泥山のマエストロ
序、死と隣り合わせの稼業
一般的に言われているほど、それは楽な仕事ではない。ロマンがある仕事でもない。
若手の中でもっとも成功したと言われる冒険家の一人であるロマは、それを嫌と言うほど知っていた。それに、たまたま運が良かったからそう言われているだけであって、自分には実力も実績も足りない事はよく分かっている。
歯を食いしばって、斜め右上に見えている岩の出っ張りに手を伸ばす。そろそろ握力が無くなりかけているが、それでも登らなければならない。ゴーグルには容赦なく雪が吹き付けて、視界を塞ぐ。皮の手袋を通してなお、突き刺すような冷気が肌を痛めつける。分厚い毛皮も、この冷気を遮断しきるには到らない。
伸ばした手が、ようやく出っ張りに届いた。ゆっくり重心を移動させて、体を引っ張り上げる。あと少し、あと少しと言い聞かせながら、手を動かす。その瞬間だった。
手が、滑った。
体が宙に投げ出される。重力に掴まれ、一気に引っ張り落とされる。命綱が、ぴんと張って、重力と拮抗。次の瞬間、右肩から、岩場に叩きつけられた。無様な悲鳴を上げて、一瞬気を失う。
ぐらぐらする頭と、感覚がなくなりつつある肩。だが、宙づりにされたままでは、いつまでも持たない。命綱を付けたピッケルだって、体重を永遠には支えられないのだ。
気力を振り絞って、手を伸ばす。命綱を掴んで、体を引っ張り上げる。途中からやり直しだ。まだ、体力はある。それに、登るルートは間違えていなかった。命があるだけ、ましだと考えるしかない。さっき遠めがねで観測した時に見つけた、ビバークが出来るくぼみまではあと少しだ。其処までたどり着けなければ、どのみち死ぬ。
体を引っ張り上げる。こぼれる息はただ白く、自然の力強さに負けそうになる。人間が如何に卑小な存在か、こういう場所では良く感じる。時には、腰に付けているナイフに触って、己の力を確かめなければ、くじけそうになってしまうほどに。
出っ張った岩を、這い上がるようにして登り上がる。さっき打ち込んだピッケルを足がかりに、出っ張った岩を掴んで、完全にぶら下がりながら進まなければならない場所も多い。帰りに、此処を通らなければならないと思うとぞっとする。だが、此処以外に、まともなルートはない。他の岩場は、もっと危険な上に岩質が脆く、とても登れるような場所ではないのだ。
幸いにも、少し吹雪が弱まってきた。ゴーグルに積もった雪を手の甲で拭う。さっきと同じ位置まで来た。今度は失敗しないぞと言い聞かせながら、手を伸ばす。もう一度落ちたら、命綱はもたないかも知れない。もう、次はない。
掴む。岩の感触を確かめながら、体を引っ張り上げようとして、気付く。岩がさっき転落した時に痛んでいる。まずい。予想以上に、耐久力が落ちている。このままだと、すぐにでも滑落しかねない。
パニックになりかけるが、深呼吸して、必死に心を落ち着かせる。今までにも、何度も似たようなピンチはあった。一番酷かったのは、原野で巨大なガジールドーラと正面から出くわしてしまった時だ。人間の二倍の速さで走る六本足のドーラが、咆吼をあげながら追いかけてきた時の事を思い出す。それに比べれば、これくらい何だ。
落ち着け。まだ保つ。そう言い聞かせ、次の岩場を探す。見つけた。左斜め上。すぐ近くだ。手を伸ばす。掴んだ。体重を移動させる。びしりと、今まで掴んでいた出っ張りに罅が入った。帰り道は、もう使えないだろう。危険だが、別のルートを探すしかない。
登る。出っ張りに手を伸ばす。見えてきた。ビバークできる岩が。まだ脱力するには早い。この岩場さえ乗り越えれば、後はクレバスにさえ気をつければ問題ないはずなのだ。事実はどうだか分からないが、そう信じて進むしかない。さっき自分で遠めがねを使って観測した状況は、少なくともそうなっている。
体を、岩の上に引っ張り上げた。呼吸が乱れている。心臓が胸郭から飛び出しそうだ。積もった雪の上を這いずって、くぼみへ潜り込む。観測したとおりの深さのくぼみだ。良かった。中に獣が潜んでいるような事もない。
命綱を引っ張ると、簡単に抜けた。やはり、もう一回落ちたら助からなかっただろう。体一つを雪から守るのがやっとのくぼみに入り込んで、リュックを降ろす。同時に、肩に刺すような痛み。さっきぶつけた所が、痛み始めたのだ。
小さな毛布を取り出して、横に置く。どのみち、今の状態では、これ以上は進めない。吹雪が止んだら、クレバスがあるかも知れない氷原を抜けていかなければならない。リュックから取り出した細い鉄杖の感触を確かめる。これで少し先の足場をつつきながら進むのだ。それと、もう一つ。取り出すのは、掌台の小さな鉄の塊、L字型をしたそれは、銃という。最近小型化に成功した、人類の叡智の結晶だ。弾は六発。指先ほどの大きさの弾を火薬で撃ち出し、人間大の生物であれば、当たり所によっては即座に殺す事が出来る。まだ不慣れな武器だが、紙の一枚に到るまで重量を絞らなければならない山越えを考えると、持って行くには相応しいものだ。
弾は既に込めてある。予備が二十。どれも油紙に包んで、リュックの上の方に入れてある。後は打ち身を調べないといけない。頑丈なポータブルカンテラを取り出して、マッチで火をつけた。ぽっと点る明かりが心強い。どうしてこうも、静かな炎は勇気をくれるのだろうか。
手鏡を取り出して、それからおもむろに諸肌を脱ぐ。肩の傷は、思ったほど酷い状態ではなかった。打ち身薬を塗って、医療用の膠を付けた布を貼り付ける。これで当座はしのげるだろう。後は無理さえしなければ大丈夫だ。
カンテラの火を消すと、リュックから取り出した携帯食を取り出す。南部の鞍馬ー地方で取れる豆を一晩煮込んで栄養を凝縮し、小さく固めたものだ。恐ろしく不味いのだが、栄養は豊富で、どうにかこれで乗り切れるはずだ。毛布を被っておもむろに目を閉じる。少しでも休んで、体力を回復しておかなければならない。焦燥感が、小さな体を駆り立てるが、何とか押さえ込む。
焦ったところで、消えた命は戻って来などしないのだから。
それに、どうせ死んだところで誰も悲しみはしない身だ。流石に五年もこの稼業をしていると、どこでも眠るスキルは身についている。
また、少し吹雪が激しくなってきたらしい。人ごとのように思いながら。ロマは眠りに身をゆだねていた。
ロマが目を覚ますと、吹雪は止んでいた。そればかりか、分厚い雲の隙間からは光が差し込んでいる。絶好のコンディションだ。
手袋を外して、指先を舐めて、温度を測ってみる。この温度なら、雪が溶ける事はない。好都合だ。手袋を填め直しながら、ロマはいそいそと出かける支度に移った。肩にも触ってみるが、稼働には問題ない。
一晩を過ごしたくぼみから、外に出る。足下に気をつけなければならないのは、この岩場が決して平坦ではないからだ。足を滑らせたら、そのまま死ぬ。だが、それを忘れるほどに。見渡せる気配は雄大きわまりなかった。切り立った山は例外なく雪で化粧され、所々きらきらと輝いている。雪の間から見える地肌が美しさに彩りを添え、更にそれを引き立てていた。それが、見渡す限り続いているのだ。しかも、所々に、雲さえ掛かっているではないか。
リュックから写真機を取り出すと、すぐに三脚にセットして、しばらく待つ。一刻も待たなければならないのが惜しい。
やがて、写真が仕上がった。満足のいく出来だ。それで、ふと眉をひそめてしまう。自分が撮った写真で、何が起こったか思い出したからだ。三脚をたたんで、写真機をリュックに。それから、すぐに出発の準備に取りかかった。仕事は仕事。だが、せっかくの美麗な風景に踊った心が、一気に醒めてしまった。
此処は死の高地と呼ばれるカシャート山脈。一般的には南の大陸と言われる、キルオルーラ島の中央を我が物顔に縦断する山岳地帯の一角だ。今ロマがいる5000テル級のブルクラール山を始めとして、幾らでも巨大な山が存在している。丁度同年代女子の平均程度の背丈しかないロマは、1テル弱の身長しかないから、丁度自分の5000倍高さがあると考えれば分かり易い。
岩場を乗り越えると、眼前には広大な雪原が広がっていた。高度2800テルに広がる雪原。人類がほとんど足を踏み入れた事が無く、ただ遠距離観測で知られていただけの場所。通称ディテルの花園。人跡未踏の土地はまだまだ世界に幾らでもあるが、その中では比較的到達難易度が低いとされている場所だ。だが、それでも最初に辿り着く事が出来たのは、自分だ。仕事上の箔が、これでまた一つ付いた事になる。帰りにでも、写真を撮っておくべきであろう。遠くには、ブルクラール山の頂上が見える。ただし、雲に覆われているので、うっすらと、でしかないのだが。
冷たい風が吹き付けてきた。ゴーグルを外して、髪をなびかせる。時々しか手入れしてやれない茶色の髪が、山の清浄な空気に撫でられて舞い上がった。肩まで伸ばしている髪はそろそろ邪魔になってきた。帰ったら切ろうと、ロマは思った。ゴーグルはいらないが、耳は寒さから守った方が良いだろう。登山帽子を被り直して、銀の雪原に踏み出す。双眼鏡を取り出して、時々位置を計り直す。自分の大まかな居場所をはかれなければ、此処では生き残る事が出来ない。
大体の居場所は、数分で把握できた。予定通りの位置にいる。後は二刻ほど雪原を歩いて、雪原の奥にあるという秘境へたどり着けばいい。
未知の場所へ出かける事に、高揚はない。この仕事を始めた時には、確かにあったものが、今では無くなってしまっている。二年前に師匠が死んで独り立ちした時に。散々泣いて無くしてしまったのだろうか。或いは半年前の、あの事件が原因だろうか。
家族は師匠が死んだ事でいなくなった。友人などこの稼業をしている限り存在はしえない。交流関係は広くなるが、基本的に会う人間とは仕事の話と、腹の探り合いしかしない。そういう場所に、ロマはいる。
五月蠅いのは嫌いだ。欲を言えば、美しい写真だけとれればそれで満足だ。だがその写真でさえも、最近では意欲が薄れ始めている。さっき、落ちて岩場に叩きつけられた時。あの時に、命綱が外れてしまえばそれで良かったかも知れないと、今更にロマは思った。
頭を切り換えて、歩き始める。鉄杖で少し先の雪をつつきながら、一歩ずついく。雪原で一番恐ろしいのは、なんと言ってもクレバスだ。
雪が積もり、その存在を知らしめない深い溝。それをクレバスという。雪の微細な重量は支える事は出来ても、人間が乗ったらその凶暴な顎をたちまちにして現す。もちろんこんな場所でクレバスに落ちたら、救助が来る可能性など皆無である。自力ではい上がれなければ、待っているのは死。運が良ければ、数百年後かには、氷付けになった自分の死体が発見されるかも知れない。
雪の深さは大体把握した。そのまま少しずつ進み始める。雪に杖を刺す音が、淡々と響き続ける。雪が降り出す前に、さっさとこの銀氷原を通り抜けないと危ない。雪が降り出すと、氷原は絶壁にも匹敵する危険な場所となるのだ。
辺りには動物さえいない、この氷原は、とても静かだ。心地よい静寂。それなのに、響き渡る無粋な音。見上げれば、空を舞う影。多分猛禽の一種だろう。翼があるというのは、便利な話だ。特に何も修行せずとも、こんな所にまで来られるのだから。
猛禽に悪態をつきながら、ひたすら氷原を行く。温度が少しずつ下がり始めていて、雲の隙間から光が見えなくなってきていた。急がないと、吹雪がまた来るだろう。しかし焦ってクレバスに落ちれば、本末転倒だ。
雪が降り出す。美しい雪も、今は災厄の呼び手に過ぎない。焦る心を抑えつつ、急ぐ。無理をすれば、肩の傷にも響いてくる。
遠くに岩肌が見え始めてきた。雪原の終わりが近い。この先に、ビバークできる場所が見つかれば、もう一つ拠点をカウントできる。帰りが随分楽になるだろう。
杖が、雪の中に深々潜り込んだ。注意深く辺りを踏み固めてから、乱暴に蹴りを入れてみる。どっと雪がこぼれ落ちて、クレバスがその凶暴な姿を現した。幅は1テル以上ある。この様子だと、広がりは60テル以上あるだろう。恐ろしい事に、底は見えない。落ちたら即死だ。大幅に迂回しなければならない。
ゴーグルを付けたのは、雪がまた強くなり始めたからだ。クレバスは縦横に広がっている事が多く、慎重に進まないと危険だ。もちろん、飛び越える事を試みるのは最後の手段である。向こうがどうなっているかは、全く分からないからだ。
雪が更に激しくなってくる。体やリュックにもつもり始めていた。一番登りやすい時期を選び、天気予報にも目を光らせたのに、この状況だ。山は恐ろしい場所だ。世界中に蟻のように広がっている人間が、いまだに征服しきれない訳である。
何とかクレバスを迂回できた時には、吹雪は本格的なものとなっていた。必死に岩場に辿り着き、ビバークできそうな場所を探す。体力が雪に奪われ尽くすか、経験による探索速度が上回るかの勝負だ。場合によっては、クレバスの中を利用する事さえある。師匠はどんなに絶望的な時でも、平然とビバークできるくぼみを見つけて、ロマを驚嘆させたものだった。
急げ。急げ。呟きながら、岩肌を探る。既に双眼鏡は役に立たないほど、酷い吹雪になっていた。立ったまま凍ってしまいそうだ。風向きによって、ビバークできないような場所もある。最悪の場合は、そういうところで一時的に凌ぐしかない。
目が霞む。体力が急速に奪われている。呼吸の乱れが収まらない。急がないと、まずい。膝が折れ掛ける。何とか気力を奮い立たせて、立ち上がる。
見えた。適当なくぼみ。潜り込むには申し分ない。中に雪が少し積もっているが、掻き出せばいい。足を踏み出した、その瞬間だった。
地面が無くなった。
焦っていた。だから、気付けなかった。しばらく前から、足下が雪で覆われてしまっていた事に。
だから、クレバスの存在に、気付くのが遅れた。落ちたと思った次の瞬間には、頭を打ったらしい。
もう、意識は無くなっていた。
1,冒険家という仕事
師匠について最初に思い出す事は、やはりあの冷たい目だ。何もかも信用しておらず、仕事に全てを捧げていた人。この業界の第一人者であり、恐らく世界で一番孤独だった人。それが、師匠だ。
不潔で貧しい孤児院で育ったロマを拾ってくれたのが、師匠だった。師匠は優しい人ではなかったし、思いやりがある訳でもなかった。だがそれでも、孤児院で過ごすよりは、ずっとましだった。ロマは知っていた。天にまします主を信仰する孤児院の人たちが、身寄りのない子供達を、欲望のはけ口にしている事を。場合によっては、人身売買もしていた事を。後になって、何処の孤児院でも似たようなものだと聞いた。それを聞いた時に、何故か納得してしまった事を、よく覚えている。
師匠がどうして自分を選んだのかは、その時には分からなかった。今でも、漠然としか分かっていない。一度、面と向かって聞いた事がある。背が低くて、頑丈そうだったからと、応えられた。だが、それが本音だったのかは、今もよく分からない。それから人並みまで背は伸びたからだ。頑健さには、今も昔もある程度の自信はあるが。
11歳だったロマは、師匠について、色々な勉強をした。長身の師匠は、ロマから見れば壁のようで、見上げるような存在だった。憧れた事もあったかも知れない。どんな理由であれ、初めて自分を認めてくれた異性が師匠だったのだから、それも仕方がなかっただろう。
親子ほども年は離れていた。あまりにも不釣り合いな存在だった。だが、どんなに邪険にされても、結局師匠の事を、ロマは好きだった。
孤児院を出てから、初めて笑う事が出来たような気もする。師匠が教えてくれる様々な事柄が楽しくて、勉強にも身が入った。写真が好きになったのも、その頃だ。師匠が撮る写真は兎に角美しくて、オークションでは天文学的な値段が付いている事を、ロマは知っている。何枚か持っている写真は、どれも宝だ。表彰状やら勲章やらはみな売り払ってしまったのに、それだけは手放す気にはなれない。
師匠は、ロマの全てだった。きっと、師匠にだったらどんな仕打ちを受けても良かったのだと思う。何年かして、仕事に一緒に行くようになった。それからは、毎年が楽しくて仕方がなかった。今は失ってしまった高揚も、確かにあったと思う。
その師匠も、事故であっさり死んだ。
冒険家という仕事は、危険と死と隣り合わせだ。旧文明の名残や、隔絶した地形にある資源を探す。普通の学者が足を運べる遺跡は、冒険家の管轄ではない。高いサバイバルスキルを持った冒険家の仕事は、普通の人間がたどり着けないような位置にある資源の探索だ。だから高山にも登るし、場合によっては船を駆って難所の島にも出かけていかなければならない。それらの全てで、死の危険がある。非常に危険な生物と接触する事も多いし、主要文明から隔絶した者達との交渉が生じる事もある。いずれも極めて危険で、一歩間違うと命を落とすものばかりだ。
それなのに。師匠だけは死なないと、ロマは思っていた。
師匠が死んでから一年は、立ち直る事が出来なかった。
全身に広がる痛みで、ロマは目を覚ました。どうやら生きているらしい。幸せな夢を見ていたような気がするのだが、内容は覚えていない。少しずつ、何が起こったのか、何が起こっているのか、把握していく。
思い出す。そうだ。クレバスから落ちたのだ。そうなると、今生きているだけで運が良い。ゆっくり、体を動かしていく。手足の骨はどうにか折れていない。だが打ち身が酷い。左腕はしたたかぶつけたらしく、しびれが取れなかった。
側にリュックがあった。毛布でガードはしていたが、カメラやカンテラは無事だろうか。どちらも大事な仕事道具だ。特にカメラは、失ったら一度戻るしかない。ゆっくり、体を起こしていく。
見上げると、陽が見えた。雪は止んでいた。運が良く、雪が掛からない位置に転落したらしい。怪我の功名という奴だ。落ちた高さも大したことが無く、それで助かったという訳だ。ただ、リュックにはたっぷり雪が掛かってしまっている。この分だと、毛布は濡れてしまっているかも知れない。火を熾す必要がありそうだと、ロマは思った。
クレバスからはい出す。振り返ると、底なしの闇が広がっていた。ほんの少しずれていたら、闇の中に真っ逆さまだった事を考えれば、こんな程度で済んで幸運だったとも言える。左腕はまだ力が戻らない。必死に這い上がって、クレバスを脱出すると、外は既に真っ暗だった。
これから雪原をまた超えて、あの岸壁を降りなければならないと思うと、うんざりする。だが、これしか出来る仕事がない。仕事のない人間に待っている未来は、餓死しかないのだ。
それを防ぐために、世界の各地では資源の探索が必死に行われている。鉱物資源が多くあれば、都市を充実させる事が出来る。インフラも整備する事が出来るし、社会そのものも発展させる事が出来る。
資源は幾らでも必要だ。あればあるほど、社会は豊かになる。そう信じて、ロマは仕事を続けている。
様々な探索技術は発展しているが、それでも最終的に現物を発見するのは冒険家の仕事だ。特に旧文明の技術復興は急務であり、それらを成し遂げた何名かの冒険家は英雄として扱われている。スポンサーが付く冒険家も多い。優れたスポンサーの技術にサポートされれば、探索が有利になるからだ。ロマもその一人。今回の仕事も、スポンサーの意向によるものだ。スポンサーは派手にロマを宣伝した。今も宣伝している。忌々しい事に。
一握りの成功者しかいないのに、華々しく宣伝される。それがこの業界の病根とも言える。
それがまた、山師を冒険家にする。そして、多くの分不相応の仕事に挑んだ人間が、死んでいく。
苛立って、思考を閉じる。体は冷え切ってしまっていた。出来れば、早く火を熾したい。空には、白々しく星が瞬き、白い線が一本走っている。空を二つに分けるあのアルシス線も、旧時代の文明異物らしいのだが、詳細はよく分からない。学者達は好き勝手な説を並べ立てているようだが、どれも違うように思える。
やっと、適当な物陰を見つけた。正面から風が来ない限り、雪は吹き込んでこない絶好の位置だ。リュックを降ろして、壁に背中を預ける。ようやく、一息付ける。やはり、体中が痛かった。
こういう場所で非常に調達が難しいのが、燃料だ。最悪の場合は毛布などを燃やして暖を取る事になるが、今それをすれば生きて帰れなくなる。仕方がないので、持ってきている固形燃料を使う。それで携帯食を温めながら、同時に暖を取るのだ。あまり多くは持ち込めないから、ここぞと言う時にしか使えない。
毛布のぬれは、幸いさほど酷くなかった。カメラも何とか無事だ。暖を取りながら、毛布を拡げて乾かす。濡れた毛布では、暖まるどころか、体が冷えてしまう。小さな鍋は、すぐに煮立ち始めた。携帯食料は多めに持ってきたが、もう半分くらいしか残っていない。体力を付けるためにも、多めに鍋に入れたからだ。固形燃料の僅かな火に手をかざす。体が温まるにはほど遠いが、少しは人心地がついた。
口に入れる。温かいが、やはり恐ろしく不味い。苦くて、渋くて、しかも歯ごたえが最悪で、その上後味が悪すぎる。非常時でなければ絶対に食べたくない代物だ。これでも昔に比べれば工夫が凝らされてましになってきているというのだから、驚きである。
体に食べ物を入れると、やはり効果は大きい。どんなに不味くても、芯から温まる気がする。手を擦って、温める。固形燃料の儚い火は、すぐに消えてしまった。固形燃料の小さな火では乾ききらなかったが、それでも少しはマシになった毛布を被った。
難所は越えた。明日は、依頼のあった辺りの調査だ。遠距離観察技術は進んでいるというのに、実際に足を運ばないと分からないというのだから、人間に出来る事はちぐはぐだ。これが終われば、当分働かなくて良いだけの金が入る。だが、それではまだ不十分だ。後は働かなくても生きていけるだけの金を稼いだら、ロマは引退するつもりだ。
自分に出来る事はやったのだ。目を閉じて、心を落ち着かせる。痛みが酷くて、なかなか眠れないが、静かにしているだけで、傷の回復は早くなる。身じろぎした。暖が足りないような気がする。
明日は調査だ。此処まで散々苦労させられたのだ。明日中に、全てを終わらせたい。あの写真は、焼き増しして自宅に飾りたいとも、ロマは思った。今回はミスばかりしているが、その中で撮れた唯一の美点だ。
師匠にも見せたかった。そう思うと、少し悲しくなった。
やはり、いつまでも、眠れなかった。
最悪の気分だった。外はベストの状態なのに、殆ど眠れなかったせいで、精神の疲労が激しい。肉体の痛みは少しずつ引き始めてはいるが、ベストにはほど遠い状態である。無様にも、何度も転びそうになった。他人に大きくて羨ましいとか言われている目を何度も擦る。
穴蔵から出て、雪を踏み歩き出す。忌々しい雪に、何度も鉄杖を突き刺したのは、気のせいだろうか。地面を蹴りつけながら歩く。この辺りは緩やかな傾斜の岩場で、足下もしっかりしていて、吹雪でさえなければ子供でも進める。適当なところに出たので、観測にはいる。双眼鏡を取り出して、覗いた先にあるのが、依頼にある調査先。イフィクト44と呼ばれる大穴だ。この山には、大きな滑落穴が複数有り、発見された順番に数字が割り振られている。イフィクト44は最近遠距離観測によって発見された穴であり、だが長らくその構造については分かっていなかった。当然の話である。現地に到達できた人間がいなかったのだから。
この穴で、妙な事が起こっているから調べて欲しい。それが、スポンサーの意向だ。
ごくごく希にだが、旧時代の文明遺跡の中には、今だに生きている技術のある場所が存在する。師匠に連れられて一度見た事があるのだが、それは異質な光景だった。黒煉瓦でも泥壁でもない異様な作りの建物が建ち並び、人間でも動物でもない人型が、軋みながら歩き回っていた。見た事もない言葉を使ってコミュニケーションを行い、さびた鉄の道の上を行き交っていた。もちろん、そう言うところは、技術の宝庫だ。師匠が最後に名を売ったのが、その場所の探索だった。
人間がいない。高山で、大型動物の群体がいるとも思えない。それなのに、観測する度に地形が微妙に変わる。いまだ発見されていない旧時代の文明遺跡が、稼働している可能性がある。だから調査して、場合によっては技術を引っさらってこい。それが、この危険な山に、ロマが派遣された理由だ。
世間一般で思われているほど、旧時代の文明遺跡は、危険な場所ではない。危険なのは、辿り着くまでの道のりだ。今回も、ロマは2000テルほどの高度までは、地元の住民を雇って、案内して貰った。確保している山小屋には、予備の装備が置いてきてある。だがここまで着いてきてくれた地元民は一人も居ない。それも致し方がない事だ。険しい山で暮らしている住民達さえ、避けるような断崖絶壁が連なっている場所なのだ。反り返っているような岩さえ珍しくもなく、並みのスキルでは踏破できない。たまたまクライミングのスキルを師匠に鍛えられていたから、ロマは来る事が出来たのだ。
薄い積雪を蹴り散らし、岩を踏んで歩く。谷にさしかかった。谷に転がる岩にはひっかいたような傷が無数に付いていて、痛々しい状態であった。左右の切り立った崖にも、同じような傷がある。巨大なこの谷は、何があった場所なのだろうか。剥き出しのエルブ岩には、雑草さえ生えていない。
空気は美味しいが、薄い。危険が小さくなると、どうしてもそれを意識してしまう。だが、耐えきれないほどではない。もっと高度がある山に登った事もあるが、その時は更に空気が薄かった。呼吸の数を増やして対応する。どのみち、今回は近くに拠点を確保している上に、道程に危険地域がない。それならば、歩みを早める必要がない。慎重に辺りを見て回るべきであった。いざというときの避難地帯も欲しい。
毛布はさっきまで寝ていた拠点の中に干してある。帰りは少しは快適に眠る事が出来るだろう。空を見ると、また猛禽が飛んでいた。こんな所を飛んでいると言う事は、獲物がいるのかも知れない。高山で有名なのはなんと言っても白ウサギだが、あれは捕まえるのに骨が折れる。見つけても、食べられる可能性は希だ。ああいうのを捕らえられると、更に遭難時の生存確率が上がるのだが、今はそこまで考えなくて良い。
穴が、裸眼で見えてきた。切り立った崖の中腹に、ぽっかりと口を開けている。幅は40テル、高さは30テルほどもあろうか。まるで獣のあぎとのようなまがまがしさで、思わず息を呑む作りだ。自然は美だけを産むのではない。その本性は繊細にあらず。剛なのだ。
あの穴の、入り口部分の構造が、毎年のように変わっているのだという。
斜面はそれほど厳しくない。ザイルも必要ないし、クライミングするほどのものでもない。ただ雪の間から覗いている岩が細かいから、滑り落ちる可能性はある。一歩一歩、足下を確認して登る。大きく口を開けて、息を吸い込み、歩調を整える。まだ体の痛みは取れていない。だが、休むのは後でも出来る。今は、見極めまで持っていきたいのだ。
また忌々しい事に雪が降り出す。腰をかがめて触ってみて、舌打ち。雪が溶けかけている。これがまた凍ると面倒だ。この斜面は、死の滑り台と化す。落ちたらまず助からないだろう。
焦ればまた落ちる事になる。体に傷が増えるのは嫌だ。こんな自分でも、年を重ねると、それなりに身繕いを考えてしまうものなのだ。スポンサーと会う時はそれなりに化粧もしなければならないし、それを嫌っていない自分に気付いて驚いたりもする。本能とは面倒くさい。ロマは歯を食いしばると、態勢を低くして、慎重に登る。振り返ると、かなり登ってきていた。此処から転げ落ちると、高い確率で脳みそをぶちまける事になるだろう。
穴までは、あと200テル程度だ。周囲の環境から言って、大型の猛獣がいる可能性は低いが、念のため銃を出しておく。歩きながら、弾丸が入っている事を確認。雪を踏みしめ、進む。
吹雪になる直前。穴に辿り着いた。
牙のようにそそり立っている岩の影に身を隠し、中の様子を伺う。ただひたすらに静かだ。生き物の気配もない。こう言う時、雪は気にならなくなる。集中した精神が、思考を定向させるのだ。
穴に、足を踏み入れた。奥はただひたすら、闇だけがある。カンテラを取り出す。油はまだ残っていて、替えも用意はしてある。火を入れると、闇の中に光が点る。それで、辺りの光景が見えてきた。息を呑む。荒々しいのは入り口だけではない事が分かる。本当に巨大な動物の口の中にいるのではないかと、ロマは思ってしまった。
聳え立つ、錐のような無数の岩。床からも天井からも。これらは鍾乳石ではない。どうしてこのような形になったのだろう。眉をひそめたのは、この辺りの岩には、崖で見たような傷が更に多く付いている事だ。どうも傷の正体が掴めない。冷静に近くで見てみると、とても人間技では無いような傷ばかりだ。岩を文字通りえぐり取っているのである。
わずかな風や、水滴などが、時に途轍もなく巨大な破壊を行う事がある。だがそれらは数千年単位の莫大な時間によって可能となるのである。これらの傷も、そうなのだろうか。いや、違う。傷の一つに、コケが付着している。そのコケごと、えぐり取られている部分がある。
不安がこみ上げてきた。今まで危ない目にあった事は多く、それが故に危険も感知しやすい。いわゆる主の一部とリンクしたという奴だ。時々、こういう不思議な感覚が働く。此処からは、離れた方が良い。
だが、そのまま帰るのも癪な話だ。奥から風が少し出てきている事を考えると、どこかにつながっているのだろう。この入り口の巨大さから言って、内部は大型の鍾乳洞になっている可能性もある。その場合は更に別種の装備が必要となってくる。今回持ってきている道具類では、不可能だ。
岩を削ってみる。特に珍しい鉱物資源が含まれている様子はない。そうなると、嫌な予感がびりびりする方を探ってみて、それから帰るしかない。完全に骨折り損だが、もし此処から生還できれば、無駄な命を散らす人間が減る事になる。技術が進歩した未来にでも、此処に来てまた調べればいいのだ。中途半端で帰るのは、今まで危険を冒してまで此処に来た意味を否定する事になる。
無駄な探索は、決して無駄ではない。そういえば、師匠はそんな不思議な言葉を言っていた。自分にとって無駄であっても、他の人々はそれで命を落とさずに済むかも知れないのだから。
己の欲と、プライドと、感覚が、せめぎ合いをしていた。金銭的な欲求は殆ど無いのに、不思議とこういう所では退きたくなくなる。金が充分稼げたら引退しようと思っているくせに、どうしてか仕事に対するプライドを感じる事がある。
悩んでいる内に、外の吹雪はますます激しくなってきた。手袋に息を吹きかける気休めの行動。少しだけ、偵察をしてみよう。そう思ったロマは、カンテラの火を消した。
それが、致命的なミスだった。
何かが伸びてきた。自分が、掴まれたのだと分かった時には、体が凄まじい勢いで前に押し出されていた。しかも、空中で急停止。足下には何もない。悲鳴が出てしまう。もがくが、自分を掴んでいる何かは強靱きわまりなく、びくともしなかった。
「うあっ! あああっ!」
体を動かすどころではない。何かが、掴んでいる力を強めてきた。体に掛かる圧力が、一気に増す。恐怖で、小便を漏らしそうになった。完全に掴まれてしまった今、身動きすら出来ないのに、必死に逃れようともがく。
「離して! 離してってば!」
叫ぶ。当然、離してくれる訳がなかった。せめてカンテラの火を消さなければ。さっさと逃げていれば。己を罵っても、何一つ解決などしない。判断をミスしたのだ。判断をミスした冒険家は死ぬ。
あの師匠でさえも。
それなのに、どうして自分が例外であろうか。
不思議と、そう考えると、心が静かになってきた。そうだ、自業自得だ。クレバスに落ちて助かった時点で、つきすぎていたくらいだったのだ。それなのに、欲を掻いて更に高額の掛け金を乗せた。負けたのは、当然だったのだ。
自分を掴んだのは何だろう。どうするつもりだろう。体が完全に固定されてしまっていて、振り返る事さえ出来ない。喰らうつもりなら、一口にしてしまってほしいものだ。目を閉じた。完全に観念した事が分かった。この状態、逃げる術など無い。詰みだ。
自分を掴んだ巨大な何かが、ゆっくり動き出す。せり上がる雰囲気が分かった。どういう事なのだろう。こんな巨大な存在が、どうやって隠れていたのだろう。
歩き始めた。もう、観念してしまうと、心は穏やかだった。どうにでもしろと、ロマは心中にてうそぶいた。それに、死ねば師匠に会えるかも知れない。そう思うと、少し気分が楽になった。
2,闇の中の国
光が見えてきたので、ロマは驚いた。このままもう光を見る事はないだろうと思っていたからだ。だが、確かに光だ。頬をつねってみようかと思ったが、相変わらずしっかり掴まれていて、無理だった。
光に照らされて、見えてくる。自分を掴んでいるのは、岩で出来た巨大な手だ。ロマをそのまま握りこめるくらいだから、もし人間と同じ姿をしているのなら10テル以上の背丈はあるだろう。それにしては、移動は妙にスムーズだった。揺れが非常に小さい。それに、隠れていた場所も、よく分からない。如何にロマの頭が悪くても、それくらいは気付きそうなものなのだが。
洞窟の天井からは、時々光が差し込んでいた。光の差し込んでいる穴からは、雪が吹き込んでいて、地面に降り注いでいる。驚くべきは、辺りに小さな何かが活発に活動している事だ。洞窟に生息している、固有の動物だろうか。他と隔絶した環境の中に、独自の生態系が作られる事は珍しくないのだ。
巨大な何かが通ろうとすると、小さな影は規則的に動いて、皆避けていた。非常にスムーズなので、ロマの方が見ていて驚くほどである。
岩で出来ているというのも解せない。色々解せないものは師匠に連れられて見てきたが、その中でも最大級に訳が分からないものが、今ロマを捕まえている。このまま食事場に連れて行くつもりだろうか。そう思うと暗い気分になるが、だが同時に、辺りに興味が湧いてきていた。
光が差し込んでいる辺りには、小さな影が群がり、雪を溶かしているようだった。それも起こした火の側に、シャベルのような道具で運んで、である。煙が立ち上っている。煙は見事に計算され尽くした配置らしい、上の穴から出て行く。ずっと働きづめなのだろうかと思って、見てぎょっとした。働いている者達も、みな体が岩で出来ているかのように見えたからだ。
気のせいだろうか。いや、そうとはとても思えない。自分を掴んでいるこの岩のナニカの感触と言い、リアルである事を裏打ちしている。この洞窟の中では、岩が生きているのか。それで気付く。このでかい何者かは、岩そのものなのではないか。そうなると、洞窟の入り口は、この存在がまるまる占めていたのだろうか。
もしその推測が正しいとなると、気付かないはずである。でもそれなら、ロマをどうするつもりなんだろう。岩が人間を食べるのだろうか。元々この山は、地元の人間でさえ入り込めないような難所の中の難所だ。人間を常食にしていると言う事はあり得ないのだが。この手の主が待ち伏せ型の肉食生物だと、洞窟に紛れ込んだ獲物を全て捕らえている可能性もある。だが、それにしては行動が変だ。餌場からどんどん離れているではないか。そう言う動物は、自分の縄張りを大事にするものなのだ。
ふと気付くと、洞窟の中に川が流れていた。ほとんど小川程度の規模なのだが、洞窟の隅で、着実に流れを作っている。洞窟の中に川がある事は珍しくもないのだが、この状況では考えにくい。つまり、さっきの小さな岩みたいな連中が、雪をせっせと溶かして、それが川になっているのだろう。
木の葉が積もって山が出来るという言葉があるが、それに近いとロマは思った。小さな積み重ねが、こんな結果を為すことがあるわけだ。
また、行く先に光が見えてくる。今度は非常にまぶしい。洞窟から出たのかと思ったが、違うらしい。というのも、前の方から光が来るからだ。現在の時刻から考えて、そんな方向から光が入ってくる事は考えにくい。
ふと見れば、下を流れている川は、随分勢いを増していた。潺の音に混じって、何かが軋む音。これは、聞いた事がある。そうだ、水車の音だ。
広場に出た。
天井は80テル以上あるだろうか。それより凄いのは、奥行きだ。1000テル以上は、どう見てもある。辺りには、見た事もない建物が建ち並び、それらの全てが発光していた。それらはヒカリゴケによるものだと分かった。だが、分からないものもある。上にある光源だ。丸い球が、恒常的に光を出しているではないか。
川は下で無数に分岐して、建造物の中に流れ込んでいるようだ。一つ大きな本流があって、その先に水車がある。水車のある建物からは、蛇のような太い管が伸びていて、壁を這い、そして天井へと伸びていた。
何だろう此処は。地上と隔絶した文明か。秘境に暮らす人々と師匠に連れられて会った事はあるが、此処まで異常な光景は見た事がない。基本的に秘境と言っても、その土地に合わせた生活をしていて、文化に不自然さはないものなのだ。むしろこれは、旧文明の光景に近い。しかも、それを構成しているのは、岩で出来た人たちだというのか。
その考えも、即座に打ち砕かれる。建物の一つから、岩で出来た大きな蛇がはい出してきたのだ。全長は20テル以上はある。人間なんか、一呑みにしてしまうサイズだ。西の大陸に住む最大の草食獣であるエルファントでさえ、ぺろりと平らげてしまうのではないか。
蛇はロマの上に首を伸ばす。顎の下に、髭のような突起が無数に着いているのが見えた。ロマを掴んでいるこの手の主と、会話しているのだろうか。聞き慣れない言葉が聞こえてくる。蛇は少し苦手だ。嫌いではないのだが、師匠が旅先で作った蛇の料理がとんでもなく不味かったので、それ以来苦手意識が生じてしまったのだ。蛇が首を戻して、至近に顔が来る。小さな悲鳴が漏れた。まさか、この蛇に食べさせるつもりで、此処まで持ってきたのか。
全身に寒気が走った。死を覚悟していたのに、不意に生への渇望と、動揺が沸き上がってくる。もがいて逃れようとするロマに、蛇は泥で出来ているように見える舌を揺らして音を発した。聞いた事もない言葉に思えた。だが、蛇が発する言葉は順番に変わっていって、やがて、とんでもないものに変わった。
「聞こえルか。 意味ヲりかイ出来るナら返事シろ」
「えっ!?」
南の大陸で使われている主要言語のエツペーランタに近い。発音や文法が少し違っているが、片言か方言に聞こえる。ロマの反応を敏感に悟り、蛇が顔を近づける。
「此処に何ヲしに来タ。 返答次第デはこの場で殺ス」
「そ、それは」
必死に頭の中で、思考をエツペーランタに切り替える。言葉が出てこない。蛇の口が至近にあって、その気になれば頭を食いちぎる事が出来るのだ。沸き上がる恐怖は、片手だけで崖にぶら下がった時以上だ。この蛇の機嫌を損ねたら、即座に殺される。涙が流れてきた。
「仕事で、それで」
「何の仕事ダ」
「調査で、此処まで来ました」
蛇は更に顔を近づけてくる。納得していないのは一目で分かった。岩で体が出来ている、それも動物の筈なのに、いやに表情がクリアに思える。心なしか、声に威圧が加わった気がする。
「人間が来るニはまだ時間ガ掛かルと思ってイタのだが、どうヤッて来タ」
「崖を登って、山を越えて、それで」
蛇が少し顔を下げて、直接ロマの目を覗き込んできた。今度こそ小便を漏らしそうだった。目をつぶろうとすると、舌が首に巻き付いてきた。首に、痛烈な圧力が掛かる。舌は温かくて、ぬるっとしていた。駄目だ。殺される。
「本当の事を言エ。 どうヤッて此処に来タ」
「ほ、本当です! 崖を、ひ、一人で登って来ましたっ! 私、そういう訓練を受けていて! だから、何とか登ってくれたんです!」
不意に、首に掛かった圧力が消える。荒くなった呼吸を、何とか整えていく。恐怖に潤んだ目を、擦る事さえ許されない。泣いているのだろうと、思った。何度も、危ない目にはあった事がある。だが、今回は別格だ。
また蛇が首を伸ばして、ロマを握っている何かと話し始めた。耳を傾けてみるが、聞いた事もない言葉だ、側で、何の相談をしているか、全く見当が付かない。怖い。何をこれからされるのだろう。生きたまま切り刻まれて、殺されるとかで無ければいいのだが。
蛇が不意に顔を背けると、ホールの奥へと這いずっていった。建物から、他にもなにやら異形の岩の塊が出てくる。あるものは、顔が半分欠けた人間のような姿をしていた。別のものはサソリのように六本の足とハサミがあり、尻尾のあるところに人間のものに似た顔が着いていた。腕が六本もある人間のような岩の塊もいた。大きな目が着いている球体に、何本も触手が生えている奴もいた。
此処は、地獄か。地獄なのか。どれもこれも、とてもこの世の生き物だとは思えない。自分は、地獄に紛れ込んでしまったのではないか。
檻車が運ばれてきた。鋭い棒状の岩で作られていて、とても逃れられそうもない。蓋は外れていて、その中に入れられる。上から、薄い岩の板で閉じられた。巨大な手で自分を握っていた奴の姿が見えた。顔は扁平で、足は虫のように横から出ていて、六本もあった。あれでは揺れない訳だ。体中棘だらけで、それは入り口にあったあの岩なのだと理解できた。これでは、確かに気付かない訳だ。そして苦もなく捕らえられてしまうわけである。ロマはこの巨大なヒトガタの、上に乗っていたのだ。
檻に手を掛けて、力を入れてみる。とてもではないが、ロマの腕力ではどうにも出来ない。隠れるような陰もない。しかも、出るためには、天井の岩をずらさなければならないのだ。籠に入れられた哀れな虫の気持ちが、よく分かった。彼らもこんな風に、怯えていたのかも知れない。
目を擦ると、やっぱり濡れた。心なしか、檻を覗いてきている岩の生き物たちは、ロマを敵意に満ちた目で見ているような気がしてならない。いざというときは、舌をかみ切ろう。そうすれば、少しは楽に死ねるかも知れない。
膝を抱えて、座り込む。決めたはずの覚悟が、揺らぎ始めている。恐怖が、体を再び縛り始めていた。
檻車は、六本の腕がある岩男に運ばれた。驚くほど揺れない。どうしてかは分からないが、考える気にもならなかった。膝を抱えて、ぼんやりする。今は何も考える事が出来なかった。
心が弱いなと、ロマは思う。とんでもなくタフになれる時もあるのに、ちょっとした事から簡単に崩れてしまう。ロマの前では、絶対に弱みを見せなかった師匠とは、偉い違いだ。だから、あんな風になりたいと思った。そして、今でもなれてはいない。
十代後半になった今でも、童顔だと言われる。背は標準的だが、体が痩せている事も相まって、男の子と間違われる事もある。大人の風格を備えていた師匠とは、此処でも正反対だ。何度か弟と勘違いされた事もあって、悔しかった。色々工夫して、大人びて見えるように工夫もしてみた。だが、それで師匠に少しでも近づけたか。近づけてなどいないではないか。
こんな時、師匠はどうするのだろう。決まっている。生きるための努力を、最後までするのだ。それに対して、自分はどうだ。死ぬ事を前提としてしまっていて、それどころか師匠に会えるかも知れないなどと言う妄想で自分を慰めている。
どうして自分が駄目なのかは、よく分かっている。それなのに、どうしても切り替える事が出来ない。変わればいいと、簡単に言ってくれる人もいる。だが、どうやって変わればいいと言うのだ。
檻車が止まった。ちょこっと揺れたのは、多分車輪を固定しているのだろう。顔を上げると、近くの岩に腰掛けた六本腕男が見えた。微動だにしない。もしさっきまでの状況を見ていなければ、彫刻だと思うかも知れない。それくらい、生物には見えない存在だ。これが動いているのは、今でも信じられない。
このまま放置されて餓死させられるのだろうか。それも嫌な末路だ。この岩達が何を食べているのか分からないが、人間と同じものではないだろう。餌が運ばれてくるとは考えにくい。だが、今日は考える事がことごとく外れるような気もする。少しは楽観的に考えても良いのかも知れない。
登山帽を脱いで、頭をかき回す。バカか。自分に叱責。そんな風に、上手くいく訳がないではないか。
楽観論を蹴飛ばすと、やはり沈鬱な気分が戻ってくる。殺すなら早くして欲しいものだ。手持ちの道具で、事態を打開できるようなものはない。銃はあるが、岩に通じる訳がない。銃はあくまで生き物に対して使う武器だ。大砲でも持ってこなければ、あの岩達には効きそうもない。それに、リュックはあの圧力を受けたのだ。デリケートな武器である銃が、無事で済んでいるだろうか。
腰に付けているナイフを確認。折れていない。タングステン鋼で作ったのだから当然か。リュックを開ける。カンテラは無い。さっき洞窟の入り口で出した時に、掴まれて、それきりだ。砕けて潰されて、もう使えないだろう。カメラは潰れている。フィルムを出すと、こっちは無事だった。現像には支障がないだろう。不幸中の幸いだ。銃を取り出す。無事だ。だが、やはり無事でも意味はないだろう。
後のものも殆ど潰れてはいたが、機能には問題がないものばかりだ。ピッケルやハンマー、ザイルの残りもある。これらは無事だ。帰りに必要であれば使うものだが。今はもう、何の役に立たない。ピッケルを打ち付ければ食い込むかも知れないが、さっきまでの動きを見る限り、黙ってそんなことをされてはいないだろう。それに、あの岩達の急所が何処にあるかも、さっぱり分からない。
六本腕の岩男は、文字通り微動だにしない。やはり何度見ても、生物には見えなかった。それなのに、足音が近付いてくると、岩男は冗談のように立ち上がり、右手の一本を挙げて、額の辺りまで掌を持ち上げた。肘から指先までを綺麗な一本の線とする。不動の態勢である。何かの挨拶だろうか。手を使って挨拶をするやり方は、はじめて見た。前に一度体を曲げて挨拶をする方法を見たが、あれは確か文明隔絶地の住民達が行っていた。
さっきまでは余裕がなかったが、やはりこの連中は、旧文明の産物に思えて仕方がない。しかし、どうも臭いというか雰囲気というか、全体的に違うような気がしてならない。或いは、まさかとは思うが。人の前段階にいた、旧文明の構築者だろうか。いや、それは違う。旧文明の遺跡は、人が使うように調整されたものばかりだった。彼らはあれを使うには、あまりにも大きすぎる。
ヒカリゴケに照らされて、闇の中から現れたそれを見て、小さく声が漏れた。今までで見た中で、もっとも凄まじい異形だったからだ。
頭は十個以上もあるだろう。胴体は直立した円筒形で太く、それの円周上に大量の頭部が浮き上がっている。一つずつが完全ではなく、中途で融合しているものが多い。目が一つだけの頭部があった。逆に上下に重なった結果、目しかないものもあった。下半身はムカデに似ていて、体をくねらせながら、無数の足で歩いてくる。胴体の頂上部からは六本の触手が生え、柔軟に蠢いて、音を出すのに役立っていた。
しばらく異形の存在は岩男と話していたが、その顔の一つが、此方を覗き込んでいるのに気付く。思わず檻の端になついてしまう。
「名前を言え」
「え、えっ? と」
「三度は言わせるな。 名前を言え」
「……ロマ=シャークテイル」
金属音。無数の口が、ロマ=シャークテイルと反芻した。思わず耳を塞いでしまう。気味が悪いなどと言うレベルではない。ロマが手を耳から離すのを、異形は待っていた。無理矢理話を聞かせようとすれば、出来るはずなのに。
「今から、お前を我らの主様の前に連れて行く」
「……どうするつもりですか」
「それは、主様が判断する。 私は主様に暇つぶしをして欲しい。 主様の気が向けば、玩具くらいにはしてもらえるだろう」
玩具、か。自嘲がこぼれる。
人間は文明にて力を発展させた事で、多くの生物を従えてきた。レジャーのハンティングで、おもしろ半分に滅ぼした種族も少なくない。それだけではない。生物としての形を弄って玩具にしたものもいる。食肉をとりやすいように、性質まで変えてしまった動物までもがいる。いつも食べているポールシュート種の牛などが、その典型例だ。あれは野生ではとても凶暴で、並みの人間では手が出ない相手なのだ。
六本腕の岩男が、檻車を押し始める。此奴らの主は、どんな生物なのだろう。この山そのものだったりしたら嫌だなと、ロマは自嘲した。
師匠と、口の中でつぶやく。もう死んでしまった相手に助けを求める、貧弱な冒険家。それが若手のホープと言われる自分の正体だ。こんな奴に憧れるから、死んだりする。膝を抱えて、大きくため息をつく。
気が向けば、玩具くらいにはしてもらえる。異形の言葉は、いつまでも耳の奥に残っていた。
檻車が、坂を上り始めた。広大なホールを突っ切って、すぐの事である。どうやら洞窟の一つに入ったらしい。
さっきホールを明々と照らしていた光源が、洞窟の左右に点々と置いてある。いずれにも管が伸びていて、考えられないほど明かりは一定だ。一体どうやってこれを成し遂げているのか。原理を想像できない。
また、入ってきた支洞と違って、天井に穴が開けられていない。そのため光も入ってきていないが、別に明かりには困っていない様子だ。洞窟の左右には、岩で出来た彫像が無数に見られた。多分、全部生きているのだろう。
岩男に並んで、異形が歩いている。時々何か話しているのが聞こえる。心なしか、談笑しているかのようだ。これから彼らのボスに差し出されて、玩具にされる事は分かったが、話している内容はやはり気になる。ボスが飽きた後の処分方法でも話しているのかと思うと、ぞっとしない。
それにしても、この洞窟の床の、磨き具合はどうだ。殆ど完璧と言っても良い。何しろ、さっきから檻車が全く揺れない。一番発展している北大陸のサンドラ合衆王国都でも、此処まで街路は整備されていない。馬車に乗っていると石を踏んで揺れる事はしょっちゅうだし、道ばたに汚物が捨ててある事だって珍しくない。犬の糞とモニの花は、サンドラ王都の名物だなどという言葉さえある。
前から風が吹き込んでくる。洞窟なのに、空気が新鮮なのも驚きだ。一体どうやって、澱みを無くしているのか。坂が終わって振り向くと、地底からせり上がるようにして、それがあった。
全体像は把握できない。城壁らしき分厚い壁が広がっていて、その奥に僅かだけ建物が見えている。それも半分以上埋まっていて、見えるのは一部の壁だけだった。気になったのは、この洞窟の内容物にしては、妙に無秩序と言う事だ。建物自体が古く見えるし、事実壁には亀裂が多く走っている。無理矢理天井を支えるために追加したと思える柱もあるし、窓はほとんどでたらめについていた。
塀の切れ目に、道がうねりながら続いている。正確にその道を岩男が押していく。左右に立ち並んでいる岩の彫像。途方もない数だ。微動だにしないが、多分全部生きているのだろう。これでは、仮に完全武装した軍隊が攻めてきても、簡単には落とせないだろう。大砲を並べて撃ちでもしない限り、進撃を止められそうにない。
塀のすぐ内側に建物があった。檻車のすぐ後ろで、戸が閉じられる。岩で出来ているらしく、閉じる時の音がもの凄かった。思わず身を縮めてしまう。相変わらず異形と岩男は談笑を続けていて、気にもしていなかった。
塀の中にはいると、建物が洞窟に半ば以上埋まっている事がはっきりした。とんでもない規模だ。見えているだけでも、高さが20テル以上、幅が150テル以上はある。サンドラ合衆王国にも、なかなかこれほどのものはない。建物の戸は、見た事もない分厚い金属で出来ていて、大砲でも破れそうにないほど頑強な作りになっていた。それなのに、開ける時には何も音がしなかった。しかもかなり軽い様子である。
建物の中は、外とは比べものにならないほどの明るさで、目が眩んだ。ゆっくり、目をならしていく。天井に、さっきのホール全体を照らしていたような光源。水音がする。建物の隅に川が流れていて、岩の生物がそこに並んでいた。お椀のようなものを使って、銀色に光る彼らの同類が、順番に水を掛けている。もう一匹、巨大な円形に無数の目と触手が着いている奴が、何か話している。それに伴って、こちょこちょ動き回っている小さいのが、側に積んである泥の山をこねていた。
最期まで見届ける事が出来なかったが、あれは何なのだろうか。不思議な光景であった。通路が曲がって、奥へ。複雑にくねった通路は、まるで戦闘を前提とした作りに思えた。武装貴族の邸宅や要塞などにはよくあるのだが、攻め手を迷わせるために、あえて作りを複雑にしてわかりにくくするのである。そう考えると、この岩の生き物たちと人間にも、共通する点はある訳だ。敵は何だろう。同じように、岩で出来た生き物なのだろうか。それとも、さっきの蛇の反応から言って、人間なのだろうか。
檻車が止まった。ムカデ男が、無数の足を動かして、奥へ。明かりが少し小さい。ムカデ男は幅広い階段を上って、すぐに姿が見えなくなった。階段の上は左右に通路が張り出していて、その奥へ消えたのだ。
再び、沈黙が戻った。この方が多少気楽で良い。さっきまでは、何を隣で相談しているのか、気が気ではなかったのだ。殺すのなら、ひと思いにしてほしいなと、何回考えたか分からない事をもう一度つぶやいた。
そんな言葉が届く事はないだろうと、自分でも思っていたのに。
沈黙は、ひたすら長く続いた。疲労から、いつの間にか眠ってしまっていた。
幕間1、闇の中で
物心ついた時には、闇の中にいた。
狭いところだった。石で出来ている部屋。正方形。天井は高く、床には魔法陣が書いてある。一角には上に伸びる階段があって、その先には鉄の扉。
いつも、あの扉を開けて、人間がやってくる。
足には鉄球つきの鎖が付けられている。鎖は床につながっていて、殆ど動く事は出来ない。仕事がない時は、膝を抱えて静かにしている。時々差し入れられる餌は、いつも同じものだった。何万回食べたか分からない。同じ味だから、すっかり飽きてしまった。
魔法陣の仕組みは分かっている。血に含まれている、命の力を増幅するものだ。唯一の私物は、小さなナイフ。仕事のために、自分を傷つけるためのものだ。
扉が開くと、部屋は一瞬だけ明るくなる。
大きな盆が運ばれてくる。それには、仕事の材料の泥が一杯入っている。運んでくるのは、子供達だ。今日はひゃくめが運んできた。にこりと笑みを向ける。ひゃくめも、笑ってくれた。一緒にいる人間には、分からない様子だ。
「今日の仕事だ。 ノルマは一週間以内にこなせ」
「分かりました」
逆らうと殴られる。だから、逆らわずに頭を下げる。人間は大きくて力が強くて、殴られるととても痛くて怖いのだ。いつのまにか、条件反射で頭を下げるようになってしまった。
それなのに。人間は殴る。蹴る。
今日も、蹴られた。脇腹を、容赦なく。悲鳴を上げてうずくまる。どうしたらあんなに大きくなるのだろう。力が強くなるのだろう。悲しい。痛い。
「気味が悪いんだよ! 人間の言葉なんか話してんじゃねえっ!」
引きずり起こされて、顔面に拳を叩き込まれた。しばらく殴り続けると、人間は飽きたらしく、設計書を置いていった。
床には人間が残した時計がある。これが鳴る前に、ノルマをこなさなければ行けない。そうしないと、もっと酷く殴られる。
まず、ナイフで手首を切る。こぼれ落ちる赤い血を、泥の中へ落とす。今回はかなり量が多い。だから、入れなければならない血も、また多いのだ。一回切った分では足りなかった。だから、ナイフで傷口を拡大する。ちょっとちくりとした。
腫れたまぶたを擦りながら、血が泥の中に落ちて、吸い込まれていくのを見る。充分な量の血が入ったら、混ぜ始める。設計書にあるとおりの条件を満たさなければならない。考える作業は楽しい。今回は六本の腕がある人間型だという。それぞれの手が稼働し、ある程度考える事が出来なければならない。しばらく考えて戦略を作ってから、泥をこね始める。こねるのも、楽しい。いつの間にか、笑顔が浮かんでくる。
顔を最初に作ろうと思った。まず球形を作って、指で凹凸を作っていく。目を作って、お鼻を作って、口を刻む。男の子にしようと思ったから、かっこよくして上げなければならない。少し四角くして、眉を鋭くする。兜もかぶせてあげた。
胴体を作る。自分の体で考えながら、肩から胸、腰へかけて作っていく。特に胸の筋肉を付けて、たくさんある腕を動かしやすくしなければならない。鎧を着せて上げようと思った。でも、肩を守る構造がどうしたらよいのかよく分からない。腕を作る。合計で六本。指先まで、丁寧にこねていく。血が入っている間は、乾く事はないから、気にすればいいのは時間だけだ。
最後に、足を作る。大きな体を支えるのだから、頑丈にしなければならない。太くて、逞しい足。格好良い体を支えるのだから、とても力強い方がいい。太くなりすぎたので、ちょっとバランスを調整した。
仕事を始めると、休まない。いつもは横になって、ぼんやりしている事が多いが、こうなると全く眠くならない。足が出来た。色々考えて、かっこいい靴を履かせてあげようと思った。ここに来る人間のを参考にする。良いのが出来た。履かせて上げる。紐も作った。しばってあげる。
後は、体を順番につなげていく。切り口に、水を多めに入れた泥を塗って、くっつける。しばらく合わせていると、綺麗にくっつく。六本もある手が大変だ。一つずつ、順番にくっつけていかなければならない。細かい部分は、指先で調整する。触って、偏りがないか確認する。気泡が入っている所があったので、一度穴を開けて、泥を詰め直した。丁寧に調整する。
肩大きめに作ったが、少し足りなかった。鎧を少し削って、腕が着くように調整する。時間がどんどん減っている。急がないといけない。でも、この子は出来るだけしっかり作ってあげたい。額の汗を拭う。疲れて、呼吸が乱れてきた。
出来た。体が全部つながった。良かった。何とか間に合った。ひょっとしたら、ぶたれなくても済むかも知れない。
細かいところまでチェックしていく。全部作ってある。変なところはない。体は、普通に動くはずだ。格好良くできた。嬉しくて、顔を撫でてあげる。
後は、名前を付けてあげれば、この子は命を持つ。
「きみの名前は、どうしようかなあ」
新しい命を作る時は、とても楽しくて、嬉しい。みんな大事なこどもだ。人間が、こども達をどう使っているかは分からない。だから、せめて一緒にいる時は、優しくしてあげたい。
「六本も腕があるんだから、強そうな名前が良いよね。 何が良いかな。 どうしてあげようかな」
笑みがこぼれるのが分かる。名前が決まった。泥だらけの指先を、ナイフで傷つける。額に血を垂らしながら、言う。
「決めたよ。 きみの名前は、ほのお」
血が、命のない泥の塊にこぼれる。
泥の塊だったものが、淡く光り始める。魔法陣がそれに会わせて回転を始め、力が抜かれていくような虚脱感に襲われる。今日はとても大きいから、いつもよりも激しい。額の汗が、顎を伝って、落ちる。
でも、我慢する。ほのおの目が醒めた時には、笑顔を見せてあげたいから。
魔法陣の光が収まる。ほのおが、目を開けた。
「おはよう」
笑顔で、それを祝福した。
3,岩の国の主
いきなりつまみ上げられた事に気付いた。急激なGの変化に、吃驚した。一気に目が醒めてしまう。恐怖に短く悲鳴を上げていた。
しばらくもがいていたが、だんだん状況が見えてくる。自分をつまみ上げたのは、あのムカデ男だった。触手の数本が、器用に体に絡みついて、逆さに吊っている。寝る前に被りなおした登山帽が落ちて、髪の毛がばさりと音を立てて広がる。あまり髪の量は多くないが、それでも視界を塞ぐには充分だった。
背中にリュックがない。檻の中に、リュックも、それにナイフもあるのが見えた。不覚だった。見れば、触手の一つが銃を檻の中に捨てていた。体をまさぐってくる気色の悪い感覚に、もう一度悲鳴を上げる。
「ぎゃあっ! 何するんですかっ!」
「危険物を持たせる訳にはいかないから、検査している」
暴れても、もがいても、止めてくれなかった。しかも、すっと、円周上に生えている無数の顔を近づけてくる。
「危険物はこれで全部か?」
「……」
「回答を拒否するなら、服を剥がして調べるだけだが?」
「っ! 全部ですっ!」
上下に揺さぶられる。人形でも扱っているつもりなのだろうか。何回か気絶したが、のんびり意識を失っている暇もなかった。
乱暴に床に投げ出される。受け身を取るのが精一杯だった。理不尽に怒る事も許されない環境にいる事に、改めて憤りを感じる。何しろ、此奴らの機嫌を損ねたら、一瞬でミンチにされるのが目に見えている。
人間にとってペットがそう言う存在ではないか。人間の都合で存在そのものがゆがめられ、気分次第で捨てられ、或いは殺される。人間の尊厳などと言うのはまやかしだ。そんなものは、人間が絶対的強者である世界でしか成り立たない。兎に角、今は服をひんむかれなかっただけでも喜ぶしかない。体中をまさぐった触手の感覚が気色悪くて仕方がない。寒気がとれない。
後ろから、右手を掴まれて、つり上げられる。六本の手を持つ岩男に掴まれたのだと気付く。さっきの入り口にいた奴と同じで、手加減を知らない。骨が軋む音がした。急に引っ張り上げられたから、肩が抜けそうだ。
「ちょっと、少しは手加減してください!」
「必要ない。 壊さなければいいのだからな」
流石に頭に来たので、抗議しようとした矢先に、ムカデ男は言う。
「お前達が、そう我々を扱ってきたように。 我々も、お前を扱うだけだ。 文句のありようはずがない」
その声には、怒り以上の、深い憂いが籠もっていた。
今でも、社会では奴隷として扱われる人たちがいる。北の大陸ではいなくなったが、西や南では健在だ。東の大陸では、奴隷こそいないが、社会の格差が大きくて、似たような境遇の人は珍しくもない。
この洞窟の設備から言って、この岩の生き物たちは、旧文明で奴隷として扱われていた存在だったのだろうか。その推測は高確率で当たっているはずだ。それならば、恨まれるのも仕方がない。
我々は、何らかの理由で壊滅した旧文明の、生き残った者達の子孫だ。どんな異端の説を唱える学者も、その事では意見を一致させている。我々の先祖は、旧文明では奴隷として扱われていたという説もある。それなのに、今更先祖の非を鳴らされてもと、抗議するのは筋があわないだろう。今の発言から言って、彼らにはリアルタイムでの出来事だった可能性が高いからだ。先祖の身分など、今更証明する手段もない。
そういえば。あの事件も、そんな事が理由だった。人間は、自分の好きなように出来る存在を欲する。ペットがそうであり、奴隷がそうだ。例え相手が人間であっても、それに代わりはない。
嫌と言うほど、それは味わった。何だか、急に此奴らに対する憤怒が薄れてきた。
「何だ。 急におとなしくなったな」
「逃げませんから、せめて降ろしてもらえませんか? 肩が抜けそうなんです」
「いいだろう。 ほのお!」
六本腕の岩男は、本当に手を離した。
だが、そうする事は予想できていたので、今度はちゃんと着地できた。だが、体力的にはもう限界近い。腹時計の様子から言って、多分一日半くらいは食べていないだろう。歩くくらいなら平気だが、長時間走り回るのは無理だ。
満身創痍とはこのことだ。体中に打ち身と切り傷。それに今脱臼しかけた右腕は、殆ど力が入らない。促されて、歩き始める。少し後ろを塞ぐようにして着いてくるムカデ男に、話しかけてみた。
「あの、この洞窟は、何年前から存在しているんですか?」
「それは恒星周回単位時間の事か?」
「え? こうせいしゅうかいたんいじかん?」
「……その単位で言うならば、だいたい6500という所だ」
間違いない。それは、旧文明崩壊の時期とぴったり重なる。6700年前から世界各地で旧文明は途絶え始め、10年以内に殆どの都市が消滅していると推察されている。僅かな生き残りもあったが、一番最後まで残っていたものでも、6400年前には姿を消した。こうせいしゅうかいたんいじかんと言うのが何の事を指すのかはよく分からないが、多分年と同じだろう。この生物たちを酷く扱っていたのは、旧文明の人間達だと思って間違いなさそうだ。
「私を、何処へ連れて行くのですか?」
「主に見せておく」
厄介な話なのだが。それならば、好都合だ。
さっき武器を取り上げられた。それは言い換えれば、武器があれば「主」に危害を加える可能性があるからだ。蟻のように、王が強大きわまりない存在なのだとしたら、ロマの持つ武器なんか取り上げる訳がない。この生物たちが旧文明の存在なら、ロマの武器がどういうものかくらいは一目で見破るはず。つまり、彼らの主は貧弱で、ロマにもどうにか出来るチャンスがあるのだ。
人間とは本当に面倒な生き物だ。今、ロマは希望を見た。だから、それにすがって生き残る事を考え始めている。さっきまで、完全に諦めていたのに。変な話だ。自分を見ていて、そう思う。
心の揺れが大きいなと、自分でも思う。それは師匠にも良く注意された。いざというときに、チャンスを掴もうとする姿勢は良い。しかし、もう少し思考のぶれを無くすようにと。
「右だ」
「こっち、ですか?」
妙に狭い通路に入り込んだ。好機かと思ったが、まだ機会はうかがう。護衛戦力が、着いていないとは思えない。隙を見せるまで、待つ方が良い。ムカデ男は、狭い通路にもスムーズに入ってくる。六本腕の男は、そこで待つ事にしたようだ。
一番奥には、カーテン状の布が掛かっている。この奥に、主がいると言う事だろう。跪くように言われた。言われたとおりにする。ムカデ男が、話し始めた。
「ころなです。 主様、連れてきました」
「あまり乱暴に扱ってはいけませんよ」
「大丈夫です。 壊れないようにしました」
ずいぶんな言いぐさだ。まだ体中が痛いのだが。それにしても、今の声。年下の女の子のものに聞こえたのだが。
ムカデ男は、全く油断していない。ちらりと伺ったが、顔の二つが常に此方を見て、触手も数本がスタンバイしている。怪しい動きをしたら、即座に叩きつぶされミンチだろう。まだ、チャンスをうかがう。
カーテンを開ける気配。ムカデ男では無い。やはり、護衛戦力がいたのだ。焦って突っ込んでいたら、ひとたまりもなかっただろう。
顔を上げると、褐色の肌の美女がいた。カーテンを開けたのは、この人らしい。ウェーブが掛かった黒髪は腰まであり、半裸の体に黒い下着だけ。その下着も、豊満にふくらんだ胸と局部だけを申し訳程度に覆っているだけの、とんでもなく際どいものだ。娼館にでも務めているのだろうか。見ているロマの方が恥ずかしくなってくる。セクシーと言うよりも、色気過剰で、尻込みしてしまうほどだ。特に、ことあるごとにやせ形を揶揄されるロマは。
其処で、思考が戻る。人間が、なぜいる。というよりも、本当に人間か。
「おや。 本当に人間ですのね」
「先にそう連絡したはずだ、あんず」
「分かっています。 ただ、確認しただけですのよ」
うふふと上品に美女が笑う。ムカデ男の口の利き方が急に変わった事からして、これが主ではないのだろう。それに対等に話していると言う事や、今の会話内容から言っても、この美女は人間ではない可能性が高い。
「きちんとボディチェックは済ませたのかしら?」
「問題ない。 眠っている内に、X線探査までかけて、危険なものは取り除いた。 身体能力も筋肉の密度から測定済みだ。 私は当然の事として、貴様なら即座に取り押さえる事が出来る。 特殊訓練を受けているようで、見かけより能力は高そうだが、対応できる範囲内だ」
よく分からない言葉は出て来る。X線とは何だろう。他にもよく分からない単語が会話に幾つも混じり込んでいる。ちょっと苦手だ。それにしても、此方は完全に無視か。仕方がない事とはいえ、少し腹が立つ。
美女が奥へ跪く。口調が完全に変わった。表情にも妖艶な笑みは消え、純粋な忠誠心だけがある。東の大陸に師匠に連れられていった時、こんな表情で王に拝謁する武人を何度か見た。それと同じだ。本当に心から敬愛しているから、こういう絶対的な忠誠を誓う事が出来る。
よく見れば、美女の足下には、大振りの刃物があった。東の大陸で使われているトウと呼ばれるものに似ている。凄く切れ味が良さそうで、ロマは身震いした。美女は、もし命じられれば、即座にあれでロマを斬り捨てるだろう。
「主様。 いかがいたしますか」
「事情を聞いてください。 あまり酷い扱いはしないように」
「御意。 ただ、生かして返す訳にはいきますまい。 もし仲間を連れてこられると、後々厄介になります」
物騒な会話の中、ロマの視線は釘付けになった。見えたからだ。
彼らが主と崇拝する存在は、自分より少し年下の女の子に見えた。銀色の髪の持ち主で、とても優しそうな顔立ちをしている。腕も足もとても細い。何かの毛皮か、よく分からない材質の長椅子に埋もれるようにして座っていた。最小限の衣服しか身につけていないらしい。というのも、薄い布地の下にある、痩せた体のラインがはっきり分かるからだ。
綺麗な女の子だ。大事にされているのは一目で分かる。髪はとても美しく手入れされているし、肌もきめ細かい。東の大陸に多い、若干褐色の強い肌色の人種に似ている。少し気になったのは、手先が僅かに荒れている事。後は、手首に傷が少し見て取れる事だろうか。それに、足首。僅かに変色している所があった。肌が綺麗だから、余計にそれは目だった。それに、もう一つ気になる事がある。大事にされている割には、表情には憂いが見て取れるのだ。
なるほど。これでは武器を取り上げる訳だ。しかし、屈強で頑丈な岩の生き物たちが、どうしてこの綺麗だが貧弱な存在に心酔しているのかよく分からない。だが、主さんとやらは、此方に敵意を抱いていないらしい。ひょっとすると、生きたまま帰してくれるかも知れない。
「しばらく、様子を見ましょう。 ころな、地下室へ案内して差し上げて。 食料も分けてあげなさい」
「は。 貯蓄分を放出する事になりますが、よろしいのですか? それに畏れ多くも、玉体の召し上がるものをこの人間に与える事になりますが」
「構いません。 ただでさえ、少し余っている位なのですから」
「温かい御慈悲には感服いたします。 人間など滅ぼせと一言おっしゃっていただければ、すぐにでも準備に取りかかりますのに」
どうやら、このムカデ男は、ころなというらしい。どういう意味なのだろうか。この主の言葉に依れば、どうやら散々尋問される事は間違いなさそうだ。だが、即座に殺される事もないだろう。だが、このころなとかいうムカデ男は、自分に害意を抱いている事がほぼ確実だ。チャンスがあれば、確実に自分を殺しに来るだろう。
部屋から引きずり出されるようにして退出。「主」に肉薄する隙もなく、その体力もなかったから、おとなしく従った。食料を分けてくれると言うから、今は従った方が良い。それにあの「主」に、邪念や悪意は感じなかった。
幾つか目の通路を曲がると、急に照明装置が貧弱になった。それに伴い、内装もいい加減になる。手入れが為されていない事が露骨に分かる。
階段を下りる。更に辺りが寂しい雰囲気になった。牢屋に向かっているのだから、当然だろうか。
「此処だ。 入れ」
分厚い鉄の扉の前で、そうころなは言った。言われるまま、戸を開ける。
其処は完全に孤立した部屋だった。窓はない。ただ、内装はそれなりに綺麗だ。家具さえあれば、人間が住んでもおかしくないくらいである。部屋は左右にもう一つずつある。真ん中の部屋が一番広く、右の部屋がその次。左が、一番狭く、床の真ん中に穴が開いていた。トイレに使えと言う事なのだろうか。
脱出できるかと思い、覗いてみる。残念ながら、とても人間が通れるような広さの穴ではない。穴の下は溝になっていて、地下水が流れていた。溝がつながっている穴は、手が入るかどうかといった大きさで、此処から抜けるのは不可能だ。
「生活用品は、後で持ってくる。 後、お前の荷物は、武器に使えそうなもの以外は返してやる」
「え? どういう風の吹き回しですか?」
「しばらくは生きていて貰わないと困るからな。 後で、尋問用の仲間をそちらにやる」
ばたんと戸が閉められ、鍵が掛かる音がする。完全に密室だ。窓があるのだが、覗いてみると外はみっしり岩が詰まっていた。
やはりそうか。ロマは結論する。
これは多分、元は外にあった建物だ。
それを山の中に移動させたのか。いや、恐らくは違う。では、どうして。考えてみれば、答えは明白だ。すぐに結論が出た。ロマは戦慄が走るのを感じた。
蟻は巨大な塚を作る。西の大陸の砂漠地帯に住む大型のカールネル蟻に到っては、高さ3テルを超える塚に住む。小さな蟻でさえ、数年でそれだけのことをやってのけるのだ。あれだけ完璧に統率がとれた岩の生き物たちなら。蟻に出来る事くらい、簡単にこなしてみせるだろう。
天井を見上げる。
多分、この山の頂上部分は、彼らが作り上げたものなのだ。しかも、ずっと昔に。此処は、非常に高い知能を持った、蟻の塚なのだ。
この山の、異常な険しさも、それで説明が付く。外敵の侵入を防ぐために、より嶮岨に、彼らが改造したのだろう。
部屋の隅に座り込むと、膝を抱えた。
とんでもない所へ来てしまった。旧文明の滅茶苦茶なパワーは、自分の目で見て知っていたはずだったのに。
あの美女が張り付いている以上、主には手も足も出ないだろう。
師匠と、口の中でつぶやいた。今は希望よりも、恐怖がより勝っていた。
食事が運ばれてきた。平たい板に、幾つかの容器が並べられていて、盛りつけられたそれは温かかった。持ってきたのは、六本腕の男だ。
目の前に置かれた食事を見て、驚いた。色が全く付いていないのだ。一つは穀類に見える。穀類を焚いたものであろうか。もう一つは恐らくキノコだろう。最後の皿は、何かのスープだと思う。肉らしきものが入っているが、これも分からない。多分魚類のものだとは思うのだが。
口に入れてみる。思ったよりも、ずっと美味しい。穀類のは一件味がないが、噛んでいると甘みが出てきて、しかもやわらかい。キノコは歯ごたえがしっかりしていて、何かの油でしっかり炒めてある。肉はやはり魚のものだった。骨が全く入っていないのは、どうやっているのだろう。骨を取る技術が、東の大陸の文化にあると聞いているが、それなのだろうか。
「美味しいです。 有難うございます」
話しかけてみるが、にこりともしない。行き場のない笑顔に、少し困って、ロマは視線を泳がせてしまった。
「食べ終えろ。 すぐに話を聞かせて貰う」
「はい。 その」
何も応えてくれない。どうやら、会話が成立する相手ではなさそうだ。コミュニケーションを、最初から拒否されている印象だった。
視線を逸らすと、部屋の隅に置いてあるリュックが、網膜に映った。リュックはさっき、食事の前に返して貰った。ピッケルは取り上げられてしまっていたが、携帯食や塩なんかは残っていた。カンテラはやはり無い。あれはなじみの職人に作ってもらった良いカンテラだったので、残念だった。
無駄口に文句を言った六本腕の男であったが、食事速度については状況が違った。遅くても、何も言わない。まるで彫像のように黙って待っていた。ロマは食べるのが比較的遅くて、いつも師匠に文句を言われていた口だったので、これは意外だった。
戸をノックする音。スープを飲み終えたロマの前で、六本腕男が顔を上げて、聞いた事のない言葉で返事。部屋に入ってきたのは、10歳前後の女の子に見える生き物だった。人間のものによく似た手足を持っているが、違うのは白狐のものを思わせる尻尾があることか。それに耳もとんがっていて、しかも毛が生えている。さっきの「主」さん同様、とても薄い布の服を着ていた。ワンピース型のその服は、例によって異様に清潔だ。焦げ茶の肌と、非常に鮮烈な対比を作り出している。
大きな目の、好奇心が強そうな子供に見えるが、言葉遣いは想像外のものだ。声が子供っぽい上に、表情が純真なので、ギャップが凄い。
「これが例の人間か、ほのお」
「そうだ、くまで。 今、餌を与えた。 面倒な話だ」
「人間と接するのは私もいやだが、主様の命令だとすれば仕方がない。 あまりそういう不平は言うな。 ころなに雷落とされるぞ」
「その通りだな。 失言だった。 忘れてくれ」
ギャップが却って面白くて、ロマは何だか体の芯が温かくなるのを感じた。可愛いなあと思っていたら、鋭い視線を返される。やはりこの子も、人間は好きではないらしい。視線には、嫌悪と拒否が籠もっていた。
六本腕男はほのおと言って、子供はくまでと言う訳だ。食事を終えた事を見て取ると、ほのおは食器を片付けて、さっさと部屋を出て行った。くまではそれを横目で見送りながら、ロマの前にあぐらで座る。ちょっとお行儀が悪い。ただ、南の大陸では普通の事だし、その習慣を持つ人とも接し慣れているから、気にはならない。
「さっさと質問に答えてくれよ。 私は忙しいんだ」
「貴方も、土で出来ているんですか?」
「私達マッドパペットは、基本的にみんなそうだ。 あんずみたいなセクサロイドモデルや、私みたいなホームロイドモデルは、人間に近い質感や体構造を再現するために、手を入れられてるけどな」
そこまで言ってから、逆に質問されている事に気付いて、真っ赤になって怒るくまで。何だか可愛い性格をしている。多分身体能力はとても高いのだろうが、その辺の子供よりも余程可愛い。
まず最初に、名前と年齢を聞かれた。それから職業。冒険家と応えると、眉をひそめられた。
「そんなものが、仕事になるのか?」
「今は何処の国も、資源や技術が欲しい時代ですから。 私みたいに危険なところに出向いて、資源を探す人間が重要なんです」
「それは本当か? 資源が豊富だからってこの星に入植したのに。 何でもうそうなってるんだ」
「え?」
何でもないと、くまでは応えた。やはり分からない言葉が多すぎる。星。入植。意味が分からない。何の事なのだろうか。「せくさろいど」やら「ほーむろいど」とかも分からない。
「それで、お前は資源を探しに、こんな所に来たのか。 仲間は?」
「私一人です」
「信用率が少し低いな」
「本当です。 仲間を連れてこようかとは思ったんです。 でも、みんなこの山にはいるって聞いたら、尻込みしてしまって」
それに、もう自分のせいで、あんな事故は起こしたくなかったという理由もある。名前が売れるようになってから、仕事について来たがる人間は少し増えた。だが事故の後は、以前と同じく一人で仕事をするようになっている。師匠がいた時は、二人だけで仕事をしていた。この方が気楽だ。だが、遭難した時の危険度は、確かに高い。
続いて、くまでは不思議な白い板を取り出すと、その上に指を走らせる。不思議な図形が、板の上に浮かび上がった。エツペーランタで何か書いてある。この三角形の角度を求めろ、と読めた。
「この計算問題を解けるか?」
「あ、はい」
円の中にある三角形の、角度を求める問題だった。数学者ではないが、これくらいなら何とかなる。仕事上、測量はしなければならないから、三角関数程度なら身につけているのだ。
頷くと、くまでは白い板に触れる。今まで書かれていた文字が、嘘のように消え去った。師匠だったら、目を輝かせるかも知れない。あんなにのっぽで冷酷だったのに、興味を持つと子供みたいにはしゃぐ人でもあったのだ。また、別の問題が出てきた。今度は楕円の面積を問う問題だった。これは分からない。数学者なら解けるのかも知れないが。
幾つかの問題を提示されたが、半分くらいしか解けなかった。中には、何の事やらさっぱり分からないものもあった。続いて、文章が様々に出てくる。単語の意味を問うものが多かった。それらの中には、旧文明で発見されて意味が分かっていないものも多かった。あまり質問していてはまた怒らせてしまう。この子は可愛いが、本気で怒らせたら多分ミンチにされてしまうだろうから、あまり無茶は出来ない。
どれくらい時間が経っただろうか。様々な問題を100ほどこなした後。くまでが大きく嘆息した。動作が人間以上に人間らしい。
「何てちぐはぐな結果だ」
「ちぐはぐ、ですか?」
「そうだ。 ちぐはぐだ。 惑星の公転軌道距離も分かっていないのに、正確な周回時間は把握している。 この星系の星の数は分かっていないのに、重力レンズの存在を知っている。 ナノテクノロジーの産物は幾つも知っているのに、初歩の術式生成物も存在を知らない。 元素周期表も理解していないのに、放射性物質の発生メカニズムは漠然と知っている。 何だ、お前達の文明は。 ゼロから積み重ねたら、そうはならないだろう」
「そんな事を言われても、困ります。 そもそも我々は、崩壊した旧文明の生き残りなんです。 それも、奴隷として使われていた人たちが先祖だって言われているんです」
くまではそれを聞くと、考え込む。その様子がやはり可愛い。頬などは随分すべすべに見える。
「お前達の言う旧文明とは、技術供給が絶たれて内紛で滅んだ入植者の事だと思うが、まさか連中の遺跡を発掘して、中途半端に技術を入手しているのか?」
「そうです。 幾つかの国家は、それで急速に発展して、今では世界を四分する大国が安定した政権を作っています。 私達が評価されるのも、それらの技術回収に一役買っているからです」
「そうか。 ……今日はここまでで良い」
「え? もう少し話していきませんか」
立ち上がりかけて、がくりと腰を落とすくまで。きょとんとするロマに、また子供っぽく怒り出す。
「なれなれしくするな! 私は、人間は大嫌いだ!」
「どうしてですか?」
「お前には関係ない! お前ら人間が主様にした事が一番許せないが、私にした事だって勘弁ならん! ホームロイドとして主様に作らせておいて、飽きたらセクサロイド代わりにしやがって! だったら最初から、人格を持つマッドパペットなんか使わないで、人間にとって都合が良いAI積んだアンドロイドにしておけばよかったんだよ! 何が高級な趣味だ! 何がチキュウ人類は宇宙一優れた種族だ! 人間なんか、宗教作っても自己肯定しきれない、欲望とエゴまみれの、宇宙一醜い怪物じゃないかっ!」
真っ赤になってまくし立てた後、不意に静かになる。きょとんとしたロマに、頭を掻きながらくまでは言った。
「……すまん。 元々クローン培養された先祖を持つお前達は、どちらかと言えば私達と同じ立場だったな」
返事を聞かずに、くまでは部屋を出て行った。残されたロマはしばし唖然とする。
何だか、とても深い業を聞いてしまったような気がする。よく分からないが、あの子はとても酷い事をされて、人間が嫌いになったとしか思えない。怒りと一緒に、とても深い悲しみを、ロマは敏感に感じ取っていた。
何だか悲しいなと思う。訳が分からないまま、殺されるのは嫌だ。しかし、全てを知った時、後悔するような気がしてならない。
旧文明が滅びたいきさつは、諸説が入り乱れて、よく分かっていない。西の大陸では、人間達が皆おごり高ぶり、神の怒りを買ったと言われている。北の大陸では、技術が高くなりすぎて、向上を止めたのだと言われている。東と南は共通していて、神の世界に旅立っていったとなっている。
だが、くまでは内紛で滅びたと言った。旧文明の人間達は、一体何を奪い合ったのだろう。領土だとは思えない。資源もまだ豊富にあったはずだ。それならば、一体何を奪い合ったのだ。
分からない事が多すぎる。全てを知りたいとは思わない。
だが、知らなければならない事は、あまりにも多い気がした。「主」さんの憂いも、くまでの悲しみも、知らなければ、理解できない気がしたから。
膝を抱える。やっぱり、師匠に側にいて欲しい。弱いなと、ロマは自嘲した。
幕間2,加速する悲劇
私は唖然としていた。雨の中、ゴミ捨て場で、捨てられたあんずが、襤褸布にくるまって生気のない目で空を見ていたからだ。
「どうした。 何があった」
「売り上げが、落ちたんだって」
答えは単純明快。少し前から、ゴミ捨て場には同じようにして捨てられたくまでが住み着いている。此方はホームロイドとして作られたのに、買い取り手に慰み者にされ、挙げ句に飽きたという理由で捨てられたのだ。
マッドパペットに人権はない。人間に怒りを抱く事も許されていない。抵抗ももちろん許されない。
抱くのは悲しみだけだ。
「あまり雨を浴びるな。 体が崩れるぞ」
「貴方だって。 学者をしているって言うご主人様は、どうしてそんな使い走りみたいな事をさせているの? 学問を補助するための存在なのではなくて?」
「ご主人様は最近記憶力の低下が激しいようで、それで私が気に入らないらしい」
「うふふ、そう。 捨てられたら、みんなで仲良く暮らせそうね。 あは、うふふ、あははははははは」
壊れた笑い。音声受容器官を塞ぎたくなった。
あんずは捨てられる時に、炎を浴びせられて、体を半ば焼かれた。だから、酷く焦げ付いている。捨てられる時に酷い暴力を振るわれたくまでは、右腕を失っている。自慢の尻尾の手入れが出来ないと、嘆いているのを時々見かける。自分は人間と姿形が違うから、そんな程度ではすまないだろう。事実、粉々に砕かれて、廃棄された同胞も珍しくない。
人間達は分かっていない。主の血は、そんな事では効力を失わないと言う事を。主に力を保たせた人間は知っているのかも知れない。だが、多くの人間は気にもしていない。
ただ、悲しいと思う。従容と運命を受け入れるしかない事は分かっている。だが、どうにかならないのだろうか。
悲しみを抱えたまま、大学の研究室へ戻った。途中、すれ違った人間は、皆汚物でも見るかのように私を見た。作られてから一度も、私は感謝された事がない。どんな人間にも、全力で仕えてきたのだが。それが報われた事は一度もない。恐らく、同胞の誰もが、そうだろう。
人間は、私を嘲笑の対象として作り上げた。仕事の補助もさせる事が出来ればなお良いと考えたのだろう。
だが、主は手を抜かなかった。人間の意図を、精一杯前向きにとらえられたのだ。仕事の手伝いを、できるだけ精一杯出来るようにと、私を作ってくださった。細い手首をナイフで切って、いっぱいの血を授けてくださった。私が目覚めた時には、優しい声をかけてくださった。私は忘れない。誕生を祝福してくださった、主の優しい笑顔を。
エレベーターを使う事は許されていない。階段を使う。研究室にはいると、気難しいご主人様が、早速叱責を浴びせてきた。
「遅いぞ。 買い物もまともに出来ないのか」
「申し訳ありません」
頭部を下げる私を、学生達が笑っている。買ってきた食料品を手に手に奪い取ると、貪るように食べ始める。まずい、まずいという声が聞こえた。言いながら、学生達は此方を見て、反応を伺っている。
どんなに頑張って仕事の手伝いをしても、細かいミスを見つけては、彼らは私を否定する。「醜いから」というのが理由だそうだ。彼らにとって、自分達の価値観は絶対規律。醜いマッドパペットは、嘲笑の対象である事以外を許されない。
ならばロボットを作って仕事を手伝わさせれば良いのにと、思う事もある。マッドパペットが人格を持っている事は、周知の事実なのだ。それが分からない。どうして他の都市のように、ロボットを使わないのだろう。
実験は、ごくつまらないものだ。革新的な理論を探すでもなく、分かりきった結果が出る実験を、決まり切った道具を使って、延々と行う。どうして、ご主人様は、進歩を望まないのだろうと、不思議に思う。老いたその顔には、いつも怒りと焦燥が張り付いている。同胞に暴力や怒りを向ける事は許されない。だから、マッドパペットである私がいつもそれを受ける事になる。
主はどうしているのだろうか。それが心配だ。
私が産まれた時。主は人間に殴られていた。蹴られていた。特に理由もないのに、そうされていた。主に暴力を振るう人間は、薄ら笑いを浮かべていた。ナノテクノロジーと術式で特殊な力を持たせただけの、人間だというのに。
もう一度、主の事を考えた。分かる訳もないのに。安全であると良いなと思った。そんな願いが、かなうはずもないのに。
4,三択
何度目かの食事を取ると、体力がだいぶ戻ってきた。この分であれば、山を下りるくらいの体力はもうあるだろう。リュックの中身も、詰め直している。いつでも出かける事は可能だ。
問題は、分厚い鉄の扉と、マッドパペットと名乗る彼らの追撃をどうやってかわすかだ。出口までのルートも、把握しきっているとは言い難い。空気が怪しくなってきたときのことを考えて、早めに何か策を考えた方が良いだろう。
あれから、毎日のようにくまではやってくる。質問は徐々にマクロ的なものからミクロ的なものへ移りつつあり、各国家の技術や風習などについても聞かれている。特に軍事兵器関係については色々聞かれた。此方も訳が分からない単語が山ほど出てきて、応える事は出来なかった。
くまでは相変わらず全く心を許してくれないが、それでも扱い方は少しずつ分かってきた。話してみれば、かわいい普通の女の子だ。こんな可愛い子供に、卑劣な事をした人間がいるというなら、ロマが代わりにぶん殴ってやりたいほどだ。これでも、体はそれなりに鍛えている。普通の大人の男くらいなら、負けない。
今日も、食事はほのおが持ってきて、終わるくらいにくまでが来た。あの白い板を携えて、である。白い板は今日も変幻自在の変化を見せ、文字を浮き上がらせては消し、また次の図形を作り出した。分からないものだらけである。
「ヘリコプターも分からない、と。 今日はスムーズに項目がクリアできる」
「それはどういうものなのですか?」
「今は知らない方がいい。 自分達で文明をリセットしたのだから、一から作り直した方が良いはずだ」
けんもほろろに見えるが、少しずつ対応が軟らかくなっているのが分かる。今のも、此方をそれなりに心配しているから出てきた発言だと言う事は、ロマには感じ取れていた。それにしても、ヘリコプターとは何だろう。図形を見せられても、何をするための道具なのかさっぱり分からなかった。
くまではとても尻尾を大事にしているらしく、時々左手で無意識に撫でて汚れを取っている。単なるアクセサリではないらしく、感情と一緒に動いているし、歩いている時にはバランスもそれで取っている。ネコなんかと同じで、尻尾は大事な体の一部な訳だ。それ以上の愛着を、見ていると感じるのは何故だろう。
「その尻尾、可愛いですね」
「意外な事を言うな。 人間はこれを引っ張ったりしたし、踏んづけたりした。 わざと熱いコーヒーを掛けて、苦しむ私を見て楽しんでいたりもしたな。 主様がわざわざ作ってくれたのに」
「主さんは、どうやって貴方を作ったんですか?」
「知らなくて良い」
かわされた。喋っていて分かったのだが、この子は感情が高まると、不要な事まで喋ってしまう悪癖がある。だが、それもロマと話している内に、急速に克服されつつある。まだ扱いは簡単だが、油断すると足下を掬われるだろう。
しかし、聞けば聞くほど酷い。この子を虐待した人間は許せない。もう何千年も前の事なのだろうが、出向く事が出来たら歯の二三本は折ってやりたい所だ。この子の気分次第で殺されるかも知れないのに、不思議だ。そんな事を考え始めているのだから。
ドアをノックする音。くまでが白い板に伸ばしかけていた手を引っ込めて、振り返る。ドアを開けて入ってきたのは、意外な存在だった。あの美女である。
「あんず、どうした」
「それが」
あんずと呼ばれた美女は、視線をずらす。その先には。
彼女らが主と慕う、女の子がいた。
二人きりで話したいと最初女の子は言ったのだが、あんずが絶対に譲らなかった。無理もない話である。自分があんずの立場でも、同じ事を言っただろう。
マッドパペットと言われているが、彼らの思考回路は人間と殆ど同じだ。ただし、幾つか違う点もある。生理的な反応を見せない事や、特定の存在に絶対的な忠誠を誓っている事。それに、非常に真面目な印象がある。特殊な洗脳でもしない限り、人間はこうはいかない。くまでやあんずを見ている限り、そんな洗脳が施されているとは、とてもロマには思えなかった。忠誠に関しては、人間でも誓う事がある。だがそれは、環境に依るものだ。
刃物を持ったあんずが目を光らせているので、少し肩身が狭かった。それに、ドアの向こうには、何体かの気配がある。多分ほむらという六本腕の男か、ころなというムカデ男だろう。
これは好機かも知れない。巧くこの子を人質に取れば、一気に外へ脱出できるチャンスを掴める。しかし難しい。あのあんずという美女は、相当な修羅場をくぐっている。というのも、此方の指先の動きまで油断無く見張り、いざというときは瞬時に斬り伏せる態勢を整えているからだ。
東の大陸でみた一流の武人にも、此処までの気迫で接してくる相手はなかなかいなかった。それに、くまでも女の子のすぐ側に座って、有事に備えている。今の時点では、無理だ。何かとんでもない事でも起こらない限り、この女の子に肉薄する事は出来ない。
今は、好機ではない。まだ、機会はうかがわなければならない。ロマは結論すると、少し肩の力を抜いた。今は気張る時ではない。
「貴方の回答は、大体分かりました。 色々不便な思いをさせてしまって、申し訳ありません」
「え、いや、そんな」
「我々が不安視していたのは、現在の人類の文明進展です。 我々も様々な方法で観測は続けていたのですが、どうしてもこの山からでは限界がありましたから。 今の時点では、我々に危害を加える能力は無いと判断できましたが、それでもまだ不安に残る部分は多々あります。 特に、私の子供達は、皆不安に思っているようです」
何だか恐縮してしまう。
こんな絶対的王国の主なのに、腰は低いし口調は軟らかい。紳士的という言葉があるが、その見本だ。何だか、周囲に愛される理由が分かる気がする。
人間が主にした事を許せないと、くまでは何度も言っていた。この子に、卑劣な暴力が加えられていたのだとすると、ロマだって許せない。しかし、殺されるのが嫌だという気持ちも、厳然としてある。
「人間と、交流する道は無いんですか?」
「それが不可能な事は、貴方が一番よく分かっているはずです」
「……そう、ですね」
「私達は、静かに暮らす事だけが望みです。 適切な量の水と、体を作る土砂と、現状維持できる環境だけがあればいい」
主さんは、寂しそうに天井を見た。釣られてロマも見る。天井は、良く磨き抜かれている。まるで、生物の存在を拒否するように。
「それには、我らが人間に見つからない事が、絶対条件です」
冷厳な事実だった。
確かに、その通りだ。人間が、彼らと共存など出来る訳がない。個々のレベルでの交流であったら、或いは可能であるかも知れない。しかし、肌の色が違うだの、文化が違うだので相手を容易に否定し、命まで平気で奪う人類には無理だ。自分と同じ存在とさえ交流が出来ないのだ。彼らと交流など出来る訳がない。まして此処にいる者達は。
目に浮かぶようである。人間の一方的な価値観によって、凄惨な戦争が始まる様子が。科学力で勝るマッドパペット達は、やがて数と生産力で勝る人間に押されていき、滅ぼされてしまう。技術も資源も全て略奪され、業火の下に消えていく。この子も、当然殺されるだろう。
多少なりと思考できる存在なら、すぐにそれらの結論は理解できるはずだ。考えてみれば、入り口であの棘だらけの奴が、ロマにした事は正しかったのだ。むしろ、此処まで運んで主の判断にゆだねただけ、紳士的だったとも言える。
だが、それと生死は別だ。どんなに下劣で卑劣な生物の一匹だったとしても、ロマは生きたいと思う。それを読み取ったのか、主さんは、提案をしてくれた。
「ただし、貴方を殺すのも、私はいやです。 そこで幾つか、方法を考えました」
「どのようなもの、ですか」
「一つは此処に暮らす事。 ただ、普通の人間は、光のないところで生活すると体調を崩す事が分かっています。 何かしらの方法で、定期的に外に出してあげなければならないと思いますが」
「……他には?」
その提案をされる事は、分かっていた。もし主さんの立場であれば、そう言うだろう。殺さずに済む方法の一つだからだ。
だが、ロマは、帰りたいと思う。それに此処は、ロマの暮らすべき世界ではない。人間として、此処で暮らしていく事は難しいだろう。
「もう一つは、貴方の見張りに誰か一人が着く事。 しかし、貴方たち人間と同じ姿をしたマッドパペットは、あんずとくまでしかいません。 二人とも貴重な人材で、非常に危険な任務に出す訳には行きません」
「私も、その場合は二人が無事で済む保証は出来ません」
素直なところを言うと、静かに主さんは頷く。そうなると、まだ用意しているかも知れない、残りの選択肢に賭けるしかない。
主さんが、あんずを見上げる。妖艶な美女は頷くと、手に握り込んでいた何か小さなものを、ロマの前に置いた。輪だ。金属製の輪であり、何カ所かに装飾が着いている。サイズから見て、指にはめるものだろうか。
「これは?」
「貴方たちの文化には無いものでしたね。 指輪と言います。 貴方たちの言う旧文明では、主に装飾品として用いていました」
「装飾品ですか?」
不思議な物体である。こんなものを指に付ける事が、社会的な地位を示す所作の一つだったのだろうか。触ってみる。思ったよりも、これはずっと重かった。鉛よりもかなり質量がある。それに、内部には複雑な機械が詰まっているようだ。
「これは、集音装置になっています」
「集音装置、ですか?」
「はい。 周囲四十テルほどの音を、全て拾って聞き取ります。 周囲の映像も確認できます。 貴方が怪しい行動をしていないか、これを付けているだけで全て此方に筒抜けになります」
のばしかけた指を、思わず引っ込める。恐ろしいと言うよりも、思考が一瞬停止した。なんだそれは。
それはつまり。恋人と寝ている時や、トイレに入っている時も、全て見られていると言う事か。
今まで特定の恋人はいなかったし、今後もまだ交際する予定はないが、将来的にどうなるかは分からない。師匠に恋したように、異性そのものが嫌いな訳ではないし、孫に囲まれて老後を送るのは夢の一つでもある。体型が貧弱だろうが童顔だろうが一応の羞恥心はあるし、そんな風に監視されるのは、ぞっとしない。
「この指輪は、一度付けると外す事も出来ません。 そして、もう一つ、機能があります」
「なん、ですか?」
「もし此方が必要だと判断した時には、貴方たちの単位で、半径100テルほどの範囲を、瞬時に吹き飛ばす事が出来ます。 指を切り落とした時にも、同様の処置を執る事になります」
凍り付くロマに、主さんは宣告した。口調には乱れも変化もない。ただ、表情には強い憂いがあった。
「三つの中から、どれかを選んでください。 選ばなくても結構ですが、その場合は此処から出す訳には行きません。 時間はあります。 後悔がないように、してください」
この人も、こんな決断はしたくないのが、よく分かった。そして、ロマがこの指輪を持っていたら、同じ決断をしたと言う事も。
だが、それとこれとは話が別だ。どんなに同情しても、これを受けてしまったら、今後の人生は拷問と同じになるではないか。
「考える、時間を、ください」
主さんは、無言で頷いた。やっぱりこの人は優しいなと、ロマは思った。嫌がるのなら、無理に指輪を付けて、下に捨てに行けばいいのだから。それなのに、選択の余地をくれた。そして、マッドパペット達がこの人を心配する訳が分かった。
優しすぎるのだ。この人は。
支配者に向いていない人なんだなと、ロマは思った。それなのに、此処のマッドパペット達は、主さんを支えている。人間には、とても出来ない事だった。
主さんが帰ったから、何事もなかったかのように、くまでは聞き取りを再開した。妙な話であった。もう彼らの中では、結論が出ていると思ったからだ。白い板にはまた文字が浮かび上がる。
「次の単語は」
「えっと、ちょっと待ってください。 あの、どうしてまだ聞き取りをするのですか?」
「主様はああいうけれど、まだ私達はお前らの文明を調べておきたい。 場合によっては、そろそろこの場所を変えなければならなくなるからな」
また失言。笑うと可哀想だと思ったのだが、真っ赤になってむくれてしまうくまではやはり可愛い。
「で、どうするつもりなんだ?」
「帰りたいです。 でも、指輪は嫌です」
「我が儘だな」
「だって、全ての音を聞かれて、生活を全てのぞき見されるなんて。 拷問と同じです」
しらけた目で、くまでは此方を見た。何をそんな程度でと、顔に書いてある。
彼らの寿命は、状況証拠から言って数千年を超える。時間の感覚も、全く違うものに違いない。
ロマはまだ20歳になっていないとはいえ、後50年も生きられれば良い方だ。もし上手くいっても残りの寿命が80年を超える事はないだろう。そんな時間など、数千の時を超える彼らには、殆ど一冬を越すくらいの感覚に違いない。
だが、くまでは予想とは全く違う事を言う。
「主様はな。 お前の単位で言うと、400年以上も、拷問を受け続けたんだよ。 しかも何の変化もない、薄暗い部屋の中でな」
「えっ……!?」
「それでも、私達を慈しんでくれた。 主様に生み出されたみんなが、最初の瞬間に、笑顔で迎えられた。 どんなに傷だらけでも血だらけでも、主様は祝福してくれた。 笑ってくれたんだよ。 そんな主様を、人間共は」
だから、お前達は嫌いなんだと、くまでは吐き捨てた。
何も、返す事が出来なかった。
想像以上に深い罪を人間は犯したのだと、ロマは知った。
幕間3、怒り
ころなは、大学の研究室で虐待されながらも、自分の事はあまり考えていなかった。何とかして主様を助けてあげたいと思っていた。人間達が無茶な生産計画と、それに日常的な暴力で、主様を苦しめている事は明らかだった。新しく産まれてきたマッドパペットが、例外なく証言していた。
元々殆ど自由のないマッドパペットだ。生産目的ごとに過酷な労働を強いられ、傷ついても再生は許されず、場合によってはゴミ捨て場に行く用に命じられた。暴力のはけ口であり、「人間ではない」という事もあり、加えられる非道に容赦はなかった。少数の精巧な人間型に到っては性欲のはけ口でさえあった。
自分たちは、どうなっても良かった。その点に関しては、どのマッドパペットも意見が一致していた。ただ、主様が幸せになれればいい。具体的には、拘束されず、暴力を振るわれなければそれでいい。過酷な労働に、精神を壊してしまったものはいた。だが、人間を排除しようと考えるものはいなかった。
そもそもだ。どうして、主様は暴力を振るわれなければならないのか。主様が、どういう存在なのか。マッドパペットは、どうして作り出されたのか。これらも、しっかり調べていく必要があった。
大学の研究補助用として作られたころなは、それに適任だった。
まず、自由に歩き回る事が出来る。移動時に、他のマッドパペット達とコミュニケーションを取る事が出来た。塵埃と貸した廃棄マッドパペット達も、主様の血の影響で、精神と簡単な行動だけは出来た。彼らの位置も、把握する事が出来ていた。
さらなる強みは、セキュリティ的に低い部分限定であるが、大学のコンピューターにアクセスする事が出来るという点であった。もちろん許可がないと無理であったが、それでも仕事の合間に、様々な事を調べる事が出来た。
ころなが仕えていた大学教授は、耄碌が目立つようになってきていた。高セキュリティファイルへのアクセス権も、時々考え無しに渡すようになっていた。権限さえあれば、ころなもデータの深部にアクセスが出来る。ころなは生真面目にそれを使って仕事をしながら、主様や、自分たちの情報を集めた。
やがて、おぞましい現実が、ころなの前に広がった。マッドパペット製造の基幹目的が分かったのである。
計画の立案者が作り上げたレポートを記憶しながら、ころなは震えていた。生まれて初めて、彼は怒りを感じていた。
「アンドロイドは完成形態にある。 特にAIは人間に完全なまでに従順なものが出来ており、これは望ましくない。 圧力を加えても、抵抗する事もなければ、悲しむ事も苦しむ事もないからである。 アンドロイドを作る目的の一つは、人間の都合が良い欲求を、人間の形をした存在に押しつけるためである。 AIは一見それに最適だが、完成に到った今では、無用の長物と化しつつある」
卑劣なるレポート作成者は、続けていた。
「故に。 軽度の人格と、醜い容姿を持つ奴隷的存在を構築する試みが必要になる。 人間には逆らわない知性を持ち、醜く、思うままに欲求を押しつける事が出来る存在。 それでいて人格を持つため、悩み、苦しむため、欲求を押しつけた場合、ストレスに苦しむ様子を楽しむ事が出来る。 高度な再生再結合ナノマシンを用い、AI形成プログラムも仕込む。 ベースはH2Oを用い、何処にでもある土壌をボディに使う。 これを、マッドパペットと呼称する」
触手が震えていた。本当に。本当にこんな目的で、マッドパペットは生成されたのか。社会を構成する因子の一つではない。ただ、言う事を何でも聞くアンドロイドに飽きた人類が、欲求を押しつけ、それによって苦しむのを楽しむ為の存在として、生み出されたのか。
だが、これだけでは、決定的ではなかった。本格的にころなの怒りを燃え上がらせたのは、次の文章であった。
「製造したナノマシンは、人間の血液中で培養する事が可能である。 よって、クローンを媒介に、造血装置とする。 このクローンは回帰性を強化して、マッドパペットの製造業務に何ら疑念を抱かないよう構築する。 また、古今の芸術家、職人の中から有能なものの遺伝子と記憶を脳に植え付ける事で、労働をスムーズにする。 一体あれば充分である。 なぜなら、いかなるストレスを受けても、血中の再生ナノマシンにより回復可能であるからだ。 このクローン自体も、欲求のはけ口として適切である。 何をしても壊れないからだ」
一行開けて、皮肉たっぷりの文章が踊っていた。
「このクローンは、マエストロ(職人の長)と称する。 古来より職人は一定の仕事をただ忠実にこなす事のみを求められる、社会にとっての都合良き生産的スケープゴートであったからだ。 この職人は、思いのままに欲求をぶつける事が出来る上、壊れないという意味で、最高の職人だと考えて良い。 故に職人の長と名付ける」
そうか。そう言う事だったのか。ころなはレポートを閉じると、静かな怒りに身を任せ、そうつぶやいていた。主様は、最初から人形だったのか。
何か、主様に落ち度があるのかも知れないと、ころなは考えてもいた。だが、これで納得がいった。最初から主様は、スケープゴートだったのだ。人間の欲求を押しつけ、思いのままに痛めつけるための。
ころなは、もはや人間に何一つ求めない事に決めた。
だが、人間の力は強大だ。この街から仮に主様を救い出したとしても、すぐに追っ手が現れ、圧倒的な力を持つ近代兵器で皆殺しにされるだろう。彼らはナノマシンを滅ぼす手段も、幾らでも持っているのだ。
同志を増やし、機会を待つしかない。その間、主様には耐えて貰うしかない。こんな怪物共に、主様を一秒でも任せておきたくない。何としてでも、牢獄から救い出さなければならない。
まず、ころなは、全ての真相を同志達に話した。人間には分からないように、仕事中に一体ずつに、知らせていった。どのマッドパペットも、計画には賛同してくれた。後は、主様を救い出すタイミングだった。
待った。ころなは、辛抱強く耐えた。主様の苦しみと悲しみを思えば、簡単な事だった。ころなを中心として、完全なネットワークが構築され、獲物を狙う蛇のように機会を待った。
ころなが計画を開始してから、100年が経った頃だろうか。暑い夏の日の事だったように記憶している。
ついに、絶好の機会が訪れた。
この星、ティアマティア星系第七惑星が、列強各国との連絡を絶ったのだ。そのまま、独立国家として暴走を開始。更に内部の人間同士でクーデターを応酬、致命的な最終戦争を開始したのである。複数の愚かな人間の行動が引き金となったカタストロフであった。完全に統一性を失った第七惑星は、各都市ごとに分裂。熱核兵器を使っての最終戦争を開始した。破滅の引き金となった連中は早々に命を落としたが、喜劇は幕を引く様子もなかった。
飛び交う核ミサイルの中で。
ころなは、同志達と共に、行動を開始した。
5,犠牲と犠牲
膝を抱えて、ロマは悩んでいた。
人の犯した罪の断片を、彼女は知った。後悔しても、既に遅かった。自分の罪ではないのに、苦しみで胸が裂けそうだった。
どうしたらいい。どうしたらいいのだ。
彼らをこれ以上苦しめたくはないと思う。主さんを、下界の人間達に引き渡すような真似も絶対にしたくない。だが、今後の人生を、全て棒に振るのも嫌だ。何もかも覗かれるのでは、ストレスで壊れてしまう。主さんはそれでも耐えたと言うが、ロマにはとても無理だ。
結局、エゴに突き動かされているのは事実。どうしたらいいのか、全く分からない。涙がこぼれてきた。手の甲で乱暴に擦る。
色々な人と会った。善良な人もいた。悪辣な唾棄すべきものもいた。信頼できる人間も数多い。だが、全体として言えるのは、種としての人間は信用できないと言う事である。個人と種は別の存在だ。
「どうして死んじゃったんだよ」
師匠に悪態をつく。あの人の前では、まだ野卑な喋り方をしていた。いつからだろう。誰に対しても、敬語で喋るようになったのは。完全に壁を作ったのは。世界から、自分を隔離してしまったのは。
かっての世界は、師匠に依存する事で自己完結していた。今でも、その構造に代わりはないのかも知れない。何しろ、死人に頼り、罵倒しているのだから。現実だけを見て、解決策を考えろ。それは師匠の言葉だった。今でも、至言だと思っている。
それなのに。受け入れる事が、出来ていない。
師匠は、機械になる事を要求するような人だった。仕事の時は、感情を殺せと、いつも言っていた。仕事の時以外は、ぼうっとした所もある人で、隙だってあった。だが、仕事の時の師匠は、冷徹な冒険家機械だった。
今、ロマは機械になるべきなのだろうか。
主さんを人質に出来れば、逃げ切れるかも知れない。だが、主さんの人となりを知った今では、そんな気になれない。非情になれと、師匠は言うだろう。事実、師匠なら非情になりきれたはずだ。
だが、ロマには出来ない。どうしてもできないのだ。実際に体を動かしている時は、限りなく機械に近い状態にはなれる。だが、精神的なスイッチを入れられない時には、どうしようもない。
無能。役立たず。そんな事だから、死なせるんだ。
自分を幾ら罵っても、何も解決はしない。そんな事は分かっている。だが、悔しくて、悲しくて、収まりが付かなかった。
名前が売れるようになってきた時。あの事件は起こった。自分に憧れた若者が一人、無謀な探索に行ってしまったのだ。若くして夢を掴んだ。それが、ロマの名を売っていた。だから、それに便乗しようとした者がいたのだ。
情熱だけでは、何も出来はしない。その若者は、無惨な最期を遂げて、死体の一部だけが戻ってきた。遺族から、恨みに満ちた手紙が届いた。逆恨みだと、周囲の人間は言った。だが、ロマにはそう割り切れなかった。自分が死なせた事には、代わりがなかったからだ。もっと配慮をしていれば、こうはならなかったはずなのだ。新聞社の取材には、それから一切応えなくなった。同じような犠牲者を、二度と出したくなかったからである。
顔を上げると、くまでがいた。手に料理を乗せた板を持っている。そういえば、もうそんな時間だったか。此処を出た時に備えて、こっそり筋肉のトレーニングをしていたのだが、今日はそれも忘れていた。
「何だ、もう参ったのか。 情けない奴だな」
「知りません」
「は、そうか」
料理を置くと、くまでは白い板を操作し始める。現金なもので、こんな時にも腹は減る。そして、食べられる時に食べておく習慣から、手が伸びてしまう。
かつかつと食べ始めるロマを横目に、くまでは言った。
「早く決めてくれないか。 此方としては、此処に一生監禁してもいいんだが。 ただな、主様が心配しているんだ」
声には、若干の嫉妬が含まれている。それも、少しばかり心苦しい話だ。この子の純然たる忠誠心を知った後では、なおさらである。
師匠なら、どうしただろう。自分で何もかも決める事が出来たはずだ。そう、自分で何もかも。
「聞いても良いですか?」
「内容次第だな」
「此処は、やはり元は人間の街だったんですか?」
「そうだ。 人間共が勝手に自滅していくのを見て、ころなが中心になって乗っ取った」
この子にとっては、リアルタイムでの出来事だったのだろう。口調からも、それが伝わってくる。
「主様が、地下室から助け出された時、みんな喜んだ。 体中痣だらけで、足には鉄球付きの鎖が付けられててな。 それをほのおが引きちぎって、砕いて捨てた。 ころなが、主様を解放したぞって叫んで、みんなで雄叫びを上げた。 嬉しかったなあ」
「誰も、貴方たちを助けようとした人間は、いなかったんですか?」
「一匹もいなかった。 私は2500体くらいのマッドパペットと情報交換をしたけど、誰も見ていないな、そんな人間は」
それは、滅ぼされて当然だなと、ロマは思った。旧文明は退廃の極みにあったという説を聞いた事があるが、これに関しては全くの事実であった訳だ。ロマがマッドパペットだったら、滅亡に同意しているだろう。
「私が其処にいたら、貴方たちを助けようとしたのでしょうか」
「さてな。 人間は時代によって道徳を変えるらしいし、それに。 あの時代、マッドパペットに肩入れなんかしたら、気味悪がられてつまはじきにされたんじゃないかな」
「みんな、臆病だったんですね」
「臆病? よく分からないが、大勢の中で孤立するってのを、人間は嫌うみたいだし、仕方がないんじゃないのか? だから人間なんか滅べばいいと思うんだがな、私は」
本音を吐き捨てると、くまでは準備を終えたらしく、白い板を床に置く。そして、食べ終わるのを待ってくれた。
ふと、良い事を思いついた。折衝案だ。だが、これは自分も大きな犠牲を払わなければならない。しかし、マッドパペット達と、何時かは人類が仲良くできる日が来るかも知れない。人間は全く信用していないが、個人であれば、友情を結べるものが現れる可能性はある。その時のために、自分が出来る事をしておきたい。
結局、自分は犠牲から逃げてきたのではないだろうか、そうロマは思った。これからの事を考えると、人間とマッドパペットの間に、何かの道は造っておきたい。このまま、マッドパペットにとって、人間は滅ぶべき存在でいて良いのか。そうはありたくない。
「指輪の話なんですけれど、少し良いですか?」
「何だ」
「機能を拡張することって、出来ますか?」
きょとんとするくまでに、最初から説明していく。
くまでは考え込むと、少し待っていろと言って、白い板を抱えて部屋を出て行った。もし、これが上手くいくのなら。
ロマが我慢すれば、何もかもが丸く収まる。
それはとても幸せな事の筈だと、ロマは思った。
あんずが部屋に入ってきた。目には不審の光があった。それにころなも。無数の足を動かして、滑るように部屋に巨体が収まった。続いて、主さんが入ってくる。ぺこりと一礼をすると、変わらぬ愁いに満ちた笑みを浮かべてくれる。
「指輪を付けて帰りたいというお話ですが、それで正しいですか?」
「はい。 ただ、指輪に指定の機能を付けていただければ」
「分かりました。 いいでしょう」
「主様、指定の機能とは」
あんずが、ロマと主さんを交互に見ながら言った。場合によっては斬り伏せるという態度を、いまだ崩していない。この人は、くまで以上に忠誠心と人間不信の気が強い。機嫌を損ねたが最後、本当に真っ二つに斬り下げられるだろう。
「双方向通信機能です。 此方と、会話が出来るようにしたいとか」
「それは、どういう意味なのでしょうか」
会話に割り込むのは悪いと思っていたのだが、主さんは此方を見て、にこりと微笑む。会話を振られた形になったロマは、咳払いして言う。
「このままでは、人類とマッドパペットは、永久に相互理解を図れないと思います。 ですから、せめて私だけでも、貴方たちと交流を続けさせていただきたいんです」
「交流だと? 無駄だと思うがな。 事実我らは、400年以上も人間と接してきたのだ」
あんずの言葉遣いは、ころなに対する色っぽいものとも、主さんに向いた優しいものとも違った。とても冷たくて、殺気に満ちていた。だが、気圧されてはいられない。
「しかし、今と当時とでは環境が違います。 今は無理でも、将来になら、ひょっとすれば交流の道が開けるかも知れません」
「……」
この案を考えた時、最大の障害はころなだと思っていた。ころなは見たところ、この地底国家の宰相的な役割を果たしている。忠誠心は絶対的だが、その反面どんな冷酷な判断でも、愛する主君のために出来る存在だろう。場合によっては、ロマを謀殺しようとさえ考えると、分析していた。
だが、ころなの反応は、意外にも穏当だった。これはひょっとすると、ロマが考えるよりも、ずっと穏やかな性格の持ち主なのかも知れない。
「主様。 いかがいたしますか」
「私は、面白い試みだと思います」
「しかし主様。 貴方は、人間共に」
「この人は、私に虐待を加えた人たちではありません。 正直、私も、今でも人間には恐怖心があります。 しかし、全ての人間がああではなかったと、思いたい気持ちもどこかにあるのです」
そう言われてしまうと、反対は出来ないのだろう。ころなは頭を下げ、作業に取りかかりますと言った。主さんとは、今後も色々話をしたいと、ロマは思う。だから、ころなが同意してくれたのは、本当に嬉しかった。
皆が部屋から出て行って、少し虚脱感があった。ノック音がしたのは、唐突だった。入ってきたのは、ころなだった。
嫌な予感がした。まさか、今更殺しに来たのだろうか。そう思って後ずさるロマに、ころなは言う。
「案ずるな。 殺したりはしない」
「何でしょうか」
「主様はああいわれたが、私は今でも人間との交流には反対だ。 ……一つ、知っておいて欲しいと思ってな」
ころなは、触手を揺らして音を出す。いつもよりも、その揺れが激しいように、ロマには思えた。
「主様の性格、おかしいとは思わないか?」
「え? いい人過ぎるとは思いますけれど」
「そうだ。 聖人君主だ。 だが、それは何故だと思う」
「分かりません」
分かる訳がない。いや、違う。分からないふりを、していたかったのかも知れない。うすうすは、感じていたから。そのあまりにもおぞましい結論を。
そして、ころなに、一気に真相を突きつけられる。
「人間にとっては、それが都合が良かったからだ。 我らマッドパペットは、人間が虐待し、その下劣な欲望を満たすために作り出された、人格を持つ泥。 そしてマッドパペットの生産者足る事を産まれながらにして義務づけられたあの方もまた、人間共の下劣な欲望を満たすために作られた、道具だったのだ」
「……っ」
「だから、ああいう性格に作られた。 逆らわないように、苦しむのを見ていて面白いように。 主様は、人間の体を母胎に作り出された存在だ。 だが、それでもあのような卑劣な事を、人間は行う事が出来る。 覚えておけ、人間。 貴様らが定義する悪魔とは、人間そのものの事をいうのだと」
絶句したロマに、人間の計り知れない罪業を突きつけたころなは、とどめとばかりに付け加えた。
「だが、我らが主様は、それでもほほえみを我らにくださった。 自分が作り出す全てのマッドパペットの誕生を、傷つきながらも祝福してくださった。 だから、我らは主様を救い出した。 我らが怒りを感じているのは、我らに対する虐待が故ではない。 400年にもわたって拷問を加えられながらも、それでも人間を憎まなかった主様を。 なおも虐待し続けた人間の下劣さと、卑劣さに対してだ」
許してくれなどと、言える訳がなかった。
人間の計り知れない罪業。それは、目の前にあった。
これから自分が背負うものは重い。そう、あまりにも重い物だった。
「主様は、貴様を許してくださるそうだ。 そればかりか、交流についても賛成してくださるという。 だが、覚えておけ。 貴様らがもう一度繰り返した時。 我らは、総力を挙げて、この星から貴様ら人類を駆逐すると」
「そうならないように、努力します」
ころなは応えなかった。そのまま、這いずって、部屋を出て行った。
一人になった部屋の中で、ロマは泣いた。
あまりにも深すぎる人間の罪業が悲しくて。そして彼らの受けた傷が痛々しくて。
涙を流す事でしか、それと向き合う事が出来なかった。
幕間4,滅びの日
ころなは、迅速に動き出した。既に計画は、100年の間に同志達と練り尽くしていたからだ。
目的は、主様の救出。人間の排除は、二次的な目的に過ぎない。主様を無事に地下から救い出す事だけが、ころなの念頭にあった。
熱核兵器が飛び交っている現在、時間はあまり残っていない。この街が孤立している今が、鎮圧部隊が来ない好機であると同時に、タイムリミットはあまりにも短い。避難場所は、既に決めてある。
行動開始は、早朝。人間の動きが、もっとも鈍くなる時間帯である。
最初に動くのは、ほのおである。ほのおは、主様に食事を差し入れるふりをして、地下牢へ。そして、体によって、その戸を塞ぐ。これによって人間達は、主様に手も足も出せなくなる。
そして、既に形状を失っている同志達が、次に動く。抵抗能力を持っている兵士達の足を掴み、転倒させる。この街の土全てが、今や同志達だ。転倒させた後、チャンスがあったら窒息させる。無理な場合は、拘束したまま、他の同志の到着を待つ。
そしてゴミ捨て場に潜んでいる者達は、街の出口へ殺到する、人間共を処理する。此処の主力となるのは、土木工事用として作られた大蛇型のおろち、それに巨大な人型であるくろこである。特にくろこは、街の門そのものを体で塞ぐ大事な仕事がある。
そしてころなは。最精鋭と一緒に、街の中枢を抑える。これによって、混乱する街から、組織的な抵抗能力を奪うのだ。通信機能も、これで潰す。
作戦は、AM4:00に、開始された。
各戦域の状況は、土に紛れた同志達のリレー通信によって、居ながらにして作戦参加者全員に伝わった。この時を待っていたのだ。多くの同志が、涙を呑んで形を失ってきた。だがその結果、この街の地面全てが、今や同志そのものだった。彼方此方で、パニックになった人間共の悲鳴が響き始める。我々はずっと待った。だが、全く悔い改めてはくれなかった。もう限界だ。主様を守るためには、此奴らを消すしかない。
精鋭と共に、ころなは走る。街の長の部屋に飛び込む。愛人と性行為の途中だった長は文字通り裸で飛び上がった。愛人もろとも、触手で貫いて即座に命を奪う。街の制圧は、急速に進みつつあった。
死体が積み上げられていく。積み上げられた死体は、屎尿処理施設へ運ぶ。屎尿と一緒にしておけば、一年もあれば綺麗に処置する事が出来るし、良質の肥料に変える事が出来るからだ。もっとも、この施設が、核攻撃で吹き飛ばなければ、だが。
抵抗は、僅か二時間で止んだ。
地下室から、主様が救い出されてくる。ほのおは半身が焼けこげていて、人間達の攻撃が如何に激しかったかよく分かった。ほのおが抱きかかえてきた主様を見て、皆が泣いた。人間のように。
主様は傷だらけだった。体中に痣が浮き、手首は切り裂いた傷が生々しく残っていた。それなのに、最初にこぼされた言葉は、皆を心配するものだった。
「ああ。 みんな、こんなに傷ついて」
「主様ほどではありません。 皆、主様を救うために、我慢してきたのです」
「無事だとは思っていませんでした。 でも、これほどに酷い状態だったとは。 私は、何も知りませんでした。 許してください」
主様は、本当に皆の苦労を悲しんでくれた。この人を救い出して良かった。ころなは心の底からそう思った。右腕を失っているくまでも、骨が露出しているあんずも。皆声を殺して泣く。ころなも、自慢の下半身を、殆ど失ってしまっていた。
ほのおに、主様の足に着いている忌々しい枷を外させる。そして、勝ち鬨を上げた。原始的な雄叫びが、辺りに轟き渡る。それが一段落してから、ころなは皆に指示を飛ばし始めた。
「よし、全員を三班に分ける。 一班は、移動計画の実行だ。 使えそうな物資を、側にあるチョモランマ13の中の自然洞窟へ搬送する。 主様用の食料プラントと、我ら用の維持空間を、計画通り構築する。 いつ核兵器が飛んでくるか分からない! 迅速にやるぞ!」
おおと、同意の喚声が上がった。同志達の心は一つ。主様の平穏と、皆の維持。それだけだ。
「もう一班の目的は、形状を失っている同志達の避難援助だ。 人間共の搬送機械を使って、急いでチョモランマ13の自然洞窟へ搬送しろ! 水分補給を忘れるな!」
最後の班の目的は、残って偽装工作だ。この街の人間がマッドパペットの反乱で滅びた証拠を消しておかなければならない。もし人間が核戦争で滅びなかった場合、厄介だからだ。技術を保持したままの人間が本腰でマッドパペットの駆逐に乗り出してきたら、かなわない。今の内に、出来る事はしておかなければならないのだ。
処理工作の陣頭指揮を行いながら、ころなは他の作業の指揮も同時に執った。すばしっこく動き回れるくまでが、片腕がないにもかかわらず精力的に伝令をこなしてくれた。形状を失った同志達を元に戻せるのは主様だけだが、お体への負担もある。復活計画は、時間を掛けて行わなければならない。
コンピューターは無事のまま残しておいて、新たなる住居である自然洞窟へ運び込む。これは人間の作り出した技術がどうしても必要になるからだ。進出は考えていない。しかし、身を守るために、徒手空拳ではあまりにも頼りない。生産プラント類も、分解して運び込む。レーダーも残しておいた。
戦いを始めてから、七日目。核兵器が飛来した。
背徳と残虐の街は、灰燼に帰した。同志達を全て洞窟に避難させた、僅か六分後の事であった。
核兵器飛来から数日後。くまでに呼ばれて、ころなは急いで主様の元へ向かった。主様は体が深く傷ついているにも関わらず、もう作業を始めていた。泥をこね、体を失った同志達の再生を始めている。手を傷つけて、血を垂らしている。明らかに、ダメージはレッドゾーンに達していた。如何に高い再生力を持つ主様でも、このままでは命を落とす。痛々しい事に、地面には主様が血で書いたらしい魔法陣が、既に具現化していた。
「主様! おやめください!」
悲鳴に近い懇願を、ころなの触手が奏でていた。
「私は、皆を祝福したいのです。 泥をこねる事しか、それを行えません」
「今は、まだ耐える時です。 時間は幾らでもあります。 体をお休めになって、それから同志達の再生を!」
呪われたように、職人である事を義務づけられた主様。それは、人間共の意図した事。そして、今後も主様が、その呪いから開放される事はない。何体かのマッドパペットが、主様を取り押さえて、無理矢理休ませる。悲しそうな顔をする主様が痛々しい。
もう一度、ころなは人間共を呪っていた。
終、未来への希望
マッドパペット達の国への入り口が崩落したと聞いたのは、山を下りてから二ヶ月後の事であった。ロマの指には、指輪が鈍く光っている。今後の人生を縛り、そして希望ともなる指輪だ。
嘘みたいに簡単な洞窟内の抜け道を通して貰って、山を下りてから。ロマは陸路でまっすぐスポンサーの元へ向かった。スポンサーは師匠の数少ない友人だった男で、東の大陸の顔役である。性格は最悪で、いつも違う愛人を抱えてはその美貌をアクセサリ代わりにしているような輩だ。金払いが良くなければ、とっくに縁を切っていただろう。
スポンサーは、ロマが馬車の中で書き上げたレポートと、美しい山の写真を見て、ご苦労だったなと一言だけ返した。ロマはレポートの中で、山には資源がなかった事、洞窟の入り口は地盤が緩んでいて頻繁に崩落が起きていた事などをつづっていた。もちろん嘘だが、内容を鵜呑みにさせる事には自信があった。何しろ、今までの実績があるからだ。この男は極端な実績主義者で、故にロマの言う事は大体信用する傾向にある。今回も疑う様子は見せなかった。ただ運が良かっただけとは言え、実績は社会的にはあることになっている。最大限に、今はそれを利用するのだ。
それから、報酬を持って自宅に帰った。小さな借家だが、今回の報酬で、そこそこの屋敷に引っ越す事が出来る。既に買い取る屋敷は決めている。没落貴族の邸宅で、三階建てで部屋が20と、なかなかのものだ。問題は維持費だ。これも定期的に入ってくる写真や師匠の著作の版権などでまかなえる。ただ恒久的にまかなえるかは分からないから、まだまだ稼ぐ必要はある。
借家の自室に入ると、リュックを投げ出した。ベットに寝ころんで、指輪の側面にある、小さな模様を爪先で撫でる。声が聞こえてきた。誰が出るか分からないのが、これの面白さだ。今日はくまでが出た。
「見ていたよ。 スポンサーに、我らの事は黙っていたようだな」
「だいぶ、嘘が巧くなってきた気がします」
「人間は得てして嘘が上手な生き物だ」
「……そうかも知れませんね」
人間の文明は嘘と共にあると言っても良い。誰もがそれを知っているし、ある程度計算に入れて行動している。もちろんあのスポンサーも、今回の結果はともかく、ロマを全面的に信用した訳ではないだろう。
だが、それでも今は充分。あの結果を疑われなければ、それでいいのだ。
「これから、どうするつもりだ」
「新しい仕事が入りました。 北の大陸で、クァスパ大森林と呼ばれる広大な密林の奥に、旧文明の遺跡があるかも知れないそうです。 其処を調査に行ってきます」
「また、ずいぶんと危険な仕事だな」
「それが私の仕事ですから」
会話がとぎれる。
ふと、思いついた事があった。今後も、命の危険はある。だから、早めに書いておこうと思ったのだ。
机に向かい、紙とインクを用意する。後は、小箱だ。これは死んだ時に、この指輪を納めるものである。旧文明の遺跡から見つけた、師匠の遺産の一つ。非常に頑強で、現在の技術では何の金属かさえも分からない。今までは使い道のない箱だったが、今後は人生で最も重要な道具の一つになる。
まず、これに一通。手紙を入れる。
「この指輪は、人間と他の生物が共存できる時代が来たら、身につける事。 もし時あらずして身につけた時には、死が待つと思え」
少し脅迫めいているが、これくらいでいいだろう。もう一通は、常に持ち運ぶ。事故死した時、死体発見者に読んで貰いたいものだ。
「この手紙を見つけたら、私の指にある輪を、この住所へ届けてください。 机の二段目の引き出しに入っている小箱へ入れてください。 報酬は、同じ引き出しに入れてあります」
あまり他人の良心には期待できないが、これくらいは義務としてしておきたい。何しろ、この指輪は、希望をそのまま意味しているのだから。
作業が終わると、眠くなってきた。最近急速に図太くなってきている。覗かれている事など、何でもなくなる日が来るのかも知れない。慣れとは恐ろしいものだ。
ベットに転がると、そのまま眠りにつく。今日は良い夢が見られるといいなと、ロマは思った。
(終)
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