それは魔狼の王であるのか

 

序、闇の中で

 

闇の中。

いくつかの影がいた。

再上座にいる邪神は、ここ最近の戦績に満足している。それに対して、魔の獣は、決して満足はしていない様子だ。

「思ったよりこの国の魔祓いと神々は出来るぞ」

「いや、それは共通認識であったはずだが」

「それ以上だったと言うことだ。 現時点で計画を修正するほどではないが、オーディン一派を潰すほどではなかったかもしれん」

「ふむ、どうしてそう思う」

手の内を見せすぎたかもしれない。

そう、魔の獣。

銀の毛並みを持つ狼は言う。

その姿は闇の中でもうっすら発光していて。

それでありながら、光ではなく明確に闇を示していた。

邪神はふっと笑う。

「この国では在来の神々と、後から来た神々が、世界でも類がないほどうまくやれているからな。 それだけ細かいもめ事も起こったし、それで神々が鍛えられているのさ。 一神教が広まらなかったのはなぜだと思う」

「教育水準の高さも理由ではあろうな」

「それもあるが、唯一絶対なんて思想がそもそも非現実的だと分かる程度の多様性が存在していたことが要因だ。 今、自称先進国では多様性とか抜かして意図的にものを醜くするのがはやっている。 ポリコレだとかいうのだったか。 あんなものは、今までルッキズム至上主義をしてきたことのただの裏返しであって、結局のところ逆張りにすぎん。 ポリコレを絶対正義としている時点で、多様性などないのさ。 この国は神々からして多様性を受け入れてきた。 多神教の強みであるな。 ただ、それでも昔は色々ともめ事もあったのだが」

「……」

魔獣がふうと嘆息した。

多神教だったのに。

それを捨てて、結局一神教に帰依してしまった故国。

その惨状を思い出したのだ。

神話は物語と成り果て。

今では神々の名前さえ忘れられてしまっているていたらく。

だから力だって落ちた。

何度も魔祓いにも敗れた。

しかも、連れてきた奴には、さっさと裏切る者まで出た。あのウェウェコヨトルに至っては。

あっさり神社を建てて貰い、其処で信仰を受けている有様だ。

もっともウェウェコヨトルに関しては、計算の内だったが。

「それでどうする。 計画はこのまま進めるか」

「邪魔が二ついる」

「一つはオーディンだな」

「ああ。 そしてもう一つはヘラクレスだ」

オーディンははっきり言って同じ穴の狢だ。

この国に支配神格として降り立つ夢を未だに捨てていない。

元々勝利の神として、勝つためだったら手段を選ばない神なのだ。それが負け続けていれば、その存在意義が揺らぐ。

ましてやトールまでが倒れた。

物語と化しているし、神話存在だから、死ぬことはないが。

再具現化には数百年はかかる。

それもあって、もはや手札はない。

オーディンには必殺とも言えるグングニルもあるが。

神話では、これがあまたの巨人や魔を倒した実績もない。

トールの方が多数の巨人や魔を倒しているくらいである。

つまり実のところ、オーディンの個人武勇はそれほどたいしたものではないのだ。

ラグナロクでもあっさり食い殺されるように。

「オーディンは戦略が厄介だったが、既にその手腕は衰えきっている。 特にこの国に来たのが致命的だったな」

「ああ。 オーディンが冷徹な勝利だけを求める軍神だと知られていない。 元のオーディンが策略家である事はほぼ知られず、かっこいい名前とかっこいいアイテムだけが知られている状態だ。 トールにしても近年は英雄としての像が知られていて、この国では原初の荒々しい武の象徴だというイメージがない。 それは我らにとって追い風ではある」

「それでもオーディンはまだまだ手札を持っている。 今後利害が食い合うと面倒だ。 早々に仕留めるべきだが」

「ならば手札をいくつか更に削らなければなるまい。 後オーディンの手元にいそうな手札はフレイとフレイヤやヘイムダル程度だが、あれらは別にそこまで警戒するほどの神格でもない」

相談が冷静に進められる。

食うか食われるかの相談だ。

そして、これを淡々と、対等にやれるのが。

この邪神と魔の獣の強みだった。

既にオーディンが謀略家としての手腕が、特に日本に来たことで衰えきっているのが大きい。

もはや奴は。

半端な武勇とアイテム頼りの、もうろくしきった老神にすぎないのだ。

「いくつか布石を打ち、オーディンを引きずり出したいところだ。 この国でもっとも信仰されている存在を活用できないか」

「困ったことに信仰対象は多くてな。 仏教家、神道系、それに神道にしても最高神だけではなく、あまたの神が信仰されている。 最も信仰されているのが源氏の軍神である八幡と、それに豊穣神である稲荷という有様でな」

「軍神はともかく、随分とわかりにくいな改めると」

「それでいながら仏教系の最高神は如来達だろうが、大日如来をはじめとして何体もいるし。 日本系の最高神である天照大神は多数の配下神に守られて基本的には表には出てこない。 どちらも引きずり出すのは難しかろう」

「ふむ……」

第三者の声が割り込む。

それは、いかにも狡猾そうな声だった。

「場を引っかき回して見せましょうか」

「そういえばおまえがいたか。 どういう風にするつもりだ」

「へへへ、これでも僕ちんもトリックスターの端くれでね。 残念ながらお二方ほどの力はありやせんが」

「……いずれにしても、魔祓い達の能力を考えると、トールでもあっさりとは勝てないほどだというのは前回確認できた。 助っ人で呼んできたヒドラも帰ってしまったしな。 良いだろう。 せいぜい引っかき回せ。 ただし、危地に墜ちても助けはないぞ」

邪神がいうと、頷いてさっとそれ。

「コヨーテ」が消える。

北米神話におけるトリックスター。

神格としてのコヨーテだ。

それから、魔の獣もその場を去る。

邪神は頬杖をつきながら、ほくそ笑んでいた。

そろそろ、出る時かもしれない。

この国の魔祓い達は侮れない。百数十年ほど前、邪神は明治維新に乗じて一気にこの国の価値観を陥れようとしたが。

その時も手練れの魔祓い達によって打ち払われ。

以降は力を蓄えることになった。

八十年ほど前の敗戦の時に出られなかったのは、その時のダメージがあまりにも大きかったからだ。

今は回復したが、それでも八割と言うところか。

この国の人間の精神が急激にすさんできている。

それもあって、力は確かに充溢はしている。

それはそれとして、まだ動かない方が良い。

あの魔の獣は、恐らくは簡単には倒されないはずだ。それに、である。

悲願は、結局今も叶っていない。

いずれにしても、今は待ちの時だ。

数限りない戦乱を経てきたこの国で、そのいくつかの戦乱に邪神はかんできた。そのたびに魔祓いに倒されて、結局願いは成就しなかった。

それでも諦めていないのは。

国津の神々や。

在来の神々ですら神社があるのに。

未だに自身は封印すべき悪神であるという判定をされているからである。

もう価値観をひっくり返すしかない。

それについての準備も進めている。

幸い、人間どもの腐敗は良い感じで進んでいる。この国だけではなく、世界中がそうだ。

馬鹿を支配するためにもっとも都合が良い思想である一神教ですら、今は屋台骨が揺らぎ始めている。

誰も教会に行かない。

そういう事を、一神教関係者が嘆いているほどだ。

後は一神教の背後にある支配システム。

唯一絶対の正義という思想が崩れれば、雪崩を打つように全てが壊れていくのだが。

まだ先になるだろう。

だから、先駆けになる者が必要だ。

今回こそ。

そう、邪神は考えていた。

 

夏休みが終わった。

さっそく席やロッカーを丁寧にチェック。

問題なし。

それで席について、授業の準備と、宿題の提出準備を開始する。

ぽつぽつと生徒が登校してくるが。

真っ黒に日焼けしているのもいる。

別にどうでも良い。

健康的に外で過ごしていたのなら、真っ黒にもなるだろう。燐火も比較的焼けた方である。

毎日ルーチンを欠かさずこなしていたからだ。

それは、どうしても焼ける。

だが、それを誇ったり自慢するつもりはない。

宿題をそろえて、HRのあと、さっさと提出する。

案の定、宿題が終わらなかった生徒や。

中には宿題を一切やらなかった猛者までいるようだが。

学校側でもそれは対策していて。

宿題をやってこなかった生徒は、これから授業を受けずに、宿題が終わるまで別教室で徹底的にやらせるらしい。

それで数人が連れて行かれた。

まあ、遊びほうけて宿題をやらなかったというのであれば、自業自得である。燐火が知ったことではない。

宿題が終わりきらなかった生徒もそれで何人か連れて行かれた。

これから缶詰ということだ。

それで生徒が少し少なくなったが。

夏休み明けの学校は、普通に始まった。

 

授業は今日は午前中だけだが。

缶詰の連中は、午後も授業だ。今日は部活もなし。それで、さっさと帰宅する。

日根見ちゃんはしっかり宿題を終わらせたらしく、一緒に帰る。小川先輩は連絡が来たが、今日は八子さんに誘われたらしく。

八子さんが雇われで師範代をしている道場に行くそうだ。

鞍替えというのも変だが。

今までの、先生は善人だが教えるのが下手な道場よりも。

より鍛錬を積める道場があるのなら、そっちの方が良いだろう。

それに、である。

できるだけ武道にしても学問にしても、色々な刺激を受けた方が良い。これについては、絶対的真理である。

今、小川先輩は空手に関して本気で取り組み始めている訳で。

その姿勢は、力量関係なく、素直に賞賛するべきだろうと燐火は思う。

帰路、日根見ちゃんが色々話してくれる。

夏休みは尾瀬に行ってきたらしく。珍しい動植物を山ほど見たのだという。特に良い経験だったのが、ユウレイソウともいわれる銀竜草を見たことだったとか。

本当にいいものを見たと、とても嬉しそうである。

ただ、場所などは教えてはいけないらしい。

尾瀬は観光ガイドがしっかり見張っているが、それでも無法をする奴が一定数いる。それもあって、色々厳しいのだとか。

「それでも珍しいものがたくさん見れた! 感動だったよ!」

「良いことだと思います。 知識を実経験で更に補強するのはとても良いことですよ」

これは掛け値なしの本音だ。

実際問題、歩法をフルーレティ戦で実戦投入したとき。

新しい壁を破った気がした。

ただ、武の極みはずっと先にある。

それも分かっているから、まだ油断は出来ない。

日根見ちゃんは生物学者になれるのであったら、なってほしいが。

話によると、植物関連の仕事をするなら、最低でも千種類くらいは覚えて見分けられないと話にもならないと言うことで。

それだけ厳しい世界であるらしかった。

ともかく燐火はいくつか細かい話を聞いた後、日根見ちゃんと別れる。たまに充子にここで会うこともあるが、今日は単に時間が合わなかった。

さて。

背後からつけてきている奴がいるな。

無言で振り返る。

気配からして、人間だ。

「出てきなさい」

「ひっ!」

わらわらと茂みから出てきたのは、男子二人と女子二人だ。

同じクラスの人間じゃないな。

ただ見覚えがある。

確か別クラスの奴だ。

「こそこそつけ回すのは感心しませんね。 どういう理由でつけてきていたかいいなさい」

「ご、ごめんなさい! ぶたないで!」

「ぶたないから話しなさい」

なんで燐火がぶつことを前提にしているのか。

確かに不良なんかは全部潰して回ったが、それは学校の環境を過ごしやすくするためだ。今では燐火に目をつけられるのを恐れて、不良は学校で縮こまっている。

基本的に武力がない相手、害意がない相手に暴力は振るったことはない。

どうしても、その辺りは伝わりにくいのだが。

怯えているばかりなので、踏み出すと。

一人、気が弱そうな男子が吐く。

「あ、あいつがどうやってあんたに取り入ったか、知りたいんだ!」

「取り入った……?」

「そうだよ! 今まで明確に俺等より下だったのに、今では堂々としてやがる! 運動神経だって頭だって良くなって、それで……」

「ハ……」

ぶっ殺したくなってきた。

燐火は小学時代、徹底的にスクールカーストとかいう害しかない代物を粉砕して回ったが。

こいつらは、まだそんなものの幻想を引きずっているのか。

上か下かしか価値観がない。

しかも自分より下だと思っていた存在が、人生を謳歌し始めた。

それが許せない。

中学に入ってから、スクールカーストが明確に禁止され。価値観が混乱して何もかも分からなくなっている。

燐火はこいつらから見たら猛獣か何かみたいなもので。

それで日根見ちゃんには怖くて手出しなんか出来ないわけか。

良く覚えていないが、こいつらひょっとして同じ学校の奴か。

燐火がキレたのを悟ったのか、女子二人が泣き始める。はっきり言って、今すぐ頭をたたき割ってやりたいが。

ケルベロスがやめろと呆れ気味に制止してくるので止める。

ともかく咳払い。

それだけで、四人そろって首をすくめていた。

「そもそも同学年の人間に上も下もあると思いますか? そんな風に上か下かでしか考えられないから、あなたたちは学校生活でずっと何もかもに怯えているんじゃないですか。 何か落ち度があれば即座に下に落ちる。 それも一度下になったら永久に上に上がれないとか思い込んで。 はっきりいって馬鹿じゃないですか」

「だ、だって、スクールカーストってそういうもんだろ」

「それが間違いだとうちの中学では対応していますよね。 そもそも人を上下で区別すること自体がおかしいって考えようともしないんですか。 貴方の、いやあなたたちの頭の中、脳みそは入っていますか?」

人間が法の下に平等であるという概念を作るまで。

どれだけの血が流れたか分からない。

残念ながらその概念は悪用され、今だってうまく機能しているとは言いがたい。

だが、スクールカーストなんてものは、とうに廃棄されてしかるべきである思想である。法治主義国家であればなおさらだ。

燐火だってその程度の事が分かる。

それをさもしい自尊心にかまけて、そろって日根見ちゃんに嫉妬して。挙げ句の果てに、どう取り入った、だと。

ケルベロスがもう一度、やめろと言った。

それで、燐火も大きく嘆息しながら手を止めた。

ちょっと本気でキレかけた。

これが今の普通だとしたら。

普通の方が明らかに間違っている。

「あなたたち程度の気配だったら、簡単に探知できます。 それともしも今回の事を逆恨みして、日根見さんに何かしたら、ぶつ程度ではすみませんよ。 燐火と交戦した不良達がどうなったか知っていますね。 そうなると思ってください」

「ひっ!」

「わ、わかったから、わかったからやめて!」

「いきなさい。 二度と燐火にも日根見さんにも近づかないように」

一人気絶しかけているのを引きずって、わっとアホどもが逃げていく。小便を漏らしているのもいた。

はっきり言ってどうでもいい。

まさかあんな下手くそな尾行、察知できないとでも思っていたのか。

大きく嘆息する。

そして、その場で。

地面に渾身の震脚をたたき込んでいた。

ドガンと、今までにないほど凄まじい音がした。

この辺りの道はギリギリアスファルトが敷かれているが。まあ日本の舗装道路はトラックにも普通に耐え抜く。

この程度で壊れるほどやわじゃない。

ただ、それでも。

激しい衝撃で、辺りが揺れたのも事実だった。

「くだらん連中だ。 ありのままに悪習を受け入れている。 ああいった連中が、生け贄を肯定し、いじめはされる方が悪いなどといって犯罪も肯定する。 俺から見ても反吐が出る」

「ケルベロスの時代でも、ああいうのはたくさんいたんだね」

「ああ。 貴賤に関係なくな」

「人間は一万年進歩していない。 それは本当みたいだね」

オリエントの文明が勃興して、一万年。

それ以降、人間が進歩していないのは事実だ。

ただ科学技術だけが無駄に進歩した。

そういう事である。

「あれらはどうしようか。 何かしら、もう一本釘を刺しておこうか」

「やめておけ。 トラウマレベルの恐怖をたたき込まれた。 もう燐火にも日根見にも近づいては来ないさ。 もしもクラスでくだらん嫌がらせをするようだったら、その時は徹底的にぶちのめしてやれ」

「分かった」

それはそれとして、ダイモーンだ。

今日はちょっと機嫌が悪い。

だから、手荒く祓った。

 

1、狼の魔は何をもくろむ

 

トールが倒れてから、ぴたりと魔も神も動きが止まった。悪神の暗躍はなくなり、オーディンも麾下の神を出してくることがなくなったようだ。

ただ、ダイモーンだけは出てくる。

これは元々「迷子」がばらまいていた者もいるし。

何よりも、「迷子」が常に生み出し続けている事もあるのだろう。

それもあって、燐火が定期的に掃除しなければならない。

黙々と片付けていく。

そうこうしている内に、杏美が喋るようになりはじめた。

まあ、簡単な単語からだ。

ぱーぱ、まーま、ねーねくらいから。

それでいい。

基本的に活発で、なんでも燐火の行動を真似たがるが。

燐火が笑ってくれないのですねることもあるようだ。それを見ていると、ちょっと悲しくなる。

燐火としても、笑いたくないのではない。笑えないのだ。

鏡で表情筋を動かす鍛錬もしているのだが。

それもどうしても難しくて、困惑するばかりだった。

どこぞのデジタルアイドルが笑うなんて誰にでも出来ると悲しんでいるシーンを見たが。燐火からすれば、良く笑うなんて事を誰でも出来るなと、色々と困り果てているところだった。

苦笑いは出来るが。

それ以上は難しい。

鏡相手に悪戦苦闘していると、ケルベロスがここまでだと言う。

苦手意識を更に拗らせるだけだ。

それもあって、練習は適度にすれば良いという話だった。

これは武道や学問も同じか。

側で適切にアドバイスをくれるケルベロスの存在が、とにかくありがたい。

ともかく、休憩を入れる。

そして淡々と武道のルーチンをこなす。

元気な杏美だが、やんちゃで大変というだけではない。おかあさんとしては杏美の成長に伴って夜泣きも減り始めたので、かなり負担が小さくなってきたらしい。

ベビーカーももうしばらくしたらしまうことになるかもしれない。

二人目作ろうかな。

そういう話をこの間しているのをちょっと聞いてしまった。

杏美がもう少し手が掛からなくなってからが理想的なのだろうが。

人口の減少が社会問題になっている今。

富裕層に分類されるうちは、できる限り子供は作った方が良いのかもしれなかった。

まあそれについてはいい。

まだ歩くのは出来ず、結構はいはいで素早く動き回っている杏美である。

ますます目を離すのは危なくなってきたし。

床にものを落とす事、手が届く範囲に危ないものをおくことは、なおさら厳禁となっていた。

ケルベロスが細かく注意してくれるが。

それでも、この年の子は、ある程度元気になってきたように見えて。それでも一瞬で死ぬ。

それは分かっているから。

燐火も気を張らなければならない。

武道のルーチンを終えて、次は勉強だ。

寝ていた杏美が起き出して、ベビーベッドから這い出そうとしている。

高い高いをすると、それだけで随分と喜んでくれるので。

燐火としても、ある程度は嬉しくなるが。

残念ながら、笑顔は浮かばない。

鉄面皮とか鬼とか学校で言われているが。

それもまた、仕方がないのかもしれなかった。

ともかく。杏美はおかあさんに任せて。黙々と勉強をする。

お料理については、今日は当番ではない。

最近は買い物は任せてもらえるようになり。

近場の大きめのドラッグストアでまとめて買ってくるようになり始めた。

買い物用のバッグも利用するようになっているが。

それはそれとして、四人分の買い物は結構大変である。

それも含めて、人生経験だ。

ルーチンにしている勉強は終わり。

現時点でそこそこの大学なら突破できるくらいの基礎力はついてきている。既に高三の勉強は始めているし。英語なんかは苦手だから重点的に勉強しているからだ。

科学についても学んでいる。

科学知識は大事だ。

というのも、今は学校で学んでいるような科学知識を即座に忘れているような連中を狙った。たちが悪いえせ科学とか言う詐欺師とカルトが混ざったような連中が、色々と悪さをしているからだ。

それもあって、燐火は勉強の大事さを理解している。

だから、どの分野も手を抜くつもりはない。

勉強が終わったので、軽くゲームをしてから。

それから、杏美の世話を代わる。

背負ってあちこち歩いて回るが、杏美は外の様子にいつも目を輝かせて、きゃっきゃと騒いでいる。

具体的にそれが何かをしるのはもっと後でもいい。

ただ。

動植物は皆生きていて。

世界でそれぞれの役割を果たしている。

それを知ってほしい。

人間の主観で気持ち悪いとか決めつけて、抹殺しようとするようなゴミカスにだけはならないでほしい。

燐火はそれもあって、動物に対する接し方については、特に気をつける。

勿論排除しなければならない危険な害獣もいるが。

それはそれ、である。

しばらく外を歩き回って。

近所の人間に挨拶したりもするが。

それはそれとして、杏美はまだ基本的には何も出来ない。

帰ったらおむつを替えて。ミルクを飲ませる。

そろそろ離乳食か。

ただ、今は。

まだ食べては寝て、食べては寝て。それでとにかく育つ時間だ。それでいい。

今まで燐火がぶっ潰してきた悪党どもも、幼児の頃はこんなだったのだろうか。だとすると、環境が悪かった。

勿論素質だってあっただろうが。

やはり環境が一番悪影響を与える。

だとすると、燐火がやるべきは。

杏美がああいうカスどもと同レベルにならないように。

悪い環境をつくらない。

それが、第一の課題だった。

「馬鹿な親になると、いきなり子供に高度な教育を施そうとするが、それは逆効果だ。 基本的には地に足がついたところから、確実に積み上げるのだ」

「ケルベロスはそういうの慣れているんだよね」

「冥界には乳幼児も結構来たからな。 全く何も分かっていない乳幼児が冥界に来るのは、俺も見ていて心が痛んだ。 だから、ある程度は面倒を見るようにはしていた」

「……」

そうか。

やっぱりケルベロスは、根は優しいのだ。

その辺りは、人間の良き隣人であり、生物で唯一人間の友になってくれた存在だけはある。

それに、今ならば分かる。

地獄の番犬呼ばわりされることに、より怒りを覚えるのも。

ケルベロスはしっかり仕事をしていた冥界の番犬であって、地獄と比較されるのは流石に苛立ちも大きかったのだろう。

ケルベロスが通した中には悪人もいたのだろうが。

何の罪もないのに命を落とした乳幼児もたくさんいたのだから。

一通りルーチンが終わったので、食事、風呂と済ませて。食器の片付けは燐火がやる。

まだ杏美の分はほとんどないが、それでも四人分となると、毎日しっかり食器は片付けないとすぐに手がつけられなくなる。

背が伸びてきたこともあり、これはもう出来る。

料理も今練習しているので、そのうち燐火も当番が回ってくるはずだ。そうしたら、最低限のものから、順番にやっていくつもりである。

食器を片付けたあと、明日の弁当のメニューを適当に考えて。

それで後は寝る。

眠るのは、最近は楽だ。

昔のトラウマがフラッシュバックすることもなくなった。

それらの原因を作った輩が。

ことごとく地獄に落ちた。

それも原因であるかもしれなかった。

 

二学期が本格的に始まっている事もある。

部活に出るが、小川先輩がかなり熱量を上げながら、鍛錬をしていた。

見かけが派手でなければ、その熱量はいっぱしの空手家である。実力も、大会の時よりも更に一回り増しているようだった。

正拳をたたき込む時の音が、更に重くなっている。

三年の男子が、おおと声を上げていた。

それに触発されて、他の生徒も鍛錬をしている。

明らかに、熱気の中心になっているのは、小川先輩だった。

「小川の奴、すげえな」

「男でも出来たんじゃねえの」

「おい、今そういうの確かセクハラになるらしいぞ」

「いけね……」

くだらん話をしている男子部員はフル無視。

鈴山さんも、二回戦まで行けたこともある。

かなり気合いが入っているようで、燐火に時々調整を頼んでくる。燐火も、それについては全く異論はない。

とりあえず見るけれど、確実に進歩はしている。

だけれども、身体能力に問題がありすぎる。

どちらかというと清楚系の見た目、であるらしい鈴山さんは。

運動神経が、正直それほど優れていないのだ。

だから、とにかく体力作りと、筋力の増強を課題にする。

それを丁寧に説明して。

それらをこなせば、動けるようになると説明。

また、いつでもうちに来て鍛錬してほしいと言うと。頷いていた。

鈴山さんも熱量は確実に上がっているが。

どうにもこの子、考えていることがよく分からない。

まあ、他人の思考回路なんて理解できないものだと考えるべきなので。むしろ探偵小説の主役になったつもりになっているアホの真似はするべきではないが。

燐火も勿論、空手の分のルーチンはこなしておく。

正拳がかなりいい音をたたき出す。

ただ、基本的にこれは全身を使い、全体重を一点にたたき込む技だ。

激しい破壊を伴う。

的が痛んできたな。

そう思ったので、ルーチンをこなしたあと、廃材を取りに行く。

的を補強するためである。

廃材は幾らでもあるので、それは持って行っていい。

ただ管理している先生がいるので、帳簿に利用目的は書いておく必要もある。

空手部の鍛錬用の的と書くと。

管理している先生は、いつも呆れる。

「空手部は急に真面目にやり始めたみたいだね。 今まで、廃材をこんなに使った事はないよ」

「ありがとうございます。 短時間でやらなければならないので、それもあってあまり無駄に時間を使えないんです」

「そうだね。 とりあえず、あまり危ない事はしないようにね」

釘を刺されるが。

燐火の事はよくもわるくも知られているのだろう。

学校で目立って活動している不良はもういなくなった。特に燐火に襲いかかってきた三年の四人組は、中一の女子に束になっても手も足も出なかったと評判が流れ。学校でも舐められるようになったばかりか。

学校外の不良から、散々いじめられているそうだ。

それだったら馬鹿みたいに不良なんて続けていなければいいのに。

何かの病気ではないのかと思ってしまう。

今では完全に居場所も失って、教室で静かにしているらしく。

制服を改造したり髪を染めたり馬鹿馬鹿しい事をしていたのも全てやめるように先生に面罵され。

笑われているようだ。

それはそれとして、燐火が恐れられているのも事実だ。

アホ三年生がいなくなった隙を突いて学校をシメようとか考えた奴は一人もいないのだけれども。

まあそれは、燐火に潰されることが確定だからである。

それもあって、燐火に先生達はあまり強く当たれないらしい。

実際問題、これ以上ない抑止力になっているし。

馬鹿みたいなスクールカーストがどんどん解消されている事もある。

教師の負担まで減っているからだ。

ある意味恐怖による支配に近い構図かもしれないが。

それが有効に活用されるのであれば、それで良いのだろうと燐火は思う。

また、ダイモーンがらみで周辺の半グレとか反社とかがあらかた悪運を失って、どれもこれも逮捕されたこともある。

この辺りの治安は非常に良くなったらしく。

それで不良が周囲の人たちに迷惑を掛けることも減ったし。

警察も対処がしやすくなっているらしい。

ただそれで恨みを買うのも自覚している。

過ごしづらくなったのも事実である連中もいるだろうからだ。

燐火は自衛が出来るが。

例えば鈴山さん。

彼女は大丈夫だろうか、とちょっと不安になる事もある。

ともかく、黙々とDIYをして、それで的を作る。

これももう手慣れたものだ。

家にある的は、今では自分でほとんど調整している。それもあって、学校で使う奴だって同じように調整できる。

運んでいると、燐火を見て露骨に逃げる生徒がいる。

この間、日根見ちゃんを逆恨みしていた四人組が半殺しにされた。

そういう噂が流れているらしく。

別に手は出していないのだけれども。

それで更に悪名が上がったようだった。

どうでもいい。

空手部まで的を運んで、それで設置。

また痛んでいる的も、運んできた物資で補修する。

良い感じである。

もうルーチンはこなしているので、使ってみてくれと他の部員に頼む。燐火はその間、ストレッチなどで体を温めておいた。

部活の終了時間だ。

明日、八子さんが来る事もあり。

調整にいそしんでいた部員も多いが。帰宅時間は絶対なので、すぐに帰る。小川先輩は、今日は一緒に帰るそうだ。

日根見ちゃんと合流して、それで一緒に帰るのだが。

途中でちょっと気になることを聞かされた。

「鈴山っちね。 なんか色々まずいっぽい」

「具体的に何がまずいんですか」

「うーん、まだ話にしか聞いていないんだけど。 あの子の家、滅茶苦茶勉強が出来るらしいんだわ。 親もそうだし、他の親族も。 あの子は見かけはしっかりしてるけど、勉強は燐火っちに遠く及ばないでしょ」

「いや、それは必ずしもそうだとは……」

燐火の場合は。

涼子といういい友達に恵まれたし。

計画的に勉強をする事の重要性を、ケルベロスに習ったという事もある。

それにだ。

学問も武道もそうだが。

やはり教える人間が重要なのだ。

これについては、どうしようもない真理である。

本物の天才……例えばアインシュタインとか、コンピューターの基礎を作ったノイマンとか。そういったレベルの天才だったら、あるいは教える人間なんて必要としないかもしれないが。

そんな人間は全体の万分の一、いや十万分の一もいないだろう。

一を知って十を知るなんて事が出来るのは、時代を代表するような天才だけ。

それはケルベロスに、何度か聞かされたっけ。

「あの子見かけが真面目清楚系ってこともあって、それでからかわれるらしいんだよね。 ガリ勉のくせに勉強も出来ないのかって。 それで空手部で鍛えてるらしいんだけれど、この間の大会、親も見に来なかったらしくてさ。 あたしは普通に親見に来てくれたんだけどね」

「……」

二回戦敗退と言ったら。

そんな家庭では、どのような罵詈雑言を浴びせられたか。

簡単に想像できる。

それもあって、燐火は思わず口をつぐんでしまった。

「良い子なんだけどね。 追い詰められてるから、何か問題にならなければいいんだけれど」

「分かりました。 今度家に鍛錬に来たとき、それとなく聞いてみます」

「そう? まあ本当だったらあたしが先輩として色々教えてあげたいんだけど、それもなあ……」

小川先輩はとにかく評判が最悪だ。

幸い小川先輩は家庭環境が良好なようだ。少なくとも、今まで見てきた崩壊家庭に比べると全然マシ。

鈴山さんはそうではなさそうである。

何か、手助けになればいいのだけれども。

そう思った。

 

鈴山巡は、家に帰ると、早速罵倒された。

格好がなっていない。

そう言われて、即座に勉強をしろと、家にいる母から怒鳴られていた。

父はこの国でもトップクラスの大学の出。

母も同じく。

ただし、どちらも出世は出来なかった。

父は務めた銀行が、国でもかばいきれないくらいのスキャンダルを起こして破産。その結果、エリートコースから完全に外れた。

母は公務員をしていたのだが、母のいた部署がまるごとスキャンダルを起こした。

税金を横からかすめ取って、悪さをする輩は幾らでもいる。

悪辣な「支援団体」だとか「福祉団体」とかは判定がどうしても甘くなりやすいらしく。今では善良な団体に混じって、極悪非道な搾取を繰り返す集団が当たり前のように混じっている。

しかもこいつらと癒着して、自分も税金を啜り取るカス公務員もいる。

巡の母親は、そういうカスの部下だった。

結局その団体はまるごと家宅捜査が入って、山ほど余罪が出て破滅した。

それに予算を下ろした母の上司も追求されて、こっちも余罪が山ほど出て投獄。

母も部署解体と同時に閑職に回された。

以降。

二人は、高学歴であるというプライドと。

境遇のギャップで、鬼でも宿ったかのようになった。

兄たちはまだマシだったかもしれない。

二人が満足するだけの成績を出せていたから。

だから、二人がベタベタに甘くしていた。

兄たちは、それで堕落した。

勉強はしているが、同時に悪さも覚えた。

出世コースから墜ちる前だったら、父母はこうではなかったのかもしれないが。

今では兄たちは父母の悪影響を受け。

悪い遊びを繰り返している。

それを巡は知っているが、完全に目が節穴になった両親は、それに気づけないでいるのだった。

高学歴の人間でもそんなものだ。

更に悪いことに、巡は要領があまり良くなかった。

ことあるごとに何でこんな子を産んだんだろうと母に怒鳴られたし。

それを兄たちは、クスクスと笑いながら見ているのだった。

父はもっと直接的で。

手こそ出さなかったが、面罵は当たり前。

それどころか、テストの成績が悪かった日は当然食事を抜かれたし。

勉強を監視して。

一つでもミスがあったら、容赦なく罵声を浴びせられた。

出来損ない。

それが巡が、親に言われ続けた言葉だった。

優しい目を向けてくれたことなんて一度もない。

小四の頃には両親に愛想が尽きていた。

最悪なことに、両親の親族も学閥だのでそれぞれが良いところでいい役職についているらしい。

世間的に見ればエリート一族ということだ。

それもあって、親族での会合がある度に、両親は徹底的に馬鹿にされるらしく。

一族の恥とまで言われているらしい。

そういう会合から帰ってくると、二人は顔を真っ赤にして怒っており。

巡を徹底的に痛めつけた。

寝る間も惜しんで勉強しろ。

おまえみたいなゴミは、そうしてやっと人並みなんだ。

そう怒鳴りつけて、テストの前日でも徹夜をさせて。テスト中に気絶することもあった。

中学受験はそういうこともあってか「授業態度が悪い」とかいう理由で絶望的になり。

それを聞いた両親は、寒空の外に巡を放り出し。

しかもガムテで口を塞いだ挙げ句。

両手両足を縛って、人目につかないところに転がし。

寒空の下に放置した。

夜闇の中で、ひたすら恐怖に巡は震えるしかなかった。

中学に入ってからは、完全に両親は巡の具体的な成績に興味を失った。もう何があっても正面から罵声を浴びせて、ひたすら全てを否定した。

格好だけはしっかりさせたが。

食事も兄たちの分は両親が自分達で作っていたが(もっとも、両親は認めなかったが、どちらも料理は上手ではなかった)。

巡にはレトルトを自分で作るようにと言って放り出し。

まともにそれ以外は世話をしなくなった。

弁当に関しても、余り物を詰め込んで持って行くようにと言われた。

兄たちは飽食の傾向があったが。

それでも食べ残しを弁当に詰めていかなければならず。とにかく惨めだった。

兄たちはその頃には体質関係なく、怠惰と堕落で風船のように太っていた。

完全に節穴になっている両親は、それをなんとも思っていないようだった。

今日も家に帰る。

ここは地獄だ。

燐火は羨ましいな。

巡はそう思う。

鈴山家は、エリート家庭の皮を被った。破綻した家だった。

 

2、スイッチが入る

 

鈴山さんと組み手をする機会があったので、淡々とこなす。

腕は上がっているが。

ただそれだけだな。

決定的な一打が足りない。

無言で礼。

八子さんが丁寧に指導をしているので、燐火は必要ないか。いずれにしても、組み手でも勝負にすらならなかった。

真面目清楚系。

小川先輩の台詞だが、燐火にはよく分からない。

清楚なんて実在するのだろうか。

あくまで見た目だけの話だろうに。

確かに綺麗に整えた髪も格好も立派だが。

その割には、どうしてもやはり乾いて見える。

ルーチンをこなして帰る前に、軽く話をする。

「勉強について、小川先輩に教わるのに抵抗があるのなら、燐火が教えましょうか」

「いえ、大丈夫です」

「……大丈夫にはあまり見えませんが。 今度そちらの家に伺って教えても良いですが」

「……っ」

明確な恐怖というか、拒否反応が顔に浮かんだ。

ああ、これは色々あるな。

そう悟ったが、それ以上は追求しない。

ただ、ケルベロスが言う。

「まずいなあの鈴山という娘。 死相が出ている」

「死相ってあるんだね」

「ある。 というか、気づいただろう。 あれは日根見と同じパターンだ。 虐待を確定で受けているだろうな。 格好だけ繕っているが、ただそれだけだ」

それは、不愉快だな。

今の時代は、家の位置などを調べるのは難しいが。

仕方がない。

帰り道、鈴山さんをつける。

今の燐火だったら、警官くらいだったら余裕で尾行できる。それもあって、特に難しくもない。

家の位置は特定。

非常にこぎれいな家だが。

あれはかなり築年数が経過しているな。

恐らくだが、家ぐるみで受け継いでいるものと見て言い。

だが、その割には車などはそれほど高価な品じゃない。

両親も、帰ってくるのが随分早いようだった。

仕事なんか、定時で帰るのが当たり前だ。本来は、それで仕事を回すべきである。

だが、あれはちょっと雰囲気が違う。

ずっと険しい顔をしている二人だ。

そして、大分遅れて兄らしいのが帰ってきた。

太って堕落しきっているのが分かる。

高校生のようだが。

あれは両親を舐めきっているな。

なるほど。だいたい分かってきた。ついでに兄らしい二人が話しているのをちょっと聞く。

両親を徹底的に馬鹿にしている。

鈴山さん。巡さんを更に馬鹿にしている。

安月給だの無能だの。

そういう話をして。

妹については、あの役立たずがとか、口を極めて罵っていた。それも半笑いで、である。

いずれにしても円満な家庭ではないな。

とりあえず、さっさと切り上げる。

家に戻った後、ルーチンをこなす。

淡々とこなしていくと、杏美が泣き始めた。

世話をして、少し時間を浪費するが。

おかあさんはちょっと疲労でダウンしている。おとうさんはさっきまで杏美の世話をしていたが。

燐火に代わって、配信に戻った。

配信の苦労を考えると、燐火もそれにどうこうはいえない。

熱ヨシ、おむつヨシ。

高い高いをしていたが、しばらくぐずって困った。おかあさんに世話してほしかったのかな。

そう思って、ちょっと困ったが。

とりあえず、ケルベロスがアドバイスをくれる。

「これは単に虫の居所が悪いだけだな」

「一番たちが悪いね」

「普通は子供はそういうものだ。 どんなに良い子であっても、そういう時は普通だったらある」

「そうなんだね」

燐火も機嫌が悪くなることはあるが。

それは全部自己分析できるので、不可解に感じることはない。

ともかくやっと寝始めたので、ベビーベッドに寝かせて、勉強に戻る。

ふらふらのおかあさんが仮眠を終えて起き出してきたので。杏美の状態を引き継ぎして、交代。

風呂に向かった。

これは当面は二人目どころではないだろう。

警察をきちんと辞めてきたのは正解だなと燐火は思うが。

それ以上は言わない。

黙々と勉強を終えて。

杏美のチェックをおかあさんがし始めたのを見ると、外で武道のルーチンをこなす。歩法については、更に課題が多いが。

まだまだ、鍛錬そのものが足りていないと、鍛錬をすればするほど分かる。

力に溺れたアホは幾らでも見てきた。

それらが反面教師になってくれている。

それをよしとするべきだ。

ルーチンをこなす。

ケルベロスが言う。

「体も出来てきたし、そろそろルーチンを増やすぞ」

「やっとだね」

「ああ。 成長痛も一段落しただろう。 それで……」

具体的なメニューについて言われたので、頷く。

ただし明日からだと、釘も刺された。

余力がなくなっている状態でダイモーンが出ると厄介極まりない。

ケルベロスの判断は妥当である。

鍛錬を終えたので、家に。

風呂に入って、それから夕食に。

実は、平坂家では家族で食卓を囲むことは滅多にない。おとうさんがああいう不定期な仕事をしているから仕方がないのだけれども。

今日はおとうさんの配信が短めのものだったらしく。

夕食は、久々に杏美も交えてすることになった。

もう杏美は離乳食を始めているので、おかあさんが食べ方を指示しながら、一緒に食べる。

勿論まだ離乳食以外を与えるのはよろしくないので、他の家族の食べ物を口に入れないよう見張っていないといけない。

また、離乳食には絶対厳禁のものもたくさんある。

蜂蜜辺りが有名だが。

そのあおりを食って、蜂蜜を最近ケルベロスは口に出来ないため。

それでケルベロスは、子供のためだから仕方がないといいつつも。

ちょっと不満そうにしている事が時々あった。

まだ片言だが、スプーンは意外と器用に杏美は使えるようになってきている。

これはそろそろおむつも卒業かな。

そう思って、少しだけ嬉しくなる。

うちは布おむつを使っているのだが。これが洗うのが結構大変なのである。

いずれにしても、人間はこの年頃は何も出来ない。

それはどんな英雄だろうと同じ事である。

もう少しすれば立って歩くことも出来るようになるだろう。

少しずつ出来ることが増えていけば。

その時は、燐火とも話せる事が増えていく筈だ。

夕食を淡々と終えて、それで。

ダイモーンが出た。

嘆息して、ちょっとランニングしてくるとおかあさんに言って、外に。

そして、現地に向かう。

かなり大物だ。

既にカトリイヌさんが出て、押さえ込みに掛かっているが。見かけ巨大なコウガイビルである。

雨の日などにブロック塀などに張り付いている事が見られる品種だが。

あちこちに人間の目がついていて、カトリイヌさんが青ざめていた。

「燐火、現着!」

「早かったですわね。 ともかく、急いでくださいまし」

「了解」

カトリイヌさんは、こういうの苦手みたいだし、さっさと聖印を切る。

破裂するダイモーンの体。

だが、二三度ではこのサイズになると倒せない。

体長十五mはある相手だ。

発見されている史上最大の蛇であるティタノボアやヴァースキと並ぶレベルの相手である。

それは簡単には倒せない。

連続して聖印をたたき込む。

昔は数度聖印を切ると随分疲弊していたが、今ではなんでもない。

うるさそうに突進してきたダイモーンを、カトリイヌさんのドミニオンが光の壁ではじき返す。

だが、明らかにずり下がっていた。

「重……っ!」

「同サイズの実在した古代蛇は、体重が一トンを超えていました。 あれが同じくらいの質量だとすれば、不思議ではないかと」

「あ、あんな大きな蛇が実在しましたの?」

「そういえばそうですよね。 知らなくても不思議ではないですね」

ともかく聖印を立て続けに切り。

全身が破裂していくダイモーン。

三十度ほどで、ついに完全に爆ぜたが。

何度もその間に壁で防いでいたカトリイヌさんは、息も絶え絶えになっていた。

へたり込んで、ぐったりしている。

しゃんと音がした。

菖蒲さんが側に来ていて、錫杖を地面に。

それで、悪運が浄化されていく。

コールタールのように広がっていた悪運は、すぐにかき消えていった。

ダイモーンが大量に湧いていた事もあり。

それらで悪さをしていた悪党もこの辺りには結構いた。

だがダイモーンが滅びることでそれらが巻き添えを食って片っ端から破滅していった結果。

最近はダイモーンを倒しても、それで直後に大事件というのは減りつつある。

菖蒲さんが祓ってくれたので、礼を言う。

レポートは。カトリイヌさんが書くそうだ。

「壁にしかなれませんでしたから、せめてそれはやっておきますわ」

「そうですか。 無理はなさらずに」

「おっと、そうだ。 相談があります」

菖蒲さんを呼び止める。

小首をかしげた菖蒲さんに、鈴山さんの状況を説明する。そうすると、ああと、皮肉そうに言った。

これは知っているな。

「あの堕落した高校生、有名人なんですか」

「悪い意味でね。 確か学校での勉強がぬるすぎるとかで、授業をまともに受けず、それでいながらテストで好成績を出しているから、それで目をつけられているらしいの。 しかも夜遊びをしている姿も目撃されているとか」

「それは大概ですね」

「勉学が出来るなら目をつぶる、というのが高校の方針らしいのだけれども。 話を聞く限り、それらを社会の上層につけたら絶対にろくな事にならないね。 ちょっとこっちでも調べておくね」

菖蒲さんがそう言ってくれると頼りになる。

燐火の方でも、もう少し色々とやっておきたいことがある。

とりあえず帰る。

途中で勿論着替えておく。

今回は、移動中のダイモーンだったらしく、誰かに悪運を注いで、破滅させて力を増していた訳ではないらしい。

ただ時間を経て強くなった古い個体らしかった。

それが何かしらの悪さをする前に片付けられて良かった。

ともかく、今は家に戻る。

そして、後は寝る。

まだ体は伸びる。

急成長は終わったかもしれないが。

まだまだ体を伸ばすために、睡眠は必須だった。

 

空手部を鈴山さんが休んだ。

何かあったらしいと、噂が流れている。

まあ、今は部活はそこまで一生懸命やるようにとは言われていない。別に一度や二度サボったところで、どうこうされるいわれはない。

ただ、小川先輩が教えてくれる。

「札付きの高校生が補導されたらしくてね」

「……それって、ひょっとして鈴山さんの」

「察しが良いね。 ひょっとして話を聞いてる?」

「少しだけ事情は知っています」

小川先輩が、生臭い話をしてくれる。

鈴山さんの家が、エリートコースから脱落したらしい事。

鈴山さんの一族が、エリートコースを出している一族で、その鼻つまみ者扱いであるらしいこと。

兄二人は勉強が出来る反面、学校で暴君そのものとして振る舞い。

それで学校でも手に負えないと困り果てていたらしいこと。

なんでも鈴山兄が行っていた学校は、最近良い大学に進学した生徒を出しておらず。鈴山兄がそれを為してくれたらと言う期待もあり。それでかなり悪行を多目に見ていたらしいのだが。

なんと繁華街で覚醒剤を買っているのを捕まり。

補導されたということだ。

しかも尿からも高濃度の覚醒剤が出たらしく、常習していたのは確定だそうだ。

覚醒剤となると、補導だけではすまないだろう。恐らくは、証拠が固まり次第逮捕だろうな。

家宅捜索も入るはずだ。

それは鈴山さんも部活どころではないはずである。

「色々大変みたいですけれど、鈴山さんは大丈夫でしょうか」

「なんとも。 今警察の方で保護されているらしいけれど。 あの家、評判悪かったからね」

「やっぱり……」

「どうしても話が聞こえてくるんだけど、家の外まで怒鳴り声が毎日のように聞こえてきてたって。 高級住宅街だから話題になってたらしくて」

ため息が出る。

問題は、この後だ。

馬鹿兄どもが逮捕となると、大学進学どころではなくなる。

それを溺愛していた親どもも、はっきりいって無事ではすまないだろう。

問題は鈴山さんだ。

日根見ちゃんの時の事がある。

それもあって、備えなければならないだろう。

ともかく、小川先輩に説明はする。

鈴山さんは恐らく何も悪くないし、被害者だと。それを聞くと、小川先輩も頷いていた。

「分かる。 あたしもどっちかというとそうだ。 派手な見かけだからって、スクールカースト自称上位のカスどもに、パパ活やってるとか噂流されてさ! カスみたいな兄貴のせいで、巡っちがどうこう言われる筋合いはないよね!」

敢えて大声でいう小川先輩。

今、小川先輩は空手部で上位の実力になっている。

三年の男子でも組み手で勝てるか勝てないか、というところだ。

部長は例外とする。

空手だけなら、燐火と互角に近い実力者だ。

だが。その空手部の部長が、次は小川先輩を部長にすると、この間指名した。それに、誰もが納得していた。

実際、二年では勝てる生徒もいない。

それに見かけで損はしているが、授業をサボったりもしていないし。

空手部での鍛錬も誰よりも真面目にやっている。

それを見て、小川先輩の噂を信じていたような生徒が、謝りに来ることも多いようだった。

「とりあえず、鈴山さんに手を出すような奴がいたら、ぶち殺す方針でいいかな……」

「本気でやりかねないからやめろ。 今回に関しては心配はないと思うぞ」

「ケルベロス、何か知ってるの?」

「……既にいくつか俺の耳で話を拾った。 どうも教師達には話が行き渡っているようでな。 鈴山巡の事情は、とっくに知られていたらしい。 高校の側でも、色々やらかしていることについては把握していて、それで対策を練っていたらしい。 それで今回の事件もある。 関係者に通達が回ったようだな」

まあ、覚醒剤なんかやったら一発アウトだな。

鈴山家は終わりだ。

だが、巡さんはどうするのか。

またどこかしらに養子に出るのか。それとも。

それから数日して、追加の情報が入ってくる。

それで、あっと声が出た。

鈴山の馬鹿兄弟が捕まったのは、燐火がダイモーンを祓った辺りだったそうである。だとすると、あのダイモーン。

あちこちを放浪して、それでケルベロスに呼ばれて来て。

挙げ句、死に際にぶちまけた悪運を浄化され。

その浄化に、馬鹿二人が巻き込まれて。一気に悪運を喪失したのかもしれなかった。

だとすると、因果応報と言う奴か。

意図的にやったことではない。

だが、ケルベロスが周辺の幸運を操作してくれているのも分かっている。

数日後、更に続報が入る。

鈴山家両親、どっちも逮捕。

鈴山父の方は、地方銀行での閑職にいたそうだが。パワハラを部下に対して常態的にやっていたらしく。

息子が覚醒剤で逮捕されたタイミングで部下達が一斉に告発。

自衛のために映像を残していたことも。更にはこのタイミングであったことも災いして、会社を首。

更には逮捕となった。

パワハラ程度ではたいした罪にならないのが不愉快な話だが、それでもこれで銀行マンだったか。

そういうエリート様としては終わりだ。

更に鈴山母だが、閑職に回されていたが。その腹いせに、たちが悪い「福祉団体」に金を横流ししていたらしい。

前の上司の人脈を使っての悪行だったようだが。

小遣い稼ぎにそれをやっていたらしく、それが発覚。

こちらも解任。

ついでに逮捕となった。その悪辣な「福祉団体」とやらも家宅捜索されたが。この団体が覚醒剤をばらまいていたらしく。

挙げ句、「保護」した生活困窮者に売りつけて稼いでいたらしく。

団体の関係者も根こそぎ逮捕されたようだった。

芋づるである。

これはおかあさんが警察にいたら、数日は帰ってこられなかっただろうな。そう思って、燐火はげんなりした。

ダイモーン……かなり大物だったが。

それを祓った結果、凄まじいことになった。

まあそれはそれで構わないか。

カスがそれで消えたのだから。

問題は鈴山さんだが。

翌日には、空手部に来た。随分とすっきりした顔をしていた。

なんでも、鈴山家の親族に、真面目な老夫婦がいるらしく。

他の親族に対して非常に強い権力を持っていて。今回の件で騒いでいる親族をまとめて一喝。

そして、自身で鈴山さんを引き取ったらしい。

非常に厳しい人たちであるらしいのだが。

それはそれで、老人になってから子供に甘くもなったのだろう。

鈴山さんにはかなり優しいようだ。

空手部で話を聞かされる。

「ちゃんとした晩ご飯を食べれたのなんて、いつぶりか分からないよ。 勉強についても、今までみたいなおかしなプレッシャーを掛けられなくなったの」

「それは良かったですね」

「うん……」

空手も好きにやって良いし、次にある冬の大会を楽しみにしているし見に行くとも言ってくれたそうだ。

まあ、権力の上位層に影響を持っている人間だと、何を考えているか分からないので、手放しで喜ぶことは出来ないだろうが。

老人が子供に甘くなるのは、一種の習性だとケルベロスが教えてくれる。

なんでもケルベロスの話によると、三世代で家庭を作る習性を持つ人間は、仕事の前線から離れる老人世代になると、子供を育てるためか甘くなりがちだという。

これはもう習性だという話だ。

勿論そうではない人間もたくさんいるが。

菖蒲さんから連絡が来る。

「こっちでちょっと調べて貰ったら、とんでもない大蛇が藪から出てきてね。 うちになんだかいう高級官僚がお菓子もって謝りに来たよ」

「ということは、これはひょっとして大問題の氷山の一角ですか」

「そうなるね。 多分近々、大臣が一人辞任することになると思う」

「……」

大臣の辞任なんてしょっちゅう起きているイメージなので、それで終わるのかとだけ思ったが。

まあ、それももう少し年を取れば、印象も変わるかもしれない。

ともかくだ。

それを引き起こした鈴山の馬鹿兄貴達と。

意図的にそれを甘やかしていた馬鹿親どもは、もうこれは日の当たる場所を歩けないだろう。

連絡を終えると、帰路で鈴山さんと話す。

「とりあえず、今後はどうするんですか?」

「おじいちゃんとおばあちゃんとても優しいから、何も不満はないよ。 将来についても、前はガン詰めされてたけど、おじいちゃんとおばあちゃんは好きにすれば良いって言ってくれたの。 普通の会社員にでもなれたらいいと思ってる」

「鈴……巡っち。 肩から力が抜けたね」

「そうだと嬉しいです」

小川先輩も嬉しそうだ。

他人事ではないから、なのだろう。

ともかく、意図せず問題が解決したのは良かった。馬鹿どもはそろって豚箱に放り込まれて。

後はずっとドブの底にいればいいのだ。

燐火はカスをたくさん見てきた。

だからそういった連中には際限なく冷たくなれる。そういった連中が、何をやらかしているのか。周囲にどれだけの害をばらまいているか。

知っているから、だった。

 

3、虎

 

杏美が歩いた。

それだけで、おとうさんとおかあさんは大喜びだ。

二学期の半ばほど。

燐火が中間テストでほぼ満点を取って、戻った翌日のことだった。

まだ食べているのは離乳食だが、それでもぶきっちょに歩いているのを見ると、燐火としては確かに親が喜ぶのも分かる。

ただ、燐火はこういうのとは無縁だった。

それにまだ長時間は歩けない。

もう少しすれば、助けがなくても歩けるようになるだろう。

勿論、燐火のテストの結果も褒めてもらえた。

ちゃんとおとうさんとおかあさんは、それを立派にやってくれる。それだけで、充分なくらいだ。

涼子からメールが来る。

テストの内容も、やはりかなり難しいようだ。

話を聞く限り、やり方を事前に知っていないと絶対に解けないような問題がかなり出てくるらしい。

数学なのに。

実際は暗記問題だ。

そう言って、涼子が愚痴っている。

暗記暗記で流石にうんざりしているようだった。

「これじゃ科挙試験だよ。 あっちほど酷くはないけど」

「ああ、あの悪名高い」

科挙試験。

中華で隋の時代から始まった国家試験制度だ。

誰でも受けられ。

合格者は誰でも高官に抜擢される。

それもあって、誰もが受けに行った、といえば聞こえは良いのだが。その実態は、大いに問題があるものだった。

内容が、暗記主体だったのだ。

それも儒教道徳関連の教養本が主体だった。

凄まじい量の文章を丸暗記しなければならない試験で、幼い頃から専門の講師について、二十歳で受かれば良い方。

苦学して受かった例もあるにはあるが。

極めて少ない例外中の例外である。

ちなみに唐の時代に日本から遣唐使で渡ってコレに受かった人間がいる。阿倍仲麻呂という人物である。天才だったのだろう。

いずれにしても、これでは富裕層の人間しか実際にはほぼ受からないし。

何より受かったところで、儒教道徳を洗脳に近い形で丸暗記しただけの人間が高官に抜擢されるだけである。

試験制度、誰でも受けられる、という点では極めて画期的だった。

それについては全くの事実だろう。

その内容についてはあまり最後まで改められず。

最終的には、清の時代までこの問題だらけの科挙は続いていくことになる。

涼子はそれに例えた。

確かにやり方を知っている、普通では思いつかない問題を解かせるのは、それは学習と言えるのだろうか。

著しく疑問だ。

確かに高等数学などは、そういった数学を独自の発想ですらすら解いていく事が必須かもしれないが。

それが出来ることは、「頭が良い」というよりも。

それに特化した頭を持っている、事になる。

涼子がぼやくのも当然だろう。

高級官僚に高学歴が多いのに。

アホが多いのも、色々と納得させられてしまう。

「そちらの中学だと、まだ上に二人いる状態ですか?」

「いや、一人はこの間追い抜いたよ」

「それは良かった」

「司法試験を大学の在学中には取りたいんだ。 そのためには、まだまだ足踏みなんてしていられないからね。 それに馬鹿親の監視もしないといけないし」

男性の中では性豪とかいって、下半身にだらしない人間を褒めちぎる風潮が一定数あるらしいが。

燐火としては、こういう被害者を見ていると反吐しかでない。

ともかく、いくつか話をしたあと、外に出る。

気配で分かった。

かなりやばいのが出た。

複合魔か、どこかの悪神だろう。それもダイモーンの気配があるとしたら。

スコルの一派かもしれない。

杏美はおかあさんが面倒を見ている。

ランニングしてくる。

そう言って、外に出る。

さて、無事に戻れるか。だが、スコルの背後にフェンリルがいた場合。もしも好き勝手にさせたら、はっきり言ってこの町くらい一瞬で滅びるだろう。なすすべすらもないはずだ。

フェンリルは(実際には武勇に別に優れていないとはいえ)主神オーディンを食い殺すほどの存在だ。

フェンリルが本当に背後にいるのかは分からないが、それくらいの警戒はしないとまずい。

現地に向かう。

日女さんから連絡が入る。

「具現化したのは恐らくインド系だ」

「インド系ですか」

「幸い、仏教はインド起源だ。 菖蒲姉と林西さんで対応できる。 ただ……」

「なんでしょうか」

どうも獣の魔であるらしい。

また獣か。

いずれにしても厄介な話だ。ともかく現地に急ぐ。今回は一柱だけのようだが。

それでも、かなり危険な相手だとみて良いだろう。

現地近くで、日女さんと合流。

インド系だということで、仏教系の魔祓いが主体で集められたようだ。

魔が降臨した山は封鎖されていて、自衛隊が守りを固めている。自衛隊も色々特殊装備はしているようだが。

流石に自衛隊と一目で分かる格好はまずいのか。

工事業者を装っているようだ。

いずれにしてもダイモーンを媒介の一つにしている以上、燐火が出ざるを得ない。

エヴァンジェリンさんも来ていた。

寝起きでかなり機嫌が悪そうでむくれているが、これは相手にスコルが加わる可能性があるから、である。

「結界、展開完了!」

「民間人避難完了!」

「魔祓い、突入開始します!」

「了解! 武運を祈ります!」

敬礼を受けながら、林西さんを戦闘に、敵地に向かう。

たくさんダイモーンがいる。

右に左に聖印で打ち払うが、たいした奴はいない。強大な魔は山頂付近に陣取っており、非常に危険な気配がする。

ケルベロスが警戒しろと敢えて言ってくる位だ。

燐火も、これはまずいと即座に判断していた。

山の上では、凄まじい悪運が漂っている。ダイモーンと融合しているのだろうが。それにしても、この力は。

即時で展開。

そこにいるのは、虎だった。

生半可な虎ではない。

明らかに、魔たる存在だった。

既に林西さんと菖蒲さんはそれぞれ明王を展開している。インド系で虎というと。

林西さんが、先に正体を当てていた。

「貴様ドゥルガー神の乗騎であるドゥンだな」

「然り。 我は偉大なる戦いの神であるドゥルガー神の乗騎ドゥン。 この国に少しばかり用事があって参った」

「よりにもよって虎、しかもあのドゥルガーの関係者か」

ぼやく日女さん。

燐火も神話は調べているから分かる。

ドゥルガーは元々インドで信仰されていた神をヒンドゥーに取り込んだもので、神々の怒りから生じた神とされる。シヴァの妻の一人であり、パールバティの化身とされることもあるが。

その性質は残虐な戦いの神であり、乗騎である虎ドゥンにまたがり、あまたの神々の敵を屠ってきた凶暴な戦神である。

更にこのドゥルガーの怒りから生じたカーリー神に至っては、もはや破壊と殺戮の権化であり、敵の血を啜り尽くして倒したりと、もはや神とは思えない残虐性を持っている。更にはカーリーと言えば、インドに実在した暗殺集団タッグともタギーとも言われる存在の信仰母体であり。

この集団は6世紀近くにわたって活動を続けた挙げ句、合計して百万以上とも言われる被害者を出した筋金入りのカルトである。

つまりインド神話の暗黒面の象徴とも言える存在で。

それの乗騎となると。

当然、破壊と殺戮が先に出るわけだ。

何より虎は、単騎の肉食獣としては雄ライオンと並ぶかそれ以上の最強の生物であり、熊を更に上回る戦闘力を持つ。

何もかもが最悪だ。

油断などすれば、一瞬で食い殺されるだろう。

全員が警戒する中、ドゥンはふんと鼻を鳴らす。

随分と余裕があることだ。

「先に我の同志であるウェウェコヨトルが受け入れられたと聞いたが、それは本当か」

「……この国の信仰に受け入れられることを了承した。 今はそれで、神社で祀ることにしたが」

「それは重畳。 やはり八百万の神を信仰するこの国は懐が広いな。 ムスリムと苛烈な争いをし、他の信仰を追い出し続けたインドの地とは随分と違う」

ドゥンは今のところ話を聞くつもりのようだが。

スコルがオーディン一派の戦力を削り続けているのと、これは一致した行動であるのだろうか。

ちょっと分からない。

ともかくとして、無言で周囲を囲む。

いつでも戦闘を行えるように張り詰める中。

ドゥンは、やはりよく分からない行動に出た。

「それでは我も受け入れてくれないだろうか。 我の主であるドゥルガー様ですら、仏教の眷属神格として受け入れられていると聞いている。 我もまた、受け入れられることは可能だろうか」

「……貴様を呼び出した存在について話すことは出来るか」

「残念ながら我にも仁義がある。 それは出来ない。 ただし、この国で祀ってくれるというのであれば、人間には一切害を為さないと約束しよう。 我は魔に近い存在ではあるが、其処のケルベロスと同じく神の側の存在だ。 ここにいる使い手達はかなりの腕とみるが、我と戦って被害をなしで抑えきれるかな? 交渉としては悪くないと思うがね」

「分かった。 交渉を頼もう。 ただ、ダイモーンは祓わせて貰う」

くつくつと、人間らしく笑うドゥン。

燐火がダイモーンを祓うと、別に痛みを感じている様子もない。一応、燐火としてもこの戦闘神格の乗騎に聞きたいことがあった。

「さっき散々ばらまかれていたダイモーンは、貴方がばらまいたものですか?」

「そうだ。 こちらとしても交渉をしたかったのでな。 手っ取り早くこの国の手練れを集めたかった。 人がいないところにばらまいたのだ。 理性的だろう?」

「人がいないところであろうが、爆弾をばらまくようなものですが」

「そうだな。 それは失礼した。 我は交渉を飲んだぞ。 そちらは約束を果たしてくれるのだろうな」

林西さんが連絡をつけたらしい。

神社を建てて祀ることに決めたそうだ。

虎の神となると、日本では被害が出ていないこともある。それなりに信仰は集まるだろうという話であり。

実際方角神の一角である白虎など、実際に信仰されている虎の神格はいる。

ドゥンはそれを聞いて喜んでいた。

「ドゥルガー様は信仰を受けているが、我はあくまで乗り物だ。 我を独自に信仰してくれる存在はありがたい。 やはり呼ばれて良かったな」

「ドゥルガー神はそれを許したんですか」

「あのお方はすっかり今や力と情熱の象徴としてあがめられている。 カーリー様と同じでな。 戦場を駆け敵を討ち取る存在ではなくなった。 我の出番は既にないのだ」

「……」

そういう意味では、物語に堕した存在達と同じか。

ヒンドゥーは未だにインドで信仰はされているが。

そのあり方には、カースト制などの悪しき側面が伴っており、それもあって反発もまだまだ多いようだ。

仏教がまたインドで少しずつ勢力を広げようとしているようだが。

それでカースト制という最悪のシステムが排除されるのであれば、いいのだけれどと燐火も思う。

ドゥンがおとなしくついていく。

これから地鎮祭をやって、神社を建てるそうだ。

虎をトレードマークにしている野球球団がいるそうなので、其処の信仰対象に虎神社として建てるとか。

その正体が残虐な戦神の乗騎であるなど、誰も気にしない。

まあ、それくらいの緩い信仰で良いのだろう。

日本に入ってきた外来系の神々なんて、元はそういった輩が幾らでも存在していたのだから。

さて、これで終わり、とはならない。

これほど強力な手札を、敢えて相手は放り捨てたとみて良い。

ウェウェコヨトルだって決して弱い悪神だった訳ではないはずだ。

ドゥンに至ってはインド神話でも上位に入る戦神の乗騎である。弱いわけがない。

それを立て続けに捨てた。

何を相手はもくろんでいる。

ただ内部から自壊して、どんどん人材が流出しているというのならそれは良いのだけれども。

どうにもそうとは思えなかった。

 

後は地鎮祭と護衛班に任せて、休憩を入れる。

家に戻ろうかと思った瞬間、また強い気配が現れる。

またか。

即座に腰を上げるが。

今度は、カトリイヌさんがこれは、と声を上げていた。

「今度は悪魔か?」

「いえ、気配に覚えがあります。 これは北米系のネイティブ信仰の気配ですわ」

「北米系か」

北米のネイティブでは、いわゆるアミニズムに始まり、動物信仰などが行われていた。

これは北海道のアイヌの信仰などにも似た部分がある。

北米は今や一神教による独壇場の地だが。

ネイティブはかなり頑強に抵抗を続け、今でも一定数が生存し、信仰を守ることに成功はしている。

そういう点では、信仰を全て奪われ、皆殺し同然の目に遭った南米の文明よりは状況がマシかもしれない。

「対応できる魔祓いは」

「こちらから連絡しますわ。 幸い北米ネイティブの魔祓いは、多少は数がいますのよ」

「父はドゥンの護送。 私が行くけれど、この気配だと対応できるかな」

「菖蒲姉が対応できなかったら、この場の誰にも勝てねえよ」

日女さんがぼやく。

このタイミングでの連続出現、恐らく偶然ではないだろう。

しかも、場所はさっきドゥンが出現したのと同じ地点だ。自衛隊もあわててバリケードを張り直しているようである。

家に連絡。

少し遅くなると連絡は入れておく。

嘆息すると、即座に山に。

今度のは、さっきのドゥンと違って、なんだか妙な気配だ。こっちを馬鹿にしているというかなんというか。

また山登りで、カトリイヌさんが結構バテている。

それなりに鍛えている筈なのに、体力がないなあ。護衛の人も、今日はセバスティアンさんだけだ。

若い無口な方がいない。

「北米ネイティブの魔祓いはいつ頃到着しそうだ」

「ちょ、ちょっとお待ちください、まし。 さ、三時間、くらいで、ヘリで」

「そうか。 背負ってやろうか」

「結構ですわ!」

日女さんに、カトリイヌさんが流石に怒るが。

エヴァンジェリンさんがちょっと遅れているのを見ると、どっちも燐火は心配になってくる。

今回は菖蒲さんだけが来ていて、ほかの仏教系魔祓いは下で壁を展開している。

ともかく、またダイモーンの気配がするし。

燐火が行かなければまずい。

連続で出現か。

また面倒なことをしてくる。

敵の手札は思った以上に豊富なのかもしれない。

厄介な話である。

不意に、何かが側に来た。

即座に鉄パイプをたたき込むが、それはアニメみたいな……それも大昔のカートゥーンみたいな動きで回避すると、ゲラゲラ笑いながら森の奥に消える。

イヌ科に見えたが、なんだあれ。

ともかく、極めてトリッキーだ。

今度は上か。

手が伸びてきて、カトリイヌさんの貫頭衣を引っ張ろうとした。それもスカートをだ。

カトリイヌさんがなんかかわいい悲鳴を上げるなか、日女さんが即応。

即座に回し蹴りをたたき込むが、やっぱり手がするっと消えていく。

げたげた。

笑い声が続く。

菖蒲さんが、即座にエヴァンジェリンさんを抱き寄せる。

地面から生えてきた巨大な口が、エヴァンジェリンさんがいた地点をばくんとかみつぶしていた。

これは、なかなかにまずいな。

ずっと響いている笑い声も、頭がおかしくなりそうだ。

セバスティアンさんが、連絡を入れる。

これは三時間耐えるのは、厳しいかもしれない。

「思ったよりやるねえおまえ達。 僕ちんがちょっと様子見に来たけれど、それで正解だったかな?」

「貴方は。 私は平坂燐火と言います」

「おお、ちゃんと名乗るねえ。 僕ちんは名前なんかないよ。 強いて言うならコヨーテだね」

けきゃきゃきゃきゃと、甲高い笑い声。

コヨーテ。

北米ネイティブに伝わるトリックスター。

神格としてはずる賢さの象徴のようなもので、欧州、一神教における狐のようなものである。

とりあえず、死角をなくすように陣を組む。

ずっと響いてくる笑い声が集中を乱すのもあるが。

何をしてくるか分からないし。

何より北米ネイティブの魔祓いが来ないと、有効打を入れようがない。

ただ、既にルーンを切っているエヴァンジェリンさん。これは、何かしら対策があるのかもしれない。

「ロキやヘルメスのようなトリックスターだな。 とにかく気をつけろ。 予想もしない戦術で来るぞ」

「分かってる」

ケルベロスの警告はよく分かる。

集中。

今の時点でダイモーンを潰されるとまずいはずだ。それもあって、最終的に燐火を狙ってくる筈。

周りは、他の人に任せる。

今は。とにかくだ。

剣道で師範と向き合ったとき。

充子と向き合ったとき。

そういった時の、極限集中を維持する。

左。

日女さんが対応した。

後ろ。

菖蒲さんがはじき返した。

そして、来る。

二歩下がりつつ、鉄パイプを抉り上げる。

斜め上から狩りに来たコヨーテの爪が、完全に砕け割れていた。

「いってえええっ!」

「入りましたね」

「て、てめ、やりやがったなあ! 僕ちんになんで攻撃が入るんだよ!」

「攻撃の瞬間だったからですよ」

飛び退こうとするコヨーテに、そのまま聖印をたたき込む。ダイモーンが爆ぜるのが分かった。

これはまずいと判断したのか、コヨーテが逃げに掛かるが。

次の瞬間、光のひもをエヴァンジェリンさんが出現させ、コヨーテを縛り上げていた。抜け出そうとするが、地面に墜ちて転がるコヨーテ。

「な、なんだよコレ!」

「さて何だろうな。 天才たる私が……」

「なーんてな」

コヨーテの口から、中身が飛び出す。

それは更に小さいコヨーテだった。小さいコヨーテは多数に分裂。四方八方に逃げ散っていた。

これは、追えない。

「厄介な相手だ……」

「でも、戦闘神格としての力は失ったようですね。 あれは戦闘を出来る肉体ではないですよ」

日女さんに、燐火が逃げていくコヨーテたちを見送りながら言う。

倒れている縛られたコヨーテは、熊ほどもあるサイズだ。

脱皮するように戦闘神格を捨てていき。

代わりにトリックスターとしての本体だけで逃げていったのか。

厄介な奴だ。

「燐火は戻ります。 それで、どうしますこれは」

「こちらで責任を持って処理しますわ。 予定通りきちんと魔祓いは来てくれるようですので」

「それにしても面倒な奴だ。 トリックスターは何をしでかすか本当に分からん」

「……ここだけの話、北欧系の魔で最後まで一番魔祓いを苦労させたのはロキだったらしいのだ」

エヴァンジェリンさんが言う。

今のルーンについての話はしない。

あれがグレイプニルだったのかは分からない。ただ、前に言っていた作成期間を考えると、もう完成していてもおかしくないはずだが。

「今逃げ散ったコヨーテは集合体としての魔だった。 悪神に近いとも言える。 だが、人間に実害を与えるというよりも、恐らくは西洋の悪魔のように、悪意を耳に注ぎ込んで、悪行をさせるタイプだ。 天才たる私は見ていたが、十二体はいた。 あれを全部倒さない限り、この辺りは安全とはとても言えないだろうな」

「それに今ここに出現したのも気になりますね。 ドゥンに対処させて、弱ったところで仕掛けてきたのじゃないでしょうか」

「その可能性はある」

日女さんが、とりあえず戻ろうと言う。

それで戻ることにする。

とにかくぐっと疲れる相手だった。

もしも敵が、遅滞戦術目的でコヨーテを出してきて。

あのコヨーテは、特性を生かしてやりたい放題をしてくるとなると。

燐火だけでは対処できない。

ともかく今は、北米系ネイティブの魔祓いの到着を待ち。

反撃に出るしかなかった。

 

分裂したコヨーテの一体を追い詰める。

北米ネイティブの魔祓いが、とにかくおちょくって回るそいつに対して、何かしらの印を突き止め。

そして言葉を放つと。

コヨーテは、風船のように破裂して、何もいなくなった。

「これで三体目か」

「厄介な話だ。 これほどの数のコヨーテが一度に現れた例は、近年米国でもない」

そういったのは、逞しい肉体を持つ壮年男性の魔祓いである。

いかにもネイティブという格好はしておらず、ジーンズにシャツというアメリカンスタイルだ。

ネイティブの文化を継承してはいるが。

今のアメリカのあり方を拒絶もしていない。

そういう風に振る舞うことで。

反発を受けず。

ネイティブの中からも認められる。

そういうあり方を目指しているそうだ。

四角い顔のごついおじさんだが、とてもよく考えていると言って良い。

アメリカではFBIが魔祓いの部署を作っているらしいが、ネイティブ系の魔が出た場合は、いの一番に投入され。

給金も下手な士官より貰っているそうだ。

今まで、街に散ったコヨーテは、とにかく悪さの限りを尽くしていた。

人を殺すような真似こそしていないが。

電子機器を狂わせたり。

人間が何もないところで転ぶように仕掛けたり。

明確な悪戯である。

何か恐ろしいものがいる。

そう錯覚するように、幻覚も見せているようだ。

それで化け物が出たと、騒ぎになっている。

そういう騒ぎで人間が驚いて慌てるほど、コヨーテの力になる。

全部倒したときには、どれほど力を増している相手とやりあわなければならないのか。少し心配だ。

「次が見つかった!」

「すぐに行く」

休憩している時間もないな。

燐火も当然出向く。

ダイモーンと融合しているのだ。燐火がいかないと、完全に祓うことは出来ないのである。

今度の奴は道路のあちこちに穴を掘って、モグラ叩きみたいに顔を出して、人間を脅かしていた。

訳が分からない生き物がいる。

そう通報があって、発覚したのだ。

これでは見つけてくださいといわんばかりである。

十二体が分裂したようだが、その後更に分裂している可能性も捨てきれない。

毎度力を増しているとすれば。

倒して弱体化するかも怪しい。

そしてまた合体して、戦闘神格になる可能性もある。

ともかく、今は少しでも相手の手数を減らさなければならない。

日女さんが押さえ込んでくれていた。

だが、それでもかなり厳しい状態だ。

モグラ叩き同然に、住宅街の道路にあいた穴から、次々とコヨーテが顔を出し。古くのカートゥーンみたいにベロベロバーとして。

それで日女さんをおちょくりまくっている。

時々日女さんも痛打を入れているようだが。

それでもどうしても簡単にはいかないようだし。

負傷した一神教系の魔祓いが、引っ張られて後方に下げられているのも見えた。文字通り遊んでいる。

そして負傷させて、それでこちらのリソースを割いている。

コヨーテ、侮れないな。

此奴、いやこいつらか。近代戦術を知っている。

即座に対処に掛かる。

日女さんが、燐火達が到着したのに気づくと、今まで四方八方から攻撃を受けていたのを一転。

神おろしの出力を上げて、コヨーテの背後を取り。

一気につかんで締め上げた。

コヨーテはそれからするりと抜け出したのだが。その瞬間、ネイティブの魔祓いの人の言葉が炸裂し。

コヨーテの顔面がザクロみたいに爆ぜた。

更には燐火も魔祓い。

ダイモーンを消し飛ばす。

それでコヨーテが消えていく。

四体目か。

尻餅をつく日女さん。

最近では神おろしの負担がだいぶ減ってきているようではあるのだが。それでもかなり負担はあるようだ。

ましてや今日は、何度も使っているのである。

前は全力展開で翌日全身筋肉痛だと言っていたが。

今もかなり負担は大きいようだ。

「きりがない」

「そうだな。 まだ気を抜くな」

「!」

反応は燐火と日女さんが同時。

一緒に来ていた自衛隊員の後ろから、抜き足差し足で忍び寄り、角材を振り下ろそうとしていたコヨーテ。

それに日女さんが蹴りをたたき込み、角材を燐火が鉄パイプでたたき落とす。

コヨーテは、わあ見つかったあとか大げさに言いながら、カートゥーンみたいに逃げようとするが。

それも残像を作って回り込んだネイティブの魔祓いの人が。

たくましい筋肉をむき出しに、地面にたたきつけ。直に聖なる言葉をぶち込んでいた。燐火も即時で聖印を切る。

立て続けに二体。

でも、今のは力が弱かったように思う。

それは、既に懸念している事態。

分裂している可能性があるということだ。

「こちらを翻弄して、徹底的に疲弊させるつもりみたいですね」

「絵に描いたような遅滞戦術だ。 戦術を知っていやがるし、自分の体を切り捨てることをなんとも思っていねえ。 厄介な奴だ」

「動物としてのコヨーテと違い、魔としてのコヨーテはこういう輩だ。 ただ、最終的には敗れる。 そういう存在だ」

ネイティブ系の魔祓いが、座り込むとスポーツドリンクを飲み干す。

日本製のスポーツドリンクだが、これが大のお気に入りらしく、日本に来てから大量に買い込んで飲んでいるそうだ。

ともかく、消耗が激しいが、それでも動かなければならない。

程なく、また連絡が来る。

すぐに動かなければならなかった。

 

4、トリックスターの戦い方

 

コヨーテは分身の一つでアジトに戻る。

分身全てが意思を共有し。

相互リンクしている。

それはつまり、今問題視している平坂燐火の手札を、どんどん見ていくことが可能だと言うことだ。

ここ数日で既に半数の分身を潰されたが、なんら問題はない。

分裂してどんどん補えば良い。

そして、人間どもの間に恐怖を撒いている。

得体が知れない野犬みたいなのが、住宅街を徘徊している。

コヨーテは一般人に見えるように、敢えて調整までして。その噂の拡散が止められないようにしているし。

分身のうち数体は、SNSにアクセスして、電子戦までやっていた。

発信元を拡散されても、即座に別のアカウントに逃げるだけ。

トリックスターは伊達ではないのだ。

戻ると、控えていた銀の狼と、それに邪神。

それらに、軽く燐火の手の内を話しておく。

銀の狼は、ふっと笑ったようだった。

「想像以上に成長が早いようだな。 フリッグを倒した時とは、まるで別物のようではないか」

「だがまだ子供だ。 倒せぬ存在ではない。 フルーレティは返り討ちに遭ったが、あれと我らは違う」

「へっへっへ、そうですね。 だけれども、侮っていると足下をすくわれるかもしれやせんぜ。 僕ちんも、そう思っていた子供の魔祓いに、あっさりやられたことが何回かありましてねえ。 あの年頃の子は、三日会わざればって奴っすわ」

「そうか。 面白いことわざを知っているではないか」

からからと笑う邪神。

コヨーテは座ったまま、にやつく。

今の時点では、魔の狼の思惑通りだ。

敢えて人間側に行きたいという魔獣や邪神については、手ほどきをしている。

これは全て、小細工をしていない。

小細工をしていないことが、敢えて人間に疑念を抱かせる。

どうして戦力を自分でそぐような真似をする。

だが、それこそが目的だとすれば。

今の聖邪の逆転。

それがこいつらの目的であることを、コヨーテは見抜いていた。

勿論、コヨーテも使いっ走りで終わるつもりはない。

せいぜい面白おかしく状況を楽しませて貰うだけだが。

「おっと、分身がまた一つ潰されましたねえ。 僕ちんやられちゃうかなあ」

「言っていろ。 おまえに余力がまだまだ有ることは分かっている」

「ばれました? まあ、この程度だったら苦にはならないっすわ。 やられた分、増やせば良いだけっスしね」

「便利な体だな」

邪神が呆れ気味に言うが。

分霊体を作る技術は、どこの神だって持っている。

コヨーテはそれがちょっと極端なだけ。

それだけだ。

ただ、あまりにも分身がやられすぎると、人間の間にばらまいている恐怖での増強が追いつかなくなる。

今の目的は遅滞戦術だが。

それも燐火を成長させてしまうと意味がない。

今目をつけている厄介な相手は。

あの燐火と、もう一人。

菖蒲という女だ。

特に菖蒲は、まだ若いのに、この国でも一線級に近い場所にいる。それだけ腕を上げているのだ。

手を抜ける相手ではないと言えるだろう。

報告が終わったので、この場を離れる。

コヨーテはあくまで利己の怪物だ。

最終的には、全滅する前にウェウェコヨトルやドゥンのように、降参を選ぶつもりである。

北米では所詮悪神で魔獣だ。

日本みたいに魔でも神社に祀ってそれで調伏してしまうという事はしない。

魔は魔で退治する存在である。

日本は違う。魔でも調伏出来るならして、味方にしてしまうのだ。そういう発想があるこの国では、見たものを族滅する強力な邪神であるやとのかみまでもが神社に祀られている。

ふと、アジトを振り返る。

そんな国でも、調伏を諦められたあの邪神。

一体どれほどの邪だったのか。

それがちょっとばかり気になる。

だが、それでもまあいいか。

利害は一致しているし。

引っかき回すだけ引っかき回したら、それで降伏していいという許可も貰っている。

今はする仕事をするだけだ。

 

これで十四体目。

ケルベロスが、いい加減に苛立っているようだった。

「どんどん手口が巧妙になっているな。 不愉快な雑魚だ」

「トリックスターは侮れないって話が身をもって分かったよ」

「そうだな……」

ケルベロスが不快そうに吐き捨てる。

気持ちは分かるので、燐火はそれ以上は言わなかった。

ここのところ昼休みに出ては魔祓いなんて事も生じている。帰路で小川先輩や日根見ちゃんと別れて、即座に魔祓いという例も出てきていた。

ルーチンの途中に出ることもあった。

ダイモーンの出現数は減ったが。

その代わり、コヨーテがやりたい放題に暴れている。

今日も寝る直前での出現だ。

帰ったら、風呂に入ってもう一度汗を流すか。

面倒なことこの上ない。

自衛隊が送ってくれる話をしてくれたが、地力で帰ることにする。

そのまま戻りながら、エヴァンジェリンさんと連絡して話す。

エヴァンジェリンさんによると、どうにか敵の戦力を削る速度の方が早いようだが、まだコヨーテには明確に余裕があると言う。

やはり人間を怖がらせておちょくって力を増し。

力を増した先から分裂して手数を増やしている。

それだけじゃない。

ネットでも、不可解な書き込みが激増している。

恐らく分霊体が、SNSなどを活用して、人間に「なんか得体が知れない獣がうろついている」という話を広めているようなのだ。

それを自衛隊の電子戦部隊が対応はしているようだが。

出所を突き止めると、即座に別のアクセスポイントに使っている端末に移動されてしまう。

その端末もスマホからデータセンタのサーバまで、様々であるらしい。中にはゾンビ化したルーターだった例まであるそうだ。

厄介な相手で、翻弄されっぱなしらしい。

そして一度噂が出始めると、SNSという場所ではどんどんそれが拡散されていく。

本当に現在の人間のやり口をコヨーテは知っているとみていい。

勝てない相手ではないが。

とにかく疲れる相手だった。

下着を洗い直すのも面倒なので、家に帰ったらさっとシャワーだけ浴びて、それで寝る。

ちょっとワイルドすぎるが、さっき着替えたばかりだ。

最近は買い物も任されるようになってきているし、自分でも魔祓いで稼いでいるから、おかねがどれだけ大事かは理解しているつもりだ。

洗濯を一回するのも馬鹿にならないのである。

嘆息すると、燐火は眠って力を蓄えることにする。

今、林西さんを筆頭に、相手を一網打尽にする策を考えてくれている。

燐火は今は、その策がうまくいくのを待つこと。

現場でダイモーンを祓うこと。

それしか出来なかった。

 

(続)