表裏反転

 

序、蜘蛛の体

 

その部屋には、普通の寝室なら絶対にあるべきものが不足していた。

壁に掛かっているのは、筋骨逞しく、槍を持ち、雄々しく立つ男達の写真。それに今をときめく男性アイドル達のポスター。戸棚に列んでいるのは可愛いぬいぐるみに少女小説。それに各地のネイティブ達の風習を記した辞典の数々。ぬいぐるみ達の間には、立体映像を保存するテープと再生装置があり、テープには〈ルヴァデルン族1、戦の舞い〉や〈ルヴァデルン族3,雨乞いの儀式〉等と言った説明が振られていた。彼女とその両親が愛する既に滅びた文化は、最近子孫達によって復興され、儀式も再現されているのだ。勉強机もあり、可愛い小物によってその上は占領されていた。カーテンは当然フリル付きで、窓の側にはサボテンの小さな鉢植えが置かれている。多少特殊な趣味が混在してはいるが、置かれているものの種類に関しては普通の部屋である。

しかしその部屋には、不足しているものがあった。それは即ち、柔らかい布団が敷かれたベットである。ベットだけではなく、布団の類も、押入や倉庫を始めとして、部屋どころか家の何処にもなかった。正確には、数年前まではあった。しかし、今はない。部屋の持ち主の、事故による体の変貌で、必要なくなったのだ。

部屋の持ち主、由原奈三はサイボーグである。しかも科学技術が先進国随一とも言われるこの国でも珍しい、脊髄神経と脳以外の全てを機械化した、超高度機械化サイボーグだ。その存在は非常に貴重であり、故に政府から生活保証金が支払われ、両親が他界した今でも生活保護を受けることなく学校へ行く事が出来る。ただし、月に一度政府の研究施設へ行かねばならないのは、かなり辛い事ではあった。

奈三が帰ってきた。彼女の姿は、巨大な機械の蜘蛛というのが一番近い。ホワイトピンクに塗装された丸っこい体。上体の一部に立体映像装置があり、まだ体があった頃の映像を学校や外では出しているが、家の中でそれはしない。丸っこい体の左右には長い足が八本もついていて、壁も天井も自在に歩ける。最初はこの姿が大嫌いだったが、最近は大分なれた。でも、時々機械で映し出せる本来あるべき姿と、今の姿の違いがとても悲しくなる。しかしもう涙を流す事さえ出来ない。そして、元に戻る事も出来ない。

体も。両親も。そして勿論涙腺も。全部、燃えてしまったのだから。悲惨な大火事が、奈三の家族と、それまでの生活を全て奪ったのだ。かろうじて助かった奈三も、全身に酷い火傷を負っており、無事だったのは脳と脊髄神経だけだった。燃え落ちる家の中で意識を失った奈三が次に目を覚ました時、彼女は政府の研究施設にいた。そして、もう体はなかった。その事実を知った時、彼女は大きなショックを受けた。二年間立ち直れなかった。今も時々、彼女は声を殺して泣く。涙は流せないが、静かに泣くのだ。だが、泣いた所で、失ったものは決して帰って来はしなかった。

自力で立ち直った彼女は、現在高校へ通っている。周囲は皆いい人ばかりだ。片思いごっこもした。親戚の人もいる。変わり者だが、決して悪い人ではない。彼女は時々家に来てくれて、奇天烈な話をしてくれる。片思いごっこをした相手の男の子は奈三よりその親戚が好きで、でも凄い勢いで撃沈した。趣味嗜好が致命的に合わなかったから仕方がないのだが、しかしその時の話は、奈三のステキな思い出の一つだった。話の過程は、笑っては行けないはずなのにとても面白くて、嘲笑するのではなく暖かい笑いをもたらしてくれた。だからとても好きだった。

何処か空虚な彼女の心は、少しずつ癒されていた。だが同時に、埋めがたいものも確かにあったのである。

 

1,不思議な学校生活

 

由原奈三にとって、壁が〈登れるもの〉になり、天井が〈ぶら下がれるもの〉になってから、かなり経つ。身体の構造が根本的に変わってしまってから、彼女は少しずつそれを受け入れるようにしてきた。そして事実を受け入れるためにも、体に合わせた行動を出来るだけ取るように心がけているのだ。蜘蛛は昔だいっ嫌いだったのに、今は全然平気であるのは、その副作用であるとも言える。逆に今度は蛇が苦手になりつつあり、それもまたしかり。

もともと細かい性格の奈三に、遅刻という単語は無縁である。仮に遅刻しそうになっても、体内の目覚まし時計が必ず脳を覚醒させてくれる。学校まで十五分、準備に四十五分かかる。更に十五分の余裕を見て、彼女は一時間十五分前には必ず起きる。ここ一年以上、全く変わらない日課であった。

昨日作って置いた料理を温めて食べる。サイボーグにしては珍しく、食事は普通と同じく取る事が出来るのだ。ベビーフードでも専門食でもなく、普通の料理を食べる事が出来るのである。体の全面にある栄養摂取口を開け、細かく動く精度の高いロボットアームで料理を入れると、ミキサーにかけて砕いた後、幾つかの機械化消化器を経て栄養化し、脳と脊髄へ送り届けてくれる。一部の機械も、こうして得た栄養を活動源にしている。最近味を擬似的に感じる機能を機体の設計者がつけてくれたので、料理が楽しみになりつつあった。最初は視覚すらも機械的であったというのに。これで五感は全て揃った事になる。五感が増えれば増えるほど、楽しみな事は比例して増えてきていた。

一人だけの朝食が終わると、学校に持っていく荷物をリュックに入れ、立体映像をオンにする。立体映像に映し出されるのは、火事にあった頃の彼女の姿。それが高校の制服を着ているのだから少し違和感があるが、それでも奈三は良かった。何もないよりはましなのだから。時々転換をかねて、立体映像の髪型を変えたりするが、今日はその気分ではなかった。逆に言うと、髪型を変えるか変えないか、そんな余裕すらが、今は備わっていた。少し前までは、髪型を変える事など思いもよらなかったのだ。かってとのつながりをたたれてしまうような気がする、そんな原初的な恐怖が、彼女の中にあったから。人間ではなくなる気がして、完全にヒトでは無くなってしまう気がして、恐かったのである。そのせいで眠れなかった事もあった。機体の上に腰掛けている立体映像は微笑んでいる。その表情に影はない。所詮、作り物の姿に過ぎない事をあざ笑うようだと、由原は常々思っていた。

以前、奈三はそれらの恐怖が、サイボーグ化している人間には共通した要素だと聞いた事があった。個人差はあれど、誰もが抱く恐怖なのだと。まして奈三は、全身がほとんどすげ変わってしまっているのだ。一生克服出来ない者もいるそうで、むしろ奈三のトラウマ克服は早いほうなのだという。奈三ちゃんはとても強い子だね、と機体の設計者は笑顔で言ったものだ。

ただし、それは一部の事だ。未だに火は恐くて仕方がない。だから火を使う調理の際は、いつも必要以上に注意している。時々何もないのに、ただひたすら恐くて不安で仕方がない時もある。かろうじて生活に支障は無い。だが、傷は小さくとも、深くくっきりと残っていた。それは間違いのない事実であった。

 

八本の足を繰って家を出る。スピードはきちんと調整し、周囲にも気を配りながら歩く。前方に四つ、側面に二つ、後方に一つ、上方下方に一つずつついているカメラアイは、仰角俯角前後左右360度全てを視覚化し脳に伝えてくれる。立体的に見えるのは前だけだが、それで支障ない。時速は丁度八キロを維持する。今日は誰とも一緒に登校する予定はないから、それでいい。

「おはようございます」

「あ、ああ。 おはよう」

道すがら、近所の人達に、立体映像だけで挨拶する。これでも少しは裕福な家の子だったから、挨拶の角度も結構様になっている。様になっていなくても立体映像だから幾らでも融通が利く。昔は気味悪がられたが、今はそれほどでもない。だいたい、奇異の視線には、もうなれた。

遠くから人の足音と、もっと大きなものの足音が近づいてくる。後方にそれはいた。昔、好きだった相手……今でも少しは好きな男の子、朝霧祐一。彼の幼なじみで、人間世界にまだ数少ないルフォーローの交換留学生ナシュート=ルールティアン。彼らは手を挙げて挨拶すると、奈三の隣に列んだ。後ろからは、ルールの十四メートルに達する本体が、長い足をゆっくり動かして歩いている。

「おはよう、由原」

「おはようございます、朝霧先輩、ルールさん」

「おはよう、奈三ちゃん」

境遇が似ていると言うべきか。奇異の視線を浴びる者として、傷を舐めあうのに丁度いいと言うべきか。ルールと奈三はごく自然に仲良しである。奈三がさんをつけて呼ぶ相手など、ルール他数名しかいない。祐一を取り合う必要がないというのも、その要因の一つである。逆に最近祐一と仲良くしている市崎閃と、奈三はどうしても馬が合わなかった。市崎がどうも祐一を悪く思っていないのが分かって、気に入らないのだ。これが片思いごっこに過ぎない事は嫌と言うほど分かっている。始終祐一の事ばかり考えているわけでもないし、明確に好きだという自覚もない。でも、腹が立つのだ。良くしたもので、市崎も奈三を避けている節がある。他愛もない話をしながら、奈三は市崎が現れない事を心底から喜んでいた。

「じゃあ、また忘れ物をしてしまわれたのですか?」

「ああ。 どうも興味がない事は、注意力が散漫になって良くない」

「祐ちゃん、それでいいの?」

「僕だって良くないって分かってるさ。 今後はサイボーグ化技術にも、魔法技術が入り込んでくるのは目に見えてるんだ。 理解しておかなきゃ、時代遅れのさび付いたスクラップになるのが明らかだしな。 それに、華乙のヤツ、もう魔法技術を取り入れ初めてやがる。 アニキとして、負けてたまるか」

祐一の年がはなれた妹でありながら、有る意味同格の技術者であり、ライバルでもある華乙。一時期はぎくしゃくしていたが、今の二人はごく普通に兄妹としてつながっている。血縁こそ無いが、普通の兄妹より強い絆で結ばれていると言っても良い。笑顔のまま、奈三はぶつぶつ悔しそうに言う祐一の横顔を見つめていた。彼女の機体を設計した、現在この国でも随一のサイボーグ化技術者、朝霧静流の息子である、片思いごっこの相手は、視線を横にずらし、呼んでは欲しくない相手の名前を呼んだ。

「あ。 おーい、市崎さん!」

立体映像には影響を出さなかった。だが奈三の機体がほんの一瞬だけ停止した事を、気づいた者がいたのであろうか。元気に手を振り、市崎閃が走ってくる。屈託無い笑顔と、誰もがうらやむ陽性の美貌が、奈三は嫌いだった。嫉妬だというのは分かり切っていたが、嫌なものは嫌なのだ。市崎は見かけ上普通に、奈三に声をかけてくる。立体映像を動かして、笑顔で応じる。……否。先ほどの考えは間違いではないのか。避けて等いなくて、そう思うのは後ろめたさからではないのか。

機械の体は、こういう時に便利だ。ごまかしやすい。少なくとも、立体映像に負の影響を出す事はない。殆どの人に、自分の内心を悟らせずに済む事になる。いや、気づかせようとしても、だれも気づいてくれないと言う方が正しい。

学校までの道は、結果として、針のむしろとなった。ルールは時々振り向いて気遣ってくれたが、祐一は何も気づいてくれなかった。それがとても辛かった。針のむしろは、心に傷を作る。一度や二度なら兎も角、ずっとこの状態が続いているのである。由原の心には、日々確実に、負が蓄積し続けていた。それは癒されつつある心を、日々確実に圧迫し、負へ引き込もうとしていたのであった。

 

授業が始まる。彼女の機体は小さくないから、いつもは天井に、逆さにぶら下がっている。まさしく蜘蛛というべき姿である。そして立体映像だけを、下の席に投影して座らせている。此方は逆に、周囲の生徒達より少し小さい。

授業は決して難しくない。成績は体が壊れる前も悪くはなかったし、今だって同じだ。記憶補助用のメモリーチップも内蔵しているが、学校の勉強では使わないようにしている。無論テストの際には、わざわざ外して行く。それが彼女なりの美学であり、けじめの付け方であった。

「次、由原さん」

「はい」

先生に指されて、立体映像が立ち上がる。無論効果音つきである。既に白墨は旧時代の遺産と化したが、電子化された黒板と、それに対応した専用ペンで先生に指された生徒が答えを書く授業風景に変更はない。立体映像を黒板のほうへ歩かせつつ、由原は本体からワイヤーケーブルを打ち出して、電子黒板につなげた。そして立体映像がペンを動かすのにあわせて、文字を黒板へ打ち出していった。

一人芝居に近いが、それは彼女にとって大事な作業であった。やはり人の体を持っていないと言うのは大きな心の傷であり、それをこうした行為で多少なりと充足させているのだ。クラスメイト達は基本的に善良な者が多く、そのあたりはある程度配慮してくれていた。もっとも、そこには間違いなく優越感や世間体も働いていたから、無条件に喜ぶ事も出来なかった。無条件に善良な人間も存在はするが、希少種に過ぎないのだ。

「はい、正解です。 此処はテストに出ますから、覚えておくようにしてください」

先生の声に、立体映像は笑顔で礼をし、席へ戻っていった。その間、天井に張り付いている本体は微動だにしない。

授業が終わって昼休みが来ると、屋上に上って昼食を摂る事にしている。屋上では二度に一度は従姉妹の陽山恵が本を読んでいるからだ。陽山は文字通りの変人であるし、非常に気紛れで掴みづらいが、由原に偏見無く接してくれる希有な人である。それにどんな話も嫌がらずに聞いてくれるので、とても頼りになる従姉妹であった。故に、よく屋上に上がって、陽山を捜すのだ。それに加えて、もともと由原は、屋上で食事をするのが好きだった。狭い教室で食べるよりも、開放感があって気持ちがいいからである。

階段は人が多くて混むので、最近は壁を登って直に屋上へ行く。二十メートルの高さから落ちても傷一つつかない対衝撃ボディーであるから、全く危険はない。当然強力なショック緩和装置が付いているので、中身にも影響はない。蜘蛛のように何も怖れることなく壁を這い上がると、フェンスをよじ登って、普通の人間とは違う道から屋上へ赴く。流石に壁を垂直に登っている時は、立体映像はオフにしている。目的地に着くと、其処はほぼ無人だった。ほぼというのは、陽山を始め生徒は殆どいなかったが、代わりに朝霧がいたからである。

「お、由原」

「先輩、今来られたのですか?」

「ああ。 市崎にもルールにも昼飯ふられちゃってさ。 陽山先輩は?」

「おいでになる時には必ず昼休みの最初ですから、今日はもう」

そうか、と呟くと、少しすまなそうに祐一は頭を下げた。その意味が分からず、平坦な屋上床に降りて立体映像をオンにした由原は、自分の代わりに小首を傾げさせた。

二人は列んで弁当を広げる。丁度蜘蛛でいう口の当たりに開いた穴へ、ロボットアームでひょいひょいと由原は食物を運んだ。意外に小食な祐一は、明らかにルールが作った、プロが作ったとしか思えない弁当をつつきながら、由原に視線を時々向ける。相手が自分を恋愛対象とは見ていない事を知りながらも、こういう事をされると嬉しいのは、正直情けない話ではあった。未練たらしい自分にも、鈍感な祐一にも腹が立つ。先に口を開いたのは、祐一であった。

「あのさ、由原」

「なんでございますか?」

「時々市崎さんとかルールにも言われるんだけど」

「……」

苛立ちは更に膨らむ。祐一は頭を掻きながら、申し訳なさそうに続けた。

「僕、鈍感だから。 傷つけるような事言ったら謝るから、遠慮無く頼むな」

ならばすぐに謝れ。今すぐ謝れ。てか死ね。そんなどす黒い思考が由原の脳裏を一瞬占拠した。可愛さあまって憎さ百倍というやつである。だが、立体映像は笑顔のまま。口調がぶれる事もない。

祐一が善意でそう言っているのは分かり切っている。自分の怒りが一方的である事も分かっている。だから由原は、心にもない言葉を返した。

「気になさらないでください、先輩」

この時、心は泣いていたかも知れない。だが機体と感情を分離している由原は、それを主張出来なかったのである。主張出来ずとも、気づいている者はいた。でも、一番気づいて欲しい人は、気づいてはくれなかった。

 

昼食が終わると、パソコンにメールが飛んできていた。明後日が研究日に決まったので、時間をあけておくように、というお達しである。話によるとこの機体は三年維持するだけで親の遺産を全て食いつぶすほどの高級品だそうで、お達しに従わねば経済的な死が待っているだけである。独り身である彼女は、そうなったら肉体的にも滅ぶしかない。これが残念ながら、資本主義社会の現実であり、それはまだ法律上未成年になる由原もよく知っていた。金のために魂まで売って良い訳ではないが、一方で生きていくためには金を軽視しては絶対にならないのだ。

午後の一番の授業は体育であった。一時期サイボーグの体育授業参加について議論が起こった事があったが、現在では容認傾向にある。ただし公式競技には、サイボーグ部門と非サイボーグ部門が既に設けられている。当然の話で、性能が違いすぎるからだ。ただ、学校レベルの体育参加は問題なく認められている。これはサイボーグ化を施している生徒は周囲からの摩擦を受けやすいからで、それを緩和するための政策である。故に、高機械化サイボーグを有する学校は、必然的に体育が強い。

今日はバレーボールである。由原は性能にリミッターをかけて望んでいるが、それでも処理速度が根本的に違う。

「そーれっ!」

相手チームの女子がサーブをうち、味方チームの一人がレシーブしてボールを高々跳ね上げる。セッターがそれを受けると見せかけて、ネットギリギリにまで来た瞬間を狙い、由原は跳躍、ロボットアームを旋回させ、計算し尽くした角度でボールをネットの向こう、ラインぎりぎりへ叩き込んだ。正に閃光。バックアタックであれアタックであれ、由原が打ち込んだ一撃を止められるものは殆どいない。唯一以前遊びで交流試合を行った際に、陽山にけちょんけちょんに伸されたくらいである。従姉妹相手にも全く容赦のない攻撃を加える陽山は、周囲から思い切り引かれていたが、それは彼女なりの配慮だったと由原は知っている。

しかし、由原の機動性能はさほど良くないし、くわえて味方チームの運動神経はむしろ鈍い。八面六臂の活躍とは行かず、たまたま近くにボールが来た時のみ、由原は鬼神の活躍を見せる。もっとも、その際にも立体映像は機体の上に腰掛けて優しく微笑んでいるだけである。ハイになっている時くらい、それを表現したいものだと、時々由原は思うのだった。

結局試合は3−1で勝ったが、どのセットも気が抜けない勝負であった。囂々と音がするのは、ファンを動かして機体を冷却しているからである。ほんの少ししか熱は放出していないが、何しろデリケートな機械なので、念を入れているのである。というよりも、以前機体の調子が悪くなった時に大分搾られたので、細かい調整を常日頃から心がけているのだ。

「おつかれ、ナミちゃん」

「お疲れです、白瀬さん」

一際小柄な女性生徒が、満面の笑顔で駆け寄ってきた。白瀬史帆。クラスメイトである。人なつっこく笑顔がステキな彼女は、感情がとても豊かで、特に先輩達に可愛がられている。ただ背はとても低く、同世代の平均身長に十五pも届かない。中学生に間違われる事は日常茶飯事で、それを気にしているそぶりを見せる事がよくあった。でも、それくらいの事がなんだと、由原は時々思ったのも事実である。満面の笑顔で彼女は立体映像のほうにタオルを差し出そうとし、それに気づいて見る見る顔をくしゃくしゃにした。

「ご、ごめんなさい……」

「ううん、気にしないで」

どういうわけだか、同一の行動を朝霧が見せた時には腹が立つのに、白瀬が見せた時には腹が立たない。腹が立つツボをついてきていないからなのか、或いは恋愛感情が介在しない相手だからなのかは、まだ由原自身も知らない。いや、心理分析が済んでいないと言うべきか。

由原は白瀬を信頼していない。確かに可愛いし一緒にいて楽しいとも思うが、同時に秘密を絶対に護れそうもないし、誰かを守るために自分を殺せもしないとも思える。善良ではあるが、弱くて信頼に値しないとも、冷酷に分析していた。ただ、感情豊かで可愛い子だとは、いつも思うのも事実であった。そんな由原の分析を知ってか知らずか、嬉しそうに彼女の機体を拭きながら、白瀬は言う。

「ナミちゃん、明後日放課後どこかに遊びに行かない?」

「ごめんなさい、その日は研究所に行かなくてはいけないの」

一瞬吃驚した顔になった後、白瀬は慌てたように言った。

「だ、大丈夫なの? ひどいこととかされてない?」

「大丈夫、されていません」

立体映像が笑顔のまま言うと、心底安心したように胸をなで下ろす白瀬。何処まで本気なのかは分からない。白瀬は凄く嬉しそうな顔をしながら、続けた。

「じゃあ、その後、いつか遊びに行こうね」

 

数日はあっという間に過ぎ、研究所を訪れる日がやってきた。確かに性能実験等を最初の頃は頻繁にされたりして、来るのが苦痛であった。しかし研究所長の朝霧静流はとても由原を可愛がってくれるので、最近は苦痛にはならなくなりつつある。ただ、一つ問題があるとすれば、静流が病的な機械好きだという事であった。

「奈三ちゃん、いらっしゃーい!」

恋する乙女のような声を上げ、いつまで経っても老けない不思議な静流が駆けてくる。白衣にスリッパで、見ていて心配になるほど危なっかしい走り方で。その容姿はどう見ても二十代前半で、とても高校生の子供がいるとは思えない。彼女はそのまま由原の機体にすがりつくと、頬ずりした。周りの研究者達は、半ば呆れてその様を見守っていた。

「うーん、この頬ずり具合は、まさしく機能万全ね」

機械に頬ずりするだけで、その情況を把握出来てしまうというのは、静流が持つ不思議な特殊能力である。どういう訳かこれは外れる事がまずなく、一種の超能力ではないかとルフォーローの科学者が話しているのを、由原は聞いた事があった。それを証明するように、今日も性能試験は簡単にクリア出来た。少し疲れて心中にて嘆息した由原に、目を輝かせながら静流が顔を近づけた。

「奈三ちゃーん、あ、の、ねー?」

「何でございますか?」

「新機能、考えてみたの」

そう言って静流がメモリーチップを取り出す。プログラムの更新や、微少な機能追加はいつもの事であるが、静流がこの口調で喋る時、必ず大きな変化がある。確か由原が覚えている一番古い時は、視界を立体的にしてくれた。最近は音声に起伏をつけられるようにもしてくれた。今度は何なのか、多少期待する由原に、恋する乙女のように目を輝かせて静流は言った。

「感情と立体映像、つなげてみない?」

 

2,変貌

 

朝霧祐一は、いつものように華乙に電気ショックでたたき起こされ、いつものように髭を剃って、いつものように一つ二つ忘れ物をして、家を出た。まさしくいつも通りの事であった。普段通り外ではルールが待っていて、忘れ物のチェックをしながら学校へ歩く。ゆっくり後ろをついてくるルールの巨大な本体は、時々口をもぐもぐ動かしていた。所有者の居ない木を彼女は知っていて、時々それの新芽をつまみ食いしているのである。一方で、対人コミュニケーションインターフェースのほうはそれに対して何ら反応を見せず、涼しい顔で祐一に語りかけてくる。

「それで祐ちゃん、奈三ちゃんがどうしたの?」

「うん。 母さんが何か仕掛けを施したって言ってたんだけど、大丈夫かなって」

「静流さんなら、きっと危ない事はしないよ」

「そうだと良いんだけど」

祐一は心配するふりをして、先ほどからそわそわしっ放しであった。いや、実際に心配もしているのだが、同時にどんな改造が由原に施されたのか楽しみで仕方がないのだ。この辺は技術者としてのどうしようもない性である。それを見たルールは、いつものように、彼女らしい釘を差した。

「分かってると思うけど、祐ちゃん」

「うん?」

「同じ事されたら、私だったらジャーマンスープレックスかけるよ?

「ごめんなさい」

笑顔のままさらりとはかれた言葉に、祐一は即座に反省した。祐一の場合、ルールに何か言われると反省するように、反射行動が出来てしまっているのである。それを見たルールが何か言おうとした瞬間、由原の声が場に割り込んだ。

「おはようございます、朝霧先輩、ルールさん」

「おは……ぶっ!?」

「おはよう、奈三ちゃん」

ルールが何故冷静なのか、祐一には理解出来なかった。硬直する彼の前にいる由原は、機体に関しては以前と同じである。同じでないのは立体映像だ。以前は感じのいい笑顔を常に浮かべていて、それを変動させる事は滅多になかった。だから、とても大人しそうな子だなあ、などと祐一は考えていたのだ。しかし、である。今の由原は人生に疲れ切ったような凄惨な笑みを浮かべており、言葉を発するたびに目に感情が宿っていた。

「ど、どうしたんだ……由原!?」

「? 私はいつもと同じです、朝霧先輩」

「そ、そう……なのか?」

祐一はルールを見ようとしたが、由原の目に殺気が宿ったのを感じて、見るに見られなくなってしまった。

「か、かあさんに何かされたのか?」

「特に何も。 今回は立体映像と、脳の感情をつなげて貰っただけです。 それに伴って立体映像の実行プログラムも大幅に強化したみたいですけれど。 以前は控えめにしか振る舞えなかったのですけれど、これで素の自分を出す事が出来るようになりましたから、大分心が楽になりました」

「それは良かったね、奈三ちゃん。 前は大分たまっていたみたいだから、心配していたんだよ」

「有り難うございます、ルールさん」

ふっと安らいだ表情が由原の顔に浮かんだ。おろおろする祐一は、これ以上下手に慰める事も出来ず、右往左往しながら様子を見守るしかなかった。要は由原は、普段からあんな表情をしなければならないほど追いつめられていた事になる。それに気づかず、〈大人しい子〉だなどとたわけた事を考えていた祐一は、頭を鈍器で殴られたような気分を味わっていた。それにしても、相変わらずルールは凄い。やはり勝てないなあと、祐一は思う。

「朝霧先輩、今日は市崎先輩は?」

「ん? ああ、市崎さんは、今日は忙しいってさ。 何してるかはよく知らないけど」

「ふーん、そうなのですか」

何かとても嬉しそうな表情が由原の立体映像に浮かんだ。この時祐一はこの娘の気持ちと、自分が今まで何をしていたか悟った。いつも彼女を針のむしろに座らせていた事も悟って、ますます萎縮する祐一。

「ご、ごめん」

「? どうしたのですか? 先輩」

「……」

由原はとても恐い笑顔を浮かべていた。小さく息を漏らしそうになった祐一は、それ以上は何も言えず、今度は彼が針のむしろに座ってすごす事となったのであった。少し遅れて歩く彼の前で、ルールは笑顔を浮かべ、由原に応じていた。ルールは由原が追いつめられている事に気づいており、故に今も前と同じ笑顔で接されていた。無知は、悪意が無くても、時に人を傷つけると改めて彼は感じていた。

 

昼休み、少し心配になった祐一は、屋上へ向かった。屋上には陽山はおらず、代わりに由原が弁当を摘んでいた。隣には見慣れない小柄な女子がいて、由原と親しげに話している。しばしためらった後、祐一は二人へ歩いていき、声をかけた。

「よ、よう。 由原、昼飯か?」

「あ、先輩。 そうですよ。 一緒に食べますか?」

「そうだな、そうしようか」

由原の機体の右隣に腰を下ろした祐一は、弁当を開けた。ルールが作ったとても美味しい弁当には、当然冷凍食品など入っていない。由原の隣にいるちっちゃな〈小柄なというよりも、幼い感じがして、ちっちゃなという表現がしっくり来る〉女子生徒はもじもじしていたが、やがて恥ずかしそうに由原の機体に触れた。

「ナミちゃん、その人、だれ?」

「私の先輩、朝霧祐一さんです。 朝霧先輩、此方はクラスメイトの白瀬さん」

「し、白瀬です。 よろしく……」

「あ、ああ。 よろしく」

挨拶をし終えて、祐一は由原が弁当をもの欲しそうに見ているのに気づいた。以前とは百パーセントイメージが違う。表情というものが存在するだけで、此処まで人間とは印象が異なるのか。祐一は改めて悟りながら、言った。

「喰うか? ルールの弁当、美味いぞ」

「いいのですか?」

「ああ。 かわりに、由原の少し分けてくれな」

「うわあ、嬉しいです。 一度ルールさんのお弁当、食べてみたかったんですよぉ」

由原のロボットアームが動いて、アスパラの肉巻きを器用に取った。柔らかく煮えている肉巻きは祐一の好物だが、まあ此処は仕方ない。代わりに祐一は由原の卵焼きを貰った。味のほうは……典型的な冷凍食品である。最近は冷凍食品もレトルトも進歩しているが、ルールの作る料理と比べてしまうと月と鼈である。ただ、これはどうしても仕方がない事ではある。そもそも、弁当を自分で作っている高校生というもの自体が、絶滅危惧種に等しいのだ。

「おいしいですね、これ」

「美味いよな、本当に。 性別とか関係なしに、本当にかなわねえよ、彼奴には」

祐一が何気なしに白瀬の方を見ると、彼女は赤面しながら、小さい弁当箱をつついていた。鳥の餌のようだという比喩があるが、それが正にしっくり来る小さな弁当箱である。二人が見ているのに気づいて、白瀬が顔だけでなく全身真っ赤になった。

「あ、あの、これは、その……」

「小食なんだ」

「……はい。 それに……私……作ってもらってるから」

「そんなの、僕だってそうだよ。 かあさんが作ったんじゃなくて、もっとおっかない幼なじみが作ったもんだけどさ。 自分で作るヤツのほうが少ないって」

親切にそう言って由原に同意を求めようとした祐一は、彼女が全く笑っていないのに気づいて石化した。具体的に口にはしないが、責めるような視線が痛い。八方美人。そういわれている気がして、祐一の胃に針が突き刺さった。そのまま由原は白瀬に不機嫌そうな顔を見られないように、ふいっと顔を背けると、再び弁当を口に運び始めた。

空気がいたいと言うよりも、結構由原がデリケートである事、それに気づかず如何に彼女に精神的な打撃を与え続けていたかと言うこと。それが祐一の胃に精神的な針を刺していた。不思議そうに小首を傾げる白瀬は、事態に気づいていない様子である。しかし彼女に頼るのは、人として最低な行為であろうと祐一は考え、黙り込むだけに止めた。やがて、由原が再び口を開いた。

「白瀬さん、そのコロッケ、いただけませんか?」

「う、うん」

昼休みは瞬く間に過ぎ去っていった。

 

教室に戻ってから、祐一はずっと考え続けていた。要は彼の場合、距離の取り方が下手なのである。そして由原は、今まではそれを伝える手段を持っていなかった。いや、持ってはいたのだが、祐一の能力では気づけなかった。

「それにしてもあの子、本当は結構おっかなかったんだな」

だれに言うでもなく、祐一は呟いていた。いつもにこにこしていれば優しいとか、そんな理屈が成立するわけはないのに、どうしてか外見からそんな判断をしていたのだ。

「おっかないって、だれが?」

「うん? あ、市崎さん」

乾いた笑みを向けると、祐一は一瞬躊躇したが、大体の経緯を市崎に話した。顎に手を当てて市崎は聞いていたが、やがて小さくため息をついた。

「おっかない子って、それは失礼だと思う」

「そうなのか? うーん、悪い意味で言ったんじゃないんだけど」

「違うってば。 その子、今ようやく表情で自己主張出来るようになったんでしょ? だったら、間違いなく相当にストレスがたまってたんでしょ。 だから今、多少気が立ってるだけよ」

さらりとルールと同じ事を言う市崎。

「そ、そうなんだ。 ……まだまだ僕も、修行が足りないな」

「大体、好きでもない相手に、そんな表情見せないと思うけど?」

「好きって、だれが、だれを?」

「……いや、もういい」

白けたというか、半ば呆れた目で見られて、祐一は二の句が継げなかった。そして、早速考え込み始めた。

あの状態で好きな相手というと、やはり一緒にいた女の子だろうか。そういえば、由原がルールを好きな事は祐一にも分かる。なるほど、となると屋上で一緒にいた子、白瀬に由原は恋慕していて、彼女にいい顔をする祐一の八方美人ぶりに腹を立てたのかも知れない。まあ、今はジェンダーフリーの時代であるし、様々な嗜好が公認されてもいる。女の子が女の子を好きになっても、愛があるなら特に問題はあるまい。となると、全て説明が付く。

納得して祐一が頷く。それを見た市崎は、更に言った。

「あのさ、朝霧君。 まさかと思うけど」

「ん?」

「……その子、由原さんが、屋上にいた白瀬さんって子を好きだとか考えてないわよね」

「え、違うの? 間違いないかと思ったんだけど」

次の瞬間、祐一の脳天を、市崎のチョップが直撃した。しかも右手モードである。義手である右手の一撃は重く、そして鋭かった。

「あほんだらぁ! このステゴサウルス!」

そう言い捨てると、肩を怒らせ、市崎は歩み去っていった。数秒間意識が飛んだ祐一は、頭を押さえながら、呆然とするばかりであった。

 

3,吐瀉

 

一説には尻尾を噛まれても痛みに気づくまで九秒かかったと言われる恐竜に例えられた祐一は、小首を傾げながら授業を終え、校庭に出た。

まあ、何にしても、由原がストレスをためている事は祐一にもよく分かった。ならばストレスを発散すればいいわけで、少しでもそれの手伝いが出来ればと思ったのだ。由原は放課後、校庭にいる事が時々ある。陽山と帰らない時は、大概校庭で時間を潰しているのである。だから彼女に会い、何かしらのアクションをとろうと考えたのだ。

校庭を見下ろせる場所まで歩き出た祐一は、一瞬後、物凄く恐い音の発生に気づいた。擬音化するならば〈ごきゃ〉とか〈ぐきゃ〉とかが適当である。呆然とした祐一がゆっくり音の発生源へ顔を向けると、そちらには。校庭に延びているゴリラのような男子学生と、立体映像が薄ら笑いを浮かべて、なおかつ機体がロボットアームを振り回している由原の姿があった。祐一の記憶では、あの男子学生は空手部の主将である。それが泡を吹いて、そのうえ白目を剥いているのだ。生唾を飲み込む祐一。

「祐ちゃん?」

「あ、ルールか。 あ、あのさ、あれ……なんだ?」

歩いてきたルールにこわごわ祐一が聞くと、こともなげに彼女は言う。

「見ての通りだよ。 あの男子主将、前から奈三ちゃんにしつこく声をかけてて、一度シメておこうかと思ってたんだけど、奈三ちゃんが自分で処理したみたいね」

「しょ、処理って」

「有る意味祐ちゃんも悪い。 あの主将がしつこく奈三ちゃんにつきまとったのも、祐ちゃんがはっきりしないからなんだよ?」

そう言われてますます混乱した祐一は、奈三が倒れている男子主将をげしげしと音を立てて踏みつけているのを見て、反射的に校庭に飛び出していた。由原は薄ら笑いを浮かべたままで、周囲は完全に引いている。どう考えても悪いのはしつこく言い寄った空手部主将だが、これでは由原がいらぬ誤解を受けてしまう。

「ふんっ! いい気味です!」

「由原、由原っ! 止めろって!」

「朝霧先輩?」

「由原、よく分からないけど、僕が悪かった! だからそれ以上は止せ!」

むすっとした表情で、由原は主将の体から足を離した。そして無言のまま、祐一を非難するように見た。立体映像ながら、実にリアルな視線で、祐一は再び胃に穴が開く思いを味わった。

「先輩は悪くありません。 悪いとしても、悪い理由が分からないんでしょう? だったらどうして謝るんですか?」

「そ、それは、ええと」

「そうですか、ふうん。 そうなんですね……」

「ゆ、由原、おち、落ち着いてくれ、あ、あのさ」

立体映像の由原の目が光った。少なくとも、そう祐一には見えた。由原が爆発したのは、その瞬間だった。

「謝っておけば良いとでも思ってませんか? 機嫌が直るんじゃないかとか考えてませんか!? 私、子供じゃありません! 私、私……私、先輩のそう言う所、大っきらいですっ!」

「……」

「だいたい私が感情をあんまり表現出来ないからって、どうして大人しい子だとか勝手に思うんですか!? 私は私です! 〈大人しそうな子〉でも、〈優しそうな子〉でもありませんっ! 私は私なんです! 私は由原奈三という名前も、個性もあるんですっ! サイボーグだけど、人間の形何てしてないけど! でも嫉妬もすれば悲しいとも思うし、好きな人は独占したいし、甘い言葉の二つや三つかけて欲しいんですっ! だから、だから……! 私、私! 私を誤解するみんななんて、大っきらいです!」

「その辺にしておいて、奈三ちゃん」

蒼白になっている祐一を押しのけ、ルールが二歩ほど前に出た。彼女の七メートル後ろには、本体がその威容を見せつけて立ちつくしている。ルールは鞄を祐一に放ると、制服のボタンを一つ二つと外して動きやすくし、ネクタイを緩め、肩を回しながら言った。視線はもう、ずっと由原に固定され、一瞬たりとも外れない。文字通りの臨戦態勢に入っているのだ。

「好きなだけ打ち込んできて。 私が、ストレスを受け止めてあげるから。 貴方の心の泥、吸い出してあげるから」

「ルールさん」

「祐ちゃんも確かに悪いけど、でも悪くない。 だからこれ以上責めないであげて。 それに、ストレス発散には、是が一番だから。 そこの君、その人保健室へ運んでいってくれる?」

話を不意に振られた一年生が慌てて頷き、まだ地面で延びている空手部主将を引きずっていった。ルールは祐一にもう少し下がるようにいい、ゆっくり腰を落として構えを取った。由原はしばし俯いていたが、やがて立体映像を消した。両者ともに、本気になったのだ。無言のまま、しばし両者はにらみ合う。祐一は息を殺し、この戦いから目をそらさない事を決めた。

「シャッ!」

先に動いたのは由原だった。

 

由原は蜘蛛のように高速で動き、動きを止めずにルールの右斜め前からロボットアームを叩き付ける。ルールはそれを腕を動かすだけで弾くが、そのたびに凄い音がした。それだけで、アームが如何に重い一撃を放ったか明かであった。連続してアームは繰り出され、ルールは少しずつ動きながら、それを外し、或いは弾く。アームは数カ所可動可能箇所があるだけとは思えない複雑な動きを見せ、或いは不意に軌道を変え、時には曲がりくねって蠢き、変幻自在にルールを攻め立てた。目、喉、脇腹、胸の中央、急所を狙ってアームが容赦なく繰り出される。まるで攻撃には容赦がない。しばしそれが続き、大振りの一撃を由原が横殴りに叩き付け、それをルールがバクテンしてかわすと、今までずっと地面に張り付いていた由原が跳躍した。そしてアームを二本、タイミングを合わせて左右から叩き付け、ルールを挟み込んだ。そのままルールの頭上を飛び越えた由原は、ワイヤーを射出して近くの木に取り付き、そしてアームを振り回して、ルールを思いっきり地面に叩き付けていた。

巻き込まれたら死ぬ。それが分かっているのに、祐一は可能な限りの近さでそれを見ていた。アームはまだルールを掴んでおり、更に大きく振り回して、地面に叩き付けていた。さっきよりももっと恐ろしげな音がする。だが、三度目は無かった。二度目に叩き付けられる寸前、ルールが腕をクロスさせ、一気にそれを開いてアームを弾いたのである。だがそれが故に受け身を取り損ね、彼女は校庭に転がった。由原は慎重に間合いを取り、その様を見守る。ルールが立ち上がり、埃を払った。口の端に伝う血を拭い、そして笑顔を浮かべていた。

「このくらいじゃ、まだ満足しない?」

「……はい」

「じゃ、全力でいいよ。 おいで」

物凄い速さで地面に這い降りた由原が、そのままの勢いでルールへ間を詰める。ルールは自然体のまま、全く動かない。

「ぜあああああああああああああああぁああっ!」

絶叫した由原が、地面と水平に跳躍した。正に一個の弾丸とかし、ルールへと襲いかかる。刹那の一瞬。祐一は見た。ルールが複雑な呪文をくみ上げ、両手を大きく広げ、そして。巨大な弾丸を、真っ正面から受け止める、その様を。

物凄い激突音が響き、濛々たる砂埃が上がった。それが収まった時、地面にへばっている由原と、それにもたれかかっているルールの姿だけがあった。ルール本体がゆっくり頭を下げ、祐一に行動を促す。祐一は頷くと、まずルールの対人コミュニケーションインターフェースを地面に横たえ、ついで由原の機体の損傷をチェックし始めたのであった。まずは全体を簡単に、亀裂や衝撃跡をチェックしていく。

「ナミちゃんっ!」

悲痛な叫びが響く。あの白瀬という女子生徒がその声の主だった。彼女は倒れている由原にふらふらと歩み寄ると、すがりついて泣き始める。祐一はその泣き声を痛ましく思ったが、だが言った。

「すまない、少しはなれてくれ」

「朝霧、せんぱい……」

「大丈夫、僕が絶対に助ける! だから離れて!」

二秒の沈黙の後、目をこすりながら白瀬が頷いた。彼女が離れるのと同時に、祐一は頬を叩いて、全神経を一点に集中した。鞄を開け、必要機材を並べ、そして自分に言い聞かせる。

「やるぞ……!」

彼に出来る事は是しかない。だから、それを全力でやり遂げるのみ。朝霧祐一は、そういう青年だった。

 

4,光転

 

幸い由原は大した損傷もなく、ルールもそれは同じであった。二人が本気で怒ればどうなるかを如実に示している結果である。出来るだけ二人を怒らせないようにしようと、祐一は改めて誓い、学校へ向かっていた。今日もルールと一緒である。いつものように忘れ物の話をして、弁当を貰って、授業の話をして、幾つか怒られて。それが終わったら他愛のない話に移る。

あの後三人でこっぴどく先生方に搾られた。というのも、大人しいルールと由原が大暴れしたのは、祐一のせいに違いないと先生方が思ったからである。しかもそれは半ば事実であったので、祐一は肝を冷やした。しかしルールも由原も祐一を庇ったので、大事には至らなかった。三人は放課後居残りで掃除を命じられ、原始的な器具でそれを実行する事となった。

最終的な結果として、今日はいつもと同じ情況を取り戻していた。以前に比べて、由原奈三という後輩に対する誤解が解け、理解がより深まったが、それは良い事であった。普通に話をする祐一と由原に、後ろから市崎が追いついてきた。

「おっす」

「おはよう、市崎さん」

「昨日は何かやらかしたんだって? まさか痴話げんか?」

「痴話げんか? そうね、それに近いかもしれないね」

目を光らせる市崎に、物騒な事をルールが言い、祐一は困り果てた。実際の所、彼は由原の事を理解はしたが、未だにルールや市崎が言った事を理解出来てはいなかったのである。もしその話題を振られたら、返答に窮する所だ。

それにしても、あの二人が本当に総力戦で痴話げんかをしたら、周囲一帯が廃墟になるのではないか。そう思って、祐一は身震いした。世の中には、考えない方が良い事が、確かに存在するのである。何しろ静流の事だ、由原にミサイルや硬エックス線ビーム砲程度は装備していてもおかしくない。ルールにしても、戦車砲程度の破壊力を持つ魔法は軽々使いこなすのだ。それにルールであれば、ミサイルを冗談抜きに防ぎきりかねないのだ。昨日の戦闘を見る限り、笑ってその可能性を否定出来なかった。

「朝霧せんぱーい! ルールさーん!」

今度は由原だ。振り返ってその立体映像を見て、祐一は少しだけ安心した。以前のような、優しい笑みが其処には戻っていたからである。微笑みに影はなく、上品で心温まる優しい笑みであった。少し儚げさもあるが、決して由原が儚げ等ではない事を、今の祐一はよく知っていた。

「おはよう、由原」

「昨日はご迷惑をかけました」

「ううん、いいのよ。 腹が立った時は、祐ちゃんを冗談で済む範囲内でサンドバックにしていいからね」

「いや、おまいらにサンドバックにされたら冗談じゃ済まないってば」

祐一の真摯な抗議は完全に無視され、その後も何やら物騒な会話が続いていた。ふてくされた祐一であったが、由原に笑顔が戻っている事に気づいて、呟いていた。

「まあ、いいか」

安心している自分にようやく気づいて、祐一は苦笑した。苦笑といっても、ごく明るい気持ちで出たものであった。その肩を市崎が叩く。

「もう、これ以上追いつめたら駄目よ」

「……ああ。 努力してみるよ」

祐一が空を見上げると、其処には雲一つ無い、宇宙まで抜けそうな青空が広がっていた。考えるのは後でも出来る。今はただ、このさわやかな空の元、皆と仲良くしたかった。それが祐一の、間違いのない素直な気持ちだった。

「なあ、由原」

「はい、先輩?」

「やっぱり、腹が立ったらある程度冗談で済む範囲で、僕に当たってもいいよ。 なにせ毎日華乙にいたぶられてるから頑丈だし、さ。 それに僕に出来る事だったら、相談に乗るから」

「……有り難うございます、先輩」

由原が目を細めた。祐一は小さく頷くと、三人と一緒に、学校への道を歩き続けた。青空は、暖かい光を地面へ通し、四人の行く先を見守り続けていたのだった。

 

(続)