小さな魔女に出来る事

 

序、森の魔女の苦悩

 

幻想郷。

外の世界では生きていけなくなった存在が辿りつく秘境。博麗大結界と呼ばれる結界に守られた最後の隠れ里の一つ。

妖怪が現存し。

人間が百年も前の格好で生活をし。

皆がそこそこに豊かで。問題も起きるけれど、それでも比較的静かな土地。

霧雨魔理沙はそんな土地で産まれたけれど。

ドロップアウトした人間の一人だ。

魔理沙はぼんやりと、自宅で雨が降る外を見やる。

湿気は好きだが。

これでは外に出られない。

霧雨魔法店と名付けた家から見える空は、どんより曇っていて。

まるで昔の自分の心のようだった。

霧雨といえば、この幻想郷における富豪の一つ。魔理沙の父親は厳格で、自分を正しいと信じて疑わない人間だった。今まで豪腕で稼いできたという現実も、自信に拍車を掛けていたのだろう。

母はそんな父にベタ惚れしていた。

強い相手に惹かれるタイプだったのだろう。

魔理沙も幼い頃は良かった。

だが、本当に良かったのは。

幼いときだけだった。

魔理沙は魔法というものの存在を知ってから、それに取り憑かれた。幻想郷には妖怪がたくさんいる。そんな妖怪と戦うには、色々な手段がある。魔法はその一つだ。

魔法といっても色々ある。

東洋のもの。西洋のもの。

いずれもはっきりしているのは、魔法が必ずしも外の世界では使えるかは分からないらしい事。

そして幻想郷では、使える魔法はしっかり使えると言う事だ。

人が自力で空を飛ぶくらい、珍しくもないし。

余程弱い妖怪でもない限り、羽根がなくても空を飛ぶ。

それが幻想郷。

魔理沙も、そんな空を飛んだり、炎を出したりする人達に憧れた。

それが父の怒りを買った。

最初は、魔法の本を取りあげられた。

怒りに歪んだ顔の父を見て、始めて魔理沙は恐怖というモノを知った。

何を言われているのかさっぱり分からなかったが。父は激高して怒鳴り散らしていた。今になって思うと、大体こんな感じだったのだろう。

お前には帝王教育を施してきた。商人にするためだ。魔法使いにするためでは無い。

この霧雨の家を継ぐために、大金をつぎ込んできた。

霧雨の家を継げない場合でも、他の金持ちとの政略結婚が出来るように、金をつぎ込んで礼儀作法を叩き込んできた。

それを台無しにするつもりか。

わめき散らす父の顔は、話に聞く鬼よりも怖くて、もう幼い魔理沙には何もできなかった。当然暴力だって情け容赦なく振るわれた。

魔理沙は最初、怖くて泣くばかりだったけれど。

母も当然使用人も、誰も庇ってくれなかった。

母に至っては父が正しいと盲目的に言うだけで。

使用人は父が怖くて、魔理沙に対して振るわれる拳を見ても、見てみぬフリをするばかりだった。

ある時。ついに限界が来た。

その時、誰かに囁かれた気がする。

此処から出なさい。こんな所にいたら、貴方は潰れてしまう。

その言葉が誰のものだったかは分からない。

だが、これしか生きる路は無いと理解は出来た。集めた魔法の道具と本を寺子屋に行く時使うかばんに詰め込んで、夜中にこっそり家を出た。

酒をしこたま飲んでいた父は気付かなかった。

どうしてかは分からないけれど。

使用人達も気付かなかった。或いは気付いていた使用人もいたのかも知れないが、報告する気になれなかったのかも知れない。

それに、何故だろう。

普段は人里の入り口は、門が閉じられている。

今は知っているが、夜に妖怪が人里に来る場合も。人に迷惑を掛けないこと、人の姿を採る事が必須である。だが、流石に人里は境である事を示すために、門は夜閉じる。妖怪は何処かから忍び込む。面倒でも、その手続きがルールを作り上げるからだ。

それなのに。

その日は見張りもおらず。門も開いていた。

魔理沙は、人里を逃げ出し。

あの暴力親父から少しでも逃げたいと、ずっと走り続けた。体力にはあまり自信が無かったから、何度も転んだ。

途中、妖怪に何度も脅かされたと思う。

何だかよく分からないものに、色々驚かされて、その度に泣きながら走り回った。

考えてみれば、その時妖怪達がその気だったら、魔理沙なんてぱくりと食べられてしまっていただろう。

その時の魔理沙は、そんな事を考える余裕も無かった。

ただ怖くて、逃げ回るのが関の山だった。

恐怖の中走り回って。いつの間にか森の中にいた。

真夜中の森。

真っ暗で、時々周囲から視線を感じる怖い場所。

魔法の森だ。

震え上がる幼い魔理沙の前に、廃屋があった。それこそが、今住んでいるこの家。

長い時間を掛けて改装していった、霧雨魔法店である。

森よりはまし。そう思って、幼い魔理沙は、どうしてか中にまだ若干の人の気配があった廃屋に、逃げ込んだのだった。

幻想郷では、子供が酒を飲むように。大人と見なされる年齢はかなり低い。

それでも、魔理沙が暴力を振るう父親から逃げ出したのは九歳の時。

あまりにも早すぎる独立だったと言える。

それからは、この小さな廃屋で身を縮めて過ごした。

どういう理由かは分からない。

だが、この廃屋にいる限り、誰かが襲ってくることはなかったし。こんな絶好の廃屋があるのに、誰かが住んでいることも無く。魔理沙は追い出されなかった。

数日は恐怖で震えるばかりで、殆ど何もできなかったけれど。

少しずつ心が落ち着いてきてからは、家の中を確認して。最初はまず家を自分のものにするところから始めた。

本がたくさんあった。保存食がたくさんあった。作り方が書かれた本も。

魔法の道具もあった。

何より、魔女っぽい服もあった。

恐怖がそれで薄れてきた。夢のような場所に来る事が出来たのだと、分かったのだから。あこがれの魔法がたくさんある。魔法の灯りもあった。人里には殆ど電気がなく、夜の灯りくらいしか使われていない。魔法や呪術の灯りもあるにはあるけれど、自警団詰め所などの本当に大事な場所にしかない。

そんな事は魔理沙さえ知っていた。だから、魔法の灯りと言うだけで、興奮で眠れなくなるほどだった。

まずはどんなものがあるのかを、毎日宝探しのようにして探し。

一通り把握すると、まずは魔女の服を着て。小さな可愛い魔女見習いになった。師匠なんていないけれど、それでもまずは格好からだと思った。

持ち出したものと此処で見つけた魔法の本を一緒に読んで、少しずつ魔法を勉強し。そして本の通りに詠唱したり媒体を使ったりして、色々な魔法を習得していった。

勿論魔法の習得なんて、簡単にいくはずもない。その過程だけでも凄く苦労した。

最初に上手く行ったのは水の魔法。

やがて、森にあるキノコが媒体として最適だと気付いてからは。たくさんキノコを集めて、それを調べて。魔法を少しずつ増やしていった。

そして、ある時手に入れた「ミニ八卦路」という魔法の道具が決定打になった。

魔法に火力を求めるようになり。

苦労に苦労を重ねて、箒に乗って空も飛べるようになった。

行動範囲が一気に拡がった。

最初は家の側を怖くて離れられなかったが、それも過去になった。家には水や下水もあった。それに、食糧は森にいくらでもあったから困らなかったけれど。

家に引きこもるばかりではなくて。得た力を武器にして、外を見て回れるようになったのだ。

魔理沙の自信は、少しずつ膨らんでいった。

勿論、勝てない相手がいる事は分かっている。

魔法を覚え始めた頃から、時々姿を見せるようになった森の魔法使い。アリス=マーガトロイド。少し年上のお姉さんに見えて、とても無口な人形遣いの魔法使い。最初は凄く慕っていたのに。いつ頃からか、何か急に頭に来るようになった。だから、何度も戦いを挑んで、その度に叩きのめされて。そしていつか勝ってやると闘志を燃やして。幻想郷の決闘方であるスペルカードルールを学び。それで必死に食らいついていった。嫌でも、戦いになれた。

戦いを覚え始めると、備えるようになった。

父親からの追っ手がいつ来てもおかしくないと感じたからだ。

戦いを覚えると、こういう考えも出来るようになった。或いはそれでやっと、幻想郷の危険地帯の一つである、魔法の森に住む資格を得たのかも知れない。

11歳の時に魔法を使っての戦いでアリスに初勝利できた。思うに、アリスは最初は手を抜いてくれたのかも知れない。どんどんそれからアリスの戦い方は苛烈になり、魔理沙も勝ちたくて必死に勉強を重ねていった。色々な魔法を、攻撃だけでは無く防御も覚えた。

たまに腹の虫の居所が良いときは、アリスと話す事もあった。

アリスは無口だけれど、必要な事は教えてくれる。本物の魔法使いになるには、不老不死に関係する魔法を覚えなければならない事もアリスから教わった。ずっと魔法の研究をしたいのなら、出来るだけそうした方が良いが。もしも人として生きたいのなら。不老不死の魔法には手を出さない方が良いとも。

腹の虫の居所が良いときは、アリスは良い友人だった。どうしてだろう。それについては、よく分からない。

まだ幼さが抜けない魔理沙が、よく分からない恐怖に膝を抱えて泣いているとき。アリスがふらりと現れて、人形劇を見せてくれた事もあったっけ。その時は、時々来るむかっ腹は何処かに行って、素直に馬鹿みたいに笑顔を浮かべて、人形劇を楽しむ事が出来たりした。

場合によっては、魔法の森に出た悪い妖怪を、一緒にやっつけることもあって。

不思議な安心感さえ、その時には魔理沙は感じる事もあった。

だけれど、その翌日に大げんかの末にスペルカードルールで苛烈にやりあったりもする。

魔理沙にとって、アリスは本当によく分からない相手だ。

だが、行動範囲が拡がって見て、分かる。

幻想郷にいる奴は、みんな変な奴ばかりで。

アリスはむしろ、まともな方なのだと言う事を。

戦い方を覚え。魔法の森で暮らしていけるようになった頃。魔理沙は十二歳になっていた。

十二歳になって少しして。誰かが知らせたか、霧雨家に雇われたらしいのが魔法の森に来て。魔理沙を探し始めた。それなりにまとまった数だった。恐らく里の自警団もしたりする、荒くれだったのだろう。

家に何て近付かせない。

かといって、魔法の森に居続ければ、其奴らが妖怪に襲われる可能性が高い。

だから出向いて返り討ちにし。

全員を簀巻きにして、人里の入り口に放り返してやった。

その時には魔理沙は、既に人里にたまに出向いては、妖怪退治の仕事をするようになっていた。里の自警団がどれだけ弱体化しているかも知っていた。勝てない相手と当たった場合は逃げる事も、その方法も学んでいた。

既に戦闘能力なら、人里の自警団員の殆どより上になっていた。

何回かそれから追っ手が来たが、もう片手間に追い返せた。

やがて、追っ手は来なくなった。

父への憎悪は更に膨らんだ。力尽くで連れ戻したら、どうせ政略結婚でもさせるのだろう事は分かりきっていたからだ。

霧雨という名字を捨てる事はなかったが。

父も。

父にべったりで狂信している母も。

もはや魔理沙にとっては家族でも何でも無かった。

血がつながっていれば家族だとか言う「信仰」が嘘だと言う事を。魔理沙はその時知ったのかも知れない。

あくびをする。

まだ雨が降り続いている。この窓も、硝子製。本来、廃屋にはまっている筈が無いものだ。

現在魔理沙は十四歳になる。既に妖怪退治の専門家を自認するほどの手練れになり。人里に出向くことも増えた。霧雨家には絶対に近付かない。自制心に自信が持てないからである。

人を殺すつもりは無いが。それでも、正直あの実家を見たら、最大火力の魔法を力尽きるまで打ち込みかねない。

もしも親父に会ったら、その瞬間に全火力を叩き込むだろう。当然、逃がさず絶対に殺す。

だから、人里に出向くことはあっても。父が行きそうな所には、絶対にいかないようにしていた。

人殺しは、幻想郷でも禁忌。

如何に妖怪退治屋でも。人殺しをした瞬間。完全にお尋ね者になるのだから。

それはそうとして。十四になった魔理沙は、自分がまだ大人でも子供でも無いことを自覚しつつも。

既に一人前の人間として、自立して魔法の森で生きている。

友人にも喧嘩相手にも恵まれたのが原因だろう。

また、幻想郷の人間側の管理者。幻想郷を作っている結界、博麗大結界を管理している博麗の巫女。博麗霊夢とも友人となった。

暴力的で虚無的な女だと最初出会った時は思って。今も、印象はあまり変わっていないが。

今では肩を並べて戦う戦友ともなっている。

霊夢は来る者は拒まず。去る者は追わない。

来れば妖怪だって相手に悪意がなければ邪険にしないし。去れば人間だって殆ど興味を見せない。

二歳か三歳か年下の魔理沙が、最初ベタベタしてくる上に、ライバルだの宣言するのを見て、どう思っていたかは分からないが。

今は友人として対等に接してくれている。

或いはアリスもそうなのかも知れない。

今はうっすら感じているのだが。霧雨魔法店と名付けた廃屋。最初からあまりにも都合が良く存在していた。

元の家主はどこに行ったのか。

更に言えば、元の家主が魔法使いだったのは確定である。

そうなってくると、魔法の森の魔法使いの誰かがそうなのだろう。

しかし、アリス以外にも何人かいる魔法使い。その中で、誰もが該当しそうにないし。

情報を集めたところ、魔理沙が魔法の森に逃げ込んだ頃。

その前にも。

魔法の森を去ったり、命を落とした魔法使いの話はない。

魔法の森の入り口に店を構えている半人半妖、森近霖之助という男性がいるが。

多分幻想郷屈指の魔法の森に関する情報通であろうその男性から話を聞いても、該当しそうな情報はなかった。

誰があの家を用意した、或いは放棄したのか。

そうすると、アリスくらいしか考えられない。

それに、アリスは魔理沙に対して、最初はどうも指導するように振る舞っていたようにも思えているし。

今も不意にアリスといると虫の居所が悪くなったり。或いは友人として、信頼して振る舞えたりする。

アリス自身の思惑は分からないけれど。

魔理沙が魔法の森という魔境で生きていけるように。

見かけの何倍も生きているアリスという魔法使いは、時に自分を悪者にしながら、教えてくれていたのかも知れない。

そして最後に分からないのが。

霧雨家脱出の手引きをした奴だ。

あれは、絶対に天啓とかそういうものじゃなかったし。

霧雨家に残っていたら、あの親父の意のままにされて。今は多分、心も死んで、既に誰かに嫁がされていたかも知れない。

だが、魔理沙は自由の土地に逃げ出せた。しかも、何もかも都合良くお膳立てされていた。

今は魔理沙も知っているが。人里での人間関係の問題には、命蓮寺や聖徳王が出向いて、丁寧に解決をしてくれる。どっちも非常に評判が良く、子供に暴力を振るう親や、結婚した相手に暴力を振るう者や。悪辣な商売人などを諌め、改心させていると聞いている。

だが、魔理沙が人里を逃げ出した時は、どちらの勢力も幻想郷にはいなかった。

いてほしかったとは思うが。

誰かが、もうちょっと不器用に。似たような事をしていたのかも知れない。

誰がそんな事をしていたのかは分からないが。

今は、感謝している。

外で降っていた雨が穏やかになって来た。

何処かにでも出かけるかと思って、雨避けの魔法を使い。更に合羽を被る。実は、本当に水関係の魔法はスムーズに使える。弾幕は火力と称して、魔法も高火力のものばかり習得している魔理沙なのだけれども。実際には、水を中心に練習を重ねていくのが、一番強くなる近道なのでは無いかとさえ、内心では思っている。

箒に跨がると、空に。

空を飛べる人間は珍しくもない。霊夢を筆頭に、幻想郷の一線級戦力は、基本的に空を飛べるのが普通だ。

人里に行くのは辞めておこう。

今日もまた、友人博麗霊夢の所に出向こうか。

それで思い出す。

霊夢は最近、露骨に表情が変わってきた。

大人になって来た、というのとは違うだろう。

恐らくだが、博麗の巫女。幻想郷の管理者としての自覚が芽生えてきた、という事である。

魔理沙は博麗大結界の管理なんて出来ない。

出来るのは我流の魔法での妖怪退治くらい。霊夢と一緒になって、必死に戦い。足を引っ張らない程度の力しかない。

だけれども、最近の変わった霊夢を見ると。

色々と思うところもあるのである。

自分にも、何かできないのか、と。もっと、色々とやれることがあるのでは無いのだろうかと。

ふと気付くと、目の前に大きな気配があった。思わず戦闘態勢を取る魔理沙の前で。空間が裂ける。

この気配は分かる。

妖怪の中の妖怪。幻想郷の妖怪の中で頂点に立ち。幻想郷を管理する存在。

八雲紫だ。

裂けた空間の両端にはリボンがついており。たくさんの目が中には見える。

其所からひょいと顔を出した紫は、口元を扇で覆い。胡散臭さ全開だった。

「何だよ賢者。 私に何か用か」

「ええ。 貴方の実力が充分についてきたと思ってね」

「それはどうも。 お前に認められるって事は、光栄な話なんだろうな」

皮肉混じりに返すが、紫は何も言い返してこない。

口をつぐむ。此奴が妖怪限定とは言え、幻想郷でもトップクラスの実力者である事。そして魔理沙がスペルカードルールでなら名手と呼ばれる実力者でも。殺し合いになればそうでも無いこと。

紫はどっちも知っている。

「一つ、頼みたい仕事があるのだけれど」

「霊夢に頼めば良いだろ」

「あの子は今大忙し。 知っているでしょう?」

「……ちっ」

確かにその通りだ。最近、博麗神社に出向いても留守になっている事が多かった。

むしろ霊夢が掃除を頼んだ狛犬の妖怪あうんや、或いは守矢の巫女の早苗がいる確率の方が多いくらいだ。

「くだらねー仕事だったらやらねーからな」

「……貴方にとっても大事な仕事よ」

「へえ、それは興味深いね」

嫌な予感がする。そして、その予感は。直後に適中していた。

 

1、一人前の魔法使いへ

 

箒を使って空を飛ぶ。魔法使いなら誰でも出来そうな事だけれども。幻想郷では空を飛ぶ奴が珍しくもないけれど。

実際にやってみると簡単な話じゃない。

色々最初は苦労した。

箒を浮かせる。

箒を空中で意のままに動かす。

この二段階の時点で既に難しい。

箒を使うのでは無く、自力で飛ぶ練習をして見てはどうかとアリスにアドバイスを受けた事があるが。そも西洋魔法使いの格好を意識するようになってからは、魔理沙は「格好」をつけたかった。だから箒にどうしても乗って飛びたかったのだ。一度アドバイスして、魔理沙の意図を汲み取ったのか。アリスは以降、自力で飛べとは言わなくなった。

だが、その分苦労も増えた。

まず、椅子に座るように。箒に横に乗ってみた。これは、思った以上に箒に跨がるのがはしたなく感じたからである。なによりも、とても股が痛くなる事を、飛べるようになって理解したからだ。

だから、戦闘時以外は、この乗り方で。移動する時はこっちでと決めた。

続いて、箒の上に立って乗ってみた。

こうすると見栄えが良い。その代わり、やってみて分かったが、被弾面積がとても大きくなるし、何より高速で飛ぶときに、箒の上で立ち続けるのが極めて難しい。

高速で飛び回るとき、くるくる回ったり。急加速したり。止まったり。

そういったときは、ただでさえ振り落とされそうになるし。

練習の時は何度も落ちた。

低速度、低高度で飛んでいる時でも、落ちればいたかったのだ。高高度を高速で飛んでいるときに落ちればどうなるかなんて、馬鹿でも分かる。

だからこの「立ち乗り」は、余程相手が手抜きをしても大丈夫な相手の時くらいしか、やらない事に決めた。

結局、箒に跨がることにした。

この方法なら、片手さえ開ければ八卦路を使って大火力の魔法をぶっ放せるし。他の魔法の詠唱や印を組むことだって出来る。

ただし、慣れないと股が痛くなるし。

下手に体幹がぶれると即座に墜落するのは変わらない。

今は自由自在に箒で空を飛べる。

だが、それが魔理沙の限界であるのかも知れない。

空を飛んで移動する先は、幻想郷の端。そもそも、誰も近寄らないような場所だ。

幻想郷の中央部には、妖怪の山という巨大山岳地帯がある。

守矢神社が麓から中腹、さらに山頂に掛けての半ばくらいまで(要するに殆ど全部)を制圧している妖怪の総本山で。天辺付近を天狗が抑えているが。その天狗を霊夢と賢者が経営再建の途中である。後ろ盾になっているとも言え。このため、守矢は現在天狗に手を出す事を考えていないらしい。

山を迂回して、更に向こうへ。

今日出向くのは、幻想郷の端の端。

人どころか、妖怪さえ近寄らないような場所である。

幻想郷を形作る博麗大結界が緩んでいて、外からいろいろなものが流れ着く「無縁塚」という場所もあるが、そこですら無い。

魔理沙は降り立つと。

賢者に渡された写真を見て、其所である事を確認した。

溜息が漏れる。

なんでこんな事を。

そうも思うが。魔理沙も、幻想郷が危ういバランスの上にかろうじて成立していることは知っている。

楽しく妖怪退治していれば良い。

そんな場所では無い。

妖怪は妖怪で、外の世界から追われて来た者達だし。

外の世界が、今大変な事になっていることだって知っている。外の世界に憧れる人間もいるようだが。外の世界に極めて近しいという畜生界という場所に出向いて魔理沙は知っている。

今の外は、緩やかな時間が流れる幻想郷とは完全に別。

地獄の一歩手前だと。

紫に言われたのだ。

手が足りていない。

幻想郷にはこれから大きな変化がたくさん起きる。それには、力あるものが手を合わせて立ち向かわなければならない。

ちょっと油断すると、すぐに強い者が弱い者の命を握り、好き勝手し始めるのがこの世の理だ。

河童や天狗を見て分かっているだろう。

霧雨魔理沙。貴方には力がある。

だから、幻想郷のために働いてほしい。

そう賢者は言うと。頭まで下げた。閉口した魔理沙は、合羽のフードを下げると、分かったとしか言えなかった。

賢者に力を認められ、頭まで下げられて。

それ以外の選択肢は無かった。

紫は妖怪だが、実際の所、大半の人間よりずっと良心的だし。何より幻想郷のために身を粉にして働いている事を魔理沙だって知っている。

楽しそうな事に首を突っ込んで暴れていれば良い立場なのは、弱い妖怪だけ。

最近気づき始めたけれど。あの暴威の権化に思えた鬼でさえ、一定の秩序を考慮して幻想郷のために動いているのだ。

妖怪は人間を脅し、威を示すけれど。

それは人間を敵と見なし、殺して駆逐しようとしているからでは無い。

此処で行われているのは盛大な茶番劇であって。

故に人食いという一線を越えた行為が行われない限りは、霊夢も悪さをした妖怪を拳骨と宴会の開催で許すことが多い。

だが、茶番劇でも。

畜生界で見たような、本物の弱者を虐げる強者だけが好きかって出来るような悪夢の世界より遙かにマシだ。

畜生界の理屈だったら、魔理沙は霧雨の家の理屈で、親に殴られながら言われた通りの相手に嫁がなければならなかっただろうし。

逆らう事自体が悪徳だっただろう。

幻想郷では違う。

あの時、誰が逃がしてくれたのかは分からないが。少なくとも畜生界と幻想郷が違うからこそ、誰かは逃がしてくれたのだ。

幻想郷のためだというのなら。魔理沙だって働きたい。

今、霊夢の意識が変わってきていて。魔理沙も、それに追いつきたいと、何処かで思っている。

或いは、霊夢とは違う道を進めるのかも知れないが。

いずれにしても、それはもっと力をつけてから。

今は、ついていくのがやっと。

まずは追いつく所から、始めなければならないのだ。

周囲を調べていく。

今回魔理沙が頼まれたのは、結界周辺の調査。この辺りは、妖怪の山の裏側。しかも、時々土砂崩れが起きる場所と言う事もあり。

そもそも縄張りにしている妖怪もいないし。

幻想郷の最底辺。具現化した自然の生命エネルギーである妖精すら見かけない。

土も雨のせいかぬかるんでいて。合羽のフードを魔理沙は思わず払っていた。

「こんな日に調査させなくても良いだろうよ……」

ぼやくが。逆に言うと、魔理沙を認めた紫が、調査を頼んで来たほどなのだ。

それに紫の手は足りていないのだろう。

最近立て続けに色々な事が起きている。

それこそ、寝る暇も無いような状態で働いているだろう事は容易に想像できる。

だから、魔理沙も閉口しながら、泥だらけの中を歩く。

これでも季節に合わせて少しずつ格好を変えるおしゃれさんな魔理沙である。

霊夢ほど人間を止めていないという自負があるから、かも知れない。

だから泥だらけにはなりたくなかったが。

考えてみれば、こんな状況では土砂崩れが起きるかも知れないし。

土砂崩れから快足で逃げられるのも魔理沙だというのも事実。適任なのかも知れなかった。

ため息をつきながら、色々な魔法を駆使して、周囲を探していく。

博麗大結界の向こうは、普通に景色が拡がっているように昔は見えた。

今は違う。

魔法が扱えるようになった今は、遠くがぼやけて見えている。

口をへの字にしたまま、辺りを見回り。何か変なものがないか。変な奴がいないか、徹底的に調査していく。

溜息が出た。降り立った奴に気付いたからである。

白狼天狗の一人、犬走椛。

天狗の中で最下層になる白狼天狗の一員。木っ端天狗とも言われる白狼天狗の中で、もっとも真面目な奴の一人。

剣を盾を常に手放さず。

実力は兎も角、戦士としては常に心構えを忘れない真面目な奴だ。

無言で、雨の中対峙する。既に椛は剣を抜き、戦闘に備えて構えていた。魔理沙も、戦闘態勢に入っている。

先に口を開いたのは、椛の方だった。

「人間がこんな幻想郷の隅の隅で何をしているのですか」

「それはこっちの台詞だ。 ここら、お前達天狗の縄張りじゃないだろ」

「……守矢から提案があったんですよ。 遊ばせている白狼天狗を、守矢の山の巡回に混ぜてはどうかとね。 どうせ守矢に削り取られた今の天狗の縄張りは、白狼天狗が真面目に哨戒するには狭すぎるし、何より私も体が鈍るのは嫌だ。 それだけです」

「そっか、じゃあ守矢に伝えておいてくれ。 この辺りをただ調べてるだけだから、迷惑は掛けないってな」

魔理沙はそのまま、椛と距離を取って立ち尽くす。

相手が動かないからである。

紫に頼まれたとも言えない。

面倒くさい。

この様子だと、守矢には恐らく話が行っている。最近守矢は領空に入ると、複数での編隊を組んだ妖怪をスクランブルさせてくるし。山に入る目的とか、活動する時間とかを聞いてくる。強行突破しようとすると、確実に早苗か二柱が出てくる。あらゆる意味で非常に法に厳しいのである。

椛が嘘をついているとも思えないが。

その一方で、守矢が行動に不備がないか、にやにや見守っている状態でもあるのだろう。

天狗には、敢えて最低限の情報しか与えていないと言う事だ。

ふいに、周囲に数体の妖怪が降り立つ。

いずれも山の妖怪。守矢の軍門に降った者達である。

屈強な男性の妖怪が前に出てくる。女の子の姿をした妖怪の方が幻想郷には多いのだが。人前に出ない妖怪は、こうして男性の姿を採る事もある。この屈強な妖怪が誰かは知らないが、きっとそんな人前に出る必要がない妖怪なのだろう。

「白狼の。 この者は、調査のために此処にいると報告が来ている。 剣を引け」

「何故先に教えて貰えなかったのです」

「引き継ぎなどで不備があったという事だ。 指揮系統の途中で、連絡が漏れていた様子だ。 此方の落ち度となる。 すまぬな」

「……分かりました。 引きましょう」

雨の中、剣を振るって雨雫を落とすと。椛は剣を鞘に収める。

妖怪は一礼だけすると、椛と一緒にその場を後にした。

思ったより対応が早かったな。そう思いながら、首を振る。雨が少し激しくなってきて、合羽に水がたくさん付着しているからである。

足下のぬかるみも酷くなってきた。

変な妖怪に襲われる前に、さっさと作業を済ませたいところだ。

とりあえず、言われた地点を全て回った後。上空から幾つかの魔法を掛けて、徹底的に調査を行う。

やがて、妙な反応を検知。

かなり地面深くに埋まっている。

一度箒に跨がって上空に出ると、丁寧に魔法で探査していく。これは面倒な代物かも知れない。

まず第一に、地盤に食い込んでいる。

ちょっとやそっとの力では、引っ張り出せないと言う事だ。

更に言えば、下手に大火力の魔法なんか叩き込んだら、また土砂崩れが起きてこの辺りが埋まる。

もっと掘り出しづらくなるだけだ。

凍らせてみるか。

いや、それともまずは雨が止むのを待ってから、力自慢の知り合いに声を掛けるか。だが、これは魔理沙が単独で頼まれた仕事だ。単独でやり遂げたい。

元々、何も考えずとも正面突破が可能で。それで勝ててしまう霊夢と違い。

魔理沙は考えて策を練り、それでやっと相手と勝負が出来る程度の実力しか有していない。

だからこそに、この仕事を頼まれたのだろう。

此処は博麗大結界の隅。

無縁塚程では無いにしても、結界が緩んでいて、変なものが入り込んで来ていてもおかしくない。

普通だったら賢者が即応するだろうが。

地下となると、そうも行かないのかも知れない。

しばし考え込んだ後、魔理沙は一度自宅に戻る事にする。対策が必要だと、この時点で判断したからである。

 

紫への連絡方法は、仕事を頼まれたときに聞いている。

自宅で、貰った小さなベルを鳴らすと。

八雲の式の、更に式。

猫又に鬼神を憑依させたという。橙がどこからともなく姿を見せた。無邪気な幼子に、猫耳と尻尾をつけたような姿をしている存在である。

愛くるしいが、力は見かけ相応。

強豪妖怪と力比べが出来るような実力はなく、そこそこ快足なのを生かして彼方此方走り回るのが精一杯である。

賢者の関係者としてはあまりにも非力だが、故に八雲の姓を名乗ることを許されていないのかも知れないし。

またこう言う場所では、敵意を買わない姿と性格が役に立てるのかも知れない。

実際此奴から悪意を感じたことはあんまりない。たまに、人間に威を示そうとはするが。

「あ、人間の魔法使い! 呼んだ−?」

「言づてでな。 出来るか?」

「うん。 でも、お手紙ならもっと確実だよ」

「……そうだろうな」

家に戻った魔理沙が最初にやったのは、状況を説明した手紙を書くこと。魔理沙も一応の教養は叩き込まれている。ていうか、読み書きが出来なければ、魔法書を持っていても何の役にも立たなかっただろう。

これだけは。

これ一つだけは。

霧雨の家に感謝すべき事かも知れない。

「ほら、賢者に頼む。 進捗だ」

「分かった。 紫様に届けておくね」

「頼むぜ」

橙が消える。

紫の力の一部を使ったのか。それとも。

ともかくため息をつくと、まだ雨が降っている外を見やる。この様子だと、地盤が更に緩んでいて危ないだろう。

あの後三角測量とか色々やって、何か異物が埋まっている正確な深さとか。どんな形だとか。どれくらいの力を発しているかとかは調べた。

調べた所、大きさは外の基準で高さ三メートル、幅二メートルの楕円形。

どうやら文明の産物ではないらしく、妙な力を放っている。

かといって現時点で意思を持っているような動きをする事も無く。

もし妖怪だったら眠っているし。神かも知れないし。とにかく分からない。

何かを封じているものだとすれば、壊せば多分面倒なのが出てくるのは確実。

一旦掘り出すには雨が止むのを待って、それから地盤を安定させ。力の強い妖怪にやらせるのが一番確実だろう。

そう、手紙にはしたためておいた。

魔理沙としては調査の依頼は果たした。勿論これで相手が満足すれば終わりだが、はてさて。

勿論満足するとは思っていない。

だから、泥だらけになった服の洗濯を魔法ですませ。合羽も洗い。更に泥の中で活動するための本格的な装備を準備しているところだ。魔法も手持ちに加えて、使えそうなものを調べている。

二刻ほど、経った頃だろうか。

霧雨魔法店の中に、また気配が現れる。橙だった。

此奴は確か雨が大の苦手の筈。外に出すのは可哀想ではあるが、いきなり家の中に現れられるのもちょっと気になる。

守矢は強力な二柱、それに加えて早苗の結界で神社が守られているらしく。賢者も干渉できないらしいが。

それがちょっと羨ましく思えてしまった。

「人間の魔法使い、お手紙ー」

「魔理沙な」

「うん。 まりさ、はい」

「分かった、ありがとう」

お駄賃に、この間霊夢と一緒に作った魚の干物をくれてやると、大喜びで橙は帰って行く。

あんな風にアホ面下げて暮らせたらどれだけ幸せなんだろう。

そう思えた事もあるが。

今は、危険と隣り合わせのこの生活も気に入っている。

昔に戻る気は無い。

さて、手紙がまた来たという事は。調査続行でほぼ確定だろう。すぐに手紙を開いて、内容を確認する。

「まずは詳細な調査ありがとう。 その上で悪いけれど、すぐに掘り出せるようならやってちょうだい。 残念だけれど、廻せる手は無いから、もし人手が必要なら貴方で確保してね」

「……そうだよな」

そうでなければ、わざわざ魔理沙に頼みに何て来ない。

霊夢は忙しいだろうし、そもそも雨の中で大きな何かを掘り出すなんて、出来そうな奴には鬼くらいしか見当がつかないが。

知っている鬼のうち、地底にいる奴はそもそも地上に出てこないし。

一人は何処をふらついているのか見当もつかない。

もう一人はがみがみ言うかも知れないが、多分力仕事なんて手伝ってはくれないだろう。

ならば魔理沙一人でやるか。

問題は何かヤバイ妖怪とかが封じられていて。掘り出すと同時に其奴が出てきた場合だけれども。

対策は練っておかなければならないか。

雨の中、再び出る。

既に夕刻だが、雨が激しくなってきているから、外はもう真っ暗だ。

一旦上空に出ると、不意にアリスに出くわす。

ばちりと空気が帯電した気がするが、距離を取ったまま声を掛けた。

「悪いが、仕事中だ。 戦う気は無いぜ」

「そう。 私も仕事中でね」

「お前もか」

「ええ」

会話はそれだけ。それぞれ別方向に飛んで行く。

何だか出会ったすぐの頃はアリスお姉ちゃんとか呼んで、無邪気に慕ったこともあったっけ。でも、すぐにそれは終わった。何だかアリスの方から、慕われることを拒絶したような気もする。

だが、今はそれはどうでもいい。

用意した道具類を持って、また山に急ぐ。

今回は工事規模から山に影響があるので、敢えて山の領空を通る。妖怪の山を抜けるときに、もう知っているという雰囲気でスクランブルを掛けて来た妖怪達に声を掛けて、書類を書き、説明もする。

面倒だが。

こういった秩序がないと、もっと大変な事になることは、魔理沙も妖怪の山の動乱を見て思い知らされた。

「雨の中大変だな。 これでいいか?」

「うむ。 ……それにしても、意外に貴殿は達筆だな」

「それはどうも。 じゃあ行くぜ」

「ああ。 気を付けてな。 此方でも上に報告をしておく」

妖怪が、人間に気を遣ってくれるか。妙な話ではあるが、こうやって一定の距離を保てば。人間と獣の関係と同じように。妖怪と人間は、ある程度上手にやっていけるのかも知れない。

雨の中、現地に到着。

まずいなとぼやく。この辺りは地盤がガバガバだ。山の斜面も殆ど木が生えていない事からも分かるように、そもそも木が生える状況にないのである。岩の間からも、水が漏れている。

崖崩れの前兆である。

なお、崩れそうな辺りの上はガチガチにテクノロジーや術で固められていて、崩落が妖怪の山に影響を与える恐れは無い。

あくまで、この一帯だけが危ない。

誰も住んでいない、住む気にもなれない場所だからこそ、こうやって放置されていて。そして故に其所に変なものがあるからこそ、手も回せないし。出来れば急いで掘り出せというのだろう。

合羽を深く被ると、順番に魔法を唱えていく。

まずが極低温度の風を引き起こし、岩壁を凍らせる。それも、かなり深くまでである。

しばらく徹底的にこの冷気を吹き付けて、土砂崩れの恐れを無くす。

更に、土の魔法を展開。

石壁をつくって、岩壁に立てかけ。更に凍らせて、一体化させる。これで土砂崩れが起きても、被害は小さくなるはず。石壁もかなり深くまで地面にめり込ませたから、簡単に此方には倒れてこないはずだ。

呼吸を整えながら、魔法の力を回復するべく、少し休む。

魔法の薬もあるのだが。

今投入するべきではないだろう。

順番に、作業を進めていく。

まず岩の魔法で、埋まっているものの周囲を固定。見ると、氷が雨で溶け始めている。結構雨が激しいからだ。

急いだ方が良いだろう。

岩の魔法を展開し追えた後は、水を大量に流し込んで、一気に掻き回す。

緩んだドロドロの土を、一気に引っぺがすためだ。

掘り返すよりも、いっそのこと洗い流した方が早いだろう。そういう判断からである。

この辺りはどうせ荒野が拡がっていて、川に直接汚泥が流れ込むこともない。一気に水を大量に流し込んで、その途中で魔法の薬を飲む。

まずいが、別に良い。

自分で作った薬だ。効果は自分で実験済みである。

そして、こう言うとき。

やはり自分と、水の魔法の親和性について思い知らされる。囂々と渦巻く渦。火の魔法や雷の魔法をこれだけ制御しようと思うと、多分だけれど消耗がこの倍、いや三倍はあるだろう。

弾幕は火力。

魔法はパワー。

それが戦闘で身につけてきた自信とともに、座右の銘にしている言葉だが。

内心では、自分が無駄の多い事をしていることを、魔理沙は理解しているのかも知れない。

完全に怪物的な霊夢に追いつくために努力は欠かさずしているけれど。

それでも背中にすら近づけない。

肩を並べて戦えるけれど。

それもスペルカードルール限定。

分かっているんだろう。そういう所だぞ。効率を追求し、理論的に自分の力を伸ばせよ。

そうじゃなきゃ、一生霊夢に追いつける分けがないだろう。

誰かが。いや、自分の影が、そう耳にささやきかけてくる。

だが、無視。

一気に、膨大な水で土砂を掻き回し。

一本釣りの要領で、岩盤に食い込んでいる得体が知れない楕円形のブツを、魔理沙は引っ張り上げていた。

 

2、謎の球体と嫌な予感

 

酷く疲れ果てた。掘り返した楕円形の物体は鈍色に輝いていて、何か良く分からない文字が書き込まれていた。多分だが、古いこの国の言葉だ。古すぎて、解読するのは魔理沙には難しい。

何か嫌な予感がする。

引き上げた物体を、一度運び出して、地盤がしっかりした所まで輸送する。

最悪の事態には備えておいた方が良いだろう。

地盤がしっかりしている辺りには妖怪もいる。声を掛けて、山の顔役である守矢の風祝、巫女のような仕事をしている半人半神である東風谷早苗を呼んできて貰う。これを河童辺りが盗もうとでもしたら、面倒な事になる。河童は今大人しくしている様子だが、それでも油断はしない方が良いだろう。

早苗は来ると、すぐに目を細めた。

「なんでしょうねこれ……私の世界に存在した恐ろしい兵器のような力を感じますが……しかしあらゆる全てが違っています」

「なんだよその恐ろしい兵器って」

「原子爆弾と言います。 要するに人間の力で空さんの……太陽の力に近いものを再現した兵器、と思ってください。 ただ、色々と違うので、原子爆弾ではありません」

「ぞっとしねえなあ」

霊烏路空。核融合とかいう力を操る地獄鴉。戦ったことはあるが、とんでもない火力だった。

それを引き合いに出されると、流石に魔理沙もぞっとしない。

ともかく、その場を任せると。

掘り返した地点に戻り、後始末をする。

まずは埋め直しを行い。

土の壁を解除。

同時に、どっと土砂崩れが起きたので、思わずひやりとさせられた。

箒に跨がって飛んでいるとは言え、足下が囂々と渦巻く土砂に飲み込まれるのは、良い気分はしない。

前に畜生界に行ったとき、地獄の上を飛んだが。

その時も、足下からは凄まじい怨嗟の声が聞こえてきていて、ぞっとしなかったものである。

土砂崩れが起きたことも、知らせておいた方が良いだろう。

一応備えている場所辺りは大丈夫のようだが。こんな調子で何度も崖が壊れたら、その内備えにも響くはず。

根本的な手入れが必要だろう。

早苗の所に戻ると、鴉天狗姫海棠はたてが来ていて、早苗と相談しながら写真を撮っていた。

咳払い。

はたても頷く。

天狗の組織を半分離脱している此奴は、極めてまともな新聞を作るようになっている。無闇にパパラッチのような行為はしないだろうが。それでも念のためだ。

「これ、正体が分からないんだ。 調べがつくまでは、情報はばらまかないでくれよ」

「分かっているわ。 書かれている文字も妖怪が使うものとは違うわね。 見た事も無い代物よ」

「……じゃあなんなんだろうな」

「資料であれば少しあります。 届けましょうか?」

早苗が助け船を出してくれるが。

有り難いが、遠慮させて貰う。

直接手を触れるのは危ないと思ったので、魔法で時間を掛けてワイヤーをくくりつけ、それで箒で運ぶ。

積載量をあからさまに超えていて、箒がミシミシ言うのでちょっと怖いが。

博麗神社までならもつだろう。

博麗神社に一度運び、霊夢と一緒に解析をするべきだ。そう魔理沙は結論していた。というよりも、これはヤバイ。絶対に何かヤバイ代物だと、ビリビリ勘が告げてきているのである。早苗の言葉は嘘じゃない。魔理沙だって此奴のヤバさは感じているのだ。

今更紫が言ってきたと言う事は、最近幻想郷の地下に来たもの、なのだろうが。

此奴が外の世界の恐ろしい兵器なのか。

それとも古代の何かとんでもない神様なのか。

それは分からない。

だが、今は活動していないし。

もしも活動開始されると、幻想郷滅亡とか、そんな代物だったら洒落にならない。

それだったら、最大の対応力を持つ霊夢の所に持ち込み。

霊夢から紫にも声を掛けて貰って。

総力で調査するのが良い。

守矢にも場合によっては助けを頼むかも知れないが、いずれにしてもそれは後回し。最初に霊夢の所に持ち込むのが、対応としては筋が通っているはずである。

雨は激しくなる一方。

早苗が警護代わりについてきてくれる。早苗は合羽も傘も使っていない。雨を多分神の力だか何だかで弾いているのだ。

幻想郷に来たばかりの頃は、まるで脅威に感じなかったのだが。

最近はとにかく手札も多いし、目つきも鋭い。頭も回るし、魔理沙よりもぐっと幻想郷の権力に食い込んでもいる。残念だけれど、既に単純な力では、魔理沙では勝てないとも思う。

悔しいけれど、才能の差という奴なのだろう。

ただ、早苗自身は、魔理沙を助ける事を善意で行ってくれているようだし。腹に色々詰め込みすぎている守矢の二柱と違って、優しい所を見せる事も多い。嫌いになりきれないのは、その辺りも要因だ。

ほどなく、博麗神社に。

霊夢を呼びに行く間、早苗が結界を展開してくれる。それも何重にも。

もしも爆発した場合、変な存在が出てきた場合、すこしは持ち堪えられるように、という判断である。

魔理沙としても助かる。

霊夢は雨の中、何処に出かけているのかいない。

手に息を掛ける。

魔力を殆ど使ってしまった。体が冷えて仕方が無い。

早苗の所に、合羽のまま戻る。

早苗はと言うと、複雑な印を組みながら、更に結界を厳重に厳重に展開していた。防御の魔法はあまり得意ではない魔理沙だが。これはもう、魔理沙より防御面では完全に上だ。火力だっていつ早苗に追い越されるか。もう追い越されているかも知れない。

溜息が漏れる。

此奴は半人半神という、守矢が用意してきた切り札だ。

人でありながら神でも有り。それを示すように髪は緑。外の世界を知ってもいるし、幻想郷の仕組みも理解している。多分不老不死になって種族としての「魔法使い」になった者のように、寿命だってもうない可能性が高い。信仰を集めれば力にさえなる。

「魔理沙さん、疲れているでしょう。 此処は私がやっておきますので、休んでいてください」

「山は良いのかよ」

「……嫌な予感がするのは貴方も同じなんでしょう? 私も嫌な予感がするんですよ、これには。 それに、私が少し場を離れたくらいでどうにかなるくらい、守矢の体勢は脆弱じゃありませんよ」

「そうか、それは羨ましい事だな」

嫌みを言う余裕も無い。

戦闘時は興奮状態からキャッキャする事もある早苗だが、急速に落ち着いてきていて、今では大人とまったく変わらない言動をしている。多分霊夢よりも一〜二歳年上程度だろうに、相当な差を感じてしまう。

悔しいが、休むしか今は手が無いか。

博麗神社の、生活スペース。

霊夢が住んでいる辺りにお邪魔させて貰い、屋根の下で合羽を脱ぐ。それと同時に気が抜けたのか、腰が砕けそうになった。

幾つも同時に魔法を展開して、とんでもなく疲れたのだ。

合羽を干して、鈍くなっている動きを自覚しながら、勝手に上がらせて貰う。

菓子でもほしいな。

そう思ったけれど。霊夢は留守中に荒らされると凄く怒る。当たり前なのだろうけれど。怒りを静めるためには、結局盗んだもの以上を補給しないといけない。

布団があったので、被らせて貰う。

服はそのままだから、とてもはしたないとも思うけれど。それでも、今は一秒でも早く休みたい。

意識が維持できなくなってきた。

瞼が重い。

霊夢と一緒に妖怪退治とか、異変解決とかで戦った時。何度か重いのを貰って、こんな風に意識が飛びかけたことがあったっけ。そういうときは、気合いでねじ伏せて、どうにか立て直し。死を免れた。

今は死に近付いている訳では無いから、眠ってしまって良い筈なのに。

どうしてか、眠気が怖かった。

ふと、誰かが布団の上から、毛布を掛けてくれているのが分かる。

余計な事をするなよ。そう言おうとしたが、もう、そんな力も残っていない。

いつの間にか、夢の中にいた。

どんよりと濁った夢で。身動きもロクにできず。

たくさんの父の顔が周囲に浮かんでいて、もう聞き取ることも出来ない罵声を、歪みきった顔で怒鳴り散らしていた。

 

目が覚めるが、体が重い。

魔法を使いすぎたんだなと、冷静に分析。毛布を誰かが掛けてくれたのは、正しかったらしい。

疲れはまだ溜まっているが、動く事は出来そうだった。

半身を起こす。

服のまま寝てしまったのは情けない。実は博麗神社には泊まることも多いので、寝間着も置かせて貰っている。

霊夢の寝間着に比べるとだいぶ小さくて。もっとも食べなければならないときに食べられなかった、という事を実感してしまうのだが。

それはそれとして。今は、まずは水が飲みたい。

「魔理沙さん、もう少し寝ていた方が良いですよ」

「ああ、そうしたいが、そうもいかないんでな」

奥から声を掛けて来たのは、聞き覚えがある者。

狛犬から妖怪に転じた存在、高麗野あうんである。

角が生えている以外は人間の子供にしか見えず、人間に極めて友好的な妖怪で。

博麗神社や命蓮寺、守矢神社などに姿を見せては、お手伝いをして行くという事で知られている。

博麗神社でも掃除をしているのはよく見ていたが。

茶を出してくれた様子からして、霊夢に家事の一部も任されているらしい。半身を起こすと、茶を有り難くいただく。

かなり手慣れている様子で、茶葉が同じだろうに。霊夢が淹れてくれる茶よりもはっきりいって美味しかった。

「温まる。 助かったぜ」

「いいえ、お気になさらず」

「早苗はどうした」

「先ほど帰りました。 応急処置は終わったので、守矢の二柱と相談してくるとか」

まあ、早苗ならそう判断するだろう。

あれからどれくらい時間が経過したか。すぐに確かめる方法がないのが悔しい。数刻は経過しているとは思うのだが。

「霊夢は」

あうん曰く、帰ってきていないという。

頭を掻く。

霊夢が忙しい事は分かっているが、この件で霊夢がアドバンテージを握らないのはまずいと魔理沙は思う。

あうんに支えて貰って、例のブツの様子を見に行く。雨はまだ止まない。

分厚いコートを着せて貰って、傘を差して。

見に行くと、無茶苦茶厳重な結界に、例の楕円形の何かが封じ込まれていた。

何が応急処置だ。殆ど完璧じゃないか。

ため息をつく。霊夢だって、ここまで完璧に結界を張れるかどうか。早苗が日進月歩に力を伸ばしていることがよく分かる。魔理沙だって努力しているのに、独学と師匠つきではこんなに力の伸びに差があるのか。

この様子では、魔理沙が追加で出来る事はない。

一旦戻って、丸テーブルを出してくると、少し考え込む。その過程で、ぼそりと呟く。

「あうん、毛布を掛けてくれたのはお前か?」

「はい。 たまたま見かけて、疲れ果てている様子だったので」

「……ありがとう。 手間を掛けさせたぜ」

「良いんですよ」

善意か。此奴の屈託のない笑顔を見ていると、家族から突然悪意と暴力をぶつけられて、恐怖のままに家を飛び出した日のことをどうしても思い出してしまう。

資料を漁ろうにも、今の体調ではロクな所に行けないだろうし。途中で妖怪にでも襲われたらそれこそ撃墜されかねない。

魔法の薬の類も、あの何だか得体が知れないものを掘り出すために使い切ってしまったし。

家に戻るのにも、少し力を蓄えなければならないだろう。

外が真っ暗になって来た。もう夜、と言う事だろう。

何かあるかも知れないし、此処を留守には出来ない。しばらくじっと待つとする。その間に、駄賃を渡して、あうんに人里に買い物に出て貰う。あうんは人里でも友好的な妖怪だと認知されていて、額の角さえ隠していれば人里の門番も笑顔で通しているようだった。短時間で受け入れられるのは、それだけ表裏がない善人だからなのだろう。

手癖が悪い、性格も捻くれている魔理沙とは違う。

霧雨のお嬢、というだけで、店の人間が青ざめることは今でもある。

魔理沙と霧雨家の確執は人里で知られていて。あの暴力親父の勘気を怖れる者は、魔理沙に近付きたがらない。

とはいっても、所詮は有力者の一人。

霧雨に敵対的な人間もいるし。そういう者は、むしろ魔理沙に取り入ろうとさえしてくる。

最近は命蓮寺と聖徳王が人里の人間関係改善に力を入れ。それでかなり貧富の格差や、派閥などの構造が解体されてきている様子だが。

それでも饐えた腐臭が漂う場所はまだある。

人里には、あまり行きたくない。

それが本音である。

あうんが戻って来た。頼んだとおりに、夕飯を買ってきてくれた。出来合いだが、温めるだけで充分だ。

二人で食べる。

元が狛犬なのに、多分付喪神ではないからなのだろう。ものは平気で食べられるようである。

「いつも良くして貰ってるからな、おごりだ。 遠慮無く食べてくれ」

「ありがとうございます」

「私は……一体どれだけ、色々周囲に迷惑を掛けてきたんだろうな」

「魔理沙さんはその分幻想郷のために働いていると思いますよ」

幼い子供の姿なのに。元々年経た狛犬だからか、あうんはとても綺麗に出来合いを食べている。

自分は所詮こどもなのだと。

こう言うときに、魔理沙はつくづく思い知らされる。

食事を終えると、あうんにはもう大丈夫だと告げて。魔理沙は一人、霊夢の帰りを待つ事にする。

眠るわけにも行かないだろう。

時々、様子を見に行く。早苗の張ってくれた結界が如何に強力とは言え、何か起きてからでは遅いからである。

真夜中になっても霊夢は帰って来なかった。

そして、魔理沙がそろそろ限界だなと思い始めた夜明け。

やっと、霊夢は戻って来た。

当然だろうが、霊夢も疲れ切っている様子で。更には、博麗神社の中に知らない結界がある事で、露骨に機嫌が悪かった。

霊夢は機嫌が悪いと、周囲に暴力を振るうことは珍しくもない。

流石に最近は減ってきたが。昔は相手が妖怪なら、強盗まがいの事をする事も珍しく無かった。

露骨に不機嫌そうな霊夢に、魔理沙は軽く説明をするが。

鼻を鳴らす霊夢。

分かってはいるけれど、機嫌が悪いこととは関係無い、という表情だった。

「面倒事を持ち込んでくれたわね」

「紫の依頼だし、お前の所に持ち込むのが正解だと思ってな。 いっそ、守矢に持ち込めば良かったか?」

「馬鹿言うんじゃ無いわよ。 あんたの判断で正解よ。 死にかけてるじゃ無い。 いいから寝てきなさい」

霊夢はそう言う。体力からして桁外れでも、それでも疲れが色濃く見えた。

舌打ちして、調べ始める霊夢。

ならば、任せてしまって良いだろう。早苗の結界もある。即時、妙なことが起きるとは考えにくい。

今度こそ寝間着に替えて、それで気付く。

霊夢を信頼している自分に。

何だか情けないなとも思う。

結局幼い頃親と最悪の決別をして。

今は霊夢に友人のフリをして依存しているだけでは無いのかと、感じてしまったのである。

唇を噛む。

着替えを住ませて、布団に潜り込むが。

あんなに疲れ果てていたのに、すぐには眠くならなかった。

自分の無力が口惜しくなったのだろうか。

それとも、もっと別の理由だろうか。

目を擦る。

非力さもあるが。それ以上に、自分という存在が情けなくて、魔理沙は何度も涙を擦っていた。ただセンチな気分になっているだけかも知れないけれど。それでも、よく考えてみると、確かに本当に情けない。

霊夢は倉庫を漁っているようで、ぱたぱた音がする。

何か調べているのだろう。博麗神社の倉庫には、色々と古い道具や資料があると聞いている。

その中には、あのよく分からないものの正体を記した物もあるのかも知れない。

霊夢が作業している音を聞くと、どうしてか落ち着く。

いつの間にか、魔理沙は。眠りに抗えなくなっていた。

感情の高ぶりを、眠気が押さえ込んだ。やっぱり子供なんだなと、魔理沙は自嘲していた。

 

3、封印されしもの

 

昼過ぎになって目が覚める。まだ本調子では無いが、短時間の戦闘くらいならなんとかなりそうだ。

雨はまだ降っている。それも激しくなる一方だ。この様子では、洪水とかを警戒しなければならないのではあるまいか。

傘を差して、様子を見に行く。

霊夢はずっと働いていたらしく。魔理沙が来ると、不機嫌そうに低い声で応じて来た。

「疲れは取れたかしら」

「まだ本調子じゃないがな。 そっちは何か分かったか」

「ええ。 概ね」

「流石は本職だぜ」

霊夢は何も言わない。つまりそれだけヤバイ状態だと言う事なのだと、肌で分かる。結界にも手をつけていない。

雨の中、腕組みして、様子を見ている霊夢。何か術を使って雨を避けている様子だが。両手を使える状態にしておきたいのだろう。

隣に立つと、霊夢は不機嫌そうに魔理沙が掘り出した物を見据える。

「これはね、古き古き神よ。 此処に書かれているのは、川の神に対する恐れの言葉ね」

「川の神? どうしてそんなものが土の下に」

「……ヤマタノオロチの正体について聞いた事はある?」

「八岐大蛇というとあの素戔嗚尊に退治されたあれか。 慧音先生に軽く話を聞いたことはあるが……正体?」

霊夢は頷く。

元々八岐大蛇の正体は諸説存在するという。描写からして、製鉄の文化を持ち込んだ民の事では無いかとか。或いは荒ぶる川の事では無いかとか。今でも、具体的な結論は出ていない、と言う事だった。

「神様の専門家であるお前でも分からないのか」

「信仰が古すぎるからね。 何しろ守矢の二柱よりも更に古い神格よ。 普通の神に呼びかけるようなやり方では、まるで会話が成立しなかったわ」

「それで、これがその……八岐大蛇なのか?」

「まさか。 話を戻すけれど、古い時代の信仰は、今では多くが失われているの。 自然への畏怖を人間が忘れたというのもあるのだけれでも、幾つかの信仰については、積極的に葬られた。 理由は分かる?」

魔理沙は応えない。

新しい信仰によって潰されたからではないかと思ったからだが。

霊夢の答えは違っていた。

「答えはね、イケニエを求めるものだったから」

「生け贄……」

「そう。 それも、未来を担う子供、美しい女、屈強な男性、つまり人間にとって貴重な人材ほど良いとされた。 古い信仰の悪い所で、古い信仰は人間の心を捧げられることよりも肉体の犠牲を要求したのよ。 紫によると、外の世界でも結構最近まで似たような事をしていた連中はいたらしいわ。 タコ部屋労働とか言ったかしらね。 良く知らないけれど、道路とか穴路とかを作るときに、神への捧げ物として人間を生きたまま埋めたりしていたらしいわ」

ぞくりとする。

早苗が話す外の世界はずっと進んでいると言う話だったのに。そんな邪悪な信仰が、現役で残っていたりしたのか。

いずれにしても、もしもこの楕円形のブツが。

そんな信仰の根元なのだとしたら。魔理沙が此処に持ち込んだのは正解だったという事になる。

「それでどうする。 ぶっ潰すのか」

「無理よ。 相手が悪いわ。 さっきなんで八岐大蛇を例に挙げたと思うの」

「お前でも力尽くでは無理ってかよ」

「月で散々酷い目にあったでしょう。 古代の神格の戦闘能力は、はっきりいって桁が違うわ。 幻想郷の最高位賢者である龍神でさえ、そういう古代神格の一柱なのよ。 力での対処は不可能よ」

溜息が漏れる。

ひょっとして早苗の奴。

コレの正体を知っていたのではあるまいか。

いずれにしても、放置はしておけない。魔理沙は、気合いを入れ直していた。

「いずれにしても野放しには出来ないな。 手を貸す。 早く片付けちまおうぜ」

「人里嫌いのあんたらしくもないわね」

「私が嫌いなのは人里じゃねーよ」

「分かってるわ」

霊夢は頷くと、幾つかの説明を追加でしてくれた。

この神格は、外で完全に忘れ去られた川の守り神。名前も分からない。信仰が失われ、更に神体も土に埋まっていたため。幻想郷の地中にやってきた

だが、神体ごと来ていると言う事は。もしも目覚めた場合、川の神の最悪の部分を露わにし。周囲に暴威を振りまくだろう、とも。

そしてこういった神は自然の権化そのもので、人格すらない。

ヒダルガミのような、現象として人間を襲う妖怪の最上位存在と言っても良く。

文字通り無差別に人間に対して害を為す。

ましてや此奴は、「腹を減らしている」のだから。

故に、順番に処理をして行かなければならない、という。

その前に、打ち合わせのため紫に霊夢が報告に行く。その間、これに誰かが手を出さないように、魔理沙が見張っていてほしいと言われた。

それについては当然である。

合羽を被って上空に上がると、周囲を警戒。博麗神社付近に何か来ていないか、警戒する。

丁度早苗が来たので、軽く話をして、警戒に協力して貰う。

早苗は頷くと、連れてきていた数名の妖怪を、周囲に散らせた。

「此方でもあれが危険な神格の神体だと言う事は分かっていました。 霊夢さんが対応するというのなら協力は惜しみません」

「……頼む」

今は、それしか言えない。

これは幻想郷が総力を挙げて対応する相手だろう。今は守矢だ博麗だと言っていられる状態ではない。

しばらくして、霊夢が紫と一緒に戻ってくる。

紫もいるという事は、かなり本気で此奴を封じ込めるという事なのだろう。

この様子では、地底に捨てるとかではとてもではないが対応出来まい。

それに川の神と聞いてぴんときたのだが。

この不自然な雨。此奴のせいではあるまいか。

一旦降りたって、霊夢の側で話を聞く。魔理沙にも出来る事はあるはずなのだから。

紫が早苗の展開した結界を一瞥し、術で地図を空中に映し出しながら説明してくれる。

「現状、川神を封じているこの結界は充分に強力だけれども、根本的な解決にはならないわね。 まず第一に、この地点にこの石を移動させるわ」

「此処は……」

「幻想郷の水源の一つよ」

妖怪の山の一角。かなり上流の方だ。

天狗の縄張りに近い。このタイミングでこの事件が起きたのは、良かったのかも知れない。

もしも天狗がごねていたら、大変な事になっていただろうから。

「水源の一つに移動させる事で、神格の「居場所」を確保する。 次に生け贄を求める獰猛な性格を変動させるわ」

「神の性格をいじれるのか?」

「古代の神格は圧倒的な力を持っているけれども、聞いているだろうけれどヒダルガミのように要は「意思を持った現象」なのよ。 それに元々我が国だけでは無く、本来神格というものは凶暴性と救済の二面性を持つ事が多いの。 子を喰らう悪鬼であり、子を守る守護者でもある鬼子母神を例に出すまでもなくね。 世界で一番信仰されている宗教すら例外では無いわ。 だからこの神の性質を「暴」から「創」に切り替えるの。 相手が創造神クラスだと幻想郷では無理でしょうけれど、一つの川の神程度なら何とかやれるわ」

なるほど。鬼子母神の話は聞いたことがあるが、それはダイナミックな話である。

霊夢に休むよう、紫は指示。頷くと、霊夢は眠りに行った。要するに、これから本気で作業をするという事である。

早苗にも声を掛けて、協力を頼む。

守矢の二柱は別の神格と言う事で、人間としての部分の早苗の手伝いがいるという事だった。

儀式についての説明が行われるが。

もしも失敗した場合、生け贄を捧げないと桁外れの強さを持つ荒神が幻想郷に具現化するとも、紫は言う。

そうなると、それこそ龍神を呼び出し、神格同士の激突の末に消滅させるしかないとも。

「もしもそうなったら、例え龍神が荒神を葬れても被害は甚大よ。 ただではすまないでしょうね」

「……」

「今回は総力戦になるわ。 既に命蓮寺と聖徳王には協力を要請済み、現地に向かって貰っているわ。 霧雨魔理沙、貴方はこのまま、現地にこの石を運んでくれるかしら」

「分かった、任せろ」

早苗は先に戻り、休憩と儀式の準備に入ると言う事だった。動きが速い。幻想郷に来た頃の早苗ともう完全にこの辺りからして違う。

紫は頷くと、数名の式神に指示を出す。魔理沙の護衛をしろ、というらしい。

何故紫が運ばないのかというと、強大な力で下手に触ると、それだけで川神覚醒のおそれがあるから、だそうだ。

要するに中途半端な力の魔理沙が、運搬役に丁度良いと言う事なのだろう。

それはそれで悔しい話だが。

そもそも今回の件で、儀式を執り行うのは人間だ。

この荒神の信仰を作り出し、凶暴な神格を産み出したのは人間。

故にそれを書き換え。人間に対して静かに見守ってくれるような神格に切り替えるのもまた人間。

だから、霊夢と魔理沙、早苗の手で、作業をする必要があるという事だった。

あうんにも紫は声を掛けていて。書状を手渡している。どうも妹紅にらしい。人里でも、万が一に備えて動く必要があるという事だろう。

それはそうだ。

下手をすると、龍神と古代の神格との戦いが始まるかも知れないのだから。

巨大なうねりの中にいることを感じて。

魔理沙は身震いする。

紫が手を叩く。此奴、胡散臭い顔ばかり見ていたが。今の紫は、この小さな世界の管理者としての、責任感ある頼りになる表情をしている。

「それでは、作業開始。 霧雨魔理沙、作戦を開始してくれるかしら」

「分かったぜ、任せろ」

「貴方たちはワイヤーの係留の手伝い、周囲の風の軽減、分かっているわね」

「ははっ!」

紫の指示で、すぐに妖怪達が動く。

すぐに準備が終わり、魔理沙は疲れが残っている体で、一気に楕円形の物騒な神体を引っ張り上げた。

合羽を着ていても、その上から凄まじい雨が吹き付けてくる。

ただ、風はかなり緩和されている。

有り難い。

そのまま、妖怪の山へと移動開始。地図を見ながら、確実にヤバイ神体を運んでいく。途中で落としでもしたらその時点でジエンドだ。呼吸を整えながら、速度を上げすぎず、丁寧に移動を続ける。

途中、ぐらりと来た。

いきなり重くなった気がしたが、踏ん張る。

神体が、機嫌を損ねているのかも知れない。川の神だとすれば、それは空中にいれば機嫌だって悪いだろう。

何だか全身が寒い。

力を吸い取られているのかも知れない。魔法薬をもっと持ってくれば良かったなと想いながら、それでも確実に進む。

妖怪の山が見えてきた。

既に早苗の声が掛かっているらしく、総力戦態勢だ。風は防いでくれているので、後は雨だけ。

大きな旗を振っているのが見える。

此処だ、というのだろう。頷いて、其方へと箒を向ける。魔理沙自身の力は、それほど強くない。

魔法は火力と言っていても。一発撃てばガス欠を起こす。

実際に才能がある水の魔法には、どうしても手を伸ばす気にはなれなかった。

今になって思えば。

水の魔法をもっと勉強しておけば、今回の一件。もっとスムーズに対処が出来たのかも知れない。

だとすると。今後は余計な拘りは捨てて、もっと柔軟にものを考えるべきではないのだろうか。

水源に到着。

既に妖怪達が社らしいものの枠組みを作っていた。

其所に、収めろと言うらしい。

深呼吸すると、丁寧に神体を降ろしていく。揺らすのは厳禁。神経を一点に集中。何度も気合いを入れて意識を保ち、針の穴を通すつもりで神体を降ろしていく。

地面についたか。

いや、違う。重くなったんだ。神体が、干渉してきている。本当にヤバイ代物なのだと、言い聞かせながら踏ん張る。丁寧に降ろしていき、何とか用意されていた社の中に、必死に収めた。

ワイヤーを外し、巻き取る。その過程すらも、無茶苦茶緊張した。

社に屋根が嵌められ、しめ縄などが周囲につけられていく。

作業の指揮をしているのは早苗だ。しめ縄などを扱うときに相当な力を使っているようで、表情も真剣そのものである。

山の妖怪が総出で動いているのが分かる。今問題を起こしている天狗ですら、風を防ぐために風上に陣取って、風を防いでくれている。

「神社完成! 儀式を開始します!」

「妖怪はすぐに離れろ! 神社の結界内にいると最悪消滅するぞ!」

八雲紫の式神、八雲藍の声が掛かり、わっと作業をしていた妖怪達が結界内から逃げる。

命蓮寺の住職と聖徳王が、それぞれの知識を総動員して、神社の枠組みを作ってくれている。

仏教と日本の神は相性が良いらしく、命蓮寺の住職白蓮も知識があるらしい。聖徳王もしかり。

二人が色々と神社の外側で術を展開してくれている中、魔理沙は呼吸を整えながら、神社から少し離れて降り立った。同時に、結界が神社を覆う。さっき言われたように、妖怪があの中にいると危ないのだろう。

魔理沙自身、呼吸が荒い。力を使いすぎた。体温も下がってきている気がする。

そのまま、前のめりに倒れかける。倒れない。支えてくれたのはあうんか。振り向くと、やはりそうだった。

「大丈夫ですか?」

「……情けないが、私は此処までしか出来ないらしい」

「力を抜いてください、休憩所に運びます」

子供の姿でも、妖怪は妖怪。魔理沙を楽々背負うと、あうんが距離を取る。

聖徳王と白蓮が強烈極まりない結界を張っている外側に、更に強い妖怪達が結界を展開しているが。

其所の一角に、休憩所がある。

結界を作るのに消耗した妖怪達が集まっていた。其所に寝かされる。

上空に映像が出た。

どうやら、神社で行う儀式について、記録する目的らしい。誰かが術でやっているのだろう。

見ると、紅魔館の動かない図書館と言われる魔法使いだ。

彼奴まで動員されているのか。本当に総力戦態勢なんだなと思う。

紅魔館のメイド長も、雨の中働いている。魔理沙にも紅茶を出してくれたので、有り難くいただく。

体の芯が温まるようだった。

「すまない。 助かったぜ」

「お嬢様の予知によると、最悪の事態になると妖怪の山が半分崩落し、紅魔館がもろに下敷きになるそうです。 対応しなければなりませんが、古代の神格が相手では、流石にお嬢様や妹様でも相手が悪すぎる。 ましてや水の神となると吸血鬼には相性最悪。 我々だけで手伝う他ありません」

「そうだな……」

仲間という安易な言葉でくくれる協力関係では無い。むしろ利害の一致と言うのが正確なところだ。そしてそれで良いのである。

魔理沙が本当にぐったりしているからか、本を返せとかそういう事は一切言わないメイド長。

見ると、紅魔館の門番も、土砂を運んだりして作業をしている。

他の勢力の妖怪も、この様子だと手伝ってくれているのだろう。

これが幻想郷の本気という奴か。

動けない程消耗した自分が情けないが。それでも、何だか暖かいと思える。

やがて、儀式が始まる。

早苗と霊夢が、姿を見せる。二人とも普段と違う厳粛な巫女装束に身を包み、神楽舞を開始した。

普段の二人とはまるで別人に思える。二人とも、本気での儀式をやっているからだ。

荘厳で神聖。

近寄ってはいけない雰囲気さえあった。

側に座っているあうんが、解説してくれる。

「古い時代、巫女というものは薬物を口にして、それで心の中にあるよく分からないものを言葉にする事もあったのですが。 あの二人がやっているのは違いますね」

「何だよ、それ」

「いわゆる神秘体験を簡単にするためのインスタントな方法ですよ。 もっともそんな事をしても、出てくるのはただ心の中にある狂気なのですけれどね」

よく分からない話だが。

此奴は狛犬だったのだ。

或いは、その薬を使って行うような儀式を何度も見てきたのかも知れない。だとすると。「本物」の神楽舞を見るのは、初めてなのだろうか。

厳粛な儀式の中、妖怪達さえ喧噪を止めていて。

雨音ですら、聞こえないほどに緊張が張り詰めている。

水源の側に護摩壇。炎が荒れ狂っている。

護摩壇の前にて舞う二人の巫女。一人は赤く、一人は緑。一人は暴の権化。一人は法の権化。

神楽舞が強力な和式魔法の一種である事は、魔理沙にも分かる。

興味深そうに紅魔館の魔法使いも見ている様子からも、それは明らかだった。

やがて、カタカタと神体が揺れ始める。

唸り声のような音も聞こえはじめた。

ドンと、衝撃が迸ったようだが。霊夢も早苗も気にもしていない。更に、衝撃波の到達は、白蓮と聖徳王が防ぎ切った。流石だ。どっちも図抜けた力を持っていることは知っているが。間近に見ると、以前スペルカードルールで勝負が出来たのが冗談のように思えてくる。

霊夢も早苗も、今の衝撃波をモロに喰らったはずだが。神楽舞を止める様子が無い。

あんなのを至近で受けてダメージがない筈が無いのだが。

それでもどうにでも出来るのだろう。二人の底力がこれだけでも分かる。

また、衝撃波が迸り。

魔理沙が半身を思わず起こそうとして、あうんに止められる。寝ているようにと。今は守られる者が少ない方が、二人への負担が減るのだと。ゆっくり諭される。

子供のようだけれど。やっぱり古くから存在している狛犬が人格を持った存在なんだなと思い知らされる。悔しいが、言われた通りだ。今、出来る事なんて一つも無い。

護摩壇の炎が、一気に激しく燃え上がった。

神体が、うめき声のような音を発しながら、一際激しく揺れる。

龍は、下級のものなら幻想郷にも出るらしいが。

そんなのとは完全に別格。

見るだけで怖気が走るような、とんでもない力が見える。魔理沙は思わず生唾を飲み込んでいた。

あんなものを、運んでいたのかと。

川として人間の生活そのものの根本として君臨し続け。

そして代償として多数の人間を喰らい続けた。

古代の信仰の権化が、その場で体を揺らしている。真っ赤だったその全身を幻視する。川の神なのに真っ赤。血の色か。

だが、神楽舞を淡々と続ける霊夢と早苗の前に、苦しみの声が更に激しくなり。

やがて、一点を超えると。

護摩壇の火が、ふっと静かになった。

同時に、大量の血のような液体が神体から流れ始める。あうんが説明してくれる。

「犠牲者の血です」

「何て量だよ……川なんかのために……あんなに死んだのか」

「そう、川なんかのために死ぬ事はなかった人達の苦痛の形です。 だから、古代から生け贄を用いる信仰だけは、どんな文明でも排除されていきました」

「そうだな……私も、それは正しいと思う」

大量の血を、即座に紫が処理し始める。

この場には、人間の血を見て目の色を変える妖怪だっている。

こんなものを川に流し込む訳にはいかないのだから。

スキマを使って紫が、神体から血が流れる先から回収している。

多分後で、何かしらの手段で処理するのだろう。

いずれにしても、普通の血じゃない。

怨念として、神体にずっとたまっていた、穢れに穢れた血である。神の力も帯びているし、尋常じゃ無い穢れも得ている。あんなもの、普通の妖怪が口にしたら、どんな暴走を引き起こすか分かったものじゃない。

霊夢が促し、早苗が頷く。

一度二人がその場を離れ、結界を白蓮と聖徳王が維持し続ける。血がまだ神体から流れている事から考えて、儀式は終わりではあるまい。

やがて、着替えて戻ってくる二人。

「禊ぎをして来たんですね」

「水浴びのことだよな」

「はい。 一度、強烈に浴びた穢れを排除してきたのでしょう」

あうんの解説が分かり易い。

少し疲れも取れてきたので。あうんに肩を借りて、座らせて貰う。後は座って、儀式の様子を見る。

魔理沙には、見届けるしか出来ない。だからこそ、此処は見届けておかなければならないのだ。

なお、眠気はなかった。

疲れ果てているのに。

恐らく、荘厳な気に当てられたから、なのだろう。

霊夢が大弊を手にすると、神体の前に出て、祝詞を読み始める。

同時に早苗が捧げ持つようにして柄杓を手に取り。

神体に対して、恐らく相当に清められたらしい水を掛け始める。

さっきまで、邪悪な赤い龍を幻視さえさせた神体からは。

今は静かな、守りの力さえ感じた。

だが、だからこそ。

それを今固定してしまわなければならないのだろう。

ざっ、ざっと音がして、大弊が振るわれる。

いつも妖怪退治のために雑に振るわれ、頭をかち割っているときの使われ方じゃない。

恐らくアレが、本来の使われ方なのだ。

祝詞もいつもの霊夢の声ではないようにさえ思えた。

非常に厳粛で。

咳払い一つ許されない雰囲気があった。

何を言っているのかは分からない。

分かるのは、古い古い言葉で、神に対して何かを訴えかけていること。そして、性質が変わった、それを受け入れていると言う事だ。

やがて、丁寧に早苗が綺麗になった神体を布で拭き始める。それも多分あれは、幻想郷でも貴重な絹だろう。

護摩壇の火は既に消えており。

やがて、霊夢は大きく礼をすると。

結界の外に歩み出て。

玉串をはじめとする、様々な捧げ物を手にし。神体に備えた。

もはや、あの邪悪で禍々しい気配は存在していない。

下手をすると、幻想郷を冗談抜きに転覆させかねなかった川の神は静まりかえり。

荒神としての姿を失い。

すっかり、静かなる川の守護者へと変わったようだった。

いずれ、他の幻想郷にいる神々のように。女の子の姿になって、人々の前に現れるのかも知れない。

それもまた、その時には受け入れなければならないだろう。

何度か溜息が漏れた。

神事が終わった事が分かったからである。

結界を、白蓮と聖徳王が張り直す。

同時に、霊夢と早苗が何か話をしているのが聞こえてきた。

「此処の管理はどうしようかしらね。 人間がやらなければならないけれど」

「私が面倒を見ますよ。 どうせ天狗の様子を確認もしなければなりませんし、何より荒神としての姿も残している諏訪子様にアドバイスも受けられますし」

「はあ、それをいうなら私もノウハウはあるんだけれどね。 良いわ、任せる。 ……くれぐれも、まだ気むずかしい神だから気を付けて」

「分かっています」

早苗が手を叩いて、山の妖怪達に解散を指示。

皆、それぞれ縄張りに戻っていった。

雨はもう止んでいる。

後は、縄張りを確認し、川が氾濫しないかどうかを調べる方が先決なのだろう。

この場に残った少数には。紅魔館のメイド長と門番、それに命蓮寺関係者が、暖かい飲み物を配っている。また、掃除もしてくれていた。

そういえば一応人間とされているメイド長は、作ったばかりの神社には入らない。

多分霊夢の指示だろう。

つくづく分からない奴だ。彼奴は自称人間らしいが、本当にそうなのかを聞くと、静かに微笑むだけである。

正体がまったく分からない謎のメイド長だが。

今回もまた謎が深まってしまった。

「この辺りでまだ肉の類は食べては駄目よ。 それは周知しておいて」

「分かっている。 それは此方で監視するから任せておけ」

霊夢が八雲藍と話をしている。

まあ妖怪の管理となると、八雲の仕事か。

魔理沙はまだ力が戻らない。

箒に乗って山を下りるには、もう少し時間が掛かりそうだ。

あれだけ降り続いていた雨が止んでから、もう雲間から光が差し込み始めている。

魔理沙が声を掛けようとしたが、霊夢が手を出して制止してきた。

「私は早苗ともう一度禊ぎをしてから帰るから、あんたは先に戻っていて。 それともあんたも禊ぎしていく? 冷たいけれど」

「いや、勘弁だぜ。 疲れ果ててて、死にそうなんだよ」

「そう、じゃあ家の風呂にコレを入れて入りなさい。 穢れは漏れないように白蓮と聖徳王が対応してくれたけれど、それでもあんたは神体を運んだんだから、相応に穢れを受けているからね。 人間は生きる過程で穢れを受けるものだけれど、それでも今回はちょっと生身で受けるには多いかも知れない」

そういって渡されたのは塩だった。

本当は祝詞を受けるのが一番良いらしいのだけれど、其所までする必要はないだろう、と言う事だった。

それなら、それでいいか。

あうんが肩を貸そうかと言ってくれるが、流石にそれは断る。その代わり、もう少しこの場で休みたいが。あうんに脅される。

「穢れが残っていると言われたでしょう。 お二人が祝詞でこの辺りの穢れを後でまとめて払うでしょうけれど、それまでは神体を刺激しない方が良いです。 出来るだけ早めに此処を離れましょう」

「おいおい、情けないなあ」

「弱っている時に誰かに力を借りる事は、恥でも何でも無いですよ。 ましてや魔理沙さんは、神体を掘り出したし、運んだし。 それで霊夢さんと早苗さんの力を温存して、儀式の成功への筋道を作ったじゃないですか」

「……」

立て板に水で、ぐうの音も出ない。

仕方が無いので、肩を借りて、弱々しく箒で浮き上がり。

そのままへろへろと帰って行く。

早苗が気を利かせてくれたらしく、妖怪の山の妖怪が数名、一緒について送ってくれた。ただ、低いところを飛ぶようにとも言われた。人里に見られると、あまり好ましくないという判断もあるし、落ちた場合怪我で済むようにと言う事でもあるのだろう。

山の妖怪は人里には畏怖の対象でなければならないのだ。

編隊を組んで綺麗に飛ぶ山の妖怪達に、魔理沙は呆れる。完全に組織化されている。

「随分隅々までしっかりしてるなあお前達」

「守矢のおかげだ。 多少息苦しいが、生活には困らなくなったし、弱いからといって排除されることも虐められることもなくなった。 それぞれの妖怪が縄張りの中で静かに暮らせるし、脅かされもしない。 畏怖だって集まるから消える恐れもない。 それなら、多少の義務くらいなら果たすし、言う事だって聞くさ」

「秩序って奴か」

「ああ。 その秩序のために何か理不尽があるなら、守矢に従わないかも知れないが……私達はそれで理不尽を受けてはいないからな」

示唆的だ。

魔理沙が幼いうちから人里を飛び出して、魔法の森に住み着いたことを、何処かで聞いたのかも知れない。

魔理沙にとって、幼い頃から押しつけられた秩序は悪夢そのもので。

下手をすると精神的な死を迎えるに等しい状態さえ招きかねないものだった。

だから、秩序に反抗する権利があった。

山の妖怪達は違う。

守矢そのものが、危険な集団であることは今も魔理沙は感じている。

だが早苗自身は良い奴だし。

利害さえ一致すれば、二柱だって今回のように幻想郷のために骨を折ってくれるのである。

だったら、魔理沙の暴力親父よりも、ずっと話が分かるし。

秩序の担い手としては納得だって出来る。

妖怪の山を離れると、後は二人で森に。

霧雨魔法店という看板は、ずっと雨に打たれていたからか、傾きかけていた。元々ボロ屋である。

何度も直して使って来ているのだ。

手伝うと言うので、頼む。風呂にさっきもらった塩を入れて、湯を魔法で沸かして入る。

殆ど魔法の力は残っていないので、今度こそ本当に眠くなった。

あうんが背中を流してくれたので、素直に好意に甘えることにする。

そういえばこのボロ屋。幼い頃は気にもしていなかったが、人里同様水も通っているのである。

一体何なんだろうな。

そう、ぼんやりしながら、魔理沙は思っていた。

風呂から上がって、後はもう抵抗する力もない。夕食はと聞かれるが、首を横に振る。はっきり言って、立っているのでさえつらい。

霊夢も早苗も、荒神の真正面に立って沈めた。あの凄まじい抵抗を受けて、疲れていない筈も無い。特に霊夢はぶっ通しで調査をしていた筈で、魔理沙以上に消耗していてもおかしくないはず。それなのに、他人を気遣う余裕さえあった。

まだ勝てない。

布団を敷いてくれるあうんに、礼を言うのが精一杯。

意識が落ちると。

後はもう、何もする事が出来なかった。

弱いな。

弱くて苦しいな。

そう、何度も思った。

 

4、夢を見た後に

 

あまりにも疲れると、夢を見なくなると言うけれど。

魔理沙は夢を見た。

体が若くて回復が早いから、かも知れない。

いずれにしても、あまり良い夢では無かった。

人里から依頼が来て、妹紅がやってくる。不老不死の、人里の自警団員では最強の使い手である。厳密には人間ではないのだが。今は人里で最後の壁とも言える自警団員最強の使い手をして、睨みを利かせてくれている。

数人がかりでスペルカードルールでの戦いをやって、勝った事はあるが。

霊夢なら兎も角、魔理沙で、しかも実戦で勝てる相手では無い。

ふん縛られる。

「悪いな。 コレも仕事だ」

妹紅はそう言う。ああ夢だなと分かる。此奴はこんな事言わないししない。

猿ぐつわも噛まされて、連れて行かれたのは霧雨家。

ゴミでも見るような目で魔理沙を見下ろす母。

鼻を鳴らす父。

妹紅は胸くそ悪いとでも言わんばかりに、その場を離れていった。

腹にいきなり蹴りを叩き込まれた。父による凶行だ。

痛みが薄いので、夢だと分かるが。兎に角腹が立った。この行為自体は、あの親父はやりかねないからである。

「好き勝手霧雨の家の名を汚しおってこの恥知らずが! 一生座敷牢に入れてやるから覚悟しろクズ!」

「あなた、おなかのこの子が育つまでは殺してはいけませんよ」

「ああ、分かっている。 跡継ぎが出来るのにこんなのが戻って来てはたまらんから、大枚はたいて捕まえてきて貰ったんだからな」

わめき散らしている霧雨家の戸がノックされる。

誰だと親父が喚くが。

静かに入ってきたのは、白蓮だった。

いつも笑顔で、静かに教えを説く白蓮。魔理沙も知る珍しいほどの人徳者だが。その顔からは表情が消えていた。

はっきり言って怖い。人徳者を怒らせると怖いと言うのは聞いていたが、魔理沙も思わず息を呑むほどの気迫があった。

「こ、これは御坊……」

「今のやりとり、許せる話ではありませんね。 魔理沙さんは私が引き取りましょう」

「し、しかしこれは霧雨家の問題で……」

「喝! まこと、今の貴殿らは外道である! その邪悪、許しがたし! 地獄に落ちたくなければ引け!」

白蓮が一喝。

周囲が揺れるような凄まじさだった。

白蓮の目が怒りに燃えるようだ。あの暴力親父が完全に腰を抜かしてへたり込んでいる。此奴、こんなに怖かったのか。縛られている魔理沙も、震えが来るほどだった。

いつの間にか、縄が解けていた。

「さあ、いきましょう魔理沙さん。 こんな所にいてはいけません」

あれ。

白蓮が助けてくれたはずなのに。

この顔は。

目が覚める。

何度か荒い息をついた。嫌に生々しい夢だった。

側であうんが、座ったまま眠っている。妖怪とはいえ器用な奴である。魔理沙が弱り切っている事を知って、ついていてくれたのだろう。

妹紅は、あんな事する奴じゃない。

言動は荒々しいけれど、義理とか人情とかは必要以上にわきまえている奴だ。

失礼な夢を見たかも知れない。

魔理沙は、頭を振って、舌打ちしていた。

白蓮はああいうことをしてくれる奴だろう。

それに対しては事実だ。

つい寝る前も、関係がない、むしろ利害では対立している妖怪の山のためにも。なんの躊躇も無く、力を貸してくれていた。

魔理沙が幼いときに、白蓮がいてくれたなら。

今でもそう思う。

だが、夢の最後。なんだろう。どうしてだか、白蓮の顔が、違う奴に。しかも、覚えがある奴に変わったが気がするのだ。

あうんを起こして、一緒に朝ご飯にする。

もうすっかり外は晴れていた。どうやら丸一日眠ってしまったらしい。こう言う日もたまには良い。

外で体操をして、軽く体を動かす。

すっかり魔力も戻っているようだった。

「どうだ、スペルカードルールで遊んでみるか?」

「遠慮しておきます。 私、実はあまり寝ていないんですよ」

「あ、そうか……すまない。 世話になったな。 いずれ礼はさせて貰うぜ」

「ううん、何かあったら頼ってください。 私みたいな、役に立てなかった狛犬には、それが一番嬉しいんです」

そうか、そうなのだろうか。

手を振ってあうんが帰って行くのを見送る。

そして、魔理沙はまた考え込んでいた。

 

人里に出向く。今回の件に魔理沙は主体的に関わったので、一応状態は確認したかったのだ。

妹紅と丁度出くわしたので、まず謝る。怪訝そうな顔をされたので、夢の内容を話すと。妹紅は呆れたようにため息をつく。

「霧雨の強欲親父の言う事なんぞ、金を幾ら積まれても聞かんから安心しろ。 それに私は金に興味が無いんでな。 必要なだけあればいいさ」

「分かっている。 それなのに失礼な夢を見たから」

「妙なところで律儀だな。 変な事で謝る前に、本を盗む手癖を直せ」

確かにその通りだ。

その後、人里であの大雨の時何があったかを確認。

やはり、川の辺りで手練れが備え。

洪水が起きたときに対応するべく、術が使える人間は総動員され。丘などに避難施設を急造して、備えていたという。

不意に雨が止んだので、霊夢と早苗が対応成功した事は気付いたらしく。

妹紅が主導して、緊急事態を解除したそうだ。

「私はこっちで忙しかったが見られなかったが、どうだった神事は」

「霊夢も早苗も凄かったぜ……。 まるで霊夢じゃないみたいだった。 早苗もこっちに来たばかりの時はあんなにアホ面ぶら下げてたのに。 霊夢の足を全く引っ張らずに神事してた」

「そうだろうな」

妹紅は見かけ通りの年じゃない。

見た感じは成人したばかりくらいの女性に見えるが、実際には千を遙かに超える年月を生きている。

だからこそに、色々分かる事もあるのだろう。

団子をおごってくれるというので、有り難くいただくことにする。

しばらく団子を頬張る間に、幾つかの話を聞かされた。

今回の件で、畑にどれくらい被害が出たのか、とか。

修理のために木材がどれくらい必要で、妖怪の山を支配する守矢と交渉が始まっているとか。

天狗が取材に来たとか。

なおやはり若手の天狗達で、取材はとても丁寧だったという。

「いずれ被害がまとまったら、あの姫海棠はたてが新聞を渡しに来るだろう。 彼奴はその場にいなかったのか?」

「流石にあの状況じゃ、取材どころじゃなかったからな。 多分神事の邪魔が入らないように、対応してくれていたんだと思うぜ」

「そうなると、あのレコーダーとかいう機械を首にぶら下げながら作業していたのかもな」

「プロ意識が高すぎる」

苦笑が漏れる。

妹紅は茶を啜った後、少し真面目な表情になる。

「今回の件をお前さんの出来る範囲内で綺麗にまとめられたことで、魔理沙。 お前さんの評価は幻想郷の管理者勢の中でかなり上がった筈だ」

「何だよ、私は昔から出来る奴だっただろ」

「真面目に聞け。 今後、多分もっと難しい仕事が来るようになる。 その時のために……死なないようにもっと色々と、身につけておいた方が良いだろうな」

「……分かった」

妹紅の言葉は重みがある。

分かっているからこそ、丁寧に聞く。

団子の礼を言うと、人里を後にする。後は博麗神社を見に行くが。霊夢はあくびをしながら、境内を掃き掃除していた。

手伝えと言われたので、手伝う。丸一日寝てしまったと言うと、霊夢はこれから寝るのだと返してきた。

「ずっと寝てないのか」

「二刻ほどは仮眠したけれど、本格的に寝るのはこれからよ。 白蓮と聖徳王と協力して、神社をガチガチに固めるのに結構手間取ったし。 あの水源の川に住んでいる妖怪に対する周知とか色々あったし、後始末もね」

「掃除だったら私がやるから、もう寝ろよ」

「あんたが?」

胡散臭そうに見られるが。いっそのこと、最初から魔理沙らしい言動の方が良いか。自分で自分らしいと言うのも変な話ではあるが。

菓子で手を打つというと。

霊夢はしらけた目で、そして苦笑いした。

「分かった。 棚に来客用の菓子があるから、それ食べて良いわよ。 それ以外は食べたら怒るけど」

「分かってるよ。 こっちの箒借りるぜ」

「好きにして頂戴。 ああ、魔法とかで手抜きしたら駄目よ」

「はいはい、ほらさっさと寝た寝た」

あくびをしながら行く霊夢。

これから風呂に入って、それで寝るのだろう。ちょっと心配だから、眠っているのを確認した方が良いか。

疲れ果てて風呂桶で溺死、何てのは洒落にもならない。

事実昨晩魔理沙も、似たような事をやりかけたのだから。

境内を掃除して、その間誰も来ない。

結構空を飛んでいる妖怪は見かけるので、人里はともかくまだ幻想郷全域で見ると厳戒態勢は解けてはいないのだろう。

人間は体力的に限界がある。

だから先に上がらせて貰った、という所か。

ふと、気付く。

掃除していて、振り返ると。音も無く、其所に八雲紫がいた。

妹紅の言葉を思い出す。

「霊夢なら多分今風呂だ。 風呂上がったら寝るだろうな」

「ええ、分かっているわ。 というか、もう寝ているわよ」

「そうか、じゃあ確認に見に行く」

「心配性ね」

くつくつと笑う紫。うさんくささに全振りした、いつもの得体が知れない妖怪に戻っている。

緊急事態だと理解したときの、あの頼りになる顔はもう何処にも無い。

今はいつもの、得体が知れない幻想郷の管理者。あるいはそう振る舞っている妖怪である。

確かに霊夢は寝ていた。寝相がとてもはしたなかったので、ため息をついて布団を掛け直し、毛布も掛ける。これで多分、足とか放り出して寝る事はないだろう。くつくつと笑う紫。

「あら、優しいじゃない」

「私もこうして貰ったばかりだからな」

「……」

「なあ、聞きたいことがあるんだが」

もう、魔理沙には分かっている。

あの暴力親父の所から逃げ出した時。あんなに都合良く幸運が続く訳がない。誰かが手引きしたのだ。

そしてそんな事をやりそうな奴は、決まっている。

慧音先生ではない。

あの人は、生徒には気を配ってくれるけれど、其所までの能力は無い。

妹紅でもない。

あいつには出来そうだけれど、本人は出張りたがらないだろうし。何よりももっと直接的に荒っぽい方法を採るだろう。だいたい魔理沙が幼い頃は、まだ妹紅は人里に其所まで出入りしていなかった。

だとすると、消去法で、残るは一人しかいない。

「何故、私をあの暴力親父から助けたんだ。 家まで用意して」

「さて何のことやら」

「……それについては感謝してる。 だけど、目的はなんだ? やっぱり駒を増やしたいと言うだけなのか?」

紫は静かな目で此方を見る。扇子で口を隠しているから、表情は分からないが。

いずれにしても、応えてくれる気は無さそうだ。

戦う気は無い。

もしも助けてくれたのなら礼を言わなければならない。それに多分此奴が主犯なら、きっとアリスも絡んでいるだろうから。アリスとは色々関係が厄介なので、対応が難しい。

「私は行くわ。 霊夢はもう危険も無さそうだし」

「……」

ため息をつく。

紫が幻想郷の管理者として、あらゆる面で骨を折っていることは分かる。だが、魔理沙はどうして助けられたのだろう。

掃除を終えた後、普段霊夢がやらないような家事もしておく。

片付けも済ませる。菓子ははっきりいって、さっき団子を貰ったのでいらない。だけれども、一応少しだけ貰っておく。その方が、面倒がなくて良いからだ。

縁側に座る。霊夢が寝息を立てているのが聞こえる。寝てはいるが。多分殺気があれば即応して起きてくるだろう。そういう所で、霊夢は生きてきた奴だ。

魔理沙はなんだかんだで守られてこの年まで生きられた。

もっと、強くなりたい。

霊夢の寝息を背中に。

魔理沙は、縁側で空を見つめ続けた。

 

(終)