記憶の花
序、罪業
地球の人口は現在八千万人を少し超す程度である。また、その表面に暮らす人間以外の生き物は、その種を三千弱にまで減らし、数自体も激減させて困難に直面していた。一方で、海中に暮らす生物達は地上のそれに比べれば若干ましであったが、比較すればの話に過ぎず、かってほどの数は生息してない。それは空を飛ぶ者達も同じ事であった。現在、鳥という種族は存在していない。
何故、このような事になったのか。原因は人類が起こした、熱核兵器による最終戦争であった。
結果、起こった事態は全ての破滅。地球を放射能の渦が覆い尽くし、人類はほぼ死滅し、他の生き物も抵抗力が高い種を除いて次々に滅び去っていった。いわゆる核の冬が到来したのである。
約千年間、暗黒の時代が続いた。粉塵が空を覆い尽くし、太陽光を遮り、氷河期が到来したのである。極寒の気候と劣悪な生存環境で、生き残った生物は更に数と種を減らしていった。特に甚大な被害を受けたのは植物で、抵抗力を失い、人間の庇護を受けた幾らかの種類と、わずかな例外だけが今も細々と生き残っている。
地獄の冬だった。そしてそれが開け、地球の気候がようやく穏やかさを取り戻した頃、人類は自らの罪業を全て忘れ去っていた。
Y・シレーネはいわゆる花屋の娘として、小さな町で生計を立てている。年はまだ二十歳になっておらず、顔立ちや体型には多分に幼さが残っていた。だがこの時代に生きる者に相応しい、逞しさと力強さを併せ持ってもいた。彼女の瞳の色は左右で違い、それは本人の特徴となってはいる。だが、混血が極限まで進み、人種という概念が消滅した今の時代にそれは珍しくもなく、本人にそれは何ら制約もプライドも与えてはいない。それはごく自然な事として、彼女の中で受け入れられていた。Yというのはれっきとした名字で、この一文字だけが彼女の姓なのだった。この名字には昔様々に付属品が付いていたそうだが、世代が重なる内に忘れ去られ、今は一文字だけが残っている。
この時代の花屋の仕事は主に二つ。一つは〈郊外〉にて有益な植物を採取し、それを販売する事。今一つは〈非汚染土〉を発見し、それを町へ運搬する事である。シレーネは文明の遺産であるホバースクータを駆って、毎日郊外に出かけていた。
郊外はそれほど危険な場所ではない。生物そのものが殆どいないからだ。核の冬によって、地球上の生物は致命的な打撃を受けた。放射能は生体に猛烈な奇形を発生させ、それは生きる力にはならなかった。生物は強くなる事も大きくなる事もなく、殆どが滅び去っていった。だから、生物による危険自体はほとんど無い。それが故にシレーネのような普通の女の子が〈郊外〉に出かけていけるのである。もっとも、出かけていくシレーネはそんな事情など知る由もなかったのだが。
人口の比較的多い地域では山賊や海賊が出る事もあるようだが、この辺りにはそれはない。危険があるとすれば、複雑怪奇な地形と、崩れやすい足場と、まだ所々に残っている残留放射能の存在であろう。だが、花屋がいなければ土は手に入らず、作物は育たない。故にシレーネの仕事は意義のある仕事であり、命をかけるに値する仕事であった。そのはずだった。
だというのに、シレーネの心には違和感が残っていた。そしてそれは、ある事件をもって一気に噴出する事になるのである。
1,出会い
「行ってきまーす!」
いつもの明るい声。シレーネが、花屋の奥にいる叔母レイネンにかける朝のあいさつ。もう花屋を引退したレイネンは、現在、シレーネの死んだ両親に代わり保護者をしており、その豊富な知識は町の中でも一目置かれるに足る。だが普段は怠惰で、今日ももう日が昇って大分過ぎているというのに、大きな欠伸をして今ようやく起き出してきた。そして出かけていくシレーネの背中に手を振る。その両目はやはり色が違い、ただし体型は、幼児体型の姪と正反対であった。
シレーネはホバースクーターに飛び乗ると、歩くよりマシという程度の速度しか出ないそれで、早速町を出る。格好はラフで、命がけの仕事に行くとは到底思えない。うす茶色の髪を紅い帽子に押し込んで、動きやすい靴を履き、半袖半ズボンからはみ出している手足には、何カ所か絆創膏を貼り付けていた。今日彼女は、旧時代の遺跡の北で、〈非汚染土〉を探すつもりだった。
町の周囲は、シレーネとレイネンが探してきた〈非汚染土〉を、〈シート〉の上に慎重に敷き、〈汚染土〉と分離し、作物を育てる〈畑〉が広がっている。それは大地に根ざした物ではなく、貧弱で、とれる作物も小さい。風は味方ではなく大敵で、大事な〈非汚染土〉を守るためにシートで防がなくてはならない。かって植物は強靱な生命力を有する存在だったという話もあるが、今は腫れ物に触るように扱わないとすぐに枯れ、食料にはならなくなってしまう。弱々しい〈畑〉は、町の周囲に点々と存在していた。
それらを通り過ぎると、今度見えるのは〈円地〉と呼ばれる場所だ。上空から見ると円上の何もない荒野で、中央部がわずかに盛り上がっている。その大小は様々で、世界中のいたる所に存在している。
〈円地〉は汚染が最も激しい一帯である。〈非汚染土〉を発見するために、シレーネは常に〈計測器〉と呼ばれる道具を持ち運んでいるが、〈円地〉の辺りで計測を行うと、針が植物に耐えられる限界汚染値を振り切ってしまう。シレーネにとって、〈円地〉は厄介でなんの意味も為さない土地だった。少なくとも今まではそうだった。実際、所々他の場所では植物が生えている事もあるのに、〈円地〉にはなんの植物も生えておらず、荒涼たる土地が広がっている。
そして、その〈円地〉を数カ所通り過ぎると、その先に遺跡がある。古代の人類が暮らしていた場所だとシレーネは何処かで聞いたが、それは学説に過ぎず、実際は宗教上の施設だったという反論も聞いた事がある。なんにせよ、其処にあるのは現在では使われていない素材で作られた、無数の巨大な箱だった。
〈非汚染土〉があるのは、この遺跡の最下層の、一番下の地面である。しかし遺跡は朽ちていて崩れやすく、それが郊外で唯一の危険となっている。中にはいるには、卓絶した運動神経と豊富な知識が必要だった。口笛を吹くと、シレーネは前から目をつけていた大きな遺跡に足を踏み入れる。中は涼しく、だが足下は危なっかしい。ロープを取り出し、入り口近くの大きな岩に結びつけると、明かりをつけて、彼女は遺跡の奥へと足を踏み入れる。生き物の気配がない闇の中、シレーネはゆっくり地下へと降りていった。
自らが求める〈非汚染土〉について、シレーネは良く知らない。どういう過程でそれが出来たのか、理解していない。ただこれは、現在人類の中で知る者が殆どいない事であったから、特別彼女が不勉強な訳ではない。しかし、何処にそれがあるか、ある可能性が高いか、その知識に関しては何処の誰にも負けない。シレーネの知識に寄れば、よく〈非汚染土〉が見つかるのは、特に大きな遺跡の最下層部の、むき出しの土の部分である。今彼女が潜っている遺跡は、町の周囲にある物の中でも最大級で、否応にも期待は高まっていた。動きは慎重に、最小限に。もし遺跡が崩壊してしまったら、大切な〈非汚染土〉ばかりか、命まで失う可能性が非常に高い。そう言う事情であるから、声を出すのも厳禁である。
地下の七層まで潜った所で、シレーネは待望の〈非汚染土〉を見つけた。そしてため息をつき、冷や汗を拭った。外は遙か上で、これから其処まで戻らなくてはならない。明かりは遙か遠くである。周囲は金属的な壁、壁、また壁。所々破れて骨のような何かが飛び出していて、非生物的な外観にもかかわらず、内部は妙に生物的である。骨状の何かには細くねじくれた物、筒状の物、無数に飛び出している糸状の物、様々にあり、シレーネに用途は分からなかったが、見ていて飽きないのは事実だった。遺跡と言うよりも、生き物の死骸の中のようだと、何時もシレーネは思うのだった。最もそんな巨大な生き物など、一度も彼女は見た事がなかったが。ただ、実物ではないが、以前遺跡の中で彼女はとても大きな生き物の絵を見た。この遺跡のような無生物的な感じで、糸を引きながら飛び、何かを腹に詰めて運んでいるようだった。人が何百人もそれに入り、笑顔で旅をしているような絵すらもあった。下に書かれている古代の文字は彼女には読めなかった。古代の宗教の絵であるとも言われているそれは、全く恐ろしげではなかったが、或いはいわゆる〈ドラゴン〉なのかも知れないとシレーネは考えていた。何にせよ、わずかな昆虫以外の生き物が空を飛ぶ事など、彼女には思いもよらない事だったから、現実であったとはとても信じられなかった。〈非汚染土〉を慌ただしく袋に詰め込むと、シレーネは遺跡を後にする。大きい事は大きかったが、この遺跡には目新しい面白い物が無く、彼女は少しだけがっかりしていた。
ホバースクーターはスピードこそでないが、かなりの重量を運ぶ事が出来る。〈非汚染土〉をたっぷり見つけて上機嫌な、しかし少しだけがっかりしているシレーネは、鼻歌を歌いながら帰路に就いていた。
「ある夜、きらめく月♪ 若き二人は、その下で愛を誓い♪ 風の中で、永遠に優しく、二人を包む、風の中で♪」
やはり女の子であり、シレーネは恋歌を好む。情熱的なこの歌は、彼女のお気に入りだった。
「世界は狭く、視界は狭く♪ 二人は二人、互いだけを見て♪ ……?」
鼻歌を止め、シレーネは怪訝そうに前方を見た。円地の真ん中に、人が立って何かをしている。ホバースクーターの速度を落とし、その側に寄せると、シレーネは声を掛けた。
「何してるのー?」
「地面を耕しています。」
声に応えたのは、シレーネより少し年下らしい少女だった。ラフな格好という点では一致しているが、健康さが女の子らしさよりより前面に出るシレーネに比べ、可愛らしく女の子らしい。それでいて、ラフな服を難なく着こなしているのである。実用的に短く切られた髪はクリーム色で、瞳は大きく愛らしい。太股や、腕の付け根の方には、よく見ると無数の傷跡があった。彼女はシレーネを困惑させたが、具体的にその原因の物は二つあった。理解不能の単語と、持っている道具である。
「タガヤス? 何それ。 それに、その変な道具は何?」
「えっと、それは……」
興味津々、シレーネは少女を見た。少女が持っているのは棒の先に四角く薄い鉄片を取り付けた道具で、シレーネが見た事がない物だった。彼女の眼前にいる少女は、それでしきりに先程から地面を掘っていた。振り下ろして薄く掘り、周囲を削りとり、それを繰り返すのである。そのような動作を、シレーネは見た事がなかった。〈タガヤス〉という言葉も初めて聞いた。だから興味を引かれたのである。
「この地面に、命が根付くように準備をしているんです。 この道具は、クワと言います」
「地面に命が? えー?」
露骨に怪しそうにシレーネが眉をひそめた。この辺りの地面は最も酷い汚染が進んでおり、昆虫もいない。命とは無縁の場所であり、現にこの辺りでシレーネは命ある者を見た事がなかった。数秒の思案の末に、彼女は結論した。可哀想に、汚染土の毒で頭をやられたのだろうと。花屋などの一部の職業は、汚染が最も激しい場所に足を踏み入れる事がある。その結果、体を害してしまう事が良くあるのだ。現にシレーネの叔母のレイネンは、その毒に足腰をやられて、花屋としての職業生命に致命傷を受けた。しかも、それを直す術は残念ながら無い。急速にシレーネの瞳から興味が薄れ、哀れみが取って代わった。
「そっかあ。 凄いね。 貴方、何処にすんでるの?」
「私ですか? 私は、あっちに住んでいます」
少女が人のいない荒野を指さしたので、シレーネは自分の想像を確信に変えた。ただ、見た所格好はしっかりしているし、一人で暮らしているわけではないのだろうとも判断し、干渉する事を止めた。相手を怒らせないように、慎重に笑顔を作って見せる。
「ごめんね、私仕事の途中だったんだ。 もう帰るね」
それだけ言うと、シレーネは手を振り、ホバースクーターに跨りその場を後にした。少女はわずかの間その背を見送っていたが、やがて先ほどの作業に戻った。土を砕き、それをならす規則的な音が、周囲に響き続けた。
2,過去
シレーネの持ち帰った〈非汚染土〉は高く売れた。とは言っても、一週間分の生活費になるのがせいぜいだから、仕事は続けなくてはならない。基本的に〈非汚染土〉や希少有益植物は所有権が発見者に認められる。それを盾に極めて悪辣な商売をする花屋も存在するが、シレーネはそのような愚行とは無縁である。
「シレーネ、ご苦労様」
「いえいえ、このくらい朝飯前よ」
「また調子に乗る。 ご飯冷めるわよ、さっさと食べちゃいなさい」
軽くシレーネの頭をこづくと、レイネンは食事を始めた。シレーネは優秀な花屋だが、調子に乗りやすいのが玉に瑕で、今まで何度も失敗しているのにそれは改善していない。ただ、おっちょこちょいな所が彼女の魅力である事も、否定できない事実であろう。暫く無言の時が続いたが、シレーネは食物を頬張りながら沈黙を破った。
「そういえば、叔母さん。 今日変な子にあったよ」
「へえ、頭が七つあって海から上がってきたわけ? あるいは二つの町の住人を謎の光線で塩の柱にしたとか?」
「そんな訳ないでしょ。 円地をね、なんだったっけ、えっと……〈タガヤス〉してた」
「何よそれ。 意味が分からないわよ」
自分でも訳が分からない例を挙げたというのに、レイネンは冷たく言い、残っていた最後の食物を素早くフォークに刺し、口に運んだ。シレーネは自分があの少女を狂人だと思った事を言わなかった。
「ああっ! 育ち盛りの私から食べ物を奪うか!」
「それ以上食べても、お腹に出るわよ。 どーせもう胸は育たないだろうし」
次の瞬間、シレーネは噴火した。胸囲が同年代の少女達に(遙かに)及ばない事は彼女のコンプレックスだった。しかもレイネンは若々しくてスタイルも良く、自他共に認めるほど胸が大きいのである。最近まで男の子と間違われる事さえあったシレーネを起こらせるのに、レイネンの台詞は最適であったろう。
「な……なんですってええ!」
「おほほほほ、失礼。 じゃね、私もう寝るわ」
シレーネが放り投げたフォークは、空しく残像を貫いた。持久力こそ死んでいるが、レイネンは今だ優れた運動能力の持ち主で、天井に捕まってあっさり今の攻撃をかわし、猿のように天井を伝って自室へ消えていく。机を一打ちすると、叔母の消えた方向をひと睨みし、シレーネは叫んだ。そして、一歩ごとに地面を蹴りつけながら寝室へ向かった。
「なんなのよ、もうっ!」
この時代の家は、特に密閉された空間ではない。窓にはガラスなど無く、カーテンの隙間から風が吹き込んで来る。堅くて心地の悪いベッドに身を投げ出すと、シレーネは天を仰いだ。
「雨か……明日は店番ね」
頭を切り換え、シレーネは眠りに就いた。危険な雨の日に仕事をしないのは花屋の鉄則であり、それ以上に仕事出来る日にさぼる事は最悪のタブーだった。雨が降り始めた外では、農家の者達が慌てて防護シートを敷く音が、注意を呼びかける声が、そしてウィンチを巻き上げる音が響いてくる。慎重に濾過し、栄養分を調整した水でないと、野菜は枯れてしまうのだ。恵みの雨などと言う言葉は死語に過ぎず、脆弱な農作物を守るためには必死になってそれを防がねばならなかった。雨戸を閉めて、花屋の少女は嘆息し、数分後には眠りの国へとたどり着いていた。
花屋の仕事の重要な物は、〈非汚染土〉を探すほかに、有益な希少植物の採集と販売がある。希少植物と言っても、基本的に野菜以外の、地面に生えている、汚染に対して抵抗力の高い植物を指すため、その辺至る所に生えている〈希少植物〉もある。家畜の餌以外に需要のない雑草である、〈グリーンレイル〉等がその例であろう。当然こんな物は売り物にはならない。一方で、有益な〈希少植物〉の例としては、比較的に汚染の度合いが低い地域に生える薬草〈レッドフェロウ〉や、栄養価が高い実をつけるが、遺跡の奥底にしか生えない〈イエローメイル〉等がある。
これらの希少植物は、量産こそ無理だが、見つけてきた苗はなんとか花屋でも栽培する事が出来る。それ故にシレーネは、雨の日などに、これらの世話を叔母と共に行っていた。客が来れば当然売る。医薬品の原料になる希少植物も多く、無駄に売る事は出来ないのだが、ここが店である以上当然の事であろう。
雨の日は、遺跡の劣化が激しく進み、崩落が起こりやすい。雨の日、そしてその翌日は、遺跡に絶対に足を踏み入れてはいけない。湿気を多く感じると花をつけ、土の中から顔を出す希少植物の存在も確認されてはいるのだが、それでも命には代えられない。遺跡とはごつい外見に反して、想像以上に脆い存在だからである。それを前に思い知らされたシレーネは、ぼんやりと肩肘を付きながら、店番をしていた。昨夜と違い、外は小雨になってはいたが、それでも雨である事に代わりはない。
「あの子、どうしてるのかな……」
呟いてから十七秒後。シレーネは顔を上げ、奥へ声を掛けた。
「叔母さん!」
「なーに? お昼にはまだ早いわよ」
「そうじゃない。 ちょっと出かけてくる」
怪訝そうに眉をひそめ、レイネンが顔を出す。
「ちょっと、どうしたの? 遺跡に行くのは駄目よ」
「違う! 昨日話した子の様子、見に行ってくるの。 店番お願い」
「ああ、あの。 確か首が三つあって、引力光線吐きながら空飛んでたって言う? それとも背中の突起ビカビカ光らせて、怪しい火炎吐いてた子だっけ? まあ、見に行くなら好きにしなさい」
叔母の意味不明の冗談を無視すると、シレーネは長靴を履き、傘を取り出して雨の中に飛び出した。畑にはシートがかぶせられ、更に雨よけの簡易屋根が張られ、ワイヤーで固定されている。大通りに人気はなく、町自体にも生気が感じられなかった。こういう日にはホバースクーターは使えず、歩いていくしか移動方法はない。何故雨の日に、手間を掛けてまで、あの少女に会いに行きたくなったのか、シレーネには分からなかった。
町の郊外を抜け、円地に差し掛かる。シレーネは周囲を見回し、少女を捜したが、目的とする人の姿は見あたらなかった。呼びかけようとして、名前も聞いていない事を思いだし、シレーネは落胆した。
「無駄足だったか……かえろ」
「何が無駄足なんですか?」
「おわっと! びっくりしたあ!」
シレーネが振り向くと、黒い傘を差し、黄色い長靴を履いた、昨日の少女がいつのまにか立っていた。怪訝そうな顔の少女に向け、シレーネは驚きをかみ殺し、笑顔を浮かべた。
「え……えっと。 昨日はあの……あんまり話せなくて、ごめんね」
「仕事中だったんでしょう? 私は気にしていません」
微笑む少女は、右手で傘を差し、左手に色々な機材を入れたピンクの小さなバケツを持っていた。そしてシレーネの側を横切ると、地面にバケツを置き、中から取りだした機具を刺し、難しそうに眉をしかめた。周囲の地面は綺麗に耕され、柔らかくなっており、機材は苦もなく地面に挿入されていた。
「……ねえ、そんな事をして、なんになるの? 何のためにこんな事をするの?」
少女の側に立ち、腰をかがめながらシレーネは聞く。少女は作業を続けながら、それに応えた。
「この地を蘇らせるためです」
意味が理解できず、シレーネは小首を傾げた。今ある物を利用する事は彼女の日常であるが、今無い物を蘇らせると言う事は、どうしても発想する事が出来なかった。やっぱりこの少女は少し頭がおかしいのではないかと、シレーネは思った。そんなシレーネの思索を余所に、少女はバケツを地面に置くと、器用に傘を脇に挟んで、何かを素早くメモし始めた。
「この地を蘇らせる……って……分からないよ、何を言ってるの?」
「この土地は、本当は緑を蓄える力を持った場所です。 そうは思いませんか?」
「……思えない」
シレーネを見つめ、少女は腰を上げた。
「貴方、仕事はなんですか?」
「私は、花屋をしてるよ」
「そうですか。 もし、何処の土も汚染されていなくて、何処の土でも植物が育つ世界……そういうものがあったとしたら、どう思います?」
「そんなの、天国に決まってるじゃん」
「では、何故その天国を作る事を、考えないんですか?」
あまりに少女が真顔で聞いたので、シレーネは困惑が隠せなくなった。
「そ、そんなの夢物語だよっ!」
「花屋だったら、昔の情報を、遺跡から得ますよね。 それを見て、どう思います?」
シレーネは言葉を詰まらせた。遺跡の中にある情報は、彼女にとっては魅惑の存在だったが、同時に理解できない物でもあった。そしてそこには、今彼女が言った〈天国〉その物の情報もあったのである。
「遺跡が昔の物だというのは分かりますよね。 つまり、其処にある情報は……」
「だったら、なんで天国が滅びるのよ! 凄い技術があったのは私も知ってる、だったらどうして!」
「慢心したからです」
少女は即答した。そして、シレーネから視線を逸らし、再び作業に戻った。何故少女がこのような事を知っているのかと、何故かシレーネは疑問には思えなかった。この少女と話していると、彼女の中の、仕事の際に感じる違和感が実体化して、胸の奥から締め付けてくるような感覚がわき上がってきた。
「濡れますよ」
いつの間にか傘を取り落としていた事に、シレーネは少女の声を受けるまで気付かなかった。傘を拾い直すシレーネに、少女は言葉を続けた。
「貴方は、過去から学ぼうとしないんですか?」
「過去は……」
シレーネの脳裏に、過去が蘇る。顔を上げた彼女は、涙を流していた。
「辛いだけだから……」
「……今の人は、わずかに残された、自分に都合のいい過去から搾取しているだけです。 そう思いませんか?」
「そんなの……分からないよ……」
「そして、貴方も、そうなのではありませんか?」
少女の言葉が、矢のごとくシレーネの胸を貫いた。シレーネは顔を上げ、唇を噛むと、絶叫した。
「知らない! 知らない知らない! ほっといてっ!」
シレーネは、枕に顔を埋めて泣いていた。食事も取ろうとせず、珍しい事だとレイネンはぼやいて姪の分まで綺麗に食事を平らげた。
「あの様子だと……例の子とやらに、トラウマほじくり返されたわね」
食事を片付けながら、レイネンはシレーネの部屋をちらりと伺った。わずかなすすり泣きしか、そこからは聞こえてこなかった。肩をすくめると、レイネンは皿を洗い始める。雨水は、野菜を育てるには汚染が酷すぎて使えないが、人間の使用に問題ない。勿論飲み水にするには、沸かさなくてはならないが。
「姉さん、貴方の事を忘れさせたのは、間違いだったのかしらね」
洗い物を終えると、レイネンは写真を撮りだし、眺めやって嘆息した。そこには、シレーネと同じ、左右違う瞳の、落ち着いた雰囲気の女性が笑みを浮かべて映っていた。
雨降る遺跡の前に、まだ幼いシレーネが立っている。傍らにいるのは、仕事着を着た鋭い眼差しの母。あり得るはずのない光景であった。シレーネには分かっていた、これは父と母の、最後の時の光景だと。その時シレーネは、明日をも知れぬ病で、ベットに伏せって寝ていたのだから、記憶にあるはずのない光景だった。心配げに立ちつくす母の前で、轟音をたてて、遺跡が崩れた。小規模な崩落だったが、母の顔色が変わる。
「あなた! あなたーっ!」
母が叫び、遺跡の中に危険も省みずに入っていく。そして、次に出てきたときに、同じく小規模の崩落が起こり、母の上に遺跡の破片が落ちかかった。鈍い音が響き、鮮血が吹き出す。無惨な光景の前で、声もなく立ちつくすシレーネ。命を落とした母の手には、しっかりと〈希少植物〉が握られていた。
場面と時間が飛んだ。シレーネが目を開けると、其処にいたのは、泣くレイネンと、視線を下げて沈鬱な表情の近所の人達。シレーネは熱も下がり、容態も安定していた。傍らの医師が、大きく咳払いをした。
「容態は安定した。 私はこれで失礼する」
「パパは? ママは?」
シレーネの言葉に、隣人達が視線を逸らした。レイネンが憎悪と悲しみを込めてシレーネを睨み、部屋を出ていった。まだ降り注ぐ雨の音が、シレーネの耳に嫌と言うほど聞こえていた。叫び声と共に、シレーネが跳ね起きる。夢がさめ、彼女は再び涙を拭って呟く。
「……どうして……どうして思い出させるのよ……」
毛布を掴んで、シレーネは肩を振るわせた。拭っても拭っても、涙はこぼれ落ちてきた。
「大っ嫌い……」
両掌で顔を覆い、シレーネは泣いた。忘れようとしても、夢の事は忘れられなかった。
3,現在
それから数日、シレーネは仕事に行く際、少女と会った円地を避けて通った。表情は強ばり、小さなミスを連発し、思考も精彩を欠くシレーネは、悶々と日々を送っていた。少女の吐いた言葉が紛れもない事実であり、否定できない事が苦しみを助長していた。なぜだか、少女が何者かという事については、頭が回らなかった。
遺跡の奥底で、〈パープルブロッド〉と呼ばれる貴重な薬草を見つけたシレーネは、それでも全く嬉しそうではなく、ぼんやりと帰路に就いていた。そして、〈ついうっかり〉少女のいる円地の前を通りかかった。シレーネが気付いたときには、〈鍬〉と呼ばれる道具を持った例の少女が、ふらふら進んでくる自分を見ていた。
「……っ!」
我に返ったシレーネが、慌てて向きを変えようとして、ホバースクーターから転び、悲鳴と共に地面に投げ出された。少女はため息をつくと、シレーネを抱き起こし、土埃を丁寧に優しく払ってやった。その様を見て、シレーネは母のイメージが強烈に頭の中に蘇り、精神が沸騰するのを感じた。
「……ほっといて! ほっといてよっ!」
「この間はごめんなさい。 心の傷に触れてしまいましたね」
「バカっ! アンタなんて、大っ嫌いっ!」
乾いた音が響いた。平手で頬を張られた事に気付いたシレーネは、呆然と少女を見上げた。
「そうやって、いつまでも逃げ続けるつもりですか? 現実からも、自分からも、過去からも」
決して少女は、阿修羅の如き怒りを顔に浮かべていたわけではない。むしろ怒りは静かであり、だがそれが故に抗しがたい物を感じて、シレーネは顔を下げ、拳を振るわせた。少女は立ち上がると、倒れていたホバースクーターを立て、鍬を持ち直して仕事に戻った。彼女はピンクの小さなバケツから、淡いブルーの可愛い袋を取り出し、中身を摘んだ。バケツの中には、同様の袋が無数に入っていた。
「……何してるの」
「種を蒔いています」
蒔くという単語は分からなかったが、種くらいはシレーネも知っている。よって、簡単に種を周囲にばらまいて、植物を生やそうとする行為だとは分析できた。だが、〈グリーンレイル〉位しか、人類が種から地面で栽培できる植物は存在しない。地面を一生懸命掘り返して、弄くって、少女はわざわざ雑草である〈グリーンレイル〉を生やすとでも言うのだろうか。しかも、円地の周囲では汚染が激しく、〈グリーンレイル〉でさえ普通は生えないのだが。それによしんば生えた所で、育つ事など出来はしないのである。
「そんなの、生えっこないよ……この辺りは、グリーンレイルだって生えないんだよ」
「これはグリーンレイルではありません」
少女は腰をかがめ、指先で、柔らかくした地面に一粒ずつ、愛情を込めて種を植え込んでいった。シレーネが来ない内にこの辺りは様々に処置が施されていたようで、余り気分の良くない臭いもした。肥料かと思ったが、シレーネの知っている肥料とは臭いが違っていた。
「この花は、ホワイトメモリー、と言います」
それは、シレーネが聞いた事のない名前の花だった。広い広い土地に、少女は飽きる事もなく、一粒ずつ、ゆっくり、丁寧に種を植え込んでいく。
「……そんな花、聞いた事もないよ」
「そうですね、人には毒にも薬にもなりませんから、特に特徴もありませんから、あまり知られていないかも知れませんね。 しかし、必ずこの地に芽吹きます」
振り向きもしないで少女は作業を続けたが、その言葉に酷薄さはない。行動は真摯で、言葉も真摯で、熱情と愛情だけがその場にあった。俯いていたシレーネは、やがて顔を上げ、喉の奥から声を絞り出した。少女のひたむきな行動は、シレーネを素直に謝ろうという気にさせていた。既に、少女が狂人ではないかという失礼な考えは、シレーネの脳裏から雲散霧消していた。
「あの……」
「どうしましたか?」
「さっきはごめんなさい。 ……貴方の言うとおりだった」
「いえいえ、私も悪かったんです。 気にしないでください」
土の付いた顔で振り返り、少女は笑った。その笑みは土にまみれていながらも、健康的で、それ以上に可愛らしくて魅力的だった。
「ねえ、名前教えてくれる? 私はシレーネ。 Y=シレーネって名前よ」
「私はフォロア。 フォロア=ウォルフといいます」
仕事に追われ、同年代の友達が少ないシレーネには、それは貴重な瞬間に思えた。二人の間に、心が通じた瞬間だった。
家に帰ると、シレーネは両親の写真を引っ張り出した。そして自室に飾り、埃を丁寧に払って、頭を下げて何やら小さく呟いた。レイネンは腕組みをして、姪の様子を後ろから、複雑な顔をして静かに見守っていた。
それからシレーネの行動は目に見えて明るくなった。未だ気持ちの整理は付いていなかったようだが、歩行は律動的になり、瞳は輝きを帯び、声も大きく明るくなった。仕事も精力的にこなし、遺跡を探索しては希少植物や〈非汚染土〉を持ち帰り、そしてその帰りには少女の所に寄った。種を蒔いてから、一週間ほどは何の変化もなかったが、今やシレーネは、それが芽吹く事を信じたいと思っていた。少女と初めて会ってから16日目。最も激しく汚染され、命無き場所である円地に、あり得ない奇跡が起こった。その一点に、小さな小さな緑があった。少女の、フォロアの植えた種が、芽吹いたのである。
円地が、背丈の低い緑の群れに占拠され、青々とした土地へと代わっていた。信じがたい光景であり、シレーネは自分の常識が崩れ、そして嬉しさがこみ上げてくるのを実感していた。フォロアはその土地の中に立ち、相変わらず難しい顔で作業をしていたが、シレーネが来ると顔を上げ、手を振って迎えてくれた。
「凄いね。 本当に生えるとは思っても見なかったよ」
「これは、記憶の花ですから」
「え? どういう事?」
フォロアは笑って、じょうろを手に取り、ホワイトメモリーに水をやり始めた。乾き死んだ周囲の土地と違い、この場所はオアシスのように見えた。
ホワイトメモリーは、順調に育っていった。それは極めて不格好な植物だった。茎は真っ直ぐ伸びず、葉は不格好に、彼方此方から飛び出している。それが苗の頃は緑の畑のように見えた円地だったが、育つに連れてそこは雑然とした場所へと代わっていき、美しくもない場所へと変貌していった。ホワイトメモリーの背丈はそれほど高くなく、鋸のように鋭い葉は、力強さを通り越して粗野な物にも見えた。一度ならずそれで手足を切りそうになり、シレーネはうんざりして友に聞いた。
「ねえ、フォロア」
「どうかしましたか?」
「何でアンタ、こんなの育ててるの? 一生懸命こんなの育てて、何になるの?」
シレーネが腰をかがめ、つぼみを付け始めたホワイトメモリーの先端に触れた。草ぼうぼうという表現が相応しい今の円地は、確かに珍しい物であったが、貴重な物とも思えなかった。怪訝そうなシレーネに、フォロアは笑いかけると、一本を地面から抜き、植木鉢に移して手渡した。
「水を二日に一回与えてください。 それだけで、この子は花をつけます。 他の世話は取りあえず必要ありません。 おそらく、後四日で花が咲きます。 満月の日、その光を浴びせてみてください」
「うん……分かった」
シレーネは頷き、小首を傾げつつ、家に戻っていった。フォロアはその背を見送ると、自分が育て上げてきたホワイトメモリーの世話に、自らの仕事に戻った。
その日は満月であった。フォロアが予告した日は過ぎ去り、陽は落ち、空は既に闇に満ちている。月は真ん中に巨大な罅を入れており、周囲には細かい破片が無数に見えるが、シレーネにその理由は分からなかった。フォロアは、この日に、月の光が最も降り注ぐ今日に、ホワイトメモリーを外に出して見守るようにと言っていた。シレーネはパジャマに毛布を被ると、外に出て、不格好な植物の不格好な蕾を、月の光に当てた。ホワイトメモリーは、しかし何の反応も示さなかった。
「何にもおこんないじゃん……まあいいけど」
それほど寒い日でなかったから、シレーネは待つ気になれた。そうでなかったら、すぐに部屋へと引っ込んでいただろう。半信半疑でホワイトメモリーを見守るシレーネは、三時間ほど根気よく待ち、月に雲がかかり、また現れた時に、目を見張って体を乗り出した。
蕾が、ゆっくり開き始めた。花びらは五枚、決して美しい花ではなかった、むしろ小汚い花だった。だがそれは、月の光を浴びて輝き、命を爆発させるようにいっぱいに開いた。シレーネは、声もなく、圧倒的な命の存在に押されていた。花屋をしていたというのに、こんな汚い花が開く様に、何故これ程感動したのかは分からなかった。だが感動しているのは事実で、圧倒されているのも事実であった。
「凄い……凄いよ……」
次の瞬間、シレーネは頭の中に炸裂するような感触を覚えた。何かが、何かがわかり始めてきた。何故フォロアがこの花を記憶の花と言ったのか、わかり始めてきたのである。だが、まだ完璧には理解できず、頭の中がカオスと化し、理解と不理解が混濁し、覚醒しては沈み込んでいった。噴き上がる感情が、シレーネを地面に押した。涙がこぼれ落ち、彼女は土に手を付いて、独語していた。
「……母さん……父さん……」
翌朝、花は枯れていた。そして、茎も茶色く変色し、萎びていた。
4,未来
円地のホワイトメモリーも、全て枯れていた。シレーネは仕事帰りに其処に寄り、最初と同じく鍬を振るっているフォロアを見て、数秒ためらった後声を掛けた。
「フォロア……」
「お仕事、ご苦労様です」
「ううん、いいよそんなの。 それより、みんな枯れちゃったね」
「これがこの子達のあるべき姿です。 命を燃やし、大地を癒して、そして眠りに就くのです」
シレーネは円地に入った。 あれほど憎たらしかった葉は、全て枯れており、今は萎びて地面にたれていた。その一つを手に取り、シレーネは嘆息した。嫌な葉だったのに、いざ枯れてしまうと寂しく感じたのだ。
「この子達が、どうして記憶の花なのか、わかりかけてきた気がする」
フォロアが顔を上げた。シレーネは、枯れたホワイトメモリーを摘んで左右に揺らし、続けた。
「でも、完全には分からない。 どうしてなの……?」
「……大地って、どういう物なのか、考えた事がありますか?」
「うん……? ごめん、分からない」
「大地は、積み上げてきた物です。 そして、記憶その物でもあります」
枯れ果てたホワイトメモリーの中、シレーネは立ち上がった。 そして、フォロアと向き合った。
「記憶?」
「ええ。 大地は記憶、そして基礎。 人々は、生き物たちは、植物はその上に立ち、初めて生を得る事が出来る。 大地は黙して語りませんが、そこには生きてきた者達が、積み上げてきた物が全て詰まっています。」
風がホワイトメモリーの亡骸を揺らした。フォロアはゆっくりその中を歩き、クリーム色の髪を静かに風になびかせながら、一語一句を確認するように続けた。
「目を逸らしてはいけません。 そこにある物から目を逸らしても、それは其処に存在しているんです。直視しなくてはいけません、美化しても、醜化しても、それは其処に、飾らずありのままに存在しているのです。 記憶を直視し、共存する事を選んだ者だけが……」
「……未来を掴む事が出来る」
「そう、その通りです」
フォロアは笑った。シレーネは、ようやく全てを理解して、自分の見た光景の意味を悟っていた。
「あの花は……汚染された地面と戦い、その全てを受け入れて……あれほどに輝く事が出来たんだ」
「そう。 そして、その行動は、必ず未来へと繋がるんです」
「私、やっと分かった。 そうか、それで私、あんなに感動したんだ。 あんなに心を動かされたんだ」
フォロアが鍬を振るい、土と枯れ果てたホワイトメモリーを混ぜ始めた。
「この花は、貴方達の言う〈汚染〉を栄養にして生きる植物です。 それが無くなれば、生きる事は出来ません。 そして、その死屍は、未来をはぐくむ糧へとなります」
ホワイトメモリーが、大地の糧になっていく。土と混じり、全ての基礎となっていく。
「この花は、記憶その物です。 無生物の記憶が大地なら、いける記憶はこの花です。 決して美しくはなく、真っ直ぐでもなく、暖かくなど無く、時に人を傷つけさえする。 でも……その先には、輝ける命の爆発があるんです」
「フォロア……貴方……」
少女はもう一度笑い、手を振ると、仕事を続けた。翌日、その姿はもう円地には無かった。ホワイトメモリーは大地と混ざり、その一部となって、新たなる生の母胎となっていた。
円地に無数の植物が咲いている。蒼い物、黒い物、黄色みがかかった物。いずれも希少植物だった。汚染は残ってはいたが、希少植物が生える分には問題のない分量で、だが野菜を育てるのは無理だった。大地は青々と力強く、かっての地球の光景が、この場所だけでは再現されていた。
大地は記憶、ありのままの記憶。そしてそれと共存するホワイトメモリーはあれほどまでに輝いていた。シレーネはそれを思い、自分に出来る事をすると決めていた。母と父がくれたこの命尽きるまで、過去を直視し、現実と戦い、生きる事を改めて決意していたのである。
仕事をする彼女の目が輝いている。〈非汚染土〉を探し出し、希少植物を遺跡の奥から見つけてくる一方、遺跡の奥にある物達とも向き合い、それの存在を真剣に考え、自分なりに分析を始めていた。人の罪業が、都合良く忘れ去られていた罪業が、それによって浮き上がってきた。皆が理解するなどとシレーネは考えてはいなかったが、何時か来るときのため、それを膨大なノートに残し、資料を整理していった。それは花屋のタブーだったが、彼女にはライフワークだった。記憶を直視し、それと戦い、向き合う者こそが未来を開く事を出来るからだった。別人のように強くなったシレーネは、コンプレックスを完璧に解消し、乗り越え、体型の事をバカにされても鼻で笑えるようになっていた。
「ねえ、シレーネ」
「どうしたの、叔母さん」
「貴方が会った女の子って、ひょっとして、クリーム色の髪の少し背が低い、半ズボンと半袖の可愛い子だった?」
「んなわけないじゃ……ええっ! 何で知ってるの?」
夕食の席で、唐突に吐かれたレイネンの言葉に、シレーネは思わず体を乗り出していた。レイネンはため息をつくと、厳重に封印していた棚からノートを取りだし、シレーネの前に放った。
「私の姉さんの、アンタの母さんの恩人がその人。 何者かは知らないけど、姉さんはその人との出会いでそのノートの事始めたのよ。」
慌ててシレーネがノートをめくる。そこには彼女も知らぬ過去のデータがあり、詳細に分析されていた。
「……アンタも姉さんと同じ事するの?」
心の底から心配し、レイネンはシレーネを見た。そして、揺るがぬ信念に裏付けられた瞳を見た。
「うん! 私、もう過去から逃げたくないから!」
「分かったわ、好きにしなさい。 ただし、もう私を一人にしないって約束してね」
シレーネは大きく頷いた。少女が何者かなど、彼女にはどうでも良かった。大事なのは、何よりも貴重な、何よりも強くなれる事を、フォロアに教わった事であった。
……やがて、地球が復興したとき。人類の罪業を発掘し、同時に大地を元に戻す方法を発見したある花屋の名は、伝説的な物となる。それはシレーネではなかったが、その遠い子孫だった。その娘は、シレーネとその母が蓄えた情報を元に、全てを解き明かし、ホワイトメモリーと呼ばれる花を使って大地を元に戻していった。汚染は急速に姿を消し、生き物は徐々に数と種類を増やし、世界は生き返っていった。その花屋は、ことあるごとにある言葉を口にし、それは世界で最も有名な格言となる。
「大地は記憶、それはありのままのもの。 美化してはいけない、醜化してはいけない。 ありのままに捕らえ、ありのままに見つめ、共存する事を選ぼう。 受け入れ、戦い、手を携える事が出来る者だけが」
遺跡の奥でシレーネは、差し込む光を見た。〈非汚染土〉をリュックに入れて、空を見上げ、目を細めて彼女は呟く。
「未来を手に入れる事が出来る。 ふふ……私、頑張らなきゃね」
大地はただ其処にあった。そして、ありのままに存在し続けていた。人の罪業を知り、積み上げた物を知り、全てを体内に内包しながら。それは、記憶その物の存在だった。
(終)
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