後日からは、蕾干しが始まる。そうなると、いつも以上に忙しくなる。だが、今年は参加できると言うこともあり、いつもよりも更に楽しみだった。

 

3,前夜祭

 

厳しい農作業の中では、どうしても時間が過ぎていくのが早い。疲労が溜まると、夜に目を閉じるとすぐに眠ってしまうし、朝になるのも早い。毎日けろりとしているアリョーシカが羨ましい。ホルンには根本的に生命力が違うとしか思えない。

更に、こんな小さな村では、どうしてもローテーションが廻ってくるのも早くなる。蕾干しが始まった以上、廻ってくる確率は更に上がるわけであり、必然的に夜出かけなければならぬ可能性は上がる。案の定、祭の二日前に、ホルンはアリョーシカにたたき起こされることになった。不機嫌そうなアリョーシカは、疲れてうとうとしていたホルンを、容赦なく起こした後、言った。

「またあんたは……」

「ごめん。 疲れてて、ね」

「それは私も同じよ。 男なんだから、しっかりしなさい」

どうしてかその言葉に、いつも以上の気迫がこもっているような感触をホルンは覚えていた。すぐに頭をなでつけて、外に出る。そして一緒に歩き始める。

今日は二人の担当部署が違う。ホルンは蕾干しなのに対して、アリョーシカは蕾摘み。蕾干しを行うのは、カムラーガルの樹と小川を挟んで逆の位置になるのだ。荷車を押していくアリョーシカに手を振って別れると、村の側にある谷底へと向かう。途中からランプを付けるのは、こっちは普段行かない分慣れていないからだ。小石が多く、足下が危なくて仕方がない、というのもある。

坂を下っていく。途中枝が張りだしている樹が何本もあって、鉈を持ってくれば良かったとホルンは思った。空に瞬く星といい、かなり美しい景色なのに、目を突きかねない鋭い枝のお陰で台無しだ。谷へと下ると、もう大人の何人かが来ているらしく、がやがやと声がした。松明が何カ所かにたかれていて、火の粉が派手に飛んでいる。ランプを消して歩み寄りながら、ホルンは頭を下げる。

「すみません、今着きました」

「おう、気にするな。 みんな今来たばかりだよ。 うははははは」

そういって逞しい手でホルンの頭を豪快に撫でたのはブルネイン。気のいい筋肉質の大男で、角張った顎が特徴的だ。彼は村長の息子であり、村長に次ぐ剛力の持ち主。若い頃に猪を素手で倒したという村長ほどではないが、村娘達には人気がある。まだ婚姻はしていないが、今回の祭りで相手が決まるのはほぼ確実だ。

ホルンも知っている事だが、都会では容姿が婚姻相手に求められる傾向がある。それに対して、女性に相手を選ぶ権利があるこの村では、働き者や力持ちが好かれることが多い。そうした方が結婚した後楽だし、何より子供が立派になる可能性が高い。そうすれば生活が楽になる可能性が高い。だからこそに、女達は強いか働き者の夫を求める。多分、毎日苦しい労働に晒されないと、この感覚は分からないだろう。暮らしが厳しくなれば成る程、愛というものは結婚に関する重要な要素ではなくなっていくのだ。更に、村に容姿で相手を選んだ女性の失敗談が無数に残されているのも、その要因の一つであろう。

天酵部屋から取りだした蕾は、大きな袋に詰め込まれている。側には薄い鉄板を銅と錫で補強した「大板」が地面に水平に置かれており、その下には既に炭が敷き詰められている。鉄は貴重品だから、殆どが卑金属だが、それでも村で一番価値があるのはこの物品であろう。

この谷で作業が行われる理由は決まっている。風が吹き込んでこない場所だから、打ってつけなのだ。必然的にリーダーシップを取るブルネインは、手を叩くと声を張り上げた。

「よおし、みんな、ぶちまけるぞおっ!」

「おおっ!」

三人がかりで、声を張り上げると、最初の袋を担ぎ上げる。他の者達は、それが零れないように、周囲で支えたりランプで足下を照らすのだ。蕾干しの初日は、この袋を天酵部屋から此処まで運ぶ仕事になる。そして今日は、蕾干しの作業初日だ。

夏なのに程々に涼しく、風も吹かないこの谷だからこそ、作業は行える。袋を大板に向けて開けると、猛烈な熟成された臭気が漏れ出た。嗅ぐだけで酔いそうだ。良くしたもので、この蕾には滅多なことでは虫が湧くこともない。同じ特性を持つ植物は噂に聞く茶くらいだ。

「よおおおお、せええええええええいっ!」

「ヒャーッポ!」

「ヒャッポ!」

一斉にかけ声が上がり、一気に板の上に熟成された蕾がばらまかれた。すぐにかき混ぜ棒を若者達が取り、ブルネインが火打ち石を擦る。いつの間にか、馬に乗った学者先生が、護衛の兵士と村長と一緒に場を見ていた。村長はかなり迷惑そうだったが、多分手出しはしないと言うことで観覧を許したのだろう。

「そおれ、混ぜろ!」

「ヒャッポ!」

「ヒャアアッポ!」

威勢良く声が挙がる。ヒャッポというかけ声の意味は、ホルンも良く知らない。間を伸ばすこともあるが、基本的に語尾を鋭く締めるやり方が標準だ。この村では気合いを入れるときや、祝うときにこれを用いる。ずっと昔から使われており、声を出すのに丁度いいので、浸透しているのだ。

大板から適度に離された火が、もうもうと煙を上げる。それほど力が強くないホルンは、気をつけてそれを吸わないように、端で丁寧に蕾を混ぜた。力がないから、丁寧な仕事を念入りに行って皆に追いつくようにするのだ。時々天板に触れて、熱くなりすぎないように気をつけながら、ブルネインは声を張り上げた。それに併せて、皆棒を上手く扱い、蕾の山を混ぜ合わせる。蕾が焼き付いてしまったら台無しだ。だから、念入りに作業は行わなければならない。

混ぜる、混ぜる、混ぜる。立ち上る強烈な臭気。老若の男達が筋肉を躍動させ、力強く混ぜる混ぜる。煙を吸って少しずつ頭がぼんやりしてくるが、まだまだ作業は続く。

「ヒャッポ!」

「ヒャッポ!」

汗と一緒になって、気合いの声が飛ぶ。みんなこの臭気には、手元が狂わされそうになっているのだろう。ホルンもそれに併せて、気合いの声を迸らせる。明々と燃える炭が、男達の声を受けて、爆ぜ飛んでいた。それが男達の興奮を更に煽る。混ぜ上げた蕾から漏れる芳香も、それをかき消すことは不可能だった

「よーし! そろそろ良いだろう! 後は余熱で行くぞ」

ブルネインが手を叩き、応と皆が応えた。炭が素早くどかされ、年若い大人がかき混ぜの作業を続ける。この残り作業を行うのは、ホルンとあともう一人、今年大人になったばかりの少年ベイツだ。都会から入ってきた珍しい物品である眼鏡をかけた彼は、ホルン以上に非力だが、兎に角しっかりしている事で、村で評判を得ている。特に年下者に対する人望は村一とも言われ、どんなやんちゃな子供も彼の言うことだけは絶対に聞く。子供達の信頼を得ているのは、その能力と責任感だ。事実作業には抜かりが無く、手元を見ながらホルンも常に感心していた。

炭をどかしていたブルネインは、天板を何度か叩くように触ると、舌打ちした。充分な出来なのではないかとホルンは思ったが、ブルネインには何か気に入らない所があるらしい。

「炭の質が後一歩だな。 明日はもっと良いのを頼むぜ、アシリーエフ爺さん」

「おう、そうだな。 とっておきのを用意してくるわい」

ブルネインにそう答えたのは、炭焼きのアシリーエフ老人だ。ジュナーエフ老人のように逞しくは無いが、いつも村のために素晴らしい炭焼きの腕を振るってくれる。今回の炭も、問題のない出来で、ブルネインの言葉は贅沢な注文だとホルンには思える。多分他の人達も同じであろう。村中から信頼されている人物だが、しかし彼の息子があの悪名高いブレネルであり、その辺では肩身の狭い思いをしているとホルンは噂を聞いていた。

しばらくかき混ぜていたホルンは、眼鏡の曇りを拭きながら蕾の様子を確認しているベイツに言う。

「ベイツ、今年婚約するかも知れないじゃないか。 良かったね」

「うん? 僕よりホルンの方が確率が高いのじゃないのかな」

「俺が? それはないよ」

「……まあ、そう言うことにしておこう。 ホルンは真面目だね。 あまり考えてないようだけど、作業が凄く丁寧だ」

「ありがとう」

煙を吸い込んでしまい、ホルンは慌てて大板からを顔を背けて咳き込んだ。蕾に咳が掛かったら、アリョーシカに何をされるか分からない。

「明日の作業は、もっと下の蕾だね。 大変そうだ」

「それよりも、「蕾焼き」だよ。 今年は誰の畑でやるのか、明日にははっきりするのだろうけどね」

現在候補は二つある。だがどっちもホルンの家とは関係がない。ホルンの家は七年前に行ったばかりだからこれは仕方がない。

蕾焼きの作業は、蕾干しが終わると同時に準備が始まる。休作状態の畑に大きな穴を開けて、焼く石の餞別に入り、「シュトナ様の薬湯」の生成に取りかからねばならない。これだけは大事な祭と言うこともあり、各家から日中に一人ずつ人員が割り振られ、此方の作業が優先される。後は祭り当日だ。大人達は酒が飲めると言うことで沸き立っているし、未婚の男達は婚姻のチャンスだと言うことで同じく沸き立っている。ホルンには良く分からない感覚だ。子供を育てる母と、そのために必死に働く父を見ていると、結婚がいいとは思えないのである。

ふと視線を感じて振り向くと、学者先生が笑顔で軽く手を振っていた。全く邪魔にならなかったのには感謝だ。そばで難しい顔をしている村長にも合わせて手を振ると、ホルンはかき混ぜの作業に戻った。大分熱くなってきた大板は、しゅうしゅうと音を立てている。金属部分ではなく、縁の樹の部分が熱で痛んでいるのだ。まあ、かなり頑丈なつくりになっているし、後三四年はもつだろう。

大分臭気は薄れてきた。祭まで、後少しだと、鼻の周囲をしつこく漂う臭気を手で払いながら、ホルンは思った。

 

4,蕾の祭

 

祭の日は、シュトナ神が天候を操作したかのように快晴であった。

待ちに待った日である。鶏が鳴くと、鐘が鳴る前に、各家から皆が起きだしてくる。誰もが眠れなかったか、眠りが浅かったのだろう。特に男の村人は、皆楽しみにしていたようである。奥様方もそれに対応し、朝食はさっさとつくり、速攻で平らげたらしい。

ホルンが見た所、寝不足だろうに、みなわくわくしている様子であった。アリョーシカも起きだしてきていたので、ホルンは笑顔で挨拶した。今日は起こされずに済んだ。

「おはよう」

「……うん。 おはよう」

少し複雑な面もちでアリョーシカはホルンを見ていたが、ついと顔を逸らし、祭の準備に行ってしまった。

今回の蕾焼きは、ベイツの家の畑で行われることに決まった。数年前から畑の収穫が落ち続けていていたのもあるし、ベイツが将来有望だと言うこともある。今日は農作業が休みとなる。村の一角には、昨日一日がかりで掘った大穴が空いていて、その側にはうずたかく土が盛り上げられていた。誰に命じられるでもなく、誰もが動く。

袋詰めした蕾を、何人か係で抱えてくる。袋に詰め込まれたそれは、乾燥しているが重く、四人がかりの作業となる。シュトナ様の薬湯は、盛り土側の大釜に用意されていて、先ほどから産まれたばかりの娘を背負ったホルンの母が何人かの大人と共同して火をくべ始めていた。煮立つほどではなく、暖めるだけだが、火加減はかなり難しいと聞く。それにしても、酷い匂いである。蕾とは別の意味で強烈すぎる。薬湯と言うがどろっとしたそれは、人間が飲めるようなものではない。ホルンら男には製法も知らされていない。知らない方がいいと母に言われたこともある。大釜には特徴的な取っ手が二つ着いていて、村人達が大きな鍵状のてこを持ってきて、それに連結した。これでいつでも、穴へと注ぐことが出来る。

穴の周囲は踏み固められていて、「神歩」はすぐにでも出来る。後は村長が号令をかけるだけで、いつでも祭が執り行われる事になる。興奮して、今からきゃあきゃあ騒いでいる年若い大人も少なくない。村の熱気が感染してきたのか、徐々にホルン自身もうきうきと心が弾んできた。

朝からこんな調子である。大人ですら心が浮ついているのだから、子供達もそうなのかというと、案外子供達は落ち着いている。と言うよりも、普段とは違う大人の様子に不審がって警戒している。子供とひとくくりに言っても、大人に近い年齢のは何が行われるか分かっているからうきうきしているようだ。因みに村民達は誰が大人で誰が子供かきちんと把握しているから、子供に酒を飲ませるような事故は起こりにくい。もっとも、祭の楽しみは酒だけではない。婚姻発表などもあるし、この村における最大の娯楽イベントであり、年の疲れを洗い流す行事であるのだ。

テンションは時間が経つにつれて上がっていく。仕事が今日は割り当てられていない大人の夫婦の中には、日が高いうちから家に籠もったり、涼しい林に連れだって消えていく者もいる。ある程度羽目を外しても良いことが公認されているし、こういう小さな村では性は都会に比べてぐっと身近だ。生活と密着しているから、子供が性知識を身につけるのも早い。そんな環境なのに、かなり初に育ったホルンは珍しい人種になる。そういえばアリョーシカもかなり初な方だとか、他の女の子に聞いたことがある。村によっては、祭の儀式の一つとして、村の大人達が総出で交わるようなものもあると旅人から聞いたことがあるが、そんな環境ではホルンは祭の到来が嫌でしょうがなかったかも知れない。

穴の周囲を中心として進んでいく祭。護衛を連れたまま、賑やかな準備を馬上で眺めているのは、学者先生だ。手を貸そうとか言い出したら村人皆が追い出しに掛かっただろうが、ただ傍観しているだけなので、かろうじて存在を許されている状況だ。ミンゾクガクというのは分からない。都会者は分からない。役人は分からない。あまり気分が良くないだろうに、排斥の雰囲気の中で村に残って研究するのは、とても勇気がいることだとホルンには分かっていた。ホルン自身、学者先生に好意は抱いていないが、勇気があることは認めている。

昼飯を食べ終えると、鐘が三つ鳴る。いよいよ、祭の最後の準備だ。石を焼き始める女性陣を横目に、村長の家の倉に、ホルンは急いだ。今日はアリョーシカと一緒ではない。どういう訳か、何の機嫌を損ねたのか、今日の彼女はホルンと連もうとしない。

村長の家の倉は、人間よりも少し背が高いくらいの大きさで、予備の狩猟道具や、祭の道具のうちもっとも大事な神鼓が治められている。他の道具は村で共同に使われる倉庫に収められている。此処は特別に大事な物が入っているのだ。噂によると、昔の戦乱の時代は、武器で一杯だったそうである。

倉は風通しが良い涼しい場所に造られているが、開けること自体が少ないので、かんぬきを外して戸を開けると盛大に埃が舞い散る。だから、戸を開けると同時に皆がぱっと逃げ散る。逃げる者達の中で悠然と進み出た村長は、その逞しい腕で、巨大な神鼓を取りだした。丸みを帯びたそれは、筒の両端に皮を張り付けた物で、祭の時だけに使用されるのだ。固定用の台もある。×字形をしていて、必要以上に頑丈で、力がかなり必要だが折り畳むことも可能だ。

すぐに雑巾を絞った村人達が群がり、神の楽器の埃を拭っていく。ホルンがバチを持ってきて村長に渡すと、息子より更に一回り大きい彼は、徐に皮へとうち下ろした。

腹の底から響くような、重厚なビート音が辺りを圧した。応と、何人かの村人が思わず声を上げた。ホルン自身も、腹の底からこみ上げてくるような高揚を覚えたほどだ。

「良し、今年も張り替えは必要ないだろう。 拭いたらすぐに持っていけ」

「ヒャッポ!」

気合いのこもった、威勢のいい返答が飛ぶ。祭に関するかけ声は、常にヒャッポ。これが祭の準備だという意識を起こさせ、皆を更に高揚させていくのだ。ホルンは雑巾を絞ると、隅々まで神鼓を拭いていった。舐めるように執拗に拭いていき、やがて汗を感じたホルンは雑巾を溜めてある井戸水の桶で搾った。水は見る間に真っ黒になった。他の男達は感心してホルンの細かい仕事を見ている。ホルンが一仕事終えると、力自慢の何人かが、率先して神鼓を抱えて持っていった。

陽はもう頂点から外れ、落ち始めている。全ての準備が終わり、村人達は皆ベイツの家へと向かって歩いていく。年一回の、村をリフレッシュさせる儀式が、いよいよ始まろうとしていた。

 

浮ついた村人達の視線が、絡み合いながら、村長へと注がれている。筋骨逞しい彼は木台の上に乗り、腕組みしたまま、目を閉じて立ちつくしていた。焦らせる。彼の前には神鼓があり、ばちが並べて置いてある。これがうち鳴らされるときが、祭開始の合図なのだ。

村人達は浅く広く掘り上げられた穴の周囲に並んでおり、その視線は火を噴くように熱かった。全員が手に手に農具を持っている。ある者はクワを、ある者は鎌を、ある者は鍬を。まるで出征前の兵士達のような鋭い表情で、槍のように農具を持ち、大将である村長の下知を待っている。老若男女関係ない。ホルンもアリョーシカも、ベイツもブルネインも、怠け者のアレンシュとブレネルも、何度も何度も参加しているだろうジュナーエフとアシリーエフも、緊張の面もちであった。

やがて村長の日焼けした逞しい腕がバチを持ち、たかだかと上がる。そして、わざと一旦止める。村長は匠だ。適当にじらすことで、皆の士気が高まることを、経験的に知っているのだ。

やがて、充填しきった力が爆発する。村長が、その腕にある筋肉を全てうねらせ、バチを渾身の力で振り下ろしたからである。

響き渡る重低音。それはあまりに力強く、あまりに美しい。誰も声は上げない。村長はそのまま大きく口を開け、皆の音頭を取った。

「ヒャアアアアアアアッ、ポ!」

「ヒャッポ!」

二打、村長がうち鳴らす。村人達が得物を振り上げ、ヒャッポと応える。再び二打。再び叫ぶ。二打、叫ぶ、二打、叫ぶ、二打、叫ぶ。元々爆発寸前だったうねりが、単純なリズムの反復によって、徐々に正気から狂気へと移っていく。

一際強く村長が打ち付け、それから激しいビートに移った。神歩が始まった。同時に何人かが素早く穴の周囲の輪から抜け、蕾を詰め込んだ袋へと、シュトナ様の薬湯釜へと、そして焼いた石を集めた焚き火の側へと走る。そして輪は、歩調を合わせて、右回りにゆっくり回り始めた。

「ヒャッポ!」

三打。徐々に情熱的に。

「ヒャッポ!」

三打。更に情熱的に。

「ヒャッポ!」

三打。むき出しの情熱を叩き付けるようにして。

反復されるリズムと、誰もが歩調を合わせて、右回りに穴の周囲を回っていく。袋と釜と石は円の周辺状に配置されている。配置された側には、粗末な使い古しの椀と、火箸が大量に置かれていて、側に歩み寄るとそれを取り、蕾を、薬湯を、そして石を取る。火傷しないように取り扱いには要注意が必要だが、受け渡す方は慣れたもので、そんなヘマはしない。した所で、このうねりの中では、火傷した方がそもそも気にしない。ヒャッポの叫びで受け取り、次のヒャッポで穴の中へと投じる。出来るだけ穴の内側に投じることが出来ると、翌年にいいことがあると言われている。そして空になった椀や火箸を返し、再び得物を振り上げ叫び行く。村長の額に汗が浮かび、徐々に村人達の体にも汗が浮き始める。

「おおおおおおおおおおおおう! おおおおおおおおおうっ!」

村長が腹の底から轟くような咆吼を上げた。その間も、激しいビートは続く。石が終わった事の現れだ。後は蒸し焼きに近い形になっていく。激しい臭気が辺りに満ちていく。薬湯の側は臭いのだが、もうこの頃には蕾の臭気の方が強くなっていて、誰もが正気を保っていない。奥歯までむき出しに叫びながら、一年間溜めた蕾と、残り少ない薬湯を、広く浅い穴、徐々に「広いくぼみ」に化しつつあるそれへ、投じ続ける。石が上げる煙が、薬湯を蒸発させ、次から次へと投じられる蕾を、蒸し上げていく。薬湯が尽きる。更に激しさを増すビートの中、村長が叫ぶ。

「おおおおおっ! ヒャッポ!」

「ヒャあああああああッポ!」

村人達の激しい応酬。ホルンは戦を知らないが、こんな雰囲気ではないかと、自らも狂気のうねりに飲まれながら思った。虹色の光彩の中、激しいビートと、濃密な蕾の香りが、反復行動の中で異様な精神状態を作り上げていく。ふと、数歩前を歩いているアリョーシカの色彩が狂ったような気がした。裸になったかのように思えたのだ。だがすぐに元に戻る。訳が分からないと思う余裕さえない。視界がぶれる。色彩が狂う。空が紅くなり、青くなり、黄色くなる。

ビートは激しさと、速さを更に増していく。その中、ついに蕾が終わる。蕾が終わる頃から、何人かが名残惜しそうに輪から抜けていく。理由は簡単だ。

アリョーシカの前を歩いていた子供が、ふらふらと倒れかける。そこを、抜けた人間が素早く腕を掴み、輪の外へと引きずっていく。他にも、特に年若い大人や子供が中心で、倒れる者が出始める。穴に落ちたら大変だから、さっさと回収するのだ。夢心地でそれを見ながら、ホルンはいよいよ激しいビートの中、ヒャッポ、ヒャッポと叫び続けた。クワを握りしめる手の皮は爪が食い込んで破れ、血が流れ始めている。血が沸き立つようで、目や耳から沸騰した紅い液が流れ出しそうであった。踏みならす地面が、わめき立つような印象さえある。

熱い。夏だからと言う以上に熱い。服を脱ぎ出す者もいる。一人が始めると、すぐに皆が初めて、やがて輪は半裸になった人々が、狂気のまま叫び回り続ける、祭そのものとなった。激しい重低音が、心の奥に救うストレスを蒸発させ、吹き飛ばしていく。

「おおおおおおおああああああああっ! ヒャッポ!」

「ヒャッポ! ヒャッポ! ヒャッっポ!」

蒸し上がってきた穴からの煙が、少しずつ減り始めていた。村長は頃合いを見て、今までで最大の一撃を神鼓に叩き込んだ。それが神歩終了の合図となる。此処まで残ることが、村の大人達のステータスシンボルとなるのだ。ホルンはどうにか残ることが出来たが、もう足下はふらふらだった。ヒャッポの三唱が終わると、脇に崩れるようにして倒れてしまう。肩で息をつき、徐々に頭の中が晴れていくのを感じる。猛烈な倦怠感と嫌悪感が、脳をかき回していた。立ち上がろうと二度失敗して、それで漸く立ち上がる。誰かに肩を支えられて。

「ちょっと、らいじょうぶ?」

「ら、らいじょ、ぶ」

声を聞いて誰かは分かっていたが、視界がぐるぐる廻って定まらない。もっとも、支えている誰かもろれつが回っていない。半裸の肌が触れているのだし、普段だったら真っ赤になりそうなものだが、今は精神が混乱の極にあり、それを思いつく暇もなかった。

何度か転び、泥まみれになりつつも、どうにかして激しい混乱から立ち直ったホルンは、アリョーシカに肩を借りて、土の山へと向かう。まだ足下はふらついているが、一応思考はクリアになってきている。だが、気恥ずかしさが浮かんでくるほどには回復していない。村の大人の女性の中には、上半身をはだけている者さえいるというのに、である。だが、めいめい皆理性と一緒に衣服を戻し始めており、いつのまにかアリョーシカも半裸の状態からいつも通りのお堅い格好に戻っていた。

村中の荷車が動員され、二人一組を基本に、穴へと向かう。残り半分は農具を振るい、土が放り込まれる横から、神歩で固まった土を崩し、中へと投じていた。土が充分になっていくと、そのまま皆で穴に投じた土を端から耕し、石を見つけては火箸で掴んで捨てていく。蕾が終わる頃から用意されていた幾つかの水瓶は、ずっとじゅうじゅうと凄い音を立て続けていた。

ホルンは主に石拾いを行っていた。丁寧に皆の間を周りながら、石を巧妙に見つけ、側で荷車を押しているアリョーシカに合図する。荷車に積んでいる水瓶の水は沸騰し通しで、転ぶと危ない。不思議と荷車を繰っているのがアリョーシカだと思うと、安心感がある。気が付くと、ホルンは一人で半分ほども石を回収し終えていた。ベイツもかなり頑張っていたが、こういう細かいことをやると、どうもホルンはいつも際だった成果を上げることが多い。しかし、あまり実感はない。

土をならして、作業は一段落だ。枯れた畑が、一目で分かるほどに、豊かで見事な土に満ちた最高の畑に生まれ変わっている。この畑がどれほどの作物を作り出すのか、今から自分のことのように楽しみであった。ホルンは額の汗を拭うと、アリョーシカを見た。アリョーシカが手を挙げたので、それに併せてハイタッチした。

「よおおし! 広場に移れ!」

村長の声とともに、村人達は一時解散する。農具や、持ち合った道具を置いてくるのもあるし、片づけもある。神の祭りはこれで終わった。これから後は、人間の世界の祭だ。片づけには、ホルンの仕事は割り当てられていない。だから、少し疲れたと思いながら、家へ帰ることにした。その旨を告げると、アリョーシカは少しはっとした様子で言った。

「ね、ねえ、ホルン」

「どうしたの?」

「……いや、なんでもない」

物凄く残念そうにアリョーシカは言う。その意味は、ホルンには分からない。家に帰って、汗まみれの服を着替える。洗濯おけに突っ込むが、他の家族の着替えもあらかた入っていたし、何よりこの貧しい家で着替えはそう多く用意されていない。着替えた服は、汚さないように心がけなければならなかった。

 

ホルンが準備を終えた頃には、もう村の広場は暑苦しい熱気に包まれていた。着替えないで来た者も少なくなく、汗くささもそれを後押ししている。既に夕刻、涼しくなり始める時刻だというのに、この村の熱は冷めそうにない。此処まで盛り上がってしまうと、冷静に酒も飲まず、広場の外側でメモをとり続けている異邦者の存在など誰も気にしていない。

酒が配られる。この村の酒は、単純に米を発酵させただけのもので、蒸留の行程は踏んでいない。今年から、大人になったのだから、飲むことが出来る。ホルンは若干期待していたが、いざ椀を渡されて飲んでみると、思ったほど美味しくない。ただ、さっきの神歩に近い高揚が頭の中で満ち始めて、折角取り戻した平衡感覚がぐらつきはじめた。ぼんやりしながら、ホルンは気付く。これが酔うという事なのだと。

狩猟組が取ってきた肉や、保存していた干し野菜が調理して配られる。量はさほど多くないが、いつもの食事よりもぐっといい質で、凄く美味しいとホルンは思った。年に一度の贅沢だという状況が、味を更に良くしているのだとも、同時に冷静な判断もする。

アリョーシカは疲れているのか、広場の隅にある木に寄りかかってぐったりしていた。さっきからアレンシュが嫌らしい目で寝顔を見ているので、ホルンは咳払いしてアリョーシカの側に移り、そこで黙々と食事を続ける。しばらくねたましそうにアレンシュはホルンを見ていたが、やがて悪友のブレネルの所に行ってしまった。どうせあの二人に味方はいない。村人がみんなで監視しているからロクな事が出来ないのは分かり切っているが、それにしてもあのねたましそうな視線の意味は分からない。

ホルンが欠伸をして目を覚ます。ぼんやりしていた彼女は、しばしホルンを見て、ついと視線を逸らす。

「起きた?」

「……うん」

「そろそろ婚姻の発表が始まるんじゃないのかな」

「私には関係ないわよ。 バカ」

何でバカと言われるのか、ホルンには分からなかったので、きょとんとしてしまった。それにしても、驚きだ。今年はアリョーシカが婚姻を発表するとばかり思っていたのだが。聞き返すのも失礼だと思ったので、話題を変えようと思ったホルンの耳に、神鼓の一撃が届いた。村長の声も、間髪入れずに届く。

「皆の者、婚姻の儀を行う。 着目せよ」

婚姻の儀は、村の数少ない娯楽だ。女性陣は毎回大喜びするし、男性陣もみんな楽しみにしている。この村では、婚姻相手を選ぶ権利は女性にある上に、基本的に婚姻前の相手と同棲することは良しとされていない。インモラルなのは結婚後の夫婦間での性習慣であって、それ以前はむしろ都会よりお堅いほどだと、ホルンは聞いたことがある。

冷静に考えてみると、理由は幾つか考えられる。たとえば、たまに祭以外で婚姻する者がいる。子供が出来て、責任を取る形で婚姻する場合だ。こういった夫婦は祭で結婚した夫婦よりも露骨に社会的な地位が落とされ、村での席次も下になる。だらしない人間だと判断されるからだ。畑仕事は細かい作業が必要とされる。だらしない人間には、村の生命線である大事な畑は任せられないのだ。

村での生活には、席次はかなり重要になってくる。種や保存食の配分にも影響してくるし、配備される畑の質も関係する。将来苦労しないためにも、皆性行為には慎重なのだ。

また、子供が出来ても婚姻しない者もいるが、そういう連中は即座に追放される。村から追放されるような人間は、都会でも生活のあてが無く、殆どの場合ホームレスになるしかない。また、性欲をもてあまして都会の娼館に出かけていく者もいるが、殆どの場合寝所を潰してしまうか、性病にかかって嫁のなり手がいなくなる。医療が劣弱な村で、性病は何よりも恐ろしい。

最も、生殖能力が備わってすぐに婚姻が行われるシステムも、インモラル化に歯止めをかける要因であろう。早熟な分老いも早いし、良いのか悪いのかは、ホルンには分からない。

村長はさっきも使っていた台の上にいて、女性を一人招く。大人になってから三年目になる、村一番の美貌を持つと言われるユフィナだ。卵型の整った顔と長く美しい髪、すらりと伸びた背丈を持ち、織物が上手い。ただ畑仕事は水準よりも下手だが、その辺は夫がサポートすればいい。あの学者先生と村で唯一張り合えそうな美女である。おおと男達の間から声が漏れる。無理もない話である。まだ結婚していない(当然子供もいない)ユフィナの美貌は輝くほどで、男達の殆どが懸想していると聞く。その彼女が婚姻の儀に一番手で登ったのだ。興奮しない訳がない。ホルンもすこし驚いて、様子を見守っていた。ちなみに自分が選ばれる可能性は、欠片も考えていない。

「まずはユフィナだ。 神前にて、相手を選べ」

そう言って、酒瓶が渡される。陶器製の酒瓶。この村では、そもそも祭以外で酒を飲む習慣がない。更に異性同士で酒を飲むことは夫婦を除き禁止されている。すなわち、祭で酒を注ぐことは婚姻の申し込みを意味しているのだ。

大人の女性の中で、婚姻の儀を行う順番は明確に設定されている。社会的地位が上、即ち年齢が上からで、これは同じ男の取り合いを避けるためだ。余程のことがない限り、男性に拒否権はない。一方で、この村の環境下で女性が一人暮らすのは難しいこともあり、二十歳を過ぎると村長権限でほぼ強制的に婚姻させられる。故に年かさの大人の女性が独身で残っている事はほとんど無い。つまり、ユフィナが今回婚姻の儀を行う女性の中で、最年長だと言うことだ。

ユフィナは台から降りると、男達の間を縫い、ベイツの前に立った。これには誰もが驚いた。年下の男を女性が指名することはほとんど無い。多分十数年来の珍事である。逆に言うと、しっかりもののベイツは、それだけ女性陣の評価が高く、珍事とも言える状況が現出したのである。

「ベイツ、わたしの酒を受けて頂けるかしら?」

「え? あ、あの、え……っと。 は、はいっ! よ、よ、よろこんでっ!」

普段からは考えられないほどの動揺をするベイツ。くすくす笑うと、ユフィナは優雅な動作で酒を彼の杯に注ぎ、ベイツは人形のようにぎくしゃくした動作でそれを一気飲み干し、咳き込んだ。眼鏡がずり落ちる。苛立ちを含んだ嘲りと羨望の笑いが同時に起こった。

更に何人かの女性が台に上がる。一人はブルネインを選んだ。どっちかというと小柄でアリョーシカより年下に見える女性だが、実はユフィナより三ヶ月若いだけだ。ブルネインの腕を取って微笑む彼女は、何よりも幸せそうに見えた。

当然、アレンシュもブレネルも選ばれない。彼らが婚姻しようと思うなら、都会から妻を迎えるしかないだろう。都会から妻を迎える村人もたまにいる。その意志があるのなら、村長が口を利くかも知れない。二人とも技術者としては、それなりに村に貢献しているからだ。もっとも、これ以上怠けが酷くなるようなら、都会から新しい技術者を呼ぶことを村長が考えるかも知れない。

順番に女性達が相手を選んでいく中、酔眼でアリョーシカはその光景を眺めていた。少し羨ましそうにも見えたが、やぶ蛇になりかねないので、ホルンは黙っていた。アリョーシカは怒ると怖いのだ。やがて、最後の女性が台に上がった。アリョーシカは、最後まで樹から動かなかった。

 

夜半まで続いた祭が終わる。強かに酔っぱらった男達は累々と地面に伸び、高いびきを始めている者もいる。夏にこの祭が行われる要因の一つだ。女性陣の中で正気を保っている者が中心となり、だらしない男共に毛布を掛けて廻っている。くすくす笑いながら、学者先生もそれに加わっていた。こういったことには必ずと言っていいほど加わるベイツだが、今夜は既に退出している。本人だけならこうはいかなかっただろうが、流石にもう落ち着いた大人になっている新妻も一緒だし、上手くいったわけだ。

ホルンは帰宅中であったが、楽な道ではなかった。まだ限界量が分からないホルンはつい痛飲してしまい、神歩の時のように頭がぐらぐらしていた。ふらつく足下、こみ上げてくる嘔吐感。しかし吐いたら負けだと思い、必死にこらえる。呆れた顔のアリョーシカが、肩を貸してくれていた。

酒の勢いか、酔い故の行動か。ホルンの頭の中にあるストッパーが、何処かおかしくなっていたらしい。つい言葉が漏れ出た。

「ねえ、ありょーひは」

「はいはい、なに?」

「どうして、こんひんしなはったほ? ありょーひはなら、幾らでも相手がいるんひゃはいほ?」

「……わたしね、結婚したい相手がいるの」

一時に酔いが醒めた気がしたホルンに、アリョーシカは酒の勢いか、ストッパーが外れた様子でぼやく。

「ただね、そいつってば、本当に情けないの。 手先は器用だし、真面目だし、何より優しいんだけど、本っ当に頼りないの。 私も人間だしね、結婚してから苦労するのはイヤよ。 妻は夫を支えるものじゃなくて、しつけて育てるものだっていうけど、そいつの妻になったら本当に苦労しそうだもの」

相変わらずおっかないなと、クリアになった頭でホルンは思う。アリョーシカは据わった目のまま、ぐちぐちと言った。

「だから、今回はお預け、来年まで様子見。 少しはまともになったら、来年の祭で指名するつもり。 村長さんにはそう話した」

それ以上は、アリョーシカは何も言わなかった。家に着く。こわごわホルンを見ると、視線を逸らされてしまった。つまらないことを言ったと、彼女も感じているらしかった。酔いが醒め果てたホルンは、自宅の小さな窓から星空を見た。今日思いっきりストレスを発散し尽くしたから、心はクリアだ。また一年頑張れる。

今からだが、来年の祭が楽しみだ。そうホルンは思った。

 

5,祭の片づけ

 

鶏の鳴き声と共にホルンが外に出ると、すっかり浮ついた雰囲気は消えていた。村は年一度の祭でリフレッシュし、また労働に戻るのだ。伸びをして体をほぐした後、家に戻って朝食にする。下の弟達は、まだ疲れが取れないらしく、寝ぼけ眼をこすりつつパンをもそもそ噛んでいた。スープも良い具合で煮えている。あの祭りの後でこんなものを用意するのだから、母というのは逞しい。

農具を背負って、芋畑へ。通りがかりに、ベイツの家を造る話がきこえた。祭で作った畑をベースに考えているらしい。土地はまだ余っているし、この祭で豊かな畑を作り上げるシステムが生きている限り、村は伸びる。

村長の家の方から、学者先生がきた。帰るらしく、正装をしている。それにしてもお供の兵士達は、いつでも何処でも無表情だ。学者先生は蠱惑的な笑みを浮かべて、馬上からホルンに語りかけた。

「あら、もう起きているの?」

「あ、はい、おかげさまで」

「興味深い祭だったわ。 いいレポートが書けそうよ。 うふふふ、そんな露骨に嫌そうな顔をしないで」

「そんな、俺は別に」

「冗談よ。 いちいち真に受けて、可愛いこと」

この時、初めて兵士達が表情を浮かべた。学者先生の軽口に苦笑したのだ。辺りを見回すが、アリョーシカは見えない。そういえば、どうも酔いに彼女は弱いらしく、祭の翌朝は常に遅いしいつも以上に機嫌が悪い。彼女と婚姻した人間は、祭の翌朝ご飯に苦労しそうだなと、ホルンは思った。

「ところで、ホルン君、知っている?」

「な、なんでしょう……」

「この辺りの土はね、本来とてもじゃないけど、こんなに豊かな作物が育つような代物じゃないの。 数百年前なんて、一面の荒れ地だったのよ。 私は民俗学者だけど、農学者からも依頼を受けてこの村に来ていたの。 この祭による、豊かな土壌を作るシステムを見てきてくれってね」

「は、はあ。 そうなんですか」

学者先生は遠くを見て、どうしても感情が読めない表情で言う。

「面白かったわよ。 全部を応用するのは無理だけど、幾分かは有用なレポートが書けそう。 貴方達には感謝しているわ」

「……そう、ですか」

「それと、私の名前は学者先生じゃないわ。 イジネエフ=キリューシカよ。 次に会うときは、覚えて置いてくれると嬉しいわ」

「覚えておきます。 イジネエフ先生」

「素直でよろしい。 それじゃあ、素敵な幼なじみさんによろしくね」

片手を上げて一礼すると、イジネエフは去っていった。来年も又来るかは分からない。ただ、名前は覚えておこうと、ホルンは思った。

畑に出ると、青々と茂った芋の葉が、何処までも広がっていた。七年か前に祭でこの畑を作った。だからここで取れる芋は、見事に太り、とても美味しい。シュトナ様の恵に感謝しながら、ホルンは農具を畦に起き、自分を呼ぶ名に振り返った。眠そうで、機嫌の悪そうなアリョーシカがいた。

芋畑の葉には、朝露が光っていた。アリョーシカに挨拶して、学者先生の名前を告げながら、ホルンは来年の祭に思いを馳せていた。

 

(終)