彷徨う暗殺者

 

序、今は昔の話

 

必死に逃げ回るその妖怪は、怯えきっていた。どこから来るか分からない。どうやって来るか分からない。

やってしまった。

絶対に許されない事だ。

つい出来心で、人を食ってしまったのだ。

山に入ってきたのが悪い。

そう言い訳するのは簡単だが。此処幻想郷では、人を食った妖怪は例外なく退治される事になっている。

今の博麗の巫女はそれほどの武闘派では無い。先々代はそこそこ強かったのだが、先代、それに今の博麗の巫女は体が弱く、博麗大結界を維持するので精一杯。

だから、殺しに来るのは妖怪だ。

そして最初の内上手に逃げていたのが仇になり。

最悪の追っ手が向けられたのである。

「みいつけたあ」

幼い女の子の声。

完全に震え上がった妖怪は。既に自分の胸から、刃が生えている事に気がついた。

全く分からないうちに、背後から貫かれていたのだ。

倒れる。

いつの間にかふわりと浮くようにして目の前に降り立ったのは。人間の幼子に見える妖怪。

だが知っている。

地底の管理者である地霊殿の長。古明地姉妹の妹。

心を読む姉。

周囲に存在を悟らせない妹。

その妹の方。

言う間でも無く、もはや接近を察知さえ出来ない最強の暗殺者である。幻想郷における最強の刃。

どんな闇に隠れようと追ってくる、もはや逃げようが無い悪夢。

妖怪は精神攻撃に弱い。

今、古明地妹。古明地こいしがナイフで突き刺すと同時に、呪いを叩き込んできたことはすぐに分かった。

悲鳴を上げてもがく妖怪に、こいしは告げる。

「七人も食べたのはまずかったね。 それもやり方が悪質だって賢者さんぷんぷん。 何でも外の神様達との会議ですっごく怒られたらしいよ」

「ひ、た、たすけ……」

「それは貴方が食べた人間に言う事じゃないのかな。 そうそう、地底に封印処置だけじゃなくて、一回殺すようにという指示だから。 まあ悪く思わないでね」

あああ。

悲鳴さえ、消えていく。

妖怪にとって精神攻撃は最も凶悪なもので。

精神生命体である妖怪にとって、精神を殺されるのは致命的なのだ。

やがて、妖怪は死を迎えた。

この世界から。

欠片も残さずに、消滅したのである。

妖怪は条件を整えれば復活する事が出来る。

しかしながらそれも封印されてしまえばおしまいだ。しかも地底に封印されたら、もう地上に出ることは絶望である。

此処は幻想郷。

外の世界から隔離された最後の秘境。外では存在し得ない妖怪や神々が存在し。不思議な力が当たり前のようにある異界。

そんな世界にもルールはあり。

それをあまりにも酷く破った者は、仕置きを当然受ける事になる。

古明地こいしは、その執行役の一人。

どこにでもいて、どこにでいもいないこいしは。

上位の神格が相手でもない限り。

狙った相手を確殺出来る。

文字通り、必殺の刺客だった。

 

大あくびしながら、古明地こいしは目を覚ます。

妖怪悟りである彼女は、気分次第でどこにでも行く。最近は命蓮寺に行くのがお気に入りだが。必ずしも命蓮寺にばかりいる訳では無い。

妖怪悟りは人間の心を読むことが出来る妖怪で、昔は幻想郷最大の山岳地帯、妖怪の山の顔役だった。

妖怪の山から、支配者階級妖怪である鬼が去ったのと同じように悟りの姉妹も去り。

今では地底と呼ばれる、幻想郷のスラムの管理者をしている。

だが、この仕事は激務だ。

物理的な意味では無い。

精神的な負荷が大きいのである。

妖怪悟りは人間の心を読むが、何も読めるのは人間の心だけでは無い。妖怪の心も読むことが出来る。

地底は文字通りのスラムで、幻想郷における罪人が落とされる場所。

更に言えば、無数の悪霊やら怨霊やらが集う場所。

当然の話で、此処は昔地獄として使われていた場所の一部。

闇と親和性が最高なのである。

そんなところで闇の深奥を見続けてきたら病むに決まっている。

姉の古明地さとりはすっかり最近は無口になったし。

妹の古明地こいしは山で顔役をしていた頃には心を見るのがイヤになって、第三の目。胸元にある瞳を閉じてしまった。

その結果、こいしは周囲から認識されなくなった。

少なくとも、同格以上の実力者でなければ、こいしを認識する事が出来ない。こいしが相手に認識させようと思わない限りは、である。

同じ地霊殿にいても姉はこいしを探していることがある。

流石に格上の神格が相手だと、こいしの能力は通用しない。幻想郷を管理する最高位妖怪である賢者も、こいしの能力破りの技を持っているようだ。

現在こいしは。

あてもなくふらつきながら。

たまに命蓮寺に出て修行をして、精神を安定させたり。

そうでないときは気配を消して、己の心も閉じて。ただあてもなく周囲をふらついている。

昔は仕事が多かった。

非常に面倒なルール違反を犯した妖怪が出た場合、こいしが消しに行っていたのだ。

人間を殺す妖怪が昔は多かった。今の幻想郷では、しっかりルールが整備された結果、殆ど無くなったけれど。

結構前の時代には、酷いときには七人とか人を食った妖怪が出て。

その時にはこいしに暗殺の指示が降った。

こいしは他にも、幾つも特定条件になったら殺すようにと言う指示を。賢者や、或いは勢力の有力者から受けているが。

今の時点ではそれらの条件は一つも誰も満たしていない。

だから今日は、ぼんやりと妖怪の山の中腹にある湖で、空虚な笑顔を浮かべたまま。湖に浮かんで巨大な存在感を示しているカエルを見つめているのだった。

ふと、背後に誰かが立つ。

此方を認識している。

そうなると、上位の神格か、賢者しかいない。

振り返ると、そこにいたのは。守矢の武神、諏訪子だった。あのカエルの使役者である。

流石にいにしえの武神となるとこいしの認識も容易か。

座って良いかと聞いてくるので。

頷くと。諏訪子は隣に座る。

実は守矢とも幾つか契約をしている仲だ。

こいしの能力を便利に思う勢力は多い。

こいしは部下から譲って貰った死体(殺したものではなく、多くは葬式から盗んだもの)の中から、気に入ったものを防腐処置して飾るという趣味を持っているが。

それを利用して、こいしに契約を持ちかけてくる事が珍しく無いのだ。

とはいっても、ある程度の力がないとこいしの存在すら認識出来ないので。

だいたい妖怪達の勢力の長か。

或いは賢者に限られるのだが。

諏訪子の場合は前者。

守矢の二柱なんて言われるが。その片方。

古代における最大の祟り神。

邪神ミジャグジさまの総元締めこそ、この諏訪子である。

「相変わらず退屈そうにしているな。 命蓮寺には遊びに行かないのか」

「気が向いたら足を運んでいるよ。 あそこの住職さん滅多に見ない本当に良い人だし、修行も強要しないし。 やってみると心も落ち着くし」

「流石にお前まで彼方に行かれると少し困るのだがなあ」

「私は自由。 私は誰にも縛られない。 私は好きなようにする」

けらけらとこいしが笑うが。

諏訪子は一切笑うことはない。

戦うつもりはないようだが。こいしの戦力を侮れないと思っているのは確かな様子である。

元々諏訪子はフットワークが軽く、健康的な女児にしか見えない姿もある。人里に出向いて、情報集めをする事もあるようだ。

もう一柱の守矢の神である神奈子と連携して。それぞれが的確に動いて守矢の勢力を拡大している。

このほぼ同格で、それぞれ強大ないにしえの二柱が。

連携している事が、守矢最大の強み。

どっちもいにしえの神格としてかなり強大な部類に入る存在で。

それが山の妖怪を今は殆ど従えているのである。

強いに決まっている。

こいしも噂は聞いている。

守矢は、今こいしが遊びに行く命蓮寺を仮想敵に定めていて。

もしも戦力が充分に整ったときには、全戦力で幻想郷の制圧に乗り出すつもりだと。

確かに一度幻想郷の制圧に乗り出したこともあった。

その時は博麗の巫女の戦力だけを見て手を引いたが。

あれはただの様子見。

幻想郷が有している戦力の確認のためだけの行動。

次に守矢が本気で動く時には。

幻想郷の仕組みが文字通りひっくり返るときだと、こいしでも知っているし。

いっそのこと妥協策として、守矢の二柱を幻想郷の管理者階級、賢者に迎えてしまおうという案まであるという。

いずれにしても、こいしはどちらにも荷担するつもりはないし。

大戦争になったら、むしろ命蓮寺の方につくつもりだ。

あそこは居心地が良いからである。

「良い奴、か。 仏僧は多く見て来たが、大半は理屈をこねくり回すだけで実践もしようとしない輩か、或いは最初から腐りきっている生臭か、もしくは妖怪退治の道具に仏教を利用しているだけの退治屋か。 この三つにしか分類できないんだがな。 あの住職は、どうやってお前みたいな冷血妖怪に良い人と認識させたのやら」

「冷血妖怪ってひどいなー。 私はただ何にもないだけだよ。 だから相手をそのまま評しているだけ」

「それを冷血と言うんだよ」

「ふーん」

諏訪子が言う通り、ろくでもない仏僧は大勢こいしだって見て来た。

仏教は別に命蓮寺の住職である聖白蓮が幻想郷に持ち込んだわけでは無い。

五百年ほど前に幻想郷が出来。

明治時代と外で呼ばれている時代に博麗大結界で隔離される前に。

とっくの昔に幻想郷にはあった。

人里には現在でも、命蓮寺以外に幾つかの寺があるが。

実績を上げられていない。

命蓮寺は、危険な場所にあった里の共同墓地を、安全な命蓮寺の敷地内に全て移すという事を行い。

それで金を取ることは一切無く、里の人間の感謝を得ている。

その他にも里に出ては人々の悩みを聞き。

困っている人を助けてもいる。

命蓮寺は立場が弱い妖怪を助けている寺だという話もあるが、正確には違う。

立場が弱い存在を、人間も妖怪も関係無く助けている組織である。

この辺りを良く想っていない仏僧もいるようだが。

どんな時に葬式が起きても嫌な顔一つせず対応しているし。

里に出る困りものを更正させた例が一つや二つでは無い。

この辺り、どれだけ歯がみしても。

元からいた仏僧達には一つも出来ていなかった事だ。

妖怪退治の手段として仏教を使っている者も退治屋の中にはいるが。

こいしから見ても大した実力では無い。

要するに、実力があり。その実力で実績を上げているのが命蓮寺だ。主要な構成員は妖怪ばかりだが、人間の檀家も多くいる。

こいしからすれば、実績を上げている上に善良な人間……いや寿命を超越しているから元人間か。そういう存在は珍しい。

だから、側で見ていたいというのもある。

事実、嫌なものを嫌と言うほど見てきたこいしだが。

命蓮寺で嫌な思いをしたことは一度だってないし。

白蓮に嫌な事を押しつけられたことだってない。

ただ出家信者になるとかなり厳しく色々言われると聞いているが。

それは流石に嫌なので、在家信者のままでいるのである。

「それよりも、全部理屈で通しているそっちはどうなのさ。 何だか息苦しいように見えるけどなー」

「妖怪は人間以上にいい加減だからね。 事実鬼は簡単な方法で、実に見事に統率していたんだろう?」

「まあ、それはねえ」

「同じ方法をとっても良かったんだが、どうせならそれを更に改良した方が良い。 それだけだ」

諏訪子は言うと、立ち上がる。

どうやら、会話を切り上げるつもりのようだった。

鬼の支配方法。

単純な暴力。

鬼は妖怪の山を、守矢の前に支配していた妖怪達だ。今は大半が地底に去って、もうそれぞれが好き勝手に過ごしている。或いは地底の顔役だったり、或いは賢者の配下になったり。色々である。

守矢は暴力よりも法治主義で山を支配しているが。

その結果、弱い妖怪が泣くことはなくなったようだ。

これについては、こいしも見て知っている。

その代わり、強い妖怪が勝手をすることも出来なくなった。

余計な事をしたら文字通り何をされるか分からない。

ただでさえ妖怪の山は、昔から人里にとって畏怖の対象であり。

多くの妖怪が、実際に人里の人間を喰らってきた禁足地だ。

そんな禁足地をどう統治するか。

やはり、守矢のやり方はそれほど間違っていないのだろう。

「地底にこれから戻る気はあるかい?」

「気分次第かなー」

「そうかい。 じゃあ、この書状を、気が向いたら姉に渡しておいてくれるか」

「うん。 分かった」

手紙をいそいそと懐にしまい込むと。

もう諏訪子はいなかった。

流石は上位神格だ。

地獄や月に行けばもっと凄いのがいると聞いているが。

幻想郷では、ちょっといてはいけないレベルの実力者である。

とはいっても、月から逃れた神々がいる永遠亭なんてのもあるし。

最近は地獄の女神や月を単独で圧倒する邪神が幻想郷を気分次第でふらついているので。

何も守矢が圧倒的絶対的最強という訳でも無い。

その辺りが、この幻想郷の面白いところで。

こいしにとっても飽きが来ない楽しいところでもあるのだろう。

誰もいなくなった。

誰にも認識されなくなる。

こいしはふらりと地底に出向くと。

姉の宮殿であり、地底の役所に当たる地霊殿に出向く。

かなり広い屋敷で。奥の方にはこいしの部屋もある。こいしの家と言って良い場所なのだが。

どうも最近は、命蓮寺の方が居心地が良いこともあって。

此処が家だとは、どうにも思えなくなっている。

誰にも認識されないまま。

すんなりと最深部に。

見張りについている妖怪はたくさんいるのに。

誰一人として、こいしの存在に気付くことができない。ひょいひょいと軽く飛ぶように歩きながら、奥へ。

一番奥にある執務室では。

姉が。

古明地さとりが、ぶつぶつと呟きながら、膨大な書類を片付けていた。

ハンコを押す手さえ疲れが見える。

茶を配膳しにきたのは、火車のお燐である。正式には火焔猫燐という名前があるのだが、長いので嫌いらしい。普段は猫の姿、猫耳と尻尾がある人間の姿を使い分けているが。どうしてか猫の耳があるのに人間の耳も出している。

この辺りはよく分からない。

「さとりさま、少しはお休みくださいな」

「お燐、まだ書類が残っているのです。 貴方も余計な事をせず、自分の仕事を片付けなさい」

「今日は休みです……」

「それなら休みなさい。 私は問題ありません」

嘘だ。

問題ありありじゃないか。

こいしは虚無の心で、そう考える。

心が虚無だから、感情は一切浮かんでこない。

居心地が良い、くらいは感じる。命蓮寺に足を運ぶのはそれが故だ。

居心地が悪い、も感じる。

地霊殿で、姉が心身共にすり切れそうになりながら働いているのが嫌だからだ。

お燐もあまりそれについては良い気分がしない様子で。

ブツブツ呟きながら書類仕事をしているさとりを見て、何か言おうとしたが。言えずに執務室を出ていった。

書類が片付いて、一段落した隙に、さっきの書類を机上に出しておく。

しばしして、次の書類の山を机に載せたさとりが気付く。

「こいし……いるの?」

姉が動揺した声を出すのを、こいしはあまり聞いた事がない。

最近、こいしを探して命蓮寺に来た事もあると聞いた。

地霊殿の主が地上に出てくることは滅多にないし。

ましてや寺を訪ねるなんて、本来ならあり得ない事だ。

それだけこいしを心配してくれていることは分かっているが。

分かっているなら、無理な仕事は止めてほしいのに。

動揺した様子で辺りをふらふらしている姉に、色々と悲しみが募る。

例え触られても認識はされない。

そういう体なのだ。

山にいた頃から、そうだった。

さとりだって、山にいた頃から、既にすり切れかけていた。好き勝手ばかり言う妖怪達。暴力でそれを単純にねじ伏せている鬼達。

鬼の頭領である伊吹萃香が、さとりに言った事がある。

たまには休めよと。

萃香は乱暴だが、普段から酔っ払っている一方で。怖くて酒に逃避している節がある。

正気に戻るのが嫌なのだろう。

格上の相手なので、萃香の心は正確には読めなかったが。

何となく、萃香がとんでもない鬱屈を抱えている事はこいしにも分かっていた。

そんな萃香でさえ、さとりに無理をするなと言うほどだったのだ。

或いは、鬼が妖怪の山を去ったのは。

さとりが精神を病み掛けているのと、同じ理由なのかも知れない。

諦めた様子で、さとりが席に戻る。

こいしはずっと執務室にいたのに。

大きな溜息をさとりはついた。虚無になった心は、ざわつかないが。此処はやはり居心地が悪かった。

 

1、そこにいない者の散歩

 

古明地こいしは、妖怪の山で顔役をしていた頃から、不思議と周囲に信頼されていた。理由はよく分からない。

普通だったら、何をするか分からない奴と警戒されてもおかしくないのに。

どうしてなのだろう。

いずれにしても、色々な約束事をしたり。

仕事を頼まれたり。

賢者に暗殺者をさせられたりと。

裏切られたら最悪の事態になる事を、誰もが警戒せずに任せてきた。

こいし自身は別に何とも思わなかったが、それは不思議だった。

理由は誰かに聞けるのなら聞きたかったが。

心当たりがある相手もいないし。

興味も無かった。

今日は人里に出てみる。

帽子を被り直して、人里に入ると。ちょっといつもと空気が違う。そういえば、少し前から人里の自衛能力を上げるとかで、人間に友好的な妖怪が指導に入っているとかいないとか。

里の退治屋達はここのところとにかく弱体化が激しかったのだが。

そういえば確かに質が上がっている気がする。

様子を見に行くと。

幻想郷に存在する珍しい西洋妖怪系の勢力。紅魔館から、其所の門番である拳法使いが派遣されていた。

確か紅美鈴とか言ったか。

長身の女性に見える拳法使いだが。

人間にはごく友好的で、門を無理矢理破ろうとしない限り攻撃をすることは無い。

前から引率されてきた子供に拳法を教えたりしていたようだが。

今は里で拳法を教えているのか。

年齢層様々な退治屋に、拳法のイロハを教えている美鈴。

自分でまず実践して見せて。

それからどうすればいいかを丁寧に教え。

その後は順番に、反復練習をさせている。

里の妖怪退治屋は兎に角軟弱で、最近は殆ど博麗の巫女が危険な妖怪に対処している状態だったのだが。

博麗の巫女の負担が最近目だって増えていたから、だろう。

妖怪退治屋達も、鍛え直しが必要と賢者が判断したのか。

ぼんやり見ていると、視線を感じる。

研修に立ち会っていた、里最強の戦力。

藤原妹紅が此方を見ていた。

モンペを履いた銀髪の女性藤原妹紅は、昔はとにかく目つきが鋭くて。妖怪と遭遇すると確実に焼き殺していたくらいに荒んでいたのだが。

今は多少様子が落ち着いている。

正体がよく分からないのだが、何十年も前から同じ姿で変わっていないので、多分普通の人間でないのだろう。

里の自警団に請われて、今では里にいる時間の方が多いようだが。

戦闘能力がさび付いている様子は無い。

じっとこいしの方を見ていたので、にこにことして返してみせるが。

向こうはしらけたようで、視線を背けた。

見ているだけなら勝手にしろ。

そういう意思表示だろう。

それなら勝手にするもーん。

そう呟いて、拳法の研修をみる。

一段落すると、美鈴が軽く話をする。

「気というのは何も魔術的な力のことだけを言うのでは無く、相手に自分の力を正確に伝える技術のことも言います。 勿論体内の気を練り込んで相手に叩き込むような技もありますが、才能によってだいぶ威力が変わってくる上に、ちょっとやそっとの気では普通の妖怪も倒せるか怪しいです。 みなさんは退治屋ですので、それぞれ妖怪に通じる技を持っていると思います。 拳法は、相手の物理的な攻撃を知り、かいくぐるための手段だと考えてください。 拳法だけ……徒手空拳だけで妖怪を倒せるのは、本当に限られた一部の存在だけです」

一礼する美鈴。

感謝したように、人里の退治屋達も、それに返していた。

軽く妹紅が、美鈴と話している。

「まだ使い物になる様子は無いが、もう少しペースを上げたらどうだ」

「妹紅さんから見れば、それは使い物にならないと思いますよ。 ただ、前よりもずっと選択肢が増えていると思います」

「……そうかも知れないな」

「人を喰らった妖怪を倒せる戦力が揃うまで持ち堪えられれば良いんでしょう? それならば、焦らずそれぞれが鍛えていけば大丈夫だと思いますよ」

いわゆる包拳礼をすると、美鈴は戻っていく。

紅魔館は危険な吸血鬼を主としている勢力だが。

人里とは案外友好的で、節分に太巻きを食べる催しを行ったり、立食パーティをしたりしている。

黒い噂は黒い噂で流しておいて。

それはそれとして、拳法使いの腕が確かなのを見せておくことで。良い意味でも人里に威を示し。

更に恩も売っておこうという判断なのだろう。

色々考えるものだなあ。

そう思いながら見ていると。いつの間にか妹紅がいない。

「おい」

「わあ、後ろに回られたあ」

呆れた様子で頭を掻く妹紅。

後ろをとられたのは、久しぶりだった。

「何をしに来た」

「別にー。 ただ見に来ただけだよ」

「……それだけなら良いがな。 その姿なら、人間に見えるだろうし」

人里には決まりがある。

妖怪が入るときは、人間の姿を取る事。

用事が無い場合は、出来るだけ夕方以降に入る事。

勿論人里でのもめ事は御法度。

これらは賢者によって周知され。各勢力の長によっても決められている事である。

幻想郷にとって、人間の里は生命線だ。

その気になれば、人間の里を一晩で滅ぼせるような妖怪は幻想郷に幾らでもいる。だが、もしそれをやったら、威を誰にも示せなくなる。

博麗大結界の「反転の結界」で、外から隔離されている幻想郷だが。

それはそれとして、直接威を示せる人間がいないと、一番困るのは妖怪なのである。

何しろ、威を示さなければ。

いずれ消滅してしまうのだから。

「いずれにしても人里に入るなら夕方以降にしろ」

「はいはーい。 妹紅さん、それにしてもよく私の事が分かったね」

「……私も色々あってな。 鍛え直しているって事だ」

そうなのか。

いずれにしても、こいしを認知できた人間はあまり多く無い。こいしが認知させようと思わない限りは、まず無理だ。

博麗の巫女でもそれは例外では無い。少なくとも、今までは。

時々博麗神社に出向いて、こいしは色々悪戯をしているのだが。

博麗の巫女は悪戯の後に気付いて、こいしの仕業だとぼやくことはある。つまり、それまで自分のホームグラウンドに入られて気付けていないということだ。

ただ、博麗の巫女も最近力を増している。

いずれ、こんな悪戯も出来なくなるかも知れないが。

「それにしても色々って何?」

「あまり言いたくないが、手が足りないらしくてな」

「手が足りない……」

「幻想郷は予想以上にまずい状況にあるらしい。 お前もそろそろ、賢者から何か言われるかも知れないな」

笑顔のまま、黙り込むこいし。

妹紅は、溜息をもう一つついていた。

「とにかく、悪ささえしなければいい。 見ているなり帰るなり好きにしろ」

「ねえねえ妹紅さん」

「何だ」

「前見たときと比べて、随分落ち着いてるよね。 里の人達が大事になったの?」

しばらく黙り込んだ後。

妹紅は答えてくれる。

「そんな事はない。 ただ、私も血塗られた道をずっと歩くのは嫌になった。 それだけだ」

 

血塗られた道か。

人里を離れたこいしは、考えながら歩く。

命蓮寺に出向いてもいいかなと思ったのだが。さとりが取り乱しているのをさっき見てしまった。

あの様子だと、命蓮寺に来ているかも知れない。

もしそうなると面倒だ。

命蓮寺の住職は、こいしを認識出来る数少ない使い手の一人。

まあ「魔法使い」という存在に限れば、幻想郷最強なのだし、別に不思議では無いが。ともかく、姉が来ていたら。それについて確実に詰問される。

さっき諏訪子に言われるまま、手紙を渡したのは失敗だったか。

だが、こいしは不思議と他人に言われた事は、そのまま素直に答えてしまう癖がある。

恐らく心が空っぽだからなのだろうが。

それにしても、さっきのはちょっと失敗だったかも知れない。

少し考えてから、博麗神社に出向く。

妹紅が、手が足りなくなっているという話をしていた。

ひょっとして、と思ったのだ。

博麗神社は相変わらず参拝客もいない。

ただ神社の境内はそれなりに綺麗に掃除されていた。

その辺で拾った小銭を賽銭箱に入れると。

じゃらんじゃらんとならす。

手を叩いてお参りおしまい。

鳥居の真ん中も通らなかったし。

別にこれでいいだろう。

認識されないときは、此処までやっても博麗の巫女は気付かないのだが。

ただそんな博麗の巫女も、一度不意を襲ってみようかなと考えたときには、即座に反応した。

勿論本気で襲うつもりはなかったのだが。

それでも、殺気に即応できる辺りは、歴代最強と言われているだけのことはある、ということだ。

さて、どうなるかな。

しばしぼんやりしていると。

鬱陶しそうに、博麗の巫女が出てくる。

近くの石に座って、にこにこと様子をみていると。賽銭箱を確認して、お金が入っていることを確認。

別に賽銭箱にお金なんて入らなくても。

有事の時のために、人間の最大戦力とも言える博麗の巫女には、生活資金と物資が人里から支給されている事くらいは誰でも知っている。

博麗の巫女にとって大事なのは、或いは。

単純に参拝客が来ること、なのかも知れない。

「そこにいるんでしょう。 姿くらい見せなさい」

「あ、ばれた」

振り向く博麗の巫女、博麗霊夢。

幻想郷の人間最強と呼ばれ、博麗大結界を維持するための鍵でもある。

博麗の巫女がいなくても、ちょっとやそっとの間では博麗大結界は壊れたりはしないのだが。

それでも、長期間の不在は色々とまずい。

故に、戦闘力の有無関係無く、博麗の巫女は昔から幻想郷で必要とされてきた。

今代の霊夢は歴代最強と言われており。

「異変」と呼ばれる大規模問題が発生した場合、音速で飛んで行って問題を起こした輩の頭をかち割る。

ただ、そんな霊夢でも。

こいしが何もしなければ、気付けなかったのだが。

やはり力がましているのか。

「どうしたの。 前は悪戯しても気付かなかったのに」

「最近力が増していてね。 やっぱり前からあんたがちょくちょく悪戯してたのか」

「でも、その分のお賽銭は入れていたよ」

「……それもあんただったのか」

複雑そうな表情。

文字通り苦虫を噛み潰している。

上がるように言われたので、ついていく。

お茶を出してくれたので、ありがたくいただく。

霊夢はお燐と比較的仲良くしてくれている珍しい人間だ。葬式から死体をさらうお燐は、ここのところ殆ど動物の死体しか手に入らないと嘆いていたが。そういった愚痴を、霊夢にも聞かせているのかも知れない。

なおお燐も命蓮寺に入門をしようとしたのだが。

墓場の死体目当てと即座に見抜かれて、追い返されている。

住職は間違いなく良い人だけれども。

優しいだけの甘い人でもないのである。

「人里で妹紅さんにも気付かれたよー。 何か最近あったの?」

「何かってねえ。 無関心にも程があるでしょうよ」

「だってそりゃそうだもん。 私どこにもいないんだし」

「はあ。 今そこにいるでしょうが」

確かに存在はしてはいるが。

同時にどこにもいない。

意識を閉ざしたというのは、そういう事だ。

古明地こいしという妖怪は。何処にでもいて何処にでもいない。今は実体があるにはあるが。

その実体は誰にも事実上認識出来ない。

高位の存在にしか認識されないのであれば。

それはいないのと同じだ。

そういう話をすると、霊夢はうんざりした様子になる。

難しい話はやめろとでもいうのだろうか。

こういうのは宗教の専売特許で。

霊夢も広義では宗教家に入る筈なのだが。

「その面倒な話、命蓮寺で吹き込まれたの?」

「んーん。 私は無だよ心を閉ざした時から。 だから情報はどこからでも手に入れるし、何処にでも拡散する」

「疫病か」

「えー。 それは酷い」

といいながらも、こいしの笑顔は崩れない。

多分殴られたり、一方的に嬲られても関係無いだろう。

「それでどうしたの?」

「……そっちに天狗が何体か送られたでしょ」

「ああ、そういえば。 元々悪い事散々してたし、当然かなって思って流してたけど」

「悪い事してるの知ってるなら私にいいなさいよ」

呆れを通り越して、怒り始める博麗の巫女。

そんなに怒ってばかりいると。

いつか血管を切って死んでしまいそうだ。

人間はすぐしぬ。

どんなに頑強な肉体の持ち主である人間でも、ちょっとしたことですぐに壊れてしまう。何度も何度もこいしは見て来た。

多分、歴代最強を謳われる博麗の巫女だってそれは同じだ。

例えば、幻想郷でほぼ無敵を誇る鬼だって。外では無敵でも何でも無かった。人間に不意打ちを掛けて、逆に片腕を斬り飛ばされた茨木童子の話は有名だが。鬼なんて、別に神仏の加護を受けていない人間にすら外では倒される程度の存在なのである。

それより脆弱な人間なんて、もっと脆いだろう。

確か茨木童子を返り討ちにした渡辺綱だって、70だかそこらで死んでいるはずで。

要するに人間なんて、どんなに頑強でも、どんなに頑張っても、その程度の生き物であり。

その畏怖を受けなければまともに形も取れない妖怪と言うのはそれ以下だ。

「あの事件を切っ掛けに、色々と幻想郷の体勢が見直されていてね。 そもそも異変が起きた時の初動が今まで遅すぎたし、最近では幻想郷の外から異変が持ち込まれる事も多いから。 だから、手札を彼奴が……紫が増やす事に決めたのよ」

「紫さん、負担大きいのに大変そう」

「そうよ。 だから負荷分散のために私達が動いている訳」

「へえー」

もっと聞かせてと顔を近づける小石だが。

霊夢はつれない。

「話も聞かせたんだから帰りなさい。 この間もあんたの姉が来たわよ」

「お姉ちゃん、この神社にも来てるの」

「そうよ。 どれだけ心配掛けてるの」

「心配ねえ……」

既に捨て去った感情だ。

だからぴんとこない。

でも、そう言われると。素直にやりたくなるのがこいしだ。

その辺りは。

心を閉じた頃からずっとそう。

別に嫌なら断れば良いのに。

嫌だとも思わないから。普通に言うことを聞いてしまう。

「分かった。 ちょっと一度地霊殿に戻るよ」

「それが良いわよ。 最近あんたの姉がただでさえ消耗してるの何でだと思う」

「え、仕事いっぱいしてるから?」

「あんたを探す時間を作るために、仕事を前倒しでやってるのよ」

口をつぐむ。

そうだったのか。

感情を失ってしまったから、分からなくなったことが多い。

だが、まさか。

そんな事のために、あんなに無茶をしていたのか。

こいしはちょっとやそっとでやられるようなヤワな存在では無い。

幻想郷で言えば大妖怪と言っていい存在だし。

こいしを殺せるのはごく限られた者だけ。

地底との関係悪化を考えると、こいしに手を出そうなんてのは余程のクレイジーな輩だけだろうし。

そんな輩でも、こいしはそもそも逃げるのが容易なのだ。

霊夢はしらけた目でこいしを見ている。

いずれにしても、早めに戻った方が良いだろう。

この認識されない能力。

便利だと思っていたのだけれど。

ひょっとしたら、想像以上に周囲を困らせているのかも知れない。

感情がなくなって、分からなくなっていただけかも知れない。

いずれにしても、一度戻った方が良い。それは、こいしとしても実感していた。

 

2、消えた心

 

妖怪として、古明地こいしはさほどスペックが高い方では無い。山を崩すような力はないし、湖を蒸発させるような術だって使えない。

世界を移動する事だって出来ないし。

勿論博麗大結界の外にだって出られない。

だけれども、だ。

余程の格上でもない限り、存在を認識させない。

これはとても強力なアドバンテージだ。

そしてこいし自身が昔は山の顔役で。今は地底の顔役である。

心を閉じ。

周囲からの認識を断ってから。

ほぼ顔役としての仕事はしなくなってしまったが。

それでも妖怪にとっては致命的な呪いの力を高次元であやつり。人間にとっては致命的なレベル程度の物理殺傷力だって持っている。

何もかもが嫌になったから。

それが心を閉じた理由だが。

そういえば、考えてみれば。

こいしが全てを拒否した分。ひょっとして、姉のさとりが、全てを引き受けているのではないのか。

つまるところ。

負荷が倍になったと言う事で。

ただでさえ、音を上げていたあの悪意の海を。

今、さとりが一人で処理しているのではあるまいか。

姉のさとりは、こいしと大してスペックも変わらない。

相手のトラウマを想起させる心理戦を得意としているが、妖怪としてのスペックはそれほど高くもない。

呪いを扱う能力を持っているのはこいしと同じだが。

精神がそこまで強い訳でも無い。

たまに、無理に自分を凄いと言い張って、自分を奮い立たせてはいるようだけれども。

もしも鬼辺りにフルスイングでの一撃をもらったら、木っ端みじんになるのがオチだろう。

こいしと同じように、だ。

すっかり夜になっていた。

人里でもないから、妖怪が時々うろついている。

すれ違う誰もがこいしに気付かない。

やがて、妖怪の山に入る。

此処に穴があって。

其所から地底に行くのが一番早いからである。他にも幾つか地底に行く方法はあるのだが、それを使うつもりにこいしはなれなかった。

穴の側まで来ると。

いつの間にか、側に諏訪子が立っていた。

今日は満月だからだろうか。

目が赤く輝いている。

普段は田舎の健康的な女児にしか見えない諏訪子だが。今は祟り神の総元締めらしい、恐ろしい姿だった。

「何だ、帰るのかい?」

「そのつもり」

「気配を消して移動されると、どうしてもこっちとしても反応せざるを得なくなるんだよねえ。 いっそのこと、目開いたら」

「……多分、もう出来ないと思う」

そうか、というと。

諏訪子はさっさと行けと、穴を指した。

頷くと、こいしは深い深い、地底につながる穴へ飛び込む。

この穴は地下奥深くまでつながっている。

どれくらい深いかというと、冬でも暖かいくらいである。

何しろ地獄として使われていた場所の一部を再利用しているのだ。それくらいの大深度にあっても不思議では無い。

ただ、夏でも冬でも基本的に気温が変わらないので。外に出て風邪を引く者もいる。

気配を消して移動するが。

地底には、誰彼かまわず襲いかかる凶暴な妖怪がいるからだ。

特に有名なのはつるべ落としのキスメで。桶に入った幼女のような姿をしているが、その実体は殺戮衝動の塊のような存在である。

そのキスメが、ケタケタ笑いながら飛んで行く。

何度も鬼とか博麗の巫女にぼっこぼこにされても一切気にせず、再生してはまた凶暴な衝動に従って相手を襲うキスメ。

鬼でも制御出来ない、本物の怪物。

この国の妖怪と言うよりも、余所の国。まだ夜の闇が充分な力を持っている国の妖怪に思えてくる。

キスメはふらふらして飛んでいる。どうやら地上に出ようとしているようだが、以前人を殺したことで地上には出られなくなっている。

その凶暴性と裏腹に、キスメの戦闘力はそこまで高くない。

幸い殺した人数が其所まで多く無かったので地底送りで済んだが。

もう少し時期が悪かったら、こいしが殺す事になっていただろう。

なお地底の妖怪達ですら迷惑だと思っている様子で。

地底に観光業を興そうと今事業計画が進んでいるのだが。最大の難関になっているらしい。

それはそうだろう。

こいしが鬼達の会合を覗くと、キスメをどうするかという話をしているのを時々見かける。

此奴を地上に出したら、瞬く間に十人単位で人を殺すだろうし。地底に観光目的に来た妖怪も人間も、嬉々として襲うだろう。

そうなれば、観光業は台無しだし。何よりも幻想郷総出で狩らなければならない。賢者は時々外の神々と色々折衝しているらしいが。きっと怒られるだろう。最も働いている賢者である紫がとても苦労していることを、こいしは知っている。

キスメは想像以上に面倒な相手なのだ。

キスメを無視して、地霊殿に飛ぶ。一瞬だけキスメは不可思議そうにしたが、或いは純粋な殺戮衝動だけで動いているから、こいしの存在をわずかだけでも感じ取れるのかも知れない。

白蓮住職に言われた事がある。

こいしの存在は、悟りの境地に近いと。

仏教についてはそれから調べた。

確かに認識しうる全ては無実体であると言う考え方はあるらしく。識論というらしい。

確かに客観は誰もが違うし。

その論に沿って言えば、確かにこいしは悟りの境地に近いのかも知れない。

しかし、悟りの境地とは近くても遠すぎるとも思う。

何だか疼く。

心の中に、何かもやもやがずっとある。

姉が、こいしを本気で心配していると聞いてから。

そのもやもやは、どうしても消えなかった。

地霊殿が見えてくる。

しばし地霊殿の上空をふわふわ飛んでみるが、誰も気付かない。

妖怪の山だと、気配があるとすぐスクランブルが掛かる。

地霊殿だって、知らない奴が姿を見せれば誰かしら哨戒に出てくるし。

博麗の巫女が殴り込みに来た時は、地霊殿の妖怪が(人肉目当ての奴も含めて)総出で襲いかかり、片っ端から返り討ちにされたとか。

そのタイミングでこいしは席を外していたので、阿修羅のように暴れ狂う博麗の巫女は見られなかったが。

いずれにしても、姉も一緒に叩き伏せられたらしいので。

まあ凄まじい暴れようだったのだろう。

いずれにしても、こいしにも同じように襲いかかってきても良いのに。

誰も出てこない。

地霊殿の中庭に降り立つ。

自室に入る。

自室と、その周辺の廊下には、気に入った死体を並べている。

防腐処置を施したもので。

人間のものだったり、そうでなかったり。

死体を運ぶ妖怪である火車のお燐に譲って貰ったものもあるし。

気に入ったからずっと側で見ていて。

死んだ後に、此方にさらってきたものもある。

こう言う行動を、悟りの境地に近い存在がするものなのだろうか。

最近は気に入った死体を並べることは減ってきたが。

それについては大いに疑問だし。

やはり悟りの境地に近いだけであって、遠いのだとも思う。

ぼんやりと自室で過ごしていると。

不意にドアが空いて。

憔悴した様子の姉が姿を見せた。

こいしはそこにいるのに。

認識出来ていない。

しばらく部屋を見回すと、ため息をついて部屋を出て行こうとする。

あれ。

もともとこいし同様に幼い女の子に見える姉だが。

こんなに小さかったか。

前に見たときよりも、更に痩せて憔悴しているように見える。

いや、明らかに体調を崩しているとしか思えない。

ぱたぱたと足音。

この控えめな足音は、お燐だ。

「さとり様! こちらにいらっしゃったのですか!?」

「お燐、そんなに騒がないように」

「駄目ですよ! 永遠亭に少し前に行ったばかりで、其所でも休むように言われたじゃないですか!」

「だから遠出はしていないでしょう。 せめてこいしが戻って来ているか、部屋を見ただけです」

咳き込んでいる姉。

あれ。むずむずが大きくなる。

でも、こいしは目をもう開けようにも開けられない。

だから。

認識させる事は、出来る。

「お姉ちゃん……」

声を掛ける。

振り向いたさとりと、口を手で押さえたお燐。

蒼白になっているお燐と。

目の下に隈まで作っている姉。

どっちも、痛々しい姿だった。

「こいし、そこにいたの」

「さっきからだよ。 それよりお医者さんに行ったって、どうして」

「貴方を探すためにお仕事を増やして、それでも見つからなくて、無理をしていたらついに倒れてしまったのよ」

窶れた笑みを浮かべる姉。

嗚呼。

何だろう。

失ったはずの感情が、何処かで苦しみを訴えている。

確かこれは悲しいとか言う感情だ。

そして決して表には浮き上がってこない。

自分に触ろうとして、転び掛け。慌ててお燐に支えられる姉。これは、ちょっと本格的にまずいかも知れない。

療養に使っている、比較的清潔に処置した部屋に姉を運ぶ。

処方されたらしいでっかい錠剤を飲む姉。

妖怪悟りはそれほど強力な妖怪ではないにしても。

姉はこのカオスの地底をまとめるほどの地位と実力はある存在である。

それなのに、此処まで弱っていることがばれでもしたら。

それこそ、どんな悪さを企む妖怪がいてもおかしくない。

どうして、妖怪は周囲の警戒をしていないのか。

地霊殿には、姉に仕えている妖獣がたくさんいるはず。獣由来の妖怪である。お燐や、お燐の友人のお空も含まれる。

皆、何をしているのか。

睡眠導入剤も入っていたのか、姉は寝入る。いや、これは疲弊が限界に達して気絶した感じだ。

こいしはしばし呆然とその様子を見ていたが。

病床の手を採った。

体温が非常に低い気がする。

それに、姉の手はこんなに小さかったか。

いや、違う。

痩せてしまっているのだ。

「こいし様、お願いですから、もう少し戻って来てください。 そしている事を示してください」

お燐の言葉には、少なからずこいしを責める節があった。

お燐を見ると、怒ってはいない。

ただ悲しんでいる。

地霊殿の妖獣達は、いずれも荒々しい者達ばかりだが。

姉はとても慕われている。

山にいた頃も。顔役だった姉は怖れられると同時に慕われてもいた。

心を読めるから、面倒見が良いからである。

性格が単純な妖獣達は、それで姉を慕ったし。

地底に移ったときは、姉についてきたものも珍しく無かった。

地底で、元々地底に住んでいた妖獣達も多く姉の配下に加わったけれども。

それで派閥争いが起きるようなこともなかった。

妖怪の個人としてはそれほど高く姉が評価されていないことを、こいしは知っている。

だけれども、地霊殿の支配者としては誰も過不足を感じていないことも、こいしは知っている。

何しろ鬼達でさえ、地霊殿の支配は自分がすると言い出さないのである。

鬼達は気が短いし、けんかっ早い。

元々山の支配が面倒になったからもう良いというのもあるだろうが。

姉が醜態をさらしていたら、絶対にもう良いから地霊殿の支配権を寄越せと言い出すはずである。

姉の寝息が、若干落ち着き始めた。

お燐が悲しげに、布団などを整えはじめ。貰ったお薬を準備し始める。起きた後に飲むものらしい。

どれも強い薬ばかりなのだと、お燐は言った。

「さとり様はずっと無理を為されていました。 こいし様……」

「……でも、どうして私なんかを?」

「そんな事を言わないでください。 さとり様が、どんな思いでいたか……」

「……」

言わんとする事は分かるような気がする。

こいしが対峙することから逃げた醜悪な皆の心を。

姉は一人で受け止めることになったのだ。

二人で対応していれば。

それでも少しはマシになっただろうに。

そしてこいしは相変わらず顔役ではあるけれども。殆ど実務には携わっていない。それなのに、周囲は今まで誰も責めなかった。

だが、とうとう姉が倒れたことで。

それも限界と言う事だろう。

「お姉ちゃんの執務、やるよ。 執務室に案内して」

「……それよりも、さとり様と一緒にいてあげてください」

「でも、起きてからもお仕事あるんでしょ」

「それは此方で何とかします。 代理でお仕事が出来る人はもう来ていますので」

お燐はいつになく口調が厳しい。

というか、何度も目を擦っている。

口も引き結んでいる。

これは、こいしに対する怒りを少なからず感じる。

もう我慢できない、とも。

だから、こいしはそれ以上、何も言えなかった。お燐は席を立つと、その代理とやらの所に出向いた。

ナースコールもある。

多分、ある程度知能のある妖獣が、何かあったら呼ばれるようになっているのだろう。或いは最悪、永遠亭の知恵の神。幻想郷の医療を司る八意永琳が、直接飛んでくるのかも知れない。

姉は窶れていて。呼吸も時々乱れている様子だ。

精神生命体であるから、これだけ肉体に影響が出ていると言う事は、精神がそれだけ酷い状態になっているのだろう。

どうしていいのか分からない。

こいしには、側にいることしか出来なかった。

 

姉が目を覚ましたのはしばらくしてから。多分実時間で十時間ほどは眠っていたと思う。

その間、ずっとこいしは側についていたが。

姉が目を覚ますと、どうやって察知したのか、すぐにお燐が飛んできていた。

「食事です」

「有難うお燐。 貴方も少し休みなさい」

「せめてお薬を飲んで貰わないと」

「分かりました。 すぐに対応しましょう」

黙々と卵粥を食べて、薬を飲む姉。

どれも強い薬ばかりだと一目で分かる、毒々しい色をした大きな錠剤を、嫌な顔一つせず飲んでいる。

下がるようにと言われて、頭を下げて退出するお燐。

そのまま横になっている姉は、こいしに寂しそうな笑みを浮かべた。

「もう少し地霊殿に戻って来なさい」

「戻って来てたよ」

「そう。 気付けなかった私が悪いのね」

「そんな事は……」

いや、違う。

姉はこいしを責めているのでは無い。

意識を閉ざしたことで、認識出来なくなったこいし。

でも、最上位の妖怪達や、幻想郷にいる神々は、普通に認識する事が出来ている。

つまり力が足りない自分に対して、自責の念を抱いていると言う事だ。

色々まずい。

精神生命体である妖怪にとっては、自己否定は一番まずい行動だ。

それは永遠亭に行くことにもなる。

こんなにお薬を貰う事にもなる。

「しばらくは、此処にいるよ」

「嬉しいわ」

「そう……。 お姉ちゃん、窶れたね」

「無理をしすぎたからね」

咳き込む姉。

演技をしている様子は無い。

元々トラウマを利用して戦闘するような姉だ。相手の思考を読み取り、相手が受けた事がある技を再現してみせるような器用さも持っている。

勿論本物には及ばないが。

尋常な技量で出来る事ではない。

決して力が劣っているわけでは無い。

この幻想郷に、猛者が多すぎるだけだ。

軽く、幾つか話をする。

やはり姉は、相当無理な仕事をしながら、彼方此方を見て回っていたそうだ。

こいしの痕跡を全く見つけられず。

その度に胸を痛めていたという。

命蓮寺にも何度も来たと言う。

こいしがいる時に来た事はなかった。

それだけ地霊殿の仕事は忙しいし。こいしの腰が据わっていない、という事である。いつも彼方此方をフラフラしているから、かち合わなかったのだ。

「何度か、さっきまでいたって話をされて、心が折れそうになったわ」

「……ごめんなさい」

「感情が本当になくなっているのね」

「うん……」

謝ろうと思っても。

どうしても、笑みになってしまう。

閉ざしたものに対する代償はあまりにも大きすぎたのだ。

これから、第三の目を開けようと思っても。

きっと出来ないだろう。

咳き込む姉。

しばらく、無言の時が続いた。

病室に顔を見せた者がいる。誰かと思ったら、幻想郷担当の閻魔、四季映姫・ヤマザナドゥである。

幻想郷において、賢者ですら頭が上がらない高位神格。

地獄において、現在閻魔は十王の頂点ではない。地獄に罪人が増えすぎたので、十王を全員閻魔に昇格し。更には各地から新しく閻魔を募ったのだ。

そんな後発組の閻魔の一人が彼女。

若干背は低いが、元々非常に厳格な性格で、自分にも他人にも極めて厳しい。

こいしも苦手な相手の一人だ。

地獄と縁が深く、地底も知っている彼女なら、確かにさとりの仕事を代理でやるには丁度良いだろうが。

彼女は確か二交代制で地獄の閻魔をしている筈。

つまり、休憩時間の一部を裂いて、仕事をしてくれていると言う事だ。

思わず首をすくめる。

こいしのせいだ。

地底が今回地獄に作った借りは大きい。

睡眠時間諸々を削ってきてくれているのだろうから。

映姫は確か元地蔵だったと聞いている。

余程大事にされていた地蔵だったのだろう。

ここでいう地蔵というのは、仏教で言う地蔵菩薩のことではなく。道々にある地蔵菩薩の似姿の事。

大事にされていたが故に。

多くの人を見てきてもいるのだろう。

「まだ良くないのでしょう。 眠っていなさい」

「申し訳ありません、映姫様」

「良いのです。 体調を戻したら、何かの形で借りを返しなさい」

「はい」

映姫に説教されると思って、こいしは首をすくめたが。

恐ろしい程冷たい目で見られただけで。それだけだった。

少し遅れて、お燐が来る。

「大丈夫ですかさとり様。 何か映姫様にお説教されて、精神にダメージを受けたりしませんでしたか」

「あの方はそんな無慈悲ではありませんよ。 それよりも仕事の方は」

「さとり様の仕事は全部綺麗に片付いています」

「そう。 流石は閻魔様ですね……」

倍は効率よく仕事をしている、と言う事なのだろう。

ずっとちくちくする。

もう開かないだろう第三の目だけれども。

封じた何かが、もがいているようだった。

 

3、消えてもそれはそこにある

 

それから数日、こいしは倒れた姉の側にいた。

お燐に聞いて、薬の準備をしたり。長引きそうだから、永遠亭に行って薬を貰ったりして来た。

姉が寝るタイミングを見計らって行ってきたのだが。

何処かに寄り道しようかとつい考えてしまったり。

永遠亭に出向いたら、気配を消していることを忘れていて。咳払いした永琳の所作で、ようやく気付いたり。

色々散々だった。

本当に姉が体を痛めていたのだと実感したが。

その時にはもう遅かった、というのが実情なのだろう。

姉は過保護ではなかったが。

負担を押しつけても、何もこいしには言わないほどには優しかったのだ。

そんな優しさにずっと甘えていた。

それが事実なのだろう。

地霊殿に戻ってくる。

こいしが戻ってから、姉の容体はだいぶ安定した、らしい。二度、永琳が来て、診察していったのだ。

空間転移して、ぽんと来てぽんと帰って行ったのだが。

そんな調子で回診を複数の患者にしているらしく。

薬そのものは持って来てくれないので、それは永遠亭に受け取りに行かなければならない。

其所で、何の役にも立てていないこいしが、自分が行く事を申し出たのだ。

結局、子供の使いしか出来なかったが。

暗殺の仕事がなくなってから。

精彩を欠いているのは、実はこいしもなのかも知れない。

心を閉ざしたことで。

精神生命体としては、致命的な欠陥を抱えることになった。

確かに周囲から認識されない能力は強い。

だが此方が意識しないと、格上の相手以外には存在を認識させる事だって出来ない。

やっぱり、どうにかして。

心をもう一度開くべきなのか。

だが、第三の目は死んでいる。

今更、この目を開ける事は出来そうにも無い。

「こいし」

呼ばれて、顔を上げる。

いつの間にか起きていたらしい姉が、半身を起こしていた。

多少は体調が回復してきてはいるらしい。

数日前の、悲惨なほど窶れていた様子は無い。

安心して眠れる環境が出来て。

しっかり栄養も取って。

言われた通りにお薬だって飲んでいる。

だが、本調子にはほど遠い。こいしは頷くと、手を採って姉を立たせて、トイレにつれていった。

トイレから戻ると、姉は咳をまだ何度かした。

心配している様子の周囲の妖獣。

お燐が知らせてくるが、現時点で地霊殿の業務は滞っていないという。

だが、これ以上映姫に借りを作る訳にはいかない。

だから、こいしは決めた。

姉が眠るのを待ってから、お燐に言う。

「私がお姉ちゃんの仕事するよ」

「え、でも」

「やり方は知ってる」

ずっと認識されずに周囲を見てきた。

そしてこいしにも、姉に次ぐ地霊殿ナンバーツーの権限がある。

決済だったら出来る。

困惑した後、お燐は言う。

「それならば、さとり様の許可をお取りください」

「許可を取らないと駄目なの?」

「地霊殿の主はさとり様です」

「そうか……」

そうだよなあ。ぼやく。

そういえばだ。

幻想郷の集団や組織は、大体のものがナンバーワンに強く依存している。

実質上のナンバーワンが、ナンバーツーとして振る舞っている永遠亭や紅魔館、同格のナンバーワンが二人いる守矢という例外はあるが。

今回の地霊殿のように、ナンバーワンが倒れると機能不全に陥る勢力の方が多い。

やっぱり、これは何とかしなければならない。

姉の血色はまだ悪い。

話をしなければならないだろう。

今まで、こいしは無責任に姉に甘えすぎていたのかも知れない。その結果として、こんな悲惨な結果がもたらされた。

今度は、こいしが姉を助ける番だ。

もう、甘えることは許されない。

姉が目を覚ますまで、ずっと側にいる。

いつの間にか、かなりこいしも消耗していたが。

それでも、姉の苦労を思うと。

これくらいは、大した事では無かった。

仕事の代行の話をする。

姉はしばし口をつぐんでいたが。やがて、目を拭ったので。こいしはちょっと動揺していた。

心が揺らされたのは、久々だ。

「そう、やっと自覚を持ってくれたのね」

「お姉ちゃんが倒れるの見たら、遊んで何ていられないよ」

「別に遊んでいてもいいの。 たまにちゃんと顔を見せに戻って来てくれればそれだけでいいのよ」

「……分かった、気を付ける。 仕事は代理でしておくからね」

許可は出た。

後は、仕事をこなすだけだ。

お燐につれられて、執務室に。

どっさり書類がある。

姉は安心した様子で眠っていると聞いて、こいしもまた心が揺れた。

もう第三の目が開く事はないだろうけれども。

或いは、閉ざした心はそれはそれとして。

何処かに、心の残滓は残っているのかも知れない。

膨大な書類を、力自慢のお空が運んでくる。一つずつ目を通して、決済をしていく。ハンコは久々に引っ張り出してきたが。きっとお燐が手入れしていたのだろう。いつでも使える状態になっていた。

仕事自体は難しく無い。

決済を一つずつしていくだけだ。

たまに明らかに駄目な書類が紛れ込んでいるので突っ返す。これは、姉だってやっていたはずだ。

不意に気配があるのに気付いて顔を上げると。

決済が済んだ書類を、映姫が見ていた。

冷たい目だ。

「映姫様?」

「仕事はきちんと出来ているようですね。 私はもう此処での仕事を手伝わなくて大丈夫と判断して良いでしょうか」

「ごめんなさい映姫様。 私がご迷惑をお掛けしました」

「……もう少し、姉を労ってあげなさい」

少しだけ、視線の圧が弱まったか。

地霊殿の妖獣が総出で頭を下げている中、映姫が戻っていく。

それはそうだ。

地獄に近い場所である。映姫を怒らせることが如何に致命的か、どの妖獣もよく分かっているし。

地上から来た組だって、死後に相対する相手の心象を悪くするのがどういう意味を持つか理解出来ている。

映姫は自分の好き嫌いで裁判の結果を変えたりはしないだろうが。

それでも、怖れられなければならない立場なのだ。

いつもしかめっ面を作るのは大変だろうなと思い。

ふとこいしは、自分がいつもヘラヘラの笑顔を作っていることを思い出す。

そうか。

結局、他にも似たような事をしている人はいるのか。

そう思うと、また心が揺れた。

決済の仕事に戻る。

姉が起きだしてくるくらいのタイミングには、作業は終わっていた。

やはりそうだ。

前倒しで作業をしなければ、此処の仕事は決して無茶な分量では無いのだ。姉を倒れるまで追い込んだのは自分だ。

そう思うと。

こいしは、今後の行動について改めなければならないと、思い直していた。

 

もう数日もすると、姉の病状は回復。

そろそろ大丈夫だろうと太鼓判も永琳に貰って、外に出歩けるようになった。仕事も少しずつ戻していき。

一月もした頃には、地霊殿は元の状態に戻っていた。

勿論こいしも自室にずっといろとは言われない。

ちゃんと帰ってくるようにとは、お燐に釘を刺されたが。

あと、もう少し普段は周囲に認識されるようにもしようと決めた。

確かにどうしようもない邪悪なものばかり見て来た。

それで周囲に対して心を閉ざした。

今でも、周囲が如何に狂った世界かは分かっている。

最期の楽園でさえこれだ。

恐らく、この楽園。幻想郷の外は、地獄の鬼でさえ鼻をつまむような世界である事は、こいしにだって分かっている。

それでも決めたのだ。

身近にいて。本気で自分を心配してくれている者を倒れさせてしまうようでは駄目だとも。

姉だって聖人じゃない。

結構図太い所だってあるし。いい加減なところだって時々ある。

だけれども、こいしを心配していたのは事実だ。

過保護だから心配していたのでは無い。

こいしがどういう考えで心を閉ざして。周囲から認識されなくなった経緯を姉は全て知っているし。

何よりも、それがどんな結果を生むか、理解出来ていたからなのだろう。

久々に地霊殿を出る。

こいしを見て、誰だあいつという顔をしていた妖怪もいた。地霊殿関係者や、鬼くらいだろうか。

地底でこいしの姿を知っているのは。

前に散々嫌な思いをしたから、認識されるのは嫌だったけれど。

前よりは、多少姿を露出しようとはこいしも思っている。

勿論弊害もある。

案の定キスメは認識するやいなや襲いかかってきたし。

他にも、何だか知らない奴がいるから喧嘩してみようと、襲いかかってくる妖怪はいた。

いずれも軽くいなしたが。

地上に出るまで、七回交戦しなければならなかった。

命蓮寺に出向く。

戸を叩くと、いきなり認識出来る状態で、しかも正門から入ってきた事に驚かれた。

咳払いをする村紗水蜜。

地底に出入りが多い彼女は、ある程度こいしの事情を知っているし。地霊殿で姉が倒れたことを知っている可能性が高い。

この寺の在家信者であるこいしだ。

中には入れてくれるが。一緒に歩きながら、陸に上がった船幽霊。今風の水軍兵らしい「セーラー服」を着込んだ水蜜は話を聞いてくる。

「いいの地霊殿大変な事になってるって聞いたけれど」

「あはー、知られてるんだ」

「うん。 まあ地底の妖怪には知り合いも多いし」

水蜜は良い奴だ。

元々は凶悪な船幽霊だったが、住職に諭されて改心。今では船幽霊の本能である溺れさせたいという思考を修行によって封じようと努力しているらしい。

それに寺でも、在家出家関係無く良くしてくれる。

「お姉ちゃんはもう大丈夫。 私はちゃんと地霊殿に帰ることを条件に、外に出ている状態かな」

「さとりさんどんな感じだったの?」

「仕事を増やしすぎて倒れてたの」

水蜜が口をつぐむ。

多分事情は知っているはずだ。

だから、口を濁したことも分かっている筈。

良い気分はしないのかも知れない。

こいしは今日、相談をしたくて来た。

いつも何となく修行をしている此処だが。今日は、住職に話を聞いてほしいと思っている。

住職は話をきちんと聞いてくれる。

それについては、こいしも強い信頼感があった。

寺の掃除とかを軽く行う。

修行もする。

精神安定のための修行だ。こいしも、今はこれが如何に重要なのかを理解している。白蓮の見立ては正しかったのだ。

修行が終わった後、白蓮に呼ばれる。

ご本尊の前で、向かい合って座る。

ご本尊は毘沙門天の仏像だ。此処の寺は信仰対象が毘沙門天だから、まあ当然だろう。毘沙門天ご本人が幻想郷に来たら大騒ぎになるので、普段は読経などの際には代理として、毘沙門天から指名されている虎の妖怪、寅丸星が読経を受けるのだが。

こいしも信頼している住職は、最初から地霊殿の話を聞いて来た。

やはり分かっていたのだろう。

命蓮寺は多方向にコネを持つ幻想郷でも屈指の勢力だ。主が元人間でありながら、どの妖怪勢力も一目置いている。

白蓮が幻想郷最強の魔法使いだから、というのだけが理由ではないだろう。

強力なコネによる「攻めることにリスクが大きい」状態を作り出した守りの堅さと。

猛者を揃える事による「攻撃を受けたら無事では済まない」状態を同時に作り出した隠れた爪。

要するに戦略的にものを判断して、強力な勢力を作り出した事を。どの勢力でも甘く見てはいないということだ。

「なるほど。 さとりさんは大変な目に会いましたね」

「私のせいです」

「それが分かっているのなら大丈夫です。 此方でも気を付けましょう。 時々、帰っているのか確認を取るようにします」

「お願いします」

余計なところまで踏み込んでこない。

それが住職のありがたい所だ。

また、こいしが心を閉ざしてしまっていることにも理解がある。

悟りに最も近い境遇だという話についても。或いは、近いが実際にたどり着けるかは別問題という所まで分かっている可能性もある。

最初に思っていたより、ずっと考えているんだなこの人。

こいしは失礼だった自分を反省しながら、話を聞く。

「貴方は何が原因で事件が起きたか、どうすれば以降同じ事件が起きないように出来るのかを理解出来ています。 それならば、私に話を聞きに来た理由は一つしかありません」

「……」

「心を無くした貴方が、行き場のない懺悔を持って来たのは理解出来ます。 しかしそれは貴方自身がどうにかしなければならない問題です」

「……はい」

その通りだ。

こいしは最も信頼している家族以外の相手である住職に、懺悔を聞いてほしかったのである。

そして、どうすればそれが出来るのかも。

白蓮が言ったとおり、分かっている。

ちゃんと帰る。

姿を見せる。

姉の負担を減らす。

それだけだ。

「では、もう今日は戻ってあげなさい。 さとりさんによろしくお願いします」

「住職は地獄とはもっとも無縁に思えますけれど」

「いいえ。 私はまだまだ悟りに程遠い身。 それに、地獄で苦しむ者達の悲しみも、いつか救いたいと願う身です」

そういうものか。

いつか、その願いが叶うと良いけれど。

人間だったら、確実に潰れてしまうだろう。

だけれど、この人はとっくに人間を止めている。

なら、きっと。

頭を下げると、家に。地霊殿に戻る事にする。

姉をあまり心配させたくない。

それは、こいしの本音である。

帰る途中にも、散々妖怪に絡まれたが。それは全て返り討ちにする。昔は暗殺者として怖れられたのに。すっかり忘れられている。

それが良い事か悪いことかは分からないけれども。

それでも、認識される事は。案外悪くないのかも知れないと、こいしは思った。

 

地霊殿に戻った後。

お燐を呼んで、軽く話をする。

今後は、スケジュールを決めて、それに沿って生活したいと。

お燐は驚いたようだが。

少し悩んだ後、手帳を持って来た。

姉のために作ったものらしい。元々は無縁塚に流れ着いた、外の世界のものを手直ししたとか。

それを色々改良したり直したりして。

今では似たようなものを作れるようになっているのだとか。

「お燐一人で管理できる?」

「いえ、さとり様は本当に規則正しい生活をされますので。 それが二人になるのなら何でも無いです」

「……お姉ちゃんって、そんなに規則正しいんだ」

「起きてくる時間はいつも一分もずれません」

そうか。

多分だけれども、規則正しい生活をする事によって。病みやすい精神を、少しでも調整しているのだろう。

心を読めると言う事は。

ドス黒い闇に常に触れると言う事だ。

美しい心に世界が満ちていれば良い。

だけれど実際にはそんな事はない。この幻想郷でも同じだ。人間だって妖怪だって大差はない。

俯くと、軽く話をした。

「やっぱり。 仕事を幾らか引き受けるよ。 お姉ちゃん休みなんか無しで働いているんでしょ」

「それは確かにそうなのですが……」

「私も古明地の妹だし、何より元山の顔役だよ」

「はい、確かに決済の権限はあります。 ただそうなると、ちょっと複雑に……」

だったら、スケジュール管理をする妖獣を増やせば良い。

頭脳労働が出来る妖獣はあまり多く無いが、地霊殿の妖獣を見ていると、さぼってる奴も結構いる。

これは認識されずに見ていたから知っている事だ。

そう説明すると、少し悩んだ後、お燐は姉に説明しに行った。

立場上それは当然だろう。

もちろんこいしも行く。

立場上、当然だからだ。

姉はもうすっかり執務室にまた引きこもっていて。

こいしが来ても、顔を上げるだけだった。

あれだけ探してくれたのに。

少しもやもやする。

だけれど、少しもやもやするだけだ。

お燐が説明をする。

こいしが頷くと、軽く話をする。姉はしばし黙り込んだ後、腕組みをした。幼子の姿をしているのはこいしと同じだが。

ずっと地底の荒くれ達をまとめてきて。

特に大きな問題も起こしておらず。

更に起こしたときには部下を庇って土下座行脚もしたし。

鬼達との折衝も上手にやっている。

「指導者」としての経験が違いすぎる。

それは、ちょっとした様子からも分かる。国家百年の計と言う言葉が人間の世界にはあるらしいが。

寿命が違う妖怪の世界では、文字通り国家千年の計を常に考えなければならない。

姉はそれをしている立場にいる。

だから、こいしとは立ち位置が違うのだ。

「分かりました。 少しずつ仕事を分担しましょう」

「すぐにしよう。 お姉ちゃん、まだ病み上がりでしょ」

「休めというのですかこいし」

「そうだよ。 私に代わりが出来る事は分かったでしょ」

困り顔を見せるお燐。

言いたいことは分かっている。

書類の決算だけが姉の仕事じゃない。書類の決算は別に誰でも、有力者なら代わる事が出来る。

だけれども、もっと厄介なもめ事が、一杯起きるのだ。

この間映姫様が来ていたのは、そういったもめ事を押さえ込むため。

流石に閻魔が来ているとなると、鬼でも大人しくなるし。

キスメのような超問題児でも、実力の異常な差を感じ取って大人しくなる。

そんな事は分かっている。

だけれども、こいしが例えば書類仕事を半分すれば。突発事項で姉が出る事になっても。負担自体はかなり減らす事が出来るのだ。

「こいし。 貴方が知っている通りです。 本質的には、余程の事がない限り、私は此処を離れる事が出来ません」

「……」

つまり、余程の無理をして、離れていたという事だ。

姉が地霊殿にいないと分かれば、悪さをする妖怪もいただろう。

戻って来てはそういう不届き者に対処して。

どんと増えた書類を処理して。

大変だっただろう。

少しだけむずむずするけれども。

それだけだ。

「書類仕事については、幾らか代わって貰いましょうか。 でも、それでも私の負担は根本的には減りません。 それは理解しておいてください、こいし」

「うん……」

「では、お燐。 後でスケジュールを組み替えます。 こいしは下がって部屋にでも戻っていなさい」

これで話は終わりだと、部屋を追い出される。

だから、此処にいたくなくなったのに。

此処の居心地が悪いと思ったのに。

お燐がびくりとする。

こいしが見上げると、青ざめたお燐が、視線をそらす。

何かこいしが怖かったのか。

「何か私変な顔でもしてた?」

「い、いえ。 別に……」

「じゃあなんで怖がってたの?」

「勘弁してください……」

半泣きになるお燐。

こいしは小首をかしげて、そして止めた。

これ以上は虐めになってしまう。

それに、何だかお燐も苦しそうだった。何か、今あったのだろうか。

言われた通り、自室に戻る。

ここ数日で、周囲に自分を認識させているこいしが歩き回っているという話は伝わっているのだろう。

地霊殿の妖獣達は、こいしを見ると、すぐに通路の両脇に下がる。人型の者は敬礼をする。

居心地が悪いなあ。

こいしは、それを見て、思うのだった。

 

4、居心地と心

 

姉の容体が安定したとはいえ、時々永琳は様子を見に来た。姉もお薬を少しだけは貰っているようだった。

つまり完全回復はしていない、と言う事だ。

こいしがその分を支えなければならない。

だから、居心地の悪さを感じながらも、事務仕事をてきぱきとこなした。書類の決裁は難しく無い。

書類の決裁だけなら、である。

面倒事が起きた。

お燐が来て、執務室で作業をしているのがこいしだと気付くと、きびすを返す。

だから腰を上げた。

「私も行くよ」

「えっ、でも……」

「お姉ちゃん病み上がりでしょ。 万が一があったら、お燐で対処できる?」

「……」

お燐は黙り込む。

火車であるお燐は、それほど戦闘力が高い妖怪では無い。スペルカードルールでの戦いは得意なようだけれども、実戦となるとどうしようもない。所詮死体を盗むだけの妖怪である。

戦闘関連に秀でた逸話などもなく。

それがないのなら、大した実力はない。

幻想郷とはそういう場所だ。

姉が部屋から出てくる。

最近は、姉も部屋に閉じこもりでは無くて。永琳に言われたらしいリハビリを地霊殿の中庭でこなしたりしているようだが。

どう見てもあまり動きは良くない。

相手のトラウマを刺激する事で戦いを優位に運ぶ事には定評がある姉だが。

元の能力はお世辞にも高くない。

だから以前何度かスペルカードルールの……本来だったら最も得意としているだろうタイプの戦いでも、不覚を取ったのだ。

お燐が姉に耳打ち。

こいしの方を見る。

こいしは唇をぎゅっと引き結ぶ。

溜息を姉はついていた。

「分かりました。 一緒に行きましょう」

「お姉ちゃん、いいの」

「かまいません。 どうせ厄介極まりない内容ですから」

「うん!」

ちょっと心が揺れる。

だけれど、ちょっとだけだ。

いつものへらへらした笑顔を浮かべたまま。それは地霊殿のあっちこっちに鏡があるから分かる。

だけれども。こいしの顔は表情筋が死んでいて、笑顔を作っているだけである。

そういう意味では、命蓮寺にいる秦こころと同じだ。

あっちはあっちで表情筋が死んでいて無表情だが。

こいしも同じなだけである。

地霊殿を出る。

ドンと、何処かで大きな音がした。

地底では戦いがしょっちゅう起きている。肉体が破損しても死なないし、戦闘が娯楽になっている場合も多いからだ。

今新市街として開発している辺りでの戦いは御法度となっているが。

それ以外の荒れ地や、開けた場所では。しょっちゅう鬼同士や、或いは強めの妖怪が、力比べをしている。

そういう所では、地底に来ている元山の四天王。星熊勇儀や、伊吹萃香が。元の名に恥じない武勇を見せつけていることもある。

今日はちょっと様子が違う。

急いで飛んで駆けつける。

姉は無表情のままだが。リハビリをしているくらいだ。まだ万全ではないだろう。

こいしが補助しなければならない。

お燐に耳打ちして、周囲からの認識を断つ。

困った顔のお燐だったが。

いざという時の不意打ちを防ぐには、これが一番良い。

暗殺に幻想郷で最も向いているこいしだが。

その次に向いているのは不意打ちだ。

相手が妙なそぶりを見せた場合は、背後から一刺しである。姉を守るためには、それくらいはしなければならない。

降り立つ。

開発地区の一角で、大柄な妖怪同士が喧嘩していた。

それもスペルカードルールでは無くとっくみあいである。筋骨たくましい大男の妖怪二人がだ。

両方とも鬼では無いが。

武勇自慢の妖怪同士だ。その争いは凄まじく、周囲は阿鼻叫喚の様相である。

辺りにはバラバラになった建物の残骸。

木材だってタダでは無いし、仕入れるのは結構大変なのに。

書類仕事でそれを知っているこいしは、とても残念だと思った。

姉とお燐が来るのを見て、妖怪達は跳び離れる。

流石に、地底のまとめ役に楯突く気は無いのだろう。

だが、互いに相当に頭に来ているようで。

離れても、ちらちらと殺気の籠もった視線を交わしていた。

「……」

さとりは二体の妖怪をそれぞれ見る。

話を聞く必要などないのである。

心を読んでしまえば良いのだから。

ただ、少し時間が掛かっている。

恐らくは怒りと殺意で塗りつぶされていて。それで読み取りづらいのだろう。

「二人の言いたいことは分かりました。 どちらにも非がありますね」

「そんな、そいつが……」

「黙りなさい」

こいしが見ていても、姉は毅然としていると思う。

実際こいつらでは姉には勝てない。

人間以上に、精神攻撃を受けることは妖怪にとっては危険な事なのだ。しかもこんな見るからに単細胞な妖怪達。

姉からトラウマ想起を喰らったらひとたまりもない。

不平満々の様子の妖怪達。こいしは少し離れた建物の上から様子を見る。

姉が理路整然と、それぞれの悪い所を指摘する。

黙り込む妖怪達。

全部見透かされるのだから、不平だって抱けない。

だけれども、姉が咳き込むのを見ると、少し驚いたようだった。

お燐がたまりかねたように言う。

「さとり様はあんた達が馬鹿やってるから、無理を押して来てくれたんだよ。 分かっているのかい?」

「……」

その時。

妖怪達は。むしろ凄惨な笑みを浮かべたように、こいしには思えた。

姉が弱っていることを知ったからだろうか。

秩序が弱まっている。

それはこの手の輩には、好ましい事なのかも知れない。

仕方ない。

こいしが出るか。

「おっと、何か余計な事考えてない?」

「ひっ!」

一人の背後に出ると、ナイフを背中に当てる。もう一人も、それに気付いて一瞬で背を伸ばした。

こいしのナイフはただの刃物に見えるが、実際には高密度の呪いの塊を纏っている。

これで突き刺すと、屈強な妖怪だろうが何だろうが、肉体を簡単に貫通する。

勿論殆どの場合致命傷である。

それは地底でも知られている筈だ。

そもそも姉とこいしでは怖れられ方が違う。

姉は恐怖の支配者。

こいしは絶対必殺の暗殺者。

今、姉が弱っているなら。こいしがこうやって補助をしなければならないのである。

今の一瞬で完全にくだらない気を無くした妖怪ども。これでいい。

「とりあえずお燐、星熊さん呼んできて?」

「あたしなら此処にいるよ」

酒の入った杯を手にしたまま、地底の顔役。古明地姉妹に次ぐ地底の指導者として動いている鬼。元山の四天王、星熊勇儀が姿を見せる。しかも、配下の鬼十数人と一緒に、である。

ああ、終わったなとこいしは思った。

単純な腕力なら鬼の頭領である伊吹萃香以上とも言われる星熊である。あまりにも強すぎるので、常に杯を片手に持って大きなハンデをつけている程だ。

そして、気も短い。

豪腕が振るわれる。

元々長身の星熊は、完全に真っ青になっている妖怪二人を、殆ど一瞬の間に叩き伏せていた。

ため息をつく姉。

「其処までしなくても良いんですよ、勇儀さん」

「病み上がりなんだから、こっちに任せておけば良いのに。 或いはそっちにか?」

星熊がこいしを見る。

何となく、申し訳なく思う。

事情を聞く星熊。

恐ろしい笑みを浮かべると、完全に泡を吹いている妖怪を二人とも軽々引きずって去って行く。

さぞや恐ろしい仕置きが待っているだろう。

この辺りの新開発は、鬼が主体になって行っているのだ。

その開発の一部を無茶苦茶にしたと言うのは、それは鬼の顔に泥を塗るのと同じである。それは星熊だって怒る。

ただ、地底の妖怪はそれすら計算できないような輩ばかりだ。

だから地底に来ているのだ。

「戻ろう、お姉ちゃん」

「はい。 無意味な時間を過ごしましたね」

無意味か。

確かに少し待っていれば、星熊が来た。

だけれども、姉がすぐに来なければ、あの妖怪達はその場を逃げ出した可能性もある。無意味だとは思わない。

地霊殿に戻ると、姉は部屋に戻る。

多分余り具合が良くないのだろう。

こいしがそのまま、後の仕事も代行する。

書類仕事ばかりだが。

姉が眠りに入ろうとするや否や、また荒事が起きた。

今度は姉に声だけ掛けて、こいしだけで出る。

姉がまだ病み上がりの内は。

こいしが、荒事だらけの地底の問題を、解決しなければならなかった。

 

更に一月ほどして。

やっと、姉の体調が正常な状態に戻った。

しかし地霊殿の仕事は、引き続きこいしが一部を負担することに決める。また、地霊殿にいる時は、周囲に存在を認知させることでも話をした。

姉はそれを聞くと。

喜んでくれた。

無駄が減るからだろうか。

それとも、こいしがいる事が分かるからだろうか。

もう、こいしには心は分かっても。正確には認識出来ない。

第三の目は閉じてしまったから。

やっと、外に遊びに出る暇が出来たけれど。

それも、時間を今後は限る必要がある。

時計を貰った。

地上で、河童から買った物だという。昔に買ったので、かなりふっかけられたそうだが。壊れないことに関しては確かだそうだ。

地上に出る。

久々に命蓮寺に出る。

最近は、周囲に自分を認識させながらフラフラしていたが。今後は地上では、命蓮寺などの限られた場所でだけ、そうしようと考えている。

命蓮寺では、まず住職に会って、礼を言う。

何も礼を言われるようなことはしていないと住職は言うが。

不用意に心の大事な部分に踏み込んでこなかったり。

感情論で攻め立てなかったり。

そういう事だけでも、有り難かったのだ。

それから、時計を見せて。

今後は来た時も、指定の時間が来たら帰ることを告げる。

頷くと、住職は周知すると言ってくれた。

寺での生活はとても規則正しい。

今までこいしは殆ど実際には仏教そのものにも興味が無かったし。実際問題、在家信者という形で仏教徒になった今でも、本当に仏がいるかは怪しいと思っている。

だが住職は好きだし。

此処でなら、規則正しい生活を学べるかも知れない。

心を閉ざして認識を阻害するようになった今でも。

ダラダラ生きていては駄目だと言う事が、今回の一件でこいしにもよく分かった。

だから、その辺りを改善したいとも住職に言って。

快く受け入れて貰った。

勿論、時間が来たら地霊殿に戻るつもりだ。

きっとだが。

姉は世の中の何もかもが嫌になったこいしのことを、誰よりも正確に理解していたのだろう。

だからこそに、時間と身を削ってでも探しに来たし。

倒れるまで無茶をしてしまったのだ。

寺で、皆に交じって生活をする。

実は結構頻繁に来ていたのだが。認識阻害を解除すると、そう認識されていないことが分かった。

結構気付いていない人は多かったのだ。

特に力が弱めの妖怪達はそのようだった。

今後は、彼女らとも仲良くして行きたいものだ。

きちんと時間通りに生活して。

一緒にお掃除洗濯炊事と、お寺での生活を規則正しくこなして行く。

規則正しい生活というのは本当に面倒くさいと思ったが。そうしてこなかったから、姉を倒れさせてしまったのだ。

あの倒れた姉の姿を見て、閉じたはずの心も揺れた。

無くなったはずの心が、震えた。

それくらいの衝撃だった。

精神生命体だから、なのだろう。

結局心を閉じても、それを無にすることは出来ない。不便な体質だなあと思うけれども。

失敗は失敗として受け止め。

二度とやらないように、努力を重ねていかなければならないと、こいしは思うのだった。

「そろそろ時間ですよ」

「おっと、ごめんなさい。 帰ります」

住職に声を掛けられたので、修行を切り上げる。

一日規則正しく生活すると、少し肩が凝る。ただ、空気は悪くない。居心地はいい。地霊殿よりも、こっちの方が良いくらいだ。

抹香臭いとかいう輩もいるが。

屁理屈をこねくり回して実際には煩悩だらけの坊主の寺は、そうなのかも知れない。

命蓮寺は違う。

こいしみたいな存在、他では絶対に受け入れてくれないし。理解だってしようとはしてくれない筈だ。

住職はしっかり理解してくれたし、受け入れてもくれたし。話も聞いてくれる。

その上で、怒ることもなく、的確なアドバイスをくれた。

此処の在家信者をやめるつもりはない。

仏教に興味が無いのは今も同じだが。

それとこれとは話が別だ。

恐らくだが。命蓮寺の出家信者の妖怪達も、同じように考えている者がいるのではないのだろうか。

今は心を閉ざしているし。相手の心を正確に読むことだって出来ないが。

まださとりの妖怪の本能で。

少しは分かるのだ。

妖怪の山の穴から潜って、地霊殿に到着。途中で他の妖怪を襲おうとしていたキスメにおしおきをしておいた。何も分からない所から来る攻撃に右往左往していたキスメが、悲鳴を上げてとうとう逃げ出す姿は、他の妖怪が驚いている程だった。あのキスメが鬼以外の相手に逃げていく。それが不思議だったらしい。

地霊殿に戻ると、また認識を戻す。

周囲の妖怪達は、通路の端にどくか、更に敬礼をしてくるので、色々と肩身が狭い。姉の部屋に行って、帰った事を告げる。

姉は待っていたようで、一緒に食事をしようと言ってくれた。

寺のご飯もおいしいのだけれども。

此方で食べるのも気分的には悪くない。

ただ、衛生面では間違いなく此方は問題がある。

料理をしているのが妖獣ばかりだし。

新鮮な食糧も手に入りにくいからだ。

だから基本的に保存食が主体になる。

人間の畏怖を食べる事も出来るのだが。何しろ地底に移ってしまったので、それは中々やりづらい。

人里では、地底の存在を知らない者も珍しく無いのだ。

妖獣の一人が料理をしてくれたので、テーブルを姉と囲む。普段と同じ仏頂面だが、姉はやはりいつもより喋った。

一人で食べる方が好きな人もいるらしいが。

姉は違うらしい。

ただ、こいしには。食事はともかく、この料理はちょっと不満だ。

「やっぱり寺の食事の方がおいしいなあ」

「寺の料理は肉も入っていない味気ないものだと聞きますが」

「ううん、命蓮寺のは何かおいしいよ。 お寺の料理を工夫することで、戒律破りをする気を無くす意図もあるんだって。 料理も美味しくなるように研究しているみたいだし、本来のお寺の料理だと足りない栄養も人工蛋白とかいうの使ってて……」

「ああ、それについてはこの間会議に出て話を聞きました。 栄養面でもきちんと考慮をしているのですね」

それでも、時々寺の面子が、人里の料理屋で肉を食べているのは内緒だ。

あれだけ美味しいものをいつも食べているのに。

やっぱり、どんなにおいしくてもたまに本物を食べたくなるのかも知れない。

「今度時間を作って私も行って見ましょう」

「お姉ちゃんが?」

「こいしがここのよりも美味しいというのですから、研究はしてみる必要があるでしょうし。 それに、此処の子達も、美味しい料理を食べれば悪さをしなくなるでしょうしね」

何人かの妖獣が、姉の声ですくみ上がるが。

まあそれもそうだ。

地霊殿で美味しいご飯が食べられるのなら、確かに悪さをする頻度は減るだろう。

それにしても、きちんとした生活をするのは案外良いかも知れない。

姉は笑ったりはしないだろうが。

それでも、もう無茶はしないだろうから。

 

(終)