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ラグナロクは極東で
序、美しくもなく近代的でもない
燐火は北米ネイティブの魔祓いとカトリイヌさんと一緒にデータセンタとやらに入る。公安が先に話を通してくれたが、入り口で散々事務手続きはしなければならなかった。面倒だが、仕方がない。
ごつい北米ネイティブの男性アトゥエイさんを見て受付はびびり散らしていたが。
露骨にシスターなカトリイヌさんに対しては、明らかに鼻の下を伸ばしていて燐火はあきれ果てた。
確かにカトリイヌさんはポンなところが多いが、美貌に関しては申し分ないのである。多分モデルとかやれるだろうと思う。
だが、見かけなんぞ何の意味もない。
それを理解している燐火は、この見かけで相手の全てを決める風習について、改める必要があるだろうなと考えていた。
もっとも、それをやれるのは手近な範囲だけだ。
燐火も中学一年の半ばをもう過ぎた。
馬鹿みたいな全能感を持つような年ではない。
周りにはそういうのが幾らでもいるが。
一緒になるつもりはなかった。
とりあえず、案内されて奥に入る。
データセンタというと最新機器が所狭しと並んでいて、電飾でピッカピカのイメージがあるかもしれないが。
中に入ってみると、一体何時の電子機器なのだろうという代物があちこちに置かれているし。
どう考えても骨董品だろうというばかでっかいテープがおかれていたりする。
このデータセンタは一応それなりに新しいのだが。
こういうところにあるサーバなどの機械類は、とにかくお高い。サラリーマンの何年分の年収になる事も多い。
それもあって、簡単には交換できないのだ。
それにこういうところでは保守管理のシステムも非常に大事であり。
そのノウハウを蓄積するまで、様々なトラブルが起きるのもほぼ確定。それらも加味して、新しいシステムを入れなければならない。
更に最新型のシステムを入れればいいというものでもない。
最新型のシステムは未知のエラーをたくさん抱えている事が多いようだ。
少し調べてきたのだが。重要なシステムをお金を掛けて最新型にした瞬間、全部まとめてダウン。
最新型特有のエラーが原因で。
その結果、数日間こういうところで仕事をするSEと言われる人たちが、徹夜同然の作業を強いられたとか。
そういう事件も普通に起きる。
そのため、導入するのは最新型ではなくて、その次くらいの「陳腐化した」ものにするのが一番安全なのだという。
これが電子技術の世界の中枢部であるデータセンタの現実である。
燐火も見ていて、ぐるぐるでっかいフィルムみたいなのが回っているのを見て、まだ有るんだとちょっと困惑した。
さて、ここに来た理由だが。
追い詰めたからだ。
散々逃げ回っていたコヨーテの電子戦部隊の一体が、ここのサーバに逃げ込んだ。追い詰めるまで、公安の電子部隊がかなり苦労したらしい。その後も追撃が続けられ、更にコヨーテをここに追い込んだ。
ともかく後は潰すだけだ。
奥の方に、もう何時の時代のパソコンか分からないものがおかれている。
使っている会社もおざなりにしているらしく。
こいつをゾンビ化して、コヨーテが住み着いているらしかった。
確かに気配がある。
何しろ使っている会社も「処理が重い」くらいにしか考えておらず。
そもそも処理が重いのは(この古さだと当たり前だが……)いつもの事であったので、気づきさえしなかったらしい。
アトゥエイさんが、備えろと言う。
この重厚な人は、とにかく笑うところがまったく想像できない。
妻子持ちで、次の族長になんて話もあるらしいが。
そういうこともあるのだろう。
とにかく厳しい性格であるのがわかる。
外ではエヴァンジェリンさんが結界を展開しており、既に逃げ場はない。
ここに追い込んだコヨーテの電子戦部隊は六体。
まとめて駆除してやる。
戦闘でサーバはできるだけ破壊しないように。
そう言われているが、ともかく被害は出さない方が良いだろう。
サーバの修理などで、どれほどSEが酷い目にあうか。
こういうところで働いている人は保守管理というらしいが。そういう人たちがどんな酷い目にあうか。
それも調べて知っている。
だから、一瞬で決める。
聖なる言葉をアトゥエイさんが放つと同時に、わっとコヨーテたちがサーバから飛び出してくる。
即座に祓いに掛かるが、逃げ回ろうとする。
其処に、カトリイヌさんがドミニオンを展開。
周囲に更に壁を作った。
一つずつ、ダイモーンを祓う。
アトゥエイさんの聖なる言葉に消し去られるコヨーテ。
悲鳴を上げることもない。
うわーやられたーとか棒読みで余裕を演出しているのが苛立つ。
だがそういう戦術だ。
こいつらは群で一、一で群。
だから一体やられたところでどうにもならない。
実際問題、戦闘神格をアトゥエイさんが処理したときに、その解析はしてくれている。
北米でもコヨーテは時々魔として悪さをするらしいのだが。
今回日本に来ているのはその本丸にて。
色々なネイティブの民の間で伝わるコヨーテの集合体。
それもあって、簡単な相手ではないと言うことだ。
最後の一体が、カトリイヌさんに飛びかかるが、一瞬早く鉄パイプで殴り倒す。
サーバにちょっとだけかすったが、大丈夫だろうか。
地面に潜り込もうとするコヨーテの尻尾を、アトゥエイさんがつかむと、引っ張り上げる。
明らかに馬鹿にしている顔のコヨーテに、至近距離から聖なる言葉をたたき込み、木っ端微塵に消し飛ばしていた。
これで気配は消えた。
だが、電子戦部隊を一旦片付けても、コヨーテはどんどん分裂する。
今ネットでは既にコヨーテの噂が拡散していて、得体が知れない犬みたいな化け物がいるって噂になっている。
その恐怖がコヨーテに力を与える。
実態なんてどうでもいい。
ネットでばらまかれる噂は、都市伝説と同じで。
尾ひれがついてあらぬ方向にすっ飛んでいく。
今必死に火消し工作を公安の電子戦部隊がやっているようだが。まだまだ追いついていない。
特に近年では熊による害が増えていることもある。
猛獣の恐怖は、どうしても拡散しやすいのだ。
データセンタを出る。
カトリイヌさんが、残念そうに言った。
「実は欧州でもデータセンタに入り込んだ悪魔を退治したことがあったのですが、ここと同じような状態でしたわ。 ゲームに出てくるような未来的なデータセンタなんて、あり得ないのですわね」
「見かけよりも中身が大事だ。 俺もゲームをやるからそういうかっこいいデータセンタのイメージは知っているが、現実的に考えれば強烈なサーバからの廃熱を加味せず大量に密集させているような「見栄えが良い」データセンタは熱暴走の餌だ。 それに古いシステムがあるのも当然だから、これでいい。 これが当たり前の姿だ」
アトゥエイさんも意外とこういうのは詳しいんだな。
燐火はそれほどゲームはやりこんでいる方ではないから、分からない事も多い。
ともかく、一旦解散する。
六体コヨーテを始末できたから、それでよしとする。
だがどんどん増え続けている相手だ。
一体後何体倒せば良いのか。
連絡が入る。
菖蒲さんからだった。
燐火に対してではない。
コヨーテ対策をしている人員への全体メールである。
「敵をまとめて処理する方法を考案しました。 三日後に実施します」
「……本当にうまくいくのか?」
「信じるしかないよ」
ケルベロスが疑念を呈する。
まあ、それもそうである。
ケルベロスもトリックスターの厄介さについては触れていた。
ギリシャ神話のトリックスターといえばヘルメスだが、そのとにかく何をしでかすか分からない恐ろしさについても具体例をいくつか話してくれた。
ヘルメスはロキほど悪辣ではないようだが。
それでも、昔の神話らしい残虐な存在であるのだ。
家に戻る。
杏美の手が少しずつ掛からなくなってきているが、歩けるようになった分目を離してはいけない時間も増えている。
パンが顔になっているヒーローは相変わらず大好きだが、いずれさっと飽きる。
これについては、仕方がないことだ。
ただそれはまだ先だろう。
保育園から幼稚園くらいになると、今度は中学くらいの女の子が変身して戦うアニメを好むようになるらしいが。
それまでは、パンが顔のヒーローが、母親の負担を減らしてくれる偉大な子守なのだ。
このため、このヒーローはコンテンツビジネスで世界的に最上位層に食い込んでいるらしい。
ほぼ日本でしか知られていないのに、である。
ともかく、テレビの前できゃっきゃと騒いでいる。
ちなみにテレビ番組ではなく、今は配信のアニメチャンネルで見るのが普通だ。おかあさんが契約して、たまに一緒に杏美とみている。
杏美はまだ使い方がわからないので、みたいとせがんでくる事があって。
燐火もささっとそれに合わせる。
ちなみのこのヒーロー、普通の番組と映画ではまるで性質が異なり。
映画版は大人の観賞にも耐えるものがいくつもある。
それについては見ていて理解できたので、燐火も今は軽く見ていない。伊達にレジェンドオブレジェンドではないのだ。
おかあさんが食事の準備をしていたので、勉強をしながら杏美の様子を見る。
集中力を上げると、音がほぼ聞こえなくなる。
音楽を聴きながら勉強をする人間もいるらしいが、燐火は学んだ精神修養を生かして、一気に勉強するタイプだ。
雑音は全てシャットアウトする。
黙々と進めていく。
高校受験レベルの数学に入ったが、とにかく公式が大変だ。それに問題も色々やらなければならない。
やり方を知っていると解ける問題が多すぎるのだ。
素の状態で解ける人間がどれだけいるのか、極めて疑問である。
ただ、知っていればなるほどとなる。
知っている状態を試されている訳で、素の頭のできを試されている訳ではない。
つまり専門塾に行っている人間が圧倒的有利だ。
ある意味そういう点では、前に涼子が言っていた、科挙試験と同じだ。
勉強を進めてから、杏美の様子を見る。
疲れたようでおねむなので、ベッドをしいて其処で寝かせる。
すぐに寝付き始めた。
まあまだ幼いのだし、それでいい。
今はとにかく寝て起きて、それで育てばいい。
そのまま宿題も片付ける。コレに関しては、今やってる高校三年の範囲に比べたら楽も楽だ。
テキパキと片付けて終わり。
おかあさんが料理の下ごしらえを終わらせたので、杏美の面倒を代わってくれる。
外に出て、後はルーチンの鍛錬をこなす。
これも大分手際が良くなってきている。
体を完璧に使いこなす。
それが大事だ。
これ以上の武道をやるつもりはない。
少なくとも、杏美が手の掛かる間は厳しいだろう。ただルーチンを増やし、嫌でも積む実戦を通して、力を伸ばすしかない。
視線を感じた。
視線というのは殺気と同じで錯覚だが、五感を通して何かを察知したのは事実だ。
すっといる方に視線を向けると。
それは、コヨーテだった。
にやりと笑ったコヨーテは降りてくる。鉄パイプを即座に手にする燐火に、コヨーテは笑いかけてきた。
「気づくのはええなあ」
「すぐにアトゥエイさんが来ます。 逃がしもしませんよ」
「僕ちんもそれは承知の上だよ。 うへへへ。 この個体は捨ててもいい。 ただ守りの堅さを確かめておきたくてね」
「……」
間合いを計る。
既に相手の実力は分かっている。この個体は、燐火で充分相手に出来る。分裂しすぎてスカスカだが。
それは、そもそも最初から捨てるつもりで分裂してきたからだろう。
ダイモーンはこれは定期的に補給しているとみていい。
やはりフリッグ一派と緊密に連携しているのだ。
「子育てにも参加しながら、武の腕をまるで落としていない。 勉学も既に数年分は周りより進めている。 すごいねえ。 良い師匠がいるとしてもだ」
「そうですか、ありがとうございます。 それで?」
「こっちにこねえか?」
「お断りします」
即答。
こいつらのやってきた事を許すつもりはない。
特にフリッグの凶行は絶対に許せない。
悪神に堕落し果てていたとはいえ、あの所業は文字通り万死に値する。
それを背後から操っていた連中に、誰が加担するか。
「まあ聞けよ。 僕ちんが見るところ、君はスペックが高すぎて浮きに浮きまくってる。 ケルベロスの幸運に助けられている自覚はあるんだろ? 周りがゴミにしか見えていないだろ?」
「ケルベロスに助けられていますが、周りをゴミだなんて思ったことはありませんよ。 カスはいますけれど、それは全部ぶっ潰すので」
「おう、思った以上に戦闘的だねえ。 だが、ケルベロスがいなくなれば、君のやり方では周りは助けてくれなくなる。 元警官の母も、かばいきれなくなるんじゃないのかなー? それに本当の子供が出来た今、邪魔者扱いされるんじゃないのかなー?」
今、此奴は。
燐火の逆鱗に触れた。
即座に頭をたたき割る。
にやついてまだ喋ろうとしていたコヨーテは、想定外の早さと圧力に、抵抗も出来なかった。
ぎゃっと悲鳴を上げて、それで。
地面に転がり、脳漿をぶちまけた。其処を踏みつける。
ダイモーンも祓った後、徹底的にコヨーテに鉄パイプを振り下ろす。
コヨーテが悲鳴を上げる。
明確な恐怖が声に宿っていた。
今までと違う。
明らかに、本気で怯えている。
「一つ教えてあげますね。 燐火にとって今の両親は誇りです。 実の両親はただのゴミですし、どれだけ侮辱されてもどうでもいい。 ですが今の両親を侮辱する奴は、相手が総理大臣だろうと大統領だろうとどこに隠れていようといかなる手段を用いてでも探し出して殺します」
「ひっ! わ、わるか、わぐげぼっ!」
「貴方との和解はこれでなくなりましたね。 今後見かけ次第、徹底的に潰しますので」
しまったと、顔に書いているコヨーテ。
ほどなく車で来たアトゥエイさんが、即座に聖なる言葉で祓う。
凄まじい叩き潰され方を見て、流石に困惑していたが。
燐火の目を見て、大柄な男性であるアトゥエイさんすら一歩引いていた。
咳払いして、それでレポートは書く旨を言う。
アトゥエイさんも頷くと、さっさと帰って行った。
さて、ルーチンを終わらせて、次はレポートを仕上げて。
後は風呂に入って寝る。
恐らくだが、コヨーテ本体にも今の会話は伝わっている筈だ。
さっきの燐火への誘い。
恐らく本音だ。
燐火をどちらかと言えばダークサイドの者とみていた可能性がある。
そして説き伏せる自信があったのだろう。何しろたかが中一である。本来だったら、簡単に手のひらで転がせる。
そのはずだった。
だが燐火は。
コヨーテの想像を超える暴の持ち主だった。
それだけだ。
「燐火。 分かっていると思うが」
「どのみちあいつはそのままだと絶対に神社に祀ったとしても害を為すよ。 何かしらの手を入れないと駄目だろうね」
「そうだな。 それはある」
「あのコヨーテとは和解は不可能。 それだけ」
嘆息すると、風呂を上がる。
後は明日の準備、忘れている事などがないかをチェック。
前は随分ケルベロスがこの辺りを指示してくれたが、今ではもう全部自分で出来るようになっている。
問題はない。
淡々と全て終わらせて、寝ることにする。
レポートも書いて提出した。
まだ燐火も成長期だ。
今はしっかり食べて寝て。
それで体を成長させなければならなかった。
1、立場が変わる
環境が変わったからだろう。
巡さんが鋭い正拳をたたき込んでいた。まだ軽めだが、それでも以前とは雲泥である。何か燐火が言うこともない。
たまに来る八子さんにも、丁寧に指導を仰いで。
それを分析しては、細かく調整をしていた。
踏み込みも重心のかけ方も良くなっているし。
体幹もしっかりしてきている。
勉強についても、成績はぐんぐん上がっているようだ。
毒親が社会から放り出されて。
それでむしろ気が楽になった結果、成績が跳ね上がったらしい。
学問については、かなり小テストなどで成果を出しているらしく。
次の期末では、燐火に近い成績をたたき出すのではないかとまで噂されているようだった。
これは負けてはいられないな。
それに、である。
前は真面目清楚系なんて言われていた格好も少し変えてきている。
めがねも外していた。
化粧をしてくるようなことはないけれども。
それでも、多少格好が活動的になっているし。髪もかなりきったようだ。それで印象が粗野になったかというとそんなこともない。
活動的ではあるが。
ちゃんと気品がある。
皮肉な話だが。
元はエリートだった両親が、もっとちゃんと接していれば。馬鹿兄二人なんかよりも。巡は家を背負って立てる子になれていたのかもしれない。
まあ、節穴だったと言うことだ。
燐火としては、淡々とルーチンをこなす。
他人の努力に聞かれない限り干渉するつもりはない。
今はそれだけだ。
黙々と努力をしていると、組み手をする話になる。
燐火は部長とだが。
巡さんは小川先輩とだった。
軽く組み手をする。
部長はやはりのほほんとしている不思議な人だが、空手の技量だけだと燐火と同等以上だ。
他の武道を総動員すれば勝てる自信はあるが。
ここはあくまで空手の鍛錬とルーチンをこなす場所だと燐火は割り切っている。
部長に対して、空手以外の事をするつもりはない。
苛烈な応酬をする。
他の組み手がもう終わっているが、燐火と部長の組み手はまだまだ終わる気配も見えず、激しい攻防と間合いの読みあいが続いたが。
程なくして、部長の正拳が、綺麗に入っていた。
防ぎきれない。
燐火の負けである。
礼。
そろそろ部活の時間も終わりだ。
部長が汗を掻きながら、褒めてくれる。
「来年は小川がいるし、再来年は平坂がいる。 今まで無気力部活だったが、空手部はとてもいい部活になりそうだ」
「ありがとうございます」
「それと鈴山」
「はい」
姓は変わっていない。
鈴山一族で、同じ姓だからだ。
祖父母のところに移ってからも、巡さんの姓は変わらない。
ただ、巡さんは今後、結婚でもして姓を変えたいと思っているようだ。どうしても毒親と毒兄の影がちらつくから、かもしれなかった。
「空手はまだ続ける気はあるか」
「はい。 楽しくなってきました」
「それは良かった。 おまえが苦しみ続けて、やめようと思っていることは知っていた。 色々あったのを乗り越えて、それで考えを変えてくれて嬉しい。 再来年は平坂が部長だろうが、その時は副部長になってくれ。 きっと二人のコンビなら、この部活の熱量をもっと上げられる」
「分かりました。 必ず」
巡さんもぱっと頭を下げる。
ともかく時間だ。
皆切り上げる。
小川先輩が、巡さんも一緒に誘う。四人で帰るのは大人数である。相変わらず見た目が派手だので小川先輩を避けている奴もいるらしいが。
はっきりいって知ったことではないので。
それこそどうでも良かった。
日根見ちゃんはすっかり小川先輩になれた。
勿論「悪い影響」を受ける事もない。
言われているような悪辣な事をやっている人ではないし。噂には通じているが、女子の悪い癖である、グループの中ですら悪口をいうような存在でもない。
見た目の派手さと裏腹の、極めてまっとうな人だ。
真面目すぎるくらいである。
「そろそろ秋だねー」
「どんどん秋が短くなっていますけれど、それでもトンボはたくさん飛んでいますね。 最近色々な場所でトンボがたくさん見られるらしいですよ。 大型のトンボであるヤンマも増えている場所があるとか」
「おおー。 オニヤンマとかって奴だよね」
「ギンヤンマとか他にもいます」
トンボの説明をしている日根見ちゃん。
しばらくはおとなしくしていた巡さんだが。
聞いて良い、と日根見ちゃんにいい。
いくつか疑問だったらしい生物の話を聞く。
それに対して、即座に答えていく日根見ちゃん。よどみのない答えには、極めて高い説得力があった。
「そうだったんだね。 じゃあ犬のあの行動は……」
「犬の立ち小便は、自分の情報を撒いているの。 動物の排泄物には動物の情報が全部入っているから。 性別、年齢、大きさ、強さ、繁殖可能、病気、そういうの。 だから利用しているわけ」
動物と人間では常識なんてモノは一致しない。
そう日根見ちゃんが丁寧に説明して。
うんうんと頷く。
なんでも、ずっと色々な生態が気になっていたらしく、それですっきりしたようだった。
まあ、燐火もその辺りはケルベロスから聞いている。
話を聞きつつも、燐火は既に気づいていた。
ダイモーンだ。
それも、これは複合魔。
恐らくはコヨーテだろう。
まず巡さんが別れて、それから小川先輩、最後に日根見ちゃんとも別れる。
そして、さっと脇道にそれで着替える。
ささっと着替え終えると。
後は、突貫。
全速力で間を詰める。
ケルベロスが指示してくれる道を使う。
これは道を知っていても、どんなトラブルがあるか分からないからだ。
流石に燐火も、追跡などは気づけても、まだまだ五感の鋭さはケルベロスの足下にも及ばない。
それもあって、素直に指示に従う。
移動しながら、連絡をスマホで素早く受ける。
既にアトゥエイさんが交戦中のようだ。今、エヴァンジェリンさんも現地についたらしい。
ここ数日で、コヨーテの戦力はかなり削った。
恐らくだが、これでほぼ倒しきれる筈だ。
コヨーテはこの間、燐火の懐柔に失敗してから、明確にペースを崩している。また、SNSでの情報拡散が止まった。
公安がパターンを割り出し、それで一気にデマであるという情報を拡散仕返したらしいのだ。
公安に雇われている情報戦専門のインフルエンサーがいるらしく。
そういった人たちによる活躍らしかった。
ともかく。それはありがたく受け取り。現地に急ぐ。
現地に到着。
戦場は大分移動していて、市街地から、既に山の中に入り込んでいた。
矢が数本突き刺さったコヨーテ。
矢を構えているアトゥエイさん。ルーンを組んでいるエヴァンジェリンさん。
燐火が飛び込むと、毛を逆立てて威嚇していたコヨーテが、ひっと声を上げていた。
「く、くそっ! 力が入らねえ。 僕ちんの上を行ってくるなんて、ちょっと予想外だったよ!」
「この国は情報戦で散々今まで好き勝手されてきた過去がありますからね。 貴方程度の情報戦だったら、封じられるんですよ」
ちなみにこれは誇張だ。
燐火も公安と自衛隊と連携して動いているが、今回はデータセンタにいたコヨーテたちをまとめて倒したことが大きい。
そこで一度情報拡散がとまり。
その間に公安がどうにかパターンを分析。
インフルエンサーと連携して、コヨーテを潰しに掛かったらしい。
その結果、今まで倒しても倒しても湧いてきていたコヨーテは、一気に力を失ってしまった。
あれだけトリッキーな動きでこちらを翻弄していたのに。
今では明らかに余裕がない。
ちなみに、既に燐火からは話を通してある。
「今の」コヨーテは滅ぼす。
元々コヨーテはただのトリックスターであり、根っからの邪悪ではない。だから、完全に邪悪から切り離して、その別側面だけを生かす。
そうすることで、調伏が可能になる。
そうでない限りは、神社に祀るべきではないと。
実際に勧誘してきたことも正直に告げてある。
コヨーテというトリックスターの性質上、それが次善の策だ。
まともに相手の話を聞こうにも、詐欺師も同然。まただまされるだけなのだから。
「参った! 参ったよ! 僕ちんもここまで弱体化すると何も出来ないよ! ただの哀れなわんこだよ! 動物虐待はやめてよ!」
「天才たる私を食おうとしたくせに、良くも言えたものだな」
「それは戦いだから仕方がないだろ! 対魔特攻の変な技も持ってるみたいだったし、仕方が……」
振り返りざまに、鉄パイプ一閃。
襲いかかってきた分霊のコヨーテを粉砕する。
即座にアトゥエイさんも聖なる言葉をたたき込んで、消し飛ばしていた。燐火も聖印をしっかり打ち込み終える。
くだらない奇襲だ。
こんな手を取るほどに、追い詰められていると言うことだ。
明らかに震え上がるコヨーテ。
もう、トリックスターの面影はない。
ガンと鉄パイプで木を叩くと、ついに命乞いまで始めた。
「も、もう手札ないよ! 降参する!」
「嘘ですね。 貴方は弱体化して読みやすくなった。 残念ですけれど、うちに忍び寄っていた分身は、今始末したみたいです」
「……っ」
「年貢の納め時、という奴ですよ」
といっても通じないかもしれない。
実際エヴァンジェリンさんは小首をかしげていたし。
アトゥエイさんは、年貢とはなんだという視線を向けてきていた。
ともかく、三方向から囲む。
どうやら、本格的に追い詰められたと悟ったのだろう。
コヨーテは、毛を逆立てながら、全ての分身を集め始める。そして、見る間に膨れ上がっていった。
「トリックスター舐めんな! ロキだってラグナロクではヘイムダルと相打ちになるんだ! 僕ちんだって、北米神話で色々やってきたんだよ!」
「そうだな。 だから貴様の倒し方についても熟知はしている。 燐火よ、下がっていろ。 俺が倒す。 此奴はまだ分身をわずかに残していて、此奴の黒幕に戦いの経過を伝えるだろう。 これ以上、此奴に好きにさせる事はない」
「……っ」
アトゥエイさんが前に出ると。
体を柔軟にしならせ、コヨーテが破れかぶれの決死の攻撃に出た。
複雑な印を組むと、アトゥエイさんが鋭い一喝と同時に、今までにないほどの強烈な聖なる言葉を放っていた。
それで、コヨーテが前後から潰される。
地面に撃墜されたコヨーテが、ペラペラになっていた。
更に聖なる言葉での追撃。
燐火もダイモーンを祓っておく。
コヨーテが、たまらずまだ温存していた分身を集め始める。
それで更に復活しようとするが。
だが、其処に以前エヴァンジェリンさんが使った、対魔特攻のひもを展開。
それで、多数の頭を持つ巨大な犬になろうとしていたコヨーテを、一気に縛り上げていた。
もがくコヨーテに、弓矢をつがえるアトゥエイさん。
燐火は、見ているだけにする。
こいつは燐火を挑発する方法を間違った。
その結果が、これだ。
悲鳴を上げて逃げようとするコヨーテに。
鋭い矢の一撃が、容赦なくたたき込まれていた。
菖蒲さんが来る。
コヨーテが白く代わりつつあった。
その体が燃え始めているのを見て、菖蒲さんは小首をかわいらしくかしげる。アトゥエイさんが、聖なる言葉を続けているが。
燐火は一応、既に説明は聞いていた。
「トリックスターとしてのコヨーテを、文化英雄としてのコヨーテに切り替えているようです」
「ふむ?」
「北米でもコヨーテはトリックスターであると同時に、いくつかの部族では文化英雄だそうで。 中でも一部では、プロメテウスのような役割を果たしているそうです」
アトゥエイさんの消耗が激しい。
ちなみに、菖蒲さんが来る前に、エヴァンジェリンさんには年貢の説明をした。昔の貧しい農民にとって、年貢を納めることはとにかく恐ろしかったのだというと。なるほどとエヴァンジェリンさんも納得していた。
北欧は元々農作物に関しては豊かな土地ではなかったのだ。
ノルマンの民による凶猛な政治が終わり、一神教による支配が始まると、それはなおさら加速した。
農民は税金を納めるのに苦労したし。
そもそも欧州での貴族は残忍極まりなく、その強権性は日本の比ではなかった。
有名な連続殺人鬼エリザベートバートリーも、貴族だという理由だけで、大量殺人をしたにも関わらず死刑にはならず。
永久的に幽閉されただけ。
これだけでも、欧州の貴族が農民を人間だと見なしていなかったことがよく分かる。
日本の大名などには、秀吉を例に出すまでもなく、普通に農民や商人から成り上がったものが何名もいるし。
それどころか、一体何をしていた者なのかすら分からないものもいる。
戦国時代は少なくともそうだったし。
歴史の混乱期は更にその傾向が強かったのだ。
だからエヴァンジェリンさんは納得してくれた。
ましてや迫害される側のドルイドの文化を学んだエヴァンジェリンさんだったら、なおさら理解はしやすかったのだろう。
やがて、全身が燃え上がったコヨーテが、悲鳴を上げてもがき苦しむが。
エヴァンジェリンさんのルーンは容赦なくその全身を縛り上げる。
そして、程なくして。
其処には、炎を纏った白い獣が出現していた。
ただ他人をおちょくるだけのトリックスターではない。
文化英雄としてのコヨーテだった。
アトゥエイさんが膝をつく。
神々しい姿になったコヨーテは、それに対して、威厳のある声で応じてくる。
「私を忌々しい姿から解放してくれて礼を言う。 平坂燐火。 君にも大変な非礼をしたな」
「いえ。 今の貴方は正真正銘の文化英雄のようですね。 それならば、燐火が叩き潰す存在ではありません」
「すまないことだが、私の背後にいた存在については正体を言うことは出来ない。 だが、その存在は安易に想像できるものではない。 それだけは言っておこう」
「……」
やはりか。
そうなると、フェンリルではないのか。
スコルの暗躍からして、フェンリルの可能性が高いと思っていたのだが。もしも違うとなると。
一体何が暗躍しているのか。
ともかく、後は降伏を受け入れるというので、地鎮祭班に引き継ぐ。
文化英雄としての神であれば、祀ることは悪くないだろう。
どこに祀るかはちょっと判断に迷うところではあるが。
どこかの神社で合祀が現実的かもしれない。
日女さんが来て、それでいくつか話をしていた。
学問神として祀られている菅原道真と合祀するか、あるいは薬学などの神であるスクナヒコナと合祀するか、どちらかがいいということだった。
文化英雄となったコヨーテに異存はないらしい。
少しだけアトゥエイさんが懸念を示したが。
いずれにしても地鎮祭まで同行するということで、後は任せてしまっていいだろう。魔祓いどうしで連携して、魔を祓ったり、悪神を封印するのは良くある。専門のネゴシエーターも現在は存在している。
だから、燐火はそれには関与しない。
問題は。
今回も、スコルに、戦闘形態コヨーテにも使った光のひもをエヴァンジェリンさんが使った事。
これで、更に手の内が相手にばれたかもしれない。
完全に調伏されるまでは。
コヨーテは黒幕に情報を送っていた可能性が高い。
そう考えると、更にあの拘束ルーン。
何かしらの改良が必要かもしれなかった。
暗い洞窟の中。
邪神は舌打ちしていた。
コヨーテから得られた情報。最後に奴が送ってきた情報は、トリックスターとして存分なものであり。
本人が想定していた通りの活躍であった。
それは大いに満足するべきだが。
問題は、最大の懸念点である燐火の成長である。現時点で既に凄まじい潜在能力を手にしており、これは手足が伸びきる頃には確定でこの国のトップ層の魔祓いに並ぶ。
しかも、である。
少し上の世代にも何人か強いのがいる。
流石に現在第一線で活躍している魔祓いには及ばないが。
それも及ぶまで、そう時間がない。
今はケルベロスが与えている幸運が、かなり燐火を強化はしている。
だが、それだけでは説明がつかないのだ。
奴の執念はどこから来ている。
このままだと、明治時代での蜂起以来の失敗を経験しかねない。それは、極めて厄介な話だった。
考え込んでいる邪神に、銀の魔狼は笑う。
それも、とびきり性格が悪い笑みだった。
「考え込んでいるな」
「ああ。 私も何度となく敗れてきた身だ」
「それは俺も同じだ。 負けた回数はおまえより多いだろうな」
「お互い苦労してきたものだ。 それも今回で終わりにしたかったのだがな……」
乾いた笑いをあげ合う。
そして、黙り込んでいた。
周囲がびりびりと怒りに気圧される。
当たり前だ。
邪神も、魔獣も、凄まじい怒りを込めていた。
この平和ボケした時代だったら。
古くからの信仰を馬鹿にしておきながら、えせ科学だのの新しいカルトが平然と勃興している文化の空白期である今だったら。
ポリコレだのいう自由を歌う代物が、文化弾圧をしている今だったら。
それこそ、逆転の好機はあったのに。
これで魔祓いがもっと弱体化していれば。
それなのに、この国の一線級の魔祓いどもですらかなり手強い。
その上、まさかケルベロスとヘラクレスが切り札として準備してきたダイモーンの特攻能力を持つ燐火が、これほど成長しているとは。
ヘラクレスもまずい。
あいつが出てくると、今の邪神と魔狼では、二柱がかりで対処しなければならないだろうし。
それでも勝てるかは微妙だろう。
堕落した北欧の神々は眼中にない。
スコルが対処してしまうだろう。
トールを失った北欧の神々には、もはやこの国の神々に対抗する力は残されていない。
物語と現役信仰。
その力は歴然たる差があるのだ。
オーディンは耄碌してしまっているから、どんな破れかぶれの攻撃に出てくるか分からないが。
良くしたもので、もう日本神話の神々も仏教の天部や明王も動き出しているらしい。
この国はどちらにとってもとても居心地が良いらしく。
それで好き勝手には絶対にさせない。
そう考えているようだった。
「どうする。 一度引いて機会を諦めるか。 このままだとあと三年もあれば、燐火は手に負えなくなるぞ」
「逆に今しか好機はないということでもある……」
「しかしどうする。 燐火は幸運をケルベロスから授けられ、あれだけ好戦的な性格にもかかわらず周りの人間に恵まれている。 特に他文化圏の魔祓いと連携が綺麗にとれているのが厄介極まりない。 フリッグとの戦いでも、燐火だけだったら押し切れたはずだ」
「それは分かっているがな……」
気配がある。
それは、小さな気配だった。
「ご注進」
「なんだ」
「オーディンが動き出しました。 血迷って、どうやらこの国でも屈指の神社に麾下の戦力とともに直にしかける模様です」
「つぶし合ってくれれば面白いのだが、そうもいかないだろうな。 自棄になったあの老神と、物語に墜ちきった神々など、一ひねりにされるだけだ。 どうする」
どうもこうも、決まっている。
先に仕掛けて、肥やしにしてやるだけだ。
そう決めると、邪神は魔獣とともに動き出す。
オーディンは物語となっているから、今まで倒してきた北欧神格と同じく、殺しても数百年もあれば復活する。
だが具現化した状態で殺せば、それだけのダメージを受けると言うことも意味している。
しかも勉強不足なのだろう。
よりにもよって伊勢神宮に仕掛けるつもりのようだ。
あそこは人間どもの魔祓いがもっとも重点的に固めている場所だ。
理由としては、最高神がいるからではない。
国津の長が封じられているからだ。
国津の長を味方につけるつもり、ということはないだろう。
この国の信仰母体を破壊して、それで自身の力を誇示するつもりなのだろうが。そううまくいくはずがない。
だから、仕掛けて返り討ちにされるまえに。
さっさと倒して食らってしまうことにする。
即座に動く。
奥に捕らえてある迷子はそのままでいい。
どうせ、グレイプニルからは逃れられないのだから。
2、頂上決戦
強烈なダイモーンの気配ということで、燐火にも招集が掛かった。というか、この国の魔祓いのうち、一線級の人員はほぼ全員出るらしい。
燐火は自衛隊の車で急ぐ。
場所は静岡、富士山麓。
どうも西に移動中だった何かの神格を。
また別の神格が、其処で迎え撃ったらしかった。
富士の樹海で、既に戦闘が開始されている。
いわゆるスーパーセルに近い雷雲が発生しており、辺りには台風並みの風が吹き荒れているようだ。
近くの高速道路は閉鎖され、緊急事態宣言が出されている。
自衛隊が活動している中、燐火達は現地に到着していた。
確かにとんでもないダイモーンの気配だ。
しかも、また日本各地でダイモーン、それも雑魚ではないかなり強力なやつばらが闊歩している。
それもあって、ヘラクレスさんはそちらの対応に出ている。
ものすごい雨をジープで突っ切ると。
内部は驚くほど静かだった。
そこでは、既に壁が展開されている。
一神教系の魔祓い達が、総出で天使を出して、壁を作っている状態だ。燐火は公安の人に前に渡された身分証を見せて、内部に。
空には、光が飛び交っていた。
日女さんと菖蒲さん。それに林西さんと燐火は組む。あと、エヴァンジェリンさんが少し遅れてくる。
カトリイヌさんも来たがったが、壁を展開することが第一だと説得されて。しぶしぶ壁役に残った。
これは仕方がない。
明らかに複数の神格が交戦しているからだ。
富士の樹海はあまりいいイメージがない場所だが。
それでも、ここを穢すことは許されない。
黙々と奥へと急ぐ。
かなり早い段階で、倒れている神格を見つけた。
雄々しい男性の神格で、手には角を持っている。鹿の角だ。背丈は三メートル以上はあるだろう。
瀕死で、既に姿も消えかかっていた。
「に、日本の魔祓いか……」
「貴方は」
「私はフレイ……」
「……確かに特徴は一致しているな」
フレイ。
北欧神話でもっとも人気があった神の一柱。
最悪のビッチオブビッチとして名高いフレイヤの双子の兄である。
元々はヴァン神族だったのが、人質交換でアース神族に加わった経歴の持ち主なのだが。このヴァン神族という存在が、北欧神話でほぼ姿を見せない。そしてその正体は、ほぼ間違いなく霜の巨人……ヨトゥンヘイムの巨人達である。
フレイ自身が巨人族の女性を脅しも利用して無理矢理妻にした経歴があり、トールやロキも巨人族の妻を迎えていることもある。
巨人は知能がない残虐な敵などではなく。
実際にはアース神族と並ぶ、北欧におけるもう一つの神々の派閥だったのだ。
フレイは「絶対に勝利する剣」という最強の武器を持っていたのだが。
先述した巨人族の妻を迎えるときに手放してしまったため、ラグナロクでは鹿の角を武器に(なぜ鹿の角……)よりにもよって世界の神話でも最強の戦歴を誇る魔王スルトに戦いを挑み、文字通り鎧袖一触に倒されてしまう。
別に相手がスルトでなくても勝てなかっただろう。
勝利の剣を手放した状態のフレイなど、それだけ弱体化してしまっていたのだから。
「オーディンどのは、どんどん元から離れていく己を……恐れておられた。 自分が自分ではなくなると……」
「それで侵略か。 ノルマンの民らしい凶暴な信仰の果てだな」
「各地で神話は互いに侵略と涜神を繰り返してきた。 これ以上オーディンどのは、涜神されるのが嫌だったのだろう。 私も気持ちは分かる……」
「……」
せめて、苦しまないようにしてあげてほしい。
それだけいうと、フレイは消えていった。
遅れてついてきたエヴァンジェリンさんが、消えたフレイを見て、ルーンを切る。何かしらの浄化をしたのだろう。
勿論というか。
フレイはダイモーンを具現化に使っていなかった。
更に進む。
バラバラに食いちぎられたほとんど全裸の女体を発見。側には、砕かれた戦車(チャリオット)もあった。
これはもう、声を出すことも出来ないな。
これがフレイヤか。
設定的にはヴァルキリー達の長とされる事もある、北欧神話の女神。ビッチオブビッチ。
北欧神話のヴァルキリーは、英語読みでワルキューレとも呼ばれる。かっこいい存在と思われがちだが、実際には戦場で戦士の魂を回収する、いわゆる死神である。死神は殺しに来る神ではなくて、死んだものを迎えに来る神なのだ。
このヴァルキリーも設定がいい加減極まりなく、九人だったりもっと多かったり。運命の神々として知られるノルンの三女神。ウルズ、スクルズ、ヴェルザンディがヴァルキリーの一角だったりと。
ともかく設定が混乱している北欧神話らしい神格だと言える。
それらの長とされているフレイヤは、強烈すぎる性欲で悪名高いが。
この様子では、それでも誇り高く戦って敗れたのだろう。
少なくとも、フリッグのようなゲスとして戦ったようではない。
これも、エヴァンジェリンさんがルーンを切る。
「荒っぽい殺し方だ」
「天才たる私がみるに、多数でなぶり殺しにしているなこれは。 北欧系の魔だけだとは思えない。 かみ傷が、狼のものだけではない」
「急ぎましょう。 いずれにしても、この先は死地になります」
菖蒲さんにせかされる。
頷いて先に。
雷がドカンと落ちた。
スーパーセルの中だというのに、驚くほど静かだから、いきなりで少しだけ驚いた。空で、連続して雷が行き交っている。
走っていて、また誰か倒れているのに気づく。
これは。
角笛を持っていて、頭をかち割られていた。
「ヘイムダルだ……」
「わ、私の名を知っているのか」
「ラグナロクの始まりを告げる神だ。 ロキと相打ちになって倒れる」
「ふ……」
頭を割られていても、まだ少しだけ意識があるようだ。
すぐに楽にしてやると、エヴァンジェリンさんがルーンを切るが。ヘイムダルが警告してくる。
「そなたらこの国の魔祓いであるな。 敵はオーディン様以上の使い手が二柱。 そして、多数の眷属がいる。 我らも総力を挙げていたが、迎撃されてこの有様よ。 ウルなどの他の神々も既に殺された。 奴らは……オーディン様も殺すだろう」
「それについて俺たちが手を出すつもりはない。 オーディンはこの国の神々を殺し、乗っ取ろうとしていた侵略者だ」
「そうだな。 だがあの方は焦っておられたのだ。 北欧でも既に信仰は失われ、今やその存在はおまえ達が言うフリー素材に成り果てている。 どんどん自分がねじ曲げられていくその姿を、恐れない者はいるだろうか」
「……」
フリー素材扱いか。
確かにネットなどでもてあそばれて、実情と全く違う存在になってしまう者は燐火も知っている。
近年では実在の人間にすらそれをする場合がある。
それを思うと。
確かにそうされてしまう者の悲しみは、分からないでもない。
「君たちはまだ若い。 くれぐれも無駄に……命を散らす……」
それで事切れた。
ヘイムダルをルーンを切って祓ったエヴァンジェリンさんは、無言で数秒黙祷していた。
ここまでの一方的な戦い。
やはり二柱の片方は、北欧関係者だろう。
北欧の神々の弱点を知り尽くしているのだ。
とはいっても、物語として北欧の神々が知られている今。
その弱点など、誰でも知っていてしかるべきものなのかもしれないが。
ダイモーンだ。
それも、相当数が湧いている。
燐火の番だ。
聖印を切って、片っ端から祓う。悪運の浄化は菖蒲さんがやってくれる。道を切り開いていく。
奥では、激しい戦いが繰り広げられているようだが。
その余波だけで、雑多な神々……。北欧神話では下級の神をディースというのだが。それらが焼き尽くされているようだった。
本当にオーディンは総力を挙げてきたんだな。
西に向かっていたと言うことは、恐らく狙いは伊勢神宮だったのだろう。
トールが倒されていなければ、まだ勝機はあったのかもしれない。
だが、オーディンが時々耄碌したと罵られていたのを燐火は聞いている。
戦力の逐次投入の結果、トールだけじゃない。マグニやヴィーザルといった大駒を。更には乗騎であるスレイプニルまでオーディンは失った。
それもあって、もうオーディンに勝ち目はあるまい。
「! 伏せろ!」
ずっと黙っていた林西さんが叫ぶ。
それで、皆伏せた。
凄まじい雷撃が直撃したが、不動明王が壁になって防いでくれた。ただ、その体には。鋭い槍が突き刺さっていたが。
ぐうと不動明王が呻く。
これは恐らくだが、グングニルだ。
投擲すればあらゆる相手に必ず命中し、必ず殺す槍。
だが、不動明王は倒れていない。
恐らくだが、そもそもとして北欧神話で「投擲され敵を討ち取った」逸話がグングニルにないからかもしれない。
オーディンがただでさえ弱体化している今。
グングニルには既に必殺性が失われてしまっているのかもしれない。
ただ、それでも不動明王のダメージは深刻なようだ。
「林西さん!」
「わしは問題ない。 ここからは、神おろしで支援に回る。 菖蒲、指揮を執れ。 もう一線級の実力がおまえにはある」
「分かりました。 皆、急ぎましょう」
動揺している筈だ。
それでも、その様子を一切見せていない。
それだけでたいしたものである。
燐火も鉄パイプを握り直すと、辺りから集まってくるダイモーンを、片っ端から打ち倒していく。
混合魔はいない。
だとすると、こいつらは本当に時間稼ぎのためにばらまかれたのか。
あるいは戦闘の余波で飛び散ったのか。
そのいずれかなのだろう。
程なくして、戦場の最深部に到着。
日女さんが即応。
飛んできた人体を、蹴りはじいていた。
地面にたたきつけられたそれは、真っ黒に焼け焦げていて。既に消え始めていた。
エヴァンジェリンさんがルーンを切る。
奥にいる老人。
すっかり髪の毛もなくなり、真っ白なひげは乱れ。そして威厳すらも失って、膝をついて大きく息をついているそれが。
間違いない。
オーディンだ。
あそこまで、惨めになれるのか。
仮にも相手は最高神だぞ。
乗騎を失い、恐らくさっきのグングニルは何かしらの形ではじき返されたのが、誤爆したのだろう。
それがこちらに飛んできて、一番強い林西さんの不動明王を直撃した。
まだルーンで戦う意思はあるようだが。
既に周囲を守っていた神々は、全滅したようだった。
そして、オーディンと向かい合っているのは。
銀色の狼。
あれが、スコルの親玉か。
いや、まて。
なんだか妙だ。
そしてもう一柱。
古い日本風の髪型をしている、威厳のある男性。腰に帯びているのは、日本刀よりもずっとずっと古い剣だ。
あちらが恐らくは、もう一柱の黒幕。
気配が危険だ。
フリッグやフルーレティが子供以下にしか見えない。それくらいの、凄まじすぎる悪運を感じる。
取り込んでいるダイモーンの量も、次元違いのようだった。
「ほう。 ここまで来たか。 勇敢なことだ」
「貴方は? 私は平坂燐火といいます」
「……故合って今は名乗るわけにはいかん。 無礼を許したまえよ。 いずれ、相対した時に名乗らせて貰おう」
「俺も同じだ。 すまないな。 いずれ相対した時に、改めて名乗ろう」
意外に対応が丁寧だな。
菖蒲さんが前に出ると、咳払いする。
「それで、このお祭り騒ぎはなんの目的があってしているのかしら? 返答次第ではまとめて祓いますが」
「ふむ、流石にこの国の魔祓いは粒がそろっているな。 まあいい。 今、目的は達成された」
「!」
エヴァンジェリンさんが、地面に手をつき、ルーンを発動させる。
それで出来た壁が。
破裂したオーディンの血肉を防ぎきっていた。
これは。
ダイモーンに超高濃度で汚染されている。
恐らくだが、既にここに来たとき、オーディンはダイモーンをあまりにも膨大な量流し込まれていたのだ。
それで、拒絶反応を起こして破裂した。
即座に燐火が祓う。
悪運は、菖蒲さんが一喝して浄化していく。
それを見て、見事見事と、魔獣は笑う。
多少馬鹿にした笑い方だったが、それでも銀白の狼は、素直な賞賛も込めているようだった。
日女さんが一歩前に出る。
オーディンは死んだ。
後はこいつらだ。
燐火も鉄パイプを構える。他の皆も戦闘態勢に入る中、周囲に膨大な気配が出現していた。
狼だ。
それも、途方もない数である。
それで理解する。
フレイヤは、恐らくこれに一斉に襲われて、全身をずたずたに食いちぎられたのだ。配下にしていたヴァルキリーも、みな食い散らかされたのだろう。
だが、どれもスコルのような名のある狼だとは思えない。
雑多な狼の魔である。
それらが、一斉に銀白の狼に集結していく。
合体というのだろうか。
だが、それで巨大化することもない。
エヴァンジェリンさんが、問いかけていた。
「貴様、フェンリルではないな」
「ふっ。 どうしてそう思う」
「フェンリルであれば、オーディンに小細工などせず、神話通り食い殺してしまえば良かったはずだ」
「食い殺したさ。 さっきまでそこでへばっていたのは、食い残しの残骸にすぎん」
違うと、エヴァンジェリンさんはいう。
本来のフェンリルは、オーディンを文字通りひとのみにしてしまうのだ。
その後ヴィーザルに口を引き裂かれて殺される。
その経緯をエヴァンジェリンさんが説明すると、銀白の魔狼はくつくつと笑っていた。
「そうだな。 ドルイドの力を感じるが、すっかり迫害され信仰も絶えたドルイドの中に、まだ若い力が芽吹いているとは驚きだ。 ただ、残念ながらそれ止まりだ。 自身を天才とか思い込んでいまいか?」
「私は天才だ!」
「違うね。 おまえはそこにいる者達と同程度の才能しか持たない。 母集団が脆弱だから、比較してただ最強なだけだ。 自分をそう鼓舞して、力を引き出しているのだろう?」
「……っ」
これは、地雷を踏まれたか。
だが、エヴァンジェリンさんをかばうようにして、日女さんが前に出る。
「ごちゃごちゃうるせえんだよ犬っころが。 なんなら相手になってやる」
「勇ましいお嬢さんだ。 ここでやり合ってもいいのだが……」
「戦略的目標は達成した。 勝てる確率は極めて高いが、他にもまだまだ一線級の魔祓いがいるこの場所で、消耗するのは賢くない。 引かせて貰う」
次の瞬間、二柱は消え果てた。
後を追う余裕すらなかった。
林西さんが、ぐっしょりと冷や汗を掻いている。
この人が、それほど冷や汗を掻くほどの相手、ということだ。
菖蒲さんも余裕があったようには見えない。
どうやら、一柱ずつですら、勝てるか全く分からないほどの相手であったようだ。燐火も凄まじい力を感じてはいたが。
ただそれでも、この国の魔祓いが総出で来ている今の状況だと。
あの二柱も、危なかったのかもしれない。
座り込む林西さん。
大きなため息をついていた。
「修行がまだ足りんな」
「とりあえずダイモーンを片付けます」
「燐火ちゃん、余力はありそう?」
「余裕です。 どんどん回してください」
スーパーセルが晴れ始めている。
すぐに菖蒲さんが軍用無線で連絡。既に敵は撤退。これからやるのは掃討戦だと。ダイモーンを片っ端から片付けるので、押さえ込んで持ってきてほしいと。
燐火も日女さんと連携して、ダイモーンを片付けて回る。
浄化は日女さんに頼む。
とにかくとんでもない数のダイモーンがいる。
それらを片付けるまでは、ここから帰ることは出来そうにもなかった。
一通りダイモーンを片付けた後、帰りながら連絡をする。
グロッキーになっていたエヴァンジェリンさんが、話してくる。
「燐火、後でふぁみれすにいこう。 お姉さんがおごってやるぞ」
「それはありがとうございます。 しかし年齢確認とかされませんか」
「ちょっとまえに自動車免許を取った。 外国人だと簡単にとれるとか言う話があるが、天才たる私はきちんと日本語で受けて日本の免許を取ってきたぞ」
「それは凄いですね」
自動車免許の話は菖蒲さんに聞いたが、ペーパー試験は引っかけ問題というのも生やさしい性格が悪い問題だらけで、とても全うに答えていては突破は出来ない代物なのだという。
それを日本語で受けて取ったのなら、たいしたものだ。
とりあえず最寄り駅付近まで自衛隊の車で送って貰った後。
近場のファミレスに行く。
店員にエヴァンジェリンさんが運転免許を見せる。
実に自慢げだったが。
やはりどう見ても小学生くらいに見えるのか。店員が困惑していた。むしろ燐火が高校生くらいではないかというような視線を向けられたが。
まだこちらは中一である。
ともかく席に通されて、パフェを満面の笑みで食べ始めるエヴァンジェリンさん。
今回はレポートを林西さんが直に書くらしいので、それは任せてしまう。
北欧神話の神々の壊滅。
これで厄介な第三勢力はいなくなった。
だが、それでも。
あの二柱の圧倒的な力。
これからの戦況が楽になるとはとても思えなかった。
それに、頭をとにかく酷使したのだ。パフェくらいは、まあいいだろう。燐火も紅茶をいただく。
一応、家にはもうすぐ帰ることをメールで入れてある。
時々遠出することを、少なくともおとうさんもおかあさんも不可解だとは思ってはいないようだった。
パフェを食べ終えると。
エヴァンジェリンさんはハンカチで丁寧に口周りを拭きながら。一息ついたようだった。
それで、話してくれる。
「あいつ、フェンリルではないな」
「やはりそうなんですね」
「ああ。 日本神話系の神の方は、恐らくは正体が分かった。 だが、もう少し情報が必要だろう」
「……」
燐火も実は、あちらの方は心当たりがついている。あらゆる状況証拠が、正体を指し示しているのだ。
それはそれとして、問題は狼の方だ。
スコルが展開した極めて狡猾な戦略と戦術は、北欧神話系の神々を次々に屠り去り、オーディンをあの自暴自棄の総攻撃に引っ張り出した上。
あっさり討ち取ることに成功した。
もしトールが直営についていたら、全く結果は違うものとなった可能性すらあるが。
その可能性をなくした上での、鮮やかな勝利だったと言えるだろう。
問題は、あれが。
これから人間に向けられると言うことだ。
競合していた相手を潰した。
背後の憂いをなくすため。
ただ、それだけが目的だったとみていい。
少なくとも、あの古代日本の邪神と銀白の狼は、人間の味方ではない。
「ただ分からない事も多い。 奴の麾下……ウェウェコヨトル、ドゥン、コヨーテ。 いずれもが、こちらへの降伏を前提とした動きをしていた」
「それもちょっと不可解ですね」
「天才たる私は……」
それで、さっき狼に言われた言葉を思い出したのかもしれない。
しばらく口をつぐんでから、エヴァンジェリンさんは咳払いした。
「天才たる私は察知した。 降伏を前提としていた連中は、あの銀白狼と、同じ気配があったのだ」
「それは、本当ですか」
「間違いない。 あれは恐らくだが……」
エヴァンジェリンさんは、しばし黙った後、結論を述べる。
それは、恐るべき結論だった。
「あれ自体が複合魔だ」
3、懸念の先に
二学期もそろそろ終わる。
この時期になると、部活の三年生は既に部活を切り上げている。高校だと既に三年がいない場合もある。
引き継ぎが行われていて。
小川先輩が、部長がやるべきことを次々に仕込まれているようだった。
部長は来年から、高校での空手部が楽しみらしい。
まあそれはそうだろう。
八子さんが親族にいる。
そして高校生になると、あまり大人と体格も代わらなくなってくる。うまくすると、大学生などと組み手出来るかもしれない。
それはとても面白い事なのだろうと思う。
空手が好きであるのなら、だ。
燐火は黙々と的の調整をしたり、ルーチンを部活でこなす。
昔の部活みたいに、一年は延々と球拾いだけとか、雑用だけとか、そういう馬鹿みたいな事をやらせた挙げ句。
社会に出たときの訓練がーとか抜かして、子供の大事な時間を棒に振らせるような部活は既に存在が許されていない。
そういった部活が実際に性犯罪などを起こしまくって、社会問題になったという事も理由としてはある。
国が重い腰を上げて、やっと改革をしてくれたのだ。
良くしたもので、それで地獄のようだった教師達の負担も相当に減ったらしい。更に雇用も創出されたようだから、良いことだらけだったのだ。
ルーチンをこなして、それで終わり。
小川先輩もだいたい引き継ぎは終わったようだ。
ただ、やはり悪評は絶えない。
部活に男がいるとか。
パパ活しているとか。
そういう心ない噂を流している輩はどうしてもいるのだが。
燐火が側にいることもあって、下手に手を出せないらしい。
燐火の噂は飛び火していて、半グレも燐火の名を聞くと恐れて逃げるだとか。反社の人間が怯えて土下座したとか、そんな話が出回っている。
それもあって、燐火の側にいるというだけで恐れられる状態だが。
逆にそのおかげか。
日根見ちゃんとかは、非常にのびのびとやれているし。
真面目清楚系とか言われて、変な目で見られていた鈴山さんも。燐火と一緒に帰っているのを目撃されてからというもの。
下心丸出しの男子が明確に近寄ってこなくなったらしく。
非常に快適になったそうだ。
ともかく、である。
部活は極めて快適に終わったので、後は家に戻る。ちなみに期末試験はまたほぼ満点だった。
ミスはケアレスミスだけ。
今の時点では、難癖をつけて点数を下げてくるようなアホ教師もいない。
杏美がどんどん歩くようになってきて、手が掛からなくなり始めていることもある。ただ、歩けるようになってくると。
今度は交通事故とかが怖い。
まだ外にデビューするのは早い。
おかあさんが、落ちているものを絶対に口に入れてはいけないと、徹底的に仕込んでいる。
言葉がある程度理解できるようになってきたので、杏美はたまにすねながらも、ちゃんと話は聞いている。
だが、外に出ると子供は悪いことから優先して覚えていく。
それもあって、自由をきちんと認めながらも。
色々と気をつけなければならないのも、事実だった。
おかあさんの体の方も、だいぶ回復してきたようである。最近ではまた鍛錬をよく見てくれるようになった。
まだまだ細かいところで修正がいる。
ケルベロスが、おかあさんが見てくれたあと、どういう風に修正すれば良いかを細かく追加でアドバイスしてくれるので、非常に助かる。
まだ背が伸びている事もある。
プロフェッショナルによるアドバイスはありがたかった。
取り合えず、竹刀を振るっていると。
ケルベロスが言う。
「時に燐火」
「うん」
「エヴァンジェリンが言っていたこと、覚えているな」
「相手は複合魔だって話だったね。 ひょっとすると、ウェウェコヨトル、ドゥン、コヨーテ、全てあいつから分離された存在なのかもしれない」
その通りだとケルベロスは言う。
更にだ。
今まで見た魔。
ガルムや。
あるいはスコルもそうかもしれないとケルベロスは言う。
さらっと言われたが。
もしそうだとすると、それらの神話的特性があらかた詰まっていることになる。手強いとかそういう次元の相手ではないだろう。
倒せるのか。
しかし、疑念もある。
それほどに強大な魔であるのだとすれば。
どうしてもっと真正面から攻めてこないのか。
奴は大量のダイモーンを取り込んでいた。それは間近で見て確認した。日本神話系の邪神もそれは同じだった。
ダイモーンなど。それほど強大な魔が必要とするか。
そもそも、目的がオーディンと同じだとするのであれば、だが。
もしも同じだった場合は、この国であがめられるようになる事を目的としているのかもしれない。
あれほどの様々な魔を取り込んでいた体だ。
何かしらの形で、あっさりあがめられる側に回ることは出来るはずだ。
そもそも仏教も、道教由来の神も、本来は外来種だ。
だが日本では問題もなく受け入れられている。
そういう懐の深い国で、そもそも争ってまで何かをする意味があるのか。競合していたにしても、オーディン一派を殲滅したのには、何か理由があったのではないのか。
ただ、その理由は。
恐らくだが、人間に対して良いものではないだろうとも燐火は思うのだが。
「嫌な気配は実はあのとき俺も感じてな」
「どんな気配?」
「俺だ」
「!」
恐らくだが、悪魔化されたケルベロス。
ダンテの神曲などに登場する、「地獄の番犬」という後で歪曲されたイメージ。それが、あの銀白の狼にはあったという。
だとすると。
今後は、下手をするとケルベロス……悪魔化した……それと戦わなければならない可能性すらあるのか。
ちょっとそれはぞっとしない。
しばらくルーチンを黙々とこなす。
それを終えてから、話す。
今は精神を落ち着かせた方が良いからだ。鍛錬を終えたあと、心を静かにして話すべきである。
「相手が悪魔化されたケルベロスだとして、何かまずい点はある?」
「俺が相手になっている場合は、ガルムやヘルハウンドと同一視されている可能性がある」
「ガルムは北欧神話の地獄の番犬だったよね」
「正確には「ヘル」のな。 地獄の語源となった場所だ」
ヘル。
ロキのこの一人であるヘルが支配する冥界。
基本的に勇敢な戦士以外は其処に落ちるとされる場所で、北欧神話の地獄に相当する。北欧神話では価値観が極めて脳筋で、勇敢な戦士が戦場で死ぬと天国であるバルハラに、それ以外は全部ヘルに落ちる。
ヘルはそういう意味で、地獄ではあるのだが。
バルハラがスポーツとして延々と戦士達が殺し合いを続け、死んでも復活し。その果てにはラグナロクにかり出され、それで全滅するというはっきりいって世界の神話でも一番行きたくない天国の一つであるため。
他に選択肢はないのかと色々考え込んでしまう話だ。
「ガルムは凶暴な地獄の番犬で、俺とは違う。 ラグナロクの際にはテュールと相打ちになって倒れるほどの凶悪な魔だ」
「ヘルハウンドは?」
「もう少し後の時代に考案された存在だ。 当時は悪魔として考えられていたギリシャ神話のへカーテ神の眷属だな。 へカーテ神はギリシャ神話の冥界のNo3だが、魔女信仰と結びつけられて悪魔化された経緯がある。 実際には欧州に存在していた魔女信仰というのは、本来土着の神であったハッグ神などを中心とした神々を信仰するもので、ギリシャのへカーテ神とはなんら関係もなかったのだがな」
「一神教にとってはどうでも良かったんだねその辺の神話的事情は」
その通りだとケルベロスは言って。
それで不機嫌そうになった。
いずれにしても、へカーテの眷属の犬たちは別に邪悪な存在でもなんでもないそうである。
元々へカーテそのものが、ギリシャ神話よりも更に古い神話の神々をベースにしているそうであり。
一神教が適当にレッテルを貼って貶めたことを、ケルベロスは良く思っていないらしい。
そもそも冥界のNO3という話だから、身内をけなされているようで面白くはないのだろう。
「そもそもヘルハウンドなどという呼び方が気に食わん。 ヘルは北欧神話の地獄であって、ギリシャ神話とは関係がない。 適当な名前をでっち上げおって……」
「とりあえず、それらの要素が混じった相手の可能性が高いとみて良いとすると、悪魔の一種と判断するべきかな」
「そうだな。 あの愉快なカトリイヌらが特攻となるだろう」
「これで一つ弱点はとれる、と」
問題は、あの銀白の狼が複合魔だということだ。
まだ多数の「獣」が混じり込んでいる可能性が高い。
ケルベロスに、いくつか思い当たる気配があった事を聞かされる。その中には、スキュラのものもあったという。
スキュラとは何か。
確認すると、丁寧にケルベロスは教えてくれた。
「いくつか逸話があるのだが。 スキュラは元は美しいニンフ(ギリシャ神話の妖精)でな。 其処をグラウコスという神に見初められた。 だがグラウコスがあまりにも醜かったため、スキュラは逃げ出してしまう。 グラウコスは困り果ててキルケーという魔女に惚れ薬の作成を頼むのだが。 キルケーはグラウコスに恋慕していたのだ」
「ドロドロだね」
「ああ。 その上スキュラーが水浴びをする泉に、グラウコスはキルケーから貰った「惚れ薬」を入れた。 結果、スキュラは下半身が複数の犬が融合した怪物に変化してしまった。 そしてその姿を見たスキュラは発狂し、人々を襲う怪物となってしまった。 一説には、沖合に住まう巨大な頭足類がモデルにもなっているそうだ」
それは酷い話だ。
完全にとばっちりの上に、スキュラにはなんら罪がない。
ただ魔と化しているのであれば。
人を襲う前に倒さなければならないだろう。
悲しい話ではあるが。
「スキュラを元のニンフに戻してあげることはできないの?」
「案外優しいな」
「いや、燐火は悪党以外にはそれほど暴力的に振る舞うつもりはないけれど」
「……今の時点では、聖印をたたき込んで無力化するしかない。 スキュラほどの魔だと厄介だが、それでも今の燐火だったら、強力なダイモーンと同程度の消耗で倒せるはずだ」
話を聞く限り、人々を襲う魔と化しているスキュラだ。
倒すしかないだろう。
とばっちりで怪物にされてしまったとしても、である。
酷い話ではあると、燐火も思った。
それから、更にいくつか話をしておく。
家に戻り、風呂で汗を流して。夕食を取る間にも、ケルベロスと心中で色々と会話をしていた。
杏美はまだあまり堅いものを食べさせる訳にはいかないので。話は途切れ途切れにはなるが。
またこのくらいの年から苦手な食い物が出てくる事もある。
そういうのも、できるだけ克服させた方が良いだろう。ピーマンやトマト、にんじんなんかも上手に克服できれば、後の食生活が豊かになる。
ちなみに燐火は食べ物はなんでも平気だ。
というか、平坂家にくるまでまともな食事なんてほぼしていなかった。
後から聞いたのだが、あの金木家に支配されていた街の学校では、給食業者がいわゆる中抜きをしていたらしい。
それも金木家が吸い上げていたそうだ。
その結果、金木家の人間にだけ豪華な給食が出て。
他の生徒は残飯同然のものを食べさせられ。
それに文句すら言えない環境が作られていた。
この業者は金木家の破綻と会社の倒産にともなってこれらのスキャンダルが流出し、関係者が多数逮捕されたそうだが。
そういうこともある。
平坂家にくるまでに食ったものを考えれば、ここで食べられるものは何でも大変においしい。
ただ、それはそれで。
燐火は食にあまりこだわりはなかったが。
寝る前に宿題を確認して、終わっているのをチェック。
後は寝る。
寝る前に思考するのはやめておけとケルベロスに言われているのでそうしている。比較的眠れる方だが。
今でも悪夢は見る。
ただ、今は。
悪夢の中で、延々と戦い続けている事が多い。
相手は金木家の人間で。全部鉄パイプで殴り殺しても立ち上がってくる。それを延々と殺し続ける。
どれだけ磨き抜いた太刀筋でも、鍛えた技を打ち込んでも。
殺しても殺しても起き上がってくる。
恐怖は感じない。
ただひたすら徒労感がある。
起きると、汗を掻いている事もある。そういうときは、ケルベロスが酷い夢を見たな、とだけ言ってくれる。
それだけで、大分気分が楽だった。
二学期が終わって、短い休みに入る。
三学期はすぐに終わるので、一年もそろそろ終わりか。
そういえば、一年になってすぐにぶちのめしたあのボクシング部に入れられた亀野。
腕のリハビリが終わった後、すっかり人間が代わったようになって。それまで塞ぎ込んでいたのを、ちゃんと今まで自分が痛めつけた相手に、自主的に謝りに回っていったらしい。以前祖父と一緒に謝りに回ったときは、反省していなかった。そう自省して、改めて殴られるのも覚悟の上で全員に謝りに行ったそうだ。直接暴力を振るっていなかった相手にも、謝りに回ったそうである。
燐火のところにも謝りに来た。
別人のように変わっていて驚いた。
その後は、ボクシングに極めて真面目に取り組んでいるそうである。
カスだった。
燐火がぶちのめした時は。
だが、それから更生できた。
それはとても良いことなのだろう。
勿論それからも警戒は解いてはいないが。それはそれとして、もしも更生したのなら。少し考えを改めなければならないかもしれなかった。
カスも更生できるというのは、あるのかもしれないと。
短めの休みだが、その間にダイモーンを片っ端から片付ける。
あの北欧神話の神々の壊滅以降、獣の魔は姿を見せていない。だが、あいつは。銀白の狼は。
明確に燐火を敵視しているとみて良い。
話しているときは、それほど意識している様子はなかったが。
後でケルベロスに、明確に意識していたと言われて。それでぞくりと来たのである。
あいつはまだ燐火が単騎で対処できる相手ではない。
話は嘘ではなかった。
コヨーテがとんでもなく強いと言っていたが、話通りである。問題は、その後どう動いてくるか、だが。
鍛錬をしていると、日女さんから連絡が来る。
「急いできてくれるか」
「分かりました。 複合魔ですか」
「ああ。 それも林西さんの寺に直に来やがった。 今、林西さんと菖蒲さんが応戦中だ。 下手をすると死者が出る。 急いでくれ」
即座に飛び出す。
連絡が他からも来る。
涼子からだった。
涼子の家からは、林西さんの寺が見えるのだが。そちらで大きな音がしたそうである。ドゴンと、何か崩れたかのような音であったらしい。
これはまずいな。
燐火はそう判断して、全力で現場に急ぐ。
公安の迎えは間に合わないだろう。走った方が早い。
今日は着替えている余裕もないな。
そう思いながら、全力で疾走する。
途中で繁華街を走り抜ける。ケルベロスが道をナビしてくれるが、かなり個性的なルートを用意してくれる。
壁を蹴って跳び、たむろしていた不良を飛び越えて行く。
呆然としていた不良どもが、燐火を見てひっと声を上げていた。恐らく以前燐火にぶちのめされた連中だろう。
逃げ出したようだが、どうでもいいので放っておく。
興味もない。
そのまま走る。
音が聞こえてきた。戦闘音だ。
林西さんと菖蒲さんがいる寺に直に仕掛けてくるとは、凄まじい。勝つ自信があって来たのか、それとも。
走ってきた日女さんと合流。
「エヴァンジェリンさんとカトリイヌさんは!」
「これから合流する!」
「分かりました!」
既に公安が出て、自衛隊も動いている。周囲から人を遠ざけているようだ。
バリケードの中に、身分証を見せて入る。
ここまで走ってきたが。
戦いに支障が出るほど消耗はしていない。
ただ、問題なのは。
この気配、ちょっと大きい。
林西さんと菖蒲さんが二人がかりで戦闘して、まだ倒せていない訳だ。それも納得の気配である。
全力で神おろしした日女さんと一緒に、現場に乗り込む。
そこでは、二体の明王と、巨大な……なんだろう。よく分からないものが、対峙していた。
「思ったより早かったな。 この国でも一線級の魔祓い二人の実力を直接確認しておきたかった。 おまえ達の実力も見ておきたい。 ああ、名乗っておこう。 俺の名は、黒い犬とでも呼んでくれ」
「ヘルハウンドとも呼ばれる存在ですね」
「おや、勉強しているではないか」
「林西さん、菖蒲さん、日女さん。 抑え込んでください。 対応します」
此奴自身は英国起源らしいのだが。
そもそもへカーテ神の眷属として作り上げられた存在だ。
もやもやだが、動くのを見ると若干犬らしいのが分かる。
ケルベロスが、不可解だとぼやくが。
菖蒲さんと林西さんが総力で抑えこみに掛かるのを、するりするりとあざ笑うように抜け。
それでいながら、日女さんの猛攻を片手間にいなしている。
魔女の手下の黒犬。
その程度にしては、強すぎる。
明王は別宗教の神格との交戦を想定した神々だ。それがこうも押されるとは。今も林西さんが冷や汗を掻き、菖蒲さんが全く余裕がない様子で立ち回っている状況だ。
日女さんが、振るわれた鞭みたいな尻尾をつかんで、押さえ込みに掛かるが。
メリメリと、凄まじい音がする。
八幡神の加護を受けているにもかかわらず、押さえ込むだけで筋肉が悲鳴を上げているのだ。
聖印を連続してたたき込む。
たたき込む度に、ダメージは確実に入っている。
それは分かる。
だが、そこからがおかしい。
どうも本丸に届いていないというか。ケルベロスも気づいているようだ。
「軽い。 ブラックドッグそのものは恐らく一神教系の魔祓いが来ないと対応できないだろうが、それにしてもダイモーンやへカーテ神の配下という点ではダメージが入る筈だ。 異常なこの実力といい、おかしすぎる」
「連続して聖印を切っていく」
「ああ、徹底的にたたき込め」
既に数十回、聖印を打ち込んでいる。
その間も明王を体に下ろした林西さんが、凄まじい打撃を連続して黒犬にたたき込む。だが、その全てをいなしながら、菖蒲さんの愛染明王の連続斬撃を綺麗に回避する黒犬。
逃れた先に飛び込んだ日女さんが、しなりをいれて回し蹴りを入れる。
勿論神おろし込みのものだ。
直撃すれば、アフリカ象が一撃で砕け散るほどの代物だが。
それを受け手も、もやもやが少し薄れてきた黒犬が、明らかににやりとしたのが分かった。
まずい。
押し切られる。
その時、場に複数の目を持つ異形の天使が飛び込んでくる。
お出ましだ。やっと来てくれたか。
「Amen!」
異形の天使、ソロネによる光の一撃。それが、真上から黒犬を押さえつける。
しかも二体がかりだ。
更に、天秤を持った天使。
ドミニオンが、剣を抜き、突貫。
黒犬に切りつける。
カトリイヌさんと護衛二人の到着である。そして文化圏的に一致する。特攻効果が入る筈だ。
流石にこれは、ダメージになる。全力で押し込まれる黒犬だが。
なんと、押し返し始める。
「くっくっく、だいたい力は分かった。 今までの威力偵察で把握した力で間違いないな。 後は成長曲線も含めれば、充分に対応できそうだ」
「まずい! 壁に切り替えて!」
日女さんが飛び退き、カトリイヌさん達が壁を展開する。林西さんと菖蒲さんも、同じく。
直後、寺の一部が、消し飛んでいた。
爆発を壁で押さえ込んだから、爆風は全部上に逃げた。だが、これは。寺は全部直さないといけないだろう。
消えていくのは、黒犬の気配。
黒犬は、今ので仕留めた。
だが、明らかに笑っている声がする。それが、消えていく。
「お遊びはここまでだ。 これからは本格的に活動を開始する! 俺の正体も含め、止められるものなら止めてみるがいい! 俺はフリッグのようなあばずれの半端物や、フルーレティのような小僧めとは違うぞ。 おまえ達は優れた戦士であり、全員が集まれば危険であることは把握できた! だが、そこまでだ! ここから俺に手を出せば、その時は死が待つと知れ!」
「人の家を吹き飛ばしておいて、言いたい放題言ってくれるね」
がれきを押しのけて立ち上がり。
菖蒲さんが、埃を払いつつ言った。
日女さんはへたり込むと、限界だとぼやく。
流石に現状の戦力では、日女さんもこれ以上の神おろしは無理だろう。
燐火もあれを相手に、肉弾戦で勝つ自信はない。
実力がついてきた。
だから相手の実力は分かるのだ。
これは、より一層の鍛錬がいる。
そう燐火は思った。
消防が来て、それで寺の「事故」が爆発事故として報じられる。ガスが原因とされたが、流石にキノコ雲まで上がった状態では無理がある。
どこかの国のミサイル攻撃ではないかとかいう陰謀論まで上がったが。それはそれで無理がある。
現在国際状況は極めてよろしくない。
大国同士が一触即発の状態だ。
実際、いくつかの文化圏の魔祓いは、相互交流が絶えているし。例えばいくつかの文化圏の魔祓いは、帰化している人間が呼ばれている。
国に戻ったら殺されるからだ。
ともかく、燐火は杏美の世話をしながら、考え込む。
黒犬……ブラックドッグ、そしてヘルハウンドとも言われる存在。
それと戦ってみて、分かった事がある。
あの中には、確かに気配があったのだ。
スコルの。
だとすると、敵は想像以上に危険なのかもしれない。
「ケルベロス、燐火の意見を言うね」
「ああ」
「今までスコルだと思っていた存在が、敵の本丸なんじゃないのかな」
「……俺も同じ意見だ。 あのスコルは、恐らくは表に出してもっとも効率的に動ける姿、なのだろう。 黒犬の姿を失っても平然としていたあの様子。 更には悪魔化された俺も内部に存在していたようだった。 だとすれば……」
相手は。
食肉目。まあ犬猫熊などが属している分類だが。
それらの魔の集合体なのではあるまいか。
だとすると、ウェウェコヨトルやドゥン、更にはコヨーテは、そこから切り離されたのかもしれない。
しかし、どうしてそういった存在が集合体になったのか。
恐らく食肉目の魔として最強なのはフェンリルだろう。
それについては異論の予知がない。
神々が総出でも押さえつけるのがやっとであり、最終的にラグナロクではオーディンを手もなく食い殺してしまうのだから。
「ちょっと強大すぎない?」
「いや、それにしては感じる力が弱すぎた。 はっきりいって、もしもフェンリルが中核にいるのなら、あの程度では済まなかったはずだ。 全世界の魔祓いが結集しても勝てるかどうかという相手だっただろう」
「だとすると、あれはなんなんだろう」
「分析を進めなければならないな。 日根見が言っていただろう」
そうだ。
正確な姿を知るには、正確な分析がいるんだ。
例えばペンギンだが。
骨格だけを見ると、とてもペンギンだとは思えない。
それくらい、荒々しく恐ろしい姿の骨格なのだ。
だが、我々はペンギンという動物を知っている。
ただ、地上ではよちよち歩いているか弱い鳥、というのは大嘘だ。ペンギンの翼は泳ぐのに特化しており、パワーも凄まじい。
大型種のペンギンになると、あの翼で叩かれると人間の骨くらいは簡単に折れるくらいのパワーがある。
また水中では凄まじい速度で泳ぎ回り、陸上での非力さが嘘のようである。
つまり、ペンギンという生物を、みためだけでか弱い存在と決めつけるのは間違っているし。
骨格から見て凶悪な化け物と決めつけるのも間違っている。
日根見ちゃんは生き生きと毎日新しい情報を手に入れていて、面白いと思ったデータはこちらに共有してくれている。
それで燐火も知識が増える。
無駄な知識なんて一つもない。
そう考えているから、燐火はあらゆる情報を、いつも新鮮に取り入れることが出来るし。それでどんどん出来ることも増える。
他の子がショート動画とかで暇つぶししている間に。
燐火はどんどん先に進んでいるのだ。
ただ、それでもなお。
まだ非力すぎると思う。
特に今回は相手が悪すぎるのだ。
それに、である。
もう一体の邪神。
あれは下手をするとフェンリル以上かもしれない。
日本神話の神々、特に天津神は。基本的にあらゆる戦いに勝っている。戦勝という観点では、これ以上勝利を重ねている神々は珍しい。内部分裂も起こしていない。天照大神と素戔嗚尊の諍いくらいだが、それも最終的には圧倒的な結果で天照大神がねじ伏せている。それくらい天津神は強いのだ。
だが、あの邪神がもしも想定している存在だとすると。
その強力な神々に、数少ない土をつけた相手になってくる。
もしもそうだとすると。
この国の魔祓いが、ずっと祓えず苦戦してきた相手、ということだ。
それほどに強大な相手だと判断して良いだろう。
「燐火。 楽観は甘えだが、悲観はそれはそれで良くない。 重要なのは客観だ」
「うん。 孫子の言葉だね」
「そうだ。 彼を知り己を知れば百戦危うからずや。 これを紀元前に唱えていたのだから、凄まじい軍略家だな。 クラウゼヴィッツがごく最近の軍略家であり、ほぼ同じ論を唱えていたことを考えると、そのすさまじさが分かる。 そして孫子が言っているのは、客観を常に持て。 それだけだ」
「……」
孫子は密偵の重要性についても触れている。
それだけ多角的な情報を得て、敵だけではなく味方の戦力も正確に分析せよと唱えていた人物だ。
それを考えると、確かにケルベロスが諭した通りである。
頷くと、燐火は軽くトレーニングをすることにする。
杏美がおねむなので寝かせる。
そろそろベビーベッドは卒業だが、そうなるとしばらくはおかあさんとおとうさんが一緒に寝ることになるだろう。
燐火はそれで構わない。
今は世話をされる時期だ。
そして世話をしかるべき時にしかるべき相手にされないと、燐火みたいになる。だから、杏美はそうなってほしくない。
おかあさんに杏美を預けると、外で鍛錬をする。
まずは少しでも差を埋めることだ。
師範から貰った奥義。
完成度をもっともっと磨く。
まだ一割程度しか力を出せていないとみていい。その力、少しでも引き出せないと。
あいつには。
魔の獣には、勝てない。
4、手札を如何に準備するか
林西さんのお寺を修理している間、公安が用意してくれた場所。正確には近場の公民館だが。
防音、防諜は完璧だ。
其処で集まって話す。
今回はヘラクレスさんが来てくれている。
ただ、ヘラクレスさんは霊体でも部屋には入れないので。内部には代理の分霊を入れてきたが。
その分霊はイオラーオス。
ヒドラとの戦いを始め、ヘラクレスさんの戦いに多数同行した甥である。
勇敢で知恵が回る人物で。
無限再生するヒドラの頭を焼いて対応することを提案したのはイオラーオスとも言われている。
ともかく、ヘラクレスさんと違って背丈は普通なので、一緒に会議をすることが可能である。
林西さんは多少負傷していたが、既に退院している。
他の家族にも、害は出ていないようだった。
「早速だが、本格的に動き出した魔獣についてだ。 あの存在は、恐らくは……」
「よろしいでしょうか」
「うむ」
燐火が挙手すると、林西さんが頷く。
燐火は丁寧に、持論を展開する。
あれは食肉目の魔が融合した存在。
今までスコルだと思っていたものは、実際にはあれが変えた姿の一つだったに過ぎない可能性が高い。
だが、総力で見るとフェンリルなどが内部にいるにしては物足りない。
極めて狡猾なのは、狐などのずる賢いとされる魔が融合しているからであると思われる。
それらを説明すると。
林西さんは、満足げに頷いていた。
「もう俺より客観的な分析力は高いな」
「ありがとうございます、日女さん」
「それでその意見についてはどう思う」
「私は何ら反論はありませんけれど、そのような強大な存在、倒せますの?」
珍しくカトリイヌさんが不安げだ。
まあ、それもそうだろう。
もしそれが本当だとすれば、それこそ数限りない魔が融合している融合魔の究極形態と言える。
ただ、それにしては全盛期のフェンリルには力がまるで及ばないというのも、不可解なのだ。
それにそれほどの存在なら。
オーディン等を削って少しずつ倒すのではなく。
一気に滅ぼしてしまえば良かっただろうに。
敵には何かしらの事情がある。
それが弱点なのか。
こちらを混乱させるための策なのか。それを見抜かなければならないだろう。
菖蒲さんが挙手。
皆が注目する中、提案をする。
「罠を張りましょう」
「罠であるか」
エヴァンジェリンさんは興味津々だ。
菖蒲さんが、ぱぱっと説明をする。
なるほど、罠としてはとても面白いと思う。
人間と魔の知恵比べは、たくさんの作品で扱われている。魔を強大な存在だと描く物語も多いが。
最終的に魔は人間に敗れるのである。
近年ではクトゥルフ神話のように人間が敗れる作品や。
あるいは北欧神話のように魔に世界が滅ぼされる神話も例外的に存在しているのだが。それはあくまで例外。
そして菖蒲さんが提案した作戦は。
燐火も、思わず頬を引きつらせる内容だった。
苛烈である。
危険である。
だが、いいように林西さんと菖蒲さんのいる寺を蹂躙していった魔だ。
あれは恐らくだが、力を見せつけるための行動だった。
実際、力が足りない魔祓いは、それで恐怖を感じてしまったらしく。作戦には絶対に加わらないと言っているものが少なくないそうだ。
少なくとも恐れさせることには、ブラックドッグを捨て駒にしたとしても、あいつは達成しているのだ。
「提案した私が餌になります。 何か意見は」
「……異議なし」
「叔父上とともに、可能な限り力になろう」
「頼もしいですねイオラーオスさん。 ただ、恐らくヘラクレスさんを敵は最も警戒している筈。 何かしらの陽動策で動きを封じてくるでしょう。 戦闘では当てには出来ない、と判断して動きます」
菖蒲さんがテキパキと指示を飛ばして、この場を支配していく。
それにしても凄いな。
英傑というのはこういうのをいうのだと、一発で分かる。
菖蒲さんも確か今高三の筈だが。
同年代の人間なんて、これでは幼児にしか見えないかもしれない。
とにかく膨大な経験を積み。
信じられない数の修羅場をくぐってきた。
だから、これほどまでに成長したのだ。
燐火も、ともかく今の菖蒲さんがいる位置に行くことを、まずは目標にするべきだろうと思う。
それで会議は解散となる。
嘆息すると、家に戻る。
三学期末くらいに作戦を開始することになるだろう。
残る敵一派の主軸、二柱。
その片方を討ち取ることが出来れば。
一気に敵の本丸に肉薄が可能だ。
敵の本丸を堕とせば。
その時は、ケルベロスと別れることになる。
それは悲しいが。
ケルベロスがくれたたくさんのものは、燐火にとってはとても大事な宝物だ。一生失うことはないだろう。
とりあえず、帰路でダイモーンの気配を感知したので、さっさと片付ける。
手足が伸びてきた事もある。
白仮面は成人らしい。
そういう都市伝説まで流れているようである。
燐火は無言でダイモーンを始末して。
浄化まで済ませる。
苦手だった浄化も、今では相手の規模にもよるが。手早く出来るようになっていた。
すっかり不良やら反社やらも街から減ったが。
それでも悪党がいなくなった訳ではない。
翌日のニュースで、なんとかいう詐欺師が捕まったらしいと書かれていたが。
その程度で片付いたのならそれでいい。
燐火は、そう思えるようになってきていた。
(続)
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