冥界と現世の衝突

 

序、動き出す本物

 

東京には霊的結界が張られていると言う話がある。四方を守る寺にそれぞれ陰陽五行による守りをしいたとされているものだ。

結論から言うとそんなものは機能していない。

もし機能していたら大戦後東京が焼け野原になることはなかっただろう。

ただ、魔祓いの拠点としては機能はしている。

してはいたのだが。

それらが、全て無力化されていることが、ここ数日で判明していた。

寺にあった仏像が破壊されているような事は別になく。

霊的な破壊が施された。

それも、監視にあたっていた魔祓いは、気づくことさえできなかった。それほど手際が鮮やかだったのだ。

燐火はその話を聞かされて、困ったなと思う。

そろそろ一学期が終わる。

あれから予母都志許売は不意に姿を見せなくなったが。その代わり、各地の魔祓い。それも有力者を、試すように黄泉軍が襲った。

流石にこの国の一線級の魔祓いの実力は凄まじく、死者は出なかったが。

それぞれの手札を試すかのように。

黄泉軍はそれぞれ戦力を集中的に指向して、手札を見てから撤退していった。

雷神はあれから姿を見せていない。

つまり、邪神は。

今までに加えて。更に現状の戦力分析と配置を進めている、と見て良い。これは、決して良い状況に事態は動いていない筈だ。

邪神は恐らく想定される通りの存在だろう。

そう言われてはいるのだが。

仮にそうだとすると、天津神の信仰をはねのけ、懐柔するしかなかったとんでもない武神となる。

他の国であったら対処は可能だったかもしれないが。

この国は奴のホームグラウンドになる。

他文化圏の魔祓いでは対処が厳しいし。

それに根の国の勢力が加担しているとなると。

以前、江戸時代の大飢饉の時に伊弉冉が顕現。この国の魔祓いの六割が殺されたという話は既に聞いた。

天津の武神すら倒せなかった邪神が相手だったとしたら。

更にそれにそいつが加担することになる。

燐火はギリシャ神話系の魔祓いだ。

邪神がダイモーンを接着剤にして混合魔を作り出している。対する特攻効果を作り出せる。

大きなアドバンテージを持てるし。

何より優位に立てる。

しかしながら、ギリシャ系の魔祓いは燐火しかいないのだ。

弱点にもなる。

そう考えると、今後の立ち回りを気をつけなければならないだろう。

ダイモーンが出る。

恐らくだが。

ケルベロスが言う迷子のばらまいたダイモーンは、そろそろ打ち止めだろうということだった。

今の奴は、明らかに悪意をもって邪神がばらまいた奴であり。

実際問題、隣町にまで出張することになった。

電車に乗って出向いた先で。

燐火はそれと対戦することになったが。明らかに反社の入っているビルに絡みついているそれは。

さながら大量の人間の指が組み合わされて作り出された何かの木だった。

ダイモーンを祓うと、膨大な悪運が噴き出して。浄化にもかなり時間が掛かったし。

翌日には、そこで「特殊詐欺」をしていた集団が一斉検挙されたという報道が入っていた。

何でも闇バイトとかいうのを悪用して、様々な事をやらせていた集団の元締めだったらしく。

フロント企業を複雑に活用した、邪悪極まりない代物であったらしい。

しかも詐欺罪は基本的に厳罰にならないらしく。

平気で数年で出てくるらしいのだが。

そのビルで口封じに殺されたらしい死体の一部が発見されたことで事態が急変。殺人罪での立件が行われ。

詐欺の世界では知られていたらしい輩が、恐らく無期を受けるだろうと話題になった。

まあ燐火は知らない。

ダイモーンを祓った結果。

そいつについていた悪運が消えただけだ。

流石に電車で移動するのだと、足が足りない。

やはり車が必要だなと思ったし。

東京に出向くのであれば。なおさら色々と他にも準備が必要になるだろうと考えてしまう。

家に戻ってから、期末試験の準備をする。

今年は合宿には出ないようにと林西さんに言われた。現時点でもう合宿に出なくて大丈夫だろうという理由だからだそうだ。

認めて貰ったのは嬉しい。

ただ、一線級の魔祓い達ともう少し顔合わせはしておきたかったなと、勉強を進めながら思う。

中二の一学期の期末試験なんて相手ではないが。

それでもケアレスミスをもっと減らして。出来れば全科目で満点を取りたい。まあ難しいだろうが。

黙々と勉強をしていると。

ケルベロスが言う。

ケルベロスはケルベロスで、スマホで燐火が流しておいた、色々な情報を見ているようだった。

「世界史には多数の軍略家がいてな」

「伝説になっている人もいるんだよね」

「ああ。 世界史の勉強の過程でやっただろう」

「うん」

軍略家に限った事ではないが。天才という奴は、すべからず精神のねじが外れている事が多い。

天才ほど人格者と無縁である存在はそういない。

勿論高い軍事的業績を上げながら、高潔さで名を残した人物もいるにはいるけれど、少数派だ。

「今動いているこの国の古代神格は、明らかに人間の軍略を学んでいる。 一つずつ確実に手を打っているその様子は、準備が終わって一つずつこなしているものだ」

「善悪の価値観の変遷。 一体何をもくろんでいるんだろうね」

「わからん。 ただ、ダイモーンを何かしらの形で利用するだろう事は確かだ」

「魔祓いの実力を黄泉軍で最終確認しているようにも思えるね。 一体何をもくろんでいるのか……それを読まないと勝ち目はないのかな」

ケルベロスは、その通りだと言う。

実際、相手はただ一柱。

祓えば、この騒ぎは終わる。

恐らくケルベロスが探している迷子も助けられる。

それで、ケルベロスはここを去ることになる。

今の燐火は、ケルベロスのおかげで人間になれたし、なんなら今生きているのでさえそうだ。

だから行ってほしくない気持ちもあるのだけれど。

それはそれとして、何年も掛けて探している迷子が、きっと寂しい思いをしているし。助けることは絶対だとも思う。

複雑な気持ちだ。

「以前、北欧神話の神々が倒されたとき、俺は奴を見たが。 あの実力に雷神……八柱いるのだったな。 それに予母都志許売とやらに、それに黄泉軍の兄弟。 それらが加わった時の実力は、狼王を更にしのぐだろうな」

「懸念があるとしたら伊弉冉尊のことだけれど」

「それについては俺が既に確認してきた。 地獄の十王の方でも動向は監視していて、根の国の女王が地上に這い出す気配はないそうだ」

そうか。

それだけは助かる。

いずれにしても総力戦になるし。

何よりも、既に奥義が解析されている可能性も高い。

今は出来ることをやるしかない。

勉強終わり。

杏美の面倒を見る。

おかあさんが料理を始めるのを横目に、顔がパンのヒーローのアニメを一緒に見る。杏美も少しずつ言葉を覚えてきているし、髪も伸び始めた。背も伸びて、重くなってきている。

だっこをせがまれることもあるが。

そろそろそれも駄目、という時期が来ているかもしれない。

歩けるのに歩かないくらい甘えた子供はどうしても出るらしい。

そういう状態になると。

将来親に悪い意味で頼る良くない子供に成長する可能性があるそうだ。

出来ることは自分で出来るようにする。

それは燐火も聞かされている。

だから操作については教えるが。

同時に欲望のコントロールも、少しずつ教えていかなければならなかった。

夕食が終わったあと、軽く外で鍛錬をする。

ルーチンの鍛錬はまだまだ増やしている。体ができあがってきているから、更に増やして大丈夫だとケルベロスが判断したのだ。

燐火も更に体を動かせて嬉しい。

成長痛や筋肉痛があるときもあるが。

それもまた、まだまだ体が伸びている証拠だ。

中学を卒業するまでに165まで身長を伸ばしたいが。それは体が行うことであって、燐火がどうこうできる事ではない。

また、鉄パイプに更に工夫を凝らす。

今の時点での持ち手を少しずらした。

元々かなり重い得物だが、持ち手を変えることで更にリーチを長くすることが出来る。

ただしそれによって重量のバランスが代わるので。

鍛錬で、こつは先につかまなければならなかった。

竹刀も重りを更につける。

竹刀でも、振ると空気を斬る感触がある。

師範が前に見本を見せてくれたが。その時の師範の素振りでは、空気ではなく空を斬っている感じだった。

まだ燐火は空気を斬っている段階だ。

あの境地には達していない。

全ての先にある斬撃は、恐らくだが隙間を通すようにして、間を抜けているのだ。

師範は人を斬ったことがあるようだったが。

その時も相手を「ぶった切る」というような切り方ではなく。

単純に相手が左右に別たれるような切り方だったのだろうなと。感じてしまう。

剣豪の技。

今は、それに少しでも近づかなければならない。

「其処までだ」

「分かった」

「素直で助かる。 手応えがないと感じて、無理をした結果、却って遠回りをしてしまう場合がある。 燐火はそれがないからな。 教えるのが楽でいい」

「出来れば自分でそれを判断できるようになりたいけれど、まだ遠いね」

後は風呂を済ませる。風呂もあくまでリフレッシュの手段として燐火は考えていた。

おとうさんが防音室から出てきて、杏美と遊んでいた。燐火はそのまま休むと言って自室に消える。

テスト前に一夜漬けなんて無駄なことはしない。

しっかり勉強を普段からしているので、テスト前にやることはただの最終調整である。

 

期末試験が来た。

とりあえず難しい事はない。ただこのくらいから、テストについて行けない子はどうしても出てくる。

たまに、勇気を振り絞ってテスト前にここが分からないと聞いてくる子がいるが。

そういう場合、そもそもここが分からない以前の問題だったりする。

数学なんかはその傾向が顕著であり。

既に始まっている英語なんかでもそういった傾向がある。

燐火はドリルで一からやった記憶を生かしながら、どうして分からないか聞いて。根本原因を突き止めると、そこから覚えるように説明する。

テストで今だけ点数をとっても。

次のテストでもっと苦労するだけだ。

そう言いながら。

そうすると、大抵途方にくれた顔をされる。そんな顔をされても、燐火は事実を指摘しているだけであり。

別にいじめてなどいない。

破壊神とかあだ名がつけられているのは知っているが。

最近鈴山さんに聞かされたところによると、メンタルも破壊するとか言われているらしい。

そんなことを言われても困る。

母集団が貧弱なところで変な成功体験を積んだ人間が、外に出ても一切通用しないケースはある。

一年の時にぶちのめした亀野が典型例だろう。

燐火はケルベロスに出会えた。

世界規模の知識を持っていて、巧みな指導が出来る名教師だ。

だから分かるのだが、燐火だって別に完璧超人だのではない。学問だったらもっと上が幾らでもいる。

武道に関しても年下の充子に剣では勝てない。三回に一度は一本を取れるが、それは勝てるとは言わない。

世の中上には上が幾らでもいるのだ。

だから驕るつもりはない。

テスト前で、また勉強が分からなくなっている生徒に泣きつかれたので、困惑しながらも説明する。いちいち教えていても仕方がないので、ここからここをこういう風に勉強するようにと言うと。やはりこの世の終わりみたいな顔をされた。

今までショート動画なんか見てだらだらしていた時間の半分でも、勉強に費やしていれば。そんな風になることはなかったのに。

だが、それを流石に面と向かっていうつもりはなかった。

ともかく教えることは教えたので帰る。

まあ、燐火を怖がって、誰も近づいてさえこなかった状況よりはマシか。最近は話しかけてくる生徒も増えてきていた。

男子生徒は相変わらず怖がっていて。

近寄ると腕を折られるとか、殺されて埋められた奴がいるとか噂しているらしいが。

燐火も流石に其処まではしない。

帰り道、またダイモーンの気配だ。嘆息すると、さっさと着替える。

白仮面の服も多少デザインを変えた。

ボディラインが出にくいようにしたのは、最近胸が大きくなってきたからだ。白仮面は女らしいという噂は既に流れ始めている。そういう噂が流れると、燐火としても困るし。最悪、都市伝説として魔が出現してしまう可能性すらあると、日女さんに言われた。だから、正体不明っぷりを強調しなければならないのである。

着替え終わると、さっさとマントを翻して走る。

そして、走っている最中に、スマホから連絡が来ていた。

日女さんだった。

「燐火、今現地に向かっている最中か」

「はい。 十分ほどでつきます」

「そうか、恐らくだが混合魔だ。 黄泉軍だとは思うが気配がおかしい。 俺が行くまで、持ちこたえてくれるか」

「なんとかやって見ます」

ダイモーン入りの予母都志許売は見たが。

黄泉軍の混合魔か。

これは厄介だ。

ケルベロスもぼやく。

「かなり武芸を磨いていたな今までの奴らも。 北欧神話のバルハラのエインヘリアルのように、武芸だけを磨いているのかもしれん」

「だとすると厄介だね。 他にすることもなさそうだし」

「そうだな。 それにあの亜眼と威眼という兄弟から教わっているとなると、侮れないだろうな。 双方とも、今の燐火とほぼ拮抗した剣の腕の持ち主だ。 体術も組み合わせてようやくやりあえるか、という相手。 くれぐれも油断はするなよ」

「分かってる」

魔祓いで油断をするつもりはない。

そのまま走り、山の中を突っ切る。

暑くなってきているが、この程度でバテるほど柔な鍛え方はしていない。山の中を一気に突っ切る。

そして、見た。

待ち構えていた黄泉軍は、肉がついていた。

今までみたのはほとんどが骸骨に鎧だったのに。

「待っていたぞ平坂燐火。 俺は亜眼様に教えを受けた戦士の一人、軽権。 勝負を所望する」

「……分かりました」

正々堂々の勝負か。別にそれならば、構わない。

というか、恐らくだが。

今までの傾向から、正々堂々の勝負なら受けると邪神が学習している可能性が高い。それが、面倒だ。

問題はその肉だ。

間合いを計りながら動くと、軽権とやらは説明してくれる。

「生前の動きを再現するために、東南アジアのなんだかいう妖怪と混合魔になったのだ。 だがその能力を使うつもりはない! 一人の武人として戦わせて貰う!」

「良いでしょう。 行きます」

踏み込む。

剣を抜いた軽権が、迎え撃ってくる。

鉄パイプと激しく剣がぶつかり合って、火花を散らした。はじく。下がりながら、即座に切り替えてくる。

立て続けの攻防で、火花が散る。

冷静に立ち回る燐火。

古代の武人だからといって、まったく現在の剣道家と動きが違うと言うことはないな。そう判断。

冷静に攻撃を捌きながら、地形を生かして徐々に追い込んでいく。

山の中だ。

相手も当然戦い慣れているだろうが。

この辺りは燐火の庭も同じである。

何回ダイモーンを倒したり、他の魔と戦ったりしたか覚えてすらいないほどである。

夜、一人で放置されても、生きて戻る自信がある。

それくらい熟知している場所なのだ。

それが、決定的な差になる。

「むっ!」

軽権が木に体をたたきつけて、それで動きが鈍る。

その瞬間、燐火が小手を入れる。

それで剣を取り落とした軽権の胴に一撃。

鎧の上からも痛打が入り、軽権は倒れたが。それでも起き上がると、サブウェポンであるらしい短刀を抜く。

だが、動きは確実に鈍っている。

最後まで勝負を投げない姿勢は、燐火もあっぱれと思った。

だが、面を入れる。

完璧な一撃。

それで満足したらしく、軽権は消えていく。東南アジアの魔らしいのが残ったが、それは困惑して右往左往しているばかりだ。

「お、おい! 勝手に満足して消えるんじゃねえ! 俺はどうすれ……」

こいつはどうでもいいか。

横殴りの一撃をたたき込み、吹っ飛んだところに立て続けに打撃を入れる。身動きできなくなるまでたたきのめして、日女さんが来るのを待つ。日女さんがついたときには、既に完全に無力化が住んでいた。

東南アジアの原始仏教系の魔であるらしく、菖蒲さんがどうにかできそうらしい。それなら、到来を待つだけだ。

問題は、軽権が、相当に手強い相手だったという事だ。

あんなのが、これからわんさか出てくる。それを思うと、あまり楽に勝てるとは思えなかった。

それに亜眼と威眼という兄弟も。

もしも生前の力を完全再現してきたら。

勝てるかは分からない。そう燐火は、慄然とさせられていた。

 

1、一手ずつ魔の手が迫る

 

恐山が襲われた。

霊山として恐れられる恐山だが、魔祓いとしても活用している土地である。

幽霊が普通にいる場所と言われているが、実際には日本神話系の魔祓いが常に巡回しているらしく。

霊場としては重宝されているものの。

悪霊が好き勝手に闊歩しているような場所ではないらしい。

そこにいたイタコと呼ばれる人たちを魔祓いが何名か護衛しているのだが。その魔祓い達が、予母都志許売に襲撃を受けたのである。

即座に援軍が向かったそうだが。

予母都志許売をどうにか迎撃を出来たものの、警備に当たっていた魔祓い数名が再起不能の重症を受け。

統括していた魔祓いである神道系の一線級で活躍している魔祓いが、引退に追い込まれるほどの手傷を受けることになった。

それだけではなく、イタコをしていた人が何人か殺され。

二目と見られないほどの悲惨な死に方をしたと言うことだった。

ついに始まったのだ。

燐火はどうすることも出来なかった。

距離が遠すぎるからだ。

流石に青森まで出かけていくのは現実的ではない。

損害を聞いて、燐火は慄然とするしかなかった。

神道系の魔祓いですら、それほどの目に遭わされることとなった。

それに、予母都志許売との戦闘で、その恐ろしさを思い知らされたのだろう。なんとか生き残った魔祓いは、廃業を決めて辞めていったそうだ。

邪神は狡猾だ。

確実に手を進めてくる。

燐火は嘆息すると、遊びに来た(鍛錬が主目的だが)小川先輩と一緒に、おかあさんの手ほどきを受ける。

夏の試合で全国大会に出ると小川先輩は気合いを入れているが。

おかあさんは、動きを見ると、数日休むようにと即座に指示していた。

「鍛錬をやり過ぎたね。 このまま行くと、試合中に筋肉を断裂したりして、下手すると二度と空手を出来なくなるよ」

「えっ……」

「鍛錬のメニューを超えて動いていたね?」

「……すみません。 行けると思ったんすが」

小川先輩がしゅんとする。

燐火としても、他人事ではないなと思う。

おかあさんが、いくつかアドバイスをする。ともかく数日は鍛錬は絶対にしない事。それと、後の時間はマッサージに費やされた。

夏の試合では、鈴山さんも出るらしい。

鈴山さんも冬は一年の時の夏よりも好成績を出したのだ。

次はシード選手に勝ちたいと意気込んでいる。

小川先輩は、数日後にもう一度来るようにと言われながら、マッサージを受けている。

時々痛そうにしていると言うことは。

おかあさんが言うとおり、割としゃれになっていない状態だったのだろう。

燐火も心配になったが。

ケルベロスが無用と言った。

「あれは必要な失敗だ。 燐火と出会ってから、苛斂は何もかもうまくいきすぎていた。 それもあって、こういう失敗はしておいた方が良い。 試合で失敗をするよりも何倍もマシだ」

「そっか」

「燐火はまだ機動力が足りない今の状態を悔しく思うか」

「思う」

青森の件は、国がヘリでも用意してくれればどうにかなったのだろうか。そうとはとても思えない。

実際の戦闘は一時間も掛からなかったらしく。

増援の日本神話系の魔祓いが到着した頃には、既に現場は地獄絵図だったそうである。

そんな状況で何かが出来たとも思えない。

流石にあの予母都志許売が数体がかりで襲ってきたら、燐火もいなせる自信はあまりない。

地元の魔。

それがこれほど強大だとは、燐火も思っていなかった。

油断がどこかにあったのかもしれなかった。

ともかく、鍛錬を黙々とする。

今はそれしかない。

精神修養もする。

夏休みに入る前にやるべき事は全て済ませる。今年は夏合宿にも出ないようにと言われているから。

自宅で勉強と鍛錬をし。

近場に出る魔を祓うだけだ。

 

夏に入ってから、数度黄泉軍の精鋭らしい魔が現れる。どいつもこいつも手強く、燐火との戦いを楽しみにしていたようだった。

戦いが好きと言うことを、否定する気はない。

人間は古くから戦争が大好きだ。

どれだけその非合理性と悲惨さを知っていても、どうしても戦争を元にした娯楽は絶えない。

それだけ好きなのである。

古代だったら、今よりもその傾向はどうしても更に顕著になっていただろう。価値観が違ったと言うことだ。

それは燐火も分かっている。

だから、それについてどうこうというつもりはない。

相手の得物も、古めかしい剣だけではない。

槍や矛、槌、中には徒手なんて例もあった。体格も様々で、男性の黄泉軍だけではなく、女性の戦士もいた。

ただ女性だからといって弱いわけでもなく。

しっかり強かった。

その全てを打ち倒していくが、どうしても疲弊がたまるのは避けられない。一度に複数出てこないのも、確定でそう狙っているとみていい。

敢えて燐火の性格を利用している。

手駒はそれこそ幾らでもいるのだろう。

だからその手駒を使って、徹底的に対ダイモーンの専門家である燐火を封じに掛かっている。

しかも燐火が受けて立つのを知った上で、だ。

その上出てくる黄泉軍は、いずれもが達人ばかり。混合魔も、どれも人間時代の戦力を再現するためだけに使っている。

燐火も腕を上げているが、これほどの力量の相手ばかりが出てくると。

骸骨の状態でも、燐火がどうにか勝てるかという相手だった亜眼威眼兄弟が、もしも同じように人間時代全盛期の姿で出てきたらどうなるか。

はっきりいって、あまり対処できる自信はなかった。

そうして、また一線級の魔祓いが落とされる。

今度は仏教系だ。

九州にある寺が襲撃された。

かなりの数の魔祓いが集結していたのだが。黄泉軍200体以上と、更にはホテルに出現したあの雷神も出たようだ。

激しい戦いの末にどうにか撃退は出来た。出来たが。六人の魔祓いが殺され、寺を守っていた名物住職だった魔祓いも左腕を雷撃で吹き飛ばされ。引退を余儀なくされることとなった。

非常にまずい状態だ。

魔祓いを統括する公安の秘匿部署が現在連日会議を開いているらしい。

あちこちで専属の魔祓いも動いているが。

公安に専属だからといって優秀と言う訳でもなんでもなく、各地にいる一線級の魔祓い達と連携を密にすることしか現時点では出来ていない。

それを考えると、恐らく今追い込まれている。

敵は多くの黄泉軍と、予母都志許売を失っているが。

それは必要経費として充分だと言うことだ。

それに、である。

狼王ロボとの交戦で、この国の現時点での一線級の魔祓いは、あらかたその戦力を把握された。

日本政府も必死に海外の一線級の魔祓いを招聘しようとしているようだが。

この状況で、来てくれる魔祓いは決して多くはない。

それどころか、予母都志許売の実力を見て、恐れて逃げ帰ってしまう者が続出する有様だった。

文化圏が同じであれば対処も出来たのかもしれない。

だが、違う文化圏のこれだけ強い魔だ。

対応できないと投げ出すのは、あまり責められなかった。

いずれにしても、燐火も無為に過ごすわけにはいかない。

そう思って、道場に出向く。

師範に、相談したいことがあったからだ。

 

日根見ちゃんと軽く話して、しばらく忙しくなることは言っておく。

充子と手合わせもする。

今日は道場を開いていないらしく、一対一でしばし延々と試合をした。

相変わらず充子の腕前は凄まじく、これだけ実戦を積んだ今でも、まだまだ一本を取るのは至難だ。

それでも三回に一回はとれるか。

気迫が師範に似てきていると思う。だが、格上との戦いは、決して無駄にはならないはずである。

連続して試合をして。

十試合を終えて、礼。

結局十一本を取ったが、十九本を取られた。

審判はいらない。

たがいにそれが判断できるので、それで全く問題はなかった。

試合を終えた後、師範に見てもらう。

やはり細かいところでかなり指示が入った。体が大きくなってきているからだ、動かし方、足の運び方なども、細かいが厳しい指導が入る。

「力がついてくるとどうしても雑に勝てるようになる。 それで勝ち癖をつけると、同格以上の相手にあたったときにてもなくひねられることになる。 くれぐれも、丁寧な立ち回りを忘れないようにせよ」

「分かりました」

「ただここしばらくで、立て続けに優れた使い手と立ち会ったようだな。 剣筋が更に磨かれている。 段位の取得に経験年数がなければな……」

現時点で充子が六段相当、燐火は五段相当。だが、この先は壁が厚く、恐らくは簡単にはそれ以上にはいけないそうだ。

頷くと、聞く。

奥義についてだ。

「奥義の精度を上げたいと考えています」

「それほどの相手が控えていると言うことか」

「はい」

「……分かった。 使って見せよ」

勿論竹刀での立ち会いだ。

しかも、これはとても危険な技なので、外ではやらない。

屋内で、畳の上でやる。

しばし、黙々と歩法を駆使して、師範と互いの攻撃予測をぶつけ合う。精度がどうしても足りていない。

根本的な技量も違う。

師範はどこまで強いのか。

これだけ腕を上げてきても、全く近づける気がしない。

なんども床にたたきつけられる。

これはそういう奥義だ。

だが、自分でそれを食らうことによって発見だって有るはずだ。

それを理解しつつ、何度でもたたきつけられる。受け身は取る。というか、受け身をとれるだけの余裕を師範が持たせてくれているのだ。

奥義に名前なんかない。

師範は必要ないと言っていた。

しばし、奥義どうしをぶつけ合って分かるのは。

力量の差が、奥義の精度に直結する、ということだった。

礼をして、残心する。

あちこち打ち身が痛むが、この程度で動けなくなるほど柔な鍛え方はしていない。座って、向かい合って話す。

「今ので分かったと思う」

「はい。 この歩法、尋常な武術で破ることは不可能です」

「その通りだ。 私が達人殺しとして編み出したものだからな。 ただし、相手も同じ事をしてきた場合は……」

「純粋な精神力が試されます」

然り、と言われた。

燐火もそれが分かるくらいには腕を上げた。

五段相当だが、五段でもピンキリだという。五段最上位くらいには入ると師範は言う。充子は六段最下位くらいだそうだが。

そうなると、この先の剣の腕は文字通り魔境というのがふさわしいのだろうと燐火も思い知らされる。

「精神修養をもう少し積んでおけ。 もしもこれ以上この奥義の精度を上げるのであれば、それしかない」

「はい」

礼をして、道場を出る。

ケルベロスが喜んでいた。

「素晴らしいますらおだ。 生きている時代が違ったら、剣豪の一人として数えられていただろうな」

「何かの開祖になっていたかもね」

「うむ……」

「それで分かったことがある。 剣道だけじゃなくて、他の武道でも多分この奥義、再現できると思う。 練習がいるけど」

それが、切り札になる。

恐らくだが、狼王ロボは奥義の詳細を邪神に伝えたはず。

そして邪神は甘い相手じゃない。

黄泉軍を差し向けながら、燐火の剣の癖などを正確に分析させているはずだ。最終的には、あの亜眼威眼兄弟をも捨て駒にして、燐火を確実に潰しに来る可能性が高い。もしもその時には。

剣の腕で、完全に燐火を上回っている相手と、歩法で対処しなければならなくなり。

最悪、相手も使ってきた場合。

今度は燐火が逆に、今までとは真逆に奥義に封じられることとなる。

だが、それを逆手に取る。

しかしながら、黄泉軍の中には徒手のものさえいた。この事すら、読まれている可能性がある。

そうなると問題はやはり精神力か。

師範はあるいはだが。

奥義をある程度解析してくるような相手と立ち会ったことを見抜いているのかもしれない。

だとすると、どんな相手と今まで立ち会ってきたのだろうと思う。

真の達人。

空恐ろしくなるほどだ。

家に戻ると、精神修養に入る。

ルーチンは勿論こなす。それはそれとして、とにかく精神を徹底的に練り上げる事を最優先とする。

この奥義。

まだまだ未完成にもほどがありすぎるのだ。

黙々と精神修養を続ける。

ケルベロスが、いくつかの話をしてくれる。

「俺も様々な精神修養を見てきたが、中にはただインスタントに神秘体験だけを出来るようなものもある。 今やっているのは、精神修養の結果、精神を鋼のように研ぎ澄ますものだ。 だが……」

「何か問題があるの?」

「人間は堕落するときはあっという間だ。 年を取ると精神の箍が外れて、若い頃の英明さが嘘のように堕落する者は幾らでもいる。 聖職の者でもそうだし、それ以外の誇り高かった者だってそうだ。 若い頃、精神を鍛えすぎるのは逆効果かもしれないと俺は考えている」

「……」

確かに。

燐火もそういうのは目にしている。

大声でがなり立てるばかりの老人が、若い頃はとても理性的でしっかりしていたという事があるそうだ。

年を取ると今まで我慢していたことを一切我慢しなくて良くなってしまう。

それもあって、精神の箍が壊れてしまう。

結果として起きるのは。

今まで我慢していたことを、一切我慢しない。

つまり年だけ取った幼児。それもしつけが一切なっていない……の誕生である。

しかもこれは老人だけの話ではなく、酷い場合には三十路くらいからこうなる事すらあるそうだ。

そういう話をされると、燐火は恐ろしい話だと思った。

「燐火は温室栽培ではなく、世の中のろくでもないものを幾らでも見てきている。 だから誇り高い聖人が現実を見て腐っていくような事はないだろう。 だが、何かしらの強烈な欲求とかはないか」

「うーん……」

燐火としても、自分の分析はしている。

三大欲求については、それほど強い方ではない。

そういう自己分析も出来ていた。

まあ睡眠欲はないと困るのだが。

食事は粗食でも全然平気だし。

周囲の女子が色気づいていて、この年くらいで既に男性経験を持っている事を自慢しているような輩がいるが。

だから何だとしか思わない。

というか、異性にしろ同性にしろコントロール出来ないくらいの性的な興味を持った事がない。

今後はそれも変わるのかもしれないが。

今の時点ではそうだ。

蓄財なども興味がない。

金なんか必要なだけあればいいと思っている。

これは実は武力についても同じ。

貪欲に強くなってはいるが、実は強さに対しての渇望というものはほとんど存在していない。

必要だから鍛えている。

それだけである。

強いて言うなら、一つ強い欲求がある。

それは、悪に対する怒りだ。

「手の届く範囲にいる悪党は、根こそぎにしたいとは思う」

「そうだな。 それは俺も見ていて知っている。 その思想を暴走させると極めて危険なのは分かっているな」

「うん」

歴史上独裁者はたくさんいる。

暴君や暗君と言われる存在だってたくさんいる。

だが、分かっていることがある。

最初から暗君で、最後まで暗君だった君主というのは意外と少ないのだ。

むしろ何かしらの意欲に燃えて改革をしようと志した人間が、現実を見てどうにもならなくなり。

全てを捨てて投げやりになったり。

あるいは暴虐の化身になったり。

そういうケースがむしろとても多い、というのが現実なのだ。

歴史を勉強しているから、燐火もそれは知っている。

歴史の一面的なことしか教えないような教師は三流だと考えているが、それは歴史は多層的に見て理解がやっとできるものだからだ。

税制度が西暦何年に始まったとかよりも。

どうしてその税制度が開始されて。

具体的にどういう効果をもたらしていったのか。

それを知った方が、何十倍も有意義だと言える。

事実、涼子も歴史の勉強の仕方として、横展開が必須だと言っていた。

同じ時代に何が起きていたのか。

どうしてそういう英雄が出たのか。

そういう事を知っていると、色々と多層的に覚えられるのだと。

ただそれでもあくまで一面をしるだけの事に過ぎず。詳しく深掘りしていくときりがないのだが。

ともかくだ。

名君になろうとして暴君になってしまう例は。

燐火もいくつも知っていた。

「燐火は持っている側だ。 俺も最近は、教えることがほとんどなくなってきている。 だが、完璧な人間などこの世には存在していない。 それは燐火だって例外ではない」

「うん、分かってる」

「それを絶対に忘れるな。 妥協がない悪党は確かにたくさんこの世にいる。 死んだ方が良い輩もな。 だが、悪事をするのにどうしようもない理由があって、それで苦悩の末に悪事をしているような輩に出会って、価値観がかき乱されるような時が一番危ないのだ」

それも分かる。

おかあさんは警察で、本当にどうしようもないキャリア組を見てきたし。

本当にどうしようもない理由で人を殺したような人間も見てきたそうだ。

明らかに被害者の方が悪いケースも散々見てきた。

そういうとき、法とは一体なんだったのだろうと。おかあさんは何度も苦悩したらしい。

おとうさんだって、必死に仕事をして、一切報われないブラック企業時代には。何度も似たような苦悩を味わったそうだ。

それを聞いていると、燐火も今後は気をつけなければならないと分かる。

「邪神は恐らく燐火を味方に引き込もうとしてくる。 それを忘れるな」

「うん……分かってる」

燐火も分かっている。

今までとは比較にならないほど狡猾にそれをやってくるだろう事も。

だが、それでも必ず打ち勝つ。

世の中の腐敗と堕落を諦めることを、大人になるという風潮は。燐火としては容認できないから。

それだけの理由からだった。

 

2、立て続けの攻撃

 

トンファーを持っている黄泉軍と激しく刃を交える。

両手のトンファーはさび付いているが、刃をかわす度に激しい重さが手に来る。強いなこの人。

そう思いながら、燐火は十合ほど渡り合った。

相手の黄泉軍は、肉をつけてきているが、やはり正々堂々と渡り合ってきている。燐火がそれであれば、堂々と戦うことを知っているからだ。そして黄泉軍自身も、明らかに練り上げた武をぶつけられることを喜んでいた。

根の国は。

本当に何もすることがない場所なんだ。

この黄泉軍が、どうして仏教系のあの世にいかなかったのかは分からない。トンファーは確か沖縄武術だかの武器だから、少なくとも古代のひとじゃない。

何かの理由で、仏教のあの世に行くことを拒み。

そして根の国に来た。

そういう理由があるのだろう。

ガンと激しい音を立てて、古い上げてきた一撃を弾き、舞うようにして繰り出された第二撃をはじき返す。

満面の笑みだ。

これほどの武芸をぶつけられる相手。

本当に存在してくれていたのか。

そう考えているのが、表情にこれ以上もないほど出ている。

燐火は楽しいとは思わない。

淡々と捌いていく。

相手の技を、徹底的に吸収していく。

踏み込むと同時に、顎を砕きに真下から抉るような一撃を繰り出してくる黄泉軍。だが、その一撃を。

燐火はすっと紙一重でかわし。

第二撃の必殺の横からの一撃を、鉄パイプで防ぎつつ。

合気をたたき込んでいた。

ふっとんだ黄泉軍。

立ち上がるが、今のが致命打になった。

立ち上がれない黄泉軍に、歩み寄ると。

燐火は聖印を切って、ダイモーンを祓った。後は、近くで見ていた日女さんが来る。黄泉軍も、すっきりした様子だった。

「負けた負けた。 他の黄泉軍が強いと言っているから、どれほどと期待していたら、予想以上だった。 これだったら、練り上げてきた武が負けたとしても悔いはない。 おとなしく根の国に帰るさ」

「少しは手応えがあったようで良かったです。 それはそうと、あなたたちの背後にいる存在が何者かは話してくれませんか」

「それは出来ない。 俺にも仁義があるんでな」

「……分かりました」

日女さんが頷くと祓う。

それで黄泉軍は消えていた。

夏休みに入るや否やこれである。

既に宿題は終わらせてあるが、それでもこれほど連日来るとは思わなかった。それも我も我もと、試したい武器を持ってくる。

中には明らかに相手を殺すことを楽しんでいるようなゲスもいたが。

ほとんどは亜眼威眼の重厚な武人兄弟に教えを受けたものらしく。

皆、真面目な戦士だった。

誰もが得意を磨いてきていて。

それで、通用するか嬉々として挑んできていた。

一切卑怯な真似はしない戦士も多かった。

そうなると、燐火も正々堂々と立ち会わなければならない。それについては、絶対だと考えていた。

世の中では、如何にルールの穴を突くかが賢いみたいな思考方法があるそうだ。

そういう考え方もあるのだろうが。

燐火はそういうことをするつもりはない。

ちなみに日女さん達は、そういう事をしてくる相手と散々やり合ってきたようで。燐火の周囲に警戒網を張ってくれている。

燐火自身も、卑怯な手を平気で使う相手との戦闘は何度も経験があるし。

それで崩されるほど鍛え方がぬるくもない。

日女さんに礼をいう。

いつの間にか、背がほとんど並んでしまっていた。

日女さんも女子としては平均以上らしいのだが。

燐火の伸びが早すぎるようだ。

170は行くだろう。

そういう話も既にされていて。中三には到達できるかもしれなかった。

「本当に正々堂々は受けて立ち続けるんだな。 俺としてはあんまり感心できないんだが」

「そうですね。 燐火としても卑怯な相手に徹底的な武をぶつける方が楽です。 でも、不正なしでしっかり挑んでくる相手と、正面から戦うのであれば、それはそれで相手に敬意を払おうとも思います。 それが……学んだことです」

「いずれ限界が来るかもしれないぞ」

「分かっています。 いくつか考えておかないといけないですね」

どうしても勝てない相手と、正々堂々の戦いをすることになったら。

燐火は勝てずに、倒されることになるだろう。

最悪の場合を想定していなければならない。

ただ、魔が相手の場合は問題はない。

魔は生前よりも弱体化していて、人間化している。

英雄としてはヘラクレスさんのような超弩級の例外もいるし、今まで見てきた神格には、今の燐火が単騎で相手するのは厳しい奴もたくさんいる。

だが、少なくとも魔は違う。

魔は所詮、信仰のメインストリームから外れた存在だ。

場合によっては邪悪というレッテルを貼られ、必ず負ける存在とされてしまっている事も多い。

スルトのような例外もあるにはあるが。

あれは本当に世界中の神話を探しても珍しいケースなので、基準としなくても良いだろうと燐火は考えている。

いずれにしてもだ。

一仕事終わったので、戻ることにする。

明日、小川先輩から誘いを受けている。

遊びに行こうというのだ。

行くとしても遠くはいけないと話はしてあるが。それでも大丈夫だと場所を選んでくれたそうである。

まあ、それくらいの気分転換は良いだろう。

小川先輩も、空手の大会の直前だ。

前みたいに、鍛えすぎてしばらく鍛錬禁止とか言われることもないだろう。しっかり反省したはずだ。

小川先輩は、それが出来る人である。

家に戻る。

既に杏美は寝ていた。

今日はかなり走り回っていたようだ。既にだいぶ活発に走り回れるようになっているようである。

階段を上り下りする訓練を、そろそろしなければならないという話をしているが。

実際問題、現在は上ることは出来ても、降りることは難しいだろうと思う。

家に帰ると、ルーチンをこなす。

最近はルーチンを効率的にこなせるようになってきている事もある。

後は精神を研ぐ時間が増えた。

予想外の方向から攻撃を受けても対応できるようにする。

想定外の事態でも、心を乱さないようにする。

そのために、精神修養は必要だ。

これも才能だという。

出来ない者は、どれだけやっても出来ないのだそうだ。

それを考えると、燐火はできるだけ、恵まれているのだ。生まれがとにかく徹底的に運がなかった。

それだけだ。

ルーチンを終えて、風呂に入って。

それから夕食にする。

髪は基本的に短く切ってしまっているのだが、今後は伸ばすのも良いかもしれないと思い始めている。

菖蒲さんのように、女性らしさと強さを兼ね備えている人も普通にいる。しかも誰もが認めるほど菖蒲さんは綺麗である。

あれは実力に余裕があるから、だと見ていい。

実力に余裕があるから、髪を伸ばすとか、邪魔になるものがあっても問題にならないのである。

燐火もいずれは。

まあ、髪なんか伸ばしても、煩わしいだけだが。

杏美はもうおねむなので、久々に家族三人で食事にする。

おとうさんもここ数日忙しかったが、それでも今日は夕食の時間に出てきてくれていた。

忙しいときは防音室で配信をする合間に食事を済ませてしまうことも多いし。

生活音が配信に入らないように、防音室は二重になっていて、それで絶対に燐火やおかあさん、杏美の声が入らないようにもしている。

それだけ仕事に気を遣っているのだ。

滅多に一緒に食事が出来ないとか、そういうことを責める気もない。

たまにはわがままを言ってもいいと言われているが。

正直、そんな気にはなれなかった。

「燐火、中学の勉強はとても良く出来ているようだね」

「うん。 今は大学受験の勉強をしているし、ここで躓くわけにはいかないからね」

「立派だよ。 後は公務員になるとしたら、今のうちから対策をしっかりしておこうね」

公務員……正確には公安の秘匿部署だが。

それは流石に言えないので。公務員試験の一番難しい奴を受けることは既に告げてある。おとうさんもおかあさんも、一切反対はしなかった。

おかあさんが、いくつかアドバイスをしてくれるが。

勉強についてはもう学力的に追いつけないと苦笑いしている。

おかあさんは元々スポーツ少女で、警察もひらとして務めていたのだ。

勉強が出来るのなら、それこそ他の道も幾らでもあったのだろう。

「予定通り、明日は一日遊んでくるから、杏美の事はお願いね」

「任せておいて。 杏美がねーねがいないって泣くかもしれないけれど、ちゃんと帰ったら遊んであげるんだよ」

「はい」

最近は、ちゃんと二人には敬語でなくしゃべれるようになってきた。

杏美にはまだ少し丁寧に接してしまうが。

それでも長足の進歩だ。

後は笑顔でも作れるようにしたいが。

どうしても無理矢理笑顔を作ると、地上侵略をもくろむ魔王みたいな笑顔になってしまう。

笑顔は昔は攻撃の合図だったという話があるが。

それを彷彿とさせる笑顔だ。

それもまずいとケルベロスに言われているので。

死んでいる表情筋を動かす訓練も、少しずつやっているところである。

ともかく、今日のルーチン、タスク、ともに終わり。

杏美が起き出してきたので、食事を一緒に取る。

既に離乳食は終わっているが、それでもまだまだ同じものは食べられない。乳幼児ではないが、それでも体はまだとてももろいのだ。

おかあさんが寝起きで機嫌が悪い杏美をあやしながら、ちゃんと食べさせる。おとうさんもいるからか、杏美は機嫌を直して食べ始めた。

食べられることを褒める。

苦手なものは今のところない。

苦手にならないように、おとうさんがメニューを工夫しているからだ。

アレルギーがあるなどの体にとって危険な場合を除くと。

食べ物を嫌いになる理由のほとんどはトラウマが要因だ。

特に無理矢理食べさせることが原因になる事が多い。

このため、無理に食べさせたり、食べないことを怒るのではなく。

苦手そうな食べ物は先回りして、食べやすいように加工してしまう。

そうすることで、食べられないものを少しずつ減らしていく。そうして、杏美はなんでも食べられるようにする。

ただこれは、負担が大きい。

時々おとうさんが、頭を悩ませてメニューを考えている。

おとうさんのブラック企業時代は、自炊しないとやっていけなかったらしく。まずいがやすい食べ物を如何においしくするかの技術ばかり磨かれたそうである。

それもあっておとうさんはそういうのは得意だそうだが。

それでも限界がある。

料理の勉強は、今はいいと言われている。

燐火が本気で学問と武道をやっているのを、おとうさんとおかあさんは好ましく考えてくれている。

学問について落ち着いてから、そういうのを学べば良い。

おとうさんはそうも話してくれた。

そういう理解のある両親だ。

燐火は、どちらも裏切りたくはなかった。

さっさと休む。

杏美と一緒に寝る事も最近はあるが。杏美が眠った後は、ちゃんと距離を取るようにしている。

そうしないと危なくて仕方がないからだ。

まだまだ小さい上にあまり頑丈ではないのである。

下手をすると寝ぼけているときに壊してしまいそうで心配なのである。

それを話したら、ケルベロスに呆れられてしまったが。

今後子供を産んだら。一体どうするつもりか。

そう言われて、正直ぐうの音もなかった。まあそれがあるのは、あったとしてもずっと先になるだろうが。

 

小川先輩と遊びに行く。

遊びに行く先は、比較的近場の映画館だ。

映画館デートというらしい。

どうでもいい。

映画の内容については、とてもわかりやすいハリウッド映画である。こういうのも時代によって大分内容が変わるそうだが。今回のはとにかくわかりやすい内容で、変な政治的思想も入っておらず、何も考えずに見て楽しむことが出来た。

午後からは水族館に出向く。

小川先輩は、魚にはほとんど興味を示さないようだ。

ペンギンとかイルカとか見て喜んでいたが。

燐火は別に海の生物で、ペンギンやイルカの方が好きと言うことは別にない。

深海の生物にも魅力があることは日根見ちゃんから聞いて知っているし。そういう生物が実に興味深い生態を持っている事だって知っている。

最近だとクラゲなんかを展示して、それで工夫している水族館もあるが。

あくまで毒を持つ危険生物としてではなく、見て楽しむペットとして見るだけである。

クラゲの中には傘の直径が二mを超える超大型種が存在する。

円形で二mは凄まじい威圧感であるのだが。

キタユウレイクラゲという品種は、触手が五十mにもなる事がある。

クラゲは見て楽しむだけのものではなく。

非常に興味深い生物でもあるのだ。

中には、文字通りの不老不死を実現しているクラゲすら存在している。

年を取った後若返り、また年を取るというサイクルを繰り返している品種だ。

馬鹿な金持ちが喉から手が出るほどほしがっている不老不死を、あっさり実現している生物はとっくにいるのである。

だがその生物が、生態系の覇者でもなんでもないことを考えると。

水族館で色々な生物を見ていると、不思議な気持ちになれる。

小川先輩はイルカショーで大喜びしていたが。

イルカは明らかに飼育員を舐め腐っているのが一目で分かる。

ある程度頭が良いイルカは、実は性格が非常に悪いと日根見ちゃんから聞いている。

イルカを人間の友達みたいに持ち上げる風潮は、古くのドラマが起因しているものであるらしく。

元々は漁場を荒らすこともあって、嫌われることも多かったそうだ。

知能が高ければ、特別待遇しなければならない。

それは人間の理屈だ。

蛇などを調べたとき、知能なんか必要ない方向に環境適応した生物だと知った。

何よりも知能が最低限の昆虫が、地上でもっとも繁栄している生物であることを知っている燐火は。

イルカに勝手に感情移入して喜ぶ風潮を。

好ましいとは思わなかった。

「燐火っち、イルカ嫌い?」

「いえ、好きでも嫌いでもないですが」

「そうなんだ。 ショーの時、びっくりするくらい静かだったからさ」

「まあ、そうですね」

ギャルという格好で来ている小川先輩。

普段着で、無難にまとめている燐火。

この二人組はあまりにも浮いているようで、周囲からひそひそと声が聞こえてきている。どうでもいい。

水族館を出た後、カフェで食事にする。

地方大会で準優勝という成果を出した小川先輩は、家でも褒めて貰ったらしく。

学校でも表彰されたこともある。

パパ活女とか陰口をたたかれていたのも、減ってきているそうだ。

それでも陰口をたたくやつはいる。

燐火としては腹立たしいけれども。

小川先輩は気にしていないようである。

外でもやはり、色々とそういう視線は受ける。側にいると、それはよく分かってくる。

いくつか映画とか水族館の話をする。

小川先輩の感想はとにかく感覚的だ。

感覚的な快楽が受けるというのはよく分かる。だからそういうのに特化した創作は幾らでもある。

特に理由も無くヒーローが悪党をぶっ倒して回るような映画なんかはそうだろう。

それを否定するつもりは燐火はない。

ただ、燐火としては論理的な説明をする。

今日の水族館で見た生物について思ったことなどを述べていくと、ほうほうと小川先輩は興味深そうに聞いていた。

「日根見っちと同じように言うね。 でも日根見っちは動物をとても楽しそうに話すのに、燐火っちはなんというか、非常に冷たい印象だわ」

「そうですか? まあ笑顔なんて作りたくても作れないのもありますけれど」

「あー……、あー、うん」

咳払いすると、小川先輩は言う。

笑顔作れないの、何か理由でもあるのか、と。

まあもうそろそろ信頼しても良いか。

軽く話す。

昔いろいろあったのだと。

そう話すと、小川先輩も、いろいろあった側だ。

特に小川先輩の場合は、見かけからレッテルを貼られて、それで好き放題言われた。今も言われている。

その立場である。

燐火の苦悩は、他人事ではなく理解できるようだった。

「ごめん。 燐火っちのイカレた強さからも、ちょっと色々あるんだろうなとは思っていたけど。 不躾だったかも」

「良いんですよ。 悪気がないのは分かっています」

「部長として、ある程度出来ることはしておきたいんだよね。 来年は部長になってもらうつもりだし」

「そうですね。 厳しくなりすぎないように気をつけます」

ケルベロスに言われた。

後輩の空手部員に、厳しく接しすぎないようにと。

一年で入ってきた空手部員が、とにかくイキっている奴だった。小学校時代、空手。それもフルコンタクトを習っていたらしい。

図体がでかくなってきたこともあって、女子なんか余裕だろうと思っていたのだろう。

小川先輩の事も最初は舐め腐っていた。

で、燐火と組み手して。

一瞬でひねり潰されて。真っ青になっていた。

小川先輩もその後相手をして、手も足も出ない現実を見せると。その男子生徒は、この世の終わりみたいな顔をしていた。

ただし、空手部は辞めさせなかった。

幸い、悪行を重ねている輩ではなく。ただ周りがぬるま湯だったせいで、自分を強いと勘違いした輩だったので。

燐火としては、そこまで厳しくするつもりはなかった、というのもある。

しかしながら、厳しく接していたら。

小川先輩が、以降は自分が見ると言って、その生徒を引き離した。

これ以上は潰れる。

そういう判断らしかった。

今ではその一年は明らかに燐火を怯えた目で見ている。

別にそれで構わない。

ただ、小川先輩は、それを教訓にして、来年の一年生が潰れないようにという事を言っているのだった。

後は軽く話をした後、解散とする。

小川先輩は手を振って去って行くが。ケルベロスは、面白い奴だと言っていた。

「人間の悪癖である見た目で全てを判断することに対して、真っ向から喧嘩を売っている者だな。 精神的にはとても良心的でまともだ。 ギャルは遊びほうけていて頭も悪いと考えているような連中の固定観念をひっくり返して回っている」

「そうだね。 小川先輩の考えも分かる。 まあ、燐火も自分がやっている修練を他人にも強要するつもりはないかな」

「燐火がやっているのは実戦を想定したものだ。 空手部で教えてはいかん」

「……そうだね」

ただ、ケルベロスは言う。

部長になったら、一度だけ県大会に出ておけ、と。

変に目立つから嫌だなとは思うが、確かに実戦仕様ではない空手の大会で、相手を傷つけずにどれだけ勝てるかは試しておいた方が良いだろう。

今後は人間の悪党を、可能な限り無傷で制圧しなければならない場面も出てくるのである。

それを考えると、確かに加減を上手にするのは必要だ。

さて、問題は。

ここからである。

どうやら律儀に遊びが終わるのを待ってくれていたらしい黄泉軍が出現したようだ。多少疲れたが、あくまで精神的なものである。

すぐに着替えて、現地に出向く。

相手は女性の黄泉軍で、薙刀を構えて待っていた。

古めかしい鎧だが。

これは恐らくだが、比較的後の時代の死者だな。

顔色は悪いが、見るからに実際に戦場で刃を振るった女性だと分かる。

幾らでもいるのだ。

実戦に参加した女性は。

史書に記載がある数ですら、相当にいる。

あの凶猛な北欧文化圏ですら、高位の女性戦士がいたくらいである。日本でも、それは同じだ。

「かなりの腕前と聞いている。 勝負を申し込みたい」

「分かりました。 ただ、先に日本神話系の魔祓いを呼んでおきます。 勝負がついた後、迅速に全て終わるように」

「分かった」

相手も待ってくれる。

日女さんが到着してから、立ち会いを開始する。

性別に関係なく、本当に真摯に武に向き合う人はいる。この人も、間違いなくその手合いである。

だったら燐火も、全力で立ち向かわなければ無作法というものだ。

短いが、激烈な死闘が開始されていた。

 

3、夏は飛ぶように過ぎていく

 

空手の試合を見に行く。

その前に、徒手の黄泉軍とやりあったばかりだ。燐火も徒手で相手をして、それで倒したが。

凄まじい使い手だった。

今までで最強だったかもしれない。

魔からは絶対に一発も貰うな。

そう言われていたのに、何発かいいのを貰ってしまった。ただ、相手はそれで何かしらの搦め手を仕掛けて来る事もなかったし。

日女さんに見てもらって、問題ないことも確認できていた。

ともかく、空手の地区大会が始まっている。

基本的に同じ学校の人間などは、トーナメントで端どうしに配置されるようになっている。

まあ決勝近くまで行くとそうもいかなくなるのだが。

ともかく、鈴山さんも順調に勝ち上がってきていた。

鈴山さんは、真面目に空手を続けていて、どんどん競技空手の腕を上げている。既に六回戦だが、これは来年からはシード選手だな。

シード選手の相手に、辛勝。

だが、その次で負けた。流石にここまでだ。

そして小川先輩だが。

優勝候補と二回戦であたってしまった。前回の冬大会で、決勝でぶつかった相手である。本来ならシード選手でもっと後に出てくる相手の筈なのだが、相手の選手が敢えて今回シード選手扱いを辞退したらしい。なぜそんなことをしたのかは、周囲の誰も知らなかったが。

相手は更に腕を磨いていたが、小川先輩の鍛錬と努力がついにそれをしのいだ。

優勝候補と激戦の末に、ついに勝利すると、歓声が上がっていた。

なお敗者復活戦があるので。

恐らく優勝候補はそれで三位にはなるだろう。

ただ、本当にがっかりしているようだった。

小川先輩の見かけを、非常に疎んでいたようだ。

遊びほうけている相手に負けた。

そう思っているのだろう。

だが、そんな風に見かけで判断していたから負けたのだ。燐火はそう思って、何も言わなかった。

ここからだ。

小川先輩は、二回戦で消耗したものの、シード選手も下してどんどんと勝ち上がっていく。そして今、決勝戦にいた。

相手は四位以内常連の選手。

前回では、優勝者に負けて小川先輩とはあたらなかった。

相手はそれほどの消耗をするような激戦をしてこなかったらしく、気力は充実している。それに対して、小川先輩はかなり疲弊の色が濃かった。

さて、どうだ。

小川先輩が、それでも攻める。

苛烈な攻め。

だが、相手は冷静に立ち回って、体力の消耗を明らかに狙っている。

ケルベロスが呻く。

「これはまずいな。 相手はしっかり敵選手を観察し、分析しているタイプだ。 苛斂が消耗しきっているのを見て、自滅に誘い込もうとしている」

「そうだね。 だけど、小川先輩も、それは理解しているみたいだよ」

「地力では苛斂の方が上と俺は見る。 後は苛斂が冷静に立ち回れば……」

その通りだ。

激しい駆け引きのあと、審判が二人を引き離す。

かなり疲弊している小川先輩に、続行するかと声を掛けているようだ。審判はあれはかなり出来る。

年配の空手熟練者が、こういった試合で審判をすることは良くあるそうだ。

小川先輩は、オスと激しく声を出していた。

審判は少し心配そうだったが。

それでも行ってこいと、小川先輩を試合場に送り出していた。

さて、これは。

恐らく即座に決めに来るな。

相手選手はフルコンタクトでは通用しないだろうが、競技空手だったらかなり出来るタイプだ。

実戦にはむかないが。

それでも良い技を的確に打てる。

小川先輩は正確に間合いを詰めて打ってくる技に、しばし防戦。

体力を消耗しきったと判断した相手選手は、一気に来たが。

その瞬間、待ちに待ったと言わんばかりに。

小川先輩が、カウンターの正拳を入れていた。

勝負あり。

わっと試合会場が沸く。

燐火はふうと嘆息すると、小川先輩の勝利を素直に喜んでいた。

身内だから、ではない。

どれだけ努力したか。

どれだけ偏見と闘ってきたか。

それを知っているからだ。

同時に、相手の選手を馬鹿にするつもりもない。あれだけ的確に理詰めで攻めてきていた選手だ。

きっと良い選手になるはずだ。

燐火はあまり興味がない競技空手だが。それに人生を賭ける人だっている。今は存在しないが、プロリーグもいずれ出来るかもしれない。

これで小川先輩は全国進出だが。

はっきりいって全国での活躍は厳しいだろう。

それでも、数日後の全国大会で、小川先輩は三回戦まで勝ち進んだ。それだけでも、充分な結果だったと、燐火は思った。

 

待っていた。

そういうように、立て続けに黄泉軍が来る。

同時に、各地で一線級の魔祓いが幾度も襲われた。

燐火には黄泉軍を差し向け。

魔祓い達には、予母都志許売を差し向ける。

あの邪神が、極めて厄介な戦略の下で動いているのが分かる。こうやって、どんどんこちらの戦力を削るつもりなんだ。

それと平行して、ダイモーンも出してくる。

流石に一線級の魔祓いは、簡単に敗れるような事はないし。この連続襲撃で、公安の方でもどんどん戦力を増強して魔祓いを守っているが。

それでも魔祓い関係者に犠牲者が立て続けに出ていた。

これはとてもやっていられない。

そういって、二線級三線級の魔祓いが辞めていく。

そして邪神は狡猾だから、そういった魔祓いに追撃はしなかった。

もしもここで戦線離脱する魔祓いを追撃していたら、それらが必死に抵抗してきただろう。

だが敢えて追撃しないことで、組織の崩壊を加速させる。

非常にまずい事態だ。

夏休みの終わり少し前。

四人目の、一流どころの魔祓いが引退に追い込まれた。他にも多数の魔祓いが。命を落としたり、負傷する事態になっていた。

海外の魔祓い達は完全に二の足を踏んでいる。

残っているのはカトリイヌさんと護衛達。それにエヴァンジェリンさん。他にはわずかな、日本に恩義があって個人的に残っている魔祓いだけ。

日本の魔祓いの質は高いが。

それでもこれをしのぎきるのは極めて厳しい。

問題は、根の国と邪神がどれくらいの連携をしているか、だ。

現在公安の方でも何もしていない訳ではなく、根の国がこの世界に顕現する兆候などを調べているようだが。

現時点でその可能性は低いらしい。

つまり根の国は兵力を邪神に貸してはいるが。

恐らくは、江戸時代に起きた総力戦もあって、伊弉冉尊が回復しきっていないのだろう。

そういう話がされていた。

その時の戦いでは、天照大神を当時最強の魔祓いが下ろして、根の国の軍勢にも大打撃を与えたという。

六割近い魔祓いを失った凄惨な戦いではあったが。

それで数百年単位で身動きできなくなったのは、根の国も同じ。

恐らくは精鋭を出す余裕はあっても。

伊弉冉尊が出現するのは、かなりハードルが高い。

そういう結論らしい。

ともかく、燐火もリモート会議に参加して話を聞く。おとうさんとおかあさんに貰った自分の部屋、おとうさんに貰ったお古のPCを使って会議をする。お古と言ってもいわゆるゲーミングPCであり、性能は充分すぎるレベルだ。

燐火のところに来る黄泉軍の対処は問題ない。

たまに日女さん以外の魔祓いも来て、燐火が倒した後は祓ってくれる。

問題は、このままこの状況が続くか、だ。

「同じ行動を邪神が続ける可能性は低いとわしは見ている」

林西さんが言う。

実際問題、邪神は極めて狡猾だ。何かしらの戦略的課題を順番にこなしているとみて良いだろう。

それは恐らく、悪神化フリッグやフルーレティ、狼王までもを巻き込んだものだったと見て間違いない。

狼王は邪神の盟友であり同盟者だったようだが。

それでも行動を戦略に組み込んでいたはずだ。

エヴァンジェリンさんが挙手。

「まだ邪神に手札がある可能性があると天才たる私は見ている。 狙い撃ちにされている優秀な魔祓いを、どうにか守らないとまずいだろう」

「それは分かっている。 しかし手が足りない。 一カ所に集まって貰うのも、それはそれで危険だ」

「強力な霊的防御がされているような地はないのか。 私の国にもいくつか存在していたのだが」

「そういった場所を根城にしている魔祓いが、片っ端から襲われたのだ」

むうとエヴァンジェリンさんも呻く。

実際公安の秘匿部署は無能じゃない。

警察のキャリアは無能で知られているようだが。

この国の最暗部で、ずっと霊的防御を担当してきた組織だ。色々と大きなトラブルに対処もしたし。

経験は積んできているのだろう。

だからこそに、今回の猛攻を捌ききれないのが、とにかく痛いのである。

無言で黙り込んでいた菖蒲さんが挙手。

「既にこの国の一線級の魔祓いは半減。 恐らく次の手に邪神が出る頃だと見て良いかと思います」

「具体的には」

「今回の一連の事件では、ダイモーンが霊的接着剤として使われています。 そしてダイモーンにまともに対処できるのは燐火さんとヘラクレスさんしか存在しません」

さんをつけてくれているのは、公式の場だからだ。

こういう場では、日女さんも俺という一人称を使わない。

それだけ公式の場で切り替えているのだ。

「恐らく、次の手は、ヘラクレスさんか燐火さんを集中狙いしてきます。 何かしらの対策を考えた方が良いでしょう」

「ヘラクレスと連絡は取れているのか」

「それは滞りなく」

「……分かった。 いくつか策を練り、そして反撃につなげる準備とする」

通信終わり。

連絡をきる。

いくつかのセキュリティツールを噛ましている。独自開発のツールであり、基本的にLinux系のシステムなので、ハッキングも難しい。

通信を終えたあと、嘆息して部屋を出る。

少し疲労した。

菖蒲さんでもあの雷神相手には大苦戦を余儀なくされていた。もしもあいつが燐火のところに現れたら。

無言で外に出てルーチンを始めるが。

ものの五分で、嫌な予感が的中していた。

すぐ近くに、魔の気配。

これは恐らく、予母都志許売だ。住宅街を狙う位置にいる。さっさと来ないと襲撃する。そういう意図を隠してもいなかった。

「まずいな。 燐火の戦力を見切った上で、確実に殺せる戦力を用意してきたとみて良いだろう」

「だったら返り討ちにすれば、大きく戦力をそげるね」

「……それも計算の内かもしれん。 とにかく慎重に行くぞ。 総力戦だ。 呼び出せる人間、全てを集めておけ」

ケルベロスのアドバイスに頷くと、燐火は走る。

この気配。

まがまがしいなんてレベルじゃない。

根の国のダークサイドは、仏教で言う地獄が近いのかもしれない。地獄と言っても理不尽な場所ではなく、あくまで罪人を罰する場所ではあるのだが。

しかしその住人が、地上に顕現すると。

こうも邪悪な気配を発するのかもしれなかった。

走る。

走りながら理解する。相手の数は三ないし四。予母都志許売は単体で黄泉軍よりも相当に実力が上回る。

それにだ。

黄泉軍や雷神なども含め、更に増援が来てもおかしくない。

この様子だと、他も襲撃を受けているかもしれなかった。

「俺だ。 今、うちの神社に予母都志許売が出やがった。 迎撃する! そっちに行く余裕はない! 耐えてくれ!」

「こちら林西。 同じく寺に予母都志許売多数。 迎撃に入る。 これは厄介な仕事であるな……」

「こちら菖蒲」

菖蒲さんは、来てくれるという。

ただし、通信が不意に不安定になった。

そして、戦闘音が聞こえてくる。

これは待ち伏せされたな。

現地に到着。

予母都志許売が四体。いずれもが、老婆の姿をしているが、口からだらだらとよだれを垂れ流していた。

一体は手を赤くしている。恐らく野ウサギでも捕まえてむさぼり食ったのだろう。

乱暴なバイクの音。

乗り入れてきたのは、カトリイヌさんの若い方の護衛。サイドカーに乗っているのは、カトリイヌさんだ。

近くに降り立ったのはセバスティアンさん。

背負っているのは、エヴァンジェリンさんだった。

「燐火さん。 日女さんや菖蒲さん、林西さんは」

「襲撃を受けています」

「早速か。 動きが速いではないか」

エヴァンジェリンさんが若干もたもたしながらセバスティアンさんの背から降りる。いずれにしても、これはまずい。

日本神話系の魔に対応できる人員がいない。

それに対して、予母都志許売は四体。

こっちは五人だが、こいつらはそもそも五人で一体を相手にするレベルの魔だ。それも、今までのよりも更に気配がまがまがしい。

「魔祓いは食って良いのであったな」

「ああ。 待ち焦がれた地上の肉だ。 地下の食い物は味がしなくてなあ」

「肉汁がうまい。 はやく食いたい」

「待っていろ。 今、来る」

やはりまだ来るのか。

予母都志許売達の背後から、ぬっと現れたのは。一段と背が高い巨大な予母都志許売だった。

腕が四本も生えている。

これは恐らく違う。

ダイモーンだけではなく、何かしらの混合魔だとみて良い。

「待たせたなあ……おまえのいう正々堂々で勝負してやる。 分かったことがある」

「……何がですか」

「おまえの武術は人間の技の領域を超えていない。 高度な戦闘経験と才能、それに努力と訓練。 既に生半可なプロ格闘家だのでは相手にならないだろう。 だが、それはあくまで常識の範囲内での話だ。 このような姿の相手と戦えるかな?」

「あの大きいのは私めがやりましょうか」

この中で最強であろうセバスティアンさんが前に出る。

だが、うけけけと予母都志許売が笑う。

「別に構わんが、正々堂々の姿勢を崩したら、即座にあの集落にいる人間どもを無差別に食らってやる。 実力差からして、それくらいは簡単なのでな。 我ら一人でも逃がしたら、その時点で数十人は死ぬと知れ」

「セバスティアンさん。 あの大きいのは燐火が相手します」

「正気ですか。 ただでさえ前に現れた個体よりも明らかに手強い予母都志許売、しかもあの姿は……!」

「問題ありません」

実際には問題大ありだが、とにかくやるしかない。

こちらが手段を選ばない場合には、相手も手段を選ばないことを見せる。そうして戦略の幅を狭める。

邪神は狡猾だ。

ずっと黄泉軍を燐火にぶつけてきたのは。

こちらの対応力だけじゃない。

根本的な観点で、燐火が不正義を許さない性格だと言うことを見極めるためだったのだ。

それを逆用してきた。

ただし。

そうしてきた以上。

こちらも、その上を行かせてもらうだけだが。

すうと息を吸う。

さっと、皆が散開する。

問題はカトリイヌさんよりもエヴァンジェリンさんだ。直接戦闘力がかなり問題がある。あのフィジカル面で凄まじい力を発揮する予母都志許売を抑えきれるかどうか。

日根見ちゃんから聞いたのだが、カトリイヌさんは何度も師範のところに来て、剣道を鍛えていると聞く。

それだけではなく、貪欲に武術もやっているようだ。

きっと燐火の姿勢を見て、そうしないとまずいと悟ったのだと思う。

ただのお嬢様だったら出来なかったことだ。

だからカトリイヌさんは心配していない。

見上げるような巨体に、四本の腕に剣を持った予母都志許売が、凄まじい雄叫びを上げていた。

勿論霊的な感応力がないものには聞こえない。

燐火は無言で近づいていく。

凄まじい勢いで、四つ腕の予母都志許売が襲いかかってきた。

 

カトリイヌが手にしているのは、レイピア。刺突剣だと思われがちだが、実は古くのレイピアはそうではなかった。

刺突で相手を殺しに行くのは、実は日本刀も同じ。

レイピアもちゃんと斬ることが出来るのだ。

そもそもとして決闘用の剣として発展したレイピアは、それが戦場では使えない時代に作り出された。

バリバリに実戦用として使われていた日本刀に比べると、儀礼型のレイピアが劣るのはどうしても仕方がない。

それでも、儀礼用として。

魔祓いの護衛用として。

カトリイヌの実家では、数々の魔を祓った聖剣として、今カトリイヌの手にあるものが受け継がれてきた。

兄たちは日本に来ることを拒否した。

今の状況では、生きて帰れない可能性が高い。

そういう理屈だった。

それを聞いて、カトリイヌは所詮兄たちもか、と思った。

バチカンの権力闘争で、優位を取ることが目的。

魔祓いはあくまで実績を適切に積めばいい。政治の道具に過ぎない。

古くは魔祓い達は多くの悪魔を倒してきた。祓って、災厄を取り除いてきた。犬猿の仲であるイスラム教徒とでさえ、魔祓いという観点では連携したことがある。今ではかなり難しいのだが。

長い歴史を積み重ね。

だいたいの有名な悪魔や、それに神すらも封じた魔祓い達は。

今や堕落してしまっている。

実家はまだマシな方。

これでも、まだマシな方なのだ。

類を見ない実績を上げているセバスティアンが、結局のところ使用人止まりであるのがそれを示している。

実力主義など存在していないのだ。

だからこそ、カトリイヌは名家として有るべき姿であろうと思う。

燐火に才能で勝てない事はとっくに理解している。

既に背丈も並ぼうとしている。

だから一緒に練習して、必死にその強さを取り込もうとした。ケルベロスのアドバイスを燐火が適切に受けているとしても、やれることは有るはずだ。

迫ってくる、巨大な獰猛な老婆。

予母都志許売の猛烈な一撃を、ドミニオンが光の壁で防ぐ。

カトリイヌは素早く立ち位置を変えながら、伝家の聖剣を連続して突く。剣道での突き技は禁止されている事も多いが、刺突剣の使い方はこれが主流だ。

予母都志許売がひょいひょいと一撃を回避。

だが、舐め腐っているその懐に入り込むと、剣道で学んだ逆胴を入れていた。

刃が食い込む。

「むっ!」

「これ、斬れるんですのよ」

「ほう……」

ブンと無造作に音がして、腕が振られる。

間一髪逃れたが、そうでなければ首が飛ばされていただろう。

他を見ている余裕はない。

連続して刺突を入れるが、やはり予母都志許売は舐め腐っている。今の逆胴も偶然とみているのだろう。

だったら。

気合いとともに持ち替えて、面を入れる。

予母都志許売の、たくさん目がついているおぞましい顔に刃が直撃。更には、ドミニオンが多数の光の槍をたたき込む。

蹈鞴を踏んで下がる予母都志許売だが、追撃はしない。下がりつつ、空気ごとえぐり取るような腕力で腕を振るってきていたからだ。実際、それがかすっただけで木がえぐれていた。

「うおのれ、いくらわしがばばあとは言え顔に傷をつけよったなあ」

「貴方はご老体でしたの? そうはとても見えませんでしたわ。 その動き、とても若々しくてよ」

「ほう、面白いことを言ってくれる。 若いと言われるのはこの年になっても嬉しいものよな。 しわが伸びる気分という奴かな。 それでどうする。 所詮貴様等の聖言などわしには効かんが?」

そうだろうな。

今浴びせた数太刀も、手傷と言うほどのものとなっていない。

頑強すぎるのだこの魔は。

巨人などの魔はカトリイヌも見た。散々邪神一派が繰り出してきたからだ。だが、それらは見かけ倒しだった。

此奴は違う。

大きい以上に、実体化の濃さが違うというのか。

今までのが見かけ倒しに過ぎなかった事を考えると、此奴は本物だ。この国の忘れられた冥界の魔。

それならば、恨みもひとしおであろう。

「さて、腹も減った。 若いと言ってくれた礼に、せめて苦しまないように食らってやろうか」

「お断りしますわ」

「ま、断っても食うが」

「やれるものならやってみなさい」

即座に突貫してくる予母都志許売。体の前面が全て口になって、開く。まるごとカトリイヌをひと噛みに出来る大きさの口だ。

だが、それを待っていたのだ。

相手は勝ちを確信している。

そこに最大の隙が生じる。

踏み込むと、敢えて口の中に踏み込むようにして、連続突きをたたき込む。さっきまでの戦いで、この予母都志許売の動きは理解していた。

だから、その動きにあわせて。

急所全てを、瞬く間に刺突。

体の前面全てが口になるような怪物であっても。その口の内側から、むしろ柔らかくなっている口の中から。

人体急所を貫かれれば。

ぎゃっと悲鳴を上げて、口を閉じられずに下がる予母都志許売。

其処に最大出力のドミニオンの光の槍が突き刺さる。勿論致命傷にはならない。だが、それでも尻餅をついた予母都志許売。

印を組む。

ドミニオンの力が膨れ上がり、光が予母都志許売を拘束した。

まぶしい苦しいと呻く予母都志許売。

呼吸を整えながら、さっき数pまで迫っていた乱ぐい歯を思い出して、カトリイヌは今更ながら身震いしていた。

「ドミニオン、そのものを抑えて!」

「承知。 しかしお嬢様は如何に……」

「……」

周りを見る。

エヴァンジェリンが一番まずいかと思ったのだが、様々なルーンを駆使して思った以上に善戦している。

森の中はドルイドに取って味方であるらしい。

様々な作物が次々に実り、それに気を取られた予母都志許売に、何度も拘束のルーンが仕掛けられている。

勿論予母都志許売を完全拘束は出来ていないが、あっちは大丈夫だ。

護衛二人は。

問題ない。互角に戦っている。あの二人が負けるわけがない。だとすると。

燐火は、どうやら互角以上にやり合っているようだ。この場合は、状況を崩すしかないだろう。

全力で燐火の方に走る。

山の中を走るのは、ここ数年、日本に来てから練習した。

勿論欧州にも山はたくさんあるけれど。

それでもここまで山の中での戦闘が多くなったことはなかった。

黒い森と言われた、ドイツ全域を覆っていた深い森。リスが木を降りずに欧州を渡りきれるとまで言われた森は、既にこの世界にない。

それがゲルマンの民をローマ帝国から守り。

欧州の古くの信仰を、一神教から守った。

カトリイヌは、今は一神教は絶対正義だとは思っていない。色々な信仰と魔祓いを見て、この世に絶対に正しいものなんてない事を理解した。

だからこそ、連携して戦える。

カトリイヌが来るのを見て、四本腕の予母都志許売が、焦りを顔に浮かべる。こんな筈では。そう顔に書いている。

燐火を四腕で攻めきれない。

それぞれの腕に巨大な武器を持っているのに、どうして。

そう顔に書いているが。

当たり前だ。

人間の影響をどうしても受けるのが魔だ。

人間は残念ながら、二本の腕と二本の足ですら持て余すような生物なのである。それが四本。

攻撃は単調になる。

何よりも、腕が増えたら、残りの腕も明らかに邪魔になる。

つまり四本の腕をうまく活用するには。

肩から四本を生やすのでは無理で。昆虫のような形にでもするしかない。

恐らく予母都志許売はインド神話系の魔か神格と混合したのだと思う。それであのような姿になった。

更には、それで万能感を刺激された。

図体が大きくなったのも、その一因だろう。

鋭い小手が連続で決まり、予母都志許売が二本の武器を立て続けに取り落とす。カトリイヌが背後に回っているのに焦り、更に燐火の猛攻を許す。

吠え猛る予母都志許売。

「な、なぜだ! これなら勝てる筈だ!」

「速度も技術も達人にほど遠い。 生半可な使い手だったらパワーで押し切れたでしょうけれども。 生憎燐火は、人中の虎に教えを受けました。 それだけの話です」

「何よりそんな人体構造を無視した体では、まともな動きなんて出来ませんことよ!」

面がもろに入って、予母都志許売がぎゃっと喚く。

カトリイヌが刺突剣でチャージの態勢に入ると、備えようとして、更に注意が散漫になる。

燐火が立て続けに人体急所を鉄パイプで撃ち抜いていく。あれはもう、あまたの魔を打ち砕いてきた聖なる武器。

そしてそれには、ここしばらくの根の国というこの国の古い冥界の魔達も含まれている。

威力偵察で燐火の力を分かったつもりだったのだろうが。

それが逆に失敗したのだ。

雄叫びを上げると、燐火は更に四本の腕をたたき伏せる。既に全ての武器を取り落としていた予母都志許売は、明らかに恐怖の声を上げていた。

その背中に、カトリイヌがレイピアをたたき込む。

悲鳴を上げた予母都志許売が、突っ伏して、倒れ込んでいた。

後は各個撃破だ。

日女がしばしして、ボロボロになって到着。二体の予母都志許売に時間差で襲われたらしい。

それでも倒したのは流石だ。

それぞれ身動きできなくなったり、倒れている予母都志許売を、順番に日女が祓っていく。

それを見ながら、カトリイヌは座り込んでいた。

今更心臓がばっくんばっくんと胸の中ではねている。

予母都志許売のあの口の中。

閉じ合わされる一瞬の間に、完璧に急所を内から貫かなければ、今頃は餌になっていた。それを思うと、恐怖でちびりそうだ。

それでも、勝った。

過去にルシファーなどの強大な魔を封じ込んだ魔祓い達は、勝ったときにこんな気持ちだったのだろうか。

勝利の高揚なんてない。

今は、ただ何も考えず。

何も食べたくなるくらい甘い菓子でも食べて。

それで頭をまっさらにしたかった。

「これだけの予母都志許売を打ち倒した。 少しは戦況は楽になるのではないか」

「どうだろうな。 一線級の魔祓い達のところに現れた予母都志許売達の実力が、この程度だったとは俺には思えないが」

エヴァンジェリンさんに、日女さんが答える。

燐火は座ると、休憩をしていた。追撃があるかもしれない。そう思っているのだろう。

菖蒲もほどなく合流。

手ひどく傷を受けていたが、どうにか勝ったようだ。ただ、これから魔祓いは日女がやらなければならないが。

苦笑いを浮かべる菖蒲。

手傷があまりにも酷いのを見て、悟る。

本命は燐火だけじゃない。菖蒲にも、行動不能レベルの手傷を与えること。そして見た感じ、菖蒲はしばらく動けない。

確実にあの邪神は、魔祓いの力をそいでいる。悔しいくらいに、狡猾な相手だった。

 

4、闇と邪悪とは違う

 

邪神は燐火を仕留めきれなかったことを悟ったが、まあそれはいい。

あの地域で双璧を為す一線級の魔祓いである菖蒲に深手を負わせた。手足を持って行きたかったが、流石にそれは贅沢か。

やったのは選抜した精鋭の予母都志許売だ。

倒されはしたが、良い仕事をした。

あれで菖蒲はしばらく身動きできない。

今年中に勝負をつけると邪神は決めているが。

これで恐らくは、勝てると見て良かった。

さて、動くときだ。

根の国から借り受けた軍勢は、既に半減している。各地での一線級の魔祓い達との戦いで、消耗したのだ。

それでも亜眼威眼兄弟と八雷神は温存している。

このうち八雷神はヘラクレスを抑えるために用いる。

ヘラクレスの実力は既に理解しているつもりだ。

狼王ですら、正面からはやりあいたくないと言っていた。

不死身という特性に加え、何よりも物語と堕しても世界中で知られている英雄の中の英雄。

何より物語になったことで、古い時代のギリシャ神話における凶暴さは失われ。

却って良い意味での英雄になったことで、モチベーションも上がった極めて手強い相手である。

八雷神をぶつける価値はある。

そして、最後の一手を、準備する必要があった。

洞窟の奥にて、拘束している者。

ギリシャ神話の冥界のNO2。

それがケルベロスが探しに来た存在だ。

ハデスに誘拐婚され。

嘆いたデメテルとの深刻な諍いの要因となった存在。

ただ、本人は無邪気なだけの美しい女。

たまに寂しくなって冥界を出て遊んでいるが。それは容認されていた、そのはずだった。

だが、迷い込んだ場所が。

たまたま邪神の拠点だった。

本人は何を前にしているか、最初は理解していないようだった。

しかしそれも。

捕らえられてからは、いかなる相手に捕らえられたのかを悟り、毎日泣いていたが。

「ペルセポネ。 いよいよ計画が大詰めになった。 貴女の特性……ダイモーンを無差別にばらまき生み出す性質を利用して、私はこの世界をひっくり返す」

邪神がそう言うと。

ただ怯えた目でペルセポネは邪神を見る。

ふっと邪神は笑っていた。

「価値観が逆転すれば、ギリシャの神々も復権できるだろう。 私との間には軋轢が出来るかもしれないが、それは今更だ。 私はその時天に昇り、明けの明星の象徴として新しい世界の長に君臨する」

「……」

口を塞がれているから、ペルセポネは何も言えない。

本当に気が弱いんだなこのお嬢様は。

そう思うと、邪神は悲しくなった。

これを利用しなければならないこと。

縛り上げて、こんな場所に幽閉していなければならないこと。

古くは、実力での体制転覆をなんども狙った。

それが出来るだけの力が、邪神にはあったからだ。

だが魔祓い達に何度も敗れていく内に、力はどんどん弱まっていった。それに反比例して、天津の神々は力を増していった。

国津の神々は、もはや天津に逆らう気力はなく。

不満を抱えている根の国の者達だけが、この国で唯一邪神に賛同してくれた。

価値観なんて、簡単にひっくり返る。

金さえあれば何でも出来るという価値観が広まったこの荒廃した時代は、恐らく最後の好機だ。

この時代には人間だけは無駄に多い。

ある一点にひずみを入れれば。

恐らくは、それが一気に世界中に拡散していく。

それをこの国で為す。

ペルセポネは神だ。

だから、何も与えずとも死なない。見張るようにだけ予母都志許売に言うと、外に出る。

整列している黄泉軍。

既に半減しているが、意気は旺盛。

それはそうだ。

陰気な根の国は、ずっと戦闘訓練くらいしかすることがなかったのだ。この地上で暴れられるのであれば。

これ以上もないほどの事だろう。

武人でありたい。

そう願うものも多い。

純粋戦士として、腕を極めたい。

そう願う者も多い。

根の国の民となった今は。もはやそこからは離れられない。だから、根の国に光を差し込ませたい。

この地上のように。

陰気な場所とされる根の国を、そうではないとしたい。

それがここにいる者達の願い。

そして邪神とともに戦ってきた者達も。

フリッグのようなカスもいたが、フルーレティも狼王も。

今、悪とされている観念を。

ひっくり返すために命を賭けていた。

「魔祓いの戦力は充分に削った。 これより、最終作戦に移行する」

「おおっ!」

「ダイモーンを祓う娘を如何にするか、ですが」

「平坂燐火だ。 忘れるな」

亜眼が部下に言う。

そうすると、部下も背を伸ばしていた。

亜眼も威眼も対戦を楽しみにしているようだ。まあ、それもそうだろう。あれほどの達人、何時の時代でもやっていける。

今の平坂燐火は、それくらいまで力を上げている。

「これから人間どもの心に大きなひずみを作り出す。 正確には既に出来ているひずみを、爆発的に巨大化させる」

その作戦も、具体的に方法が定まっている。

その先にあるのは。

全ての価値観の逆転だ。

別に悪徳が善になるわけではない。

今の支配者階級の神々が、魔になり。

魔である者達が神々になる。

様々な信仰が変遷、文化圏を移動する度に起きてきたことだ。悪魔が神に、神が悪魔になることなど、珍しくもない。

それを強制的に引き起こす。

「それでは皆、新しい時代に向けて動くぞ。 陰気な根の国には飽き果てただろう。 邪悪とされるのもうんざりだろう」

「おおっ!」

「いつまでも闇に閉ざされた場所にいてたまるか!」

「俺たちはただ生きただけの存在だ! それがどうしてこんな目に遭わなければならない!」

口々に言う黄泉軍。

気持ちは分かる。

なぜならば、邪神も元をたどれば。

いや、それはいい。

今は、作戦を成功させる。それだけを、邪神は考えなければならなかった。

 

(続)