多々良小傘酷い目にあう

 

序、明るい場所

 

ふわりとスカートをたなびかせて、丘に降り立つ。

周囲は夕暮れ。

唐傘お化けの多々良小傘は、しばらくじっと丘の下を見ていたけれど。溜息しか零れなかった。

今日も騒がしい。

そして、昔に比べて露骨に明るい。

小傘が住んでいるのは幻想郷という場所だ。此処は外と結界で隔離されている、妖怪の最後の楽園とも言える場所。

よそと違って。

人間よりも妖怪の立場が上の。

少なくとも、この国では。

最後の場所だ。

人間は妖怪を怖れ。

妖怪は人間を怖れさせる。

そして人間が恐怖に打ち克って妖怪を退治する。

そういうルールがいまだ生きている異境。山だって一つしか無い狭い土地。

だからこそ、唐傘お化けなんて古くさい存在が生きていられる。

更に、此処幻想郷では、妖怪は余程低級だったり成り立てだったりでもしないかぎり、人の形を取る。

小傘も例外では無く。

水色の髪と。赤と水色に近い青のオッドアイ。子供相応の背丈の人間そのままの姿をしていた。

手にしている紫色の傘も小傘の一部で。

唐傘お化けらしく、大きな目と、だらんと垂れた長い舌。そして柄の下には下駄がついている。

小傘自身も水色と白を基調とした服を着て、素足に下駄を履いているけれど。

「唐傘お化け」になった頃にはこの姿になっていたし。

そもそも幻想郷の外では、多分今小傘が握っている傘のような姿になっていたのだろう。

人の姿をしている仕組みは、小傘にはよく分からなかった。

もう一度ふわりと浮いて、丘の下。

人里に向かう。

幻想郷にも人間は住んでいて。

対立しているように見せて、実際には妖怪と一種の互助関係にある。

妖怪の中には、本当に人間を食べてしまうものもいるけれど。今は殆どそういう事も無い。多くの場合、妖怪は人間の恐怖や畏怖といった心を食べて、存在を保っている。一方で人間は妖怪の長達に管理を任せて、比較的緩やかな生活を送っている。

小傘は人間を驚かすことでおなかがいっぱいになる妖怪だ。

人間の肉を食べる妖怪もいる。

人間の心を食べる妖怪もいる。

そういう区別である。

もっとも、人間の肉「しか」食べない妖怪は殆どいないし。いたとしても幻想郷を管理している一人であるおっかない博麗の巫女に退治されてしまう。多くの妖怪は、人間を怖れさせるだけで存在し、それで満足している。

人里に出入りしている妖怪も、小傘だけでは無く。

中には堂々と住んでいる妖怪までいる。

夜になると、昔は怖れられていた妖怪が酒場に出向いて、人間と宴会をしていたりもするけれど。

小傘にはあまり関係のない話だった。

人里に降り立つ。

そろそろ陽が落ちる頃。

此処に来るのは久しぶりだ。

というのも、最近小傘は人里近くにある「命蓮寺」というお寺の墓場に住み着いていて。其処で人を驚かせて空腹を癒やしていた。

今の時代、普通唐傘お化けなんて怖がる人間はいない。

だけれども、人間は暗ければ、簡単に驚いてくれる。

墓場ならなおさら。

だれだったか、昔のお坊さんが。

夜道で犬に飛びつかれて。

猫又に襲われたと大騒ぎしたとか、そんな話が残っているけれど。

そういうこと。

どんなに人間を驚かせる技術が稚拙でも。

どんなに悪意が無くても。

暗闇だと、或いは日常の場で無いと、人間は簡単に驚いてくれるものなのだ。

周囲を見ると、やっぱり明るい。

夕方でも、あからさまに昔より明るいことがよく分かる。

人里がこんなに明るくなってしまった今。小傘が人間を驚かせることはとても難しくなってきているのだ。

ましてや、少し最近人里が騒がしくて。

墓場にも誰も来なくなっている。

何があったのだろう。

そう思ったのもあるし。

何より、ひもじくて仕方が無くて。

何とかならないかなと思って、様子を見に来たのだけれど。

険しい顔をした大人達が走り回っていて。

小傘には目もくれなかった。

あれは人里の自警団だろう。

何かがあったのは、ほぼ間違いない。

普段だと、このくらいの時間だと、子供もまだ遊んでいて。

小傘を見つけると、遊んで欲しいとせがんでくることも多い。

小傘は子供が好きだし嬉しいのだけれど。

今は子供でさえ、唐傘お化けには驚いてくれないので。

それはそれで寂しかった。

「おい」

不意に声を掛けられる。

振り返ると、モンペを履いて、両手をズボンのように突っ込んでいる女性が立っていた。長い髪は真っ白。目つきは鋭く、一目でもの凄く強い事が分かる。若々しい見かけだが、小傘にはこの人が見かけ通りの年齢だとは思えない。何だか妙な落ち着きというか、年を経た雰囲気があるのだ。幻想郷には見かけと年齢が一致しない存在がたくさんいるし、小傘自身が何よりそうなので、多分見立ては間違っていないだろう。

彼女は藤原妹紅。

良くは分からないけれど、一応人間らしい。

人里の外に住んでいて、昔は滅多に人里に姿を見せなかったのだけれど。

最近は色々あった結果、人里に顔を出す頻度が増え。人里の自警団に頼まれて一緒に治安を守っている。

自警団に誘われるのも分かる。兎に角この人、もの凄く強い。

人里にも妖怪に対応出来る人はいるけれど、その人達が束になっても勝てるか怪しいくらい強い。

その上寡黙でほとんど喋らないので怖がられてもいるようだけれど。

小傘を無闇に追い払ったり。

虐めたりはしないので。

嫌いでは無かった。

普段は時々挨拶してすれ違ったりするくらいだけれども。

向こうから話しかけてくるのはとても珍しい事だ。

きっと何かあったのだろう。

「唐傘の、今日は面倒だから人里から離れておけ」

「多々良小傘だよ」

「ああそうか。 じゃあ多々良。 今人里はちょっと面倒な事になっていてな、妖怪には近づかないように声を掛けてる。 お前命蓮寺に住んでいるんだろう? 面倒事に巻き込まれたくなかったら、命蓮寺に戻るんだな」

「何があったの?」

面倒くさそうに舌打ちする妹紅。

ちょっと怖いけれど。

小傘にとっては死活問題だ。

「盗人だ。 妖怪の気配が残っていないから人間のな」

「どろぼう?」

「そうだ。 最初は空き巣程度だったが、どんどん手口がやばくなっていてな、とうとう夜間の外出禁止令まで出やがった。 考え無しにフラフラしてると、殺気だった連中に袋だたきにされるぞ。 しばらくは人里には近づくな」

「ええ……」

おなかの音が鳴る。

そうか、お墓に誰も来ないと思ったら。

そういう事だったのか。

妹紅は小傘のおなかの音を聞くと、一瞬だけ眉をひそめたが。それでも追い払うように手を振る。

「ほら、行った行った。 私も暇じゃないんでな」

「うん、分かったけれど、大丈夫なの?」

「今はまだ押し込み強盗程度で済んでいるがな。 その内殺しにでも発展しないか心配だ」

そういうわけで、皆殺気立っているし。

誰もいないと。

なるほど、それでは墓場にも誰も来ないわけだ。

ただでさえ夜に墓場に来る人なんてあまり多く無いのに。

これでは飢え死にしてしまう。

がっかりした小傘は、肩を落とすと、言われたまま人里を離れる。

此処は妖怪の最後の楽園幻想郷。

でも、必ずしも、「どの妖怪にとっても」楽園というわけではない。

強い妖怪には過ごしやすい場所だ。

だけれども、小傘みたいに人間を驚かすのが下手な妖怪や。

そもそも恐ろしい伝承が無くて、人間に怖れられていない妖怪は。

結構ひもじい思いをしている。

つい最近も、山彦という妖怪が大量に消えたのだけれど。

それも、人里の人間が「山彦は山に音が反響しているだけで実在しない」とか言い出したから。

弱い妖怪はそれだけで消滅する。

人里に住んでいる人間達は。

妖怪にとってあらゆる意味で生命線であり。彼らとの関わりは死活問題なのだ。

姿を示さなければならない。

威を示さなければならない。

そうしなければ。

本当に消えてしまう。

またおなかの虫が鳴く。

小傘は偏食家で、人間が驚いてくれないとおなかが膨れない。そういう体の構造なのだ。お酒くらいは飲めるけれど、お酒は栄養にならない。

そして、人間が、肉体が滅びれば死ぬように。

妖怪は精神が滅びれば死ぬ。

妖怪に精神攻撃が有効なのはそれが理由で。

今、ずっとひもじい思いをしているのは。小傘にとってはとてもつらかった。

妖怪にとって、肉体は壊れても何とかなるものなのだけれど。

精神が壊れるのは取り返しがつかない。

だから、極限の飢餓で苦しみ続ける事は。きっと人間が何も食べなければ辿り着く先と。同じ筈だ。

お寺に戻る。

お寺に住んでいると言っても、勝手に墓場に住み着いているだけ。でもこの寺の住職はとても優しくて。別に仏門に入っている訳でも無い、勿論弟子でも無い小傘がお墓に住み着いていても、追い出そうともしかったりもしなかった。何度か挨拶したけれど。いつも感じの良い笑顔を浮かべているし。仏門に無理に誘われることも無かった。

このお寺は妖怪を広く受け入れていて。

お寺で修行をしている妖怪もいる。それも大妖怪と呼ばれるような強力なのが幾人も。

全滅し掛けた山彦の生き残りの一人も此処にいるのだけれど。

彼女に話を聞く限り、かなり変わった教義を掲げているお坊さんらしくて。

詳しい話は良く分からなかったけれど。とにかく小傘を虐めたり退治したりはしなさそうだ。或いは山彦にも、お坊さんの詳しい考えは理解は出来ていないのかも知れない。

住まわせてくれているのだから、お墓の掃除はする。

もうすっかり暗くなっているけれど。

小傘は、手にしている傘の目でもものを見る事が出来るし。

夜目はとても良く効く。

だから夜に掃除をすることは、まったく苦では無かった。

お墓の中には、知っている名前も見かける。

最近出来たお寺だけれど。

人里の貧しい人の中には、墓をもてない人も今までは珍しくなかったし。

墓があっても危ない場所だったりして。

結局共同墓地を使っている場合が多かった。

今はこのお寺の住職がまとめてお墓を作ってくれて、それで人里の人が利用している。だから、前は無かった人のお墓がたくさんある。

小傘は弱いと言っても妖怪なので。

寿命は普通の人間よりずっと長い。

だからずっと変わらない姿のまま生きてきたし。

自分の目の前で年老いて死んで行く知り合いの人間をたくさん見てきた。

顔だけしか知らない人間もいたし。名前を覚えているくらい親しかった人間もいる。

小傘に優しかった人間もいた。

だから掃除は丁寧にするし。

心も込める。

備えられているお花も取り替えたりしていると。

かなり広い墓地だから、時間はあっという間に過ぎていく。

夜半が回り。

本来なら妖怪の時間だった頃合いが来るけれど。

空に浮かび上がって人里を見ると。

灯りが煌々と点っている。

噂だけれど。

幻想郷の外はこんな次元では無いくらい明るいらしく。

これより明るいなんてと、恐怖さえ覚える。

更に騒ぎの声も聞こえる。

妹紅が警告するわけだ。

あんな中でふらふらしていたら。

殺気だった自警団に何をされるか分からない。

幻想郷にはスペルカードルールという決闘方があるけれど。

そんなものには乗ってくれないだろう。

ちなみにスペルカードルールは、弱い妖怪どころか、幻想郷で最も弱くヒエラルキーが低い「妖精」でも勝てる可能性がある決闘方として人気があり、小傘もそれなりに嗜んでいる。

スペルカードルールだったら、例えばあのおっかない博麗の巫女相手にも勝ち目が出てくるのだけれど。

泥棒や殺気だった自警団の人達はそんなものには乗ってくれないだろう。

ため息をつくと。

ぼんやりと、誰か来ないかなと待つ。

おなかがまた鳴る。

兎に角ひもじい。

そして話を聞く限り。

当面、誰かを驚かせることは無理そうだった。

お墓の一番奥に、閉じられた扉がある。

其処に寄りかかって眠る。

前、此処で、酷い目にあったけれど。

今はもう何も中にはいないし。

同じような目にあうこともないだろう。

空腹に苦しめられながらも、どうにか眠る。

うつらうつらとしていると。

やがて鐘が鳴った。

お寺の朝は早い。

お寺の妖怪達が、動き出したのだろう。

邪魔にならないように、墓地のもっと奥の方に行く。

掃除はしておいたし。

人間が来ても、こんな朝っぱらではどうせ驚いてくれない。

本番は夕方から。

読経の声が聞こえる。

小傘は仏教徒では無いので、意味は分からないけれど。

或いは読経している住職以外の妖怪も。

意味は理解していないのかも知れない。

妖怪でも夢は見る。

うつらうつらとしている内に。

昔の夢を見た。

おどろけ。

そういって、夜道で傘を開くだけで。

みんな驚いてくれた頃の夢。

あの頃は、夜が暗くて。

誰でも簡単に驚いてくれて。

おなかも簡単に膨れて。

幸せだった。

ぼんやりしている内に。

陽が昇る。

少し体をずらして、もっと暗いところに移る。

門の辺りを掃除している音が聞こえた。

 

1、懐かしい暗闇

 

元々形のあるものを食べる訳でも無く。

生活のために何かを買う必要もない小傘にとって。

お金はあまり必要なものではない。

妖怪同士の間でも、お金はやりとりがされるけれど。

それは肉や野菜を食べたり。

消耗品が必要な妖怪にとっての話だ。

そもそも付喪神と呼ばれる、道具が妖怪に変わった小傘にとっては。

代謝もないし。

見かけも自分である程度操作できるから。

お金はあまり必要じゃあ無い。

昼少し過ぎだろうか。

空腹で辛い中起きだした小傘は。ふらふらと墓地を出て、歩き始めた。

人里の様子はどうなっているだろう。

真っ昼間から人里に近づくことはあまりするな。

それは妖怪のルールだ。

少なくとも妖怪と一目で分からないように変装しろ。

そうも言われる。

人里に住んでいる妖怪もいるけれど、それは長い時間を掛けて受け入れられたり、或いは半分妖怪半分人間だったりして。いずれにしても、人間に配慮して生きている。

妖怪とあからさまに分かる存在が、真っ昼間から人里に行くのは避けるべき行為。分かっているのだけれど。

だけれど、ひもじい。

状況くらいは確認したい。

小傘よりだいぶ背が低い山彦、幽谷響子が。小傘に気付いて声を掛けてくる。墓を出ると、どうしても彼女が掃き掃除をいつもしている門の辺りを通る。いるならば、確実に会う事になる。

「おはよーございまーす!」

「おはようございます」

声が大きい響子は、誰にでも友好的だ。もうおはようという時間では無いけれど、笑顔で挨拶を返す。

響子は仲間がみんな消えてしまって、世をはかなんで出家したらしいけれど。

今でもいつも明るく、誰にでも大声で挨拶をする。

ちょっと今の状態で、頭に響く挨拶をされるときついのだけれど。

悪意が無い事は分かっているので、笑顔で返す。

響子は人の姿をとってはいるけれど、それはそれとして、犬っぽい耳と尻尾を持っていて。何よりもいつも楽しそうにしているので。

子供が好きな小傘は、彼女のことが嫌いでは無かった。

なお響子自身は結局仏門に入って修行をしているのが若干退屈らしく。

時々山の方に行って、世の中に不満がある妖怪仲間と一緒に夜中に騒いでいたらしいのだけれど。

この間住職に見つかって、たんまりしかられたらしく。

最近は、夜中に山で騒ぐことは自粛しているようだ。

「何処かに出かけるんですか?」

「人里の方を見に行こうと思って」

「こんな時間から?」

「ひもじくて」

響子も知らないらしいので。

事情は話しておく。

盗人と聞くと、響子も驚いたようだった。

彼女は特性上、わざわざ人に近づかなくても良い。

消滅の危機を逃れた後は、誰かにアドバイスを受けたのか、山で読経をしているらしく。

それが人里に伝わって、「やっぱり山彦はいた」「誰もいない所からお経が聞こえる」と怖れられている。

当然響子も人間の心を糧にするタイプの妖怪なので、今は消滅どころかつやつやしているほどである。

羨ましい。

「大丈夫? 住職か親分に相談したら?」

「大丈夫。 自分で何とかしてみるよ」

響子が親分と呼んでいるのは、寺に食客として住んでいる大妖怪だ。外の世界から最近になって来た(つまり結界を通ることが出来る)大妖怪で、外ではタヌキの妖怪の大顔役らしい。外の世界で現役の妖怪というだけでも凄いのだけれど。結界を通ることが出来ると言う事でも、その実力の計り知れなさがよく分かる。

幻想郷でも裏の世界で順調に勢力を伸ばしているらしく。

誰の相談にも乗ってくれる事から。

力の弱い妖怪やタヌキの妖怪を集めてどんどん手下を増やしているそうだ。

元々はこのお寺の住職の弟子の一人が、ある事件の時に助っ人として呼んできたらしいのだけれど。

今ではすっかりお寺にいついて、住職の参謀みたいな事をしている。

ただ、そもそも仏門に入って、なおかつお寺の役に立っている響子だから、話を聞いてもらう資格はあるだろうというだけ。

小傘は勝手にお墓に住み着いているだけ。

何もお寺のためになる事なんてしていない。

とてもではないけれど、相談を聞いて貰うなんて事は出来ない。

そのまま、お寺を後にする。

空を飛ぼうと思って、傘を広げたのだけれど。

違和感に気付いた。

手にしびれが走ったのだ。

すぐにしびれは消えたけれど。

浮くのも少し難しい気がする。

ひょっとして。

空腹による精神的なダメージが、無視出来ないレベルで出てきたのかも知れない。

口を引き結ぶ。

響子に頭を下げて、親分に話を聞いて貰うべきなのだろうか。

それとも、住職に土下座をして、話を聞いて貰うべきなのだろうか。

親分も住職もどっちも弱い妖怪に対しては優しいらしいし。

寺の妖怪は、みんな修行は兎も角、住職の事をとても慕っている。

海千山千の妖怪達に慕われるほどの存在だ。

何か、解決案が出てくるかも知れない。

でも、勝手にお墓に住み着いているだけの小傘には、そんな事をする資格は無いだろう。土下座をしても、門前払いが良いところではないのか。むしろ、今まで好き勝手に墓を荒らしてと、怒られるのではないのだろうか。

一度だけ、お寺の方を見る。

だけれど、それだけ。頭を振って、意識を集中して飛ぶ。

空を飛べる妖怪は珍しくない。人間でさえ空を飛ぶのが幻想郷だ。

小傘はあんまり速くは飛べないけれど。

今日は何だか。

いつもより、更に速度が出ない気がした。

 

人里の近くに降りる。

空を飛んでいるときも調子が悪くて。

少し速度を落としていたのだけれど。

子供が何人か見えたので。

丁度良いと思ったのだ。

子供達は田んぼの畔の辺りで、何か話をしているけれど。小傘に気付くと、手を振って来た。

笑顔。

子供は小傘を見ると喜んでくれる。

それは嬉しい。

だけれども、驚いてはくれない。

それは悲しい。

昔は頼まれてベビーシッターをしていた時期もあったのだけれど。妖怪にベビーシッターをさせるとは何事だ、みたいなことを言い出した親がいたらしくて。それでベビーシッターは出来なくなってしまった。

子供が好きだったので、悲しかったし。

何より赤ん坊は簡単に驚いてくれるし、笑ってくれるしで。

接していてとても楽しかったので、余計に辛かった。

だから、せめて夕方や、人里の近くで。

子供達と遊べるのは。

おなかは膨れないにしても、小傘にとっては嬉しい事だった。

「どうしたの、人里の外に出てきて。 畑仕事?」

「畑仕事なら、ほら、あれ」

「ああ、あれね」

大きな機械を、大人が動かしている。

幻想郷の結界は完璧では無く、所々にほころびがある。特に無縁塚という場所が非常に緩く。其処へ外の世界から流れ着く機械が時々あるのだけれど。

高い技術力を持つ河童達がそれを修理して。

人里の人間が買い取って使っている事がよくある。

あれは「こううんき」とかいうらしくて。

田畑を耕すのが、使うと随分楽になるらしい。

確かに見ていると、ぐるぐるまわるからくりが動いていて、人が乗っているだけでみるみる田畑が耕されているけれど。

ちょっとパワフルすぎて、からくりに巻き込まれたら怪我では済まなさそうだ。

時々河童も乱暴な道具を作るけれど。

外の世界では、ああいう乱暴そうな道具がたくさんあるのだろう。

「ねえ、遊んでよ、小傘お姉ちゃん」

「いいよ。 何する?」

「ボール遊び!」

漠然としているけれど。

まあボールでも投げ合うのだろう。

別に構わない。

ただ、此処だと危ない。

あの「こううんき」とかに巻き込まれると、ボールも壊れてしまうだろうし。

子供は考えるより先に体が動くので。

そのまま「こううんき」に巻き込まれてしまうかも知れない。

かといって、人里から離れすぎると。

妖精に悪戯されたり。

妖怪に襲われるかも知れない。

少し思案した後。

ちょっと離れた丘にいく。

此処ならボールが飛んでもどこに行ったかすぐに分かるし。

子供から一瞬目を離しても、即座の危険はないだろう。

人里の外に出た人間を襲うことは妖怪の義務になっているが。

それはあくまで妖怪の縄張りに入った場合の事で。

しかも夕方以降の話。

小傘みたいに人里で驚かす妖怪もいるけれど。

無害なやり方でなければ退治されてしまう。

こんな真っ昼間に、人里が見えているような場所で人間を襲ったりしたら。

多分その場であの恐ろしい博麗の巫女が飛んできて、けちょんけちょんにされてしまうだろう。

考えるだけで恐ろしい。

ボール遊びを始めるが。

たまに外から流れ着いた人が、外の世界での遊びを教えてくれたりもする。

それらが色々混じり合って。

子供達は好き勝手にボールを使って遊ぶのが通例だ。

前はサッカーというのが流行ったが。

今はそれも廃れたし。

何よりサッカーには人数が足りない。

適当にボールを投げ合って。

とれなかったら負け見たいな漠然としたルールで遊び始める。

子供は兎に角すばしっこいので。

小傘は遊びながら、しっかり誰かが何処かに行ってしまわないかを確認していた。

ボールが来るので。

傘を開いて、ふわっと受け止めて見せる。

わっと子供達が驚く。

ちょっとだけおなかが膨れて、少しマシになった。

別に驚かそうと思ったわけでは無いのだけれど。

遊んでいて子供が小傘の妙技に驚いてくれることはあるので。

狙って出来ることでは無いけれど。

嬉しいと言えば嬉しい。

ぽんとボールを打ち上げて。

傘を閉じて、先端部分に乗せて、くるくる回してみせる。

子供はもっと喜ぶ。

えいと、声を掛けて打ち上げて。

一人の手元に落とした。

そのまましばらく走り回って、ボールをなげっこしながら。

誰もはぐれたり、いなくなったりしないように確認する。

様子を見ている親もいるけれど。

どうも小傘は無害と認識されているようで。

文句を言う人はいなかった。

たまにおっかない大人に怒られたりもするので。

ひやっとする。

「人里の中でも広い場所はあるのに、どうして出てきたの?」

「だって今、大人が外に出るなって五月蠅いんだもん」

「夕方になると、家の中に閉じ込められるんだよ。 それに夜中ずっとばたばた走り回ってるし」

そうか。

まだ盗人が捕まっていないんだ。

それがすぐに分かったので、適当な頃合いを見て、子供達を人里に送る。

少し遊び足りなさそうにしていたけれど。

こればかりは仕方が無い。

人里の門で、見知った顔に会う。

妹紅だ。

門の壁に背中を預けて、腕組みして無言で立っている。

目つきは鋭くて、子供達が萎縮するのが分かった。

小傘の服の袖を掴む子もいた。

「あ、あの。 怒らないであげて?」

「怒らねーよ。 しっかり監督してるのは見てたしな。 それに私は子供を怒るのが苦手だしな。 そういうのは慧音の仕事だ」

慧音先生か。それなら適任だろう。

彼女は人里にいる妖怪の一人(正確には満月時に変身する獣人)で、寺子屋で子供達に勉強を教えている。

怒らせると兎に角おっかないらしくて。

子供達は慧音先生の名前が出てくると、ほぼ絶対服従である。

なお妹紅と仲が良い数少ない人だそうだ。

時々二人で言葉少なに会話しているのを、小傘も見かける事があった。

「ほら、今日はもう遅いから、慧音に怒られたくなかったら家に帰れ。 多々良に遊んで貰ったんだしもう良いだろ」

「うん……」

若干不満そうだったけれど。

それでも子供達は家に帰る。

慧音先生の名前を出されると、そうせざるを得ないのだろう。

小傘は少し悩んだ後、切り出す。

「もう少し、子供達を遊ばせてあげたら? たまたま私が見つけたから良かったけれど、悪意のある妖怪に襲われたら大変だよ」

「多少の息抜きは必要だと思ったから、お前がしっかり監督しているのを見て連れ戻すのを止めたんだよ。 子供全員に目を配って、しっかり全員と遊んでやっているのは私の方でも見ていたから、好きにさせていた」

「見てたの?」

「途中からあの子供らの親が自警団に来てな。 私が空から探して見つけた。 広くて迷惑にもならないし、妖怪に襲われても逃げられる場所に子供を誘導している辺りからな」

そうか。

全部見られていたのか。

妹紅も普通に空を飛べることは知っていたけれど。

子供に目を配っているのが精一杯の小傘には、気付くことが出来なかった。

畑仕事をしていた人が帰ってくる。

少し早めに切り上げたのかも知れない。

一礼だけする。

かなり年は行ってしまっているおじさんだけれど。

昔遊んであげた子供の一人だ。

たまに小傘に話しかけてきて、他愛が無い話をしたりもする。

今では農夫として奥さんももらって、立派にやっているようだ。

おじさんが通り過ぎると、妹紅と話を再開する。

「まだ、やっぱり盗人は捕まっていないの?」

「ああ。 だが犯人候補は残り数人にまで絞った。 もう少しで捕まえられそうなんだが、とにかく狡猾な奴でな。 自警団のプライドばかり高い連中に足を引っ張られて苦労している」

「どんな妖怪にも勝てそうなのに、盗人には苦労しているんだね」

「流石にどんな妖怪にも勝てるとまではいかねえよ。 この幻想郷にはバケモノじみた奴が幾らでもいるからな」

咳払いすると。

妹紅はいう。

しばらく盗人騒ぎが続いたからか。

ああいう風に、抜け出す子供が出始めているという。

それはそうだろう。

幾ら危ないからと行って、流石に遊ぶなと言うのは酷だ。

子供達も寺子屋に行っている時間以外、全部それぞれの家にいろと言われたら、それは退屈だろうし。

酷なことだと思う。

「子供が抜け出したら、その都度探すがな。 もしお前の方で見つけたら、人里に連れて帰ってくれるか?」

「うん、構わないよ」

「助かる」

妹紅が人里に戻っていく。

多分また自警団で、泥棒をどうするか話し合うのだろう。

妖怪退治を出来る人間では、幻想郷でも上位に入る人だろうに。盗人には散々手こずらされているのを見ると。

本当に怖いのは何なのだろうと。

小傘は思ってしまう。

さっき子供達がちょっとだけ驚いてくれたので、少しひもじいのはましになった。

だけれども、この様子では焼け石に水だ。

妹紅はああ言っていたけれど、盗人がそんなに簡単に捕まるとは思えない。

どうするべきなのか。

真剣に考える方が良いだろう。

それにだ。

子供達が、退屈で人里を抜け出す事が増えているという話が気になる。

子供達だって、人里の外にはどれだけ恐ろしい妖怪がいるかは知っている。

本当に人間を食べてしまう妖怪だっている。

それに、妖怪よりは力が劣るけれど。

悪意無く人間に悪戯を仕掛ける妖精も、子供には場合に寄るけれど立派な脅威になる。

知っている筈なのに、子供達が人里の外に出てきていたと言う事は。

余程退屈していると言う事だ。

このままだと、大きな事故になるかも知れない。

お寺の墓場で暮らしているから知っているけれど。

大人になれなかった子供の墓だって、たくさんある。

病気だったり。

怪我だったり。

そして、妖怪に食べられたり。

妖怪らしくない考えなのかも知れないけれど。

子供が可哀想な目にあうのは嫌だ。

そう考えていると、少し心配になって来た。

ふと気付くと、もう夕方になっていた。

飛ばずに歩いていたら、こんな時間だ。

遠くを見ると、妖精がきゃっきゃっと黄色い声を上げて遊んでいる。

自然の力が人間の形を取った妖精は、人間よりもだいぶ小さい。掌サイズのものから、子供くらいの背丈のものまでまちまちだけれど、共通して基本的に背が低い。

妖怪と違って人間に怖れられる必要がない妖精達は。

自然さえあれば何処にでも沸くし。

中には人間の子供と混じって遊ぶものもいる。

だけれど基本的には悪戯が好きで。

子供と同じ程度の頭しかないため。

時に致命的な悪戯をする。

幻想郷ではもっとも力が弱い種族である妖精だけれど。

妖術や魔法を使うものもいるし。

ごくごく希に妖怪並みの力を持っている者もいる。

人里の方を見る。

結構人里に近い所なのに。

妖精が出てきていると言う事は。

多分人里の外に出ている人間が少ないことを、妖精達は敏感に察知しているのだ。

大人になると、妖精がある程度危ない事は分かっているから。見かけ次第追い払ったりもする。

妖精もそれを知っているから、無闇に人里には近づかない。

つまり、こんなに人里に近づいていると言う事は。

今、人里から人間が殆ど出てこないことに気付いていると言う事だ。

好奇心旺盛な妖精は、今が好機と。

普段来られない場所に来て、遊んでいるという事だが。

何だか嫌な予感がする。

妖精でさえ、人里の様子がおかしいことに気付いているのだ。

もしも、もっと悪意がある者が、人里の混乱に乗じようとしたら。

「あ、唐傘お化けだー!」

「本当だー!」

妖精達が、こっちに気付いて、纏わり付いてくる。

笑顔で応じるが。

妖精達は、敏感に小傘が弱っている事に気付いているようだった。

「ひょっとして弱ってる?」

「弾幕ごっこでやっつけてやる?」

「やっつけよう! やっつけよう!」

「受けて立つよ」

少し苦しいけれど、妖精程度なら何とでもなるだろう。

互いに浮き上がると、戦いを始める。

弾幕ごっこというのは、スペルカードルールの別名である。

具体的には威力を落とした術を展開して、その弾幕の美しさを競う決闘方だ。術は展開方法を決めていて、スペルカードという形で宣言して使用する。

そして、これでなら。

弱い妖怪でも、強い妖怪相手に勝ち目が出てくるし。

逆に油断すると、強い妖怪でも弱い妖怪、下手をすると妖精相手に遅れを取る事もある。

何よりも、戦いで致命傷を負うことがほぼ無いのが、決闘方として流行している所以だ。

妖精達は小傘が展開した、雨をモチーフにしたスペルカードの水の弾幕の乱打の前に叩き落とされ、負けを認め、文句を言いながら逃げていく。

手加減しろとか。

ばーかばーかとか言っていたが。

まあこれくらいなら可愛いものだ。

お寺に辿り着いた頃には。

陽も落ちていた。

さっきせっかく少しおなかが膨れたのに。

余計な戦いをしたからか。

更にひもじくなった。

そんな気がした。

 

少し高い所に出て、人里の方を見下ろす。

やはり今日も明るい。

怒号も聞こえる。

やっぱり、まだ盗人は捕まっていないのだろう。

明るいのまでは仕方が無い。

明るくても、どうにか人を脅かせるような場所はある。

何とかそういう場所に潜んで、運良く人を吃驚させられれば。

どうにかおなかは膨れる。

でも、これでは前に妹紅に警告されたとおり。

殺気だった自警団に袋だたきにされてしまうだけだ。

お墓の掃除を済ませると。

明日も人里に出向いてみようと思った。

お墓で待っていても、誰もどうせ来てくれることなど無いだろう。

それならば、人里を抜け出してきた子供とでも遊んだ方が、まだおなかが膨れる可能性がある。

墓場の奥で、身をぎゅっと縮めて眠ることにする。

ひもじい。

目を何度か擦ったけれど。

それでひもじさが解消される訳では無い。

遠くで聞こえる怒号に、身を縮める。

戦いは嫌いだ。

殺し合いはもっと嫌いだ。

その時点で。

小傘は、結局の所。

幻想郷で生きて行くには向いていないのかも知れない。

そして幻想郷の外に出たら。

唐傘お化けなんて時代遅れの妖怪。

あっという間に消滅してしまうだろう。

結局何処にも行き場なんてない。

此処にだって、お情けでいさせて貰っているようなものだ。

住職も本当は怒っているかも知れない。

此処を追い出されたら。

どうすればいいだろう。

嫌われ者の妖怪が最後に行き着く先は、地底と呼ばれる場所だけれど。

彼処は妖怪の中でも、筋金入りの荒くれ者のたまり場だ。

力が弱い小傘なんて、滅茶苦茶に引き裂かれてしまうだろう。

どうにもできない。

ただ、不安しか。

小傘の周囲には存在しなかった。

 

2、獰猛な牙

 

昼過ぎに目が覚める。

何だか昨日より更に体がだるい。

思うように動かないというか。

足下も少しふらついているようだった。

今日は、響子は山にでも行っているのか、門では出くわさなかった。代わりに門で掃き掃除をしていたのは、セーラー服を着て、海軍帽を被った女の子だ。側の地面にはおっきな錨が突き刺してある。

彼女も此処で修行している妖怪で。

確か船幽霊だったはず。

殆ど会話をした事はなく。

挨拶をするくらいだ。

軽く挨拶をして、その場を離れる。

彼女は憂鬱そうだったし。

話しかけて、修行を邪魔するのも悪いなと思ったからである。

修行が退屈だったり辛かったりするのかも知れないが。それなら余計に話しかけたら神経を逆なでするだけだろう。

寺を出た後。

浮こうとして、一度失敗する。

愕然とした。

やっぱり、かなりまずい状態まで空腹のダメージが進行しているのだと見た方がいい。

妖怪でも治してくれる病院があるのだけれど。

其処に行くべきか。

いや。これは明らかに空腹が原因。

どうにもならないだろう。

頭を振って、少し集中した後、もう一度浮かぶ。

随分へろへろだけれど。

それでも浮かぶことは出来た。

何だろう。

冷や汗が流れる。

空を飛ぶのは、昔から苦手でも得意でもなくて。

普通に当たり前のように出来ていたのに。

どうしてか、今は。

少し集中が途切れたら、落ちてしまいそうな気がする。

だから怖くて、普段だったら保っている高度をとれず。

地面にかなり近い所を、ゆっくりと飛ぶ事しか出来なかった。

人里の近くで着地するけれど。

肩で息をついてしまう。

冷や汗が止まらない。

勿論比喩的な意味だけれど。

本当に怖くて仕方が無かった。

何度も額の汗を拭う。汗なんて出ていないのに。多分恐怖からの行動だろう。こんな風な行動を、ただ空を飛んだだけで取るなんて。

昨日、妖精がちょっかいを仕掛けてくるはずだ。

本当に、目に見えて弱っているのが分かったからだろう。

他の妖怪に見つかったら何をされることか。

今は真っ昼間。

流石にこの時間帯から、争い事を起こす妖怪はいないとは思うけれど。

お寺に戻った方が良いのではないのか。

そんな気さえする。

田んぼのあぜ道を歩く。

呼吸が乱れるのが分かった。

息なんて必要ないのが分かりきっているのに。

唐傘お化けに。

どんな息が必要だと言うのか。

人里が見えてきた。

煙が上がっている。

炊煙かと思ったけれど、違う。

もう一度少し無理して浮いてみて、思わずあっと声が出た。

火事の跡だ。

何処かの家が燃やされたらしい。

とてもではないけれど、盗人の話と無関係だとは思えない。

誰も酷い目にあっていないと良いのだけれど。

口を引き結ぶ。

これでは、子供達も人里の外に出るどころじゃないだろう。手をかざして見てみると、人里の門もしっかり閉じられていた。

抜け道も幾つかあるのだけれど。

子供にそれを教えたりしたら、拳骨だけでは済まされないだろう。

これは駄目だ。

帰ろう。

そう思った途端に、人里の門が開いて、大人が何人か出てきた。

みんな知っている人間だ。

いずれも、人里にいる妖怪退治が出来る人間。自警団の中でも特に荒事を得意とする者達である。

何かあったと見て良いだろう。

みんな殺気立っているし、道を譲る。

此方を一瞥だけすると、殺気だった男衆は、何処かへ消えていった。

妹紅がいたら話を聞けそうだけれど。

彼女は人里の方にいるのだろう。

あの様子ではとてもではないが、人里に入る訳にはいかない。

かといって、今の殺気だった人達。

余程の事があったと見て良い。

人里の門がまた閉じる。

非常事態、ということだ。

流石に生命線である畑仕事はやらなければならないからだろう。数人だけ、畑で働いていたが。

どうしたものか。

知っている顔を見つけたのは直後。

心底ほっとした。

「真次ちゃん」

「おや、小傘ねえちゃんか」

「元気にしてた?」

「……いや、俺は元気だがな。 あんた大丈夫か」

真次は昔小傘と遊んでいた子供の一人で、今はもう四十過ぎだ。

前は体も小さくて、遊びの中でも虐められている事が多かったのだけれど。

十代半ばくらいからぐんぐん背が伸びて体格が良くなり、今では人里でも背が高い方である。

元々農作業が好きで、昔から親の事を聞いて真面目に手伝いをしていて。

ある程度体が固まってからはしっかり成長したらしく。

一時期からは完全に虐められることも無くなったらしい。

虐められている様子を見かねて、小傘が助けたことが何回かあったのだけれど。

子供の虐めは大人と変わらず陰湿なので。

其処は随分と苦労した。

みんなで仲良く、とは行かないのがこの世の中だけれど。

少なくとも、真次の事は救えたとは思う。

今は三児の親として、上手くやれているようだ。

それにしても、真次にも不調を見抜かれるとは。どうも余程まずいみたいだ。

「妖怪だから大丈夫だよ。 火事か何かあったの?」

「例の盗人の話聞いているか?」

「うん。 やっぱりその関係?」

「ああ。 火遁っていうんだっけか。 盗んだ後に火を付けやがったらしい。 何とか妹紅さんが家の人は助けたが、全焼だ。 水の術を使う人が間に合わなかったら、周りの家も焼けていたかもな」

最悪だ。

妹紅の言う通り、どんどん手口が凶悪化している。

確か、人里の人間が、最も重い罪を犯した場合は(例えば何人も殺した時)、人を食べる妖怪達に引き渡されるらしいけれど。

これ以上罪を重ねると。

多分その罰を与えられるのでは無いのだろうか。

「さっき、妖怪退治を出来る人が出ていったけれど、あれは?」

「それは知らないな。 火事については間違いなく人間の仕業だし、もしもあれが妖怪の仕業だったら、人里の人間では無くて博麗の巫女が動くだろうしなあ」

そうだろう。

この幻想郷で、博麗の巫女を知らない妖怪なんていない。

圧倒的な戦闘力を持つ、幻想郷の管理者。幻想郷最強の人間とも言われる博麗の巫女。名前の通り、博麗神社という人里から少し離れた所に住んでいる。

この人は単純に怖い。とにかく妖怪に対して容赦が無く、機嫌が悪い場合は手当たり次第に妖怪を退治して回ったりする事もあるらしい。

彼女は「妖怪を人間が退治する」ルールの体現者の一人。

また幻想郷に「異変」と呼ばれる大規模問題が発生した場合。

解決に出向く実働戦力の筆頭である。

異変発生時の戦闘モードに入った彼女は普段より更に危険で、目は赤い光を帯び。

目についた存在は、妖怪だろうが人間だろうが、そればかりか知人であろうとも情け容赦なく叩き潰していくとの噂で。

人里の人間でさえ、異変解決時の巫女には絶対に近づくなと言う話が周知されているとか。

小傘も何度か彼女と交戦して、その度に叩き落とされたことがあるが。

理不尽な理由で毎回叩きのめされるので、怖いと言う感情以外がない。

スペルカードルールでの戦いだったから良かったけれど。

そうでなかったら、何をされていたか。

「多分だが、犯人が外に逃げたか、或いは……」

「幾ら人里を荒らし回った盗人でも、人里の外に潜伏するのは無茶じゃないの?」

「そうだよな。 嫌な予感がするな」

小傘もだ。

兎に角一礼をして、その場を離れる。

最悪の予感がよぎったのは、その時だった。

昨日の時点でさえ。

子供達は、こっそり外に出て、遊んでいたほどだったのだ。

余程退屈していると見て良い。

抜け穴なんて幾つでもある。

小傘でも知っている位だ。

一つを見に行く。

最近も使われている抜け穴で。壁に板を立てかけて、隠すようにしている。板をごくごく最近動かした痕があるどころか。あからさまに、此処を使った形跡が、地面に残されていた。

最悪だ。

あの男衆。

遊びに出かけた子供を探しに出たのだろう。

妖精が人里の近くに来ている状況である。

もしも人を食いたいと思っている妖怪がいて。人里を狙っていたら。

でも。

そもそも、幻想郷では。

妖怪は人を襲うものだ。

人は妖怪に怯え。

その「怖れ」によってこの幻想郷は維持されている。

今、小傘は。

知り合いの子供が食べられたら、という最悪の予想をしたが。

それでも、「子供を食べた妖怪は」「正式な手順に沿って正式な人間が退治する」事が基本になる。

博麗の巫女が動いている様子が無い以上。

小傘が出る幕では無いし。

ましてやルール通りに動いている妖怪の邪魔をしたりしたら、幻想郷のルールそのものに喧嘩を売るも同然だ。

そんな事をしたら。

博麗の巫女どころか。

もっと恐ろしい、幻想郷を支配している「賢者」と呼ばれる最上級妖怪達が仕置きしに来かねない。

そうなれば、確実に殺されるだろう。

どうする。

博麗の巫女が住んでいる神社に助けを求めに行くか。

おっかない巫女だけれど、人を助けるためなら動いてくれるかも知れない。

顔を上げて、太陽を見て気付く。

間に合わない。普段なら兎も角、まともに飛べもしない今の状態では、博麗神社に辿り着く頃には夜だ。命蓮寺も同じ理由で駄目だ。

なんだかんだうろうろしている内に、もう夕方。

さっき男衆が殺気だって出ていった所からして、まだ子供は見つかっていないと見て良いだろう。

何かしらの理由で、戻れなくなったと見て良い。

妖精の悪戯か何かに引っ掛かったか。

それとも何か別の理由か。

いずれにしても、夜、子供が人里の外に出るなんて、それこそ自殺行為。

妖怪に喰ってくださいと言うようなものだ。

頭を抱える。

命蓮寺のお墓を思い出す。

大人になれなかった子供達。

小傘の知り合いだった子供で。

妖怪に喰われた者もいる。

亡骸は悲惨極まりない有様で。

何処が頭で、何処が手足かも分からなかった。

葬儀は遠くから見ていることしか出来なかったし。

今では、お墓を綺麗にしてあげるくらいの事しか出来ない。

今、此処を使う子供で。

一番こらえ性が無い子は誰か。

思い当たる。

その子がいそうな場所は何処か。

分かる。

人間にそれを教えれば。

いや、あの殺気だった男衆が、小傘の話なんて聞く訳が無い。

その場で袋だたきにされるだけだ。

それどころか、小傘が話しかけたから間に合わなかったとか、難癖を付けられかねない。そうなったら文字通り、博麗の巫女に消される。

顔を上げる。

怖いけど、やるしかない。

でも、本当にそれで良いのか。

此処のルールに背いたら、ただでさえ弱い小傘みたいな妖怪、それこそ一日だって生きていけない。

でも、小傘は。

殆ど盲目的に。

動いてしまっていた。

 

降り立つ。

最悪の予想が。最悪以上の形で具現化していた。

やんちゃな男の子、博。

この子が好きな場所で、もしも妖精が悪戯を仕掛けて。それにモロに引っ掛かったら。此処に落ちるだろう。

そう判断した川辺で。

完全に足を挫いて動けない博がいた。

いたのは博だけじゃない。

妖怪もだ。

妖怪には色々な種類がいるが、獣が長生きして、妖力と知恵を付けた者を総合して妖獣という。

妖獣は身体能力が高い上に、好戦的な者が多く。

しかもこの妖獣、人の姿を取っていない。人間の大人よりも、二回りも大きい犬の姿。

つまり妖獣になったばかりの獣で。

スペルカードルールで追い払うなんて、とてもではないが出来ないだろう。

博は完全に腰を抜かしている。目の前で唸り声を上げている恐怖の権化に対して、指一本動かせない状態だ。

無言で間に割り込むと。

どうやら妖怪「山犬」らしき妖獣は、あからさまな敵意を向けてきた。

最悪だ。山犬は人肉を食べる妖怪である。子供の肉なんてごちそう、見逃す筈が無い。退治されようと関係無く食べようとするだろう。

その上この妖怪、名前の通り「山」の気配がする。

山の妖怪は、縄張り意識が強く。一部の妖怪は、仲間がやられると群れ全体で敵対姿勢を取る。

もしもこの山犬が、山でも現在最強の一角を誇る天狗の飼い犬だったりした場合。

小傘の命運は尽きた。

更に言えば。

空腹が酷くて、もう力も出ない。

それどころか、ルール破りも甚だしい行為。

何をやっても助かる路が見えないけれど。

それでも、やるしかない。

「横取りをするつもりか、この下級!」

「こんな人里の近くで人間を襲う方がルール違反だよ」

「抜かせ! ルール違反だとしても、お前に言われる筋合いなど無い!」

その通りだ。

だけれど、私は。

この子を死なせたくない。

博に言う。

「逃げて。 時間稼ぐから。 戦いになれば、人里の人達も気付くから、何とかなるよ」

「……」

だめだ。

腰を抜かして、失神寸前。

逃げるどころじゃない。

至近。

飛びかかってきた山犬。

傘を盾にして防ぐけれど、凄まじいパワーだ。

成り立てとは言え、伊達に身体能力が高い妖獣ではない。

そのまま一気に押し込まれる、。

必死に踏みとどまりながら、水の妖術を浴びせるけれど、効くような威力は無い。元々小傘は空を飛ぶのにさえ難儀するほど疲弊しきっているのだ。

「雑魚がぁっ!」

吠え猛ると。

山犬は小傘を傘ごと振り回し、地面に叩き付ける。

肉体的なダメージは、体を再生出来る妖怪には本来あまり有効打にならないのだけれど。今のフラフラの小傘には、これでもかなりきつい。

吐血。

更に首筋を噛もうとしてくる山犬の牙を、必死に傘で食い止める。

だが業を煮やした山犬が、何度も傘をかみ砕こうと、激しく口をかみ合わせながら、圧力を強めてくる。

傘も小傘の体の一部。

痛い。

苦しい。

だけれども、まだだ。

さっきの音、周囲に響いているはず。

時間を稼げれば、それだけでいい。

また振り回され。

今度は木に叩き付けられた。

木がへし折れる程の一撃だった。

そのまま絶息して、地面にずり落ちる。

敵は更に容赦ない猛攻を加えてくる。

足を噛まれ。

振り回されて、地面に叩き付けられる。

さっき以上のダメージだ。

飛びかかってくる山犬。

残った力を総動員して、ボロボロの傘を向けて、水の弾幕を浴びせてやるけれど。効くわけが無い。妖精ならともかく、此奴は妖怪が住む山の弱肉強食の中生き延びてきた妖獣だ。スペルカードルールでの決闘ならともかく。戦闘は分が悪すぎる。

力の差は、露骨すぎるほどだ。

体当たりで、モロに吹っ飛ばされる。

地面で二度、バウンドして。

更に岩に、頭から叩き付けられた。

小傘が沈黙したと判断したらしい山犬が、博の方を見るけれど。

其処に、もう一撃。

水の塊をぶつけてやる。

山犬が、完全に血走った目で振り返った。

「三下がぁ……魂ごと喰らってやろうか……!」

痛い。

肉体のダメージは、あまり気にしたことは無かったのに。

今は酷く全身が痛い。

それに寒い。

博は。

無事だ。

そして、見えた。

どうやら、小傘の勝ちらしかった。

凄まじい勢いで、獰猛な口を開いた山犬が襲いかかってくる。そして、瞬時に火だるまになった。

 

灼熱の塊が、山犬を直撃する。

凄まじい悲鳴を上げながら、転がり回る山犬。

飛び起きた山犬の至近には。

既に着地した妹紅。

妹紅は舌打ちしつつ、妖怪の制圧作業に取りかかる。

激しい戦闘音を空中で聞き。

もしやと思ってきて見たら。

面倒な事になっていた。

いずれにしても、こんな人里の近くで人間を襲う等、許されることでは無い。

しかも此奴、おそらく人里の混乱を見て、虎視眈々と狙っていたのだろう。完全に確信犯である。

慈悲無く退治させて貰う。

妹紅は長い間各地を旅する間に妖術を身につけてきた。炎の術を得意としているし、数多の妖怪をそれで屠ってきた。その実力は、幻想郷の大妖怪達にも通じる。

此奴程度。

相手にもならない。

噴き上がる妹紅の力を見て、山犬が露骨に恐怖を顔に浮かべ後ずさる。

自分より弱い相手には散々上手に出ていた癖に。

その卑劣さに、色々な意味で腹が立つ。

形勢不利とみて、逃げようとする山犬。

だが妹紅の方が、十倍は速い。

瞬間で追いつき、一撃で蹴り挙げる。

巨体が冗談のように空中に吹っ飛ぶ。

悲鳴を上げながら回転しつつ飛んでいく山犬に対して。

先の三十倍以上の火力を持つ火球を叩き込む。

山犬が、断末魔の絶叫を上げた。

爆発四散。

制圧対象は沈黙した。

肉体が滅びても妖怪は死なない。どうせすぐ復活するだろうが、どうでもいい。まずは子供の安全確保だ。

辺りを見回す。

行方不明になっていた博を確認。多々良が必死に身を挺して守ったからか、無事だ。

子供をしかるのは苦手だから、慧音にやって貰うとして。

この山犬の気配。

恐らく山の妖怪だ。

舌打ちする。

天狗の飼い犬だったりしたら、最悪の事態になりかねない。

遅れてやってきた自警団の男衆に、遅いと怒鳴りつける。流石に妹紅も、この事態は腹に据えかねていた。

盗人については、さっきやっと捕まえた。

だが、プライドばかり高い此奴らのせいで、後手後手に回り続け、危うく大量殺人犯にまで悪化する寸前まで盗人の行動は過激化していたし。

何より人が死ぬ所だった。

しかも、こんな人里の近くでだ。

気付く。

唐傘お化けが。多々良がいつの間にかいない。

さては彼奴。

舌打ちすると、思い切り近くの石を踏みつぶす。

どいつもこいつも。

「私のような」バカばかりだ。そう、妹紅は内心吐き捨てていた。

妹紅は人には言えないような暗い過去だって持っている。そうでなければ1300年も生き地獄を彷徨っていない。

多々良の行動は、とても他人事では無い。

だからこそ、怒りが噴き上がる。

石は灼熱に溶かされて、凄まじい熱を発し、それに周囲の男衆は完全にすくみ上がっていた。

一旦呼吸を整えて、温度の調整をする。

順番に。一つずつ片付けていかなければならない。

長い年月を生きてきたからこそ。判断に関しては、冷静に出来る。

「人里に戻るぞ。 これからが本番だ」

「で、でも何が」

「最悪の場合、天狗の使者が来る。 長老と相談しないと、面倒な事になる」

「て、天狗!?」

事態が分かっていない自警団の連中にも、更に苛つかされた。

失神寸前の博を背負うと帰路につく。おどおどしながら、自警団どもが従った。

それにしても此奴らは経験が浅すぎる。

流石に1300年の時を罪の意識に苛まれ妖怪と戦いながら生きた妹紅と比べるのは酷だが、此奴らも妖怪退治を生業にしている荒くれの筈だ。この為体は叱責に値する。

さて、関係者になってしまった以上、面倒な事を幾つもこなさなければならない。

その前に、一つ手を打っておきたいのだが。

先ほどの爆発で、妖精やら妖怪やらが集まって、此方を伺っている。まああれだけの爆発だ。様子くらい見に来るだろう。

見回すと、騒ぎを聞きつけて見に来た無害な妖怪の中に、見知った顔がいる。

丁度良い。

手招きして呼び寄せる。

そして耳打ちした。

早めに手を打たないと、危ないかも知れない。

そいつは頷くと。

急いで主の元へ飛んでいった。

 

3、逃避行

 

知っている子が死ぬのは嫌だ。

そんな我が儘で。

とうとうやってしまった。

力は殆ど残っていない。

小傘は傘を杖に歩きながら、ぼんやりと考えていた。

思考さえ遅いように思う。

肉体のダメージはあまり関係無い。

ずっと空腹だったこと。

それなのに、無理をしてさっき妖術を使った事。

何より、自分の方がルールとして間違っている事をした、という事。

それらが、小傘を徹底的に痛めつけていた。

妖怪は精神的な攻撃にとても脆い。

肉体が主の人間と違って。

精神が主だからだ。

周囲が暗い。

夜だからだろうか。

それ以上にとても寒い。

火に当たりたい。

おかしい。

冬でも、こんなに寒かっただろうか。

分からない。

思考力があからさまに低下していて、殆ど何も考えられなかった。

まず、お寺から離れないといけない。

そう、小傘は判断した。

というよりも、それしか判断出来なかった。

あの山犬は、山の妖怪だ。天狗が飼っている可能性がある。

幻想郷にそびえ立つ山には、多くの妖怪や仙人が住んでいる。昔は鬼が支配していたこの山だけれど。鬼が幻想郷から殆どいなくなった上に山の支配権を手放した今は幾つかの勢力がそれぞれ縄張りを作っている。その中でも最強の天狗は結束を持ち、仲間がやられれば群れ全体で報復を行う種族だ。

天狗を直接邪魔したわけではないけれど。

天狗が哨戒のために飼っている妖獣の邪魔をすれば。

当然報復を考えるだろう。

天狗に何て。

勝てる訳が無い。

或いは、命蓮寺の住職をはじめとする猛者達なら勝てるかも知れないけれど。

小傘の不始末であの人達を危ない目にあわせるなんて。

とても許されることじゃない。

墓場に勝手に住み着いていた小傘に、文句一つ言わなかったし。

むしろ良くしてくれたのだ。

元凶である小傘が離れれば。

少なくとも天狗達が命蓮寺を襲うことは無いだろう。

小傘は天狗達にズタズタに嬲り殺されるかも知れないけれど。

それは自業自得だ。

勿論それは最悪の可能性だけれど。それを想定して動くのが当たり前だ。そもそも、山に住んでいて、しかも成り立ての妖獣が。あんな知恵を持っているのはおかしい。

天狗や仙人に訓練されていたとみるのが自然で。

だとすれば、どちらにしても碌な事にはならないだろう。

やはりお寺からは離れなければならない。

博は無事だったかな。

無事だったのならいいけど。

呟きながら、もう定まらない足で、何とか歩く。

辺りが暗くてよく見えないし。

そもそも何処を歩いているのかもよく分からない。

地底。

やっぱり地底に行こう。それしかない。

嫌われ者や、荒くれの妖怪が住み着く場所。

幻想郷の最も暗い場所。

そこならば、或いは。天狗も来ないかも知れない。何より、罪人となった小傘には、相応しい所だろう。

でも、弱い妖怪である小傘なんて。

地底ではもっともっと虐められるだろう。

それも仕方が無い。

全部自業自得なのだから。

そういえば。

いつの間にか、おなかの虫も鳴かなくなっていた。

体がもの凄く冷えると思ったら。

きっと、おなかの虫も死んでしまったからだろうか。

妖怪も死ぬ。

精神が死ねば死ぬ。

死ねば閻魔様に裁かれる。

幻想郷を管理している閻魔様は、もの凄く厳しい人だ。

小傘は間違いなく地獄行きだろう。

絶対のルールを破ったのだから。

薄笑いが漏れた。

何だろう。

どうしてか、とても悲しくなってきた。

あの時、博を見捨てていれば良かったのだろうか。

妖怪としてはそれが正しかったはずだ。

でも、知っている子供が死ぬのはいやだった。

それだけで、ルールを破ってしまった。

気付くと。

いつの間にか倒れていた。

多分肉体の再生が出来ていない。ダメージが大きすぎて、回復出来る状態にはないのだ。

誰かを驚かせなきゃ。

そうしなければおなかも膨れない。

おなかが膨れなければ元気にもならない。

体も回復しない。

立ち上がろうとして、失敗する。

口の中に砂が入ったので、必死に咳き込んで吐き出す。

咳をするだけでも、膨大な努力が必要だった。

体の感覚は既に分かりすぎるほどにおかしい。

何だか雪にでも包まれているように寒い。

周囲も真っ暗で。

殆ど何も見えなかった。

何とか立ち上がる。

歩く。

一歩。

二歩。

また倒れた。

傘を杖にして、どうにか立ち上がろうとする。

失敗。

もう一度。

震える手で、どうにか体を支えて、膝立ちだけは出来た。

目の前が真っ暗なのに。

何かいるような気がした。

真っ暗だから。

ひょっとしたら、驚いてくれるかも知れない。

震えながら、傘を持ち上げる。

夜道なら。

傘を開けば。

驚いてくれるだろうか。

でも、手に力が入らなくて。

傘さえ開けなかった。

これじゃあ、誰も驚いてくれないのも当然か。

薄い笑いが口元に浮かぶ。

これじゃあ、存在する価値なんて。

また、倒れていた。

多分、涙が流れていたと思う。

体は。

もうぴくりとも動かなかった。

 

人里の一角に。

秘密の会合に使う屋敷がある。

幻想郷を管理しているのは、賢者と呼ばれる大妖怪達だが。

人里を管理しているのも同じ。人里の支配者は妖怪達なのだ。

幻想郷はあくまで妖怪の理想郷。

人里の長老は単なるまとめ役で、政治家では無い。むしろ政治家は人里に存在しない。

一度、ある仙人が指導者になろうかと人里に提案したことがあるのだが。今の時点では、その提案を人里は飲んでいない様子だ。いずれにしても、長老に大した権力は無い。

ともかく、お飾りであっても長老は長老。こういう場には必要となる。賢者と人間が会合をするとき。或いは何かしらの話し合いをするとき。

その屋敷を「長老の許可の下」用いる。

妹紅は、その屋敷に。

長老と。事件に立ち会った数人の自警団員。

更に、書記として、稗田阿求という人間も伴って、出向いていた。長老に同席を頼まれたからである。まあ仕方が無い。当事者の一人だし、何より自警団員達が頼りなさ過ぎる。

そして問題は阿求だ。

此奴はいわゆる絶対記憶能力の持ち主で、見たものを忘れない。面倒なのは、此奴が編纂している書物が、幻想郷において妖怪を記す資料となっていることで。しかも此奴自身が、何度も転生しては幻想郷に関わっているという妖怪じみた存在であると言う事である。

妖怪退治のためにどのような妖怪がいるかを知る事はとても重要であり。ある意味妖怪退治屋には必須の存在なのだが。

妹紅から言わせると、此奴が編纂しているのは偏見まみれの極めて悪意に満ちた書物だ。

この書物自体が、幻想郷の仕組みである、「妖怪は人間を襲い、人間は妖怪を怖れる」を維持するためのパーツであり。

当然書物の内容には賢者達の検閲が入っている。

十代前半の子供に見える阿求だが、此奴は何度も転生している事からも非常に狡猾で。

戦う力こそ無いが、その性格の悪さは記した書物を見るだけで分かる。

今回も、此奴は妖怪側だと判断して、話に立ち会うしか無い。

そもそも、こんな面倒な話につきあいたくないから、人里で暮らしていなかったのに。

結局力を振るえばこうなるか。

他に人影は。

既に来ている影が幾つかある。

まずは命蓮寺の住職、聖白蓮。その部下数名。全員が妖怪だ。

白蓮は元人間で、若返りの術を身につけたことにより千年の時を経ている妖尼僧だ。不老不死に関する特定の術を身につけた人間は、幻想郷では「魔法使い」という妖怪に分類される。なお教義なのかどうなのかは分からないが、命蓮寺では剃髪しない。白蓮も長く美しい髪の持ち主だ。なお「聖」とまで呼ばれているように、人間を止めた今も毘沙門天とのコネを持つ本物の高僧でもある。事実、毘沙門天の直接の部下が命蓮寺にいる。

実は彼女らは比較的最近「寺ごと」幻想郷に来たのだが。白蓮の戦闘力、配下の組織力、どちらも現存するどの妖怪勢力にもまったく引けを取らない。白蓮自身が凄まじい使い手なのもそうだが、コネクションを積極的に周囲の勢力と構築しており、弟子には大妖怪クラスの妖怪が何名もいる。人里でも檀家を堅実に増やしており、今、もっとも伸びている勢力だろう。

そして、もう一つの影。敢えて灯りを抑えているこの屋敷にそれはいた。

やはり予想の最悪を極めたか。

そこに座っていたのは、山の天狗の一人。

射命丸文である。

見かけは行者風の格好をした十代半ばの人間の女の子だが。これは幻想郷では人型になるのが妖怪のスタンダードだからである。なお種族は鴉天狗だ。何種類かいる天狗の中では「地位の観点では」下位に当たる。

アルカイックスマイルを浮かべて座っている此奴には良い印象が無い。

悪名高いブンヤである射命丸は、パパラッチという言葉通りの存在で。ある事無い事好き勝手なことを書いた新聞をばらまきまくっていて、幻想郷中から嫌われている。天狗という種族そのものが新聞好きで、「身内に向けて」新聞を出しているらしいのだが。天狗は種族ぐるみで「自分が作った」新聞をばらまいており、彼ら彼女らの新聞は何処にでもある。そして揃いも揃って新聞記事の内容が古かったり、いい加減だったり、適当だったりと、ロクな代物が無い。

此奴の上司である大天狗の新聞からして紙屑レベルという時点で、天狗は多分新聞作りに向いていない種族なのだろう。

問題なのは、天狗というのがかなり実力の高い妖怪だと言う事で。この射命丸に至っては、速度において幻想郷一を自称する程の実力者、と言う事だ。しかもあながち嘘では無い。此奴ははっきり言って強い。戦闘力では天狗の指導者である天魔に並ぶという噂まである。

タチが悪いパパラッチの上に高い戦闘力を兼ねているという事で、大体の妖怪も人間も何を書かれても泣き寝入りするしか無いし。何より此奴は兎に角頭が回る。

というわけで、嫌われようが何処吹く風。

いつも平然と余裕の笑みを浮かべながら。

辺りを飛び回っている、と言う訳である。

とりあえず、役者は揃ったか。

一瞬だけ奥の闇に視線をやる。其処にどうせいるだろう奴は、最後まで出てこないだろう。

まず、話を始めたのは射命丸だった。

「ええ、この度はうちのペットが大変失礼をいたしました。 人里の至近距離であんな騒ぎを起こすなんて、とんでもないことですね、えへへ。 妖獣に成り立てで、躾が足りていないようでしたので、此方でしっかり躾け直しておきますね」

おどけてみせる天狗だが。

笑っているのは口元だけだ。

戦闘力は兎も角、地位的には天狗の中でも下位に当たる此奴が来た、と言う事は。要するに天狗は問題をさほど「気にしていない」事を意味している。問題を重要視しているなら、天狗のトップである天魔なり、此奴の上司である大天狗なりが来ていただろう。

その辺りを分かっているのかいないのか。自警団の連中が、既に駆け引きが始まっていることに気付いていないかも知れないことが不安だ。まあこの射命丸にしても1000年を経た妖怪。此処に普通の人間がいても、色々と話についていけないのは仕方が無い。

「それで私の上司である大天狗様の書状を預かってきましたので、読み上げさせていただきます。 あー、おほんおほん。 この度は我等が走狗が人里に大きな不安を与えてしまったことを謝罪させていただく。 二度とこのような事がないように再発防止策を念入りに練らせていただく故、ご安心いただきたい」

さらさらと読んでいく射命丸だが。

目には若干の愉悦が浮かんでいる。

状況を楽しんでいるのだ。

「しかしながら、人里にてたかが盗人一人の手で大きな争乱が起き、それが不届き者がつけいる隙になった事もまた事実。 更には、此方の監督不行き届きも原因とは言え、幻想郷の決まり事を破った妖怪がいるとも聞き及んでいる。 これらについては、説明を是非願いたい、ああ、以上ですね。 難しい言い回しですが、解説いります?」

「いらねえよ射命丸。 舐めてやがるのか」

「はあ、そうですか。 失礼しました」

どうせ長老は置物。自警団の連中は私頼み。更に言えば、白蓮は普通に駆け引きを理解しているだろう。

暗闇でも分かるくらいに冷や汗を掻きまくっている長老に目配せされたので、頷く。

「自警団を代表して回答する。 まず自警団の不手際にて、人里の警備が甘くなったのは事実だ。 自警団については鍛え直しが必要だと判断し、此方で対処をしておく」

「分かりました。 此方も色々大変でして、やんちゃな若輩者を躾けるのは色々大変なんですよ。 苦労はお察しいたします。 えへへ」

此奴は確か、警備を担当する種族である白狼天狗と相当仲が悪いと聞いている。

それについての皮肉だろう。天狗の現体制に不満を持っているらしいし、こういう場でそれを皮肉っても平気なだけの実力がある、と言う事だ。つまり、自分がそれだけの権限を与えられていると示してもいる。相応の政治的駆け引きと言う奴である。

そんな事はどうでも良いが、問題はもう一つ。

書状で多々良の事を挙げているということは。

返答次第では、多々良は天狗に殺される。

妖怪は肉体が滅んでも死なないが。殺す方法などいくらでもある。古い妖怪である天狗は、当然それくらい熟知しているだろう。ましてや唐傘お化けのように戦闘力の低い妖怪、天狗に襲われたらひとたまりも無い。

「私はあくまで人間側の立場だからな。 妖怪同士のもめ事については関知しない。 妖怪については、妖怪に話をして欲しい」

「それでは白蓮さん。 お願い出来ますか」

「よろしいでしょう」

空気が緊張する。

交渉のバトンを白蓮に渡したのだが。

そもそも、本来は命蓮寺関係者が来ている事がおかしい。別に多々良は仏教徒ではないし、白蓮の弟子でも無い。

さて、其処をつかれたらどうする。

今回、命蓮寺関連者が来ているのは。騒ぎになった時に、寺に連絡を入れたからだ。

そして白蓮の掲げている教義と、その性格上。悪いようにはしないと判断したからだが。

さて吉と出るか凶と出るか。

「命蓮寺の住職、白蓮です。 この度は人里の近くで不幸な事故が起きかけたことを大変悲しく思っております」

「まことにその通りです。 此方としては謝罪の言葉しかありません。 ただ問題の一つの主犯である唐傘お化けは、貴方の弟子では無いし、仏門にも入っていないと聞いています。 貴方が何故に出てきたのか、それを確認いたしたく」

やはりそう来るか。

心配だが。

それはそれでおかしな話だ。

面識が多いわけでも無い。

単に良い奴だと知っている。

子供を命がけで助けて、それで何が起こるか分かっていたから身を隠した。

くせ者だらけの幻想郷で、そんな良い奴は滅多にいない。

だから助けたいと思った。

だが今は。白蓮がどう出るか。それ次第と分かっていても、かなり緊張する。

「わが命蓮寺の教義は、万物平等。 人と妖怪に何ら差は無く、神と仏も単に妖怪とは信仰されるかどうかの違いしか無い。 弱き者には人であろうと妖怪であろうと手をさしのべる。 それが我が教義で有り理念である以上、私が出向くことに何の不思議がありましょう」

「それは幻想郷のルールから逸脱する行為では?」

「それを言うのならば人里の至近距離で問題を起こした貴方達も同じはずですよ。 ましてや今回の件を利用して、我々に貸しを作ろうとしていることくらいわからないとお思いですか?」

まあ見抜いているか。

多少は心配したが。さすがは千年を経た妖僧だ。

空気が更に緊張する。

余裕を崩していない射命丸だが。経験が浅いほかの天狗だったら、たぶん小便を漏らしていただろう。

凄まじい怒りが場に満ちている。強力な妖怪を多数心服させている妖僧が、今本気で怒気を発している。

「政治的駆け引きに弱きものの命を利用しようとは、まこと傲慢非道の極み。 殺生は禁じておりますが、この白蓮と命蓮寺。 目の前で弱者の尊厳を汚す者を相手にして、黙っているほど愚鈍蒙昧ではありませんよ」

「あややー、其処まで怒らなくても。 えへへ」

恐縮してみせるフリをする射命丸だが。

此奴、実際にはまるで怖れていない。

最悪の場合逃げ切る自信もあるのだろう。

いや、違う。

落としどころを、最初から理解していると言う事だ。

そもそも、命蓮寺は単独でも強力だが、多方面に太いコネを確保しており、その総合戦力は現時点で圧倒的だ。その気になって本気で白蓮が声を掛ければ、最悪の場合天狗達は大妖怪クラスの妖怪の群れに蹂躙されることになる。勿論最悪の場合は、だが。そのリスクは計り知れないし、その場合戦いにさえならないだろう。

更に問題なのは、天狗が内憂を抱えている、と言う事だ。

射命丸が嗤って見せたように、天狗の組織は古く硬直化が激しい上、一枚岩でも無い。その上妖怪の山には多数の妖怪がいるが、その内の相当数が既に命蓮寺に食客として住んでいるタヌキの影響下にある。弱い妖怪も多いが、それらは情報を持っている訳で。下手をするといきなり本拠地が急襲されかねない。

更に更に。最大の問題は、妖怪の山でのイニシアチブを取ることを狙っている守矢神社の存在だ。

これも最近になって神社ごと幻想郷に来た勢力だが。

神話の時代から名を轟かせる強大無双な神二柱がついている上、妖怪の山に巨大な影響力を及ぼしており、更に天狗との折衝でいつも利権を競り合っている。

もしも命蓮寺と天狗が開戦した場合。

守矢は嬉々として天狗の背後を襲い、二度と立ち上がれないほどに叩き潰しに掛かるだろう。

最強の妖怪である鬼が幻想郷から殆ど姿を消した今。天狗を完全に屈服させれば妖怪の山の主導権は守矢が握ることになる。

この辺りの事情は、血の気が多い若い天狗なら兎も角。

天魔や大天狗。それに此処にいる射命丸なら理解している筈だ。

つまり此奴がやろうとしていることは。

白蓮が指摘したとおり、一旦命蓮寺に貸しを作り。多少の関係強化を図っておくこと。

別に此奴にとって「仲間の名誉に泥を塗った」多々良のことなどどうでも良いのである。

もしも命蓮寺が無関係を貫くなら、それはそれ。

見せしめとして多々良を殺すだけ。

どちらにしても、天狗に損は無い。

もっとも、交渉のやり方によっては、白蓮が本気で怒ることになっただろうし。

射命丸がここに来たのは、交渉を任せる人材が他にいなかった、という意味もあるのだろう。

ただし、射命丸が言うように。

多々良が幻想郷のルールを逸脱した行為を取ったのも事実だ。

そして、こうなることを分かりきっていたように、射命丸はいけしゃあしゃあと言った。

「実は大天狗様も、貴方が介入してくる事を予想しておりました。 それに貴方がそう仰る場合は、引くようにと仰せでした。 この清く正しい射命丸、所詮は下っ端に過ぎません。 上司の言う事には従うだけですよ」

「……多々良小傘さんの身は命蓮寺にて預かります。 それで良いですね?」

白蓮が言葉を発した先には、一見誰もいない。

だが、次の瞬間。

空間が裂ける。裂けた空間から女が姿を見せる。

裂けた空間には多数の目が浮かんで見え。そして裂け目の端にはリボンがついていた。

やはりいたか。

幻想郷の賢者の一人、八雲紫。「隙間」を操作する最強の妖怪の一人。

とにかくあらゆる全てが胡散臭く。そして得体が知れない。その得体の知れなさを武器にしているしたたかな古豪。つかみ所が無く、何を考えているかも分からない、それが故に恐ろしい妖怪らしい妖怪。

名前の通り、紫色を基調とした服を着こなしたその女は。屋内だというのに洋風の傘を手に、意味ありげに目を細め、微笑む。

人里の長老や自警団の連中が震えあがっているのが分かる。

何しろ、幻想郷の闇を一手に握っている、という噂のある存在だ。

阿求が平然としている辺りも闇が深い。いつも検閲で話しあっているのだろうから。

形は人間でも、本質の部分からして人間とは違う存在なのである。この紫という妖怪は。

「良いでしょう。 ただし、あまり幻想郷のルールから逸脱した行為は避けるように」

「善処いたしましょう。 此方なりのやり方にて対応しますよ」

「……」

ぬるりと消える紫。空間の裂け目も消えた。

これで交渉は終了だ。

ではと、腰を上げ掛ける射命丸。

私は、おいと、背中に声を掛ける。一言、言っておくことがある。

「何でしょう、妹紅さん」

「確かお前、自分の新聞で多々良のことを扱ったことがあったな。 取材をして、彼奴がどういう奴か分かっていた上でモノ同然に扱う話をしていた、と判断して良いな?」

「やだなあ、当たり前じゃ無いですか」

「そうか、なら言っておく。 私は他人に正義や人情を語れるほどの真人間じゃあないがな。 ……それでもあんまり筋を外したことばっかりやってると……しまいには潰すぞ?」

一瞬だけ、狡猾な天狗の顔から表情が消える。視線が火花を散らす。射命丸は、作る新聞の質は兎も角完全なリアリストだ。だがプライド高い天狗でもある。「一応」人間である妹紅に此処まで言われて、流石に勘に障っただろう。妹紅には、それが狙いなのだが。キレたら此奴を潰す好機だからだ。

だが、それでもなお。

ふっと、笑みを浮かべなおす余裕を見せる射命丸。最悪此処にいる命蓮寺関係者も同時に相手にする事になっても。まだ逃げ切る自信があるのか、それとも。

「心しておきましょう」

取材時のアルカイックスマイルを保ったまま。

狡猾な鴉天狗は姿を消した。

嫌な予感がする。交渉の時、妙に不手際を感じた。ひょっとして射命丸の奴。まさか天狗と命蓮寺が開戦しても構わないとでも思っていたのか。まさか。だが、いやあり得る。底知れない奴だ。何を考えていても不思議では無い。天魔や大天狗を排除して、更に硬直化した天狗の組織を大掃除して、自分が頂点に立つつもりだったとしたら。或いは命蓮寺との開戦を煽っても不思議では無い。

あの一瞬に其処まで計算していた可能性もある。

だが、戦力的に勝てないと踏んで、引いたのだとしたら。やはりそれはそれで底知れない奴だ。少なくとも、今後も絶対に侮ってはいけないだろう。

妹紅も腰を上げる。様子を確認しようと思ったからだ。

まだ多々良の身を確保した訳でも無いだろう。

そう思ったのだが。

屋敷を出ると、白蓮が、ネズミの妖怪と話をしていた。そして急いで「寺の方」に飛んでいった。

あのネズミの妖怪は、失せもの探しの達人である。そして、「寺の方に」飛んでいったと言う事は。

ふっと笑う。

どうやら、これ以上は、何もしなくても大丈夫らしかった。

 

4、使い方

 

目が覚める。

生きているらしい。

ぼんやりとしているうちに、覗き込まれているのが分かった。

響子だった。

目の前で手を振っている。

意識があるのかを確認しているのだろう。

そして意識がある事を確認すると。

大慌てで走ろうとし。

それで思い直したか、小走りで行った。

此処は見覚えがある。

命蓮寺の一室だ。

そうか、結局小傘は、命蓮寺に迷惑を掛けてしまったのか。

情けなくて涙が出る。

天狗との戦いでけが人が出ていないだろうか。

それとも、運良くあいつは天狗と関係が無い妖怪だったのだろうか。

でも、どうして命蓮寺が助けてくれたのだろう。

迷惑を掛けることさえあっても。

何も役になど立っていないのに。

ほどなく。

しずしずとでも言うべきか。音も立てず、気配だけを現して。

いつの間にか、その場に命蓮寺の住職が、聖白蓮がいた。彼女は洗練された動作で小傘が寝かされている布団の横に座る。

情けなくて、住職の目を見ることが出来なかったけれど。

言わなければならない事がある。

「ごめんなさい。 とても大きな迷惑を掛けました」

「迷惑など誰でも他の者に掛けるものです。 私は知っています。 貴方が弱き者を守るため、どれだけ勇敢に力を振り絞って勝てない相手に挑んだか。 その結果弱き者を守りきった事を。 そればかりか、理不尽な報復がこの寺に向かぬように、必死に配慮までした事も」

「……」

「しばらくは休んでいなさい。 貴方は自己の存在を否定し、その結果本当に妖怪としての死を迎え掛けていたのです。 うちの鼠に早めに声を掛けておいて良かった。 見つけるのがもう少し遅れていたら、私でも手の打ちようが無かったでしょう」

あの意識を失う前に、最後に見た人影は。

そうか、命蓮寺の鼠さんだったのか。

ナズーリンという名前らしいのだけれど。なんと毘沙門天の直接の部下らしい。

実際にはお寺には住んでいなくて。

この寺で、毘沙門天の代理をしている妖怪の、お目付役を上司から承っているとか。

力そのものは弱いけれど、格が高い妖怪だ。失せもの探しに関しては相当なものを持っているらしいから、その力を用いたのだろう。

何か妖術を住職が施してくれる。

それで、また少し体が楽になった。

住職はもう少し寝ているように、と言った後、その場を離れる。

代わりに響子が戻ってきた。

「小傘さん! 心配したよ!」

「どうして?」

「どうしてって! もう知ってる妖怪が消えるのやだよ! 山彦はみんな消えちゃったんだよ! そんな風に誰かが消えるのもう見たくないよ!」

わんわん泣き始める響子。

山彦は少し前に、殆どが消えてしまった。

響子は数少ない生き残りの一人。

そうか。

それなら悲しいだろう。

「ごめんね。 私、どうしていいか分からなくて」

「住職か親分に相談しておけばよかったの!」

「だって、お寺に何もしていないよ。 それなのに、頼るなんて虫が良すぎるよ」

「墓地をいつも掃除してくれていたし、小傘さんに会うのを楽しみにお寺に来ている人もいたし、悪さだってしなかったよ!」

困った。

子供みたいな姿の響子に泣かれると困る。

しばらくして。

妖術が効いたか。

だいぶ体が楽になった。

夕方。

響子も修行に戻ったのか、また一人になる。

命蓮寺が襲撃を受けた様子は無い。

だけれども、響子は言っていた。

天狗を住職が格好良く追い払ってくれたって。

いくら何でも、と思ったけれど。

命蓮寺の戦力からしたら、不可能では無いのだろうか。天狗が色々と組織としても種族としても衰退していることは小傘も知っている。それでも小傘よりはずっと強いだろうけれど。今どんどん力を伸ばしている命蓮寺とやりあうのは、不利だとでも思ったのだろうか。

でも、小傘はそもそも。命蓮寺の関係者じゃ無い。

響子はああ言ってくれたけれど。

それだけだ。

此処を出て、今度こそ地底に行こうかな。

そう思っていると、住職がまた来た。

「少し話をしましょうか」

「はい」

助けて貰った恩がある。

逆らう事は出来ない。

「貴方は傘を使って人を驚かすことが下手、という事に間違いはないですね」

「はい、悔しいですけれど」

「確かに貴方は恐ろしい妖怪ではありません。 しかし貴方の話を街で聞く限り、悪い評判はありません。 子供達には好かれていますし、子供時代に遊んで貰ったという大人は概ね皆貴方の事を悪からず思っています。 初恋が貴方だったという人も多いようです」

「はあ……」

そう言われても。

人間とつがいになれる妖怪もいるけれど、小傘はそうではない。

好意を寄せて貰えるのは嬉しいけれど。

その好意に応える事が出来ないのも現実だ。

「貴方に子供時代遊んで貰ったという一人から、これを受け取りました」

「!」

それは。

ベーゴマだ。

何十年か前に、外の世界から流れてきた新しいオモチャ。金属のコマ。

一時期子供達の間で流行ったので、小傘もやり方を知っている。

木のコマより小さくて、より激しい動きをする上に。簡単に子供でも手に入れられるので、一時期大流行した。

小傘もせがまれてベーゴマは遊んだけれど。

このベーゴマは。

「あまりにも強すぎた、ですね」

「はい。 私が作ったこのベーゴマが、ベーゴマという遊びを終わらせてしまいました」

苦い思い出だ。

子供達が喜んでくれるかと思って。

小傘が作った。

小傘の唯一の取り柄は金属加工だ。

多々良という名前もそれに由来している。何かのえらい神様が零落した結果、産み出された妖怪、一本ダタラ。

その元の神様が、金属加工を司る神様だった。

その神様は一つ目で。

実は唐傘お化けは、傘のお化けでは無くて、一本ダタラの別名。つまり金属加工の鞴のお化けだという説もあるのだとか。

そういった説が、小傘に金属加工の技術を与えた。そういう仕組みなのだ。幻想郷という場所は。故に弱い妖怪が未だに存在していられる。

その技術を使って作ったこのベーゴマは。人間の鍛冶士が作ったベーゴマをゴミのように蹴散らし。

その結果、子供達はあっという間にベーゴマに飽きてしまった。

せっかくの流行りを。

小傘が終わらせてしまったのだ。

子供の楽しみを奪ってしまった。そういう苦い後悔が残った。

このベーゴマは、当時一番力が弱くて虐められていた子にあげたものだ。

そうか、まだ大事に残していたのか。

「小傘さん。 人を驚かすというのは、何も夜道や墓場で傘を広げることだけでは無いのです。 例えばこのベーゴマは、多くの子供達を驚かせたのでは無いのですか?」

「でも、これは……」

「失敗をしない人間がいないように、失敗をしない妖怪もいません。 かくいうこの私も、この世の業の深さを見誤り、封印されるという失態をしたあげく、弟子達に苦労を掛けました。 次は同じ失敗をしないように努力する。 二度三度と同じ失敗をするかも知れませんが、それでも努力を続けていく。 それでいいのです。 傘で駄目なら、この金属加工の力を使って、人々を驚かせてみませんか?」

でも、具体的にどうしたらいいのか。

住職が声を掛ける。

そうすると、部屋に入ってきたのは。

例のタヌキの親分だった。

頭に葉っぱを乗せていて。

目元が隠れる深い帽子を被り。

口元にはキセル。そして眼鏡の奥の目は、一見笑っているようだけれど。何もかもを丁寧に見透かそうとする、鋭い光に満ちている。

幻想郷に来ているからか、人の姿を取っている。むしろタヌキのイメージに反して細いほどだが。

それでも、胡座を掻いて小傘の側に座った大ダヌキ。二ッ岩マミゾウは。外の世界で神格を持っている大妖怪らしく。強烈な存在感を放っていた。やはり幻想郷のルールにあわせてか、女性の姿だ。

「それでは後の細かい話は任せますよ、マミゾウさん」

「おう。 住職よ、後は儂に任せておけい」

からからと笑う親分。

そして、タバコ良いかと言いながら。キセルにタバコを詰め始めた。小傘はタバコの煙は別に苦手では無いから、大丈夫と言うと。頷いてキセルに妖術で火を入れる。

一服しながら、外の世界でも現役の大親分は言う。

「お前さんは、時に儂がどうして弱い妖怪に積極的に声を掛けているか知っているか?」

「分かりません」

「そうだろうの。 この世の中はな、力が強い奴だけがいても回らないんじゃよ。 むしろ皆が得意なことを生かして、しっかり己の立場に座って、やっと回る。 そういうものでな。 声ばかり大きかったり、力が強い奴だけ好き勝手をするようでは、ガタガタと仕組みそのものが崩れてしまう。 儂は何度も、そういう実例を見てきたよ。 この幻想郷でも、それに代わりは全く無い。 弱いからといって何もできないというわけでもないし、むしろ「力が弱い」だのと言って排斥するような指導者は三流以下よ。 仮に芸が何も無い者でも、それでも生かしてこそ優れた指導者でな。 儂はそうしてタヌキの世界で天下の三分の一を取ったのよ」

煙を吐き出す親分は。

小傘に興味があるようだった。

「驚かせる、という点では、お前さんは充分な潜在力を持っているわい。 近いうちに、空腹を感じなくても良くなるよ」

「でも、その……いいんですか」

「当たり前よ。 何しろ儂のためにもなるからな。 心配せんでも別に汚れ仕事なんてさせようとは思っておらん。 単に儂は得意な分野でお前さんを助けるだけで、お前さんは自分の得意分野で儂を助けてくれればそれでいい。 それだけよ。 儂にもお前さんにも得がある。 利害の一致と言う奴でな、誰も困りやせん」

よく分からない。

だけれども、一つ分かったのは。

住職は小傘を助けてくれたし。

これからも、助けてくれると言う事だ。

「墓場に……いてもいいですか?」

「構わんよ」

「代わりに……きっと役に立ちます」

「そうきばらんでええ。 お前さんは良い腕を持っているんだから、それを生かせばええんじゃよ。 勿論別に仏門に無理に入らんでもええ。 儂と同じように食客を気取っていれば、それでいいんじゃ」

それから、具体的な話を始める。

確かに小傘にも出来そうだ。

そして、上手く行けば。

本当におなかいっぱいで過ごせるようになるかも知れない。

 

妹紅が夕方の街を歩いていると、大きな声が聞こえてきた。

「さあさあ、最高の包丁だよ! 何でもすぱすぱ切れるよ! 一つしか無いから、一番腕が良い料理人にだけしか売らないよ! 料理の腕を見せておくれよ!」

人だかりが出来ている。

見に行くと、恐縮している多々良と。

もう一人は。

ずきんで耳を隠しているけれど、あれは確か、命蓮寺にいる山彦か。

山彦は、「多々良印の金物屋」等と書かれた旗を背負っていて。

見ると、何人かの料理人が、かわりばんこに腕を競っているようだった。

何度も驚きの声が上がる。

確かに、遠目に見ても分かるが、もの凄い業物だ。肉にも魚にも野菜にも滑るように刃が入り込んでいく。

そして、何となく事情は分かった。

多々良は恐縮しているが。

ひもじそうにしていない。

つまりあの驚きは。

多々良の所に行っている。

やがて、腕が一番良い料理人が決まったらしく。おおと、喚声が上がった。

多々良が笑顔で料金を受け取っている。包丁は一つしかないらしく、そのまま群衆は解散していった。包丁を買い取った料理人は、本当に嬉しそうにしていた。余程良心的な値段だったのだろう。

山彦は先に帰って行く。

多々良が荷物をまとめているところに声を掛けると。驚いたように、多々良は顔を上げた。

「ごめんなさい、往来で迷惑だった?」

「いや、まったく。 それより商売始めたんだな。 あの包丁、お前が作ったのか?」

「うん。 金属加工なら自信あるから」

「そうか。 皆驚いていたな」

多々良は嬉しそうに頷く。

ひもじそうにしていた少し前とは別人のように元気だ。

なるほど。

白蓮に諭され。

タヌキに効率的な力の使い方と商売の具体的なやり方を教わったのか。

それなら、確かに脅かし下手な多々良も生きていく事が出来るだろう。

何より、「脅威」という形では、充分な存在にもなりうる。

人里の鍛冶士にとっては、あんな業物をばらまかれたらと思うと、戦々恐々だろう。

これなら、幻想郷のルールにも反していない。

上手いやり方を考えたものだ。

「あまりやりすぎると恨まれるぞ」

「うん。 だから、一月に一回だけ、一つだけ何か業物を売るようにって、親分さんに言われてて」

「ああ、それなら確かに人里の鍛冶屋の仕事はなくならないな」

「私にはそんな事、思いつきもしなかったよ」

団子屋によると、多々良は団子を買ってくれる。前のお礼だとか。

別に腹は減っていないのだが。

まあいいか。

素直に貰う事にする。

多々良は自分の分を買わないが。

これは食べられないから、だろう。

偏食の体質を持っていると、色々と大変なのだ。

「最近子供と遊んだ後、菓子を買ってやっているらしいが、金の出所はこの商売か?」

「うん。 原材料は親分さんの子分達が安値で集めてくるし、私はお金あまり使わないから、それならお金が少しでも回る方が良いかなって。 親分に材料費納入してもあまるしね」

「そうか」

欲が無い奴だ。

だが、助かって良かった。

妹紅は、人生の最初から間違えた。

恩人を手に掛けた事さえある。

その結果が、このやさぐれて狂った、終わらせたくても終わらない永い永い人生だ。

あの狡猾な鴉天狗に腹が立ったのも。自分も、一歩間違えばあんな風になっていただろうと思ったから。

多々良みたいな良い奴が死んで行く所も何度も目の前で見たし。

助けられなかったことも何度もある。

「腹一杯か?」

「うん。 今でも誰かを唐傘で驚かせるのは全然上手く行かないけれど、おかげさまでおなかいっぱい」

「良かったな」

多々良は嬉しそうに笑っている。

良い奴が死ななかった。

それだけで充分。

決して平和でも、理想郷でも無い幻想郷だけれども。

今日は気分が良かった。

 

(終)