心の木

 

序、空の姿

 

果てまで広がる空を、少年は緑の絨毯の上で見た。何処までも広がる枝をあざ笑うように、若干黒みを増した空は圧倒的だった。

時間がどれほど経ったかは分からない。でも、一年や二年は経ってしまったはずだと、少しばかりの確信があった。背も伸びた気がする。少し逞しくなった気もする。そして、木の途中にいた、彼奴を見返せる気もした。

大きく延びをして、遮るもののない空の下で、好きなだけ少し薄い空気を肺に吸い込む。周囲には暮らすのに必要なものが幾らでもある。このまま此処で暮らしていくのも悪くないと少年は思ったが、しばしの逡巡の後、小さく首を振った。

「かえろう、下に」

此処まで来た証拠ならある。行きより帰りの方がつらいかも知れないが、それでも帰る方が良い気がした。少年は歩き出す。帰るべき場所へと。その背中に、途轍もなく大きな羽音が被さった。

 

1,天蓋の木へ

 

ユグドラジル。北欧神話における、いわゆる世界樹の事である。世界を支える巨大なトネリコの木であり、その頂点にはフレースベルグと呼ばれる巨大なる鳥が、その根にはニーズヘッグと呼ばれる邪悪なる竜が住み、最高神オーディーンが修行した場所でもある。

まあ、それはあくまで古代神話の話に過ぎない。洋樹の上に今あるユグドラジルは、現実の産物であった。

幹の周り、実に二百キロメートル以上。高さにおいては、もはや見当がつかない。枝は頭上に果てしなく生い茂り、空を独占してしまっている。具体的な大きさについては諸説あるが、正確な所は誰も知らない。そんなものを測量する技術が失われてから久しいし、上まで登りきったものもいないからである。砂漠だらけの世界の中で、この木の周りだけが豊かな緑に覆われ、土壌も清潔で肥えている。必然的に人は集まり、ユグドラジルを中心にした地域に町が七つ、村が三十三、合計十四万の人間が生活しているのだ。

その一つ、ユグドラジルの西にある中囲村に、洋樹は暮らしていた。

 

ユグドラジルの周囲にて完結している世界は、当然閉塞の度が強い。たまに、余所から砂漠を越えてやってくる者もいるにはいるのだが、例外に過ぎない。それに、何処の旅人も、外の世界が此処よりいいなどと言う事は一度もなかった。

木の上で、大きな枝に腰掛け、幹に背中を預けて昼寝していた洋樹は、自分を呼ぶ声に気づいて目を覚ました。退屈な日常、何も起こらない日々。驚くとか目を輝かせるとか、そう言った事と無縁になってしまった気がする。ぼさぼさの頭をかきむしりながら、洋樹は目を開けて、面倒くさげに下を見やった。其処には三歳年下の従兄弟である、功輝がいた。こんな閉鎖社会では、従兄弟やはとこに甥姪は珍しくもない存在だ。心配げに見上げる功輝に、ひらひらと洋樹は手を振って見せた。

「何?」

「ヒロちゃん、学校さぼって良いの? 先生怒ってたよ?」

「いいって。 どーせ正しくもない歴史の授業なんて、受けても意味ないんだから」

小さく欠伸をして、洋樹は言う。まだ十一才だが、子供にも、学校で教えている歴史の授業が嘘ばかりだと言う事は分かる。自分の国に都合がよい事ばかりを正しいとして、都合が悪い事は全て嘘として封殺しようとする。子供にはそう見えるのだ。大筋においてそれは正しい。ただし、それが全てではない。

実際には歴史というものはミクロで判断するのではなくマクロで判断すべきものであり、非常に複雑に様々な要素が絡み合っている。どのような行為も単純に善悪で判断出来ないし、だからこそに人間は業が深いのである。しかし、「すれた子供」には、そこまでの複雑な要素は理解出来ない。理解出来るようになるのは、大人になって視野も識見も広がってからである。

丈夫なフツラの木の上で、洋樹は天を見上げる。ユグドラジルの枝と葉が、空を覆い隠していて、その上に何があるのかは分からない。全部を隠しているわけではなく、光は下にも届いている。それに、ずっと向こう、地面の近くには生の空が見える。だが、それは天蓋の下の、わずかな部分に過ぎないのだ。空の大部分は天蓋に覆われ、見る事が出来ない。子供が持つもっとも強い欲求といえば、力の渇望と知識の渇望だ。

「もう、ヒロちゃん、知らないよー?」

「気にすんなよ。 怒られるのは、オレなんだから。 お・や・す・みぃ」

小さく欠伸をして、洋樹は目を閉じ、またうたた寝に戻った。ぱたぱたと走っていく功輝の足音を聞きながら、洋樹は思う。空を見てみたいと。

砂漠にまで出れば、空を見る事だけは出来る。しかし、それは天蓋から出る事に過ぎないような気がしていた。洋樹は天蓋を征服してみたかったのだ。絶対者として頭上に君臨する天蓋を、己の手でねじ伏せてみたかったのである。

小さな胸の中で渦巻く野望は、日々強くなっていた。

 

元々洋樹は、野心的であっても能力的にそれほど優れているわけではない。運動神経は並だし、頭だってそれほど良くはない。テストで成績を取れるわけでもないし、頭の回転自体が早いわけでもない。顔だって、そんなに目鼻立ちが整っているわけでもないし、殆ど身を飾る事にも無頓着だ。

洋樹が唯一他者から見て優れていたのは、木登りだけである。これだけは、他の誰にも負けなかった。一種の才能といっても良い。これのお陰で、かくれんぼの時は立体的に隠れる事が出来た。いじめっ子に追いかけられた時も、逃げ延びる事が出来る可能性が高かった。先ほどももっともらしい理屈で歴史の授業を否定していたが、これには勉強自体がさっぱり出来ない(=面白くない)こと、教師から逃げ延びる自信があったこと、等が根底の理由として存在しているのである。

夕方までうたた寝した後は、寝過ぎて揺れている頭を首で支えながら、家に戻る。一応両親はいるが、性格的に問題がある夫婦で、後から出来た弟ばかりを可愛がっていた。最近は食事にまで差が出て来始めており、善良な弟は右往左往するばかりであった。弟は可愛かったが、両親は嫌いだった。

「ただいま」

帰宅の挨拶をしても、案の定返事はない。奥からかけてきた弟だけが、笑顔で洋樹を迎える。全然洋樹には似ていない子で、勉強が好きという子供にしては変わった性質の持ち主である。その辺が両親にえこひいきされる一因となっていた。

「ヒロちゃん、おかえり」

「お帰り、布津球。 学校、楽しかったか?」

「うん! へへ」

頭を撫でてやると、布津球は喜ぶ。まるで排泄物でも見るような目で洋樹を母親が見ていたが、そんなものにはもう慣れた。

「どうしてこんな子産んじまったんだろうね」

陰湿な言葉が投げかけられた。鼻を鳴らすと、洋樹は奥の部屋に行った。

 

殆ど物質に執着がない洋樹であるが、同世代の子供達同様、宝物は所持している。それは、ユグドラジルに関する数々の記録だった。歴史には興味がないのに、ユグドラジルの記録には執着するのだから、人間とは勝手な生き物である。

ユグドラジルの高さは、一万メートルとも二万メートルとも言われている。一説には、十万メートル等というものもある。まだ頂点まで登った者はいないとされている事が、その高さの伝説に拍車をかけている。

ユグドラジルに関する伝説は、他にも幾らでもある。頂上部分は明らかに雲より高いので、その形状も不明である。砂漠から来た旅人の間では、茸のように傘状になっているという話であるが、それもぼんやりとしか見えないので完全には確認出来ない。それほど桁違いの植物なのだ。また、ユグドラジルは燃えない。自己防衛機能を備えていて、傷つけようとする者には容赦なく反撃をする。実もつける事が確認されていて、それはかなり美味しいらしいのだが、最低でも三百メートルは登らないと無い上に腐りやすいので、街には出回らない。

今までの時代、ユグドラジルに登る余裕が人類にはなかった。最も発展した都市であるウィルビントン市を中心として、ユグドラジル周辺都市に統一政権が出来るまでは、血で血を洗う戦いが続いていたのだ。ここ十年ほどは平和が訪れ、ようやく各都市間に生活の余裕ができはじめている。それに伴って、外の世界に出ていく者も少しずつ、だが確実に増え始めた。そして当然、ユグドラジルに登る人間も今後は増えるはずだ。あまり時間はないと、この間手に入れた資料を読みながら、洋樹は考えていた。

幸い、守らねばならないような人もいない。後腐れ無く家を出る事が出来るし、死んだって誰も悲しまない。それは本来悲しい事なのかも知れないが、身軽という意味では、洋樹には好都合な情況だった。

「決めた」

呟くと、洋樹は跳ね起きた。そして命より大事なユグドラジルの資料と、最小限の着替え、それに必要と思われる物資だけを素早く鞄に詰めると、夜闇の中部屋を出た。弟の寝息が聞こえてくる。心の中で別れを言うと、洋樹は家を出た。

空は暗く、風もない。少し寒いが、耐えられないほどではない。ユグドラジルの、複雑に絡み合った巨大な幹に向け、洋樹は歩き出した。もう、帰る気はなかった。

 

2,大いなる木

 

二時間ほど歩いて、洋樹はユグドラジルの根本にたどり着いていた。地面からせり出している根だけでも、途方もない巨大さである。ユグドラジルから数キロ離れた地点でさえ、十メートル以上も太さがある根が地面からせり出している事が珍しくもないのだ。

幹はごつごつしていて、手がかりは幾らでもあった。しかし、殆ど木と言うよりも崖である。場所によっては、雨の後に滝さえ出来る。小川のように水が流れている所もあって、今後水で困る事は無さそうであった。

無論洋樹も、ユグドラジルに触った事や、近づいた事はある。集団で根を切ろうとしたり、燃やそうとしたりすると、生き物のように襲ってくるユグドラジルであるが、少し皮を削ったり実や葉をむしったくらいでは何もしない。

自分より遙かに巨大な根を歩きながら、洋樹は登る事が出来る場所を探した。かなりでこぼこしていて登りやすいが、場所によっては勾配が急で、危険である。一時間ほどもたっぷりかかって、ようやく洋樹は幹にたどり着いていた。額に薄く浮かんだ汗を拭うと、洋樹は高い高い黒ずんだ幹を見上げた。案の定、上の方は霞んでいて見えない。だが最初の方は、木登りというよりも崖を多少慎重に進むくらいの難易度で済みそうであった。

記念すべき最初の一歩を踏み出す。ユグドラジルは岩ほど硬くはなく、土ほど軟らかくもない。幹に直接触れてみると、少し湿っていて、かなり冷たかった。思い立った洋樹は、幹に耳を当ててみた。水が流れる、しかもかなり激しく流れる音が、洋樹の耳に飛び込んできた。下手に幹を傷つけると、鉄砲水ではじき飛ばされそうな気がして、洋樹は身震いした。

千メートルくらいまでなら、登った人間は少なくないと聞く。危険な生物が生息しているという話も聞かないし、である以上余計な危険を呼び込むわけには行かない。頭を振って雑念を払うと、洋樹はユグドラジルを登り始めた。

 

思い立ったら吉日。洋樹の村に、古くから伝わる言葉である。それにしても、小さなリュックだけを背負ってユグドラジルに挑戦するのは幾ら何でも無謀であった。だが、洋樹はそんな事を気にする事もなく、果てしない高みに延びる木を登り行く。朝日が昇り始めていて、洋樹の背中を、それにユグドラジルの幹を、紅く染め上げた。

一時間ほども登ると、徐々に勾配がきつくなり始めてきた。だんだん前屈姿勢をとったり、木に密着して登らなくてはならなくなる。幹から枝が伸びている事も増え始めた。枝は横へ太く長く張りだしており、時々まだ小さな、小指の先ほどの実をつけていた。葉は大きく広く、枝の根本にある方のは、洋樹が乗っても全然大丈夫なほどだった。特に大きなものは上に家を建てられそうなほどで、葉脈の太さだけでも洋樹の体を凌いでいる。葉の根元の方には小さな池が出来ており、蛙が頬を膨らませて鳴いていた。喉が渇いた洋樹は、水筒の水を煽り、たまっている水を水筒に補給した。生水を飲むわけには行かないから、後で火を通さなくてはならない。持ってきた水筒は直に暖められる金属製の優れものである。ユグドラジルが燃えないと言う点も、長期戦には有り難い。ただ、あまり派手に火を起こすと文字通り木から放り出されるかも知れないから、最小限の火力で事を起こす必要はあったが。

まだ、ユグドラジルに食べられる実はなっていない。もう軽く百メートルは登ったはずだが、未成熟の青い実さえ付いていない。話によると、枝の少し先の方になっていると言う事だから、場合によっては危険を冒さねばならない。実の形は三角形で、中に汁気の多い果肉が詰まっていると言う事であった。味はとても甘いのだという。口の中に唾液を感じた洋樹は、心なしか急いだ。まだこの辺りでは木登りというほどの事ではないから、それほどの労力は感じない。

あまりにもスケールが大きすぎるユグドラジルには、様々な光景が広がっていた。木のうろは、さながら鍾乳洞のようだった。中には沢山蝙蝠が住んでいて、小さな翼をはためかせて飛び交っていた。少し平らになっている所には、ユグドラジルではない別の植物が生えていた。調べてみると、ユグドラジルの上にコケが生えていて、その上に更に根を下ろしているのである。また、別の平らな部分は、くぼみに水がたまっていて、湖のようになっていた。百メートル四方は軽くある湖は透明な水を湛えていて、其処へ流れ込む水も、其処から流れゆく水も存在している。ひょっとすると、村の側を流れる小川の源流は此処なのではないかと思い、感慨深く洋樹は湖を見やった。

日が最頂点を過ぎ、それに伴って少し眠くなってきていた。見上げると、まだ当分は安全な場所が続いている。周囲を見回すと、湖の側に、仮眠を取るのに丁度いい平らで乾いた場所があった。毛布までは持ってきていないが、それは予備の服でどうにでもなる。

来る途中生えていた木には、よく熟れた果が実っていた。村の側にも生えている木で、食べる事が出来るのは良く知っている。それと、今側で捕まえた蛙を何匹か串に刺して、炙って食べる。蛙は村でも重要なタンパク源で、おやつ代わりによく食べていた。鳥のような味がして、結構美味しいのだ。丁度満腹した頃には、陽が沈み始めていた。火を消すと、心の中で呟きながら、洋樹は目を閉じ、ユグドラジルの上に転がった。

『おやすみ、ユグドラジル』

今日だけで、数百メートルは登った。その疲れを少しでも回復するべく、洋樹は貪欲に眠りを貪った。

 

家に愛着を持ったり、親に愛情を持つ人間はホームシックになるが、洋樹はそれとは無縁だった。親というもののありがたみを知らないし、大事な人間もいないから身軽なのだ。弟は可愛いが、命より大事な存在だなんて頭の中で思った事はない。それに、洋樹がいなくても弟は生きていける。むしろ弟だけに愛情を注ぎたい両親が大喜びして、もっと愛情を注ぐ事だろう。そんな風に洋樹は考えていた。誰も愛していないと同時に、誰にも愛されていない、否、愛されていないと思っている洋樹には、そんな乾燥した考えがごく普通のものとして定着していた。良い事でも悪い事でもなく、単純にそうなのだ。故に身軽でもあり、同時に少し冷たいのだった。

朝日が昇り始めた頃、もう洋樹は小さく欠伸をしながら、ふと麓を見た。思わず、声が漏れるのを止められなかった。

「わあ……」

実に雄大な光景だった。村など小さすぎて、もうどこだか分からない。向こうに見える小さな街は、おそらくウィルビントン市だ。何と言う事だ、巨大都市が掌に入りそうではないか。思わずそれを掴む真似をして、洋樹はにんまりと笑みを浮かべた。

気合い充分充填完了し、洋樹は登頂を再開していた。木登りに関して天賦の才を持つ洋樹は、どの道を行けば楽か、安全か、それが感覚的に分かってしまう。無意識レベルで木登りにおける戦略をくみ上げられるのだ。同時に、多くの場数を踏んで戦術にも習熟しているため、実にスムーズに木を登る事が出来た。スピーディかつテクニカルに、洋樹はユグドラジルを登る。あくまでマイペースながら、その速さは猿顔負けである。

家から持ち出した食料はすぐに底を突いてしまったが、ユグドラジルには食物が幾らでもあった。二日目にはいるとどうやら実がなっているエリアに突入したのか、甘い実が沢山枝に着いているようになった。どういう訳か枝から外すとすぐに腐臭を放ち始めるのだが、すぐに食べれば問題ない。白い果肉はとても甘くて、中央に大きな種が一つ入っていた。虫食いもほとんど無い。

時々ある水たまりからは充分水を補給出来たし、蛋白質はその辺に幾らでもあった。良くも悪くも田舎暮らしである洋樹は、どんな生き物が食べられるか良く知っていた。蛙はごちそうだし、毛虫だって調理すれば悪くないのだ。毒蛇には気をつけなければ行けないが、この辺りには熱を関知して襲ってくるタイプの蛇はいない。毒蛇は基本的に臆病な生き物で、踏みつけないように気をつけていれば、向こうから逃げていくのだ。一部の熱を感知して得物に食いつくタイプを除けば、危険は基本的に猛獣よりずっと少ないのだ。

それに気候自体が悪くない。気温は安定しているし、それほど風は強くない。これはもしかすると、本当に早めに決行しておいて良かったかも知れないなどと、洋樹は思った。この分だと、結構簡単に頂上まで行けるかも知れない。やはり子供である以上、心に驕りが産まれる事は避けられない。少し浮かれた気分になりながら、洋樹はユグドラジルを登る。踏み越えてやると、ねじ伏せてやると、空を見せろと登る。

二日目も過ぎ、三日目も過ぎた。一週間目が過ぎた頃、ユグドラジルは目に見えて痩せ始めた。枝は豊富にあり、複雑に絡んでいるのだが、幹が目に見えて細くなり始めたのである。葉やうろも規模が縮小し始めた。休む場所も、少しずつ減り始めた。洋樹は根気よく登った。それは、頂上が近づいている、何よりの証拠だと思ったからである。

そして十二日目に入り、休む場所を探している時、それに出会った。

 

3,あしきもの

 

最初それが何か、洋樹には分からなかった。大きかった。兎に角大きかったのである。ユグドラジルの枝の一つに、四本の足を絡ませて、それは洋樹を見ていた。口からは長い舌が垂れていて、ゆっくり左右に揺れている。形はサンショウウオに近い。ただ背中には大きな背びれが尻尾の辺りまで続いていて、体の上半分は紅く、下半分は黒い。尻尾の先まで入れると、中囲村の端から端まで届くかも知れないほどだ。何にも微動だにしないと思われるユグドラジルの太い枝が、其奴のいる所だけは撓っていた。

「う……うわ……」

本当の意味で驚いたのは、何年ぶりか。更に登ろうと思い、何気なしに振り向いて偶然それを見てしまった洋樹は、ユグドラジルにすがりつくようにして小さな悲鳴を上げていた。あまりにも現実感がないその巨大な姿に、確かに心は怯えたが、致命的な激発には至らなかった。洋樹はやはり、何処か欠落していたのかも知れない。

「何だ、ヒトの子供か」

不意に言葉が響いたので、びくっとした洋樹は、思わず巨大な「それ」を見返していた。「それ」は洋樹の言動に構う事もなく、目を細め、舌を伸ばしてユグドラジルの実を葉っぱごと大量にむしり取り、口に入れた。それをかみ砕きながら、行儀の悪い子供のように言う。

「盗賊どもではなく子供が来るって事は、いよいよ社会が安定してきたか? 鬱陶しい事だ。 もうしばらく静かに此処で過ごせると思ったんだがなあ」

おそるおそる手を伸ばして、洋樹は上に登ろうとした。相手が喋っている間に上に登ってしまえば、見失ってくれるかも知れないと思ったのだ。こんな桁違いの存在がいるとは、洋樹も知らなかった。今までユグドラジルで行方不明になった者は確かにいたが、それでも危険な生物の存在は毒蛇くらいしか噂に上らなかったというのに。「それ」は洋樹の挙動に、目を僅かに細める。そして舌を器用に伸ばし、その先端部で洋樹の手の先にある幹を強打した。鈍い音がして、蒼白になった洋樹は、ひっと悲鳴を上げて手を引っ込めた。震えが止まらなくなった。生唾を飲み込んで、洋樹は必死に首を横に振った。涙がこぼれ始めていた。

「子供。 わしを出し抜けるなどと思うなよ? うん?」

「ご、ごめんなさい、ごめんなさい……た、たべないで……」

「ふむ。 特に生に執着があるようにも見えなかったが、恐怖にさらされると内面が露出するのはやはり子供が故か」

巨大な舌が器用に動き、洋樹の首を包むように巻いた。生暖かい舌の感覚に全身総毛立つ洋樹に、「それ」は言う。

「子供、此処に来た目的を言え。 嘘を付いたら喰う」

覚悟を決めた洋樹は、生唾を飲み込み、そして諦めた。この情況では、どうあがいても逃げ切れるわけがない。ならば、素直に言おうと思ったのだ。頭の中に去来する人も、思い残す事も何もなかったのは、幸いであった。

「……ユグドラジルを、征服してみたいんだ」

「ほう。 そんな装備で、ユグドラジルを登りきりに来たと?」

「うん……」

心なしか、締め付ける舌の力が強くなった。その意味を察した祐一は、必死に言った。嘘を付いていると思われるのが、今は死ぬ以上の屈辱だった。

「本当だよ! 本当だってば! 嘘なんて言ってないよっ!」

「……まあ、人間共の知識が失われているというのは確からしいからな。 それに環境安定化フィールドを張っているユグドラジルの周囲で有れば、それも不可能ではないか」

意味不明の事を言うと、「それ」は口の端をつり上げ、舌を離してくれた。

「わしの名前は、テラフォーミング調節樹管理守備迎撃特殊生物・バルバトス313というのだが……まあ、そんな事をいっても、文明が後退している以上理解出来まい。 この樹がお前達の先祖によってテラフォーミング用に開発された事だって、わからんだろうしな。 そうさな、わしは、お前達にはニーズヘッグと呼ばれている。 子供、お前は?」

「……洋樹。 暁洋樹」

テラなんとかというのは理解出来なかったが、ニーズヘッグというのは分かった。ニーズヘッグと言えば、ユグドラジルの地下に住むという邪悪な竜の名前だ。常に世界樹の根を囓り続けていて、北欧神話の最終戦争であるラグナロックの際には、世界樹そのものを囓り倒してしまうのだという。そして世界樹の頂に住むという邪悪な鳥フレースベルクと常に対立しているのだと言うが、となると上にはフレースベルグがいるのであろうか。身震いする洋樹に、ニーズヘッグ(と名乗った巨大生物)は、静かに言った。

「子供。 お前は、本当に登りきるつもりか?」

「うん」

「何故、其処まで登りたがる? その年で」

「オレには、何にもないんだ。 ……だから、いつも空を塞いでる忌々しい世界樹を、せめて征服してやりたいんだ」

何故か此奴には、本音を言っていい気がして、洋樹は核心をはき出した。しばし目を細めて話を聞いていたニーズヘッグは、やがて言う。

「ふむ……そうさな。 特に独創的ではないが、子供が故の野心と純粋な願いか。 まあいいだろう。 上へ行け。 ……幾つか、面白い事を教えておいてやる。 お前、これがユグドラジルでなければ、途中で凍死しているぞ。 いや、今既に危ないかも知れないな」

「どういうこと?」

「どういう事も何も、高度が上がれば、基本的に酸素の量も気温も下がる。 気温に関してはある一定のラインからは逆に上昇するが、それは別にどうでも良い。 今はもう標高四千五百メートルを超えているが、その服装なら普通とっくにたえられん。 脆弱な人間ならなおさらな。 今耐えられているのは、世界樹が特殊なフィールドを周囲に展開して、酸素の量と温度、それに大気変動を安定させているからに他ならぬ」

黙り込んだ洋樹に、ニーズヘッグは更に言った。

「それと。 こんな逃げ込みやすい場所に、何で盗賊だの犯罪者だのがいないと思う?」

「ええと……どうして?」

「決まってるだろう。 わしが常時彼方此方を部下に巡回させて、ある程度の高さまで登ってくるようなら食物にしているからだよ。 ニーズヘッグというのは、奴らがわしを呼ぶ名だ。 何度かわざと少人数生かして帰してやったからな。 お陰で最近はわしの悪名が広まって、鬱陶しい人間共が登ってこなくて助かっていたのだが、なあ」

洋樹は怖気が走るのを感じた。ニーズヘッグは鼻で笑った。洋樹の情報網など、たかが知れたものだったのである。

「もし、上までたどり着いて帰ってこれたら、お前を名前で呼んでやる。 まあ、ほぼ無理だろうがな。 せいぜい頑張れ」

ニーズヘッグは言いたい事をいうと、逆さ向きに世界樹を降りていった。凄まじい速さで、抗しがたい勢いだ。あれでは襲われたら人間なんぞ絶対助からないだろう。銃などで手に負える相手だとはとうてい思えない。

頭を振ると、洋樹はしばしの休憩の後、ユグドラジルを登り始めた。何か悔しかった。あのでかいサンショウウオを、見返してやりたくなってきていた。恐怖は、何処か別の世界へ行ってしまっていた。

「絶対、名前で呼ばせてやる」

自分で言って自分で頷くと、洋樹は決意も新たに、ユグドラジルを再び登り始めたのであった。

 

4,頂へ

 

もう、どれだけ過ぎたのか、洋樹には分からなくなり始めていた。一月か、二月か。或いは半年は過ぎてしまったかも知れない。

ユグドラジルは果てしない存在だった。どれだけ登っても、どれだけ登り続けても、まだまだ先が見えなかった。少しずつ幹が痩せ、枝が細くなり始めていたが、それでもまだまだ底が知れなかった。

ある一線を越えた頃から、湖や池の類が見られなくなった。葉には水がたまっていたが、それも家が上に建つような非常識なサイズではなくなりつつあった。まあ、そのぶん果実やトリの卵、それに蛙は却って増えた気がしたので(不思議な話だが)食物には困らなかった。

ただ、困ったのが、水浴びが出来なくなりつつある事である。水たまりはあるのだが、その規模は日々縮小し続けている。それに水たまりがあっても、汚れてしまっているものも少なくなく、洗濯も難しくなりつつあった。

幹の周りは、白い雲が沢山漂っていた。雲というものは間近で見ると、霧のようだった。手で掴もうと何度かしてみたが、当然無理だった。上に乗るなどもってのほかである。ユグドラジルの幹は、そんな霧が周囲に漂っているにも関わらず、ずっと同じ湿り気を維持していて、登りやすさに変動はなかった。

最初と違い、最近は明確な戦略を勘だけではなく論理的かつ入念に練らないと、上へ進めなくなりつつある。細くなった分険しさが増し、掴む場所が減り、滑りやすい場所が増えた。一度などは、油断して二十メートル近くも滑り落ちてしまった。危険度は、日々加速度的に増しつつあった。何十メートルも戻り、別ルートを探さなければならない日もあった。

もともと、人間の社会に、故郷に未練がない洋樹であった。だからこそ、こんな情況でも耐えられたと言える。あくまで洋樹が目指すのは先だった。何も持つものがないから、何かが欲しい。それが洋樹の場合はユグドラジルの征服と言うだけだった。非常に貪欲な反面、非常に無欲だったとも言える。物質的なものに執着がないのに、非物質にこれ以上もないほどの執着を見せていたのだから。

 

もう登り始めてから何日経ったかなど、洋樹には分からない。たまたま見つけた大きめのくぼみに水がたまっていたので、近くの枝に服を掛けて、洋樹は水浴びにしていた。まだ水がたまって日が浅いらしく、水の質はよい。さっき捕まえた蛙を隣で泳がせながら、冷たい水に浸かった洋樹は、目を細めて下の世界を見た。

「ふう」

高所恐怖症なら、絶対に耐えられない光景が其処にあった。下には重なり合う枝が見えるばかりで、もう地面など見えない。よしんば枝の隙間から更にその下をのぞき見る事が出来たとしても、無数の雲に遮られてしまい、地面があるべき場所はただ白いだけである。

最近はユグドラジルの実の他は、トリの卵と雛と蛙ばかりを食べている気がする。蛾や蝶はまずいので、出来るだけ避けるようにしていたのだ。親鳥はすばしっこくて捕まえられないし、蛇は毒を持っているかも知れないから手出し出来ない。

陽が差し込んできた。

随分気持ちがよい日光だった。水に濡れて艶やかな黒髪に、光が映える。差し込んでくる陽、というのは、始めての体験だった。考えてみれば、砂漠に出た事がない洋樹には当たり前の事であった。上に天蓋がある以上、陽は差し込んで来るには来るが、その勢力はとても弱いのだ。

体をきれいに洗って、水から出た洋樹は、随分長くなってきた髪に染みこんだ水を搾った。蛙に逃げられてしまった事に気づいたが、それは別にどうでも良かった。服を着ながら、今更ながらに気づいたのだ。上にある枝や葉の密度が減り、ついに日光が直接差し込んでくるほどの高度まで登り来た事を。

目を細めて、日光の細い筋を見やる。やっと、希望の光が見えたのだ。後少し、後少しだ。自分に言い聞かせて、体が完全に乾くのを待つと、洋樹はまた登り始める。何処かで、先ほど逃がした蛙が鳴いていた。

 

ユグドラジルの幹が、目に見えて細くなり始めた。日に日に、幹は脆弱になり、それと同等ほどもある枝が、左右に勢いよく伸び始めていた。枝が生える密度が、毎日確実に増し続けていた。

差し込む陽も、日々その線を増やしていた。ここ数日は、面と言っても良いほどの大きさになる事もあった。空を見上げると、天蓋に混じって、白いつぶつぶが存在するのが分かるようになり始めていた。それが枝や葉の隙間だと、誰に教えられるでもなく洋樹は悟っていた。その隙間から延びる無数の光が、周囲に漂う霧に突き刺さり、貫通して下へ下へと延びてゆく。素晴らしい光景だった、美しく、そしてとても儚かった。

誰も見た事がない光景を、自分は見ているはずだ。そう思うだけで、洋樹はとても誇り高かった。それにしても、今までは全く実感がなかったが、最近はユグドラジルの幹を見渡せるようになり始め、自分の小ささとユグドラジルの大きさを再確認出来るようになった。元の何分の一か分から無いほどに細くなっているにもかかわらず、その大きさは相変わらず桁違いだ。今の時点でも、確実に左右数百メートルはある。断崖のようにきりたち湿っている場所、少し緩やかで登りやすい場所、枝と連携して平地を作り休むのに適した場所。一カ所も同じ場所はなく、その巨大さは何度も洋樹を打ちのめした。

「ごめんね、ユグドラジル」

以前からは考えられないほど細くなっている枝の一本に手を伸ばし、洋樹は蔓を一本むしった。謝ったからかは分からないが、ユグドラジルが怒りにまかせて洋樹を空に放り出すような事はなかった。

木登りは全身運動だ。元々才能があったのに加えて、此処暫く木登りしかしなかった事もあって、その速度と精度は以前より格段に増していた。蔓を掴んだまま、洋樹は張り出した枝に腰掛けた。枝の根元は少しこぶになっていて、丁度尻が乗せられるほどの広さがあった。辺りに平らな場所はないが、この位のスペースがあればもう充分休める。こぶに腰掛けると、長く邪魔になってきた髪を、洋樹は縛った。一度縛るだけでは邪魔さ加減に変化はなかったので、もう一度謝りながら、ユグドラジルの蔓をもう二三本むしる。そして叔母の幸菜(といっても年下だが)がやっていたように、試行錯誤しながら髪を結い上げていった。しばらくして、何とか髪が邪魔にならなくなった洋樹は、また登り始める。やがて洋樹は、久しぶりに見るそこそこ広い平地に出た。正確にはうろであったが、休める場所であるのに違いはない。もう殆ど崖のぼりに近い要領で、其処までたどり着いた洋樹は、寝っ転がって大きくため息をついた。まぶしい。手で光を遮り、半ば体を起こす。近くに澄んだ水が湛えられた、五メートル四方ほどの水たまりがあったので、洋樹は顔を洗った。そして、気づいた。光の加減から、水たまりが鏡になっていたのだ。

以前は男の子としょっちゅう間違われたというのに。今水鏡に映っているのは、結構綺麗な女の子だった。

何というか、とても生き生きしている。ぼさぼさで手入れもろくにしなかった頭は、却って良く整えられて、綺麗で艶やかだった。恋をすると女の子は綺麗になると言う話があるが、目の前にその実例があった。ユグドラジルに恋こがれて、登り続けて、知らないうちに随分綺麗になっていたのだ。

妙なものである。別に異性に恋などしなくても、綺麗にはなれるのだった。コミュニケーション能力を高めなくても、強くなれるのだ。強さは仲間と呼ばれる集団とのコミュニケーションや道徳観念の向上によって産まれるとか、恋をしてこそ性別の意味があるとか、人間の持つ画一的な思考は、現実によってこうして崩されていた。内向的で自己完結している事を人間社会では悪とする事が多いのに、洋樹はそれによって綺麗にも強くもなった。洋樹にとって、人間などもうどうでもいい存在である。そう考える事は悪でも弱でも無い。現に、ユグドラジルを此処まで登る事が出来たのは、何も持たない洋樹が、その力の全てを登頂に注ぎ込んだからに他ならない。他の強さを否定しないが、個として究極の高みに登る事により、得られる強さも確かにあるのである。強さの定義は、一つではないのだ。

それを、水鏡に映った自分を見て、洋樹は悟っていた。

「もう少し。 絶対、こえてみせるからね、ユグドラジル」

それは独り言であったが、洋樹は独り言のつもりで言葉を吐いてはいなかった。

幹の太さが、数百メートルから数十メートルになるまで、更に五十日以上。数十メートルが、数メートルになるまで、更に六十日以上。幹は日を追うごとに硬くなった。数十メートルを滑り落ちてしまう事も何度かあった。しかし、洋樹は諦めなかった。究極の高みへ、登る事が、その心と体を支えていた。

そして、洋樹は、ついに成し遂げたのである。

 

5,空へ

 

それはただ、単純なまでに圧倒的であった。

空が其処にはあった。雲など一つもない。何も遮るもの無き空は、中央に光り輝く太陽を据え、何処までも青く澄んでいた。遠くへ遠くへ、何処までも行けそうなその青さは、洋樹の心を深く強く打った。

下を見れば、其処は何処までも続く緑の絨毯だった。ただ緑であり、緑以下ではなく、緑以上ではない。小さく見える葉の一つ一つは、自分よりも大きい事を、洋樹は知っている。張り出した枝に片足をかけて、洋樹はその圧倒的な光景に直面していた。

登りきったのだ。ついに、ユグドラジルを征服したのである。高さだけでも一体何万メートルあるか分からない、木の中の木、いや生き物の中の生き物を。

大きく深呼吸してみる。ユグドラジルの途中で吸った空気も良かったが、此処の空気はそれにも増して最高だった。肺が溶けるような気がして、洋樹は感極まった。涙がこぼれてきて、それを手の甲で拭う。悲しみの涙ではない。全力をかけて行ってきた事を為し遂げた事による、到達の涙であった。

一体何時間感慨にふけっていたか分からない。もう洋樹は死んでも良かった。全てを成し遂げた以上、この命にはもう価値がないとさえ言えた。究極の高みへ文字通り到達したのである。これ以上望むのは、欲がすぎるというものだった。

「……ユグドラジル……ありがとう」

征服したものへ、感謝の言葉が自然に漏れていた。沢山の実や、沢山の水や、それに住まう沢山の命を喰らって、此処までたどり着く事が出来たのだ。美化するつもりはない。ユグドラジルをいわば囓りながら此処まで到達したのである。感謝するのが、せめてもの筋であった。

一体此処まで何日かかったのか、洋樹は知らない。だが、日にちの経過など、もうどうでも良い事だった。腰から落ちるように座り込んで、ぼんやりと生の日光を浴び続ける洋樹の耳に、巨大な羽音が飛び込んできた。

 

それは巨大なトリだった。種類はよく分からないが、青みがかった巨体は、どう考えてもニーズヘッグくらいはある。さてはこれこそがフレースベルクかと思い、洋樹はぼんやりとその巨体を眺めた。トリは巨大な翼でゆっくり、ユグドラジルそのものに着地した。トリが首を伸ばせば、簡単に洋樹まで届く位置だ。でも、別にもう食べられてしまっても悔いはなかったし、逃げた所で逃げ切れないのも分かっていた。だから自然と余裕が産まれていた。

「此処にまたたどり着く者がいたか……」

トリは、人間の言葉で、そんな意外な事を言った。洋樹が興味を持って身を乗り出すと、トリは首を傾げながら言う。

「うん? 意外そうな顔をしているな」

「意外も何も、初耳だよ。 此処まで来たのって、まさか人間じゃないよね!?」

「人間だ。 それもお前と同じくらいの年だ。 ただ、雌ではなくて雄だったがな。 わしにあった後、地上に帰ると言っていたのだが……」

そんな話は初耳だった。ユグドラジルを登りきった人間がいたら、絶対に話題になるはずなのに。小首を傾げる洋樹は、百三十年ほど前にいた、ペテン師の話を思いだした。ユグドラジルを登りきったというその男は、確か証拠だと言って時の王に大きな枯れ葉を提出したのだという。それは枯れ葉にもかかわらず金色に輝いていたが、詐欺だと見破られて処刑されてしまったのだとか。

ふと、洋樹は、枝の先にうす黄色い葉があるのに気づいた。手を伸ばしてひっくり返してみると、それは金色に輝く葉だった。しかし、よく調べてみると、金色の薄皮が張り付いているだけだった。全部が金で出来ているわけではなく、金の部分はこすると剥がれてしまった。辺りを見てみると、青かったり、白かったり、似たような葉が幾つもあった。どうしてこんなものが出来たのかは分からないが、これを後生大事に持ち帰ったのだとしたら……ペテン師は嘘を言ってはいなかったのかも知れない。自分の事を、人間達に認めさせたかっただけなのかも知れない。だとすると、可哀想ではあった。

それにしても、先駆者がいたとは。洋樹は脱力感を覚えて、大きく嘆息した。

「がっかり……」

腰砕けになった洋樹に、トリは苦笑する。そして、朗々と響く声で言った。

「子供、名前は? わしは、そうさな。 前に来た奴の呼び名は、フレースベルグだった」

「オレは洋樹。 暁洋樹」

「ヒロキか。 ……これからどうするつもりだ? 人の世界に帰る気か?」

「そんな気にはなれない。 ……もう、あんな所、どうでもいいよ」

冷酷に言い捨てると、洋樹は落ち込んだ様子でもう一つため息をついた。トリ改めフレースベルグはじっと次の言葉を待ってくれた。敬意を表していると言うよりも、退屈しのぎになる面白い玩具を見ている目つきなのは明らかだ。

「もしかして……」

「うん?」

「世界樹って、他にもない? これよりも、もっと高い奴とか」

その言葉を聞いた時の、フレースベルグの顔と来たら。洋樹は一生忘れられそうになかった。一瞬おいて、フレースベルグは巨大な笑い声を上げ始めた。そして振り向いて、背に乗るように促した。頷くと、洋樹はそれに乗った。柔らかくて、暖かい羽毛が、フレースベルグの背中にはびっしり生えていた。

此処がもう征服されてしまっているのなら、まだ誰も征服していない世界樹を登頂するだけの事だった。自分に得意な事を、究極まで極め上げる。そうやって洋樹は強くも綺麗にもなったのだ。ならば、それを極められる所まで行くだけの事だった。

トリが、フレースベルグが翼を広げる。洋樹は天の向こうを指さし、言った。

「もっと高い木へ!」

「承知した!」

楽しそうにフレースベルグが言う。洋樹の前には、まだまだ極められる高みが、残っているようだった。フレースベルグが羽ばたく。そして、世界樹から離陸した。羽ばたくごとに、力強く空へとその巨体が浮く。

「あ、ちょっとまって」

「うん?」

「ニーズヘッグ知ってる? 余所に行く前に、彼奴に会える?」

「会えるが、奴に何用だ?」

洋樹は笑った。そして、親指で自分を指しながら、言った。

「約束したんだ。 オレの事を、名前で呼ばせてやるんだから」

再び大きな笑い声が、遮るもの無き空に響き渡った。巨大な鳥は、翼を翻し、洋樹を乗せ滑空していく。洋樹の新しい挑戦は、始まったばかりだった。

 

(終)