今時の翼

 

序、見上げる先に

 

決して、空は近いとは言えない。

それなのに、私は。

昔から、生身で空を飛べると、信じて疑わなかった。機械の力を借りずとも、人間は空を飛べると思っていた。

ハンググライダーのように、翼さえ使わないで。

勿論それを誰かに言う事はなかったけれど。

崖なんかに行くと、ほいと飛び込んでみたくなる。勿論、下に落ちたら即死だと言う事は、分かった上で。

私は狂っている。

それは分かっているけれど。

どうしても、この飛べるという確信だけは、消えることが無い。

住んでいるのは、小高い丘の上。

私は、一応。

社会では、それなりのカースト上位にいる。両親が残したこの一戸建て。それに、会社も一部上場。

仕事は事務で、定時で上がれるし。

給料はそこそこ。並のサラリーマンくらいにはある。

大学を出て、三年。

駅と家を車で行き来しながら、仕事に行く日々。

家のバルコニーからは、海が見える。風が吹いていて、そのまま空を飛んで行けそうな感じ。

この辺りは元々高級リゾート。

家の資産の大半は兄が相続したけれど。

私はお情けでこの家を貰い。

飼い殺しの形で、会社で雇って貰っている。

それで私は満足なので、何も言わない。もしも一族の長になれとか言われたら面倒だったけれど。

そんなものには、幼い頃から興味が無かったし。

それを周囲も知っていたから、私には誰も構わなかった。

飛んでいきたい。

ビールを冷蔵庫から出して口にしながら、ぼんやり外を見る。

この光景だけは。

誰にも譲れない、私の宝物。

海なんてどうでもいい。

空が綺麗なのだ。

あの空に出て、飛んでいきたい。

飛んでいって、魚を食べたい。鳥も捕まえて、全部食べたい。翼を広げて、何処までも飛んでいくのだ。

ため息をつく。

どうしてだろう。出来るわけがないこんな事を、どうして出来ると、私は確信しているのだろう。

それもおかしな話だけれど。

小学校の頃から、ずっと確信してきたことだ。

一人しかいないこの家の中で。

どんな妄想を抱こうとも。誰かに責められる謂われは無い。私は人間で、しかも別に頭が良いわけでもない。

親の七光りで財産を得て。

そして今、権力争いに加わるのが嫌だから、まだ若いのに、隠遁生活みたいな暮らしを続けている。

誰にも空は飛びたいという話はしていないけれど。

私は筋金入りの変人として、一族には認識されている。権力欲や金銭欲が薄いから、らしい。

そして変人だから信用も出来ないというのだ。

兄からメールが来る。

時々、近況報告を寄越せというのだ。男が出来たり、大きめの買い物をしたら、即座に連絡するようにと。

私は一族にとって、面倒な存在になりかねない。

特に男が出来た場合、その男が私を利用して、一族の財産をむしりに来かねないのが怖いのだろう。

実際問題、私の素性を知ってからは。

甘言を弄して近づこうとする男もいた。

だけれども。

そういった男の大半は、いつの間にか姿が見えなくなっていた。多分、兄が手を回して、私を普段から、監視させているのだろう。それで面倒そうな男が近づくようなら、手段を選ばず排除している、というわけだ。

別にどうでも言い。

学生時代に初体験は済ませたが、それも今は昔の話。

当時は熱烈に燃え上がったが、今になってみればなんであんな風にとしか思えない。当時の男とよりを戻す気は無いし、生活できる現状、男なんていらない。

生活には、困らない。

それが籠の鳥というものだ。

また、スマホにメールが来る。

面倒だなと思いながら、スマホを起動。中身を確認すると、少しだけ驚いた。スパムかと思ったが、違う。

随分と手の込んだ方法で、メッセージが送り込まれていた。

ひょっとしてお前は、空を飛びたいと思っていないか。

内容はそれだけ。

だが、興味を引くには、充分だった。

 

私が社長一族の者だと、会社では公認の秘密となっている。だから事務をしていても、基本的に当たり障りのない仕事しか来ないし。

年少者の私に、上司も物腰がとても柔らかい。他の女性社員は腰掛けくらいにしか考えていない上司が多いが。私に対しては、そんな態度を絶対に採らない辺りが、兄の影響力の大きさがよく分かる。

触らぬ者に祟り無し。

昔から、この国で実践されている言葉だ。

ようするに、私は祟り神と同じような存在と言う事である。彼らにとっては。そしてそれは、真理でもあるだろう。

上司でさえそれだ。

耳聡い女子社員達は、そもそも私には近寄ってこない。

腫れ物だ。

だけれども、むしろ私には、その方が心地が良い。

勘違いされやすいが、私は仕事そのものは、きちんとやっている。どうやら私は、他の人間に比べて、極めてケアレスミスが少ないらしいのだ。事務をやるには、最適な性質という訳である。

もし私が、仕事が出来なければ。或いは上司達から、兄に苦情が行ったかも知れないけれど。

今のところ兄から来る連絡(と言う名の命令)には、職場を変えるというものはないし。仕事をしっかりやれというものもない。

兄は何でもずけずけいう性格だし、私には遠慮などしない。

だから、もし私が職場で問題を起こしていたら、間違いなくそう言ってくるだろう。

私は祟り神で良い。

元々、どうしようもない妄想を、周囲から隠し続けてきたような性質なのだ。性質的には内向的だし、外向的でない人間の権利を著しく制限する傾向がある現在で、こうやってそのまま生きられる場所は貴重だ。

今日も、弁当を一人で食べる。

ちなみに弁当はコンビニのじゃあない。

一人暮らしではあるけれど。監視を兼ねたお手伝いが時々来て、家事を手伝っていくのだ。その一人が、作っていったものである。

栄養は充分。

偏りもない。

まあ、私を殺す意味は今のところはないし。

一族にとっては、いざというときのスペアだ。権力強化のための、政略結婚用の手駒でもある。

此処で死なせるのはまずいというのだろう。私にとっては、そんな事情はどうでも良いので、弁当は黙々といただくことにするが。

ちなみに、食堂で私が使っている席は、誰も座ろうとしない。

祟り神専用席というわけだ。

だから。

向かいに、座ってきた奴には、内心驚いた。まさか今の私に、話しかけてくる奴がいるとは、思ってもいなかったからだ。

「昨日のメール、見ていただけた……ようですね」

「何あんた」

冷酷な返答にも、そいつは顔色一つ変えない。

黙々と弁当を食べる私にも。

気にしていないようで、話しかけてくる。

ちなみに年齢は多分私と同じくらい。何もかも盆暗な私と違い、非常に控えめながらもよく整った容姿の持ち主だ。

綺麗と言うよりは、可愛いタイプだが。

多分私と違って、ストレートに男にももてるだろう。

「貴方は、無意味にずっと昔から、空を飛びたいと思っていたでしょう。 しかも、飛べると信じていた」

「ちょっと、止めてくれる? 何かの宗教?」

「此処では何ですから、時間が出来たら連絡してください。 以前送ったメールのアドレスで構いませんから」

女は立ち上がると、一礼だけして去って行く。

ふと、気がつく。

周りは誰も、女に反応していない。

この席を、私専用扱いして、使いもしない連中が、である。それにあの女、容姿からして、この会社の者だとはとても思えない。

ひょっとすると、外部の者か。

しかしこの食堂。社員証がなければ、入れないのである。一体どうやって入って、しかも注目も集めずに出て行ったというのか。

舌打ち。

早々に弁当を胃に押し込むと、食堂を出た。

一番頭に来ていたのは。

あんな得体が知れない相手に、図星を指されたことである。どうして私が空に並ならぬあこがれを抱いていると、知っていたのか。

見透かされた。

しかし、どうやって。私は基本的に、自分の願望を外部に漏らしたことはない。ましてや、知りもしない女に、ばらしたことなど一度もない。

しばらく悩んだが。

結論は出ない。

あの女。どうして私がいつも妄想している、空へのあこがれと。飛べる事への確信を、知っていたのか。

ため息をつくと、私は仕事に戻る。

ちなみに監視は会社の中でも行われている。同僚の何人かは、兄が送り込んできている公認のスパイだ。

だから周囲は、私におべんちゃらを使えないという理由もある。

ちなみに上司も。物腰を柔らかくはしているが。おべんちゃらは使わない。

使えば首が飛ぶからである。

「今日も祟り神様、一人で食事してたね」

「うん。 でも聞こえたら何されるか分からないから、黙ってな」

女子社員達が、こそこそと話をしている。

残念ながら。

私に、そんな力はない。

力があるのは周囲だが。別にそれは私を怖れているのでは無い。私を利用する奴が現れるのを怖れているのだ。

だから、悪口なんか気にしない。誰もだ。

黙々と事務の仕事を進めて。

定時になったら、そのまま上がる。誰にも文句は言わせない。仕事はきちんと終わらせているのだから。

車を使って帰宅途中。

ふと、空を見ると。

一瞬だけ、何かが横切った。

あり得ない話だと思って、すぐに意識を運転に戻す。

私には、見えた気がしたのだ。

何か、空を飛んでいた。しかもそれは。ヒトの形をしていた。

そんな馬鹿な。

私はこれでも、空にはそれなりに興味があったから。飛行機については、一応の知識もある。

あんな形状の飛行機は存在しないし。

飛べるはずもない。

良くグライダーのコンテストなどが行われているけれど、あれは極めて緻密な計算の上に成り立った翼で、滑空するもの。

飛べるわけではないのだ。

家に着いた後、あの奇妙な出来事を忘れようと思って、冷たいシャワーを浴びる。その後、一気に熱いシャワーに切り替える。

周りで、変なことが起きるのには慣れっこだ。

その全ては、ほぼ人間が起こしていることも知っている。

ベッドに転がると、スマホをいじって、適当に暇を潰して。それから、やる事もないので。寝た。

もうテレビは飽きた。

ドラマはどれもこれもつまらないし、見ていてぐっと来るものが全く無い。

起きると、昨日のへんなものの事は。

忘れていない。

どうしてだろう。時間が経てば経つほど、鮮烈に記憶に食い込んでくる。

何だか、とても嫌な予感がしていた。

 

1、空への憧れ

 

会社の駐車場で、自分の軽から降りると。

思わず、空を見上げてしまう。

あの光景が、また見られるかと、思ってしまったのだろうか。あり得る話だ。やはり、あの一瞬の出来事は。鮮烈に残り続けている。

何をやっているのか。

自分に対して、腹も立つ。確かに尋常ならざる事だったけれど。多分何かの見間違いだろうに。

脳がどれだけいい加減な代物か、私は良く知っている。

脳は目から入った情報を、自分に都合良くねつ造する。だから幽霊なんてものを見るし、あり得ないものを感じ取りもする。

所詮。人間の脳なんて、そんな程度のもの。

だから、私が見たものも。空へのあこがれが産んだ、何か良く分からないものに間違いないし。

幽霊の正体が枯れ尾花であるように。

どうせ鳥か何かの誤認に間違いなかった。

自分にそう言い聞かせて、駐車場を出る。そして、今度こそ愕然としていた。

屋上に、誰かいる。

間違いなく、此方を見ている。

見ているのは、子供だ。

多分小さな女の子だろう。半ズボンとかが似合いそうな、ざんばら髪の健康極まりない子供。

肌は良く焼けていて、八重歯が似合うかも知れない。

そいつが。私に手を振っている。

そして、目を離した隙にいなくなっていた。

思い出す。彼奴だ。

間違いなく彼奴が、あの時見えた。空を飛ぶ人影。しかも、あの屋上は立ち入り禁止の筈。

こんな朝早く。

どうして、子供が。

混乱しながらも、急ぐ。あれは明らかに、私を見ていたし。手まで振っていた。あの、食堂に現れた女の同類か。

頼むから、私の近くには、来ないで欲しい。

私はただ。

静かに暮らしたいだけ。

権力闘争にも興味を見せず。

空を飛ぶ夢も、誰にも話さず。

静かに暮らすことを目的に、この世で生きてきた。それだけなのに、どうしてこんな不可解な事が起きるというのか。

苛立ちが、全身を支配していくのを感じる。

事務の仕事を開始。元々ため込んでいる仕事はないし、どちらかと言えば適正な量の仕事が来るから、何ら問題は無い。

ただ、ケアレスミスが、露骨に増えた。

頭を振って気分を入れ替える。

この世界にいられるのは、私が無難に過ごしているからだ。一応私はセルフチェックを出来る人間なので、ある程度のケアレスミスは取り除ける。しばらく黙々と作業を続けて、ケアレスミスを排除。

念のためもう一度チェックしている途中に、就業時間終了。

十五分ほど余分に仕事をして。

それで、会社を出た。

車に乗る。

ため息が出たのは、車の中なら安全だという確信があるからだろう。

車を発進させて、家に向かう。途中の道路は空いても混んでもいなかった。いつもと同じように、山の上の我が家を目指す。

おかしな事は何も起きなかったけれど。

しかし、家について。

駐車場に停めて。車から出たときに、それは起きた。

目の前に、すとんと子供が墜ちてきたのだ。

着地した子供は、間違いない。あのざんばら髪の。健康極まりない、小麦に肌を焼いた子供だ。

にまーと、馬鹿みたいな笑みを浮かべる。

口の中には、明らかな八重歯があった。ここまで来ると、できすぎなくらいである。

「おねーさん、オレに気付いてたんだろ? なんで無視するのさ」

「……どきなさい」

「何だよー。 空飛びたいって、素直に言えば良いのに」

子供はどくし、ついても来ない。

この子供、何処に潜んでいた。それに、私の家には監視カメラもたくさん付けられている。こんな不審者、速攻で警備会社に連絡が行くはずだが。それにどう見ても、空から降ってきた。どんなトリックを使ったのか。

家に入ると、外をこわごわうかがう。

子供はいない。

家の中にも、入られていない。

一応、警備会社を呼び出す。不審者がいるかも知れないと言うと、すぐに警備員が駆けつけてきた。

調べてくれる。

だが、彼らは小首を捻るばかりである。

「監視カメラにも何も写っていませんし、人の痕跡もありません。 疲れが溜まっていて、何か勘違いを為されたのでは?」

「そう、かも知れません」

「ともあれ、何も無くて良かったです。 それでは」

一応紳士的に敬礼すると、警備員は引き上げていく。

ベッドに深々腰掛けると。ビールを出して、飲む事にした。飲まなくては、やっていられない。

一体どうして。

こんな非日常が、周囲に現れるようになったのか。

兄から連絡。

内容は、極めて簡素だった。

「疲れているなら休め。 お前一人休んだところで、職場には何の影響も無い」

反論しようとして、止める。

別に疲れてはいないし。兄から見れば、そう見えるのも分かるからだ。

頭に来たが、それも仕方が無いと思い直して、ビールを呷る。非日常が、更に加速している気配があるのも。

また、忌々しくて、ならない。

だが、それはそれだ。もはやどうしようもないのも、事実である。

痛飲した後、ベッドで寝る。

そういえば風呂に入っていなかったけれど。

もう、そんな事はどうでも良かった。

 

翌朝。

さっそく、朝から非日常が起きる。メールアドレスなんて教えていない筈のスマホに、昨日の子供らしい存在から、メールが来たのだ。

「どうして空を飛びたいのに、やってみようと思わないのかなあ」

苛立ちが、いきなり爆発しそうになったので、顔を洗って気分転換。メールアドレスは何度も変えたのだが。どうして、変えたばかりのアドレスを知っているのか。

もう何が起きても不思議じゃあないが。

それでも一応、備えておく。無駄だと思うが、アドレスを変えて、出社。そして、すぐに無駄だと思い知らされた。

車から出てスマホを調べると。

もうメールが来ていたのだ。

「アドレスなんて変えても無駄だよ」

生意気に。

一丁前に漢字まで使っている。非常に腹立たしいけれど、我慢。返事をする。

「いい加減にしなさい。 大人をからかうものじゃありません」

「オレ、あんたより年上だよ」

声が、後ろから直接来る。

あの健康優良児過ぎる子供が、私の車の上に乗って、見下ろしていた。アホみたいな笑顔を浮かべたままで。

口から見える八重歯が。

むしろ私には、忌々しく思えた。

「まあ、見かけが小学生だから仕方が無いかなあ。 でもこれは江戸時代に生まれて、発育が悪い時代だったからだよ」

「何を言ってるの、貴方」

「一応オレ、経産婦だから。 あんたと違ってね。 ちなみに子供は四人育てた」

笑顔のママ、とんでも無い事をいう子供。

頭がくらくらしてきそうになったけれど、かろうじて立て直す。此処で此奴のペースに乗せられたら終わりだ。

もういい。

無視して、歩き出す。

ひょいと、隣に並ぶ子供。明らかに、十メートル以上の距離を、ひと飛びで詰めた。何だこれは。

しかも、着地時に、殆ど音がしなかった。

羽毛か何かのような印象だ。

「どうして欲求に素直にならない」

「五月蠅いわね、出来る訳ないでしょう!?」

「どうして?」

「それは私が人間だからよ」

周囲には、他の社員もいるのに。

どうしてだろう。私には、誰も構わない。独り言を言っている危ない奴、くらいに見えているのだろうか。

だとすれば腹立たしいし。

このガキを放置していることにも頭に来る。とっさに手を出しそうになるが、止める。子供を殴るほど、落ちぶれていない。

「ついてこないで」

「そうも行かないんだ。 オレとしても、戦力は少しでも増やしておきたいしね」

「はあ? 戦力?」

「今、オレたちみたいな存在が、二手に分かれて対立しててね。 その対立を、快く思ってないわけ。 だから全面対決を避けるために、ずっと人を避けて生きてきたオレも、重い腰を上げざるを得なくてさ。 あんたみたいな覚醒前のに声を掛けてるってわけ。 本当だったら、それぞれの人生を好き勝手に送るべきだと思うんだけどさ」

何だか分からない話だ。

いつの間にか、側に子供はいない。

ちなみに、もう事務所だ。子供は会社の中まで平然とついてきていたことになる。それも、社員証も無しで。

どういうことだ、これは。

頭をかきむしりたくなる。

あの食堂に現れた女といい。一体、私の周りで、何が起きていると言うのか。

 

今日は残業もなく、仕事はスムーズに終えた。

ただし仕事の最中、書類提出の際に上司に声を掛けた以外は、誰とも喋っていない。正直、鬱陶しくて仕方が無い。周囲の喧噪も、私にとっては殺意を喚起する以外の何物でも無かった。

帰ったあと。

久しぶりに、飲み屋に行く。

きんきんに冷えた生を注文。しかし、である。見覚えのない料理が運ばれてくる。そして、私の目の前に。

いつの間にか、あのガキが座っていた。

「オレがおごるよ」

そう言って、チーズの掛かった料理をもぐもぐし始める子供。

苛立ちが募ってくるけれど。

爆発はしない。

あっそうと言い捨てると、生を更に注文。一気に煽った。これは、ちょっとやそっとでは、酔えそうにない。

「子供が、飲み屋なんて来て良いわけ?」

「子供じゃないし、そもそも気付かないかなあ」

「はあ?」

「何であんたがこれだけ騒いでるのに、周囲の誰も気にしないのか」

ひやりと、何かが背中を這い上がる気がした。

確かに、言われて見ればその通りだ。

警備員も、子供の痕跡は無いと言っていた。つまりこの子供、周囲には全く気にされることもなく、活動していることになる。

現に今も。居酒屋で飲んでいるにもかかわらず、子供は平然と入り込み。注文までしている。

しかもこの子供。

江戸時代出身だとか、好き勝手な事をほざいていた。

頭がまともとは思えないのに。

何故だろう。頭がまともだとは思えないのは、むしろ自分のように、思えてきてしまっていた。

呼吸を必死に整える。

これは、ホラー映画の世界にでも、紛れ込んでしまったのか。

そうでないとすれば。

私の頭は、おかしくなってしまったのだろうか。

生を平然と呷りはじめる子供。

ぞっとする。

一目で分かったが、相当に飲み慣れている。此奴、本当に大人なのか。小学生くらいにしか見えないが。

「うーん、冷えてていいなあ。 水はまずいけど、食い物は美味いなあこの時代」

「……」

「何が目的」

「一度飛んでみたら?」

気がつくと。

目の前に、一万円札が置かれていた。

舐められていると私は思ったけれど。残りの注文を全て平らげると、その一万円で支払いをして、居酒屋を出た。

途中、見かけた空き缶を思い切り蹴飛ばす。

何処かの犬にぶつかったらしく悲鳴を上げたが、知ったことじゃない。閑静な住宅街で、悪態をつきながら歩く。

どうして、こんな。

こんな事に、なってしまったのだろう。

 

気がつくと、朝。

しかも土曜日だ。

いわゆる華金だったことに気付くのに、しばらく時間が掛かる。兄から、メールが来ていた。

兄は、ご立腹だった。

「随分と昨日は飲んでいたようだな。 酒をストレス解消に使うなと、以前から言っているだろう」

「うっさい馬鹿兄!」

吐き捨てると、スマホを床にたたきつける。

頑丈だから壊れないが、正直踏みつけて、割りたいくらいだった。

呼吸を整えながら、起き出して。パジャマを脱いで、シャワーを浴びる。どうしてこんな事になったのか。

あの子供も。

あの女も。

首を絞めて、殺してやりたい。

高級住宅だから、三階がある。バルコニーに出て、風に吹かれる。空を飛んでみたい、か。

勿論、実際にやってみたことはない。

でも、出来るとしたら。

目を閉じて、空に向けて意識を集中する。

そうすると、妙な光景が浮かんで来た。

あまりにも、巨大すぎる体を持つ。筋肉質な生物。いわゆる翼竜と言う奴だろうか。のしのしと歩きながら、適当な場所を探す。

丁度崖に出た。

翼を広げると、力強く飛ぶ。そして、風を受けて、空に舞い上がった。

飛んでしまえば、後は無敵。

エサも食い放題。

地上でも、決して弱い生物では無い。手当たり次第に敵を襲って、食い荒らすことも出来る。

鋭くとがったくちばしは硬く。

生半可な相手の頭を貫くには、充分すぎるほど。

私は、この地上でも、かなり強い生物で。

しかも、空では無敵なのだ。

目を開く。

一体何を妄想していた。此処まで強い妄想は初めてだ。あの大きな動物は何だろう。慄然としてしまう。

まさか、本当に。

今、空を飛べると、考えてしまっていたのか。

どうかしている。

空なんて、飛べるはずがない。もし飛べるなら、私は今頃。自由に空を舞って、こんな世界からは、おさらばしているはず。

少なくとも兄をはじめとする一族の呪縛からは、自由になっているはずなのだ。

昼寝すると後が大変なので、外に出かける。

そして、今の事を思い出して、慄然とした。

やはり私は、何処かおかしくなってきている。車を黙々と運転しながら、いつもは絶対に聞かないラジオをかなり大きめの音量で付ける。

そうでもしないと。

車の中で、叫び出しそうになったからだ。

近くの公園に到着。

駐車場に停めると、ぼんやり空を見上げながら、気付く。

目の前に。

あの女が。

いた。

 

2、崩壊

 

足が地面に張り付いたように動かない。

喉を鳴らして、唾を飲み込む。どうして、こんな。偶然の筈がない。でも、私は適当に車を動かして、それで。

女は、此方が話し始めるのを、根気よく待っているようだ。今日はハーフシャツに、動きやすいパンツルックと、随分ラフな格好。

それなのに、見かけは大変に清楚で、アイドルでもやっていけそうな整った容姿。ギャップが強烈なその姿。

どうしてだろうか、分かってしまう。

此奴には、絶対に勝てない。

「あ、あんた、どういうつもり……」

「気付かなかったんですか? 家から着いてきていました。 少し、話したい事があって」

「私には無いわよ!」

吐き捨てると、車に戻ろうとするけれど。

いつの間にか、女が手を押さえていた。

え。

どういうこと。

十メートルくらいは離れていたのに。どうして、目を離した一瞬に。わたしの側にいて。手を掴んでいて。

そして、私の手が、びくともしない。

悲鳴を上げようとしても、出来ない。何だろう。巨大な万力に、全身を押さえ込まれているような印象だ。

「最近、少し正体が分からない勢力が勃興してきていて。 私達のリーダーが焦っています。 その正体を知るためにも、貴方には話を聞きたいんです。 二代目のケツアルコアトルス。 前のケツアルコアトルスとは不幸な結末が待っていましたが、貴方なら、話が出来ると信じています」

ケツアルコアトルス。何だそれは。

確か神様の名前。

いや、違う。

史上最大の翼竜が、そんな名前だったはずだ。いや、どうして私が、そんな名前で呼ばれるのか。

女は、篠崎田奈と名乗る。

そして、自分は、アースロプレウラだと宣った。

何だそれは。此方は、一切聞いたことがない。冷や汗が止まらない。ひょっとして、とんでもない事に、もう足を突っ込んでいるのか。

「対立している一派は、まだ貴方には目をつけていないようなので、早めに動いておきたいんです。 少し手荒いですけれど、ごめんなさい」

「……」

気がつくと。

田奈とか言う女の拳が、私の鳩尾にめり込んでいた。

手慣れた様子で、悶絶した私を助手席に押し込むと。田奈という女は。私の軽を、自分のもののように運転しはじめる。

これは、誘拐では無いのか。

でも、完全に身動きが出来なくなっている私は。

もう、抵抗することも、出来なかった。

しばらくは。ごく安全な運転を続けていた田奈だが。いきなり、アクセルを全開に踏み込む。

悲鳴が出そうになるが。

生憎、体は禄に動かない。

「少し飛ばします。 舌を噛まないように気をつけて」

もう、生きた心地がしない。

高速道路に乗った車が、更に速度を上げる。既に120キロで全力だが。田奈はどうしたことか、車をそれ以上の速度で走らせているような印象だ。びゅんびゅん車が追い越されていく。

軽とは思えない、安定した力強い走りだ。

車が喜んでいるようである。

「追いついてきますね……」

何の話かと思ったけれど。

戦慄する。

バックミラーに、映ったのは、あの子供だ。平然と、車に追いついてきている。120キロオーバーは出ているはずなのに。

速度を小刻みに調整しながら、田奈がパーキングに入る。

子供も、当然ついてきた。

逃げ切れないと判断したのか。駐車場に滑り込むと、車を飛び出す田奈。

外で、もの凄い音が響く。

大砲みたいに飛んできた子供のドロップキックを、田奈が受け止めたらしい。しかも、ずり下がりもせずに。

「ほう、やるなあ」

「貴方は? エンドセラスの組織では、見かけない顔ですが」

「あんなひよっこが、今では世界を二分しているというのが驚きだな。 オレはもっと前から、この世界で能力者をまとめている存在だよ。 アースロプレウラ。 かなり鍛えこんでいるようじゃないか」

「オルガナイザーやると、どうしてもトラブルが多くなりますから。 鍛えておかないと、死んでしまいますからね」

まるで、車が衝突したような音を立てて、弾きあう二人。

子供は何度か地面を蹴って後方に。

回転しながら勢いを殺している様子が、凄まじい。

田奈の方はというと、掌を子供に向けるけれど。

一瞬後、今度は上空から踵落としを叩き込んできた子供に、手をクロスして受け止める。駐車場のアスファルトが。

クレーターを作って、凹む。

何だこれ。

人間同士の争いか。

「貴方は?」

「ユリアーキオータ」

「古細菌ですか! また凄い存在が出てきましたね」

手を振って、今の一撃など遊びでしかないという風情で、田奈という女が進み出る。ユリ何とかと呼ばれた子供は、左右に軽くステップしながら、間合いを計る。

恐ろしいのは。

周囲の人々が、此方に一切目を向けていないこと。

私は全身に冷や汗を掻きながら、ようやく動くようになった手で、シートベルトを外すけれど。

いきなり、座席に全身が沈み込むのを感じた。

押さえ込まれている。

でも、何によって。全く分からない。冷や汗が、だらだら流れ続ける中。私は、目をつぶる。

怖い。

このまま、何をされるんだろう。

いつも五月蠅い兄や、その周囲の人間は、一体何をしているのか。私の日常が、崩壊したのは、この時であったかも知れない。

 

体が楽になった。

気がつくと、血だらけの田奈と、比較的余裕がありそうな子供が、戦闘態勢を解かないまま、車のすぐ横で対峙していた。

子供がスマホを取り出すと、誰かと話し始める。

「パーキングでちょっと暴れてな。 すぐに修繕班を寄越せ」

「今回は、其方の出費ですよ」

「ふん、まあ良いだろう。 若造にしてはそこそこ鍛えている能力者で、オレも楽しめたからな」

田奈という女が、戦闘態勢をとく。

子供もそれに合わせて、気を緩めたようだった。

私には、どうでもいい。

この場にいるだけで、窒息してしまいそうだ。

「二人交えて話をする。 降りよ」

子供に言われるまま、車を降りる。

逆らえる空気では無かったし。あの無茶な戦闘力を見せられた後、逆らう勇気なんて浮かぶはずもない。

此奴ら、その気になれば。

私なんて、素手で解体できるのだ。

田奈はその間に、ハンドタオルを取り出して、血を拭いているようだった。この程度の出血は、日常茶飯事だとも言わんばかりの落ち着きぶりだ。

「貴方の能力、ひょっとして熱量操作ですか?」

「正確には体内のな。 これを使う事によって、身体能力を馬鹿みたいに上げられる」

「負担も大きそうですが」

「この力に目覚めて三百二十年。 今更、力の使い方を誤るような事もないわ」

談笑しながら、話している二人。

ちょっと前まで、パーキングが壊れかねない殺し合いをしていたとはとても思えない。怖くて、逆らう気にもなれなかった。

「そう言うお前は重力操作か。 追跡中に、面倒な攻撃を仕掛けてきおって」

「最近は車の加速にもつかえるようになりました」

「良く練っているでは無いか」

「いえいえ。 エンドセラスとは、これでもまだやり合えるとは思いません」

美味しくもなさそうな料理店に入る。

適当に注文を済ませる二人。後ろでは何だか工事車両がパーキングに入ってきて。壊れた駐車場を、直し始めていた。

兄たちにだって、此処までの事は出来ない。

此奴ら、どれだけの財力と権力を持っているのか。私は一応資産家の一族だから、金があれば出来る事は分かっている。

これはもはや、桁外れだ。

「で、そなたらは、どうしてこうも勢力拡大を焦っている。 此奴は能力覚醒どころか、その前段階であろう」

「エンドセラスの勢力が、発展途上国のチャイルドソルジャーを多数買い付けています」

訳が分からない話を、している。

一体何のことだろう。

能力者というのは、そもそも何なのか。

私には、全く解らない事だ。

あの変な妄想や。それにケツアルコアトルスとかいう呼び方がそうなのか。此奴らが、みょうちきりんな力を使って、訳が分からない戦いをしていたことは、両の目で見たけれど。

まさか、私にも。

備わっているとでも言うつもりか。

ばからしい。

私は生まれてこの方、無力感しか味わったことがない。勉強が出来る方でもないし、運動もしかり。

ケアレスミスは少ないけれど、それだけ。

それ以外に、他人より優れた能力なんて、何一つ備えていない。

ルックスにしてから、平凡そのものだ。兄が時の人とかで、経済系週刊誌などに写真が載ると、黄色い声を上げる女子社員が多いのに対して。私なんかは、一応の容姿はあるが、それだけ。

あっという間に、駐車場が治り。

何も無かったかのように。速乾性コンクリートはすぐに固まって。

そして工事車両も。もう消え失せていた。

「まさか、それで能力者を生産できるとでもいうのか」

「おそらくそのまさかです。 勿論、天然物に比べるとかなり力は落ちるようですが、どうも漂っている古代生物の魂を引き寄せる能力者を味方に付けたらしく。 今後は、一気に攻勢に出る可能性があります。 エンドセラスが危険な思想の持ち主だと言う事は、貴方にもわかるはずです。 出来れば、邪魔をしないでいただきたく。 力を貸してくださるのなら、これ以上の事はないのですが」

「ふむ……」

話をしていたユリ何とかが、此方を見る。

いずれにしても、此奴らはもう戦うつもりはないらしい。どうでもいいが、私を好き勝手に誘拐未遂しておいて。

私の意思を一切無視して、勝手な事を続けるのは、気分が悪い。

「とりあえず、これは返しておこう」

「ああ、それなら。 私が送り届けておきます」

「篠崎よ。 一つ聞いておきたい」

「何でしょうか」

ユリ何とかは、一瞬だけ。

子供とは思えない。

とても鋭い光を、目に宿らせていた。

「お前が求めるのは覇権か。 まさか、人間の支配する世界の主導権を、奪い取ろうなどと考えてはいまいな」

「エンドセラスじゃありませんし、そんな事は考えていません。 同類が平穏に暮らせれば、とは思っていますけれど」

「ならばよい」

全く分からないけれど。

話は同意に達したらしい。

私はそのまま、篠崎とか言う女に、家に送られた。

帰り道では。

おかしな事は、一回も起きなかった。

 

結局の所。

私が何故こんな訳が分からない非日常に巻き込まれたのかは、よく分からない。分かっているのは、私には分不相応な世界だと言う事だ。

私は、生まれついての負け犬だ。

幼い頃から、兄はとにかく優秀だった。

容姿にしても頭脳にしても身体能力にしても。周囲の大人が兄を何より優先するのも、よく分かる。

一族の跡取り。

未来の希望。

それに対して私は、平々凡々。精々がスペア。

能力も容姿も、何もかもが兄には遠く及ばなかった。そして私は、小学生の頃には、現状に反発することを諦めていた。

そうすれば、被害がないことを、理解していたからだ。

私は弱く。

体を縮めていれば、それでいい。

そうすれば、静かな生活だけは出来る。兄のおこぼれで、他の人間よりも、ある程度豊かには生きられる。

それで良いではないか。

達観というのでは無い。

あきらめだ。

負け犬の思考。それが、私の厭世観の正体だ。

空を飛べるという妄想は、そこから来ているのだと思っていたのだけれど。特撮もびっくりのアクションを見せられた今となっては、正直な話その自己分析も揺らいでしまう。

兄からのメールが来た。

驚くべき事に。

昨日私が、誘拐未遂された事に、兄は気付いていなかった。

何かあったら連絡するように。

それだけしか書かれていなくて、拍子抜けすると同時に。絶対者だとしか思えなかった兄が。

とてもちっぽけな、化け物の足下にいる子犬程度にしか思えなくなってしまっていた。

くつくつと、笑いが零れてくる。

ベッドでごろごろしながら、人知れず私は笑う。

私は、こんなちっぽけな存在を、恐れ続けていたのか。

あの化け物達に比べたら、子犬も同然じゃないか。

そして彼奴らが、私を誘拐未遂したと言う事は。

私にも、彼奴らみたいな、異常な力が備わっている可能性が高い。空を飛ぶ、か。出来る訳がないと、常識から否定していたけれど。ひょっとしたら、出来るのでは無いのだろうか。本当に。

バルコニーに出る。

目を閉じて、手を広げると。

空を飛ぶことを、イメージした。

目を開ける。

バルコニーに立ったまま。

ま、いきなり出来るわけがない。

しばらく私は。

本気で空を飛ぼうと、四苦八苦してみた。

流石にバルコニーから飛び降りようとは思わない。でも、いっそそれもアリかも知れないと思えてくる。

そのまま、色々やってみて分かったことは。

多分念じるだけでは、飛べないという事だ。

超能力を使う漫画みたいにはいかないという事である。まあ、それならそれで別に構わない。

何の苦労もなく空なんて飛べたら。

それこそ、拍子抜けの果てに、何もかもやる気が失せるだろう。

ベッドから飛び降りてみる。

フローリングの床に着地。

ずしんと来るかと思ったけれど。

思ったよりも、反応がぐっと柔らかい。あんまり足の裏に衝撃が来ないとでも言うべきだろうか。

これは、本当に行けるかも知れない。

何度かベッドから飛び降りてみる。その度に、負担が小さくなっているのが、何となく分かる。

勿論、いきなりからだが浮くようなことはないけれど。

それでも、何となくだが。眠っていた力が、少しずつ目を覚ましはじめているように、思えてきた。

単なる錯覚の可能性も高い。

しかしこうやって、実際に負担が減っているのを肌で感じると。

ひょっとすると、ひょっとするかも知れないと、思えてくる。

小さく息を吐くと。

今度は階段から飛び降りてみる。いきなり一番上からは無謀だろうから、少しずつ段数を増やしていく。

ベッドよりかなり負担が大きい。

それに何より、元々私は運動がそれほど得意ではない。

飛び降りるのに失敗したら、多分階段に足をぶつけて、頭から床に激突することになるだろう。

流石にそれはぞっとしない。

しばらく三段で試してみて。

ここまでで、少し休憩を入れて。思いを色々と巡らせてみる。

もしも飛べたら、何が出来るだろう。それを思うと、非常にわくわくしている自分がいる事に、気付いて。

まるで子供みたいだと自嘲するけれど。

その一方で、本当に飛べたら凄いと、子供の頃に封印したはずの気持ちが、せり上がってくるのも分かっていた。

ずっと、蓋をしていたのだ。

周囲に、目をつけられないように。

負け犬は、じっと身を縮めて。

トラブルを避けることで、かろうじて生きていける。

もしも私が、力を手に入れたら。

もはや、そうしなくても、生きていくことが出来る。それは、一体どれくらい素晴らしい事なのだろう。

わくわくすると言うよりも。もはや、野心が体を焼き尽くしそうなほどだ。

三段を飛び降りても、負担が著しく小さくなってきたのは、夕方の事。

今度は四段を飛んでみる。

これも、思ったほどに、衝撃はない。

床に足を強かたたきつけるようなダメージはないし。

ふんわりと、床に降りる感触が、むしろ心地よい。

今まで休日と言えば、家で寝ている事の方が多かったけれど。

これは、或いは。

人生が変わるかも知れない。

負け犬で、何も出来ないゴミのような人生から。自分からものを考えて、実践していける人生に。

 

3、夢の先

 

どれくらい、飛び続けただろう。

流石に私が奇行を繰り返していることに、兄も気付いたらしい。というか、私の家に監視カメラが仕込まれていること何て、周知だ。

以前カレシを連れ込んだら、翌日にはばれていたくらいである。

「ストレスが溜まっているなら、何かしらの発散手段を採れ」

メールを見て、兄らしいと思う。

何だろう。

前は絶対に勝てない相手としか思えなかったのに。今ではどういうわけか、むしろ哀れにさえ感じていた。

絶対権力が生まれつき備わっていた兄。

でも、考えて見れば。

それがなければ、何も出来ない男。

既に結婚している兄だが、絶対に逆らえない立場の女性を妻にして、家庭でも横暴に振る舞っているという。

子供にも、鉄拳制裁を基本とした教育を実行。

周囲にあの親子はと聞くと、絶対に口をつぐむ。

そんな親子が、兄一家だ。

だが、それも考えて見れば、兄の置かれている立場を考えれば、当然なのかも知れない。

兄は怖くて仕方が無いのだ。

自分が絶対者でないと。

私が逆らったとき、徹底的にたたきのめすような真似を繰り返してきたのは、それが理由の一つだろう。

すんなりと、分析が出てきて、自分でも驚く。

自分は一体。

どうしてこんな相手に萎縮して、恐怖し続けていたのだろう。

日曜日も、ひたすら飛ぶ訓練を続ける。そろそろバルコニーから飛んでも行けそうだと思い始めたけれど。

しばらくは階段で練習。

やがて、階段の一番上から飛び降りても。

すんなりと、柔らかく着地できるようになった。

これは、凄いことだ。普通の人間だったら、絶対に出来るわけがないと、肌で分かる。要するに、彼奴らが私に目をつけたのは。当然のことだったのだろう。

今は、こんな程度の事しか出来ないけれど。

少しずつ技を磨いていったら、どうなるか。

田奈という女は、自分より強い相手がいるように言っていた。そう考えると。あの女を超える事も、不可能では無いのだろうか。

面白い。

もっと、もっと、もっともっと。力を付けたい。

 

翌日からは、大人しく会社に通った。

時々視界の隅にあの田奈とか言う女を見かけたが。監視以上の事をするつもりはないようだった。

ユリ何とか言う子供に到っては、姿を見せることもなくなった。

興味が失せたのか、それとも。

田奈とやらに、私を譲る気になったのか。

どうでも良いことだ。

私は個人の所有物では無いし。あんな奴らには、最初から従う気はさらさら無い。

飛べるというのは、自由と言う事だ。

そして、飛ぶに関係する能力が少しずつ開花するのと同時に。私の頭は、冴え渡ってきている。

仕事でも、ミスはしなくなった。

今までもケアレスミスは少なかったけれど。完全にゼロになった。普通の人間なら絶対に不可能なことである。

それだけじゃあない。

耳も良くなっている。周囲の会話が、全部拾えているほどだ。

部長の浮気の話。

課長の失敗の話。

何もかも、弱みになりそうな事が聞こえている。私のデスクは更衣室からかなり遠いのに、其処の声も全て拾えているほどだ。

そして、能力が上がれば上がるほど、分かる。

あの田奈という女は、こんなもんじゃあない。

つまり更に能力を磨けば、もっともっと強くなるという事だ。

少しずつ。

今まで押さえ込まれてきたものが、情念となって燃え上がっているのが分かる。今まで好き勝手に心身を蹂躙してきてくれた兄を。その一族を。

皆殺しにすることも、不可能じゃあない。

好戦的になってきているのが、実によく分かる。

叫びたいし、暴れたい。

食事も、今までとは、比較にならないほど多く食べるようになっていた。魚も肉も、である。

特に魚は。

大きめのぶりを一匹丸ごと買ってきて。そのまま食べてしまう日もあった。

兄からメールが来る。

明らかに混乱している。私を監視している連中が、おかしいと報告してきているのだろう。

「精神科医に行け。 何か病気になった可能性がある」

うるせえ唐変木。

吐き捨てたくなったが、今は我慢だ。

此奴をブチ殺すには、しばらく黙って大人しくしていた方が良い。その方が、何もかもがやりやすい。

今は、とにかく力を上げる。

会社から家までは十二キロほど。

だが、今では。

その距離を、毎晩走って帰っていた。そうでもしないと、むしろ体がほてって仕方が無いのである。

運動は、別に得意でもなかったのに。

そして走るときに。足に掛かる負担が、露骨に減っている。

私は、あらゆる意味で。

能力が、極端に上がり続けている。

 

十二キロを、余裕で三十分で走りきれるようになった。

言うまでも無いが、マラソン選手なみ。しかも実際にフルマラソンをやると、体重が数キロ減るという過酷な世界。私は勿論、体重なんて減っていないし。筋力を鍛えてもいない。

体が軽いのである。

良く動く。

走るときに、いちいち足への負担が小さい。

体自体もとても良く動くから、とても走るのが速くなる。綿のように体が弾んでいる印象だ。

それでいながら、体重はそのまま。

だから時々、足下のものを踏みつぶしてしまって、自分の重みに気付かされたりもする。ああ、そういえば重かったんだ、と言う風に。

もう完全に車は無用の産物。

あれだけ気に入っていた軽なのに。今では車庫で、埃を被っている有様だ。

能力を意識し始めてから、わずか三ヶ月。

私の生活は、もう以前とは全く別の状況に、シフトしてしまっていた。

時々、田奈という女は来るけれど。

私を無理に仲間に誘う気は無い様子だ。むしろ、私という存在を見極めようとしているように見える。

それならそれで、別に良い。

私は今、もうかなり能力をセーブしながら生きるようにしている。会社でもそれは同じ事。

意図的に、自分におもりを付けて歩いているようなものだ。そうすることで、更に能力を鍛え上げることが出来る。

「素晴らしい……」

土曜日。

思い立って、私は実行した。

崖から飛び降りたのだ。

勿論無事。

海岸線の岩場に着地した私は。思わず歓喜の声を上げていた。これなら、生半可な相手の追跡くらい、簡単に振り切れる。

だが、まだまだ足りない。

飛べるようにならないと。

あの兄の一族を、根こそぎぶっ殺せるようになるには、この程度では足りない。人間の武器というのは、それだけ優秀なものなのだ。

最近は、かなり気配も分かるようになってきた。

だから今、見られていることが分かる。

岩場を飛んで、走る。

崖を蹴って、重力を無視したかのように駆け上がる。ガードレールの上に着地。そのまま、路を走り始めた。

見ているのが誰かは分からないけれど。

振り切れるか、試してみたい。

相手はついてくる。

まあ、これくらい能力を使いこなせる奴は、別に珍しくもない、という事なのだろう。それでいい。

こんな程度で上限を極めてしまったら。

慢心してしまうでは無いか。

足を止める。

途中で、車を追い越しそうになったので、何度か減速したが。相手は余裕でついてくるからだ。

もしも害意があるのなら。仕掛けてくる好機は、何時でもあった。

仕掛けてこないという事は、監視だけが目的で。用事は、監視だと言う事だ。だから、別にどうでも良い。

まだまだ、振り切れない。

それで、自分の力を、ある程度測れるからだ。

後は悠々と歩いて家に帰る。歩いてと言っても、以前よりも四倍も速いが。以前の全速力と、殆ど同じである。

兄には伝わっている。

私が、毎日走って十二キロを行き来していることも。

つまり、一日二十四キロ。ハーフマラソン以上の距離を走っている、という事だ。体力の塊に思えているだろう。

兄は明らかに混乱している。

以前は高圧的なメールばかり送ってきていたのに。

最近は機嫌を伺うようなメールも、かなり送ってくるようになっていた。

自分の思い通りにならない。自分の一番好き勝手に出来る道具だった私が。全く何を考えているか分からない。

凶悪な権力に怯えて、負け犬として生きていた私が。

いつの間にか、自立自存を身につけている。

それが兄には怖くて仕方が無いのだ。

こういうのが分かってしまうと、兄は実のところ、ただの裸の王様だったことが理解できてくる。

資産家と言っても、所詮は狭い世界の話。

世界的なOSの権利を持っている人間や。石油王などと比べてしまうと、文字通りゴミも良い所。

一族揃って、蠅か蚤に等しい。

勿論普通の人間に比べればお金持ちだけれど。

比較する対象を変えれば。どちらも似たようなものだ。

家に着くと。

玄関の上に、あのユリ何とかがいた。屋根に座って、足をぶらぶらさせている。

「久しいな」

「何、今日の追跡者、貴方?」

「あいにくだが違う。 少し警告をしておこうと思ってな」

ひょいと、ユリ何とかが目の前に降りる。

そして、今なら分かる。

此奴は私よりも、遙かにあらゆる面で優れている。まだまだ此奴には、遠く及ばないし、何をやっても勝てない。

だが、それでいい。

目標は遠いほど、楽しいではないか。

それに何となく分かっている。

多分私の加齢は止まってしまっている。

それならば、時間はいくらでもある。

「何、私を狙っている奴でもいるの?」

「簡単に言うと、お前は上を見すぎて、足下が見えなくなっている。 多分人間が、ゴミクズに見えて仕方が無い時期だろう」

「そうよ」

「それが危ない。 人間を侮るな。 死ぬぞ」

気がつくと。

ユリ何とかは、影も形も残さず、消え失せていた。

人間を侮るな、か。

もしも私を虐げるつもりがある人間がいるとすれば。それは多分、兄だろう。明らかに自分の制御を離れた私を見て、恐怖している様子があるからだ。それに私としても、いずれ兄を殺すつもりである。

一刻も早く、能力の完成を急ぐべきか。少なくとも、人間如きには、脅かされない程度には。

あのユリ何とかにしても、田奈にしても。

多分、ちょっとやそっとの武装した警官程度なら、歯牙にも掛けないほどの戦闘力を持っているはずだ。

彼処まで行かなくても。

少なくとも、人間の追跡なら振り切って、自力で生活できる程度の力くらいは、身につけておきたい。

家に入ると、スマホを忘れていた事に気付く。

最近はほとんど持ち歩くこともなくなっていた。それだけ、人間がどうでも良くなってきているのだ。

ネットは昔、時々暇つぶしに見ていたが。

それさえ興味が失せはじめている。

勿論、昔からの友人などいない。

「おや、久しぶりに来てる」

スマホを開いて、私は呟く。

兄から、くだらないメールが来ていた。兄はもう最近は、昔のような高圧的なメールは一切寄越さなくなった。

元気にしているか。

体は壊していないか。

そんな、老母のようなメールを寄越してくる。

おかしな話だ。

父母を老人ホームに放り込み、死ぬまで監視を続けさせて。その後は会社の実権を独占して、好き勝手に振る舞っている兄が。一体どういう風の吹き回しか。

メールは無視。

他にも連絡が来ている。それにもざっと目を通しておく。

何だか妙なメールが、その中に一つあった。

最初はスパムかと思ったのだけれど、何だか違う。

無数の英数字の羅列。

見ていると、意識が引っ張られる。

ふと、気付く。

もう、メールは影も形もなかった。

ユリ何とかは言っていた。人間を侮るなと。これはひょっとして。何かの前触れだろうか。

嫌な予感がする。

 

会社に出向く。

最近は私は古参の人間からも恐れられるようになっていた。私を見ると、青ざめて全員が道を空けるし、顔を背ける。

特に怖れられるようなことなど、していないのに。

おかしな話だ。

ただ、彼らは。私が陰口を全て把握していることに、気付いているらしい。何人か生意気な奴を締めたから、かも知れない。

化け物共には及ばないにしても。

今の私は、プロレスラーくらいだったら、秒殺できる程度の実力は身につけている。私の空気そのものが違う事は、皆把握しているらしく。私が視線を向けるだけで、悲鳴を上げる者もいた。

正直、気分は良い。

終わった仕事を、課長の所に持っていく。

今更、ケアレスミスもしない。今回渡されていたデータは、十万項目ほどだったけれど。

その程度だったら、全ての項目も覚えられるようになっている。実際、すらすらと暗誦してみせると、課長は青ざめた。

「き、君。 とりあえず、もう回せる仕事はないし、コピー取りでも手伝ってやってくれるかな」

「分かりました」

言われるまま、コピー取りを行う。

簡単すぎてあくびが出るけれど。

しかし、誰かがやらなければならない面倒くさい仕事でもある。お茶くみでもしようかと思ったけれど。

課長が大慌てで、仕事を廻してきた。

適当に処理。

定時が来たので、さっさと上がる。私が事務の仕事を完璧にこなしていることは、周囲にも見せつけている。

この先、何かしらの文句を言われる筋合いはない。

勿論、今日も帰宅には車を使わない。徒歩である。

帰り道を走り、行く。

途中で、スマホにメールの着信があったが、無視。家に着くまでは、放置しておくことにする。

今日も、何か付けてきている奴がいる。

あっさり私についてきている事から言っても、多分同類だろう。同類であるならば、仕掛けてこないなら。放置して構わないだろう。

問題は人間の場合。

どうやって付けてきているかはよく分からないが。

殺した方が良いかもしれない。

最近は、人を殺すという行為にも、忌避が全くなくなりつつある。まだ実際に殺してはいないけれど。

殺すときは、何ら躊躇もないだろうと。私は考えていた。

裏道に入る。

追跡者は振り切れない。

はて、一体何者か。

今日は、存在だけは確認しておきたい。狭い路地に入り込んで、速度を上げる。不意に、追跡が止まった。

どういうことだ。

まさか、今までの追跡は、車か何かで行われていたとでも言うのか。

幾つかの家の屋根を飛び越える。

跳躍力が増していて、これくらいは簡単にできるようになっていた。

裏通りを突っ切り。

住宅街を抜けて。

一気に自宅への最短距離に復帰。

追跡を再開する何者か。

やはり、ひょっとしてだけれど。車を使って、追跡しているのかも知れない。そして私の位置そのものは、監視カメラや、GPSでも使って把握しているとみるべきなのだろうか。

だとすると面倒だ。

監視カメラなんて、何処にあるか分からない。

確かに、人間を侮る訳にはいかないと、私は思った。今更である。例え肉食恐竜だって、ロケットランチャーの直撃を喰らえば死ぬ。

人間の持っている兵器は、それだけの破壊力を持っているのだ。

私だって、スナイパーライフルで頭を打ち抜かれたら、きっと死ぬだろう。簡単に狙撃なんてさせないが。

まだ、力を磨く必要がある。

今も、漠然と追跡されているという事が分かるだけ。追跡者の、具体的な位置は分からないのである。

せめて、それくらい分かるようにならないと。

人間とは、戦えないかも知れない。

そして、今更ながら気付く。

もう私は、自分を人間だとは見なしていない。

むしろ人間の敵として自分を位置づけて。人間と戦う事を、将来的に想定していた。それを、何とも思っていない。

もう、私は。

あらゆる意味で。

人間では無いのかも知れない。

 

買ってきた青魚を、丸ごと囓る。

寄生虫など、何ら怖くもない。今の私なら、胃で消化してしまう。幾つか、実験もしてみた。

胃液を吐き戻して。

普通だったら、人間の胃液程度では死なない生物を。胃液と一緒にシャーレに入れてみたのだ。

蛆虫や寄生虫を実験には使用。

手に入れるのは、通販などを使った。

結果は凄まじい代物だった。

溶ける溶ける。

人間の胃液と酵素程度ではびくともしない蛆虫でさえ、あっという間に溶けてしまうほどだった。

これなら、魚の寄生虫程度、どうともなる。

だから、青魚を頭から囓ることも、平気で出来るのだ。

骨も全く恐るるにたりない。

かみ砕くことは容易だし。小骨が喉に刺さるようなこともない。

そして生の魚の何とも美味なこと。

これを知っていたら。幼い頃から、もっともっと口にしていたかも知れない。刺身とは、また違う。

血や内臓の味も含めて。

美味いのだ。

最初は小型の魚を食べていたが。

最近は、掌には載らない大型の魚も、一日でぺろりと平らげてしまうようになりつつあった。

こういう意味でも、私は。

もう人間とは言いがたい。

別にどうでも良い。

私は元々、人間社会の落伍者だ。金持ち一族の中での負け犬。一族からさえ、人間とはみなされなかった、飼い殺しの犬。

いや、鳥か。

夢には、頻繁に巨大な鳥のような翼竜のような生物が出てくる。

それはたくましい体で空を飛ぶ。

海に出ては、風を受けて舞ながら。魚を食べる。

陸にいる小さな動物を見つけては、襲って喰らう。

我が物顔に生きる、空の覇者。

その体格は巨大で。

大半の襲撃者は、威嚇するだけで、追い払う事が出来るのだった。

スマホにメール。

面倒くさい。今度は誰だ。

見ると、やはり英字と数字だけのメールだ。気味が悪いが、発信者は自分になっている。つまり偽装だ。

空を飛んで逃げたい所だけれど。

何となく、最近はこの力の意味が分かってきた。

冷蔵庫を開けて、牛乳を呷る。

最近は、ビールを飲みたいと思わなくなった。代わりに、栄養が豊富な、牛乳を飲みたいと思うようになってきていた。

私は、空を飛べるんじゃない。

空の中で、生きられるのだ。

だから体が軽い。

空を力強く、鳥のように舞うことは出来ないけれど。恐らくは、グライダーのように滑空なら出来る。

それが、私の能力。

だから歩いている時、足の負担が小さいし。

崖から飛び降りても平気。

かといって、体重が掛かっていない訳では無い。物理的な意味での法則は無視しているけれど。

私自身は、風の中にいるのだ。

ふと、気付く。

追跡者が、家の外にいる。大分鋭くなってきた私だ。このくらいは、分かるようになってきた。

まだ具体的な位置は分からないけれど。

ある程度はわかる。

家を素足のママ飛び出す。

慌てて、逃げ出す追跡者。見ると、車だ。

ナンバープレートは、一瞬で覚えた。アレは多分、公用車ではない。そうなると、監視しているのは、探偵か何かか。

ありうる話だ。

兄が私の奇行を怖れて、興信所に連絡をした可能性は大いにある。

そして兄の財力なら、相当に腕利きの興信所に、仕事を依頼することも出来るだろう。何だか、面白くなってきた。

逃げ出す車に向けて、クラウチングスタートの態勢。

そして、ダッシュ。

見る間に距離を詰めていく。

仰天しただろう興信所の車だけれど、逃がさない。一気に距離をゼロにすると、ボンネットに飛び乗った。

満面の笑みを浮かべた私は。

恐怖に引きつった、中年男性の姿を見る。

興信所の探偵というと、渋くて格好いいいぶし銀を想像するかも知れないが。実際に見ると、くたびれたただのおっさんだ。

フロント硝子を割って引きずり出してやろうかと思ったけれど。

止まって車を降りろと、その場で命令。

ブレーキを掛ける車だけれど。

私は振り落とされて何てやらない。

にやにやしている私を見て、堪忍したのか。

探偵は車を降りてきた。

「な、何だあんた。 どうやってこんな……」

「何を今更。 私が毎日ハーフマラソン並みの距離を走って通勤していることは、分かっているだろうに」

冷然と指摘すると、探偵は押し黙る。

この場で首をもいでやってもいいのだけれど。

手の甲で、首の後ろを擦る。

最近、何だかこうやって、首の後ろを掻くことが増えてきていた。理由はよく分からないけれど。

生魚が美味しくなったのと、無関係では無いだろう。

「兄の差し金?」

「依頼人のことは喋ることが……」

ごっと、風がなる。

私が蹴りを繰り出して。おっさんの帽子を消し飛ばしたのだ。

多分喧嘩慣れしているだろうおっさんだが。私が蹴りを繰り出したことも、分からなかったはずだ。

文明の利器を使えば追跡も出来るが。

一対一で相対すれば。こんなものである。

「もう一度聞くけれど、兄の差し金?」

「い、言えない」

「首をへし折ろうかしらね」

青ざめる探偵が、逃げ腰になる。

逃がすか。

だが、その時。

銃撃の音がした。

慌てて飛び退くけれど、鋭いしびれ。足に多分猛獣用の麻酔が突き刺さっている。舌打ちして、引き抜く。

まだいたのか。

探偵が車に飛び乗って、慌てて逃げていく。

足に強烈なしびれが来ていて、追うどころではない。なるほど、確かに人間を侮っていた。

まさか市街地で発砲するとは、思ってもみなかった。

兄はどうやら、相当怖れているらしい。

だが、どうでもいい。

此処までの事をしてくれたと言う事は、宣戦布告をしたに等しい。必ず殺そうとは思っていたけれど。

それを前方修正する必要がありそうだ。

足を引きずって家に戻る。

魚をむしゃむしゃ食べてから、寝る。

起きると、もう足の血は止まり。

怪我も殆ど治っていた。勿論、足のしびれなど、残ってなどいない。完璧なまでに回復している。

快復力もこの通りである。

くつくつと、笑いが漏れる。

今のこの体は。鍛えれば鍛えるほど、人間離れして強くなって行くのだ。しかもどれだけの高さから飛び降りても平気なのである。

こんな強靱な体。

活用しない手はないだろう。

兄への復讐。

それを明確に意識した私は。更に、体を鍛えることに、力を入れることを決めていた。モチベーションを上げるには、目的を設定するに限る。

そして今の私なら。

その目的を達するのも。夢では無い。

 

4、空へ舞い上がる

 

夜陰に乗じて。

家を出た。

多分兄は、もう私が人間では無いことに、気付いている筈だ。だから、真正面から乗り込んで、その守りをぶっ潰してやることにした。

一体どれだけ、楽しい作業だろう。

兄を守っているSPを全員八つ裂きにして。

クソ生意気な兄の子供を皆殺しにし。

主体的な意思も無く、兄に奴隷のように使われている義姉も首を引きちぎり。そして、失禁した小便の中で震えている兄を、まず引き裂いて、内臓を引っ張り出し。死なない程度に解体した後。

生きたまま、喰ってやるのだ。

舌なめずりする。

今までの復讐を、此処まで完璧に出来れば。もはや言う事はない。

ふと、気付く。

前から歩いて来るのは。

田奈だ。

久しぶりに会う。そして、まだ私では勝てない相手だとも分かる。一体どれだけの研鑽を積み重ねてきたのか。

その圧倒的な実力は、見ているだけで、神々しいとさえ思えた。

「完全に、人の路を踏み外しましたね」

「これから踏み外すんだけれど」

くつくつと、笑う。

此奴の能力は、以前聞いて覚えている。重力操作。

本来だったら、私とは相性が最悪だけれど。どうしてだろう。私は此奴が、まるで怖くなかった。

勿論、実力は相手が上。

戦ってしまえば、勝ち目がないことは、目に見えている。

それでも私は。

どうしてか、此奴が怖くない。

今や私は、人間よりケダモノに近い。本能が、それを理解しているとしか、思えない。そして私は。

知性よりも。本能を信頼するようになっていた。

「貴方の家庭環境は分かっています。 でも、これからすることは、だからといって許せる事でありません。 引き返すなら、今です」

「いいじゃないの、それくらい。 やらせてあげなさい」

不意に、第三者の声が割り込む。

飛び退く田奈。

此奴が、これほど本気で回避に掛かるとは。生半可な相手ではないという事だ。

現れたのは。

しっかりした印象を一目で受ける、長身の女。女性向け雑誌などで、特集が組まれそうな、キャリアウーマン的な女性の憧れるような体型。

まるで、マフィアの女ドンだ。

何となく、分かった。

此奴が以前、田奈が言っていた。

勝ち目がない相手だろう。

エンドセラスとか言ったか。

「まさか、貴方が直接出てくるなんて」

「篠崎田奈。 今、丁度お前に勝てる手駒が全員出払っていていなくてな。 うちも勢力を増しはしたが、手練れはそう多くない。 お前を殺すつもりなら、私が直接出向くか、それとも育ててきた兵士を十名以上ぶつけるか。 どちらかしか手がない」

「……良いんですか。 陽菜乃さんが、控えているかも知れませんよ」

「彼奴なら、今実験部隊が押さえ込んでいる。 戦況は互角だ」

田奈が、歯を噛むのが分かった。

形勢逆転。

なるほど、本能はこの状況を察知していたと見て良い。

「行け。 そして好きなように殺してこい」

「駄目です。 此処でそんな事をしたら、貴方はもう戻ってこられなくなります!」

エンドセラスは私の凶行を後押しし。

田奈は必死に止めようとする。

だが、今の私は。

人間など、どうでも良くなっている。むしろ、田奈の必死な様子は、煩わしくてならなかった。

「兄がただの一度でも。 兄らしい行動をしてくれれば。 あんたの言葉にも、耳を貸したんでしょうけれどね。 私は捨て扶持を貰って飼い殺しの目に会ってきて、生まれてこの方それを打開したことが一度もない。 もう、うんざりなのよ」

「良いですか、ケツアルコアトルス。 貴方の進む道の先には、血と臓物しかありません!」

「上等」

「……っ」

田奈が、エンドセラスから距離を取ったまま、此方をにらむ。とても口惜しそうに。それだけで、溜飲が下がる。

それにしても、あの化け物が、これだけ慎重になっているのだ。

エンドセラスとやらの実力は、一体どれほどなのか。

強いというのは肌で分かるのだけれど。

どうにも、実感が無い。

飛び退くと、二人から距離を取る。田奈は動かない。おそらく、どうしようもないのだろう。

自分より格上のエンドセラスが目を光らせているのである。

確かに、身動きなど出来ようはずもない。

私は闇夜を走る。

兄がいる家の位置は分かっている。其方へ、まっすぐ、一直線に。能力はどんどん使いこなせるようになってきている。家を飛び越すのも、自由自在だ。飛べるわけではない。飛び越しているのである。

あくまで原理は滑空。

空気の抵抗を操作して、自分の体を空に運ぶ。

その後は、自分で羽ばたいて飛ぶわけではない。

風を操作して、自分を目的地へと、動かしていくのだ。

後、三十キロほどだろうか。

不意に、足が止まる。

また、邪魔が入った。

ユリ何とかが、塀に背中を預けて。闇夜に浮かび上がるように、その存在感を、見せつけていたのだ。

「何よ、貴方も邪魔をする気?」

「別に」

その割りには、此処を通す気は無さそうだ。

面倒くさい。

邪魔をするならする。そうではないならそうではない。で、はっきりして欲しい。私は、今までやりたい放題してきてくれた一族を、許したくないのだ。

「なあ、聞きたいのだが」

「何を?」

「お前は、これから一族を大量虐殺したとして。 その後、どうやって生きるつもりだ」

「そんなもの、略奪に決まっているでしょう」

警察なんぞ、今更どれだけ群れても怖くない。

かといって軍隊は、出てくる筈もない。

それならば。

略奪して生活物資を稼ぎながら、彼方此方を転々として生きていけば良い。殺しさえ頻繁にやらなければ、多分足もつかないはずだ。

だが、その考えを。

ユリ何とかは一蹴した。

「この世で、能力者の事が知られていないのなら、それも出来るだろう。 だが、この世の圧倒的多数派の人間が能力者の事を知らないと思うか。 政府にも対能力者の専門部隊はいるし、お前なんかあっという間に捕まるだけだぞ」

「知っているみたいな口ぶりね」

「知っているんだよ。 実際オレも、江戸時代にそんな部隊に追い回されて、何度も死ぬ思いを味わった。 オレでさえな」

本当だろうか。

そんな漫画に出てくるような、対妖怪部隊みたいなのが、いるのだろうか。

しかし、何となくだが。

笑い飛ばすことは、出来なかった。

ひょっとして、この間見かけた興信所の人間は。そういった部隊の、尖兵だったのではあるまいか。

「そして追い詰められたお前には、選択肢がなくなる。 ただの一つを除いてな」

「何よ、それは」

「エンドセラスの手先になる事。 それだけだ」

ユリ何とかが、道を空けてくれる。

後は好きにしろというのだろう。

私はほんの少しだけ悩んだ後。闇夜に身を躍らせた。

しばらく闇夜を走り。

実家につく。

家の周囲には、物々しいまでの警備が敷かれていた。警備員はざっと見ただけで、数十名。

多分兄は。

何らかの理由で、私が此処に攻めこんでくる事を、知っていたのだろう。そして今では、馬鹿にしきっていた私に、復讐されることを、恐れ震えているというわけだ。これほど痛快なことがあろうか。

会話も拾える。

まだ彼奴の居場所は把握できないのか。

早くしろ。警察にも手を回せ。

彼奴は完全におかしくなってる。何をしでかすか分からない。急いで捕まえろ。一刻も早くだ。

わめき散らしている兄。

もはや、虚構の王国の主の威厳はない。

ただの、怯えきった、哀れな男の姿だけが、其処にあった。

いい気味だけれども。

何だかむなしくもなってくる。私はこんな奴に鳥籠に入れられて。負け犬根性を叩き込まれて。

そして今までも。

虚栄心を満たすためだけの道具としてだけ、扱われてきたのか。

此奴をブッ殺すのは、簡単だ。

だけれど。

何だか此奴の場合、此処で殺すのは、惜しい気がした。いつ私が来るか分からない状況で、怯えていた方がずっとよい。

無言で屋敷に忍び込んだ私は。

兄が自慢しているロールスロイスを、一撃でぺしゃんこにした。

もの凄い音が響き、警報は鳴り響く。

私はナイフを取り出すと、コンクリにきざむ。勿論、元の身体能力では、出来る筈もないことだ。

「いつでも、お前を見ている。 いつでも、殺す事が出来る」

それで、満足した。

壁をぶち抜くと、私は夜闇に消える。

正直な話。

こんなクズを殺した程度の事で。以降、誰かの奴隷として生きるのは、まっぴらごめんだ。それが本音だった。

 

5、空の彼方

 

家に着いた私は、身の回りの品だけを整理する。

そして家を出ると。

田奈が、待っていた。

「どうして、家族を殺さなかったんですか?」

「兄の底が見えたから。 それに、殺すよりも、その方が苦しめることが出来ると思ったから」

「そう、ですか」

悲しそうな顔をする田奈。

あのクズを生かしておいてやったのだ。以降は、好きにさせて貰う。

側を通り過ぎようとする私に、田奈はもう一言だけ言う。

「このまま逃亡しても、エンドセラスは貴方を逃がしませんよ」

「ふうん、それで?」

「うちの組織に来ませんか? 社会に居場所のない能力者も身請けしています。 丁度、貴方のように」

「……そうね」

まあ、それも良いだろう。

だが、止めておく。

私としては、やっぱり。何処かの組織に属するとか、そういうのはまっぴらごめんなのだ。

面倒くさいし、何より飛ぶことが出来ない。

私は、自由に空を舞いたいのである。

「遠慮しておくわ」

「それなら、この国を離れた方が良いでしょう。 アメリカなら、エンドセラスの勢力はそれほど絶対的ではありません。 アメリカで静かに暮らす分なら、貴方はきっと、自由に生きられるかと思います」

「ありがとう」

「……」

そのまま、私は。

リュックを担いで、闇夜に走る。

アメリカ、か。

確かに、其処でのんびり過ごすのも良いだろう。金だったら、一応それなりにある。今回の一件の前に、貯金は全部下ろした。そして、家も売り払った。当分だったら、やっていけるだけの金はある。

パスポートはないけれど。

今の私だったら、それこそ海を飛んで渡ることも出来る。

正確には、最初崖から飛び降りて。

後は滑空していくのだ。

幼い頃から。

ずっと、空を飛べると確信していた。そして今その確信が、現実に変わっている。更に言えば。

クソムカつく兄貴とも、もう縁を切ることが出来たし。

今後は関わる事も一切なくて良い。

後は、好き勝手に空を飛び回るだけ。

この世界は。

私のために、開けている。

いつも憧れていた崖に出向く。丁度夜明けになった。アメリカの方角は分かっているから、何ら問題は無い。

私は。

躊躇することなく。

崖から飛び降りる。

たくさんの人間を抱えて飛ぶようなことは出来ないが。滑空して風を受けていくことで、何処まででも行ける。

ふわりと、浮き上がった私は。

東に向けて。

ただひたすらに、飛ぶ。

言葉は通じないが、まあそれくらいはどうにでもなるだろう。

そんな事は、些細な問題だ。

今、私は。

海上を東に、時速五十キロほどで飛びながら、最高の自由を。ただひたすらに、満喫し続けていた。

 

エンドセラスは舌打ちする。

結局自身の元に、新しい戦力を加えることは出来なかった。

勿論、発展途上国のチャイルドソルジャーを用いた実験は上手く行っている。今まで能力は絶対的少数の特権だったが。

それも、過去の話になりつつある。

実戦経験を積んだ兵士が、初歩といえど能力を用いる事が出来る。これがどれだけ大きな意味を持っているか、言うまでも無い。

だが、ベテランはベテランで欲しいのである。

ただ、ユタラプトルの所に、戦力をくれてやることだけは避けられた。それで良しとするべきなのかも知れない。

大柄な男が来る。

ギガントピテクスだ。

跪く寡黙な男。エンドセラスは、葉巻を取り出しながら、一瞥した。

「首尾は」

「充分にデータは取れました。 これならば、小規模国家ならば、三日で制圧することが出来ます」

「ご苦労」

今回の一件では。

手練れの確保と同時に、チャイルドソルジャー部隊の性能試験が重要だった。相手はあのティランノサウルス。彼奴を相手に、部隊全員がかりとはいえ、互角に戦えたのなら。性能試験としては充分だ。

「どうして篠崎田奈の相手に、自身で出られたのですか?」

「決まっているだろう。 いずれ右腕にと考えているからだ」

「メガテウシスはどうなさるので」

「彼奴は左腕だ」

エンドセラスが見るところ。

篠崎田奈、アースロプレウラはこちら側に引き込める。彼奴はオルガナイザーとして重宝されているが、その事が原因で徐々に精神が摩耗している。

彼奴は元々、極めて純粋で心優しい奴。

そんな奴が。

人間の闇に触れ続けて、無事でいられるはずがないのだ。

元々、心優しい人間だったが。闇に触れた結果、完全に壊れた。そんな例は、嫌と言うほどに見てきている。

メガテウシスのように、最初から頭のネジが飛んでいる奴も貴重だが。

篠崎田奈のように。闇に墜ちる事で、真の力を発揮できる奴も、また貴重である。

一礼すると、戻るギガントピテクス。

エンドセラスは、近くのコーヒー店に入ると。まるでパフェか何かのようにクリームを積み込んだカフェオレを注文した。

激しく動いた後は、甘いものにかぎる。

しばらくそれでのんびりしていると、思いがけない相手から、連絡があった。

「こんばんはー、エンドセラスさん」

思わず、カフェオレを噴き出しそうになる。

長い間を生きてきたが。

その電話の主を見て、愕然としてしまった。

「ティランノサウルス。 このアドレスを、どうやって知った」

「ちょっとね。 其方も妙な能力者がいるように、此方にも使い所が面白い子がいるんだよ」

舌打ちする。

まさかこんな事で、奇襲を掛けてくるとは思わなかった。

正直、ユタラプトルがトップに収まった当初の頃は、まるで相手にもならないと感じたけれど。此奴と篠崎が加わってからというもの。

もはや、敵対組織という規模に、なりつつある。

最近は政府関連の仕事にも、食い込んできていて。

油断していると、シェアを奪われる可能性も高かった。

「それで、何の用だ」

「知っているかも知れないけれど、長老達が動き出しているよ」

「ああ、あいつらか」

長老。

近年、能力者が爆発的に増え始めるその前から。能力を持っていた連中。

場合によっては神々とさえ言われた者達の生き残り。

日本にも、数名がいると聞いている。

それを教えて、どうだというのだ。

「それで?」

「それだけ」

通話がきれる。

あやつめ。何を企んでいる。

舌打ちすると、しばらく悩んだ末。

エンドセラスは、ある相手に連絡を入れることにした。万全には万全を期すべきだろう。

その相手とは。

麾下の者達にも知らせていない、とっておきの手札。

連絡は短く。簡潔に。

内容も。

長老達との諍いが起きるかも知れない。備えろ。

ただ、それだけだ。

 

(続)