冥界の夜明け

 

序、それぞれの明日

 

エヴァンジェリンは魔祓い達とともに、それに立ち向かっていた。

ヨムルンガルド。

世界蛇であり、北欧神話の最強の魔の一角。

ラグナロクではあのトールと相打ちになる圧倒的な魔である。

だが、ヨムルンガルドは弱り切っていた。

一神教系の魔祓いは、四十mはある巨体にびびり散らしていたが。本来のヨムルンガルドは世界を取り巻くほどの巨体である。

弱体化に弱体化が続き。

物語と化し。

更には何度も魔祓いされた結果、この姿に墜ち果てたのだ。

燐火がいてくれればな。

そう思いながら、ルーンを組む。

凄まじい巨体と言いたいが、これくらいの威圧感、たいしたことがない。三年前に燐火達と一緒に日本で対戦した魔達の方が、余程凄まじかった。

負ける理由もない。

ルーンをくみ上げて、地面に手を突く。

同時に、改良型グレイプニルが、ヨムルンガルドの蛇体を縛り上げていた。口も塞いでしまう。

強烈な毒液がヨムルンガルドの武器だが。

それもこれで封じられたのだ。

暴れ狂う大蛇だが。

情けないな一神教の魔祓い達。天使に壁を張らせて、自分たちは何も出来ず悲鳴を上げて逃げ回っている。

戦闘前はエヴァンジェリンに対して散々陰口をたたいていた癖に。

いざ実戦になるとこれだ。

しばしして、ヨムルンガルドは抵抗を諦め、動かなくなる。

そこで、エヴァンジェリンが呼びかけていた。

「世界蛇ヨムルンガルド。 なぜ今暴れ出した」

「フェンリル兄が倒されたと聞いてな。 それをなすほどの強者がいるのであれば、対面したいと思っただけよ。 貴様か? フェンリル兄を倒したのは」

「ある意味正解だ。 ヴィーザルを強引に具現化させてそれでな」

「……そうか。 まあいい。 私としてもおまえはともかく、其処で震え上がっている雑魚どもに興味などない。 今回は引き上げるとしよう」

消滅していくヨムルンガルド。

倒したわけではない。

単に面白がって様子を見に来て。エヴァンジェリンの実力を理解したので、それで引いただけだ。

消耗を抑えたかったのかもしれない。

「ば、化け物め! 天使の威光に恐れをなしたか!」

「アホが」

「な、なんだと! 年上に向かって」

「天才たる私がいなかったら、貴様等まとめてなぎ払われて終わりだっただろう。 天使の威を借りるばかりの低脳が。 魔祓いなど辞めてしまえ」

エヴァンジェリンもかなり頭にきていた。

苛立ちが向けられるが、あのヨムルンガルドを拘束した実力を間近で見ているのだ。一神教の魔祓い達は、エヴァンジェリンとこれ以上諍いを起こすつもりはないようだった。

レポートは書くと言うと、魔祓い達は引き上げていく。

唾を吐き捨てているやつもいるが。

はっきり言ってどうでもいい。

生き残れただけで幸運だっただろうに。

魔祓いを見て、天使の一体が情けなさそうに頭を振っていた。こんなのを守護しなければならないのか。

そう嘆いているのだろう。

事務所に戻る。

今エヴァンジェリンは北欧のある国に所属しているが、ここでは軍の部隊が魔祓いを統括している。

こういうのは国によってだいぶ違う。

日本だと公安の秘匿部署だったが。

この国では軍であり。

大統領の直轄となっている。

レポートを宿舎で書いていると、燐火からメールだ。燐火も最近では、公式の場では一人称を私にしている。

高校になってから170p後半まで背丈が伸び。

下手な男子より背が高い。

その上空手、柔道、合気、全てで国内大会を制覇したとかいう話であり。剣道でもこの間同じような成績を残したらしい。

ただし本人は、大会には一回だけしか出ないと名言。その後もスポーツで食べていく気はないと明言していて。

それでオリンピックの関係者などは落胆したようだったが。

高校を出る頃には、180pに届くかもしれない。

だとすると、再会したときにはエヴァンジェリンは見上げてしまうのだろうな。そう思うと、ちょっと口惜しい。

結局背は伸びなかった。

欧州の人間は男女の体格差が大きい。

それもあるが、エヴァンジェリンは空港で身分証を毎回提示しなければならないほど、見かけも育たなかった。

これは悔しいが。

体質か何かだと考えて、諦めるしかないだろう。

燐火のメールは後で確認する。

レポートを仕上げると、部署を仕切っている大佐が来る。仕切っていると言っても、魔祓いがへそを曲げたらどうにもならない。

だからあくまで調整役であって、上司ではない。

この国で最強の魔祓いは間違いなくエヴァンジェリンであり。貴重なドルイドでもある。大佐としても、低姿勢を保たなければならない。

それはそれとして、エヴァンジェリンをコントロールしないといけない。それもまた、中間管理職の苦労がうかがえる。

「エヴァンジェリンくん。 毎度毎度、クレームが絶えなくてね。 もう少し優しくしゃべれないかね」

「プライドばかり高くて、一神教が世界で唯一の正義とか考えているような輩に、天才たる私がなんでこびを売らなければならないのか。 今回の魔祓いでも、奴らは怯えて右往左往するばかりではなかったか」

「それは見ていたので確認している。 それでも、戦力は戦力なのだ」

「分かった。 役に立たない相手以外には優しくする」

大佐が胃が痛そうな顔をして、宿舎を出て行く。

レポートを提出すると、後は日本から輸入したメロンソーダの缶を開け。アイスなどと組み合わせて、メロンソーダを自作する。

満面の笑みでメロンソーダを楽しみながら、燐火のメールを見る。

カトリイヌについてだった。

「どうやらカトリイヌさんは実家と縁を切ったようです。 セバスティアンさんともうひとかたの護衛も、カトリイヌさんに従って、新しく日本で魔祓いの仕事をするつもりだとか」

「やっとか。 いずれにしても穏便に縁を切れたのは良かったな。 あの家、名家とはいうがずっとセバスティアンが最高戦力であったようだし、最近ソロネが守護天使になったカトリイヌの方がもう兄どもより上だろう」

「それもあって、枢機卿にならない事で手打ちにしたようですね」

「政治には関わらない、か。 そんなことをしているから、カスみたいな魔祓いばっかり偉そうな地位につくのだ」

剣呑な会話を続けるが。

それはそれで、満面の笑みでメロンソーダを味わう。

いやはや、実に美味しい。

国でも知り合いに勧めてみたのだが、色が怖いと言われて、なかなか飲んでくれなかったのだが。

一度飲んでみると、とても美味しいと喜んでくれたし。

今では、親しい何名かの知り合いの間で、メロンソーダパーティをやっている。

他にもパフェがいいのだけれども。

パフェは流石に作成難易度が高い。

次に日本に行ったときには、太るのを覚悟で本場のパフェを楽しみたいものである。

「確かそろそろ燐火は高校三年だな。 受験は問題なさそうか」

「はい。 東大に行くつもりです」

「東大か……」

「もっと良い大学も行ける、という話も有りますが、それで。 涼子ちゃんとは久しぶりに同じ学校で学ぶことになります」

まあ、それでいいだろう。

いずれにしても、燐火の経歴にケチがつくとは思えない。

燐火が日本の魔祓いのトップになったら。

悪運を片っ端から祓い。

封じられている魔も叩き潰して回り。

一気に国全体の悪運を浄化するだろう。

今でさえ、レベルが高い日本の魔祓いの中でも、最前線で活躍できていると聞いている。公安の方でも、東大を出たら即座に来てほしいと三つ指突いて勧誘をかけているそうだ。

メロンソーダを味わったあと、ベッドに転がって、とりとめもない話を燐火とする。

燐火は凄まじい勢いでメールを打ってきているので、エヴァンジェリンもちょっと追いつけない。

いずれにしても、燐火が幸せそうにやっているのも事実。

二人目の妹が出来たという話も聞いている。

恐らく、エヴァンジェリンが心配するようなことは、一つもないはずだ。

 

日女は吉野に来ていた。

とにかくあの総力戦からしばしして、本当に一時期は人がいなかった。日本の魔祓いが枯渇するレベルの損害を受けたのだ。

負傷者が徐々に復帰してきたが、とにかく人材育成が急務である。

それもあって、日女が教官役として、吉野で監督をすることになった。

一応、一線級の魔祓いとして活躍は出来ている。

だが、それだけだ。

まだまだ林西さんや菖蒲姉には及ばないし。

八幡の力だって引き出し切れていない。

それでも日女がここに来ているのは、人材育成のためである。

これからは、夏合宿以外でも、有望な魔祓い候補を集めては、ここで鍛える事になった。

しばらくはそれで人員を確保していくしかない。

役に立たない魔祓いは鍛え直すし。

有望な魔祓いは鍛え上げる。

求められる事は多いし。

前にここでやっていた夏合宿ほど緊密な採点も出来ない。

それでもやるしかない。

そういう状況だ。

神楽坂輝が来る。

既に配信者としてベテランであり、退魔の声は今や日本中のあちこちで聞かれるようになっている。

一時期版権ゴロのせいで街から歌が消える、という事態が起きていたが。

今ではそれも解決し。

版権を抱え込んで独占していた輩は、それまでの悪行の報いを受けて何も出来ない状態にされている。

これも燐火がそれらの周りにあった悪運をまとめて祓った結果だ。

その結果、今まで発覚しなかった犯罪行為がボロボロ出てきた挙げ句。誰もかばえなくなった。

組織は再編成され。

今では誰も、気軽に音楽を聴けるようになっている。

「やっほー、日女ちゃん、元気?」

「まあまあだな」

「そろそろ俺っていうの辞めなよ。 もう成人でしょ」

「関係あるか」

昔からある程度関係はあるが、そこまで仲が良いわけでもない。今では日女も少しずつスカートをはいたりすることもあるが。足がスースーして好みじゃない。

それでも一応友達くらいの関係ではあるのだろう。

よく分からないが。

輝も講師として呼ばれた。

これから魔祓いの魔の字も分かっていないひよっこたちを鍛えなければならない。一応、ノウハウはある。

魔祓いの学校も一応稼働はしている。

だけれども、才能起因の力量の差が大きいのが魔祓いの厄介なところだ。

それもあって、こういうところで支援をしなければならないのである。

「今回は幼稚園児までいるのか……」

「やっと人口が増え始めたとはいえ、氷河期世代の傷跡は大きいからね。 あの世代はまるごと見捨てられたみたいなものだし、未来のために子供を育てないといけないんだよ」

「そうだな……」

あまり知られていないが。

実は少し前にクローンが実用化された。

それにより、より簡単に子供を作れるようになり。ある程度収入がある家では、子供がいない場合はクローンで生成された子供が任されるようになった。

嫌がる者も多かったが。

子供のいない国に未来はない。

それもあって、仕方がない施策だった。

ともかく、やっと人口が増加に転じたこともある。この国は、やっと失われた年月から解放されつつある。

その間にため込まれた悪運を。

今燐火が中心になって祓い回っている状況だ。

天照大神を行使できるのは強い。

最初は燐火に不満も多かったらしい天照大神も、今ではすっかり実力を認めているようである。

海外遠征などでも燐火は成果を上げており。

百年以上どうにもできなかった東南アジアの魔界を魔祓いして、周囲の悪運を完全に祓ったこともあり。

同世代では最高の出世頭になっている。

ともかくだ。

バスが来たので、子供らを送迎して貰う。魔祓い以外の人員は、だいたいパートだ。この国でやっている何か変わった合宿らしいとだけ聞かされているのだろう。

バスの運転手とか、料理をする人間とか。

そういうところで雇用を作って、ちゃんと富が行き渡るようにしている。

子供らを覚えるところからだ。

一人ずつ名前を呼ぶ。

ちゃんとしている子から、魔祓いになる前に周囲から迫害を受けたと一目で分かる子まで色々。

輝が幼い子の面倒を見る。

日女の目を見て、小学生くらいの。日女の担当する年代の魔祓い達は、ひっと小さな悲鳴を上げていた。

燐火の目に比べればまだマシだと思うが。

そう思いながら、日女は修行場に連れて行く。

いきなり魔との実戦はやらせない。

今日はそういう合宿ではないからだ。

それぞれの魔祓いの素質を測り。どうすれば効率的に力を伸ばしていけるかを、しっかり確認する。

これが大変だ。

魔祓いとしても日女は忙しく、休日は本当に取れない。燐火が東大に入るつもりらしく、既に受験勉強はだいたい済ませてあると聞くと、あいつは化け物かと呆れてしまう。既に社会人として活動している日女は、燐火を鍛え上げたケルベロスを本当に凄いと今では考えていた。

とりあえずガキどもの面倒を見る。

日女が怖いのか、ガキどもは一切反抗しなかったので、とにかくやりやすかった。怖がって泣くのもいたが。とにかく知らん。

丁寧に授業自体はやるし、見本だって見せる。

この間、カトリイヌも手伝いに来た。

すっかり喧嘩友達になっているカトリイヌだが。日本に完全に帰化したので、それは立派だ。

腐れた実家から縁を切って。

今ではソロネに昇華した元ドミニオンとともに、魔祓いとして忙しく日本中を駆け回っているし。

腐ったカトリックとは違った方向から一神教系の魔祓いを見つけて。

こういう合宿で手伝いに来る。

前のおバカでポンなお嬢様から、ぐっと綺麗になってしっかりしてきているけれど。それは一人暮らしをしているからではないだろう。

色々、周りから触発を受けたのだ。

日女も触発を受けるべきかもしれない。

実際、前に手伝いに来たカトリイヌは、実に効率的に子供達に魔祓いの基礎を教え込んでいたし。

子供達にも慕われていたのだから。

四苦八苦しながら授業を終え。

少し年上の魔祓いに、もう少し優しくと小言を言われた。

日女は既に一線級で魔祓いをしている人間であり、各地で厄介な魔に対処すると同時に、技を後代に託さなければならない立場だ。

家族が魔祓いだらけの家系とはいえ。

家系の内部で完結していたら、今の時代魔祓いはやっていけない。

何より魔はどうしても存在し続ける。

それもあって、どうしてもこうやって教えなければならないのだ。

だが適性がないな。

そう感じることも多い。

とにかく疲れたので、宿舎で休む。

出先から、菖蒲姉が連絡を入れてきた。

燐火と合同で魔祓いをしているらしい。燐火はますます強くなっていて、既に格闘戦では追いつかれたそうだ。

そうか。

燐火の奴は、更に強くなるだろうな。

あいつが公安の秘匿部署のトップになったら、魔祓いはもっと動きやすくなるはずだ。

今までどうしても公安の秘匿部署は、指揮系統としか機能しなかった。

魔祓いのトップが所属することはあまり多くなく。

反発する魔祓いが、指揮通りに動かず。

それで被害を増やすことは多かったのだ。

それが、最強の魔祓いの一人が指揮を執るとなると。

それでかなりやりやすくなる。

もっとも現場で最強の存在が、決してトップとして最良である訳ではない。あのちょび髭の絵描き志望だった人物も、戦場では極めて優秀で勇敢な兵士だったのだ。

ともかく今は、ガキどもの面倒を見なければならない。

テストのスケジュールをまとめていると、事務員が来る。

問題の公安の人員だ。

既に前線は退いて、こういうところで支援任務に当たっている。

本人は魔祓いとしての力はなく、魔が見える程度。

それでも、事務における力量は確かで。

公安がスカウトして、わざわざ事務として雇い。

調整役として重宝していた人物だ。

「日女さん。 ここなんだけれど、こうした方がいいと僕は思うね」

「分かりました。 それで、理由を聞かせて貰いますか」

「子供達は日女さんを心の底から怖がっているからね。 これでは萎縮してしまうよ」

「ガキに舐められたら終わりなので、多少怖いくらいが良いと思いますが」

事務員に対して、日女は違う分野で力を発揮してきた人間だと思っているから、敬意を払っている。

そうでなければ敬語など使わない。

事務員は嘆息すると、丁寧に後続の魔祓いをどう育てるべきかを話してくれる。日女も、苦労していたし。

それを聞き流すつもりはなかった。

 

1、大人の仲間入り

 

大学を出た。

日根見ちゃんからおめでとうと連絡が入る。

同期の鈴山さんからもだ。

日根見ちゃんはもう少し大学に残るらしい。正確には大学院に行くつもりのようだ。

生物学者に本気でなるつもりらしいが。

生物学者は色々と食べて行くには難しい。

それもあって、今後は色々大変そうだと、愚痴をこぼしていた。

だけれども既に今の時点で日根見ちゃんは論文をいくつも出して、それが高く評価されている。

きっと大望を果たせるはずである。

燐火は卒業と同時に、公務員試験はトップクラスで受かっている。

既に司法試験を突破している涼子には流石に成績で及ばなかったが、それでも東大をまっとうな成績で出ることが出来た。

公安の秘匿部署も即座に来てほしいと言っており。

両親や杏美、その下の妹の桜花に対しても、どう説明すれば良いかの話は既に済んでいた。

燐火は181pで背の伸びは止まった。

それまでに空手、柔道、合気、剣道、全てで国内大会を制覇している。ただしこれらは、全て今後のための箔つけだ。

ともかく大学を出たら家に戻る。

おかあさん似の杏美は、もう空手のまねごとを始めている。

燐火も見本を見せてほしいと言われるので、そういう場合は杏美が納得するまで稽古に付き合う。

杏美も体力が少しずつついてきている。

きっと背も伸びるはずだ。

桜花はびっくりするくらいおとなしい子で。

杏美が空手の練習をしていると、怖がってなくことがある。

今の時点では杏美はほとんどかわいいものに興味を示さない子で、男の子みたいな格好をずっと崩さない。

昔の日女さんみたいになりそうだなと燐火は思っているが。

それも個人の自由だ。

髪を伸ばしたり、かわいい服とかを着る気もないようだ。

おかあさんも時々そういう服を買ってくるのだが。

あまり杏美は興味を見せなかったし。

何しろ泥まみれになって走り回っているので、それもあってかわいい服なんて着せていられないという問題もあるのだった。

「お姉ちゃん、大学卒業おめでとう!」

家に帰ると、庭でそんな杏美が真っ先に声を掛けてきた。

髪も短く切りそろえているし、完全に見た目は男の子だ。道着もすり切れるほど使い込んでいる。

燐火も頷くと、動きを見せてほしいと言って。

それで動きを見て、細かいところを調整した。

燐火はもう成長が止まっているので、微調整は必要がない。これはとてもありがたい話である。

背がとにかく伸びるものだし。

体もその都度重くなったから。

毎回調整が大変だったのだ。

ケルベロスがいなくなったから、調整の手間が何倍も増えた。おかあさんも燐火の方が背が高くなってからは、どうしたらいいかとかなり悩んだ挙げ句に。

男性の超一線級の空手家を紹介してくれた。

燐火を見て、その人もこれは教えるのが難しいと言ったが。

それは教えるほど力量が離れていないからだと素直に話してくれた。

それでも、アドバイスはくれた。

そのアドバイスを元に調整を続けている。

「そう。 拳はそうやって繰り出す。 体全体で、的に力の全てを伝達してたたき込む事を意識して」

「分かった! お姉ちゃん、相変わらずものすっごくうまいね!」

「ありがとう。 でも、道場の先生の言うことは聞くように。 私と力量を比べても駄目だよ」

「うん!」

杏美は素直に育った。

それはいいことだ。

それでありながら、クラスではいじめをしていた男子生徒をぶちのめして、おかあさんが対応することになった。

まあ、この辺りは燐火もやっていたので、何も言えない。

正義感が強いのは良いことだ。

燐火が子供だった頃は、正義感が強い奴はバカだという風に考える風潮があったし。いい人は都合がいい人、なんて嘲笑する輩もたくさんいた。

時代そのものが腐っていたのだ。

今、少しずつ世界は良くなっている。

日本中の悪運を祓って、悪党が好き勝手出来ない状況を作ったのもあるだろう。

燐火が下ろしている三貴神は(三貴神全ての分霊体を今では下ろしている)、各地での活躍で役割分担を果たして活動してくれる。

それで、仏教系も含めて、この国の魔ならだいたい対応できるし。

神仏混淆の解釈を用いて。

仏教系の文化圏でも、かなり活躍することが出来た。

それもあって、燐火はこれから公安で、超一線で働くことになる。

杏美に訓練の回数を厳命して、それで家に入ると。

桜花が本を読んでいた。

そろそろ小学校に上がる桜花だが、花の本が好きで、図鑑をずっと手放さない。

おとうさんが選んできたとにかく綺麗な世界の花が載っている本が大好きで、花の名前を少しずつとても丁寧に覚えていた。

座り方とかも上品で行動がとにかくませている。

それもあって、時々杏美とは兄妹と勘違いされるようだ。姉妹なのだが。

「お姉ちゃん、お帰りなさい」

「ただいま」

「新しい図鑑を誕生日にせがんだの。 もっと色々なお花を知りたいんだ」

「良いことだよ。 日根見お姉ちゃんを今度連れてくるから、細かい話を聞かせて貰おうね」

うんと、嬉しそうに桜花は言う。

杏美の時に散々苦労したからか、桜花の子育ての手伝いは、燐火はそれほど苦労はしなかった。

桜花ばっかり構って杏美がすねるような事もなかったし。

それに、桜花はこれで怖がりだけれど運動神経は悪くなくて。

体育の授業では、わりと良い成績を取ってくる。

ただ性格的に決定的に戦闘はむいていない。

それもあって、格闘技などを教える気はおかあさんにはないらしい。

とにかく内向きの性格である。

ただ、内向きの性格が悪いなんて事はない。

昔は内向的というだけで人間と見なされないような時代があったそうだが。今はそんなこともない。

そういう腐った思考の持ち主は。

社会の一線から皆消えたのが大きいだろう。

おとうさんが疲れた様子で防音室から出てくる。扉を二重にしているから。一苦労のようだ。

既に六十が近づいているお父さんだが、それでも配信者としては第一線で頑張っている。

声優なんかもそうだが、まだまだ声からして現役だと分かる。

声優は寿命が近づいてくると明らかに声が衰える。

それは燐火もおとうさんに聞かされて知っている。

おとうさんはまだまだ声は全然現役で、ゲームプレイもそれほど衰えていない。ただ、体を使うようなコラボ配信については、流石に減らしているようだ。

既に十年以上やっているベテラン配信者ということもあり。

おとうさんを若い人間だと思っているファンは減ってはいるようだが。

それでもまだまだ若い女性のファンは相応にいるらしい。

正体がばれないように苦労していると、おとうさんはいつもいっている。

「おめでとう、燐火。 これから公務員だね」

「ありがとう。 とりあえず、これからうちの皆には苦労させないからね」

「頼もしいよ。 でも、お金だったらある。 結婚しても構わないからね」

「そうだね」

まあ、そんなつもりはない。

燐火は結局この死んだ表情筋は治らなかった。

無理矢理笑顔を作ることはどうにか出来るようになったが、それをやってみせたら、桜花が本気で怖がって泡を吹いてしまったので。

できるだけ控えるように今はしている。

おかあさんが料理を出してくる。

ケーキか。

蜂蜜入りの奴。

燐火は今でも辛党だ。

でも、ケルベロスの事を思い出して、甘いものも平気で食べるようにはしていた。それでいい。

好みの食べ物ばかり食べるつもりはない。

お祝いを家族で行う。

魔祓いの仕事は忙しい。国内でも、魔祓いは常に新しい問題案件が発生する。魔が自然発生する事もあるし。

海外から持ち込まれる事もある。

西洋圏の魔なら、今はカトリイヌさんと連携して対処できるし。

時々日本に来てくれるエヴァンジェリンさんとも連携できるのだが。

近年ではアフリカとか中東の魔が持ち込まれる事もあって。

そういうのの対処は一苦労だ。

ただ、今は家族でお祝いを楽しむ。

おとうさんはちょっと健康に問題が出てきていて、明日から検査入院だ。これは年齢もあるし、若い頃はブラック企業で痛めつけられたこともある。

その後も過酷な配信業を続けていたのだ。

定期的に入院して検査をして。

体をしっかり、確認しなければならない。

最悪の場合、この家を背負って立つのは燐火だ。

結婚する相手なんて今のところ思いつきもしないし。

子供を産むために働かない時間を作ることも、あまり考えたくはないというのも事実である。

ケーキを食べ終えると、外でルーチンの鍛錬をして。

そして精神修養もする。

三貴神は普段は黙り込んでいて。

ケルベロスが、如何に燐火に世話を焼いてくれたのか、よく分かる。

さて、明日から大人としての仕事だ。

あまり、休んでいる時間はない。

 

職場に出る。

秘匿部署だけあって、警視庁とは全然別の場所にある。ただ、普通に通える範囲内である。

通勤時間は三十分ほどだが。

これはあちこちにある支部で働ける仕組みになっているから。

実際の本部は全然別の場所にあり。

しかもかなりの頻度で移動する。

これは燐火が戦った星神クラスの災厄が時々出現して、大きな被害が出るのが要因だ。魔祓いによる悪運の排除はどうしても国にとって必須となる。

紛争を起こしているような国は、悪運をしっかり排除できておらず、その結果カスみたいな輩がのさばる事態が多いのだ。

そういうわけで、魔祓いの仕事は。

理解されずとも、とても大事なのである。

この部署で、リモートで仕事をするのが基本。

ただ部署に出てみると、見知った顔ばかりだった。

ちなみにスーツなど着ない。

燐火は基本的にラフスタイルで出勤している。これは魔祓いだからで。魔が見えるくらいの職員は、皆スーツだ。

職場で紹介されるが。

今更、という感じではある。

皆苦笑いしていた。

そして、職場の長が、すぐに仕事だと言った。

「すまないが燐火君、早速出てほしい。 横浜の埠頭で、道教系と思われる悪神が魔界を形成しつつある。 今、公安の実働部隊と神奈川県警のSWAT、それに自衛隊の特務が動いている。 犯罪者の確保は彼らに任せる。 燐火君は、相手の制圧を頼む」

「道教系となると、祓うことは厳しいですよ」

「分かっている。 道教系の魔祓いは、未熟ではあるが三人ほど呼んでいる。 それで、無力化した後祓って貰う」

まあ、大丈夫か。

道教では仏教神格と混淆した神格が多い。それもあって大日如来と混淆している天照大神である程度対応は出来る。

ただ、それもある程度である。

相手の悪神が何者か分からないが。

いずれにしても、さっさと叩き潰すだけだ。

即座に愛用の鉄パイプを確認して、それで車で現地に向かう。白仮面に着替えようかと思ったが、まあそれは現地でいいか。

基本的に持ち運んでいる荷物には、白仮面への着替え一セットと、ついでに鉄パイプなどが入っている。

なお、初日に手帳は交付された。

公安の手帳であり、警察もコレを見ればすぐに態度を変える。

今まで鉄パイプを持ち運んでいるのを二度見られて、公安の人が来るまで警察に職質された事があったのだ。

高校の三年くらいには、その辺の男子よりも背が伸びた事もあって。

強烈な威圧感を周りに与えていたという事もあるらしい。

それで、警察が目をつけてきた、というわけだ。

流石におかあさんの事を出すわけにも行かず。

それで時々困っていた。

魔祓いに鉄パイプは今でも必須だし。

流石に無手と言う訳にはいかないのだ。

現地に到着。

いわゆるコンテナヤードだ。

さっさと着替えて、白仮面の衣服を身に纏う。

白仮面になると、マントを翻して走ることが出来るので。

個人的にはちょっと嬉しい。

燐火が白仮面の衣装をまだ使っていると聞くと。

日女さんも菖蒲さんも、カトリイヌさんもエヴァンジェリンさんも、みんな遠い目をするのだが。

これが最強だと思える自分だし。

今更崩す気はない。

何より。

スカートとか言うひらひらした無駄な布を、中高ずっと履かされた身としては。

これがとても動きやすくて気に入っている。

ちなみに今では全部手作りではなく、公安が内部発注して、それで仕上げてくれている。

一時期は半年くらいは丈を自分で合わせなければならなくて。

そのたびにケルベロスが呆れながら細かく指導してくれていた。

そういう意味でも、思い出の服であり。

大事な戦闘服なのである。

白仮面の服で皆の前に出て、ひゅんと空を鉄パイプで切る。既に今では、鉄パイプで余裕で空を切れる。

充子に遅れて二年。

それでも師範に免許皆伝を貰った。

剣腕は、今は師範と充子に並ぶこの国三位と思っていた。事実、八段の使い手で、燐火に勝てる相手は見たことがない。

「では行きます」

「相変わらずだね平坂君……」

「はあ、これが最強ですので」

「う、うん。 それは疑っていないよ」

何度となく一緒に仕事をした公安の課長が、燐火を見てそうぼやく。

公安と言っても警察任務とはかなり離れているし、公安にも警察のキャリア組にもいるエリート意識を拗らせたアホの集団とも大分離れているので。

そういうのに職場であった事はない。多分、公安の方で顔を合わせないように調整してくれているのだろう。どんだけエリートだろうが、魔祓いには対応できないのが現実なのだから。

魔祓いの重要性は国上層部では周知の事実であるらしく。

魔祓いの部署に食い込んで利権を吸おうというアホなキャリアがたまに出るそうだが。

そういうのは、魔が見えなければ即座にはじく仕組みもあるので。

今の時点では問題がない。

コンテナヤードに黙々と歩み行く。

奥から魔が色々出てくる。

中華系の魔は極めて強大で、凶悪でもある。

日本の妖怪がどちらかというとユーモラスな奴も多いのに比べると、殺傷力も悪意も段違いだ。

だが、それも中華での話。

日本ではその力も発揮しきれない。

「変な奴がいるぞ!」

「バラバラにしてくってや……」

周りを取り囲もうとした魔が、彼らが認識も出来ないうちに砕け散った。

燐火が頭をかち割ったのだ。

こいつら程度だったら、鉄パイプで即座に粉々に出来る。魔祓いは、後で道教系の魔祓いにやらせれば良い。

木っ端妖怪が認識すら出来ぬ速度で、燐火は鉄パイプを振るう。

無人の野を行くがごとく進む。

妖怪は必死になって取り囲もうとするが、遅い。

今まで燐火が相手にしてきた魔に比べて、あまりにも脆弱。

間合いに入った瞬間、砕く。

背後に回ろうとしてくる奴は多少は気が利いているが。

それも相手が認識できないうちに打ち砕く。

コンテナヤードの奥から、のそりと大男が出てきた。

目つきが明らかにおかしい。

太っていて、手には青竜刀を持っていた。

青竜刀を中華から持ち込む手はいくつか有るが、さびだらけにしたものを持ち込み。それをわざわざさび落としするという手がある。

その青竜刀を、マフィア同士で使うのならまだ良いが。

こいつらは近年は、犯罪で普通に使用するようになっている。

インカムから、支援に様子を見ている公安の人から通信。

「発砲許可」

「不要」

此奴自身、中華に良くいる自称達人と違って、それなりに修羅場をくぐってきている用心棒だ。

全身から自信が満ちあふれている。

だからこそ、即座に燐火と向き合って分かったのだろう。

勝てない、と。

全身からどっと冷や汗が流れてきているようだ。

「どうした! おまえにどれだけ給金渡してると思ってるんだ!」

誰かがほざいている。

この魔界を使って、薬物売買などの悪行を働いている大陸系のマフィアか何かだろう。どうでもいい。

そのまま進んでいくと、太った男はそれだけ下がり。ついにはコンテナに追い詰められると、青竜刀を放り投げて、逃げようとした。

燐火は瞬時に追いつくと、その頭を一撃。

泡を吹いた男は、転がっていた。

この様子では何人も殺しているだろう。

近年は移民だからとかで罪が軽くなることはない。

後は警察に任せる。

この間も多数の妖怪があちこちから仕掛けてくるが、どれも間合いに入った瞬間に粉砕する。

そして、舌打ちしながら、マフィアどもが出てきた。

銃を持っているが。

何か大陸の言葉で叫んだ瞬間、燐火は間合いを侵略していた。

即座に銃を持った手をへし折り、制圧していく。一人に至ってはアサルトライフルを持っていたが、関係ない。

ボスらしいのが、慌てた様子で、何か喚き散らしたが。

面を入れて即座に黙らせていた。

さて、と。

「出てきなさい」

「ふん。 つかえんカスどもだな」

「……」

姿を見せるのは、翼を持つ虎。

ああ、なるほど。

此奴は知っている。燐火は道教系の知識はそれほどある方ではないが、それでも知っているほどの大物だ。

窮奇。

中華最強の妖怪四体を、四凶という。

その一角。

残虐にして人を食らう妖怪だ。

時代によって牛だったり虎だったり姿は違ってきているが、此奴の場合は虎型か。その戦闘力は本来だったら侮れない。

だが今では、中華は人心荒廃が進みすぎて、こういった古典妖怪は居場所がなくなってしまっている。

それもあって各国にマフィアと一緒に進出しては。

悪運をばらまいて、それで生じた様々な不幸を餌にしているのが実情だ。

「とりあえず始末しますが、何か言い残すことは」

「多少は出来るようだが図に乗るなよ。 おまえくらいの魔祓いなんぞ、幾らでも食らってきたわ」

「そうですか」

道教系の魔祓いを。相当数返り討ちにしてきた。

それは事実なのだろう。

窮奇に限らず、中華系の魔は残虐で、日本の妖怪とはスケールも違うケースが多い。

ましてや此奴は分霊体の一体であると一目で分かる。

此奴のいう戦歴は、分霊体も含めた窮奇全体の戦歴なのだろう。

関係ない。

そのまま、躍りかかってくる窮奇だが。

空中でバランスを崩して、凄まじい勢いで地面に激突していた。

冷たい目で見下ろす燐火に。

窮奇は飛び起きようとして、また地面に全身をたたきつける。

既にあのときとは歩法の練度が違う。

技術伝承がほとんどうまくいかず、散逸してしまった中華系の武術とは訳が違う。

こちらは師範から免許皆伝を貰った技量。

流石に師範には及ばないが。

それでも此奴程度だったら、わざわざ動くまでもない。

「わ、訳がわからん技を使いおって!」

「片付けます」

「ま、待てっ! 俺を式神にしないか! どんな汚れ仕事でも、幾らでも……」

そのまま頭をたたき割る。

後は、多少練度が落ちるが道教系の魔祓いが来るまでに、妖怪どもを全部無力化。

泡を吹いている大陸系マフィアの人員を、全員縛り上げておいた。

昔と違って翻訳技術も既に進歩していて、外国人だから無罪放免なんて事はあり得ない。こいつらは相当凶悪な違法薬物を持ち込んでいたことがはっきりしているので、まあ極刑か、それに近い重罪だろう。

それでいい。

道教系の魔祓いと一緒に、後は悪運を祓う。

悪の巣となっていたコンテナヤードに平穏が戻る。

こうして、燐火の初公務は終わったのだった。

 

2、それぞれの道

 

小川苛斂は、オリンピックの表彰台に立っていた。

空手はオリンピックの競技に選出されたりされなかったりだが。ここ数年は選出されていて。

強化選手として抜擢されたのが三年前。

それから鍛錬を続けて、ついにオリンピックで銅をとった。

一時期腐敗しきっていたオリンピックも、最近では様々な不正審査が行われない工夫がされ。

金で……審判を買収してメダルを取ることが出来なくなってきている。

それもあって、実力で銅を取ることが出来た。

それだけで充分だった。

最近ではうるさい報道陣が囲んでくるようなこともなくなった。選手が自身で、もし発信したいならそれぞれ自由に情報を発信する。そういうスタイルが主要になっていた。

苛斂の場合は、自撮りの動画で発信していた。

「私は小学生時代から空手をやっていましたが、空手を開始した理由は、あまりいいものではありませんでした。 見かけが派手で、それでおかしな人間につきまとわれることが多かったからです。 身を守るために始めた空手でしたが、それが何時しか本当に楽しくなりました。 転機となったのは中学の時で、その時凄い後輩が入ってきたんです。 その後輩に触発されて、それでここまで来ました」

これからは、空手の後進育成。

警視庁などでの指導役をすると、宣言する。

苛斂自身は、どこかの大企業のスポーツ推薦枠に行くつもりだ。まあ、どうでもいいのだが。

空手はプロリーグがない。

いくつか声を掛けてきている大企業に入るか。

あるいは、どこかしらの大きめの道場に通うか。

どちらかだろう。

金がとれなかったのは悔しいが、それでも銅がとれたのであれば充分だ。

苛斂はあまり自分を特別な存在だとは思っていない。

これくらいが自分の器だろうと、見切りをつけていた。

両親は苛斂の事をずっと押してくれたし。

それで充分すぎる。

後輩の鈴山も、最近では国際大会に出るようになってきている。階級が違うが、今回もオリンピックで世界八位の成績を出した。メダルは取れなかったが、それでも満足そうだった。

苛斂も参加するオリンピックはこれで最後だが、今後も国際大会にはまだ出るつもりだ。

三十路まではやろうかなと思う。

そして、三十路を過ぎたら。

昔色々指導してくれた八子先生のように。

あちこちで、なかなか芽が出ない生徒の指導をしたい。

今度は自分が八子先生のようになる番だ。

見た目で判断するカスを全部黙らせる。

あの子。

燐火はちょっとやり口が苛烈すぎたけれど。それでも、苛斂も大きな影響を受けたし、凄い奴だと今では思っている。

それに、燐火の妹の杏美とこの間顔を合わせたが、既に国内大会でかなりの成績を残しているようだ。

どんどん凄い才能が上がってきている。

最近の若い者は、なんて寝言を言わずとも済むだろう。

そんなことを言わなくても済むように。

苛斂はどんどん、後続の人材を発掘していく。

それは何も国内に限った事ではない。

空手の競技人口が増え。

建設的に使う人間が増えれば、それでいいのだから。

苛斂は鈴山のところにいく。

同じ選手村にいるから、会いに行くのは簡単だ。

この間婚約したらしく。

まもなく名字が変わるそうである。

見かけで判断しない相手を見つけたそうだ。

お互い、見かけで判断されて苦労した仲だ。

今でも鈴山とは仲が良い。

今回八位だったが、多分次はメダルを取れる。それらの話をしながら、燐火の事を思い出して、話に花を咲かせる。

「この間少しメールをやりとりしたんですけれど、今は公務員しているそうです」

「燐火っち、市役所とかにいるのかな」

「いえ、公安だとか」

「そっか」

公安と言ってもあんまり苛斂に詳しいことは分からない。

だが、腐敗警察とあの子が同じになる事はないだろう。

安心して大丈夫の筈だ。

それに、である。

燐火が高校生くらいになってから、急激にこの国の状況は良くなってきている。それもまた事実である。

日本中で犯罪組織が摘発され。

それらが的確に裁かれるようになった。

政府がいきなり有能になったというよりも。

あちこちで好きかってしていた悪党が、それぞれ逮捕されたり自滅したりで。空気が露骨に良くなったのだ。

今では学校のスクールカーストも過去の産物となった。

いじめと言う言葉は、昔はなんら抵抗なく使われていたようだが。

今では完全に犯罪の一種として扱われるようになっている。

それでいいのだ。

苛斂も散々邪悪なものは見てきた。

そういうものに後輩達がさらされなくていいのは、とても良いことだと思っている。

いくつか鈴山と話した後、自分の宿舎に戻る。

苛斂もそろそろ結婚してほしいと両親に言われているのだが。

別に其処までしなくてもいいのではないかと感じてもいる。

ともかく、今の時代は選択肢がたくさんあるし。

焦らなくてもいい。

ただ、それだけだった。

 

生物学者の卵である日根見は、今潜水艇で深海にいる。

深海……一番この地球で深い地点は、20世紀の半ばには有人潜水艇での到達を達成している。

だが、それでも深海は分からない事だらけだ。

今日は海洋汚染の実態を確認すると同時に。

生物サンプルを採取すべく、深海に来ている。

深海の生物には、とても巨大になるケースがあるが。

これは深海では餌をとるのが極めて難しいからだ。

通称海の砂漠とまで言われているほどである。

それもあって、深海の生物は、餌を絶対に取りこぼさないように、それぞれが工夫している。

体を大きくするのも。

その工夫の一つだ。

これらは「進化」ではない。

「適応」だ。

進化なんてのは、人間が都合よく考えた優れた方向への変化に過ぎない。それが本当に優れている保証などない。

三億年前には、酸素濃度が現在の倍もあった。

三億年前の生物は、それに適応していただけに過ぎない。

今の生物が三億年前に行っても、あっという間に全滅するだけ。

人間なんて酸素濃度にやられて、その場でばたばたと倒れていくだけだろう。

そういうものだ。

日根見は進化なんてものが嘘っぱちだと言うことを知っている。

だから、大学院で研究をするようになってから。

たまに後輩と話すとき、それを丁寧に説明するようにしていた。

生物のサンプルをロボットアームで採取して、それぞれを分析する。ほとんどはプランクトンだが、それ以外もいる。

巨大な魚が泳いでいる。

あれはオンデンザメだな。

一緒に乗ってきている研究者達が、記録映像を残している。

数百年も生きる巨大なサメだが、危険性は小さい。

ただなんでも口に入れるので。

深海まで墜ちてきた人間の死体を口にする事があり。腹の中から人間の一部が出てきた記録もある。

ただ、サメといっても人間を襲う種類はほんのわずかであり。

オンデンザメはそうではない。

餌があったら口にはするが。

そもそも生息圏がかちあわない。

それだけの話だ。

「あれは5mはありますね」

「まだまだ大きくなるぞ」

「もっと大きくなるんですか」

「7mくらいまでは育つ。 もっともそれまで生きていれば、だがな」

チームの指揮を執っている教授がいう。

そして、数時間深海でサンプルを取る。

昔はサンプルは死体でしかとれなかった。だが、最近は技術が進歩しており、潜水艦にロボットアームで生きたままサンプルを格納できる。

しかも潜水艦内部に水槽があり。

其処で生きたまま、サンプルを持ち帰ることが出来る。

後は水族館などと連携しながら、生物のサンプルを観察することになる。

深海生物の展示なども最近では水族館で開始されているが。

日根見はそれらの研究にも関わっていた。

生物は、何でも好きだ。

今はこの研究チームにいるが、陸生の生物だって好きである。

いずれ専門を作って、それを極めたいと思う。

どちらにしても日根見はまだまだひよっこ。

学者としては卵も良いところである。

浮上。

大型の研究船に、潜水艦でドッキングする。

数カ国が共同しているプロジェクトで、これから整備をした後、別の国のチームが深海に潜る。

研究船にはこれまた大型の水槽があり。

回収したサンプルをここで面倒を見る。

とはいっても、それでもすぐに死んでしまうサンプルも多い。

そういったサンプルをすぐに標本にして、データを残すのも大事な仕事だ。次に、生かすために。

色々と忙しい。

燐火と出会ってから、日根見は自分を鍛える必要性を感じた。

充子の凄まじい鍛錬をみて、それを更に実感した。

結局予定通り剣道は二段までで止めたが、それでも自衛は出来るようになった。それだけで充分だ。

後は、生物に関して極めていきたい。

黙々とサンプルを分類していくが。

どうやら魚の一つが新種らしい。

しかも元気に水槽の中で泳ぎ回っている。専門の先生に声を掛けると、すっ飛んできた。

日根見より七つ年上だが、まるで子供みたいな好奇心で、いつも新しいものには目を輝かせている。

ただ、日根見以上に子供時代は苦労したらしくて。

あまり昔のことは話したがらなかった。

「これは凄い! 完全に無事なままだ。 ヨシ、私はこれからスケジュールを変更して、この新種の研究と観察をするぞ」

「先生、困ります……」

「いーや、何しろ新種だ! 持ち帰った後は、水族館での世話についてもしばらくはつきっきりだな。 水族館に連絡を! 私が指示する条件の水槽を用意するんだ!」

「……」

助手達が困り果てている。

さて、日根見は少し休むか。

船酔いは一切しない。

それに、何よりも。

生物に関わるこの仕事。とにかく楽しくて仕方がないのも事実だった。

 

充子は剣道の全国大会で、何度目かも分からない優勝を果たした。

今や剣道小町として知られている充子だが、決して自分は最強ではないと、常に取材には答えている。

父には勝てる気がしない。

既に老境に片足を踏み込みかけているのに、剣の道を更に極めている父は。

歴史に残る剣豪の誰にも引けを取らないはずだ。

それでいながら、更に高みを目指している。

凄まじい。

それに、だ。

時々会う燐火だが。

剣道だけなら勝てる自信はギリギリある。

だが、燐火は剣道だけではなく、柔道や空手、合気でも余裕で世界最強を争える実力者だ。

一体どんな人に指導して貰ったのだろうと、羨ましく思う。

しかし妬んでいては駄目だ。

今はとにかく、充子も更に腕を磨かなければならなかった。

段位についても、経験年数絶対重視の風潮を変えたい。

そうすることで、なんとか今の剣道界に蔓延っている。高段位の人間が強いとは限らない状態をどうにかしたい。

だけれども、それだけが全てでもない。

色々と悩むことは多かった。

家に戻る。

日根見姉さんからメールが来ていた。

生物学の調査船で、画期的な成果をいくつもあげたとかで。これから大学に戻って論文を書くのだとか。

院生になっても忙しいんだな。

そう思って、少し苦笑する。

充子は道場を継ぐことにした。

とはいっても、それだけでは食べていけない。

それもあって、燐火さんのおかあさんの紹介を受けて、警察での指導に邁進している。警察での指導は面白い。

五段や六段の人もいるけれど。

そういう人に、現実をまず見せること。

具体的に暴漢をどう制圧するか実例を見せること。

それが大事だ。

実際問題、ナイフを持った暴漢相手に、素手ではほぼ何も出来ないのである。

本当の達人だったらどうにか出来るかもしれない。

ナイフを持った人間が、ド素人だったらどうにでもなるかもしれない。

だが、その二つが都合良くそろっているケースはほとんどない。

だから、ナイフを持った相手にどう対応するか、充子は徹底的に訓練する。警棒を用いて、如何にしてナイフを持った相手を制圧するか。

それを仕込む。

警官の中には、充子を侮る者も多かったが。

実際にナイフを持った状態で襲いかかるように指示して。

ことごとくたたきのめされると、現実を見て態度を改める。

それでも改めないような人間に関しては、見込みなしと事実を告げる。

屈辱に顔をゆがめる事も多いが。

そもそもとして、警察は極めて忙しい。

海外から凶悪犯も入ってくる昨今。

それらを取り押さえられないのでは意味がない。

最近では父以外の八段持ちに一本を取られることすらなくなってきたこともある。

警察では指導を求めて、父に連絡を入れてくる。

そのため、各地の県警などに回っては、充子は指導をしていて。それがとても忙しかった。

とりあえず、休む。

連絡が来たのは、その時だった。

燐火さん。

そう思うと、目が覚める。

スマホは今でもあんまり上手に操作できないけれど、それ以上に嬉しいので、さっと内容を見る。

今公安にいることは知っている。

色々秘匿性がたかいので、具体的にどういう仕事をしているかは教えてくれないが。それでも、愚痴やら何やらを言うことはほとんどない。

ただ、これから家に戻るらしい。

休暇が入ったので、数日休むそうだ。

その間遊びに来るなら、是非というので。

必ず行くと、充子は答えていた。

わくわくして眠れないのはいつ頃だろう。

父との手合わせでは、勝てる気がしない。

国内の試合では、敵がいない。

国際大会にもたまに出るが、そっちはもっとレベルが低かったりする。

最近では西洋剣術との他流試合を求められる事もあるのだが。

それらでも敵なしであることもあって。

充子は動画などで試合の様子が拡散され、サムライガールとか言われて変な方面で人気が出ているようだった。

ほとんど興味がないので、門下生がどういう動画が出ているとかいうのをたまに聞かされるくらいである。

動画を見ると、ああこんな試合もしたな、なんて思うこともある。

色々な武器を使って見せてほしいと頼まれることもあるのだが。

充子は基本的に剣一本だ。

それもあって、他の武器を専門的に使うことはない。

わくわくを抑えて、それでも眠る。

翌日、燐火さんの家に行くと。だいぶ大きくなった杏美ちゃんが、出迎えてくれた。

「充子さん、オス!」

「おはようございます。 今日も元気ですね」

「充子さんこそ、全身から覇気がほとばしるようッス!」

「ありがとう」

大げさだ。

ただ、この子もまた、燐火さんの影響を受けて、様々な武道をしているらしく。しかもかなり成果を上げているらしい。

ただ流石に燐火さんには届かないようで。

才能がないのかなと、たまにへこんでいるのを見る。

それは相手が規格外過ぎるだけだと、たまに慰めたりもするが。

まあ、それでも頑張りたい気持ちは分かる。

今の時点で、杏美は剣道で言うと、三段相当くらいの実力だ。

まだまだ全国区で言うと、それほどの力ではない。

稽古を頼まれたので、つける。

気合いははっきりしているが。

燐火さんのように、複数の武術の経験や歩法を生かしている訳ではない。それもあって、どうしても充子から見ると、攻めが単調だ。

立て続けに三本取って終わり。

「かー! 勝てねー!」

「かなり腕は上がっています。 いくつか細かい指導をしますので、覚えてください」

「オス!」

そのまま、指導をする。

やはり面に妙な癖があるので、それについて指摘する。側で見ていて、理解できた。

成長した腕の長さと、振るっている剣筋にギャップがある。

杏美は燐火さんほど背が高い方ではない。それに燐火さんがとても忙しいこともある。そうそう、丁寧な指導は出来ないのだろう。

細かく説明して、意識する場所、やるべき鍛錬を教えると。

頷いて、真面目に剣を振り始める。

燐火さんが出てきた。

あまり背が伸びなかった充子からすると、見上げるようだ。180pを上回るのは、女子としてはとても珍しい。

「久しぶりです」

「久しぶりですね。 今日はルーチンだけこなしたら寝ようと思っていたんですが、せっかく充子ちゃんが来てくれたので、試合をしましょう」

「分かりました」

平坂邸は更に増築されていて、道場が内部にある。

かなりお父さんが稼いでいるらしく、燐火さんも相当に稼いでいるということもあって、色々出来るらしい。

その道場で、向かい合う。

やはり、勝てるのは剣道だけか。

それにこの人の気迫、まるで人斬りそのものだ。

凄まじい気迫に押されないように、気合いを腹の底から絞り出す。そして、凄まじい数のフェイントを互いに掛けながら、間合いをゼロにする。

激しい試合を続ける。

三度試合をして、五本とり、四本取られた。

もう審判などいらない。

この人相手だと、互いに結果など分かっている。

力の差は縮んでいるが、それでもまだ剣道なら。

いや、そんな風に考える時点で、気圧されている。

燐火さんは柔道でも空手でも合気でもトップクラスだ。この様子だと、殺す殺されるの実戦も豊富に経験している。

多分どこの軍隊にいる特殊部隊員よりも強い。

それが分かるからこそ。

戦えることが、今は誇りだ。

六試合目。

周りが何も見えない。

それくらい、試合に集中する。

最初の一本を、打ち砕くような面を取られる。

だが、立て続けに胴を二本取って、勝ち。

十回まで試合をして。

それで十六本取り。十四本取られた。

やはり力の差が拮抗してきている。だけれども、これほどやっていて楽しい試合が他にあるだろうか。

全国大会だと、変わった技を使ってくる選手もいる。

最近だと二刀流を使う選手も出てきている事がある。

だけれども、二刀流を本当に使いこなせている選手はほとんどいないのが事実だ。

確かに二本剣を振り回せば強そうには見える。それは事実だ。だが世界中どこでも、一刀流が主流だった。

それが全てを物語っている。

いずれにしても、礼をして終わり。

残心をして、感想戦に入る。

燐火さんは更に強くなっている。そう説明すると、燐火さんは、静かに笑った。何というか、猛獣が側にいるような気迫だ。

男子の大柄な選手とも全国大会ではあたるが。

それでも、燐火さんの気迫に近いものを放っている選手は一人も見たことがない。

間違いなく父と充子につぐ、この国三番目の剣道家はこの人だ。

「やはり、剣道だけは生涯充子ちゃんには勝てなさそうです」

「これだけは、負けません」

「今、公安の仕事をしていますが、皆あまり武術は得意ではありません。 今度、指導を頼んでも良いですか」

「勿論」

そして、ちょっとだけ間をおいて。言う。

「私に敬語を使わなくても良いですよ」

「……難しいんです。 おとうさんとおかあさんに対してでさえ、かなり時間が掛かったんですから」

そういう燐火さんは、悲しそうに見えた。

大きなハンデを抱えているのは、充子にも分かる。

燐火さんから、それとなしに聞かされたことがある。

今のおとうさんとおかあさんのところに来るまで、悲惨すぎる経験をしてきたことは分かっている。

それでも、充子は。

この人と、もっと親しくなりたい。

そう、思うのだった。

 

3、終わりを打開するべく

 

酷い状態だな。

燐火は護衛の自衛官と軍隊に囲まれながら、現地に向かう。

この国は、長年独裁政権に支配されて、麻薬などの輸出の中継地点となっていた。近年ではテロリストまで輸出していて、それもあってついに国連も重い腰を上げたのだ。

21世紀の初めくらいまでは国連は機能不全を起こしていたのだが。

色々あって、どうにかそれも解消され。

今ではやっと、こういった国に対して大きな干渉が出来るようになってきている。

そして、国連軍が制圧した後。

燐火達がやるのは、魔祓いによる悪運の排除だった。

悪党がのさばるのは、人間世界の常だが。

それによって魔が野放しにされ。

悪運がたまる。

コレが悪循環を生み。

酷い場合は国全体が魔界と化す。

この国はその典型例で、広くもない国土の大半が魔界に沈んでいて悪党が好き勝手できる地獄と化していた。

それをこれから、徹底的にぶち壊す。

魔が仕掛けてくるが、それは全部かき消す。

今日は菖蒲さんとエヴァンジェリンさんが来ているので、心配はしていない。最近ではドローンなどの技術も進歩してきており、狙撃などに対しても迅速に発見できるようになってきていた。

それだけじゃない。

自衛官の一人の腕を引いて、飛び退く。

狙撃が地面に突き刺さっていた。

「狙撃! 即応!」

「目標確認! 効力射!」

即時に対応の射撃が火を噴き、スナイパーを沈黙させる。

助かったと自衛官が敬礼してくる。燐火も頷くと、そのまま進む。

勘、か。

ちょっと違う。

五感を極限まで研いだ結果だ。今では、スナイパーの狙撃くらいだったら、事前に察知できる。

雑談しながらこんな危険地帯を進むつもりはない。

魔を片っ端から排除しながら進むと。

この国の行政府だった場所に到達していた。

これは、酷いな。

仏教系の魔だが、あまりにも収束しすぎて、建物そのものが魔とかしている状態である。

内部に入ると、魔の腹の中に入るようなものだ。

ただ、仏教系だ。

菖蒲さんが来たので、頷く。

印を切る菖蒲さん。

燐火も。同じく天照大神を、大日如来の側面に切り替えて、読経を開始する。

闇が、揺らぐ。

凄まじい揺らぎに、行政府自体がねじれ。悲鳴を上げているかのようだ。

とんでもない悪運があふれ出す。

これは現地の魔祓いでは、とても対処できなかっただろう。それにこの国では、指導者様の言うこと以外は全て悪とされていたし。魔祓いなんてほとんど殺されてしまったのだから。

骨が腐肉が、建物からあふれ出す。

餓鬼だな。

餓鬼道の住人。

この行政府にいた指導者様の欲望に引き寄せられて、ここでずっと住み着いていた。それが、住処を守ろうとしている。

菖蒲さんの愛染明王が、片っ端から剣で切り伏せる。

燐火の大日如来が光で焼き尽くす。

そして、エヴァンジェリンさんがルーンを組んで、地面に手を当てると。

時間を止めるようにして、餓鬼達が動きを止めていた。

「長くはもたんぞ!」

「分かっています!」

「本丸が出てくるわよ」

行政府の奥から這い出してきたのは、あれはなんだ。

ああ、なるほど。

理解した。

仏教で毛嫌いされる存在。

実際には立派な神様なのだが、第六天魔王と言われ恐れられるもの。

第六天の支配者。

他化自在天。

マーラとシヴァの性格を足したような神格であり。

天界の一つの支配者でありながら。

悟りを阻む難敵として立ち塞がるため、仏教では蛇蝎のように嫌われている魔の中の魔。これほど派手に実体化している例は初めて見た。

「おのれ! この地は我のものだ! 貴様等、さっさと出て行け!」

「まがい物であろうと、所詮は他化自在天。 我を忘れたか」

「だ、大日如来様……っ!」

「このような場所はそなたの居場所ではあるまい。 すぐに第六天の本霊と合流し、統治に戻れ」

大日如来の言葉に。

その巨大な太った全裸のおっさんは、わなわなと震えていたが。

やがて、その内側から裂け始める。

これはアイデンティティ崩壊を起こしたな。悪運だけが、凄まじい量流れ込んでくる。

この国を何十年も蹂躙し続けた独裁者のため込んだ悪運だ。

そのまま解き放たれたら、この国はずっと悪党に支配され続けることになるだろう。

それは、許されない。

聖印を切る。

菖蒲さんも、読経を強める。

エヴァンジェリンさんは壁にルーンを切り替え。膨大な悪運を押しとどめる。

津波のように押し寄せてくる悪運は。

今の燐火と菖蒲さんの手を持ってしても。

浄化に、半日以上掛かった。

 

浄化を終えて、後は国連軍に任せてこの国を去る。国の空気が露骨に良くなっていた。

本丸を潰した後も、あちこちの魔祓いをした。その過程で何度も狙撃とかの襲撃を受けた。

全てに対応した。

燐火はともかくとして、エヴァンジェリンさんや周りの自衛官は対応できないので。そうしなければならなかった。

菖蒲さんは単独で行動しており、愛染明王の眷属である夜叉や羅刹を使ってあちこちの偵察をしており。

それで魔界を見つけては、効率よく魔祓いを進めた。

そうすることで、悪党が活動しにくい状況が出来るし。

なんならどれだけ狡猾に身を潜めていた悪党も、悪運に見放されてあっさり見つかったりする。

国際指名手配犯が三十人以上も短時間で逮捕され。

そのまま国外に連れて行かれた。

この国でまともな裁判なんて出来ないので、それは仕方がない。

しばらくは国連軍と駐在官が現地をまとめて、全てはそれからだ。

民主主義が絶対だとは燐火も言わない。

だが、少なくとも現地の人が自立するのは必要だろう。

経済支援をただ与えても、人間は自立しない。

生活の仕方を教えていかないと自立などはできないのだ。

ともかく国を去る。

しばらくは、感謝は絶対にされないだろうなと思う。国連軍が石を投げられるのは何度も満たし。

燐火に対して様々な罵声も浴びせられた。

ただ、それに対してどうこうと思うこともない。

罵声の類は文化が違うとまったく刺さらないことが多いのだ。

実際問題、儒教文化圏の人間による罵声は、それ以外の文化圏の人間からすればなんだそれ、となる。

燐火も涼子に言われて簡単な会話をいくつかの言語で覚えたから。

そういう事情は知っていた。

帰路の飛行機で、いくつか説明を受ける。

既に公安で。

燐火はある程度の地位を確保していた。

最前線で戦える、一線級の魔祓い。

星神との戦いで、多くの魔祓いが現役を離れたという事もある。それもあって、燐火に寄せられる期待は大きい。

帰ってからもスケジュールが詰まっている。

嘆息すると、日女さんから連絡が来る。

確か、北海道で仕事をしているはずだが。

一応緊急回線なので、飛行機の内部でも連絡は出来る。それだけの立場が、今はあるのだ。

「燐火、こちらにエヴァンジェリンを回せるか」

「どうかしたんですか」

「どうも暴れている魔が欧州系らしくてな。 カトリイヌと魔祓いにあたってるんだが、苦戦中なんだ」

「今日本に戻るところです。 数日はかかりますが、こちらから公安に話は回します」

通信はそれでも最小限に。

関連部署に連絡を入れる。

カトリイヌさんがいるということは、欧州系であることは分かっても、恐らく一神教の魔祓いでは対処が難しいタイプだろう。

一応データは受けた。

エヴァンジェリンさんが見ると、難しいと言われた。

「これは東欧系だな」

「スラブ文化圏の魔ですね」

「そうだ。 天才たる私だが、スラブ文化の魔は難しいぞ。 東欧は神々も魔も伝承があまり残っていなくてな」

なるほどな。

エヴァンジェリンさんが解説してくれるが、南米神話ほどではないが、スラブ神話も一神教によって散々弾圧されたという。

ただその頃の一神教は南米文明に対して徹底的な大虐殺をしたほどの破壊力は存在しておらず。

融和する形で、様々なスラブ神話を取り込んでいったそうだ。

だが、だからこそ。

スラブの魔は、厄介極まりないわけだ。

「アイヌ文化は大陸の影響を受けていて、それなりにスラブ系の文明の流入がしやすいと天才たる私は聞いている。 確か北海道に現存しているアイヌ文化には、そういった混血の文化もいくらか残されていると聞いていたが」

「なるほど、それ経由での魔かもしれませんね」

「アイヌの魔祓いはいないのか」

「いるにはいますが、高齢化が激しく、更に星神との戦闘で……」

どこも大変だなと、エヴァンジェリンさんはぼやく。

流石に問題なので、文化の復興作業を行いながら、アイヌ系の魔祓いも育成する計画を燐火が立てている。

アイヌ系の魔は動物と一体化している例が多く。

それもあって、動物の害があると、一気に活性化しやすいのだ。

そうなってくると厄介だ。

そういうこともあり、公安に提出しているこの案は、恐らく近々通るはずである。

「私も行くが、燐火も来てくれないか。 燐火がいれば、非常に心強い」

「分かりました。 スケジュールの変更について交渉しておきます。 人命が最優先ですので」

「そうだな」

エヴァンジェリンさんが安心した様子だ。

年を取ると、金やプライドを人命に優先させるような奴はどうしても出てくる。

しかもそれを「大人になる」とか称するのだからたちが悪い。

燐火はそうはならない。

それだけだ。

エヴァンジェリンさんはずっと子供みたいな見かけのままだが、いずれ結婚するつもりらしい。

ただ、故郷で結婚するのではなく、日本に帰化することを考えているそうだ。

まあ、色々あちらではあるようだし。

それはそれで分からないでもない。

燐火はちょっと分からないな。

いずれにしても、今はやることがいくらでもある。それらを全てこなしてから、だ。

好きな男もいないし。

日本に戻ると、スケジュールを調整して、すぐに北海道に向かう。

現地では、日女さんとカトリイヌさんが、かなり厄介そうな魔と対戦していた。ずっと戦っていたわけではなく、縄張りから出てこようとしているのを交代で押さえ込んでいたようだ。

燐火とエヴァンジェリンさんが到着すると。

二人とも、良かった来てくれたかと喜んでくれた。

「なるほど、強大な力を感じますね」

「恐らく東欧系だというのはこちらでも確認したが、正体がわからん。 押さえ込むので精一杯でな」

「恐らくチェルノボグだ」

エヴァンジェリンさんが即時で特定。

チェルノボグはスラブの悪神とされるが、必ずしもそうとは分からないそうである。とにかく伝承が散逸してしまっているからだ。

ともかく、なんとかしてみるという。

ドルイド系の魔祓いであるエヴァンジェリンさんは、最古の魔術の一つであるルーン使いであり。

それは古い神話には、ある程度効果があることを示す。

流石に文化圏が違う燐火達は抑えることしか出来ない。

それにしても哀れな姿である。

巨大な人影のようだが、既に原型をとどめられていない。カトリイヌさんのソロネがずっと押さえ込んでいるが、それも抑えるだけでやっと。

日女さんが下がる。

代わりに燐火が前に出た。

巨大な剣を振り回してくるチェルノボグだが、太刀筋は雑。ただパワーで振り回しているだけだ。

腕も多数有るが、どれも滅茶苦茶に動かしているだけ。

実体をたたければ瞬殺だが。

それが出来ないから面倒な相手になっている。

とりあえず前に出て、片っ端から腕の武器を取り落とさせる。

巨大な姿のチェルノボグが唸りながら多数の剣を次々出現させ、投擲してくる。だが、それも全部たたき落とす。

ぬるい。

今までやりあってきた魔と比べれば、雑魚も良いところだ。

呻きながらチェルノボグが、腕を伸ばしてくる。モヤモヤになっていて、自分でも存在を自認できていない。

弱体化した魔や悪神は、こういった状態になることが多い。

ぱんと手を手刀でたたき落として、更には懐に入ると、面を入れる。

それで痛打になったチェルノボグが悲鳴を上げるが、これだけモヤモヤだとクリーンヒットも決定打にならないか。

下がるチェルノボグが、更に腕を増やして、一斉に攻撃を仕掛けてくるが。

単調極まりなくて読みやすい。

ただ、とにかく長時間防がなければならないのが厄介だ。

その間にエヴァンジェリンさんがルーンを組む。

日女さんとカトリイヌさんも、連携して光の壁を展開。

さて、やれるか。

ひときわ巨大な剣を出現させると、振り下ろしてくるチェルノボグ。それ自体が呪いの塊だ。

燐火はすうと息を吐くと。

全力でそれを横殴りに鉄パイプで張り倒した。

ぐらんと巨体が揺らぐ。

五mはあるが、その密度がスカスカなのだ。日女さんが対応できていたのも、たんにこちらからも攻撃できないから、である。

ともかく押さえ込む。

エヴァンジェリンさんがどこかに連絡して、何か聞いている。

結構焦っているようだが。

まあいい。

こっちはまだまだ余裕がある。

チェルノボグが、喚きながら腕を大量に伸ばしてきた。飽和攻撃で包み込もうというのだろう。

無駄だ無駄。

素戔嗚尊に切り替えると、草薙の剣を振るって貰う。

それで、まとめてチェルノボグの飽和攻撃が消し飛ぶ。

勿論チェルノボグにダメージも与えられない。正確には、魔祓いは出来ないが。それでも明確に怯む。

前に進むと、立て続けに鉄パイプをたたき込む。

一撃ごとに光がほとばしるのは、あまたの魔を打ち破ってきたからだ。

さて、そろそろ良い頃だろうか。

カトリイヌさんが叫ぶ。

「燐火さん、下がって!」

そのまま飛び退く。

エヴァンジェリンさんが、ルーンを大量に組み合わせて、地面に手を突く。

同時に、カトリイヌさんも、ロシア語らしい聖言を放っていた。

悲鳴を上げながら、チェルノボグが溶け消えていく。

それが、人型になっていく。

「おお……私が……私に戻っていく……」

「あなたはチェルノボグ神で間違いないですか」

「間違いない……」

一応当時の言語にスマホで即座に翻訳して会話している。こちらからの声も、届いているようだ。

これは、魔祓いをしたというよりも。

元に戻したのか。

「あなたはどうしてこの地に」

「そもそも何をしていたのかさえ分からない……この地に災厄をもたらしてしまったのであれば謝罪しよう。 すまなかった」

「いえ。 それで、これからどうなさいます」

「もしも、私を受け入れてくれる場所があるのであれば、そう願いたい。 私のいたスラブの地では、私はもう……」

そうだな。

とりあえず、燐火は即公安に連絡。

やはり、八百万の神々というのは非常に便利だ。

チェルノボグの神社は、恐らく大黒様の神社と一緒で良いだろうという話になった。

詳細がよく分かっていないとはいえ、それでも夜や死を司る神だ。

現在では七福神のイメージで、厨房の神というイメージがある大黒天だが。

本来の大黒天はマハーカーラというシヴァ神の残虐な側面を全て強調したような殺伐とした神であり。

チェルノボグとは相性が良いだろう。

とりあえず、チェルノボグに聴取をしつつ、悪運に汚染された地域を全て浄化していく。

汚染物を不法投棄していた業者が自衛隊に抑えられてギャアギャア騒いでいたようだが、悪運を祓えばどうなるか。

どうもここの市議とグルになっていて、膨大な賄賂を渡していたらしいことが翌日に分かり。

それで市議もろともお縄。

情状酌量の余地もない。

実刑判決確定だろう。

魔祓いは国の治安確保に貢献する。

燐火の住んでいるこの世界では少なくともそうだ。こうして悪党が、魔祓いによって悪運を失う。

そうしてどんどん社会から排除される。

そうすれば社会は健全になる。

ただそれだけの話だ。

燐火はそれを現場からする。それだけの話である。

 

しばらくぶりに休暇が出来たので、涼子と少し話をする。

忙しいが、ルーチンはしっかりこなしている。これは、燐火の仕事内容が内容だからだ。仕事時間にルーチンを組み込むことが許可されているのである。だから、体は衰えていない。

早速裁判官になった涼子は、いくつかの案件で極めて厳しい判決を下しているようである。

一方で痴漢えん罪などのしょうもない代物に関しては、如何に「被害者」が喚き散らそうと、無罪を通すなど。

既に剛直で知られているようである。

ただ、疲れると涼子は言っていた。

「アホが多すぎる」

「それは涼子ちゃんから見ればそう」

「そういう問題でもないかな……」

司法試験を突破してきた筈なのに、倫理観をドブに捨ててきたような裁判官や弁護士。

凶悪犯を無罪にして、警察の苦労を無にすることだけを楽しみにしている弁護士。

偏った思想にどっぷりつかり。

邪悪なビジネスに手を染めている弁護士。

そういうのがうようよいるらしい。

いずれ高等裁判所、最高裁判所に移動したら。

更に厳しい判決を下すと、涼子は静かに言う。

涼子は既に悪徳弁護士からは恐れられており、賄賂も一切通じないと言われているようである。

更に涼子から聞いた悪徳弁護士については、確実に周囲を洗う。

そうするとだいたい魔が近くに住み着いていたり、悪運が祓われなかったりしているので。

そういうのは全部祓っておく。

結果、涼子が裁判官になってから、現在までに十四人の悪徳弁護士がバッヂを失い。

刑務所に直行したようだ。

「それで私のあだ名が死神だよ。 アホかと」

「そうですね。 そもそも死神は殺しに来る神ではなくて、死んだ人間を迎えに来る神ですからね」

「そうそう。 死神って何かを理解してもいないんだよ司法試験通っておいて。 本当にアホなんだから。 司法試験を通るには最低でも5000時間勉強が必要なのはそれはそうだけれどさ。 それにしても最低限の教養くらい身につけろっての」

これは相当にたまっているな。

レストランで軽く酒を入れながら、愚痴に付き合う。

とにかくどうしようもないアホな弁護士と。

一切合切反省もしない犯人。

これはまともに付き合っていたら、精神を病む。それは良く理解できた。

更に問題なのが例の父親だ。

またハニトラに引っかかりそうになっていたので、もうクレジットカードを停止したらしい。

既に涼子との力関係は完全に逆転。

涼子の方が稼いでいることもある。

もう仕事なんかしなくて良いから家で寝てろと涼子が一喝したら。これ以上はまずいと判断したのか。

早期退職して、今は家でずっとMMORPGをやっているそうだ。

多少の課金くらいは大目に見る。

そう言ってはいるのだが。

それでもMMORPG内で知り合った人物と会いに行ったり、お金のやりとりをするのは絶対禁止。

そう涼子に釘を刺されているらしい。

ちなみに調べた限りでは、MMORPGではとても紳士的に振る舞っているらしく。

色々複雑な気分だそうだ。

それから、いくらか話をする。

燐火としても、流石に魔祓いのことは口には出来ない。

悪運を祓っていることも。

だが、燐火が何かしらの方法で、涼子と連携していることはもう向こうも気づいているようである。

それはそれで、別に構わない。

いくつか話をしてから、夕食を終える。

タクシーを手配して、涼子を送ると。

燐火は久々に走るかと思って、四駅ぶんを走る。

ケルベロスがいなくなって。

寂しいとは感じなかった。

ただ、心にぽっかりと穴が開いたのは事実だ。

ケルベロスがいなかったら、燐火は「事故死」で済まされていただろうし。

金木の一族は、まだあの腐った街の王様として君臨していただろう。

それどころか、星神達が全てをひっくり返して。

今よりも何倍も悪い世界情勢が来ていた可能性が高い。

星神による行動の余波は今でも残っていて。

まだまだあちこちで紛争がくすぶっているし。

何よりも、SNS自体を廃止しようという過激な意見まで出てきている国まであるようだ。そんなことをしても、何の意味もないのに。

四駅くらい走り抜けるのは、別になんの苦労もない。

体力もパワーも中学の頃とは比較にもならない。

そのまま家まで走り、その間風を切る。

バイクなんかに乗らなくても、こうやって風を切って走ることは出来る。それでほてりを冷ますことも出来る。

このまま燐火は、世界を少しでも出来る範囲で変えたい。

今の時代でも、虐待家庭なんてなんぼでもある。

増えているとは言わないが。

決してなくなってはいない。

この国ですらそうだ。

他の国に至っては、他人の子供を平気でさらって、小金稼ぎのために売りさばくような輩もいる。

そういった子供はいかれた金持ちのペット扱いならまだ良い方。

大体の場合は解体されてそのまま内臓などを売り飛ばされて、骨一つ帰ってこない。

そんな実例を山ほど見てきた燐火は。

人間が知的生命体などではない事をよく知っている。

家に着くと、深呼吸して、中に。

もう深夜だ。

一人で自室に入ると、其処で寝る事にする。

公安に入ってから一人暮らしをしても良いかとも思ったのだが。

面倒だ。

それに、仕事の時は白仮面の格好を基本的にしているし。

周囲には式神も展開している。

これは公安の方で手配してくれたもので。

基本的に犯罪者が近づける場所ではない。

風呂に入って、それから眠る。

ぼんやりとしながら、今まで戦ってきた相手のことを思い出す。

今も戦っている。

だけれども、やはり星神一派ほど燐火の人生に大きな影響を与えた存在はいなかった。

ふっと、小さく笑った。

いつの間にか夢の中にいた。

冥府だ。

夢だと分かっていても、周囲にケルベロスがいないか探してしまう。

だが、これはどう見ても日本の……仏教系の冥府。

十王の府だ。

うろうろとしていると、上から声が掛かる。

十王の一人だった。

「君か。 まだここに来るのは早いだろう」

「やはり、ケルベロスはいませんね」

「そうだな。 ケルベロスは本当に素晴らしい活躍をしてくれた。 君という次代の星を育ててもくれた」

「……」

ケルベロスは、何度も危険な方向に行こうとする燐火をしっかりとどめてくれた。それだけでありがたい。

もう一人の親。

それ以下では絶対になかった。

「戻りなさい現世に。 君はもっと現世で世界のために働いて、多くの悪運を祓って貰わないと困るのだから」

「分かりました。 こちらにまた来るのは、何十年もあと、としたいものです」

「そうだね。 その時は、冥府の重鎮の座を用意しておくよ」

目が覚める。

今のは、夢だったはずだが。

それにしては、また冥界に最初に訪れた……金木の馬鹿娘に殺されたときの事を思い出してしまう。

感触が同じというか。

ひょっとして、魂だけまた冥界に行っていたのだろうか。

だとすると、まだまだだな。

ふっとまた笑う。

これではケルベロスに怒られてしまうな。

既に燐火は立場から何から大人だ。

結婚をして家庭と子供を持ってもなんら問題はない。

実際鈴山さんみたいに、全うに結婚した同年代の友達もいる。もう名字は変わってしまったが。

まあ、それについてはまだ考えなくてもいい。

それに、どこかの不幸な子を、養子として引き取る手もある。

今の時代でも、考えなしに子供を作って。

それで育てられずに捨てるようなカス親はなんぼでもいる。

そういった親から、一人でも子供を救えるのなら。燐火にとっては、やすい話である。

さて、今日も仕事だ。

起き出して、メールがすぐに来る。

スケジュールが送られてきていた。

これは自分で設定しているものだ。

今日は三カ所で魔祓いをして。レポートをそれぞれで書かなければならない。

もう少し後続が育ってきたら少しは楽になるが、その場合燐火は国際的な魔祓いの仕事に海外遠征が増えるだろう。

着替えると、燐火は朝ご飯をさっさと食べる。

出会ってから十年分以上年を取ったけれど。

おとうさんはまだまだ現役では配信を続けているし。おかあさんは警察で武術の指導をまだまだやっている。

燐火には守る家族がいて。それは今は弱みにはなっていない。

それが、生きるための大きな指標になっているのは、事実だった。

 

4、冥府の門を再び

 

ひ弱な子だな。

そうケルベロスは思った。

もう地上に出ることは出来ない。それくらい、星神との最終決戦で受けたダメージは大きかったのだ。

燐火は頑張ってくれている。

世界各地で魔祓いをして、大物の魔を次々と討ち取り、悪運を大規模に祓ってくれている。

その結果独裁者が倒れたり、犯罪組織が牛耳っていた国が正常化した例が既に2桁を超えており。

「白仮面」という言葉は、世界的にも有名になっているそうだ。

ただ、絶対にキャラクターグッズや商品展開はしないようにと燐火は釘を刺しているようで。

模倣して悲惨な死に方をする人間が出ないようにするために、必死に工夫をしているらしい。

あの子は誇りだ。

世界を少しずつ、確実に変えている。

そして、今ケルベロスの前にいる子も。

そういう希望の星を秘めていた。

「おまえの名は」

「ひっ……た、たべないで……」

「食べないさ。 俺の名はケルベロス。 おまえの名は?」

「リン……」

そうか。

この子はカスみたいな麻薬組織の紛争に巻き込まれて死んだ。

正確には今生死の境をさまよっている。

その組織は、今国連軍が掃討しており。

麻薬組織を好き勝手にさせていた悪運を、燐火達がまとめて祓っている。

悪運が呼び寄せた魔もまとめて蹴散らしているから、もうしばらくしたら国は安全になるだろうが。

それでも、この子が救われるわけではない。

父親は犯罪組織の構成員で、この子の顔を見る度に殴っていた。

母親は色情狂で、毎日違う男を連れ込んでは、この子を小さな籠に押し込んで、異常な性欲を満たすためにまぐわっていた。

今、この子は9歳だが。

6歳程度の背丈しかない。

まともに栄養を得られていないからだ。

そもそも学校なんてものは存在していないし。

あったとしても犯罪組織の巣窟である。

燐火より更に状況が悪い。

そしてこういう子は。

まだまだ世界にたくさんいるのだ。

この子の両親はとっくに死んだ。

父親の方は国連の対犯罪組織部隊の攻撃で、欠片も残さず消し飛んだし。

母親の方は、バカみたいな「交友」の果てに性病を悪化させ。

性病をうつされた男の一人から撃ち殺された。

この子は仮死状態で国連軍に保護され。

今体の方は、病院で手当を受けている。

だが、望まなければ、このまま冥府に受け入れるつもりだ。

「リン、生きたいか」

「分からない……」

「リンは、腐った世界を変える力がある。 今は眠っているが、その眠っている力が目を覚ませば、世界を大きく変えられる。 以前、そういう子がいた。 その子は俺が力を貸して、やっとそんな力があることが分かった。 だけど、リン。 おまえは違う。 おまえは、そうする前から分かる。 おまえは、この世界の運命を変えられる。 おまえみたいな目にあう子供を、劇的に減らせるだろう」

うずくまったまま、恨めしそうにケルベロスを見るリン。

選ばせる。

「選びなさい。 おまえみたいな目にあう人間を、少しでも減らすために努力を続けて生きるか。 それとも、冥界で後は静かに過ごすか。 生きるつもりだったら、俺が知っている最強の人間を紹介してやる」

「その人、そんなに強いの」

「見てごらん」

映像が出る。燐火だ。

素手でアサルトライフルで武装した犯罪組織の構成員を手も足も出させずひねっている。もうあそこまで強くなったか。

ちぎっては投げちぎっては投げ、だ。

強大な悪魔が襲いかかるが。

文字通り一ひねり。

今も愛用している鉄パイプで、一撃で半壊させていた。

いやはや、強いな。

今ならヘラクレスと互角くらいにやり合える可能性が高い。間違いなく、既に世界最強の魔祓いだ。

「あの人と引き合わせる幸運を与えるくらいしか、今の俺には出来ない。 あの人と一緒に過ごしたいか」

「……」

「あまり時間はない。 急かすことはしないが、それでもおまえが決めなさい」

「っ。 私、今のまま、やだ!」

顔を上げるリン。

そういえば名前も燐火に似ているな。

この、内から燃え上がるような怒りもだ。

調べる。

正確な名前は、クラシラード、リランティラか。

リンと呼んでいたのは、一人だけまともだった母親の愛人の一人。それももう、この世にはいない。

嘆息すると、ケルベロスは、手配する。

燐火。

おまえのところに、未来の星を送る。

今度は俺ではなく、おまえが未来の星を育てる版だ。

人間の未来は決して明るくなどない。

愚かしい連中が幅を利かせてやりたい放題をしすぎたからだ。

だからこそ、おまえに託す。

この子を、守ってやってくれ。

そしてこの子の潜在能力を全て解放してやってくれ。

そうすれば、いずれきっとこの世界をもう少しはマシに出来る。燐火だけでは無理かもしれないが。

燐火の仲間達と。

後続のこの子や、その仲間達がいれば。

死に行こうとしている人間の文明を救い。

やがては新しい時代を作り上げられるかもしれない。

リンを送る。

そして、ケルベロスは言っておいでと、優しくつぶやいていた。

ケルベロスは蜂蜜菓子を差し入れされたので、無言で頬張る。

燐火が辛い方が好きなことは知っていた。

それでも文句一ついわず、ケルベロスの嗜好に合わせてくれていたことも。

あの子は決して優しくはなかったが。

自分を律することが出来る子だった。

それがどれだけ貴重なことか。

あまたの人間を見てきたケルベロスは、よく知っていた。

さあ、未来をどうにか出来るか。

燐火、期待しているよ。

リンをしっかり育ててやってくれ。

未来の星になる子を。

そう、ケルベロスは、冥界から見守るのだった。

自分にとっての子に等しい、戦いの申し子を。

 

(アギア・ケルベロス、完)