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本物になりたかった者
序、剣の求道者
燐火が道場に出向くと、空気が張り詰めていた。
何かあったな。
そう思って、無言で礼をして、道場に。
道着を借りて、道場に出ると。
師範代と充子が向かい合っていた。
これは、充子の勝ちだな。
充子は燐火より年下だが、その実力は既に大人に匹敵するか、それ以上と言うことである。
しかも相手は段位持ち、それも三段くらいだろう。
剣道では高段位にはまず勝てないと言われるらしいが。
段位の取得方法に年齢、経験年数がある。
それもあって、必ずしもそうとは言い切れないのではないかと、燐火は思う。
実際、リーチと速度を生かして攻め込もうとした師範代が、瞬く間に一本、面を取られていた。
どうやらこれが三本の最後であったらしい。
師範代は礼をして、残心をすると下がる。
燐火が座ると、次と声が掛かった。
おそらく、一番強い師範代だ。現在師範の次に強い人物だとみて良いだろう。見た感じ、燐火と同等かそれ以上だ。
だが、それも充子と向き合うと。
あ、これは勝てないな。
そう燐火にも分かった。
即座に互いに打ち込み合う。あの人、最低でも四段はあるはずだ。それでも充子の気合いは凄まじい。
剣道の達人はそれこそ虎のような気迫を放つが、それだ。
それでも、先ほどの師範代よりも粘る。
皆が青ざめて見守る中。
ついに充子が一本を取る。
しかし師範代も意地を見せ、二本目で充子から小手で一本を取った。だが、それが限界だった。
三本目、胴で一本。
惚れ惚れするほど鋭い一本だった。
おおと、内心でつぶやく。
これは学校での問題が解決して、それで一皮むけたということだろうか。
まだ充子は剣道では強いが、精神面で問題があるように思えていた。
だが。学校での問題が解決したのは既に分かっている。
だとすれば、それで何か学んだと言うことか。
男子三日会わざれば刮目してみよという言葉がある。三国志の呂蒙で有名な言葉だったか。
三国志はケルベロスが娯楽代わりにたしなんでいたらしくて、燐火も最近は調べているのだが。
ネットでの情報は玉石混淆で。
いずれ余裕を見て、初心者向けと言われた漫画、小説から順番にたしなもうと思っている。
いずれにしても充子の成長は、まさにそれだ。男子ではないけれど、女子だってそのくらいの成長をすることは普通にあるだろう。
師範が出てくる。
まさか、師範ともやるのか。
そうらしい。
充子が今までにない気迫を放つが。
これは流石にまだ相手が悪いか。
向かい合った師範の気迫は、充子が放つ気迫が、子猫程度にしか感じられないほどのものだ。
明らかに隣に座っている男子が真っ青になっている。
気迫だけで漏らしそうになっていると言うことだ。
これは、剣豪と、それに挑もうとする若者の勝負だ。
勿論勝敗は見えている。
だが、かろうじて同じ土俵に立てている、というだけでも凄まじい。他に同じ事が出来そうなのは、最後に充子と戦った師範代だけ。
燐火も師範と剣をあわせたことはあるが。
まだまだ全然本気ではなかった、と見て良いだろう。
鋭い一喝とともに、試合が始まる。
必死に歩幅を工夫して間を詰めようとする充子だが。
あまりにも美しい面が完璧に入っていた。
一体どれほど錬磨してきた剣なのか。
前にこの道場を牛耳っていた屑を追い出したのも、納得できる最高の一撃。これは警察などで指導が頼まれて、かなりの収入になっているとこの間充子に聞いたのも納得が出来る。
前にフリッグに、この人は北欧の凶猛な戦士達と充分に渡り合えると啖呵を切った。
だが、それはおそらく過小評価だった。
この人は伝説に出てくるような英雄と渡り合える。
十段は既に廃止されて久しいようだが。
この人はそれにふさわしいだろう。
ケルベロスが言う。
「見事。 スパルタの戦士達でも、師範ほどの実力者はまれだっただろう。 レオニダス王がこの場にいたら、さぞや部下にほしがっただろうな」
「ペルシャ軍の大軍を寡兵で食い止めた人だね」
「そうだ。 ……見て覚えておけ燐火。 本物の達人の武技は、美しいのだ」
「うん」
あまりにも、美しい。
二本目。
踏み込み、気迫、剣筋。
いずれもが完璧だ。
充子でも残念ながら手も足も出ない。しかし、師範が今本気になっている。本気を出させているということで。
それは、おそらくこの場の誰もがなしえなかったことなのだろう。
三本目。
充子が執念で小手を入れるが、浅い。
即座に師範が小手とはこうやるというように、あまりにも美しい剣筋で一撃を入れる。そこまで。
両者向かい合って礼。
それで、試合は終わっていた。
師範は燐火が来ていることに気づいていたらしい。それはそれとして、周りに説明をする。
「久しぶりに本気を出した。 充子は今や、私が本気を出すほどの剣士に成長していると言うことだ」
「……」
「剣道はあくまで競技でありスポーツだ。 だが源流は剣を用いての殺し合いであり、自衛のための手段でもある。 同時に精神を磨くための道でもあり、極めることは決して人生の汚点とはならない。 皆も励むように。 こうして得られた修養の手段は、必ず人生の役に立つ。 以上だ」
師範が下がる。
それから、軽く別れて、それぞれが試合を開始する。
燐火も時々道場には顔を出しているので、大体の門下生とは顔見知りだ。
だが例外もいる。新しく入ったのか、燐火を知らないらしい高校生男子が、勝負を挑んできた。
体格がいい高校生だが。これは始めたばかりだな。
試合開始。
即座に三本、立て続けにとる。
何が起きたのかと、呆然としている相手は、声が掛かってやっと我に返る。互いに向き合って、礼。
小首をかしげている相手を見送ると、充子が話しかけてきた。
「燐火さん。 さっきの試合、見てくれましたか」
「師範相手に浅いとは言え小手を入れていましたね。 凄いと思いますよ。 本気の師範があれほどだったとは。 まだまだ加減されていたことを知って、驚いています」
「まだ、追いつけないですね。 背が伸びきる頃には……」
それだけ話してから、試合に入る。
燐火は、基礎鍛錬についてはメニューを話して、それで問題ないと師範に言われている。燐火が魔祓いで実戦を積んでいることを、師範は(魔祓いが理由かは分かっていないとしても)把握しているのかもしれない。それは恐らくではなく、多分間違っていない。
その場合、必要なのは基礎鍛錬であって。
応用については、いずれ自分で教えるつもりなのだろう。
試合をする。
三回に一回、一本を取れれば良い方か。
充子は試験的に二刀流をやって見ようかと思っているらしいと、十試合ほどした後、話してくれる。
ぶっ続けで試合をして平然としている燐火と充子を見て、さっきの高校生は目をむいていたが。
まあ、経験が浅いのだ。
仕方がないと言えるだろう。
「燐火さん、基礎鍛錬だけでまた凄く強くなっていますね。 差が全く離れません」
「これでも色々あるんですけど。 差が縮まらないなと思って結構へこんでいます」
「……そうでしたか。 妹さん、元気ですか」
「まだ言葉もしゃべれないですけど、元気ですよ」
というか、まだ首も据わっていない。
冬に入って、そろそろ退院なのだが。これからが本格的に大変だ。
おとうさんとおかあさんの顔は覚えているが、燐火のことはまだちょっと怪しい。
杏美は或いは、血はつながっていないとどこかで察知しているのかもしれないが。それはそれとして、仲良くしていかなければならないのも事実だ。
いずれにしても、まだあうあわないは分からないし。
仮にあわないとしても、うまくやっていく。
それが求められることである。
ただいずれ燐火は自立する。
誰かに依存する事はしない。
そういうところは、現在的な価値観とはだいぶ違うかもしれない。
「また少しやりますか」
「はい」
「二人とも、こちらに来なさい」
試合をしようとしたところで、師範から声が掛かる。
即座に切り上げて、師範の方に。
燐火も古参に顔を覚えられるくらいは入り浸っているし、充子から三回に一回一本を取っているだけで注目される。
とりあえず、道場から離れて家の裏庭に。
師範が、軽く話そうと言ったので、防具を外して話を聞く。
充子と二人で並んで座る。
師範は庭を見ながら言う。
「充子はここしばらくでぐっと伸びた。 年齢制限がなければ、五段相当の実力は既にあるだろう」
「ありがとうございます」
「うむ」
今は師範として話しているから、敬語だ。
充子も家では違うしゃべり方をしているのだといっていた。
ともかく真面目な話だ。
静かに聞く。
「燐火は現時点の実力は四段相当だな。 まだ私が直接本気で相手にするほどではないが、それでも相当な技量だ。 やはりどこかしらで実戦を積んでいるな。 それも剣道ではなく、本当の殺し合いを」
「……はい。 事情は言えませんが」
「燐火が何かしらの悪事を働くとは考えていない。 だが、くれぐれも凶剣に墜ちてくれるなよ。 最悪の場合は、私が斬りに行くことになるだろう」
そうか。
なんとなく分かるが、この人はそういう仕事をしているんだな。
退魔関係で何かしているのかもしれない。
この人くらいの実力になると、普通に魔に対しても通用すると言う話であるし。それでもおかしくはないだろう。
「今回は、私が知る中で最高の素質を持つ二人に、私が編み出した奥義を見せておこうと思ってな」
「!」
「剣道では使えないがな」
そうして、見せてくれる。
なるほど、これは。
完璧な。
練り上げきった剣と歩法から繰り出される、あまりにも美しい奥義だ。
一連の流れは、剣舞にすら見えた。
ともかく、燐火も思わず見入ってしまった。
ケルベロスがぼやく。
「これは凄い。 神々が喜ぶほどのものだ」
燐火はそれほどのものかと感心する。
ケルベロスがくれた幸運で、これほどの人に出会い。これほどの剣の技を見ることが出来た。
それだけでどれだけ幸運か、分からないほどだ。
「充子」
「はい」
「おまえはこれを習得して、歩法の工夫に使いなさい。 そうすることで、更に進歩を早くできるだろう」
「分かりました」
これ以上更に強くなるのか。
充子は技量においては既に生半可な大人以上。
問題は速度とリーチだ。
それに関しても、今のを工夫すれば、ある程度補えるわけだ。それに打ち合ってみて分かるが、充子の竹刀は受けるとガツンと結構強烈に衝撃が来る。
防具がなければ充分ダメージになる。
これは筋力を鍛えているよりも、それ以前に呼吸とタイミングが完璧で、人間の力を極限まで引き出しているからだ。
動物はみんなやれていることだが。
人間はここまでやらないと出来ない。
そういうものである。
「燐火」
「はい」
「今の歩法を用いて、凶剣に墜ちないよう自分を鍛錬しなさい。 実力がついてくれば、とることが出来る手段も増える。 漫画のようにいずれは殺さず、なんてことも出来るようになるかもしれないな」
「心します」
高校生三人に襲われたとき。
燐火は容赦なく相手を叩き潰したが、逆にそうしなければ徹底的に心身を破壊されていた。
それくらい危ない場面だったのだ。
走って逃げるのも無理だっただろう。
防犯ブザー。そんなもの、役に立つ訳がない。
ただ、あのとき、今の師範くらいの剣の腕があったなら。今教わった歩法と剣のさえがあったなら。
鉄パイプで、三人を黙らせる事が出来た可能性がある。できるだけ怪我を浅い状態で、である。
合気と柔道、空手も応用すれば、更に色々出来た可能性は高い。
手札が増えると言うことは。
倒せる相手が増えると言うことであり。それだけ、戦闘での柔軟性が増すのだ。
それから、二人で今見た技を練習する。
完璧な洗練の果てに出来た歩法だが、編み出すのは極端に困難であっても、模倣自体はそれほど難しくはない場合も多い。
ただ、これは難しい。
理論が分かっても、即座に模倣は出来ない。
充子も苦労している。
ケルベロスが的確にアドバイスをくれるが、それでも。
今まで散々理論的に鍛えてきた燐火でも難しい。
どれほどの修練と研磨の末にこれを編み出したのか。師範の実力、本当に伝説に残る剣豪達と遜色ない。
それどころか、名前だけ先行しているような剣豪をしのぐかもしれなかった。
ケルベロスが感心する中、とにかく歩法をどうにか実践する。
充子もなんとかコピーできたようだった。
後は一つずつ、奥義の動きを模倣する。
充子と秘密を共有した。
そう思って、少し嬉しかった。
夕方近くまで、奥義の練習をした。充子も凄まじい刺激になったようで、ずっと目が輝いていた。
燐火もだ。
これほどの武の神髄。
そう見られるものではないだろう。
ここのところ、ずっと醜いものを見てきた。勿論いいものもあったが、それ以上に醜いものをよく見た。
だからこそ、今のは凄く刺激になった。
これほどに何かを練り上げることが出来れば。ただ、そう思う。
もうすぐ今年は終わり。
燐火は小学生を終えようとしている。
中学になれば出来ることは更に増える。
成長痛などもあるが。
それ以上に、出来ることが増えることの方が嬉しい。
涼子と同じ学校に行くことになるかは分からないが、恐らくは日根見ちゃんとは同じ学校になる。
それと、である。
どうも日根見ちゃんの引取先だが。
恐らくは、この家。
師範の家になるだろうと言うことだった。
だとすると、剣道を始めるのかもしれない。
ものすごく厳しい家庭のようだが、しかしそれが却って良いかもしれない。
いずれにしても、剣道に興味を示さなかった場合、師範がどう接するのかはちょっと分からない。
問題がないように。
時々様子を見に来ないといけなくなるだろう。
訓練が終わって、師範に礼をする。
いくつかの基礎鍛錬について聞かれたので、毎日やっていることを説明する。すっと目を細める師範。
「完璧だな。 しかも細かく指示を受けている。 誰か母親以外に指導している者がいるのではないのか」
「……嘘はつきたくないので言いますけれど、います。 ただ、紹介は出来ません。 間違いなく良い人物なので、それはご理解ください」
「そうか、分かった。 ゆめゆめこの奥義、穢してくれるなよ」
「はい」
これほどの達人が託してくれたのだ。
絶対に穢してはいけない。
武術は使ってなんぼのものだ。
訓練の時にもそうと分からないようにして小分けに歩法を練習する。それくらい、気を遣う。
充子と別れて、家に戻る。
もう少し来る頻度を増やしてほしい。
そう充子に言われた。
学校での問題は解決したはずだ。
だとすると、本質的に充子は寂しがり屋なのかもしれない。燐火には分からないことだが、そういう人もいる。
だから、別に否定するつもりもない。
「しかし流石だ。 俺の存在を見抜くとはな」
「師範、本当に凄いね」
「俺が幸運を支援しているとは言え、これほどの逸材に出会えたのは幸運だ。 俺からも言うぞ。 絶対にその奥義、穢すな。 神々ですら、絶賛するほどの技だ」
「分かってる」
この奥義を不正義に使うことは。
文字通り武への冒涜だ。
武を学び続けてきた燐火は。そういうことを、するつもりはなかった。
1、中学生活開始
おかあさんが杏美を連れて帰宅した。随分久々に思う。
さっそく訓練を一緒にやって見る。
ブランクがあるとはいえ、おかあさんの技量は流石だ。空手にしても合気にしても、まだ燐火より練度が全然上である。
しかも、ブランク分を短時間で取り戻している。
本当にこの人の子供として生まれていたらな。
そう燐火は、一緒に鍛錬をしながら思う。
正拳を二人並んで、的にたたき込む。
子供が生まれて、体が安定してすぐ。
それでもおかあさんの技量は凄まじく、正拳を打ち込むときの音が重い。ガタイの違いも勿論あるけれど。
それ以上にやはり、積み重ねてきた練度が違うのだ。
燐火は達人が教え、ケルベロスが指導してくれたことによって、短時間でここまで腕を上げることが出来た。
だがおかあさんの場合は天才で。
しかも天才が努力を欠かさなかったのだ。
それは簡単に追いつくことが出来るわけがない。
杏美もひょっとすると。
まあ、それはいい。
ともかく、鍛錬を終えて残心。
後は奥義の歩法を夕方くらいに一人で鍛錬する。
理論は理解した。
だが、それを即座に再現できるかは話が別。とにかく今は、淡々とやれることをやっていくのみだ。
三学期に入って、もう中学に備えている。
燐火は結局受検が必要ない、そこそこの私立に行くことになった。
中学は涼子と別だ。
だが、涼子とは連絡を取り合うつもりであり。
今後も友達である。
最初に燐火と友達になってくれた存在。
だから、これからも大事な存在だ。
一方、日根見ちゃんはやはり燐火と同じ中学に進学することになった。この辺りは、既に養子縁組の話を進めている師範が決めてくれたらしい。
家ではやっぱり凄まじい厳しさのようだが。
しかしながら、理不尽な厳しさではなく。
新しいおとうさんは、とにかく細かいところまで丁寧に教えてくれて嬉しいと、日根見ちゃんは学校で言ってくれている。
児相は良い仕事をしてくれた。
元の家族がそろってゴミカスだった事もある。
それらは全部忘れて。
新しい環境で、日根見ちゃんがうまくやって行ければ良いなと思うばかりである。
とりあえず、最後の宿題などを片付けておく。
後は中学の準備だ。
制服については、最初から少し大きめのを着ることになる。
がっつり鍛え。
食事などにも気を遣った結果、燐火は同世代の男子よりも少し背が高いくらいである。まだまだ伸びている。
中三くらいで女子は背の伸びが止まることが多い。
それを考えると、これより更に伸びるかはちょっと分からないが。
いずれにしても、背が伸びることを前提に、制服を買っておいた方が良いだろう。
燐火が裏で魔祓いを続け。
毎回十万単位で稼いでいることは秘密だ。
もしも何か家にあった場合、こっそり融資するつもりだが。
おかあさんはこれから、警察に指導役として出て、パート代わりに稼いでくるつもりであるらしい。
ただし杏美がもうちょっと育ったら、の話になるし。
もし更に次の子が出来るようなら、それも駄目になるが。
おとうさんは既に配信を再開。
しっかり稼いでいる。
とりあえず、燐火と杏美の学費は全く問題ないそうだ。後は家族が老後暮らしていけるか、だが。
それについても、燐火が稼いでいるし。
正式に公務員になって、それで自宅に最悪の場合はお金を入れる。
おとうさんにもおかあさんにも、実の両親と違って本当に世話になった。
だから、それは何の問題もなかった。
制服に袖を通して、それで着込んでみる。
ブレザースタイルのものだ。
夏用のものも既に用意してある。
靴などはもうちょっと実用的なものがよかったなと燐火は思ったが、まあそれはどうでもいいか。
動きやすさについて、確認しておく。
縫い目などを自分で補強。
激しく動く場合、破損するようでは意味がないのだ。
おかあさんが着こなしを喜んでいるが。
燐火としてはスカートなんてものは無駄なひらひらであまり好きではない。だからスカートの下にスパッツをはくことにした。
「昔はセーラー服というのが制服だったんですよ……だよね。 どうしてこんなに変わった……んだろう」
「良く耐えたね。 馬鹿な連中が、性的な云々だとか難癖をつけて、それで変わったの」
「そんな連中の寝言を真に受けた……の? 馬鹿みたい……だね」
「そう、馬鹿みたい。 セーラー服自体、元々は海兵の制服だったもので、別にアイコンでもなんでもなかったのにね。 人権がどうのと言っている人たちの何割かは、それでお金を稼ぐことしか考えていない。 それの指示で動いている人たちは猿の群れ。 それについては、昔から変わっていないんだよ」
おかあさんは警官として、そういうカスと接してきたからだろう。
それもあって、少し寂しそうだった。
ともかく、制服は問題なし。
後は、時間を見て学校を見に行く。
場所はそれほど離れていない。
これだったら、特に問題はないだろう。
無言で歩きながら、道の様子を確認しておく。
日根見ちゃんはちょっと遠いか。
いや、最近鍛えているし、走るのも前に比べてぐっと早くなってきた。多分大丈夫だろうと思う。
それもあって、日根見ちゃんはこの距離が嫌だとは思っていないようだし。
それは本人の問題だから、どうこういうつもりはない。
ちなみに涼子の行く中学も見に行く。
ちょっと高級そうな建物だ。
だが、これは。
涼子も踏み台に使うつもりだな。
司法試験を受けるのであれば、それなりに勉強が出来るとされる学校を通っていた学歴が好ましい。
涼子は既に高校の勉強も始めている。
来年……いや来年度だから今年か。
中学に入ってからは、司法試験の勉強も始めるつもりのようだ。
弁護士になるよりは、裁判官になってほしい。
そして、カスみたいな弁護士が犯罪者ばかり擁護するのを、一刀両断してほしいものである。
まあそれはあくまで燐火の考えだ。
涼子には、涼子の考えがある。
干渉せず。
これからも、刺激を与え合う友人でありたかった。
フルーレティは懸念点だが。
まだ仕掛けてこない。
おそらくだが、分霊体を潰されたことで疲弊したダメージを回復しているのだとみて良いだろう。
だが、燐火もここしばらくで力を上げている。
特に奥義の修得は大きい。
無言で家に戻って、残った時間も鍛錬を続ける。
その間、杏美の世話もする。
まだ泣くことしか出来ないし。
世話をしなければ生きていくことが出来ないが。
哺乳類の子供というのは、基本的にそういうものなのである。
だからそれでいい。
それに、子育ての経験を積んでおくのも、これもまた立派な勉強だ。だから、しっかり全て覚えておく。
泣き方で何をすればいいのか。
どうすれば泣き止むのか。
そういうのを覚えていく。
ケルベロスもアドバイスしてくれるが、ぼやく。
「核家族化とかいったか。 三世代で暮らしている間は、そもそも祖父母が母にこういうのを教えていたし、負担も軽減していたのにな。 それを人権が家制度がとか騒ぐ連中が、本来の人間の強みを潰してしまった訳だ」
「そうだね。 人間はどこまで馬鹿なんだか。 過去の失敗には学ばないし、どれだけの愚行でも正当化するし」
「燐火もそうなるなよ」
「分かってる。 それで、揺らし方はこのくらい?」
ケルベロスは、もう少し心なしかゆっくり、と教えてくれる。
勿論子供によっても好みが違うのは分かっているが。
燐火もだんだん杏美の好みが分かってきた。
それで、だんだん世話に習熟してきた。
これならば、もう一人出来ても問題はなさそうだな。
そんな風にも思った。
小学校の卒業式を終える。この学校の先生は、燐火が最初にいたクソ学校とは大違いだった。
最近知ったが、あの学校は人員が総入れ替えになったそうだ。
それはまあそうだろう。
自殺などをもみ消しまくっていたし。
金木家のカスどもに都合良く成績まで偽造していた。
腐った会社なんかでも、似たようなことをしている場所は決して少なくないという話は聞いたことがある。
だがいずれにしても。
燐火はそれについては自業自得だし。
事件に関わっていた教師と呼ばれていた害獣が、全部適切な処置を受けることを望むだけである。
あの学校で教わった学問など一つとしてない。
実際問題、今の小学校で、一から全て勉強し直したのだ。最初はずっとドリルばかりやっていた。
あの学校で知ったのは。
人間というのが如何に邪悪で、際限ない悪意に満ちているか、ということだけ。
それを幼い頃からたたき込んでくれたことだけは感謝する。
代わりにもしあの学校の関係者と会うことがあったら……いや、今の学校は正常化しているようだから、元関係者か。会うことがあったら。
お礼に再起不能になるまでぶっ潰してやる。
それが今の燐火の素直な気持ちである。
ともかく、今の学校はそれとはまったく真逆で、本当の意味であらゆる点で世話になった。燐火にとってはケルベロスとおとうさんとおかあさんと同じで、足を向けて眠れないレベルである。
カスもいたけれど、学校でもきちんとそれらに対応してくれた。
敬意を込めて、学舎に礼をする。
先生達にも、世話になった人には礼をして回る。
変わった先生も多かったけれど。
みんな燐火の勉強を根気強く支援してくれたし。
燐火が制圧したクソどもに、相応の制裁をしてくれた。ちゃんと大人が大人としての仕事をしていた。
それだけで、どれだけ貴重な場所だったのか。
燐火はここを忘れないだろう。
涼子と日根見ちゃんと、途中まで一緒に行く。
それで、涼子とはまた時々直に会うことを約束して、それで別れる。日根見ちゃんは前よりも帰路で一緒になる時間が長い。
春になり始めている今。
色々な鳥がいて。
それについて、いちいち細かい知識を教えてくれるので、燐火としても助かる。細かい知識は、何一つ無駄にならないのだ。
さて。
それはそれとして、ついに来たか。
小学校最後の大仕事だ。
日根見ちゃんと別れて、それで、さっさと着替える。
歩法はどうにかマスターした。
その後の一連の動きは、およそ七割というところだ。
なんとかやれるか。
いずれにしても、相手はどうやら、燐火との一対一を望んでいるようだ。最近は奴が繰り出したらしい悪魔も出てこなかった。
燐火と本気で一対一の勝負をするつもりになったというわけで。
それを袖にするわけにもいかない。
もしも袖にしたら、どんな八つ当たりを始めるかも分からない。
ここで。
小学校の総決算として。
勝負をつける。
山の中を行く。
山の中の、少し開けた場所。
其処で、腕組みして、フルーレティは待っていた。
充溢した力。
前に悪魔の軍団とやり合ったときと、ほとんど力は変わらないように思う。つまり、分霊体を切り離して消耗した分は、回復済みと言うことだ。
鞄を木陰におき、魔法のステッキ(鉄パイプ)を抜く。
一定の距離をおいて止まる。
しばしの沈黙。
ケルベロスが、気をつけろという。
確かに、悪神化し、何もかも終わり果てたフリッグのようなただのゲスと違う。
此奴は燐火を認め、油断していない。そして、今。全てを賭けて、一騎打ちに望んできている。
油断してはいけない。
そして、こういう相手には。
相手が今までどれだけ卑劣なことをしてきていたとしても。
敬意を払うべきだった。
「改めて名乗ろう。 俺はベルゼバブ麾下、フルーレティ」
「平坂燐火です。 本当に一対一でやるつもりなんですね」
「ああ。 俺も本物になりたいんでね」
「……本物、ですか」
フルーレティの境遇は分かっている。だから、燐火はそれについて茶化すような事をするつもりはない。
すっと青眼に構える。
フルーレティはだらんと両手を垂らしたまま、その場に立っているが。
隙がないな。
じりじりと、わずかずつ動く。
相手も燐火に隙を見いだせないらしい。
四ヶ月ほどで、多数のダイモーンを駆逐した。
その中には、少し前だったら燐火では対応不可能で、ヘラクレスさんでないと手に負えなかったような相手もたくさん混じっていた。
それもあるが。
その期間の鍛錬で、ぐっと燐火自身も技量を上げた。
少し前におかあさんと並んで鍛錬をして、まだ及ばないとは悟ったが。
それでも、今の技量なら。
空手を適当にかじった程度の高校生男子くらいなら、問題なくひねれる自信がある。
構えを中段に。
そして、下段に切り替えつつ、ゆっくりと右に。
フルーレティもわずかずつ移動しながら、仕掛ける隙を狙ってきている。
ふっと、大きな音。
恐らくは凄まじい気迫のぶつかり合いに驚いた鳥が、それで飛び立ったのだ。恐らくはムクドリだろう。
それが、勝負の引き金となっていた。
うおん。
空気が唸る。
即座に間合いを両者ともに詰める。
そして、互いの武と武を。
蓄積させた全てを。
激突させていた。
大量のつぶて……雹が、周囲に漂っている。遠距離戦は自殺行為だ。好きに雹を操るという逸話がフルーレティにはある。
フルーレティは両手を氷の刃に変えて、体中に氷の刃をまとって、燐火とつばぜり合いをする。
がっと火花が散る。
氷と魔法のステッキなのに。
それくらい凄まじい激突。
気迫のぶつかり合いということだ。
強いな。
燐火はそれを素直に認めた。
フルーレティは実態がない悪魔だ。地位ばかり設定されているが、何一つ神話的な裏付けもないし。
実際に悪魔として恐れられたこともない。
空っぽの器。
本物になりたいという心は、それが故に生じてくる。それは燐火にも分からないでもない。
だからといって、今までの行動は許せない。
フリッグ一派に加担して、やってきた悪事も相当にあるだろう。
だからここで。
終わらせるのだ。
「剣道はやっとうとか言って江戸時代では遊びと破落戸に笑われていたらしいな。 その割にはつええじゃねえか」
「そうですか。 ありがとうございます」
「やりづれえなオイ……」
「こちらもです」
ふっと踏み込むと、まずいと判断したらしいフルーレティが距離を取ろうとするが、させない。
此奴に距離を取らせたら、アウトレンジから雹の滅多打ちであっという間に肉塊にされるだろう。
燐火は鍛えてきたが。
残念ながら魔祓いとしての能力は限定的だ。
下がった分詰める。
フルーレティはそれを逆手にとって右腕の氷の刃を抉り上げてくるが、がつんと音を立ててはじき返した。それは読んでいる。
続けて飛んできた抉るような上段蹴りを回避すると、下段から足を払いに行くが、すっとフルーレティは浮き上がる。だが、それを待っていた。
フルーレティは翼を持っているが、今までの戦闘で分かった。
飛ぶ以外に、活用方法を知らない。
上空から雹を降らせようとしたフルーレティが、飛ぼうとする。
その上。
態勢を低くすると同時に跳躍し、木々を蹴って更に上を取った燐火が。
相手の反応より早く。
一撃をたたき込んでいた。
「ぐおわっ!」
翼と両腕を交差させて防ぎに行くフルーレティだが、残念ながら軽いとは言え燐火の体重全てと、更には上空からの落下エネルギーに加え、渾身の上段。
それも剣道で師範にたたき込まれた、呼吸とタイミング全てを乗せた一撃である。
更にそれに加えて、魔法のステッキはあまたの悪魔も悪神もダイモーンも既に屠ってきている。
まとっている力は、フルーレティの防御を貫くには充分だった。
地面にたたき落とす。
腐葉土をはねのけながら飛び退こうとするフルーレティの頭を狙って、鉄パイプをたたき込む。
必死に逃れるフルーレティ。
間合いを即座に侵略する。フルーレティはざっと飛び退こうとするが、吸い付いたように離れない。
焦りが顔に浮かぶフルーレティだが。
次の瞬間、死角から繰り出された氷の錐を、燐火は鉄パイプではじき砕いていた。
「ちっ! 切り札だったんだがな」
「逃げ方がわざとらしいので、狙っているのは分かっていました」
「その年でどんだけ修羅場くぐったんだテメーは!」
「少なくともあの世の入り口に一度は行きましたので」
返す刀での顔面での一撃を、必死に腕にまとわせた氷で防ぎに行くフルーレティだが、それも氷をぶち砕く。
その瞬間で、やっと立ち上がったフルーレティは、全身にまとった氷を更に強化していく。
本気になったか。
本気になったからといって、今まで失った体力が戻る訳でもない。
燐火も青眼に構え直すと、大きく深呼吸した。
まだまだ。
こっちは体力に余裕は充分にある。
マラソン大会とかで、最近は一位常連だ。男子でも燐火には現状勝てない。中学三年とか高校になると話は変わってくるかもしれないが。
現時点での同学年の男子なんて、問題にもならない。
フルーレティは態勢を低くすると、奇声を上げて躍りかかってくる。
攻勢に出てきた。
あらゆる体術を使い。まとった氷の刃を四方八方からたたき込んでくる。距離を取らせてはくれない。
そう悟っての、接近攻撃策だ。
燐火はそれを鉄パイプでことごとくいなしながら、機会をうかがう。
時々意図的に作られた隙には引っかからない。
悲鳴が上がった。
誰かがたまたま山に入り込んでしまったらしい。それに対して、フルーレティが一喝していた。
「さっさと逃げろ! 巻き込まれるぞ!」
誰かは知らないが、転がるように逃げていく。
それでいい。
フルーレティとの決戦が近い事は既に連絡はしてある。
おそらく公安の方で対処してくれるだろう。この戦いは、燐火がやらなければならない。増援が来たらフルーレティはおそらく逃げる。その場合、決着が先送りになり、フリッグも属していた一派は戦力を温存する。
それではまずいのだ。
「意外ですね。 まさか避難を呼びかけるとは。 悪魔に向いていないんじゃないですか」
「おまえ等よりは倫理的にマシだってだけだ。 オラ、そっちもそろそろ本気を出しやがれ! 温存してるのが見え見えなんだよ!」
「そうですね……」
猛攻を裁きながら、燐火は認めた。
フルーレティはフリッグとは違うようだ。
だとすれば、こっちも。
師範から教わった奥義で答えなければ、むしろ無作法というものだろう。
すっと意識を切り替える。
ケルベロスが頷いてくれるのが分かった。
今。燐火は。
魔祓いとしての力と同時に。
武道家としての練り上げてきた蓄積を、解放する。
2、奥義激突
決戦の場所に到着。ドミニオンに指示して壁を張る。これで邪魔は入らない。
カトリイヌは事前に言われていた。
燐火は、フルーレティとの決着は一人でつけると言っていた。
危険すぎると反対したが。
そうしないと、フルーレティは確実に逃げる。
フルーレティは燐火に興味を持った。
燐火と決着をつけることを望んでいる。
それはフェアな武人としての勝負で、という意味ではおそらくない。フルーレティは本物になりたがっている。
燐火を本物として認めて。
燐火を倒すことで、その足がかりとしたい。
そういう理由からだ。
それでフルーレティを釣れるなら、話は楽だ。だから、戦いの邪魔はしないでほしい。
フリッグ一派の凶行は目に余る。
ダイモーンを制御して悪運をばらまき、日本中で不幸をまき散らしている。
奴らを片付けきるには、少しでも手札を早く削るしかない。少なくともフルーレティはかなり大きな手札の筈で。
それを失えば、奴らの計画が具体的になんだかは知らないが。
大きく後退するはずだ。
燐火はそう言っていた。
まだ小六で、やっと中学に上がる年なのに。
完全に覚悟が決まったその目は。
相変わらずの死んだ魚みたいな目だったけれども。
それでも、安易な自己犠牲に基づくものでもなかった。
燐火は不正義をこれ以上もないほど憎んでいる。
自分が正義ではないことも理解はしているようだ。
だからこそに。
できる限りの不正義を打ち砕きたいのだろう。それが分かるから、カトリイヌは燐火をどうしても、子供というように安易に言えなかったし。
その決断を止められなかった。
凄まじい戦闘の余波が、壁にまで来る。
ドミニオンがぼやく。
「カトリイヌ様。 いざという時は介入した方が良いでしょう。 如何に実態がないとはいえ、相手はあのベルゼバブの側近。 燐火嬢は短期間で強くなってきていますが、それでも……」
「勝ちますわ」
「しかし……」
「剣道で充子さんと何度か剣をあわせてみて、剣道は侮れないと悟りましたのよ」
勿論剣道家にもよるだろう。
だが、武道としての剣道を修めて、いずれは頂点に行く相手だという事は、一発で分かった。
カトリイヌも腕はまだまだだが、それでもフェンシングでものすごいストイックな達人から教わったのだ。
あの人も。
同じくらい、求道的だった。
そんな充子が、とても剣を交えるのを楽しみにしている相手。
剣道だけでは無く、複数の武道を高レベルで修めて、それを融合させている燐火は。
心は生き急ぎすぎていて。
もはや子供とは離れてしまっている。
それは悲しい過去に起因しているとしても。
今はその心を尊重すべきだ。
だからこそ、壁を張って、そして見守る。
それだけが、カトリイヌに出来ることだ。
ドミニオンはそう告げると、分かりましたとぼやく。勿論決着をつけた後は、魔祓いに出向く。
それだけだ。
この戦いで、カトリイヌがやって良いことは。
凄まじい氷の凶器の塊になったフルーレティが、飛びかかってくる。先より更に速度が上がっている。
そして、目には明らかに。
愉悦ではない。
純粋な楽しさが浮かんでいた。
「人間どもが適当に設定を作って、悪魔として形を為してどれくらいになるんだろうな! その間設定だけが一人歩きして、神話としての裏付けがある他の悪魔から、ずっと半端者呼ばわりされてきた! でも、今はそれが悔しくて、散々鍛えてきた価値があるように思う! 技を試せる! 試しても壊れねえ! 今までの魔祓いを自称する雑魚どもと、おまえは違う!」
「ありがとうございます」
凄まじい冷気だ。
はじくたびに、辺りが凍り付くようだが。
燐火はそれをことごとく捌きながら、確実に順番に準備を進めていく。
ケルベロスが、アドバイスしてくれる。
「あの奥義は、準備がとにかく大変だ。 そして実践を明確に意識していたものだ。 最近の鍛錬で燐火はそれを出来るようにまで昇華させた。 いつも通りやれ。 それだけで、大丈夫だ」
「分かってる」
「フルーレティを、終わらせてやれ。 哀れな魂だ」
「そうだね……」
フルーレティを魔祓いしようとしたエクソシストは、この様子だとことごとく返り討ちに遭ったのだろうが。
恐らくはたいしたエクソシストはいなかったのだろう。
誰か一人でも、フルーレティの凍った乾きを癒やせるほどの使い手がいれば。
いや、それはもう仕方がない。
燐火は踏み込むと、がつんとはじき返す。
立て続けに三回。
フルーレティを守っている氷の鎧が、粉砕され。辺りに散らばる。
フルーレティが作り出しているから、だろう。
それはフルーレティの体を離れると。一瞬で溶けて砕けてしまう。そして冷気も即座に消えていく。
制御を失った不自然な存在だからだ。
「せあっ!」
気合い一閃、面を入れる。
フルーレティは後ろ回し蹴りで迎撃、足にまとった氷を相打ちに、それを防いでみせる。なかなかやるな。
リーチもパワーも相手が上。
だが、燐火はそれと互角に今のところ渡り合っている。
それも、ここまでだ。
すっと、動く。
歩法開始。
フルーレティが、なんだと顔に書いたが。歩法はうねるように、下がるように進むように、まるで相手に規則性を見せない。
1234,5678。そうつぶやきながら、正確に歩法をトレースする。
師範は言っていた。
達人になれば、この歩法の意味が分かってくる。
達人でなければ、それまででけりがついている。
燐火は、フルーレティを達人だと判断した。
だからこそ、今これを使う。
フルーレティは下がろうとした。
賢明な判断だ。
だが、それは出来ない。
変幻自在の歩法を見て、下がることを体が拒否する。仕掛けようにも、変幻自在すぎて、それもできない。
ぐっと歯を噛むフルーレティ。
犬歯がのぞいていて、それは人間のものとも思えない。
だが、その凄まじい形相が、今自身が術中にはまったことを、理解したものだというのは分かる。
「くそっ!」
それでも、無理矢理仕掛けてきた右腕での一撃を、燐火は流れるように回避して、一息にへし折った。
ぐうと呻きながらも、フルーレティは必死に体勢を立て直す。
そして棒立ちになる。
燐火もこれは消耗が凄まじい。
これは完全に同じ歩法でやればいいわけでは無く、相手の動きを見ながら歩法を変えなければならないのだ。
「け、剣舞か? いや違う。 そんな甘ったるいものじゃねえ! く、くそ、それは、貴様が生み出したものじゃないな、平坂燐火!」
「現在でも過去でも通じる達人が託してくれた宝です」
「……っ! 良いだろう、破ってやる!」
雹を大量に発生させようとしたフルーレティの脇腹に、胴を入れる。
ぎゃっと悲鳴を上げながら蹈鞴を踏むフルーレティは、かろうじて続いての逆胴は回避したが。
これは体術にもつなげられるのだ。
すっと距離をゼロにすると、丹田に合気をたたき込む。
それで、吐血するフルーレティ。
下がりつつも、それでも体幹を維持して、必死に燐火と向き直る。
全身に冷や汗を掻いているが、それでも笑っているのは。
燐火の消耗が凄まじいこと。
それを見切っているからだろう。
「どうやら時間切れがあるらしいな! 俺はそれまで耐えれば良い!」
「耐えられますか?」
「いや、その前にその技を解析してやる! 達人を越えれば、俺はまさに本物になれるんだ!」
「出来ませんよ」
解析など即座に出来るものか。
本物の達人である師範が作り出した、それも人生を賭けて作り出した本物の奥義だ。理論を教わったからできるだけ。
練度も師範に比べたらまるで及ばない。
汗が飛ぶ。
これは長いことは続けられないな。
だが、後三手。
フルーレティが残った力で、全身に氷をまとい直す。だが、それは悪手だ。歩法を続けながら、ぬるりと近づく。今ので残り二手。
どこから仕掛けてきても、一手は防げる。
そう考えたのだろう。
だが、違う。
燐火の歩法を見て、ついにフルーレティは悟る。
そして、その瞬間が終わりだった。
後一手。
ふわりと、優しい音すら立てて、燐火が至近に。
フルーレティは、それで。
全力で、背中から地面に、己をたたきつけていた。
それが致命傷になる。
生やしまくった氷が、全身を却って傷つけたのだ。凄まじい絶叫を上げるフルーレティの全身から、氷が消えていく。
そして、燐火は。
冷静に聖印を切っていた。
ダイモーンが消し飛ぶ。
フルーレティは、燐火から見ても分かるくらいに、この戦いに全てを賭けてきていた。分霊の類は使っていない。
分霊を切り離して勝てる相手ではない。
そう判断したからだろう。
光栄な話だ。だからこそ、ここで終わらせる。
荒い呼吸で、体が崩れつつあるフルーレティが呻く。
「い、今のは気当たり、か、何かか」
「教えられません。 それにちかいもの、だとは言っておきます」
「く、くそっ、やはり俺は偽物だったか。 偽物のまま、終わるのか」
「いえ、そもそも達人でなければ、今のは掛けられませんでした。 貴方は達人ですよ。 設定におごっただけの三下悪魔なんかより、よっぽど本物だったと思います」
スマホで、カトリイヌさんを呼ぶ。
既に消えかかっているが。
フルーレティを完全に魔祓いする必要がある。
勝負は。
燐火の勝ちだ。
そして、最後の小学生としての魔祓いになる。
明日からは、中学生として、より強力な魔祓いに挑むことになるだろう。
「俺は、一瞬だけでも、達人になれたのか」
「ええ」
「……そうか」
フルーレティが泣いている。
それは、明らかに歓喜のものだった。
フルーレティが悪行の限りをフリッグらとともに重ねたのは全くの事実だ。許すことは出来ない。
だが、この点だけは。
本物になりたいと願うどうしようもない心だけは、燐火も同情に値すると思った。
崩れ、人間の形を保てなくなりつつも、フルーレティは言う。
「俺に勝った褒美だ。 一つ教えてやる。 残りの俺の仲間は今は二柱だ。 どっちもフリッグなんか問題にならないくらいの神格だ。 俺に勝ったんだ。 負けるんじゃねえぞ……」
「分かりました。 せめて楽に終わらせてあげます」
「そうだな。 助かるよ。 平坂燐火、俺は最後の相手がおまえで良かった。 最後の最後に本物に……」
それで、もう言葉はなかった。
カトリイヌさんが来て、魔祓い。
最後の残滓を消し飛ばす。
フルーレティはこれで死んだ。
悪魔だから、そのうち復活するかもしれないが。今、何か処置をしているし、簡単に復活はできないだろう。
そのまま、側にある岩に座り込む。
ケルベロスが採点してくれる。
「まだ、師範が見たら甘いというだろうな。 あの奥義、まだまだあんなものではないぞ」
「分かってる。 実戦での初使用としては、うまくいったというところだね」
「そうだな。 フルーレティめ、哀れな奴であったな。 行動は許せなかったが、それでも憎みきれぬ」
「……」
カトリイヌさんが、スポーツドリンクをくれたので、ありがたくいただく。
残りのフリッグ一派は現時点で二柱。
どちらも極めて強力。
それは分かった。
更にそれに仲間が加わるかもしれない。
フルーレティは本物になりたいと吐露していた。
フリッグもおそらくだが、本質的には同じだったのだろう。
フレイヤから派生した、後付け設定の神。オーディンの配偶者でありながら、ただそれだけの設定しかなかった神。
それが本物になりたいと願うのは、おかしな事ではなかったのかもしれない。
悪神ではなく、信仰される本物の神に。
設定しかない薄っぺらい存在ではなく、しっかりした土台のある本物の悪魔になって恐れられる。
それらがフリッグとフルーレティの目的だったとしたら。
文字通り、世界の秩序をひっくり返すことが。
フリッグとフルーレティが所属していた集団が、目指している事なのかもしれない。
そんなことをどうすれば出来るのかはよく分からないが。
いずれにしても、ダイモーンを大量に生産してまき散らすことがそれにつながるのだとすれば。
阻止しなければならないだろう。
世の中の人間の大半がカスよりだというのは燐火だって嫌になるほど分かっている。スクールカーストなんてカスみたいな代物を、無批判に受け入れてしまっている人間が多数だという時点でそれは明らかすぎるほどだ。
それでもマシな人はいる。
燐火が守るべきは。
そういうマシな人だ。
やがて、動けるようになったので、とりあえず迎えに来た日女さんと菖蒲さんと一緒に、レポートを書く。
これについては、中学になったら出来るようにと言われたので、やり方を教えて貰って、これから出来るようにする。
パソコンは幸い使える。
おとうさんは結構高性能なのを使っているし、スマホでは限界があるからと。燐火に型落ちのをくれたのだ。
最近はパソコンを使って、ある程度は作業が出来るようになっている。
問題なくキーボード入力を出来るのを見て、日女さんは安心していた。
「このテンプレートが用意してあるから、それに沿って書いて。 それで指に朱印をつけて、ここで指紋を押す」
「なるほど、こんな感じで大丈夫ですか」
「ああ、問題ない。 飲み込みが早くて教える方としても助かる」
「ありがとうございます」
日女さんも、これは苦労しているらしい。
苦笑いされたので、燐火も大変だなと思った。
そして、これからダイモーンを退治する度にこれを書くのかと思ったが。まあ、それは仕方がない。
いざという時に、家族を助けられるための資産をそれで作れるのだと思えば。
安い話だ。
疲れ果てている事もある。
日女さんが送ってくれる。
流石に菖蒲さんの大型二輪に乗せて貰うのはやめた方が良いだろう。サイドカーだったらちょっと乗ってみたい気持ちはあるが。
家に戻ると、疲れ切った体で、まずはお風呂にする。
汗を流す。
あれほどの冷気使いと間近で対戦していたのに、凍傷の類は一つもない。
夏の合宿で教わった。
魔とやり合うときは、とにかく絶対に一発も貰うな。
どんな変な能力を持っているか、分かったものじゃない。
それを燐火は愚直に守り。
一発も貰わない代わりに、体力を最後の一滴まで絞りきったのだ。それで、充分すぎる結果となった。
「腹筋がまた逞しくなってる」
「良いではないか。 無駄に筋肉をつけすぎるとそれは美しくはないが、燐火の筋肉程度ならむしろ美しい部類だ」
「そういえばケルベロスに裸を見られるの別に平気だね」
「それはそうだろう。 犬を風呂に入れて恥ずかしいか? 俺としても、別に燐火の裸に何も感じるものはない」
まあ、それもそうか。
燐火は体を洗い、湯船につかって疲れを落とす。
後最低でも二体。
勿論相手が増援を追加する可能性もある。
だが、その二体は、少なくともフリッグなど問題にもしないほどの高位の悪神か魔という話だった。
だとすると、決して楽な戦いになどはならないだろう。
嘆息を一つ。
まだまだ。楽になどならない。
それに問題は中学だ。
ケルベロスがしっかり幸運を操作すると言っていたけれど、それでもどんな事が起きるかは分からない。
舐めた奴がいたら、早々にぶっ潰す必要が生じるかもしれない。
いずれにしても、ケルベロスはまだまだ迷子を見つけられていない。
だとすれば、燐火も迷子捜しを手伝うだけだ。
必要なことを、全てやっておく。
中学は、日根見ちゃんと一緒に行くと決めている。
涼子とは、これからはスマホのメッセージ機能で話をすることになると思う。
いずれにしても、やっと長い長い小学時代は終わった。
燐火は生き急いでいるかもしれないが。
それでも、これから出来ることが増える。
その出来ることを。
最大限、燐火は良い方向で使っていきたかった。
電柱に座って、平坂家を見つめるもの。
悪魔、マルコキアス。
ソロモン王72柱の一角である大悪魔である。
犬の姿をしたマルコキアスは、優れた戦士であるという逸話を持っている。古くには別に絶対悪とはされていなかった悪魔。
それを象徴するような存在だ。
側に気配。
舌打ちしたマルコキアスは言う。
「なんだ。 他者の感慨を邪魔するな」
「そういうな。 同じ犬の系統であろうが」
「貴様と一緒にして貰っては困るな。 力は貴様の方が上かもしれないが、な」
「くくく、分かっているなら何よりだ。 あそこにいるのが、フルーレティの小僧っ子を倒した娘か。 まだ子供ではないか。 しかも一対一で討ち取っただと。 子供とはいえ侮れぬな……」
マルコキアスの隣に浮かんでいるのは、白銀の毛皮を持つ巨大なオオカミ。
おそらく、犬系統の魔では。
いや、魔というカテゴリでも、世界屈指の逸話を持つ最強に近い存在。
だが、あまりにも強大すぎるが故に魔祓いに何度となく叩き潰され、今では全盛期の三分の一も力を残していない。
物語と成り果てた今としてはなおさらだ。
「フルーレティの敵でも討ちに来たのか」
「いや、興味があるから見に来ただけだ。 それに……厄介なのがついているな」
「ケルベロスに、それに……」
マルコキアスとそれは、即座に離れる。
接近してくる存在に気づいたからだ。
流石にあのもの……ヘラクレスとやりあうのは分が悪い。力を失っているそれも、流石に厳しいだろう。
姿を消す前に、マルコキアスはもう一度だけ平坂家を見た。
勝てよ。
俺たちにとっても、八百万の神々を受け入れるこの国は心地が良いんだ。好き勝手にさせるな。
そうつぶやきながら。
3、中学開始
制服を着込むと、出る。
学校で制服を着るのは、中学生からが多い。名門だとかだと、小学校からやることも多いらしいが。
それはそれとして、普通のブレザータイプの制服を着て、途中で日根見ちゃんと合流。
日根見ちゃんは、途中まで充子と一緒に来ていた。
どうやらなんとかうまくやって行けそうだということだ。
また、剣道もやって見ることにしたらしい。
充子は特に動物に関する話に抵抗がないらしく、日根見ちゃんの話を嫌がらないらしい。それはいいことだと思う。
日根見ちゃんは市原という名字を捨てることにも抵抗はないそうだ。
まあそうだろうなという言葉しか出てこない。
今の燐火も、平坂という名字は絶対だ。
前の名字に戻ることは金輪際ないだろう。結婚して変わることはあるかもしれないが。それで元の名字になるとしたら、それはまあ、偶然である。それ以外の理由で、元の名字には絶対にならない。
中学についての話をしながら歩く。
中学からは給食では無く弁当だ。ちなみにこれは燐火が自分で作る。そもそも料理についてもそろそろやるべきだと思っていたし。
買い出しも燐火が手伝うつもりである。
おとうさんはあんな風に仕事がとても忙しいし。
おかあさんはしばらくは杏美に掛かりっきりだ。
少しでも負担は減らさなければならないのである。
「燐火ちゃんはそれで寂しくないの?」
「いえ、まったく」
「そっか。 強いなあ。 羨ましい」
「燐火は別に強くなんてありませんよ」
もし強かったら、自力であの金木の馬鹿娘を撃退できていただろう。あの腐った街から、孤児院から。
自力で逃げ出すことだって出来たかもしれない。
あそこから脱出できたのは全部ケルベロスのおかげ。
武道を身につけられたのはおかあさんのおかげ。
精神修養はいろんな人たちのおかげ。
何もかも、燐火が自分でやったことじゃない。
勿論努力をしたのは燐火だ。
ケルベロスも燐火は持っている側だと言ってくれた。だけれども、それはモチベを引き出すためだったのかもしれない。
ともかく燐火は、本気で自分は強いなどと思っていないし。
そんな風に考え出したら、其処で人間は進歩が止まるとも思っていた。
「ここだね」
「まあ、前に見に来ましたが」
新しい学校だ。
小学校よりちょっと遠いが、別に苦にはならない。クラス分けを確認する。日根見ちゃんとは別クラスか。
とりあえず、何かあったら即座に言ってほしいと告げる。
うんと、信頼を込めて頷かれていた。
さて、と。
ひそひそとこちらを見て、何か話しているのがいる。燐火が視線を向けると、真っ青になって硬直した。
ああ、見覚えがあるな。
小学校で別クラスにいた女子だ。
馬鹿馬鹿しいスクールカーストを燐火が完全粉砕したのは学校中で話題になっていたらしく。
別のクラスでも、他の先生がスクールカーストは害しかないと判断したそうで、以降で学校でのスクールカーストには積極介入し、解体すると決めたそうだ。
それもあってあおりを食った生徒は結構いる。
特に王様女王様を気取っていたような生徒は強烈なあおりを食らい。
内申書とかで思い切り点数を下げられたようで、それを逆恨みしているやつもいるとかいないとか。
「何か?」
「な、なんでもないよ! ね! そ、その、お、同じクラスだけど、よろしくね!」
生まれたての子鹿みたいに足が震えているが、まあどうでもいいか。
とりあえずクラスは分かったので、学校の中を見て回る。
二年らしいのがゲラゲラ笑いながら歩いていたが。燐火を見て、ひっと声を上げて逃げ出す。
ああ、あれは。
小学五年の時にぶちのめしたいじめという名の犯罪をやっていた男子生徒か。一年上の。
衆目の中でぶん投げて、白目むくまで締め上げたのだが。
それ以降、一気にクラスの王様気取りから転落。
以降は針のむしろで一年を過ごしたらしい。
それこそどうでもいい。
ガタイがいいのが、青ざめながら燐火に道を譲る。
燐火が高校生三人を瞬殺した。
そういう噂があるらしいし。それで恐れられているのかもしれない。瞬殺ではなかったし結構危なかったのだが、高校生三人を潰したのは事実だし、それで無駄なトラブルが避けられるのなら何よりだ。
とりあえず抑止力になっておいた方が良いだろう。
髪とか染めているのがいて、隅っこで何やらつるんでいる。あれは三年か。どうでもいい。
ああいうのもいる。
一応把握しておこう。
見たところ、燐火の脅威にはならない。
クラスに移動。
とりあえず、自席などは全て確認しておく。ロッカーも。
掃除が甘いな。
自分で丁寧に掃除し直す。それを見て、やはりひそひそと話し声が聞こえる。とりあえず、しばらくは無視しておくが。
しつこいようだったら、対応を考える。
先生が来た。
中学くらいから女教師は舐められるケースもあるらしいが、見るからに堅物な感じの男性教師だ。
あれは何か武道か格闘技をやっているな。
とりあえず、一人ずつ自己紹介をさせられる。
燐火も自己紹介をするが。
どうやらクラスの半分くらいは、同じ小学校の人間で。それもあって怯えきっている。残りの半分のほとんども、噂を聞いていたようで、青ざめていた。
一人、明らかにこっちを舐め腐っているのがいる。
男子だが、あれはボクシングか何かやっているな。
そいつが手を上げた。
「高校生を三人ボコったって本当っすかー?」
「おい、亀野!」
「いいだろ別に。 小学校で高校生ボコるってすげえなっておもってよ。 しかも相手は半グレだって聞いたし」
「やめろ! あいつはマジでやばいんだよ! 死ぬぞ!」
クラスの男子が真っ青になっているが、そいつは多分小学校では無敵だったのだろう。完全に何もかも舐め腐っている雰囲気だ。
あの様子からして、別の小学校で負の成功体験を積み重ねてきたわけだ。
まあいい。
最初に潰すのはあれになるだろうな。
「高校生に絡まれて、正当防衛をしたのは事実ですが、それが何か」
「おもしれ。 俺と遊んでくれよ。 空手だの柔道だのやってるやつと遊んだことあるけどよ、手応えがなさ過ぎてつまんねえんだよ。 そっちのルールで良いぜ」
「亀野!」
「うっせえな、黙ってろ雑魚!」
隣の男子生徒に威圧的な言動だ。
髪もうっすら染めているし、あれは親が既にカスのパターンだろう。名前をさっと確認するが、典型的なDQNネームだ。
先生は呆れていたようだが。
燐火としては、既にやる気だ。
「とりあえず亀野、平坂。 どっちもやる気のようだが、だったらリングを用意してやる。 其処で勝負をつけろ」
「構いませんよ」
「言いやがったな! 吠え面かかせてやるよ!」
喚き散らす亀野。
どうやらこの先生、どうもこういうのにはなれているようだった。呆れていたようだが全く動じていない辺り。
或いは計算通りだったのかもしれない。
とりあえず説明会とかそういうの全て終わったあと、午後に先生の引率でリングに出向く。
というか、本当にリングだ。
この学校はボクシング部があるらしく、亀野については最初から目をつけていたというか。
先生が小学生時代手がつけられない生徒だったという話を聞いて、敢えて招いたらしい。クラスに意図的で自分で引き取ったそうだ。
なるほどね。
とりあえず舐めた真似をしないなら、鼻っ柱をへし折る程度で済ませる。
何人か様子を見に来ている。
数人、亀野の前の小学校での取り巻きがいるようで、やっちまえとか喚いていた。それを先生が一にらみで黙らせる。
これは結構できるな。
少し評価を上方修正する。
ボクシングはかなり強い競技だ。
キックボクシングとなると、弱点になる足下への攻撃も克服しているため、更に強力になる。
打撃技で勝負するのは自殺行為だが。対処法はいくつかある。
それにボクサーはいわゆるパンチドランカーになってしまうケースもあり。
医師協会などはずっと反対しているスポーツであるのだとか。
まあいい。
スポーツの範疇であれば、別にどうでも良い。
反則をした場合は、躊躇なく潰す。
「それで具志先生、ルールは」
「ボクシングと言いたいところだが、平坂、おまえどういう武道をやっている」
「空手合気柔道、それと剣道ですね」
「……分かった。 好きにして良い。 亀野、おまえも好きなようにやれ。 殺し合いになりそうだったら先生が止める。 参ったと言った方が負けだ」
まあいいだろう。
先生がギャラリーをリングから少し下がらせると、ゴングを鳴らした。
亀野はパンツとヘッドギア、グローブだけのボクシングスタイル。燐火は普通の制服のままだ。
スカートがひらひらでちょっと気になるが。
まあスパッツも履いているし、問題はないか。
相手は自信満々で、そのまま歩いて詰めてくるが、燐火は即座に動く。
すっと相手の至近に。
想定外の速度に慌てた様子の亀野の腹に、相手が動く前に踏み込んで合気をたたき込む。
マウスピースを吐き出しながら吹っ飛んだ亀野が、思い切り尻餅をついていた。
普通だったら煽るが。
何もしない。
黙って見ている。
「亀野さん! やられたフリしてやるとは優しいな!」
「早く顔ぶっ潰しちまえよ! いつもみたいに!」
「生意気な女の顔潰したとき面白かっただろ! 早くやってくれよ!」
「黙れ」
亀野の取り巻きらしいのに、先生が一喝。それで一瞬で恐怖で黙り込む取り巻き達。
そうかそうか。
別に男だろうが女だろうが顔を潰すのはどうでもいいが。
こいつら日常的に気にくわない奴を痛めつけていたな。
ならば容赦はしない。
必死に立ち上がった亀野が、本気になったらしく、ステップを踏んで詰めてくるが。今度は燐火は一歩で相手の間合いを侵略すると、足を払いつつ相手のバランスを崩した。
思い切り後ろから転倒した亀野は、受け身もろくにとれなかった。
パンチを繰り出すどころじゃない。
動きがぬるすぎる。
師範や充子、フルーレティの動きを見ていた燐火としては、文字通りスローすぎてあくびが出るレベルである。
後頭部を押さえて転がり回っていた亀野が起き上がってくるのを待つ。
何も煽らない。
立ち上がった亀野は、顔を真っ赤にしていた。
大ぶりで殴りかかってくる。
燐火はすっとパンチを避けると、亀野が足を踏みに来る。ああ、なるほど。顔を潰すとはそういう。
足を踏んで動けなくしたところに顔面に肘打ちか。
誰に教わったか知らないが、髪を染めて学校に来ているような奴だ。どうせろくでもないカス親だろう。
すっとその足を避けると、逆に踏みつけて。飛んできた肘を取りつつ、敢えてひねりながら床にたたき込む。
その過程で肩を外し、腕の筋を伸ばして破砕した。
凄まじい絶叫を上げた亀野が、床で転がり回る。
その時、やっと亀野が何を相手にしているか、ギャラリーは悟ったようだった。
燐火は無言で、転がり回っている亀野から離れる。
先生が咳払いした。
「もうやめろ亀野。 一度だけ警告しておく」
「う、うる、うるせええええっ!」
立ち上がったか。
それだけは褒めてやる。
燐火から間合いを詰める。そしてえっという顔をしている亀野の、さっき潰した利き腕ではない方の腕を取りつつ、顔面に平手をたたき込む。
それで鼻が潰れ、ついでに肩も外れた。腕の筋も破壊した。
両腕が外れ、鼻が砕けた激痛で、亀野がぷぎゃあっとか悲鳴を上げる。更にそのまま、燐火は破壊した亀野の肩をひねりながら床に押し倒す。
凄まじい激痛を与える。
燐火は一切無言だ。
「ま、参った、まいったあああああっ!」
「そうですか。 良いことを教えてあげますね。 燐火の得意分野はこれじゃないです。 それでも貴方程度だったら、余裕と言うことですよ」
脂汗を掻きながら燐火が与えている激痛に更にもだえ、そしてとうとう大泣きし始める亀野。
取り巻きは全員絶句して、完全に沈黙していた。
一撃、背中に合気を入れる。
それで亀野は気絶した。
具志先生は嘆息すると、亀野の肩を入れ直す。そして、燐火にやり過ぎだと言った。
「これはリハビリに一年はかかる。 亀野が肘打ちから顔を潰しに行こうとしたのを悟ったとは言え、もう少し加減してやれ」
「……先生は燐火が亀野なんか相手にならない事を知った上でやらせましたよね」
「ああ。 此奴の天狗の鼻をへし折る必要があったからな。 とりあえず、此奴の性根は俺がボクシング部で鍛え直す。 そいつらもな」
明らかにこの先生が鍛え上げた、雰囲気からしてかなり強いボクシングの部員達が、既に亀野の取り巻きの後ろに壁を作っていた。
完全に死人の顔をしている取り巻き達は、これからリハビリで一年は両腕をまともに使えない亀野とともに、徹底的に鍛えられて、性根を入れ替えるのだろう。
或いはだが、亀野のクソ親にも相応の社会的制裁がこれから入るのかもしれない。
いずれにしても小学校で通じたような馬鹿げたクレームは、この先生には通用しそうもない。
とりあえず、まずは一つ。
面倒な学校での火種を潰せたか。
これから一つずつ潰していくだけだ。
帰り道で、日根見ちゃんと別れたあとケルベロスに言われる。
そして燐火も悟る。
ダイモーンだ。
かなり強力な個体である。すぐに着替えて走る。またこの間、仕事服の裾を調整した。無駄に刺繍の技術が伸びているが。
まあ、これは使えて損はないだろう。
走る。
そして、いつもとは違う街角に出た。この辺りに出るのはちょっと珍しい。知らない家も多い。
この辺りは、ほとんど歩き尽くしたと思ったのだが。
それはあまり大きくないビルだ。
いずれにしてもあまり良い仕事をしている人間が入っているようには思えないビルであり。
それに体中に目がある、巨人みたいなダイモーンがしがみついていた。
まるでアルゴスだ。
ケルベロスがぼやく。
全身に目がある巨人で、大魔物であるエキドナを討ち取るなど、かなりの強豪であるらしい。
ケルベロスにとっては母を殺した相手にあたるらしいが。
別にどうとも思っていないようである。
「アルゴスって事はないよね」
「違う。 神話でアルゴスは倒されている。 それに仮にアルゴスだったとしたら、実力はあの程度ではない」
「分かった。 ちゃっちゃと片付けよう」
レポートのことは考えない。
それに、亀野戦での疲弊も別にない。
そのまま聖印を切って、立て続けにダメージを与える。
全身が爆ぜる巨人だが、緩慢に動いて、こちらに向き直ろうとする。
顔だろうが胸だろうが目だらけだ。
なかなかに強烈な姿をしているが、爆ぜていくと分かる。あれは眼球が大量に重ね合って、人体に近い形になっているのだ。
なるほど、気持ち悪いという人もいるかもしれない姿だが。
燐火からしたら、人間の性根の方が余程醜いし腐っている。
だから今、そのまま潰す。
立て続けに聖印をたたき込む。
日本中走り回っているヘラクレスさんの負担を少しでも減らすためだ。この程度の奴は、燐火が倒さなければならない。
腕が爆ぜ墜ちた。
だが、墜ちた先で、大量の眼球に分解されて、ぐしゃりと潰れる。
凄まじい量の悪運が辺りに広がり、まるでコールタールの海だ。
無言で聖印を切り続ける。
程なくして、全身が崩れた巨人は、そのまま崩壊していった。
三十回か。
かなりの回数聖印を切らされた。
そのまま浄化に入る。
だが、ばっと辺りが一気に浄化される。手間が省けたか。深呼吸。この気配は。
「久しぶりだな燐火!」
「久しぶりですね」
声を掛けて来たのはエヴァンジェリンさんである。
確かに夏合宿以来だ。
確か一度帰国したと聞いていたが、また来たのか。時々やりとりはするのだが、日常的な話しかしないので知らなかった。
「背がまた伸びたな。 平均よりだいぶ高いのではないのか」
「そうですね。 あまり興味はありませんが」
「ともかく一緒にレポートを書こう。 天才たる私としても、積もる話がいくつもあるからな!」
「ありがとうございます。 ただ、妹が出来てあまり時間がないので……」
おおめでたいと、大げさに喜ぶエヴァンジェリンさん。
まあ燐火も嬉しいので、喜んでくれるのは何よりだ。
近場のカフェで、ささっとレポートを書いて、それを後指紋を押して提出するだけの状態にする。
それで嬉しそうにメロンソーダを頬張っていたエヴァンジェリンさんだが。
メロンソーダを食べ終えると、真面目な顔になった。
「ちょっとまずいかもしれん」
「大事があったんですね」
「ああ。 北欧における最強の魔は何か知っているか」
「スルトでしょうか」
スルト。
ラグナロク……北欧神話の終わりの時にて、炎の国ムスペルヘイムからやってくる最強の魔王。
その強さは圧倒的で、フレイをはじめとする北欧神話の主要神をことごとく打ち倒し、それどころか無敗のまま全てを焼き尽くして去って行く。
まさに最強の魔王だ。
世界の様々な神話でも、有名なルシファーが神に普通に敗れている事を考えると、まさに圧倒的。最強の戦績の持ち主だと言える。
うむと頷くエヴァンジェリンさん。
この人の方がずっと年上なのだ。
「だが、スルトはドルイド達の長年の苦労により封じ込められていてな。 だが、その近くから、大きな魔がいなくなっているのが分かったのだ」
「……ラグナロク関係者でしょうか」
「おそらくそうだ。 そしてそれが日本に来ているのは間違いない。 それで天才たる私が、またここに来た。 それに修行も出来るしな」
ふふんと胸を張られる。
しかし、スルトではないにしても、北欧神話最強格というと。
実のところ、北欧神話の神々は、決して無敵ではない。
あのトールですら、巨人にやり込められたり、力で解決できなかった事態がいくつも物語になっているし。
それどころか、トールはラグナロクで世界蛇ヨムルンガルドと相打ちになって死ぬのである。
他にも強大な魔は何体か思い当たるが。
いずれにしても、物語に堕した存在だ。
出現し次第国家滅亡、というほどではないだろう。そういうのは全て魔祓いの努力で封じられてきたのだ。
「ともかく、注意が必要ですね」
「そうだ。 それにオーディンの動きも気になる。 スレイプニルが様子見に来て以降、動きが見えないという話ではないか」
「ええ。 燐火も何も聞いていません」
「天才たる私でもその辺りを少し調べてみる。 フリッグ一派と無関係、というわけでもあるまい」
それもそうだろうな。
ともかく、これで一旦別れる。
コールタールみたいにぶちまけられていた悪運は片付いたし、後はレポートに印を出して明日にでも提出するだけだ。
家に帰ると、杏美の世話でおかあさんが四苦八苦していた。
とりあえず家事のいくらかは分担して担当する。
助かるとおかあさんが言ってくれるだけで、随分と助かる。おとうさんは防音室だが、それは家族を支えるためのお仕事だ。
燐火としても、頑張ってくれているのは誇らしい。
防音室はこの間二重にしたそうだ。
万が一にも燐火達の声や、或いは杏美の声とか入らないように。
余程のことがない限り音は貫通しないらしいから、とりあえず杏美は泣いても大丈夫である。
むしろ杏美の世話は、ケルベロスが手慣れているようだった。
燐火が世話をするとき、とにかく細かく指導してくれる。
みるみる上達する燐火を見て、おかあさんが目を見張っていた。
「杏美を泣き止ますのうまいね」
「こつを覚えてき……しらべたの」
「よしえらい。 もうちょっと自然にね」
「は……うん」
まだまだ堅いな。
それが問題だ。
杏美が寝てくれたので、家事はおかあさんが担当。燐火が側で杏美を見ながら、勉強に入る。
同時に時事情報にも目を通しておく。
どうやらあのビル。
評判が悪いボクシングジムが入っていたらしい。
反社とつるんで色々やっていたらしく、ダイモーンが張り付いていたのも納得である。
そして警察の捜査が入った。
名前でピンとくる。
亀野の親か。
父親の方はどう見ても反社。
亀野の兄らも似たようなもののようだ。
これは、あいつ明日から学校に来るのかな。先生が面倒を見るつもりだったようだが、ちょっと苦笑いしてしまう。
いずれにしてもどうでもいい。
勉強を進める。
燐火は公務員になると決めた。
日女さんにも話した。日女さんは、公安のそういう部署に入るのなら、おそらく歓迎されると言ってくれた。
なんでもそもそもとして魔祓いをしている人間は、かなり早い段階から現役でやっていることが多く。
燐火より早くプロになっている子もいるそうだ。
おそらく以前会った陰陽師の子なんかがそうなんだろう。
そしてそういう専業魔祓いは、学業をしている暇がなく、なかなか難しい試験を通ることが出来ないらしい。
魔祓いは国のインフラの一環であり、国を支えるために必要なもののため、秘密の部署とは言え公安の管轄部署にはそれなりに予算が出ているらしく。
管理に回れる魔祓いは需要が有るそうだ。
日女さんはそこまで公権力に興味がないらしく、公務員になるのではなく、専業魔祓いとしてやっていくつもりのようだから。
いずれは、燐火と連携して動けるかもしれない。
黙々と勉強していると、ケルベロスは言う。
「俺がいなくなった後のことを考えておくべきかもしれないな」
「ケルベロスはまだいてくれるよね」
「迷子を見つけるまではな。 それに、迷子はほぼ確実に捕らえられている。 だとしたら、捕らえている連中を皆たたき伏せるまでも、だ」
「問題はその後か……」
ギリシャ系の魔祓いは、壊滅的に数が足りないが。
しかしながら、この国のダイモーンまみれの状況がおかしいのであって、基本的に需要はないという。
だとすると、今後はどうするか。
「俺がいなくなっても、魔祓いとしての力は消えない。 現実的なのはこの国の魔祓いになることか、後は一神教系だろうな」
「でも、どちらも人材は余っているんじゃないの」
「余ってはいるが、燐火のように格闘戦をこなせる魔祓いはそうそうはいないと見て良いだろうな。 日女や菖蒲が例外なのだ」
「……」
おそらくだが、夏合宿の時。
ケルベロスは、魔祓い達の実力を見ていたのだ。
林西さんのようなこの国トップクラスの魔祓いは、おそらく格闘戦も滅茶苦茶強いとみていい。
あの人は近くにいると、びりびり感じるのだ。強さを。
だが、中間層の層が厚いようには思えない。
実際夏合宿でも、高校生の魔祓い達が、随分と情けなかったのを燐火は間近で見ている。あれが水準だろう。
都会だとたいした魔がでてこないから。
それもあって、修羅場をくぐらないのかもしれない。
「日本系となると、日女さんみたいな巫女になるか、菖蒲さんみたいな仏教系に行くかだね」
「そうなるな。 俺はこの国の信仰は好きだぞ。 八百万の神々を認め、明確な邪神ですら祀って害をなくす。 鬼すら受け入れる神社が有ると聞いて、俺は感心させられたほどだ」
「世界的には珍しいんだろうね。 西洋だと考えられないだろうし」
「そうだな……」
原始的な信仰では珍しくはないらしいが、少なくとも西洋ではもうほとんどあり得ないのだそうだ。
ただ燐火の苛烈な考え方は、どちらかというとその殲滅型だとケルベロスはずばり指摘する。
なるほど。
確かにそれはそうかもしれない。
「そもそもまだ勝てるかどうかすら分からない。 俺がついていても、かなり厳しい相手がいて、この先にいる最低二体は更に強いという話だ。 林西のような一線級の魔祓いがいても勝てるかは分からない相手が出てくるかもしれない。 まだ、気を抜くのは早いだろうな」
「うん、それは分かってる」
「よし。 それと其処の問題は間違っているぞ」
すぐに確認。
確かに間違っている。
ケルベロスは燐火の頭を使って勉強を一緒にしているが、なかなかにこういうのの把握が早い。
もう日本語も全く問題なく使えている。
たいしたものである。
勉強を終えると、外でルーチンの鍛錬をする。
正拳百回が、以前より早くなってきている。それでいて、より正確に出来るようになってもいる。
更に五十回追加。
これは他の武道のルーチンも、同じようにして追加していく感じだ。
体につける重りも増やすか。
体自体がマッシブになっていくわけではないが、少なくともインナーマッスルは鍛え上げられているのが分かる。
とにかく、更に強く早く。
もっと強いのが出てくるのだ。
フルーレティは最後まで許しがたい敵だったが。死んで行ったとき、どうしても憎めなかった。
あいつが最後に戦えて良かったと、思ってくれた。
だとすれば、もっと更に先に行くべきだろう。
師範の事を考える。充子のことも。
今の燐火より更に更に強い。
今すぐ追いつくことは不可能だ。だが、五年後は。十年後は。その時のために。燐火は土台を丁寧に作っていく。
いずれ、確実に、一人で立って歩けるようになるためにも。
4、食い荒らされた……
大雨の中、現場に到着。
傘なんて悠長に使っていられないので、カッパを着込んで出向いたのだが。其処には、残骸が散らばっていた。
動物のでも人間のでもない。
恐らくは、何かしらに引き寄せられた神のものだ。
エヴァンジェリンさんが分析する。
「これは……!」
「正体が分かったんですか? 日本系、仏教系、道教系、いずれでもなく、天使でもなかったようなので、貴方を呼んだんですが」
「分かった。 これは北欧の神格、ヴィーザルだ」
ヴィーザル。
北欧神話のオーディンの息子の一人である。
そうなると、日本に降臨しようとしているオーディンの先兵としてきたのだろうか。しかし、誰がここまで凄惨に。
消えていくヴィーザル。
エヴァンジェリンさんが、ルーンを切って、意識を呼び戻す。
既に肉体は霧散したようだが、多少の記憶は拾えたようだった。
「……とんでもない化け物に食い荒らされたようだな。 天才たる私も、それしか分からなかった」
「とんでもない化け物ねえ」
日女さんが皮肉交じりに言う。
燐火も調べたが、ヴィーザルはオーディンの息子であり、トールに近い実力だとか、並ぶ実力だとか言われている神である。
隠遁者であり、ラグナロクを生き残る神の一柱だ。
ただ、北欧神話はそもそも物語になってしまっている。
他のまだ信仰されている神々とかちあったら、かなり相性は悪いだろう。それとも、何かしらの理由があって、ヴィーザルが来たのか。
ともかく、この雨だ。
ヴィーザルが倒された辺りの汚染を祓う。
燐火も出来るようになったので、悪運を祓っておく。
しばし作業に没頭した後、自衛隊が仮設したテントに避難。カッパを脱ぐと、ぐしょぬれでちょっとげんなりした。
ダイモーンが出ていれば話は別だったが。
これでは燐火は出ただけ。
ただ、出ただけでも別に構わない。
事故が起こったわけではないのだから。
「オーディンはまだ活動しているとみて良いが、その強力な手札であるヴィーザルが倒れたというのは、オーディンに対する打撃ではないのだろうか」
「いや、オーディンがもしも本気で日本の攻略を目指すので有れば、トールが出てくるだろう」
「トール……」
「ゼウスと並ぶ世界で最も有名な雷神だ。 天才たる私が断言するが、手強いぞ」
それはそうだろうな。
トールも近年はコミックの題材になったりして、下手をするとオーディンよりも知名度があったりする。
物語の存在として、だが。
ある意味ヘラクレスと並ぶ神話の存在かもしれない。
ただトールはとにかく荒々しく、ヘラクレス以上に暴虐で、暴力でしかものごとを解決しない。
このため巨人の長ウトガルドロキに、いいようにあしらわれてしまう逸話があったりする。
「あまり可能性は高くないが、トールが悪神として出てきた場合は、生半可な魔祓いでは対抗できないぞ。 天才である私でも、出来れば戦いたくはない相手だ」
「その場合は一線級の魔祓いを総動員してあたるしかないでしょうね」
菖蒲さんが指折りして数えている。
林西さんも含めるとして、数えている様子からして七〜八人はいるようだ。林西さん並の実力者がこの国にはそんなにいるのか。
それは、天才といつもとても高い自己肯定感を出しているエヴァンジェリンさんも、素直に夏合宿を受けるわけである。
「レポートは俺がまとめて書いておく。 後は撤収してくれ」
「了解……頼むぞ日女」
「ああ、神の正体を特定してくれて助かった。 あんたにはボーナスが出るように書いておく」
「助かる」
雨が止んできたか。
それでもかなり激しい雨である。
とりあえず、帰路につく。
家に着いてから、スマホを確認する。
日根見ちゃんが、情報をよこしてくれていた。
案の定ここ数日亀野は休んでいたのだが、結局まともだった亀野の叔父に引き取られたらしい。
亀野の父親よりも遙かに強い上にしっかりしているらしくて、亀野は調理される前の鶏みたいに隅っこで震え上がっているばかりだそうだ。
ましてや両腕は破壊されてリハビリに一年はかかる。
クラスのカーストを支配するつもりだったようだが。
そんなものは燐火が一日で粉砕してしまった。
他にも、くだらないカーストを作るつもりらしいのを、ここ数日でまとめて締めた。鉄を打つなら早いうちがいい。
そもそもスクールカーストが害しかないことにようやくこの国でも気づき始めたらしく。
それもあって、中学でもスクールカースト完全廃絶に向けて動くようだ。
燐火はそういう状況もある。
教師はあまりやりすぎないようにと釘を刺しては来たが。
ただ、クラスは燐火の存在を怖がる生徒はいても、それはそれとして馬鹿みたいなカーストで分けられることもなく。平穏に交流はしているようだ。それで充分である。
日根見ちゃんはクラスでまともな友達が何人か出来たらしく、それが事情通であるらしい。
なんでも燐火のことも知られていたらしく。
破壊神とか言われていたらしいと知って、噴いてしまった。
ケルベロスもメールを見て苦笑している。
流石に破壊神になったつもりはないが。
ただ、クラスで亀野に燐火との対決を避けるように言っていた男子生徒の怯えようはよく覚えている。
虚名がそれだけ大きかったのかもしれない。
まあ、それはそれで構わない。
それが抑止力になるのであれば充分だ。
雨であっても、裏庭などでルーチンは出来る。
正拳百五十本などを終えて戻ると、杏美の世話を見てほしいと言われるので、背負って遊ぶ。
高い高いをすると喜ぶ。
落とさないように気をつけないといけないが。
少なくとも杏美は、燐火を嫌ってはいないようだった。
まだしゃべり出すのは先だ。
確か8ヶ月から一年程度だということだから、十月に生まれた杏美がしゃべり出すのは、もう少し先とみて良いだろう。早ければ再来月くらいにはしゃべり出すかもしれない。
すっと、目を細めた。
何かがこっちを伺っているな。
だが、気づいて離れた。
だとすれば、いい。
燐火は簡単に隙なんか見せない。
二度と、この場所を。やっと出来た家族を。失ってなるものか。
(続)
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