暗がりライブ
序、交流の形
スペランカーは特等席に座して、その楽曲を聴き続けていた。
悪くない曲だ。
故郷のものとは大分違うけれど、単純な旋律が心地よい。歌っている者達も、みんな心を込めている。
曲が終わった。
拍手して、演奏者達を讃える。
この曲じたいは問題が無い。
問題は。
この曲しか、彼らには無いという事なのだ。
此処アトランティスは、異星の邪神達との戦いに決着がついてから。世界中に拡散していた、邪神の奉仕種族が移り住んできている。
多くの並列次元にまで跨がっているこの大陸は、全容を調査すればするほど、その構造の複雑さに驚かされるばかり。
だから、住む場所についてはいくらでもあるのだけれど。
奉仕種族達は、元々邪神に仕え、餌となり武器になり。或いは戦うためだけに造り出され。
彼らによる大反乱が過去にあったらしいと言う事からか。文明までも、意図的に抑制されてきている。
勿論、多くの種族がいる奉仕種族達だけれど。彼らは互いに文化的な接点が無い。
スペランカーが促して交流するように仕向けているのだけれど。
何しろ今まで地底や海底、異なる物理法則が働く重異形化フィールドに暮らしていた者達なのだ。
思想的には、むしろ閉鎖的な者達も多いのである。
それに、だ。
まだ発展途上のアトランティスでは、娯楽に費やす余力が少ない。コンサートホールや劇場などは存在していない。
作ろうにも、人手も余裕も無い。
だからこのコンサートが行われているのは、地底の空洞だ。音響はこれで問題が無いし、光に弱い種族にはこれで丁度良い。
もっとも、現在の文明の利器は、極めてコンパクトだ。
そういったものは、彼らにも斡旋している。
魔術がある世界においても、科学の力は、それなりに偉大なのである。勿論、何種かの奉仕種族は、それら文明の利器を受け入れもしているけれど。
やはり、文明を押しつけずに、彼らに交流を深めて貰うのは、難しいと言わざるを得なかった。
次の種族の音楽を聴く。
彼らも音楽は一つしか持っていない。
多い種族でも、二つあれば良い方。
戦歌と、子守歌。
それだけしか必要とされず。
そして、持つ事も、許されなかったのだ。
邪神の元締めであるアザトースが人間と和解し、今や文化を持つ事はおおっぴらに許されるようにはなったけれど。
いきなり自由と言われても、何をして良いのか分からない。
それが彼らの本音なのだろう。
勇壮な曲を聴き終えると、スペランカーは拍手。
この調子で、十二の種族の曲を、今日中に聞かなければならないのである。
奉仕種族達は、自由をくれたスペランカーに感謝している。スペランカーも、それに応じている。
ただ、奉仕種族達は、自由をどうして良いか分からない。
これまでの、道具としての生命から脱却できたことは嬉しいけれど。
その先に何をすれば良いのか、把握できていないのだ。
構図は、発展途上国と同じかも知れない。
圧政から解放されたとき、被差別階級の人達は喜んだ。自由意思で政治を行えるシステムが持ち込まれて、これで自由が来たと、喝采した。
しかしその先に、現実が待ち受けていた。
やがて現実は社会そのものをむしばみ、以前より更に酷い地獄が到来した国も珍しくはない。
無責任な行動は取れない。
自由を与えて、後は好き勝手にしろというのは、あまりにも無責任な行為だ。
一度秩序を壊した事に違いはないのである。
だから、最後まで責任を取って動かなければならない。
この辺りは、盟友であるアーサーや川背と相談して、決めたことだ。
正直スペランカーには、こういう事実上の国家元首などと言うのは柄では無いのだけれど。
それでも、やらなければならない。
他に出来る人がいない以上、当然の話であった。
幸い、人間社会に比べると、奉仕種族達の構造はかなり簡単だ。
彼らは基本的に単純で、邪神に言われたことだけをこなすように、その生も受けている。彼ら自身を尊重しながら、少しずつ自立意思を育てていけば良いのである。
夕方近くまで掛かって、全ての曲を聴き終えた。
いずれもが、非常に単純な曲ばかりだった。
拍手をして、閉会式を迎える。
奉仕種族達は、他の種族の曲を聴いても、ぴんと来ない様子だった。曲調が似ているからかも知れない。
戦歌と子守歌くらいしかないのだ。
その旋律も、何処かに通ってくる。勇壮か静かか。
悪くは無いのだけれど。
やはり、もっと多くの文化を導入した方が良いだろうと、スペランカーは思った。
文化と言っても、政治制度や思想などについては、無差別に導入するわけにはいかない。アトランティスで圧政が行われていて、啓蒙のために民主主義を広めたいとか言ってくる者がいるのだ。
彼らは身元を調査すると、大体が非常にきな臭い人間。殆どの場合が詐欺師である。或いは、山師の類だ。
理想と正義に溢れた政治家なんて、この時代には殆どいない。
それを象徴しているような状況だった。
コンサート会場を出ると、ジープが待っていた。当たりは薄暗くなってきていて、そろそろ気をつけないと足下が危ない。
ぞろぞろと帰って行く奉仕種族達。
用意してあるバスが、続々と出て行く。
まだ万が一の可能性もあるので、バスは装甲仕様。ロケットランチャーの直撃にも耐えるようになっている。
ただ、今のところ。
スペランカーの所に、奉仕種族同士での争いや諍いは、報告されていなかった。それだけは救いか。
ジープに乗ると、最近川背に渡された携帯が鳴った。
いわゆるガラケーだけれど、最新のものだ。性能はスマホに全く劣っておらず、安全性や安定性は段違い。
更に言えば、セキュリティ面でのカスタマイズが行われてあるので、平時は常に持ち歩いても平気だという。
もっとも、それでも絶対に安心が出来ないのは、今の時代だけれど。
電話番号は、川背のものだった。
「お疲れ様です、先輩」
「うん。 川背ちゃんも」
「此方は平気です。 コンサートは、どうでしたか」
「うーん、みんな良い曲なんだけれど、やっぱり単調かな」
そうでしょうねと、川背は言う。
新しい文化を導入することは、川背も同意している。ただし、何もかもを無差別に入れるわけには行かない。
自由というものに反するようだけれど。
実際にそういった事をした結果、圧政の時代より酷くなった実例が、いくらでもあるのだ。
まずは圧政からの解放。
その後は、自由意思の確立。
過程で、文化を厳選しながら導入していく。
最終的には、自由意思で文化の閲覧までは出来るようにして行きたいけれど。それでも、宗教や過激思想などについては、フィルタリングしていく必要がある。純粋な彼らが染まるには、あまりにも人間の文化の中には、汚辱に塗れたものがあるのだ。
もっとも、この辺りの慎重すぎる姿勢が、アトランティスの閉鎖性を作ってしまっているのも事実。
何度か世界に向けてスペランカーは意図を説明する映像や動画を流しもした。
また、マスコミのインタビューに答えたこともある。
それで納得してくれる人達なら良い。
政治的意図や、利権が絡んでくる場合。そのような事では、殆どの人間は納得などしてはくれない。
川背は今、重異形化フィールドの攻略に望んでいる。
数人の新人を連れての攻略なのだけれど。電話を掛けてきたという事は、フィールドの外に一旦出た、という事だろう。そうでなければ、もう終わったと言ってくるはずだ。もう少し、本腰を入れて、後で相談したい。
後は二三話すと、電話を切る。
運転手の半魚人は、その間ずっと無言でいた。
彼はサルチマン。
アトランティスで最も数が多い半魚人の一人で、スペランカーの護衛をする部隊の一人でもある。
最初は親衛隊と呼ぶことも考えていたらしいのだけれど。
それは最近正式に却下した。
ただでさえ独裁国家と世界からは見られがちなのだ。多少は雰囲気を柔らかくしなければまずいのである。
「サルチマンさん、意見を聞いて良いかな」
「私で良ければ、何なりと」
「今日のコンサートを聞いて、どう思った?」
「いずれも似たような曲ばかりですね」
ずばりと、サルチマンは言う。
半魚人や、同じように数がいるミイラ男、骸骨の戦士の中には。対外的な接触をこなしたものがいる。
アザトースとの最終決戦の時には国連軍と共闘もしたし、その過程で国外にも出た。
サルチマンもその一人だ。
彼らの一人は、戻ってからこう述懐している。
外はちかちかしていて、目がくらむようだったと。
あまりにも豊富に発展しすぎた文明は。単色に近い生活をしていた奉仕種族にとっては、刺激が強すぎたのだ。
「ただ、外に出たときは、色々とけしからん文化も目にしました」
「うん、そうだね」
苦笑いする。
彼らにとっては、あまりにも先鋭化した文化は、そう見えて当然だ。
文化を創り上げた当事者達にさえ、色々な意見があるほどなのである。けしからん、と感じても無理はない。
フィールド探索者や、今や人類との和解がなった異星の邪神を揶揄するような文化もある。
いわゆるアンチという奴である。
それらを見て憤慨する奉仕種族を見て、テレビが大々的に独裁国家の邪悪な洗脳の結果と、報道したこともあった。
自宅に到着。
軽く書類仕事を済ませる。
最近は仕事も増えてきたけれど。こればかりは手を抜くわけにはいかない。誤字脱字の程度は良いけれど、たまにとんでもない書類が上がってくるのだ。押印をしながら、書類にはきちんと目を通す。
時間が足りない場合は、奥の手を使う。
アトランティスの中には、幾つか時間の流れが違う場所がある。それらに足を運んで、ゆっくり考えながら作業するのである。
幸いというか不幸というか、スペランカーには事実上時間制限が無い。
じっくり物事をこなすには、それが一番だ。
途中でコットンと一緒に、夕食にして。
その後も、遅くまで作業を続けた。
結局、日付が変わる直前まで、仕事は終わらなかった。
二日後。
アトランティス内部の出版社が、昨日のコンサートについてまとめてくれたビデオを持ち込んできた。この出版社は、テレビ局も兼ねているのだ。いずれは分割する予定だけれど、今はまだその余力が無い。
以前様々な紆余曲折の結果、今ではアトランティスに住んでいるハリーも編集に加わってくれているので、多分問題は無いだろうけれど。一応目を通す。
自分で時々早送りしながら、ビデオを確認。
悪くはない編集だ。
しかし、無難すぎて、先進国で流したら途中でチャンネルを変えられるだろうなと、スペランカーは思った。
「内容を平等にまとめると、こうなりますので」
「うん。 とりあえず、これでいいよ」
「分かりました。 明日から、放送します」
先進国だと、テレビの放送のスケジュールは、先の先までガチガチに決まっているものなのだけれど。
アトランティスでは、未だにテレビ放送のスケジュールはガラガラ。チャンネルも一つしか無い。
殆どの場合環境音楽だけが流されている。
電波を嫌がる種族もいるので、彼らのいる所では、電波遮断をした特殊なケーブルを敷設しているほどだ。
娯楽が、ないのである。
彼らは、これでさえ喜ぶほどだ。
ビデオを見終えた後、書類仕事に掛かろうとしたとき、電話が掛かってくる。
川背からだった。
「先輩、今よろしいですか?」
「うん、どうしたの」
「フィールドの攻略が完了したので、これから戻る所なんですが、少し興味深いことが起こりまして」
川背の話によると、重異形化フィールドを潰した結果、異世界とつながったというのだ。
今回の重異形化フィールドは、アトランティスの近海。本来はスペランカーと、アトランティスにいるフィールド探索者で潰せば良かったのだけれど。国際的な圧力とかで、新人二人を連れて川背が出る事になったのである。
元々、空間的には重層的に混じり合ったアトランティスだ。
異世界への入り口が開いても、不思議では無い。
「入り口自体は極めて限定的で、軍を送り込んだり送り込まれたりする事は、出来ないと思います。 平行世界の一種らしく、言葉も近いようですね。 翻訳機が機能しています」
「ふむふむ、それでどういう世界なの?」
「非常に平和な世界です。 此方で言うWW2も発生しておらず、有り余った社会のリソースが、アイドル文化に全てつぎ込まれているようですね。 一部では戦争もあるようですが、此方に比べれば極めてささやかな規模です」
それは、非常に珍しい世界だ。
どんな世界でも、人間がたくさんいれば利害関係が生じて、それが戦争に発展する。逆に言えば、此方の世界は、向こうに比べれば修羅道といえるだろう。
「それは、ひょっとすると、文化交流を止めた方が良いんじゃ無いのかな」
「ただ、向こうの文化を輸入する分には、問題が無いかと」
「……確かに」
向こうに無意味な諍いを起こしても仕方が無いから、交流のやり方は厳選する必要があるだろうけれど。
アトランティスには、向こうにとって有益な資源もある。
魔術を使って作った道具類などはその典型例だし。
何より、鉱物資源や水産資源も豊富だ。
ただし向こうにとって致命的なウィルスなどが持ち込まれると厄介だ。厳密な調査が必要だろうとは思うが。
「まずは中間地点を作って、それからですね。 数ヶ月ほど其処で互いにとっての危険性を判断して、それから交流を試みましょう」
「分かった、それがよさそうだね」
一応、この件はそれでいい。
問題は他の国の干渉を防ぐ、ということだ。
利権が生じるとなると、非情に面倒な事になる。穴はこれ以上広げない方が、はっきりいって良いだろう。
今までも、つながった異世界とは、この世界の人類は散々問題を起こしてきているのだ。
以前につながったアルタイルなどは、移動方法が確立してからと言うもの、無人惑星だと言う事を良い事に、開発競争が乱立。向こう側で、大国同士が小競り合いまで起こす始末だった。
見かねたフィールド探索者何名かが、空間の穴を封鎖。
慌てて逃げ帰った人間達が、逆恨みして問題を大きくし。色々と考えたくない事件まで起きている。
この世界の人間は。
まだまだ、本当の意味での異文化と交流する資格は無いのかも知れない。
明日から、更に忙しくなるかも知れない。
小さくあくびすると、スペランカーは早めに今朝の書類作業を、済ませてしまおうと思った。
1、異文化到来
アイドル文化のあまりにも隆盛すぎるこの時代。
アイドルを扱う事務所は国内に山ほどあり。
所属しているアイドルも、それこそ星の数ほどいる。
その中でもトップと呼ばれる存在にまで上り詰められる人間は、ほんの一握り。それでも、トップを目指して、アイドルを続ける人間はたくさんいる。
アイドルとは何だろう。
その問いかけに応えられる者もあまり多くないはずなのに。
ありあまった社会の力は、全てその熱狂に注ぎ込まれていた。
この国だけでは無い。
全世界中で、似たような事が起きている。
世界はきらきら輝いていて。
平穏無事。
そんな中でもトップを目指す競争はあるけれど。負けたからといって死ぬような事は無いし。
自己責任で、頂点を目指すために努力を続けられる。
努力は報われるし。
評価もされる。
此処は、そんな世界だ。
所属している事務所で、天海春香は、巡業が終わってようやくゆっくりすることが出来ていた。
ここのところ非常に忙しくて、休む暇も無かったから。
ソファに腰掛けていると、それだけで落ちそうになってしまう。
しかし此処は小さな事務所だ。
他のアイドル達も来るし、お客さんも顔を見せる。
アイドルがだらだらしているわけにも行かない。控え室なら兎も角、よそでだらけた姿を見せることは出来ない。
それが高校生でありながら、既にアイドルとして収入を得て。プロになって一年以上活動している春香が学んだことだった。
「お疲れ様」
「ありがとうございます、プロデューサーさん」
差し出されたのは紅茶。
昔は事務所の小さなビル内にある自動販売機のものだったのだけれど。最近は、プロデューサーが手ずから入れてくれるようになった。
流石に自動販売機のものよりも、ずっと美味しい。
プロデューサーは女性だけれど。
ルックスにも歌唱力にも恵まれず、アイドルとして立脚することが出来なかった。昔ちょっと話を聞いたことがある。何度かオーディションは受けたけれど、その度に落選だったそうだ。
アイドルとしての適正のなさから、随分涙も呑んだらしい。
その代わり業界には非常に詳しくて、いつもきちんと身の丈にあった仕事を持ってきてくれる。
今では、プロデューサーとしてこの業界に関われることを、誇りに思っているそうである。
この765プロには現在13人のアイドルと四人のプロデューサーがいるけれど。
彼女、飯島桜花は春香と後二人を担当していた。
「千早ちゃんと美希は?」
「千早はまだ巡業中だ。 最後のコンサートから、そろそろ上がるはずだが」
「人気凄いですもんね、最近の千早ちゃん」
アイドルとしてルックスも歌唱力もダンスもオーソドックスでそつが無い春香と比べると、同じプロデューサーに面倒を見られている千早と美希はとにかく対照的だ。
千早は同年代のアイドルの中ではトップクラスの歌唱力を持ち、既に世界的にも名前が知られはじめている。凛としたルックスと雰囲気も、非常に受けが良い。
一方で美希はというと、その小悪魔的な魅力が強烈な吸引力を発し、ファンの心を捕らえて放さない。
文字通り魔的な魅力という奴で、真似しようとして出来ることではない。社長が是非にもとスカウトしたらしいのだけれど。それも頷ける話だ。
自分はこの二人に比べると、何が出来るんだろう。
そう悩んだことも春香にはあったけれど。
今はもう、あまり悩むことも無くなった。
歌が好きだけれど、上手いわけでは無い。
ダンスは散々練習してきたけれど、同じ事務所の子達と比べても別に上手なわけでも無い。
アイドルをはじめたころは体力だってそんなには無かったし。
プレッシャーにも弱かった。
事務所のアイドル達と一緒に過ごしてきて、強い団結力を感じて。それがゆえに、みんなが忙しくなって会うことも出来なくなってきて。ストレスから、一度は脱落しそうにもなった。
文字通りのトップアイドルになった今では。アイドルを続ける事に強いプライドも感じているけれど。
それまでは、本当に色々と、紆余曲折があったのだ。
「美希はどうしたんですか?」
「映画の撮影が長引いてるんだろ。 何しろ最近はメイン級の仕事が廻されるようにもなってきたからな」
「ふえー、二人とも凄いなあ」
「何を言う。 お前も充分に大したものだ」
もう一杯、紅茶を入れてくれた。
プロデューサーはとても背が低くて、この事務所で最年少の双子よりも更に七センチも低い。
ただ身体能力は高くて、ダンスなどでたまに手本は見せてくれる。
しかし、元々ルックスに恵まれていないので、滑稽な様子にしか見えないのが気の毒でならない。
歌唱力も実はそう。
元々の声質の問題で、どれだけ技術があっても、聞ける歌にならないのだ。
だからアドバイスは出来るけれど。
本人がステージには立てない。
それで、随分と昔は、自分の体を恨みもしたそうだ。
不意に、プロデューサーの携帯が鳴る。
電話に出た彼女は、非常に厳しい顔になった。おそらく、仕事の話だろう。邪魔しないように、静かにしている事にする。
事務所は静かで。
春香とプロデューサーの他には、事務をしている小鳥さんが一人だけ。
社長も今は出ているから、電話の声だけが響き渡っていた。
電話が終わる。
スーツの上からコートを羽織ると、プロデューサーが出ると言い出した。
「大きな仕事ですか?」
「ちょっと変わった仕事だ。 この間、三陸沖で妙な空間が発見されたって話は聞いたか?」
「ええ、何でも異世界に通じているとか」
ファンタジーの世界じゃあるまいし、そんなのある訳が無い。
最初は春香もそう思ったのだけれど。
どうやら本当だったらしく、政府が厳重な報道管制をしき、一部の人間にしか状況は知らされていない。
春香はたまたまそれを聞くことになったけれど。
それはトップと呼ばれるレベルのアイドルになったから。ファンの一人と食事会をしたときに、聞かされたのである。
プロデューサーもその時同席していたから、たまたま聞いたことになる。
しかし、それが偶然だとか、口を滑らせただとかは思えない。
確かに口を滑らせるうっかりな政治家さんもいるけれど。
以前から春香のファンだというあの人は、そういううっかりさんだとは、とても思えなかった。
「其処で仕事になるかも知れん。 外務省に呼び出された」
「ええっ!?」
「意外に驚かないな。 お前が本当に驚いているときは、一瞬置いてもっと激しい反応をする。 さては予期していたな」
「え、ええと」
視線が泳ぐ。
プロデューサーは、ため息をつくのだった。
「相変わらず感情を隠すのが下手だな。 詳しい話については私が聞いてくるから、お前は事務所で待機していろ」
「は、はい」
すぐにタクシーを呼ぶと、プロデューサーは飛び出していった。
どうやら今まで春香がやった仕事の中でも、とびきり不思議な内容に、今回はなりそうだった。
「ああ、それミキも聞いたの。 まだ世間には公表されていないんでしょ?」
事務所に戻ってきた星井美希は。
春香の話を聞くと、開口一番にそう言った。
彼女の場合は、口の軽いファンのお役人から聞いたらしい。これは正直、この国は大丈夫なのか心配したくなる。
もっとも、まだ中学生なのに、とんでもない魔的な魅力を湛えた美希である。側で話を聞くだけで、デレデレになってしまう男性は多い。お酒を飲んだときよりも、口が軽くなってしまうことも多いだろう。
一方で無言なのは、千早。
彼女は普段は極めて無口で、余計な事は一切喋らないことが多い。春香とは一番の親友で、ともに苦難を乗り越えてきた仲だ。何でも喋ることが出来る仲だからこそ、互いに言いたいことも言える。しかし、である。元々無口なので、普段は春香が一方的に話していることの方が多かった。
どちらかといえば千早もルックスには恵まれている方で、アイドルとして充分にやっていけるだけのものは持っている。むしろ上位に食い込んでくる。
ただ彼女の場合は、美希とは全く逆の、怜悧な孤高の美貌というのが近い。
美希が一通り、聞きかじった話をまくしたてるのを終えてから。千早はぼそりと、必要最小限に言う。
「大丈夫なのかしら」
「うーん、プロデューサーさんの話を聞いてみないと、何とも」
「むしろミキはわくわくだよー」
いつも美希はそうだ。
好きなことに対しては常に楽天的。もっとも彼女は気むずかしくて、気が向かないことに関しては、徹底的にやる気を出さない。普段は事務所のソファを占領して、寝ている事も多い。
そういうときは、来客に姿を見せられないので、慌ててパーティションの仕切りで隠したりもする。
美希がやる気を出すようになったのは、今のプロデューサーの下でなら、実力を最大限に発揮できると悟ってから。
それからは、この三人の中でも、一番の人気を獲得しているほどに、仕事を頑張っている。
もっともどういう考えなのか、プロデューサーは春香をリーダーにしたまま、動かそうとはしないが。
プロデューサーが帰ってくる。
予想よりずっと早かったけれど。表情は深刻だった。
まず黙礼だけすると、社長室に直行。かなり分厚い紙束を携帯していたところからして、仕事は受けたのだろうか。
他の三人のプロデューサーが、慌ててと言う様子で戻ってきたのは直後。春香達のプロデューサーである桜花さんは彼らのリーダーでもあるので、それだけ重大な話をする、という事だ。
会議が長引く。
他のアイドル達は戻ってこない。
或いは、聞かせるべきでは無いと判断したのかも知れない。
思ったより遙かに厄介な仕事なのかも知れないと、春香は内心思ったけれど。敢えて口にはしない。
美希がやる気をなくすと大変だからだ。
一度火がつくととことんまでがんばれるのだけれど。やる気をなくすと、幼児のように職場を放棄しかねない。
まあ、近年はそんな事は無くなったけれど。
会議が終わったのは、かなり遅くなってから。
会議室から怒鳴り声が聞こえるようなことは無かったけれど。ただ、会議がかなり紛糾したのは間違いなさそうだった。
何度も事務の小鳥さんが会議室にお茶を運んで、カラのを持ち帰ってきたくらいである。
美希は当然熟睡。
千早は何度か外に出て、喉を調整していた。
ようやく会議が終わって、プロデューサーに呼ばれる。目を擦る美希を一瞥だけすると、一緒に会議室に移った。
ホワイトボードには資料の説明らしいものが書かれている。
「外務省から説明を受けたが、幾つかのトップアイドルグループ、それも最大手では無くてトップの中でも中堅所、という微妙なものに声が掛かっている」
「うちみたいな、ですか?」
「そうだ。 いわゆるトップオブトップの何名かには声が掛かっていない。 これがどういうことか分かるか?」
分からない。
千早は分かっているようだけれど、敢えて何も言わなかった。
言ったのは美希である。
「ひょっとして、危ないお仕事になるかも知れないってこと?」
「そうだ。 お前は直感的に本質を突いてくるな」
「うん。 ミキはそういうの鋭いよ」
「知っている」
咳払いすると、プロデューサーが説明してくれる。
やはり、三陸沖にあるメガフロートに、なにやらよく分からない空間がつながっているのだという。
現時点では、メガフロートにて、極めて限定的な交流が持たれているということだ。
相手側は交流を拡大する気が無く。
此方にも無い。
ただ、相手側が興味があったものがあるという。
それが、此方の世界に山ほどいる、アイドルという文化だ。
「現時点で、国内だけで地下アイドルも含めると二十万人。 関連産業への従事者はその五十倍近くに達する。 歴史上類例が無いほどのアイドル文化隆盛の時代だ。 世界中が同じような状態だが、その多彩なアイドル文化に、向こうは興味を持っているそうだ」
「私達が、そんな凄い仕事に、選ばれて良いんですか?」
「この国がたまたま空間的につながった先で、お前達がこの国の役人が適切な位置にいるアイドルグループだと判断しただけだ。 ただ、他にも何グループか、声が掛かっているがな」
まだ少し、話が見えてこない。
親善大使みたいなことをすれば良いのだろうか。
異世界と言っても、どうもぴんと来ないのである。
それに、危ないお仕事ってのは、どういうことなのだろう。
春香も一日所長の類はやった事がある。遠い国から来たえらい人達や、文化人に、お花を渡したこともある。
海外に出向いた事もある。
世界的にアイドル文化が隆盛な時代、アイドル同士の国際交流は盛んになっているからだ。ただ、この三人の中では千早が一番、国際的には受けが良いようだが。
「まず、何グループかのアイドルの曲やPVを、向こうに限定的に輸出する。 此方は商業レベルでごまかせる程度の資源を受け取ることになる」
「ちょっとだけってこと?」
「そもそもつながった先があまり文化的に発展していなくてな。 テレビはあるらしいのだが、放送局が一つしか無いそうだ。 あまりたくさん輸出しても、流す番組がそもそもないらしい」
「うわ……」
思わず千早が青ざめる。
春香にも、何となく危険と言われた理由が分かりはじめてきた。
「その後、向こうでコンサートをすることになるかも知れない。 これに関しては、私が先に向こうへ足を運んで、念入りに安全かどうかを確認する」
「プロデューサーさんが行くんですか?」
「いきなりお前達を行かせるわけにはいかない。 そもそも向こうには、人間では無い種族が豊富にいるという。 それに、だ」
此方の世界では殆ど無いものが、向こうには山のようにあると言う。
それは戦争だ。
たまたま空間がつながった先の国。アトランティスという国については、今は安定しているそうだけれど。
世界的に見ると、此方とは比較にならないほど、頻繁に戦争が起きていると言う。
春香も、戦争がどれだけ不幸な出来事かはよく知っている。
それが頻繁に起きているとなると。
やはり政府も、交流に慎重になるのは、仕方が無い事なのだろう。
「今日は以上だ。 早めに帰って、体を休めるように。 解散」
「はい!」
立ち上がって挨拶すると、春香は二人を促して、帰路につく。
すっかり眠気も覚めたようで、美希は何度か小首をかしげていた。
外はもう真っ暗。
春香は事務所から家までがかなり遠い。アイドルになって当初は良かったのだけれど。最近は忙しくて、家に帰れない日も多い。そういうときは、大体千早の家に泊めて貰う。今日は幸い其処までは遅くない。
電車を乗り継いで、首都圏の郊外まで。
駅で二人とは別れたから、電車の中ではずっと一人だ。
都会の明かりは、今日もまぶしい。
最近は、同じ事務所の仲間達が書かれている看板を電車の中から見ることは珍しくも無い。出演しているCMが、電車の中の小型テレビに映し出されることも多い。だから、電車の中では、変装しなくては危なくて仕方が無かった。
ただそれでも、SPが必要なほどでは無い。
戦争がたくさん起きていて。
人間では無い種族もたくさんいる世界。
あまり想像は出来ないけれど。
ただ、そこでは。春香のようなアイドルは、一体どのような生活をしているのだろう。或いは、アイドルがそもそもいないのだろうか。
美希はとても楽しそうに異世界のことを想像していたけれど。
どうにも春香は、其処まで楽天的にはなれなかった。いや、少し違うかも知れない。美希の場合は、多分危険もあわせて楽しめているのだろう。春香は、其処までは、図太くなれなかったのかも知れない。
2、交流はじめ
桜花にとって、異国の地を踏むことはもう珍しくなくなったけれど。流石に異世界に足を踏み入れるのは、これが初めてだった。
とはいっても、児童向けの作品では無いから。異世界に行けば好き勝手できるというようなことも無いし。何でもかんでも相手が褒め称えてくれるという事もない。
文明の力はあまり差が無いようで、更に空間の穴そのものも極めて小さいため、大人数も出入りは出来ないようだった。
向こう側は若干空の色も違う。
海の近くの空は、桜花の世界でも多少は普通と異なるけれど。
何というか。青みが強いのだ。
周囲を見回す。
どうやらメガフロートの一種らしい。
そういうものがあるという話は聞いたことがあるけれど。実際に足を踏み入れるのは、今日が初めてだ。ちなみに三陸沖の似たようなメガフロートから来ているので、経験としては二回目になるが。
メガフロートの四方には、対空砲というやつなのか、或いはミサイルなのか。非常に威圧的な兵器群が配置されている。
一応桜花の世界のメガフロートも、周囲には軍艦がいたけれど。これとは装備の物々しさが段違いだ。
更に、フードを被っている影が数名。
すぐに分かった。
彼らこそが、人では無い種族、なのだろう。
ただ、人もいる。
敬礼してきた、相手側の軍人。
非常に四角くて、ごつくて。そして冗談など、通じそうにも無い雰囲気だった。此方も礼を返す。
「今回、護衛を頼まれているジョーという。 貴殿は」
「飯島桜花です」
「此方で言うJ国の人間と似た名前だな」
「ジョーさん、調査したところ、ほぼ同じ存在のようですよ。 多少は異なるところがあるようですけれど」
言いながら近づいてきたのは。
桜花とあまり背丈も変わらない女性だ。ショートカットにしていて、ハーフズボンをはいている。上着もジャケットで、とにかくファッションよりも動きやすさを重視しているようだ。
これでも桜花は本職だ。
相手が童顔だけれど、二十代であることは、即座に看破した。
年の割には、非常に活動的な格好だ。
海腹川背と名乗られた。握手を交わした後、メガフロートの一角にある建物へと案内される。
以降、ジョーは一言も喋らず、周囲に徹底的に厳しい目を向け続けていた。
ジョーはものすごく立派な銃で武装していたが。それ以外の兵士は装備がまちまち。人間は銃を持っているが、それ以外の種族はなにやら宝石で飾り立てられたやりを手にしている。
あれで、銃と互角に戦えるのだろうか。
しかし、見張りに配置されているという事は、そう言うことなのだろう。
建物はどうやらプレハブらしい。
此方でもありそうな素材で、ただしかなり頑強に作られているようだった。内部では冷房も効いている。
席に着くように言われて。
そして、茶も出された。
川背という女性が茶を淹れてくれたけれど。手際が生半可なものではない。プロの料理人裸足。
いや、多分プロ経験者か、現役だ。
「結構なお点前で」
「なるほど、そちらではそういうのですか。 覚えておきましょう。 そして、有り難うございます」
資料が、渡される。
紙の質は、こちらと殆ど同等。
いや、非常に手触りがよい。事前の情報では、この世界の発展途上国ということなのだけれど。その割には、文明の程度が高い。
ひょっとして先進国だったら、もっと良い紙が出てきたのだろうか。
軽く、世界について説明される。
既に穴が空いてから二月ほど。
桜花の世界からも、何名かが既に来ていて。ウィルスなどにやられる可能性が無い事は、既に分かっているという。
大気組成なども微妙に違うが、ほぼ同じ。
ただし、重力は桜花の世界より大きい。
更に事前に聞いているとおり、この世界では様々な戦いの歴史がある。人間同士の。そして、人間とそうではない種族の。戦いは長く続いていて、現在進行形で世界の何処かで起きている。
その分人間が、かなり強靱なようだった。
ただ、桜花の世界では、人間の強さには、さほどの意味が無い。資料に目を通していくけれど。
世界の国々の二割ほどで、何らかの紛争を抱えているという記述を見て、唸ってしまった。
やはり、平和の概念が根本的に違う世界のようだ。
このアトランティスを有する世界では、これでかなり平和な時代だと言うけれど。
桜花の世界では、何処かの国で紛争なんて起これば即座にニュースになるほどである。
世界中にアイドルがいる桜花の世界は。このアトランティスの世界に比べると、それだけ安全なのだと、この資料を見るだけでよく分かる。
交流の目録についても、示される。
此方にとって、貴重な資料を、国際的なバランスを崩さない程度に提供する予定が、向こうにはあると言う。
一方で、向こうの要求は。
事前に聞かれているとおり、文化だ。
「うちの事務所の子達に、ライブをして欲しい、というのは。 具体的にどのような場所で、いつになりますか」
「まだ確定したわけではありませんが」
川背が、また違うパンフを出してくる。
今回はいきなり現場に案内はしないらしい。国家機密などもあるのだろうか。
だが、流石に驚かされる。
あの子らが新人のころは、当然下積みを散々した。今では考えられないような場所での仕事も多かった。
アイドルがあまりにも多い時代だけれども。
それでも、別にアイドルは特権階級では無い。
最初は田舎のコンサートなどで盛り上げ役をしたり、大物アイドルのバックダンサーをしたり、色々と下積みからはじめなければならない。
しかし、である。
色々な雑事からはじめた自分たちとは言え。此処まで変わった場所での仕事は、初めてに思えた。
「これは、鍾乳洞ですか?」
「そちらの世界で言う鍾乳洞とは少し形成の過程が違うようですが、同じ理由で他の事務所からも驚かれました」
「む……これは」
難色を、流石に示したくなる。
資料を見る限り、殆ど整備されていない鍾乳洞の奥。その一角にある広い空間を、そのまま、それこそほとんど手入れせずに使っているとしか思えないのである。
ただ、かなり広い。
「野外コンサートホールの方が、まだ良いと想いますけれど」
「此処で行うには理由が幾つかありましてね。 最大の理由は、とても光に弱い種族が、幾つかあると言う事です。 彼らにも、文化というものに触れる機会を得て欲しいと、僕の主君が考えています」
「……」
さらりと僕といったか。
まあ、それはいい。この人はかなりの若さで、発展途上国とはいえ小さな国のトップ近くにまで上り詰めているのだ。
それこそどれだけ変わっていても、不思議では無い。
他にも幾つかの資料を見せられて、その条件の厳しさに辟易した。
まず交流に用いられる曲だけれど。
何かしらの政治的意図があるものについては禁止。
ただ校閲や検閲の類はかけないので、自主的な努力を期待する、とある。
これについて確認すると、川背という彼女は言う。
「今、此処で文化に触れた方が良い人々は、今まで強大な存在の奴隷や使い捨ての道具として使われてきた存在です。 その強大な存在が支配の手を離して自由を得ましたが、どう自由と接して良いか分からない状態です」
「彼らがそれこそ選ぶべきなのではありませんか?」
「いきなり子供を社会に放り出して、自活しろと言えますか?」
それは、そうだ。
ましてや桜花の世界と違って、此方は戦争が彼方此方の国で常時起きているような修羅の世界だと聞いている。
自由だから、他人に迷惑を掛けない範囲で好きに振るまえと言われても。混乱が起きるだけのように思えてくる。
考えて見ると、社会のリソースをアイドルとその消費に頼っている桜花の世界は、かなり平和で幸せなのかも知れない。
幾つかのフィルターを脳内で掛けるけれど。
基本的に、此処で公開できない曲は無いように、桜花には思えた。ただこれについては、思想の違いもある。
幾つかサンプルのCDと再生機器を取り出して、渡す。
川背は頷くと、受け取ってくれた。
今回はこれで終了。
今日は後二軒の事務所と同じような面談があると、送り出す途中で、川背は言っていた。側に立っていたジョーという男は、その間。ずっと周囲を厳しい顔で警戒し続けていた。此方の世界にも軍隊はいるけれど。この男ほど、機械のように身を固めて、周囲に対して意識を集中している男はいないのではないか。そうとさえ、桜花は思った。
空間の穴を通るとき、少しだけざわりと来るけれど。
それが終わると、相手側のメガフロートから、三陸沖の方である。
政府のお役人が待っていたので、状況を説明。頭のはげ上がった気がよさそうなおじさんは、問題が無くて良かったと、額の汗を拭いながら言うのだった。
事務所に戻ると、いかにも気持ちよさそうに、美希が寝こけていた。
本当に暇さえあれば寝ている。
ただ、やるときにはやる子なので。本能的に、必要なとき以外は、力の全てをセーブしているのかも知れない。
いずれにしても、桜花にして見れば。
成果さえ出せれば、それでいい。
「あ、プロデューサーさん、おかえ……きゃあっ!」
奥から此方を見かけて、来ようとした春香がすっころぶ。
相変わらずだ。
一日何度も転ぶ春香だけれど。今日も絶好調のようだった。
側にいた千早が冷静に対応したので、顔面から床にダイブと言う事は無かったけれど。いつか歯でも折らないかと心配だ。
「会議室を使って、軽く状況を話しておく。 美希を起こしておいてくれ」
「はい。 時間は」
「会議室は、使えるな。 すぐにやろう」
帰ってすぐだけれど、あまり消耗はしていない。
ライブやコンサートの時などは、色々なトラブルに対応しなければならないから、曲の最中もずっと気を張りっぱなしだ。
客からのクレームや、主催者側からの注文への対応。
更に、以前は対立していたある悪徳事務所から、散々嫌がらせをされたこともあった。
あの頃に比べれば最近は楽だけれど。
それでも共通しているのは、アイドルの仕事の最中、消耗するのは避けられないという事である。
ましてや、自分たちにとって一番大事な宝であるアイドル達を守るためには、命だって張る覚悟をしなければならない。暴漢からアイドルを守ってついた傷は勲章。アイドルを守って手指を失ったのなら、誇り。
それがプロデューサーという仕事だ。
向こうの資料は持ち帰ることは許されなかったが。
それでも、桜花には記憶力という武器がある。
流石に瞬間記憶力ほどのものではないけれど。今回の件で、必要なことは、全て覚えてきた。
会議室の中は、事務所最年少のアイドルの双子が遊んだ形跡があったけれど、それほど汚れてはいない。
春香が来たので、手伝って貰って、軽く掃除して、それから。
千早が起こしてくれたらしく、美希は目を擦りながら、会議室に入ってきた。しかも、千早に肩を借りながら、である。
「あふう。 プロデューサーさん、もうお帰りなのー?」
「ああ、たった今だ。 すぐに説明をする」
「よろしくお願いします」
だらけきった美希と、きびきびした千早は好対照だ。
千早も、昔は純粋な歌の仕事以外にはあまり興味を見せなかったけれど。今はどんな仕事にも、前向きに取り組んでくれる。スタンダードに何でもこなせるので、最近は事務所でも重宝していた。
美希はやる気さえ出せば凄い。
ただ、エンジンが掛かるまで時間が掛かる。
元々のスペックは高い。天才的な素質と世間一般で言うのか、何でも飲み込みが早い。桜花からして見れば天才だとは思わないけれど。ただ、多分血の巡りそのものはかなり良い。
上手く活用できていないだけだ。
或いは、燃費が極端に悪いのかも知れない。いつも寝てばかりいるように見えるし、事実その通りなのだけれど。
実際に動き始めると、全く眠そうにはしなくなる。
ホワイトボードに、状況を説明。
説明を終えて、質問は無いかと聞くと、最初に美希が挙手した。
「鍾乳洞でライブって本当? コウモリとかいるの?」
「ああ、そうなるらしい」
「そっかあ。 千早さん、良かったね。 声が響くの」
「……」
眉をひそめた千早。
資料を見る限り、実はそうもいかないのだ。
何でも此方の世界の人間が出す声の波長も、かなり抑えなければならないとかで。大音響でライブをするというわけにはいかないらしい。
音に弱い種族はいないそうなのだけれど。
彼らにとって不快な音域を抑制する必要があって、様々なフィルタをマイクに掛けなければならないそうだ。
「思い切り、歌えないのかしら」
「音響が此方と違うと思って欲しい。 声が鍾乳洞を震わすようなライブは無理だ。 かなり抑えめになる」
「ええー!」
露骨に美希がいやそうに言う。
この娘は、テンションで能力が大幅に上下する。やる気をなくせば、敵前逃亡しかねないところも、昔はあった。
今はきちんと仕事はするようになったけれど。
それでも、限界はある。
もしも完全にやる気をなくしたら、やる気を出させるのに、本当に苦労することになるのだ。
春香はこんな時、潤滑剤として活動してくれる。
美希をなだめながら、春香は一番最後に言った。
「まあまあ、きっとなんとかなるよ。 プロデューサーさん、何か良い話は、ありませんか?」
「今の時点ではやりとりが限定的だ。 とにかく交流プロジェクトとして、それぞれの曲を幾つか渡した。 向こうで軽く流して見て、ライブに呼ぶアイドルグループを決めるそうだ」
「それなら、もしも決まったらだけれど、向こうの人達も歓迎してくれるんじゃないのかな」
ならばいいのだけれど。
正直、桜花自身も、その辺りはよく分からなかった。
3、思索の違い
およそ一月半ほど後。
桜花はまた、外務省の人間に呼び出された。
あれから交流プロジェクトが進展。向こうから回答があったという。呼び出されたという事は、結果は見えていた。
外務省のビルに出向いて、其処で説明を受ける。
それから、今回はアイドルにも、一緒に出向いて欲しいと言う話をされた。三人全員では無くて、春香だけで大丈夫だという。
「安全面は、大丈夫ですか?」
「それに関しては問題ない」
はげ上がった頭を撫でながら、以前対応してくれた長沼という役人が説明してくれる。
何でも既に二百回以上向こうと行き来をしたそうなのだけれど、危険な目にあった事は一度も無いと言う。
殆ど賓客扱いだとか。
その上細菌や病気などの検査も徹底的に行っており、どちらにもパンデミックが起きる可能性はないと判断されたとか。
向こうはとにかく、非常に気を遣ってくれているという。
「限定的な交流というのもあるのだけれど、向こうにも此方にも、悪いものが持ち込まれないように、本当に良く気を配ってくれているんだ。 あの川背という女性、もの凄いやり手だよ。 うちに欲しい位だ。 実務能力も折衝能力も並大抵じゃない」
国家一種を受かって役人になっているだろうこのおじさんが、こうも手放しで褒めるとは。確かに話していて出来る人物なのだろうというのは感じていたけれど。実際に仕事を一緒にすれば、能力の高さは実感できると言うわけだ。
「うちの子達の曲は人気なのですか?」
「かなり喜ばれているようだね。 ただ、少し向こうで聞くと、イメージが変わるかもしれない」
「……やはりそうですか」
何となく、それは分かってはいる。
コンサートの際に、様々な制約がつくと、事前に説明を受けているのだ。多分そのまま、テレビで放送はしていないのだろう。
幾つかの資料を受け取る。
現時点でも、春香達三人はトップアイドルだ。二十万いるこの国のアイドルの中でも、上位五百名に食い込む者達をトップアイドルと称するけれど。紛れもなく、その中に含まれている。
非常に多忙な三人が丁度偶然揃うことはあまり無い。そう言う意味で、この間は本当に運が良かった。
最近は桜花が調整して、出来るだけ春香が一人きりにしないようにしているほどである。これには理由があるのだが、今の時点では関係が無い。
会社に帰ると、高木社長に声を掛けて、すぐに会議。
会議と言っても、小さな会社だ。
社長とプロデューサー達四名。それとたまたま戻っていた、アイドル達の中でまとめ役をしている秋月律子を加えた六人で、話し合いをする。
律子は此処にいるアイドルの中では最古参で、一時期はプロデューサーも志していた。年齢的には上のアイドルもいるのだけれど、事務仕事も半分は肩代わりしていることもあって、アイドル達の中では自然とまとめ役を任されている。
資料を事務員の小鳥にコピーして貰って、全員分配る。
説明をして行くと。
最初に難色を示したのは、律子だった。
「大変光栄な話だと思うのですけれど、慎重に動くべきだと思います」
「ふむ、秋月君は、反対なのかね」
「私自身の意見を言わせていただければ、反対です。 確かに興味深い話なのですけれど、危険すぎます」
物腰柔らかくて、誰にでも優しい社長。
だから、此処では誰もが、意見を言いやすい。
律子は思いやりのある女性だが、その一方でかなり体育会系な思考をする。
社会人として会社第一に考える一方で、アイドル達の事も考えている。
だからこそに、こういう厳しい意見を言えるのだろう。
「飯島君はどう思うのかね?」
「今回はプロジェクト的にはあまり大がかりではありませんし、利潤もさほどは見込めません。 それに対して、懸念されるリスクが大きいのは事実です」
まずそもそも大前提として、今回の仕事ではリスク相応の現金が入らない。
アイドルは歌えば金がお空から降ってくる、などという職業では無い。たとえばコンサートを開く場合、チケットなどを売り得られる粗利から、人件費に代表される経費を引いて、利益が出る。
今回、政府から特別な仕事と言う事で補助金が出るので、赤字になることは無いけれど。
アイドルが飽和している現状、政府はさほど気前よくお金を出してくれない。
勿論、国のお仕事だから、普通にライブを一度や二度するくらいよりも、遙かに実入りは良い。
正直今の春香達は、実力でその程度のお金は稼いでくる。昔は兎も角、現状の事務所には借金もないし、此処で冒険をする理由は無い。つまり、見合った現金が入らないのだ。
765プロは決して大手とは言えないが、所属する13人が全員トップアイドルという、極めて珍しい事務所なのだ。大手の事務所の中には、もっと多くのトップアイドルを抱えている場所もあるけれど。
年齢的にあまりばらつきが無い、殆ど同時期に入った13人が、全員トップまで上り詰めた事務所は此処くらいしか無い。
脱落者を出していない理由は幾つかあるのだけれど、その中の大きな鍵が春香と律子になる。
その内律子は反対と表明している。
彼女が絶対に反対と言い出したら、担当のプロデューサーでも黙らせることは不可能になる。
春香も揃って同じ意見を示したら、多分話は流れる。
二人は、この事務所で、そう言う立場にいるのだ。
だから桜花としては、説明をしなければならない。今、桜花は、むしろ乗り気になってきているのだから。
「しかし、これは良い機会になると思っています」
「どうしてですか、飯島プロデューサー。 忌憚ない意見をお聞かせください」
「まず第一に」
律子の視線は厳しい。
彼女は引かないとなると、てこでも引かない。
元々見かけと裏腹に、思考回路は体育会系そのものなのだ。
実際、怒鳴りあいつかみ合い寸前の大げんかになった事も二度三度とある。桜花も律子も理論派だけれど、アイドルに対する考え方には違いがある。
「今回の仕事は、今までに彼女たちが経験したことが無いものになります。 制約が非常に厳しい中、どれだけ力を発揮できるか。 幸い、相手側の責任者が極めて有能な人物で、此方からの提案は通りやすいこともあります」
「む……」
律子も、分かっているのだろう。
アイドルとしては、そろそろ春香達はターンポイントになる。
今までも色々な経験をして来ているけれど。それでも、新しいことには、積極的に挑戦していくべきなのだ。
元々律子は、アイドルとして大きな壁にぶつかって、色々と苦労した経歴を持っている。彼女はアイドルとしてのルックスも歌唱力もどうにか水準という所で、それを努力でカバーしてきたため、人一倍、自由競争の厳しさや、社会原理の冷酷さには敏感だ。
今でこそ、トップアイドルに上り詰めたけれど。
分かっているのだ。
色々な経験をすることが、アイドルにはどれだけ大事か。
だから、敢えて其処をつく。
しばらく腕組みをして考え込む律子。他のプロデューサー達は、みな冷や冷やしながら、状況を見守っていた。
彼らの中では、桜花と律子は仲が悪い、という認識になっている。
幾つかの会議で、大げんかをやらかしたことが、理由だ。
ただ律子は桜花を認めてくれているらしいと春香から聞いているし。桜花も律子の努力で培った今の立場は、最大限尊重するつもりでいる。
「それならば、私も同行させていただきたいのですけれど」
「それは駄目だ、秋月君」
ぴしゃりと、高木社長が言う。
温厚だけれど。この人が駄目と言う事は滅多に無い。そして、その滅多に無いときが、今だった。
当然、発言権は、律子より強い。
「飯島君に任せよう」
「しかし、春香だけを危険な目に遭わせるわけには」
「危険は重々承知だ。 最悪の場合は、私の命に代えても、春香だけは助ける」
幾つか、手も打っておくべきだと考えている。
政府の人も同伴してくれるのだ。
勿論、危ない目に遭う場合は。それこそ、今まで見た事も無いほど危険な事になる筈だ。だが、これは賭だ。
トップアイドルと言っても、いつまでも人気が持続するわけではない。
二十万からなるアイドル達の時代も、いつまでも続く保証は無い。
それならば、色々な経験を、武器にするべきなのだ。
勿論危険については、最大限の吟味をする。
資料を説明しながら、時々激論を交わし。
結局、会議が終わったのは、翌日だった。
小さくあくびしながら、春香を伴って外務省に出向く。途中タクシーを使ったが、春香はすでに、いつもの伊達眼鏡と帽子を被って、変装を済ませていた。
有名になり始めたころから、通勤通学の電車の中でも、しっかり顔を隠していないと騒ぎになる事があったそうである。
自衛策をしっかりするように、指導したのは桜花だ。
だから、きちんとコミュニケーションが取れているのを実感できて嬉しい。
短時間でトップアイドルになったような子は調子に乗って、周囲を奴隷のように扱うこともあるらしいけれど。
少なくとも桜花が手を引いてスターの階段を上った事務所の子達は、そういう愚かしい行動は今まで取らなかった。
ただし、まだ若いのだ。
周囲の誘惑は魅惑的に見えるはず。
危険にはいつでも対処できるよう、桜花が目を光らせていなければならない。
「プロデューサーさん、今回は私と二人だけで行くんですね」
「外務省の役人も一緒だ。 ただ、今回は何が起きるか分からない。 気は張っておいてくれ」
「分かっています」
律子を激論の末に説得したのだ。
その疲れもあって、少し喉がいがいがしている。
外務省のビルに到着。中で役人と軽くミーティングをする。役人は春香よりも美希のファンらしくて、美希と会いたかったとぼそりと呟く。もっともこの人は、立場的に今回向こうに交流目的で出向くアイドルを選んではいないだろう。
それからは、政府公用車に乗り込んで、三陸沖へ。
途中までは車だったけれど。海上という事もある。途中からはヘリだ。
政府の輸送用ヘリは、内部がかなり広く取られているけれど、それでも手狭。しかも武装した自衛官が一緒に乗り込んでいるので、かなり緊張する。
春香が隣で萎縮しているのが分かる。
桜花が黙り込んでいるのは。春香を不安にさせないためだ。
途中までは笑顔も多かった春香だけれど。流石にヘリに乗って、武装した自衛官に囲まれた当たりから、完全に無口になった。
無理もない。
ヘリに揺られてしばらくする。ミーティングは事務所で済ませてあるし、更に外務省でも話をしたから、もうこれ以上何もない。
「あの、プロデューサーさん」
春香が真っ青になっているのが分かった。
久しぶりだ。最近はどんな仕事でも、物怖じしなくなったのに。
昔はプレッシャーに弱くて、心臓が飛び出しそうなどと、千早にぼやいていたものだった。
「飴だ」
「はい」
少し堅めの飴を渡す。言葉短く、春香は口に入れた。
出立前に、念入りに確認している。
今回は危険を伴う。
だが、春香達にとって、大きな経験になる仕事だと。
アイドルだけの輝きで立脚できる年月は、あまり長くない。もしも今後も輝くステージに立ち続けたいのなら。多くの経験を積み、様々なものごとを見聞きして。自分の力を伸ばして、光を増していかなければならない。
春香は、頷いた。
危険でも、行って見たいと。
そして春香がそう言うと、分かっていた。千早や美希を行かせる前に、まずは自分がと、言うはずだと。
それでも、まだ十代の女の子だ。
飴をなめていると、少し落ち着いてきたようだ。この辺りは、散々色々なトラブルをくぐってきただけはある。
桜花だって、不安はたくさんあるのだ。
資料でしかしらない向こうのこと。
実際、人間では無い種族がたくさんいると言われても、ぴんとこない。ごく一部しか見ていないのだから。
ヘリが着いたころには、春香は完全に落ち着きを取り戻していた。桜花は、顔を叩いて、自分もしっかりしなければならないと思う。
メガフロートが見えてきた。
三陸沖にあるこのメガフロートは、かなり厳重に隔離されている。手荷物検査も受けて、携帯をはじめとして、カメラなどの機能があるものは全て取り上げられた。それだけの機密と言う事だ。
ただ、異世界につながる穴が出来た、という事は、既に公然の秘密となっている。これは隠す気が無いのだろう。
ヘリから降りるときに春香がこけそうになったので、支える。
「はっはっは、こういうときにも芸が冴えますなあ」
空気を読んでいない役人のおっさんが、そんな事をいったので。
後で、うっかりと見せかけて、思い切りヒールで足を踏んでやった。
メガフロートのヘリポートまで出迎えに来たのは、口ひげを蓄えた、非常に上品なおじさまだった。
一緒にいるのは、どうも彼の姪らしい。
「ハリーと言います。 今日は案内をさせていただきます」
「飯島桜花です。 此方は天海春香。 うちのアイドルの一人です」
「天海春香です。 今日はよろしくお願いいたします!」
元気の良い挨拶。
すっかり調子を取り戻したらしい。この辺りのタフネスは、トップアイドルになるまで、散々仕事上での修羅場をくぐった事の表れだ。
ハリーの姪はロンダと名乗る。
西洋人形のようにとても可愛らしい女性だけれど。しかし、である。
事務所で、ロンダが茶を淹れに場を離れた隙に、驚くべきことを聞かされる。
「ロンダは一度命を落としたのです」
「え?」
「私も昔は色々とありましてね。 決定的な切っ掛けになったのが、愛する姪の理不尽な死でした。 しかし、彼女はある事件で、死の世界から戻ってきた。 そして今では、アトランティスでともに暮らしています。 本来、人とはともにある筈が無い存在が、それを可能にしました。 奇蹟なんて生やさしいものじゃない。 もっと途方も無いバランスの上での出来事です」
嘘を言っているとは思えない。
それに彼女が、死人だとは、とても考えられなかった。
先ほどから翻訳用の機械を使って会話はしているけれど。喋ること自体は問題なく出来ているし、何より、だ。
春香がまた真っ青になっているのが分かる。
あまりにも非常識な話に直接触れてしまって、理解が追いつかないのだろう。
「良いですか、あなた方と同じ「人間」である私でさえこれです。 向こうには、人間とは根本的に違う存在が大勢います。 今回は、色々条件が重なって、極めて友好的な交流が持てたし、私達もそれが継続できるように努力します。 ただ、気をつけることだけは、怠らないようにしてください」
頷くことしか出来ない。
ロンダが戻ってきた。茶を並べる。
白い肌の彼女は、そういえば。何だか、目に不思議な光があるような気がした。
準備が整ったと、自衛官の一人が告げに来る。
茶を飲み干すと、春香を促して、外に。潮風が、ばたばたと髪を容赦なく叩いた。此処がメガフロートの上だと、潮臭い上に遠慮が無い風が、容赦なく告げてくる。
「春香、大丈夫か」
「はい。 でも、あのロンダちゃんって子の話で、びっくりして」
「何があっても私がお前を守る。 心配はするな。 いつものように、堂々としていればいい」
空間の穴と言っても、それらしいものはない。
ただ、ちょっと様子がおかしい場所が、一カ所にある。其処はテントで覆われていて、足を踏み入れると、此方とは違うメガフロートが、向こうにもあるのが分かった。実験器具も林立している。
最初は此処で、互いに対する影響を、徹底的に吟味したのだろう。
それが不幸な結果にならなかったのは、幸いだ。
「大丈夫、私はもう何百回も向こうに行きました」
そうおっさん役人は太鼓判を押してくれる。
まずは、私だ。春香からいきなり危険の可能性がある場所へ、踏み込ませるわけにはいかない。
すっと、何かを抜けるような気がして。
気がつくと、空気が若干違うのを感じていた。
同じような隠蔽用の大型テントの中。春香が少し遅れて、入ってくるけれど。促して、テントの外に一緒に出る。
どうやら此処は。
三陸沖より、ずっと陸地が近いらしい。
海の向こうに、途方も無い規模の陸が見えた。
「アトランティスへようこそ」
ハリーが、ロンダと一緒に、来るように促す。
既に此方のとは大分形式が違うヘリが、何時でも出られるように、ローターを回転させて待機していた。
ヘリの大きさは、自衛隊機と同じ。
ただかなり雰囲気が違う。
武装がごついというか、なんというか。
もっとより実践的に、戦う事を追求しているような雰囲気だ。書かれている文字は、英語に似ている。
渡されている翻訳機を通してみる。
バンゲリングベイというそうだ。
何でも、昔に大活躍した名機をベースにしている量産機らしい。最近アトランティスで導入を正式にはじめた機体だとかで、これを含めてまだ三十機しかいないそうだ。
春香が小さな悲鳴を上げた。
ヘリの中に、明らかに人では無い存在がいたからだ。
どうみても、半魚人と言うほか無い。
それも、子供向けのグッズなどでデフォルメされているタイプでは無い。明らかに、ホラー映画で逃げ惑う女子供を襲って喰らうタイプである。顔には愛嬌は無く、体中を覆う鱗は、明らかにぬめぬめしている。身につけている衣服は腰布だけで、槍も手にしていた。幾つかアクセサリらしいものを首や腕につけているが、非常に荒々しい造形だった。半魚人としても、弛んだ体つきでは無くて、非常にがっしりしている。戦士なのだと、一目で分かる。
背丈はさほど高くないが、この重厚な体つき。生半可なレスラーなんかでは、歯が立たないだろう。
「彼らが、アトランティスで一番多い種族の、半魚人と呼ばれる者達だ。 昔はもっと違う呼び名もあったらしいのだけれど、今はそれで統一しているそうだよ」
「今回護衛を担当させて貰うアルマエラレルだ。 不都合があったら、何でも言って欲しい」
「有り難うございます」
「心配しなくても、怖れる反応には慣れている。 アトランティスの外では、俺の同胞は殆ど存在しないからな。 此方の人間も、君達と同じような表情を最初にする。 今のうちに、俺で慣れておいてくれ」
自衛隊式の敬礼をされたので、驚いてすぐに春香を促す。
春香も、意味は理解してくれたらしい。
此方の文化に、最大限あわせてくれている、ということだ。向こうが最初に譲歩してくれているのである。
「天海春香です。 今日は、よろしくお願いします」
「あんたの歌は聴いている。 言葉を翻訳するのが大変だったが、元気が出る歌だ。 今度は生で聞けると聞いて、みんな喜んでる」
ぱっと、春香が嬉しそうにした。
これは、向こうの方が、対応が大人だったかも知れない。
或いは、あの川背という人の差し金か。
あり得ることだ。
これらの反応も全て読んだ上で、対応をさせたのだとすれば。やはりあの人は、相当なやり手なのだろう。
ヘリが到着したのは、緑多き原野だった。
ただし、其処はかなりカオスな空間だった。
半魚人が十名ほど。それに骸骨だけの存在が、槍を持っているのが同じくらいの人数。それだけじゃない。
ミイラ男らしき者達もいる。
遠くに突っ立っているのは何だろう。
金色をしている人型。
「あまりあちらは見ないように」
「春香」
春香を促して、視線をむき直させる。
見るなと言うからには、見ない方が良いのだろう。アルマエラレルはこの護衛チームのリーダーらしい。
役人のおじさんとも、以前にあった事があるそうだ。
装甲バスが来た。
何というか、かわいげの欠片も無いデザインで、無骨な装甲がバスをびっしり覆っている。
アフターホロコーストものの映画に出てくるような、荒野を行くための車両のようにさえ見える。
しかもこれを更に数台の武装車両が護衛するらしい。
とんでもないVIP扱いだ。
「プロデューサーさん」
春香が袖を引く。
指さされたのは、草原。いや、草原だった場所。
緑の原野が、荒野に変わっていた。
ヘリから遅れて降りてきたハリーが、説明してくれる。
「め、目を離したら、一瞬で」
「ああ、あれは警備のための攻勢生物です。 不審者が侵入した場合、相手を石にして捕獲します。 普段は草原を偽装していますが、必要が無ければ土の中に潜ります」
「石に……」
「同じような生物がたくさんいます。 出来るだけ、見知らぬ生物には触らないようにしてください。 元には戻せますが、吃驚すると思いますから」
さっき、ハリーが死人だった姪を取り戻したと言っていたくらいだ。
石を人間に戻すくらい、彼らには朝飯前なのかも知れない。
ハリーが咳払いして、説明してくれる。
ミイラ男や骸骨の戦士達も、半魚人と同じような種族だという。このアトランティスは、以前邪悪な神様に支配されていて。その神様が、手足となる道具として、造り出したのだそうだ。
その神様が、激しい戦いの末に、倒されて。
新しい支配者を、アトランティスは仰ぐことになった。
その人が自由をくれて。
自由をちゃんと扱えるようになる過程で、皆苦労している、という事らしい。
「何だか、本当に別世界、何ですね。 同じように人間が暮らしているなんて、信じられないくらい」
目が回りそうと、春香がぼやく。
千早だったら気分が悪いと言って、休憩を欲しがっただろう。
美希だったら逆に興味津々で彼方此方に出向いて、護衛をやきもきさせたかも知れない。
春香を最初に連れてくるのが適任。
そう桜花には、分かっていた。
それでも、かなり苦労はさせている。また飴を一つ出す。
悪路をバスが進み始めた。
このまま、一時間以上掛けて、目的地の下見に行くという。窓は厳重に固められていたけれど。
外はずっと、代わり映えが無い原野が広がっていた。
アレが全て、石にする生き物なのだと思うと恐ろしい。時々空を飛んでいるのは、何だろう。
飛行機だとか兵器だとは思えない。
一瞬、箒に乗った魔女が見えた気がしたけれど。気にしないことにする。何がいても、不思議では無いからだ。
春香はようやく落ち着いてきたようだ。
桜花が窓側に。春香は通路側の席についていたけれど。窓が見たいかと聞くと、春香は無言で首を横に振る。
「それより、プロデューサーさん。 この国って、子供達っているんですか? 大人の中にだけいると、息が詰まりそう。 ロンダちゃん以外の子にも会ってみたいです」
「資料には無かったな」
「子供達はいる。 しかし、殆どの場合は、魔術で生産することになる。 腹を痛めて子供を産む種族もいる」
アルマエラレルが説明してくれる。
彼らは元々、道具として造り出された種族だったのだ。あまり増えすぎると、支配者である邪悪なる神々には都合が悪かった。
だから子供を作ることや、増える事は、厳重にコントロールされていた。
「その、結婚とかも、しないんですか?」
「俺たちの種族には、その風習はないな。 ただ、このアトランティスに逃れてきた種族の中には、つがいを作る風習を持つ者も多くいる」
「街が、見たいな……。 此処の人達の生活が、よく分からないよ」
ぼそりと春香が言うと。
写真を撮ることは許可できないがと、アルマエラレルがなにやら冊子を渡してくれた。
ハリーが撮影した、アトランティスの風景写真集だという。
開いてみると、非常に美しい。
漁をする半魚人達。
荒れ地を耕すミイラ男と、人間達。
人間も暮らしているのだと、これらの写真を見ると分かる。
素朴な集落。
ビル街もあるにはあるけれど。あまり背が高いビルは、存在していない様子だ。発展途上国だという話だったけれど。
夜景は、とても美しい。
この本は世界的なベストセラーとして、彼方此方の国で売れているそうだ。美しいと思う感覚は、何処の世界でも同じでは無いはずだけれど。少なくとも、この本の美しさを共有できたことだけは、桜花には好ましいと思えた。
外にいる武装車両がまた増えた。
この国は軍事力だけは、列強を押し返せるほど存在しているらしい。
春香は、完全に仕事をするときの顔になっている。
必死に、この完全なる異世界を理解しようと、務めているようだ。
そうしないと、きちんと歌えないし。
ステージに立ったとき、呼んでくれたこの世界の人達に、失礼に当たると思っているのだろう。
バスが止まった。
神殿のような場所に出る。というよりも、此方の世界のギリシャ様式としか思えない。荒野にぽつんと立つ白亜の神殿は、極めてシュールだ。
だが、先ほどまでより、かなり春香は落ち着いている。
吃驚することばかりであっても。
やはりたくましい。かなりの速度で、環境に順応しはじめていた。
ハリーが軽く説明をしてくれる。
「此処の地下で、ライブをしてもらいます」
地下空間に、一緒にはいる。
神殿の入り口の中は洞窟になっていて、ゆっくりと降っていく。足下は石畳で整備されていたけれど。
それでも、壁や天井は、剥き出しだ。
奥は、それほど遠くは無かったけれど。完全に天然の鍾乳洞。
ステージになっている場所は、そこそこの広さと奥行きがある。これなら三人と言わず、それこそ765プロに所属する全員でライブする事も可能だろう。
ただ、事前に資料を渡されている。
此処からは、向こう側に会わせて、ライブをしなければならないのだ。
春香はステージに立って、遠くを見ている。暗いと、彼女はぼやいた。側には常に一人以上、半魚人の戦士がついていた。
「これでも、少し明るすぎるほどだ。 ちなみに参考だが、あなた方の映像は、こうして放送されている」
意外に近代的な仕組みの映像発生機器をアルマエラレルがつけると、映し出される春香達三人のライブ。ただ、映し出されているのは、何というか。
モノクロ時代の映像に思えた。
それだけ、色合いが消されている。
技術的に会場を調べる桜花の側では、アルマエラレルが話をしてくれる。
隊長らしいけれど。非常に詳しい。
半魚人達の中で、相当な知恵者なのだろうか。単なる軍人としては、異色に思える。良くは分からないけれど。
「そのままだと、ちかちかと色が多すぎて、見えないと嘆く種族が多くてな。 画面にモノトーンを掛けて加工している。 ただ要請がある場合は、原盤を放送している」
「音も聞いていたとおり、少し違いますね」
「高音域と低音域をカットしている。 本来の歌を聴かせたいのは山々なのだが、聴覚にダイレクトにダメージが行く種族がいる。 深海や地底に適応した種族もいるのだ。 ある程度の不自由は、仕方が無い。 完全な自由が、体を傷つけてしまうことも、あるのだ」
音響などのスタッフを頼めるかと聞く。善処しようと言われた。というか、スタッフを連れてこられない以上、そうして貰えないと困る。
幾つか機器を見せてもらった。
技術力は問題ない。というよりも、はっきりいって、科学技術は完全に同等とみた。軍事力はこのアトランティスの方が上。
ただ、ライブなどに用いる機器は、桜花の世界のが数段技術的に上だ。
しかし、古い機器でのライブ経験はある。
実際、春香達を引きつれて最初に行ったライブでは、故障寸前の機器をだましだまし使って、どうにか凌いだのだ。
マニュアルを見せてもらいながら、頭の中で会場構築する。
会場規模から言って、四千人から五千人の客ははいる。ただ、事前に聞かされている分だと、入って二千人、というところらしい。
ただ、将来的な事も考えておきたい。
会場を頭の中で構成し、プログラムを組むのは得意技だ。出来る材料を使って、どれだけのことをするか。
それをこなせて、プロデューサーとして一人前なのだ。
春香が、ステージでシミュレーションを兼ねてか、歌い始めた。
半魚人達が、あまり表情は分からないけれど。少し身じろぎするのが分かった。
春香は、歌うことが好きだ。
技術的には千早に及ばないけれど。歌が好きである事は、見ているだけで分かる。そんな、「好き」だ。
だから春香の歌に元気を貰ったというファンは多い。
幾らかのアイドルの中で、春香が異世界の者達にさえ支持を受けたのは、それが理由の一つだろう。
「皆、嬉しそうにしている。 お前達を呼ぶことを決めてくれた俺たちの主君には、いつも感謝してもしきれない」
アルマエラレルがそう言う。
半魚人達の表情は分からないけれど。あれは、嬉しそうにしている、ということで良いのだろうか。
良いのだろう。
「もう少し、詳しくこのコンサート会場を見せてもらって良いでしょうか」
「分かった。 春香殿に関しては、護衛を増やしておこう」
勿論、春香からは目を離さないが。
それでも、もう少し、距離を取っても大丈夫なような気がした。
下見が終わって、帰りの装甲バスに乗り込む。
バスはそれなりの数があるそうだ。この会場はかなりそれぞれの種族の集落から遠いらしく、歩いて帰るのは骨であるらしい。がらんとした何も無い空間も、駐車場として用意はしてあるけれど。
そもそも、個人が車を持っているような、豊かな国では無いのだろう。
それはハリー氏の写真集を見せてもらって、よく分かった。
だが、物質的に豊かなことが、幸せとは限らない。
ハリー氏と、帰りに話す。
春香はすっかりロンダと仲良くなったようで、二つ前の席で、なにやら話し込んでいる。最初は一度死んで、尋常ならざる方法でこの世に舞い戻ったという事で怖かったようなのだけれど。
同年代という事もあって、社交的な春香には、仲良くなることは難しくないようだった。
「話を聞く限り、此方の芸能界と、其方の芸能界は随分違うようですね」
ハリー氏は言う。
実は、桜花としても、そうは感じていた。
「此方にも芸能界と呼ばれるものはありますが、才能や努力よりもスポンサーの積むお金や、コネクションがものをいう世界です。 内実は利権関係でがんじがらめになっていて、犯罪組織も運営に根深く絡んでいます。 先進国と呼ばれる地域でさえそれで、発展途上国は更に酷い。 純粋なアイドルでさえ悲惨なのに、派生的な文化の従事者は、苛烈な差別に晒されています」
「私の世界では、考えられない……」
春香達は、実力でのし上がった。
元々765プロは零細事務所。もしも、このアトランティスがある世界の芸能界だったら、春香は上手くやって行けたのだろうか。
ハリーは厳しかったのでは無いかと言う。
「アイドルを取り巻く状況も、此方では過酷でしてね。 たとえばアイドルグループの場合、センターを巡って激しい足の引っ張り合いや、イジメが行われるのも、日常茶飯事です。 陰湿なイジメによって、精神を病んでしまったり、カルト、いわゆる邪教の類に足を突っ込んでしまうアイドルも実在しています。 枕営業の類も日常的に横行し、とてもまともな精神でやっていける業界ではありません。 更にいえば、ファン層も紳士的とは、とうてい言いがたい」
ぎゅっと、膝の上で手を固める。
春香の笑顔は太陽のよう。
どんなに皆が苦しいときでも、支えて廻って。皆で一緒に、事務所そのものを持ち上げてきた。
春香はアイドルとしては、素質の何もかもがせいぜい中堅だけれど。それでも、765プロの全員が認めている。
皆が苦境でも心折れずに、頑張って努力を続けられたのは。春香という軸があったからだと。
きっと新人が入ってきても、悩みを親身になって聞くし。
苦しんでいたら、一緒になって考えて。悲しみを共有して。そして、みんなで、仕事を成功させることを考える。
故に自身も力を伸ばして、ついにトップアイドルにまで上り詰めたのだ。
だが、それは。
公正な競争が行われていて。
悪い人がいても、ごく一部でしか無い、桜花の世界の芸能界だから成り立つ。
想像するだけでぞっとする。
コネと金だけで成り立つ芸能界で、春香が心身ともにずたずたにされていく様子なんて、考えたくも無い。
春香は社交的な分、孤独には極めて弱いのだ。
桜花だって、そんな場所からは、春香を守りきれない。
「此方の芸能界が地獄だとすれば、桜花さん。 貴方の世界の芸能界は、さながらアイドルのために用意された天国だ。 輝くステージに努力が報われる場所。 アトランティスで、彼女たちが限定的に輝くことは出来る環境を全面的にバックアップはしますが、やはり交流は限定的なものにした方が良いでしょう。 あまり交流を広げると、恐らくは此方の地獄を、貴方の世界に輸出することになる」
「心しておきましょう」
そもそもだ。事務所のアイドル達は、皆一癖も二癖もあるけれど。みんな良い子、という点で共通している。
桜花も他のプロデューサーも、みんなが大好きだ。
皆を、地獄になど、落とすわけには行かなかった。
ヘリでメガフロートに行く。
また来るからね。
春香が屈託の無い笑顔で。最初は怖がっていた半魚人やミイラ男、骸骨の戦士達に、ヘリから手を振っている。
槍を構えたまま、最敬礼で見送ってくれる無骨な戦士達。
皮肉な話だ。
話を聞く限り。素朴な彼らの方が、余程人間らしいのだから。
空間の穴を抜けて、元の世界に戻ってくる。
「どうでしたかな、アトランティスは」
「良い仕事が出来そうです。 向こうの人達が喜んでくれるよう、全力を尽くします」
「そうかそうか、楽しみにしておりますよ」
はげ上がった頭をハンカチで何度も拭くと、役人のおじさんは満足げに戻っていった。
ヘリが来るまで、少しある。
春香を手招きして、小声で聞いてみる。
「どうだ、いけそうか」
「最初は、正直凄く怖かったです。 でも接してみると、みんなとても純粋で、私の世界のファンの人達と同じだって分かって。 色々制約はついて大変だとは思いますけど、やっていけそうです」
「よし、頼むぞ」
「はい!」
春香は、こういうときに嘘はつかない。
人を見る目だってある。
行ける。
そう、桜花は確信した。
4、異文化ライブ
何度か会場に足を運んで、設営や当日のプログラムについて説明を受けて。実際にプログラムにも目を通して。
そして、春香からも、千早と美希には説明をして貰った。
二ヶ月ほどの間に、下見として、春香には四回。現地に足を運んで貰ったし。千早と美希にも一回ずつ。
だいたい予想通りではあったけれど。
千早は春香と一緒では無かったら、拒否反応を示したかも知れない。
寡黙な千早は、その分内にため込むタイプだ。何かあったときには、既に遅いという場合も多い。ただ、社交的な春香が普通に半魚人に話しかけ、向こうの人達とも交流しているのを見て、怖い相手では無いと理解する事が出来たようで。何よりだ。
美希は何事にも興味津々で、更に歯に衣着せず物言うので、見ている此方が冷や冷やさせられた。
どうにかライブ当日まで上手く事は運び。
そして、当日がやってきた。
公務員以外の人間を、同時に四人もアトランティスに輸送するのは初めてだと、役人のおじさんは言っていた。
春香は四回も来たからか、すっかり落ち着いたものだ。
まだ少し千早は緊張しているようだけれど。マメに春香が話しかけては、緊張を解くようにきちんとフォローしている。
美希はすっかりマイペースである。
ヘリの中でも寝られるのは、流石としか言いようが無い。
アトランティス本土について、装甲バスに。まだ陽が上がっていないけれど、ライブはそういうものだ。
非常に早い段階から準備を始めて、深夜まで掛かることだって珍しくない。
アイドルも大変だけれど。
スタッフもそれだけ、苦労が絶えない。
ちなみに本来だったら、桜花が前日に入って、指揮を執らなければならなかったと思うのだけれど。
何度か打ち合わせをしている内に、向こうのスタッフに任せても大丈夫と判断。
更に外務省の要望もあって、アイドル達と一緒に早朝に現場入り、と言う形になった。
「ライブは十時からだ。 それまでに打ち合わせと、リハーサルを済ませるぞ」
「はい!」
三人の声は、すっかりステージに立つときのものだ。
狭い曲がりくねった階段を下りて、地下のステージに。
目を細めたのは。
既に設営が、済んでいるから。
力持ちの半魚人達は、此方の世界のスタッフよりも、何倍も作業効率が良いようで、問題なく重い機材を運んでくれている。
見ると、空を飛ぶ種族もいるのか。
上の方で、ふわりふわりと、何かが移動しているのが分かった。
何しろ常識外の世界だ。
空を飛ぶ人間がいても、不思議では無い。
スタッフの手際が悪い場合、アイドルまで設営に参加することがあるのだけれど。此処ではその畏れは無さそうだ。
最初の日以来、会っていなかった川背が来ていた。握手して、軽く挨拶をする。
「今日は此方でも万全を期すため、念のため僕が会場で護衛に当たります。 貴方はステージに集中してください」
「よろしくお願いします」
「川背殿は、我々の世界でも屈指の戦士だ。 彼女がいるなら、生半可なテロリストなど恐るるに値しない。 外は我々が守るし、危険は無い。 ステージに集中してくれ」
アルマエラレルが太鼓判を押してくれる。
確かにこの物腰。落ち着き払った雰囲気。
尋常では無い修羅場をくぐっていても、不思議では無かった。テロリストという言葉が気になったが。仮にそんなのがいたとしても、半魚人の戦士達が、遅れを取るとは思えない。
会場の設営は問題なく終わっている。
ただ、ステージにフィルターを掛けるというのが、気になった。ステージに自分も立ってみる。
分かったけれど、非常に暗い。
足下は一応板張りになっているけれど。
今まで見たどんなライブ会場よりも、足下が危ないかも知れない。
スポットライトの光が、非常に弱いのだ。しかしこれは、意図的にこうしていることが分かっている。
光に弱い種族の目を守るためなのである。
衣装については、事前に全て持ち込み済み。これはアトランティス側の要望によるものだ。
事前に聞かされているとおり、ちかちかしすぎていて見えない、という事態を避けるためだろう。何かしらの処置をしたのかも知れない。
「春香、やれるか?」
「ええ、何とか」
「美希は、平気そうだな」
元々飲み込みが良い美希は、多少の悪環境などものともしない。
そればかりか、目をきらきらさせて、異文化を楽しんでいた。手を引っ張られて、空を飛んでいる人がいると言われて、苦笑いする。
確かに、箒に跨がって、コンサート会場の上の方で設営を手伝っている人影が見える。多分、以前バスから見たような気がするけれど。その時は気のせいだと思っていた。
「ミキもあんな風に飛んでみたいな!」
「後で頼んでみようか」
「ホント!? 絶対だよ!」
完全にマイペースな美希は、放っておいても大丈夫だろう。
千早は。
寡黙に黙り込んだまま、じっとステージから、観客席の方を見ている。
不安を感じているのかと思ったけれど、違うようだ。
「何かあるか? 千早」
「フィルターが掛かると聞いて。 観客席でどう声が聞こえるか、確認したいのですけれど」
「分かった、交渉して見よう」
それにあわせて、歌を調整するつもりなのだろう。
並ならぬこだわりを歌に持つ千早らしい判断だ。
ライブの開始は十時。
それまでに、やるべきことは、全てやっておかなければならない。
いつもライブ会場のステージに立つと。私、天海春香は最初にする事がある。
観客席が、全て見えるか、確認する。
後ろの席の人まで、見えている。
幼い日に、最初に行ったライブ会場で。当時のトップアイドルがそう言って、感動した記憶があるからだ。
残念ながら、今回は見えそうに無い。
でも、それは。相手側が、そうして欲しいと願っているからだ。
残念だなと思うけれど。
ただ、プロデューサーさんが、後でライブ会場を撮った映像をくれると言ってくれた。自分たちの世界に持ち帰る事ができるかまでは分からないけれど、とにかくステージは見ることが出来るのだ。
約束を信じて、ステージに出る。
時間が、きた。
着替えもメイクも既に済ませて、既に状態は完璧。
今日は夕方の五時までライブだけれど。それも問題なくこなせる。今まで、もっと過酷なスケジュールをこなしてきたのだ。これくらいはへっちゃらだ。
今回は光栄なことに、私が一番手を任せて貰っている。
三人で歌う曲もあるけれど。
順番にプログラムを廻して、一人ずつ休憩を取れるように、配慮してもらっている。
ステージに、出る。
事前の打ち合わせ通り、光がとても弱い。
観客席の奥まで、見通すことが出来ない。
それだけじゃない。
ステージの前に、光のもやみたいなものがかかっている。千早ちゃんが、不安視していた、音を遮るものらしい。
高音域と低音域で、耳にダメージを受けてしまう種族がいるから、ということだった。
サイリウムにちかいものも、配られているようだけれど。
これもぐっと光が弱い。
ライブ会場でお客さん達と心が一つになると、振られるサイリウムも息がぴったりになるものなのだけれど。
そもそも、サイリウムの振られかたも、かなり違う。
手が二本では無い種族や。
万歳が出来ない種族もいるのかも知れない。
でも、それでも。
伝わってくる。
春香がステージに出てきて、喜んでくれていると。
それに、非常に反応が紳士的だ。
場末の会場とかだと、ヤジが飛んでくる事もあるのだけれど。喚声は聞こえど、ヤジの類は一切耳に入ってこない。
まずは軽く挨拶。
そこから、歌い始める。
音質もかなり違う。
足下も非常に暗い。
だが、この曲は。それこそ練習と本番をあわせて千回以上、踊ってきた曲だ。もう振り付けは身に染みついている。
ライトの位置が分かっていて。
音響機具の場所が頭に入っていて。
足下が平らだったら。絶対に失敗しない。
覚えが決して良くは無い私だけれど。これでも、練習は何処の誰よりも積んできている自信があるし。
体力作りについては、新人のころからみっちりしっかりやっているのだ。
歌いながら、少しずつ目が慣れてくる。
やはり、人とは思えないシルエットが、かなり暗がりの中に浮かんでいる。
中には三メートル以上は背丈がある種族や。
非常に平たくて、子供ほども背丈が無い種族も、いるようだった。
だが、それが何だ。
四回訪れただけ、だけれど。私はすっかりこの国の猛々しいが素朴な人達が好きになった。たくさんいる種族の中には、まだ顔を合わせていない人達もいるようだけれど。
それは、これから顔を合わせれば良いのだ。
「二曲目、いっくよー!」
続けて、二曲目。
今度は千早ちゃんとのデュオだ。
軽くマイクパフォーマンスをしてから、二曲目に入る。
千早ちゃんは元々ダンスだって下手じゃない。むしろ私よりも飲み込みがずっと早いくらいで、暗がりの中でも問題なく踊れていた。
曲が始まると、会場の雰囲気が変わる。
澄んだ千早ちゃんの歌声は、会場の雰囲気を変えるだけの力を持っている。
フィルター越しでしか聞かせられないのが、本当に残念だけれど。
それは、耳にダメージを受けてしまう種族がいるから。
制約は多いけれど。
それでも、心は伝わると信じて、歌い続ける。
二曲目が終わった後は、美希に交代。
舞台袖に引っ込んだ後、マイペースに自分なりのステージをはじめる美希を一瞥。
プロデューサーさんが、すぐにスポーツドリンクとタオルを渡してくれた。タオルは適温に冷やされていて、とても気持ちが良い。
この辺りの気配りは、いつも笑顔の一つも浮かべないけれど、プロデューサーさんが皆を考えてくれている証拠だ。
「今までの手応えは」
「はい、ばっちりだと思います」
「思ったよりも、良い感じです。 お客さんも、非常に紳士的ですね」
「ああ。 生半可な会場より、客が秩序を保っているな。 最初はどうなることかと思ったが。 後、足下には気をつけろ。 今回は踊り慣れた曲目だけを用意してきているが、それでも絶対は無いからな。 次からについてだ」
ホワイトボードを指さして、次からのスケジュールについて説明を受ける。
そういえば、最初に事務所総出で行ったライブの時は。一部のメンバーが台風で遅れて来られなくなったりして、スケジュール進行が修羅場になった。あの時は本当にてんやわんやで、今思い出しても青ざめる。
今回は入念な打ち合わせに、優秀なスタッフが揃っていて、私は歌うことだけに集中すれば良い。
のど飴を貰って、口に入れる。
美希はマイクパフォーマンスを使って、歌の合間にも、きちんと客を飽きさせないようにしているけれど。
あれは殆ど天然だと聞いて、凄いといつも思わされる。
美希の二曲目が終わる。
元々身体能力が高い美希だ。暗がりでのダンスも、殆ど問題なくこなせるようだ。戻ってくる美希に軽く手を振ると、千早ちゃんに声を掛ける。
「次、千早ちゃんだね」
「行ってくるわ」
交代して、千早ちゃんがステージに。
美希は機嫌が悪いときは露骨に顔に出るけれど。今回はにこにこしている。仕事が楽しいと、純粋に感じているのだろう。
二曲千早ちゃんが続けて歌った後、今度は私だ。
此処からは、最初に美希と千早ちゃんとトリオで一曲歌った後。ソロで二曲連続になる。そこまで終わった後、小休止を入れて、次の曲に入る。
スケジュールの進行はかなり忙しい。
途中二度衣装を着替える。
ライブの裏舞台は地獄のように忙しいけれど。
それでも、楽しい気持ちの方が、ずっと強い。
あっという間にお昼の休憩が過ぎて。
午後の部に入る。
午後の休憩に入って、ステージから会場を見ると、明らかにお客さんが増えているようだ。
ライブの手応えが無いときは、こういう休憩を挟んで、お客さんが減ってしまうこともある。
純粋に嬉しかった。
自分の歌が、他の国の人達に、受け入れられたことが、ではなくて。
みんなに、力をあげられることが。
プロデューサーさんとハリーさんの会話が、聞こえてしまったのだ。
この世界の芸能界が、どういう所か。
多分それは、本当なのだろう。
私の世界にも、悪い人はいる。悪徳事務所はあるし、酷い人だっている。でも、業界全体で見れば公平で、努力は報われるし、競争は適正に行われている。業界全体が不公正で、アイドル達が少ない利益を奪い合って足を引っ張り合う。そんなところは、どんな芸能界なのか。
歌い終える。
呼吸を整えながら、ステージから観客席を見る。
此処に立てたのは。
私がきっと、アイドルとしてはとても恵まれている世界にいるから、なのだ。だから感謝を、歌に込める。
そろそろ、トリの曲だ。
千早ちゃんと美希も、ステージに来る。
曲目は、M@STERPIECE。
事務所のみんなで、いつかここに来て。この曲で、ステージを閉めたい。
私は、そう思った。
アンコールの声が聞こえる。
桜花はプロデューサーとして、幾つものライブ会場を見てきたけれど。これほど静かだけれど、きちんと意思を感じられるアンコールは初めてだった。
川背が此方に来る。
会場の警備が、一段落した、という事だろう。
「アンコールの仕方については教えてあります。 ただ、本当に聞きたいと思ったときだけ、と言ってあるのですが。 これだけ、皆が聞きたいと思ったという事は、意思を揃えるだけのものがあった、ということですね」
「皆さんにうちの事務所の歌が受け入れられて、本当に良かった」
「これからも、交流はごく限定的に行いたいと思っていますが。 いずれまた招待させてください。 僕の先……この国の主も、皆が文化を得て、少しずつ自立意思を育てていくのは、良いことだと考えていますから」
アンコールに応えて、ライブ最後の一曲が始まる。
春香達は最初はあれだけ不安視していた此処でのライブを、しっかりこなせている。いずれ、事務所の皆で、此処で踊ることも良いだろう。
川背と握手する。
いずれ、この国で。
また、ライブを行えるとき。川背には世話になるだろう。
「最後まで、聞いていかないんですか?」
「僕もステージで、皆を守る立場です。 この国の内部は安全ですが、それを快く思わない人間もいます。 いずれ何度もコンサートを続けていけば、そういう人間も、多く現れるでしょう」
「……」
「その時も、僕がその手の連中は、ステージに近づけさせはしません」
軽く手を振ると、川背が袖口から、観客席へ消えていく。
ふと、ステージを見ると、アイドル達は、笑顔で観客席に手を振っていた。
今回は、本当の意味で成功だ。
お客は皆が満足して。
誰もが嬉しい結果に終わった。
だけれども。
このライブを大きく広げる事が出来ないのは、悲しいが事実でもある。
桜花は頭を振ると。
疲れ切って戻ってくるアイドル達をねぎらうべく。頭を切り換えたのだった。
(終)
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