螺旋学校

 

序、二人の苦学生

 

22世紀には珍しい、脆弱な作りのプレハブアパート。21世紀の頃とは多少位置がずれている首都圏の中でも、どちらかと言えば貧しい者達が暮らす一角に建つそのアパートは、日の出荘と言う名を持っていた。壁は薄く、洗濯機は共用。ただ、治安だけはある程度保証されているので、女子学生が一人住むにも問題はなかった。

時代は進み、ロボット工学やサイボーグ技術が進歩しても、精神文明との平和共存が始まっても、人の生活は変わらない。日の出荘の一室で、その女子高生は、彼女とその両親が写った写真に手を合わせていた。

ポニーテールの快活そうな娘の名は、市崎閃と言う。今日から市立七つが丘高校へ通う予定の、高校二年生だった。

「じゃあ、お父さん、お母さん、行って来るね」

市崎はもう一度だけ写真に振り向くと、1LDKの、小さな自分の城を後にした。彼女が、自分の時計が遅れており、遅刻寸前だと気付くのは、その五分後の事であった。

苦学生の朝が、今日も開けた。

 

ナシュート=ルールティアンは、気温が上がってきたのを感じ、目を覚ました。年と共に大きくなる彼女の体は、支給された休息用の家にそろそろ収まらなくなりつつある。交換留学生と言う立場であるし、そもそも生物的なサイズが人類とは違うのだから、あまり文句を言うわけにも行かないのだが、難儀な事ではあった。程なく精神的にリンクしている(半物質化立体映像構築魔法)によって作り上げた(対人コミュニケーションインターフェイス)も目を覚ます。分かってはいる事だが、殆どの人間が此方としかコミュニケーションを取ろうとしない。時々、仲間達がいるという(フォルクスト)の事を思いだして、少し寂しくなってしまうのは仕方がない事だった。

彼女と一緒に暮らしている老夫婦はとてもいい人だが、朝に弱いのが玉に瑕である。それに、隣に住んでいる幼なじみの朝霧祐一も。いろんな人達を起こして回るのが、彼女の日課だった。

「たまには、ゆっくり寝ていたい」

ぼそりと漏らした本音は、誰の耳にも届かなかった。だが、別にそれで構わなかった。

人類社会で暮らす、異界の学生の朝は、今日もゆっくりと流れていった。

 

1,平穏なる日々

 

朝霧祐一にとって、夢のような光景だった。懸想している先輩の陽山恵が、彼の事を好きだと言ってくれたのである。クールなモデル系美人の陽山は、女神が着るような美しい衣装に身を包んで、普段だったら絶対浮かべないような優しい笑顔で、彼に言う。

「ずっと、私は君の事が好きだった」

「ほ、本当ですか先輩っ!」

「ああ。 その証拠に、願いを一つ叶えてやろう。 次の二つから十秒以内に選べ。 一、電気ショックで今すぐに起こす。 二、電気ショックで今すぐたたき起こす」

「は? はい?」

呆然とする祐一の前で、容赦なく陽山は大理石で創ったかのような美しい指を折り始めた。そして、カウントは無情に切れた。口を尖らせて、心底残念そうに陽山が言う。

「ぶっぶー。 時間切れー」

次の瞬間、祐一の全身を、強烈な電気ショックが蹂躙した。

 

「うぎゃああああああああああああああ!」

全身を駆けめぐる電撃に悲鳴を上げた祐一は、今の出来事が夢だった事、更にはベットの横に誰かが立っている事に気付いた。チョコレート色の肌をした、血のつながらない妹の華乙(カイニ)が。華乙は機械化している右腕の器具をいじりながら、唇を尖らせて、物騒な事を呟く。

「ちっ。 出力が足りなかったか。 もう少しで馬鹿アニキを黒こげに出来たのに」

ベットからずり落ちながら、祐一は妹の足を掴んだ。そして、その辺に転がっている眼鏡を掛けながら言う。

「華乙ー! 僕を殺す気かー!」

「あー、おにいたま、起きてたんだー」

「何がおにいたまだ! 着替えるからさっさと出てけ!」

「はーい」

空とぼける華乙を睨むと、ぶつぶつ文句を言いながら、祐一は起きあがった。散らかった部屋から、(起こしに来た)と主張する妹を追い出し、着替えを始める。戦災孤児である小4の華乙は、昔はまるで人形のように大人しかった。だがいざ環境に慣れてしまうと隠していた本性を発揮、現在は祐一にとって恐怖の破壊者と化していた。祐一と同じようにロボット工学やサイボーグ化技術に造詣が深い華乙は、戦争で失った右手を自分で好き勝手にカスタマイズしており、電気ショックやら対人レーダーやら物騒な機能を山ほど付けているのだ。今朝の行為も、それの実験に間違いなかった。

小汚い制服をこれまた小汚いクローゼットから引っ張り出して着替えると、欠伸をしながら祐一は部屋を出る。既に朝食は準備されていて、寝ぼけ眼をこすりながら、祐一はテーブルに就く。カイゼル髭を時々いじりながら、新聞を見やる退役軍人の父。なにやらスローペースで朝食を口に運び続ける、おっとりした容姿の、ロボット工学の権威にはとても見えない母。小4にしてロボット関係のマニアックな雑誌を買いあさり、心底楽しそうに目を通し続ける妹。いつもの朝の光景であった。各自が好き勝手な事をしているようにも見えるし、事実その通りなのだが、全員揃っているだけましだという物だ。

あまり美味しくない朝食を口に運びながら、祐一は家族用の伝言板を見た。母は今日、学会での発表があるため夜遅い。父は軍人時代の友人と会うとかで、今日の夕方から出かけて明々後日まで帰ってこない。また、幼なじみのルールに頼んで夕食を作ってもらうか、レトルトで我慢する事になりそうだった。華乙の料理は食べられたものではないし、ロボット以外の事ではてんで不器用な祐一は、レトルト以外にまともな食事を作れなかった。

最近は数日に一度髭を剃らないといけなくなってきたため、朝に行う動作が増えて祐一は憂鬱だった。元々興味の湧く事以外には、あまり労力を裂きたがらないタイプなのだ。これはこの一家全員に共通している事で、故に家の中は慢性的に散らかっていた。この家は、ルールが隣に住んでいなかったら、既にゴミ御殿と化している可能性が高かった。

食事を手早く胃に押し込むと、電動カミソリで髭を剃りながら、祐一は時計に目をやった。もう、そろそろルールが迎えに来る頃だ。良くしたもので、祐一がそう思った次の瞬間、チャイムが鳴る。鏡を見て一応剃り残しがない事を確認する祐一に、背後から母が声を掛ける。

「ゆうちゃん、ルールちゃんが迎えに来たわよ」

「分かってるよ。 今行く」

洗った顔をタオルで拭くと、とる物も取り合えず祐一は玄関に出た。普段大人しい分、本気で怒らせるとルールは怖いのだ。冗談抜きに、こんな小さな家など粉々に破壊される恐れがある。頼りになる幼なじみであると同時に、一切逆らえない相手でもあった。

「いいなー、アニキ。 あたしももう少し年が近かったら、ルールちゃんと一緒に学校いけたのに」

「そんないいもんでもないぞ」

祐一は呟く。実際問題、男友達には冷やかされるし、ある程度は気を遣わねばならないし、彼にはそれなりの負担だった。つきあいが長い事だけあり、大体の事は腹を割って話せる。だが、それでも感覚がそもそも違うので、時々なんでもないように思える事で怒らせてしまったり、落ち込ませてしまったりするのだ。人間でも男女間では意志疎通が難しいが、そもそも異種族間では更に難しいのは当然だった。

若干の距離を置いている祐一に比べ、華乙はルールにべったりである。実のところ、家族よりも先に心を許した相手なのだ。良くしたもので、ルールも華乙を可愛がっていて、態度は祐一よりも甘い。それが若干不満な祐一は、華乙の年が離れていて良かったと心の何処かで思っていた。

靴を急いではいてドアを開けると、案の定ルールが待っていた。正式の名はナシュート=ルールティアン。背は若干祐一より低め、ごく大人しそうな容姿の幼なじみである。そして彼女の後ろにて、六本の長大な足で地面を踏みしめ、祐一を見下ろしているのが、ルールの本体だった。体長十四メートル、体重八百二十七キロに達する、ナナフシによく似た生物である。人類が始めて接触した文明を持つ異種族、(ルフォーロー)であった。あまりにも人類とは姿が違うので、(半物質化立体映像構築魔法)という技術で、今祐一の目の前にいるような、(対人コミュニケーションインターフェース)を創り、人類とのコミュニケーションを円滑にしているのだ。最初は街の人々もおっかなびっくりで接していたが、最近は皆慣れたもので、ごく普通に受け入れられていた。一部には露骨な差別を投げかけてくる連中もいたが、それはあくまで一部だった。最も、それにはこの国が、世界間戦争であまり被害を受けなかったという事情も大きいのだ。

ショートボブの髪を揺らして、対人コミュニケーションインターフェースの方のルールが笑みを浮かべる。本体の方は、微動だにしない。祐一が聞いた話では、両者は精神的にリンクしているそうで、どちらも(本人)なのだそうだ。

「おはよう、祐ちゃん」

「おはよう。 ごめん、待たせた」

「少し急がないと、遅刻しちゃうよ」

「分かってる」

少し急ぎ足で、祐一は家を出た。

 

少し急ぎ足で歩きながら、ルールは笑顔で色々な事を言った。いずれもが今日の授業に関する事で、忘れ物の有無を確認する作業だった。今更、この二人の間に、艶っぽい言葉も何もない。むしろルールは、殆ど祐一の姉と言って良い存在だ。

「小型机上魔法陣は?」

「あいた。 忘れたな、それ」

「ほら、そう言うと思って、予備持ってきたよ」

「ごめんな」

びっしり記号が書き込まれた小さな六角形の紙をルールが差し出す。人間世界にいわゆる(魔法)が浸透し始めたのはつい最近の事である。そしてこの魔法こそが、祐一が最も苦手な科目だった。魔法というのは本来非常に理論的な物で、理詰めで理解出来るようになってはいるのだが、元々興味が湧かないので赤点を突破するのも一苦労なのだ。ただ、祐一は成績が全般的に悪く、魔法だけが苦労の種ではなかった。

一応他には忘れ物がない事が確認され、一旦話は止んだ。話を再開したのは、ルールからだった。

「ところで、一ついい?」

「なに?」

「三時方向から、何かが急速接近中だよ」

そう言って、十字路にさしかかった瞬間、ルールは器用にそれを避けた。祐一は避けきれず、出会い頭にもろにぶつかった。悲鳴が二つ上がり、ぶつかってきた何かと折り重なるように、押し倒されるような形で祐一は転んだ。

「きゃあああああっ! い……いったあ……」

「いてててて……だ、大丈夫?」

「だ、大丈夫……」

下敷きになった祐一が立ち上がろうと、ぶつかってきた何かを押しのけようとした。それは同じ高校の制服を着た女子生徒だった。心配する言葉に、女子生徒はしばし硬直し、やがて悲鳴を上げた。その理由を悟って、祐一は蒼白になった。彼の右手が、女子生徒の左胸部を掴む形になっていたからである。

い、いやぁああああああああああああぁあああぁああ!

「あ! あ……あの……ごめ……」

バカーッ! 最低! 変態ッ! 天誅ーッ!

「ふぐ! ぐふっ! はぐふうっ!

マウントポジションのまま、女子生徒の往復ビンタが嵐の如く祐一の頬を打ち据えた。車に轢かれた蛙の如く地面に延びた祐一に、更に女子生徒は拳を振り上げた。祐一には一目で分かった、その右手が、機械化されている事が。相手はパニックに陥っているとはいえ、流石にそれは許容出来ない。機械化されている腕で、本気で殴られたら、流石に奥歯の二本や三本持っていかれる可能性がある。祐一の心を、緩慢に恐怖が侵略していく。だが、体の方が間に合わない。危機一髪の瞬間、降りおろされんとした機械の手を、冷静なままルールが掴んでいた。ぎしりと凄い音がしたが、凶器は微動だにしなくなった。女子生徒は、こわごわとルールを見上げる。ルールは穏やかな口調でありながら、鋭い眼差しをしていた。

「やりすぎ。 ぶつかってきたのは貴方だし、祐ちゃんに悪気はないし、もう勘弁してあげて」

『た、たすかった……』

心の中でルールに感謝しながら、祐一は意識を失っていた。

 

それほど長時間意識を失っていた訳ではなかった。祐一がルール本体の背中で目を覚ましたときには、十分も時間が過ぎていなかった。ただし、もう遅刻は確定である。普通ならば。

「祐ちゃん、起きた?」

「ああ……酷い目にあったよ……」

祐一が顔を上げると、周囲の光景が後ろへ高速でかっとんでいた。長大な足をせわしなく動かして、ルール本体が学校へ急いでいるのだ。対人コミュニケーションインターフェースはと言うと、本体頭の上あたりに腰掛けて、周囲に気を配っている。実際この大きさで踏まれてしまうと、冗談ではすまない。本体は器用に植木鉢やら猫やらを避けながら歩いているが、間違いがないとは言い切れないのだ。

「この辺りはまだ学生が少ないから、時間稼ぐよ」

「悪い」

「いいってば。 仮にも群生個体を放っておけないから」

さらりと言われて、祐一は複雑な表情をした。群生個体というのは、ルフォーローの習性で言う群れの一員の事である。ルフォーローは数体の群れを常時創る性質があり、その際仲間になる個体を群生個体という。仲間意識が強いルフォーローは、群生個体が危険にさらされると別種の生き物のように激しい攻撃をする事があり、ルールに関してもそれは例外ではなかった。ちなみに、人間で言う配偶者の事を、ルフォーローでは配偶個体と言う。これらは文化風習以前の、生物的な特徴なので、人間社会で育ったルールの中でも健在なのである。ただ、群生個体や配偶個体といった用語をルールが使い始めたのは、ここ最近の事だった。

「あの子は?」

「気まずそうに、学校へ走っていったよ」

「……悪い事したかな」

「そうだね。 でも、事故だから仕方がないよ」

痛む頬を押さえて、祐一は見る間に近づいてくる学校を見やった。そろそろ生徒が増えてきたので、ルールはスピードを落とし始めた。何とか、遅刻はギリギリで免れそうだった。

対人コミュニケーションインターフェースは、器用に本体頭と高度が近い塀の上に飛び降りて、其処から危なげなく地面に降りた。しかも、スカートがめくれないように、器用に押さえながらである。当然祐一にそんな華麗な真似は出来ないから、出来るだけ本体に体を低くして貰って、塀にしがみつくようにして何とか降りた。よれよれのシャツが更に汚れたが、これは仕方がない事だった。ズボンは何カ所かすり切れたかも知れないが、それもまた仕方がない。いずれにしても、元々綺麗な制服ではない。

「走ろ」

「元気だな」

「そう?」

ルールには逆らえず、祐一は走る。何にしても、今は走る必要があったからだ。

 

一年の時は、祐一とルールはクラスが同じだったのだが、現在は同じ階の端と端である。まだ多少痛む頬を押さえながら教室に入る祐一は、人だかりが出来ているのに気付いた。女子を中心に、誰かを囲んでわいわいとはやし立てている。席に着きながら、其方を見やる祐一を、悪友の虹村健が小突いた。虹村は特徴のない青年で、自堕落に刹那を生きる典型的な一般高校生だ。

「ギリギリセーフだったな、朝霧。 で、何だその頬は。 さては浮気でもして、ルールさんに殴られたか?」

「ちげえよバカ。 で、あの騒ぎは?」

ルールを怒らせたら、こんな傷で済む物か。そう内心で呟きながら、祐一は話を逸らす。案の定、虹村は簡単に乗った。

「例の転校生だよ。 結構可愛いぜ」

「へえ。 どれどれ」

無論祐一も今日転校生が来る事は知っていたし、可愛い娘などと聞けば普通の男子高校生である以上自然と反応してしまう。しかしながら、人混みへ視線を移した彼は、一瞬後に悪夢を体感していた。女子生徒達に囲まれて、色々と話をしていたその転校生も、最悪のタイミングで祐一へ視線を移した。二人の視線が交錯した。一瞬の空白の後、転校生が椅子を蹴って立ち上がった。そう、先ほど激突した女子高生こそが、転校生だったのである。改めてみると結構可愛い娘だが、今は災厄の運び手以外の何者でもなかった。少し短めのポニーテールを左右に揺らしながら、転校生は祐一を指さした。

あーっ! アンタはっ!

「……あ、あう。 さっきは、どうも……」

今朝の痴漢っ!

「ち……ちかんっ!? ち、違うっ! 誤解だっ!」

蒼白になって首を横に振る祐一であったが、それが事態を更に悪化させる。血相を変えた女子生徒達が、祐一を非難の大合唱で責め立てた。

「痴漢ですってええ!」

「何、アンタそんな事したの!? 最低ッ!

「おおー。 結構お前もやるもんだな」

「なんでアンタがこのクラスにいるのよっ!」

勘違いした虹村による形容しがたい口調での言葉と、転校生の追加非難を聞きながら、祐一は頭を抱えていた。

「じ……人生最悪の厄日だ」

今までに何度と無く呟いた言葉が、自然と祐一の口から漏れ出ていた。これから誤解をとくために必要な労力及び、その間浴びせられる根も葉もない非難を考えると、彼の気分は地獄の底まで一息に転落していたのだった。

 

2,不幸な男

 

ホームルームで、転校生は市崎閃と紹介された。市崎は笑顔を作る事になれていると一目で分かる、笑い上手だった。あか抜けた笑顔を作りながらも、視線は決して祐一とはあわせようとせず、市崎は言う。

「市崎閃と言います。 よろしく御願いします」

憮然と頬杖をつきながら、祐一は見守った。クラスメイト達から、すぐに質問の集中砲火が市崎に浴びせかけられる。彼女は全く危なげなく、それを捌いていく。

「何処に住んでるの?」

「北区です」

「趣味は何?」

「今はやっていないんですけど、バイオリンを少々」

教室のテンションが上がるに連れ、質問は徐々に際どい物も混じっていく。時々担任の賤ヶ岳が心配げに視線を向けるが、市崎は全く動じない。先ほどの事例から総合的に考察すると、直接的な危機に会わない限り平気なタイプなのだと誰にでも分析可能である。無論、祐一もそう分析した。

「彼氏はいるの?」

「秘密です」

「好きな異性のタイプは?」

「頼りになる人かな」

「つき合うとしたら、どんな男?」

「うーん、頼りになる優しい人なら」

男に媚びを売るでもなく、恥ずかしがるでもなく、笑顔のまま平然と質問を捌くその姿は結構大した物である。ただ、流石に露骨すぎる質問には、笑顔のまま眉をひそめていた。敵ながら、なかなか大した奴。それが、ホームルームを通して祐一が感じた、市崎の印象だった。

別に女子にもてるわけでもなく、親しい女子が沢山いるわけでもない祐一は、その後はごく自然に授業を消化した。時々クラスメイトに先ほどの(痴漢発言)についての見解を求められたが、真面目に応えるのも馬鹿馬鹿しいので、適当に流した。無論誤解を広げてしまうのもなんだから、親しい数人には真相を話したが、信用されるかどうか、祐一には自信がなかった。大体、彼も悪い事はしたと内心で思っていたので、罪悪感からもあまり力一杯否定はしたくなかったのだ。祐一の考えていた事は、ごく紳士的な事だったが、それが市崎に伝わるかはまた別である。昼休み前後まで、市崎は祐一と視線を合わせる事もなく、両者の間には見えにくいながらも隠然とした溝が存在していた。もうクラスメイト達と仲良くなっている市崎と、今後は普通に接する事が出来るのか。祐一はそれを考えて、もう一つひっそりため息をついたのだった。

 

昼休み、祐一は気持ちを切り替えて、弁当を早めに胃に押し込んだ。今日こそ、成し遂げたい事があったのだ。

現在、祐一は三年六組に在籍している陽山恵に懸想している。今までも懸想した女子はいたのだが、陽山は明らかにそれらとは違っていた。長身のモデル系美人である陽山は、高校生離れした大人っぽい容姿を持っており、非常にクールな雰囲気が下級生には人気である。どういう訳か同級生にはあまり人気がないのだが、そんな事は祐一の知った事ではなかった。夢に見るくらいだから、祐一は本気で陽山を想っていたのである。

祐一は陽山に懸想していたが、その理由については本人でもよく分かっていなかった。容姿が彼好みだというのは一つにあるのだが、それだけではないのも事実である。一つ言えるのは、陽山が周囲にはいないタイプである事である。それが祐一の心を引きつける原因の一つである事は、ほぼ疑いがない。

陽山はこの時間、次の時間で体育などをやる場合を除いて、二三日に一度は屋上で本を読んでいる。二週間も掛けて一生懸命書いた恋文を懐に入れると、何故か周囲を伺った後、祐一は教室を出た。屋上の戸の前で二度呼吸を整えると、冷たいノブをまわして、おそるおそる屋上へ足を踏み入れる。案の定、調査通りに陽山はいた。何故かすぐに物陰に身を隠して、祐一は呼吸を整える。たっぷり十五秒ほど深呼吸した後に、歩き出そうとした祐一の真上から、声が被さった。

「朝霧先輩、何をなさっているのですか?」

「ひ、ぎゃああああっ!」

思わず悲鳴を上げた祐一が振り向くと、其処にはホワイトピンクに塗装された、円形の機体がいた。体の左右からは細くて節くれ立った足が八本生えていて、器用に屋上のフェンスからぶら下がっている。機体上部には幾つかの器具と、指状の突起が幾つも生えているロボットアームが二本延びていた。ロボットのようだが、実は違う。祐一の後輩である、由原奈三である。彼女は数少ない、祐一と親しい女子生徒の一人だった。

火事で小学生の時全身の殆どを失った由原は、奇跡的に無事だった脳と脊髄神経を機体に移植して生きているサイボーグである。機体を設計したのは祐一の母である朝霧静流であり、その関係で親しいつきあいが続いているのだ。

由原は器用にフェンスから降りると、竹刀を振るような鋭い音と共に、自らの上に立体映像を具現化させた。映像自体は、おかっぱ頭の、小学生くらいの女子である。ただし、制服は七つが丘高校の物だ。妙な丁寧語が、同級生よりもむしろ大人に好かれそうな女の子の映像から出てくるのは違和感がある。だが、元々良いとこのお嬢様である由原にはそれが普通の事だと、以前祐一は聞いた事があった。

「お、脅かすなよ、由原」

「脅かすなよって、私ずっと此処におりました。 先輩こそ、こんな所に一体何をしに参られたのですか?」

腰に手を当て、立体映像の由原は探るような視線を祐一に鋳込んでくる。返答に困った祐一は、言葉を詰まらせた。

「え、えっとな、その……秘密だ」

服の上から、隠してある恋文に触れると、こわごわ祐一は陽山へ視線を移した。幸い、陽山は一流の芸術が如く洗練されたポーズで本を読み続けており、此方には注意を払っていない。うっすら目を細めると、由原は手を打つ。そして、ストレートに図星を打ち抜いた。

「何だ、先輩もめぐみお姉様に用事ですか?」

「ぶっ! ち、違っ!」

「ふーん……怪しいのです」

返答に困った祐一は、由原が入れ込んでいる、美形男性グループ所属員の名を上げた。彼としては、この機を逃したくはなかったのである。

「な、なあ由原、お前が欲しがってた日下部の写真なんだけど」

「啓道様のお写真が、どうかなされたのですか?」

「後で……焼き増ししてやってもいいぞ」

由原の立体映像がいきなり消え、機体が金網に取りつくと、いきなりせわしなく登り始めた。そしてその上部まで器用に登り切ると、二本のアームを振ってなにやら奇怪な動きを始める。さながら土着の精霊神に祈るような、原始的な動きである。唖然とそれを見やる祐一。奇妙なダンス?はしばし続き、やがて収まると、由原は降りてきた。再び具現化した立体映像は、頬に手を当て、恥ずかしそうに目を伏せていた。

「申し訳ございません。 あまりの嬉しさに、取り乱してしまいました。 私、取り乱すと、ルヴァデルン族の民族舞踊を踊ってしまうんです」

「そ、そうなのか。 てか、ルヴァデルン族って何?」

「もう滅びてしまった少数民族です。 父がとても入れ込んでいて、私もその素敵な文化にはまりこんでしまいました」

何故かどきどきしながら祐一は呼吸を整え、陽山にもう一度視線を移し、肩を落とした。もう陽山は、其処にはいなかったからである。しかし、由原を責めるわけにも行かない。大体、由原は陽山の従姉妹であるし、出来るだけ関係を悪化させない方が得策という物だった。

もう陽山は行ってしまったが、それでも約束を破るわけには行かない。とぼとぼと歩きながら、祐一は言う。

「じゃあな、明日持ってくるよ、写真」

「お待ちしております」

「良いって良いって、どうせ俺には大事なものでも……」

祐一の言葉が止まったのには訳がある。戸が開き、市崎が現れたからである。

 

現在、別にサイボーグは珍しい存在ではない。社会的に見れば少数だが、周囲を見回せば時々見かける事が出来るほどにはいる。流石に由原ほど徹底的な改造を行っている例は少ないが、市崎だってサイボーグだし、祐一の妹の華乙だってそうだ。市崎は別に由原を見てもこれと言った反応を見せなかったが、祐一を見て過剰反応を示した。一歩さがって、そのまま回れ右して屋上を出ようとしたのである。反射的に、祐一はそれを制止していた。

「あ、ちょっと……」

「……」

むっとした様子で、市崎が祐一に振り向いた。蔑ずむと言うよりも、敵意のある視線である。しかしこれは、祐一だって(敵ながら見事)等と考えていたのだから、おあいこであろう。ただ、市崎の視線に陰湿さは無く、からっと乾燥した視線だった。由原は静止したまま、二人を無言で見比べていた。もごもごと口の中で呟いた後、祐一は頭を下げる。

「あの、さ。 朝は悪かった」

「……」

「それで、仲直りしたいんだ。 何か、クラスメイトと冷戦するのも、気持ち悪くてさ」

「……」

無言で市崎は祐一を見続けていた。気まずい空気を感じながらも、祐一は続ける。此処で屈しては行けないと考えたからである。

「……で、仲直りの印に、握手……したいんだけど」

「分かった。 いいわよ」

「そうか、良かった」

「私だって悪かったんだし、頭を先に下げられたら、許さない訳にはいかないわよ」

右手を出しかけて、慌てて市崎は引っ込め、左手に代えようとした。祐一は、余計な事を言った。

「あ、それ、旧式の機械化右腕だろ。 いいよ、右手のままで」

「……っ」

「僕ん家、機械詳しい奴が多くてさ。 見慣れてるから、隠す必要ないよ」

へらへらと祐一は右手を差しだし、握手した。次の瞬間、彼は右手を力一杯握られていた。機械化している手だから、当然握力は物凄かった。

い、あいたたたたたたたただたたたたたっ! ぎいやああああああああああ!

「朝の事は許してあげる。 でも、無神経な貴方、好きじゃないっ」

手をもぎ離すと、来たとき同様、むっとした様子で市崎は帰っていった。頭の上に疑問符を山ほど浮かべて、赤くなった手を押さえる祐一に、由原は言う。

「お知り合いですか?」

「あ、ああ。 転校生だ」

「優しそうな人でございますね」

頭の上の疑問符を更に増やしながら、祐一は屋上を後にした。今日が厄日だという呟きは、現実になった事に疑いなかった。

 

3,雨の日の一幕

 

欠伸をして、祐一は窓の外を見た。分厚く空にかかった雲が渦を巻き、恐ろしい勢いで流れている。一雨来るなと呟き、祐一は机の上の落書きを何気なしに消した。鉛筆という存在は、ここ百年ほどで学校から姿を消したが、相棒の消しゴムは未だに健在である。最も、鉛筆も様々に形状を変化させて残っているわけだから、いずれ消しゴムも大幅に形状を変えていくのやもしれない。

(厄日)から数日が過ぎ、祐一にとっていつもの平穏な日々が戻ってきていた。毎朝のように華乙に電気ショックで起こされ、ルールが迎えに来て、学校でろくでもない点数のテストが帰ってくる。ルールに借りた物を返して、特に代わり映えのしない会話をしながら帰宅。夜はレトルトを一人で食べるか、華乙と一緒にルールの料理を味わう。そんな日々が、いつもの日々が、また始まっていた。

平穏で、不幸せではない日々。内戦が起こっている国は少なくないし、二十年ほど前まではルフォーローと大規模な戦争の真っ最中だったのだから、今の祐一の生活は、まず恵まれていると言って良いレベルだ。だが、頭で分かっても、体ではそれが理解出来ないのも、また現実だった。退役軍人の父がいる祐一でさえそうなのだから、他の者達も大差のない情況である事は、想像に難くない。

ここ数日、祐一は何で市崎が怒ったのか、暇があれば考えていた。何が無神経だったのか、どうしても彼には見当がつかなかったのである。ルールに相談したら、即座に正解を告げる事を拒まれた。しっかりしているルールは、祐一には必要以上に甘くないし、一面に置いては物凄く厳しかった。答えを教えないと言う事は、自分で考えろと言う意味だから、祐一は面倒くさいと思いながらも、暫く考えていたのである。一般的にルフォーローは大人しい種族だと考えられているし、事実敵意のない第三者に対してその認識は正しい。しかし身内に対しては、甘いだけでなく厳しい存在である。少なくとも祐一の側にいるルールに関してはそうだ。ルールに色々に世話になり、色々に教わった祐一は、それを身に染みて知っていた。

「あーもう、わからん!」

髪の毛をかき回して、祐一は一旦思考を放棄した。新しい情報を得てから、考えを練り直した方がいいと理屈をつけ、自分を強引に納得させる。暇つぶし用に持ってきているロボット関連の雑誌を開き、栞を取りだした所で、虹村が彼の肩に手を置いた。

「おう、朝霧」

「何だ? 今良い所なんだけどな」

「いやな。 気付いてるか?」

「何がだよ」

顔を上げた祐一は、虹村が後ろ手で指さすまま、市崎を見た。市崎は左手で頬杖をついて、ふさぎ込んでいた。クラスメイトに話しかけられると笑顔で対応しているのだが、それ以外の時はまるで彫像のように黙り込んでいる。ある意味、祐一が懸想している陽山のような姿であった。愁いを帯びた横顔は、妙に視線を引きつける物がある。

「お前、また何かしたのか?」

「またも何も、最初から何にもしてねえっての」

「ほー。 でも見ろよ」

祐一が言われるまま視線をずらすと、祐一を見てひそひそ話をする女子の姿が視界に入った。即ち彼女らも、虹村と同じ印象を持った事になる。頭を抱えた祐一。これ以上根も葉もないうわさ話をばらまかれるのは、まっぴらごめんだった。

これは、早めに何か対策を立てないとまずい。祐一はそう思い、慌てて思惑を巡らせた。そして気付く。市崎は、利き手ではない左手でずっと頬杖をついているのだ。右腕を何かに使っているかと言えばそうでもなく、まるで何かしらから庇うかのように、自由に体の横に垂らしている。

「成る程、そう言う事か」

「うん? 何か分かったのか?」

「あ、ああ。 取り合えず、機嫌が悪そうな原因は分かった」

鞄から幾つかの器具や、細かいパーツを取り出す祐一に、虹村は小首を傾げた。祐一は常に、簡単なパーツや工具は所持しているのだ。新しいパーツが出ると必ず買っているし、暇があるときは動作検証していたりもするので、所持が必要なのである。彼にとってそれは、携帯用音楽再生機器を持ち運ぶのと等しい感覚だった。流石に本格的なロボットを根本的に修理するほどの物はないが、今彼がしようとしている事くらいなら大丈夫のはずだった。やがてそれらを並べてノートの上に載せると、祐一は憮然としている市崎の側に持って行った。顔を上げた市崎に、祐一は出来るだけ笑顔を作って言う。

「あのさ、右手、痛いんだろ?」

「……何で分かるの?」

「いや、僕、勉強出来ないけど、その分趣味のロボットやサイボーグに関してだけは詳しいから。 この間ちらっと腕の型式見せて貰ったんだけど、そのタイプ、湿気が多くなってくると痛覚実行システムのエラーで痛むんだよな」

痛覚は大事な感覚の一つである。体に対する損傷を的確に警告するシステムだから、これがないと小事が大事へと変わってしまう事が多い。サイボーグにおいても、部品にダメージが来ると痛覚実行システムという物が働いて、脳へ警告を知らせるようになっているのだ。

市崎が使っているのは、どういう訳か二世代前の機械化腕である。知名度は低く、ネットで検索しても殆ど引っかからない程度の代物だ。当然安価で手に入る物なのだが、バグがある事が一部のマニアの間で知られている。それが原因で更に安く手に入る代物なのだ。

この型式の機械化腕が内包するバグは、極めて質が悪い。腕としての性能自体は悪くないのだが、湿気が多くなってくると痛覚実行システムがエラーを起こして、慢性的な痛みを覚え続ける事になるのだ。それほど激しい痛みではないと言う報告だが、それもずっと続けば気分が良かろうはずもない。市崎が使っているのは、ジャンクに等しい粗悪品と言っても良い。市崎は祐一の言葉を否定も肯定もせずに、ついと視線を逸らした。向かいの席があいていたので、席の主に断って逆さに腰掛けると、祐一は続けた。

「楽に出来ると思う。 十分くらいで何とかなる」

「……」

「この間のお詫びと言っちゃあなんだけど、任せてくれないか? 換えの部品も、あんまり高い物じゃないし、サービスするよ」

長い沈黙の後、市崎はおずおずと右手を机の上に載せた。祐一は針のように尖った器具を取りだして、人工皮膚の一部に差した。一瞬だけ市崎が眉をひそめ、乾いた音と共に、手首の内側が十センチほどに渡って開く。一旦右手をシャットダウンし、体と感覚的に切り離したのである。

『幾つかのパーツがダメになってるな。 それに、配線も一部おかしい。 これは、酷い粗悪品だな。 その分安かったんだろうけど……これじゃあきっと、他の同型製品よりもずっと痛かったはずだ。 それに、直せる奴もいないだろうし、辛かっただろうな』

心中で呟くと、祐一は素早くクランケの情況を頭に叩き込んでいった。想像以上の不良品だったが、それも想定のうちである。幾つかの配線をつなぎ直し、部品を素早く新しい物と交換する。機械化生体部品のパーツはかなり昔から規格化されているから、古い物と新しい物との交換がある程度は可能である。ただし、専門知識がないと、パーツとプログラムの適合性はなかなか分からない。あまり器用ではない祐一だが、慣れが物を言い、手際は非常に良かった。

「相変わらず、機械いじりだけはすげえな」

「黙ってろ」

横で見ている虹村の口を閉じさせると、祐一は作業に集中した。さながら針の穴を通すかのような、圧倒的な集中力が祐一の精神を浸していく。小指の爪大の、幾つかのデータファイルを取り出すと、自分のポケットコンピューターから必要なデータを探し出して落とし込む。足りない分は、自宅のパソコンから、ポケットコンピューターを経由して落とした。そして、機械化腕に内蔵されているポケットコンピューターのスロットに入れ、立ち上げ直す。数秒でプログラムのインストールが完了した旨が表示され、額の汗を拭って祐一はため息をついた。器具を回収し、開けていた手首を閉じる。針のような器具を抜き去ると、再び右手が動くようになった。

市崎はしばしおっかなびっくり右手を動かしていたが、やがて明るい笑顔になった。

「……! 痛くない」

「応急処置だけど、これで当分は大丈夫のはず」

「ありがとう、朝霧君。 凄く助かったわ」

「あ、いや……」

間近で市崎の笑顔を見て、祐一は照れを隠せなかった。市崎のそれは、ルールや陽山とはまた違う、純な明るさを内包する笑顔である。はやし立てる周囲を放って置いて、不意に祐一は真面目な顔になった。

「新しいの買った方がいいよ。 これだと、何か起こっても保証効かないし、良くないバグも幾つか発見されてるんだし。 事故が起こってからじゃ遅いよ」

「ありがとう。 でもね、新しいの買えるんだったら、とっくに買ってるわよ」

影のある寂しそうな笑顔を見て、祐一は失言を悟ったが、もう遅かった。そしてこのとき、何で市崎が怒ったのかも分かった。この娘は、決して快適とは言えない機械化右腕を使い続けてきたのだ。出来れば右腕の事には触れたくないし、触れて欲しくもないと言うのが本音のはずだった。祐一はそう分析した。

帰り道で、祐一はルールに今日の出来事を言った。別に隠すような事ではないと考えていたからである。途中まで笑顔で聞いていたルールだったが、祐一の結論を聞くと、やはり笑顔のままで言った。

「六十五点」

「何だ、違うのか? ちぇっ、あってると思ったんだけどな」

「半分以上はあってるけど。 やっぱり周囲の人と違う悲しさって、そうならないと分からないのかな 祐ちゃんって誰にでも優しいけど、誰に対しても無神経だよね」

ルールの返答に、祐一は返す言葉がなかった。

これでは市崎が怒るのも当然だと、彼は一晩中自責し続けた。朝霧祐一は、そんな風に考えられる男だった。

 

4,ずれ

 

「何か僕、最近謝ってばかりだな」

珍しく電気ショックを浴びずとも起きた祐一が、ベットの上で呟いた。彼はまた、夢の中で、市崎に謝っていたからである。実際には謝ってどうにかなるような事でもないのだが、どうも気分が悪いのは事実だった。

ルールに関しても、彼は以前同じ間違いをした事があった。今でこそ人類とルフォーローとの交流が盛んになってはいるが、差別は厳然と存在している。幼い頃のルールは殆ど祐一としか遊ばなかった。その理由を祐一が分かった頃には、もうルールは不要なほどに強く成長していて、祐一が何をしても意味が無くなっていた。お金があったら新しい腕を買ってると寂しそうに言った市崎も、極めて古い機械化腕と、更には腕を機械化しているという事自体で、周囲と溝が生じやすいのは目に見えている。サイボーグ化する人間が多くなってきてはいるが、一方で全体から見ればそれはまだ少数である。市崎が多感な少女時代をかなり辛い経験と共に過ごしてきたであろう事は、もう祐一にも分かっていた。

由原の言った意味も、祐一はもう理解していた。そんな無神経な事を言われたら、人によっては口を利いてくれなくなるくらいの反応はしてもおかしくないのだ。考えれば考えるほど、祐一は、自身の無神経さを嘆く羽目に陥っていた。

暗い気持ちのまま、祐一はカレンダーを見た。そして、陽山に告白するチャンスが再びやってきた事に気付いた。調査によると、今日は時間割の関係等で屋上にいる事が疑いなく、祐一自身も時間があいているのだ。何度も封筒を取り替えた恋文を机の中から引っ張り出すと、そそくさと鞄の中に忍ばせる。だが、祐一は気乗りしなかった。ずっと好きだった陽山なのに、何故か心の中で少し距離が開き始めていた。

「おはよー、アニキ」

「うん、今日は起きてるよ」

「ちぇっ、つまんないの。 電気ショック目覚まし、また改良したのに」

苦笑しながら祐一がドアを開けると、華乙が腰に手を当てて頬を膨らませていた。華乙は自作で右手を創ってしまうほどの腕前だが、それは家が裕福だからと言う事情に裏付けられた趣味でもあるのだ。実際、機械化した肉体は、結構値が張る物なのである。個々の部品レベルでのパーツは安いが、それもかなりの数が必要になってくるし、専門知識がなければ役に立たない。

「なあ、華乙」

「何?」

「僕って無神経だな」

「……でも、結構優しいじゃん」

そういえば、家に来るまでの華乙の家族の事を、祐一は聞いた事がなかった。華乙の言葉には、心底暖かい物が含まれている。それが、何故か祐一にも分かっていた。

 

昼休みが始まってすぐ、祐一は、屋上の扉の前に立っていた。以前は心臓が早鐘のようになったのに、今はどういう訳か以前ほどは緊張しなかった。それでもかなり緊張しながら、ドアノブをまわす。そしてゆっくり屋上へはいると、辺りを見回した。まず最初に、由原がいない事は確認出来た。彼女に悪気はないのだが、この情況で一緒にいられると非常に都合が悪いからである。

安堵のため息をついたのも束の間、陽山を捜して祐一は辺りを見回した。そして今度は、無念さに肩を落とす事になった。陽山は、屋上にはいなかったのである。

肩を落として、祐一は恋文を懐から取りだした。そしてそれをじっくり見た後に、もう一度ため息をつき、振り返る。そして見た。戸を開けて、きょとんとした表情で祐一を見ている、市崎の姿を。

「ぶっ!」

「朝霧君? どうしたの、そんなに驚いて」

「い、市崎さん、こんな所で何を!?」

「お弁当食べた後に、日光浴しようと思っただけだけど」

右往左往する祐一は、市崎の視線が恋文に注がれているのを見て、体温が低下する気分を味わった。一言も発する事が出来ない祐一に、少し目を細めて、市崎は言った。

「へえ、ラブレター?」

「ち、違っ! これは、その、あの」

「ラブレターなんて、今時珍しいね。 相手はこの間の綺麗な人? 三年の陽山先輩だっけ」

そういえばこの間屋上で話したときは、陽山と入れ違いになる形で市崎が現れたわけだから、すれ違っていてもおかしくはない。くわえて陽山は有名人だし、社交的な市崎の耳にその存在が届いているのはむしろ自然な事だ。それにしても核心を一撃の下に貫かれた衝撃は大きく、祐一はそのまま硬直石化していた。若干白けた表情で、市崎は言う。

「朝霧君、分かりやすすぎよ。 もうちょっとごまかす工夫しないと」

「あう……」

「あ、そうだ。 折角だから、お姉さんがラブレターを見てあげよう」

石化したままの祐一の手からラブレターを、日光浴を邪魔された蛇舅母を思わせる素早さで奪い取ると、市崎は結構器用に封筒を開け、中身を読み始めた。反射的に制止しようとして、妙に体の芯が熱くなるのを感じ、祐一は俯いてしまう。

「なになに。 ……」

「……ど、どう?」

「何というか……これ、本当にラブレター?」

苦虫を噛みつぶしたような顔で市崎は恋文を祐一に返した。慌てて二週間もかけて書いた文面を読み返す祐一。

《先輩の事を前からバルクレス式電気回路のように、機能美に富んだ人だと思っていました。 いや、もうそれをも超えるほどの物だと確信しています。 特に屋上で本を読んでいる様子は、その比喩に恥じない物だと思います》

バルクレス式電子回路というのは、祐一の母である静流の師匠である、バルクレス博士が設計した電子回路の事である。サイボーグ技術やロボット工学を囓った人間なら誰でも知っている超有名な電子回路で、その美しさは芸術品の域に達していると言われているのだ。祐一が思いつく最大の賛辞こそが、バルクレス式電子回路なのである。だからこそ、祐一は市崎に食ってかかった。

「な、何が悪いんだっ!?」

全部よ、全部

全部……!? そんな……!

頭を抱えて落ち込む祐一。市崎の声に、多少の慌てとフォローが入った。

「あ、あの、朝霧君? そんなに気を落とさなくても」

「に、二週間もかけて考えたのに……」

「でもそれ読んだら、殆どの女の子が君を遠くへ感じると思うわよ。 ……それに朝霧君、ひょっとして声をかけずらくて、ずっと追いかけ回したりしてない……よね?」

「うっ……」

図星を指された祐一は一歩退いた。これほどに反応がわかりやすい男もそうはいないであろう。市崎は何か哀れみを視線に込めながら、とどめを刺した。

「悪気はないの分かるけど、それ、下手するとストーカーよ」

ス、ストーカーだってええええっ!?

ギリシャ悲劇の俳優が如き大げさなポーズと共に、祐一は地面に崩れ落ちていた。

 

昼休みの後、祐一は市崎のアドバイスを必死に頭の中で反復していた。まず第一に、何故好きなのかを的確に伝える事。次に、覚悟を決めてさっさと思いを告げる事。祐一としてはあのラブレターに何故好きなのかをきちんと書いたつもりだったので、一番目の条件はクリアしていると考えていた。そして次だが、まさか陽山にストーカーとして勘違いされるわけには行かないし、ましてやストレスを与えるわけにも行かない。祐一はなけなしの勇気を振り絞って、行動に出る事を決意した。

由原が陽山のスケジュールをほぼ押さえている事を、祐一は良く知っている。これは従姉妹と言う事もあるのだが、家が隣だという事も関係していると、以前祐一は由原自身に聞いた事があった。短い休み時間を使って、祐一は由原の教室に飛び込む。何故か天井に張り付いていた由原は、祐一を見つけると、壁を伝って降りてきた。鋭い音と共に、若干不審げな表情の、立体映像が具現化する。

「先輩、この間は写真有り難うございます。 今日は急いでどうしたんですか?」

「あ、あの」

「あの?」

「陽山先輩、今日いつ頃帰るか分かるか?」

由原は何か少し寂しげに遠くを見た後、言う。

「六時限目が終わった後、すぐ帰るはずです」

「そっか、サンキュな」

由原が嘘を付く事はほぼあり得ない。祐一は例もそこそこに教室を飛び出すと、いつ陽山を待ち伏せるか必死にプランを練った。当然授業は頭に入らなかったため、特に魔法演習の授業では教師の雷が落ちる事になった。長い長い授業時間が終わり、HRも終わると、祐一は下駄箱へダッシュし、身を隠した。生徒達でごった返す下駄箱へ、物陰から必死に視線を送る祐一。やがて、目当ての人を見つけた。

 

多少人が減った下駄履きで、陽山は表情をぴくりとも動かさずに、靴を取りだしていた。祐一は半ば駆け足で歩み寄ると、出来るだけ呼吸を整えながら言う。

「ひ、陽山先輩!」

「……うん? 君は?」

いぶかしむような視線は、未知に対するものだ。ストーカーと思われていない事を悟り、僅かながら安心した祐一は、一気に畳みかけた。

「あ、あの、二年の朝霧祐一と言います! 先輩の事、僕、ずっと見てました! そ、それと、それとっ! これ、読んでください!」

クールな視線で突き刺されながら、祐一は震える手で、市崎にこき下ろされたラブレターを懐から引っ張り出す。そして、生唾を飲み込みながら手渡した。綺麗な白い指で陽山はラブレターを開封すると、きっかり十秒後に、全て読み終えた。そして鞄に入れながら、言う。口から漏れだしたのは、意外にも優しい言葉だった。

「君の事は良く知らないが、気持ちは分かった。 嬉しいよ」

「えっ……じゃ……じゃあ……」

「だが、悪いな。 君は私の恋愛対象にはならない」

どこかの線が、祐一の頭の中で切れていた。今日二度目の石化をする祐一に、多少目を伏せながら陽山は言った。

「私はな、生きた人間に恋愛感情を持てない。 だから君が悪い訳じゃない」

「え……あの……」

「私を見ていたのなら、いつも本を一人で読んでいるのを知っていただろう? あれは小説でもなければ哲学書でもない。 全部数学書だ。 私はな、数式にしか恋愛感情を持てないんだ。 難しい数式が連ねられた数学書は、私にとっては甘く切ないラブロマンスなんだよ

何を言って良いのか分からず、何をして良いかも分からず、立ちつくす祐一に、軽く陽山は頭を下げた。

「ごめんな」

朝霧祐一は、夕焼けの下駄箱にて玉砕した。

 

教室に戻る途中、祐一はルールに会った。窓の外には、帰るべくスタンバイしている本体の姿も見える。死人のような顔色で顔を上げた祐一に、ルールは笑顔のまま言う。

「祐ちゃん、誰かにふられたの?」

「……ああ」

「今日は一人で帰る?」

「……ごめんな」

足を進めようとして、祐一は市崎もいる事に気付いた。市崎は最大限のアドバイスをしてくれた訳だから、一切責任がない。だから何も言えずに、青ざめた顔でその横を通り過ぎようとした。だが、市崎はそのまま通してはくれなかった。

「朝霧君?」

「……見ての通りだ、玉砕したよ」

「そう……」

何故、市崎が眉をひそめて俯いたのか、祐一には分からなかった。次の言葉も、理解出来なかった。

「ごめんね」

「?」

「もう少し、的確なアドバイスが出来れば良かったのに」

『……どうして悲しんでるんだ?』

心中で呟いた祐一は、心が少しずつ冷えていくのを感じた。彼の目にも、市崎が悲しんでいるのは明らかだった。対称的なのは、ルールの反応だった。別に表情を崩さず、そのまま帰りかける。

「私、先に行くよ」

「……」

「ちょっと……貴方朝霧君の友達でしょ?」

「この件に関して、アドバイスは出来ないから」

市崎がルールの白い腕を掴んだ。不思議そうに、ルールがその顔を見る。

「待ちなさいよ。 友達が悲しんでるのに、ほっておくわけ?」

「アドバイスが出来るのなら、私だってアドバイスしたい。 でも、人間の恋愛感情って、私達の物とは違うから。 慰めるだけなら出来るけど、それは祐ちゃんの為にはならない」

「……」

ルールの言うとおりだった。ルフォーローは配偶者を(配偶個体)という特殊な認識で捉えるのだが、この過程のシステムが根本的に人間と違うのである。ハーレム型と乱交型の中間点にいる人間と違い、完全固定配偶型で、一生に一度しか配偶個体を選ばない。また、群生個体が配偶個体になる事もないのだ。これらは群れの意識が強い種族が、本能レベルで培ってきた事である。時々ルールは周囲の人間との恋愛に関するシステムが微妙に異なっている事に関し、珍しく祐一に泣き言をこぼしたりもしていた。違う事がもたらす周囲との溝を、良く知るルールの表情。市崎には、それがよく分かったはずだ。

種族の差というものは、近くて遠いものだ。相容れる部分も多いが、決して相容れない物も多い。本能に起因する箇所などは、その典型だ。

少し寂しい視線を、ルールと市崎は交わした。やがて歩き去っていったルールを、もう市崎は引き留めなかった。別にどちらが間違っているわけでもないし、正しいわけでもないからである。ただ、少し両者の間には、寂しい空気があった。優しいからこそ、寂しさが募る事もあるのだった。

 

5,通い始め

 

教室には、もう殆ど生徒が残っていなかった。黙々と鞄に荷物を詰める祐一は、ふと気になってまだ残っていた市崎に言った。

「市崎さん。 さっきさ、どうして悲しんでたんだ?」

「友達が悲しんでたら、私だって悲しいわよ」

さも当然のように帰ってくる答え。作為的な物のないその返答に、祐一は意表を突かれていた。

「え……と?」

「喧嘩して、仲直りして、助け合って。 それだけしたら、もう友達じゃない」

「……そっか、そうだよな」

「ええ」

改めて差し出された手。機械の方の右手。生身の手のように偽装されてはいるが、見る者が見れば一目で機械化手と分かる。その手を、笑顔と共に市崎は差し出していた。

丁度谷底から引っ張り上げられるように、祐一は市崎に手を借りて、立ち上がっていた。ルールも優しい娘だが、それとはまた違う優しさが、其処にあった。一緒に下駄箱へ歩きながら、市崎は言う。

「今日は、残念だったね」

「いや、これでいいんだ。 ストーカー呼ばわりされたり、ずっともやもやし続けるよりも、こっちの方がいい」

二人はごく自然に、一緒に帰る事になっていた。市崎の家は北区だから、帰りの半ばでもう向かう先が異なる。今までにないほど短く感じる時間の後、手を振って、市崎は遠ざかっていった。祐一は控えめに手を振り返しながら、新しく芽生えた心に気付いていた。

彼は、市崎と過ごせるこれからの学校生活が、少し楽しみになっていたのである。

夕日は山の向こうへ沈みかけ、世界を赤く赤く塗装している。その中、祐一は帰宅していく。新しい世界が加わった、彼の家へと。

 

(続)