群狼

 

序、狼について

 

狼について、日根見ちゃんと話しながら聞く。今日は小川先輩は先に帰った。かなり空手熱に火が入ったらしく、家で自主練をしたいらしい。ちんたら歩いて帰っていられないと言うことで、走って帰っていった。

学業がおそろかにならないか心配だが。

元々勉強は出来るらしいので大丈夫だろう。

それで日根見ちゃんに話を聞いていたのだが。

やはり狼は、元は猛獣ではあっても、犬の先祖であるだけのことはある。人間に対して其処まで敵対的ではないし、動物としても生態は温厚だという。勿論猛獣だから群れで獲物を容赦なく襲うし、人間が襲われることも古くはあった。

だが、人間に対する脅威度では野犬の方が高いと言うことだった。

なんでも野犬は狼と違って人間を恐れないこともある。

一度人間のくびきから外れて、群れをなした場合。

それこそ熊以上の脅威になる事もあるのだそうだ。

大型犬になると、本気になると人間ではまず勝てない。

そういう話もされる。

ケルベロスが、まあその通りであると言っている。

確かに四つ足の安定した肉食獣である。大型犬となると人間の半分からそれ以上の体重はある。

人間は一回り小さいヒヒと同じ程度の身体能力しかないこともある。

はっきりいって、勝ち目がないという話も納得できる。

中型犬も侮れないそうだ。

なんでも狼に近いのは柴犬であるそうで。

柴犬の温厚な性格を知っていると驚く部分も多いのだが。

そもそもとして狼の本性を内に隠している、ということもある。

猟犬として獰猛な犬も珍しくはないのだが。

それはそれとして、イヌ科の生物は侮れないのだそうだ。

ただネコ科は更にその上を行くらしく。

虎などを例に出すまでも無く、現時点で地上にいる肉食獣の中で、武器を持った人間を除けば最強の位置に君臨する。

特にシベリア虎は凄まじい強さを誇るらしく。

巨体を誇るグリズリーですら、シベリア虎の前には獲物に過ぎないとか。

人間が生身で立ち向かうのは100無理。

武器と訓練、それに猟犬、人数をそろえて狩っていくのが基本。

そういう話をされた。

いずれにしても、狼もそういう、人間が素では勝てない相手。

問題は次である。

「それにしても犬に極めて近いのに、どうしてこうも嫌われたんだろうね」

「家畜を襲うからかな」

「ああ、なるほど……」

牧畜民にとっては、家畜を襲う狼は許しがたい怨敵だ。

これについてはどこでもそうであるらしい。

モンゴルなどでも狼は普通に飼っている家畜を襲うらしく、そのあおりで人間が襲われる事もあるとか。

アメリカなどでも、牧場を狼にやられて大きな被害を出す例は古くには多く。

あの高名なシートン動物記に登場する狼王ロボも、実在の狼ではあるのだが。家畜に対する被害が凄まじかったため、本職であるシートンが駆除のために呼ばれたという経緯があるそうだ。

この狼王ロボの逸話はほぼ実話に基づいているそうだが、それにしても確かに牧畜家からしてみれば、大量の家畜を殺されればそれは恨みも重なる。

狼によって多数の人間が殺されたことよりも。

恐らくは貴重な財産である家畜を奪われたことの方が恨みが大きく。

そういう点では、人間も容赦なく殺す熊などよりも、狼が悪魔化されたのも。狼による実質的な被害の方が大きかったし。熊は狼に比べて頭が悪かったというのも理由であるらしい。

まあ熊も下手をすると村一つを潰されたとか、そういう記録がアイヌに語り継がれているようだが。

三毛別羆事件とかの悲惨な事故の例を見る限り。

確かに過去に大きな被害はあったのだろう。

ともかく、狼が別格で嫌われているのはよく分かった。

文化圏次第だが。

燐火は日根見ちゃんと分かれた後、ケルベロスとそれらについて話をまとめておく。

ガルムにスコルといい。

フェンリルが背後にいる可能性が高いからだ。

狼としても魔としても、世界の神話で屈指の怪物。

とにかくあらゆる情報を得ておかなければならないだろう。

話しながら家に着く。

この間大量のダイモーンを駆逐してから、数日ダイモーンが姿を現していない。

ヘラクレスさんも警戒してくれているようなので、安易に仕掛けられないというのも有るのかもしれない。

いずれにしても、対策は練らなければならないだろう。

ケルベロスから言われて、犬と狼の戦闘時の習性について調べておく。

「本物の大型の狼になると、燐火の力量では倒すのは不可能だ。 勿論魔法のステッキ……その鉄パイプを使っても厳しいだろうな。 ただ、神話の狼になってくると話は変わってくる」

「そういう意味では神話の狼の方が対処は楽なんだね」

「そうなる。 銃は効かないかもしれないが、人間の英雄や魔祓いが倒せる範疇での動きしか出来ない。 理由は簡単で、人間が想像し設定したからだ。 人間がどれほど凄まじい強さだと設定しても、どうしても想像力の域を超えることはない。 だから、燐火でも対応は可能だ」

「分かった。 具体的な戦術を詰めていこう」

ケルベロスと細かく打ち合わせをする。

歩法は有効だ。

相手は拳法武術で言うと達人並の動きをしてくる。これは当たり前の話である。また古代の人は、今の人よりも動物を丁寧に観察していた。これも当たり前だ。食事や生活に直結したのだから。

実際フリッグ戦では、事前に知っていた蛇の知識が大きく役立った。

そして狼だけならともかく、人間の主観が入り込む。

ここにつけいる隙があると、ケルベロスは言う。

「俺もそうだが、どうしても人間は悪魔を擬人化する。 別の動物を元にしている悪魔であっても、そこには人間の思考が入り込む。 これはどこまでいっても、人間が主観的な生き物であるからというのが関係している。 それは燐火も見てきただろう」

「うん。 自分の主観で気持ち悪いから殺して良いとか、普通に考える奴は幾らでもいるもんね」

「その通りだ。 そういったゴミカスは幾らでもいるし、どうしてもその傾向は大なり小なり神話にも現れる」

情けない話だが。

ただ今回は、それが活路になる。

黙々と鍛錬を続ける。

ケルベロスの言うとおり、やはり師範から教わった歩法は、役に立てる。相手が狼の魔であってもだ。

完璧に狼のままだったら、むしろ通じないだろう。

観察はしてくるかもしれないが。

あくまでそれだけだ。

観察だけしたら、後は圧倒的な身体能力差で直線的に殺しに来る。それくらいの力の差があるからである。

まあ、狼はそれほど人間に攻撃的ではないから、あくまで攻撃的な個体であったら、の話だが。

ともかく、実際の狼と今回の相手は違い。

人間が混じっている。

実際スコルが見せた、緻密な広域戦略からのマグニに対する瞬殺劇。あれは狼だけでは無理だっただろう。

人間の要素が入っているから出来る。

それにだ。

エヴァンジェリンさんから聞いたが、スコルを一瞬拘束したあのルーン、グレイプニルの試作品らしい。

スコルが即座に足を切り落として逃走する判断をしたのも当然で。

一瞬早かったら、スコルを倒すことは可能だったようだ。

勿論相手は魔だから、足を失っても再生はしてくるだろうが。

それも完全に復活させるには時間が掛かる。

だとすると。

既に分霊体が出てきているガルムや、スコルと並ぶフェンリルの息子であるハティが出てくる可能性もある。

フェンリル自身が出てくる可能性も当然考えなければならないだろう。

勿論、もしも相手がフェンリルだったら、だが。

手強いが。

ただ、逆に言うと人間の思考が入り込んだ結果。

獣としては弱体化している。

其処につけ込むしかない。

訓練を終えて、ルーチンもこなして。それで家に入る。

疲労はあまりない。

今ではルーチンをばっちりこなしても、体力には余裕がある。ただ筋肉はそうもいかないので。

ケルベロスが丁寧に疲労骨折などが起きないように、見てくれている状態だ。

家に入ると、杏美の世話をする。

あーとかうーとかしかまだ言えないが、杏美という名前には反応するようになってきている。

恐らく燐火の夏休みが終わる頃にはしゃべり始めるのではないか。

そういう話を産婦人科でおかあさんがされたらしい。

いずれにしても楽しみだ。

年がだいぶ離れているけれども。

充分にかわいいのは確かなのだから。

まあ、それで笑顔が浮かべられるかというと話は別。どうしても表情筋はやっぱりまだまだ死んだままだ。

その日はダイモーンも出なかった。

風呂に入って、勉強をがっつり済ませて、それで眠る。

杏美の夜泣きも多少は楽になってきたか。

負担を減らせるように準備を計画的にしていることもある。

おかあさんの負担も小さくはないが。

それでも耐えられないほどではないようだった。

 

ダイモーンが出る。

これからルーチンをやろうとしていた時だったが、即座に出る。これはもう、何度となくやっているから慣れている。

ささっと着替えて走る。

白仮面だ。

一瞬だけ道を突っ切るときに見られたらしくて、そういう声が掛かったが。スマホで撮影されるほどとろい動きはしていない。

ケルベロスが呆れる。

「やはりそろそろ格好を変えよう。 最悪ばれるぞ」

「それは困るね」

「普段着のままだとまずいからな。 いずれにしても、後で何か考えよう」

「……少しイメチェンするくらいでいいかな」

ぼやきながら走る。

ともかく、駅の裏手に出た。

いるが。

問題はそこじゃない。

ダイモーンが、大型犬くらいのサイズの何かの複合魔だ。あれは、なんだ。

ケルベロスが、なんだあれとぼやいている。

そいつは犬には違いないのだろうが。

どうも普通の犬とは思えなかった。

「複合している混合型だが、北欧系の気配ではないぞ。 どちらかというと……」

「しかもあれ悪神だよね。 ちょっとしゃれにならないんじゃない」

「そうだな。 即座に戦力を集めた方が良いだろう」

「分かってる」

連絡を入れる。

程なくして、カトリイヌさんが来る。なんだかほかほかしてるが、どうも風呂に入っていたところを慌てて出てきたらしい。

髪が濡れてる。

日女さんが少し遅れてきて、カトリイヌさんを見て呆れた。

「なんだ水でも被ったのか」

「お風呂の最中だったのですわ!」

「それは災難だったな。 で、あれか」

「どこの文化圏の魔でしょうか。 ダイモーンは祓えますけれど、それ以外はちょっと……」

燐火が疑問を呈すると、日女さんが手をかざして、日本系ではないと断言。

カトリイヌさんも手をかざして、悪魔じゃないと断言した。

なんだあれ。

しかも雰囲気が、今まで見たことがない。

だが、活路が意外なところから来る。セバスティアンさんが、手をかざしてみていたが、特定したのだ。

「あれは以前見覚えがあります。 南米系ですな」

「南米系!」

「厄介だぞ。 あの辺りのは、おまえ等が散々殺し尽くしただろ」

「そ、それは……申し開きも出来ませんわ」

しゅんとするカトリイヌさん。

南米の不幸な歴史は燐火も知っている。コルテスだのピサロだのという最悪の破落戸どもが侵略と略奪の限りを尽くし、更には病気まで持ち込んだことで、文明が完全にクラッシュ。

更にその後、南米に乗り込んだ神父が大量虐殺を実行したのだが、それは「異教徒などは死んだ方が幸せである」とかいう許しがたい理由からだった。

チンギスハンやティムールといった征服者は虐殺者として歴史的に糾弾されているが、南米やアフリカで行われた文化破壊と略奪の壊滅的な有様に比べると、はっきりいって過大評価も良いところであり。実際にはその地の文化も人々も殺し尽くしていない。虐殺はしたし、それは糾弾すべきだが、それでも文化圏が滅ぶような事はしていないのだ。

これに対して、南米での虐殺は過小評価されている。南米では破落戸どもと一神教関係者、それに持ち込まれた疫病により、文字通り文化ごと殺され尽くしたのである。それどころか、膨大な貴金属も全て奪い尽くされた。その徹底的な殺戮ぶりは、チンギスハンやティムールの比ではない規模だったのだ。

そのため、南米文化の神によっては、名前が判明していないものが未だにたくさんいて、「第何神」とか便宜的に呼ばれているくらいだ。

日女さんが即座に公安に連絡を入れて、対南米の魔祓いを呼んで貰う。ただ、来るまでに時間が掛かる。

その間に、相手はこっちに気づいたようで。ふっと笑うと、至近に空間転移してきていた。

さっと散開。

戦闘態勢を取る。

魔祓いは出来なくても、袋だたきにして押さえ込んでおけば。魔祓いが来た頃には、再起不能には出来る。

ただこの悪神。

どうも油断している様子もないし、今のところ戦うつもりもなさそうである。ただ、ニヤニヤとこちらを観察していた。

「声を掛けられてきてみたが、なんとも面白い国であるのう。 とにかくあまたの神々に寛容で、わしもここで暮らしたいものだ。 神社とやらを建ててくれんか。 そうすれば、悪さはせんぞ」

「その前に、そのダイモーン。 貴方誰からそれをもらいました」

「それはいえんな。 ただ、神社とやらを建てて祀ってくれるなら、そっちについてもいい。 流石にスポンサーの名前を言うような裏切りはできんがな」

日女さんが公安にそれも含めて連絡しているようだ。

南米系の魔祓いはまだこっちには来られないようだ。

以前ブードゥーの魔祓いと一緒に仕事をしたが。それも系統が違うらしい。

咳払い。

いつの間にか、菖蒲さんが来ていた。

「時に貴方のお名前は。 私は菖蒲と言います」

「ほう、これは凄まじい力の持ち主のお嬢さんだ。 わしの名は、ウェウェコヨトル。 おまえさんがたがいうところの、アステカ神話の神よ」

「アステカ……」

「生け贄を思い浮かべなさったな。 確かに残忍な生け贄をしていたのは事実であるが、それも世界の終わりを恐れるが故でな。 アステカでは厳格に生け贄を捧げていたが、インカでは比較的寛容だったのじゃよ」

燐火が口をつぐむ。

ケルベロスに言われて、世界中の神話を調べているのだが。

確かに南米では、生け贄の悪習がどうしてもあった。

どんな文化でも、古くには生け贄があったのだが。これは一番大事なものを捧げることによって、大災を防ごうという意図からきたものだった。日本でも古くは生け贄の風習があったし。

なんなら、ある村では昭和まで奴隷制に近いものが残っていて、それが生け贄の風習に近い形で機能していたという実例がある。

そもそも一神教ですら、生け贄に否定的になったのはキリスト教からであり。

神に捧げられる犠牲については、むしろ肯定的である側面もあったのだ。

ともかく。抵抗する気がない相手を殺すことはないだろう。

それで皆の意見は一致したようだ。

また、祀るのであれば。

その過程で、無害かも出来るらしい。

地鎮祭専門家などの中には、そういった荒神の無力化を為す専門家の神職がいるらしく。今までそうやって何柱もの荒神を無害化してきた実例があるそうだ。

ともかく、ウェウェコヨトルのダイモーンは祓ってしまう。

それを抵抗せず受け入れたので、燐火はまあいいかと判断した。

後は専門家に任せるだけだ。

ただ、この神はちょっと調べると、結構面倒なトリックスターらしい。抑えている間、かなりの人員を割かなければならないだろう。

ロキを例に出すまでもなく、トリックスターというのは基本的に何をするかよく分からないのである。

いずれにしても今燐火が出来ることはない。

ウェウェコヨトルに手の内は見せない方が良い。

それだけだ。

いずれにしても、元々はかなりの高位神格のようである。南米の文化が徹底的に破壊されたことで弱体化されているが。

それに、調べるとコヨーテの神格か。

北米でもコヨーテはトリックスターとしての神格として、現地で語り継がれてきたという。

だとすると、なおさら警戒しなければならないだろう。

後は任せて、家に戻る。

ケルベロスが、対応は満点であったがと。

何か含みを込めた。

「何かまずいことがあったの?」

「いや、あれは恐らくフェンリル……かはまだ分からないが、スコルの背後にいた魔が呼び出した存在だとみて良いだろう。 だとすると、どう動くかは見切っていたはず。 スコルの駆使した高度な戦略的行動を見るとなおさらな」

「スコルがそもそも黒幕の可能性は?」

「それも否定はできん。 フェンリルは弱体化しているし、敢えて危険を冒す必要もない。 ヴィーザルを倒したのも、フェンリルが背後にいる事をにおわせて、それで警戒させる事で力をそぐことかもしれないからだ」

厄介な相手だ。

この初手降伏してくる相手ですら使いこなしているとなると。

或いはだけれども、相手はフェンリルではない可能性もあるということか。

もっと悪辣で賢い神格だったらどうするのか。

しかしロキということはないだろう。

あれはラグナロクの頃には悪神と化しているが、それにしてもたいした武勇はない存在だ。

これほどの強力な神格達を従えられるとは思えない。

ともかく、家で、ルーチンをこなす。

こうして頭を空っぽにして、迷いを晴らす。それが今は、一番いい気がしていた。

 

1、やるべきことは増える

 

あまり気力がある方ではない数学の先生が、ずっと黒板……ではなく。ホワイトボードにむかっている。

今の時代は黒板はほとんどなくなり、ホワイトボードが主流だ。

昔は黒板消しとチョークが必須で。

算数の先生は、肘を視点に綺麗な円を描くことが出来たらしいのだけれども。

はっきりいってそれは無駄なスキルだろう。

あくまで大道芸の類であって。

子供に何か教えるために有益という事はない。

黙々と授業を受けながら、燐火は苛立ちを感じた。

右後ろの男子。

音をミュートにしているとはいえ、動画を見てサボっている。スマホが普及するのは別に構わないが。

こういう使い方をするアホに、スマホを持たせるべきではないだろうなと、燐火は素直に思った。

ともかく授業は復習としてしっかり受けておく。

授業が終わったら、合間の時間に先の勉強をしておく。もうすぐ高校二年の範囲は終わりそうだけれど。

問題はその最後。

英語だ。

高二くらいから英語は極めて難しくなる。ものによっては全く分からない。だから大学受験は単語を覚えて突破する。

そういう例まで出てくるし。

英語教室に通っていても、高校英語は全然分からない。

そういう例も出てくる。

燐火も苦戦中だが、どうにか終わらせられそうである。

淡々と作業をしていると、周りの女子がひそひそ話している。

「あの子弁当自分で作ってるらしいよ」

「テストでも毎回ほとんど満点でしょ。 体育なんか三年の男子より足が速いくらいだし、何? 超人?」

「不良もほとんどたたきのめしちゃったって……。 なんで中一にあんなのがいるの?」

「飛び級だかなんだかしらないけど、さっさと先に行けば良いのに」

ぼそぼそと話している。

その二人が、毎日スマホだの弄くり回して、時間を無駄にしていることを燐火は知っている。

そんなことをしている間に少しでも鍛錬でも集中力を高める訓練でも勉強でもすれば、状況は変わるのに。

それをしないで遊びほうけておいて。

計画的に時間を使っている燐火に嫉妬されても苛立ちしかない。

ケルベロスが放っておけと呆れ気味に言うが。

まあいいか。

スクールカーストの内容が、小学時代とは変わってきている。

それに、この学校ではスクールカーストを明確に排除に動いている事もあって、比較的頻繁にクラス替えがある。

それもあって、下手なグループは作らないように、周囲はしているようだ。

クラス替えをされると、何か問題を起こした。

そう周囲に判断されるし。

何よりも、燐火と同じクラスに入ると、問題を起こしたときに殺されるという噂が流れているらしいから。

ぶっちゃけ、殺しまではしないのだが。

それが抑止力になるならいいか。

そう燐火は思って、相手にしない。

勉強を一段落させたあと、次の授業の準備をしておく。

次は理科か。

理科も専門的なことを少しずつ始めている。

しかし周りは本当に、一瞬で覚えたことを忘れていくな。テストの度に全部一夜漬けしていやがる。

そう思うと、これだけの学業投資がもったいないと感じることもある。

だがこの国の強みは、無駄が多いとしても学業を皆が受けている事だ。

即座に忘れるようなやつもいるけれど。

それでも覚えている生徒がいる。

それが強みになっているのであれば、充分すぎるほどだろう。

色々思うところはあるが、次の授業の準備をして。実験室に移動する。実験室では、比較的のんき者の女性教師が、実験について説明。

昔はアルコールランプを用いたらしいが。

今ではそれは使わず、危険性が小さい道具を使って、色々と実験をしていく。

なるほどね。

予習している範囲内の実験だが。

それでも見ていると。しっかり復習になる。

テキパキとこなしている燐火と同じグループでただ見ているだけの他の生徒。声を掛けられない雰囲気だ。

先生が様子を見に来た。

「平坂さん、手際いいねー」

「ありがとうございます」

「他の子達、皆手を動かす。 平坂さんがあらかた実験内容はこなしてしまったし、レポートは皆で書きなさい」

「……」

絶句する見ていた連中。

燐火は呆れた。

この先生、のんき者だが、こういうペナルティを課すのか。

まあいい。

青ざめながら、グループの女子の一人が聞いてくる。

「あ、あの、平坂さん。 き、聞いても、いい?」

「どうぞ」

「い、今の実験、何がどうしてどうなったの?」

「教科書の16ページから説明されている化学的反応の実験です。 何が起きていたかは、見ていたでしょう」

首をすくめるその女子生徒。

別に何もしないっての。

燐火はいい加減苛立ってきたが。

抑えるようにとケルベロスが呆れ気味に言う。

まあ、ケルベロスがそういうなら抑えるけれど。今まで何もしないで、教科書すら確認しないで、スマホでショート動画見て。

更には燐火が怖くて声も掛けられず、手も動かそうとしていなかった。

それでこうなったのなら自業自得だろう。

燐火の眼光を見て、女子の一人が泣き始める。

そんなに怖いか。

燐火は命を刈り取りに来る相手と間近で何度も対戦したが、その時に比べればそよ風も良いところなのだが。

「なんで泣くんですか」

「ご、ごめんなさい! ぶたないで!」

「ぶちませんよ。 とにかくレポートを書くというなら、分からないなら聞いてください。 全部説明しますので。 ただ、書くのは自分でやってください。 そういう先生の指示でしょう」

完全に震え上がっている同グループの生徒を見て、燐火は呆れる。

本気で怒っていたら、今頃全員再起不能くらいにしているっていうの。

まあとにかくいい。

ガタガタ震えている同級生に、説明をしてレポートを書いて貰う。どうしようもない基礎的なことも分かっていないし、なんなら授業開始した時に先生が言っていたことすら覚えていない。

アホというよりも、単に意欲がない。

レポートがどうにか書き上がったので、燐火が目を通す。

抜けが多いな。

こことここが違う。

そういう説明をして、書き直して貰う。

二人目が泣き始めた。

別に威圧的にものなど言っていないのだが。困り果てた燐火だが、とにかく最後までレポートを仕上げて。持って行って貰う。

それから燐火は鬼とかクラスで言われるようになった。

そんなことを言われても困るし。

冥界の入り口で見た鬼は、こんな程度の恐ろしさではなかったのだが。

 

夏休みが近くなった。

中一の一学期も終わりか。

中間テストも期末テストもほぼ全部満点だったが、涼子とは受けているテストのレベルが違うし。

涼子が同じ学校にいたらほぼではなく全部満点だっただろう。

国語の先生が、テストを返すとき、苦虫を噛み潰しながら言う。

「平坂は何でも出来るのに、どうして正当防衛とは言え徹底的に暴力的に解決するし、怖いのかな。 あと、周囲の生徒を怖がらせないように、少しは笑ってくれないか」

「笑いたくても笑えませんので。 すみません。 色々事情があるんです」

「そ、そうか……」

国語の先生も半分諦め気味だ。

燐火としてもそう言われても困る。

こっちとしても、鏡の前で練習はしているのだが。死んだ表情筋は相変わらずどうにもならない。

部活は少し前から終わっている。

前は部活の夏合宿とかで、夏休み全部潰すようなことも平気でやっていたらしいが。今はそれもなくなっている。

例えば野球なども、全国的に「部活」から、「個人所属の学校外グループ」に活動が移行しており。

そういう場所では、部活と違って学校と全く関係なく人が集まる。

これによって、今まで三年間ずっと球拾いとか訳の分からない無駄な時間の浪費をさせられる生徒もいなくなり。

閉鎖空間で起きていたいじめという名の犯罪もなくなった。

また、高校野球のレベル低下も実際には全く起きなかったようで。

高校野球のレベルが低下すると反発していた連中は、今では息をしていない状態であるらしい。

勿論空手部でも夏合宿なんぞしない。

ただ、帰路で合流した小川先輩は、なんだかるんるんだったが。

「期末試験終わってこれで遊べる! 燐火っちは確か赤ちゃんの世話で大変なんだよね!」

「そうですね。 杏美はまだしゃべれないので、これからがまだまだ大変でしょうね」

「そっか! 家に遊びに行きたかったけれど、それだと無理だね! ただ、鍛錬には行かせて!」

「……まあ、そうですね。 鍛錬だったら歓迎しますよ」

ちなみに小川先輩、平均点88点をたたき出したらしい。

相変わらず評判は最悪だが、小学時代のような理不尽採点は減ってきたらしく、それで相対的に成績は上がっているそうだ。

クラスではパパ活女とか言われて距離を取られているらしいが。

小川先輩は男子と付き合ったことも手をつないだこともないとなぜか胸を張って自慢げである。

もっとも今の時代、男女に溝ができはじめているから。

それは珍しいことではないのだろうが。

「日根見っちはどうだった?」

「生物は満点でしたけど、それ以外はそこまでは良くなかったです」

「そっかー。 なんかわからんことあったら聞いてね! うきうきで教えるから!」

「その時は頼りにしています」

日根見ちゃんも慣れてきたか。

しかし小川先輩と燐火が一緒にいるのを見て、他の生徒はよく分からんと言っているようである。

学校でいきり散らしていた不良生徒を片っ端からぶっ潰した燐火が。

札付きとされている小川先輩と仲良くしているというのが、どうにも理解できない事象らしい。

この間、三年の男子四人が燐火に襲いかかってきたのだけれど。

それを全部返り討ちにした。

手応えはまったくなかった。

全員真っ青になって転がって、大げさなくらい痛い痛いと泣きわめいていた。その動画はしっかり撮影しておいた。

自衛のためだ。

なんでも一年の不良がそいつらの子分だったらしく。

「学校をシメている」と思い込んでいるそいつらとしては、燐火の存在が看過できなくなったらしい。

何がシメているだかしらないが。

ともかく、前に高校生の反社三人に襲われたときと違って、無手で余裕で撃退することが出来たのは大きい。

ただ、それでも限界がある。

三年の空手部の部長が、空手だけだったら燐火より腕前が上であるように。

そういう相手が高校生にいたら、一人相手でも対応できないかもしれない。

だから、今のうちに更に鍛錬はしておく。

それだけだ。

「それにしても年が離れた妹かー。 うちはお姉ちゃんとずっと比べられたからなあ」

「小川先輩のお姉さんは確か高校で優等生として知られているらしいですね」

「そうだね。 ただ、正直燐火っちみたいな化け物レベルじゃないけど」

「化け物レベル」

ちょっと困惑する。

燐火は遅れを取り戻すために必死だっただけだ。

小四までは文字もまともに書けない状態だったと小川先輩が知ったら、どういう反応をするだろう。

「今回の期末、ほとんど満点だったんでしょ。 仲が良い後輩がそれだけ出来たって話するのが楽しみだよ。 小学時代はずっと先生に意地悪ばっかりされて点数下げられたし……」

「燐火の友達に、もっと凄い子がいるので、あまり凄い成績だとは思えないのが本音ではあります」

「おお、上には上がいるね」

「そうです。 少なくとも燐火は自分より凄い人間がいることを知っています」

だから、調子には乗らない。

それでいい。

いくつか話をした後、二人と別れる。

小川先輩は、今度また空手を習いにうちに来たいそうである。

それは別に構わない。

あれから八子さんが時々空手部に来てくれて、それで徹底的に基礎の矯正をしてくれたこともある。

小川先輩は別物に強くなっている。

今度空手の個人大会に出るつもりらしい。

こういうのも学校ぐるみでの出場ではなくなってきている。

ただ個人大会は、学校という枠組みで行わなくなった結果、逆に色々な手段で参加できるようになり。

却って全体のレベルが上がったそうだ。

小川先輩は、其処で少し腕試しをしたいとか。

とりあえず、大会が行われるのは夏休みの最中だ。

燐火も誘われたが、断っておく。

別に空手で身を立てるつもりはない。

燐火は魔祓いで身を立てる。

最終的に公務員になり、それの給金で家族に貢献したいとは思ってはいるけれども。それも、あくまで今の目標。

実は既に燐火の通帳の預金額は4000万を超えている。

それだけダイモーンの駆除と、悪神や魔との戦闘での実績が評価されていると言うことである。

しかしながら家で一番おかねもちなのはお父さんで。

なんと現時点で貯蓄は3億を超えるらしい。

都心から外れているとは言え、大きな家と庭を持てるわけである。

ただお父さんも、三十代半ばまでは赤貧で苦労していたという話だから。

本当につらい人生を送ったのだなと言うことは、燐火にも分かっているつもりだ。

帰路、連絡が来る。

充子からだ。

また、剣を交わしたいということだった。

望むところだ。

ますます危険な魔が出てきている今、更に実力を高めておくのは必須となるだろう。

家に帰ると、杏美の世話をまずする。

それで、おかあさんに期末の結果を見せる。

おかあさんは、頑張ったねと褒めてくれた。

笑顔を作れないのが、こういうときは悔しい。

出来ることを一つずつやっていくしかない。

テキパキと杏美の世話をこなしながら、説明はしておく。また小川先輩が訓練に来る事、それと個人大会に出るという話をすると。

おかあさんは少しむずかしいかもと素直に言った。

「競技空手は結構層が厚いよ。 今の燐火だと地方大会程度でも、優勝を狙うとなると結構苦労するかもしれないね。 ましてや小川さんだと、多分突破は無理かも」

「小川先輩の実力だとそのくらいですか」

「うん。 フルコンタクトだと大会そのものが少ないから、もっと条件は厳しくなるかもしれない。 女子のフルコンタクト空手の大会なんてそうそうはないしね」

「……」

オリンピッククラスの実力者であったおかあさんがいうならそれはそうか。

ともかく、失望させないようにするべきだろうとは思う。

小川先輩は、とにかく運が悪かった。

良い先生にもっと早く当たれていれば、こんなことにはならなかったのかもしれないけれど。

それはもう、どうしようもないことだ。

残念ながら、真面目に幼い頃から努力をしただけでは勝てない。良い先生につかないといけないし。

本人の資質もある。

燐火はケルベロス曰く持っている側と言うことだし。

更には先生も良かった。

それで追いつけた。

ケルベロスが幸運を操作してくれているという事情もある。燐火は、運が良かったことを、喜ばなければならないのかもしれない。

勉強とルーチンをこなしておく。

小川先輩と細かいうちにくるスケジュールを決めたりも、その合間にやっておく。

杏美はまだ喋ることが出来ないが、それでも色々と興味を持ってさわりたがる。このため、下手に口に入れるとまずいようなものは絶対に床に置いておくわけにはいかない。燐火もそれは気をつけるようにしていた。

無言で作業をこなすと、ケルベロスに促されて気づく。

杏美が泣いている。

これはちょっと熱っぽいな。

「熱だとすると医者かもしれないな」

「この時間だと救急外来だね。 おかあさんに声を掛けた方がいいか」

「そうだ。 急げ」

「分かってる」

おかあさんは疲れて仮眠を取っていたが、杏美の話をするとすぐに起きてきた。熱を確認して、様子見と言う。

もっと熱が上がってくるとまずい。

ただ、この程度だったら大丈夫だそうだ。

「ただ、時間をおいて見た方がいいだろうね。 燐火、悪いけれど一時間おきに体温計、頼める?」

「やってお……おくね」

「よろしい。 それにしても熱っぽいのに良く気づいたね」

「うん……」

燐火は気づけなかった。

ケルベロスのおかげだ。

とりあえず杏美を背負ってあやす。背負われていると杏美は喜ぶ。おかあさんだけではなく、おとうさんでも燐火でもそれは同じだ。

しばらくあやしていると、泣き止んで、すぐにうとうとし始める。

ケルベロスが見ておくから勉強を済ませておけと言うので、やる。集中力が精神修養のおかげで上がっているが。

上がりすぎたのも考え物かもしれない。

黙々と勉強を済ませる。

やはり英語が課題だが、課題なら今のうちに人の倍努力して習得しておけばいいだけのことだ。

学校で誰も授業なんて真面目に聞いていないし。

学科によってはまともに教科書の内容なんて覚えていないことは、燐火もわかりきっている。

皆がだらだら遊んでいる間に。

燐火は先に行くだけだ。

娯楽で時間を潰すのもそれはそれで計画的にやる。

小四の途中まで、燐火には人生そのものがなかった。

それを考えると、それでやっと人並みではある。

そして他の人間が、どれだけ努力をしていないかという証左でもある。実際如何に環境に恵まれたとは言え。

これだけの短時間で、ほとんどの同世代の人間を抜き去ったのだから。

それでも一位などでは断じてない。

それを肝に銘じて、黙々と集中する。

一時間だ。

ケルベロスに言われて、体温を測る。ケルベロスは電子機器の使い方をしっかり把握していて、温度計についても既に使い方や読み方を理解していたようだ。

「昔の人肌で判断していた時代は、特に子供は死にやすくてな。 半分も生き残れないのが普通だった。 富裕層の子ですらな」

「大変な時代があったんだね」

「それで人間の数は増えすぎなかった、というのもあるがな。 今、繁殖に誰も積極的ではないのは、ある意味揺り戻しなのかもしれないな」

ケルベロスも数値を確認するが、さっきより少し熱は下がっている。

杏美も完全に寝ていて、少なくともつらそうではなかった。

燐火は仮眠から起きてきたおかあさんに、測ったデータを渡しておく。そして、外でルーチンをやる。

夜でも外が暑くなり始めた。

これは今年も夏は酷い暑さになりそうだ。

というか、そういえば。

夏と言うことは、また合宿か。

合宿にしても、杏美の事がある。

燐火としても魔祓いとしての実力をつけるために行きたいところだが。

問題はスコルらの強力な魔がこの辺りに跋扈していることだ。

恐らく日女さんなどの先輩格はほとんど出られないはず。

さて、どうするか。

連絡が来た。

ちょうど日女さんからだった。

「燐火、魔祓いの夏合宿なんだがな」

「はい」

「もう予想しているかもしれないが、今年は燐火だけで行ってくれ。 合宿の話は、林西さんが説明をしてくれるそうだ。 合宿への送迎は、前に燐火の合宿最終日試験を見た陰陽師の人が出てくれるらしくてな」

「分かりました。 それで大丈夫です」

全く問題はない。

夏休みと言っても、楽な時間はなさそうだな。燐火は嘆息すると、それを悟って忙しそうだなと思った。

どうせスコルらも出てくるだろう。

あまり楽を出来るとは思えない。

ただ、二泊三日だけで致命的な事に立ち会えないような事はないだろう。そう、冷静に考えることも出来た。

中学の夏休みが始まる。

今年も、決して休むことが出来る日は多くはなさそうだった。

 

2、夏休みは休めない

 

小川先輩と鈴山さんが二人そろってきた。どういうわけかカトリイヌさんもまた一緒である。

カトリイヌさんと小川先輩はなぜか意気投合したらしく、既にSNSでのアカウント交換をして、頻繁にやりとりをしているそうだ。

カトリイヌパイセンと素直に慕ってくる小川先輩に対して、カトリイヌさんは悪くない気分のようである。

まあ、何が良いかは本人達次第だ。

燐火の知ったことではない。

鈴山さんは派手な小川先輩と、これまた外国の人であることが一発で分かるカトリイヌさんに挟まれて、おろおろするばかりだったが。

ともかく、鍛錬をすることとする。

数時間ほどだが、おとうさんが時間を取って、杏美を見てくれる。

まずは道着に着替えて、おかあさんが三人の動きを見る。

とにかく指導が丁寧だ。

燐火は淡々とルーチンをこなしていたが、ついでだから一緒に見てもらう。

とにかく褒めるスタイルの八子さんとは違って。

おかあさんは恐らく技量の有無が生死に直結するだろう警察で指導をしていたから、だろうか。

とにかく細かい実践的な説明をして。

具体的にどうするかを、丁寧に教えていた。

鈴山さんは、それを聞いて頷いてメモを取っている。

真面目な子だ。

一方小川先輩は。かなりやりこんだのだと思う。短時間でものすごく上達していた、けれども。

おかあさんから、待ったが掛かっていた。

「上手になっているけれど、これは練習量を減らさないと駄目だね」

「えっ。 でも大会が間近っすけど」

「駄目。 このままだと疲労骨折する」

「!」

ケルベロスも時々そこまでと燐火に待ったを掛ける。

鍛錬はすればするほどいい、というものではないのだ。

少年漫画とかだと、体を壊すような鍛錬をして強くなるようなシーンがあるが、あれは迷信だ。

現在では超回復などの現象を用いた科学的なトレーニングが主流になっており。

伸ばせる範囲で伸ばすのが最適という解が出ている。

小川先輩は、やっとまともな先生に会えたといううれしさもあったのだろう。その原則を逸脱してしまった。

結果、今おかあさんに色々指示をされている。

「とりあえず、今日は動きを見られたから充分。 はっきりいってこれ以上ない速度で伸びているから、これ以上を求めては駄目だよ。 大会に出て成果を出すにしても、それで体を壊したら意味がないからね。 今日はここに来る前もルーチンをこなしたでしょう、これは」

「う、ウス。 その通りっす」

「ならば今日はここまで。 帰りは歩いて帰ること。 走るのは厳禁」

随分と厳しいな。

更におかあさんは小川先輩に鍛錬のメニューを聞いて。それから、腕とか足とか丁寧に触って状態を確認した後、メニューを大幅に修正した。

これ以上は絶対にやるな。

ちょうど良い量。

これだけは最低やれ。

その三つの数字を指定して、小川先輩にメモを作って渡す。小川先輩は思ったより少ないなと顔に書いていたが。

ともかく、礼をして引き下がっていた。

「それで、今日は空手の大会でのこつみたいなのも聞きたいっすけど……」

「近代格闘技は、別に古代の格闘技と比べて優れている訳でも劣っている訳でもないの。 漫画に出てくるような絶技は、普通の技として今では当たり前のケースもあるしね」

例えば、ボクシングのコークスクリューなんかはその典型例であるらしい。

あれは本来は絶技レベルの技らしいのだが。

今では勿論訓練は必要ではあるものの、普通に技術として普及しており、ボクサーの間では当たり前のように使われている。

それもあって、かっこいい奥義で勝ち進む、みたいな展開は期待しない方がいいそうだ。

「燐火に話を聞いているけれど、空手部の方に来てくれた外部講師の人、立ち会いも見てくれているらしいね。 その立ち会いと同じようにやってごらん。 現状の実力だと、それ以上背伸びして、必殺技で勝とうなんて考えても駄目だよ。 まずは基礎から習得して、当たり前のように試合で生かせるようにする。 そこから。 天才だったら試合でぶっつけ本番の大技を成功させられるかもしれないけれど、私もそんな天才は見たことないから」

「オス! 分かりました!」

物わかりがいいな。

おかあさんも頷いていた。

これくらい物わかりが良いと、教えていて気持ちが良いのかもしれない。

それからカトリイヌさんだが。

これは今見て分かったが、バリバリのフルコンタクト空手だ。

ただそれは、警察で教えているのと同じだろう。

警官も悪漢と格闘戦をするケースがある。

柔道は弱いように思われている場合もあるが、あれは畳が下になっている時に衝撃が小さいだけであって、アスファルトなどでの投げ技は簡単に致命傷になる。勿論受け身もろくに出来ない人間がアスファルトが下の時に柔道をやっている人間から投げ技を食らえば、それだけで行動不能になる。

カトリイヌさんは名家のお嬢らしいし。

身を守るために武道をやっているのだろう。

これに関しては正解だと思う。

名家にあぐらを掻いて、何もかも。学業成績も名声も金で買うような輩が幾らでもいる中。

カトリイヌさんは、名家にふさわしい人間であろうと努力している訳なのだから。

立派である。

まあ時々ポンだけれど、それくらいの方が愛嬌があっていい。

カトリイヌさんもかなりうまくなっているようで、おかあさんはそれでも細かい部分の指摘をしていた。

「セバスティアンの言うことと全く同じですわ……」

「あちらさんも相当な使い手だろうからね。 全盛期に勝負してみたかったわ。 今はもうちょっと無理かな」

「実はセバスティアンも同じ事を……」

セバスティアンさんも既に全盛期の実力はないらしい。

そうか。

杏美を産んだばかりで弱体化しているおかあさんと、加齢で弱体化したセバスティアンさんは似たような状態なわけだ。

最後は燐火だ。

燐火に関しては文句をつけるところが見当たらなかったようで、そのまま続けるようにとだけ言われた。

小川先輩が口をとがらす。

「いいなあ。 でもこんな凄いママがいるなら、それは専属コーチが側についているのと同じだよねー」

「羨ましいですね……」

鈴山さんがぼそりという。

おかあさんは何か言いたそうにしたが、それで終わりにした。

まあ、おかあさんも他の存在(ケルベロス)が事実上の師匠で、トレーニングなどの厳格な管理をしてくれている事は分かっている。まさかケルベロスであるとは分からないだろうが。

だから、基礎はたたき込んだが。

それをここまでに仕上げてくれたケルベロスはどれだけ凄いのだろうと思っているのだろう。

まあ猛獣の性能については、日根見ちゃんから聞かされている。

人間の頭脳を持った猛獣であるケルベロスが仕込んでくれたのだ。それは強くなるに決まっている……燐火の元の性能が高ければ……である。

とりあえず、大会前の最終調整はこれで終わりだ。

小川先輩は大会に出る。一応、鈴山さんも腕試しで出てみると言う。

大会の日時は分かっている。

既に聞いている合宿と日にちは被らない。

出来れば、見に行くつもりだ。

 

それから数日。

予定通り、魔祓いの夏合宿に出向く。

これは二回目だ。

前とだいぶ面子が代わっている。これはある程度魔祓いをして稼いでいる有望な若者だけが来ているらしく。

それ以外はなかなか来られないという事情があるそうだ。

燐火は通帳にここに来ても余裕なだけの残高が入っているので、別に問題はない。それにここであれば。

現在の実力を、一線級の魔祓い達から鍛錬を受けながら、客観的に確認することが出来るのだ。

今回も合宿は山奥である。

今回は状況も良くないので、最悪途中で戻ることになる。

迎えに来たまだ若い陰陽師の人は、以前「迷子」の痕跡を探ったときに一緒に仕事をした陰陽師親子の親族らしい。

今でも陰陽師をやっている人間はそれなりにいるらしく。

魔祓いをしている者もいて、その中では一番の腕前として国に評価を受けているのだとか。

とりあえず現地では、ほとんど知っている人はいない。これについては、事前に日女さんと約束した通りだ。

今回の。フルーレティを倒した後に動き出した相手は、恐らくだが燐火にこだわりを持っていない。

むしろ介入しようとしているオーディン一派を潰そうともくろんでいる様子だが。その先に何がしたいか分からない。

八百万の神々という思想に対して、敵意があるようには思えなかった。

それどころか、ウェウェコヨトルの話を聞く限り、むしろ好意を抱いているのではないかと感じた。

ともかく、今は出方を見るしかない。

たまに出るダイモーンに対応が出来ないと困るから。

合宿を引き延ばすわけにもいかない。

ともかく。初日から今回は飛ばしていく。まずは合同での連携魔祓いだが。これについては前回より更に技量を上げたこともある。

ほとんど苦労なく、適切な処置を出来た。

採点をしている一線級の魔祓いの人は、あれは神職だな。

男性の神職だから、日女さんとはちょっと格好が違うが。いずれにしても、かなりの凄腕だし。

強力な神の加護も得ているようだった。

午後の乱戦を終える。

また何人かが強制帰宅させられている。どれもやはり、都会でのぬるい魔……幽霊とかそういうのを相手にして、調子に乗るばかりだった者達のようだ。それが才能があると勘違いしていた。

それで今回、力の差が分かって目が覚めるのなら良かったのだろう。

その可能性もないと判断されたのだとみていい。

まだ喚いている者もいたが。

ごっつい警備員にバスに詰め込まれて、強制的に連れて行かれていた。あれは魔祓いとしては廃業だろうな。

それだけ思う。

軽くルーチンをこなしていると、声を掛けてきたのは。

前回、「道」で一緒になった神楽坂輝さんだった。

「久しぶり。 燐火ちゃん、背伸びたね。 十pはのびた?」

「11pです。 今まで発育が悪かったのを取り戻そうとしているみたいに伸びています」

「はー、伸び盛りとはいえ凄いなあ。 筋肉痛とか大丈夫?」

「問題ありません」

あるにはあるが。

我慢できる範囲だ。

燐火は生理痛もそれほど重い方ではないので、その辺りはほとんど影響は出ない。これが厳しいと。どれだけ頑健でも動けない日が出てきてしまったりするのだが。

軽く話をする。

輝さんは更に実力を伸ばしているらしい。ただ年齢的に、合宿参加は今年が最後であるそうだ。

なんでも八年間合宿に参加していたらしく。一番最初に参加したのは小学校低学年だったとか。

それだけ古くから魔祓いとして活躍していて。

期待されていた、ということだ。

確かに汎用性が高い魔祓いだ。重宝されていてもおかしくはないだろう。

「今回は多分燐火ちゃん、明日は最高難易度コースに送られると思うよ」

「そうなると、現役で活躍している人たちの力が見られるんですね」

「前向きだね。 前の道よりも危険度が高いから気をつけてね」

「分かっています」

さて、他の面子はどうか。

高校生らしい魔祓いが何人かいるが、実力はまばらだ。前回菖蒲さんが参加していたので、レベルが引き上げられていたらしい。

この様子だと、菖蒲さんレベルはいないか。

いや、ケルベロスが注目している人がいる。

燐火と同年代に見えるが。

あれは多分高校生だ。

ものすごく陰気で、隅っこで膝を抱えている。周りに人魂が浮かんで見えそうなほどのいわゆる陰のオーラを醸し出しているが。

まあ、燐火は別にそれでどうこうと思うつもりはない。

「あれは強いぞ。 今回参加している中では最強だろうな」

「そうだね。 言われて気づいた。 明日は一緒になるのかな」

「さあな。 燐火もかなりいい線は行っているが、今年で最高難易度に送り込まれると、来年がどうなるか分からないからな。 来年はもう良い、ということになるかもしれないが」

まあ、それはそれで。

進歩したと言うことで、燐火としても悪くない気分である。

良く休んで、翌日。

燐火は予想通り、最高難易度のコースに入った。

陰のオーラ全開の人と一緒だ。

他にはある程度経験を積んでいそうな人と一緒だが。

いずれもが、とても頼りにはなりそうもなかった。

日女さんや菖蒲さんとは比べるのもおこがましいレベルである。

さて、今度は何をやらされる。

そう思ったのだが、意外にも滝行だ。

監督役の魔祓いの人。

これもまた仏教系のようだが、林西さんなみの使い手だと一発で分かる人が、なぜ滝行かを丁寧に説明してくれた。

魔祓いには精神力が必須である。

他の者達は戦闘経験が足りないが、ここの面子は戦闘経験はある程度積んでいる。それについては確認が取れている。

故に、基礎能力を上げる。

滝行といってもこの滝は霊水によるもので、非常に消耗が激しいものの、耐えきれば一気に基礎能力を上げられる。

だから、耐えきれ。

ただし滝行はあまりにも厳しい状況でやると、倒れる可能性がある。

駄目だと判断したら即座に止めるので、そのつもりで。

そういう事だった。

まあ燐火としては、何ら異論はない。

青ざめている他の皆とは違って、更衣室でさっさと着替える。陰のオーラの人も、青ざめてはいるが臆してはいないようだった。

そのまま滝行へ。

そういえば輝さんはここではないのかなと思ったが。

あの人は直接戦闘向きじゃない。

だから余計に、今は直接戦闘を鍛えているのかもしれない。

まあ、それでいいのだろう。

燐火はともかく、夏ですら冷たい滝壺に足を踏み入れる。

滝壺といっても滝の規模がたいしたことがないので、はっきりいってどうということもない深さだが。

ただ、足からビリビリ感じる。

霊水というのは本当のようだ。

「この辺り一帯が魔に相反する聖の領域だが、ここはそこから直結している水源のようだな」

「ケルベロスは大丈夫?」

「俺は問題ない。 テューポーンとエキドナの子として生まれた俺だが、最終的には魔から離れた。 今はこちらの方が心地よいくらいだ」

「そっか。 それはよかった」

ともかく滝の下に。

陰のオーラ全開の人は、更にものすごい負のオーラを纏いながら、のしのしと滝に向かって歩いて行く。

燐火も同じように。

そして険しい目つきで監督役が見ている中。

二時間ほど滝行をしたが。消耗が凄まじく、それだけで丸一日動けなくなった。

ただ、これで相当な基礎能力向上につながると思えば安い。

全身が脱力でもしたかのようだが。

陰のオーラ全開の人はまだまだ余裕そうだ。

それどころか、四時間も平気で滝行をしていて。それが終わった後は、けろっとして部屋の隅で相変わらず座っていた。

同じように滝行をした面子は、誰も一時間程度しかもたなかったのに。

監督役の人が、今年はレベルが低いなとぼやいていたが。

菖蒲さんがいないのだから、仕方がないのかもしれない。

ただこの陰のオーラ全開の人、或いは魔祓いとしては菖蒲さん以上かもしれなかった。

話しかけてみる。

顔を上げて見てくるが。

燐火以上に無表情で、じっとこちらを見てくる。

そして、ぼそりぼそりという。

「話しかけてくるのは面白いわ。 貴方確か平坂燐火ね。 去年の合宿で、初参加で大暴れした」

「大暴れかは分かりませんが、去年から参加しています」

「私は七年目。 滝行は去年からしているの。 私の名前は蠱毒欄。 名前から分かるかもしれないけれど、呪術使いよ」

くつくつと笑う。

なんでも呪術を使っていると、どうしてもそれに色々と引っ張られてしまうらしい。ド陰キャでしょうと言われて、流石に反応に困る。

笑顔一つ浮かべない燐火だって、陰キャに分類されるかもしれないので。

それでも、話しかけているのを見て、周りがおののいている。

どうでもいいことだが。

何でも欄さんはダークサイドに近い神を行使して、遠距離から魔祓いを行い。アウトレンジによる圧殺を得意としているそうだ。

呪術の破壊力は凄まじく、今まで悪神を八柱粉砕した実績があるという。

そういう一族であるとかで、先祖の中には日本三大怨霊の一角を倒したものまでいるのだとか。

それは凄いな。

日本の場合は邪神より大怨霊の方が恐れられている傾向がある。

恐れられると言うことは力を受けると言うことで。

つまりそれは、それだけ強力だと言うことでもあるのだから。

「アドレスを交換しても良いですか」

「良いけれど、私ほとんど政府の関係者としかやりとりしないわよ。 いつもは東北の奥地で引きこもりだし」

「何かあったら連絡しあいましょう」

「私も良いかな?」

いきなり会話に参加してきたのは輝さんだ。

輝さんと欄さんは知り合いらしく、ふっと欄さんが笑う。まるで怨霊が笑ったかのようだった。

「物好きねあんた達。 でもしつこく話しかけてくるようならブロックするわよ」

「しないしない。 実際嫌そうだったら話すのやめていたでしょ? こっちとしても欄さんの凄まじい霊力には結構敬意を抱いているんだ」

「好きにしなさい」

ともかく、連絡先を交換しておく。

合宿で、強力な魔祓いとやりとりをするのは有益だ。輝さんとの直アドレス交換なんて、誰がやれるだろう。

勿論、それをよそで喋る訳にはいかない。

あと、輝さんがサインをささっと書いて、欄さんに渡していた。

物好きねといって。それでも欄さんは大事そうにしまっていた。

或いはだけれども。

輝さんの配信を、見ている人なのかもしれなかった。

 

合宿最終日。

やはり陰陽師の人の式神と渡り合う。今回はかなり基礎能力を上げてきているらしく、前回と同様、かなり激しい戦いになった。

しかも今度の相手は、侍は侍でも、多分中身が違う。

恐らくだけれども、名のある武人だ。

激しい鍔競り合いのあと、弾きあう。何度も鉄パイプと、相手の持っている薄く輝いている刃がぶつかり合う。

これは強い。

充子と同等か、それ以上だ。

それでも、剣道じゃない。

それに奥義の歩法を駆使して、とにかく徹底的に攻め込む。

歩法を見て、式神はかなり驚きつつも、的確に対応してくるが。途中から、本気を出さないと勝てないと判断してくれたらしい。

大上段に構える。

なるほど、一撃必殺の構えか。

燐火は歩法を駆使して、ぬるりと相手に近づく。

その時には本気だからか。紙束にしか見えなかった式神が、完全に鎧武者へと代わっていた。

燐火の知識だと、どの時代の鎧かは分からないが。

大鎧の迫力がものすごい。

それに実戦であれば、大鎧が相手だ。生半可な剣道なんかでは、通用しないだろう。大鎧は見かけだけが凄いのではない。

急所への一撃は確実に防げるように出来ている。

そう、師範が言っていたっけ。

大上段からの、流星のごとき一撃。

これは、回避できない。

だから、真正面から受け止める。

ガンと、激しくぶつかり合う。吹っ飛ばされるが、それでも踏みとどまる。至近。迫ってきていた式神。

だが、踏み込むと同時に、胴を払いに行く。

第二撃を放とうとした式神が、其処で膝が砕ける。

元の体だったら、こんなことにはならないだろう。

だが、その急あしらえの体では、所詮はこんなものだ。

ガツンと胴が入ると、其処までと声が掛かった。

「見事! 私の奥義、星堕としを良く耐えたな。 あのまがつ星の悪神に痛打を浴びせた自慢の一の太刀だったのだが」

「ありがとうございます」

「星の悪神か……」

ケルベロスがぼやく。

後は、互いに礼をして、鍛錬終了。

そして採点をして貰ったが、今回は滝行でかなり減点されていた。

燐火は戦闘訓練は十分出来ているが、魔祓いとしての底力が足りていない。精神修養は出来ているが、それもまだ発展途上だそうである。

ともかく、どうすれば良いかの細かいメニューを貰ったのでありがたく受け取る。

厳しい評価だったが。これで更に伸びるのなら、安いものだ。

後は帰ることにする。

今回の合宿では、帰路に襲撃を受けることはなかった。

だが、有意義であったことに変わりはない。

帰路、日女さんに連絡は入れる。

幸いダイモーンは出ていない。

そうなると、帰る早々、ダイモーンに遭遇してもおかしくはないなと思いながら。高速道路の左側に広がる雄大な森を、燐火は見つめ続けていた。

 

3、短時間の努力の限界

 

空手の地方大会の前。

ダイモーンに対応する。

合宿から帰ってきて、すぐである。

燐火は参加しないが、それでも鈴山さんと小川先輩が出るのだ。行っておくべきだろうと燐火は思ったのだが。

ダイモーンが途中で出たので、祓いに行った。

かなり古いダイモーンだったようで、大量の悪運をため込んではいたが。はっきりいって、たいした相手ではなかった。

倒した結果、膨大な悪運がばらまかれたが、それも自分で全部祓ってしまう。

滝行でかなり地力が上がったようである。

本当に凄い霊水だったのだなと思うのと同時に。

元々引き出し切れていなかった力を、あの滝行である程度引き出しただけ、というのも聞いているので。

要はこれ以上伸ばすには、毎日のルーチンを続けていくしかないということだ。

無駄になっていた分を、的確に引き出しただけなのだから。

「基礎的な魔祓いの底力は上がっている。 とりあえず、それで今は満足しよう」

「うん。 でも力が上がってきて分かってきたけれど、日女さんや菖蒲さんの方が全然格上だね」

「日女も菖蒲もそうだが、後はエヴァンジェリンやカトリイヌも、生まれたときから魔祓いの鍛錬をしている相手だ。 流石に短時間の努力では追いつけないさ。 その代わり、燐火は肉弾戦が出来る強みがある。 ともかく、行くぞ」

ケルベロスに言われて、さっさと着替え直す。

会場に到着。

一回戦はあらかた終わった。

流石に空手の地方大会程度では、観客はそれほど多くはないので、普通に座ることが出来た。

小川先輩は、勝ち残ってるな。

鈴山さんは。

良かった、勝ち残ってる。

参加者は300人くらいはいる。

まあ一回戦は、勝ち残れて順当だろう。

問題はここからだ。

二回戦で、鈴山さんが、明らかに勝てそうにない相手にあたる。

あれはどう見ても、ガチガチに小学生から空手をやっている相手だ。鈴山さんはちょっと相手が悪いだろう。

ちなみに今日は、涼子を誘っている。

涼子にとってこれは気分転換らしい。

六法全書を覚えるのがとにかく大変なので、気晴らしには良いだろうと来てくれたのだけれども。

会場に暗記用のシートを持ち込んでいるので。

ちょっと苦笑いしてしまった。

ともかく鈴山さんは、必死に善戦するが。

速度からして全然違う。

女子の空手大会でも、これほど力の差が出るものなんだなと燐火は思った。

「あの相手、強いね」

「うん。 うちの部長ならなんとか勝てる、くらいだね」

「そんなに強いんだ」

「うん。 かなり」

全く興味がなさそうな涼子に、解説もしなければならないか。

ちなみに涼子は投薬治療を続けていて、フリッグに仕込まれたニンフォマニアの改善を進めているが。

まだ完治にはほど遠いという。

例のアホな父親も、また悪い女に引っかかりそうになっており。

最近では連絡を細かく入れて、馬鹿なことをしていないか逐一チェックまでしているようだ。

一歩間違えばいわゆるメンヘラだが。

涼子の家の場合、父親が下半身関連ではまごうことなくアホなので、これは仕方がないだろう。

ただ。涼子としてもこのままではまずいと判断しているらしく。

高校からは寮に通い。

興信所をずっと雇って、父親の監視をさせるつもりらしかった。

これについては、父親をあらゆる意味で信用していないからと言っていた。

まあ、気持ちは分かる。

いずれにしても、鈴山さんは敗退だ。

圧倒的な判定負け。

手も足も出なかった。

肩を落としているが、もしも燐火が基礎を教える前だったら、多分瞬殺だっただろう。それをあそこまで食いついたのだ。

良くやったと思う。

小川先輩の出番だ。

二回戦の相手。あの様子だと知っている相手か。

相手があからさまに侮っているが。小川先輩は、凄まじい勢いで間を詰めると、ほとんど完璧な正拳をたたき込んでいた。

瞬殺である。

判定で圧倒的な勝ち。

相手は納得いかないと顔に書いていた。

この様子だと、小学校くらいで知り合いだったか、今までにどこかの空手教室で顔を合わせた相手だったのかもしれない。

だとすると、前はお世辞にも力量が優れているといえなかった小川先輩のこの進歩。

それは納得も行かないだろう。

だが、あれは。

力に驕ったというのだ。

ケルベロスも、それをズバリ指摘する。

「中途半端な実力しかないのに、相手を侮るような悪癖を出したな。 あれは苛斂が勝つのも妥当だ」

「小川先輩、頑張っていたもんね」

「ああ。 さて、大分数が減ってきたな」

三回戦。

ここからシード選手が出てくる。シード選手は前回の大会で好成績を上げた選手達であり。

中には優勝者も混じっている。

その優勝者にあたって早々に退場したものの。

かなりいい動きをした選手もシード選手に混じっているそうだ。

試合を見る。

小川先輩は、まだそういう強力な相手にあたっていない。

だがこの辺りからは、油断している選手は一人もいないようだった。

かなりの激戦になる。

小川先輩は、それでも嬉しそうだ。

前だったら、絶対勝てなかった相手だろう選手に、食い下がっている。それどころか、押し始めた。

数分の激闘の結果、競り勝つ。

小川先輩はかなり汗だくになったようだが、それでも、勝利は勝利。辛勝だったが。

休憩に入って、スポーツドリンクを飲んでいるのが観客席からも見えた。

「あの派手な人、とても堅実な動きだね」

「見かけで損している人なんです。 うちに鍛錬に来たときも、おかあさんのアドバイスを丁寧に聞いていましたし。 部活に来た外部委託の講師からも、熱心にアドバイスを受けていました」

「あ、先生に恵まれなかったタイプ?」

「そうです」

そういう観点では、昔の燐火と同じだ。

燐火の場合は先生どころか親にも恵まれなかった。

今のおとうさんとおかあさんのところに来て、やっと人生がまともになったと言える。

小川先輩は、ある程度は家庭はまともらしいが。

ただ。それでも先生に恵まれなかったし。

学校にも恵まれなかった。

遅咲きなのだ。

しかも、最近やっとまともな講師に巡り会えた。

だとすれば、この程度が限界だろう。

四回戦。

小川先輩の相手はシード選手だった。

優勝者ではないが、一目で格上だと分かる。これは、燐火でも勝てるかちょっと分からないな。

こういう猛者をおかあさんは現役時代、ちぎっては投げしていたわけだ。

そういえば来る前に調べたのだが、地方大会の優勝者を、数年間おかあさんが独占していた時代があった。

あんまりにも強すぎるので、四回戦からのシード選手にされていたらしい。

いずれにしても、小川先輩はこれは勝てない。

それでも、瞬殺はされず。

必死に食いついていく。

だが、結果は見えていた。

 

鈴山さんと、小川先輩と、会場外で会う。

「負けた負けた!」

そうは言うが、小川先輩は満足げだ。実は去年も大会に出たらしいのだが、一回戦負けだったらしい。

しかも空手道場の連中にそれを大笑いされたそうだ。

さっき、二回戦であたったのがそれ。

逆にそいつを瞬殺したこともある。

リベンジは果たせた、ということなのだろう。

鈴山さんも、二回戦にまで行けたのだ。立派である。

ちなみに涼子は試合が終わると、早々に帰った。

小川先輩達と交流する気がないのではなく、単純に勉強を進めたいらしかった。

「シード選手なだけあるわ。 ちょっと勝ち目なかった。 でも、一回かなり惜しいの入れられた。 それで今回は充分だわ」

「そうですね。 本格的に始めたのはつい最近も同然ですので、来年は好機があると思います」

「来年は部長やるわ。 今度は最低でもベスト4まで行ってやる」

意気込みが凄いな。

鈴山さんはちょっと所在なげにしていたけれど、小川先輩が褒める。

去年は小川先輩は一回戦敗退だった。

二回戦まで行って、しかもかなり力戦した。

始めたばかりも同然の状態であれは凄い。

しかも運動神経がそこまで良い訳ではないのだから、なお凄い。

そう丁寧に褒めていた。

後は、帰る。

小川先輩はすっきりした様子だった。四回戦まで行けたのなら今回は充分。しかも、今まで小川先輩をずっと馬鹿にしていた相手にリベンジを果たせたのだ。

フルコンタクトだともっとやれるかもしれないが。

それについてはまだ良いらしい。

身を守るための空手。

いたずらに暴力の手段として用いるつもりはないらしい。

それを聞くと、本当に見かけで損しているんだなと思って、色々悲しくなる。

燐火ですら、見た目で相手を判断する要素は、どうしてもあるのだ。他の人間は。特にスクールカーストに毒されきっているタイプは、それを正義とすら考えている時代である。だとすれば、あらゆる意味で小川先輩は不利だ。

高校辺りに入っても、どうせ見かけが派手だから、で。色々と陰口をたたかれるのだろう。

実際問題、それでろくでもない男ばっかり近づいてくる事もあって、小川先輩は男嫌いになりかけているらしい。

まあ気持ちは分かる。

これ以上事態を悪化させないように、何かしらの工夫がいるのかもしれないが。

こればっかりはどうしようもないというのが、燐火の本音だ。

帰路で別れる。

鈴山さんは、ずっと喋らなかった。

まあ、一回戦を勝ち、二回戦であれだけの接戦に持ち込んだのだ。はっきりいって、今回は充分だろう。

無言で帰路を行くが、ケルベロスに言われる。

「急に増えたな」

「今日二回目だね」

ダイモーンだ。

これは行き帰りで、退治していくことになりそうだった。

 

ダイモーンはどこかの民家に張り付いていた。

見かけは、あれはなんだ。

何かの虫だろうか。

最近、教養を身につけた方が良いと言われて。涼子から進められた本をたまに読んでいるのだが。

カフカという人の変身という小説をつい最近読んだばかりだ。

ダイモーンはどうしても人間的要素が出てくる。

それもあって、巨大なゴキブリに人間の要素が混じっているかのようなあの姿。あまり、関心は出来なかった。

日根見ちゃんに聞いている。

昆虫をはじめとする節足動物は、世界でもっとも繁栄している種族だと。

その完成度は極めて高いのだと。

確かに人間が核戦争で滅びたとしても、ゴキブリが滅ぶことはないだろう。それくらい強靱な種族だ。

燐火としては気持ち悪いとか云々以前に、そういう話を聞いているから、種に対する冒涜だと感じてしまうのだ。

ともかく祓うか。

さっと聖印を打ち込む。

かなり育ったダイモーンだが、今の燐火はそれ以上に育っている。すぐに全身が破裂し始めたダイモーンは、うるさそうにこちらを見て、羽を広げた。顔はまんま福笑いみたいに造形が崩れた人間の顔みたいになっている。

人によっては不気味だとかおぞましいだとか感じるかもしれないが。

燐火としては、馬鹿にしているのかと苛立つばかりである。

日本に住んでいるゴキブリの中で有害で、人家に入り込んでくるのは四種類。

クロゴキブリ、チャバネゴキブリ、ワモンゴキブリ、ヤマトゴキブリだけである。

他の種類は森などで穏やかに暮らしている種族で、人間とはなんの関わりもない。

害にしても病原菌を媒介する蚊などとは比較にもならない程度の低脅威に過ぎず。ただ不快害虫だとか言うカテゴリに入れられている存在。

要は人間の傲慢さが、ゴキブリという存在を、必要以上に悪にしていると言える。

そういう種に対する冒涜を何重もの意味で感じ取った燐火は、立て続けに聖印をたたき込む。

冷静さは失っていない。

此奴は、さっさと滅ぼさないと駄目だ。

そう判断しただけである。

立て続けの聖印で、体が砕けながらも、奇声を上げつつダイモーンは迫ってくる。

虫が苦手な人はいる

それは分かるが、燐火としてはそれ以上に怒りが勝る。

立て続けに聖印をたたき込み。

やがて真ん中から、ダイモーンは爆ぜていた。

消耗はほとんどしていない。

広がった悪運を、さっと祓っておく。

問題は、此奴じゃない。

振り返る。

その先には、銀色の狼がいた。スコルか。

「フルーレティを倒したときより更に力が上がっているようだな」

「失った足は再生したようですね」

「うん? ああ、これは再生したのではなく、継ぎ足したのだ。 魔というのは色々と便利でな。 再生も出来るが、悠長に待ってもいられないからな」

「……」

消耗はしているが、さて。

連絡はダイモーンが出た時点で入れている。

こっちに日女さんが向かっている。

菖蒲さんは、昨日やっと日本に戻ってきた。海外で面倒な仏教系の魔が出たらしく、退治に出ていたのだ。

確か餓鬼の王であるサンニヤカーだったか。

正確には仏教系ではないらしいが、餓鬼は仏教でも存在する概念でもあるので、それをたどって打ち倒してきたとか。

いずれにしても、菖蒲さんもそう時間を掛けずに来てくれる筈。

ただ、スコルはそれを理解しているはずだ。

マグニを瞬殺した時の狡猾な立ち回りからして。

此奴が、危険を考えずに、燐火の前に姿を見せるはずがない。

「それで何のようですか?」

「温存していたそこそこ強めのダイモーンを二体同時にぶつけてみた。 おまえがどれほどの脅威になるのか、しっかり見極める必要があるからな。 分霊体とはいえあのガルムを倒し、ウェウェコヨトルをたらし込んだ相手だ。 俺たちとしても、侮るわけにはいかないのよ」

「で、戦いますか」

「いや、やめておこう。 おまえが呼んだ増援がもう近くまで来ている。 いずれにしても、貴様は簡単には仕留められないと判断した。 それに更に短時間で力が上がっているのも分かった。 だとすれば、こちらもそれなりの力をそろえて仕掛けるだけよ」

すっと、スコルが消える。

燐火はふと疑問に思う。

スコルばかりが出てくるのはなぜだ。

ガルムを倒した後、スコルばかりが暗躍を続けている。

スコルにはハティという兄弟もいるし。

なんなら背後にフェンリルがいてもおかしくない。

フェンリルの実力は、かなり弱体化しているらしいが、それでもこの国の一線級の魔祓い数人がかりでやっとという相手らしいし。

出てこられたら、燐火なんてあっという間に倒される可能性を否定できない。

勿論あっさりやられてやるつもりはない。

だが、どうも妙に感じるのだ。

側に着地したのは日女さんだ。

この間マグニ戦で受けた手傷は回復している。ますます見かけがワイルドになっているが。

「この気配、スコルだな。 逃げたのか」

「はい、残念ながら。 燐火の魔祓いの力量を見極めるつもりだったようです」

「狡猾な奴だ。 狼は知能が高いが、それにしても少しばかり知能が高すぎるな」

「手強い相手ですね」

とりあえず、他の知り合いにはまとめて連絡を入れておく。

スコルがまた出たと言うことで、それなりに警戒度を引き上げなければならない。

失った足も、何か継ぎ足したという事だったが。

ともかく、これは悪い意味で暑い夏休みになりそうだった。

 

剣道道場に出向く。

充子が嬉しそうにしてくれるので、こちらも嬉しい。

見ると、門下生に混じって日根見ちゃんも剣道を始めたようだ。まだ手習いのレベルではあるが。

せっかくなので、剣道のルーチンは今日はここでやっておく。

重りをつけたまま素振りをするが。

ヒュン、ではなく。

最近はウォンと唸るような音がするようになっていた。

とにかく剣道は、うまくなるのに時間が掛かる。

槍がもてはやされたのはこれも理由の一つだ。槍はその辺の農民兵を集めて、短時間で覚えさせることが出来る上に。

基本的に多数であたるものであるので、素人集団が達人を仕留めることだって普通に出来るのである。

要はコスパが実戦では合わなすぎるのだ。

それでも剣を燐火がやるのは。

相手が槍衾をそろえてくるような軍勢ではないこと。

魔祓いにも近接戦では充分に役立てるし。

何よりも、精神修養にも活用できるからだ。

他の道場はどうだか知らないが。

少なくとも師範はそれを仕込んでくれた。

だから、師範には感謝している。

いずれ、師範に勝つという形で礼をしたいが。

それはまだまだ、当面先だろう。

今回から、師範代が燐火の相手になってくれるようだ。四段相当と師範に燐火は言われた。

それを前提に、師範代が相手をしてくれる訳だ。

それを不満そうに見ていた高校生くらいの門下生だが。

燐火が師範代相手に互角に打ち合っているのを見て、すぐに黙る。

師範代はちょうど四段である。

燐火はあの歩法は見せびらかすものではないと判断しているので、道場での試合では使わない。

ましてや燐火は、奥義を師範から教わったときより実力を伸ばしている。

三本勝負で、二本とって勝ち。

師範代と礼をして、残心した。

少し休憩を入れて、充子と勝負する。

今度はかなり押し込まれる。

やはり強いな。

燐火も腕を上げている筈なのに、充子は更に腕を磨いている。これは生半可な高段位持ちでは既に勝てないだろう。

日本でも数少ない八段持ちの師範の子で。

その教えを、幼い頃からずっと受けていて。

大真面目に鍛錬を続けている、文字通りの剣の申し子だ。

燐火がここまで食い下がれているだけでも奇跡に近いと言える。

ただ、わずかに差は縮まったか。

五回やって一回は一本を取れる。

これは恐らくだが、燐火の背が伸びているのが大きい。充子も背が伸び始めているが、まだまだ足りていないのだ。

ともかく、試合が楽しくてならない。

充子も、既に師範代では相手にとって不足になっているようで、燐火と何度でも立ち会いたいようだった。

激しい立ち会いを続ける。

六試合やってそれで一旦切り上げる。

日根見ちゃんが、褒めてくれた。

「話には聞いていたけど、凄いね燐火ちゃん。 私なんて、充子ちゃんとやりあうと毎回瞬殺だよ」

「しょうがないですよ始めたばかりなんですから」

「うん。 でも、何かお姉ちゃんとしてやってあげたいなと思って」

「勉強について聞かれたら教えてあげる、くらいで大丈夫だと思います」

そのあと、ルーチンをこなしながら日根見ちゃんの鍛錬に付き合う。

これは悪くない剣筋だ。

恐らく師範から教わっているからだろうが、剣筋はとにかく美しい。ただ、速度が致命的に足りない。

集中力が低い。

それに運動神経が足りていない。

それがあって、この美しい剣筋を活かせていない。

ただ、日根見ちゃんは既に並よりずっと運動神経が良くなっている。

必ず、いずれは役に立てるはずだ。

燐火はその辺りを、丁寧に説明する。

そうすると、自信なさげだった日根見ちゃんは、少し嬉しそうにするのだった。

達人の武技は美しい。

最初からそれを見ることが出来ている。

とても幸運なことだ。

武道もスポーツもそうだが、始めるのは早いほうが良いとされる。フィギアスケートに至っては、幼稚園くらいから始めるのが望ましいそうだ。

剣は十年やってものになれば良い方とかいう話もあるらしく。

それはケルベロスから、古今東西どこでもそうだと聞いている。

だから天才の素質がない状態で、すぐに出来るわけがない。

そうやって、ある程度線引きをしておくべきだろう。

とにかく速度と集中力。呼吸とタイミング。

それについて理解したようなので、後は鍛えるだけだ。

ただ日根見ちゃんは、このまま知識を磨いていった方が良いと思う。

生物に関する知識は同世代の女子とはだいぶレベルが違うし。

まあ上を見れば幾らでも上がいるのだが。

それでも、これからそういった最高位にいるような存在に追いついていけばいいのだから。

それから、師範に呼ばれた。

裏庭で軽く立ち会う。

充子も一緒だが。はっきりいって。差が埋まる気がしなかった。相変わらずとんでもない強さだ。

軽く立ち会っただけで、師範はそれでも的確に評価してくれた。

「伸ばすための努力を可能な限りしているな。 まだまだ燐火は強くなるだろう」

「ありがとうございます」

「うむ。 そのまま励め。 ただ、凶剣に踏み込んではならん。 その先にあるのは、ただの無だ」

そうか。

修羅の道すらない。

実際にはただ無があるだけなのか。

それを聞くと、色々と複雑な気分となる。

「師範はそういう方と会ったことがあるんですか」

「ある」

「……」

「今まで三度、私が剣士として引導を渡した。 殺したわけではなく、二度と剣を握れないようにした」

三度も。

やはりそういった仕事をしているのか。

ただ、日本でそうだとは考えづらい。

或いは海外での話かもしれないが。まだ剣が現役で暴を振るえる場所は存在しているかもしれないし。

そういった場所では、戦国乱世が終わった後、剣豪が活躍した時代みたいな。剣の道を持て余すような凶剣の持ち主がいるのかもしれない。

それらを三度も無力化して、二度と剣を握れないようにしたとすると。

やはり師範はとんでもない高みにいるんだなと、感心する。

この人が嘘をつくとも思えない。

ケルベロスも、捕捉していた。

「今のは嘘ではないだろう」

「分かってる」

「……先人の話は聞いておけ。 これほど尊敬できる先人は、そういるものではないだろうからな。 特にだ」

頷く。

そして、それから細かい調整をいくつか受けた。

とにかく鍛錬についてはほぼ完璧に出来ているので、たまに生じる悪い細かい癖みたいなのを調整するくらいで良いらしい。

とにかく燐火はまだまだ背が伸びているので、それに沿って微調整をしていく必要があるそうだ。

その指示は、細かく聞く。

恐らく手足と背が伸びきるまでは、こんな調子でやらなければならないだろう。

充子もこうやって、ずっと細かく指導を受けているのであれば。

天才の素質も合わさって、強いのも納得である。

礼をして、それで帰る。

有意義だった。

歩法についても見てもらったが、更に進歩していると太鼓判を押してくれた。

それだけで随分と助かる。

無言で家に戻ると、剣道のルーチンは終えているので、他の武道のルーチンをこなし。更には勉強もやる。

杏美はだいぶ泣かなくなってきたが。何にでも興味を示すし、片言で喋るようになってきているので。

ケルベロスが見張ってくれている。

まだまだベビーベッドからは出られないが。

それでも背負ったりして構っていると、油断すると色々と口に入れかねないのだ。

子育てってこんなに大変だったんだな。

そう燐火は思う。

エゴを最優先するようになった今の人間が、耐えられないのも色々納得できる。それでも、杏美が育った時のために、今やっておかなければならない。

燐火のように。

杏美をしてしまってはいけないのだ。

笑顔一つ浮かべられず、家族にも敬語を崩せない。

こんな人間にしてはならない。

だから、できるだけ杏美には構う。

それと同時に勉強を進めなければならないが。

集中力を発揮しているときには、どうしても杏美の変調には気づけない。それもあって、ケルベロスの支援がとても助かっていた。

とりあえず勉強終わり。

英語はどうにかこつをつかんできたが、それでもまだまだ難しい。

単語は毎日少しずつ確実に覚えていく。覚えた単語は復習して、それも徹底的に頭にたたき込んでいく。

実のところ、単語を覚えるだけである程度は何を言っているか分かってしまうのが英語である。

これは日本語もある程度共通している。

それ以外の勉強は、それほど難しくない。

歴史の勉強には、教科書だけではなく学漫も使う。

実は教科書レベルの内容は、だいたい学漫に書かれている。今ではかなり学漫をネットで見る機会が多く。

無料で配布されているものを見て、勉学に役立てる。

勿論公式で配布されているかをチェックする。

こうして、ネットでの危険回避も同時に勉強しておくのだ。

「ここまでだ。 ルーチンはこなした。 前倒しはこれくらいにしておけ」

「そうだね、分かった」

ちょっと頭がほかほかしてきたか。

夏休みとは言え、いつもとやっていることは代わらない。

むしろ学校よりも、ルーチンを増やしている分忙しいかもしれない。

ただ、夏休みの間、ダイモーン退治が思ったほど多くはなかったし。

悪神も目立って出なかった。

宿題なんて最初の数日で終わらせている。

後は、夏休み最後まで。

ろくでもない悪神が出なければ良いのだが。そう思うばかりだった。

 

4、雷神敗れる

 

豪雨だ。

凄まじい雷が降り注いでいる。

そして、まだ離れているのに、途方もない気配だ。気配は二つ。どうやら、とうとう最悪の事態が起きたようだった。

自衛隊の車に乗せて貰って、現地に急ぐ。

カッパを着込んでいるのは、そうするしかないからだ。

現地では封鎖が行われ。

この辺りの魔祓いが、全員集められていた。

エヴァンジェリンさんも既に来ている。そして、燐火が来ると、咳払いした。顔が青ざめている。

仕方がない。

連絡は来ている。

どうやらオーディンがしびれを切らしたらしく、最大の手札をついに切ったらしかったのだ。

オーディンの最大の手札なんて、誰か決まっている。

雷神トール。

オーディンが信仰された時代には、オーディンの息子という設定にされた、世界でも最強の雷神の一角。

ゼウスと並ぶ、もっとも著名な雷神だろう。

ノルマンの凶猛な民が大喜びする要素を全部のせした、破壊の権化。

個人武勇をもてはやした時代の亡霊とも言える信仰。

それでありながら航海の神でもあり、農耕の神でもある存在。

「ちょっと近づける気がしませんね。 これは……」

「うかつに近寄るな。 トールは必殺必中の逸話を持つ、ミョルニルを持っている」

ミョルニル。

通称トールのハンマー。

トールですら、特別なベルトと手袋をして、それでやっと振るう事が出来る最強のハンマーであり。

投げれば必ず命中し、そして相手を必ず殺す。

オーディンの槍であるグングニルもほぼ同じ性能を持っているが。

それより更に荒々しく。

必殺というよりも、必ず破壊するとでも言う方が正しい代物である。

エヴァンジェリンさんが警告するまでもなく、距離を取って見張っている皆が、緊張している。

ここで気配を感じ取れないような魔祓いは。

呼ばれていないのだ。

林西さんが来た。

菖蒲さんもいる。

他にも、林西さんと同レベルの魔祓いが二人。

ともかく壁を展開して、それからだ。

林西さんが、作戦について説明しようとしたその瞬間。

更に、もう一柱。

何かが出現したようだった。

「!」

「これはまずい」

「どうしたの」

「ヒドラだ。 今、俺がヘラクレスを呼ぶ。 絶対に手を出すな」

ヒドラ、か。

燐火も調べた。

ヘラクレスですら滅ぼせなかった、十二の難行における最強の怪物。

9とも100とも言われる首を持ち、首を切り落とされても即座に再生するだけではなく。

一番大きい首は不死であり、何をやっても殺せなかったため、石で潰して封印するしかなかった最強の怪物だ。

ケルベロスにとっては兄弟であり。同じくテューポーンとエキドナの子である。

そして、その性質は。

即座に林西さんに話す。

燐火がギリシャ系の魔祓いだと言うこともある。林西さんが即座に信じてくれた。それだけ、燐火が戦績を上げているという理由もある。

何より、だ。

「トールを倒したのは、ヨムルンガルドの毒です。 そしてヒドラは不死の怪物。 トールとは相性が最悪です」

「そうなると……」

「前線で、状態を確認した方がいいと思います。 物語に墜ちているという点では、トールもヒドラも同じ。 だとすると……」

「本命の相手はヒドラか」

ケルベロスによると、ヘラクレスが来てくれるまで五分。

それまで、待つしかない。

凄まじい雷が落ち続けている。

これは、もう戦いが始まったな。

横殴りに、鼓膜が破れそうな稲妻と、更には衝撃波と光。

恐らくは、ミョルニルが直撃したのだ。

ヒドラは、だが。

不死だ。

不意に、ばつんと音がして、雷が止んだ。豪雨も止まる。

これは。

気配が、一つ消えた。

ヘラクレスさんが来るまで、最悪足止めをしなければならない。ヒドラなんか市街地に放ったら、どんな被害が出るか分からないのだ。

林西さんが、燐火と日女さん、菖蒲さんとエヴァンジェリンさんに声を掛ける。カトリイヌさんも行くと行ったが、壁を展開してくれと頼まれて。しぶしぶ背後を守る。燐火はついていく。

山の上では。

雄々しい雷神が、巨大な蛇に巻き付かれ。

その首筋に、食いつかれていた。

「こ、これが不死の者にすら極限の苦痛を与え続けるという……ヒドラの毒か」

「然り。 そして貴様のハンマーは、不死には無力だ。 残念だったな、世界最強の雷神。 残念ながらおまえを殺し尽くすことは出来ないし、俺も物語に墜ちた身だ。 不死は完全ではないが、おまえを数百年は顕現させないレベルのダメージを与えることができただろう」

「ぐっ……オーディンの腹黒親父めに言われて、息子の仇を取りに来たが、それすらかなわぬか……」

「諦めろ。 この国の神々に俺は干渉するつもりはない。 戻ったらオーディンの腹黒に伝えるのだな。 手札をなくした今、老醜のおまえ自身が来るか、それとも諦めるか。 もっともこちらには、オーディンの天敵がいるが」

フェンリルの事だな。

しかもヴィーザルがやられた今、フェンリルに対応できる存在はいない。

横に、降り立った。

ヘラクレスさんだ。

その偉容に、おおっと声が上がる。

日女さんですら驚いていた。

散開。

声が掛かると、消えていくトールを締め付けていたヒドラから、皆が距離を取る。ヒドラも見た感じ無事ではない。

信仰されていた時代だったら話は別だったのだろうが。

ヘラクレスさんが声を掛ける。

「久しいなヒドラ」

「ヘラクレスか。 あの時は俺の友を良くも踏み潰してくれたな。 おまえにも必死に立ち向かった気の良い奴であったのに」

「ああ、非力だが勇敢な者だったな。 故に気の毒であったから星座にしただろう」

「ふん……」

ヒドラが、舌をちろちろと出しながら、ヘラクレスさんに向き直る。

ミョルニルの直撃で無事ではなかったようで、首は一つを除いて焼き切れていた。

ただ、これは。

ヒドラもまた消えていく。

「俺は雇われてきただけなのでな。 この国では俺が愛されているようで、居心地がいい。 ヒドラという種族だと勘違いされているのは癪だが、それでも八百万の神々という考えは好きだ。 だから、多少気にくわなくても雇われてやった。 仕事はこれだけだ。 帰る」

「……」

「そこのギリシャ系の魔祓い。 ケルベロスと共にあるもの。 兄弟が力を貸している者のよしみで教えてやろう。 俺を雇った奴は、生半可な魔ではない。 そして、おまえが想像している者でもない」

「!」

さらばだというと、ヒドラが消えていく。

どういうことだ。

フェンリルではない、ということか。

フェンリル以上の魔獣なんて想像も出来ないのだが。

あるいは……。

ともかく、戦いは避けられた。オーディンは恐らくだが。もう恐ろしくて介入できないだろう。

トールという最強の手札を失った上に、フェンリルがいる可能性があるからだ。

だが、それは。

そんな危険な相手に。しかも今のヒドラの言葉からして、下手をするとフェンリル以上の存在に。

燐火が挑まなければならない事も意味していた。

 

(続)