機械の右手と……

 

序、閉塞

 

「今日からこの子は、お前の妹だ。 催眠学習で言葉は通じる。 優しくしてやれ」

祐一の父豪三がそう言い、少女の肩を軽く叩いた。チョコレート色の肌をした少女の目には何も映っていなかった。言うだけ言うと、豪三は殺風景な部屋を出ていった。今まで物置だった、今は整理された、何もない部屋を。部屋を整理しろとは言われていたが、まさかこんな展開になるとは。予想もつかない事態とは正にこの事であった。

「いきなりそんな事言われてもなあ……」

祐一の前を、カイニと呼ばれた女の子が歩いていき、部屋の隅っこで膝を抱えて座った。世界の全てを拒絶している雰囲気である。右手は動きがぎこちなく、少し小首を傾げた後、祐一は事情を悟った。義手だ。居づらい空気を感じて、祐一はとぎれとぎれに言葉を投げかけた。

「な、なあ……あのさ……」

祐一の言葉に、カイニは応えない。人形のように膝を抱え、そのまま黙り込んでいる。彼女の周囲に、音を遮断する障壁でも張られているかのようだった。

どうして接して良いのか、祐一は分からなかった。この子の心が酷く傷ついているのは分かったが、どうするべきか分からないのだ。だいたいずっと一人っ子であった彼は、小学校最高学年の今まで年下の子供と接する機会もほとんどなく、必然的に何を喋っていいかも分からなかった。

「……僕、行くな」

祐一は逃げるように部屋を出た。部屋を出る時振り返ったが、カイニはずっと同じ姿勢のままだった。祐一など見もしなかった。世界を拒絶していた。

部屋を出た祐一は、扉に背中を預けて、しばしぼんやりしていた。感覚の鈍い彼であるが、それでもすぐ前で咳払いされれば、流石に気付く。顔を上げた祐一が見たのは、腰に手を当て、顔をのぞき込む幼なじみの姿だった。

「祐ちゃん?」

「ルール、来てたんだ」

「おじさんから聞いたよ。 妹が出来たんだって?」

しばしの逡巡の後、祐一は本音を吐き出した。もう一人の家族と言っても良い、同じ年の姉と言っても良いこの娘には、昔から嘘はつけなかったし、逆らう事も出来なかった。

「……出来たには出来たけど」

「どうしていいか分からないの?」

かなわない。ただそれだけ、祐一は思った。ルールは見慣れている笑顔を浮かべると、退くように促した。ルールが少し怒っているのを感じて、祐一は首をすくめた。

 

「……もう朝か」

目を覚ました祐一が、ぼさぼさの頭をかき回し、ベットの上で身を起こした。六年も前の夢を見た彼は、居づらそうにドアを見た。あの頃から、ルールに頭は上がらなかった。華乙に多少後ろめたさを感じているのも、あの頃から同じだ。華乙を孤独から助けたのはルールだ。僕は一番辛い時に、何一つ出来なかった。だから華乙はルールに懐いている。だから……。

静かにドアが開く。抜き足で入ってきた華乙は、起きている祐一を見て口を尖らせた。元気で、生命力に満ちあふれた妹。心を閉ざしていた事があるなんてとても思えない、やんちゃで元気な華乙。彼女は頬を膨らませ、右手を左手の指先で弾いた。物騒なスパークが、機械化している右手の先端ではじけた。

「えー? どうしてアニキ起きてるの?」

「……そう毎度毎度実験台にはならないよ」

「もう。 きっと今日は雨が降るね」

部屋を出ていく華乙の後ろ姿を見ながら、祐一は心中で呟いた。

『だから、お前は僕を認めてくれないんだろ?』

 

1,兄と妹

 

HRも終わり、祐一がルールを待っていた時の事である。色々あって以来、すっかり友人関係となっている市崎閃が、笑顔で祐一に言った。

「ねえねえ、朝霧君」

「なに?」

「朝霧君の家族って、どんな人達?」

「親父は退役軍人、母さんはサイボーグ化技術の世界的権威。 妹は、サイボーグおたく」

これを言うと、大概の人は退くのだが、市崎は違った。

「へえ、みんな個性的で面白そうだね」

「毎朝妹に電気ショックで起こされなければ、そう思うかもね」

「あはははは」

「何かおかしい?」

「今、妹さんに嫌われてるって思わなかった?」

図星を指されて黙り込む祐一に、市崎は笑顔のまま続けた。

「ホントに嫌いなら、口だって利いてくれないし、コミュニケーションだってとろうとしないよ。 羨ましいなあ、朝霧君の家」

それに対し、何か言いかけた祐一の肩を、後ろから誰かが叩いた。振り向いた祐一は、ルールがいるのに気付いた。

「祐ちゃん、市崎さん、帰ろう」

「あ、ああ」

「うん、いそご!」

最初こそ多少ぎくしゃくしたが、もう今や市崎とルールは親友である。女友達の場合、同じ異性を取り合ったりすれば確実に仲が悪くなるのだが、この二人の間にそれはないから、自然と友情が成立するのである。もっとも、市崎は非常にオープンで快活だから、誰とでもすぐに友達になれるのだが。

二人に少し遅れて、祐一は下駄箱を通り過ぎた。外に出ると、丁度ルールの本体が長い足を交互に動かし、壁を伝って降りてくる所だった。ルールの本体は、対人コミュニケーションインターフェースが学校内にいる間は、屋上にいる。屋上といっても、祐一がいる第一校舎ではなく、一年生が通う第二校舎の屋上である。長く太い触覚を揺らし、本体が祐一を見下ろす。祐一はそちらへ軽く振り向くと、軽く手を挙げて日光を遮り、彼を待っている二人の方へ歩いていった。一トン近い体重を持つのに、殆ど音も立てず、本体がゆっくり追ってきた。

ルールが市崎と仲良くし始めたもう一つの理由が、本体に対する接し方である。市崎は体長十四メートルに達するルールの本体を、全く怖がらなかった。最初に見た時は無論驚いたが、驚くにとどめ、怖がるまで達しなかったのである。そこがルールばかりか祐一の好感も誘い、良好な交友が続いているのだ。

「ルールさんの家族って、どんな人達なの?」

「目の前にいるよ」

「?」

「祐ちゃんもそうだし、華乙ちゃんも。 私にとっては群生個体が家族だから」

即ち、肉親は一人もいないのだ。普通なら此処で黙ってしまう所だが、市崎は違った。ごく最近祐一も知ったのだが、市崎も殆ど似たような情況なのだ。

「そっか。 ……私もだよ」

「お互い、色々大変だよね」

「じゃ、せっかくだからさ、今の家族について教えてくれる?」

「いい?」

「ああ、僕は全然構わないよ」

一歩遅れて歩いていた祐一は、一瞬遅れて相づちを打った。第三者が割り込んできたのは、次の瞬間だった。

爆音と共に砂煙を上げ、疾走し迫り来る影一つ。それはよけ損ねた祐一を跳ね飛ばし、目をきらきら輝かせながら、ルールに向けダイビングした。しかも、ルールは殆ど動じず、それを柔らかく受け止めた。ランドセルを背負った、祐一の妹、華乙を。さながら子猫のようにルールに頬をすり寄せながら、華乙は思いっきり甘えた猫なで声を出した。普段の華乙を見ている祐一は、背筋に寒気が走るのを感じた。

「帰り道で見つけたから、思わず来ちゃったよぉ〜」

「まあ。 ふふふ」

「なあにが来ちゃったよぉ〜だ……」

「あ、おにいたま、いたの?」

しれっと言う華乙に、もはや返す言葉もない祐一は、立ち上がって埃を払った。じゃれつく華乙と眼鏡を直す祐一を交互に見ながら、市崎が言う。

「誰? 可愛い子だけど」

「あれが僕の妹だよ」

「じゃあ、あの子が華乙ちゃん? へえ〜」

「何か感心する事がある?」

ルールにじゃれつく華乙。それを見て、ルールにも華乙にも多少の嫉妬を覚えながら祐一が言うと、市崎は笑顔で頷いた。

「羨ましいなあ、可愛い妹がいて」

コメントのしようがない祐一。右手に華乙をぶら下げたまま、ルールが振り返る。右手をサイボーグ化していて同級生よりずっと重い華乙に、体に取りすがられているのに、まるで重さを感じていないかのような軽やかさである。対人コミュニケーションインターフェースの出力は人間よりずっと上だから、有る意味正しい光景ではあるが、それにしても何度見ても違和感がぬぐえない。余談であるが、以前華乙にぶつかりそうになったホバーバイクを、正面から受け止め、投げ倒した事さえ有る。

「ねえ、市崎さん」

「うん?」

「折角だから、祐ちゃんと華乙ちゃんのうちに寄っていく?」

「うん、いいよ。 今日は時間もあるしね」

別に忘れていたわけでもなく、ルールはきちんと家の者にも確認をとる。この辺りの細かさは、ルールが周囲に好かれるが所以である。

「祐ちゃん、華乙ちゃん、いい?」

「さんせー! お客様一人、御あんなーい!」

「ああ、僕は別に構わないよ」

「わあ、ありがとー!」

普通に答えはしたが、祐一には今後の暗雲が容易に予想出来た。要は、華乙は筋金入りのマニアであり、市崎はその餌食にもっともなり易い情況、だと言う事だ。

優れたサイボーグ化技術を持ち、特に腕のサイボーグ化技術に関しては祐一さえ凌ぐ技術と知識を誇る華乙である。マクロ的な技術の持ち主である祐一に比べて、華乙のそれはミクロ的だが、総合的に見て二人とももう並のプロ技術者以上の実力者だ。二人ともその気になれば、機材さえ揃えればその場で重傷者のサイボーグ化手術を出来るほどの腕前なのだ。特に華乙の場合、元々の才能もあるのだが、偏執狂的なまでの情熱が知識と経験の拡大を産んでいる。血こそつながっていないが、この辺りは母の清流そっくりである。そして、それが原因で、周囲の人間に迷惑を掛けがちの所も。

「朝霧君、早く行こう!」

笑顔で大きく手を振る市崎。生命力溢れる彼女の笑顔は魅力的で、祐一は警告を言い出せず、苦笑して小走りで三人の元へ行った。

帰路は、いつもより、更に楽しいものとなった。

 

2,義手の攻防

 

祐一の家である朝霧家は、定期的に綺麗になり、定期的に汚れている。その周期は大体一週間である。これは丁度ルールが掃除意欲をかき立てられるスパンで、各自の部屋以外の裁量は全てルールが握っているため、こういった事が起こるのである。流石に各自の部屋は、それぞれが掃除する事になっているので、あまり情況は変動しない。

しかし、例外が一人いる。華乙である。華乙だけは、ルールに自室への侵入を許しており、ルール曰く〈部屋は綺麗だ〉と言う事である。ただ、祐一以上にマニアックな工具を揃えている事もあり、ISPのサーバー並みの能力を持つパソコンを所持している事もあり、夜中時々怪しい作業音がする事もあり、祐一の予想では、乙女チックな内装がされている可能性はほぼ絶無である。華乙は祐一も部屋に入れない。ただこれは、祐一が一度として華乙の部屋に入りたいと言った事が無いのが原因でもある。

今日は丁度、ルールが掃除した直後のため、家の中はある程度綺麗であった。ホワイトボードには、両親ともに今夜は留守である旨が記されている。ルールが冷蔵庫におやつを取りに行っている間〈勿論冷蔵庫も彼女が管理している〉、居間の丸テーブルに三人は座り、祐一の危惧が早速当たった。笑顔の市崎に、華乙が目を爛々と光らせながら言ったのである。怪しげな雰囲気を感じて心持ち下がる市崎に、華乙は身を乗り出すような勢いで迫った。

「閃お姉ちゃん、ひょっとして、右手義手?」

「えっ? うん、そうよ」

「私もなの! 見てみて!」

机の上に右手を載せた華乙が、皮膚と全く見分けがつかない手首の辺りに針金状の器具を差す。同時に、カメラのシャッター音を思わす軽快な音と共に、華乙の右手は肘の先で左右にぱっくり割れ、展開した。有る意味かなりグロテスクな光景だが、一方で皮膚以外は、緑やら黒やら肉を思わせる色を全くしていないので、それほど無惨な事にはならない。

それにしても、展開の広さ、格納している機器、構造の緻密さ、いずれも並の義手とは比較にならない。殆ど一から組んでいると言っても良い。単純に技術者としての血が騒いだ祐一は、身を乗り出した。

「またカスタマイズしたのか?」

「うん。 へへへ、いいでしょー」

「へえ、いいパーツ使ってるな。 これなんかオリジナルだろ。 最近夜五月蠅かったけど、ひょっとして基盤とプログラムからお前が組んだのか?」

「うん、そうだよ」

簡単に華乙は言うが、並の知識で出来る事ではない。ただ実のところ、総合的な知識では、祐一も全く引けを取らないのである。

華乙は右手の機器を全て格納すると、好奇心に目をきらきら輝かせて、市崎を見た。

「閃お姉ちゃん、お姉ちゃんのも見せてよ」

「え? わ、私は……」

困り顔で市崎は、助けを求めるように祐一を見た。それに対し、華乙は子供の武器を最大限に活用し、ファイヤーウォールの突破を狙った。子供らしい、年頃の女の子が陥落しそうになる無邪気な笑顔を浮かべて、下から市崎の顔をのぞき込む。そして、再び祐一の背筋に寒気が走るような猫なで声で言った。

「見たい〜。 お願い、見せてぇ〜」

『子供でも、女って恐いな……』

祐一の心の呟きは届かず、市崎のファイヤーウォールは陥落した。

「わ、分かった、分かったってば」

「やったあっ☆」

「ちょっとだけだからね」

苦笑いした市崎は、わくわくしている華乙の前で、渡された針金を右手首に差した。彼女の義手は、以前祐一が補修して以来、手つかずのままである。誤動作が起きたわけでもなく、新しい義手を買うお金もないから、そのままにして置かざるを得ないのだ。

若干華乙の右腕よりも鈍い音を立てて、市崎の右手が手首の辺りから開いた。しばし鼻歌交じりでのぞき込んでいた華乙は、無邪気な顔で宣う。

「へー、レトロな作りだね」

「うん。 うちって貧乏で、新しいの買えないんだ」

「誰かが補修した跡があるね。 結構良い腕だけど、誰?」

無言で市崎が、左手で祐一を指さした。華乙は興味なさげにふーんと鼻を鳴らすと、続けた。

「でもこれじゃ、いつ誤動作が起きるか分からないでしょ」

「朝霧君にも同じ事言われちゃったよ。 でも、お金無いから」

「だったら、私が新しいの一から作ってあげようか?」

「えっ? あの……」

相手の返事を待たず、華乙は自分の部屋にダッシュし、幾つかの紙束を持って戻ってきた。そして机上にて広げた。呆然として硬直したのは祐一だけではなく、市崎もであった。

最初に華乙が自信満々で広げた図は、右手が肘の辺りから飛ぶようになっているものだった。今時存在しそうもない、黒服にサングラスの男が、飛んだ右手の拳に倒される図も一緒に書かれており、飛行原理は特殊固体燃料との説明がある。しかも自動で動くようになっており、殺傷力はかなり高いのだとかとても嬉しそうな字で書かれていた。

この手の図は、非常に汚い字で書かれる事が多いと相場が決まっているが、華乙は父豪三譲りのとても繊細で優しい字を書く。それでいながら、とても嬉しそうな様子が、字面だけで充分に伝わるのである。

「プラン1! ロケットパンチ内蔵義手!」

「ろけっと……ぱんち……!?」

「悪の組織の構成員に襲われてもこれで安心! スイッチ一つで貴方の右手は正義の矢と化し、敵をめっためたにたたきのめしてくれるのだっ!」

目をきらきらと輝かせながら言う華乙。彼女は自信満々な様子で、更に続けた。

「これにする?」

返答は首を横に振るだけであった。傍目から見ても物凄いショックを受けた華乙は、しばし固まり、その後物凄く残念そうに〈プラン1〉が書かれた紙を丸めた。そして、いきなり元気を取り戻し、また紙束を広げる。

「プラン2! 高電圧ワイヤー内蔵義手!」

「高電圧……わいやー?」

今度書かれていたのは、掌からワイヤーが延びる義手の図であった。ワイヤーの先は再び黒服サングラスの男に刺さっており、電流が流れている古典的表現がされている。即ち、体の周囲が光り、骨が見える描写である。相手が銃を持ってたら役に立ちそうもないだとか、相手が複数だったらどうするんだとか、その辺りの突っこみは文字通り野暮というものである。

華乙は言うまでもなく電気ショックが大好きで、それに関する技術は非常に豊富である。書かれている説明は詳細かつ非常に複雑で、一部は祐一も理解出来なかった。なかなかに末恐ろしい小学生である。

「悪の組織の構成員に襲われてもこれで安心! スイッチ一つで貴方の右手は正義の矢と化し、敵をめっためたに叩きのめしてくれるのだっ!」

同じように目をきらきら輝かせて、心底嬉しそうに言う華乙であるが、市崎は少し悲しそうに目を伏せ、首を横に振った。再び周囲が影になるほど強烈に落ち込んだ華乙は、しばらく机にのの字を書いていたが、やがてまたしても前触れ無く復活した。

「プラン3! パイルバンカー内蔵義手!」

「……」

もはや市崎は突っこみさえ入れなかった。パイルバンカーというのは、遙か古代に絶滅した工事用機械で、杭を地面に打ち込むものである。兵器転用された事は一度もないが、その格好良さから武器として結構人気が高い。人気はあるのだが、もっとも実用化から遠い兵器の一つであるのも事実である。先ほどのロケットパンチ同様、いわゆる、〈男のロマン〉に属する武器の一つだ。

図には例の可哀想な〈悪の組織構成員〉とやらの至近に、繰り出された杭が着弾、恐怖のあまり尻餅をついて落涙している図が書かれていた。〈取り扱いには気をつけましょう〉の文字の周囲は赤ペンで縁取りされていて、しかし相変わらず字面はとても楽しそうである。形式はレール式であり、容積重量共にコンパクトに収まるように配慮が為されていた。

これらの義手の説明が、SFだのおとぎ話で有れば、市崎は罪のない子供の書く事だと、楽しそうに笑って応対した事は疑いない。しかし華乙は実際にそれを実行しかねない技術を持っていて、その上やる気満々、しかも犠牲者は市崎本人なのである。笑いが引きつるのも当然であった。

「悪の組織の構成員に……」

「な、なあ、華乙」

「ううん、いいの。 朝霧君」

助け船を出そうとした祐一を、市崎が手で制止した。そして出来るだけ柔らかい物腰で言った。

「気持ちはとても嬉しいんだけど、私、当分この右手でやっていくから。 ごめんね」

 

それは残念そうに図面を持って部屋に戻っていった華乙と入れ違いで、ルールが居間に戻ってきた。紅茶を注ぐと、甘くていい匂いが部屋中に満ちた。カップは三つだけ。

「あれ? 三つだけ?」

「華乙ちゃんは、しばらくいじけて出てこないから。 あっちには、今から私が持っていくから、大丈夫だよ」

流石にルールである。現在地球上で、もっとも華乙の扱い方を心得ている存在だけあり、トラブルシューティングも完璧であった。何事もなかったかのように、なれた手つきで最後のカップに紅茶を注ぐルールを見ながら、少し寂しそうに市崎は言った。

「そう……。 悪い事……したかな」

「いいんだって。 あれは彼奴のビョーキだから」

「祐ちゃん、言い過ぎだよ」

「ぐふっ!」

鈍い音がして、ルールが振り下ろしたお盆が祐一の頭にめり込んだ。しばし机で痙攣していた祐一は、ルールの何事も無かったかのような言葉に、顔を上げた。

「ところで明日がいつか、覚えてる?」

「ええっと……なんだっけ?」

「もう。 華乙ちゃん怒るよ?」

短い言葉で、すぐに事実を悟らせる。祐一は単純に、ルールの事を凄い奴だといつも思う。自分の事を恋愛対象として全く見てくれない事を、時々悲しいとも思う。だからルールと深い絆でつながっている華乙に、多少の嫉妬を覚えるのである。一方で、華乙の心を完全に掴んでいるルールにも多少の嫉妬を覚えているのだから、勝手な話であった。

「そうか、彼奴の誕生日だったな。 何か用意しとくよ」

「私がプレゼント見繕ってあげようか? 何ならみんなで買いに行く?」

有り難い申し出を市崎がしてくれたので、祐一は一も二もなく頷いた。

「……そうだな、お願いするよ」

「それなら、私がお茶を華乙ちゃんの所に出してくるから、その後にみんなで行こう」

祐一の肩を叩くと、ルールは新しいカップを棚からだし、華乙の部屋へ持っていった。外の日はもう落ち始めていたが、この辺りの治安はそれなりにしっかりしているし、何よりルールがいる。

外に出ると、かなり暗くはなっていたが、そびえるように六本の足で立つルール本体の威容は今だ充分である。デパートは走路を使わずとも大丈夫なほどの近くにある。都合がよい事に、デパートは丁度市崎のアパートと朝霧家の中間地点ほどにあって、地理は非常に良かった。

実際問題、毎年の華乙の誕生日は、祐一には苦痛だった。金を使うのが嫌だとか、そう言う意味では断じて無い。何をプレゼントにしたらいいのか分からないのだ。

普通の女の子ならまだしも、何しろ相手は華乙である。最新式のパーツを送った所で、サイボーグ化技術が日進月歩の今の世の中、すぐに時代遅れになってしまうのだ。人形やぬいぐるみなんて、何が可愛いのか喜ばれるのか分からないし、小物の類など祐一にとって異世界の物質である。どれが可愛くてどれが下品なのかも分からない。ルールは毎回自分で買い物していて、何を買うかは見せてくれないし、ヒントもくれない。更に華乙は自分の部屋で毎回プレゼントを開封するので、正体も分からないのである。

だから、祐一は市崎に頼る事を選んだ。その方が華乙にとっても嬉しいものが渡せると思ったからである。

デパートの中を歩きながら、祐一はスキップ加減に少し前を歩いている市崎に声を掛けた。ルールはルールで、すでにどこかへ一人で行ってしまった。

「市崎さん」

「うん? 何?」

「……出来るだけ、女の子が喜びそうなのをお願いするよ。 僕、そういうの全然分からないから」

「任せておいて。 ただ、私が選んだって事は、言っちゃ駄目だよ」

「? あ、ああ……」

祐一はこの台詞の意味を、すぐには理解出来なかった。

 

3,心の壁

 

ブレーキ音、それに続く衝突音。更には擦過音。嫌な予感を覚えた祐一が家を飛び出す。そろそろルールと華乙が帰ってくる頃であり、聞き逃すには危険すぎる音だった。左右を見回し、右で視線を固定させた。其処には、肩を押さえて立ちつくすルールと、それにブロック塀に倒れかかって身動きしない華乙、それに横倒しになったホバースクーターがあった。ホバースクーターの運転手は、目を回して地面に延びている。

「ルール! ルールッ! カイニっ!」

「私は大丈夫だよ。 ちょっと、対人コミュニケーションインターフェースが脱臼しただけ。 カイニちゃんも、びっくりして転んだだけだから」

「何があったんだ!?」

「その人が前を見ないでつっこんできたから、投げ飛ばしちゃった」

おろおろするばかりの祐一の前で、ルールは脱臼した右肩を自力ではめ直すと、もう十メートルはある本体を動かしてホバースクーターを軽々立て直した。華乙の頭から血が流れている事に気付いた祐一が家に飛び込んで、救急セットを持ちだす。呆然としているカイニがルールに助け起こされる。駆け寄り、救急セットを開けて消毒液を取り出そうとする祐一の手が止まった。

それまで、何が起こったか分からない様子で、華乙は呆然としていた。だが、恐怖にようやく見舞われたのか、その時ようやく泣き始めた。そして祐一ではなく、ルールに抱きついたのである。

「うああああああああああん! 恐かった、恐かったよぉおおおおおおおおお!」

「大丈夫。 もう何も、恐い事なんて無いよ」

「うああああああん、おねえちゃああああああああん!」

この時であったかも知れない。祐一の嫉妬が、完全な形になったのは。負い目が、はっきりとした存在感を取るようになったのは。

ルールは凄い。僕は情けない。華乙を守ったのはルールで、僕は何も出来なかった。華乙が心を取り戻す原因を作ったのだって、明るく喋れるようにしたのだって、全部、全部、全部ルールだ。僕は、一体、何のために此処にいるんだろうか。

祐一は無言で、拳を固めていた。華乙を抱きしめるルールの優しい笑顔。そんな笑顔、祐一に向けてくれた事など一度だってなかったからだ。はっきりした恋愛感情など抱いていないが、祐一は少しくらい、その笑顔を自分に向けてくれてもいいじゃないかと、この時確かに思った。

この時祐一は、華乙とルール、双方に、同時に嫉妬していた。それが汚い事だと言う事は百も承知していた。だからこそ、余計に罪悪感は膨らんだのである。

 

「……最近、良く見るな」

また昔の夢を見た事に気付いた祐一が、ベットの上で身を起こした。辺りは相変わらず機能的に散らかっていて、組み立て中のパーツが幾つか雑然と並べてある。昨日華乙の腕を見て、自分なりのアイデアがまた一つ浮かんだからである。

ドアが開き、抜き足差し足で華乙が部屋に入ってきた。ゆっくり祐一はベットの下に手を入れ、綺麗にラッピングされている箱を取りだした。そして華乙が口を開く前に、その眼前に突き出す。

「ほら、誕生日プレゼント。 おめでとうな」

「お、アニキ。 気が利くじゃん」

「良く言うよ。 毎年欠かさずあげてるだろ?」

「へへへっ、ありがと。 有り難く貰っておくよ」

照れくさそうに頭を掻いて、華乙は文句を言う事もなく、部屋に戻っていった。中身は小さなオルゴールで、非常に洒落た作りの箱形である。市崎が選んだものだが、確かに祐一の目から見てもかなりいいものだったので、奮発して買ってしまった。喜んでくれるはずだと、祐一は思っていた。その心が伝わったように華乙は結構嬉しそうにしていたので、祐一も多少気が晴れて、パジャマを着替えると居間に出た。今日は休日で、だが両親は今日もいない。どちらも非常に重要な仕事だとかで、留守にしているのだ。二人とも〈出来れば夜には帰りたい〉とか、居間のホワイトボードには残していた。誕生日でさえ、この有様である。この家の子供達がぐれなかったのは、ひとえにルールのお陰だと言い切って良い。

冷蔵庫を漁ってみるが、大した食べ物は入っていなかった。良く整理された冷蔵庫で、無駄な食べ物が殆ど入っていない。ケーキが入っているが、これは無論華乙の誕生日用だ。後でルールが来たら出すとして、何か今食べる物を探す必要がある。冷蔵庫を閉めると、祐一は棚を漁った。そこにはいつも、レトルトが幾つか買い置いてあるのだ。カレーのレトルトが二つあったので、それを取り出そうとした瞬間、後ろから声がかかった。

「ねえ、アニキ」

「ん? なんだ?」

「プレゼント、ありがと。 ……いつもの半分くらい嬉しいよ」

不可解な言葉に祐一は思わず振り向いたが、華乙はぱたぱたと居間へ走っていってしまった。そしてそれについて、以降一言も喋らなかった。

 

ケーキをルールと三人で食べて。簡単なパーティーをして。休日はすぐに過ぎてしまった。結局両親は帰ってこず、また華乙が多少いつもよりもテンションが低かったせいで、最終的な盛り上がりはどうしても欠けた。

華乙の台詞がどうしても祐一の中で尾を引き、学校に出ても多少彼は憂鬱を感じていた。二時間目の授業が終わって、頬杖をついていた祐一は、軽く肩を叩かれたので振り向き、悪友虹村の顔を確認した。

「ん?」

「どうしたんだ、朝霧。 ルールさんとまたトラブルか?」

「またって何だよ……。 残念だけど違うよ」

「そうなのか? なんだ、もしそうなら俺にもチャンスがあると思ったのにな〜」

虹村はルールに気がある事を隠そうともしない。当のルールはそう聞いても困ったように眉をひそめて笑うばかりだが、それでも諦めようとしない。この辺りのストレートさ、恋愛感情を隠さないおおっぴらさは、祐一が悪友に抱く好感情の一因だった。

「あまりルールを追い回すなよ。 あいつ怒るとものすごく恐いぞ」

「分かってるって。 俺もまだまだ死にたくはないからな。 ……で、だ」

冗談の中に真実を混ぜながら祐一が釘を差すと、笑いながら虹村は答え、そして不意に真面目な顔つきになった。

「何があったんだ?」

「……家庭の事情だよ。 喧嘩って訳じゃないんだけどさ」

「となると、華乙ちゃんか?」

「……」

華乙の言葉の意味は理解出来なかったが、喜んでいない事だけは祐一にも分かった。あの様子から、祐一の持つ罪悪感がまた喚起されて、憂鬱さを更に増幅していたのである。

「正直、あいつが何で怒ってるのか、何をしたら喜ぶのか、僕にはわからん」

「そんなもんだろ。 普通の兄と妹なんて、大概仲が悪いしな」

「そうなのかな。 じゃあ、あれが自然なのかな」

それに対して、何か虹村がコメントを返そうとした瞬間。教室のドアが跳ね開けられた。

「朝霧君っ!」

「市崎さん?」

「早く来て! 華乙ちゃんがっ!」

市崎の言葉に、祐一は椅子を蹴って立ち上がっていた。

 

華乙が通う市立七つが丘小学校は、七つが丘高校のすぐ側にある。市崎は案の定祐一より遙かに足が速く、遅れがちになる祐一の前で何度もせかした。

学校から転がり出た祐一は、上履きのままで、市崎が言うままに道路を走った。二つ目の交差点を通り過ぎた後、事件現場が見えた。辺りには人だかりが出来ていて、小学校の生徒達が目立った。道路に転がっているホバーバイク。道路に座り込んで泣いている女子生徒。引率の先生は落ち着いた様子で、子供達をなだめながら、同時進行で救急車に携帯電話で状況説明をしていた。接近に気付いて振り向いたルールに、汗だくで走り寄りながら、祐一は叫ぶ。

「ルール! どうしたんだっ!」

「……華乙ちゃんが、バイクに轢かれたの」

「ぐ……っ……! ああああっ!」

非常に辛そうな悲鳴が聞こえてくるのと、スパーク音が響くのは同時だった。

道路には華乙が仰向けに倒れていた。出血はないが、体をかなり強く打っているのは明かで、ぐったりしている。いつもの小憎らしい華乙からは信じられないほどに弱々しい姿だった。かろうじて意識はあるが、荒い呼吸の旅に冷や汗が流れ、痛々しかった。

「華乙! ぐっはあ!」

「救急車が来るまで揺らしちゃ駄目」

華乙に駆け寄ろうとする祐一を、華乙が右手一本で押さえた。丁度鉄のバーに腹から突撃するような形になった祐一は、地べたに膝をつき、激しく咳き込んだ。ルールはそれを見届けると、倒れている華乙の側に座り、左手を握った。咳払いした市崎が、祐一の隣で言う。

「落ち着いて、朝霧君。 それよりルールさん、何が起こったの?」

「野外実習に出ようとした時に、事故が起こったみたい。 飛び出してきたバイクから友達を庇って、華乙ちゃんが引かれてしまったみたいね」

「回復魔法とかってのは駄目なの?」

「駄目。 素人の回復魔法は、怪我を却って悪化させてしまうよ」

ルールは魔法種族ルフォーローである。それだけに、彼女の言葉には重みがあった。目をつぶり、冷静に情況を把握しようと務める市崎。対称的におろおろする祐一に、不意にルールが顔を向けた。

「祐ちゃん、お願いがあるの」

「な、何だよ」

「……華乙ちゃんの義手、出来るだけ体動かさないように外して。 出来る? もう、こっちに向かってる医療士さんの許可は取ったから、出来るなら、可能な限り急いで」

顔を上げた祐一は、ルールの言葉の意味を悟った。華乙の右手は潰れていて、スパークを時々発していた。そして、時々体の方にも蒼い光が走り、その度に華乙が悲鳴を上げていたのだ。

事故現場の状況から言って、華乙の右側からつっこんできたバイクが、右手義手を完膚無きまでに粉砕したのは疑いない。華乙の運動能力は良く言っても並程度だから、義手の頑強さを考慮しても無謀と言える。だが、一方で非常に勇敢な行動だ。少なくとも、とても祐一には真似が出来ない。また劣等感を感じ、俯き欠ける祐一の後頭部を、何かが猛烈にはたいた。

「バカッ! しっかりしなさいっ!」

「ぎゃふうっ! な、何するんだ……!?」

後ろで、鬼のような形相で立っていたのは市崎である。彼女は振り返りざまに言う。

「朝霧君、今私がダッシュで君の鞄取ってくる。 その間に、絶対心の準備しておきなさい! 華乙ちゃんを今楽にしてあげられるのは、君だけなんだよ!」

「……!」

「いい! 私が戻って来てもまだそんな顔してたら、絶対許さないから!」

 

救急隊員が駆けつけてきても、潰れた義手はどうにも出来ない。サイボーグパーツに関する技術はまだまだ別分野で、病院に常駐している有知識要員だって多くはないのだ。

それにしても見事なダッシュで市崎が走り去るのを見ると、祐一は決意を持って頷いた。側にいるルールに、彼は真剣な面もちで言った。

「すまない、華乙の手、握ってやっててくれ」

「うん」

眼鏡を直すと、祐一は義手の状態を確認した。潰れ、時々スパークが伝っている機械の腕は、人工皮膚が彼方此方で破れ、内部が露出している。恐らく内部蓄電池が暴走しているのが放電の原因であり、今の状態では腕を切り離すしか方法がない。祐一は冷や汗を流して、唇を噛んでいるルールの耳に口を寄せた。

「右手、切り離すぞ。 いいな?」

「い……いや……だ!」

「そうしないと、お前が危ないんだ」

「切り離したりしたら……一生……恨んでや……ゃあああああああっ!」

一際大きな放電が起こって、今までで一番苦しそうな悲鳴を華乙が上げた。手を握っているルールも痛かったはずだが、眉一つ動かさない。祐一は頷くと、もう一度耳に口を寄せた。

「切り離しは、どの形式だ?」

「う、恨むって、いってるだろっ……? バカアニキ!」

相当に余裕がないのは明かである。家の外では絶対に言わない呼び方で、祐一を呼んでいるのだ。

「僕はお前のアニキだ。 だから、恨まれても、お前を助けなきゃいけないんだよ!」

「……」

「形式は?」

「……アルファの14557−114」

祐一も聞いた事がない形式だった。だが、そんな事は検索すればすぐにでも分かる。焦った様子で、近くの大人が叫んだ。

「くそっ! 救急車はまだか!」

『救急車が来るまでには、絶対に外してやる。 今楽にしてやるからな……!』

祐一は顔を上げると、ルールに真剣な表情で言った。

「市崎さんが来たら、すぐに切り離す。 スパークで痛いと思うけど、右肩の少し下を押さえてくれ」

「うん。 ……大丈夫、華乙ちゃんに比べれば、そんなの全然痛くなんてないから」

「朝霧くーん!」

遠くから、疾走してくる市崎の姿が見えた。

 

以前華乙が右手を開けるのを見ていなければ、此処まで作業がスムーズに行ったかは疑わしい。だが一度見た以上、祐一にとって、開閉展開箇所は全て頭の中に入っていた。非常によく考えられた形式だが、一度見てしまえばどうとでもなる。それが技術者として、もう一線級の力を持つ祐一の特性だった。

ゴム手をした祐一は、幾つかの器具を使って、かなり強引に華乙の右手をこじ開けた。こじ開けると言うよりは、むしろ切り開くと言った方が正しい。ともかく、開いた右手の中身は、凄惨な有様だった。しかし衝撃を義手の中の機械達が受けてくれなければ、華乙の内臓が同じ目に遭っていたのである。

殆どの機器はぐしゃぐしゃに潰れていたが、幾つかは動いていて、稼働音を周囲に響かせている。この有様だと、神経接続が生きている以上、華乙が味わっている苦しみは文字通り地獄だ。パーツの中には何の用を為しているかさっぱり分からないものもあったが、今はそれに構っている場合ではない。また、特殊合金製の骨格はかろうじて無事で、祐一は胸をなで下ろしていた。

義手はどの形式でも、必ず物理的に外せるようになっている。だがそれは最後の手段である。神経接続を落とさないと、そのまま鉈か鋸で切ったも同然の痛みが義手装着者に走るのだ。意識朦朧としている今の状態の華乙にそれをやったら、ショックでどうなるか分からない。華乙は骨格の中に緊急切断処理装置を格納している。祐一は幾つかの回路を慎重にどけ、或いは不要な物は切断しながら、ごく短時間でそれを露出させる事に成功した。またスパークが走り、祐一は息を殺しながら、先ほど家のパソコンからポケコンに落とした、切断の形式について反復していた。

華乙は嫌に難しい方法で、神経接続切断形式を設定していた。市崎の義手などに見られる、展開と同時に落とせるような非常に簡単な形式よりも、四倍も五倍も手間がかかる方式である。非常に大雑把に言うと、華乙の義手の場合、展開と神経接続切断が別になっているのだ。これによって痛覚と連動した、より細かい作業に適した環境を作り出している。だがこれは、超上級者向けの仕様であり、まず一般に生活している分には見る事はない。それにしても、幾ら何でもこの仕様は玄人仕様過ぎる。この様子だと、救急隊員が来ても、文字通り何も出来ない。下手をうつと、麻酔を注射して、腕を接合面で切り落とす事になった可能性さえ有る。

ポケコンをつないで、慎重にコマンドを入力しながら、何度も祐一は汗を拭った。幸いパスワードはパソコンの中にあったが、ダミーのコマンドが幾つも提示され、一つでも引っかかると最初からやり直しである。今の状態は、やり直しは正に命取りである。何度もパスワードを確認しながら、祐一は慎重に一語一語打ち込んだ。凄まじい集中力が、祐一の指先の神経までをも、完璧に操作していた。

「よし……! これで終わりだ!」

最後のパスワードを打ち込み終わると、しつこく稼働していた神経接続がシャットダウンされた。そして幾つかのコマンドを追加で打ち込むと、接合面から小さな音がして、数本の金属棒が露出した。それを慎重に引き抜くと、義手は腕から切り離され、力無く地面に転がった。祐一は汗を拭い、嘆息した。この接合解除システムが生きていなかったら、ドライバーとモンキーレンチで、物理的に外さなければならなかったからである。そうすれば更に手間がかかった事は疑いない。悲惨な事故であったが、これは不幸中の幸いであった。

まだスパークが走っている義手に、触らないように祐一は周囲の人達へ注意を促した。祐一の手際の良さは、周囲の喧噪を沈黙させていた。だが別に、祐一がそれを誇らしく思う事はなかった。彼は華乙を助けられた事だけで、充分だったからである。

救急車が到着したのは、丁度その時だった。

「やったね、朝霧君」

「ああ……」

担架で運ばれていく華乙を見て、尻餅をついた祐一は、市崎のねぎらいを受けながら嘆息していた。自分だって相当痛かっただろうに、ルールは肩を叩いて、笑顔を向けてくれた。以前華乙を抱きしめた時にしていたような、柔らかく暖かい笑顔を。

今までずっと心の中で抱えていた嫉妬が、この時薄れていった。確かにそれを、祐一は感じていた。

 

4,壁の内側

 

22世紀になっても、病院の存在は相も変わらず重要である。新しく入ってきた技術である魔法が少しずつ浸透し始めているが、魔法は万能の力ではないし、まだまだ科学技術との融合は発展途上である。である以上、一般の病院は、まだまだ科学技術に頼りがちであった。無論大病院の中には、ルフォーローと協力態勢を取り、超一級の魔法医療を導入している所もあるが、まだまだ少数なのが現状だ。何にしても、華乙が収容されたのは科学技術に頼る形式の病院であり、なおかつそれで充分だった。

華乙の病室は個室で、良く整理された小さな部屋だった。部屋にはテレビがあり、華乙がわがままを言って作業台も持ち込んであった。普通ならぬいぐるみやら人形やらが列びそうな所だが、そういった物は一個もない。代わりにあるのはマニアックな数々のサイボーグパーツと、工具と、それにそれ関係の雑誌ばかりである。

その中で唯一目を引くのは、シルクで出来た赤いリボン。それに窓際に置いてある、祐一がプレゼントしたオルゴールだった。リボンはどうにかして短めの髪に付けてみようと四苦八苦した跡があり、でもアイロンがけされて、大事そうにたたまれていた。

華乙は命に別状無く、病院で早速憎まれ口を叩く余裕さえ見せていた。だが強がりは、しょせん強がり。体はやはりかなり傷ついていて、一週間ほどの入院が決まり、病室に見舞いに来た祐一に向け言った。

「あたしの右手、よくもまあぐちゃぐちゃに切り刻んでくれたね。 復旧に凄く時間かかっちゃうよ」

「ごめんな、華乙」

「……いいよ。 ルールちゃんもアニキも、あたしんこと助けてくれたんだから。 ルールちゃん、すごいなあ。 あたしじゃあ、足下にも及ばないよ。 あたしなんか、ちょっと真似しただけでこんな怪我しちゃって、迷惑かけて、情けない」

そう言う華乙の右腕には、スペアだという義手が収まっていた。ベットの脇には、潰れた義手が大事そうに置いてあり、既に修理が始まっていた。これを本気で直すつもりらしいことは、傍目にも明かである。だが華乙の技術で有れば、不可能ではない話だ。

帰りかけた祐一だったが、華乙は引き留めた。

「ねえ、アニキ」

「うん?」

「あ、あのさ。 義手の中に、変なもの無かった?」

「変なものだらけだったよ。 僕も知らないパーツが幾つもあった」

その返事を聞いて、何故華乙が胸をなで下ろしたのか、最後まで祐一は分からなかった。華乙はいつもでは全く見られない優しい目で、更に言った。

「それとさ、ごめんね。 あんな酷い事言って」

「気にしてないよ」

 

ルールは祐一の家族である。だからこそ、彼女に相談できないこともある。昔は、そう言った話は、虹村に相談する事が多かった。だが今は、市崎に相談する比率が増え始めていた。これは虹村を嫌いになったのではなく、複数回の行動によって、市崎に対する信頼度が増したからだ。

放課後、帰り道。今日はルールが病院に寄る事になっていて、祐一は先に帰っていた。先に帰ると言っても、ルールに指示された食材を、スーパーで買いながらである。その途中で会った市崎に手伝って貰いながら、祐一は言う。

「僕、ようやく彼奴にアニキらしいことしてやれたかな」

「? この間の、義手の事?」

「今までルールに良い所全部取られてたからさ」

市崎の食材選びは的確で素早い。この辺りは、流石に一人暮らしをしているだけの事はある。安くていいものを、ほいほいと籠に入れていく。いつもの半分の時間で買い物が終わり、帰り道を歩きながら祐一は続ける。

「僕にも、彼奴に出来る事があるって分かって、ほっとしたよ」

「何言ってるかな、このシスコンバカアニキは」

「ぐふあっ!」

市崎に右手で背中をはたかれて、思わず祐一は前のめりに転ぶ所だった。

「私から言わせると、君達、並の兄妹より、ずっと兄妹らしいよ。 何でプレゼント選んだ時、私が選んだって言っちゃ駄目って釘差したか分かる?」

「げほっげほっ! い、いや、皆目見当が……」

「見当がつかないでか。 いい、一度から言わないから、良く聞いてよ」

息を飲み込んだ祐一に、ポニーテールを揺らして、市崎は快活なウィンクをした。

「ま、多分、だけどね。 あの子は、華乙ちゃんは誕生日プレゼントが欲しかったんじゃないよ。 ルールさんとアニキに貰うプレゼントが欲しかったんだよ」

「……そうか」

「思い当たる節があるでしょ?」

「うん。 彼奴、市崎さんが選んだって事、気付いてたよ。 いや、市崎さんは悪くないよ。 本当なら、市崎さんに全部任せないで、アドバイスだけにしておけば良かったんだ」

この時祐一は、やっと半分だけ嬉しいという言葉の意味を悟った。市崎の言葉が正しければ、全てに合点がいくのだ。

自分は思っているよりも、ずっと妹に慕われていた。必要な存在と思われていた。それを知った祐一は、大分心が楽になっていた。

「来年は、僕が自分で、彼奴が喜びそうなもの選んであげないとね」

「じゃあ、今のうちに、審美眼を磨いておかないと」

「技の伝授をお願いします、師匠」

「高くつくぞ、不肖の弟子よ」

後は明るい笑い声が、夕焼けの帰り道にこだましたのだった。

 

祐一が家に戻ってからしばしして、ルールがチャイムを押した。家に入ったルールは、いつものように冷蔵庫の中を確認すると、祐一に指定しておいた食材を取りだし、料理を始める。リズミカルに包丁がまな板を叩く音がして、祐一は安心した気分でテレビを見ていた。テレビといっても、ニュースでもドラマでもアニメでもなく、衛星放送のマニアックな技術解説物である。しかしながら、実際問題これでも祐一や華乙には若干物足りない内容だ。

「祐ちゃん、ちょっといい?」

「んー? なんだ?」

「華乙ちゃん、予定より少し早く退院出来るって」

「そうか、それは良かった」

手早く料理をしながら、なおもルールは言った。鍋の中で、何やら煮る音が、祐一の所まで響いてきていた。

「退院出来たら、お祝いの料理作ろうね」

「……そうだな」

「おじさんとおばさんも、一緒に食べられると良いね」

「……そう……だな」

祐一は無関心なふりを装いながら、心の中にて呟く。

『僕と親父と母さんだけじゃない。 お前がいなきゃ、華乙は悲しむよ』

以前ならカウントしていなかった〈家族〉の中に、祐一は自分を自然と入れていた。もう醜い嫉妬心は、残っていなかった。

「なあ、ルール」

「うん?」

「赤いリボン、お前のプレゼントか?」

「そうだよ。 華乙ちゃんにも、そろそろお洒落が必要でしょ?」

どちらかといえばインドア派の華乙だが、それでもリボンだのスカートだのをつけている姿は全く想像出来なかった。髪は短めだし、インドア派なのに手足共に健康的だ。

「それより、祐ちゃん。 華乙ちゃんに最初にあげたプレゼントの事、覚えてる?」

「何だっけ?」

「おじさんとおばさんと、祐ちゃんで、一緒に買ってあげたでしょ?」

どうしても祐一は、その時思い出せなかった。考え込む祐一に、料理を続けながら、ルールは言った。

「華乙ちゃん喜ぶから、思い出してあげてよ」

「……努力してみるよ」

 

しばし時が経って。頭をひねって考え続けていた祐一は、はたと顔を上げ、右手を叩いていた。

「そうか……思い出した」

義手。それを祐一が思いだしたのは、夕食が終わり、ルールが自宅〈隣〉に帰ってからの事であった。

そう、最初のプレゼントは義手だった。父が金を出し、母が設計し、祐一が四苦八苦して組み立てたのだ。あまり嬉しそうな顔はしなかったので、すっかり忘れていたが、今になって思えば、あの最初の義手のパーツを、今でも使っていた可能性がある。そう考えれば、手を切り離そうとした時の反応だって、説明が付くのだ。

ルールはちゃんとそれを知っていたのだ。作った本人でもないというのに。

「かなわないな……」

何度目の呟きか分からない。だが祐一は、またそう呟いていた。ルールは彼にとって、永久にかなわない姉だった。

 

5,再びの日常

 

閃光が奔る。

「うがぎゃああああああああああ!」

そして、朝霧家に、朝の絶叫が響き渡った。絶叫の主は祐一。させた相手は華乙。ベットの上で痙攣している祐一を見下ろし、華乙は義手につけた細かいダイヤルを露出させ、左右に回していじっている。

「おかしいなあ、また少し電圧が足りない」

「か、華乙〜! お、ま、え、なああああ!」

「あー、おにいたま、生きてたんだ

「あっさり死んでたまるか! 着替えるから出てけ!」

「はーい」

全く懲りた様子がない華乙が、あっさり修復した例の義手をつけている妹が、舌を出して部屋を出ていった。だが以前と違って、ただ苦笑するだけに祐一は止めていた。小汚いクローゼットから、これまた綺麗とは言い難い制服を取りだして着替えると、祐一は居間に出る。今日は珍しく家族が全員揃っていて、賑やかな朝食だった。

あまり美味しくない朝食を口に入れ終わると、さっさと髭を剃る。これでもカイゼル髭の父豪三に比べると、随分手間が少ないのだ。適当に頭と顔を洗って一応の体裁を整えると、タイミング良くチャイムが鳴った。

「ゆうちゃん、ルールちゃん、来てるわよ」

「分かってる」

「アニキ、行ってらっしゃい」

驚いた祐一は振り向いた。そして笑顔の華乙を確認して、小さく頷き、言った。

「行って来るよ」

 

ルールと歩きながら、忘れ物を確認する。いつものように少しある忘れ物を、ルールに貸して貰う。鞄から数学の教科書を出しながら、ルールは言う。

「祐ちゃん、嬉しそうだね。 何か良い事あったの?」

「ああ、ちょっとな」

「ふふ、その笑顔は華乙ちゃんだね」

「相変わらず鋭いなあ」

苦笑しながら、祐一は笑顔のルールから、教科書を受け取っていた。もうかなわない事を、素直に認めているから、受け入れられる事であった。

「おーい!」

遠くから、二人を呼ぶ声が響いてくる。祐一とルールが振り向くと、手を振りながら駆けてくる市崎の姿があった。

また、祐一の日常が、平和な日々が始まった。

 

(続)