海底の叫び

 

序、南極海の幽霊船

 

南極オキアミに支えられた豊富な魚介資源を求めて、操業を続ける漁師ウルリヒ=バーンが最初にそれに気付いたのは、必然であり、偶然ではなかった。彼こそがT国でもっとも南極海に通じた漁師であったからだ。年老いたウルリヒは豊富な髭を蓄えた頑固な老人で、漁師として円熟した技を持つ男である。だから故に、恐怖と最初に立ち会うこととなったのだ。

厳重な対寒装備を施した小舟の上で、彼は網を巻き取り、良く太った魚を次々と冷凍保存庫に放り込んでいた。だが、その手が止まる。彫りの深い、良く日焼けした顔立ちに沈み込むようにして存在している双眸が、闇のように広がり来る「それ」を捕らえる。

霧だ。

白い闇のように、霧が出始めている。

この辺りで、霧が出ることは滅多にない。風の流れからも、後の天候を三十分単位で捕らえるほどの熟練漁師である。異常事態を察知した彼は、エンジンルームにいる息子に、すぐにだみ声を張り上げた。老いたりとは言え陸の者には負けない筋骨逞しい彼の腕は、既に網を全力で引き上げるべくワイヤー巻き上げ機のレバーに掛かっている。

「オーネッド! エンジンを掛けろ! 此処を離れる!」

「なんでだよ、親爺! 大漁じゃねえか!」

エンジンルームから、彼の若いころにそっくりな息子、オーネッドが顔を出す。潮の香りがおかしくなってきているのに、息子は気付かない。

「見ろ、おかしな霧が出始めている。 何か起こる前触れだ」

「で、でもよ、あと二時間もここで漁をすれば、一月分の稼ぎにはなるぜ!」

「馬鹿野郎! 死んだら稼ぎも糞もあるか!」

そう鬼のような形相で叫ぶと、息子は慌ててエンジンルームに駆け込んだ。そうこうするうちにも、霧はどんどん広がってきている。どうにか網を引き上げおえたウルリヒは、その霧に、不吉なものを感じた。

船が動き出す。

絶好のタイミングで行われた漁が中断されたことに、不満を言うかのように。エンジン音は、不気味な軋りを混ぜ込んでいた。潮風の中に、妙な湿っぽさを感じる。これは、嵐の予兆ではない。しかし、雨でもない。なんだこれは。感じたことがない、不気味な気配が、老いた漁師の全身にまとわりつく。

全身が震え上がるのを、ウルリヒは感じた。

見たのだ。霧の中から、巨大な影が浮き上がるのを。

それは途轍もなく巨大で、一瞬ウルリヒはタンカーではないかと思った。だが、違う。形状が異なっている。もちろん、漁をする時に、確認済みだ。この辺りを航行している船など無い。

やがて、影が全貌を現す。

その時には、もはや船は全力でその海域を離れていた。それなのに、巨大な影は、その努力を嘲笑うかのようについてくる。

「豪華客船だ……」

思わずウルリヒは呟いていた。

百三十年前、この海域で氷山に衝突し、沈没した豪華客船があった。被害者数は千三百人とも千三百五十人とも言われる。様々な理由から救助が遅れ、救出された人間は僅か七名という悲劇であった。タイタニック号の悲劇に並ぶ海難事故として知られる、通称ルルイエの生け贄事件である。

犠牲になった豪華客船の名前は、クイーン・ルルイエ。かってE国が植民地化した小国の女王の名前を、戦利品代わりに付けた悪趣味な船だったのだが。その怨念を買うようにして、悲劇の舞台となってしまった。

凄惨な事件以来、この近辺を辿ることがタブーとなった豪華客船は、一隻たりともこの辺りを通ってはいない。

白い闇の中から浮かび上がってくる豪華客船には、かすれた文字で、ルルイエと書かれていた。冗談にしてはできすぎている。

「急げ! 急ぐんだ!」

異常に気付いた息子も、エンジンが火を噴くほどに加速する。やがて、どうにか漁船は、巨大な死せる豪華客船の魔の手を逃れ、帰港することが出来た。船を下りたウルリヒは、愕然とする。

船の後部には、赤い手形が、無数についていたのだ。

窓にも床にも壁にも船室にも。

そして、ウルリヒの船衣にも。

収穫した魚たちは、まるで二月も前に収穫したかのように、腐り果てていた。冷凍庫に入れていた魚も同じである。異臭を放つ白く濁った魚の目を見て戦慄する他の漁師達を、ウルリヒは一喝した。

「早く他の漁師達にも連絡を出せ! 港に避難させるんだ!」

「わ、分かった!」

ばらばらと散る漁師達。彼らの背中を見つめながら、ウルリヒは独りごちた。

「これは、フィールド認定されるな」

ぽろりと煙草を落としたのは、側で聞いていたオーネッドである。

全力で逃げるという判断が正しかったことに戦慄しながら、ウルリヒは警察と市役所に連絡するように、周囲の漁師達に指示を飛ばす。港の顔役でもある彼の判断で、しばらくの漁が中止となった。

前々から、幽霊船の噂はあった。

悲劇的すぎるルルイエの生け贄事件は、それだけの噂を呼ぶに充分だったのである。ましてや此処は、迷信深い田舎町だ。

だが、専門の調査チームが赴いても、痕跡を発見することは出来なかった。

今回は違う。これほど明確な証拠を伴い、人命に関わる被害が出そうになっている以上、国が動かざるを得ない。そしてフィールド探索者に、対応を任せることになるだろう。その間は漁が出来なくなる。出来るとしても、限定的な範囲でしか行えなくなるだろう。それは貧しい漁村にとって、死活問題だ。

豊かな国になると、フィールド発生時の被害を補填してくれる場合もある。

だが、この貧しいT国ではそれもない。鉱山労働でどうにか生計を立てている貧困国で、生活苦から犯罪組織が幅を利かせ、ゲリラも出るような場所である。ましてやこの港町は、大した利益も上げていない寂れた土地。T国の中でも重要性は低い。そのような状況で、補填など行われる訳もない。

警報が早かったからか、被害は最小限で済んだ。

ただし、二隻の船が同じように幽霊船に追いかけ回され、収穫が全滅。そして一隻の船は、とうとう帰ってこなかった。乗っていた船員は、まず絶望であろう。優秀な漁師達だったのだが、助ける術など存在しなかった。

誰もが知っている。フィールドの中に住み着いている者達には、軍隊でさえ歯が立たないのだ。

市役所に連絡してからほどなく、すぐに情報は国まで行った。二日後には戦闘機が飛んできて、霧の状態を確認。そして測定器が、異常な状況を科学的に立証したという報告が来た。

これで、一時的なフィールドかも知れないという望みは、木っ端微塵に砕かれた。T国沖合、南極海の一部に、フィールド認定および、航行禁止令が出る。漁業関係者には、収入がゼロになるも同じである。

もはやこうなってしまうとウルリヒには、どうすることも出来なかった。

翌日。ウルリヒは主だった漁師達を集めて、その蒼白な顔を見回しながら言った。

「少しでも早く、フィールド探索者が来てくれることを祈ろう」

「しかし彼奴らは、とんでもない大金を取るんだろ!? 俺達に、そんなの払えるのか」

「国から、ほんの少しだけ補填金が出る。 後は借金するしかない」

ウルリヒが言うと、何人かが絞められた鶏のように呻いた。

もとよりフィールド探索者は、先進国の金銭感覚で動いている。活動の相場は凄まじく、漁師の稼ぎでは数年分以上に達することも多い。しかも、それで来るのは、最低限の連中ばかりだ。国の話によると、今回発生したフィールドは「重異形化フィールド」とか呼ばれる最悪のタイプで、とてもではないがシロウトに毛が生えた程度のフィールド探索者では手に負えないという。

幾つか、斡旋会社もある。有名なのは、最強と呼ばれるI国の元配管工を始めとする歴戦の猛者を揃えているN社だが、此処は国家予算規模の報酬を要求する。続いて有名どころは非常に成長力が高い可変型ロボット「R」もしくは「M」を有するC社だが、此処に関しては報酬が安めである代わりに人員が少なく、滅多なことでは派遣されないことも多い。

発展途上国出身のフィールド探索者の中には、良心的な値段で動いてくれる者もいる。だが、彼らの数は少ない。そして何より、T国にそんな者はいなかった。

フィールド発生後、三日して、斡旋会社から営業マンが来た。嫌々ながらだが、街で一番良いホテルに案内する。彼らは露骨に顔をしかめた。一番良い景色を独占できる白亜の建物も、彼らからすれば見飽きている程度の代物なのだろう。

街で最高の食事を振る舞いながら、ビジネスの話に移る。

彼らの話によると、支援要員一人、実戦要員が三人派遣されてくると言う。話によると、フィールド探索者は各社が談合の上に派遣を決めてくるそうで、個人契約の者も大体はその綱引きの上に乗った状態で仕事をするのだとか。

そして、要求金額を見て、ウルリヒは目を剥いた。

もはや、例えフィールドを打ち払っても、この小さな港町が再興することはない。そう思えてならなかった。

幸い、と言うべきか。

一人はC社から派遣されてくるベテランで、相当な実力者だという。

確実に、フィールドを潰してくれるでしょうと、営業マンは嫌みたらしく眼鏡を直しながら言った。もちろん成功報酬だと。

フィールドは放っておくと広がることもある。そのまま放置しておけば、港町が飲み込まれる可能性もあるという。

選択肢はなかった。

下手をするとこれから数十年、この街は大企業の資本下に置かれるのかも知れない。

憂鬱なウルリヒに、営業マンは作り込んだ笑顔を向けてきた。

「ローンでの支払いも可能です。 最大で、六十年払いのコースもございます」

「……負担が一番小さいものにしてほしい。 俺達は見ての通り、貧乏な漁民だ。 街が全体で借金をしても、払える金額など知れている」

「それならば、漁獲高に応じた返済プランもございます。 発展途上国でのフィールド発生、解決も今回が初めてではございません。 我々はあくまで世のため人のために働いているものですから、現地の方々に負担が最も小さくなる方法も心得ております」

良く動く口に、効果的な反論が出来ないことが恨めしい。

ほどなく、漁獲高の半分を収め続け、足りない場合は労働力を提供するというプランにて、合意が決まった。

沖合の霧は、勢力を徐々に拡大しているという。命には代えられないとはいえ、自分は孫の代まで恨まれ続けるのだろうなと、ウルリヒは思った。

ヒーローは、いるのかも知れない。

しかしそれは、子供達の夢に出てくるような、都合がよい存在ではない。

アメリカンコミックのヒーローが、世代や思想ごとに派閥を構成し、抗争を繰り返すのは有名な話だ。ウルリヒでさえ知っている。

現実も、そんなものなのかも知れない。

夢など、何処にも実在はしなかった。

 

1、異形と不死者と、誇り高き騎士

 

何処までも広がる海原の上を、高速で飛行する赤い影があった。

彼の名前はグルッピー。熟練の戦士である。

故郷を出て、今仕事に向かっているグルッピーは、思い出す。仕事に出る時に、故郷のことを思い起こすのは、彼の習慣であった。

潮風が体を撫でる。速度を落とさないようにして、急ぐ。

その土地に、その何者かが侵入してきたのは、遙か昔のこと。グルッピーが土地の古老に聞かされた所によると、曾祖父の曾祖父、その曾祖父がまだ幼かった時代の、また昔だという。

ともかく、その何者かは、情け容赦なく土地を侵略した。

土地を奪うのではない。己に都合がよいように、作り替えたのだという。

伝承ではそう言われている。後にグルッピーが学者に聞いた所によると、その存在は別宇宙からの法則を、自分が暮らしやすくするために持ち込んだのではないかという事であった。そう考えてみると、侵略者ではなく、ただ生きたいと願っていただけなのかも知れない。

いずれにしても、グルッピーらの先祖は、その法則によって、ほぼ滅び去ってしまった。

許し難い仇敵に対し、その土地に生きる全ての存在が戦いを挑むことになった。いがみ合っていた者達も、この時ばかりは手を結び、共通の敵に立ち向かった。

激しく抗うことで、何者かを撃退することは出来た。

だが、作り替えられた土地は、元に戻ることはなかった。

殆どの存在は、土地を出て行った。しかし、土地に残った者達は、その法則と共存することを考えなければならなかった。

適応できない者は、死に絶えるしかなかった。

辛くも適応できた者は、何十世代も掛けながら、その獲得した形質を、子孫に伝えていった。

皮肉なことに、それは敵対部族も同じ事であった。

やがて、新しい法則は、その土地に自然に馴染むことになった。

そして戦いも、その法則に基づいて行われるようになった。

資源の奪い合い。土地の奪い合い。いずれもが、新しい法則の下で行われた。

常に移動していなければ、体が破裂してしまうと言う、おぞましい土地。その土地のことは、外部の存在から、クルクルランドと呼ばれるようになった。

グルッピーはクルクルランド出身の、フィールド探索者である。

形状は地上のどの生物とも似ていない。強いて言うなら球形だ。球形の左右からは腕が、後方からは足が生えている。正面には一対の目と口があり、後方より特殊なエネルギーを噴出して進む。彼は土地でも最強の存在であり、外貨獲得のために活躍する貴重な戦士でもあった。

今の時代、クルクルランドは独立国として認められてはいても、資源は外部から獲得しなければやっていけない。今でも敵対部族であるウニラと呼ばれる者達との抗争が頻発するほど、皆が貧しいのだ。かといって、輸出できる資源は限られている。外では彼の土地のことを重異形化フィールドとか呼ぶそうだが、それが故に、外で役に立つ資源など雀の涙ほどしか取ることが出来ない。

後は、彼のように。体を張って、労働力を持って外貨を稼ぐしかないのである。

良くしたもので、対立部族のウニラ達も、同じようにして外で稼いでいるそうである。

ぶら下げているバックパックから取り出した時計を見て、時間を確認。影の方向から方角を確認して、現在の位置を割り出す。そして速度を調整しながら、合流地点へと急いだ。もう少しで、到着する。

止まることが出来ない呪い。

外部の人間達に言わせると非常に厄介な代物だが、グルッピーにしてみれば、産まれて以来ずっとつきあっている代物である。外に出てみて驚いたのは事実だが、今は別に何とも思っていない。

この能力を使いこなすことで外貨を稼いできた彼にしてみれば、最早相棒と呼んでも良い存在であった。

見えてきた。人間達が船と呼ぶ道具だ。大砲がついているのが見えるから、多分軍事用の船だろう。

でっぱり、とっかかり、何でも良い。とにかく、掴まるものが欲しい。さっと見た所、何カ所か候補らしいものがある。微妙に移動経路を調整しながら、グルッピーは合流地点に指定されている船に急ぐ。向こうは、此方に気付いただろうか。人間の視力と判断速度は、此方とは比べものにならないほど小さいのだ。

やがて、適当な候補を発見した。

 

T国南部へ急ぐ国連軍の軍艦、巡航艦エセットスの甲板で、スペランカーは乗ってから三十七回目の死を迎えていた。手すりにもたれかかり、真っ青になっている彼女は、息を吹き返してもやはり不快感に苦しんでいた。

スペランカー。本名ではない。

無謀な洞窟探検家という意味のこの言葉は、あまりにも貧弱な頭脳と身体能力であるにもかかわらず、どのような地獄からも必ず生還することから付けられたあだ名である。実際には、幼いころに受けた、父がプレゼントしてくれた不老不死という呪いによって、死んでも即座に復活するのである。もっとも、その反作用で、学習能力はないわ、身体能力は虚弱だわ、気を抜くとすぐ死ぬわで、ろくな目に今まで遭ってきていない。幼いころには母に育児放棄され、飢餓地獄の中で過ごしたこともある。

フィールド探索業という、危険にも程がある仕事をしているのも、この体質を生かす仕事が他になかったからだ。そうしないと食べていけないのである。幼いころの飢餓地獄を二度と味わいたくないスペランカーは、今日も死ぬのは嫌だと思いならも、何十回と死ぬことが確定なフィールドに挑み、生活費を稼ぐのだ。

とはいえ、此処まで酷い道中は初めてである。たかが船酔いでこれほど死ぬとはスペランカーも思ってはいなかった。飛行機は平気なのに、船は駄目なのだからよく分からない。短く切りそろえている髪をかき回しながら、もう一度海に嘔吐する。せっかく川背ちゃんが作ってくれたとても美味しい料理が台無しであった。

後ろからがっしゃんがっしゃんと足音。ゆっくり振り向くと、其処には途中で合流した、逞しい男性がいた。

豊富に茶色い口ひげを蓄え、瞳は海のようにクリーンな青。いかめしいいぶし銀の板金鎧を着ている、鼻の高い男である。この業界では有名な、重異形化フィールド攻略の第一人者。

フィールド探索者の大手企業であるC社に所属する中でも、重異形化フィールド攻略に関しては随一とも呼ばれる人物。E国でも最も名が知られているフィールド探索者の一人。騎士アーサーであった。E国から功績に見合う爵位も受けており、関係者はサー・ロード・アーサーと敬称を付けて呼ぶほどの男である。

「大丈夫であるか。 スペランカーどの」

「は、はい。 大丈夫、です。 うええ」

アーサーは眉根を心配そうに下げた。いかめしい外見と裏腹に、善良な人物なのだと分かる。

このアーサーは、古代の伝説に登場する英雄王と同じ名前を持つだけあり、相当な使い手である。比較的貧弱な身体能力しか持たず、割とポピュラーな特異能力しか有していないのに、歴戦のフィールド探索者でも尻込みする「魔界」という重異形化フィールドに何度となく挑み、その全てを攻略してきている人物だ。兎に角戦闘経験とスキルが圧倒的で、魔界の軍勢を前にしても一歩も引かず、単独で城に乗り込み、ついに魔王を討ち取ったこと一度や二度ではないという。

C社のエースと言えばなんといっても可変型高成長ロボット「R」もしくは「M」だが、それに勝るとも劣らない実績を、比較的貧弱な身体能力で成し遂げてきているのである。しかも、条件が揃えば魔法と呼ばれる術式を使うことも出来るという。その優れた戦闘能力と探索能力、それに実績と経験、スペランカーから見れば、それこそ雲の上の存在である。

ただ、まだ若いという話なのだが、口に蓄えている髭や、いかめしい鎧のおかげで、かなり老けて見える。時代がかったいかめしい言動も、それに拍車を掛けていた。

「確かギンタンと言う菓子が効果的であるとか聞き申す。 後はサングラスで視覚的な衝撃を緩めると、かなり楽になるという話である。 試してみると良いだろう」

「ホントですか? うぷっ! ちょ、ちょっと、ためして……」

くらりと意識が揺らいで、そのまま甲板に激突。三十八回目の死だ。

先が思いやられる。意識が戻ったスペランカーは、ぶつけた鼻をさすりながら、手すりを掴んでゆっくり立ち上がった。

肩を貸そうかと言われたが、断る。

肩を貸すと言われても、背丈が頭一つ違う相手である。そのまま背負われてしまうだろう。流石にそれは格好が悪い。

甲板は大砲とかミサイルとかバルカンファランクスとかが並んでいて、おっかない。一旦階段を下りて、船の中へ。二百五十人もの兵隊と船員が働いている最新鋭の艦の中に、鎧を着た騎士や、自分のような平和そうな容姿の人間がいると、少し恐縮してしまう。一応サバイバルルックなのだが、そうとはとても見えないだろう。童顔であることは良く自覚している。

筋肉ムキムキな長身の船員(兵士かも知れないが、階級は分からない)を見つけたので、四苦八苦しながらサングラスが欲しいと言ってみる。英語は通じなかったので、電子辞書を見ながらスペイン語で話してみると、何とか通じた。ちょっと派手めのサングラスだったが、随分楽になった。

「ありがとうございます」

「気にするな、可愛いお嬢ちゃん」

可愛いの意味が動物や何かに対する表現である事を辞書を見て悟ったスペランカーだが、それは気にしない。呪いのおかげで、成長も低い段階で押さえ込まれてしまっているし、元々成長期にあまり栄養を取ることも出来なかった。最近も缶詰ばかり食べていることもあって、あまり今後も育ちそうにない。

手を振って、船員から別れる。

途中、船が揺れて、ごちんと壁に頭をぶつけて、また一度死んだ。意識が戻ると、心配そうにさっきの兵士が見ていたので、笑って誤魔化した。

辿り着くまでに百回は死にそうだと思いながら、スペランカーは甲板に戻る。今回発生した重異形化フィールドには三人が挑み、一人が支援する事になる。その三人の内、まだ一人が顔を見せていないのだ。途中、海上で合流すると言うことなので、出来るだけそっちにいなければならない。

海上に出ると、アーサーが手すりの側で、兜を外していた。髪は少なめで、月代を剃っている訳でもないのに額がかなり広い。西欧人は早く老けるのだという話が本当だとよく分かる。

「おお、スペランカーどの。 サングラスは見つかったか」

「はい。 親切な人に譲って貰いまして。 おかげさまで、随分楽になりました」

「それは重畳。 我が輩としても、若い身空の娘が苦しんでいるのを見るのは、騎士として忍びない。 他にも何かあったら、是非力になろう」

面白い人である。

既に船はオーストラリア大陸の東を通り過ぎて、更に南下を続けているという。後二日もすれば目的地に到着するのだが。まだ最後の一人は姿を見せない。そろそろ来ても良い頃なのだがと思った時。

空に、赤い点が一つ見えた。

バルカンファランクスが動くよりも早く、甲板で何かが鋭く跳ねる。

衝撃で髪が揺らされ、気付いた時には、それは眼前にいた。

 

船の上に人間が二人いる。多分今回共闘する連中であろう。

この世界の支配者である人間は、遠い先祖の一種だ。どうもグルッピーの部族は異界からの住人と、狂った法則の中人間の血が混じって誕生したらしい。DNA検査でそれが確定されて、今では人間の一種として認定されている。それは対立部族のウニラも同じで、つまり彼らとの戦いは地域紛争として認識されているという訳だ。

結局の所、人間の亜種扱いであるグルッピーは、仕事以外で人間と共闘することはしない。外貨を稼ぎ、それによって生活に必要な資源を得ること。それだけのために、外に来ているのだ。

どれ、実力を見せて貰おうか。

そう思った

グルッピーは手を伸ばす。ベンチプレス換算で二トンまで支えられる両腕は、今まで彼が生きてきた過程で、ずっと役立ってくれた相棒だ。

見る間に近付いてくる船。その上部に、天に向かってそそり立つ棒がある。

まず、加速。体の後方からエネルギーを放出することで、グルッピーは人間の基準によると音の速さにまで加速が可能だ。ただし減速が大変なので、今回は二百キロくらいまでしか加速はしない。

人間の内、一人が気付く。いぶし銀の、アーマーとかいう装甲を着込んでいる方だ。もう一人は、やっと今気付いた。

何だ、この程度か。そう思うと、グルッピーはまず甲板に体をぶつけ、エネルギーの指向性を偏向させる。そして跳ね上がらせた体を、最初から目を付けていた。天に向けてそそり立つ棒へ向ける。

グルッピーはそれを掴むと、旋回し、速度を落とし始めた。

時速四十キロ程度まで減速した所で、甲板に人が上がってきた。対空迎撃兵器が稼働していたから、攻撃の一種かと勘違いしたのかも知れない。

回転しながら、更に速度を落としていく。

甲板の上に、掴まるのに良さそうな棒を見つけた。甲板に沿って、横にずっと伸びている。手すりという奴だろう。出来るだけゆっくり、そちらへ飛んだ。

手すりに掴まって、ゆっくり縦に回転する。体内の呪いをいなせる最小限の速度で、ある。

後に気付いた方は、人間の雌だった。転んでいたらしいが、頭を振って立ち上がる。髪は黒い。男の方は、茶色い髪が少し減り始めている年頃のようであった。

「貴殿がグルッピーか」

「如何にも。 我こそが、クルクルランドの誇り高き部族バルン族が一の勇者、グルッピーである。 生じた異界を撃滅すべく、海の上を走りて空の上を駆け、今此処に馳せ参じた」

「私はスペランカーです。 よろしく、グルッピーさん」

「我が輩は騎士アーサー。 よろしくお願いいたす」

 握手を目的としているのか、二人とも手を伸ばしてくる。そのまま縦に回転しながら、説明する。若干の苛立ちが混じる。

「我についての報告を受けてはいなかったか。 我は停止すると死ぬ呪いを受けているが故、握手と呼ばれる貴様らの因習を受けることは出来ぬ。 我は代わりに、汝らを共闘すべき相手として認める。 それでは不足か」

「うわ、難しい喋り方だなあ。 アーサーさん、あの」

「ああ、要約するに、握手は残念ながら出来ないが、ともに戦う相手としては認めてくれるそうである。 スペランカーどのと同じくらい厄介な呪いを受けているらしく、止まることが出来ないのだそうでな。 そういえば、報告書に書かれていたことを失念しておったわ。 我が輩のしたことが、不覚よ不覚」

げらげらと、アーサーという男が笑った。困り果てて右往左往しているスペランカーという女は、資料によると不死の呪いを受けているとか言う話で、その代償として馬鹿なのだとか。ならば仕方がない。しかし、足を引っ張られそうで面倒だ。

他にも人間の兵士が遠巻きに見ていたが、アーサーという男がなにやら説明すると、戻っていった。敵意がないとか、合流が完了したとか告げていたが、グルッピーには興味がないことだ。さっさとフィールドを叩きつぶして、報酬を受け取り、帰るだけである。

「どれ、作戦会議をしよう。 川背どのはキッチンか」

「私が呼んできます」

「おお、急いで転ばぬように気をつけられよ。 どれ、グルッピーどのには少し狭苦しいかも知れぬが、船を案内しよう。 この船は我が故国のあるブリテン島で建造されたものでな。 我が国のロイヤルネイビーに伝わる伝統的意匠がふんだんに取り込まれている最新式の巡航艦なのだぞ」

「我に、人間の文明に対する興味は薄い。 我らが静かに風と舞い、皆が腹一杯食べることが出来る大地があり、星が瞬いていればそれで満足よ。 我の理想郷とは、平穏なる世界である」

それは我が輩も同じだと言うと、アーサーという男は船の中にグルッピーを招いた。

いけ好かない奴だと、グルッピーは思った。

能力に頼り切りの阿呆と、いけ好かない戦士。もう一人かなりの使い手だという女が混じるそうだが、今回はかなり厳しいかも知れないなと、グルッピーは思った。まあ、人間が何人自滅しようが知ったことではない。報酬を受け取ることが出来れば、それでよい。グルッピーにとって大事なのは、故郷の部族が、飢えずに暮らせる事だけだ。

船内は予想通り狭い。壁や床にぶつかりながら、出来るだけゆっくりアーサーについていく。途中、兵士がびっくりして何度もグルッピーに当たりそうになったが、どれもするりと避ける。

「ほう。 かなり危なっかしいと思うたが、見事だ」

「汝らの使う銃器と違い、直線にしか動けぬ訳ではない。 その気になれば、月のように孤を描くことや、無なる場所でも小鳥のように旋回する事も出来ぬでもない。 ただし、汝らのように、或いは石のように止まることは出来ない。 一瞬だけぶつかり、体内の呪いを反転させることで、向きを逆転させることは可能だが」

「やれやれ、面倒な能力であるな。 故郷はさぞ忙しい所なのであろう」

「我が部族の村には、多くの棒がバオバブの森のように生やされていて、それを掴んで回転しながら生活することとなる。 眠る時も棒を掴んでいるから、皆腕力が人間など問題にならぬほど発達する。 最初に発見したのはあの娘と同じJ国人らしいな。 クルクルランドという対外名称も、そうして生じたものである」

話している内に、会議を行うという部屋に到着。

アーサーという男が、身の丈大の槍を出してきた。愛用している武具らしく、相当使い込まれている。戦士の魂を感じる武具だ。

槍の使い込みようを見て、初めてグルッピーはアーサーを認めた。これだけの使い込み、並の経験で出来ることではない。さぞや多くの敵の血を吸ってきただろう槍は、妖気とともに神域の武を湛えていた。

「これに掴まられよ。 飛び回る訳にもいくまい」

「光栄である」

スペランカーという女が戻ってきた。若干茶色がかった髪の、背が低い女を連れている。スペランカー同様背は低く童顔だが、性的に成熟しているらしく、胸はかなり大きい。もっとも、バルン族の性的成熟と人間のそれは先祖が同じと言ってもまるで違うので、別に何とも思わない。半ズボンを穿いているのは、どうしてかよく分からない。危険地帯に赴く時ほど、人間は体の弱点である皮膚を隠すものだが。

とりあえず、関係者だとすると、これがさっき川背と言われていた奴だろう。支援要員と聞いているし、あまり興味はない。

川背という女は、人間の食料を皿に盛ってたくさん運んできていた。アーサーという男が嬉しそうにしているから、人間の食欲を誘う臭いなのだろう。逆にスペランカーは申し訳なさそうにして、そわそわしていた。

料理を運び終えると、川背はぺこりと挨拶する。

「スペランカー先輩に先ほど聞きました。 僕は川背。 海腹川背です」

「我はクルクルランドの誇り高き部族バルン族が一の勇者、グルッピーである。 今回は共闘する事になり、光栄だ。 汝らと我の武運を天神に祈り、月に加護を願うものなり」

「わ、素敵な喋り方ですね。 お口に合うか分かりませんが、食事を用意しました。 どうぞ」

女なのに妙な一人称だとグルッピーは思いながら、料理を見た。

人間は食事をしながら親睦を深めるという。こればかりはどうしようもないので、さっと皿の一つをとり、遠心力を利用して口の中に入れる。最初のころは慣れなくて、皿を割ってしまうことが多かったが、今は平気である。

味付けは悪くないが、やはり色々とひねくり回しすぎである。人間の料理はこれだから良くない。基本的に何でもかんでも、生が一番だ。生こそ、その食材の味が、一番引き出されている。

「我は生が好きだ」

「分かりました。 次はそうします」

「聞き分けがよい。 我は生が好きだと、繰り返す」

ところが、アーサーとスペランカーの見解は違っていた。

「ふむ、今回も良い味だ。 これなら女王陛下の食卓に出しても恥ずかしくはないだろう」

「美味しい! すっごく」

アーサーがそう言うと、スペランカーも同意した。

やはり、人間の味覚はよく分からなかった。

 

食事が終わると、知らないお爺さんと、巡航艦の艦長と、今回仕事を持ってきた斡旋社の営業マンが部屋に入ってきた。営業マンがプロジェクターの乗った台を押している。これから何が行われるのかは明らかだ。

サングラスの効果は絶大で、さっきから全く気持ち悪くない。

「川背ちゃん、ごめんね。 昨日までの料理、殆ど無駄にしちゃって」

「あ、先輩、いいんですよ。 船酔いが苦手だっての分かりますから。 僕も昔似たような経験がありますし」

隣に座った川背に、先に謝っておく。

プロジェクターが机の上に置かれて、部屋の照明が下げられた。同時に、一気に部屋が緊張する。アーサーに到っては、完全に戦士の顔つきになっていた。

作戦会議が始まるのだ。

「ええと、それでは皆さん。 今回攻略していただくフィールドについて説明いたします」

営業マンは、かって凄腕のフィールド探索者として知られていたが、今では怪我が理由で引退しているという人物だ。話によると、アーサーの知り合いだという。経験者だと、話が通じやすいし、無茶な依頼も持ってこないことが多い。

映し出された映像は二つ。一つはモノクロ画像の豪華客船。船体には、ルルイエと書かれている。

もう一つは地図。南極海のものであった。

「クイーン・ルルイエは知っておられますか」

「当然である。 ルルイエの悲劇によって、南極海に沈んだ豪華客船であろう」

「あ、ルルイエの生け贄って聞いていました」

「うむ。 我が輩の国ではあまりにも不名誉かつ凄惨な事件であった故、ルルイエの悲劇と呼ぶことが多いのである。 スペランカーどのの呼び方も間違ってはおらぬ」

グルッピーは興味がないらしく、アーサーの槍の柄に掴まって旋回し続けていた。話を進めろとでも言わんばかりである。

咳払いすると、営業マンは、南極海の上を指摘用の棒で指しながら言った。

「そのクィーン・ルルイエが、フィールドを伴って突如現れました。 現在、半径百二十キロが重異形化フィールドと化しており、既に行方不明者が三名出ています。 状況から言って、生存は絶望的でしょう」

「しかし、我が輩が呼ばれたと言うことは、それだけではないのだろう」

「なるほど、我も聞いたことがある。 人間社会にて良くある、政治的軋轢などが要因であろう」

船長が苦虫をかみつぶしたような顔をした。営業マンが、その目の奥に、冷酷な光を瞬かせる。

「まあ、それについてはおいおいと。 何にしても、現在近隣の港に漁獲制限が出来ており、著しい被害が出ております。 一刻も早くの解決を、皆様には望む所です」

「内部の情報などについては、ありますか?」

川背が挙手して言うと、営業マンはプロジェクターを切り替える。其処には、クィーン・ルルイエの詳細な図面が映し出されていた。

「皆様には、一部ずつお配りいたします。 潜入までに暗記しておいてください」

「ふえー、こんな複雑なの、無理だよー」

「先輩、大丈夫です。 構造は軸さえ覚えれば、後は派生路だけです」

「何、分からない時は我が輩が手助けする故、ご安心召されよ」

頭を抱えるスペランカーに、後輩も騎士も優しく言ってくれた。本当に申し訳のない話である。風船生物はと言うと、無言でくるくる回り続けていた。スペランカーの方は見向きもしない。

どうやら、嫌われてしまったかも知れない。

それにしても、重異形化フィールドの挑戦は初めてだ。それを思うだけで、スペランカーは緊張した。

重異形化フィールドとは、フィールドの中でも特に危険であり、中でも物理法則が通用しない土地のことである。

基本的にフィールドは専門の能力者でなければ対処できないものだが、その中でも特に、内部の物理法則から変わってしまうようなものを、重異形化フィールドという。その中には、高名な異世界である「魔界」とつながってしまうゲートが出現する場合や、異形化した強力なクリーチャーが闊歩する場合もあり、危険度は通常フィールドの十倍とも二十倍とも言われている。

もちろん、軍隊など送り込むだけ時間の無駄。侵入した兵隊は一人残らず骸と化すのが落ちである。それほどに危険な場所なのだ。特殊能力者でさえ、生還率は決して高くないのである。

高名な専門家であるアーサーや、優れた戦闘技術を持ち、更に空間転送のスキルを持つ川背。そして数少ない、安全な重異形化フィールドで生活しているグルッピーならともかく、自分がこんな所にいるのは場違いなのではないのかとさえ思えてくる。

だが、これも仕事だ。

今まで積み重ねてきた実績が評価されたと言うこともあるだろう。

どちらにしてもスペランカーがする仕事は決まっている。生還率の高さを利用しての偵察と、掃討任務だ。

「まず、第一段階は、なぜ今クィーン・ルルイエが出現したかの調査。 第二段階は、原因の掃討。 そして第三段階は、クイーン・ルルイエの処分となります」

「質問。 我はルルイエなる船が、豪華客船なる存在だと聞いている。 金に任せ肥え太った貴族どもが好き勝手に遊ぶために作りし船だとも。 それの内部で取得した金品を取得換金することは可能か」

「ものにも依りますが。 宝石、金塊の類であれば。 内部にある絵画、芸術品に関しても、取得は自由です。 ただし、重要機密書類の類に関しては、必ず処分してください」

不意に俗っぽいことを言い出したグルッピーに、営業マンは冷静にそう応えていた。

政治的な意図があると、さっきアーサーは言っていた。それがスペランカーには気になる。足をぶらぶらさせている内に、説明が進む。

船にはまず、最初スペランカーのみで赴く。持っていくのは計器類だけ。他の装備は自由選択となっているので、探索用のザイルやライト、父の形見であるブラスターはきちんと持っていくことにした。

そうして基本構造が分かったら、アーサー、グルッピーが潜入。控えとして、川背がサポートにつく。

川背には、もう一つ重要な任務があるという。それに関しては、眉根を下げて申し訳なさそうに笑うばかりで、教えてくれなかった。男の子っぽい格好をしている川背だが、笑顔はとても素敵で、同性であるスペランカーも見ほれてしまう。

警報が鳴る。どうやら、フィールドの外縁部に、船が到達したらしい。

おいおい立ち上がる。川背は、最初に入ってきた、誰か分からないお爺さんと一緒に会議室に残るようだった。

「それでは、先輩。 頑張ってください」

「川背ちゃんも」

ハイタッチをすると、スペランカーは会議室を出る。槍が相当に気に入ったらしく、まだグルッピーはその回りをくるくるしていた。

 

2、狂気の船

 

巡航艦エセットスから切り離された小型の軍用モーターボートに乗って、スペランカーとアーサー、それにグルッピーはフィールドの内部に入り込んだ。運転をするのは、ベテランのSAS隊員である。

それをみて、スペランカーも何かがきな臭いと思う。

エセットスは国連軍の巡航艦であり、乗っているのも治安維持国際部隊の面々だ。それなのに、E国直属の、世界最強を謳われる特殊部隊員が絡んできている。ただ、残念ながら。スペランカーのオツムでは、どうしてそれがおかしくて、何が危険なのかがさっぱり分からない。

アーサーはさっきから槍を磨いたりナイフを研いだりして、難しい顔をしていた。後方からは、グルッピーが飛翔してついてきている。普通に飛ぶ分には、全く回転する必要がないという訳だ。

渡された通信機は、何と有線式である。周囲の深い霧の中、アーサーは舌打ちする。どうも良くない状況であるらしい。

さっきから、モーターボートの外では、ぺたり、ぺたりと音がしている。気味が悪くて仕方がない。霧も濃くなる一方で、南極海の身を切るような寒さと合わさって、不吉でしょうがなかった。

「もの凄い呪いだ。 普通の人間がこの船を出たら、一瞬で骨になってしまうわ」

「やだなあ。 グルッピーさん、大丈夫ですか?」

「我は更に強い呪いを受けているが故、この程度、蚊に刺されたほども効かぬ。 汝も条件は同じであろう」

返答は通信機から来た。そう言えば、有線式の通信機を、彼も渡されている様子だ。彼の場合は絡まらないように、厳重な注意が必要だと言うことだが。流石にて慣れているらしく、上手に扱っている。

「ふえ?」

「ううむ、其処から説明しなければならぬか」

アーサーが流石に呆れたのか、頭を振った。

「グルッピーどのの言う通りだ、スペランカーどの。 見たところ、貴殿に掛かっている呪いは、並大抵の代物ではない。 このフィールドを覆っている呪い程度では、突破は不可能だろう」

不意に、フロント硝子で大きな音がした。

それだけではない。赤い手形が、べったりとついた。それも、一つや二つではない。

ひたり、ひたり、ひたり、ひたり。

海上だというのに、辺り全部から、足音のようなものが聞こえた。逆に、波の音は一切聞こえない。思わず立ち上がろうとしたスペランカーの頭を、アーサーが押さえ込む。

急に後部のエンジンが止まる。アーサーが眼を細めた。

「どうやら、来よったわ」

その声と同時に、霧の中から、巨大な影が浮かび上がった。

確かに、ルルイエと船体に書かれている。汽笛の音。あまりにも不吉に、霧の中でそれは反響していた。

どすんと音がしたので、思わず首をすくめてしまう。

グルッピーが、速度を落とすために、モーターボートにぶつかった音だった。

しばらく巨大な豪華客船は、モーターボートの周囲を旋回していた。だが、アーサーが事前にモーターボートに仕込んだという術式を破れないからか、向こうからぶつかってくるようなことはない。

やがて、エンジンも動くようになった。

「此方の出方を見ようってつもりな訳ですね」

「そう言うことだ。 頼む」

どんな英雄でも、手を間違えれば、一瞬で命を落とす。

それが、フィールド探索の恐るべき点である。スペランカーは、ザイル、ヘルメット、ライト、地図、それにピック、ブラスター、タオルと順番に装備を確認した後、モーターボートの上部ハッチを開けた。

全身を、ひんやりとした霧がなで回す。

ドライアイスの中に入ったのではないかと思えるほどに、濃密な霧である。それに寒さも凄まじい。長ズボンを穿いてきているが、そうでなければ全身に鳥肌が立っただろう。お肌にも良くない。

ゆっくり頭上を旋回しているグルッピーが、不吉な怪鳥のように見えた。

SASの人が、スペランカーに続いて出てきた。霧の中でも平気なのは、着込んでいる迷彩服に、アーサーが術式をかけているからだろう。そのままフックを撃ち込んでくれる。ワイヤー突きのフックが、ルルイエの甲板に突き刺さり、鋭い金属音がした。

何度か引っ張るが、外れる様子はない。

腰に付けているベルトを、ワイヤーと接続する。車のシートベルトと同じ構造を取っていて、登る時に少しずつ移動させることで、安定させる仕組みだ。登るのに腕力があまりいらないので、スペランカーには嬉しい。もちろん帰りは逆にくっつけることで、安全に降りることが出来る。

死んでも平気という訳ではない。

苦しいし痛い。

だから、出来るだけ死なないように、装備は調える。残念ながらそれを整える頭があまりないので、いつも仕事を持ってくる人に、装備の選別は頼んでしまうのだが。

「じゃ、行ってきます」

「武運を」

グルッピーは旋回を続けていて、何も言わない。

どうやら、本格的に嫌われたらしかった。

 

スペランカーが、のろのろもたもたと、巨大豪華客船を登っていく。グルッピーは舌打ちした。能力の特性は聞いているが、それにしても戦士の動きではない。霧の中をゆっくり旋回しながら、グルッピーは己の生まれ育った環境から出た時の事を思い出していた。

基本的に、バルン族とウニラ族は不倶戴天の間柄である。

常時飛行しながら、呪いを回転、旋回によっていなすことを考えたバルン族。

それに対して、微速前進を常に続け、黒き穴と呼ばれるエネルギーが循環する異形空間を作成、巣にすることで己の一族を守ることを選んだウニラ族。

どちらも、生存戦略からして異なる存在であり、狭い土地で両者が発生してしまったことが、悲劇の始まりであったかも知れない。

バルン族は十年も生きると、戦士として認められる。優秀な戦士と認められれば、妻を娶る権利も得られる。グルッピーは天才肌ではなかったから、妻帯の許可が出たのは二十七才の時だ。もちろん天才型の戦士には、十才で妻を娶る者もいる。

ただ、基本的に女性も戦士として扱われるので、同僚の女戦士を伴侶として選ぶことになる。殆どの場合同格の異性を伴侶として選ぶことになるので、優秀すぎる戦士は逆に相手が見つからない場合もある。また、年がかなり離れた伴侶になる場合も少なくない。

いずれにしても、全員が戦士だと言うことは、戦いがそれだけ頻発していると言うことだ。

一人前と見なされるまで、グルッピーが殺した敵の数は三十を超える。

ウニラ族の戦闘能力はバルン族に比べて低めだが、全てが共通した一個体とも言える繁殖力と生存力は群を抜いており、総括的には五分の争いが続いている。近年では互いに外貨獲得によって得られた近代兵器を持ち込むこともあり、それでいたちごっこに歯止めが利かないのが実情だ。

そういった血なまぐさい環境で生きてきたからこそ、グルッピーは戦士である自分に誇りを持っている。

故に、戦士であることに価値を見いださない人間達には、あまり好感が持てないのだ。

もちろん、戦士でない人間など、存在意義さえないとも思っている。

ふと、気付く。別の船がいる。

有線のワイヤーが、どこかに絡まないように気をつけながら、グルッピーは連絡を入れてみた。

「船首より四時方向。 距離七百メートル前後。 船がいる」

「了承。 スペランカーが甲板に上がり次第、調査に向かう」

「いや、我が調査に赴く。 汝らは拠点として、其処にいよ」

面倒くさいので、返答は待たない。

もう一隻いる船は、サイズから言って、行方不明になった漁船だろう。中にはどろどろに溶けた人間の死骸が散らばっているかも知れないが、別にどうでも良いことだ。ウニラ族の戦士を木っ端微塵に打ち砕いてきたグルッピーにとって、ばらばら死体など見飽きた程度の物体に過ぎない。

速度を落としながら、海面すれすれまで飛行高度を下げた。そのまま、ゆっくり船に近付いていく。

肌がひりひりするほどの呪いが、海面から沸き上がってくる。だが、グルッピーの全身を包む呪いと中和しあって、何も起こらない。ただ、気持ちが悪いとは思うが。

アーサーが通信機から声を出してきた。

「勝手なことをするな、グルッピーどの! すぐに引き返されよ」

「我は戦士なり。 故に、引き際はわきまえている」

「それは否定しないが、今は兎に角、集団で連携して事に当たることが重要ぞ。 一旦引き上げて、我が輩がそちらに行くまでまたれい。 バルン族も戦士であるのなら、組織戦、集団戦の意味は解しておろう」

「汝らの機動力と我の機動力には格段の差があり。 無為で亀にも似た協調はむしろ、互いの自滅につながると思われるが、如何か」

徐々に意見対立がヒートアップしてくる。アーサーという男、戦士として有能であるのなら、兵種の違いによる運用の差くらい理解しても良さそうなのに。軽く失望を覚えてきた。

そうこうする内に、船に接触。甲板で一度跳ねた後、中空に浮き上がり、ゆっくり旋回する。ワイヤーを引っかけないように注意しながら。

甲板は異様に濡れていた。

そして、人間の気配はない。

外側から旋回して見回すが、船は真っ赤になっている。あらゆる箇所に赤い手形がついており、異臭を放っていた。

この臭いは、腐敗した魚によるものだ。

「もう一度だけ言う! 兎に角戻れ!」

「断る。 我の能力であれば、偵察任務程度なら問題なし」

「今調べたが、レーダーにその船とやらは映っていない! 如何に重異界化フィールドといえど、この近距離! 罠だ!」

アーサーの声が、不意に途切れると同時に。ワイヤーが、急激に動いた。引っ張られたのだ。

振り返る。

そして、見た。

海から無数に飛び出している、長い赤い手。人間のものに良く似ている。

それが、ワイヤーを掴んでいた。

手の数は数十、いや、それ以上であろう。

それだけではない。何よりも、船があった場所には、腐敗した魚の山が浮かんでおり、無数の濁った目が虚空を睨んでいたのである。中には、白骨化した人間も、少なからず含まれているようであった。

ひたりと、グルッピーの顔に何かが触れる。

有線の通信機を放り捨てて、速度を上げつつ、上空へ。

上空へ出ようとしたにも関わらず、なぜか海面へ体が向かっている。咆吼をあげたのは、顔に触っているものに気付いたからだ。

それは、視神経を剥き出しにした、眼球であった。

それが四つか五つ、腐汁を滴らせながら、まとわりついていたのである。

上、右、下、急激に方向を変えつつ、それでも迫ってくる海面で、一度バウンドする。二度目、三度目、四度目で、気色の悪い目を振り払った。同時に、全身の倦怠感が僅かに落ちた。

そして、気付く。

自分が何処にいるか、分からなくなっていた。

 

甲板に上がったスペランカーは、予想以上の光景に絶句していた。

幽霊船と言うから、朽ちた豪華客船くらいの状況は予想していた。しかし、これは一体、どうしたことか。

アーサーから連絡が入る。

「スペランカーどの! 状況を」

「え、ええと」

「どうした!」

「その、何だか着飾った人が大勢います。 昔のお金持ちみたいなドレスとかタキシードとかを着ていて、テーブルには料理が一杯並んでいて。 プールもあって、そっちでは水着を着た綺麗なお姉さん達が水泳してます。 あ、セーラー服着た屈強な人達が料理を配ってます。 霧も出てないです。 何だか、お空には太陽もあります。 気温も、三十度くらいありそうな雰囲気です」

嘘は、一言も吐いていない。

気味が悪いのは、誰もがスペランカーの事を見ていないと言うことだ。大きなロブスターを載せた皿を持って歩いている船員が、スペランカーの眼前を通り過ぎていく。

「これ、幽霊さん、なんでしょうか」

「そんな上等な代物なら良いのだが。 スペランカーどの、危険は承知で、船の中を、見てきて貰いたい」

「分かりました。 やってみます」

一旦通信を着る。ごめんなさいと呟きながら、なぜかこそこそ歩く。

足の裏の感覚がおかしい。白磁の甲板で、埃一つ無いように磨かれている筈なのに、ぬちゃり、ぬちゃりと音がする。

アーサーが、さっき妙にそわそわしていたのも気になった。何か、向こうでも起こったのかも知れない。

紫色のフラワードレスで着飾った美しい貴婦人が歩いてきて、避け損ねた。

そして、ぶつかった瞬間。

スペランカーの体を、貴婦人が通り抜けていった。

全身が総毛立つ。美しい女性が、幽霊であると思ったから、だけではない。その瞬間だけ、見えてしまったのだ。

辺りには、腐った魚が無数に散らばっている。骨が出て、内臓が露出して、濁った目が虚空を睨み、青黒く腐った触手が無惨にうち捨てられている。人間など、ただの一人も居ない。

それだけではない。やはり辺りは濃い霧に覆われていて、床は赤黒い何ものかによって満遍なく塗装されていた。吐き気がこみ上げてくる。

貴婦人が通り抜けた後は。甲板の上は、さっきまでと同じ、美しい豪華客船に逆戻りしていた。

「スペランカーどの! 何かあったか!」

「い、今。 おぞましいものを、見ました」

「そうか。 少し偵察したら、すぐ戻って欲しい」

「何か、あったんですね」

アーサーは、申し訳なさそうに言った。

「グルッピーどのが、行方不明になった。 歴戦の勇者である彼だ。 命を落としているようなことはないと信じたいのだが。 この上、貴殿まで行動不能になられるととても困るでな。 無理をせず、出来るだけ早めに。 そうだ、サンプルを何か持ち帰れないだろうか」

「やってみます」

きゃっきゃっと黄色い声。

最近のJ国の子供のように、親に着飾らされた子供達が、何人か走り回っている。女の子達はブルーのリボンがついた可愛い麦わら帽子や、或いは大きな蝶リボンそのもので綺麗な髪を纏めている。男の子に到っては、小さなシルクハットを被っていた。何だか不釣り合いで微笑ましい。眼を細めて見つめてしまうが。

しかし、体を通り抜けられて、現実をまた知覚させられてしまう。

この船には、多分生きているものは何もいない。微生物でさえ、ただの一匹も生きていないのではないか。そう思わされてしまう。

現実と、この光景のあまりのギャップに、吐き気さえ覚えてしまう。今見えた中には、白骨化した人間の亡骸らしいものも、少なからずあったのだ。

歩いていて、扉らしいものを見つけた。

開けてみようと思って、取っ手に触れると、やたらと冷たい。そして、妙に生臭い。四苦八苦しながら、何とか開けてみる。周囲を見回すが、やはりお客様達は。誰もスペランカーを見てはいなかった。

「扉、開きました。 図面からすると、船員達の部屋につながっている通路みたいです」

「気をつけよ。 何が起こるかわからん」

頷く。見えている光景と、触った感触に、あまりに差がありすぎる。

痛みが、手に走った。

掌に、無数のひっかき傷らしいものが出来ていた。

一瞬置いて、大量の血が浮き出してくる。慌てて周囲を見回すも、何もない。いや、あった。

今まで何もなかったドアの取っ手に、大量の髪の毛が絡みついていたのだ。しかもそれは、生き物のように、蠢いていた。

ぼぎりと、音。

右手の中指から小指までが、ごっそり消え失せる。

思わず悲鳴を上げて、尻餅をつく。見ると、何気なく歩いていた船員が、口をもぐもぐと動かしていた。

そして、いつの間にか。

今まで此方を見向きもしなかったお客達が、全員。

白く濁った目で、スペランカーを見ていた。

スペランカーの手が再生すると同時に、船員の頭が吹っ飛ぶ。だが、頭が吹っ飛んだにもかかわらず、船員は歩き続ける。その首から、イソギンチャクのものににた触手が、蠢きながら生え始めていた。

恐怖が、爆発的にせり上がってきた。

「! っ! あああっ!」

「もういい! 引き上げよ!」

アーサーの声が遠い。

無数の死人達が、スペランカーを見つめ、そして歩き始める。スペランカーに向けて、濁った目で、手を伸ばしながら。

徐々に、光景が、さっき一瞬だけ見えたものに変わりゆく。

そして、美しかったお客達が。腐敗した人間の死体と海棲生物の塊へと、代わっていく。

ドレスは、腐った鱗に。帽子は、背びれに。触手に。足は、蟹のものに。海老のものに。それぞれが、生前を冒涜しているように、歪み、腐り、汁を垂らし、曲がり、そして変色していた。濁った眼球が顔からこぼれ落ち、綺麗な形の鼻が崩れ、頭蓋骨が露出する。それが蛆に覆われ、そして乾燥して、剥き出しの歯茎がおぞましい姿を見せた。

呻き声が聞こえる。

辺りの、全てから。

時間が、はぎ取られているような印象だ。

美しかったこの船を冒涜する何かが、嘲笑っているかのように思えた。

どうする。外を、強行突破するか。とても痛い目には会うだろうが、どうにかそれは行ける。何度体を食いちぎられるだろうかと思うと憂鬱だが、しかし。

「こっちよ」

不意に、英語が聞こえた。

罠かも知れない。しかし、小さな女の子の声だ。

一瞬、足を止めた瞬間。甲板を打ち砕くかのようにして、大量の触手が沸き上がってきた。腐敗したそれは、イカのようにも、鮹のようにも見えた。それぞれはあまり大きくないが、あまりにも数が多すぎる。

手を何かに引かれる。

同時に、通信機を取り落としてしまった。

 

グルッピーに続いて、スペランカーの通信も途絶。有線式の通信機からは、雑音だけが届いていた。

「おのれ!」

通信機に、アーサーは拳を叩きつけていた。隣では、SASの隊員が青い顔をしている。

スペランカーはあの通りの存在だから、腕を食いちぎられようが頭を噛み砕かれようが、多分死にはしない。

だが、巨大な幽霊船に取り込まれて、意識を失って、それで無事で済むのかは分からない。貧弱な身体能力で、絶望的にさえ思える戦力差をひっくり返し、山のような大きさの魔物や、それさえ凌ぐ力を持つ大魔王さえ打ち倒してきたアーサーである。どんな存在にも限界と弱点があることは、熟知している。

救出作戦を行うとしたら、川背を連れて行かないと駄目だろう。あの子は相当な使い手だから、信頼できる。アーサーと共闘すれば、生半可な異界の軍勢くらいなら、苦もなく蹴散らせるだろう。問題は、この辺り全てが、敵の腹の中も同じと言うことだ。

そういった環境で死闘を繰り広げたアーサーは、如何なる実力を持つ勇者でも、そんな場所では簡単に死ぬことを良く知っている。今此処にアーサーが生きているのは、実力があったからではない。

運が良かったからだ。

「サー・ロード・アーサー。 どうしますか」

「少し、様子を見る。 二人とも、簡単に死ぬような使い手ではない。 ただし、増援を呼ぶ必要もあるだろうな」

「し、しかし、通信が」

「救命用ボートを下ろせ。 我が輩は二人が戻ってきた時に備え、此処で待機する。 船には防御用の魔法を掛けてあるから、生半可な攻撃ではびくともしない。 おぬしは川背どのを連れてきて欲しい」

もちろん、漂流を想定して、救命用ボートにも術式は掛けてある。また、ゴムボートと言ってもエンジンは装着しており、それなりのスピードで移動も可能だ。

ゴムボートを落とした瞬間である。

外から、痛烈な何か得体が知れない音が響いてきた。

思わずSAS隊員とともに耳を塞ぐ。船全体が震動するような強烈な音は、数秒で止んだ。

「い、今のは」

「……なるほど、そうか。 もう一度来るぞ。 耳を塞げ」

アーサーがそう言って、耳を塞ぐ。船がびりびりと震動した。

ゴムボートから視線を外し、見上げる先に。飛来するグルッピーの姿があった。

電磁波や超音波を口から放つという話は聞いていた。つまり、それを使った三角測量であれば、このモーターボートの位置を精確に割り出せると言うことだ。グルッピーは戦闘に己の誇りの全てを賭けているような存在だが、話を聞く分だと外部の文明の事もある程度理解しているし、知識もある。興味がないことと、使いこなせることは話が別だ。

やがて速度を落として近付いてきたグルッピーは、申し訳なさそうに言った。

「すまぬ、アーサー卿。 歴戦の汝が言葉を聞くべきであった。 我、さながら初陣の小僧がごとき不覚をとれり」

「気にするな。 それに、生還してくれて助かる」

しばし回転しているグルッピーを見つめていたアーサーだが、決断した。

「この様子では、そなたを潜入させていても結果は同じであっただろう。 よし、やむを得ない。 計画を前倒しし、我ら二人で幽霊船の威力偵察に向かおう。 途中でスペランカーどのを救出し、一旦戻れるようならば戻る。 そなたは、先に戻って、川背どのを万が一の時に備えて連れて来て欲しい。 救命ボートは、此処に残しておく」

「分かりました。 サー・ロード・アーサー」

「判断は汝の方が正しいようだ。 我は汝の言葉に従う」

「うむ、助かる。 さて、海底の姫君のおいたを叱りに行くとするか」

鎧の上から、アーサーはザイルと救命胴衣を付けた。貧弱と言っても、幾多の魔界を超えてきたアーサーである。鎧を着たまま、ザイルを伝って船の甲板まで上がるくらいのことは造作もない。

グルッピーは時々船の側面にぶつかりながら、旋回し、アーサーと高度を合わせている。

不吉にぎしりぎしりと鳴るザイルが、アーサーの神経を締め付ける。それなりの修羅場を潜ってきているスペランカーが、悲鳴を上げていたのも気になる所だ。

潮の香りが異様に強くなってくる。腐敗臭も混じっている様子だ。

海底調査艇が、以前クィーン・ルルイエの姿を捕らえたことがある。海底に横たわる悲劇の豪華客船は金属を腐食させる細菌の影響で、美しい原型をとどめないほどに崩壊していた。この船も、実体がそれだとすると、あまりザイルに頼ると危ないかも知れない。

いち早く、グルッピーが甲板に出た。

アーサーもそれに続く。

南国の楽園のような光景が広がっていた。

スペランカーが報告してきたとおりだ。美しく着飾った紳士淑女に、水着の乙女。プールには青い水が湛えられ、霧など何処にもない。

眼を細める。幻覚は、アーサーも何度となく苦しめられた攻撃だ。最初に魔界に挑んだ時などは、周囲のことごとくが幻覚で、その全てを打ち破って初めて敵の懐に肉薄できた、等という事もあった。

「これは、幻覚なるや」

「間違いないな。 さて、この我が輩を謀ってくれたこと、たっぷりと後悔させてやるとするか」

モーターボートが離れていく音を聞きながら、アーサーは己の能力を展開する。

そして、周囲の命無き人間達が。

偽りの楽園が。

音を立てて崩れ始めた。

 

3、悲劇の真実

 

意識が戻ってきた。

敵の体内で消化されかけという最悪の状態を想定したのは、全身に粘液が絡みついているのを感じたからだ。ゆっくり目を開けて、スペランカーは周囲を見る。

意識を失うというか、死ぬ寸前。手を引かれるのを感じた。

ただし、それは人間の手によって、ではない。

胴ほども太さがある、巨大な触手によって、であった。恐らく鮹の触手だろう。不死者達の前に躍り出た、あの巨大な触手の主が、スペランカーを欲したと言うことだ。目的は分からない。もちろん、捕食を想定した場合もあるだろう。

目は開く。明かりがあると言うことは、何かの腹の中ではないという事か。

何度か経験があるのだが、消化されながら再生を繰り返すというのは根比べだ。不死の能力がなければその場で死んでしまう訳だが、不死である場合は、相手に打撃を与えながら、どれだけ精神的に耐えるかの勝負になる。恐ろしく辛い勝負で、相手が巨大であればあるほど戦いは長く続く。

だから、そうでないと確認できただけで、幸運だ。

体の下には板があるらしい。天井は、朽ちてはいるが、いちおう建物の内部のようだ。体を触りながら、起こす。服を剥がれたりとか、装備を取られたりという事はないようだ。それだけ自信があるのか、それとも遊んでいるだけなのか。

どちらにしても、あの巨大な鮹の足。生半可な存在ではない。覚悟を決めておいた方がよいだろう。

「あら、目覚めたのね」

鈴を鳴らすような声。可憐な女の子の声だ。

視線を彷徨わせ、見つける。

もはや、この世の者ではない、声の主を。

それは、上半身は女の子だった。カールの巻いた綺麗な金髪。肌は美しいチョコレート色で、何事にも興味を示しそうな、大きな可愛らしい目をしている。お洋服も、恐らくオーダーメイドの特注品だろう。フリルがついていて、とても綺麗な品だった。

問題は下半身だ。

今、スペランカーがいるのは、周囲十メートル程度の船室だろう。

とても、それには収まりきらない。

巨大な鮹をベースにしているそれは、今も太く長い触手を、部屋の外で蠢かせているようだ。それだけではない。無数についた、人間らしき目。鮹の表皮に思えるそれからは、大量の人間の指らしきものが生えていて、蠢いていた。

吐き気を誘う醜悪な下半身と、可憐な上半身のギャップが凄まじい。

そして、部屋中に漂う死臭は、彼女が見かけ通りの存在ではなく、この世の者ではないことを告げていた。

「驚いたわ。 貴方も、人間ではないのね。 持ってくる途中、何度か触手をえぐられてしまったわ」

スペランカーの体を包む不死の呪いは、補給機能を備えている。死んだ時に欠損が出ると、それを周囲から、或いは殺した相手から、強引に補給するのである。それが発動したのに、間違いなかった。

「……貴方は、クィーン・ルルイエ?」

「ううん。 そんな人は、この船にはいないわ」

”私達”の名前は、ルルイエ。

そう、女の子に見える存在は言った。

 

此処は戦いやすい。そう、グルッピーは思った。

大きく息を吸い込むと、迫り来る死人どもに、超音波を浴びせる。全身がひび割れた死人に、そのまま回転しながらの体当たりを仕掛ける。

粉々に砕けた死骸を突破して、更に次へ。途中、槍のように手すりの残骸を向けてきている死人を視認。さっと手を伸ばしてパイプを掴み、体を旋回させて壁に叩きつけ、反射を利用して上空に躍り上がる。

無数に伸びてくる触手。

甲板を突き破って、伸び来た鮹の触手だが、中途で飛来したナイフによって抉られ、吹き飛ぶ。

爆音の中、突貫。再び超音波を浴びせかけ、片っ端から体当たりで打ち砕いていった。

「ほう、流石は歴戦の戦士! 見事だ!」

絶倫の剣技で、右に左に死人を薙ぎ散らしながらも、此方を援護する余裕があるらしいアーサーが叫ぶ。奴の手元には常に新しい武器が光と供に生じており、投げても投げても尽きることがない。右手の剣で死人を切り伏せ打ち砕きながら、左手に生じた斧やら短剣やらを投げつけ続けるアーサーは、まさに生きた兵器庫であった。

これが奴の能力。ウェポンクリエイト。

作成できる武器は己の体重を上回らないものに限られるらしいが、体力と引き替えに、幾らでも武器を生成することが出来るという。生成速度も早く、魔王の軍勢と戦う際に、大きな力を発揮したそうである。

死骸は、後から後から甲板に這い上がってくる。アーサーは鋭い斬撃で、手近にいる大男の死人を唐竹に切り伏せながら、指示を送ってくる。グルッピーは丁度甲板にぶつかって跳ね上がりながら、つかみかかってきた大男の脇を抜け、別の水夫の死骸を顔面から砕いた所であった。

「先に行かれよ。 我が輩は此処で、敵の頭数を削っておく!」

「分かった」

さっき、スペランカーの通信装置を見つけた。途中で千切られていたが、彼女が入っていった先は明らかだ。何度か床、壁とバウンドし、立ちはだかろうとする死人どもを蹴散らしながら、グルッピーは扉に飛び込む。

中も、さながら死人の鮨詰め状態だ。老若男女、貴賤、関係無しに、無数の死人が、濁った目で、つかみかかろうと躍り掛かってくる。その動きは生きている人間と大差なく、さながら走り回るゾンビを扱った近年のホラー映画のようだ。

だがしかし、狭い通路はグルッピーの独壇場だ。雷撃をまき散らしながら、高速で左右にはね回りつつ、硬直した死人の体を打ち砕く。もとより硬質ゴムに良く似ているというグルッピーの表皮は、回転によって著しく強度を増し、弾丸に等しい状態になる。其処を、電撃、超音波砲撃によって麻痺した相手に叩きつけるのだ。

生の生物でさえ、風穴が開く。

バルン族を殺すことに特化し、全身を針で武装しているウニラ族でさえ。超音波砲をまともに浴びた状態では、バルン族の突進を防ぐことは出来ないのだ。ましてや、生きてさえいないこのような連中など。

縦横無尽に蹴散らしながら通路を進むグルッピーは、だがしかし。通路の手すりを掴み、無理矢理ベクトルを下に変え、床で自分を弾きながら、天井へ向かう。

通路の奥から、触手が伸びてくる。それも、相当な数が、だ。

柔軟性の高い触手は、相手にすると厳しい。ましてやバルン族は、一度でも敵に捕獲されると死が確定する。今まで来た通路は覚えている。そして、渡された地図も、頭に叩き込んでいた。

激しくはね回りながら、グルッピーは探す。

この船の中で、金品として残っているものを。

契約料だけでは足りない。外貨を獲得し、食料、それにウニラ族との抗争で用いる最新兵器を手に入れるには、金品を取得する必要があるのだ。

無数に張り巡らされたパイプや手すりは、全てグルッピーの味方である。

襲い来る触手をかわしつつ、徐々に死せる船の奥へ、奥へと入り込んでいく。

この辺りは、水夫の生活区域だ。貴族どもは、もっと上の通路にいたはずである。

と、その時。

通路が塞がっているのに気付いた。瓦礫やら何やらで、完全に塞がっている。最早周囲は幻覚を見せる気もないらしく、海産物の残骸がこびりついた朽ちかけた通路の中で、その光景は無惨なだけだった。

一旦引き返すか。

そう思い、グルッピーは何度か射角を調整しながら、後方を確認。今のところ、追いついてきている敵はいない。

側の部屋に飛び込むと、窓を割って飛び出そうと思った。ふと、気付く。

机の上に、手帳がある。

一旦それを手にすると、窓を打ち砕いて、グルッピーは船の外に飛び出した。

甲板では、まだアーサーが戦っている。周囲は崩された死人の山であり、腐臭が酷い。歴戦の猛者であるアーサーも、流石に顔をしかめていた。

「これは、ガスマスクが必要であったやも知れぬな。 おお、戻られたか。 硝子が割れる音がしたが」

「行き止まりになっていたので、一度引き返してきた。 内部構造はある程度理解した」

「そうか。 スペランカーどのは、かなり奥まで引き込まれた可能性が高いな」

アーサーが手元に十字架を出現させる。簡素な作りだが、強い光を纏っていた。

甲板に、魚のような人間のような、気色が悪い連中が現れる。もはや、死人ですらない。この世の法則の、外にある存在だろう。

連中は横一列に並ぶと、一斉に腐敗した液体を吹き付けてくる。

手すりを使って回転速度を上げ、上空に上がったグルッピーが、超音波を浴びせてはじき返す。アーサーも十字架を放り投げると、強い光が放たれ、腐敗した液体が一気に浄化され、唯の水とかした。

「一度引き上げるか。 川背どのが到着してから、再度攻勢に出よう」

「了承した。 それまで此処で、敵を削る方法でよろしいか」

「うむ」

アーサーが、今度は身の丈ほどもある、巨大なトマホークを手元に造り出す。

そして何度か回転すると、遠心力を利用して敵に叩きつける。魚の顔をしたあの世の住人達は、纏めてなぎ払われ、血反吐を吐きながら吹き飛んだ。

その時。

ずるりと、嫌な音がした。

 

川背は老人が作った料理を前に首を振る。老人は落胆して肩を落とした。

「そうか。 この郷土料理では、通じんか」

「残念ながら。 南A大陸の味付けとしてもあまり良くありません。 海外の観光客を呼ぶのは、無理でしょう」

そもそも、川背は今回、スペランカー先輩に誘われて参加したのではない。フィールド探索の斡旋業者から声が掛かり、任務に参加することとなったのである。給金は比較的高めだったが、今回は危険度が高いフィールドと言うこともあり、あまり気乗りはしなかった。

支援任務と言うことで来てみたが、内容はもちろん戦闘支援だった。もう一つ、追加で給金が出るという任務もやって欲しいと言うことだった。その内容を聞いて、川背はやる気を出した。そして今、老人と向き合っているのだ。

今回、フィールドが発生した近辺にあった港町は、探索者を呼ぶために大きな借金をしているという。フィールド探索者を斡旋する会社も、慈善事業をしている訳ではない。取り立ては容赦なく行われ、払えない場合は土地そのものが差し押さえられてしまう。

それだけではない。フィールド発生による経済的な損失は凄まじく、漁でどうにか生計を立てている小さな港町は、存亡の危機にあるという。

貧しい生活の苦しさを、川背は良く知っている。

幼いころから父と放浪をしてきた。その過程で、賄いのバイトを続けて、生活費を稼いできた。お金を払ってくれる人は、絶対的に立場が上なのだと、この時に知った。タチが悪い店になると、セクハラまがいの事をされることだってあった。歯を食いしばって頑張りながら、どうにか独立できる目処が立った時、川背は本当に嬉しかった。

港町を立て直す事を、川背は頼まれたのではない。

南極海ツアーの中継地点として、ある程度客にお金を落とさせることが出来る料理を作る手伝いを、川背は頼まれたのだ。

既に老人は、静かな港町を再建することを諦めてしまっている。そして、C社を中心とした斡旋を続けている営業マンも、それを前提にして、川背に追加報酬での仕事を頼んでいるようであった。

苦境は、分かる。だから、全力で手助けはするつもりだ。港町の顔役だという老人は、苦しそうな顔であった。

「どうすればよいのだ」

「素材は悪くありません。 まず、主要観光客提供国の好みにあった料理を、魚介類中心で作ってみましょう。 僕が作ってみますから、味見をしてみてください」

営業マンは、にやにやと営業スマイルを浮かべて、此方を見つめている。

まずパスタを作った。ムール貝の味を生かし、トマトの味と絡め、魚介類の旨味を引き出した品だ。続いてラーメン。炒飯。ス−プ料理。それにサルサ。ハンバーガーに、ボルシチ。

営業マンにも試食して貰う。素材としては一流と行かなくとも、まずまず満足できる品ばかりである。充分以上のものが出来た。

得に惜しむような事もないので、レシピは起こしてある。素材の分量さえ間違わなければ、他の料理人達でも、再現は難しくないだろう。

「ふむ、流石に。 プロの板前もしていると聞いていますが、たいしたものですね。 あまり高級な素材を使わず、即座にこれだけのものを作れるとは。 呼んで得をしましたよ、川背さん」

「有難うございます、アリーマーさん」

「いえいえ。 ご老体、貴方はどう感じます?」

「余所ではこういう料理が受けるのか。 確かにどれもこれもとても美味しいが、何というか、俺はもっと素朴な料理が好きだ」

肩を落としたまま、老人はそう言った。

気持ちはよく分かる。

むしろJ国の料理は薄味傾向なのだと、川背は知っている。海外でスナック菓子を食べてみれば分かるが、味覚そのものの濃度、それに方向性が違っているのだ。だから、余所の国で食べる場合は、舌がおかしくなることを覚悟した方がよい。

これは何処の国の人間が、別の国に対して旅行を行った場合も同じだ。

濃厚な味になればなるほど、他の国では受け容れがたくなる。ましてや、素朴な田舎の港町で暮らしていた人達からすれば、それも当然だ。きっと、この味自体が、占領軍のように感じてしまうのだろう。

それでは、いけない。それでは、立ち直れない。ただ、無言で川背は一品だけ、焼いた魚を出した。

「此方は、どうですか」

「川背さん。 分かっていますか?」

「これは任務には関係なく、料理人としてだした料理です」

信頼を、まず築きたい。だから、作った。

掌ほどの魚を、味付けを最小限だけして、ただ焼いた料理。呆れたように、営業マンはそれでも箸を付けてくれた。老人は一口だけ口に入れて、それで目を見張る。そして、骨だけ残して、綺麗に食べてくれた。

フォークを置くと、老人は落涙する。悲しみの涙ではないと知って、川背は安堵した。

「……そうか。 まだ若いというのに、あんたの腕は、認めざるを得ないらしい。 確かにこれは、俺から見てもとても美味しい。 焼いただけの魚なのに、こんなにも美味しいなんて。 若いころに初めて自分で獲って食べた魚の味を思い出すよ」

「素朴ながら、実に美味い。 ただ、魚を知り尽くしている貴方だから出来る名人芸の結果であって、レシピにはおこせないでしょう」

「分かっています。 ウルリヒさん。 悔しいかも知れませんが、一からやりなおしましょう。 僕もこの味を出せるようになるまで、十年かかりました。 他の女の子がお洒落とか男の子とかを考えている間の時間を全部費やして、やっと出来るようになった事なんです。 でも、十年で出来ました。 港は大きな借金を背負うかも知れませんが、きっと立ち直れます。 僕の料理やレシピがその手助けになるのなら、幾らでも手を貸しますから」

ほう、と営業マンが呟いた。

川背がアーサーに聞いた所によると、この営業マンは元々人間ではないそうである。それもいわゆる悪魔の一種で、魔界でアーサーと何度となく刃を交えたライバルだったという。今では魔界との交流が部分的に開始されており、怪我をして戦えなくなったこともあって、営業マンなどしているのだとか。本当の姿は、人間とはかけ離れ、翼や尻尾の生えた悪魔らしいものだという。

その営業マンが、皮肉な笑みを湛えている。

不意に、ベルが鳴る。営業マンが素早くとり、何度か川背を見て、頷いた。

電話を切った時には、平穏な時間が終わったことが明らかだった。

「増援の依頼です。 スペランカーさんが敵中にて行方不明。 サー・ロード・アーサが、貴方の出陣をご所望です」

「分かりました。 直ちに」

自分に出来ることをする。

欠落した青春の中で、友人らしい友人は、川背にはいなかった。いじめを受けることもなかったが、兎に角孤独だった。

この間の任務で、自分を認めてくれたばかりか、庇ってくれたスペランカー先輩は、今、多分、家族以外で一番大事な存在である。

その危機を救うのであれば、どんな事でも、出来る。

一つの任務については、果たす目処がついた。もう一つの任務を、これから叩く。

リュックを背負うと、モーターボートへ急ぐ。霧の中から生還してきたモーターボートは、全体にフジツボや死んだヒトデが付着していて、おぞましい臭気を放っていた。これは、あまり長くは保たないかも知れないと、川背は思った。

 

一旦救命用ボートに避難したアーサーは、ゆっくり旋回しているグルッピーを見た。かなり傷が増えているが、どうにか無事である。

甲板で現れたのは、巨大な触手の塊だった。ずるり、ずるりと音を立てて近付いてきたそれは、全長が百メートル超はあるように見えた。

敵に本気を出させただけで充分。アーサーはグルッピーが時間を稼いでいる間に多数の十字架を出して結界を張ると、さっさとザイルを伝って船を出た。そして救命ボートを少し敵本拠から離して、増援の川背を待つことにしたのである。

ボートの上では、図面を拡げて、グルッピーと現状の船の内部について話し合った。どうやら船員達の暮らしていた区画は、他と隔離されてしまっているらしい。スペランカーが引きずり込まれたとしたら、多分船体下部ではなく、貴族達が暮らしていた上部だろうと、アーサーは推察した。

グルッピーが持ち帰ってきた手帳は、防水式のものであったらしく、何とか中身が読める。ざっと見ると、日記のようであった。

本腰を入れて、目を通す。すぐ側には、クィーン・ルルイエの巨体が停泊したままである。恐らく霊的な攻撃は仕掛けてきているのだろうが、アーサーが事前に念入りに掛けた術式を突破するには到らない。

半刻ほど掛けて、読み終える。

やはり、予想通りの事実が書かれていた。

「ふむ、そうか」

「何か、興味深き事が書かれていたか。 汝アーサーよ」

「うむ。 そもそもこの事件を、どうして忌むべきものとして扱うか、貴殿は知っておるか、グルッピーよ」

「来る前に、資料は確認してきた。 事故による打撃は小さかったが、救援が遅くなったせいで、船内で殺し合いが発生したとか。 救助が来た時には、七人しか生きていなかったと聞いている」

そう。世間的には、その程度のソフトな表現で済んでいる。だが実際には、この事件にはもっと大きな、当時の社会的問題が絡んでいるのだ。

「かって我が輩の国は、紳士の国と呼ばれたことがある。 しかし一次大戦の少し前くらいには、悪魔の国と変わり果てていた。 人類の歴史上、もっとも手ひどい虐殺と略奪を行った国となってしまったのだ。 その記録はスターリンやヒトラーという稀代の悪魔が闊歩した後も、現在に至るまでも更新されておらん。 例えばI国では経済を徹底的に破壊し、餓死者は二千万人にも達した。 しかもC国との経済戦争で麻薬を扱うべく栽培を進めさせたため、今でもその傷跡は大きく残ってしまっている。 我が国の悪行はそれだけではない。 クィーン・ルルイエがいた小国でも、悪行は代わらず行われたのだ。 呆れたことに、今でも多くのE国人は、己の悪行を恥じるどころか、侵略した国々を植民地などと呼んで嘲笑っている始末よ」

「ほう。 あきれ果てる話であるが、まあ、人間などその程度の生物であろう。 愚かで醜く、存在として過去に反省することが出来ぬ生物よ。 我にもその血が流れていると思うと、腹立たしい事よな。 さて、仕事の話であるが、となると、その争いとは」

「……そうだ。 E国の人間と、彼ら侵略された側の人間達の争いも絡んでいたのだ」

だから、アーサーが今回派遣された。クィーン・ルルイエという存在を、完全に消し去るために。

そして、こうも早くフィールド探索者、それも腕利きが四人も派遣されたのも。E国が、「己の歴史を清算する」ために、裏から圧力を掛けたからだろう。事実、現在港町に押しつけた借金を盾に、大きなプロジェクトが動いている様子だ。クィーン・ルルイエという存在を完全に消し去るための、上書き用のプロジェクトとして。

アーサーは、手帳の内容を解説する。

E国のロイヤルネイビーは、クィーン・ルルイエが建造された時代、腐りきっていた。水軍の水夫として、略奪同然に村々から人々を連れて行くことが珍しくなかった。E国でそれが無理になると、植民地から人員を調達した。軍でさえその有様である。民間企業のモラルなど、存在しないに等しかった。

このクィーン・ルルイエに乗っていた水夫の中にも、そうやってE国の植民地であった故郷から無理矢理連れ出された男達が、多く混じっていた。この手帳の主も、その一人であったらしい。

「最初の数週間は、愚痴で埋め尽くされている。 甲板で貴族とジェントル(資本家)どもが豪華な食事を楽しんでいるとか、餓鬼どもが五月蠅いとか。 此方は豚の餌同然の食事をしているのに、奴らは油が滴るステーキを、半分も食べずに捨てているとか。 まあ、殆どの愚痴が真実なのであろう」

「人間とは、まこと愚かな生物よ」

「本当にその通りだ。 やがて、此処だ。 六月十七日。 事故が発生する」

南極海に入ったクィーン・ルルイエは、霧に包まれたという。丁度今回のような状況であったようだ。それから数日間、日記が急に飛んでいる。前後の表現、それに歴史に残された生存者の証言からも、六月十七日に悲劇が起こった。

南極大陸から離れて浮遊していた氷山に、船体がぶつかったのだ。

幸い、熟練した船長であるオズワルド氏の判断によって、一瞬での沈没は避けることが出来た。だが、本当の悲劇は此処から始まっていく。

通信がまず出来なくなった。理由はよく分からない。当時は、通信機器の故障が原因ではないかと言われていた。船の航行能力も喪失。近辺には船もおらず、船内はパニックに陥った。

最初に減らされたのは、水夫達の食料であったらしい。

「愚かな。 最も体力を必要とする水夫達の食料を減らし、豚も同然の連中の餌を確保したというか」

「それだけ、資産家達の社会的な権力が強かったと言うことだ。 生きて帰ってからの事が問題だったのであろう。 数日はそれでまだ良かった。 だが、救援が来る見込みもないとなってくると、水夫達は抗議を開始した。 資産家階級も、もちろんそれに対抗しようとし始める。 船長は必死に両者をなだめようとしたが、日に日に厳しくなっていく環境で、ついに激発が起こった」

甲板で、干し肉を囓っているジェントルに、ついに水夫が噛みついたのだ。

もみ合いの喧嘩をしている内に、恐怖に駆られたジェントルが発砲。水夫の一人が、胸を貫かれて即死した。

完全に頭に来た水夫達は、ついに群れを成して、自分たちから搾取し続けた貴族、ジェントルを襲った。そして、容赦なくスコップで殺戮して、南極海に投げ込んだ。奪った銃も、重要な凶器になった。狂乱の宴は丸一日続いた。

こうして、千三百人ほど乗っていた人数が、一気に千弱にまで減った。

三百数十人がその場で殺されたのだ。女子供も容赦なく殺され、劣情の餌食にされた挙げ句に、海に放り込まれた。

力の差は、こうして逆転した。

今まで自分たちを見下し、差別してきた貴族とジェントルに、水夫達は徹底的な報復を行った。

見る間に、船の人数は減っていった。

「手帳には、歓喜の言葉が躍っている」

「そうか。 そう言えば汝らの住む西欧では、労働者階級と支配者階級の長きにわたる闘争が続き、それが世界大戦の遠因になったとも聞いている。 この豪華客船では、それの先駆けとなる事件が、嵐のように起こったと言うことか」

「そうだ。 少し状況は異なるがな。 だから、E国としては、歴史の闇に葬り去りたいのだろう」

手帳を進める。

数日は、それから静かな日々が続いた。食料を豊富に手に入れた水夫達は、大喜びで自由を楽しんだ。

ただし、それも数日に過ぎなかった。

通信機が壊されていた事が、発覚したからである。

正確には故障していたのだが、そんな事は水夫達にはどうでも良かった。もとより、当時の労働階級に知識は殆ど無い。

犯人は分からなかった。だが、疑心暗鬼が、さらなる殺戮を呼んだ。

船の一角に押し込められていた資産家達は、徹底的な拷問に晒された。手帳には、生きたまま歯を抜いたとか、目玉を抉り出したとか、凄惨なその実態が書かれている。彼らが全く自白しなかったことで、水夫達の疑念は、自分たちの仲間にも及んだ。資産家のスパイになっている者が、いるのではないかと。

氷山に船体が激突してから、一週間後。

ついに、水夫達の間でも、内紛が開始された。

 

スペランカーの体には、触手が絡みつき、動きを封じている。吸盤には牙を思わせる鋭い突起がついていて、がっしり固定されてしまっていた。髪からしたたり落ちる粘液が気持ち悪いが、しっかり手足が固定されてしまっているので、身動きも出来ない。

逃げられないようにすると、ルルイエが言った。

そしてその方法を、この存在は、充分に心得ているようだった。

多分この船のコアになっているのは、この子だ。しかし、ブラスターを叩き込む隙もないし、今はそもそも身動きが取れない。だいたい、女の子にブラスターを叩き込むのは、正直気が進まない。

空中につり上げられたスペランカーは、聞かされ続けていた。

この船で、何が起こったかを。

水夫達の内紛の際、船には火が放たれた。かろうじて消し止められたが、食料庫は完全に焼き尽くされてしまい、多くの人間が死んだ。

飢餓地獄が始まった。

生き残った者達が最初に目を付けた食料は、女子供だった。

老人が、その次だった。

一月が経った頃には、それでも食料が足りなくなり。生き残った水夫達は、互いを食料と見なして殺し合った。死んだ奴はその場で解体されて、焼かれて喰われた。

それは、文字通りの。地獄絵図だった。

ようやく救助が来た時、生き残ったのは七人だけ。その場で、白骨と人肉が散らばっていたクィーン・ルルイエは放棄された。

ルルイエはくすくすと笑う。目には、おぞましい狂気が根深く宿っていた。詳細な地獄絵図を聞かされるスペランカーは、何も言わない。

其処までの悲惨さではないにしても。経験があるからだ。

男遊びに夢中になり、育児放棄した母。ゴミの山の中、死なないという理由で放置されたスペランカーは、飢餓による死を何十回も迎えた。

児童相談所の人が駆けつけた時には、正気を失いかけていた。胃袋にはプラスチックの容器まで入っていたという。

だから、分かる。その狂気と、悲しみは。

「私の名前って、戦利品だったの」

「E国が植民地にしたって言う、小さな国の王女様ね」

「そうよ。 その国は小さな貧しい国だったの。 でもね、穏やかで、皆が助け合っている、良い国でもあったのよ。 でも、何だか資源が見つかったとかで、E国が大艦隊と恐ろしい武器を持った兵隊を率いて乗り込んできて。 何もかもを奪い尽くしていったんだって」

美しかった島は踏み荒らされ、貧しくも幸せだった家々は焼き払われた。

王女は資産家階級にペットとして慰み者にされ、全ては滅び去った。その島々は、今では地獄を思わせる紛争地域だという。

アロハオエという歌がある。

A国によって植民地とされたハワイの最後の女王が、故郷を思って作った歌である。今では陽気なフラダンスと一緒くたにされて、明るい歌だと思われていることが多いが。実際は国を奪われた女王によって作曲された、悲劇の歌なのだ。

それを、来る途中、スペランカーはアーサーに聞かされた。

アーサーは、故国の悪行を、決して喜んではいないようだった。それに起因している、植民地主義も。

「女王様は、若くして資産家どもに移された性病で、ろくな治療もされずに亡くなったのだけれど。 紳士の国を自称するE国に、呪いを掛ける事を忘れなかった。 その国に伝わる、必殺の呪いであったそうよ」

「それが、この船に、引き寄せられた」

「そう。 くすくす。 正確には、この船にまとわりつく呪いに、”私達”が興味を持った、というのが正しいのだけれど」

そういえば。

水夫達には、様々な国籍の人がいたと言うけれど。

この子のような、南国出身の資産家階級は乗っていたのだろうか。

それで、思い当たる。ひょっとして、この子は。E国に踏みにじられた、I国の餓死者達の怨念なのではないだろうか。

「でも、私達がしたのは、霧を出すことと、通信機を壊すことだけ。 ほとんどは、人間達が、勝手にやったのよ」

「それで、何がしたいの?」

「別に? 私達が味わった苦しみを、少しでも返してあげたいだけ」

「悲しい子」

ぎしりと、両手足が軋みを上げた。そのまま引きちぎるつもりかも知れない。

別に、それならそれでいい。女の子は相変わらず笑顔を浮かべているが、不快感はありありと感じられた。

「どちらの呪いが強力か、勝負してみましょうかあ?」

「……それだけの事をして、少しは気が晴れたの?」

「全っぜん! 私の気が晴れるのは! あの腐った金持ちどもが! 一匹残らず! まとめて! 海に沈んだ時だけよぉっ!」

金切り声が上がる。

スペランカーは目を閉じて、これから始まるだろう壮絶な根比べを思い、憂鬱になった。

しかし、此方が注意を引きつければ引きつけるほど、アーサー達は有利になる。

それに、この哀れな子達を。少しでも自分が楽に出来ると思えば。痛いのも苦しいのも、どうにでもなると思った。

 

4、突入

 

モーターボートの音。救命ボートの上で機会を待っていたアーサーが立ち上がる。

その目には、戦場のもののふが湛える、戦意が滾っていた。それを感じ取ったグルッピーは、自らの目でも、霧の中近づき来るモーターボートを確認する。

モーターボートは、数百年は経ったかのように、フジツボに覆われていた。腐ったヒトデの死骸もこびりついている。停泊したモーターボートに触れながら、アーサーは眉をひそめた。

「予想以上に侵食速度が大きい」

「汝アーサーよ。 攻略を急いだ方が良いと言うことか」

「そうだな」

「一つ、聞かせて欲しい。 我は戦士であることに、誇りを持つ。 我が部族も、皆がそうだ。 皆が同じ誇りを共有するから、強くなることも出来る。 汝は戦士ではない相手を守ることに、なぜ誇りを持つ」

アーサーはモーターボートから手を離すと、旋回を続けるグルッピーを見上げる。

その目には、怒りか、哀れみか。そんな感情が宿っていた。

「スペランカーどのは、恐らく中で戦っておろう。 彼女は戦士ではない部分もあるやもしれぬが、戦士では間違いなくある」

「我には感じ取れぬ。 能力に甘えた雌犬だとしか思えなかった」

「それに、違う思想の存在を受け容れてこそ、我が輩は戦士として更に高い段階に行けるものだと信じておる。 貴殿、グルッピーどのは多少偏狭だ。 もっと大きな存在を受け容れる度量が必要なのではないか」

モーターボートから、川背が顔を出す。話が聞こえていたらしく、かなり険しい顔をしていた。

そういえばこの娘は、スペランカーと仲良くしていた。つがいと言うことは雌どうしだから無いのだろうが、或いは人間が極めて曖昧な定義で使っている友人という奴なのかも知れない。よく分からないが、川背という女は、呪いの中でも平気なようだった。常識外の身体能力を持っているらしいが、それは一種の呪術的な要因に起因しているのかも知れない。

アーサーは豪華客船に張られたワイヤーを伝って登り始める。川背は手にゴムつきのルアーを出現させると、振り回しながら言った。

「スペランカー先輩を、悪く言わないでください」

「我には、汝ほどの使い手が、あの雌犬を買う意味が分からぬ。 現に今も、地力での脱出さえ出来ておらぬではないか」

「あの人は、自分なりの戦いを、自分なりに出来る人です。 それに、僕の事だって認めてくれた、強い人です」

ついと、視線を逸らされた。

分からない。

ならば、理解するように、努めるべきかも知れない。

消防士もかくやという速度で、川背が客船の側壁を上がっていく。グルッピーは悩みながらも、一旦側壁に打ち当たると、バウンドを利用して加速、一気に上空へ出た。旋回して様子を確認。丁度、アーサーが甲板に上がった所であった。

先ほど、アーサーが十字架で張った結界が破れかけている。無数の崩れかけた人型が、十字架から放出される光の幕を、ボロボロの手足で叩き続けていた。角度を変えて、降下を始める。

さっき、アーサーに、作戦は指示された。

「敵は我が輩が引きつける。  最後に大威力の術式を叩き込んで、船体を破壊するのも、我が輩が担当する。 グルッピーどのは深部に入り込み、敵の核を見つけて欲しい。 もしも金品が欲しい場合は、その過程で取得して欲しい」

なんでも、この手のフィールドを形成する存在には、必ずと言って良いほど中核となる部分があるという。

フィールドを、今まで敵性勢力を全滅させることで攻略してきたグルッピーには、初めての経験である。まあ、やってやれないことはないだろう。

「川背どのは、スペランカーどのの救出。 その後、共同してコアを撃破。 我が輩が造った路を、突破して貰いたい」

「分かりました」

下で、アーサーが指示を出している。川背が此方を一瞥すると、頷いた。

徐々に、十字架が作った結界が、ひび割れていく。アーサーは大きく息を吸い込むと、両手を左右に拡げる。

十字架の結界が爆ぜ割れる。

それと同時に。アーサーの周囲には。百を超えるトマホークが出現していた。

「Go! Fire!」

アーサーのかけ声と供に、無数の斧が躍り掛かり、一斉に不死者を打ち砕いた。真っ二つにされるもの、引きちぎられる者、粉砕されるもの。更にアーサーは巨大なランスを手元に造り出すと、走りながら床を一気に傷つけ、跳躍。反発力を利用して高々と飛ぶと、パイルバンカーを地面に撃ち込むようにして、床に叩き込んでいた。

一気に亀裂が広がり、恐らくは船そのものの絶叫が上がる。アーサーが槍を抜くと、大量の障気が、大気中にあふれ出た。

空中で角度を変えると、グルッピーは真っ正面から穴に躍り込む。まずは超音波を放って障気を散らし、続いて電磁波で邪魔な霧を打ち払った。遅れて、川背が飛び込んでくる。

もしも、あのスペランカーとやらが、本当に戦い続けているのなら。

認めなければならないかも知れない。

途中、無数の鉄骨が見えた。船の骨格とも言えるものだろう。

川背は何度かワイヤーを引っかけながら、降下速度を落としている。グルッピーは腕を伸ばし、何度か途中で鉄骨を掴んで旋回し、方向を確認。

船底についた。

川背が船首に走り出す。

グルッピーは何度かバウンドして速度を調節すると、船尾へと、加速した。

辺りはまるで、水揚げされたばかりの海底鍾乳洞だ。

死んだ魚が無数に散らばり、ウニやヒトデの残骸だけが点々としている。滴る水は強い水の臭気を漂わせている中、立ち並ぶ扉や窓には、生物の屍やヘドロがこびりついていた。バウンドしながら、船尾へと急ぐ。何度か階段を跳ね上がったのは、貴族やジェントル達の居住区にこそ、コアがあると確信していたのと同時に、金品を探したかったからである。

前から後ろから、無数の異形が押し寄せてくる。

ある者は人間の胴体をしていたが、左右から蟹の足を生やしていた。ある者は魚に、人間の歪な手足が四対も生えていた。いずれも生物を合成したのではなく、死骸を無理矢理つなぎ合わせたような造型が目立つ。白く濁った目玉が、頭中についている男が、呻きながら手を伸ばしてくる。動きは生者と殆ど代わらない。

「どけ!」

超音波砲を放って、壁ごと敵を八つ裂きにし、突撃して粉々に吹き飛ばす。電磁波を放って、焼けこげた敵を砕く。はね回り、飛び回る過程で、不死者どもの振り回す爪や牙に、少なからず傷つく。

不死者の一匹の頭を掴むと、腕力に任せてねじ切る。これでもベンチプレス換算二トンだ。腐った肉など、力任せにねじ切ることが出来る。

貴族が住んでいたらしい地域に入り込んだ。

扉を打ち破って、部屋に飛び込む。ちまちま探している暇はない。箪笥も戸棚も全て吹き飛ばし、破片の中から金目のものを漁る。飛沫の中にダイヤモンドを発見。空中で拾い上げる。金細工を見つける。懐に入れる。

故郷で待つ同族達のために、外貨に変えられるものは、貪欲に漁る。

部屋に入り込んでくる死者が、鉄パイプを振り下ろした。避け損ねて、直撃。床にたたきつけられる。

跳ね上がったグルッピーは、まだまだと嘯き、傷ついた体を回転させ、襲撃者を打ち砕いた。

 

アーサーがランスを消すと、周囲に今までにないほど巨大な気配が出現した。気配自体が、軍勢が押し寄せてくるかのような圧迫感を有している。

敵が本腰を入れてきたと言うことだ。望む所である。

もとより此処は敵の背の上。凄まじい抵抗があるのは分かりきっている。そして、アーサーは確信していた。スペランカーが敵の注意をある程度引いてくれていることを。そうでなければ、敵の対応が遅い理由に説明がつかない。

正面からの戦いで、アーサーは敵を倒す。

それが、今彼に出来る、最高の支援だ。

腰に差していた剣を抜く。一族に伝わる剣。エクスカリバー。ただし本物ではなく、何代にもわたって打ち直し、作り直した模造品である。

模造品とはいえ、最新の技術と長年の手入れを経て、その破壊力はオリジナルに決して劣らないものと化している。周囲には、もう動く不死者はいない。アーサーは声を張り上げ、名乗りを上げた。

「我が輩こそはブリテンの騎士アーサー! この異界の主よ、貴殿に踏みにじられし弱き者を守るため、勝負を欲して参った! 貴殿も大魔ならば、魔界を降せしわが輩の声を聞き、堂々の勝負をせよ!」

「ご、ぎぎぎ、げぎゃあああああああああ!」

複数の絶叫と供に。前から後ろから、右から左から、二三抱えもある、百メートル以上はあろうかという触手が伸びた。二列に並んでいる吸盤には鋭い牙がついており、獲物を捕らえて離さない獰猛な習性が見て取れる。

更に、甲板に蟹が上がってくる。

蟹といっても、その体はセメントのように生気が無く、飛び出した二本の目には人間の頭部らしき腐敗した塊がついている。そして何より、直径十メートルはあろうかというサイズである。鋏だけで、戦車を真っ二つに出来そうだ。それが、無数にいる。

「玩具はそれだけか、海底の女王! ならば我が輩は見せよう! 我が輩の切り札を!」

アーサーが、エクスカリバーの柄を撫でる。

同時に、鎧が金色に輝き始めた。

体力消耗が激しいので、長期的には使えない。だが、アーサーの切り札の一つ。黄金の鎧だ。

これにより、作成する武具に籠もる魔力が格段に跳ね上がる。一つ一つが長時間詠唱して放つ術式に匹敵するほどの破壊力を有するほどだ。

久し振りに全火力を解放することになる。

それも、弱き者を守るために。

故国の暴虐は悲しい限りだ。だが、此処でアーサーが敵を打ち倒すことで、今生きている港町の者達は、脅威から解放される。フィールドは放っておけば際限なく広がり、生きている者全てを襲い、飲み込んでいく。

ならば今アーサーが行う事は。故国の者達が犯した過ちによる被害を、少しでも減らすこと。

アーサーは心地よい高揚に身を包みながら、金色の剣を振るった。

 

最初は、両手両足を引きちぎって、頭を叩きつぶしてやった。

次は全身をミンチになるまで、触手で叩きつけてやった。

壁に押しつけて、ぐちゃぐちゃに捻り潰してやった。

触手がそのたびに爆ぜ割れたが、関係ない。再生など、幾らでも出来る。ルルイエは個体ではない。仲間は数十万。体は海底の生物から幾らでも都合出来る。

だから、何度も何度も何度も何度も。

ルルイエは、捕らえてきた女を殺した。

押しつぶして、挽きつぶして、切り刻んで、肉汁になるまでかき回してやった。

再生するのは、いい。分かっていたことだ。

だが。

ルルイエが、恐怖を感じ始めているのは。

何度どれだけの苦痛を与えて殺してやっても。

そいつが、歩いてくるからだ。

今も、壁に叩きつけて赤い染みにしてやったそいつは。人の形を取り戻すと、顔を上げて。立ち上がる。ふらつきながらも。

もう、再生が追いついていない。

服は既に再生しなくなり、全裸で立つ女は、だが。

手にしている妙な形の銃だけは。絶対に手放そうとはしなかった。

部屋の片隅。拉げたヘルメットを一瞥すると、女は髪をかき回し、歩き始める。

「来るな!」

触手を真上から叩きつけて、粉砕する。

床に、肉と内臓の染みとなって広がった女は。

だが、再生すると、また立ち上がる。

貧弱な体だ。胸は小さいし、手足も細い。十代半ばくらいにしか見えない。

だが、その歩みは、どうやっても止めることが出来なかった。

最初はおもしろがって殺していたルルイエ。

だが、五十回を超えたころから、気味が悪くなり始めていた。首を引きちぎってやっても、生きている間に内臓を引っ張り出してやっても、平然と起き上がる。目玉を抉ってやっても、奥歯を生きたまま抜いてやっても、同じ事だった。脊髄を引き抜いても、指を食いちぎっても、腹を割いても、脳みそを抉り出しても。

なぜだ。

私達は。同じ事をされた時には。気が触れてしまったのに。

お父様を首つりにされて、お母様は凶暴な男達に嬲りものにされて。妹たちは切り刻まれて、焼かれて。弟たちは何処とも知らない場所に連れて行かれて。村は焼かれて。先祖伝来の宝物は、全て奪い去られて。

そして、自分は。

自分は。

触手が爆ぜ割れる。悲鳴を上げてしまったのは、なぜか。

砕けた触手の中に。全裸のまま、女が立っている。生白い肌の、手の先には。やはり、あの奇怪な銃がある。それだけは呪いが強力すぎて、叩いても潰しても、どうやっても壊れなかった。

「一回の探索でも、少なくて四十から五十。 多い時は二百回。 日常生活をしていても、死なない日なんて、無いくらい。 父さんが、命と引き替えに、私の幸せを願ってくれた能力だから、嫌いでもつきあっていくしかない。 その過程で、嫌でも慣れたよ」

女が、歩きながら喋る。

その目は、じっとルルイエの目を見ていた。

ひたり。ひたり。一歩ずつ、濡れた足音が近付いてくる。

「来るなあ!」

触手を振るう。脆くも吹っ飛んだ女は、壁に叩きつけられて、ミートソースになる。

だが、再生して。それと同時に、此方の触手も、持って行かれる。

喘ぎながら、触手を再生する。だが、その速度が、遅くなり始めている。分かる。上で下で大暴れしている連中にも、意識が獲られているからだ。

女は立ち上がりながら、此方を見る。

「だから、そんな子供じみた暴力なんか、怖くも何ともないよ」

「! ぎ、ぎぎぎ、ぎぎゃああああああっ!」

もはや、己でも訳が分からない悲鳴を上げて、ルルイエは触手を振るう。部屋は既に粉々。お気に入りだった部屋は、跡形もない。徹底的に、徹底的に、徹底的に、何もかも、欠片も残さないまでに粉々にしてやる。

触手が吹っ飛ぶ。だが、それでも振るう。

口から泡を吹きながら、目から涙を垂れ流しながら。

それでもルルイエは、触手を振るい続けて。

そして。

己の体に突き刺さった、鉄骨に気付いた。

大量の鮮血が噴き出す。体を真っ二つに引きちぎられたルルイエは、再生しようとして、気付く。己の首に、何かルアーのようなものが引っかかっていることを。

「貰った!」

別の声。圧力。

同時に、ルルイエの首は。遊びあきた人形の首のように。

引きちぎられて、すっ飛んでいた。

制御が無くなる。

自分たちが、誰なのか、分からなくなる。

迸る絶叫が、誰の声かも、既に判然としなかった。

 

グルッピーは、敵の動きが鈍くなったのに気付いた。人間並みの速度で襲いかかってきていた不死者どもが、不意にスローモーションになる。

どうやら、間違っていたのは、グルッピーであったらしい。

舌打ちしながら、グルッピーは感嘆もしていた。どうやらあの雌犬、いやスペランカーとやらは、本当に己の役割を果たしていた。川背という女も相当な使い手だったが、此処まで激烈な効果が現れたと言うことは、明らかだ。

それならば、グルッピーも。己の役割を果たさなければならない。

バルン族一の勇者の名を、汚さぬためにも。

加速。

動きが鈍った不死者どもを打ち砕きながら、壁床天井と反射し、手すりを掴んで回転し、ベクトルを変えて危険物を避けながら、奥へ奥へ飛翔する。既に速度は時速五百キロを超えている。

何がコアになっている。呟き、飛ぶ。

禍々しい気配は、ある程度は分かる。それが最も強い場所を探せばよい。途中、行き止まりを発見。瓦礫が積まれ、バリケードになっている。

もはや、関係ない。

全力で電磁破を撃ち込み、脆くなった所に超音波砲を叩き込む。ひび割れる瓦礫の中に、速度を落とさずつっこみ、吹っ飛ばした。

体の傷は、危険域まで近付いている。

風船に近い形状をしているバルン族は、あまり傷が酷くなると、綺麗に爆ぜ割れてしまう。強固な皮と、内側からの空気圧で、高い防御能力を実現しているためだ。だから、バルン族の最後は、必ず文字通り散ることになる。グルッピーも、それは例外ではない。

まだ、散る訳にはいかない。

だが、此処で無理をしなければ。自分の失言を、カヴァーすることは出来ないだろう。

階段を発見。ジグザグに跳ね上がりながら、奥へ奥へ。

この辺りは殆ど水が入らなかったらしく、壁も床も天井も、ある程度原型をとどめている。その中を、時速五百キロのまま、更に行く。急旋回する視界を高速で把握しながら進む作業は、勇者と呼ばれる一部の戦士にしかできない。

不意に、禍々しい気配が、眼前にあった。

それは青紫の光を放ちながら、ゆっくり胎動していた。

 

5、死闘

 

ゆっくり光の周囲を旋回しながら、グルッピーは相手を伺う。どうやら何かを媒介にして、人間の負の思念が集まっているらしい。

形状は、何かの神像だろう。

人間に似ているが、頭部はむしろ鮹に近い。しかも触手は烏賊に似ていて、手足には恐竜を思わせるかぎ爪があった。背中には、蝙蝠に似ている翼。鱗が生えた体は不気味に拉げていて、水棲生物の要素を、人間に無理矢理ねじ込んだように思えた。

とりあえず、これをたたき壊せば、解決だろう。

そう思ったグルッピーの脳裏に、叩きつけるような声が響いた。

「お前は、何者かや」

「我は、グルッピー。 バルン族が一の勇者である」

臆せず、そのまま応える。

頭が木っ端微塵に吹き飛ばされるかのような圧力だった。多分テレパシーという奴だろう。

この神像からか。或いは別からか。それは、分からなかった。

「わたくシは海底の神格。 亡国の女王ルルイエの呪いに呼ばれ、この船に破滅をもたらせしものである」

呻く。とんでもない圧力だ。並の人間が浴びたら、そのまま発狂してしまうのではないか。

ゆっくり相手の周囲を旋回しながら、出方をうかがう。場合によっては、アーサーやスペランカーが来るまで、時間を稼がなければならない。もしくは此処に誘導できるように、出来るだけ派手に戦う必要もあるだろう。

「我の故郷を、遙か昔に襲いしも、異界より現れし神であったと聞く。 汝もその眷属かや」

「わたくシは星の海より、辿り着きし存在。 異界という定義には当てはまらぬが。 ふむ。 この船には、わたくシが眷属の香りがする者が、お前の他にもう一人いるようだ」

硝子を引っ掻いたような音。

それが哄笑だと気付く。

気付くだけで、精一杯だった。今も、声を聞いているだけで、発狂しそうである。

「いずれにしても、貴様の居場所は此処にはない。 帰れ、異界の神よ」

「妙なことを言う。 お前は人間の存在をあれほど否定し、哀れみ、憎んでいたではないか。 わたくシがそれを見ていなかったとでも思うのか」

グルッピーの頭の中に、鉄槌が直接叩きつけられたかのようだ。

機動を失敗し、あり得ない角度から壁にぶつかってしまう。初陣の小僧のような失敗をするグルッピーは、頭の中がもはやミキサーでかき回されたかのようだった。相手はまだ哄笑を続けている。

「どうした。 一の勇者ではないのかな」

「我は一の勇者。 だから、簡単に、屈すると、思うなああっ!」

絶叫。

残る力を振り絞り、加速。

神像から、紫色の光が更に強く放たれ、グルッピーは機動を無理に逸らされた。何度か壁、床、天井をはね回った後。

天井の一角。

無事だった、パイプを砕いた。

降り注ぐ瓦礫。神像は、驚愕の声を挙げる。

グルッピーも、こんな事はやりたくはなかった。だが、これで、どうにか。場所だけは、知らせることが出来る。

凄まじい天井の崩落の中、まだこれで敵は倒せないだろうなと、グルッピーは確信していた。しかし、自分は一度動きを阻害されてしまえば死ぬ。体内に蓄えられたエネルギーは、常に移動を求めている。移動できなくなれば、全身から噴きだし、破裂する。

降ってきた瓦礫の一つが、ついにグルッピーを直撃する。

スローモーションに見える周囲の光景。絶望的に降り注ぐ瓦礫。

意識が薄れかけたその時。

体に引っかかる、何かの光が見えた。

 

スペランカーが意識を取り戻すと、バスタオルをバックパックから取り出した川背の顔が見えた。

「スペランカー先輩!」

「……あの子は?」

「僕が首をもいだら、ばらばらに吹っ飛んじゃいました。 きっとあの子、自分がこの船を支配していると思いこんでいただけだったんです」

「……」

瓦礫を押しのけて、体を起こそうとする。

酷い有様だった。あまりにも繰り返して殺されたので、服は完全に無くなってしまっている。ズボンはともかく、靴は結構高かったのに、酷い話である。

こうなることを予想していたのか、川背がバックパックから着替えを出してくれた。座ったまま、いそいそと着替える。何というか予想通りというか、服は胸がぶかぶかだったが、まあ気にしないことにする。

靴を履き終えると、立ち上がる。殺されすぎたからか、頭がくらくらした。拉げてしまってはいたが、ヘルメットを被り直す。無いよりはマシだ。リュックも襤褸布になってしまっていたが、背負い直す。そして、腰に、ブラスターをくくりつけた。

「グルッピーさんは?」

「あの人は、船尾に向かいました。 僕は来る途中、船の図面をしっかり見ていたから、船首に先輩がいる可能性が高いと思って、こっちに来たんです」

多分上は地獄絵図だろう。それならば、船内を突破して、まっすぐ船尾に向かった方が早い。

何度か転びながら、船尾に向かって走る。転ぶ度に死ぬが、まあそれは仕方がないことだ。辺りを警戒しながら、川背がついてくる。

グルッピーは派手に戦ったらしく、どう進んだのかが丸わかりだった。途中、力任せに瓦礫を抜いた後があり、かなり大きな縦穴になっている。

どうしようかと思った瞬間。

全身を、稲妻のような戦慄が駆け抜けた。隣で棒のように硬直した川背が、膝から崩れかける。スペランカーはどうにかして持ちこたえると、川背の頬を叩いた。何度か叩くと、白目をむきかけていた川背は、はっと我に返る。

今のは。

間違いない。あの時、父が呼んだのと、同じ神、或いはその眷属の声。

「うっ……今のは」

「多分、私を不老不死にした神か、その仲間だよ。 とんでもないのがいる!」

短期決戦だ。多分、グルッピーは長くは保たないだろう。

いざというときは、スペランカーが至近まで迫って、ブラスターをぶち込む必要が生じてくる。

強烈な衝撃。何度か来る精神波。川背の盾になるようにして、スペランカーは両手を拡げ、それを受け止める。かなり近い。川背が天井にルアーをとばし、スペランカーを抱えて跳躍した。

二度、三度それを繰り返し、一度窓を蹴り破って、外に出る。

霧は少し薄くなってきている。側壁を駆け上がる川背に掴まりながら、スペランカーは見た。紫色の、闇の神の像。

その周囲を回っている、グルッピー。

今、グルッピーが、天井に捨て身の特攻を掛けた。

そして、瓦礫が、全てを押しつぶそうとする。外壁も拉げ、砕け、大きな亀裂が出来た。それに慌てて掴まると、スペランカーは、今瓦礫に潰されようとしているグルッピーを見た。

「川背ちゃん! 彼処!」

「任せてください!」

ルアーをもう一本出すと、川背は後方に跳躍しつつ、それを投擲した。己自身の体による遠心力を利用して、グルッピーを無理矢理瓦礫地獄の中から引きずり出す。風船状の体が破裂しないか不安だったが、どうにか手に引っかかったようで、無理矢理外に引きずり出される。

下の方で、川背が壁面に掴まるのが見えた。

空中に投げ出されたグルッピーは、海面すれすれまで降下し、其処で意識を取り戻したらしい。ゆっくり旋回して、上がってくる。

アーサーが上にて顔を出した。

なぜか、パンツ一丁だった。

「おお! 無事であったか! スペランカーどの! ……はて、どうして服が替わっているのだ」

「あ、アーサーさんこそ! どうしてパンツ一丁なんですか!」

逞しい裸体ではあるが、毛むくじゃら。J国人の少女が見たら嫌悪に絶叫しそうな、典型的西欧人の裸体である。少なくとも、ビルダーのように、筋肉を見せるために毛を剃ることはしないようであった。しかもインナーはトランクスでなく、苺の模様が眩しいブリーフタイプであった。

「我が輩の鎧は、一撃浴びるとパージして衝撃を殺す作りになっていてな! さっき、最後の一匹を潰している時に、うっかり一発浴びてしまったのだ! まあ怪我一つ無いから、安心してくれい!」

豪快に笑うアーサー。

上がってきた川背も、アーサーの裸体と、苺パンツを見て絶句していた。

しばしの空白。我に返るまで、十秒ほどかかった。

それよりも。それよりもだ。

あの神像はどうなったのか。

そう、スペランカーが思った瞬間。

船が、揺れ始めた。

 

霧が徐々に晴れてきたので、アリーマーは巡航艦エセットスから、状況を双眼鏡で確認していた。

かって、赤い悪魔と呼ばれる存在であった彼は、人間に姿をやつし、C社の営業マンとして活動するようになってからも、戦士としての本能を捨てていない。勘はまだまだ働くし、力量の見極めも出来る。戦術眼も、並の戦士以上に備えている自信はある。

だから、彼は今の状況を、決して楽観視してはいなかった。

霧が晴れてきたと言うことは、二つの状況が想定される。

一つは、敵の殲滅が完了した。

もう一つは、敵が全力で戦うために、展開している力を集約している。

前者ならば良い。

しかし、後者であるのなら。

今回は、アーサーが出張るほどの相手だ。四人ものフィールド探索者を、しかもいずれも手練れである連中を投入するほどの敵である。後者の確率は、決して低くないと言えた。

双眼鏡を下ろすと、アリーマーは呟く。

「ほう。 どうやら、読みは適中したようですね」

南極海に、巨大な影が浮き上がる。それは、クィーン・ルルイエ号の、なれの果てに間違いなかった。

全権を任されているアリーマーは、船長に指示をとばす。かって歴戦の戦士だっただけのことはあり、いざとなれば並の人間より遙かに指導力を発揮できる。

「トマホーク準備。 近海にいる国連軍および、N社とのホットラインをつないでください。 場合によっては、うちのエースか、I国の配管工に出張って貰うことになるでしょう」

慌ただしく国連軍の兵士達が動き始める。

アリーマーは、己のライバルだった男が、簡単に負けないと信じてはいる。

だが、現実主義者として、打つべき手は全て打つ事も忘れなかった。

「さあて、アーサー。 貴方の勲章が増えるか、墓を作ることになるのか。 どちらに転んでも、私は楽しいですよ」

口の中で、そうアリーマーは悪魔らしく呟く。

そして、状況を見守った。

 

船そのものが、異形に変じていく。

いや、違う。

無数の死骸が積み重なって出来ていた船が、原型に戻っていくというのが正しい。露骨に空気にさらされていく、船の鉄骨から、無数のフナムシが引いていくように、それは姿を見せつつあった。

アーサーは鎧を発生させると、いそいそと着込んでいる。

川背は落ちてくる瓦礫を器用に避けながら、ルアーをとばして、少しずつ上がってきていた。

スペランカーは拉げているヘルメットを手で押さえながら、探す。

あの神像は何処へ行った。それとも、もはやこの船自体が、奴なのか。

「乗れ」

「グルッピーさん!」

全身傷だらけのグルッピーが、飛来した。赤い体は、スペランカーを掠うようにして、その場を通り抜ける。背中に掴まる時の衝撃で一回死んだが、どうにか持ち直す。グルッピーの背中は、見た目よりずっと硬くて、タイヤか何かを触っているかのようだった。

川背が甲板に躍り出る。

「川背どの! 大魔法を準備する! 時間を稼いでくれ!」

「分かりました!」

「スペランカーどのは、グルッピーどのとコアを叩いて欲しい! 貴殿なら出来るはずだ!」

「任せてください!」

ぐっと、ブラスターを握りしめる。

父が死んだ時のことを思い出す。命を賭けて、海底の神を撃退した父は、満足した表情だった。娘に最高のプレゼントが出来たと思ったからなのだろう。

呪いは、神の祝福。

そして、父の愛でもある。

全く母から愛情を受けなかったスペランカーは、それが故に。この忌々しい呪いを受けていても、戦うことが出来る。

「位置は、私が見極めます! グルッピーさん、近付いてください!」

「承知した。 我も、このまま借りを返さず逝く訳にはいかぬ」

同類を感じる。

さっき瓦礫に埋まった神像は、移動しつつある。

船の、中央部分に。

同時に、船自体が、異形とかしつつある。巨大な蟹の足が生え、触手が無数に生み出されつつある。それは鮹の足にも似て、烏賊の足のようでもあり、イソギンチャクの触手にも似ていた。

「Ooooooo! Wooooooooo!」

雄叫びが上がった。船首が大きく裂けて、口のようになっていた。

まるで、異形の鮫だ。

鮫は、無数の足をせわしなく動かしながら、進み始める。恐らく狙いは、巡航艦エセットス。側に停泊していたモーターボートは慌てて逃げ出す。浮かんでいた救命用ボートが、無惨に踏みつぶされ、海の藻屑と化した。

首を捻り、再び船が咆吼する。

全身が痺れるほどの威圧感の中、確かにスペランカーは見る。

奴の巨大な口の中に光る、紫色の光を。

さながら満ち潮のように襲いかかる無数の異形を、川背が必死に切り払っている。ルアーを振り回し、鉄骨の残骸を投げつけ、跳躍して。アーサーは印を複雑に組み替えては、最大級の大技を出す準備に掛かっている様子だ。

「グルッピーさん!」

「如何したか」

「弱点は、口の中です。 でも、多分そのままでは入れません」

「分かった。 我に任せよ」

急降下を開始するグルッピー。風圧に、思わずスペランカーは、ヘルメットを抑えた。

ブラスターは手に貼り付いたように、離れなかった。

 

船の異形化は、急速に進みつつある。船首部分が腫瘍のようにおぞましいふくらみ方をしていく。弾けては異臭をばらまき、そして肉の中から盛り上がるようにして、十、いやそれ以上の目が出現した。

いずれも腐り、濁りきった目だ。

腫瘍は、全身に広がっていく。

そしてそれが破裂すると同時に。無数のトビウオが、其処から出現した。いずれもが羽を広げ、牙を剥いて、時速二百キロ以上の速度で飛んでくる。腐りきった肉体から、高速で腐汁と鱗をばらまきながら。

生体ミサイルという奴か。

皮肉にもそれは、プロペラ航空機の飛翔音にも似ていた。

グルッピーも加速。スペランカーを振り落とさないように、遠心力を工夫しながら、敵を振り切る。次々に至近で炸裂、腐臭をまき散らすトビウオ。手袋が、腐食して、煙を上げていた。

どうやら、強い酸をばらまいているらしい。

旋回する。奴の口の中に、巨大な光の塊が見えた。

「来ます! 避けて!」

「誰にものを言っている! 我はバルン族の勇者であり、速度とともにある戦士! 我の辞書に、止まるという言葉はない!」

高さは、速度に変えることが出来る。急降下しながら一気に加速し、フルスピードに迫る。

そして、奴の口から、極太のエネルギーが放出されるのと同時に、右に舵を切った。

ぱっと、海が割れる。

最初に届いたのは、閃光。次が、衝撃波。そして最後に、熱が叩きつけられる。

爆音が、全てを圧し。

遙か遠くに、茸雲が上がった。

熱い雨が降り始める。

今、誘導したから、エセットスに直撃はしなかっただろう。だが、衝撃波だけでも、とんでもない圧力だ。回転しながら何度も態勢を立て直そうとするが、上手く行かない。傷が破れそうだ。

死を、予感させられる。

だが、今死んだら。奴の背中にいるアーサーと川背も。そして、今自分の背中にいるスペランカーも死ぬ。

死ぬ訳にはいかない。

戦士としての誇りを、そのような形で失う訳にはいかないのだ。

「我は! バルン族一の勇者! 止まらぬ呪いを力に換え、あまたの戦いを勝ち抜いてきた、誇り高き一族の筆頭なり!」

己を奮い立たせるために、敢えて叫ぶ。自分のよりどころとなる、誇りを。

恐らく、好機は一瞬だ。背中に必死に貼り付いているスペランカーが、どうにかやってくれると信じるしかない。

再び、奴の全身に腫瘍が盛り上がる。

そして、大量の生体ミサイルが、撃ち出された。

最大火力で、電磁波を叩き込む。正面のトビウオが吹っ飛び、破裂。更に超音波を打ち込み、減速するトビウオどもの真ん中を、突っ切った。

奴が、大きく口を開ける。第二射。まさか。いくら何でも早すぎる。

だが、奴は恐らくは海底の神。何を為しても、おかしいと言うことは無いはずだ。

背中のスペランカーを振り落とさないように手を回して、伏せるように言うと、加速。こうなれば、チキンレースとか言う奴だ。グルッピーも、一族の命運を背負い、外貨を稼ぐために出てきているのだ。戦士の血統を汚さないためにも、此処は引く訳にはいかない。

「機会は一度だけだ! 戦士スペランカーよ、汝なりの戦いを、我は信頼する! 行けるか!? 殲滅手段は持ち合わせているか!?」

「行けます! 持ってます!」

「良き返事よ! 我、我なりの戦いにて、それに応えよう!」

光が。

紫色の禍々しい光が、奴の口の中に集まり始める。

先ほどの衝撃波による津波が、今頃到来した。蟹の足で踏ん張りながら、海底の神が変じた豪華客船だったものが、また咆吼する。鋭い牙のように見えるのは、無惨に破れた船首外壁と、鉄骨。だが、どんな生物の牙よりも頑丈で、鋭いだろう。

さっき、発射のタイミングは見切った。

ならば。

邪神が、口を、最大限に開ける。

そこへ。

グルッピーもまた、最大速度で飛び込む。

奴の体内は、空洞になっていた。全速力で、突っ切る。生きた砲台の中を、加速加速加速加速。

見える。禍々しい紫の死が。

感じる。

背中で、スペランカーが、己の唯一の武器を構える。ヘルメットが飛んだようだが、気にしていない。

見えた。

人間に似て、そうではない。異形の神像が。

無数の怨念が絡みついたそれは胎動し。そして今、全ての存在に復讐しようと、雄叫びを上げようとしていた。

「ごめんね」

スペランカーの声。手にしているブラスターとやらを、神像に向けるのが分かる。

放たれる光。

絶叫が、全てをかき消した。

 

断末魔の咆吼をあげた巨大なシャコと相打ちになった川背が甲板に叩きつけられる。アーサーは冷や汗をかきながら、ついに詠唱を終えた。

「まだ、まだ!」

立ち上がる川背は、既に全身傷だらけだ。詠唱中のアーサーを守り、十メートル以上はありそうな異形どもと渡り合い、その全てを驚異的な手練れで退けてきたのだから、無理もない。

やり遂げてくれた。次はアーサーの番だ。

「もう充分だ。 川背どの」

アーサーの鎧は、金色に輝いている。今日二度目だ。だが、どうにか行ける。

いや、違う。此処で行かなければ、騎士ではない。

川背は、アーサーの言葉を聞いて安心したか、そのまま甲板に崩れ落ちてしまう。意識を失っている彼女を背中に庇うように移動しながら、アーサーは剣を高々と振り上げた。

同時に、敵の動きが止まる。

向こうでも、やってくれたのだ。スペランカーとグルッピーが。

敵の全身から、光が迸る。呪われた船が、絶叫している。

アーサーは目を閉じると、剣を、甲板に突き立てる。そして、十字を切った。

「光は光に。 闇は闇に。 そして、滅びは滅びへ! 我は導こう、安らぎの国へ! 哀れな魂達よ、解放されよ! アーメン!」

黄金の鎧が、光を失っていく。

代わりに、呪われた豪華客船が。黄金へ輝き始めていた。

 

甲板で久し振りに本来の姿を晒したアリーマーは、ようやく終わったかと、歎息していた。

すぐ側には、ウルリヒ老人が立ちつくしている。

船の至近、二キロほどの距離で炸裂した光弾は、十メートル近い津波を生み出した。シールドを展開して、それを防ぎきったのはアリーマーである。赤い、翼と尻尾を持つ、悪魔らしい異形。まさか地上で、またこの姿を晒すことになるとは思っていなかった。

携帯が鳴った。

「ふむ、ふむ。 そうでしたか。 此方は片付きました。 スクランブルは解除」

「どうしたのかね」

「港の被害は最小限に抑えたそうですよ。 人的被害は無し。 数隻の漁船が小破するにとどまりました」

「そうか。 あのような、恐ろしい戦いの結果がな」

ウルリヒは、じっと見つめている。

海の向こうが、金色に輝いている。光の柱が出現したようなその光景は、確かに幻想的で、圧倒的に美しかった。

「やり直してみるか」

「我々も、ビジネス上の利益さえあれば、協力することは出来ます。 利益を生み出すのは、あなた方の努力次第です」

「そうさな。 あのような小娘が、たかが十年程度でであれだけの料理を作れるんだものな。 漁業一筋六十年の俺が、負けてなるものか」

若き日の野心を取り戻したようなウルリヒの目を見て、アリーマーは口の端をつり上げる。

昔、魔界で戦ったアーサーも、光の強さに違いはあれど、そんな目をしていた。

利害関係が一致しているから手を貸しただけだが、それもまた面白い結果を産むものだ。

大概の人間は下らぬ愚物だが、時々長き時を生きているアリーマーも面白がらせる存在が現れるのだから。この仕事は辞められない。

「さて、そろそろ我が強敵を迎えに行くとしますか」

アリーマーは船長室に向かう。

既に、冷酷で皮肉屋の悪魔としての表情は消え、利害で全てを判断するビジネスマンとしての顔に戻っていた。

 

術式を唱え終えたアーサーが見上げる先で、天に登っていくのは、無数の魂。

千三百を超える、悲劇の犠牲者達。

それに引き寄せられた、数万、或いはそれ以上の、不幸な死を遂げた子供達の魂。

幸せを蹂躙され、慰み者にされた女王ルルイエの魂も混じっているかも知れない。

人間だけではない。この呪いに巻き込まれ、命を落とした海底の生き物たちも。

宗教は、アーサーと違うかも知れない。

だが、魂を浄化する魔法としては、必ず意味を持つ。

先ほど、グルッピーに貰った手帳の内容を、アーサーは覚えている。目を閉じ、今浄化した者達の魂が報われることを祈ると、アーサーは剣を鞘に収めた。

既に、船は崩れ始めている。

船尾から抜けたグルッピーが、旋回しながら高度を上げ始めた。酷い傷が多い。それに、背負っているスペランカーは、相当リスクが大きい技か術を使ったか、完全に死んでいるように見えた。

意識を失っている川背を背負うと、アーサーは手を振るう。

腐食した鉄骨だけになった船は、既に溶けるように海へ消え始めている。この状況でも、しぶとく残っていたモーターボートへ急ぎながら、アーサーは思う。邪神は確かに恐ろしい相手であった。しかし、一番恐ろしいのは。

「グルッピーどの! 無事か!」

「汝こそ無事か、騎士アーサーよ。 我は傷つきながらも、未だ散るには到らず」

「おお、そうかそうか! 我が輩も天に召されるには、まだ早いようだ!」

戦いの後、共有するべき情報がある。

スペランカーと川背が目を覚ましたら、話しておく必要がある。

真相は文字通り自国の恥ではあるが、しかし、彼らには話しておかなければならないだろう。彼らには、なぜこの戦いが起こってしまったのか、知る権利があるからだ。それに、戦場を供に駆け抜けた相手に対し、アーサーは強い信頼を抱いていた。

周囲を旋回していたモーターボートが、アーサーを見つけて戻ってくる。

そちらも、まるで数百年海を彷徨っていたかのように、ボロボロだった。

どうにかモーターボートまで辿り着くと、最後まで残っていた船の骨格が、海中に消えていく。

呪われ、海底の邪神に愛された船の、最後だった。

 

6、闇のまた闇

 

戦いが終わり、空港があるオーストラリア大陸にエセットスが向かい始めて二日。スペランカーは、調子が戻り始めている体を動かすついでに、甲板に出た。新しいサングラスを水兵さんはくれたので、もう酔う心配はない。

体の傷を癒しているグルッピーは、まだ船に残っていた。今日も船の上で、ゆっくり旋回している。川背はと言うと、営業マンのアリーマー氏と、被害を受けた近隣の港の顔役であるウルリヒ氏と顔をつきあわせて、料理とリゾート中継地としてのなにやら難しい計画を立てていた。しばらくは、南米に残るかも知れないと、川背は呟いていた。それだけ彼女の料理が評価されていると言うことだ。

自分は、どうだろう。そうスペランカーは思う。

無能な自分に出来ることは少ない。料理だってまともに出来ないし、戦うのだって上手じゃない。今後も周囲に散々迷惑を掛けながら、生きていかなければならない。そして、きっと。

あの不幸な子供達のような、守らなければならない犠牲者だって。守ることは、出来ないのだろう。

忸怩たるものを感じてしまう。ただ、死んでも再生する。それしか技がないスペランカーに、出来ることはあまりにも限られていた。生きるために、今後もその能力は使っていくつもりだ。だが、英雄のように活躍することは、今後も出来そうになかった。

「おお、此処におられたか」

「アーサーさん」

「グルッピーどのも。 実は少し話がある」

アーサーは、川背を伴っていた。さっきまで重要な話をしていた所だから、何か本当に大事なことなのだろう。

連れられて、船室の一つにはいる。アーサーは部屋にはいると、指を鳴らして術式を一つ展開。部屋の奥の方で、小さな破砕音がした。

「今のは?」

「ああ、我が輩の部屋には盗聴器が仕掛けられていてな。 それを破砕した。 あのSASの隊員が、余計なことを喋らないように、監視しているのだが、面倒だから排除したのだ」

「余計なこと、ですか」

「ルルイエの生け贄事件の真相さ」

そんな事を話してくれると言うことは、アーサーがそれだけ信用してくれたと言うことだ。

殆ど何も出来なかったとスペランカーは俯いてしまう。だが、アーサーは、構わず話し始める。

「そもそも、あの事件には、おかしな点が幾つもあるのだ。 事件が起こった海域は、本来想定されていた航路とは離れている上に、救助が来るのもあまりに遅すぎる。 それに第一、生存者に妙な男が混じっていてな」

「妙な……ですか?」

「そうだ。 船長のオズワルドだ」

確かその名前は以前聞いた。しばらく頭を捻って、思い出す。

そうだ。氷山と接触した際に、卓越した判断で、沈没を避けた人物の名前だ。

しかし、確かにおかしい。

あれからアーサーに事件の詳しい状況を聞かされたのだが、船内は地獄絵図も同然で、特に資産階級の人間達は皆殺しも同然の目にあったという。そんな状況で、どうして船長が生き残れたのだろうか。

それに、考えてみれば。

タイタニック号の悲劇では、救命ボートが少なかったことが、犠牲者を増やしたという。しかしそれでも、数百人は命を拾っているのだ。もちろんクィーン・ルルイエにも救命ボートは備え付けられていたはず。どうしてそれを使って、脱出することを考える人間がでなかったのか。

アーサーが、船内から回収した日記を見せてくれる。それの中には、船に乗っていた人物の名簿なども挟まっていた。水夫達が、船に乗っている重要人物達を拘束した際に、抑えた名簿だという。

「悲劇であったと言うこともあって、当時乗船していた有名人の名前は、あまり一般には公開されていない。 これは貴重な名簿よ。 我が輩は船から引き上げてから、これを調べて、そして確信した」

「回りくどいことよ。 一体何事だというか」

「……まさかとは思いますが。 船は、少数の人間の利益のために、計画的に遭難させられた、という事ですか?」

川背が言うと、アーサーが頷いた。

背筋に寒気が走る。

計画的に。

千三百人もの人間を、利己的な理由で計画的に殺す。そんな事を出来る恥知らずが、鬼畜が、実在したというのか。

「名簿を見て確信したのだが、船に乗っている名士は、いずれもが当時E国の上流階級では、主流派から外れたり、或いは対立している人間ばかりだ。 それに、この船を建造したA社は、事件後莫大な保険金を手に入れ、当時暴威を振るっていた何名かの資産家と連携して国益に絡む事業に手を出し、多大な利益を上げている」

「ほう。 つまり邪魔な人間を全部纏めて処理した上に、保険金を稼ぐための計画的殺人だったという事かや」

「そうだ。 E国が自国の恥だとして隠蔽しようとしたのは、事件が計画的殺人事件であったからだ」

そう。

だから、敢えて沈めなかった。

救命ボートで脱出されると、大人数に逃げられる可能性があったから。

南極海という、救命ボートを出しても逃げがたい環境にて、漂流する必要があったのだ。霧が出たのは、この船長にとって幸運で、もしそうでなければ他の手を使い、救命ボートからの脱出を防いでいたという訳か。

そして、疑心暗鬼によって殺し合わせ。船長は高みの見物をどこかでしていたのだろう。ひょっとすると、食料庫を燃やしたのも、船長の仕業であったのかも知れない。

「これは許し難い、史上最悪の保険金殺人だ」

「そ、そんな事のために」

あの子達は、あのような邪悪な思念に囚われ、船にとどまっていたというのか。

無数の人々が、飢餓に苦しみながら、殺し合ったというのか。

船上で見た幻を思い出す。

あの子供達は、きっと現実に存在したのだ。

しかし、集団ヒステリーとパニックの中で。殺され、同類である人間に食べられてしまったのだろう。

人間とは何だ。

今までスペランカーは、強い呪いを受けたせいで、人の枠を外れてしまった自分に、コンプレックスを感じてきた。

だが、これからは。人間であることに、コンプレックスを感じてしまうかも知れなかった。

アーサーが言うには、既にA社は二次大戦時のどさくさの中で事業展開に失敗し、倒産しているという。また、生き延びて保険金の分け前を受け取った船長に関しても、後に海難事故で数週間漂流した挙げ句、ミイラになって発見されていると言うことだ。

だが、それはあくまで結果に過ぎない。

「結局、一番恐ろしいのは、海底の邪神などではない。 人間だと言うことだな」

アーサーがため息をつく。

スペランカーも、同感であった。川背も何も言えないようで、黙り込んでいた。

「だが、汝らを、我は信頼する」

そんな中、グルッピーの紡いだ言葉は、唯一の救いだった。アーサーも大きく頷くと、いずれまたともに戦おうと、言ってくれた。

スペランカーは、その言葉を裏切りたくないと思った。

アーサーが話してくれたのは、この真実を伝える信頼できる存在が欲しいからだと、分かったからである。

 

フィールド攻略が終了し、数ヶ月後。一人になってから、スペランカーは女王ルルイエのいた国を訪れていた。

危険な紛争地域だと言うことで、長時間の滞在は出来なかった。ただし、女王ルルイエの墓は、空港のごく近くにあったので、墓参りだけはさほど苦労せず行うことが出来た。

結局、あの幽霊船は、なぜ出現したのか。

ルルイエの仕込んだ呪いというのは、海底の神を呼び起こすことだったのか。

”あの子達”は、ルルイエの呪いに引かれたと言っていたが、結局はルルイエに利用されていただけだったのか。

分からないことは多々ある。

唯、一つ言えることは。

悪趣味な名前の船は、既に無いと言うことだ。この世の何処にも、である。

既に女王は過去の人である。しかし、死者は今でも敬意を持って接されているようで、墓は綺麗に掃除されていた。

丸い墓は、J国のものに良く似た石造りだった。

そこには、奇妙な形状の花が供えられていた。螺旋状になっていて、ゆっくり回転しながら花を咲かせている。ガイドに聞くと、彼はこんな事を言った。

「ああ、一月くらい前に、赤い風船みたいな奴が来て、供えていったんですよ。 何だか難しい喋り方をする奴でしたが、まあ珍しい花ですし、敬意は伝わりましたんで」

「そう、ですか」

墓は色とりどりの花で飾られている。

スペランカーは自分が持ってきた花をそれに加えると。ルルイエのいた国を、後にした。

一度だけ、振り返る。

あの神像の気配は、無かった。

 

(終)