魔王の面影

 

序、あまりにも有名なる曲

 

高崎宰(つかさ)は、激しく鍵盤に指を踊らせた。薄暗いコンサートホールの空間で、ピアノから迸るのは恐るべき暗き闇の表現。周囲が嵐の夜になったかのように錯覚させる、激しくも美しい黒の旋律。

その曲の名は、魔王。

激しいしらべは、高度な技巧によって再現される。相当に巧い人間でも手こずるほどの曲だ。眉をひそめたのは、一音ミスしたから。だが、そのまま一気に最後まで指を鍵盤に叩きつける。

嵐の中で行われる惨劇。それを見事に表現した戦慄を呼ぶ旋律。シューベルト自身が、自分でも弾くのは難しいと称した曲であるが故に。その芸術性は高い。著しく難しい曲だ。

自分はただこれを弾いているだけに過ぎない。シューベルトが表現したかったことは、恐らく余程の天才でもなければ再現できないのではないか。そう、いつも思う。子供の死で、曲は幕を下ろす。

やがて、空間に静寂が戻ってきた。

どうしてこんな難しい曲を、シューベルトは作ったのか。一体何を表現したかったのか。宰は長い髪を掻き上げて、痛む指をさする。激しく酷使するが故に、弾き終わるといつもこうなる。不意に拍手が響き渡ったので、振り返った。

「いやはや、相変わらず熱心だねえ」

「……」

視線の先で満面の笑顔を浮かべているのは、既に髪の毛が半分ほど過去の世界に去った中年男性である。体型もかなりだらしない。宰が通っている大学の学長だ。気の良さそうな笑みで評判の人物だが、実際には利権に聡い狸親父である。弛んだ頬が故に、ブルドッグと学生達にはあだ名されている。

宰がこの大学にいるのには幾つか理由があるが、弱みをこの男に握られているからというのが大きい。

「ピアノを習い始めて二ヶ月でそれとは。 君は音楽家としてもやっていけるのではないのかね」

「どのみち無駄です」

「ほう」

知っている。

宰は何かを始めると、大体が一流の手前くらいまでは行く。幼い頃はそれが故に、神童とか騒がれたものだ。しかし、その辺りで何をやっても壁にぶつかってしまう。大人達はそれを知るとそっぽを向き、友達と称して近付いてきた連中でさえ離れていった。今や宰の周囲には、ほぼ誰もいない。実の両親でさえ、途中からは自分に見切りを付けて、無難な妹をかわいがるようになった。

故に、どんどん性格がひねくれていった。

今、大学に通えているのも、幼い頃に名前を売った遺産に頼っているからである。マスコミが騒いだおかげでテレビ出演なども行い、それで随分お金を稼げた。幸い投資や浪費に両親が興味を示さなかったから、それが未だ通帳に残っている。ただ、それだけの事であった。

宰の人生は挫折の人生であったと言っても良い。何度も心が折れては立ち直り、またへし折られる。幼い頃無理に培われた誇りが故に、折れた時の打撃も大きく、一時期は鬱病になりかけた。

この自分の難儀な性質と、大学生になった今はどうにか向き合えてはいる。しかし、心に負った傷は一生癒えそうにない。

「ならば、何でこんな事をしているのかね」

「或いは、これであれば壁を越えられるかも知れないと思ったから」

「ふん、贅沢な悩みだ。 殆どの人間は、幾ら頑張ってもせいぜい三流程度になるのが限界だ。 それでもどうにか生きているというのにな」

嫌みを言われているのは分かる。だが、もう今更性格は変わらない。

変わることが出来る人間はいる。

しかし、宰は違うのだ。

学長の横を通って、ホールを出る。外に出ると、目映い光が辺りに降り注いでいた。

嫌みのように暑い日差しが、今は夏であると言うことを主張している。白いワンピースを着て出てきて正解だった、

黒縁の眼鏡を直すと、宰は図書館へ向かう。こう暑いと、生白い宰の肌には染みが出来てしまいそうだ。

宰は子供のように背が低いので、足もあまり長くない。だから、だだっ広い大学の庭を横切るのは兎に角骨が折れる。

図書館に着くと、学生証を見せて奥に。

ここしばらく、ピアノを弾いては、図書館に通う日々だ。奥の方の暗がりには、魔王が潜んでいそうな、本の海。ずらりと並んだ戸棚には、うっすらほこりを被った分厚い本が立ち並んでいる。

どうしてだろう。

魔王という曲に興味を持ってから、際限なく調べ物が増えている。

あの曲に、自分がどうして此処まで心引かれているのか、正直宰には分からない部分も多い。さっきブルドッグ学長にはああいったが、実際にはそれだけではない。

本棚に手を伸ばす。今日は生物学の方向から調べてみようか。そう、宰は思う。何冊か本を見繕う。

背が低い宰は、上の方にある本はどうしても取るのに難儀する。一生懸命背伸びして見るが、どうしても手は届かない。諦めて、脚立を取りに行こうと振り向くと。

其処には、いつの間にかへらへら笑う男がいた。

「よーお、つかさちゃん」

眼を細める。もちろん、敵意からだ。

馬場徹。最近やたらと絡んでくる此処の学生だ。元々長身で、背が低い宰から見ると頭二つ半大きいので、いつも見上げることになる。宰が脚立を必要とする本も、此奴は手を伸ばすだけで取ることが出来るのが、なお余計に腹立たしい。見本のような最近で言う「チャラ男」である馬場は、無精髭などを生やして、それで格好良いと思いこんでいる脳が足りない男であった。仮にも六大学の一つである此処に、どうして入れているのか不思議でならない。

「今日はこれかい?」

「……」

「そう睨まないでくれよ。 別に意地悪しに来た訳じゃないんだからさ」

宰が抱えていた本の一番上に、馬場が本を載せてくる。無言でそのまま読書スペースに移動。馬場も途中で適当に本を取り、ついてきた。見るとゲーテである。そういえば、魔王の題材になったのも、ゲーテの詩であったか。

読書スペースには、殆ど学生の姿はない。新聞を読みに来ている連中か、レポートを書きに来ている輩だけだ。日本版ワシントンウィークは貸し出されていたので、舌打ち。本を積み上げる。向かいに馬場が座った。

「それにしてもご執心だね。 そんなに魔王が好きかい」

「貴方には関係ないわ」

無視しようかと思ったが、突き放さないと延々と話し掛けてきそうである。そして、突き放しても、馬場はにやにやしたまま話し掛けて来続ける。

「そのクールな所、たまんないね。 変に夢ばっかり見てたり、男の気を引くことしか考えてない他の子とは偉い違いだ」

「ナンパならよそでやって」

「ハハハ、別に君を口説いているわけじゃあないさ。 性欲処理ならもう相手が幾らでもいるからね。 俺は単に君という存在を、良く知りたいだけでね」

さらりと言う馬場に呆れて顔を上げると、いつの間にか奴の表情は一変していた。今までのへらへらした笑いは既に何処にもなく、能面のように表情が消えている。

周囲の音が、消えたかのような錯覚を覚えた。

「あまり下手なことはしない方が良い。 帰れなくなるぞ」

ゲーテの詩集を閉じると、馬場は奥の闇に消えていく。

宰は、しばしその場で、身動きできなかった。

 

1、魔王の側面

 

高崎宰にとって、大事なのは。どうしたら壁を乗り越えられるのか。それだけだった。

自分という存在を把握できたのは中学生の頃だろうか。既に栄光の時代は終わりを告げていた。かって宰を神童呼ばわりして利益を貪っていたいたマスコミは、掌を返していた。金づるにならなくなった宰には見向きもしなくなったのである。それに伴い、周囲は離れ、孤独になりつつあった。随分荒れた時期もあったが、それも自力で克服した。

いつの間にか心が凍っていたが、それは仕方がないことであったのかも知れない。今や宰は、周囲の何にも期待していない。大学に通っているのも、夢を叶えるためでもなければ、やりたいことがあるからでもない。

将来自活するために、有利だから。ただそれだけである。

ある意味惰性に満ちた人生であり、退屈なことこの上なかった。しかし娯楽の類には、どうしても興味が見いだせなかった。どれをやっても、ある程度のところで腕前の上昇が止まってしまうのが目に見えていたからだ。

ひねくれた性格は、高校を出る頃には取り返しがつかない所まで来ていた。

周囲は全て実用一辺倒。部屋には無駄なものは一切無い。寝る場所、食事を作る所、ただそれだけ。バイトの類は殆どやらない。サークルにも入っていない。学業では上位の成績を収めているが、宰という存在を示しているかのように、どの科目でも一位は取れないのだった。

今日は珍しく図書館から本を持ち帰ってきた。途中、視線を結構浴びた。

子供みたいな容姿から、宰はそれなりに周囲から知られた存在らしい。特に一部の、嗜好が特殊な男子生徒は密かにファンクラブを作っているとか。耳が良いので、噂はどうしても聞こえてくる。迷惑きわまりない話であった。

住み込んでいるアパートに到着。本を下ろすと、ドアに鍵を掛けた。

さっきの馬場の言葉が、耳に残っている。あれは一体どういう意味だったのか。ベットに転がると、ぼんやり天井を見つめた。何にも興味が持てないから、酷い日はただそうしているだけで一日が終わってしまうこともある。

惰性の人生。

無意味な生活。

起き上がる。今は、一応魔王に興味がある。馬場の意味不明の脅しになど屈してはいられない。

借りてきた本を手に取る。ヨーロッパの生態系に関する本だ。いずれも英語の本だが、読むのは造作もないことだった。専門用語は、インターネットでも使って翻訳すればいいのである。

あらゆる角度で、魔王という曲を検証する。それが、今の宰には唯一の楽しみと言って良かった。

そもそも、シューベルトの魔王は、如何にして作り上げられた曲なのか。

ざっと調べてみただけでも、結構面白い曲である。

この曲はそもそも明確な題材がある。ファウストで知られるゲーテの詩を、曲にしたものなのだ。

内容的にも、中学校などで教材に取り上げられているため、日本でも知名度が高い。

瀕死の子供を抱えて、夜の嵐の中を馬に乗って走る男性。其処に魔王が現れ、子供を掠っていこうとする。

神の助けも天使の加護も、其処にはない。おぞましい怪物達が次々に現れ、やがて魔王は邪悪な本性を現してゆく。

最後には、子供は魔王の手によって恐らくは魂を抜かれたのか、息絶えてしまう。

話としては、それだけの短い内容だ。これをシューベルトが超絶的な表現力で、見事な曲に仕上げた。

天才が作り上げただけあり、魔王の不気味な雰囲気や、闇の表現。それに恐怖に包まれていく父と子の様子が見事に表現されている傑作である。最初に聞いた時は、宰も震えを感じたほどだ。そして、悔しくも思った。

天才という奴は、これほどのものを作れるものなのか。

何もかもが一流に届かない宰にとって、この曲はまさに未知の領域である。今は情報が何処でも手に入れるから、天才の創作物を目にする機会は増えている。当たり前のように、天才の作り上げたものに触れられる時代なのだ。

だがそれにしても、この曲は実際に凄い。だから、心引かれたのかも知れない。

図鑑を紐解き、ヨーロッパの植生について調べる。あの曲で、どんな夜の路を馬に乗って駆けているのか、より緻密に想像したいからだ。そうすることで、より完璧に魔王を弾けると、宰は思った。故に、シューベルトがこの曲を作った地域や、その民俗、挙げ句の果てに動植物についてまで調べているのである。

一番良いのは直接現地に足を運ぶことだが、残念ながら金がない。あるにはあるが、貯金も無限ではない。足を運ぶにしても、信頼できるガイドを捕まえられなければ、とんでもない外れを掴まされる可能性も高い。大体パックツアーだと、サラリーマンの一月分の給金がすっ飛ぶことも多いのだ。

しばらく図鑑を読み、集中して、気がつくと夜中になっていた。

頬を叩いて、酷使した頭を現実に引き戻す。様々な動植物の知識をえたは良いが、まだ足りない。

シューベルトにでもならないと、完全な情景の再現は出来ないのかも知れない。

鼻歌で、魔王を奏でてみる。

魔王が、そんなものでは駄目だと、虚空で嘲笑っているかのような気がした。

 

ぼんやり大学を歩いている。魔王のことを考え、次はどうやって奴のことを知ろうかと、戦略ばかり練っていた。逆に言えば、戦術面では進展がないという事でもある。

「つーかーさーちゃん!」

妙になれなれしい声に振り向くと、其処には知り合いであるテニスサークルの女主将がいた。如何にも爽やかな色合いのスカートを穿いていて、大学生活を謳歌していると全身で表現している。いつも不機嫌そうな宰とは好対照である。

「何、また助っ人?」

「お願い! 今回、手が足りないの」

「分かった分かった。 で、いつ?」

大会は三日後だという。ため息をつくと、宰は参加を了承した。

中学生の頃から、助っ人として声が掛かることが多かった。普段は見向きもしないというのに、勝手な話である。何でも女子のテニスサークルでは宰が来ると男子が多めに来るとかで、親善試合や大会では良く呼びに来る。どうせ殆どのサークルは異性を漁るものだ。真面目にやっているサークルも当然あるだろうが、特にテニスなどの清潔なイメージがあるスポーツサークルではその傾向が強い。

宰にとっては面倒なだけだが、一応見返りはある。宰が好物にしているチョコミントのアイスを何食分かおごってくれるのだ。

小柄な宰が出てくると、ダブルスでもシングルでも相手は確実に油断する。だから序盤から一気呵成に攻め立てて、一気に勝負を決めてしまう。これで二試合、場合によっては三試合は楽に勝てる。

だが、所詮宰は器用貧乏な人間だ。どうしても、本気でテニスをやっているような相手にはかなわない。技巧面では相手を凌駕しても、小柄なことからどうしてもパワーが足りなくなることが多い。

それでも、弱将テニスサークルにしてはかなり進むことが出来る。

主将も必要な時はいい顔をするが、それ以外の時は宰に見向きもしない。こう言う所でも、ミクロレベルの利権が絡んでいるのが面白い。良く政治が利権の世界だなどと言うが、ミクロな人間関係でもそれは同じだと、宰は思っている。少なくとも、芯から宰と友達になろうとしてきた人間など、今まで見たことがない。

「それと、みんながレポートも見せて欲しいって言ってるんだけど。 経済学、受けてる?」

「チョコミント三本追加」

「えー? 高いよー」

「丸写しする子がいるでしょ? 貴方が男寄せのために入れてるあの派手な子。 この間のペナルティの分よ」

そうはっきり言うと、主将は口を尖らせる。本当だったら二度と受けない所なのだが、それで勘弁してやると言っているのだ。それにしても六大学も落ちたものである。近年は入学人数が減ってきているからか、変なのがどんどん入ってくるようになってきている。まあ、それは宰も人のことは言えないが。

「それはそうだけど。 宰ちゃん、そんな事ばっか言ってると、友達出来ないよ? せっかく可愛いのに」

「ありがと。 褒め言葉だと受け取っておくわ」

もう対応が面倒くさいので、ひらひらと手を振ってその場を去る。携帯から大会の情報を調べてみると、この市だけで行われる小規模なものだ。まあ、これだったら或いは優勝を狙えるかも知れない。

優勝できたら、少しは気が紛れるだろうか。宰はそう思いながら、音楽ホールに足を運ぶ。普段は誰も使わないので、宰がピアノを弾くためだけに存在しているも同然の場所と化している。この学校には、今は吹奏楽部もいないのだ。学祭の時には外部から人間が呼ばれるが、その時はまた話が別。ピアノが片付けられて、ホール上で別の催し物が行われる事が多い。

今日もホールは真っ暗だった。

壇上に無言で向かう。ピアノを撫でると、おもむろに座る。誰も触っていない証拠に、魔王の楽譜がまだそのままにされていた。

見て覚えたヨーロッパの植物が、嵐の中揺れるイメージを、頭の中に作り上げる。梟辺りが、嵐の中を飛び回る様子もそれに付け加えた。不吉なイメージがあるワタリガラス(レイヴン)もそれに付け加えてみる。

ますます肉付けされる魔王のイメージ。

おもむろに、宰は鍵盤に指を走らせる。激しい曲調が指のダメージを加速していくが、一応これでも上達はしてきている。

激しい嵐の中、走る馬。農夫が必死の形相で、瀕死の子供を抱えている。

闇の中、嵐に翻弄される木の葉が水を飛び散らせ、馬の蹄が水たまりを蹴散らした。後ろから、農夫と子供の耳を打つ、魔王の重苦しい声。

魔王。正確には、原点では微妙に違う。だから、これも随分修正を重ねた。原点ではいわゆるサタンというような魔王ではなく、土着の神話の存在が歪められた、どちらかといえば「死神」的な存在として描写されている。

空を滑るように追ってくる、闇色の衣を纏った死神。その声に怯える子供を必死に抱きしめて、急ぐ農夫。農夫はもちろん死神の声を聞いているが、あえて聞こえないふりをしている。恐怖に包まれる子供を、心配させないためだ。

その虚勢を嘲笑うように、死神は徐々に闇の本性を現していく。農夫は逃れようとするが、死神の手は、その貧弱な抵抗を嘲笑い、子供の命をもぎ取っていくのだ。

今回は、一音もミスせず、弾き終えた。

もちろん、プロの演奏も何度となく聴いているから、自分が如何に下手かは心得ているつもりだ。だから、曲に対する知識を付けることで、補っている。

拍手の音。また学長かと思ったら、違った。

ホールの席の最前列に座って、此方を見上げていたのは、馬場だった。

「お見事。 だいぶ腕が上がったねえ」

「何時聴いてたの」

「そんな事はどうでも良いじゃないか。 ははは」

壇上に馬場は上がってくる。魔王の楽譜を取り上げると、奴はにやにや笑いを浮かべたまま、視線を此方の体に這わせてくる。

「よりにもよって、どうしてこの曲に、そんなにこだわるんだ?」

「何を警告しているかは分からないけれど、私にとっては重要なことなの。 余計な口出しはしないでくれる?」

「意思は固い、か。 もったいないことだ」

反論する気も起こらなかったので、ピアノの席から立つ。馬場は追ってこなかった。

女子生徒からは人気があるという馬場だが、正直気が知れない。何だか此方のことを全て見透かしているようで、気分が悪いのだ。

今度こそは、どうにか出来るかも知れない。

そう宰は思っているから、魔王に執着している。それを馬鹿にされているようで、流石に気分が悪い。

何でも出来るとはいつも言われた。だが、実際には何も出来ないのだ。

この苦しみを理解できる奴なんかいない。実際、昔は他の人間に何度だって相談した。教師や周囲の大人にも。

だが、宰を色眼鏡ごしに誰もが見ていた。だから嫌みを言っているのだとか、他の人間はどうのこうのとか、的外れなアドバイスしかもらえなかった。自分の壁は、結局自分で超えるしかないのである。

何が天才だ。何が神童だ。

魔王を弾いていると、怒りを叩きつけることが出来る。勝手に持ち上げた後、勝手に失望して、宰の人生を滅茶苦茶にした周囲に対する怒りだ。十年以上もじっくり熟成されているから、魔王という闇そのものを表現する曲に対しては丁度良かった。

だが、それでも。

まだ、宰は感じている。自分の弾いている魔王が、とてもではないがプロの奏でるものには及ばないと。

大股で歩く。苛立ちが、宰の歩みから、余裕を奪っていた。

どうすればいい。どうすれば壁を乗り越えられる。

やはりリスクを承知で、貯金を削ってでも現地に行くべきなのか。もっと詳細な研究をしているレポートを、高い金を支払ってでも取り寄せるべきなのか。来年から研究室にはいることになるから、教授に頼めば出来るかも知れない。だが、それは宰のプライドが許さなかった。

この大学に入ったのでさえ、落ち目になっている学長が、宰を見下すために「入れてくださった」結果である。学長と個人的なコネクションがあった両親は学費を免除すると聞いて飛びついた。結果、宰は学長に見下されながら、今も大学に通っている。

吐き気がする。結局今でも、宰は周囲に振り回されどうしだ。変えたいと思って努力を続けてきた。だが周囲の人間は、誰もが嘲弄混じりにこう言うのだ。

努力が足りていないからだ、と。

「宰、ちゃん?」

「何!?」

声を掛けてきたテニス部主将が、振り返った宰を見て後ずさり、何でもないと言って逃げ去っていった。

呼吸が荒くなってきている。

胸が少し苦しい。

深呼吸すると、宰は図書館に足を運ぶ。

何が努力が足りないだ。お前達が遊びほうけたりしている間、ずっと努力を続けてきた。それなのに、どうして壁を超えられない。どうして私は、何もかもが一流に届かない。才能が無いと言うことは悪なのか。悪だというのか。

反復練習は何万回何十万回とやった。それでも、どうしても壁は超えられないのだ。何が努力すれば報われるだ。何が達成できないのは努力が足りないからだ。今になって宰は思う。自分は、頭が悪いのだと。だから、何をやっても、結局一流に届かない。

そして、周囲の誰もが、一流でないことを笑う。

持ち上げてきた連中が、ことごとくだ。器用貧乏。無能。役立たず。何度そう言われて、枕に涙を吸わせたことか。

誰も見ていない暗がりにいることに、宰は気付く。

涙が、こぼれ落ちていた。己の不甲斐なさに、心が折れそうだった。

「何よ、一流って。 どうして私は、そこに行けないのよ」

乱暴に涙を擦る。

頭を振って、弱気を追い出す。今度こそ、今度こそ超えるのだ。そして、自分を馬鹿にした連中を見返してやる。

努力が足りないのだというのなら、何万倍でも何十万倍でもやってやる。それでもだめなら、人生が全て灰燼に帰してでも努力してやる。

アプローチを変えることを思いつく。

宰は、魔王について調べてみようと思い、悪魔学の本を探して、図書館を歩き始めた。

 

「ねえねえ、聞いた?」

噂好きの小鳥たちが囀る。情報を交換するために。或いは、相手よりも優位に立つために。

或いは、ただそれが好きだから。

それによって他者に不利益が生じることなど、考えもしない。コミュニケーションなどと言うのは、そういうものだ。要は自分が気分が良ければいいのである。言葉で表面だけを繕う手段が、人間が言うコミュニケーションだ。

「あの神童ちゃん、今度はピアノやってるらしいわよ」

「あのちびっ子? ピアノって柄じゃないでしょ。 発育悪すぎて、足がペダルに届かないんじゃないの?」

けたけたと笑い声が響く。大学の講堂の中、喫茶室だ。

誰もが知っている。自分たちと同じ大学に通う神童を。幼い頃は、いつもテレビに出ていたからだ。テレビに出ていた頃はいつも天使みたいな笑顔を浮かべて、難しい問題を解いて見せたり、優れた運動能力で茶の間を湧かせた。

だが、その内誰もが飽きた。だから、いつの間にかテレビからも消えた。

大学に入って、テレビに出ていた頃の姿のまま神童が其処にいることに気付いて驚いた者は少なくない。殆ど変わらない容姿のまま、高崎宰は大学生になっていた。そして、その顔からは、あの天使のような笑みが消えていた。

良くも悪くも目を引く容姿であるから、近付く女学生は多かった。男子学生の中にも。神童は相変わらず何でも良くできた。だが、その内、誰もが気付くようになった。何でもかんでも良くできるが、「良くできる」止まりである事を。

良く言う、二十歳過ぎればただの人という奴である。

それでも、並の人間よりはずっと何でも良くできた。だが、それが却って良くなかった。

元より、自分より優れた存在に、人間は嫉妬する。いつしか、彼女は嫉妬と陰口の対象となっていった。

「ねえねえ、今度合コンに連れて行ってみようか。 きっと受けるよ」

「どうせ役にも立たない勉強とかしか出来ないだろうしね。 あたしらがいい男ゲットするのに活用して、何が悪いんだっての」

「同感」

黄色い笑い声が響く。

人間は、理解できないと思った相手のことを、とことん見下す。理由など何でも良い。

気にくわない、というものでもよいのだ。

相手が気にくわないからと言う理由で、徹底的に宰をこき下ろしていた女学生達は、やがて話題を変える。

「そういえば、ちょっとチャラいけど、かっこいい男子がいるの知ってる?」

「ああ、法学部の馬場君?」

「そうそう。 でも、ちょっとショック。 あいつ、ロリコンらしいよ」

「マジで?」

俄然一方の小鳥が真剣になる。

だが、もう一方は、これを笑い話として進めていた。

「この間、見ちゃった。 彼奴、神童ちゃんにまとわりついてやんの」

「ええー? それ、本当?」

「本当本当。 彼奴絶対ロリコンだよ」

失望した様子の小鳥と、げらげら笑うもう一方。彼らにとっては、高崎宰が同い年である事などどうでも良い。

ただ、脳内で、「自分より下の存在」にできればそれで良いのだ。

以上の全ての会話を拾っていた馬場徹は、口の端をつり上げていた。趣味で幾つか喫茶に盗聴器を仕掛けているのだ。人間は見られていないと思うと、面白半分にどんなことでも口にする。

それがまた、徹には面白い。

「俺がロリコンねえ。 言ってくれるじゃないか、何ら主体的な意志も能力もなく、惰性で生きているだけの小鳥の分際で」

斜面になっている草地に寝ころんでいた徹は、大きく欠伸をした。ラフな過ごしやすいウォッシュシャツは胸元を大胆に開けており、ダメージジーンズは粗雑な作りであるが故に、却って彼の存在感を増す手助けをしている。

だが、そんなものはうわべだけのものだ。殆どの人間は、彼の内面に何が秘められているかなど、気付きもしない。

徹には目的があった。

まだ、熟成されていない果実がある。それを熟成させるには、様々な手間暇を掛ける必要がある。

徹にはよく分からない。人間はどうしてこう、うわべを繕う技術ばかりを優先するのだろうか。例えばあの高崎宰は、何でもマルチにこなせる便利な人材だ。使いどころを間違えなければ、かなり広範囲で活躍できる。それを、嫉妬と陰口で精神的に引きずり下ろし、痛めつけることで快楽を得るためだけの道具にすると言う、大変な浪費をこの大学の人間達は行っている。

体を起こすと、空を見る。

流れていく雲はただ白い。人間の心もああだったら、逆につまらないだろうと、徹は思った。自分が万物の霊長だと信じ込んでいる連中の愚行こそ、徹にとっては退屈しのぎの格好の材料。盗聴などと言う事をやっているのも、それが故だ。

さて、苦労しながら高崎宰は魔王について必死に調べている。どうしても壁を超えられない元神童の涙ぐましい努力だが、さっぱり報われることがない。才能とは残忍だ。やる気の欠片もない奴が、毎日努力を続けている奴を手玉に取ったり、もてあそぶように踏みにじったりもする。

努力が報われるなどと言うのは大嘘だ。もちろん努力は続ければ必ず実を結ぶ。だが、才覚の差をそれで埋められるかは微妙である。ただ、才能があると言うだけで。血が滲むような努力の結果を踏みにじっていくような存在も、実在している。

宰はそんな存在達に、ずっと踏みにじられ続けてきた。

だから、放っておけばいい小鳥どもの囀りに傷ついているのだろう。それがまた可愛らしいのだが。

意固地な性格をしている宰だから、多分警告すればもっと深みにはまるだろう。後は、最後の最後で収穫すればいい。

その時が、徹には楽しみだった。

 

2、其処にある闇

 

悪魔に関する本をざっと三十冊、一週間ほどで読み終えた宰は、激しく疲労しているのを自覚していた。

途中出たテニスの大会では、予想通り準決勝止まりだった。途中までは順当に勝ち進めたのだが、決勝で出てきた大まじめにテニスをしている大人のテニスプレイヤーにはどうしてもパワー技量ともに及ばなかったのである。

だが、別にそれはどうでもいい。

読めてこないのだ。シューベルトが考えた、魔王という存在について。どうしても。

キリスト教の神学についての本は、山と漁った。その過程で、キリスト教で唱えられてきた悪魔についても散々調べ上げた。

キリスト教において、悪魔というのは基本的に天使が堕落した存在であるとされている。有名なルシファーにしてからがそうであり、一説には彼に従って天使の九割が神の下を去ったのだとも言う。

そして全知全能なる神がなぜ彼らを見逃しているかというと、人間を試すためなのだそうだ。

様々な説はあれど、大筋では大体そんな内容である。

グノーシス主義のように、聖書に言及されている神こそが悪であると断ずる変わり種も存在するが、あくまで例外である。シューベルトが生きた時代のヨーロッパで、キリスト教における魔王と言えば、堕天使のことを指すのだ。

キリスト教における悪魔の定義として、もう一つ特徴的なものがある。それは、違う宗教の神を、ことごとく悪魔呼ばわりしていると言うことである。堕天使をデビルと呼ぶのに対し、此方をデーモンと呼ぶという定義も一部で見られるが、実際にはキリスト教の神話には無数の他の宗教が取り込まれており、こじつけの説明に過ぎない。例えばクリスマスにしてからが、元はキリスト教の祭りではないのだ。

どうもシューベルトが言う魔王は、この異邦神の一種であるらしいことは、調査の開始時から分かっていた。それもどちらかというと日本人が魔王と聞いてイメージする強力な存在と言うよりは、都市伝説に登場するような得体が知れない死を運んでくる謎の存在、というようなイメージである。

其処までは、別に悪魔学を調べるまでもなく、辿り着くことが出来ていた。

だが、しかし。

それでも、シューベルトの心は見えてこない。ピアノを弾いていても、どうしても違和感が先に出てきてしまうのだ。

アプローチの仕方を間違えたのかと、宰は頭をかきむしった。元々神学など、言った者勝ちの学問である。元が人間の精神の中にしかないから曖昧で、説を唱えればどんなに滅茶苦茶であっても成立してしまう。それが故に、読んでいて疲弊も溜まる。それぞれの好き勝手な主義主張を、代わる代わるに見せられているかのようだからだ。

同系統の一神教であるイスラム教で、ランプの魔神と言えば、願いを叶えてくれる存在として日本でも知られている。これに限らず、階級分けされているイスラム教の悪魔は、善良な者も存在すると設定されている。

キリスト教でも、古い時代の悪魔は、さほど邪悪な存在だと考えられてはいなかったらしい。全てが邪悪で人間を悪の道に引きずり込む存在とされたのは、後々のキリスト教における思想の整備が影響している。

だが、シューベルトが生きたのは、そう言った思想も薄れてきている時代の筈だ。

しかしながら、それが故に逆に分からなくもなってきている。彼は一体、どうしてこのような挑戦的な曲を書いたのか。

ただ、魔王の恐るべき力に翻弄され、命を為す術無く落としてしまう哀れな子供。

恐怖に苦しむ子供を救おうとして、どうにも出来ない親の必死なあがき。

彼らが苦しむ様を見て、楽しみたかったのか。いや、この曲には純粋な恐怖を感じることはあっても、悪意は覚えない。実際弾いていて、超絶的な技巧を要求される事はあるとしても、それ以上の失敗させてやるとか、恐怖にもがき苦しめとか、そういった要素は感じないのだ。

実際にプロに聞いてみるかとさえ、宰は天井を見つめながら思った。

安アパートの染みがついた天井では、豆球だけが点いた蛍光灯が淡い光を放ち続けている。

気付く。宰は、徐々に正気を失い始めているのではないか。あの薄明の蛍光灯のように。体を起こして、周囲の悪魔学の本を集める。返してこなければならない。やはり都市伝説の方向からアプローチしてみるか。それとも、シューベルトについての研究書にでももっと深く目を通してみるか。

全身がだるい。熱があるかも知れない。少し、咳も出た。

冷蔵庫を漁って、残っている牛乳を出す。賞味期限を三日ほど過ぎているが、そんなもので壊すほど柔な腹ではない。さっさと飲み干して、返す期限が来ている本を抱えてアパートを出る。小柄だから、どうしても重労働だ。どうして背が全く伸びなかったのか、よく分からない。幼い頃から計画的にカルシウム類は摂取していたのに。

図書館の受付に、本を出す。

遠くの読書コーナーで、ひそひそ宰の陰口をたたいているのが聞こえた。

「何あの子、今度は悪魔学だって」

「黒魔術でもやるつもりなんじゃないの」

「何それ、バッカみたい。 意味あるわけないじゃんそんなの」

「あの子って自分を天才だと思ってるみたいだから、普通のおまじないとかじゃ満足できないんじゃないの? 一回りすると、人間ってやっぱり馬鹿になるよね」

聞こえないと思って、言いたい放題だ。だが、放っておく。

昔はあの手の輩に、文句を良く言いに行った。だがそうすればそうするほど、状況は悪化した。喧嘩になったこともあるし、殴り合いだってした。やはり一流には届かなくても、一応は武術もやっていたから、背丈で劣っていても大概の相手には勝つことが出来た。だが、相手が悔い改めるようなことは一切無かった。そればかりか、更に下劣な手段での攻撃を繰り返してくるのだった。

この手の品性下劣な存在には、何を言っても無駄だ。所詮自分が楽しむことしか考えていない。だから、もう放っておく。

他人を貶めることで、自分が偉くなったつもりになるのは、人間のお家芸だ。それを自分の身で散々味わってきた宰は、彼らの愚かさに怒りを覚えると同時に、哀れにも思えてしまうのだった。

熱っぽい。咳はないし腹や喉が痛むようなこともないが、全身がだるい。風邪でも引いたのだろうか。

薄暗い図書館の中で、宰はふと気付く。

柱に背中を預けて、腕組みしている馬場。

「どうした。 煮詰まってるんじゃないのか」

「あんたには、関係ない」

「おう、冷たい言葉だねえ。 ぞくぞくするよ」

側を通り過ぎようとした所で、後ろから声が飛んでくる。

「すぐ側にいる他人の心が分かるのに、どうしてシューベルトは分からない」

「放って置いて」

「答えはもう、自分でも出ているんじゃないのか。 本なんか借りても無駄だろう。 如何にディテールを詰めたって、どうしても見えないものは見えやしないよ」

振り返って、思うままの怒りを叩きつけようとして。

其処に、既に馬場がいないのを見て、肩すかしを食らった宰は、思わず呻いていた。今其処にいたのに、彼奴は何処に行った。柱の裏側も覗いてみるが、いない。文字通り、狐にでも摘まれたような気分だ。

思わずへたり込んでしまう。

呼吸が荒くなってくる。多分、かなり熱がある。しかし、助けを呼ぶのはいやだった。以前助けてくれた相手が、法外な対価を要求してきたことがあったのだ。誰も信用できない。

柱を手に、何とか立ち上がる。

家まで戻れば置き薬がある。受付で呼び止められそうになり、焦燥を胸中で踊らせながら足を止める。額にびっしり汗を掻いているのを見て、受付は意地悪げに言う。

「荷物を見せてもらえますか」

「好きにどうぞ。 何なら脱ぎましょうか」

「いえ、其処までは結構」

荷物を漁られる。

他の学生はみんな化粧品やら何やらを山と詰め込んでいるだろうが、宰は教科書類や、ノート、ルーズリーフだけだ。しばらく勝手にバッグを漁った挙げ句、舌打ちして受付は返してくれた。

「どうぞ。 行っても良いですよ」

返事もせず、さっさとその場を離れる。視線は、嫌いだ。

此奴が向けてきているように、宰をどう貶めようか、考えているものばかりだからだ。

外に出ると、急激な温度変化で、意識が飛びそうになった。異常に冷やされている図書館は、初夏の今は避難場所にもってこいかも知れない。しかし朝の内に此処に来たから良かったものの、昼に外に出ると、やはり体調を崩しかねない。

アパートまでは、そう遠くない。学生達がひそひそ陰口をたたいているのが分かる。

子供の頃、変に目を引く容姿で、神童などともてはやされなければ。こんな事にはならなかったのだろうか。

有名税だとか言う勝手な言い方もあるようだが、吐き気がする。

びゅんびゅん車が行き交う側の、狭い歩道を歩く。何度か人にぶつかりそうになった。もう、あまり前が見えていない。こんなに急激に悪化して、どうしたのか。今までの疲労が一気に風邪を進展させたのか。それとも、もっと質が悪い病気か。

アパートが、見えた。

ドアになついてしまう。呼吸を整えながら、胸を押さえる。殆ど前が見えないが、臭いや雰囲気で、自宅だと言うことは理解できる。アパートの隣室の住人なんか、挨拶だってしない。最初こしてきた時は挨拶をしたのに、どこからか噂を聞きつけて、すぐに陰口をたたくようになった。

頼れる奴なんか、いない。

ドアを開けて、中に。薬、飲み薬。

ドアを閉めたかどうか、分からない。周囲が歪んで見える。ベットに倒れ込む。薬、飲まなくては。

そう思っている内に、意識は途切れた。

 

空に浮かんでいた。

見下ろしているのは、19世紀初頭のヨーロッパ。シューベルトが生きていた時代だ。既に騎士道は過去の産物となり、キリスト教の絶対的支配もたがが緩んでいた。その一方で、ヒステリックな魔女狩りなどが行われる地域もあり、必ずしも近代とは呼べない時代であったのも確かである。

貧しい、くたびれた格好の青年が働いている。

シューベルトだ。もじゃもじゃの髪の毛で、丸眼鏡をした、如何にももてそうにもない若い男が歩いている。コートはよれよれで、靴は破れているのが分かる。お洒落など、欠片も興味がない、枯れた雰囲気。音楽にしかその目を向けない、本物の天才。

多くの天才作曲家がいたこの時代では評価されず、後の時代に知られ、多くの作家の指標ともなった人物だ。

シューベルトが面白くも無さそうに、小さな工場に入っていく。仕事場である。

若くして夭折した彼も、働かなければ生きてはいけなかった。働きながら、多くの歌曲を残したのだ。仕事は決して熱心ではなく、やる気は見えない。工場でも、馬鹿にする声の方が多いようだった。

似ていると、宰は思った。

だが、認めなければならない事もある。シューベルトは、宰よりもずっとずっと強い。その証拠に、どれだけ同僚に馬鹿にされても、まるで顔色一つ変えない。いや、これは。

「そうか、興味が全くないんだ」

呟く。

独り言は滅多にしない宰だが、時々口から考えが漏れることがある。確かに、まわりの人間を猿か何かと思えば、多少囀った所で別に何ともない。五月蠅いかも知れないが。傲慢な考え、ではないはずだ。シューベルトの孤独を造り出したのは、周囲なのだから。なぜそんな連中に、土下座をして仲間に入れてくださいと卑屈に頼まなければならないのか。何か前提がおかしいのだ。

仕事を終えると、シューベルトはさっさと家に帰る。友人は何名かいるが、いずれもがシューベルト個人よりも、その才覚に惚れ込んでいるようだった。彼らがしているのはいずれも先行投資であり、貧しいシューベルトが買えないような高級音楽用品などをぽんと手渡している様子である。

だが、彼らにもシューベルトは心を開いている様子はない。

だが、ピアノを弾いていて、思う。シューベルトの作る曲には、いずれも心がこもっている。魂が秘められているといっても良い。シューベルトは一体誰のために曲を作っていたのだ。

これが、分からない所だった。

自分のためというのも、少し違う気がする。

かといって、このシューベルトが、誰か他人のために動くとは思えないのだ。そもそも、他人に興味があるようには見えない。

魔王を調べるのと同時に、シューベルトのことは散々調べ上げた。多分今見ているのも、その蓄積した記憶が映像化したものだろうという事くらいは見当がつく。それなら、無駄ではないかとも思うのだが。どうしてか、シューベルトの行動から、目が離せないのだった。

シューベルトは貧しい家に一人で暮らしているようだが、やたらと立派なピアノが部屋に置かれている。汚い部屋だというのに、ピアノの周囲だけはとても綺麗に整理されていて、磨き抜かれているようだった。

シューベルトは仕事から帰ってくると、食事も後回しにして、ピアノの前の席に座る。何度か鍵盤を叩いたりペダルを踏んだりしていたが、やがて滅茶苦茶に指を動かし始めた。凄まじい、火が出るような勢いであった。

それは曲でさえない。

何処かで、ぞくぞくしてきている自分に、宰は気付く。

何だろう。シューベルトは間違いなく天才だ。一流以上の超一流だ。自分がどうしても到達できなかった場所にいる男だ。

だが、その一端に、今触れようとしている。

シューベルトが叩き慣らしているのは、曲でさえない。多分楽譜はオタマジャクシの群れの中に、いきなりタガメを放り込んだような有様だろう。激しく叩き慣らしていたリズムの中で、不意にシューベルトは動きを止めた。

その口の端に、狂気の笑みが浮かび上がった。

髪の毛をかき回す。フケが辺りに飛び散る。

乱暴に取った紙に、筆ペンを縦横に走らせ始めるシューベルト。その口元には、ずっと笑みが浮かび続けていた。

論理を超えた情景だ。この男、完全に狂気の中にある。

だが、しかし。次にシューベルトが弾き始めたのは、あまりにも高名なる彼の代表作の一つだった。

非論理の極みである狂気の結果、論理の極みである名曲が生まれ出る。嬉々としてそれを弾き挙げたシューベルトは、満面の笑みを浮かべて、紙に人間業とは思えない勢いで楽譜を書き上げていくのだった。

天才。

分かっている。そんな事は、知っていた。理解が出来る相手ではないと、最初から悟っていたはずなのだ。プロはどうこれと折り合いを付けている。ただ曲とだけ見て、技巧だけで弾いているのか。その割に、どのプロも感情と魂が籠もった演奏をしているではないか。

頭を抑えて、呻く。

分からない。理解の外にある世界だ。だから、自分は一流になれないのかと思うと、涙がこぼれてきた。これを理解できれば、一流の壁は突破できるのか。この長い陰鬱なトンネルから、抜け出せるのか。

ふと、目が醒めた。

自室だ。全身、ぐっしょりと汗を掻いていた。まだ全身がだるいが、玄関に出てみると、鍵はどうしてか掛かっていた。

本能とは凄いなと考えながら、ベットに戻る。寝汗を掻いたから、風邪もすぐに治るはずだと自分に言い聞かせて、今日は休むことにする。咳はまだ少し出る。とっておいた冷凍食品を電子レンジで温め、苦い風邪薬の顆粒を一緒に飲み込むと、布団に潜り込んで目をつぶった。

すぐには、眠れない。

そういえば、パジャマさえ着ていなかった。着替えようかと思ったが、そんな気力も残っていない。

一人暮らしだと、どうしても風邪や病気の時体の負担が大きくなってくる。風邪を早く治さないと、本当に死ぬかも知れない。両親は宰が死ねば保険金が入って御の字だと思っているくらいである。一週間は死体も発見されず、発見された所で誰も悲しむ人間などいないだろう。

だが、死にたくない。

誰も宰が生きていて喜ばないとしても、生きていたいのだ。皆が嘲笑う存在は、死んで周囲を楽しませる必要があるとでも言うのか。生きていてはいけないというのか。

喧嘩した相手に死ねとか言われたことも何度もある。陰口の中に、むかつくから死ねばいいのにとかいうのも、何度も含まれていた。

多分軽い気持ちで言っていたのだろう。つまり宰の命など、周囲から見れば軽く死を願える程度の存在でしか無いと言うことだ。

自尊心は、きっとある。自分が大嫌いだとしてもだ。

だが、それ以上に。やはり、何処かでそう思うと、心が傷つくのを感じた。

ずっと眠っていたせいか、眠れない。

布団の中で丸まって、呻いた。

貯金はまだ残っている。だが、もう限界が近いのかも知れなかった。

 

3、人の垣根

 

ただでさえ細いのに、どうにか風邪を乗り越えると、げっそりと痩せていた。鏡の前で、情けないほど細くなった自分を見て、宰はげんなりしていた。この世の中で一番嫌いな存在こそ自分だが、これは益々好きになれそうにもない。

三日ほど休んだが、授業の日数は足りている。成績は基本的に上位陣に食い込んでいるし、一度や二度休んだ程度ではびくともしない。まずい朝食を作って胃に入れて、大学に出る。

嬉々として作曲に励むシューベルトの夢を、歩きながら思い出していた。

あれは夢だ。自分が得たシューベルトの知識から造り出された幻覚の筈だ。だが、それにしては妙にリアルだった。細部はあれからネットなどで確認したのだが、それも全部一致していた。

シューベルトは天才で、孤独だった。

だが、宰とは根本的な点から決定的に違った。それは分かるのだが、具体的に何処かは特定できない。自分を変えることは容易ではない。変えることは出来るなどと世間では安易に言われているが、宰は出来たためしがない。

論理的ではないことは分かった。そうなると、感性とか、才能とか、そういう問題なのか。やはり、才能が元から無い宰には、どうにも出来ない問題なのか。

一生、負け犬のままでいなければならないのか。

大学に着く。

朝一の経済学、その次の英語、更にドイツ語と順番に出た後、教養課程の授業を受けておく。ルーズリーフに筆を走らせていると、笑顔で女子学生が何人が寄ってくる。此奴がいつも陰湿な陰口をたたいている事を、宰は知っている。

「宰ちゃん、お願いがあるんだけど。 ノート、写させて?」

「私の陰口叩くのを止めたらね」

「え?」

「知らないと思ってるの? あいにくだけど私は自分が天才じゃ無いことくらいは把握しているよ。 だから、少しでもマシになれるように努力してるのに、それさえも貴方には滑稽なのかな。 要は私を貶めて、自分をそれより上にしたいって思っているだけでしょう? 私を貶めても、貴方がそれより上になるって事はないって、どうして気付かないのかな」

慌てた様子で女子生徒が辺りを見回す。他の生徒は、知らない振りをして、そっぽを向いていた。

席を立つと、宰は講堂を出る。

呆然と、女が宰を見送っていた。

今日の授業は此処までだ。一旦アパートに戻ると、借りたままの本を取ってきて、図書館に返す。二つ、期限を過ぎているのがあった。上から下までねめつけるように受付は宰を見つめたが、もう怒る気もしなかった。

「どうして返却が遅れたんですか?」

「風邪を引いて寝込んでいました」

「だらしない生活をしているから、風邪なんか引くんじゃないんですか?」

一方的な物言いである。宰はいつもきっちり受付に期日を守って返しているのに、一回駄目だっただけでこれか。しかも、今嘘をつかずに応じているのだが。まあ、悪いのは宰だから、仕方がない部分もある。さぞやこの受付は完璧な人生を過ごしていることだろう。だから、黙って怒られる。

文句をぐちぐち言われた後、やっと解放された。今日は本を借りる気にもなれないので、奥にぶらりと足を運ぶ。

本は嘘こそつくことがあるが、それでもその場にじっとしているだけ、人間よりも随分接しやすい。後でまた魔王を弾いてみるとして、今日はそれとは関係なく、気分転換に適当に読むとしよう。

そう思って本棚の間を彷徨いていると、不意に視線を感じた。

振り向くと同時に、自分の少し上に腕を置かれる。馬場だった。至近の上から覗き込まれるような格好になって、気味が悪い。

「よお。 まだ全快とは行かないみたいだな」

「さぞや嬉しいでしょうね。 私が弱ってて」

「あいも変わらずの被害妄想だな。 そこがまた可愛いんだけどよ」

「私は人形じゃない。 可愛いなんて言われても、嬉しくない」

退いてと、本棚と馬場のアーチから抜ける。馬場はにやにやしたまま、宰の虚勢を見透かしている様子だった。

「何か、ヒントは得られたか」

「考えれば考えるほど分からないわ」

「それがいけないんだよなあ」

「……なんですって!」

振り返ると、いつの間にか、馬場は其処にいない。吐き気がする。相も変わらず、訳が分からない。

彼奴は、一体何者か。いわゆるチャラ男にも見えるが、それにしては雰囲気が妙だ。本能に振り回される薄っぺらい同年代の男とは違って、底知れない何か得体が知れない不気味さも湛えている。

適当に経済関係の雑誌を借りると、読書コーナーへ。

しかし、読んだところで、まるで頭には入ってこなかった。

 

雨の中、必死に馬を走らせる。

乗馬は少しだけ習ったことがある。すぐに馬を乗りこなせるようになって牧場の人は驚嘆したが、それもすぐに落胆に変わった。どうしても、ある程度以上の上達が見込めなかったからだ。

具体的には、馬の気持ちが全く分からなかった。どうして此処で嫌がるのか、此処で速度を上げたがるのか。そう言ったことが分からず、馬と一体となるような鞭捌きを出来ず。結局、あまり速く走らせることが出来なかった。

それなのに、どうしてか今、馬は全力疾走している。

何となく、分かる。馬は怯えきっている。嵐になろうとしている夜の闇の中、何か途轍もない者が追ってきているからだ。

「さあ、怖がることはない、こっちへおいで」

「お父さん、お父さん! 魔王が、魔王が!」

熱っぽい子供を、宰は抱きしめる。お父さん。そう呼ばれたのに、違和感はない。雨の中、ふと気付く。

くたびれた格好の、農夫になっていた。年代物のコートを被り、汚い服に身を包み、靴は彼方此方穴が開いている。ぼうぼうの無精髭が、雨に濡れていた。触ったらざらざらしそうな乾いた皺の深い肌を、容赦なく大粒の雨が打ち据える。雨という名の弾丸に、無慈悲に打ち据えられながらも、必死に走る。子供は熱にうなされて、もがきながら呻いていた。

「さあ、遊ぼう。 其処には私の娘もいる」

「お父さん、魔王の娘がいる! 怖いよ!」

「落ち着いて! あれは、ただの枯れ木よ!」

言葉まで、男にはならないようだ。鞭をくれる。怖がっているのだから、馬も必死だ。左右に立ち並ぶ拉げた無数の枯れ木。遠くに落ちた雷が、その不気味さを更に露わにした。おぞましき姿の枯れ木達には木の葉一枚もついておらず、確かに邪悪な魔女にも見えるのだった。

幻聴だ。

言い聞かせて、更に速度を。医者に診せれば、この子は助かる。

「可愛らしい子供だ。 神の奴などにくれてやるのは惜しい。 じたばたしてもさらっていくぞ!」

「ああ、お父さん! お父さん! 魔王が、手を伸ばしてくるよ! 逃げて!」

痛ましい悲痛な叫び。

ぎゅっと左手で子供を抱きながら、宰は鞭を振るった。魔王などいない。それに、あれは魔王と言うよりも死神だ。死神などに、この子をくれてやってなるものか。

「去りなさい、魔王! この子はあげないわ!」

「残念ながら、私はその子が欲しいと思った。 その時点で、その子の運命は決まっている!」

おぞましい笑い声が虚空にとどろく。

宰は唇を噛むと、必死に顔を上げた。見える。教会だ。彼処に逃げ込めば、きっと死神も追っては来られない。安心した、その瞬間。

馬が躓いた。

卓越した運動神経をフル活用して、地面への激突をかろうじて前周り受け身で避ける。一流の格闘家ほどではないが、これくらいはどうにか出来る。子供への衝撃も、最大限に殺した。

首から思い切り地面に激突した馬が、動かない。泥水の中立ち上がった宰は、いつの間にか農夫から自分自身になっていた。

子供も、動かない。

呼吸を、感じない。そして、鼓動も。

ぎりぎりと、歯を噛む。子供が、もう生きていないのは、明白だった。

教会まで、もう少しだったのに。今まで、倫理とか道徳とか、そんなものは溝に投げ捨てて生きてきた。雨に濡れながら、宰は立ち上がった。目を炎に宿しながら、虚空に叫ぶ。

「魔王ーっ!」

返事は、風の唸り。

白い肌に雨が容赦なく降り注ぐ。泥まみれの髪を、さらなる汚れが洗い落としていく。

「貴方は、何者なの!?」

「まだ分からぬか、人の子よ」

「分からないわ! この子の命を、返してっ!」

魔王の声に、嘲弄が混じる。

「それは嘘だ。 なぜなら、私の正体は、もう本当はお前も分かっているからだ」

「どういう、ことよ」

「己の心に蓋をしている限り、私の正体はお前には分からぬ。 だが、既にお前は私が何者か、知っているのだ」

闇の中に、何も姿はない。

だが、哀れむような、蔑むような声だけは、いつまでも響いていた。

目が醒める。

そうか、これも夢だったのか。だが、非常にメッセージ性の強い夢だったような気がする。額の汗を、手の甲で拭う。まだ少し熱っぽい。寝たのに、疲れも全く取れていない。だが、何となく。何か、意味があったような気はした。

少しだけ、気分も楽になっていた。

 

大学に出てから、まっすぐにコンサートホールに向かう。相も変わらず全く使われておらず、活用しようというサークルもいないようだった。ピアノも、このまま放置しておけば、ほこりを被ってしまうだろう。

魔王のスコアは、そのまま掛かっていた。

舞台のみ、照明を付ける。そして、ピアノに向かった。

おもむろに、鍵盤に指を走らせ始める。何だか、今までになく、魔王を良く理解できているような気がした。

辺りに、闇のイメージが広がる。

今までになく、鮮明に。吹き付ける雨粒、胸に抱いた子供の感触、必死に走る馬の呼吸までもを、宰は感じていた。

指を、鍵盤に叩きつける。

シューベルト。

お前が作りたかった曲とは、これか。

正体は、今やっと分かった。魔王は、そんな大仰な存在じゃない。神話的な意味もなければ、誰か特定のモデルがいる訳でもない。シューベルト自身の秘めた思いやメッセージ性も、感じない。

だが、其処にあるのは。

原初であるが故の、とても強い感情。

焦燥。そして、それ以上に、子供よりも農夫が感じている恐怖。

我が子の命を奪おうとしている、得体が知れない闇に対する怯え。それが、子供のうわごとと重なって、魔王に見えて、そして聞こえているのだ。

走れ。走れ。鞭を振るう。

来るな、来るな。子供を奪わないでくれ。魔王に対して叫ぶ。

しかし、本当は。魔王など、其処にいはしないのだ。主体性のない、都市伝説の元になるような、理解しがたい恐怖。それが、魔王の正体だ。それなのに、様々な社会的思惑や、思想の煩雑化が、それを大仰にしてしまった。

最後の一音を、鍵盤に叩きつける。

それが、余韻となって、コンサートホールに広がった。

指の負担も、驚くほど小さい。無理のない演奏が出来ていたと言うことだ。そして、これは、超えた。

壁を、乗り越えたのだ。

ゆっくり、成し遂げた達成感をかみしめていく。既に故人となっている、作曲者に語りかけていた。

「シューベルト。 貴方は、こんなただの剥き出しの恐怖を、表現したかったの? 絶望と孤独と、焦燥と破滅が、この曲には得体の知れない恐怖になって満ちているわ。 貴方の本当の目的は、一体何?」

「それは、君に分かる事じゃない」

もう、驚かなかった。馬場が幕の側に立って、拍手をしていた。余韻を汚されたような気がして、宰はにらみ付ける。

「だが、君に分かったことも、あるんじゃないのか」

「ええ。 どうやら、掴めたみたい」

「そうか。 じゃあ今回は失敗か。 ちょっと残念だが、まあそれも良いだろう。 いつも何もかも巧く行ったら、それはそれで興ざめだ。 もう、会うことはないだろう。 君を闇の世界に誘えず、残念だ」

馬場が舞台を降りて、観客席の間を歩いて去っていく。立ち上がった宰は、しばらくその後ろ姿を見送っていた。

じっと手を見る。

闇を、表現できた。そして、それが何なのかも、掴めた気がする。

どうして、今まで一流に達することが出来なかったのか、それも何となく分かってきた。天才という人種は、多分これを天然で掴んでしまっているのだろう。羨ましい話ではあった。

だが、もう負けない。

宰はエジソンが大嫌いだ。奴はこんな事を言った。

天才とは、1パーセントのひらめきと、99パーセントの努力である。

つまり、その意味とは。ひらめきがない奴は、何をしようと無駄だ。そしてひらめきを持つ俺は、努力もして更に天才を高めている。というような事だ。

人格的に問題が多かったエジソンらしい、一見良さそうな意味を持ちながら、傲慢に満ちた言葉である。

そしてそれは、宰の全てを否定する言葉でもある。お前はひらめきがない。だから何をやっても屑のままだと。

しかし、ひらめきは後天的に得られるはずだ。

そう、宰は感じた。そしてどうやら、魔王を弾いている過程で、それを得ることが出来たらしい。

コンサートホールを出る。

眩しい日差しを手で遮ると、ますは食堂に。痩せた分の肉は付けておきたい。こんな押せば倒れるような細くて弱い体では、出来ることも限られすぎている。

足取りは、自分でも吃驚するくらい、自信に満ちていた。

まず肉を食べよう。そう宰は思った。

 

4、神童から天才へ

 

愕然としている学長。教授陣が、宰の後ろにずらりと並んでいた。

「わ、私が君をこの大学に入れてやった恩を、忘れるというのか!」

「それは貴方が、私が苦悩する様を見て楽しむためだったでしょう? たっぷり楽しませてあげた以上、もはや恩は返したと思いますが?」

二十八才になった高崎宰は、そう冷酷に目を光らせた。

この数年、様々なことがあった。大学を卒業してからは、海外の大学院に入り、飛び級を繰り返して四年で博士号を取得。それから幾つかの研究で海外にスポンサーを作ってから、日本に戻ってきた。

戻ってからも宰の勢いは止まらなかった。東大の招聘を蹴って、古巣のこの大学に戻り、貧弱な設備でありながら多大な業績を上げ続けた。もちろん、目的はこの日のため。クーデターにより、大学そのものを支配下に収めるためであった。

既に国内外での実績の結果、宰はマスコミに顔を出さないにもかかわらず、日本でもっとも有名な大学教授となっていた。専攻は薬学だが、心理学や社会学でも、並の教授以上の知識と見識を持ち、四カ国語を自在に操るほどに語学にも堪能であった。

万能の天才。

かって、神童と言われた彼女は。壁を超えた今、誰もがそう認める存在となっていた。本人には、いささか不本意ではあったが。

そして今。大学は、彼女の手に乗っ取られようとしていた。

既に教授陣の殆どは、宰の掌握下に落ちている。

学長は、教授達の選挙によって選抜される。だから熾烈な政治的駆け引きが行われることになるのだが。この大学は学長の資金力もあって、今までは殆ど権力的な争乱が起こることもなかった。

しかし、裏側で名声を確保していた宰が密かに手を回し、更に幾つかの外国のスポンサーを抱き込んだことで、状況は一変した。今や宰が動かせる選挙資金は学長を七割ほど凌いでおり、力の差は逆転している。殆どの教授は無能で金しか取り柄がない学長に愛想を尽かしていたこともあって、簡単に宰に転んだ。

教授も、人間だ。

文系だろうが理系だろうが、年を取って社会を知れば、金を欲しがるようになる。昔は金では動かない硬骨漢もいたが、今は残念ながら、時代が違うのだ。

今まで、部下と思ってきた教授達が、小柄な宰の後ろに並び、自分に非好意的な視線を向けていることを、学長は恐怖の目で見つめていた。宰はこんな事に、感情は動かさなかった。

「では、退陣でよろしいですね?」

「ふ、巫山戯るな! 私が何年この大学を発展させるために、力を尽くしてきたと思って……」

「失礼ですが」

学長室に入ってきたのは、宰があらかじめ呼んでおいた警官である。手帳を見せると、彼は捜査令状を学長の鼻先に突きつけた。

「収賄と贈賄の容疑が、貴方に掛けられております。 さっさと辞表を出して、我々と来て貰いましょうか」

蒼白になった学長の両腕を、警官達が掴んだ。

 

学長の椅子に新たに宰は座る。まだ細かい手続きは幾つかあるが、既にこの大学は彼女の手に落ちた。

既に両親との縁も切ってある。これで、もはや後腐れは何一つ無い。そして、今回のクーデターは、根拠地を手に入れたに等しい成果を宰にもたらした。更にこれから飛躍するのには、充分な地盤だ。

机を小さな手で撫でながら、ほくそ笑む。

結局、あれから背丈は全く伸びなかった。身長は140センチそこそこしかなく、子供にしか見えないと良く言われる。

かって学長の腰巾着をしていた老教授の一人が、揉み手をしながら言った。

「それで、高崎新学長。 研究費用の件なのですが……」

「これからは、全ての研究に私が目を通します。 予算関連も、全て私の手元に持ってくるように」

「え……」

「不満があるようならば好きなように。 ただし、私が貴方が学長に付け届けをしていたことを知っていて、外部の機関に情報を流させる準備をしてあることを忘れずに。 逆に言えば、きちんとした成果を上げられるのなら、予算の増額は惜しみません。 賄賂など用意しなくても今後は良くなるのだから、願ったりでしょう?」

老いた教授が引きつる。他の教授達も、皆青ざめていた。

此奴らも、近々処分してしまうのが良いかもしれない。大した研究成果を挙げることもなく、学長にすり寄るばかりだった連中も多い。そんな輩だから、飼っていても何一つ利益はなかった。

少なくとも、弱みを握っている内に此奴の権力らを可能な限り削減。自分の手足となる人間を集めておく必要があるのは確かだった。

教授達を学長室から追い出すと、スポンサー達に連絡を入れる。海外の企業はシビアだ。これからもつきあっていくからには、それなりの実績を示し続けなければならない。交渉は、いつも緊張感を強いられる。

どうにかネゴシエイトが終わったのは夜中。

疲れた肩を叩く。

結局、今も孤独なことに代わりはない。国内のマスコミは恥を知らず「我々が発掘した天才」などと宰を代わる代わる持ち上げに来ていたが、取材は一切拒否するようにしている。その結果、特集を組む記事があっても、インタビューは載らないのが通例だった。海外のマスコミにも、取材を受けることはない。

自分は天才だったとしても、後天的なものだと、宰は考えている。そもそも実際には、普通と天才などと言う垣根は存在していないとも。

だから、天才と普通と、二つでしか人種を判断できない存在が、哀れでならなかった。

宰は、灯火だ。明かりをまき散らすから、蛾も寄ってくる。その勝手な蛾達が、昔は怖くてならなかった。明かりが強い時には寄ってくる、彼らの身勝手な行動が憎かった。だから、蛾達に舐められたのだ。

今は、もう気付いている。

舐めた真似をする蛾はその場で焼き尽くしてやればいい。周囲を飛び回っているだけなら、放っておけばいい。

少しずつ、友人と呼べる存在も出来はじめている。思うに、昔も少しは、まともな人間が周囲にいたのかも知れない。だがあまりにも蛾が多すぎて、彼らの姿は見えなかった。宰は対人運が極端に悪かったが、やはり弱っていた心が、事態を更に悪化させていたのである。

そんな弱い自分とは、既に決別した。

仮眠室で一眠りした後、まだ陽も昇らない内から仕事を始める。研究室に籠もって、データの整理だ。周囲には栄養剤が散乱していた。ケージに入っているマウスを取り上げると、状態を確認。

ドアをノックする音。返答すると、入ってきたのは、学生の一人だった。おっちょこちょいでどじで間抜けだが、情熱だけは人一倍あるゼミの生徒であり、阿呆だが嫌いではない人種である。

嫌いではない理由は、或いはこの娘がそばかすだらけの小柄な女子学生であり、どこかかっての自分に近い所があるから、かも知れない。

「高崎先生!? こんな朝早くから何なさっているんですか?」

「学長になったからと言って、研究を捨てた訳じゃあない。 この抗ガン剤が完成すれば、画期的な治療が可能になる」

マウスは癌を人工的に発症させており、普通だったら三日と保たずに死ぬ存在である。だが、宰が作り上げた抗ガン剤で相当な延命を果たしており、それは未だに継続している。このまま研究すれば、有史以来人類の天敵であった癌を、克服できる時が来るかも知れないのだ。

「え、栄養ドリンク買ってきます」

「好きにしなさい」

マウスに注射針を突き刺し、宰は相手を見もせず呟いた。もがくマウスに、必要量の薬剤を注入する。

ケージの中にマウスを放す。痛そうにしていたマウスだが、やがて何事もなかったかのように餌を食べ始めていた。

予後経過をカルテに書き、二匹目に取りかかる。女子学生が、一杯栄養ドリンクを抱えて戻ってきたのは、それからだった。

「高崎先生、ご飯も食べますか?」

「いらん。 今は仕事中だ」

「でも、それではお体に良くないですよ」

「鍛え方が違うから、心配するな」

カルテを書く。次のマウスはかなり弱っていた。予後経過は悪くないのだが、やはりまだ改良の余地があるかも知れない。

大きく嘆息する。まだ、完璧とは行かない。研究は続行しなければならないだろう。

一通り作業を終えると、図書館に。受付の人間は、学生の頃とはまるで態度が違った。宰の機嫌を損ねれば、首が飛ぶと知っているからだろう。事実、以前失礼なことをしてくれた職員の首はとばしてやった。

奥に。本を幾つか見繕いながら、抱えて歩く。殆どは研究用だが、幾つかは娯楽目的のものもあった。一つ、本棚の高い所に欲しい本がある。脚立を取ってこようかと思った瞬間、伸びた手が、その本を取っていた。

「欲しいのは、これかな」

「馬場……!」

長身の男を、宰は見上げる。

あの時のままの姿だ。一見するとチャラ男風だが、何処か果てしない闇を秘めた男。殆ど老けたようにも見えない。あれから十年近くも経ったというのに。

本を、宰が抱えている本束の上に載せながら、馬場は目を光らせる。

「もう会うつもりはなかったが、来てしまったよ。 君は面白い成長を遂げたなあ」

「貴方は何者だ。 あれから調べたが、学生の名簿にも名前はなかった。 それなのに、どの学生も、貴方を同級生だと認識していた。 私も、危うくだまされる所だった」

「ふ、それも分かっているだろうに。 相変わらず君は嘘をつくのが下手だな。 自分にも、他人にも」

「……」

しばし、馬場を睨む。

だが、視線を逸らしたのは、宰が先だった。

「それで、何のようだ」

「新しい魔王の誕生を、祝いに来ただけだ。 これは俺からの祝儀」

ひょいと、本の上に何か包みを乗せられる。多分ろくでもないものだろう。そう思った瞬間、馬場が付け加える。

「桜餅だよ。 最高級品だから、早めにね」

「……有難う」

「君は本当に変わったな。 変わることが出来る人間なんか滅多にいないもんなんだが、その例外を見ることが出来たのは有意義だったよ」

反論する前に、馬場はその場から消えていた。元から、誰もいなかったかのように。

宰は学長室に戻りながら、思う。

かって、自分は魔王に追われて、必死に逃げる哀れな親子だった。

だが、その魔王の正体に気付いた時、今度は自分が魔王になってしまったのではないのだろうか。

そして、今。

得体が知れない恐怖となって、周囲には認識されつつある。

シューベルトは、何を意図してあの曲を作ったか。ただ、恐怖を楽曲という形で表現したかったのだと、昔は思っていた。

だが、その恐怖は宰に伝染し、今やそのものになろうとしている。

笑顔なんか、中学の頃から作ったためしがない。作り笑顔は上手になったが、それくらいだ。

包みを開けてみると、確かに桜餅が入っていた。娯楽用に借りてきた赤毛のアンを開いて中身に目を通しながら、一つ目を口に入れる。

「高崎先生」

「何だ」

顔を上げると、さっきの女子学生だった。満面の笑顔で、弁当を手にしている。栄養ドリンクよりも、こっちの方が気が利く。

「お弁当、作ってきました。 朝ご飯、一緒にどうですか?」

必ずしも、恐怖に縛られる相手ばかりではないのかも知れない。

ふとそう思うと、おかしくもなる。

「一緒に食べるか、桜餅」

不思議と。

自然に、そんな言葉が、口から出ていた。

 

(終)